2017年05月26日

日本人の保険好き

日本人は保険好き、というのをよく聞く。
最近ではアメリカで、健康保険強制加入の制度であるオバマケアを巡って一悶着あったが、ああいう騒動も日本では起こりようがない。
健康保険なんていうのは最初から入るのが当たり前の日本人と、できることなら保険はなるべく入りたくないアメリカ人の違いだろう。

保険には健康保険以外にも生命保険とか損害保険とか、宇宙ロケット打ち上げの際の保険とか、色々ある。
わたしもできることなら保険にはあんまり入りたくない人なので、保険のことにはとんと疎いのであるが、しかし少し保険商品について思いを馳せるとその大まかな分類が頭に浮かぶ。

健康保険とか、生命保険とか、あるいは失業保険などもそうだと思うが、これは来るべき不幸に備えるための保険である。
病気にならなかったり失業しなければそれでやれやれだけれど、世の中的には結構な割合で病気になったり失業したりする。
ただそれで保険に入ったからといって保険が病気を防いだり失業を事前に阻止したりするものではなく、そうなった時にいくらかの金銭的な補償があるというだけのことである。

つまりそうなった時にせめて金のことで悩む可能性だけでもあらかじめ封印しておこう、というのが不幸に備える保険商品であると思われる。


それに対して、ロケット打ち上げの保険とかはリスクチャレンジを後押しする性格を帯びた保険である。
銀行からお金を借りる時の保証制度による保証料などもその種の保険であると言えなくもない。

これらのリスク保険は、頑張って何かにチャレンジする時、当然そのチャレンジはかなり無理をしているのでそこそこの確率で失敗する可能性があるわけだが、失敗した時に「全損」にならないようにするためのものである。
このようなリスクチャレンジを後押しするタイプの保険があるおかげで、世の中の進歩が促進されるご利益がある。

どちらかというと、欧米的な保険の発想はこっちの方なのであろう。
しかしどうも日本で保険というと、前半に述べた不幸に備えるタイプのものがスタンダードになっているような感じがする。

日本人は世界各国に比べると、抑うつ傾向が強く心配性であるとか不安に対する耐性が弱いとかいう話もあるのでそういう関係なのかなあとも思う。

もう一つ欧米諸国で不幸に備える保険が人気がないことの理由として、将来の安心よりただいま現在の現金の方が大切だということもあるのだろう。
通常は生命保険でも健康保険でも、毎月けっこうな金額を支払わないといけない。
保険制度に対するそれなりの信頼がないと払えないような金額である。

日本人の場合、自然環境と調和し、周囲のそこかしこに八百万の神様を感じて生きている国民性であるので、「仕組み」に対する「漠とした信頼」のようなものがいつの間にか醸成されているのではなかろうか。

保険の仕組みに限らず、世の中の大きな仕組みに無条件に依拠する傾向というのが日本人には強いのではないか、と少し思ったのである。
posted by ヤス at 09:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月25日

猫動画の流れ

この2〜3日、YouTubeで猫動画をよく観る。
猫動画のついでに犬動画も観る。
以前にも少しはまった時期があったので、今回は自分的に第何次かの猫ブームである。

しかし猫動画を観ていると、時期ごとに多少傾向の違いがあることに気づく。
以前に猫動画業界を席巻したジャンルとして「猫鍋」があった。
土鍋をさりげなく机の上に置いておくと、猫が勝手に鍋に入り込んで、鍋の円形に沿って丸くなるというアレである。

しかし今回猫動画をいくつか観ていて、YouTubeが「お勧め」してくるのに猫鍋動画はひとつもなかった。
この業界も、トレンドの流れは早く激しいものらしい。

逆に少し目についたのに赤ん坊を守る猫シリーズみたいのがあって、人間のお母さんが人間の赤ん坊に触ろうとすると、猫がお母さんと赤ん坊の間に割って入ってお母さんの「暴力」を阻止するというものだ。
これには犬版もあって、また赤ん坊についても生後数ヶ月の本当の赤ん坊以外にも3〜4歳くらいの大きくなった子供版もある。

そこでは3〜4歳の子供に対してお母さんが素手またはスリッパで叩く素ぶりを見せる。
もちろんお母さんは本気ではなく動画用のやらせである。

お母さん(もちろん人間の)が子供をスリッパで叩こうとするジェスチャーを見せると、それに気づいた猫(または犬)がお母さんのスリッパを持った手に飛びついてこれを阻止しようとするのである。

こういう動画は、いちばん最初は世界のどこかで本気で子供を叩こうとしているお母さんがいて、それに飼い猫が反応して阻止された、という事件が偶然に発生し、その一件で猫が子供を守ろうとする習性に気づいたお母さんが子供を叱るのそっちのけで「事件」を再現して動画に収め、YouTubeで配信した、というのが始まりではないかと想像するのである。

で、この、猫が子供を守ろうとする動画に触発された人で家に猫と子供がいる人々が、次々とこれを模倣し、素手で叩くのにスリッパを加えたり子供の方も大げさに怖がるふりをしたりの過剰な演技を加えたりで、だんだんバリエーションを加えて全世界的に広がっていったのであろう。

いや、最初は犬が子供を守る動画だったのが、猫でやってみたらやっぱりちゃんと反応したよ、ということだったのかもしれない。

犬が先か猫が先はともかく、ネット動画の世界にはこのようにある動画に触発されて自分もそれに乗っかる、それが次々と連鎖してひとつのジャンルになる、という流れが出来上がっているようだ。
しかもこれらの動画は英語も中国語もロシア語もあって、猫動画や犬動画における共感は国境を越えて世界共通のものなのだなあということが改めてわかる。

最近の世界にはテロなどのきな臭い事件も多いが、一方でネットによって国境を越えて気持ちがなんとなく繋がる、という流れがあることは結構重要ではないか、とも思ったりするのである。
posted by ヤス at 08:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月24日

電子的なメールに関するストレス

20年以上の大昔、ほんの一瞬期間だがパソコン通信をやっていた。
知人から、ニフティサーブというのがあって便利だと勧められて始めたのである。
モデムをアナログ電話回線につなげて、「ジー、ガリガリー」といかにも今通信やってますという大げさな音がする方式が懐かしい。

ニフティでは「電子メール」も使っていた。
といってもメールの相手は3人くらいしかおらず、今のように迷惑メールが毎日何百件も届くことももちろんなく、かなり静かなメール生活ではあった。

で、その後1995年に日本でもインターネットが始まり、間も無くニフティをはじめとしたパソコン通信サービスも次々と終了してしまった。
その頃であろう、「Eメール」という言葉を聞くようになった。

どうも「電子メール」と「Eメール」はひょっとして違うのかもしれない、というぼんやりとした疑問が生まれたのはその時からである。
実際のところ電子メールとEメールは違うのだろうか。
かつてのわたしは、仕事の場面で「じゃあ今度電子メールで送っときます」とか言うたびに、本当は、ここはEメールと言った方が正解なんじゃないか、とどこか不安で自信なさげだったように思う。

時代が少し降って現在に近づくどこかの地点で、いつのまにか電子メールにしろEメールにしろ単に「メール」と呼ぶ人が多くなって、わたしの不安によるストレスも随分楽になった。
楽にはなったけれど疑問が解消したわけではなかった。

で、今さっき思い切って電子メールとEメールの違いをググってみた。
驚くべきことに、これは世間的にはほぼ同じもの、というのが通説のようである。
なんだどっちでもよかったのか、と今更ながら思った。

多分電子メールという言い方は、ニフティやPC-VANのサービス名をそのまま引き継いでおり、Eメールというのはパソコン通信でないインターネットメールのこと、という使い分けが当初はあったのではないか。


ところで、最近はLINEとかFacebookメッセンジャーとか、普通のPCメール以外の通信手段がたくさん増えている。
LINEやFacebookだと、主たる送受信デバイスはスマホになるのでより手軽に使える。
あるいはスマホに着信通知があるから電話的に即時性の高いやりとりができる。

実際、最近は2〜3行で済むような軽めのメッセージのやり取りではめっきりPCメールを使わなくなった。
これは手軽にできるかどうかというのもあるが、PCメールでは冒頭に

「○○様 いつもお世話になっております」

みたいな時候の挨拶的な一文を入れないといけない雰囲気があってそれが重い、というのが案外理由ではないかと思う。

これはEメール黎明期に、Eメールが手紙の代替としてあったことが原因だろう。
本当に、あの冒頭の「お世話になっております」みたいな一文は書くのも読むのも面倒臭い。

ということで最近は、PCメールにおいて「○○様」も「いつもお世話になります」も可能な限り省略している。
まあそれはそれで、いきなり要件から入るメールを受け取った人はどう思うかな、とほんの少し不安に思ったりして、このように「電子的なメール」に関する不安のタネは尽きないのである。
posted by ヤス at 14:05| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月23日

無理好きの本能

さて、いつも同じことばかり書いているような気もするのだが、人間というのは、無理をするい生き物であると思うのである。
無理をするというのは、野生動物にはない「自我」の働きによるものであろう。
野生の世界では無用の無理はしないのが決まりである。
しかし人類は無理をすることによってDNA的生物進化とは別系列の人工的進化の道筋を手に入れた。

今、日本の陸上競技界では日本初の100m10秒切りが話題になっている。
100m競技の最初の公認世界記録は、ウキペディア情報によると1912年の10秒6であるらしい。
思ったよりも速い。

そこから56年後、メキシコオリンピックで9秒9の記録が生まれ、100年ほど経過してボルトが9秒58というのを出した。
人類は100年かけて100mの記録を1秒縮めたわけだ。

陸上競技でも水泳でもその他のスポーツでもそうであるが、競技の一線で活躍するには厳しいトレーニングは不可欠である。

そしていつも思うことだが、特にタイムなどの記録を競う競技の場合、世界記録は時とともに確実に少しずつ向上している。
マラソンは2時間切りを目指し、100m走は次は9秒4台がターゲットになるのだろう。
現代人はどちらかというと確実に野生生活からは遠ざかり、体力的には厳しくなっているような気もするのだが、しかしスポーツの記録は上がる一方。

これは走り方のフォームやペース配分、スタートのテクニックなどの技術系の知見が積み上がり、そして同時にトレーニングの技術も進化しているからだ。

そしてスポーツのトレーニングはある種究極の「無理」であると思う。
トレーニングの進化というのは、「無理」の仕方の進化である。

人類は、もはや狩をするために速く走る必要もなく、ただ移動するなら自転車やバイクだってある。
しかし記録のためだけに、科学技術も総動員していろんな種類の「無理」をするのだ。

マラソンのトレーニングも、疲労骨折とか怪我をしないギリギリまで追い込んだ「無理」をした選手がオリンピックなどで勝利を得る。

人類の社会でこのように各種のスポーツが盛んなのは、人類の「無理好き」が反映されているような気がする。

おそらく人類の「無理好き」は本能的なものである。
ふとした瞬間になんとなく無理してしまうのが人間というものではないか。

そして現在日本で議論が巻き起こっている「働き方改革」にも、このような人類の「無理好き」本能に関する考察が必要ではないか、とも少し思うのである。
posted by ヤス at 12:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月22日

日常のリスク

YouTubeにはいろんな動画がある。
中に「動物系」というのか、野生動物の生態を捉えたようなジャンルもある。
この間観ていたら、たぶんアフリカだろうか、サバンナの池のほとりにハイエナらしき黒い犬みたいな影が10頭くらいたむろしている。
そして池の水際にはイノシシが1頭、水を飲んでいる。

ハイエナの群れとイノシシの距離は10mくらい。
けっこう大きいイノシシだが、ハイエナが束になって襲えばイノシシに勝ち目はあるまい。

しかしハイエナは襲おうとしない。
お腹が一杯なのだろうか。
と、思っていたら池の水面にスーッとワニの背中が浮かんできてイノシシの背後でピタリと止まった。
しかしイノシシは気が付いてない。

次の瞬間、ワニはイノシシにかぶりつき、あっという間に水の中に引きずり込んだ。
そうしたらどこから湧いてきたのか、別のワニが数匹出て来てそのイノシシに好き好きにかぶりつき始めた。
しかしハイエナの群れはその激闘を横目に何事もなく平然としている。

というだけの動画である。


イノシシの歴史において、このような水辺でワニに襲われる事件はもう数限りなく発生したことだろう。
にもかかわらず、動画のイノシシはあまりにものんびりと水を飲んでいた。
生物進化の方向として、水辺では極端に臆病になるような、ちょっとした水音に驚いて飛び上がる方向への進化というのはなかったのだろうか、と、どうでもいいが思った。

しかし考えてみると、水を飲むというのは多くの野生動物にとって欠くべからざる必要な行動である。
イノシシの日常においては、餌を食い水を飲むというのが重要な大部分を占めるであろう。
とすると、しょっちゅう水は飲まねばならないのに、そこでいつもビクついていると返って精神衛生上よろしくないかもしれない。
多少のリスクには目をつぶって、のんびりと水を飲んだ方が良いということがあるのか。
そもそも水辺でワニに捕食される確率というのは、せいぜい1%くらいとか、あまり高くないのかもしれない。

それならば、100頭につき1頭の犠牲は無視しても健康上必要な量の水を心置きなく飲んだ方がイノシシ集団全体としては合理的な選択と言えるだろう。

ということを思ったのだが、以上のことはわたしの個人的な想像であって、イノシシの実態に合っているかどうかは知らない。

人間世界においても、道を歩けば事故に遭うとか、日常行動にもいろんなリスクがあり得る。
前述のイノシシに関する想像から、日常的にあるリスクをあまり気にし過ぎるよりは、多くの場合でリスクは無視した方がいろいろと精神衛生的によいよなあ、ということを連想したのだった。

ちなみにハイエナは、ほとんど水は飲まなくて平気らしい。
ハイエナがいちばん賢い、と少し思った。
posted by ヤス at 15:53| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月21日

小さい誤解の積み重ね

コミュニケーションは難しい。
当たり前の話である。
しかし最近の情報化社会では、その難しさがさらに加速している。

まず、コミュニケーションの総量が増えている。
現代では目の前にいる人と話す以外にも、電話をしたりメールやラインをしたりしてコミュニケーションをする。
さらに、今に始まった事ではないがテレビや新聞・書籍やネットから膨大な量の情報が流れ込んでくる。
そういう一方通行的な情報の流れも、ある種のコミュニケーションであるように思われる。
そのようなメディアから流れてくる情報を受け取るコミュニケーションにおいて、今はフェイクニュースとかあって、意図的に偽の情報を刷り込む、というようなことが多く生じるようになった。

我々現代人は、ただでも電話やメールやラインで次々に流れ込んでくるメッセージを処理しないといけない。
そんな忙しい中では情報判断もかなり瞬間芸的なものになり、いちいち時間をかけてフェイクニュースの見極めを行うことは困難である。


コミュニケーションの難しさ、言い換えると「コミュニケーションの失敗」というのは、「誤解」が元で生じる。
メッセージを発した人は「A」の意味で伝えたのに、受け手側は「B」とか「A’」とか少し違うふうに解釈する。
その解釈のズレが許容範囲内であればコミュニケーションは成立するが、「A」を「Z」くらいに解釈するような大きな誤解が生じると非常にまずい。

昔の国語の授業で「方言の難しさ」みたいのがあった。
「この書類を保管しておいてください」という指示を受けた人が、多分その受けた人は関西人だったのだろうか、「この書類をホカしておいてください」と受け止める、みたいな話だった。
そんな冗談みたいな誤解が実際にあるのかどうかは知らないが、メッセージの発し手と受け手のやり取りはそれくらいに危ういものである、という説明にはなっているようである。

しかし考えてみると、「A」を「Z」に間違うことは滅多になくても「A’」や「B」くらいに間違うことはしょっちゅうあるような気もする。
というか、ほぼすべてのコミュニケーションには、必ず多少の誤解が生じているに違いないとさえ思うのである。
情報の発し手と受け手では、人生経験も価値観も必ず多少は違う。
その間のやりとりにおいて、デジタル的に1mmの狂いもなく情報伝達が成功するというのはまずあり得まい。

これを前向きに考えると、DNAの複製ミスが何万年も積み重なってちょっとづつ生物進化が生じるように、コミュニケーションにおけるごく小さい誤解がたくさん積み重なって、ある種の「新しい概念」が生まれているのではないか、という気が少しだけする。
その「新しい概念」がどういうものかは、言葉ではうまく表現できない。

こういう時こそ誰かに適切な誤解をしてもらえればいいのではないか、とちょっと思った。
posted by ヤス at 10:52| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月20日

擬似的に超える体験

さて、再びマラソンの2時間切りの話。
今月の初めにイタリアで行われたナイキのマラソン2時間切りに挑戦するイベント「ザ・ブレーキング2」であるが、このイベントでケニアのキプチョゲ選手が2時間0分25秒で走り、目標まであと25秒まで迫った。
このイベントではランナー3人に対しペースメーカー30人が入れ替わり立ち替わりで入り、急カーブと風の影響を極力排した周回コースという「非現実的」な環境で行われた。

だからこの記録はもちろんマラソンの公認記録にならないし、イベントで出た記録に対する批判の声も出ている。
例えばドーピング検査の有無。
このイベントは公式レースではないので当然ながらドーピング検査が行われていないのだろう。
多分3選手はドーピングはしていないような気がするのだけれど、しかし今のところそういう情報は伝わってこない。

このイベントでは3人のトップランナーに対し、日本円で5千万円以上の「参加賞」が出ているらしい。
しかも2時間切りを達成したらボーナス1億円というのもあった。
またこのイベントはナイキのシューズの販促という目的があったので、主催者であるナイキ側としてもドーピングを止める積極的な理由はない。

このようにお金が絡んだ中ではドーピングの動機は十分にある。
しかし一方でドーピングしてしまうと「人類の限界を探る」というイベントの趣旨が台無しになる。
そこのところはどうなのだろうと思った。


わたしは昔競泳をやっていて、練習の時に半分遊び・半分本気で足にフィンをつけて泳ぐことがあった。
フィンをつけるとものすごく速く泳げる。
自分の実力が一気に3段階くらい上がる感じになって、異次元のスピードを体感できる。
しかし水泳でもなんでもそうだと思うが、たまには自分の実力をはるかに超えるスピードを体感する、というのはそれなりに役に立つことだと思う。

フィンをつけているという「ズル」はあるものの、しかし擬似的にせよ実際に速く泳ぐ体験をすると、脳みそ的にはまるで実力で速く泳いだかのような錯覚に陥る感じがある。
速く泳いだことの「体験」によって、自分はもっと速く泳げるという気分が生まれる、脳内のある種のブレーキを外す作用が生じるような気がする。

冒頭のマラソン2時間切りの挑戦イベントも同じで、「ズル」をしたとはいえ人の足で2時間で走ったという事実はそれなりに重い。

たとえ「ズル」をした擬似的な体験とはいえ、自分の実力をかなり超えた体験をしてみるのは意味があるような気がする。

そういうことでいうと、月へ行った宇宙飛行士なんかは科学の力を使って「生身の人間」の実力をはるかに超えたわけで、本人はもとより人類全体に与えた精神的影響というのはかなりあっただろう。

というようなことをちょっと考えた。
posted by ヤス at 11:20| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月19日

捨てる痛み

多くの人間にとって、何かを得る喜びよりも何かを失う悲しみの方が大きい、そういう話をたまに聞く。
だからなのだろう、物が捨てられなくてだんだん家が狭くなるという現象はかなり一般的のようである。

わたし自身を振り返ってみてもなかなか物が捨てられない。
この間も、自分的にはかなり思い切ってもう長いこと着ていない服をいくつか廃棄処分した。
もともとわたしは、仕事の時以外は大抵ジャージとTシャツで生きているので、それ以外の服は本来ほぼ必要ではない。

しかし長く生きていると、さほど必要でもない服が、いつの間にかたまっている。
ユニクロで買った2千円くらいの上着とか、つい出来心で買ってしまったようなものなどである。

それで少し思い立つことがあって、そういうのをばさっとまとめて捨ててみた。
今まで不要の服が占めていた空間が解放されて、確かに家の中がスッキリしたように思う。

しかし服を捨てるときに、胸の奥にかすかな「痛み」を感じたのは確かである。
週に2回あるゴミの日に、そういう痛みを感じることはない。
人間は、ゴミを捨てるときには痛みを感じない。
しかし日常の品を「ゴミ化」するとき、まだ実用に耐えるものをゴミに変換するときに、心に痛みを感じるものらしい。


TV番組などでアイドルが先輩の要らなくなった服を後輩がもらうみたいな話を時々している。
これは職業柄、私服も新しいのをどんどん導入していないと次の握手会に行けない、みたいなことがあって、しかし家の収納キャパシティには限界があって既存の服を処分しないといけない。
そういう時は捨てるのはストレスになるので誰かにあげてしまおう、ということなのだと思う。

服以外では書籍も捨てられないものの最右翼であろう。

ということで、服にしても書籍にしてもリサイクルショップができていて、不要のものを引き取ってくれる仕組みができている。

そう言えば先日来、ブックオフの経営悪化のニュースが流れている。
これは中古品ビジネスそのものが縮小したのではなくて、ブックオフの顧客がネットオークションに流れていっている結果らしい。

ブックオフには定期的にマンガなどを持ち込む固定客がいるのだろう。
そういう客は、少しでも高く売れるほうがいい。
手間を考えてもネットで売ったほうがよさそうなら当然そっちに流れるだろう。

しかしこの場合買取価格の高低だけが集客要素になって、それだとリサイクル業者的には厳しいのではないか。
もっと、物を手放す時の心の痛みを考えた商売を考えたほうがいいんじゃないか、とふと思ったのだが、もう考えてやっているところもあるのかもしれない。
いずれにしても、ものを捨てるのはなかなか大変だと思った。
posted by ヤス at 10:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月18日

寿命について

昔は人生50年といった。
現在の人間の平均寿命は、日本では80歳くらいのものである。
しかし他の動物では長生きするのがいるらしく、ある種類の魚は400年とか生きるというのがネットニュースで流れていた。
なんでもニシオンデンザメというサメの仲間らしい。

しかもこれは野生生活における寿命が400歳ということである。
野生動物では、怪我をしたり病気をしたりして五体満足で無くなると、おそらく生きていくことが難しいだろう。
そう考えるとこの寿命400年というのは、人間でいうところの健康寿命と考えて良いのではないかと思う。
それなりの活力を保ったままの寿命400年。

もし、人間が元気で400歳まで生きられるとしたらどうなるのかと少し想像した。
もっと卑近に自分があと300と何十年か生きられるとしたらどうか。

これはあるいは、今よりももっと怠け者になってしまうのではないかと思った。
現在の人間の寿命が80年くらいというのは、やはりそれなりに意味がある。
わたしの場合で言えば、平均寿命の真ん中をもう過ぎている。
今後の医療の進化を考えると、思いがけず100歳くらいまで元気に生きることができるかもしれない。
しかし平均余命の統計データからすると、あとせいぜい30年と少しくらいがいいところである。

死にかけるような大事故や大病を経験していないと、歳をとってもなかなか己の寿命の限界というのを実感できないもののようである。
しかし多くの人は平均寿命の折り返しを過ぎたあたりから、なんとなくではあるが「デッドエンド」の存在をぼんやりと感じるようになるのではないかと思う。


しかし、人間の平均寿命というのはなかなか絶妙な年数になっている。
何かを成すには短く何もしないには長いとはよく言ったもんで、しかし人は永遠に生きられないからこそ生きているうちにやりたいことをやってしまおう、と思うのだろう。
人間の行動が動機付けられる根底には、人はいつか死ぬというシンプルな理屈がある。

しかもそれが300年とか500年でなくてせいぜい100年足らずというのが非常に良い。
微妙に焦る年数である。
もし人間の平均寿命がニシオンデンザメ並みであれば、今の社会の様子も相当に違ったものになっていたのかもしれない。

あるいは寿命が50年とか80年とかいうのに合わせて、人間は行動の選択をしているのかもしれない。
ということえ当たり前のことであるが、寿命のタイムスケールが人間の行動に与える影響はかなり大きいというのを、ちょっと思った。
posted by ヤス at 12:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月17日

私への理解

最近YouTubeを見ていて、その中に「ガイジン」が日本で暮らしていて感じることをレポートするのがあったのだが、そこでガイジンさんが「だいじょうぶです」「けっこうです」「いいです」などの使い方が難しいというのを言っていた。

英語表現では「Do you need this?」と尋ねられたら、要るときは「Yse」要らなければ「No」と答えれば良い。
しかし日本語の場合、「これ要る?」と尋ねられたら、どちらかというと直接的に「要らない」とはなかなか言わない。
たいていの場合、「だいじょうぶです」「けっこうです」「いいです」などという。
しかしこれらの表現は、表面的な意味としては「Yes」である。

そこの使い方が日本語ネイティブでないガイジンさんには難しいらしい。

よく考えてみると、このような表面的に肯定的な表現で否定の意味を伝える方法は、コミュニケーションとしてはかなり回りくどい。
家族や親しい友人同士なら、「要る?」「要らない」というシンプルな問答が成立もするのだろうが、少し対人関係の距離が離れると、そういう直接的なやりとりが困難になるようである。

例えば「けっこうです」についてである。
本来の「結構」は、「非常に」くらいの意味なんだろうと思う。
「結構なお味です」「結構なお値段」とか、「非常に」「ものすごく」など程度がすごいようすを表すと思われる。

それが否定に使われるときは、「ビールもう一杯どうよ?」「結構です」というのは、「もう結構な量をいただいたので要らないよ」というニュアンスを略しての「結構です」なのではないかと思う。
ただ直接否定の答えを返すと相手に申し訳ないというのがあって、結構な量をいただいて満足したよ、だからもう要らないよ、というのを伝えているようである。


しばしば日本人は単一民族であると言われる。
実際、言語的にも文化的にもまあまあ全国共通していて、その意味では日本人同士なら相手の腹の中はだいたい想像できそうなものである。
逆に言語や文化・宗教など様々なバックグラウンドの人でできている社会では、相手が何を考えているのかわからないことも多かろう。

相手のことが比較的わかる日本においてコミュニケーションが婉曲に、優しい感じになって、わからない人同士の社会で直接的になるのは、どういうことなのか。
わからない同士では、他に解釈の余地がないようにスッパリやりとりした方が誤解が生じない、逆にわかっている同士では、「そこのところわかってよ」という感じのやりとりになる。

つまり日本的なコミュニケーションは、「私への理解」を相手に強いる部分があるのだと思う。
こういうことは外国であっても、例えば企業同士のやりとり、外交的な駆け引きなどではままあると思う。

で、日本ではそういう高度な駆け引きを日常「庶民同士」でやっているのに、企業や国のレベルの駆け引きが必ずしも上手くないのはどうしてだろうか、などとちょっと思ったのでした。
posted by ヤス at 10:34| Comment(0) | 徒然なるままに