2018年03月26日

人類の 人類の連想機能

昔NHKで「連想ゲーム」という番組があった。
もう大昔の番組なので詳しいルールは忘れたけれど、2組に別れた解答者たちが、お題に沿っていろいろな言葉を連想していくやつ。

しかし連想というのは、考えてみると面白い現象である。
何かの物体を目撃すると、関連するイメージが脳内にスルスルと自然に湧き上がってくることがある。
あるいは梅干しを見ると唾液が分泌されてくる。
ムカデを目撃すると、過去に刺された痛い思いが蘇る。
ある程度人生経験を経た人間は、世の中のいろんな物体や現象に対してさまざまな体験を保持している。
世の中の物体や現象に際して、それらの過去の体験が想起されるのは高騰哺乳類の学習機能の為せる技であろう。

人類の場合、過去の記憶想起が他の動物に比べるといくらか詳細かつ正確になっているようでもある。
もしわたしに備わっているこの自動連想機能が今から突然スイッチオフなったと考えるとどうなるか。

辛いものが苦手なわたしはあらかじめ辛いのが分かっていながら何の気なしに激辛カレーを口に含んであまりの刺激にむせ返ることだろう。
眼の前にムカデやスズメバチがうごめいている時、彼らの危険性を記憶回路から引き出すのに数秒の時間がかかり、とっさに避難できずに刺されて痛い目に合うかもしれない。

またわたしはさっきカップにフィルターをセットしてコーヒーを淹れたわけであるが、その時にドリッパーやフィルターをどこに置いてあったかとか豆は冷蔵庫にあるとかいうことを意識して思い出したわけではない。
ほとんど自動的に手が動いてそれらの物品を取り出してセットしいつの間にかコーヒーが一杯出来上がっていた。
自動車の運転なんかでもそうだけれど、右手をこう動かしたら次に左手をどう動かすとか、日常的に行う動作は一連の手順が次々と自動的に想起されて、いちいち意識して思い出す必要がない。

連想機能というのは「自動的に」想起されるとうのがポイントで、自動であることで意識的に思い出す時に必要なタイムラグを短縮し、危険の回避やスムーズな動作が行えるようになっている。

ただ人類の場合この連想機能が必要以上に動作して邪魔になることがあるようで、重要な仕事をしている最中にふとしたきっかけで連想された別の事象によって脳内が占拠され、重要な仕事がぷっつり進まなくなるということがたびたびある。
いわゆる「気が散る」というやつである。

わたしは自慢ではないが、よく気が散る。
しかし考えてみるとよく気が散るのは、人類の高度に発達した連想機能が人並み外れて優れている結果である、そういうことが確実に言えるのではないか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 14:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月25日

違和感に繊細になる

スポーツの世界で「違和感」という言葉をよく聞くようになったのはいつ頃からだろうか。
違和感は、痛いのでもなく動かせないのでもないけれど、いつもと違う感じ。
昔なら無視されていた感覚だと思うが、予防的な観点からは無視せずちゃんと対処した方が、結果として故障離脱の機会ロスを減らすことが出来るということなのだろう。
そういうことでは、違和感にはちゃんとした医学的な実態がある。
素人的には、違和感と聞くと何かサボリの口実なんじゃないかとか、いろいろ勘ぐってしまうわけであるが、プロアスリートは自分の体の感覚には超人的に敏感な人々なので、ひとくちに「違和感を感じる」と言っても、そこは素人とプロではそのレベルが違う。

日頃から身体と対話しながら厳しいトレーニングを続けているプロアスリートというのは、マッサージをしてもらう時も「大腿四頭筋の右から4本目あたりを重点的にお願いします」みたいな感じで、自分の身体の奥の奥まで感じ取りながら日々過ごしている。
プロアスリートが自分の身体に感じる違和感には、素人の想像からするとずっと詳細でちゃんとした根拠がある。

ところで、違和感と言えば我々一般庶民も、のんびりした日常の中で違和感を感じる。
それは体調面に関する違和感もあるし、自分の外側、例えばいつも通る四つ角にあった建物がある日解体されて無くなっていて、数日ぶりにそこを通る時に「あれ」と思うことなどである。
そういうたわいもない違和感は別にどうということもないわけだが、仕事をしている時に感じる違和感、例えば文章をタイピングしている最中に「ところで」をローマ字打ちで「tokorode」」で打ったつもりが、違和感があって見てみると「tororode」「とろろで」と打っている、みたいな場合がある。
このような違和感は、タイピング効率の向上にわずかばかりだが貢献しているわけだ。

あと、今思い出したのだが、40年以上も昔は日本の田舎には「外人さん」がほとんど歩いていなくて、子供の頃じいちゃんと街で白人の女性を見かけた時にじいちゃんが、「ほれ外人さんが歩いとる」と言ったりしていた時代もあった。
日本人の好奇の視線にさらされる「外人さん」には迷惑以外の何物でもなかったろうが、街に外人さんが歩いていると思わず違和感のある時代が、昔はあったのである。

違和感というのは、それに気付くことによって小さい違和感が大事に至らないようにするという意味で、非常に重要なものなのだろうと思う。
そういう点で違和感があると、人間の深層心理には不快感とかわずかばかりの恐怖の感情が芽生えるのかもしれない。
その負の感情が、感じた違和感に注目を向けさせる。

しかし世の中には対処が必要な違和感と、無視すべき無害の違和感とがある。
違和感は、時に人種差別やLGBT差別の原動力にもなったりする。
我々はその部分ではプロアスリートに習って、違和感に対しそれなりの繊細さを備えた方がいいのだと思う。
posted by ヤス at 15:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月24日

ペットと擬人化

ネット世界における人気コンテンツのジャンルとして「ペットネタ」がある。
主には犬と猫が主役で、たまにハムスターとかコツメカワウソとか爬虫類系とか変わったやつも出てきたりする。
最近、猫の飼育頭数が犬を抜いたのが話題になったけれど、ネット界隈の猫人気は犬をかなり上回っているようにも見える。

犬と猫は、一般には人間との接し方が対照的とされ、犬はあくまで人間に対して一貫してフレンドリーであり、飼い主に対する無上の愛情表現が特徴である。
対する猫の方は気まぐれでマイペースであり、しかし時に突然膝の上に乗ってスリスリしたり、そうかと思えば床に転がっている小さいダンボール箱に無心で潜り込もうとしたり、行動や表情のバリエーションがやや大きい。
そういうところがネットコンテンツとして幅広い人気を獲得する秘訣なのであろう。

ところでペットと言えば、ソニーのAIBOに代表されるペット型ロボットというのがある。
AIBOは初代からイヌ型ロボットであるが、ネコ型AIBOというのは出たことがない。
ネコ型AIBOが出ていない理由は判然としない。
「動きモノ」にどうしても反応してしまうとか、穴があったらどうしても入ろうとするとか、そういう猫のサガを表現したペットロボットが出ればさぞかし人気になることだろうと思う。
しかし猫の得意技である、高いところにひょいとジャンプするとか、キャットタワーにスルスルと登っていくとかいう猫特有の高い運動性能を現代のロボット技術で再現するのは至難であろう。
そこのところの技術的ハードルでソニーはネコ型AIBOを作らないのに違いない。
というのはあくまで個人的想像である。

わたしが考えるに、多くの人間がペット好きなのにはある理由がある。
それは飼い主はペットを、姿の変わったヒトだと感じていること、ということである。
いわゆる擬人化である。

そもそも人間はなんでも擬人化して考える癖がある。
動物ですらない、変な形のニンジンを見て「おっ、これは人間だ」と思ったりもする。
犬や猫ならなおさらである。
しかし当の犬や猫は我々人間をどう見ているのだろう。
例えば犬は、人間のことを「擬イヌ化」して見ているのではないか。
「この二本足で歩く毛の無いイヌは、電柱があってもマーキングしないけどなんでだろうね」
とか思っているのかも知れない。

猫に至っては人間のことを「擬ネコ化」すらしておらず、ただの便利な「美味しいキャットフード供給装置」ぐらいに思っているのではないか。
ネコが時おり人間に見せる媚態は、その人のことを好きなのであるというよりは、そうした方が「餌の出」が良くなるからがんばっているのに過ぎないのではないか。

なんにせよ、ヒトの方は犬や猫と気持ちが通じたと思って喜び、犬や猫は便利な餌供給装置をどう刺激すれば餌の出がよくなるか日夜工夫を重ね、それによってWin−Winの関係が出来上がっているのなら、まあけっこうなことかもしれない。
posted by ヤス at 15:00| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年03月23日

言語化して教える

人にものを教えるのはなかなかむずかしい。
まず、教える側の人は、教える内容についてよく理解していないといけない。
あたりまえである。
この場合の「よく理解している」というのはどういうことなのだろうかと、ちょっと考えた。

で、ひとつには、教える内容についての「言語化」があるように思った。
何をどうすればそのことが上手くいくか、それをちゃんと言葉で説明できるのは重要である。

最近はスマホでも動画が撮れるし、何かのスポーツの指導でも、例えばマラソンの「良いランニングフォーム」を指導するのに動画でお手本を見せて「こんな感じで走ってみましょう」みたいな方法もある。
それはそれで有効な方法だとは思う。
特に身体の動きを指導する場合、教わる人の頭の中に理想の動作イメージが出来ていた方がいいに決っている。

しかしここで問題なのは、教わる人が理想の動きのイメージを脳内で再現したとして、そのイメージ通りに身体を動かすことが簡単に出来るのか、ということがある。
たいていは出来ないものである。

たいての人の「身体操作能力」は未熟なので、つまり右手をイメージ通りまっすぐ横に上げるとか、斜め45度に上げるとかいうのが、簡単でない。
まっすぐ上のつもりが10度くらい横に傾いていたりするのが普通だ。
優れたスポーツ選手はこの身体操作能力もやはり優れていて、頭で描いたイメージを正確に自分の身体で再現できる。

わたしは昔水泳をやっていて、ハンディサイズのビデオカメラというのが世に普及してきた頃に自分のフォームをビデオで撮ってもらって初めて観た時の衝撃は忘れられない。
まず自分が思い描いていたイメージとまるで違う。
第三者的な観点からは、あああの有名選手の泳ぎをイメージしているんだろうなあというのがほんのり伝わってくるようでもあり、ただ筋力も柔軟性も有名選手とは違っているので当然ながら泳ぎの効率やスピードは全然違う。

例えばバタフライにおける上半身と下半身の動きのタイミングなんていうのは、イメージ通りに再現出来ないことの典型であったりする。
こういう場合は、やはり言葉を使って「脚の打ち下ろすタイミングは水を掻く手が胸の下を通過するちょうどその時」とか、動作ビデオを見せるより言葉で説明した方が再現しやすい場合が多い。

何かを教える時に言葉を使って行うというのは、考えてみると、今のところ人間だけの特技である。
ということは「言葉以前」と「言葉以降」では人間の他人を教える能力はものすごく進化している。
人に教えたいことを言語化出来る能力は、人類にとってかなり中核的な能力のような気がする。
posted by ヤス at 13:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月22日

公文書改ざん疑惑に関して

今回、森友問題にからむ公文書改ざん疑惑問題で、安倍政権にはたいへんな逆風が吹いている。
この逆風で政権に大きなダメージがあり、あるいは退陣までいくのかどうか、そんな感じにもなっている。
野党としては勢いづいてここで一気に政権追い落としまで運ぼうと意気が揚がっているように見える。

ところで公文書改ざん問題は、権力による行政への介入疑惑や権力への忖度による不公正が与党対野党のつばぜり合いのネタになっているわけだが、この問題の本来は、公文書の意義とか権威がものすごく揺らいでいる、信頼を失っているという点にあるのは言うまでもない。

現在、与党側の立場では主要な責任は財務省にあるとしており、野党側は、問題の根本は政権与党にあるとしている。
この場合、与党的には財務省の上の方の何人かを処罰して問題を終わらせたい。
そして野党としては政権の関与を明確にして政権に責任を取らせたいと考えているのだろう。
現在財務大臣は引責辞任を否定しているが、どのみち責任を取らないと理屈が合わないような気はする。

ただいずれの場合でも改ざんを行った「現場の実行者」に何らかの処罰があるかというと、そこのところはよく分からない。
あるいは現場の担当レベルは特にお咎め無し、もしくは省内でひっそりと譴責とかの処罰があって詳細を公表されずに終わる可能性もあるのではないか。

現在世論の風潮としては、忖度を通じて行政に無理強いする政権側に問題あり、財務省はその被害者という図式が出来上がりつつある。

ただ政権の関与を明らかにするのはもちろんだが、本来の問題、公文書の信用問題の回復についても今回を機に徹底的に改善する必要があるのではないか。
どうも日本の風土では、公的情報の取扱がおざなりにされがちである。
陸自の日報問題とか、厚労省の年金記録の問題とか、思い出してみると日本の行政における記録の取扱の無残さがものすごく目立つ。

もし今回、前述のような図式で与党の思い通りに着地するにせよ野党側の勝利に終わるにせよ、財務省は被害者であり改ざんを強要された現場には何の罪もない、ということで終わるとしたらどっちにせよ「財務省の勝利、官僚の勝利」であることは間違いない。
このような図式を財務省は最初から意図して作り上げたのかどうか知らないが、もし意図通りに世間が流れているのだとしたらこの国の官僚機構の恐ろしさを感じる。

例の自殺者にしても、ほんとうは財務省内の圧力で追い込まれたと見ることも出来る気がする。
これを機に日本の公的情報管理が正常化すること、世論がその視点を忘れないでいることを祈るばかりである。
posted by ヤス at 12:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月21日

花と花見

どういうわけか最近の2、3日は雨が続いている。
しかしこの時期の雨は、これから気温が上がってくる時のお知らせというのか、これから桜の季節でもあるわけだが季節が冬から春に変化する兆候のようなものの気がする。
気象庁の過去の記録なんかを見ても、3月下旬の今の時期は一日の平均気温が10度を突破する時期に当たるようだ。
この数日のお天気状態だと、外に出るとまだかなり肌寒く冬の名残が空気の冷たさに残っている。
外を出歩く時もちょっと油断して「冬の上着」を置いていくと、ちょっとびっくりするくらい寒い時があったりする。
日によってポカポカの暖かさだったり、そうかと思えば冬の寒さが戻ってきたり、今の時期はそういいう季節の変わり目なのだろう。

ところで、花見というのは寒い冬が終わって、もう外で酒が飲めるくらい暖かくなったよ、そういう季節変化に対する喜びの気持ちが現れて発生したものということもあるのだろう。
花見における「桜」の役割はこの季節変化の象徴ということで、確かに満開の桜は見ていてきれいだなあとは思うが「花がきれいだから酒を飲もう」ということにはならない気がする。

わたしは個人的には最近花見に縁遠くなってしまったけれど、後楽園のほとりで花見をしているオジサン連中を観察とかすると、実際花を愛でながら酒を飲んでいるようには見えない。
あくまで、オジサンたちの背景を一面ピンク色に染めている桜の花は、しかし酔っ払いたちの眼中に入っているのかどうか疑わしい。

でもそういう桜の姿、花が咲いたのを口実にオジサンたちが酒を飲んでいるが実際にはオジサンの誰も花には関心がないという失礼にもかかわらず、凛として花を咲かせ続ける桜の木々はなんだか格好いいなあ、とふと思ったりした。
posted by ヤス at 13:56| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月20日

漢字の違和感

ちょっと前にロシアのスケート選手がらみで「秋田犬」が話題になったことが合ったけれど、そのことを伝えるニュース映像でアナウンサーが「秋田犬」のことを「アキタイヌ」と呼んでいるのを聞いておやと思った。
わたしは「秋田犬」は「アキタケン」だと思っていだのだが、調べてみると秋田県では「アキタイヌ」と呼ぶのが普通らしい。
秋田県人に訊いたわけではないからほんとうのことは知らないが、NHKのサイトにそう書いてあったのでたぶんそうなのだろう。

しかしいろいろググってみると関東圏でも「アキタケン」派が優勢のようで、「アキタイヌ」派はあるいは日本国内では秋田の地元の少数派だったのが、ここ最近で一気に逆転して主流派に躍り出た、という感じのようにも見える。

しかし、今まで個人的にその発音に慣れていた「秋田犬」が突然違う読み方になると、漢字は同じなのに何かちょっとだけ新種の犬のような感じがしてくる。(あくまでも個人的にですが)
アキタケン時代の秋田犬は、ちょっとシャープなイメージの犬種だったのだが、(あくまでも個人的には)アキタイヌと言われるとモフモフの柔和でのんびりした感じの犬が想起される。

あと漢字の読み方で言うと、個人的に「思惑」のことを長らく「シワク」と読んでいたのだが、これもアナウンサー的には「オモワク」が正解らしい。
この言葉も、音読みで言うよりも訓読みで「オモワク」とやられると、少し意表を突かれた感じがして、その「オモワク」はあるいは俺のことをだまくらかそうとしているのではないか、というような余分なニュアンスが含まれるような違和感をつい感じる。(あくまでも個人的にです)
それで最近は読んでいる文章の中に「思惑」の単語を見つけるたびに、脳内でわざわざ「オ・モ・ワ・ク」と発声して確認するようにしている。

それにしても漢字二文字で「思惑」と書いてあったら、自然と音読みして「シワク」と思ってしまうのが普通なんじゃないかなあと、脳内で「オモワク」と発声するたびに思ってしまうのである。

長年親しんできた漢字の読み方がある日「その読み方は違いますよ、こっちが標準、正解ですよ」と知らされると、それを修正するのにけっこうなハードルがある。
というかアキタイヌにしてもオモワクにしても、わたしの脳内では修正作業はまだ完全には終了していない。
あるいは死ぬまでこれらの読み方に違和感を感じ続けるのかも知れない。

ということで歳をとってから正解を知ると、少量ながら人生において違和感を感じる場面が増えるのは、まあしょうがないのかもしれない。
posted by ヤス at 12:01| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月19日

褒めて伸ばすことなど

指導者が誰かを指導する場合に「褒めて伸ばす」か「叱って伸ばす」のどちらでいくかは、なかなか難しい。
実際には褒めたり叱ったりをいい具合にミックスしていくことになるのだろう。
いつの頃からだろうか、叱るよりは褒めた方がよい、欠点を指摘するより長所を引き上げるべきだ、という「ポジティブ型」の指導法、教育方針が世の中的に優勢になったような気がする。

それはそんな気がするというだけで統計データも何もないのであるが、たぶん1980年代の中盤ぐらいからポジティブ派が優勢になったのではないか。
昔は何をやるにも軍隊式で、学校でも宿題をやってこなかったら教室の床に正座で授業を聞く、さらに失敗をやらかすと廊下に立たせる、みたいなことがわりかし普通にあった。
その時代には「褒めて伸ばす」などもってのほかで、生徒の至らない点、できない部分を容赦なく指摘し矯正するのが主流だった時代があった気がする。

まあそういう時代にも少数ながら褒めて伸ばす教師がいて、それらの教師は「個性派」として物珍しげに見られていたのであろう。

しかし時代が降ってきて、日本経済が最盛期を迎える80年代にかけて、何か空気が変わった感じがあったのではないか。
日本を覆っていた敗戦国の卑屈が大部分払拭されて、ほんとうの意味で戦後が終わった時代とともに、「褒めて伸ばす」時代が始まったのではないか、とふと思ったりする。

しかし実際問題として、褒めることは教育の上で非常に重要不可欠であるとは思う。
何かを学ぶというのは「出来ない」ことへのストレスが生じて、基本的に苦しい時間帯が圧倒的に長い。
だから適当に脳みその中の報酬系を作動させて途中途中で快感物質を出していないと、苦しみに負けて学びが止まる。

本来なら、学びというのは自分の意思と努力で推進されることが理想であり、苦しみに耐えるための報酬系作動も自分自身で適当にやれればこれほどいいことはない。
だが幼い子供とか未熟な大人の場合、あるいはそこそこ成熟した大人の場合であっても、自分自身を正確に見つめ、自分の成長具合を適切に把握して自身にフィードバックする、自分を正しく褒めることの出来る人はそうそういない。

だから客観的な視点から学んでいる人を見つめ、適当に褒めたり叱ったりする指導者の存在は重要である。
時代が新しくなって指導方法といえば軍隊式、の時代が過去のものになったのは、その意味で非常によかったのは確かだ。

ところで、学んでいる人が成長してほとんど達人の域に達してしまって、もうあんまり褒めるところも叱るところもなくなった場合、当然ながら指導者としては単に客観的視点からの観察結果を淡々と「報告」するほかはない。
逆に言うと何かの達人というのは、自分自身を正確に客観視できていて適切に自身を褒めたり叱ったり出来る人のことなのだろう、と今さらながら思ったりしている。
posted by ヤス at 11:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月18日

隣の人と違うこと

ネアンデルタール人が絶滅したのは、その生態がなまじホモ・サピエンスと似ていたからに違いない。

同じようなものを食べ、同じような場所に住む2種類の生き物がいる場合、その2種類の生き物がどんどん増えていって住む場所食べるものが足りなくなると、どちらか一方の種類が絶滅する。


ところで人類は、同じホモ・サピエンスながら世界中のいろんな気候の場所に住み、それぞれ多様な食べ物を食べて暮らしている。


少し想像してみると、もし人類がスイカを食べないと生きていけない種類の生き物だった場合、人類の生息数は地球上に産するスイカの総量によって規定される。

スイカの生育に適した気候や土地は地球上のごく限られた地域に過ぎず、したがって「スイカ好き人類」の生息数は現在の70億人よりは相当に少なくなるに違いない。


しかし実際には、人類の大半はスイカが無くても生きていける。

南アジアの方に行けばみんな米を食い、少し緯度の高い地域では麦を食ったりジャガイモを食ったりしている。


エスキモーはアザラシやトナカイの肉を食う代わりに野菜はほとんど摂らない。

そうかと思えば菜食主義でほぼ動物性タンパク質を摂らない人々もいる。


このように、人類はなんでも食べ、暑いところでも寒いところでも文化力でなんとか適応してしまう融通無碍さを持っている。

この融通無碍が、人類繁栄の原動力であることはたぶん間違いない。


しかし他方、なんでも食べどこにでも住む人類のバイタリティは、他のさまざまな生き物から生存適地や好物の食料を奪い、彼らを絶滅に追いやろうとしている。


とつぜんだが、企業戦略では差別化が重要であると言われる。

すべての企業が同じ商品を供給すると同質化競争になって弱いところから順番に潰れる。

だから八百屋が多い場所では魚屋を、靴屋があふれていれば洋服屋を始めるべきである。


おそらくどんどん増殖する途中の人類も、なるべく効率よく増えるためにいろんなものを食べいろんなところに住むようになった。


ところで高等哺乳類の場合、物心つくと親の横で獲物の捕り方とかを学ぶ。

その習性はよほど根深いものなのか、我々人類はどうかすると隣の人と同じような行動を真似て、結果として同質化する方向に行きがちである。

特に日本では「同調圧力」というやつが強いとも言われている。

この同調圧は哺乳類の学習行動の延長なのだろうとぼんやり思う。


むしろ人類に特有の行動特性は、隣の人と違うものを食べること、人と違う場所に住むことなのではないだろうか。


ただそのせいでいろんな生き物に影響を与えているわけだけれども、例えば思い切って月や火星に移住するとかすれば、地球上の生き物に対する影響をいくらか緩和できるかもしれない。


まったく、人類として生きるのは、けっこうたいへんだなあと思った。

posted by ヤス at 12:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月17日

人類の他種絶滅能力

ヒト=ホモ・サピエンスというのは不思議な生き物だと思う。

同じホモ属(=ヒト属のことなのだ)にはホモ・ネアンデルタレンシス、つまりネアンデルタール人とかもいて、現生人類とネアンデルタール人は、生物分類上はほんの少しの違いの亜種に分けられるそうだ。


最近ネアンデルタール人と現生人類が交配していたらしいという衝撃的事実がDNA研究で分かってきたわけだけれど、肝心のネアンデルタール人は数万年前に絶滅してしまった。

ライオンとか馬とか象とかの動物の場合、近縁だが亜種違いの親戚が離れた場所でそれぞれ生き残っているのだが、人類に関しては不思議なことにホモ・サピエンス1種類しか存在しない。


ネアンデルタール人などの近縁種は、DNAだけ現世人類の中に数%残して絶滅してしまった。

人類の亜種には他にデニソワ人とかもいて、アフリカから出てきたホモ・サピエンスとネアンデルタール人が中東あたりで交配して出来たのが現在欧米に多くいるコーカソイドであり、さらに中央アジアの辺まで進出してデニソワ人と交配したのがモンゴロイドである、という説が最近有力である。


その説で行くとアフリカにとどまった人類がホモ・サピエンスの原種に近い人々ということになる。


ホモ・サピエンスはネアンデルタール人やデニソワ人の持っていた寒冷地適応などの身体的特徴をDNA的に吸収しつつ、しかし同時にネアンデルタール人やデニソワ人そのものは絶滅に追いやって現在に至っているわけである。



最近読んだ本に面白いことが書いてあって、ホモ・サピエンスは繁殖力、つまり子供を残す能力が他種より少しだけ優れていて、その結果他の亜種を駆逐してしまったのではないかという。

で、その鍵が「一夫一婦」なんだという。

あるいは一夫一婦は人類生存の決め手であり、だから浮気は生物的にもってのほか、だとすれば恐ろしい。


ホモ・サピエンスもネアンデルタール人も、身を守る分厚い毛皮も皮下脂肪もなく、牙とか爪とか角とか武器になる身体部位もなく、ただ直立二足歩行と、それによって自由になった「前脚」と、究極的に高機能化した脳みそを持って数万年前までは共に進化していた。


それがほんの少しの社会性の違い、子育て能力の違いがあって、その結果ほぼほぼ同じ生存戦略で生きていた同じような亜種の中でホモ・サピエンスだけが生き残った。


ある生物種の絶滅というのは、地球創生以来繰り返されて来たことではあるが、しかし最近は人類が原因で生息地を追われ、乱獲されたりして絶滅する生き物が増えている。

こういう人類の他種絶滅能力は、その手始めが同属亜種の対ネアンデルタール人だったのかもしれない。


だが一方で、人類は自分の他種絶滅能力の自覚を持っていて「なんとかしなきゃ」とか思い始めているわけである。


人類とは自分の持つ恐ろしさに気づいている点で賢いということなのか、それともただの身勝手なのか、その判断はなかなか難しい。

posted by ヤス at 11:06| Comment(2) | 徒然なるままに