2017年10月27日

とりあえずぶっ込む

確かあれは明石家さんまだったと思うけれど、お笑い芸人に大事なことは、なんか思いついたらとりあえず勇気出して言ってみること、って言っていたのが何となく記憶に残っている。
ひょっとしたらさんまちゃんじゃなくて別の芸人だったかもしれない。
それはともかく、お笑い芸人の「とりあえずぶっ込む」感じが大事というのはなんか面白いなあと突然思った。

お笑い芸人は大勢のお客さんの前に立って面白い芸を披露するわけだが、当然毎回ウケるわけではなく、ややウケの時もダダすべりの時もある。
世に出ているお笑い芸人というのは、すべった時の腹の据わりようというか、ウケなくても微塵も動揺しない感じ、がひとつの資質条件としてあるような気がする。
素人芸の場合、客のウケを探り探りやる感じやすべった時の「しまった」が顔に出る感じが場の空気をますます冷やしてどんどんドツボにはまる。

「良い芸人」はちょっとやらかしたとしても、その失敗から瞬時に切り替えて何事もなかったかのように次のネタを繰り出す。
その辺の感じがある種の安定感になり、安心してみていられる心地の良さにつながるような気がする。
まあ芸人にそのようなハートの強さが必要なのは今さらいうまでもないことだ。
しかしすべるのを恐れずにとりあえずぶっ込むというのは、お笑いの世界に限らず、ある意味人生の本質でもあるように思われる。

お笑いの場合、がんがんぶっ込んでいかないと芸として成立しないということがあるわけだが、普通の人々の人生の場合は、遠慮したり空気を読んだりしてそっとその場をスルーすることがどうしても多くなりがちである。
やっぱりがんがん行っているとどうしてもそのうちかなりの確率でダダすべりが発生し、気持ちが落ち込んだりすることが多くなる。
その精神的ストレスを考えると多くの人の人生はどうしても遠慮がちなものにならざるを得ないわけであるが、逆にストレスに耐えられる人はそこを乗り越えられるだけの強い動機づけがあるということなのだろう。

よく野球は失敗のスポーツであると言われ、またサッカーもシュートを10本くらい放ってやっと1点か2点取れる、たいへん失敗の多いスポーツである。
あるいは将棋の世界にも「悪手の海を渡る」みたいな言葉があって、将棋というのはいかに相手の悪手につけ込むか、自分の悪手をリカバリーするかが大事というゲームらしい。

人の人生においては、成功体験よりも失敗体験の方が圧倒的に多いと思うわけで、失敗に対する対処、そこからの切り替え、そしてその精神的ダメージを積極的に乗り越えていく動機づけが大切だと思ったのだが、じゃあどうすれば失敗に強くなれるかということについては、またちょっとゆっくり考えてみようと思った。
posted by ヤス at 13:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月26日

フェイクニュース対策

フェイクニュースがいろいろと問題になっている。
フェイスブックやツイッターなどのSNSやニュースサイト運営会社なども人工知能を使った対策に乗り出したりしている。

自分なりに考えると、フェイクニュースにはいくつかの種類がある。
典型的なやつは最初から「フェイク」の自覚を持って作られ流布された明らかな偽ニュース。
これらの大半は、知られているいくつかの事実を土台にして、その上にまったくの想像ででっち上げたフィクションをあたかも事実のようにニュースに仕立てる。
ニュース内容のほとんどが「記者」の頭の中だけで作られているという点ではわりかし分かりやすい。

しかしフェイクニュースには別のパターンもあって、それは基本的に取材に基づいて書かれているのであるが、記事作成の段階で内容の方向づけが意図的に捻じ曲げられているもの。
どこかの人物にインタビューして、そのインタビューに基づいて記事を書くのだが、その時に聞き取った内容を適当に切り取ったり言っていないことを付け加えたり言い回しを勝手に変えたりして記事の内容を都合の良いように変えてしまう。

大まかに、フェイクニュースはこのふた通りがあるように思う。

前者のフェイクニュースは、あるいは人工知能をフル活用することであぶり出しが可能かもしれない。
そのニュースに記載の事実が現実のものかどうかを他の情報源に当たって検証するようなアルゴリズムを組むことができれば、おそらく近い将来に事実無根のフェイクニュースに関しては相当程度撲滅が進むような気がする。

しかし問題は後者のパターンだと思う。
それなりの手続きを経て作成されていながらも、必要以上に記事作成者の意図が入り込んでいるものについては、なかなか一律的な対策は難しいと思う。

そもそも世の中のニュースというのは、程度の差こそあれ記事作成者の意図が何らか入り込んでいるものだ。
逆にいうと、何らかの問題意識があるからこそニュース記事は作成され流布されるわけであり、そういう意味では「意図のないニュース」というのはあり得ないものである。
歪んでいたり過激であったりする「危険思想」に基づいて事実が書き換えられているようなわかりやすいパターンなら、あるいは何かの規制も可能かもしれない。(ドイツのナチズム規制みたいに)

しかしあまりやり過ぎると思想信条の自由に触れるから難しい。
対策として唯一有効なのは、ある事実に対して一方向の記事だけでなく反対側の見方も含めた多角的なニュースを参照して読み手が判断することに尽きると思う。

結局のところフェイクニュースは、「自分の読みたい記事」を読みたいという読者側の「心の弱さ」につけ込むものなので、最終的には読者側のリテラシーが最後の砦だと思うのだが、昨今のフェイクの流行りようを見るとこれはなかなか難しい問題だなと思う。
posted by ヤス at 09:45| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月25日

ジジイの自覚

そろそろコンビニなんかではクリスマスケーキの予約が始まっている。
ということで、いつの間にか今年もそろそろ終盤戦である。
まったく、月日の経つのは早いもので、ということを何十回か言っているうちに人間は寿命が尽きる生き物のようである。

確か中学生の頃、西暦でいうと1980年頃に考えていたことをふと思い出した。
その頃は「ノストラダムスの大予言」が流行っていて、1999年に地球が滅亡するらしいというのを半分冗談ながら友だちと語り合っていたものである。
それでよくよく計算してみると、1999年のわたしはとうに30歳を超えていることが判明して、その時に予想した30歳代の自分というのがひどくジジイになっているように感じたのを思い出した。

その後実際に1999年を無事迎えたけれど、現実の30歳代は中学時代に思っていたほどジジイではなかった。
そして40歳代も過ぎて、時々周囲に対して「ジジイになった」と弱音を吐いて見せているが、しかし実のところそれほどジジイになった自覚はないのである。

これはひとつには、30年くらい昔の40代50代のオジサンと現代のオジサンでは、現代の方がかなり「若づくり」になっているということがある。
医学的にもライフスタイル的にも現代人はかなり若返っているようであり、今の自分を見た時に昔想像したのより案外若いな、と思ってしまうのかもしれない。

しかしそれなりに歳を食った自分がそれほどジジイに思えないことの根本的な原因は、ジジイの程度が常に自分を基準に判別されるところにあるのは、まあ当然のことである。
ジジイの基準そのものが年々歳を食っていくのだから、その基準を元に判定される自分のジジイの程度があまり進行しないのは道理なのだ。

しかしこの感覚は、この先もずっと続くものなのだろうか。
さすがに70歳80歳になったら、身体的にもそれなりにやれて、脳みその方も適当にボケて、ジジイになった自覚がはっきりしてくるのだろうか。
そこのところが少し気になる。

しかし歳を取ると確実に感じるのは、どちらかというと1年が過ぎるのがどんどん早くなることの方かもしれない。
1年歳を取るごとに、1年の比重は確実に数%ずつ小さくなっていくのを感じる気がする。
ということで、正月からクリスマスまでの年中行事の回転が年々早くなっていく感じがして、そう感じているとやっぱり自分はジジイになったなあと思う、今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 11:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月24日

「狂」の字の由来

もう故人であるが、白川静博士といえばその道では有名な「漢字博士」である。
その白川博士が編纂した「常用字解」という、「漢字」の一文字一文字についてその成り立ちを解説した辞書が、なぜか我が家に転がっている。
それで、その常用字解でたまたま「狂」の字のページを開いてみたのである。


この数日、わたしは「狂」について少々考えることがあった。
なぜかはよく分からないのだが、ひとつには先日の衆院総選挙の喧騒がきっかけだったような気もする。
ほんとうに、選挙に出る先生方というのは一般ピープルから見るとかなり狂の側に寄っているように思われる。
一部の候補者では自身のスキャンダル騒ぎで当選が危ぶまれるところ、ドブ板選挙のお詫び行脚を展開して受かった人もいるし落ちた人もいる。
一般的感覚だと引きこもりになってもしょうがないような状況でも、群衆の前に立ち、またテレビのインタビューでキャスターの意地悪な質問に応えるというのは並の心臓で出来ることではない。

しかし選挙に限らず、普通の感覚を大きく飛び越える、常識的判断をジャンプする蛮勇というのは、あらゆる人々の人生において、時に必要なことかもしれないと思ったりもする。

今年のAKB総選挙で20位に入り、そのスピーチで結婚宣言をしてファンのみならず世間を騒がせた元NMB48の須藤凛々花は、哲学者ニーチェの言葉を引用して「人生を危険にさらせ」というのをよく言っている。
人生は安全パイだけでは乗り越えられない局面があり、より安全になるためにはこの身を絶体絶命の危険にさらさねばならないという、究極的にパラドキシカルな状況というのがありうる。
そういう状況を乗り越えるにはいったん狂ってみる、世間的常識や自身の安全を一回全部放棄してみるということが必要ではないか、そういうことを最近時々思うのである。



それで「狂」の字を白川博士の常用字解で引いてみると、この字は、昔の王様が遠方に使者を出す時に使者に力を与えるために「まさかり」の上に足を置くという儀式をやっているカタチが元であるらしい。
この儀式を通じて使者は常ならぬ力を授かり、文字通り命がけの困難な使命を果たす。
つまり使者はこの時に「狂う」のである。

少なくとも漢字の成り立ちとして「狂」の字にそういう意味が込められているというのは、かなり新鮮であった。
この辞書はたまにしかページを開かないので10年以上前に買ったのにいまだに新品のように綺麗であるが、たまに開くと面白いことがあるなあと思ったりしたのでした。
posted by ヤス at 15:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月23日

選挙における認知と人気

さて、台風が心配された総選挙もなんとか終わった。
選挙の結果については人によっていろいろな考え方があると思うし今回はあえて触れない。
今考えているのは選挙とは何か、ということである。

選挙といって思い出すのは「AKB総選挙」である。
本家本元の衆議院総選挙とAKB総選挙は当然まったく異質のものであるわけだが、しかしある部分については当然ながらかなり共通している。
それはファンや支持者からの票を集めた人が勝つ、という点である。
少し言い方を変えるとファンや支持者の人数が多い人が勝つのだ、とも言える。

わたしはこの間から、絵本作家でもある炎上芸人・西野亮廣の書いた本を読んだりしている。
西野亮廣によると、これからのタレントは「人気タレント」にならねばならず、従来のテレビタレントのタイプである「認知タレント」のままであってはならないと説く。
彼によると認知タレントというのは、テレビにたくさん出ていて有名で好感度の高いタレントのことであるらしい。
そのような認知タレントは、有名で好感度が高いのでテレビ番組からの需要が高い。
同様の理由でCMに起用されることも多く、テレビやCMにバンバン出ることによって認知タレントとしての地位をどんどん固めていくことができる。

しかし、である。
そういう認知タレントが一旦不倫騒動やらのスキャンダルに見舞われると、一気に好感度が下がりその地位を失う。

認知タレントの弱みは、彼・彼女がもっぱらスポンサーからのお金に頼っていることである。
テレビ番組の制作費やタレントのギャラはスポンサーフィーに頼っていて、視聴者は番組やタレントに対して直接お金を払っている訳ではない。

AKBが画期的だったのは、認知タレントが大部分を占めていた芸能界に「人気タレントによるダイレクト課金」の仕組みを組み込んだことなのである。たぶん。

そしてインターネット的な仕組みがそこそこ発展した現代においては、必ずしもテレビに出なくても、ユーチューブやショールーム、ニコ動などネット配信番組とかでタレント一人養うくらいの収入を得ることは決して不可能ではない。

そういう「人気タレント」型のビジネスモデルは、ネット以前にも、ミュージシャンや芸人ならライブをやったりするやり方がすでにあった。
あるいは街の個人飲食店なんかも、どちらかというと固定のファンによる「人気タレント」型のモデルが当てはまるところが長続きするのだと思う。

そして衆議院の総選挙は、そもそもずっと「人気タレント」モデルでやっていたわけである。
「認知度」が物を言う比例区というのもあるが、しかし選挙区選挙には認知度はそれほど役に立たず、候補者が、彼・彼女の属するコミュニティにおいてどれだけ名前も顔もある「支持者」を固定できているかが勝負だったのだ、と今さらながら思う。

今回、スキャンダルで落選した人もいれば逆風をはねのけて当選した人もいた。
それはその辺のところに原因があったのであろう、とあらためて思ったのだった。
posted by ヤス at 15:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月22日

見た目の影響

人の見た目は人生にどれくらい影響するのだろうか。
野生動物の場合、例えば体の大きさ、そういう見た目の違いは彼の人生にそれなりの影響を及ぼすのだろう。
体が大きいと天敵に襲われる可能性も多少減るだろうし、ケンカをしても強いのかもしれない。
だから餌を余計に食べられたりするかもしれないし、異性の興味を小さい個体よりも余計に惹くのかもしれない。

人間の場合は見た目の違いは野生動物よりやや複雑で、単に大きいとか小さいとかの話にとどまらず、美しいか美しくないかというような質的な見た目の違いがより重要である。
しかも孔雀のオスの羽根が綺麗とかいう分かり易い美しさというより、顔面の目鼻立ちの配置とか全体的な雰囲気であるとか、より微妙な項目が問題になったりする。

それは要するに、見た目の微妙な差異を受容する人間の認知能力もまた微妙である、ということなんだろうと思う。
また人間の場合、生まれつきの顔つき体つきというよりは、成長するにしたがって「身についていく」ファッションセンスとか女性であればお化粧の方向性によって見た目がかなり変わる。
そして人間の見た目は生まれつきの見た目よりむしろ後天的に、本人の趣味によって決定される要素がかなり大きくならざるをえない。

また40歳過ぎたら男は自分の顔に責任を持て、みたいな決まり文句があるけれど、人の表情というのはその人の人生の軌跡がちょっとずつ刻み込まれている、というのはたぶん確実だと思う。
だからその人の生き様が顔の表情にどうしても表れる。

ということで見た目がその人の人生に影響を与えるということも当然あるし、人生の軌跡が人の見た目にフィードバックされるという逆の要素もあることが分かる。

ここまで考えてくると結論としては、人間というのはおそらく、他人の見た目にまったくの無関心でいることは出来ないのだと思われる。
そして実際、人間は、目の前にいる人の「見た目」を見て、いろいろなことを感じているに違いない。

そして人間は、ファッションやお化粧で自分の見た目をコントロールするところにはかなり意識的であるが、「人の見た目を感じている自分」については、案外無意識的なのではないかと思うのである。

人の見た目を見ていろいろ思う自分、というのにもう少し意識を向けると、その後の自分の行動が少し違ってくることがあるのではないか、ちょっとややこしいがそんなことを少し思ったりした。
posted by ヤス at 14:22| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月21日

低投票率について

明日は総選挙の投票日である。
タイミング悪く大型台風が近づいてきていて低投票率に拍車がかかるのではと心配されている。
前回総選挙の投票率は52.6%、前々回は59.3%だったらしいが果たして今回はいくらになるのか。
選挙そのもの行方よりそっちの方が気になっていたりする。
ただ日本の国政選挙の投票率が低いのはまあ当たり前だと思う。
それは投票によって政治に影響力を行使した「実感」がかなり乏しいからだ。

まあ、与党の自民党に入れた人に関しては、自分の一票を通じてさまざまな施策が実現した感触を多少感じることはできるのかもしれない。
しかし有力な対立野党が不在で政権交代が起こりようのない状況では、非自民党的な政策を要望する有権者は投票する先がない。
与党不支持の表は小さい野党にバラバラに投票され、相互に食い合って結果与党を利する。
この数年の野党の「もがき」は、この問題に最適解を出すためのものであったわけであるが、しかしそれが今回、とうとう具体的な形で実現した。
実現はしたけれど、その形はかなり不完全で政局を動かすところまで至らず(一応まだ分からないけれど)与党の安泰は続きそうである。

しかし最近思うのは、結局選挙で与党が勝とうが負けようが日本の将来動向にあまり影響はないのではないか、ということである。
かなり適当な見方かもしれないが、わたしの予想する日本の未来は、かなり暗い。
総人口が減って高齢化が進むので経済のパイ縮小が避けられないということもあるし、日本固有の「社会の硬直性」が健全な発展を阻む弊害がますます顕著になる、ということもある。

将来のGDPもインドはもちろんインドネシアやブラジルやメキシコなどに次々に抜かれて、何より一人当たりのGDPがさらに低下して多くの国民が貧乏を実感する時代が来るのだと思う。
そういう「どん底」を味合わないと、大衆の中に社会を変える動機というのがなかなか生まれてこないのではないかというのがわたしの基本的な考え方である。

そして日本の社会がかなり悪くなった状況でこそ、選挙の重要性、一票の重みというのが再びクローズアップされるのではないか。
それまでは低投票率で与党が勝ち続け、首相の解散権も乱用のし放題、政治状況の固定化が進んで政治的な重要情報の公開も一向に進まず、日本は「緩慢な死」に向かってよろよろと進み続けるのではないかと予想する。

しかしものは考えようで、経済的に貧乏でも精神的に豊かでいることは可能だろうし、現在(または近未来)における貧乏の水準は、江戸時代や中世・古代の貧乏と比べると比べ物にならないくらい豊かであるとも言える。
そういう来るべき混乱の時代にどれだけ心に余裕を持ち、人生を楽しめる状況を作ることができているか、その辺が個人的なテーマであると勝手に妄想していたりする。
posted by ヤス at 11:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月20日

電動ヘリは実用化されるのか

最近時々、道路や橋などの社会資本が老朽化して大変だという話を聞く。
日本のコンクリート構造物の耐久年数はだいたい50年くらいが上限と言われる。
そうすると基本的に鉄とコンクリートで建造された橋梁の場合、50年経ったら架け替える必要が出てくる。
今から50年前の時代を思い返すと、1960年台後半のちょうど高度経済成長期の真っ只中。
そして1972年に田中角栄の日本列島改造論が出てきて70年代は列島改造ブーム。
この頃に作られた橋や道路やトンネルが今後次々に完成後50年を迎える。
今問題になっているのは、これらの老朽化する社会資本のメンテナンスが、費用的にもマンパワー的にも今後は難しくなってくるということである。

そのことを考えているところにあるニュースが目に入って、それは中東のドバイで空飛ぶ電動バイクを警察が導入することを決めたというものである。
ドバイについては、確か昨年「空飛ぶタクシー」を2017年夏までに飛ばす、みたいなニュースの憶えがある。
ドバイの人はよほど空を飛びたいらしい。
あるいは地上の道路の渋滞がひどいのかもしれないが。

ドバイのニュースを見て思ったのは、将来世の中の自動車がみんな空を飛ぶようになったら、もはや道路や橋梁のメンテナンスは必要なくなるんじゃないかということである。
そしてこの2〜3年の間に、電気動力の乗用ヘリコプターが開発中というニュースがバンバン流れるようになっている。
で、今の所バッテリーなんかは決定的な技術的ブレークスルーにはまだ達していないようだけれど、エネルギー密度も充電時間も確実に進化はしている。
しかし果たして人々が日常の乗り物として電動ヘリに乗る時代はやってくるのか。
どうなのか気になる。

それでちょっと計算を試みた。
電動ヘリの理論的エネルギー効率。
空を飛ぶのは機体と搭載物を浮かせないといけない分、地上を走るよりエネルギーが余計に要る。
それはどれくらいの量になるのか、今後の開発次第で地上を走る自動車より高効率化できるものなのだろうか。

地表面の重力加速度は9.8m毎秒毎秒。
1kgの物質を1m毎秒で動かす力が1N(ニュートン)。
ということは1kgのものを浮かばせるのに必要な力は9.8N。
100kgだと980N(毎秒)。
これを仕事量Whに変換すると980N×3600秒=350万Wh。
1馬力=735Whなので350万Wh=約5馬力。

100kgの電動ヘリが空中に浮かぶためには5馬力の電気モーターが要る。(ただし効率100%)

間違っているような気がするし合っているような感じもする。
ざっくり効率50%として10馬力くらいあれば浮かんでいられるんじゃないだろうか。
これは今の125ccスクーターの出力くらいだ。

ちなみに現在の電気自動車のエネルギー総合効率(発電所の発電効率からEVの走行効率までを総計した効率)は約30%でガソリン車の総合効率14%の倍以上らしい。
電動ヘリは道路との摩擦も少ないのでその面は有利だけれど、空中に浮かぶ分の「ロス」は結構大きい感じがする。
一方で電動化による効率上の有利さを加味すると、電動ヘリにも十分勝算はあるような感じもするし、結局今日のところは結論が出ないので、そのうち関連の情報を探しておこう、と思った。
posted by ヤス at 11:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月19日

人類規模の精神安定

たまに世界人口の推移グラフ、みたいなのを目にすることがある。
そのグラフを見ると、特に20世紀に入ってからの曲線の右肩上がりの具合がものすごく急になっている。
人類の人口が10億人になったのは1800年くらいらしい。
つまり人口10億人はホモ・サピエンスの誕生以来10万年くらいかけて達成したことになる。
それが百年後の1900年に20億人になり、60年後1960年に30億人、14年後1974年40億人、7年後1987年50億人。
その後人口増加の勢いはやや沈静化してはいるが依然として増えている。

そしてこの人口が急増した200年くらいの間の世の中の変化というのも凄まじい。
おそらく15世紀以降くらい、ルネサンスと大航海時代の後に色々と画期的な技術開発が実現して、特に軍事技術では火縄銃や大砲が出てきてそれが日本にも伝わり、日本史を大きく揺り動かしたりした。
火縄銃の時代はしばらく続き、日本では300年くらい続いて明治維新の頃に新式の後装銃とアームストロング砲の時代がやってきた。
そして軍事技術刷新と幕藩体制の終わりという世の中の大変化がちょうどシンクロしている。
その後は日露戦争、第一次大戦があってこの頃の軍事的トピックは戦車や潜水艦やマシンガンの実用化である。
やがて戦略兵器としての飛行機の時代とともに第二次大戦があって、その延長線上に朝鮮戦争やベトナム戦争があったのだと思う。
しかし第二次大戦後は核兵器の時代でもある。

核兵器の登場のおかげということなかどうか知らないが、この時代以降大国同士のがっぷり四つの正面戦争というのはなくなって、超大国アメリカとならず者国家の戦いとか対テロ戦争とかの非対称戦が主流になっている。

ちょうど昨日のニュースでも、シリアのIS拠点が陥落したというのがあったけれど、ISが消滅したとしてその次はアフリカとか中央アジアとか世界各地で似たような紛争が続くのではないかという嫌な予感もする。

これは個人的な想像なのだけれど、世の中の戦争の発生というのは人口増加と無関係ではないと思う。
昔読んだ本に、人口密度の増加が人類の精神状態に悪影響を与える、みたいな話が書いてあって、そういうのが紛争・戦争の発生の裏の要因として大きいんじゃないかと思ったりする。
実際、20世紀中の戦争犠牲者の数というのはなんだかんだ合わせて1億人くらいになるはずである。
これはそれ以前の時代に比べると、ゼロの数が2つ3つ違うレベルだ。

また、今の時代には世界規模の大戦というのは発生しなくなっているが、アフリカや中東では死者百人規模のテロとか虐殺事件が頻発していて、それがほとんどニュースにもならない。

そういうことを考えると、人口増加によるイライラが原因で戦争や虐殺事件が起きているのかどうか定かではないけれど、しかし人類規模の「精神の安定」みたいなことを現代のテクノロジーで何か実現できないものか、と時々思う今日この頃だったりする。
posted by ヤス at 10:59| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月18日

割り切れない世の中

さて、総選挙投票日までもうあと4日ほど。
だいぶん選挙結果も見えてきたようであり、また当初から今回の選挙の意義については多くの疑問の声が上がっていたわけで、わたし的にもなかなか難しい選挙だった。
結局この選挙の争点が何かということなのだけれど、消費税とかアベノミクスの成果とか、あと北朝鮮を巡る危機的情勢への対応とかいくつか論点はあったのだと思う。
だけれども、いまひとつスパッと気持ちよく投票行動を促してくれる明確な争点というのがなかなかなくて、その辺が非常に難しかったなあと思うのである。

しかし考えてみると、争点が難しいのはある程度当然なのである。
現在の世の中は一昔前のように、スパッと一刀両断にできない世の中になっている。
資本主義対共産主義の対立はとっくに終わり、かと言って資本主義が絶対的に正しいかというとそうでもなくて、そのあり方に重大な疑問が生じている。
それは民主主義のあり方、議会の仕組みやそれこそ選挙制度そのものについても、今のやり方が必ずしもベストでないという感じが日増しに増している。
少なくともわたしの中でそれらに対する疑問は増している。

今回某政党の公約にも、情報公開とか一院制とかベーシックインカムとか、民主主義や資本主義の「プラットフォームの見直し」に関わる項目が出てきたのは、まあ成果といえばそういえなくもなかったかもしれない。
それらの公約はどうもポピュリズムのための道具として出てきたようにも見えたわけであるが、まあそれでも全然出てこないのよりは良かったような気もする。

あと、個人的な気がかりは北朝鮮問題である。
この問題は、わたしの素人予想では今後しばらくこう着状態が続くのだと思っている。
経済制裁はもちろん必要だとは思うけれど、朝鮮半島の政治的現状維持を北朝鮮(というか金王朝)自身はもちろん中国やロシアも望んでいる現状では、経済制裁だけで問題が解決に向かうことはないだろう。

「斬首作戦」などの実力行使も時々報道で流れているけれど、朝鮮半島や日本の一般市民の被害をゼロに抑えつつ軍事力を行使するというのは至難であり、政治的現実として実施不可能だと思う。
ただ「やるぞやるぞ」という姿勢は崩すわけには行かず、それは北朝鮮も同様。
今後も米朝が「やるぞやるぞ」と恫喝し合いながらしばらくの間現状が続く。
というのが、たいへん最悪の感じがするけれど現下のベストシナリオではないか。

その間拉致問題に関しては、使える外交カードで現実的な交渉をして現実的な成果を少しずつ引き出すしかない。
そのように思うので、あまり北朝鮮に関して勇ましいことは言うべきでないと感じる。

何はともあれ、現代はスパッと気持ちよく物事が割り切れる世の中ではない。
だから国民の側もスパッと気持ちの良い政治的主張を求めるべきではないと思うがたぶんこれはなかなか難しいことなのだろう。
などと選挙終盤戦に当たって思った。
posted by ヤス at 11:41| Comment(0) | 徒然なるままに