2018年03月31日

スペックで物を買う

今のご時世、物を売るのが難しい時代であるのは言うまでもないが、そのなかでなんとか売って行く有効な方法として「スペックで売る」ということがある。
例えば最近は価格コムのページを覗くと、パソコンの比較一覧の中に「CPUスコア」なる数字が出ていて、これはパソコンの頭脳であるCPUのパワーがどの程度かを表すものである。
わたしは、まあ当分はパソコンを買い換える予定はないのだが、それでも最近のパソコンはどんなかなと思って価格コムで調べてみたりすることはある。

その時にCPUパワーの数字はなにげに気になる。
ひと昔前はパソコンのパワーはクロック数を見てなんとなく判断していたものである。
あの、1GHzとか2.5GHzとかいうやつである。
しかしいつの頃からか、CPUはコア数が、シングルコアが当たり前だったのが2コアになり4コアになり、最近は16コアとかいうのも普通に買えたりする。

そうなると単純にCPUクロックのGHzの数字が単純に大きいのが偉い、という話ではなくなってくるのである。
CPUの場合他にもキャッシュメモリやメインメモリの容量とかハードディスクやSSDのアクセススピードとか動作速度に影響を及ぼす要素はたくさんある。
だからCPUスコアの数字さえも、そのままパソコンの処理能力を表しているとは限らないのだが、複雑になったパソコンの速さの要素を一刀両断に表す数字としてはこれに頼るしかない。

そうなるとパソコンを売る側の気分としてCPUスコアはなるべく大きくしながら、メモリやハードディスクなど周辺要素をなるべく安手に仕上げて、高性能なのに安いパソコンとして、少し技術のことが苦手な人に売りつけようか、ということになっても不思議ではない。

現代の技術的な製品は、多かれ少なかれこのようなスペック頼りの売り方がかなり見られる。
スポーツカーなんかでも、その速さは馬力やトルクだけで決まるわけではない。
むしろ馬力が劣っていてもサスペンションやタイヤやボディ剛性などのトータルがほんとうは重要なのだろうが、そういう複雑な技術要素をトータルして評価し表現するのは至難である。
結局単純な馬力とか、ちょっと前に不正問題が話題になった燃費性能値などを前面に出した方が販売戦略上は有効ということになる。

そう言えば最近はデジタルカメラの画素数について昔ほど言わなくなった気がする。
デジカメ画素数は、本来は2〜300万画素もあれば実用上十分なのだろうが、今のデジカメは2千万画素とかが普通になっている。
それでかなり前、コンデジが30万画素から100万画素に向けて進化していたような時期には、画素数がうちは130万画素です、こっちは180万ですみたいにやっていた。
しかし画素数も行き着くところまで行くと、みんなそろそろオーバースペックの虚しさに気がついて販売戦略の重要手段でなくなる。
そのかわり今度は、連写がどうとかISO12800がどうとかになるのだが。

それでパソコンの話に戻ると、パソコンのCPUパワーの数字は買う立場ではものすごく気になるのだが、パソコンの本当の能力は、その「キーボードを叩く人間の能力」も全部トータルして考えるのがほんとうなんじゃないか、と身もふたもないことを思ったりする。
いやほんとはそっちこそが真の処理能力を表しているに違いないのだが、まあそれでもスペックで物を買うのは、止められないのでしょうがないのであった。
posted by ヤス at 15:02| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月30日

電話プレッシャー

そういえば、最近いわゆる固定回線の電話を使っていない。
たぶんもう何年も使っていない。
おそらく何年か前に、仕事先で行ったどこかの会社かなんかで、受話器を借りてしゃべったような記憶があるくらいだ。
わたしの場合固定回線を持っていないということもあるが、そもそも電話で人と喋るのが苦手なのでこれは必然である。

携帯電話と固定回線では、電話ということに変わりはないがその「電話プレッシャー」は固定回線の方がかなり大きいような気がする。
電話のプレッシャーと言えば、もう30年くらい昔、社会人になって勤め先で電話を取らないといけないことになって、まあそれは新入社員だから当然と言えば当然なのだが、誰だか知らない偉い人から電話が掛かってくるかもしれない恐怖に、毎日恐れおののいていた日々のことを思い出す。

会社の電話というのは、受話器を取ったらまず「ナントカ会社でございます」と社名を名乗らないといけないのだが、受話器を10回取ったうちの7〜8回くらいは「ナンヒャラカイシャデゴジュリマ、、、」とろれつが回らなくなる。
それでも電話してきた相手はわたしの舌が回っていないのにまるで頓着せずに、かまわず「ナントカさん今いらっしゃいますかー」とか畳み掛けてくる。

会社の電話を取る場合、自分の社名を名乗る以外に受話器を取った自分の名前を名乗る、みたいなルールもその後浮上してきて、電話を取った際のセリフ回しはますます長くなり、わたしの応答はますます不安定になったものだ。

あと、わたしは経験ないが、受話器を取った時に短いキャッチフレーズ的なセリフをさらに挿入してくるパターンさえある。

「はいもしもし、早い安いうまいでおなじみの吉野家の鈴木がうけたまわっております」

くらいのボリュームの長セリフが着信早々挿入されることになり、その時間は早口でがんばって3秒くらい、はっきり丁寧に発声していると5秒くらいかかる。
電話における3秒や5秒はほとんど永遠とも言える時間である。

これが携帯電話によるやりとりだと、たいてい着信相手の名前が表示されるし、慣れた人だと仕事の相手であっても最初の「名乗り合い」がまるまる省略できるのは朗報だ。
人生が電話のたびに3〜5秒も節約できることになる。
何より携帯の場合、その電話をかけてきた相手は自分に用事のある人と最初からわかっているので気持ちの準備とか、対処が容易である。
固定電話だと自分のまるで知らない用件をまくしたてられ、相手の名前も聞き取れずにパニックになる、そういう心配が携帯だとない。

30年前と違って携帯電話の行き渡った現代では、会社の固定電話宛に電話が掛かってくることもずいぶんと減ったのではないか。
もし今の時代にわたしが新入社員なら、昔よりもずっと電話プレッシャーは少なかったのだろうと想像する。
いや現代の新人さんたちはほんとうに恵まれているよなあ、と引きこもり傾向のあるおじさんは思ったりするのだった。
posted by ヤス at 14:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月29日

計画を立てる意味

人間は計画を立てる生き物だ。
特に現代人は何かにつけて計画を立てる。
どこかに旅行に行くのでも、何時に出発してお昼はどこで食べて何時にどこで何をして、と計画を立てる人がいたりする。

知り合いに、計画を立てるのが好きだ、と公言してはばからない人物がいる。
その人は仕事をやるのでも周到に計画を立ててから、慎重に行動に移す。
曰く、計画を立てると仕事が終わった感じがしてかなり気分が楽になる、らしい。

わたしは言うまでもなく「基本無計画」を生活信条としてこれまでやってきたので、計画を立てるのは苦手だ。
しかし計画を立てた時の少し仕事が進んだ感じ、はよく理解できる。
だがもちろん、冒頭に書いたようなきっちり計画を立てるような旅行については、あまりやらないタイプである。

わたしにとって旅行というのは無計画性にこそ意味がある。
おそらく計画をきっちり立てるタイプの人は、多人数旅行をする人なのだろう。
多人数の場合、みなが予定を共有し、次にどこに行くのかめいめいが理解している必要がある。
旅行計画を立てるのが好きな人は、みんなが納得するプランをどう作るか、そのところに情熱を燃やす人なのに違いない。

わたしの場合、旅行は基本一人で行くもんだと思っている。
一人だからこそあっちへふらふら、こっちへふらふら、風に流される糸の切れた凧のように、自由に飛び回れるのである。
複数人数で連れ立って旅行している場合そうはいくまい。

ところで会社の場合もたいていいろんな計画を作って経営している。
これは、やっぱり会社もその内外に組いくつもの織や個人がたくさん関わっているので、何か重大な行動を実行する前にその意図やご利益について関係者の合意を得ておく必要があるからだ。
だから大きい会社ほどいろいろと計画を立て、計画進行中はその実行度合いがどんな具合か適当なタイミングで報告しないといけない。

その点個人でやっている気楽な商売の場合、そういうわずらわしいことが不要なので、気ままにふらふらとやっていくことができる。

計画というのは、たいてい計画通りにいかないものである。
それは計画実行者の怠慢が原因のこともあるし、過去に予想した「現在」の状況と、実際に現在になってみた時の現実がたいていはかなり違っていることが原因である。
だから計画進行にともなって少しずつ軌道修正が加えられて進められたりする。

そのように考えると、計画の意味の中心は計画が計画通り進むことよりも、むしろその実行前に関係者の合意や納得を得ることだったりするのかもしれない。

その辺が、わたしが計画を作るのが苦手な原因かもしれない、とちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 10:56| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月28日

単調作業の苦痛

単調作業というのは退屈である。
昔、中学だったか高校だったかの頃、おそらく国語の授業においてに違いないのだが、何かの罰で漢字を200字も300字も書いてくる宿題が出たのを思い出す。
漢字テストの罰ゲーム的なアレだったのかもしれない。
「お題」の漢字をひたすら書く。
まあ言ってみればそれだけのことだ。
何かの漢字を1000回書いたってそれに掛かる時間というのはたかが知れている。
たぶん1時間もあれば1000字くらい書けるのではないだろうか。

しかしわたしにはこの罰は非常に効いた。
何かの文章を1000字分書くのより、漢字1字を300字くらいひたすら書かされる方がものすごく単調感があってつらい。

しかし同じ漢字をくり返し紙に書くだけのことが、なぜあんんなに苦行だったのだろうかと、今考えると少し不思議だ。
ひとつには、紙に字を書くのがもともと苦手だったのがあるかもしれない。
今でも紙に字を書くのは、それが20字くらいの短いものでもものすごく面倒くさい。
字を書くといっても、他人に提出するものはちゃんとその他人が読めるように書かないといけない。
よく考えると自分が書いた字は他人が読めることによってコミュニケーションが成立する、それが字の元々の効能である。

しかし字を丁寧に読めるように書くというほど面倒くさいこともない。
おかげさまで現代では電子的な筆記ツールが発達し、手書き文字の苦痛からかなり開放されている。
ただそれでも市役所に出す書類とかクレジットの契約書とか、細かい字を延々と書かされるのがあって辟易する。

話を、漢字を続けて書くことの苦痛に戻す。
くり返し書き並べられた漢字の文字列には、当たり前であるが文章的な意味はない。
漢字をひたすら書き連ねるというのは、意味のない文字列を生成する所業であり、そこには何の想像もクリエイティビティもない。
こういう時は心を無にして、機械のように鉛筆を持った腕を動かすしかないのだろうが、わたしに的にはそれは非常につらい。

何かの本で読んだと思うが、一定のリズムで単調な作業をしている時、人間の脳の中ではセロトニンという精神安定物質が出てくる、ということがあるらしい。
特に良いのが散歩やジョギングで、これを20〜30分も続けていると心が落ち着いてくるというのである。
あるいは人間というのは、他の動物なら嫌がる単調作業に耐えられることによって劇的進化を遂げた面があり、単調に耐え得ることが今日の文明社会を築き上げる基礎にあるのかもしれない。

それにしてもだ。
単調作業はわたしにはつらい。
特に紙に字を書くタイプの単調作業は今後も御免こうむりたいと思っている。
posted by ヤス at 13:00| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月27日

ペーパーレス

書類の束というのは、知らない間に溜まる。
ほんとうに、放置しておくとそのうち家の床が抜けるのではないかというくらいの量が溜まるので、適当に「間引き」しないと家が持たない。
間引きのコツは、毎日少しずつやることである。
まとめてやるとすると新聞をチリ紙交換に出すみたいに紙の束を紐でくくって、みたいなことになるので、そうではなくて少しずつシュレッダーにかけてコツコツと粉砕していくのである。
シュレッダーで粉砕すると、それまで頑強で凶悪だった紙の束がふわふわの感じになるのでゴミ袋に放り込むのにも都合が良い。

「ペーパーレス化」ということが叫ばれ始めて久しい。
なんとなく紙の使用量は減っているような気がしなくもないが、しかし気がするだけで実際には昔とそれほど変わらないのかもしれない。
統計データによると、国内の紙の生産量ピークは2006年頃だったらしい。
それでリーマン・ショックの2008年以降に大きく数量を落としてその後は毎年少しずつ減っているそうだ。
紙の種類で行くと、ペーパータオルなどの衛生用紙とAmazonなどの影響で需要増が続くダンボール紙はかなりの勢いで増加している。
減っているのは新聞用紙と印刷用紙である。
一方で「情報用紙」、いわゆる「コピー用紙」はそれほど減っておらず近年でも年によっては増えたりしている。

何のことはない、書籍と新聞の売上縮小ならびに景気動向の影響が大きいのである。
最近コピー機メーカーの業績が振るわないという話をたまに聞くけれど、これはペーパーレス化によるコピー枚数の減少というよりは、競争激化などの影響のようである。

そういえば、個人的には紙の書籍を買うことがめっきり少なくなった。
どうしても読みたい本でKindle版が出ていない場合だけ紙書籍を買うので、書籍が増加して本棚がパンクするという事態がまったく無くなった。
しかし仕事用のコピー用紙の束はあいかわらずである。

だから個人的には書籍に限ってはペーパーレス化が進み、その恩恵を少々受けている。
まあそういう意味では進んでいないと思っていたペーパーレス化が、ある面では確実に現実化していたわけである。

最近はスマホカメラの性能が上がったのでこれで書類の写真を撮ると十分明瞭に「複写」が出来る。
なんなら撮影時の歪みを補正してPDFに変換してくれるスキャナアプリもある。
しかし多くの人類は液晶画面の心なし向こうの方に佇むデジタル画像よりも、ちゃんと手に持った感触のある紙が好きな人が多いようである。

この間も、仕事先で書類のコピーが要ることになってスマホで撮って帰りますと言ったら、わざわざコピー機で複写してくれた。
わたしはその書類をスキャンして電子化し、間もなくシュレッダーにかけた。
ペーパーレス化が十分な実感として感じられるにはまだもう少し時間がかかりそうだ、と思った。
posted by ヤス at 13:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月26日

人類の 人類の連想機能

昔NHKで「連想ゲーム」という番組があった。
もう大昔の番組なので詳しいルールは忘れたけれど、2組に別れた解答者たちが、お題に沿っていろいろな言葉を連想していくやつ。

しかし連想というのは、考えてみると面白い現象である。
何かの物体を目撃すると、関連するイメージが脳内にスルスルと自然に湧き上がってくることがある。
あるいは梅干しを見ると唾液が分泌されてくる。
ムカデを目撃すると、過去に刺された痛い思いが蘇る。
ある程度人生経験を経た人間は、世の中のいろんな物体や現象に対してさまざまな体験を保持している。
世の中の物体や現象に際して、それらの過去の体験が想起されるのは高騰哺乳類の学習機能の為せる技であろう。

人類の場合、過去の記憶想起が他の動物に比べるといくらか詳細かつ正確になっているようでもある。
もしわたしに備わっているこの自動連想機能が今から突然スイッチオフなったと考えるとどうなるか。

辛いものが苦手なわたしはあらかじめ辛いのが分かっていながら何の気なしに激辛カレーを口に含んであまりの刺激にむせ返ることだろう。
眼の前にムカデやスズメバチがうごめいている時、彼らの危険性を記憶回路から引き出すのに数秒の時間がかかり、とっさに避難できずに刺されて痛い目に合うかもしれない。

またわたしはさっきカップにフィルターをセットしてコーヒーを淹れたわけであるが、その時にドリッパーやフィルターをどこに置いてあったかとか豆は冷蔵庫にあるとかいうことを意識して思い出したわけではない。
ほとんど自動的に手が動いてそれらの物品を取り出してセットしいつの間にかコーヒーが一杯出来上がっていた。
自動車の運転なんかでもそうだけれど、右手をこう動かしたら次に左手をどう動かすとか、日常的に行う動作は一連の手順が次々と自動的に想起されて、いちいち意識して思い出す必要がない。

連想機能というのは「自動的に」想起されるとうのがポイントで、自動であることで意識的に思い出す時に必要なタイムラグを短縮し、危険の回避やスムーズな動作が行えるようになっている。

ただ人類の場合この連想機能が必要以上に動作して邪魔になることがあるようで、重要な仕事をしている最中にふとしたきっかけで連想された別の事象によって脳内が占拠され、重要な仕事がぷっつり進まなくなるということがたびたびある。
いわゆる「気が散る」というやつである。

わたしは自慢ではないが、よく気が散る。
しかし考えてみるとよく気が散るのは、人類の高度に発達した連想機能が人並み外れて優れている結果である、そういうことが確実に言えるのではないか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 14:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月25日

違和感に繊細になる

スポーツの世界で「違和感」という言葉をよく聞くようになったのはいつ頃からだろうか。
違和感は、痛いのでもなく動かせないのでもないけれど、いつもと違う感じ。
昔なら無視されていた感覚だと思うが、予防的な観点からは無視せずちゃんと対処した方が、結果として故障離脱の機会ロスを減らすことが出来るということなのだろう。
そういうことでは、違和感にはちゃんとした医学的な実態がある。
素人的には、違和感と聞くと何かサボリの口実なんじゃないかとか、いろいろ勘ぐってしまうわけであるが、プロアスリートは自分の体の感覚には超人的に敏感な人々なので、ひとくちに「違和感を感じる」と言っても、そこは素人とプロではそのレベルが違う。

日頃から身体と対話しながら厳しいトレーニングを続けているプロアスリートというのは、マッサージをしてもらう時も「大腿四頭筋の右から4本目あたりを重点的にお願いします」みたいな感じで、自分の身体の奥の奥まで感じ取りながら日々過ごしている。
プロアスリートが自分の身体に感じる違和感には、素人の想像からするとずっと詳細でちゃんとした根拠がある。

ところで、違和感と言えば我々一般庶民も、のんびりした日常の中で違和感を感じる。
それは体調面に関する違和感もあるし、自分の外側、例えばいつも通る四つ角にあった建物がある日解体されて無くなっていて、数日ぶりにそこを通る時に「あれ」と思うことなどである。
そういうたわいもない違和感は別にどうということもないわけだが、仕事をしている時に感じる違和感、例えば文章をタイピングしている最中に「ところで」をローマ字打ちで「tokorode」」で打ったつもりが、違和感があって見てみると「tororode」「とろろで」と打っている、みたいな場合がある。
このような違和感は、タイピング効率の向上にわずかばかりだが貢献しているわけだ。

あと、今思い出したのだが、40年以上も昔は日本の田舎には「外人さん」がほとんど歩いていなくて、子供の頃じいちゃんと街で白人の女性を見かけた時にじいちゃんが、「ほれ外人さんが歩いとる」と言ったりしていた時代もあった。
日本人の好奇の視線にさらされる「外人さん」には迷惑以外の何物でもなかったろうが、街に外人さんが歩いていると思わず違和感のある時代が、昔はあったのである。

違和感というのは、それに気付くことによって小さい違和感が大事に至らないようにするという意味で、非常に重要なものなのだろうと思う。
そういう点で違和感があると、人間の深層心理には不快感とかわずかばかりの恐怖の感情が芽生えるのかもしれない。
その負の感情が、感じた違和感に注目を向けさせる。

しかし世の中には対処が必要な違和感と、無視すべき無害の違和感とがある。
違和感は、時に人種差別やLGBT差別の原動力にもなったりする。
我々はその部分ではプロアスリートに習って、違和感に対しそれなりの繊細さを備えた方がいいのだと思う。
posted by ヤス at 15:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月24日

ペットと擬人化

ネット世界における人気コンテンツのジャンルとして「ペットネタ」がある。
主には犬と猫が主役で、たまにハムスターとかコツメカワウソとか爬虫類系とか変わったやつも出てきたりする。
最近、猫の飼育頭数が犬を抜いたのが話題になったけれど、ネット界隈の猫人気は犬をかなり上回っているようにも見える。

犬と猫は、一般には人間との接し方が対照的とされ、犬はあくまで人間に対して一貫してフレンドリーであり、飼い主に対する無上の愛情表現が特徴である。
対する猫の方は気まぐれでマイペースであり、しかし時に突然膝の上に乗ってスリスリしたり、そうかと思えば床に転がっている小さいダンボール箱に無心で潜り込もうとしたり、行動や表情のバリエーションがやや大きい。
そういうところがネットコンテンツとして幅広い人気を獲得する秘訣なのであろう。

ところでペットと言えば、ソニーのAIBOに代表されるペット型ロボットというのがある。
AIBOは初代からイヌ型ロボットであるが、ネコ型AIBOというのは出たことがない。
ネコ型AIBOが出ていない理由は判然としない。
「動きモノ」にどうしても反応してしまうとか、穴があったらどうしても入ろうとするとか、そういう猫のサガを表現したペットロボットが出ればさぞかし人気になることだろうと思う。
しかし猫の得意技である、高いところにひょいとジャンプするとか、キャットタワーにスルスルと登っていくとかいう猫特有の高い運動性能を現代のロボット技術で再現するのは至難であろう。
そこのところの技術的ハードルでソニーはネコ型AIBOを作らないのに違いない。
というのはあくまで個人的想像である。

わたしが考えるに、多くの人間がペット好きなのにはある理由がある。
それは飼い主はペットを、姿の変わったヒトだと感じていること、ということである。
いわゆる擬人化である。

そもそも人間はなんでも擬人化して考える癖がある。
動物ですらない、変な形のニンジンを見て「おっ、これは人間だ」と思ったりもする。
犬や猫ならなおさらである。
しかし当の犬や猫は我々人間をどう見ているのだろう。
例えば犬は、人間のことを「擬イヌ化」して見ているのではないか。
「この二本足で歩く毛の無いイヌは、電柱があってもマーキングしないけどなんでだろうね」
とか思っているのかも知れない。

猫に至っては人間のことを「擬ネコ化」すらしておらず、ただの便利な「美味しいキャットフード供給装置」ぐらいに思っているのではないか。
ネコが時おり人間に見せる媚態は、その人のことを好きなのであるというよりは、そうした方が「餌の出」が良くなるからがんばっているのに過ぎないのではないか。

なんにせよ、ヒトの方は犬や猫と気持ちが通じたと思って喜び、犬や猫は便利な餌供給装置をどう刺激すれば餌の出がよくなるか日夜工夫を重ね、それによってWin−Winの関係が出来上がっているのなら、まあけっこうなことかもしれない。
posted by ヤス at 15:00| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年03月23日

言語化して教える

人にものを教えるのはなかなかむずかしい。
まず、教える側の人は、教える内容についてよく理解していないといけない。
あたりまえである。
この場合の「よく理解している」というのはどういうことなのだろうかと、ちょっと考えた。

で、ひとつには、教える内容についての「言語化」があるように思った。
何をどうすればそのことが上手くいくか、それをちゃんと言葉で説明できるのは重要である。

最近はスマホでも動画が撮れるし、何かのスポーツの指導でも、例えばマラソンの「良いランニングフォーム」を指導するのに動画でお手本を見せて「こんな感じで走ってみましょう」みたいな方法もある。
それはそれで有効な方法だとは思う。
特に身体の動きを指導する場合、教わる人の頭の中に理想の動作イメージが出来ていた方がいいに決っている。

しかしここで問題なのは、教わる人が理想の動きのイメージを脳内で再現したとして、そのイメージ通りに身体を動かすことが簡単に出来るのか、ということがある。
たいていは出来ないものである。

たいての人の「身体操作能力」は未熟なので、つまり右手をイメージ通りまっすぐ横に上げるとか、斜め45度に上げるとかいうのが、簡単でない。
まっすぐ上のつもりが10度くらい横に傾いていたりするのが普通だ。
優れたスポーツ選手はこの身体操作能力もやはり優れていて、頭で描いたイメージを正確に自分の身体で再現できる。

わたしは昔水泳をやっていて、ハンディサイズのビデオカメラというのが世に普及してきた頃に自分のフォームをビデオで撮ってもらって初めて観た時の衝撃は忘れられない。
まず自分が思い描いていたイメージとまるで違う。
第三者的な観点からは、あああの有名選手の泳ぎをイメージしているんだろうなあというのがほんのり伝わってくるようでもあり、ただ筋力も柔軟性も有名選手とは違っているので当然ながら泳ぎの効率やスピードは全然違う。

例えばバタフライにおける上半身と下半身の動きのタイミングなんていうのは、イメージ通りに再現出来ないことの典型であったりする。
こういう場合は、やはり言葉を使って「脚の打ち下ろすタイミングは水を掻く手が胸の下を通過するちょうどその時」とか、動作ビデオを見せるより言葉で説明した方が再現しやすい場合が多い。

何かを教える時に言葉を使って行うというのは、考えてみると、今のところ人間だけの特技である。
ということは「言葉以前」と「言葉以降」では人間の他人を教える能力はものすごく進化している。
人に教えたいことを言語化出来る能力は、人類にとってかなり中核的な能力のような気がする。
posted by ヤス at 13:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月22日

公文書改ざん疑惑に関して

今回、森友問題にからむ公文書改ざん疑惑問題で、安倍政権にはたいへんな逆風が吹いている。
この逆風で政権に大きなダメージがあり、あるいは退陣までいくのかどうか、そんな感じにもなっている。
野党としては勢いづいてここで一気に政権追い落としまで運ぼうと意気が揚がっているように見える。

ところで公文書改ざん問題は、権力による行政への介入疑惑や権力への忖度による不公正が与党対野党のつばぜり合いのネタになっているわけだが、この問題の本来は、公文書の意義とか権威がものすごく揺らいでいる、信頼を失っているという点にあるのは言うまでもない。

現在、与党側の立場では主要な責任は財務省にあるとしており、野党側は、問題の根本は政権与党にあるとしている。
この場合、与党的には財務省の上の方の何人かを処罰して問題を終わらせたい。
そして野党としては政権の関与を明確にして政権に責任を取らせたいと考えているのだろう。
現在財務大臣は引責辞任を否定しているが、どのみち責任を取らないと理屈が合わないような気はする。

ただいずれの場合でも改ざんを行った「現場の実行者」に何らかの処罰があるかというと、そこのところはよく分からない。
あるいは現場の担当レベルは特にお咎め無し、もしくは省内でひっそりと譴責とかの処罰があって詳細を公表されずに終わる可能性もあるのではないか。

現在世論の風潮としては、忖度を通じて行政に無理強いする政権側に問題あり、財務省はその被害者という図式が出来上がりつつある。

ただ政権の関与を明らかにするのはもちろんだが、本来の問題、公文書の信用問題の回復についても今回を機に徹底的に改善する必要があるのではないか。
どうも日本の風土では、公的情報の取扱がおざなりにされがちである。
陸自の日報問題とか、厚労省の年金記録の問題とか、思い出してみると日本の行政における記録の取扱の無残さがものすごく目立つ。

もし今回、前述のような図式で与党の思い通りに着地するにせよ野党側の勝利に終わるにせよ、財務省は被害者であり改ざんを強要された現場には何の罪もない、ということで終わるとしたらどっちにせよ「財務省の勝利、官僚の勝利」であることは間違いない。
このような図式を財務省は最初から意図して作り上げたのかどうか知らないが、もし意図通りに世間が流れているのだとしたらこの国の官僚機構の恐ろしさを感じる。

例の自殺者にしても、ほんとうは財務省内の圧力で追い込まれたと見ることも出来る気がする。
これを機に日本の公的情報管理が正常化すること、世論がその視点を忘れないでいることを祈るばかりである。
posted by ヤス at 12:40| Comment(2) | 徒然なるままに