2017年06月28日

将棋が面白い

さて、ニュースとしてはやや落ち着いたようであるが、将棋における藤井聡太四段の29連勝がついに達成された。
わたしも将棋の内容はチンプンカンプンながら、対局の様子をAbemaTVで夜の8時半頃から投了までつい観てしまった。

で、今さらながらだけれど将棋の世界というのは面白いと思う。
将棋界には160人ほどのプロ棋士がいるそうだが、それらの棋士が8大タイトル(少し前までは7大タイトルだった)をかけて熱い戦いを繰り広げる。
また女流棋士というのもあって、若くてきれいなお姉さん方が難解な棋戦に臨む姿は、そのギャップから非常に萌える。

また棋士の面々はどの人物もかなり癖があって、中にはわざわざ強めのキャラ設定を自ら行う棋士もいたりして、そのあたりのエンターテイメント性がかなり秀逸なのである。

またひとつ感心するのは、最近の藤井四段フィーバーでテレビのバラエティ番組などにも何人も棋士が登場するようになっているのだが、それらの棋士がちゃんとしたテレビタレントとして「出来上がっている」ことだと思う。

これは、各棋士とも普段から持ち回りで対局解説をやっていてしゃべりがこなれているということが大きいのだろう。
特に将棋の勝負は、持ち時間の長い対戦の場合は一手打ってから次を打つまでに1時間も2時間もかかることがあったりして、その間「解説トーク」で番組をつなげないといけない。

ともすれば間延びしてつまらなくなる可能性が高いところ、次の指し手予想とか今までの棋譜のおさらいとか、対戦者の人物紹介とか、全然関係のない解説者個人の面白話とかいろんな話題でつなぐことによって棋士たちのトーク能力は自ずと高まっていくのだろう。

わたしがパラパラと将棋の動画をネットで観ていて個人的に面白いと思ったのは、「藤井システム」でおなじみの元祖フジイ、藤井猛九段である。
他にも、わたしのような初心者にも非常に分かりやすく指し手の解説をする人とかいてなかなかに面白く飽きないのである。

そういえば最近テレビで引っ張りだこの加藤一二三九段も、若干滑舌が悪いのはご愛嬌だが、そのトークの面白さはとても70歳代後半のおじいちゃんのそれではない、テレビ的な切れ味鋭さがあると思う。

そういうことで将棋コンテンツはニコニコ動画なんかでもゲーム、政治と並ぶ三大コンテンツに並び称されるほどのポテンシャルを持っているわけだが、個人的には若干心配な点が少し有る。

それは将棋ビジネスの経済構造がかなり新聞社のバックアップに依存している点である。
これは長らく将棋コンテンツを新聞紙面で活用してきた経緯からある意味しょうがないわけであるが、新聞の購読部数減少による将来の利益減少を考えた時、新聞マネーに依存しない将棋界のあり方というのを今から準備しておく必要があるのだと思う。

まあ将棋のコンテンツパワーを考えると、収益化の可能性はたくさんあるのかもしれないが。
ということで藤井四段の今後についても注目していきたいと思う今日この頃であった。
posted by ヤス at 12:12| Comment(3) | 徒然なるままに

2017年06月27日

ややこしい妄想

さて、今日も性懲りも無く昨日の続きを書く。

昨日、人間は他の生き物と同じくDNAの入れ物に過ぎないという考え方について書いた。
DNAと呼ばれるタンパク質の塊がいつ頃誕生したのかは知らないが、DNAはその誕生以来ひたすら自己複製を続けて今日に至っている。
そして自己複製に必要な材料のアミノ酸を最初は適当に手近にあるのを使っていたのだろうが、そのうち材料を自分自身で作った方が効率がいい、ということで光合成とかが始まったのだと思う。

いや、都合がいいから光合成を始めたというよりは、ただひたすら無心に自己複製を続けながら色々とやっているうちに、たまたま光合成の能力を身につけてしまった、そういう個体がたまたま出来上がったのだと思う。

言うまでもなく自己複製能力の高い個体は、その後に繁栄し数が増える可能性も高い。
何億年も自己複製をしているうちにたまたま光合成能力を身につけてしまい、あるいは単細胞から多細胞化したり個々の細胞が色々と機能分化したりしながら、自己複製能力の高い個体がどんどん増殖していった。

そのうちあるものは植物になり他のものは動物になりして、「DNAの入れ物」は多様化の一途を辿ったものと思われる。

その中の一派が、脳機能が肥大化したところに特徴を持つ人類と呼ばれる動物である。
この動物はものを考えたり憶えたりするのが得意なことによって他の生き物に比べて高い生存性と繁殖能力を維持している。(今のところは)
さらにこの動物の得意技としては、複雑な推論能力、道具の製造能力を持っていて、生物的な進化の次元を相当に超越した「自己進化」の能力を持っていることである。

この動物は「自我の芽生え」からせいぜい数十万年ほどで他の野生動物的な暮らしぶりから卒業して、人工的な「人類的社会」を築き上げるに至った。
そして「人類的社会」の開始からせいぜい1万年ほどの後に、シリコン半導体による電気仕掛けの機械によって、この動物が「AI=人工知能」と呼ぶところのモノを創造した。

さて、AIを発明するに至った人類という名の動物は、それでもやはり実のところはDNAの入れ物であることに変わりはない。

少し視点をずらして考えると、人類というのは、DNAが意図せずに40億年かかってたまたま作り上げたDNAにとっての人工知能である、と言えなくもない。

ということは、別途人類が最近になって創造したAIは、DNAが創造した「人類という名の人工知能」の作品であるということで、人工知能が作った「AI=人工知能」と言えるのではないか。

ここで考えられることは、人類が作り上げたAIが、さらに「彼」なりの人工知能を創造する可能性もあるのではないかということだ。

少し話がややこしく、頭が痛くなってきたのでとりあえず今日はここで終わることにする。
posted by ヤス at 08:58| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月26日

DNAの雑感

最近ちょっと人工知能とか、人間の認知機能の本をチラチラ読んだりしているのだが、それらの本を読んでの感想は、「人間」とか「人間の自我」とかいうものは、本当はかなり単純なつくりなのではないか、ということである。

人間の持つ自我とか創造性とか感情の動きとか、そういう「心の動き」の原理は案外単純なつくりであって、実はAIによって十分に再現可能なのではないかと、なんとなく思う。

というのも、前にも何度か書いたのだけれど、人間の情動は高等哺乳類の進化の延長線上にあるのだと思う。
(これは単なる個人的な仮説(妄想)に過ぎないが)

情動による記憶強化のメカニズムが高等哺乳類でだんだん進化してきて、それとともにその機能を司る大脳皮質が拡大したとりあえずの最終型が人類であるような気がする。

人類の場合、情動〜記憶フィードバック機能にプラスして言語能力や道具の製造などの周辺能力も獲得するに至り、その点で犬や猫と、あるいはチンパンジーやゴリラと比べても隔絶しているように見える。

しかしこの大脳皮質がもたらした人類の特殊能力は、あくまでも小脳や脳幹などの原始脳の補助機関に過ぎないのである。たぶん。
そして小脳や脳幹などの原始脳はまた、ひたすら自己複製を繰り返す「DNAの存在」を補助する装置であるに過ぎない。(と思う)

DNAというのは、単純なタンパク質構造の壮絶な繰り返しである。
その繰り返しのパターンのごくごく微妙な違いが、トカゲやカエルやウサギやサルの違いとなって表れる。
そう書くとまるでDNAは生き物の「設計図」であるようにも思えるわけだが、その実は逆さまで、DNAはおのれの複製をつくるのに有利ないろんな「身体=DNAの入れ物」を選んでいるのに過ぎないのである。

それはある時代は恐竜の一派であったりするし、今なら人間もわりかし上手くいっている方かもしれない。
しかし実はDNAの入れ物として地味に大成功しているのはゴキブリとかの昆虫類、あるいはもっと単純な菌類であったりするのかもしれない。

DNA視点でみてどの生き物がいちばんの成功作なのかはわたしにはよく分からないけれど、しかしそうやって考えるとこの人類社会の間近で起きている人間関係のギスギスとか、あるいはニュースで流れてくる頭の痛くなるような社会問題が少し違って見えてくるような気がしたのであるが、まあ気のせいかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 14:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月25日

ポストトゥルース2

昨日ポストトゥルースについて考えたわけであるが、しかし思いがけず明るい結論が出てきたような気がした。
わたしは今までポストトゥルースの意味として、デマゴーグや撹乱情報によって民主的な政治手続きが阻害されたり無実の個人が貶められる可能性について悲観していた。

ネット時代の発展に伴い世の中に流通する情報量が爆発的に拡大し、かつ情報の発信源がこれまでのようなマスメディアからの一方通行だけではなくて個人からも発信されるようになったことで、情報撹乱の可能性が高まって世界は混乱の度合いを深めていくのではないか、そういう不安がこれまではあったような気がする。

しかし少し考えてみると、まあ当然といえば当然であるが、情報量の拡大や発信源の多様化は悪いことばかりではなくいい面もある。

ネット以前の社会では、我々個人レベルで受け取る情報はテレビや新聞、書籍などがせいぜいであり、何かの疑惑やモヤモヤを突き詰めて解消したいと思ったら、個人で一次情報源に直接の取材活動でも行う他なかった。

それが今では、とりあえず情報量だけは短時間でたくさん集めることができる環境が整っている。
自分の目で確かめる、という意味では直接取材には及ばないが、しかしとりあえず新聞やテレビの報道内容について、ネットで二次情報・三次情報を追いかければそれなりの検証はできる。
ネット上に転がっている、当てになるかどうか分からない断片情報を元に想定される真実を自分の中で再構成する論理的思考力と、「見たくないものも直視できる」強靭な精神力さえあれば、我々は20〜30年前より相当に真実に近づくことが可能になっているのではないか。

世の中にはいろんな人が何かの意図を持って、または無自覚的にあまたのフェイクニュースを流し続けているわけであるが、そういうフェイクだらけの現代ではあるがむしろ昔より真実に近いところにいるのだと思う。

ただ、今はまだここ10年くらいの間に起きた技術的な変化にみんなびっくりしていて、身体が環境に慣れていない。
もうあと10年か20年くらいすると、生まれた時からこういう情報環境だった、という世代が社会の中心に位置するようになってちょっとずつ時代が前へ動き出すのではないか。

そうなることを期待して、少しくたびれたおじさん世代も、「頭の中で真実を再構成できる思考力」と、「見たくないものも直視する精神力」を鍛えないといけないなあ、と思った。
posted by ヤス at 10:03| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月24日

ポストトゥルース時代

少し前から「ポストトゥルース=ポスト真実」という言葉がよく聞かれる。
ちょうど一年前のイギリスのEU離脱国民投票や11月のアメリカ大統領選が、ポストトゥルースの概念が広まる大きな契機となったようである。

以下ウィキペディア情報。
「ポスト」は「後に」「次の」の意味があるが、ポストの後に来る言葉が「過去のもの」という意味になり、それから転じて「重要でない」という意味にもなるらしい。


少し説明が難しいけれど、ポストトゥルースという言葉の意味は、ひとつひとつの事柄の嘘のことを指すというよりは、時代全体としての「真実性のなさ」という「時代の状態」を表す概念であるように思われる。

だから「ポストトゥルース」を自分なりに意訳すると、「まともな真実のない時代」ということになるのだろうと思うのである。

しかし考えてみると、いまだかつて人類社会がまともな真実だけで構成されていた時代というのもなかったような気がする。
よく言われるように、歴史は時の権力によって書き換えられる。
だから歴史資料の解読は、誰が何の目的によって記録したかをよく吟味して読み解く必要がある。
あるいは毛利元就や斎藤道三の例を引くまでもなく、権力闘争や国家間戦争において謀略戦、情報戦はつきものである。
あるいは少し昔のテレビや新聞のニュースの中にも、明らかな間違いや意図的な偽情報が入っていなかったという証拠はどこにもない。

要するにポストトゥルース的な状況は歴史時代を遡る大昔から存在したのである。
それがなぜ今になって「ポストトゥルース」と命名され、明示的に認識される必要があったのか。

それは多分、昔と違って偽の真実が、あまり時間をおかずに暴かれる可能性が生じる時代になったからではないか、と思う。
それは、インターネットの時代になったことが原因であることはいうまでもない。

しかしことはそう単純でもないかもしれない。

メジャーなネットニュースのみならず、SNS等を通じても毎日いろんな「事実」がわたしのところに流れて来る。
そういうのには名の知れたジャーナリストや「ちゃんとした」新聞社などの情報もあるし、正体不明の組織や個人からのものもある。

それらの情報は、新聞社のは真実で正体不明の情報源は偽情報とは限らない。
そのどれにも偽情報である可能性があり、いくらかの真実を含んでいる可能性もある。

現代という時代は、おそらくそうやって世の中に無数に流れている情報を拾ってきて、自分なりに事実を再構成する、そういう時代なのではないかと思う。

だから世の中に流れているニュースの数だけの事実がある、というよりはそのニュースを受け止める「受け止め手」の数だけ事実があるのだろう、と思ったりするのである。
posted by ヤス at 09:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月23日

無根拠の類型化

何年か前に観たテレビ番組で、何の番組かは忘れたけれど最近よくあるパターンのバラエティ番組だったろう、そこで「血液型占いを信じるか?」という質問を出演者に訊ねる、という場面があった。
出演者の中には東大出身の政治家もおり、ポジション的に「頭が悪い」キャラの現役アイドルもいた。

で、その反応はアイドルは信じないと言い、東大出の政治家は信じると答えた。
この答えを聞いてわたしは少なからず考えるところがあったのである。

血液型占いというのには何の科学的根拠もない。

過去に何人かの研究者がわざわざいくつか実験して、人間の性格や知能と血液型に明確な因果関係のないことは実証済みである。
またわたしの経験の範囲内でも、A型だから真面目で几帳面、O型だから大雑把、とかいうよくある当てはめに該当しない人はたくさんいる。

というか血液型占いの性格の当てはめは、だいたいどんな人にでも当てはまるような「言われてみればそう思える」的な曖昧なものであり、その意味ではこれはまさしく「占い」的である。

しかし血液型占いの信奉者は思いのほか多い。
特に企業経営者とか政治家とか、一般には相応の知性が必要とされる立場の人間にも信奉者が多い。

しかし最近はこれを問題と考える流れも出来ていて、今から10年以上前にはBPOが血液型をネタにした番組づくりについて一定の配慮を求める声明を出したりもしたらしい。
また「ブラハラ=ブラッドタイプハラスメント」という言葉も出来たりして、この10年くらいの間に世間的なブームはかなり収束はしているようだ。

血液型占いを無批判に信じる態度というのは、それをネタに友達同士で楽しくおしゃべりするくらいなら大して害はない。
しかし人間に対する「無根拠の類型化」に何の疑問も持たない姿勢は、人種差別や外国人ヘイトを行う心理と根は同じである。


で、冒頭の東大出の政治家は血液型占いを信じてアイドルは信じない件。
このシーンを観て、わたしは政治家っていうのは本当にろくでもない阿呆ばっかりだなあと思ったのと同時に、学校の勉強は多分おろそかにしているだろう現役アイドルの意外に知性的な面を見たような気がした。

アイドルというのは、人数も多く競争が激しい。
そこで生き残り、キャラを確立して売れるためには相応に合理的な行動と科学的な態度が不可欠である。
だから血液型がどうとかあまり気にしないのだろう。
そこへ行くと政治家にはそういう合理性がほとんど必要ないのかもしれない。

というとこれもアイドルと政治家を無根拠の類型化に当てはめる行為であまり望ましくないだろう。

何にせよ血液型占いのような「便利な道具」で目の前の人間を判断しパターンに当てはめるのは、頭を使わずに分かった気分が味わえるので楽チンで良いが全く知性的ではない。
目の前の人を判断するには、やはり個別の人間ごとに自分の知性と経験をフルに動員し一生懸命考える、というのが唯一の正しい方法だろうと思うのである。
posted by ヤス at 08:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月22日

クリエイティビティ

AIに対する人間の強みはある種のいい加減さ、予測不可能性である、みたいなことを書いた。
それはただの個人的な思いつきであってちゃんとした確証があるわけではない。
ただよく言われるところの、クリエイティビティは人間だけのもの、というのが、どうもそうではないんじゃないかと思えてしょうがなく、クリエイティビティ以外の強みは何かないかなあと考えたまでである。

クリエイティビティとは「感動を作る能力」であると、とりあえず定義した。
そしてその「感動」というのは、人間だけの専売特許ではないと思うのである。

それは人間だけではなくて、ある程度大脳皮質が発達した高等哺乳類ならそこそこのレベルで持っているものだと思う。

感動というのは、キレイなもの、何かすごいものを見て驚き、かつちょっと恍惚とした気分になる、みたいな感情だと思う。
人間の感情にはそういうプラスの感情以外にも悲しいとか辛いとか恐ろしいとかいうのもある。
あるいは気持ちいいとか嬉しいとかいうこともあるだろう。

そういう感情の「正体」が一体何かということである。
これらのプラスの感情、マイナスの感情は、大脳が発達した高等哺乳類が持つ、ある種の記憶の補助機能なのだろうと思う。


なんかの木に生えている赤い実を食べたら、甘くて美味しくて感動した。
そうしたらその美味しかった感動とともにその「りんご」の赤い色や形をしっかり記憶にとどめておいて、次にりんごを見つけた時に備える。

反対に、黄色と黒のシマシマの猫の大きいやつにある時飛びかかられて間一髪逃げおおせたら、その「虎」の姿を恐怖の感情と一緒にしっかり記憶して、次回シマシマ模様を見かけたら一目散に逃げる。

そういう生存性強化のための記憶の補助装置として「感情」というものがある時生じたのだろうと想像する。
こいう記憶能力はカラスなんかもかなり優れていて、人間の顔もかなり覚えて個人識別できるらしいので、逆にカラスにも「感情」のような機能が備わっているのかもしれない。



とにかくも感情というのはある程度の哺乳類に標準装備の基礎的な機能であり、したがって感情の発動条件はかなりパターン化されている。
だからそれなりの基本知識を学習した人工知能であれば、人間を感動させたり悲しませたりするのに必要な「情報の合成」はお手の物であるに違いない。

実際最近の映画やテレビドラマでは、脚本を分析する専用のソフトがあって、ハリウッドあたりでは脚本をそれらの分析ソフトにかけて修正するというのが当たり前になっているらしい。

そのうち脚本の制作そのものも、あるいは映画監督やプロデューサーの仕事も人工知能に取って代わられることだってありうると予想する。
それどころか、あと数年もすれば映画俳優も全部CGになっていて、それが本物と見分けがつかないということになるだろう。
(すでに部分的には、CGの俳優は当たり前になっている)

そうなると企画・制作・出演が全部AI、という映画も遠からず実現する。
そうなった時の人間の役割が問題であり、ちょっと心配になるわけであるが、長くなったのでまた今度考えることにする。
posted by ヤス at 09:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月21日

AIに対する人間の強み

さてAI=人工知能の話も世間的にはいい加減煮詰まってきた感じもあるし、個人的にも若干飽きてきた面もある。
しかしこのところの将棋の藤井聡太四段の活躍で、わたしの中では再び興味が再燃してきた。

実際のところ将棋の世界でもしばらく行われていた「電王戦」、いわゆるAIと人間棋士の対戦は公式戦はもう終わっている。
これはつまりAIと人間の対戦はすでに決着が着いた、AIは人間を明らかに超えてしまったということなのかもしれない。

しかしそこに出てきたのが藤井聡太四段。
まるでAIのようにミスをせず、勝負どころで奇想天外の一手を打って敵を混乱に陥れるその棋風から、あるいは藤井四段ならAIに勝てるのではないか、という声もあるようだ。


究極的に考えると、将棋で人間がAIに敵わないのは確かである。
それは、将棋には論理的なルールがあるからである。
将棋が論理的なゲームである限り論理計算能力が人間よりはるかに高く、多分将来は今よりもっと能力アップするAIが人間に負ける道理はない。

しかし今のところ計算容量の関係で、AIも想定される手筋の全てを網羅しているわけではない。
パターン認識とか過去の棋譜のデータベースを参照して計算をかなりの程度端折っている。
その端折り方こそが将棋ソフトアルゴリズムの肝であり、ちょっと人間的な部分でもあるのだと思う。

このような前提で将棋対戦における人間のAIに対する強みを考えてみると、それは非論理的で想定外の奇手を打てること、なのではないかと思うのである。
ちなみにわたしは将棋は駒の動かし方くらいは分かるが、上級者の対戦を見ても何がどうなっているのかまったく分からない素人である。

だから「奇手が打てるのが人間の強み」なんていうのは素人の妄想に過ぎないのだけれど、調子がいい時の阪神・藤浪の荒れ球に名うての強打者がキリキリ舞いするように、予想外の奇手には人間棋士もAIも混乱するのではないか、という気がしてならない。


AIといえば、将来人間の仕事がAIに奪われるから人間にしかできないことを確立しないといけないという話がある。
人間の強みはクリエイティビティだから、みんな創造的な仕事を磨いた方がいいよ、という理屈になる。

クリエイティビティというのは「感動を生み出す能力」だと思っているのであるが、人間の感動はかなり論理的にプログラムされた定型的パターンであるような気がする、だからクリエイティビティはむしろAIの得意分野なのではないかという気がするのである。

むしろ人間の強みは、ある種のデタラメさ、いい加減さ、藤浪の荒れ球(ただし調子がいい時)のような予測不可能性にこそあるのではないか。
ここから先はまだ考えがまとまっていないので、またよく考えを整理して何か思いついたらまた書くことにする。
posted by ヤス at 10:44| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月20日

マクド、マルウェア感染

マクドナルドが少し大変なことになっている。
いや、ものすごく大変なことになっているのかもしれない。

16日未明に、システム障害が発生したらしい。
dポイントカードと楽天カードが使えなくなった。
しかしわたしは、その時はすでに面倒くさくてdポイントカードを出さなくなっていたので、そこは他人事だった。

それが昨日、1日ぶりにマクドに行ってみたら電子マネーのiDも使えなくなっていた。
昨日のニュースによると、マルウェアの感染による大量のパケットでネットワークがダウンしたということである。

しかもつい先ほど、店の奥の方からこんな声も聞こえてきた。

「ごめん、来月のシフト、手書きでお願いしまーす、ネットが使えないのでー」

だそうである。

多分問題はかなり深刻である。
マクドの場合全国の店舗は本部とネットワークでつながれており、POSレジデータがリアルタイムで本部に流れている。
それで現在の売上情報とか逐一本部で把握できているわけだが、そういうのも多分今はストップしているのだろう。
シフトとか社内メールとかあらゆるネットワークが止まっている。
月末をまたぐと仕入れ請求の管理やFCとの経理上のやりとりなんかも大変そうだ。
その場合、電卓片手に手書きでやることになるのだろうか。

システムのことはよく分からないけれど、PCの場合ならこういう時は電源ボタン長押しで強制終了し、再起動するに限る。
ひょっとしたら近いうちに全店一斉休業してシステムをシャットダウンすることになるのではなかろうか。

なかなか恐ろしい状況である。
マクド的にも当然ながらセキュリティ対策は行なっていただろうが。
マルウェアがどの経路から侵入したのか分からないが、ここはジタバタしないでお店を全休にして、根本的な処置を行った方がいいような気がする。

ネットワークやコンピューターシステムは、今や経営の絶対外せない基礎インフラになっている。
半分病んだ形でなまじ頑張ると、とんでもない二次被害三次被害が発生するリスクだってあると思うのだがどうなのだろう。
posted by ヤス at 09:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月19日

急がば回れ

今朝、セブンイレブンに寄って、本コーナーでいつものように雑誌類をパラパラ立ち読みした。
その中で、月刊プレジデントをパラパラめくっていたら、先日民進党を離党した長島昭久氏のインタビュー記事があった。
その記事の中の5〜6行くらいしかちゃんと見ていないのだが、その5〜6行の中にこんな趣旨のことが書いてあったと記憶している。


どこの国でも政権交代は10年くらいの周期で起きている。
日本の場合でも、民進党は本当は10年後を目指して腰を据えて取り組んでいかないといけなかったのだ、みたいなことである。


斜め読みで見たので内容を正確に覚えていないが妙に納得した。
わたしは長島昭久という人をよく知らないし、なんならそんなに好きなタイプの政治家でもないのだが、しかしセブンでちら見したその意見はまったく正しいと思った。

それはひとつには、戦後日本では政権交代の仕組みが機能したことがなく、というかその仕組みがまだ存在していないということなのだろう。
ひょっとしたらアメリカやイギリス並みの仕組みが出来るまでに、あと数十年要するのかもしれない。
それは、少し時間はかかるが政権交代の政治土壌が出来始めたということなのか、あるいはせっかくの政権交代の萌芽が途中で摘み取られてしまったということなのか、そこはよく分からない。

おそらくは前者であって欲しいと思うわけだが、しかし確かに今の野党第一党・民進党はやることなすことが短絡的であり過ぎるように見える。
蓮舫氏が代表になったのも、「とりあえず」選挙に強そうというのが主な理由だろう。
しかし今になって見ると、当初の思惑が裏目に出ているようである。

民主主義は多数派形成が正義ではあるが、しかしちゃんとした多数派を構築するには党内における政策的方向を時間がかかってもまとめていく必要がある。
そこのところが民進党はずっと寄せ集めで数のみを目指したために、結果として肝心の数が減っている。

別に民進党が必ず野党第一党である必要はないと思うが、しかし健全な民主主義のためにはちゃんとした野党第一党が必要なこともまた間違いない。



ところで今、中学生棋士の藤井聡太四段が話題だ。
テレビのワイドショーなんかでもバンバンとりあげられている。
そういう番組を観ていると、藤井四段は相手の心理まで見透かした老獪な将棋を打つというのをやっていた。

囲碁でも同じだと思うが、ここで打った手が何手か先でものすごく効いてくる、というのが将棋の醍醐味と思う。
最近の藤井四段の話題で、将棋の勝負における「急がば回れ」的な世界にあらためて気づき、面白いと思った。

ただ「急がば回れ」を勝負の現場で実現するには日々の研究の積み重ねと何より強い精神力が必要だろう。

それで「急がば回れ」というのは、伊達や酔狂で諺になっているのではないのだなあ、と今更ながら思うのである。
posted by ヤス at 14:10| Comment(2) | 徒然なるままに