2017年05月06日

巡航ミサイル

アメリカがシリアの空軍基地に59発の巡航ミサイルを打ち込んだのが、もう随分昔のことのような気がする。
この巡航ミサイル「トマホーク」には色々な派生タイプがある。
1発あたりの調達コストはだいたい100万ドルから140万ドル程度らしい。
日本円で1.2〜1.5億円くらい。

この値段は、最大3000km飛んで命中誤差半径10mの無人ミサイルとしては非常に安いように感じる。

シリアに打ち込まれた59発(一説には60発撃って命中弾が59発だったともいう)は、日本円では70億円から90億円くらい。
発射プラットフォームの駆逐艦の運行費用が別にかかるとしても、これはかなりリーズナブルだと思う。

巡航ミサイルの炸薬量は454kgで、59発分の炸薬量を有人の攻撃機に搭載しようとするとF16が20機くらい必要な計算になる。
1機50億円ほどのF16を何機も動員して敵地に潜入する攻撃方法は、巡航ミサイルと比べるとはるかにリスクが高いのは明らかだ。
そういう意味で巡航ミサイルの存在は、アメリカ軍にとって大きな軍事オプションとなっている。
この巡航ミサイルのルーツがドイツ第3帝国のV1であることは有名だが、もっと遡ると第一次対戦中、ライト兄弟の人類初飛行から15年ほど後に無人の爆弾搭載飛行機として企画されたものもあるらしい。
そのプロペラ式の古風な無人飛行機は、簡易なジャイロ式の飛行安定装置でとりあえずまっすぐ飛ぶことを目標に開発が行われたが、所定の性能を得られずに開発中止になったらしい。

巡航ミサイルの肝はまさにこの誘導装置であって、現在のトマホークが実用化されたのは地形の凸凹を読み取りながら目標に向かうシステムが実用化されたからだという。

巡航ミサイルのシステムは、値段もそこそこ安く人命のリスク(攻撃側の人命リスク)も低く、命中精度も十分に高い。
また厚いコンクリートも貫通するタイプも開発中のようであるから、彼の国の首領様も安心していられない。

ただ問題は兵器がいかに高性能になろうとも、目標を選んで攻撃を意思決定し攻撃成果を評価する、その一連の流れをどれだけ正確に思慮深くできるかは兵器の威力以上に重要である。
今は爆弾の類でも化学兵器にしても無差別に大量に被害をもたらすことは比較的簡単であって、テロ行為と「テロでない攻撃」を隔てるモノは、攻撃目標選択の適切さとそこをピンポイントで狙う能力だろう、と思ったりした。
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2017年05月05日

吉野家・松屋の実験

昨日の東洋経済のニュース記事に松屋と吉野家の実験店舗のことが書かれていた。
両社がセルフサービス店舗に取り組んでいるという記事だ。
吉野家は2016年3月に恵比寿駅前店で、松屋は文京区の本郷三丁目店で今年4月24日から取り組んでいるらしい。

このセルフ業態では、注文・会計は券売機で行い、券売機から出た番号札の番号がカウンターのモニターに「調理中」「出来上がり」と表示され、食べ終わった客は返却口に食器を返す仕組み。

世の中空前の人手不足時代を迎えている。
飲食業に限らず、長時間営業のコンビニなんかでも人手不足の影響は甚大である。
吉野家・松屋は、今は実験的にセルフ業態を実験しているわけだがそう遠くない将来に全面的にセルフになる気がする。

セルフサービスのデメリットはやっぱりサービスに人の手がかかっていないのでなんとなく温かみがない、味気ない、そっけないというところだろう。
しかし考えてみると牛丼チェーンのようなファーストフード業態に対し、どれだけのお客さんがそういうハイタッチサービスを求めているか、そこは甚だ疑問だ。
多くのオヤジやおにいちゃん連中は、そこそこ美味くて安ければ満足するに違いない。

そういう観点から言えば、人手不足にならずとも牛丼チェーンがセルフ業態になっていてもおかしくなかったはずだ。
実際、なか卯は前からセルフ券売機でオーダーを受けている。
しかし今まで吉野家・松屋などがセルフ化しなかったと言えば、そこは飲食業界の伝統的なこだわりが影響していたような気がする。

飲食業は昔からピープルビジネスと言われ、良い人材がサービスレベルを上げて売上を増やし生産性も押し上げる、だから良い人材を育成することを経営の根幹に置く、そういう思想が飲食業界にはあると思う。
その思想は全く正しいと思う。

ただし人の手で行うサービスはコストがかかるので、自ずと提供価格の下限が高止まりする。
その水準はデフレ化で下がりきったファーストフードの客単価には、もはや見合わなくなっているのだろう。
そこを無理やり「合わせ」ようとするからサービス残業蔓延やワンオペによる現場の荒廃が発生することになる。

それに、そもそも券売機でなく人がオーダーを受けることのメリットは、料理の説明をしたり気の利いた提案をしたり、機械でできないことができることだろう。
しかし促成栽培の高校生バイトではそういうことも難しく、たまにオーダーミスで客を怒らせるのがオチである。

無機的で味気なくはなるけれど、現状でもサービスの機械化、セルフ化の理由は十分以上にあり、今までの業界の動きが遅すぎたと思えなくもない。

いずれ券売機のオーダーは、客の手持ちのスマホ経由になると思う。
スマホにインストールしたアプリでオーダーし電子マネーでお会計する。
そうなれば、まあ味気ないのは仕方ないにしても便利にはなるだろう、などと思った。
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2017年05月04日

カメラの要件

カメラというのは、撮りたい時に手元にあることがまず肝要だ。
そう考えるとカメラは何より小さく軽い方が有利になる。
そしていつも携帯する習慣が身についていること。
というとこれはもう、携帯電話、というかスマートフォンのカメラに敵うものは他にない。

カメラ業界も一昔前とは全く様変わりしたものである。
20年くらい前なら、フィルムの一眼レフがその高画質とハンドリングの良さのバランスからカメラの王様だったと思う。

実際このクラスには各社から様々なモデルが投入され(それは今でもそうだが)、多種類の交換レンズも用意されていた。
だからとりあえず写真好きを公言する御仁は一眼レフを首から下げて闊歩したものである。

わたしも26年ほど前にキャノンのEOS10というフィルム(当然だが)の一眼レフを買った。
EOS10は、当時かなり画期的なカメラだった。

まず、当時はやっとオートフォーカス機構がポピュラーになった頃だったが、このEOS10はファインダーを覗くと小さい四角が横に三つ並んで見えた。
その四角はオートフォーカスのフォーカスポイントである。
他のカメラの場合、フォーカスポイントは真ん中に一点と相場は決まっていた。
それがEOS10は三つ。
真ん中でもピントが合うし、画面の少し右または少し左側でも合わせることができた。

またEOS10の「不思議な」セールスポイントとして「アートコード機能」があった。
これは名刺サイズの丈夫なプラスティック紙に作例写真が載っているのが何枚もあって、カード記載のバーコードをカメラ付属のバーコードリーダーで読み取ると、その作例に準拠したカメラ設定が行われるという非常に野心的な仕組みであった。

この仕組みは、後継のEOS100にも引き継がれたがそこで息絶えた。(と記憶している)
まず、刻々流転する被写体を撮影するのに悠長にバーコードをピッピさせるような暇は大抵ない。
ただこれは時代の気分というものだったのだろう。
あるいは当時はPOSレジみたいな情報機器が「新しかった」のかもしれない。

さて、話が冒頭からだいぶ逸れた。
とにかくもカメラは撮りたい時に手元にあって、さっと構えてさっと撮れることが肝要。
その点でスマホに敵うカメラは今のところいない。

EOS10のアートコード機能は、スマホのいない時代だからこそ許された見事な企画倒れ機能だったと言える。

あとEOS10には当時珍しかったリモコンが付属していた。
EOS10の自慢は、少し暗い場所で全自動モードでリモコンレリーズすると、勝手にペンタ部のストロボがポンッとポップアップしてピカッと光り、次の瞬間にはシュッと自動でストロボが格納されるというところであった。

当時も今も、ストロボの自動ポップアップというのはあったが自動格納というのは他に見たことがない。
こういう余分なサーボモーターの設置なんていうのは、バブル時代の匂いが濃いこと甚だしい。

とにかくカメラは小さく軽くいつも携帯していること、これに勝るカメラの要件はない。
カメラメーカーはともすると忘れがちなこの要件を肝に命じて仕事をすべきである、と思った。
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2017年05月03日

情報圧縮時代

昨日のニュースでネット通販のアマゾンが、出版取次最大手・日販との取引を一部中止するというのが流れていた。

出版不況が言われ出してもう久しい。
日販やもう一つの業界の雄・トーハンともども業績不振に悩んでいるらしい。
すでに中小規模の出版取次は廃業したり日販・トーハンに吸収されたりしてどんどん消滅している。

出版取次の業績不振はある意味当たり前で、出版市場がどんどん縮小しているからこうなることは全くの想定内。
出版市場の売上額推移を調べてみると、2006年まで2兆5千億円くらいだったのが2015年には1兆8千億円くらいまで減っている。
出版物売上の3分の1を占める雑誌はこの10年ほどで売上が3割以上減って大変な状況だ。

ニュースを見るとアマゾンの言い分では、日販の供給形態がリアルのオフライン書店向けになっていてネット書店のアマゾンにマッチしていないということのようだ。
日販はこの数年、取引企業と協力して返本率の改善など業務改革を進めてきたようだが、市場縮小による業績悪化を食い止めるまではとても間に合っていない。

ずっと以前にも書いたことがあったが、今世の中に流通している「情報量」というのは、出版物の減少とは関係なく猛烈に増えていっているらしい。
逆にいうと、世の中の情報流通量が増えて人々の情報処理のリソースがそっちの方に取られたせいで紙の出版物の処理時間が削られていると想像することができる。

また、少し古いが平成23年の総務省情報通信白書によると、平成13年と21年の情報流通量比は1.98倍に増えている。
対して情報「消費」量は1.09倍にしか増えていない。
現在の日本人は出版不況になるほど本を読んでいないわけだが、しかし決して「情報処理」をサボっているわけではない。
そもそも基準年の平成13年の水準でさえ、その10年前から比べると情報流通量も消費量も膨大に増えている。

この間にFacebookやTwitterができたり、その前にはブログやmixiが流行ったり、電子的な「メール」というものがこの世に出現したり、人々を情報処理に駆り立てるツールが目白押しに誕生している。

こういう状況では、今後もさらにアマゾンやリアルの書店のあり方は変化せざるを得ないだろうと思う。
つまり具体的には、人々の情報処理負荷が増え過ぎているので、いろんな情報コンテンツの要約サービスとか今後増えていくのではないか。
今は「作品レビュー」がその代わりをしているが。
あるいは本を買ったら「書籍要約機」に入れて、内容を3行くらいにまとめてくれる機械とかあると便利そうだ。

たいていの映画だって2倍速で観ても内容は十分理解できる。

これからあらゆる情報を圧縮し、端折る時代がやってくるような気がする。
というかもう既に、かなりの程度そういう時代になっているのかもしれない、とアマゾンと日販のニュースを見ながら思った。
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2017年05月02日

地毛証明書

今さらだが、「地毛証明書」なるものが話題になっているらしい。

我々が中学生だった時代、つまり35、6年も前にそういうものがあったかどうか、記憶が残っていない。

多分あったのかもしれない。
わたしの居た西宮市立上甲子園中学校は、男子は丸刈りでこそなかったがそれなりに「整った」校則もあり、また「スカート丈チェック」や「もみあげチェック」など、謎の風習もあった。
またちょうど校内暴力がどうにか鎮圧され沈静化した時期だったので、まだ校内にはピリピリとした空気が漂っていた。
実際、たまに生徒の誰それが教師に掴みかかったなどという小規模な暴力事件が発生することもあった。
しかし逆に先生が生徒を殴るのは事件とはならず、そこかしこで先生は生徒を殴りつけていたものである。

さて、地毛証明書である。
ここまで世界がグローバル化し、人権思想もまあそれなりに普及した現代日本に、まだそんなものが残っていたとは驚きだ。

地毛証明書の正当性については、普通に考えると普通に大きな疑義があると言わざるを得ないわけだが、しかしそういう普通でないものが未だに生き残っていることの意味とはなんなのだろう。

ふと思うのは、学校というのはかなり刑務所的な存在なのではないか、ということだ。
しかもこの場合の刑務所は、矯正と社会復帰を目的とした真っ当な刑務所ではなくて、管理の効率化を追求するだけのダメな刑務所。

多くの日本の中学校等は、生徒の管理を効率化したいのだと思う。
意識してそう思っていないかもしれないが、無意識に強くそう願っているに違いない。
学校になるべく面倒な問題が発生しないこと、ただでも仕事が多くて先生のマンパワーが足りない中で日頃から生徒を手なずけて管理を容易ならしめることは、かなり基本的な問題意識であろう。

「服装の乱れは心の乱れ」というのはあるいは統計的に有意なのかもしれない。
しかしそもそも「乱れ」の定義が拡張されすぎており、ただの多様な個性も「乱れ」のうちに入れられているのではなかろうか。

それはとりもなおさず、筋の通ったことも不条理なこともひっくるめて問答無用で生徒に刷り込むためだろう。

こういう「人間管理」の効率化思想は、学校のみならず会社組織などにもあるのかもしれない。
企業社会、あるいは家庭もひっくるめた日本における社会全体の要請、その凝縮したのが学校に降りてきているのではないか、そんな気さえする。
ただこういう組織管理の効率化要請は、アメリカにもヨーロッパにもかつての社会主義国にもある普遍的現象であるようにも思う。
日本の問題は、「全体」と「個人」が綱引きをした時に「全体」勢力が強すぎることだろう。

もう少し「個人」の側が強くなって「全体」とのバランスを取り戻す必要があるように思う。
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2017年05月01日

ローグ・ワン

この間、スターウォーズのスピンオフの「ローグ・ワン」をiTunesで観た。

「ローグ・ワン」は昨年の暮れから劇場公開していてよほど観に行こうかと思っていのだが、混んでいるのは嫌だし、最近とみに視力が弱っていて暗がりの映画館ではスクリーンを観るのがやや疲れる。
劇場公開の次のステップとして当然iTunesやアマゾンなどで販売が始まることが予想されたので、劇場は遠慮してiTunesで買って観ることにした。

そんなことはともかく。
宣伝文句の「シリーズ史上最高傑作」の謳い文句はダテではないと思った。
スターウォーズシリーズではお約束の「ライトセーバーファイト」もなし。
主人公やサブキャラも含めてみんな最後に死んでしまう。

色々と型破りで、その意味でシリーズのスピンオフ作品にふさわしい。

わたしはエピソード4・5・6(一番最初からの三部作)のDVDセットを持っているのだが、「ローグ・ワン」はエピソード4「新たなる希望」の直前の話である。
だから「ローグ・ワン」の最後のところから1977年公開の「新たなる希望」の冒頭シーンは連続している。

そこのところが気になって、「新たなる希望」のDVDを続きで観てみたら、昔見た宇宙船の廊下でバンバン撃ち合うシーンとか、その廊下がそっくり同じになっていて何気に感動した。
まあ今の「スータウォーズ」は制作費も潤沢だから、そっくり作るくらいは当たり前の話だろうが。

それともう一つ当たり前の話だが、DVDの画質とiTunesダウンロード版の画質は比較にならないくらいダウンロード版が綺麗。
ブルーレイだともう少し綺麗になるのだろうが、多分ブルーレイよりダウンロードが綺麗な気がする。
もう映画ソフトもメディアで買ったり借りたりの時代は過去のものになったようである。

今残っているDVDやブルーレイなどの物理メディア市場はそう遠くない将来に消えてなくなるのではないかと思う。
CDはまだしぶとく残っているが、映像ソフトというのはこれから4K、8Kとどんどん綺麗になっていき、映像の場合その差が如実にわかる。
物理メディアで高画質化に追随するのはなかなかしんどいだろう。
その点、データのダウンロードなら元データを高画質化して再生ソフトをアップデートするだけでいいから簡単そうだ。

少し話が逸れた。
そういうことで「ローグ・ワン」は面白かった。
あと1977年版に出ていた帝国のターキン提督がそっくりそのまま出ていて少し驚いた。
(ちなみにターキンのフルネームは「グランド・モフ・ウィルハフ・ターキン」らしい、長い)

さらに大トリで出てきたレイア姫については、CGのターキンに比べてもより不気味だったのが少しだけ気になったなあ、と思った。
おしまい。
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2017年04月30日

伝統の一戦

伝統の一戦といえば、巨人阪神戦あるいは早慶戦などが思い浮かぶ。
ところでこの時の伝統という言葉、この言葉の意味が少し引っかかったので調べてみた。

「伝統」は「伝」と「統」で出来ている。
「伝」は字句通り「伝える」こと、「統」は「ひとつながりに続いて」いるようなイメージの意味らしい。
また「統」には「統べる」などという使い方でコントロールするとか統御するとかいう意味もある。
これは想像であるが、あるモノを長く存続させる様子が転じてそのモノの維持に腐心する様を表す意味が「統」の字に加わったのではないか、と思ったりする。

それやこれやを考えると、「伝統」というのは単に昔から淡々と続いているだけではダメで、その存続にそれなりの尽力があることが必要なのではないか、そういうイメージが浮かぶのである。

巨人阪神戦(もしくは阪神巨人戦)は、ただ淡々と戦っているのはもはや伝統の一戦ではなく、強い巨人と阪神が戦っているのが正しい伝統の一戦のありようだろう。
あるいは最近トップ選手を輩出しているフィギュアスケート界はそろそろ伝統の域に入りつつあるようだが、例えば凋落著しくなって久しい男子マラソンはもはや「伝統の糸」が切れている。

統の糸へんを見る限り、繋がってこその伝統であるようで、そういう意味では男子マラソンは伝統の作り直しが必要なのだろう。
(女子マラソンもぼちぼち頑張らないと糸が切れそうだ)

このように「伝統」の意味について理屈をこねた上で世の中のスポーツ中継などを観てアナウンサーが時折発する「伝統」の意味を考えた場合、そこにはすでに切れてしまった伝統や、その維持に大した尽力の無い伝統など、まやかしの伝統が案外散見されるのではないか、とどうでもいいが思ったりする。

しかし思うのは、例えば衣笠祥雄の連続出場記録とか双葉山の64連勝とか、何かが続くということに人はなぜそこまで執心するのだろうかということ。
連続出場でたまに一つ休んだり、連勝の途中に一敗したりしたところで数字上は大した違いがないような気がする。

切れると困るのは、例えば王統の血筋で、これが切れると王様一族は王権を失って大変なことになる。

あるいはそれ以外の伝統でも、一旦切れると再興するのに、連続的に維持する何倍もの労力を必要とするからわざわざ切れないように頑張るのかもしれない。

伝統に似た言葉で「老舗」というのでも、気をつけないといけないのは過去の栄光にあぐらをかいてしまうことだろう。
そうなった瞬間にそれは伝統でも老舗でもない、ただの歴史的事実になる。

伝統にとっては案外「今」が大事なのである。
どうでもいいがそんなことを思った。
posted by ヤス at 08:27| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月29日

穴を塞ぐ

ちょっと前に福岡の道路陥没事故、そして事故からの急速な復旧工事が話題になったがあれはいつだったか。

あの事故で思うのは、あれだけの大きな穴をあっという間に埋め戻して道路を復旧し、その早さが賞賛されたわけだが、そもそも街の真ん中に多穴が空く事故が発生したこと自体がもっと問題視されるべきだったろう。

調べたら事故は昨年11月だったらしい。
あの後事故原因もほぼ究明されて、真下で行われていた地下鉄工事が原因らしい。
(他の原因説も根強いみたいだが)
類似の事故が過去に起こっていたこともあるらしく、そうなると近い将来にまた同じようなことが起こることもあるのかもしれない。

今回書こうとしていることは道路陥没事故のメカニズムについてではない。

事故で開いた穴を塞ぐ仕事の「生産性」についてだ。
そもそも穴を塞ぐ仕事は、穴が開かなければ不要のものだった。
そういう意味ではこの仕事の生産性はゼロもしくはマイナスという評価になる。
というと、ちょっと関係者の皆さんには可哀想かもしれない。

しかしこういう種類の仕事はたくさんある。
パッと頭に浮かぶのは、東日本や熊本などの震災復興だろう。
特に東日本大震災については、復興予算も10兆円単位の莫大なもので、復興予算に関しては予算の未消化や流用、不正受給による焼け太りなど問題が多い。
しかしながら、まずは大きな損害を蒙った被災地域の復興が何よりも優先されるべきであって、そのためには多少の「事故」には目をつぶるべきだろう。

で、復興工事などで何兆円という予算が投入され、地域の建設業等にはそれなりにお金が回っていると思われる。
しかしこの辺の予算投入による付加価値の増加というのはどう評価すべきなのだろう。

先日の元復興大臣の発言によると、東北地域の損害額は25兆円ほどにもなるらしい。
今後もし、この地域で25兆円分のGDP増加があったとして、それでやっと震災前に復元したことになる。

震災は天災で不可避のものであり、先の陥没事故と比較するのは適切ではないような気もするが、どうもあの穴を埋める工事と震災の復興とが、頭の中でなんとなくダブって浮かんだ。
とりあえず、今日はそれだけ書いておく。
posted by ヤス at 15:05| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月28日

ランエボの復活予想

今世界中に自動車会社はたくさんあるが、しかし全世界で220兆円と推計される業界規模の割に、企業数は少ない。
それは既述の通り自動車という製品が複雑高度化して、研究開発にも莫大な費用が必要なことが大きな理由である。
また自動車が軍需と近く、ほとんどが第二次大戦前からの企業で占められていること、早々に足場を築いた自動車会社が業界を占有する構造というのがあるように思う。

第二次大戦後、自動車業界の民間需要が急拡大して軍需の何倍もの規模になり各自動車会社も規模拡大のために民需中心の会社に変化していったのだろう。
ヨーロッパなんかでは、しばらく自動車会社の国営時代があったりしたが、自動車業界の「民需化」の進展とともにそういう国有化状態が解消されていったのだと想像する。

民需化した自動車の製品開発の肝は、お客が「欲しいクルマ」を作ることであろう。
それは各社のブランド戦略につながっている。
ざっくりいって、アメリカのお客は大きくて見栄えが良いクルマが欲しくて、ヨーロッパのお客は走行性能が優秀でデザインや内装にもうるさく、日本のお客は安くて壊れないクルマが良かった、というところだろうか。

各国の自動車会社の製品イメージがずいぶんと違うのは、各国市場の「欲しいクルマ」の種類が違うからに違いない。
今、曲がりなりにも生き残っている会社というのは、それなりに市場の欲しいクルマを作る能力があったということになる。

日産がルノーに買収されてカルロス・ゴーンが日産に乗り込んできて最初の頃にやったのは、フェアレディZとGT-Rの開発にGOを出して日産のブランドイメージを再構築することだったという。
スポーツカーというのは台数は売れずたいして儲からないけれど、会社にポジティブなイメージを付加する。
自動車という製品は、安いのでも百万円くらいするやつを今の日本では平均9年くらいで買い換えている計算になるらしい。
(20年前は平均6年強だった)

やや大仰に言えば、とにかく「欲しい」圧力を最大に高めて、無理やり市場に製品をねじ込んでいるようにも見える。

そういう中でブランドが毀損して「欲しい」圧力が弱まると、たちまち売上が急減する。
その点不正のあったVWと三菱では、VWはブランドがしぶとく三菱は脆かった。

三菱に関して言えば、度重なる不祥事でダメージが蓄積していたこともあるけれど、一方でランエボをやめパジェロを10年以上もモデルチェンジなしで放置するというところに、根本的な戦略の誤りがあったように思う。結果論ではあるが。

ランエボもパジェロも台数が売れるクルマではないが、三菱では数少ない「欲しい」クルマだったと思う。
ということで、三菱に大ナタを振るうゴーンさんは、そのうちランエボを復活させパジェロをビッグチェンジするのではないか、というのが目下の予想である。
まあ全く根拠はないが。
posted by ヤス at 10:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月27日

三菱自動車2

2016年の世界自動車販売台数は、フォルクスワーゲン(VW)がトヨタを逆転して首位に返り咲いた。
2015年の排ガス不正から、早くも立ち直ったようである。
VWの戦略には一つ特徴があって、それは中国市場にどのメーカーよりも特化しているところである。
VWの販売台数は、その40%が中国市場で出ているらしい。
中国市場は年間28百万台の世界一の自動車市場だ。
2番はアメリカの1786万台、日本は3番で497万台。

25年ほど前にリュックを担いで中国に旅行した時は、北京の街中はVWゴルフとダイハツシャレードが大半を占めていたと記憶している。
その頃からせっせと中国市場を開拓していたのが現在のVWの躍進につながっているのは間違い無いのだろう。

VWは排ガス不正でかなりイメージダウンしたけれど、しかし過去数十年にわたる信用の蓄積は、この程度のイメージダウンで崩壊するものではないようだ。

VWは、ヒトラーの国民車構想によって完成した「タイプ1(=ビートル)」がそのスタートである。
戦後は、たぶんヒトラーの肝いり会社だった負い目もあったろうと想像する。
また戦後長い間ビートル頼みだった商品構成にゴルフが加わって、ゴルフの走行性能や安全性の追求姿勢が世界的な評価も集めて、会社としての発展に繋がっていったものと思われる。

さて、三菱自動車である。
三菱自動車は日本最古の自動車メーカーで、現在も陸上自衛隊に戦車や各種車両を供給している。
戦前も帝国陸軍の主力97式中戦車を開発・生産していた。

こういう歴史はVW・三菱に限らず、自動車メーカーというのはだいたい戦前戦後と軍需に関わっていたところが多いようだ。
三菱を買収したルノーは、第一次大戦で現在の戦車の原型となったルノーFTを作った会社だ。

純粋な戦後の民需主導の自動車会社で今パッと浮かぶのはホンダくらいだ。

そんなことはともかくも、VWはヒトラーの国民車から始まって、戦後しばらくビートルで稼いだのちゴルフで花が開いた。
ゴルフの成功は、質実剛健である意味地味なクルマ作りのコンセプトに支えられていたと思う。

でVWのブランドイメージは、これは個人的なイメージであるが、ヒトラーの国民車のイメージを払拭すること、もともとキューベルワーゲンなど軍用車両の会社だったことを払拭することがその土台にあるような気がする。

しかし一方の三菱は、戦前から現在に至るまで軍用車両に深くコミットしていて、代表的なブランドは四輪駆動のパジェロで、自衛隊にも通称「パジェロ」と呼ばれる汎用車両があって、戦後しばらく国営会社だったVW以上に官製企業のイメージが強いような気がする。

その辺が三菱自動車凋落の遠因ではないかと思う。
posted by ヤス at 10:48| Comment(0) | 徒然なるままに