2017年11月07日

ミーシー

「ミーシー(=MECE)」というのがある。
これは「ミューチュアリィ エクスクルーシブ アンド コレクテイヴリィ エグゾースティブ」という英語の略だ。(ややこしいな)
要するに「漏れなく重複なく」を小難しく格好良く言い直したのがミーシーである。
いわゆる「思考のフレームワーク」のかなり基本の方にあるのがミーシーだろうと思う。
何かものを考えるときに対象物を漏れなく重複なく分類してみると、意外な良いアイデアが出てきはしないかという淡い期待を想起させる概念でもある。

B29が絨毯爆撃を行う時は、「漏れなく重複なく」爆弾を落とすことに留意すると攻撃の効率が上がる。
というのはやや物騒で不適切な事例であるが、何か広告を打つときに、10代20代女子には動画サイトやSNSで、30代40代以上は雑誌広告で、とか考えると広告の効率が上がることがある。
しかし分析を行いたい対象物に対し、何か新しいミーシー的分類軸を考え出すというのは、かなり難しい作業であるように思われる。

最近考えていることの一つに、資本主義経済におけるプレイヤーはクリエイターかディストリビューター、そしてその両方を兼ねる人の3つに分類できるのではないか、ということがある。
ここでクリエイターとは、新しい経済的価値をゼロから創造する人のことであり、ディストリビューターとはクリエイターが創造した価値を複製したり消費者の元に運び届ける人である。
音楽業界でいうと作曲・作詞家、歌手はクリエイター、CDをプレスする人、CDをトラック輸送したり店で売る人たちはディストリビューターになるのだと思う。
そして自分で作詞作曲した歌を自らレコーディングし、パソコンでCDに焼いて街で手売りする人はクリエイターとディストリビューターの二つの円が重なる部分にいる人。

こういうどうでもいいことを考え始めたのは、世の中には非常に創造的でクリエイティブな人が少数いる一方でそうでない多数の人がおり、その辺の関係がよく分からなくなったからである。
と言ってもよく分からない。

世の中、誰しもが素晴らしい創造性を持っているわけではない。
あまり創造的でない人間が現代の資本主義経済において生き残るすべはあるのか。
あまりクリエイティブでない純粋ディストリビューターは存在し得るのか。

間を端折って結論を言うと、現代のディストリビューターには「八百屋でダイヤモンドを売る」的な突拍子もなさ、ある種のクリエイティビティが不可欠の気がする。
つまりクリエイターとディストリビューターは「ミーシー分類」にはなっていない。
たぶんクリエイターとディストリビューターはどっちかがメインになることはあるが、一方の要素も必ずいくらかは持っていないと現代ではやっていけない。

ということでミーシー的には、「両方の要素を必要なだけ持っている人」と「どっちかが欠けている人(あるいは両方欠けている)」の2つに分けることはできるんではなかろうか、というのがいちおうの結論、ということにしておく。
posted by ヤス at 14:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月06日

EVシフトとバッテリー問題

2年に一回開催されていた東京モーターショーが昨日閉幕したらしい。
日本の自動車市場が急激に縮小するのに伴い海外メーカーの参加が少なくなったり出品規模が減ったり、暗い話題も無くはなかったが、とりあえず今回も無事開催されたのはよかった。

で、今回のモーターショーの傾向のひとつにEV(電気自動車)シフトがあったと思う。
世界一のEVメーカーである日産とその傘下の三菱はもとより、トヨタやホンダやスズキなどもEVのコンセプトカーを出展していたらしい。
しかし一方でマツダなどは当分の間ガソリンエンジンでがんばることを宣言しているし、今現在EVが爆発的に売れる感じもない。

ヨーロッパ方面では年限目標を切って全面EV化を目指す動きが出ているが、現実問題としてそこまでEVが売れていない現状を見ると今後EV化はほんとうに進むのだろうかとやや疑問に思う。
調べてみると2016年のEVの台数シェアは全自動車の0.2%、台数で200万台ということらしい。
(数字はEVとPHEVの合計とのこと)
ちなみに現在EVの台数が一番多いのは中国らしく、全世界の3割65万台になっている。
EVシェアではノルウェーが3割弱、オランダ6.4%、スウェーデン3.4%とヨーロッパ諸国はややEV比率が高いがそれでも全体としてみるとまだまだ少ない。

EVには高トルクの独特のドライバビリティとか、エネルギー効率が高いとかいろいろとメリットはある。
AIを活用した自動運転化との相性もおそらくいい。
そしてEVの基本的な技術はほぼ完成されている。

にもかかわらずEVがなかなか普及しないのは、ひとえにバッテリーの問題だと思う。
現在のバッテリーで必要な航続距離性能を満たそうとするとかなり重く、そして値段も高くなる。
また、現在主流のリチウムイオンバッテリーは化学反応で充放電を行うので経年劣化が避けられない。
スマホなんかでも3年くらい使い続けると急にバッテリーがヘタって使用時間が半分以下になる。

自動車の場合も同様で、日産のリーフなんかでも数年で航続距離が半分くらいになるとどこかの自動車評論家が書いていた。

リチウムイオン電池は1979年に発明され、1991年に世界で初めてソニーが量産化したらしい。
それから26年、途中リチウムイオンポリマー電池が開発されたりもしたけれど、リチウムイオン電池の基本原理は特に変わっていない。

現在新世代の電池として全固体電池というのが開発中らしく、2020年にトヨタも市販化を目指している。
全固体電池は電解質が個体になって、燃えない、小型軽量、充電時間短縮、長寿命とかなり革新的なものになるらしい。

全固体電池のポテンシャルがどの程度なのかはよく分からないのだが、しかしもし現在のリチウムイオンバッテリーの数倍のエネルギー密度が実現するのなら、いっそ電動ヘリに搭載して空を飛んだ方がいいんじゃないかと個人的には思う。
電動ヘリは渋滞もなく、自動運転化との相性もよく、目的地まで基本まっすぐに飛んでいけるので交通システムの革命になると思う。
それになにより、わたし自身が死ぬまでに電動ヘリで街の中を移動する体験をやってみたい
というのが東京モーターショーのEVシフトについて考えた結論でした。
posted by ヤス at 11:32| Comment(3) | 徒然なるままに

2017年11月05日

ロボットの寿命

さてロボットネタも飽きてきたのでとりあえず今回でいったん最後。

ある調査によると、AIBOのような「コミュニケーションロボット」の日本国内における2020年の市場規模予想は、台数で250万台、金額で2400億円くらいになるという。
ちなみに現状はおよそ50万台、500億円くらいだというから3年後に5倍に増えることになる。
本当にそこまで増えるかどうかは分からないが、それでもかなり増えることは間違いなさそうに思う。

コミュニケーションロボットというのは、別にルンバみたいに掃除もしてくれないし皿洗いの一つもやってはくれない。
ただ人間の呼びかけに反応したり、逆に人間に適当に声をかけてきたりするだけである。
そういうペット的なやりとりに対してAIBOの場合で20万円以上の金額を投入する人が少なからずいる。

そういうわたしもかなり昔のことだが「ファービー」というアメリカ発のおもちゃを購入した前科がある。
ファービーは、値段は5千円くらいと手頃で良かった。
ファービーは若干の改良を加えられながら現在も販売されているが、値段が安い分AIBOに比べると動作はかなり単調で、どちらかというと子供向けの感じ。
だがそれはそれでまあまあ面白かった記憶がある。

何しろ人間は、動きもせず声も出さないぬいぐるみなどに対しても、それなりの愛着を抱き大事に思うことのできる生き物である。
ファービーくらいの反応でもけっこう十分なのかもしれない。

また近い将来、ファービークラスの数千円〜1万円ぐらいのロボットに通信機能がついて、クラウドサーバーとつながったりすることもあるかもしれない。
クラウドサーバーで複雑な情報処理を負担して、「現場」のファービーはサーバーからの指令を忠実にこなす「端末」に徹する、ということになれば、安いロボットでもかなり高度なやりとりができるようになってヒットするのではないか、という気がしなくもない。

で、最終的に考えたいのはそういうペット型のコミュニケーションロボットの「寿命」についてである。
AIBOの売りの一つは「死なない」ということもあったらしい。
「ブレードランナー」のレプリカントは4年で死に、(元)天才子役のハーレイ・ジョエル・オスメント主演の映画「A.I.」の子供のロボットは寿命がなくて人類滅亡後も生きていた。

色々考えてみるのだが、ペット型ロボットもそれなりの寿命はあった方がいい気がする。
なんというか、その方が飼い主もより愛情が注げるのではないか。
あと、AIBOは一台一台育て方で全部性格が違うことになるそうだが、これも途中でリセットできない、性格形成は後戻りできないというのが重要である気がする。

生き物と生き物が対峙する感じの中にこそ、真に迫るコミュニケーションが生まれる気がするのだがどうなのだろう。
posted by ヤス at 07:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月04日

ロボットの脅威

ロボットというとSF作家アイザック・アシモフの「ロボット三原則」が有名である。

1ロボットは人間に危害を及ぼしてはならない、また人間の危険を看過してはいけない
2ロボットは人間の命令に服従しないといけない、ただし1に反する場合はこの限りでない
3ロボットは1、2に反しない限り自分を守らないといけない

というようなのがそれである。

SF業界には「フランケンシュタイン・コンプレックス」という概念があるらしい。
これは自分たちが創造した被造物が創造主を滅ぼしてしまうのではないかという潜在的恐怖のことを言うそうだ。
フランケンシュタイン・コンプレックスの根元に何があるのかはよく知らないのだが、想像するに、「原罪」の意識、アダムとイブの時代から引き継ぐ人間が自身に対して感じる罪の意識があるような気がする。
人間は生まれながらにして罪深い存在であるという無意識下の意識があって、もし高度な知性を持ったロボットを創造するとロボットは合理的判断に基づいて人間を抹殺しようとするのではないか、そういう一抹の不安がなんとなくあるのではないか。

ここ最近、物理学者のスティーブン・ホーキング博士やテスラ社のイーロン・マスク氏なども将来の人工知能による脅威について警告の声明を発表したりしている。
未来のロボットは本当に人間の脅威なのだろうか。
この問題に関しては楽観論も根強いようでFacebookのザッカーバーグ氏はそっちの立場らしい。

人工知能に関する楽観論も悲観論も、その論拠がわたしには今ひとつ不明なのであるが、個人的な想像としては人工知能が自我に目覚めるかどうかがその分かれ目である、というのはありそうだと思う。

超頭のいい人工知能が自我に目覚める
〜人間は地球環境の害悪と気がつく
〜人工知能が人間を滅ぼしにかかる

というループが一つ考えられる。

あるいは、昨今は軍事技術にも無人攻撃機はじめ人工知能や戦闘ロボットが実用化されようとしている。
軍事ロボットはアシモフの三原則とは無縁であり、「敵を殺せ」とプログラミングされた戦闘ロボットが暴走して人類をあらかた殺しつくすという方向のパターンもあるのかもしれない。
ただしこっちの方はプログラムミスのヒューマンエラーになる。

一つの対策、安全装置としてロボットに寿命を設定するというのがあるかもしれない。
映画「ブレードランナー」のレプリカントみたいに4年の寿命が来たら機能停止すると機械の暴走に一定の歯止めになる。
ただし、ロボットが自分で自分を改造して寿命の設定を変更したりすると事態はややこしくなる。

さらに自分たちの複製を勝手に「増産」し始めるとこれはもはや一個の生命と言えなくもない。
そうなると早晩人間と競合するのでこれを滅ぼす、みたいなことになるのかもしれない。

そんなこんなで、人工知能を搭載したロボットの反乱は「自我の目覚め」「自己改造」「自己複製」、この辺がポイントではなかろうか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 09:33| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月03日

ロボットのいる生活

ロボットが出て来る映画やアニメは昔からたくさんある。
その中にウィル・スミス主演の「アイ・ロボット」というのがあった。
もう10年以上前の映画だと思うが、映画の中の近未来には白っぽい半透明のロボットがたくさん出て来て、いろいろと人間の世話をするようになっている。

おそらくあと20年くらいしたらこういう風景が現実に日常になっているような気がする。

ロボットで思い出したが、自動車会社のホンダが二足歩行ロボットの「アシモ」を最初に発表したのは1996年のことだったらしい。
その当時は人間と同じようにバランスをとりながらの完全2足歩行ロボットはある種の夢の技術であり、ホンダのアシモはまだゆっくりとしたよちよち歩きだったけれど、驚きを持って世の中に受け止められたと記憶している。

今ではロボットの2足歩行はめずらしくもなんともなくなっている。
階段を昇り降りしたりジャンプしたりダンスを踊ったりするロボットもいるくらいで、人型ロボットの技術の発展は目覚ましいものがある。

現在開催中の東京モーターショーのヤマハのブースには「MOTOBOT Ver.2」という、人間用のオートバイを乗りこなすレーシングロボットが出ている。
目標は人間のレーサーのバレンティーノ・ロッシに勝つことらしい。
今はまだかなり負けているようだが、あと数年でMOTOBOTはロッシを抜くんじゃないかと思う。

というようなことで、この調子でいくなら、あと20年もすればロボットは人間と同等かそれ以上の運動能力を持つようになり、また人工知能の技術も進化するので頭も良くなって、脚立に登って電球を取り替えたりスーパーに買物に行ったりあらゆる場面で人間生活のサポートができるようになるのだろう。

今、わたしはこの文章をパソコンで打っているのだけれど、30数年前、当時「マイコン」と呼ばれていたパソコンが初めて世に出て、その時わたしはそのマイコンを買わなかったけれどその何年か後に買って、以降適当に買い替え買い増ししながら現在に至っている。
その間にパソコンの性能は激速に進化し、値段は安いモデルだと3万円も出せば買えるようになった。

パソコンと同じように人型ロボットもやがて家庭用市販モデル第一号が発売され、少し歳をとってくたびれたわたしも自分の介護用に1台買ったりするのかもしれない。

またコンビニに行くとレジはロボットのお姉さんがテキパキとやってくれて、ファミレスもロボットが料理を運んで来るようになって、生身の人間がサービスするお店はプレミアム付きの高級店、ということになっているのかもしれない。
そういうことを今ちょっと想像したりしている。
posted by ヤス at 15:11| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月02日

AIBO復活

ソニーから新型の「犬型ロボット」AIBOが発表された。
発売は来年の1月だが先行予約が昨日から始まり、あっという間に予約は埋まったらしい。
値段は本体が税別198000千円、他に月々のクラウド費用が必要だという。
今ソニーオンラインストアを見ると次回予約再開は未定と出ている。

前回のAIBOは1999年に販売が始まりいくつかのバリエーションモデルが出ながらも2006年に事業撤退。
2014年には公式の修理対応も終了している。
修理対応終了で多くの故障AIBOが復活不能となり、動かなくなったAIBOの合同葬儀が話題になったりもした。

その記憶もまだ新しいうちの今回AIBO復活。
AIBO復活の主要因としては、ソニーの業績が急回復していることがあるらしい。
ソニーの今期の決算は久々の過去最高益を予想しているそうである。
ただし儲かっているのは金融とゲームで、本流のエレクトロニクス製品はスマホ事業はじめ相変わらず苦戦していると想像されるが。

とにかくも、AIBOをやるにはいくらか赤字を覚悟して、体力に余裕のある時でないと難しいということなのだろう。
ソニーは昨年、家庭用ロボット事業への本格参入を宣言しており、グーグルやアマゾンが出しているAIスピーカーなんかにも積極的に取り組んでいくようだ。

と思っていたら11月18日から発売予定の「コミュニケーションロボット「Xperia Hello!」というのを出したというのがニュースに出ている。
これは、見た目はグーグルのAIスピーカーに近い、先のすぼまった円柱形のイメージだが、お腹のところに液晶モニターがあってテレビ電話的な使い方ができる作りになっている。
あと20人分の個人顔認証ができる(つまりカメラが付いている)らしい。
Xperia Hello!は脚もタイヤも付いていないので自分では動けないのだが、台座から上の部分がくるくる回るようになっていて、話をするご主人様の方に勝手に向いてくれる。
それで「海の手線が遅れています」とか「結婚記念日の1週間前です」みたいに、聞いてもいないのに色々と忠告もしてくれるらしい。

おそらくソニーとしてはアマゾンやグーグルに対して、よりたくさん動くタイプの、よりロボットライクなAIスピーカーの開発を目指しているのではなかろうか。

そして近い将来AIBOがAIスピーカーの機能を包摂して、自分で勝手に動き回る、より可愛げのあるAIスピーカーをソニーは作ろうとしているのではないか、と思えないこともない。
将来的には食事の後の洗い物とか、庭の雑草抜きとかも手伝ってくれるような人型ロボットがすぐ近い将来に出てくるような気もする。
その場合のロボットの「仕様」について少し思いついたことがあったのだが長くなりそうなのでまた今度書くことにする。

いずれにせよ、将来の本格的家庭用ロボットの序章としての今回のAIBOの復活と勝手に思いながら、AIBOの今後を見守りたい。
posted by ヤス at 14:22| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月01日

株高は続くか

さっきスマホをチェックしたら今日も日経平均がものすごく上がっている。
21年ぶりの高値との報道も流れていたが、NYダウも上がっているし円高傾向も最近は一服している。
さらに企業業績も堅調引き続き堅調。
このまま年末に向けてさらに上昇することも十分予想される。

しかし実質賃金はなかなか上がらない。
失業率は2%台と低く、アルバイトが足らないという声はあちこちで聞こえてくる。
実際周辺のアルバイト時給相場は、人手不足に最低賃金上昇もあってかなり上がっているように感じる。

そして大企業も、最近は政府の掛け声もあって賃金は上がっている。
また中小企業の正社員給与も、2016年のデータではそれなりに上がったようだ。
しかしアルバイトも大企業と中小企業の正社員もみんな賃金水準は上がっているようなのに、日本全体としては賃金が上がっていない。

インフレ率を加味した実質賃金では今もって下落傾向が止まっていない。
これはなぜかというと、大きな原因としては就業構造の変化がある。
構造の変化とは、まず平均賃金の高い製造業の就業者数がどんどん減っていることがある。
最近は円安に加えて、新興国の賃金がかなり上がってきていることもあって製造業の国内回帰の動きがちらほら聞こえてきたりもしている。

しかし仮に、今後さらに国内回帰が進むにせよ日本の若年人口は減少し続け国内市場は縮小を続ける。
そういう状況では製造業の国内回帰にも自ずと限界があるだろう。

今現在日本の就業人口の増加に大きく貢献しているのは介護業界だろう。
そして介護業界は製造業より賃金水準が低い。
統計を見ると日本全体の就業者数は2012年以降急速に増加を続けている。
就業者数のグラフが右肩上がりなるのとシンクロして失業率が下がっている。

日本の就業構造は、給料の高い製造業就業者が減って給料の安い介護業就業者数が増える傾向がしばらく続いている。
だから今後もなかなか給料の総額は拡大しない。

この間、日銀が物価目標2%は達成していないけれどそれとは別にデフレ脱却を宣言するかどうか検討中、みたいなニュースが流れていた。
しかし世の中の所得が増えないと、いくら円安で輸入物価が上がったところでそこから先の安定的な物価上昇など起きるはずもない。

リフレ派の人々は物価が上がってデフレ状態を脱却したら続けて賃金が上がるという話をしているが、これはもちろん順番が逆で、まず最初に給料が上がると安定的に物価も上昇しデフレ状態を脱却できる。

そして今の日本全体の賃金水準は国際的な競合状態によって決まっているので、安定的な物価上昇が起きてデフレ状態を脱却するためには日本人が国際的に見て価値のある仕事をする他にはない。

つまり給料がなかなか上がらないのは現在の日本人の仕事の価値が国際的にあまり高くないからで、ということは現在の株高もあまり長くは続かない、というのがわたしの現在の予想だったりする。
posted by ヤス at 15:57| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月31日

人生はリセットはできない

わたしは暇つぶしで将棋ゲームを時々やるが、しかししょっちゅう「待った」をするタイプである。
最近は、他のゲームはほとんどしないけれど、シミュレーションゲームなんかをしているときは、ちょっと状況が不利になったりすると即座にリセットして最初からやり直しをしたくなるタイプなのである。
しかし現実世界の厳しさのことを思うとこのようなゲームに対する姿勢は良くなかったなと反省する。

現実世界は不測の事態の連続であり、絶体絶命のピンチがしょっちゅうやってくる。
そしてそういう不測の事態、絶体絶命のピンチの原因は、だいたいにおいて過去の自分の行いにある。
まあそれでもなんとかこうして生きているから、なかなか本気で反省できないのだろう。

よく「人生は一回きり」、みたいなことが言われるが、しかしそういうことをわざわざ言わないといけないほど、人間は、少なくとも自分の場合はそのことに気がつきにくい。

よく冒険映画に出てくる典型的なシーンで、岩だらけの広い洞窟に細いボロボロの石の橋が架かっていて、それが地震で端から順に崩落していくのがある。
主人公は落ちたら大変と思ってその崩れていく橋の上を一生懸命走る。
その映画のシーンみたいな感じで、今こうしている間にも「現在の瞬間」が次から次へものすごい勢いで崩落して、ゴーッと音を立てて過去という名の奈落の底に吸い込まれていく感じを、最近になってようやくちょっとだけ認識するようになった気がする。

本当に、現在の瞬間は一瞬も止まることなく次々に過去に向けて流れ去っていく。
当然ながら失敗したのでちょっと過去の、ある時点に戻ってそこからやり直しとかはできない。
人生には過去に遡ってやり直しというのはなくて、今この瞬間からもう一回新しく始めるというのしかない。

そういうことを将棋ゲームをやりながら思ったのだが、ゲームの場合はいくらでもリセットできるし、前回セーブした場面からやり直して強引に勝利をおさめることも難しくはない。
色々反省もしてみるのだけれど、バーチャルなゲームのそんなところはやっぱりちょっと素敵だなと思ったりもするのだった。
posted by ヤス at 09:58| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月30日

プロ棋士の喜ばない感じ

だいたいのスポーツにおいて、技を決めたり勝利の瞬間とかにガッツポーズはつきものである。
しかし一方でガッツポーズがタブーの競技もある。
大相撲とか柔道とか日本の国技とされている競技では、ガッツポーズとかで感情をあらわにすることはあまりない。
ただ柔道に関しては国際スポーツとして世界各国で広く行われており、オリンピックなどを見ると海外の選手はガッツポーズをする人もいる。
ただし、礼の精神がそれなりに理解されているためだろうか、他の格闘技やサッカーなどに比べると喜びの表現もかなり控えめのような気がする。

国技ということでいうと、体を動かさない頭脳スポーツである将棋でもほとんど感情を出さない。
トップ棋士の羽生善治氏の本を読んでいたら、奨励会時代からあまり感情を表に出さないように師匠から指導を受けているそうなのだが、ほとんどのプロ棋士は若い頃から勝っても喜ばないようにしてきているからだろう、将棋の世界では勝利の瞬間、勝者に笑顔が微塵もない。

将棋にはもちろん勝ち負けがあり、プロスポーツであるから勝利は棋士の収入にも直結する。
だから勝って嬉しくないわけはないと思うのだけれど、しかし、勝っても喜ばない習慣をずっと続けていると、勝っても喜びの感情がわかなくなってくるのかもしれない。
それと将棋は心理戦の側面もあり、勝ちを急ぐと思わぬポカをしたり相手に作戦を見透かされたりするので、棋戦中にポーカーフェースを突き通すのはけっこう重要なのかもしれない。

将棋に限らず相撲や柔道で勝って喜びを顔に出さないというのは、負けた相手への思いやりという意味合いも強いのだろう。
だからといって、海外のスポーツが礼を失しているということではなくて、海外は海外で、負けた相手が笑顔で勝者を祝福する姿をよく見るけれど、あれはあれでいつ見ても気持ちがいい。

トップアスリートやプロスポーツの世界は、人並みはずれた負けず嫌いの人間が切磋琢磨しているところである。
だから負けた人間は死ぬほど悔しいはずだし、勝った方は脳でドーパミンがドバッと出て興奮状態になっているはずだ。

羽生さんも若い時分は、負けると終局直後はポーカーフェースなのだけれど、その日の晩は悔しかったりあの時こうすればよかったとか、なかなか寝付けないことも多かったらしい。
それが経験を重ねるごとに気持ちの切り替えが上手くなって、悔しいのは死ぬほど悔しいのだけれどいつまでもマイナスの感情を引きずらなくなる。
そういうプロ棋士の、大きな気持ちの振幅をうまく統御している感じが、なんだかすごくかっこいいなあとちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 11:28| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月29日

選挙の棄権について

さて、衆院総選挙から1週間経ってそっち方面の話題もだいぶ落ち着いてきた。
落ち着いては来たのだがひとつ気になることがあって、それは投票棄権の件についてである。
今回は大義なき選挙とか投票したい先のない選挙とかいう意見がこれまでよりもやや多目に聞こえて来たような気がする。
そこで果たして選挙における棄権は是か非か、少しだけ考えてみる。

ちょっと前まではわたしも、選挙に行かない知人に対し「選挙には行った方がいいよ」と言っていた。
しかし今回に至って選挙は別に行く気がしなければ行かなくてもいいんじゃないかと思うようになっている。

「選挙に行こう」の考え方はいく通りかのパターンに整理可能であろう。

ひとつは「選挙は行かないといけない」のパターン。
選挙が有権者の権利であり義務でないことは憲法や公職選挙法によって明確に規定されている。
したがって行かないと「いけない」と必ずしも言えないのは自明。
ただし、有権者が誰一人選挙に行かなくなると現在の政治の仕組みが維持できなくなるので、それが5%か10%かわからないが最低限維持されるべき投票率というのはたぶん存在する。
その限りにおいて、それなりに「選挙には行くべき」だと言えなくはない。

次のパターンは「選挙には行った方がいい(あるいは投票はした方がいい)」。
選挙は別に行くのは義務ではないけれど、行った方があとあといいことがあるんじゃないか。
あるいはより多くの人が投票した方が民意の反映された政治になるという考え方もあるだろう。
しかしどう考えても、情報をいろいろ調べても投票したい先のない人はどうすべきか。
その場合でも消去法なり批判票なりの考え方で何らかの選択をして有効票を投じるべき。
というのがこのパターンだがどうなのだろう。

最後のパターンは「投票したい人だけ行けばいい」。
行った方がいいけれど義務ではなく、投票したい先がなければ棄権するか白票無効票を入れればいい。
ちなみにわたしは投票に行かないのも白票を投じるのも本質的な違いはないと思っている。
ともかくも、「投票したい人だけ行けばいい」の考え方の下では、低投票率は常に許容される。
つまり「投票率は低かったけれど、まあしょうがないよね」となる。

最初に言った通り現在のわたしは最後のパターンに傾いている。
ふたつ目のパターンの場合、ある種の政治的「動員」が働いて、例えば「イメージ選挙」で何となくの投票行動が地滑り的な政変を引き起こす危険がありうる、そんな気がする。
それならば政治に関心があり、それなりに投票理由を持っている人だけが行く方がまだマシなのではないか。

いずれにせよ、わたしとしてはただ盲目的に投票に行こうと言うのはあまり意味が無い(というか少々危険)と思えてしょうがない。
正しくは「政治に関心を持とう(あるいは政策内容に関心を持とう)」というべきなのであろうけれど、しかしそれがなかなか難しいから議論は尽きない。
今日のところはこれでおしまい。
posted by ヤス at 13:55| Comment(2) | 徒然なるままに