2017年09月09日

徒弟制度のふしぎ

さて、将棋の藤井聡太四段はその後若干負けが込んで既に6敗目を喫したが、しかしなお今年だけで29勝していて8割以上の勝率を誇るから大したもんである。

そしてわたしは最近も相変わらず「見る将」として将棋の番組をネットでチラチラ観ている。
観ていて思うのだが、将棋も相撲と同じく日本の伝統文化である、という意識を各プロ棋士はかなり明確に意識しているらしい。
だからタイトル戦によっては和装での対局が習慣になっていたりする。
また対局が始まる時の最初の駒を並べるのにいちいち「なんとか流」の流儀があったりして、まるで相撲の土俵入りの不知火型みたいだなあと思う。

伝統という意味で、相撲と将棋には類似点が多く、細かい作法に流儀や型があったりというのも似ているが、「徒弟制度」があるという点でもわりかし似ている。

ただし、相撲の場合は部屋持ちの親方だけが弟子を取れる。
そのためには「株」を買ったり日本国籍がないといけなかったり色々大変である。
一方で将棋の師匠は、おそらく特別の資格とかなくても弟子は取れる。
弟子を取ろうと思えば取れるし、自分は弟子は取らないと思えば取らない。
しかし弟子の方は、プロ棋士になるためには誰かの門下に入る必要があるようだ。

相撲と将棋で若干の違いはあるものの、伝統文化に徒弟制度はつきもののようだ。
ということは徒弟制度にはそれなりに合理的な存在理由があるのだろう。

ふと思うのだが、徒弟制度における師匠は必ずしも弟子より競技力が上ではない、というのが案外ポイントなんじゃないか。
相撲で、歳をとった親方が若い弟子に敵わないのは当然として、知力勝負の将棋であっても、経験豊かな師匠を弟子の方が若くして超えるというのは珍しくない。

師匠の目標は、自分より強い弟子を育てるというところにある。
だから弟子が若くして師匠を超えるのはある程度必然になる。

相撲や将棋に見られる徒弟制度の現状は、少なくとも強い弟子を育成して門下の勢力を拡大するという点で相応に機能しているように見える。

大学における教授を中心に准教授・助手などの組織や、ある種の職業でしばしば見られる徒弟制度的な組織体制は、時として弟子を酷使するだけのものであることがあるのと対照的だな、とちょっと思う。
おそらく徒弟制度的な仕組みというのは、ともすれば弟子が師匠に奴隷的にこき使われるということになりやすいのではないかと思うのである。

その点、将棋の徒弟制度はうまく機能しているように見え、その理由がなんなのか少し気になるのだ。
(内実、いろんなドロドロ劇もあるようであるが)

わたしは、将棋の師匠は弟子が自分より良い成績を上げたら心中複雑なのではないかとちょっと心配したりもしていたのだが、上記の理由により、強い弟子を持った師匠は「それなりに」嬉しいのかな、と最近は思ったりしている。
posted by ヤス at 15:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月08日

電気自動車普及のネック

この間、日産自動車が電気自動車の新型リーフを発表した。
初代は2010年12月に発売され、発売から5年の2015年12月に世界累計で20万台売ったという。
新型リーフの売りは自動運転技術とかいろいろあるようだが、イチオシは航続距離が280kmから400kmに延びたことだろう。

リーフが最初に登場した時の航続距離は230kmだったがその後のマイナーチェンジで280kmになった。
これらの数字はカタログスペックなので実走行距離は1〜2割くらい減るらしいが、まず「満タン」で200km走ればほとんどの場合実用上の問題はないと思われる。
しかし電気自動車の航続距離というのには、なんだか知らないがぼんやりとした不安が常にある。

今朝のニュースにイギリスのジャガーも2020年以降は全車種を純電気・HVだけにするというのがあった。
またイーロン・マスクのテスラも紆余曲折ありながら販売台数を増やしており、2016年一年で8万3922台売ったらしい。

はたして電気自動車の将来はどうなのか。

電気自動車普及の鍵を握るのが充電インフラの整備であるといわれる。
日本の充電設備は、最近急ピッチで整備が進んでいるようだがそれでもガソリンスタンドに比べるとかなり少ない。
最近は高速道路のサービスエリアにも充電スタンドを見かけるが、その数は大抵ぽつんと一基あるくらいだ。
まだ電気自動車の絶対数が少ないので、取り合いになることもないのだろう。
しかし充電時間は、ガソリンのように1分2分で終わるわけではないので、運悪く2、3台重なった時はかなり待たないといけなくなる。

充電スタンドの数の少なさ、充電時間の長さの問題は電気自動車普及の大きなネックである。
まあこれは、電気自動車がある程度増えればそれなりに改善されるのかもしれない。
しかし出先での充電が数分の感覚で終わらないと少々かったるい。
そのためには充電池技術の進歩が欠かせない。

しかし今のところ超急速充電可能な電池実用化のニュースはあんまり見ないのだ。

それならば、太陽電池をクルマに乗せて発電しながら走ったらどうだろう。
100馬力は換算するとおよそ74kwになる。
現在市販されている10kwの太陽電池は面積がおよそ50平米くらいらしい。
100馬力のクルマをフルパワーで駆動するには単純にいうと25mプールの面積の太陽電池が要る。

クルマは常にフルパワーを発揮するわけではなく、バッテリーとの組み合わせの航続距離延伸装置と割り切って25mプールの10分の1の面積としても、一般的なクルマ4〜5台分の投影面積が要る。
これだと将来的に太陽電池の効率が上がるとしてもあまり期待が持てない。

つまるところ、充電インフラが街中至る所に整備されるか、電池技術が劇的進化して航続距離の心配が無くなるかしないと、電気自動車普及の心理的バリアが解けない気がする。

あるいは自動運転化に伴い、クルマの充電管理をAIが行って人間はその心配をしなくなる、みたいなことであっさり解決するのかもしれないという気もするが。

内燃機関エンジンから電気化へのスイッチはおそらく今後10年くらいで急速に進む雰囲気が漂っているのだが、電気自動車普及の未来像が今ひとつ見えないというのが、トヨタを始め既存メーカーの多くが電気自動車に本腰が入らない要因なのかなあとも思ったりしたのである。
posted by ヤス at 12:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月07日

民進党出鼻を挫かれる

代表選挙が終わって心機一転巻き返しを図るはずであった民進党だが、予想外の不倫スキャンダルがあって出鼻を挫かれたらしい。
たぶん多くの人も同感だと思うのだが、わたしは、政治家のこの手のスキャンダルにいちいち驚かなくなっている。

政治家といえども人間であり、他の職業の人間とそれほど違わないということだ。
あるいは政治家であるからこその野心性がアダになって、その手のスキャンダルの発生割合が高いくらいかもしれない。

つまるところ、人間は依然として野生動物時代の性壁を色濃く保持しており、その野生の性壁を完全にコントロールすることは難しいということなのであろう。
(ここまで書いていてなんだが、今回の民進党における不倫事件が事実かどうか、わたしは知らない)

「不倫」とは元々は「ミチを外れる」の意味で、本来道徳に悖る行為全般を指すのだと思う。
それが今では、男女間における問題の専用用語になっている。

こういうことを言うとかなりの批判を受けそうなのだけれど、どうせこの文章は大した人数に読まれていないので構わないだろう。
おそらく全ての人間が男女の倫(ミチ)を守り通すということは、それなりに難しいことなのだと思う。
人間の中の野生の本能が生きている限り、不倫問題は無くならず一定の割合で発生を続ける。

おそらく、一夫一婦制というか「浮気はいけない」という倫理観が、そもそも現在の人類にカチっと収まっていない。

そもそも、この「浮気はいけない」倫理観は絶対的に正しいのだろうか。
これは全くわたしの想像であるが、男女のペアが固定的であるべきだという倫理観は、おそらく太古の昔に配偶者の争奪を巡って争いが絶えなかった時期があって、その対策としてだんだんと出来上がってきたのではないかと思う。
それに後から宗教的倫理観とか、国家的家族政策とかが乗っかってきて、近代社会の重要な倫理観の一つになったものではないか。

つまりこれは人類の自然な性壁では決してなく、たぶんに人工的な概念なのだろうと思うのである。

こういう人工的な概念は他にもたくさんあるだろう。
民主主義とか国民国家の枠組みとかも、我々は当たり前のものとして自然物のように感じているが、これらもかなり人工的な概念であり、浮気に関する倫理観と同様あちこちでボロが出ている制度である。

人工的な制度や概念というのは、所詮その程度のものなのである。
そういうことを考えると、ものすごい無力感にさいなまれるわけであるが、しかし一方でいろんなトラブルがあるからこそ人間社会は面白いのだと言えなくもない。

ちなみにわたしは無用のトラブルは避けたいタイプである。
いくら不完全な人工の概念であるとは言え、男女関係における倫理観はこれまでそれなりに機能して世の中のトラブル減少に貢献したものとして尊重している。
だから不倫スキャンダルの類からは距離を置きたいと思っている人間なので念のために記しておく。
posted by ヤス at 11:11| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月06日

歴史教育について

ちょっと前に話題になったニュースに、進学校で有名な灘高校の校長のブログの話があった。
灘高校(の中学)が採用した歴史の教科書がちょっと「右寄りの人たち」の攻撃対象とされ、抗議のハガキがたくさん来たというのを校長先生がブログに書いていた。

「右寄りの人たち」を十把一絡げに「右寄り」と断じることには多少の抵抗がないこともないが、ここは便宜上このまま進める。

右寄りの人たちの意見としては、灘高のようなエリート校こそ「愛国的な」教科書を採用すべきであるということらしい。
この教科書は学び舎発行の「中学歴史教科書・ともに学ぶ人間の歴史」である。

この教科書は中身を見ていないから内容には触れない。

この件に関する右寄りの方々の主張としては、教科書の内容が自虐史観的である、愛国教育の妨げになる、という思いがあるようである。

しかし歴史教育の在り方というのは実は非常に難しい問題だと思う。
歴史というのは、それがたかだか五十年や百年前の出来事であっても、その正確な事実を知ることは困難である。
というかただ今現在発生している出来事であっても、それぞれの立場によって評価や見方は全く異なる。

客観的に正しい唯一の歴史的真実というのは、どこを探しても絶対に見つからないのである。
である以上歴史教科書の記述は、「そのような見方がある」とか「そういう風に推測する人たちもいる」的な記述にならざるを得ないはずである。

それがそもそもの歴史の授業の在り方だと思うのだが、世の中の平均的な中学校ではそういう「あやふやな事実」を教えることがおそらく難しい。
日本の学校では、ともすると唯一絶対の正解が存在する前提で授業が行われ、テストの採点がなされる。
日本の学校の先生は、そのような機械的な割り切りの元に授業を行い生徒の評価を行わないと仕事が回らない羽目に陥っているように見える。

そこへ行くと灘高のようなエリート校においては、生徒も先生も一定以上の水準にあってそれなりに「考える」スタイルの授業が可能なのだろう。
(というのはかなりの偏見かもしれないが)

いずれにしても、一部の右寄りの方々が主張している愛国教育、極度の自虐史観アレルギーというのは、子ども達に対して「考えるな」「判断するな」と言っているようでその点で非常にまずいのではないかと思う。
歴史の授業というのは、ある一つの出来事に対しても立場や思想の違いで色々な見方が出来るのだということを教えるべきで、年号の記憶よりもそのような「考え方」を学ぶことにその本質があるように思う。
そこを否定して自分で考えない人間を量産する教育は、かえって亡国的ではないか、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:57| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月05日

教育のタイプについて

ジャズトランペッターの日野皓正氏がステージ上で教え子の子どもに往復ビンタをした、というニュースが何日か前に出ていた。
この報道については、ネットニュースでテキスト記事をチラ見しただけであり、テレビのワイドショーなんかでもコメンテーターなどがいろいろ意見を言っているらしいがそういうのはあまり観ていない。

この問題については日野氏の釈明が良くなかったとか、体罰はいかなる場合もいけない、いや場合によっては許されるとか、いくつかの角度から論評がなされているようである。
それらの論評については正直あまり興味が持てなかったのであるが、わたしが少し考えたのは「教育」の意味についてである。

教育とか指導とかコーチングとか、何かを「教える」状況というのは世の中にたくさんある。
もっとも代表的であり、かつ世間の関心が高いのが学校における教育だろう。

最近も大学教育の無償化とかの問題が憲法改正論議と合わせて話題になった。
しかしそもそも学校教育というのはどこから出てきたものだろう。
こういう話はすでに研究者によって研究されつくされているに違いないのだが、そこをいちいち勉強してから理屈をこねるのも面倒なので適当に推測してみる。

おそらく、ある種の教育というものは社会と個人の関係において存在する。
それなりに出来上がった社会に新しく参加する人間、つまり多くの場合子どものことであるが、彼らに社会の決まりごとを教えるシステムとしての教育というのがひとつありうる。
その場合、子どもが社会的に望ましい行動をとる人間になる方向で教育は行われる。
このタイプの教育の派生型として、軍隊における新兵訓練とか企業における新人教育とかもあるだろう。

そしてこの手の教育において、体罰の必要性が議論されることになる。

教育にはまた別のタイプがあるように思う。
さっきちょっとネットを調べていたら、世界最古の大学はイタリアのボローニャ大学で11世紀頃、つまり今から千年ほども前に出来たらしい。
最古の大学のスタイルはちょっと意表を突かれたのだが、これは貴族や金持ちが自分たちの息子に高等教育を与えるために有名な学者を雇用する、つまり「教えさせる」タイプのものだったという。

こういうスタイルにおいては、教育における体罰の是非は論争のテーマになり得ないと思う。
現代のプロフェッショナルスポーツでも、例えばフィギュアスケートで選手がコーチを雇ったりする。
社会による要請ではなく個人側の要請によって行われるタイプの「教育」というのがある、というのは今さら当たり前のことだけれど少し新鮮に感じた。

教育における体罰問題は、前提条件としてそのような教え方のタイプについても、少し考えてから論じる必要があるような気がしたのである。
posted by ヤス at 15:42| Comment(3) | 徒然なるままに

2017年09月04日

精神の若さについて

精神の老化は分かりにくい。
対して肉体の老化は、めっきり白髪が増えるとか、階段を駆け上がると息が上がるようになったとか、わりかし明確なかたちで現れるから気が付きやすい。

精神の状態はほとんど目に見えない種類のものである。
これをどうにかして見えるようにしないと、精神がくたびれてきているのかどうかがよく分からない。

先日来、人類における中高年からの年頃は、文明時代以降の現象であることを書いたと記憶している。
我々は原始時代には30歳そこそこで天寿を全うし、肉体的にはまだ十分に若い段階で死滅していたと思われる。
それが、文明が発達して食糧事情や医療技術が進化し、肉体の衰えを思考の力で補うことが出来るようになった。
つまり人類は肉体的に老化することが出来るようになった地球上で最初の生き物であると推定される。
我々は肉体が老いても知恵の力で生き延びることが出来るようになったようである。

のみならず、ほとんど寝たきりでベッドの上でものも言えないような病人でさえ、しばらくの間延命させることが出来るほどである。

こういうことは最近百年くらいの話であり、かつ先進国と呼ばれるある程度余裕のある国において初めて可能になった。
余裕のある社会では、生きる力が尽きかけているような人間でも延命することが出来る。
あるいは百年先くらいの未来に介護ロボットが甲斐甲斐しく人間の世話をするようになると、人口の大半が寝たきりになっても平気な社会が実現するのかもしれない。
というのはあまりゾッとしない想像ではある。

そんな話は横においておくとして、我々現代人は、せっかく原始時代の3倍ほどにもなる天寿を授かったのであるから、この期間を出来るだけ健康に充実して生きることに越したことはない。

そのために何より大事なのは、精神の若さをいかに保つかということだと思う。
ここで精神の老化とはどういう状態なのかを考えてみると、それは脳みそが自然的に持っている怠惰の性格を全面に出してきた時かもしれないと思う。

パソコンで長い文書や複雑な図表を作成している時、突然画面がフリーズすることがままある。
そんな時に限ってファイルの保存が出来ていない。
後はえいやっと再起動をかけて、フリーズした画面は思い切りよくあきらめて最初から新しい気持ちで作業をやり直す。

それに似た出来事はリアルの社会でもたまに発生するけれど、その時にいかにリスタートを新しい気持ちで始められるかというのは、あるいは精神的若さのリトマス試験紙であるような気がする。

あるいは長い人生で獲得した「パターン」を目の前の事象に過度に適用することなども老化の現れだろう。
目の前の事象は、過去に似たようなことはいくつもあったかもしれないが、厳密にはどれも「生まれて初めて」見る事象であるはずである。

人類は自然状態を脱して寿命が延びたのだから、脳が本来持っている怠惰の性質にも「人為的」に喝を入れないといけないのかもしれない、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月03日

脳みそのある傾向


人間の脳みそというのは、たいへん怠惰なもののようである。
我々は目の前のものを見ていてもその中のほんの少しの部分にしか意識を集中していない。
その他の部分は一応見ていることにはするが、ほとんど記憶にも残らないくらいにしか見ていない。

プロ棋士は、長時間の対局を一局終えると体重が2〜3kgも減るという。
その話が本当かどうか知らないが、脳というのは思いの他エネルギーを食う臓器であることは確かなようである。
一説には体全体の2割くらい消費するという。
また、脳のカロリー消費の割り当ては無際限に増やせるわけではないらしい。
だから限られたカロリー・リソースをやりくりして脳は活動している。

おそらくそういう事情があって脳はいろいろな情報処理をなるべく端折っているのであろう。
目に見えた風景のうちの、必要最低限のモノにしか注意を向けないとか、現在の周辺環境を分析判断するのに、過去の記憶で代替してその都度新しく判断するということをしない。
過去にヘビに噛まれた経験のある人間が、細長くて黒っぽい紐を見てびくりとするように。
記憶のメカニズムは、脳の情報処理をかなりの程度端折ることができるという意味でもかなり有効のようである。

しかしこういう脳の怠惰な特性には、現代人はよほど注意しないといけない。
我々の脳は、過去の記憶の流用以外にも様々な情報処理のショートカットを行う傾向がある。
「誤った一般化」というのがあって、これはある法則を論理的整合としては全くデタラメに別の事象に当てはめてしまうことである。

例えばある一人の日本人がチビで出っ歯でメガネをかけていた。
すると「全ての日本人はチビで出っ歯でメガネをかけている」と思おうとする傾向が脳みそにはある。

一般的に、カテゴライズとか分類化は、ある特性を軸にしてモノやコトの集合をグループ分けする作業である。
しかし「日本人」というのは、そもそも日本国籍を有する人間の集合というくらいの意味であって「チビ」の特性を持つ人の集合ではないだろう。

ある特性を軸にカテゴライズされた「集合A」に対して、たまたまその「A」に属する一部の特性を引っ張り出してきて、それを「A」全体に適用することには全く論理的整合がないことは今さら言うまでもない。
しかし人間というのはちょっと冷静になってみると、自分でも驚くほど知らない間にそういうことをやっている。

それもこれも人間の脳が本来持っている傾向によるもので、しばらく人類はこのような脳みその怠惰と向き合っていかないといけないのである。
posted by ヤス at 07:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月02日

さらに老後問題について

ここ数日、人間の老後について考えている。
そこで発見したことは、老後というのはきわめて現代的な現象であるということだ。
つい百年か2百年くらい前までは、40歳50歳はジジイババアの年頃だった。
そして文明以前の人類の野生時代においては30歳くらいが一般的な寿命の尽きる年齢だった。

野生時代においては、肉体的な青春時代の終わりがすなわち人生の終わりとイコールだったらしい。
それがこの百年くらいの間に、少なくとも先進国においては医療技術が進歩し食糧事情も随分と良くなって平均寿命はかなり伸びた。
しかし寿命が延びたことによって人類は老後の心配をあれこれとしなければならなくなった。

「寝たきり老人」とか「痴呆症老人」とかの介護は現代日本ではかなり大きな問題である。
これらの老人は、ほとんど労働力の足しにもならなず、野生時代ならもちろんこと、経済的に逼迫していた中世以前の時代ならただ静かに息を引き取るのを傍観されるだけの存在であったに違いない。

それが現代では、他の人の面倒が見られるくらい社会が豊かになったことによって、そういう肉体的な活動性が極度に低下した人でもさらに長く生きることができる。

これは実は地球上の生き物の中でかなり人類特有の特徴だと思う。
(他にも年寄りの世話をする生き物は、探せばいるかもしれないが)

人類はここ百年くらいの間に急速にクローズアップされてきた「老後」の問題に、今たぶん少し戸惑っている。
しかし肉体的な老化については、寿命の延伸に伴って少し改善も見られる。

数十年前の40歳というのは、完全なおじさんおばさんだった。
なんなら初老と言って差し支えないような40代だっていた。
しかし今の40歳は、その年齢でまだアイドルをやっている人もいるし周りを見回しても若い人が多い。
これは栄養事情が良くなったということもある思うし、ただ単に観察者であるわたしが歳をとった相対的な問題と言えなくもないが。

さらにまた現代人は、精神的にも昔より相当若返っているのではないか、という気がする。
昔は脳みその中が50歳くらいですっかり老成していたのが、その老成年齢がどんどん後にズレて行っているのではないか。

ただ、そういう現代における肉体的精神的若返りの分を差し引いても、寿命延伸に伴い「老後」期間は増大している。
だから人類は引き続きさらなる若返りをがんばらないといけない。

結局のところ、人類が「健康な老後期間」の割合を増やしてその問題に終止符を打つには、土台となる肉体の若返りを図り、その後に精神的な(つまり脳みその)若返りに努力する必要がある。
特に精神の老化は自覚がしにくい。
そこのところの良い対策が何かないか、と思ったりする今日この頃なのである。
posted by ヤス at 10:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月01日

「老後」の現代性について

縄文時代の平均寿命は15歳に届かなかったという推計があるらしい。
このように短命だったのは乳幼児死亡率が恐ろしく高かったことが最大の原因である。
そして15歳までなんとか生き延びた時点における平均余命は16年あまり、つまり普通に成人した人間は31歳くらいで天寿を全うする感じだったようだ。

もちろんこれは推計であり事実だったかどうかは分からない。
一つの比較として、野生のチンパンジーの寿命は15〜20年くらい、ゴリラは30〜40年くらいだとあるサイトに出ていた。
そして動物園などでの飼育下ではチンパンジーもゴリラも寿命が50年くらいに伸びるという。

動物の場合、一般に陸上動物より水棲動物が長生きし、さらに体が大きい方が小さいより長生きする傾向がある。
だから大きいゴリラはチンパンジーより長く生きる。

その辺りから推測すると、ほぼ野生状態における人間が30過ぎてそろそろあの世に行く、というのは当たっているような気がする。
おそらく、野生の動物では肉体的に若いことが生存のための絶対条件なのである。
だからそろそろ「若くなくなった」頃が寿命の尽きる頃、という話になる。

人間の30歳といえば、文明未発達の原始時代においてもそこそこに若い感じに見える年恰好だと思う。
しかし野生では、少し老いていることが命取りになるのである。たぶん。

ということは、人類というのは文明発達前の10万年だか数万年だかの間、だいたい30歳くらいで死ぬようにプログラムされてやってきたことになる。
30歳で死ぬ人類には「四十肩」とかは発生しようがない。
また現在死亡率上位である癌とかの発症なんかも随分少なかったし、アルツハイマー症とかはほとんどなかったと想像する。
野生の人類は歯磨きもしなかったと思うけれど、30年しか生きないのであればその必要もないだろう。

逆にいうと、現代人は平均して80年くらい生きるので、野生時代にはあまり気を使わなかったところまで色々とケアしないといけない。
「中高年」とか「老後」と呼ばれる時代は、野生時代の人類の人生には存在しなかったのであり、この人生の「新しい後半」をより良く生きるには、縄文人のように毎日気の向くままにのんびりとしているわけにはいかないのである。

それは歯磨きを頑張るとか食べるものに気を使うとかの肉体的なケアも大事だし、また精神のケア、脳みその神経細胞のつながり具合、働き具合をなるべく健康に維持することも大事だと思う。

いずれにしても人生における「老後」というのは、たぶんせいぜい数百年の歴史しかない新しい出来事なのである。
そのことを時々思い出した方がいいんじゃないか、と思ったのである。
posted by ヤス at 09:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年08月31日

山本彩に学ぶ

昨日30日、NMB48の須藤凜々花の卒業公演が行われた。
しかし今回書きたいのはリリポンの話ではない。

その卒業公演でキャプテンの山本彩が以下のような意味の発言を行なったとされる。
いわく、歳をとるとどんどん保守的になる、大人になるにつれ自分の脳みそがすごいつまんねえなあと思うことがある。
山本彩によると、そういう自分を違う方向、新しい方向に導いてくれたのが須藤凜々花であり、その点を感謝しているという。

ちなみに須藤凜々花は20歳、山本彩は24歳である。

24歳といえばまだ全然年寄りではない。
にもかかわらず山本彩はこのような見方で自分を見ているというのが、少し驚きである。
山本彩は2010年の10月からNMBでのキャリアを始めている。
その前にも中学生時代に1〜2年の芸能活動経験があるらしい。
かれこれ活動歴10年。

これまでのアイドル業界や芸能界における活動において、山本彩は数々の試練を乗り越えて今がある。
初期の頃、かなり無理のある一発芸でスタジオの空気を凍らせたり、東京の番組では「借りてきた猫」状態に陥るなど、これまでに結構ギリギリの戦いを続けてきたように見える。
しかし今ではその芸風はすっかり安定したものになり、はたからも安心して見ていられる。(実は時たましか見ていないが)

彼女は懸命の努力によって、業界において一定の存在感を得るに至ったようである。
しかしまたその過程において業界的な約束事をいくつも身につけ、自分のスタイルやイメージもだんだんと固まっていく。

この世の中というのは、生き残っていくための術についてある程度のバリエーションが身につき、その精度が一定の水準に達すると途端に生き易くなるものなのだろう。
しかし一方で周辺環境が突如として変わったとき、そのことに気がつかずに今まで通りの術を繰り出していたのでは全く通用せず、たちまち死に至るという危険がある。

山本彩はおそらくそのことがよく分かっている。
だから、マーケットの嗜好に寄り添いつつもあまりそこに完全にフィットし過ぎないという意識が自然に湧いてくるのだろう。

このようにマーケットにフィットする努力をしつつもある程度の新しさ、少しの「はずし」を常に用意しておく、というのは芸能界におけるアイドルの生き残り術として非常に重要なのだと思う。
そしてこのことは芸能界のみならず、自然界における生物種においても、マーケットにおける企業経営においても重要であることはいうまでもない。
そして複雑高度な社会に生きる現代人のあり方一般としても欠かせない視点であるように思う。

問題は、保守的になり脳みそがつまんなくなる自分自身のことが、なかなか自分では見えないというメタ認知の件である。
わたしのようなオジサンは、山本彩の3万倍くらいの覚悟を持って自分を見つめないと自分のつまんなさが見えないのではないか。

と、そのようなことを少し思ったのである。
posted by ヤス at 10:35| Comment(0) | 徒然なるままに