2017年10月17日

褒め上手になりたい

わたしは褒められるのはどうも苦手である。
決して褒められるのが「嫌い」なわけではないと思う。
おじさんだって褒められると一応嬉しい。
ただ褒められた後のリアクションのレパートリーが、自分の中でほとんど用意できていない。

褒められるのが苦手ということは、きっと褒めるのも苦手なのである。
今思い返すと、人のことを積極的に褒めてやろう、という気分になることはあまりないような気がする。

こういうのは人間関係のあり方としては、かなり最悪なんだろうと思う。
円滑な対人コミュニケーションのためには褒め上手・褒められ上手であることは非常に重要なのだと分かってはいるのだけれど、もうこの歳になると色々と面倒くさくて、細かい気苦労をするくらいなら仏頂面で黙っといた方が気分的に楽だったりする。

一般論として、男性よりは女性の方が「褒める・褒められる」のが上手だと思う。
これは一種の偏見か、あるいは単なるステレオタイプ的見方かもしれないが、ある年代の「おばちゃん」同士の褒め合いはおしなべて見事である。
あまり相手のおばちゃんの「深いところ」をえぐり過ぎることなく、絶妙に表層的な部分を切り取って的確に褒める。
そして典型的な「褒めパターン」として、まず挨拶がわりに「旦那」「子供」「今日の服装」のいずれかを褒める、という風に序盤の手筋もあらかた決まっている。
そしてお互いに「褒め」のジャブを数発ずつ繰り出しながら、時に痛烈な皮肉を込めた「褒め殺し」を決めたり、あるいは軽く褒めているうちに気持ちがだんだん入ってきて涙ながらの本気の「褒め」に移行したり、横で聞き耳を立てているわたしとしては時々戦慄の思いを抱く。

しかもすごいのは、そういう褒め合いの基礎的技術は妙齢のおばちゃんなら例外なく全ての人が持ち合わせていること。
さらに恐ろしいのは、その辺の女子高生とかでもそういうおばちゃん的な高度な褒め技量の片鱗を見せることがあったりする。

ちなみに申し添えておきますが、以上は決しておばちゃんをけなしているのではない。
ちゃんと褒めているつもりである。

ここまで書いてやっと思い至ったのだが、褒めるというのは一方通行ではダメで、ちゃんとしたキャッチボールになってないといけない。
人から褒められたら、それに対して的確な返しをする。
そこで一つの褒めのコミュニケーションが完結する。
だから褒めの名人は、相手の褒められ方の反応を見定めて、無意識に次の褒め方を微調整したりしているのではないかと想像する。

いや、わたしもいつの日か仏頂面を卒業して、褒め上手になってみたい、とちょっとだけ思ったりした。
posted by ヤス at 10:54| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月16日

荒れる画面を眺めて思う

毎日Twitterを眺めていると、やっぱり今日もそこかしこでツイート上の激論が展開されている。
もちろん全部が全部というわけでもない。
少なくともわたしのTwitter画面では、むしろ大半がまあまあおだやかな「お知らせ」とか「思いつき」とかのつぶやきである。
しかし時々、いつ果てるともしれぬ主張の激突、言い合い、罵り合いなどが流れてくる。

こういうツイート上の「喧嘩」には、大体の場合フォロワーを多く抱える有名人が絡んでいることが多いようだ。
ごく一部、ある種類の無名の大衆の中には、有名人と炎上的な絡みで絡んで自分の存在を拡散したい、という欲求があるのかなとも思う。
またそういう確信犯的なもの以外にも、有名人のツイートで自己の存在を否定されたと感じ、それに対する反論を返すタイプの喧嘩もあるようだ。

そういうことで今日もわたしのTwitter画面はいつものように荒れている。
こういう荒れ模様は、いつの日か少し静かになる日が来るのだろうか、と少し想像してみる。

Twitterに限らずSNS上では、特に面識の無い人同士の激論は喧嘩になりやすい要素をたくさん含んでいるのだと思う。
まず顔が見えないし、それに基本、社会的な関係の無い者同士、親子関係とか友人関係とか上司と部下の関係とかが全くない、個人と個人のぶつかり合いになる。
そこには多くの場合年齢の上下関係も無いし性別も関係ない場合が多い。

あらゆる社会的な関係、というか社会的な「しがらみ」が無い場では、純粋な人対人の主張がまともにぶつかる。
どっちかが一歩退いて主張を譲ろうということになりにくいので喧嘩になりやすい。

それともうひとつはダイレクトなメールのやりとりと違って公開の場でやっていることの影響もあると思う。
「みんな」が見ている公の場で激論して自分の主張が否定されたら、自分の存在が公の場で否定された気分になるのかもしれない。
だから自分の主張に合理性があるかどうかの振り返りはそっちのけにして、ひたすら一本調子に自分の主張を押し出すしかなくなってしまうのではないだろうか。

まあそういう気持ちは分からないでもない気がするから言下に批判もしにくい。
ただ本来の議論というのは、違う主張がぶつかりあってお互いの良いところを発見し、それでステージがひとつ上昇するというようなのが建設的な議論のあり方だ。
それでいくとただの主張のぶつけ合いは、個人の精神力の鍛錬にはなるかもしれないが人類文化への貢献は少ない。

ただこのようなSNS上での主張のぶつけ合いというのはこの数年で盛んになったものなので、将来テキストに代わって動画投稿が増えてきたり、AIを使った酷い投稿の取り締まりが効果をあげたりする近い将来には随分とようすが変わっているのではないか、ということも思ったりする。
そんなことを思いながら、今日も果てしのない罵り合いを眺めるのであった。
posted by ヤス at 10:52| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月15日

コンビニについて

どうでもいいが最近少しだけ驚いたことがあって、近所のコンビニのサンクスでたまに買い物するのだが、この前久しぶりに行ってふともらったレシートを見たら店名が「ファミリーマート」になっていた。
不覚にも店に入るときには全然気がつかなくて、とぼとぼ歩いて店が見えなくなったところでレシートを見て気がついた。
わたしはコンビニは断然「セブン派」なので、普段は連チャンで「サンクス」に行くことはないのだが、ものすごい気になって、その翌日に2日連チャンで「サンクス」に行って見た。

そうしたらあの赤っぽい看板のサンクスがちゃんと緑のファミリーマートになっているのが確認できた。

サークルKサンクスがファミリーマートの傘下に入ったのが昨年2016年9月。
報道によると来年2018年夏には、ブランドとしてのサークルKサンクスは完全に消滅するらしい。
コンビニ店舗は、今日本全国に5万8千店あってまだ増え続けているそうだ。
一昔前には、3万店が限界とか5万店が上限という説が唱えられていたが、今の勢いではまだまだ増えて6万を超えるのは確実である。

今、日本の小売業界はスーパーマーケットも百貨店も専門量販店も、みんな頭打ちの感じだがコンビニだけはまだ元気がいい。
これからの日本のコンビニ業界は、サークルKサンクスがファミマに吸収されて、そのファミマとセブンとローソンの3強(というか1強2弱)時代でいくようである。

実際セブンの平均日販が66万円くらいあるのにファミマとローソンは50万円くらいしかなく、その差は歴然である。
一消費者として店の棚を眺めていても、セブンと比べるとファミマとローソンの棚のどことなくスカスカとした感じは否めないところである。

わたしは、アマゾンや楽天がのして来ていた10年くらい前には、通販業界が小売のパイを奪っていけばやがてコンビニも縮小に向かうのだろうと勝手に想像していたのだが、コンビニで売っているような弁当惣菜や100円200円の少額日用品は通販で売るには嵩が小さすぎたようである。

通販には「配送コストの限界」というのが常についてまわり、従って「数千円以上のたまに買うもの」を買う以外の市場に進出するのにはまだいくつもハードルがある。

毎日買う少額品は、小型店舗で街中に密度濃く販売拠点をこしらえて売るのが今の所売る方としても効率がいいし、買う方としても便利がいい、ということなのであろう。

そういう理屈がコンビニを成長させている。

今の所のコンビニ最大のアキレス腱は、24時間営業のためのスタッフの確保である。
ここだけはそれほど「技術革新」が出来ていないと思うのだが、逆にここの弱点が改善された時、コンビニはさらに成長に拍車がかかるのではないか、と想像したりしている。
posted by ヤス at 15:51| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月14日

神戸製鋼問題

神戸製鋼が不正問題で揺れている。
この8月からニュースになっていて、その後よりたくさんの製品について不正があったことが発覚してかなりやばそうな感じである。

で、どんな不正があったのか調べてみた。
ネットで5〜6分しか検索していないけれど、不正の具体的内容がいまいち分からない。
当初はアルミ・銅製品など限られた事業で限られた期間内に造った製品の一部、4%くらいが出荷検査に引っ掛かっていたのをデータ改ざんして出荷していた、ということだったようだが、どうもこの10年くらい、いろんな製品分野にわたって常習的に行われていた疑惑が浮上しているらしい。

神戸製鋼は年間売上高1.6兆円の巨大企業である。
しかし営業利益は100億円弱くらいしかない。
これは飲食業で薄利商売をやっている、売上2千億円余の日本マクドナルドHDより少ない。
そして2016、2017年3月期の当期純益は連続赤字で経営的にはかなり切羽詰まっていたようである。

そんな中で今回の不正発覚。
わたしは製造業の人間ではないからあんまりいい加減なことは言えないのだが、今回の不正は、おそらく製品検査で本来ハネるべきだった不良品をどさくさに紛れて売っていたということだ。
不正が行われたアルミ材や鋼材は、トヨタ、ホンダ、日産の自動車各社はもとより、電車メーカーや飛行機、ロケットにまで使われているらしい。
ホリエモンのロケットにも使用されていたそうだ。

まあ自動車や飛行機の設計にあたっては、「安全率」という概念があって、それこそ製品強度のバラツキや想定外のストレスも考慮して、少し余裕を持った設計をやっている。
今回の不正のようすを見ると、おそらく「まあこれくらいならギリギリ大丈夫なんじゃない」という軽い感覚で不良品を出荷していたようである。
だから現実的にはただちに問題は発生しないだろう。(と思いたい)

神戸製鋼としては不正することによって4%の不良ロスが帳消しになって、少ない利益がそれ以上減るのを防いでいたわけだ。

今回の不正事件は、命を運ぶ自動車や飛行機の安全に影響することであり許容されることではない。
単に経営者辞任とかで済む話ではないような気がする。

神戸製鋼の直近の経営状態を見ると、利益状態は良好とは言えないがただちに倒産というレベルでもない。
また鉄鋼・アルミ・銅以外にチタン素材なども扱っており、また機械や電力事業なども手がける複合的な経営をおこなっているそうだ。

そして現首相の安倍氏が昔サラリーマン時代を過ごした会社でもある。

わたし的にはこの事件は、鉄鋼など日本の重厚長大型製造業の「構造的な無理」を象徴する出来事であり、「製造業立国日本」の「終わりの終わり」が始まった感じがしてならない。
posted by ヤス at 13:54| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月13日

トヨタ車種半減報道について

昨日のニュースに、トヨタ自動車が2020年台半ばをめどに国内販売車種を半減する、というのがあった。
これはこれで衝撃的なニュースだと思うのだが、それでちょっと気になったのでトヨタの国内販売台数の推移を調べてみた。

するとさらに衝撃的な数字が出てきた。
「トヨタ自動車75年史」のサイトに1950年から2011年までの推移データが出ている。
1950年の販売台数は乗用車が548台、トラック・バス8680台、合計9228台で市場占拠率は34.4%。
その辺からトヨタ自動車の歴史は始まったわけであるが、そこから1980年代まで途中1974年のオイルショックによる小休止はあったけれど、ものすごい勢いで販売台数は増加を続け、1990年にピークを迎えて乗用車+RVが215万台超、トラック・バスと合わせて250万台超を記録する。
いわゆるバブル全盛の時期である。

そこからは逆につるべ落としの減少に転じ、ピークから10年後の2000年には乗用車+RVが159万台、トラック・バスと合わせて177万台。
そして2011年は乗用車+RV108万台、トラック・バスと合わせて120万台。
つまり今はピークから半分以下の水準になっている。

ニュースによるとトヨタ自動車は全世界で1千万台を売り、GMやフォルクスワーゲンと販売台数首位を争うイケイケのイメージがしていたのだが、こと国内販売に限ってはものすごいことになっているのである。
しかも国内の市場占拠率、いわゆるシェアはこの数年拡大傾向で45%を超える感じ。

市場シェアが増えているのに台数が減っているというのは、トヨタの販売台数以上に日本市場がシュリンクしているということだろう。
1990年の215万台が21年後の2011年に107万台減って108万台になったということは、単純計算で年5万台の減少ペース。
つまり2020年台半ばにはもう後40万台くらい減る感じになる。
つまりピークに乗用車+RV215万台だったのが70万台くらいになる。

ただし後10年くらいしたら、自動運転化もある程度進展していて、また乗用の自動操縦電動ヘリもブンブン飛んでいるかもしれないと思う。
そして人間が運転する「マニュアル運転車」は超少数派になっていて、自動車の定義づけもかなり変わっているのかもしれない。
あるいは世界最大の自動車メーカーのクルマは、ボンネットにリンゴのマークが光っているかもしれず、トヨタ自動車車種半減どころの話ではないかもしれない、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:52| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月12日

三式戦闘機・飛燕

最近どういうわけか第二次大戦中の帝国陸軍戦闘機「三式戦・飛燕」について、報道等で目にすることが多い気がする。
わたしは中学生の時以来のプロペラ戦闘機オタクを自認しているのだが、世間様がこんなに「飛燕」について触れるのはこれまでになかったことだ。(と思う)

三式戦闘機・飛燕は、1943年5月のニューギニア戦線が初陣であったらしい。

しかし飛燕は、思えば不思議な戦闘機であった。
第二次大戦が始まった頃、ジェットエンジンは一応研究は進んでいたが実用化には程遠く、飛行機のエンジンはみなガソリンエンジンである。
当時の航空エンジンは大きく2種類、水冷(というか液冷)と空冷に分類できる。
現代の自動車エンジンは、空冷エンジンがトレードマークだったポルシェですら90年代末に水冷化されてしまったけれど、飛行機の場合温度の低い高高度を高速で飛行するので空冷エンジンはそれなりに合理的なものになりうる。

空冷エンジンはラジエターがないからその分軽くなるし、液漏れや冷却系のトラブルもなくなるから工業技術に不安のあった大戦中当時の日本が空冷エンジンを好んで採用したのは当然である。
しかしそんな中で「飛燕」は液冷エンジンを搭載して完成した。

液冷と空冷で何が違うかというと、まず見た目の違いが大きい。
液冷エンジンはシリンダー配列がV12とかで細長く、それを積んだ飛行機はスマートで格好良くなる。
空冷エンジンはシリンダーが星形配置でズングリとなるので飛行機もズングリになる。
これは個人的推測だが、ヨーロッパの戦闘機がほとんど液冷エンジンだったのは、それらの国民性として「我が国の戦闘機はスマートで格好良くあるべき」だ、という思いが強かったんだと勝手に思っている。
一方で合理主義のアメリカと技術のない日本は空冷星形エンジンをたくさん採用した。

飛燕のエンジンはドイツのメッサーシュミットBf109も搭載していたダイムラーベンツDB601のライセンス生産品であったが、技術オタクの国ドイツが作ったこのエンジンは農業国だった日本国内で製造するには難し過ぎたのは当然である。
当初の予想どおり飛燕のエンジンは工作不良に起因するトラブルが相次ぎ、なかなかまともに動かない。

また飛燕は空冷エンジン搭載機に比べてかなり重かったため、水平速度はまあまあ速く、急降下速度に限っては鬼速かったが、戦闘機の命とも言える上昇力がヘタレだった。
だから戦闘ではゼロ戦なんかと違って米軍機にナメられぱなしだったらしい。
それでも飛燕がニューギニアに渡ったのは、広い太平洋で戦えるほどの航続性能を持つ陸軍機が他になかったからである、多分。

見た目はスマートでいかにも強そうなんだが、実はその「強そうな感じ」は大部分ハッタリという、ちょっと悲しい戦闘機というのが「三式戦・飛燕」の実像だと思う。
そうやって考えると、海軍のゼロ戦は登場のタイミングといい、薄氷を踏むようなギリギリのキワモノ的設計で大活躍した実績からいっても、飛燕と好対照である。
まあ飛燕は見た目が格好いいので、博物館とかに復元して飾っておく分には見栄えがする。
そういう意味では平和な時代に似つかわしい飛行機であるとあえて言えなくもない、ということにしておく。
posted by ヤス at 15:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月11日

思慮について

わたし的に考える「テーマ」の中に、人間とは何モノか、というのがある。
そういうことを考えても飯のタネにならないからたいへんな無駄なのだが、しかしつい考えてしまうから仕方がない。
それで最近思いついたのが、人間性の大きな特徴は「反射的でない」ことではないかということ。

「反射的でない」というのは、つまり「思慮がある」とでもいうことである。
この場合の「人間性」は、その他の動物たちとの対比で見つかる違いのことだ。

人間以外の生き物は、だいたい「反射的」に見える。
YouTubeの猫動画で、道路の上で自動車に轢かれかかって、パニックになって狂ったようにぐるぐる走り回る猫を見たことがある。
あの場合の猫は、絶体絶命の場面ではとにかく激しく動き回ったほうが生き残る確率が高いというのを進化の歴史を通じて会得していて、それが本能に組み込まれているのだろう。
逆に南米のジャングルに住むナマケモノは、おそろしく動きがのろいけれど、それもその方が生き残る確率が高いからだ。

そういうわけで人間以外の生き物の場合、本能のROMに組み込まれたプログラムが適宜発動して、「どちらかというと」生き残る確率が高い行動に促すメカニズムが出来上がっている。
しかし人間の場合はそういう本能的能力を飛び越え、後天的に学習した情報を大脳皮質に溜め込んでそれをもとに「思慮」することが出来る。
人間は思慮することで、もっぱら反射的な他の動物に比べて飛躍的に生き残る確率を高めることが出来たのである。
反射的な行動というのは、ものすごく大雑把な状況分類で取るべき行動を規定していて、危ないと思ったら暴れまわるとか、美味しそうな匂いがするものはとりあえず口に入れるとか、行動パターンを単純化するものである。

しかし人間の思慮の力は、同じ危ないケースでもライオンに襲われた場合と毒蛇に出くわした場合を正確に認識し、それぞれのケースに最適の行動をひねり出す。
そして万が一未経験の事態に出会っても、過去の類似例から論理的に想像してわりかしいいアイデアを思いついたりする。

だがそういう思慮の能力を懸命に働かせるには、最近の人類は少し安全で豊かになり過ぎたのかもしれないと思ったりする。
直接命に別状のない「他人事」の場合、人間は「思慮」を停止して「反射的」になるようになりがちなのではないか。
自分の命に別状が無いからネット上では「反射的」に誰かを非難したり罵ったりして脳内で快感物質が出るのに任せる、そういう新しい行動パターンが、最近出来つつあるような気がする。

やはり人間は、人間である限り人間性を出来るだけ維持すべきと思うので、自分の中で暴れそうになる野生の反射を統御しつつ、「思慮」することをいつでも忘れないようにしないとな、と思ったりした。
posted by ヤス at 14:12| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月10日

反射的行動と数秒間の熟慮

わたしはSNSの中では比較的Twitterが好きだ。
LINEやFacebookだとちょっと閉鎖的過ぎるような感じがするし、インスタは写真専用だし、いろんな人の短文が時々写真動画混じりで流れているのを眺めている分には、脳みそのためのちょっとした刺激としてもTwitterはちょうどいい感じがする。

最近ではしょっちゅう「140字」制限がはずれる噂が流れていて、この前も有料版限定で長文が可能になるような話が出ていたがほんとうだろうか。
わたし的には、140字と言わずなんなら50字くらいに短い方がいいような気さえするのであるが、まあ日本語と英語では文字数に込められる情報量が違ったり、多くのユーザーが今の文字数に慣れているとかいうこともあるから、とりあえず今のままでかまわない。

それで今朝も暇にあかしてTwitterを眺めていたのだが、今日は総選挙公示日ということもあり、流れてくるツイートがいつもの1割5分増しくらいに力が入っているように見えた。

特に「政敵」を非難する類のツイートはけっこう刺激的な表現になっていたりする。
あるいは、あいかわらず有名人を攻撃する匿名の一般人によるツイート、または有名人同志の非難の応酬、さらには有名人によるその他大勢に対するボヤキようなものも流れている。
その辺の感じはいつもとそれほど変わらない。

というわけでTwitterの画面は、少なくともわたしの場合、どちらかと言うと「負のエネルギー」がたくさん流れる場になっているのだが、その原因としてかなり多くの人々が反射的につぶやいていることがあると思う。

最近は、誰かが書いたブログまたはどこかの新聞社の報道なんかを、タイトルだけ読んで「反射的に」何かわめいたツイート、みたいなのを丁寧にリツイートで晒すパターンが人も多くなっているんじゃないか。
今に始まったことじゃないが、本当に、表面的な言葉じりに反射的に反応する人の多いこと。
おそらくタイトルを読んだだけで記事の中身を読んでいない。
困ったことに、元ネタをしっかり読まずに自分のイメージで尾ひれをつけて拡散するひともいたりして、ますます状況がひどくなるということもある。
そこへいくと有名人のツイートは「見られている」意識がある分、さすがに多少抑制的である気がする。

よく考えないで「反射的に反応」するのは、これは人間というより昆虫などに見られる「生物的」的な行動パターンのようである。
これら反射的行動を見るにつけ、自分も何かの意見に反応する際には少なくとも数秒間でも熟慮の時間を持たないとやばいなと思ったりする。
おそらくたったの数秒間でも熟慮出来る強みこそ人類の特徴だと思うので、かつ、熟慮を経ない反射的な言説をSNS上にバラ撒くのはたいへんな情報ノイズになる「公害」なので、言説を表に出す時にはちょっとした慎重さをいつも忘れないようにせねばならない、などと思った。
まあ、そういう自由な感じがTwitterの良さであることも間違いないのだが。
posted by ヤス at 14:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月09日

文字記録と口述伝承

2017年の10月、つまり今月、1963年11月22日、アメリカはテキサス州ダラスで起きたケネディ暗殺事件の政府文書が公開される(公開期限を迎える)らしい。
ケネディ暗殺事件については、オリバー・ストーンの映画「JFK」が記憶に残っているけれど、とりあえず捜査機関によって犯人と認定されたソ連帰りの元海兵隊員、リー・ハーヴェイ・オズワルドの件に関しては誰も信用しておらず、今回の情報公開で決定的な事実が判明するのではないかと期待が高まる。

ただし今回の情報公開に関しては、最終的にはトランプ大統領の権限で公開範囲を一部または全部について制限できるそうだ。

アメリカの場合、公的な機密情報に関しても30年後とか50年後に公開などという例が多いのはよく指摘されるところである。
一方の我が国でも、例の「特定機密保護法」なる法律により「特定秘密」の公開指定期間は60年以下にすることが定められているらしい。
しかしながら、同法の元ではそもそも何が「特定秘密」なのかが分からない。
やや悪意に推測すると、政府側は都合の悪い真実は「特定秘密」に指定して、その真実の「存在」そのものを闇に葬ることができる。
そうなると、市民社会側が機密情報の公開を迫る、というような話にはなりにくい。


話は少しとぶ。
中国の漢の時代の歴史家の司馬遷は、時の絶対権力者の武帝・劉徹の不興を買い、男性器を切断される宮刑に処せられ、その莫大な怒りをエネルギー源に歴史書の「史記」を書いたとされる。
おおよそ歴史記録というのは、時の権力者によってその内容に都合の良い脚色が加えられるのが常だと思うが、古代中国の歴史業界においては、実態はともかくその気概としては、権力者の意向に左右されないありのままの史実を記録しなければならないというスピリットが確かにあったらしい。
某国の某歴史家がありのままの史実を記録して、王の怒りを買って処刑され、今度はその子供が親の業績を引き継ぐ、みたいな話が古典として残っていたりする。

ところで、世界の歴史をざっと概観した時、自分たちの社会の記録を後世に残す方法論としては、「文字記録」と「口述伝承」の大きくふた通りがあるという。

で、前述の古代中国の歴史を見るとこれは「文字記録」の文化が色濃い。
多分に個人的な意見だけれど、「ありのままの事実」を残したいという気分は文字記録の文化に特有のものではないかと思う。
対して日本の場合は、間違いなく「口述伝承」文化の社会だと思う。
口述伝承では、親から子へと社会共有の歴史が語り継がれるのだけれど、子供がお話を効率的に記憶する都合上、お話の「物語性」が過度に強化されるのではないだろうか。

対して文字記録の文化では脳細胞の記憶力に依存する必要性が薄く、記録は淡々とした事実の羅列であって構わない。
だから文字記録の社会では、歴史に対する態度がドライで思い入れは薄くなり、口述伝承文化では歴史に情緒的になり、感情移入が過度になるきらいがあるかもしれない。

ただ現代の技術進化は、人間が歴史物語を脳細胞に記録する手間を大容量の電子記憶装置によって大規模に代替してくれるようになっているから、歴史に対する情緒性は今後だんだん薄れていくような気もするのである。

その分、市民社会は自分たち歴史に対する関心を保つための、意図的な努力が必要になっている、というような気がしなくもないわけであるが。
なんにせよ、ケネディ暗殺の文書公開にはかなり期待が高まるのである。
posted by ヤス at 10:39| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月08日

個人認証と影武者

さて、いきなりだが映画や小説の世界では武田信玄には何人もの「影武者」がいたことになっているのがお約束である。
実際、史実的にも信玄には影武者がいた可能性が高いという説が有力であるらしい。
信玄の影武者は主に信玄の兄弟・親戚が務めることが多く、それらの影武者が他国からの使者の応対を信玄に代わってやることも度々あったらしい。
兄弟なら顔や声音が似ているのは当然で、しかもテレビも雑誌もインターネットもない時代の話である。

使者は信玄に会ったことのある人からその特徴を教えてもらい、その情報を頭に叩き込んで信玄との面会を行なったことだろう。
しかし肝心の信玄情報の元の人が、実は信玄本人ではなく影武者にしか会っていない可能性だってあるはずで、その当時の「本人確認」というのが非常に困難を極めたことは容易に想像される。
たまに何かの物語で、ホクロとか眉間の古傷とか、身体的な特徴を手掛かりに本人確認する場面があったりするが、それは本人確認のための「顔情報」がそもそもない時代には、ほとんど唯一の確実な方法であったりしたのかもしれない。

そこへ行くと現代は、特にテレビ普及以降はそうだと思うが、政治家とか俳優とかテロリストの親玉とかの有名人は、おおよそが世の中に顔を晒すようになっている。
テレビ以前の時代には、ぼやけたスチル写真が出回るくらいがせいぜいだったのが、テレビの時代には動画によって動きの特徴や声色、話し方などもセットで流れるようになって、いよいよ世の中に対する有名人の「アイデンティファイ」は確かなものになっている。

そうなると古き良き時代のように、気軽に影武者を立てるというのはかなり難しいだろうことは容易に想像できる。
仮に双子の兄弟を影武者に立てたような場合でも、現代の高度に進化した個人識別技術を使えばちょっとした癖や身体的なわずかな特徴の差異を読み取って、容易に見破ってしまうに違いない。

この間発表されたiPhoneXには3D技術を使った高精度の顔認証技術が搭載された。
これまで顔認識はグーグルなんかも力を入れていたけれど、それはあくまでも二次元平面的な認識技術だったと思う。
それがiPhoneXでは、顔の凸凹を正確に読み取って99.7%の精度で個人の識別をするらしい。
近い将来には、顔の3D認識にとどまらず動画情報から動作の癖を読み取るとかして、限りなく100%の個人識別をする時代になることは、まず間違いない。

つまり有名人のみならず、市井に生きる「その他大勢の一般大衆」も一人一人かなり厳密に「アイデンティファイ」されるという時代が来るのである。
それはハンコやサインで「個人認証」している現代が、ほとんど原始時代に感じられるほどの変化だと個人的には感じる。
有名人から無名の一般大衆に至るまで、影武者やなりすましがほぼ原理的に不可能になる未来は、はたして幸せな時代なのかどうかは、なかなか一概には言えないなと、少し思ったのである。
posted by ヤス at 10:36| Comment(0) | 徒然なるままに