2017年11月27日

ロックについて

突然だが、「ロック」とは何かについて考えてみる。
ロックというのは、あの音楽のロックのことである。
と書いてみて、自分はロックにまったく縁がなく、知識もないことに気がついた。

その、ロックに縁がなく知識もない自分がロックで思いつくのは、昨年のノーベル文学賞のボブ・ディランの受賞のことである。
念のために、ボブ・ディランがロッカーであるのかどうかをネットで検索してみた。
そうしたらボブ・ディランはアコースティックギターをエレキに持ち替えた時点でロッカーになったのだ、と書いてあった。
だからボブ・ディランはロッカーなのだろう。

ところでボブ・ディランがロッカーであるとして、彼がノーベル文学賞を最終的に受け入れたことはどう捉えるべきなのだろうか。
あの時は10月に受賞の発表があってその時は姿をくらましていて、12月の授賞式も欠席した。
ネット情報では、ノーベル文学賞の賞金約1億円をもらうためには授賞式から6ヶ月以内に「業績にまつわる講演」をしないといけないらしい。
でボブ・ディランはその期限の6日前の2017年6月4日になってようやく27分の音声のみの「講演」を発表したらしい。
その講演は古代ギリシャのホメロスを引用したりしたそれなりに格調高いものだったらしいが、内容についてはよく知らない。

結局のところ、ボブ・ディランはギリギリのタイミングで賞金1億円をも受け入れる判断をしたらしい。
さて、この判断は果たして「ロック」な判断だったのだろうか。

この世の中は、数々の不条理に溢れている。
日本は色々と問題もあるけれど、それでもそれなりに豊かで平和な良い環境が整っていると思う。
その環境の整った日本の中でさえ人並みの生活を維持するためには、ある程度の不条理を飲み込み、あるいは自ら積極的に揉み手擦り手の態度をとったり、お世辞や建て前の言葉を発していく必要もある。

わたしの勝手な判断としては、そのような一般人が避けて通れない社会の不条理、甘んじて受け入れざるをえない「苦い思い」を、ロッカーのみなさんは彼ら一般人に成り代わってすべて拒絶して生きてみせる、みたいなイメージを思い描いている。

それでボブ・ディランのノーベル賞。
報道によると本人はかなり早い段階で受賞受け入れを決めていたようである。
ノーベル賞という大きな権威からの「認定」を受け入れたというのも自分的にはロックンロールじゃない感じがしたし、さんざんじらした挙句、ギリギリのタイミングで賞金を受け取る判断をしたというのもわたしの考えるロックとやや遠い。

まあそういう俗っぽい感じ、褒められてとりあえず単純に喜ぶ感じもロッカーらしさなのかもしれない。
それに賞金もどこかに黙って寄付したりしているかもしれないし。(喜んでポケットに入れている気もするが)

ということでボブ・ディランのノーベル賞受賞を軸にロックとは何かを解き明かそうと思ったのだが、逆にロックの奥深さを思い知らされる結果となった。
おしまい。
posted by ヤス at 13:54| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月26日

信じること迷うこと

自分を信じるというのは意外に難しい。
神様を信じるとか命がけの信念を信じるとか、そういうたいそうなことではなくて、ある選択肢AとBがあって、それはビーフバーガーの方が美味いかチキンの方がいいかという時にチキンを選んで、たぶんチキンの方が美味いに違いないというような時の、自分の選択を信じる気持ちとかの話である。

そういう自分の選択を信じる時には幾らかの根拠がまああるわけで、根拠も何もなくただの直感で自分を信じようという場合もあるにはあるが、何かの裏付けがあった方が信じる気持ちが強くなるというのは確かである。
それで実際にチキンバーガーを食べたら大したことなくてやっぱりビーフの方が美味かったということになっても、その程度のリスクであればまず許容の範囲内。

この間アベマTVで将棋を見ていて、それは藤井聡太四段のプロ通算50勝目を上げることになる対局だったのだが、この時は藤井四段が途中指し手に迷ったりしてちょっと苦戦していたように見えた。
それで将棋の対局を見ていると、自分の指し手に自信を持つことの難しさ、というのを少し感じたりする。
将棋の「次の一手」には、たぶん膨大な可能性の中から一つだけを選び出すというスリリング感というか、大きな困難性がある。
わたしは将棋の素人なので実際のところはよく分からないが、プロの棋士というのは、これから展開されるおおよその流れをイメージしながら将棋を指しているに違いない。
その、自分が頭で思い描いている棋譜のイメージ通りに進むかどうか、それは相手のあることだからよく分からない。
分からないと不安になり、自分のイメージに自信が持てなくなることもあるだろう。
自分のイメージを信じることができないと、指し手に迷いが生じ、余計な手を挟んだりして墓穴を掘ることもあるのではないかと思ったりもする。

難しい選択であればあるほど、自分のイメージが外れることも多いに違いない。
しかし、対局中の棋士の場合、持ち時間は決まっていて迷ってばかりもいられない。
あるところで見切りをつけてズバッと指さないわけにはいかない。

このような決断せざるを得ない場面で「迷う」ことは、本当はたぶんほとんど意味のないことである。
にも関わらず多くの人は迷い、自分を信じることに躊躇する。

ただ多くの決断は、それが即破滅的な意味を持つというほどには重大でない。
プロ棋士は勝ったり負けたりが常なので、そういう割り切りが大切な意味を持つだろう。
逆にいうとその決断が破滅的な結果をもたらさないように地ならしをしておくと迷いにくい、そういう決断のための環境整備によって、迷うこと、自分を信じられなくなることを事前に防止出来るのではないかと思ったりする。

何れにしても自分を信じることは難しい。
だがいつまでも迷っていてもしょうがない、ということもものすごく感じたりする今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 10:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月25日

習慣について

「心が変われば行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば運命が変わる」

というのは元野球選手の松井秀喜の座右の銘であるそうだ。
これは少し昔のアメリカの哲学者の言葉がもとであるとのことだが、似たような言葉は元野球監督の野村克也の著作にも出てくる。

「心が変われば態度が変わる、態度が変われば行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば運命が変わる、運命が変われば人生が変わる」

こっちの方が少し長い。
またこっちの出典はヒンズー教の教えとして紹介されているらしい。
両方とも心が変わるところから始まり、途中で習慣と人格が変わるのが共通項であるが、違うのは、最後運命で終わるか人生で終わるか、である。

これらの格言の出典や細かい字句内容は、まあどうでもいいのだけれど、思うのは、やはり習慣を変えることの大切さ、という点である。
重大な成果を上げるために膨大な作業量、努力量が求められている時、これをいっきにやっつけることが到底無理そうな時には、毎日ちょっとずつの積み重ねというのが必要になってくる。
それは、膨大な作業を日々少しずつ積み重ねていくということもあるし、作業能力そのものを少しずつ上げていくという戦略的意味合いもある。

そういう意味で習慣化というのは、何か事を成し遂げるのには極めて有効なメソッドであるように思われる。
しかし問題は、「三日坊主」という金言に代表されるように、有用な習慣はなかなか定着させることが難しいということである。

だが一方で、毎日のルーティンというのは、人間生活の構成要素としてかなり基本的なものでもある。
決まった時間に起きて、歯を磨いて、飯を食って、という風に無意識に行動する順番が決まっていると、脳みそにおける余計なスケジューリング作業の負荷が無くなって精神的に楽になる、ということはあると思う。

その辺りの脳みその傾向を上手く利用し、またやや辛い作業であっても、それをあまり大きくストレスを感じないくらいのレベルの、十分に小さい作業単位に区切って日々に割り振ることで、三日坊主を免れる確率が上がると思う。
さらに言えば、三日坊主をあまり恐れすぎないことも重要で、習慣がある日途切れた場合にも、数日後にしれっと復活させるような気持ちの大胆さも必要だろう。
そのためにはわざと習慣を途中で止めてみる、そしてちょっと間を置いて復活させる、みたいな実験もやってみる価値はある。
それによって、習慣が途切れることによる精神的ダメージを事前に防ぐ事が出来る。

いずれにせよ、有意な習慣づくりというのは現代人にはかなり大切である、と思う。
posted by ヤス at 14:29| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月24日

出版業界復活のために

出版不況と言われて久しい。
ネットで検索したら経産省の平成14年3月付の資料が出てきた。
それによると出版業界は書籍・雑誌などを合わせて2兆4千億円くらいの業界規模らしい。
書籍が9,706億円、雑誌が1兆4260億円だそうである。
書籍出版点数が67,522点、同販売部数が7億7364万冊というから書籍1点当たりの部数は1万1千部ほどになる。
また雑誌は3433点(銘柄数)が出て販売部数は34億542万冊。
1銘柄当たり約百万部になる。
月刊誌なら月8万部、週刊誌なら週2万部。

ぱっと見この数字が多いのか少ないのか判別できないが、昔と比べたたら随分と量が減っているのだろう。
書籍・雑誌以上に新聞の部数減少も深刻のようで、この辺の事情は世界的な趨勢でもあるようだ。
そのあたりの状況から最近は若者の活字離れ、などということも言われる。
しかし単純に若者が文字を読まなくなった、というわけでもないと思う。
現代の人類は、メールを書いたりブログを書いたり、あるいはTwitterでつぶやいたりFacebookに投稿したりLINEでメッセージをやりとりしたり、けっこうな頻度で「執筆活動」を行なっているように見える。
送られてきたメッセージを読む機会も多いだろうし、ネットニュースや有名人のブログを読んだり、というような行動もごく日常的になっている。
現代人は紙に印刷された活字を読むことは減っているかもしれないが、文字を通じたコミュニケーションは有史以来最高潮に活性化しているような気がする。

さて、この状況下における出版業界であるが、出版不況というのはネットを通じた文字コミュニケーションの活性化に食われた結果なのではないか、という風にも見えるのである。
にも関わらず書籍出版のあり方はあまり進化しているように思われない。

逆にネットを中心に情報発信しているホリエモンみたいな有名人は、コミュニケーション経路のひとつとして紙の書籍を有効利用しているようだ。
そこには紙の書籍を使うことで、ネットだけではリーチできない層にもメッセージを届けることができる、という考え方があるようである。
紙の書籍のリーチできる先には、スマホも持たずネットにもほとんどアクセスしない中高年層とかがいる。
逆にいうと紙の出版物はそういう層への貴重なアプローチの手段としての価値を持っているという事になる。

あるいは、紙の出版物は電子書籍にはない「物体としての価値」を持ちうる。
形があり色や肌触りがある事で物体としての愛着が発生しうるし、インテリア、ファッションとしての存在価値もあるだろう。
出版業界復活のためには、その辺の、紙の書籍の存在価値を再定義する事が必要なのだと思う。
posted by ヤス at 08:43| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月23日

図書館と無料戦略

この間、10月中旬のニュースに、お笑い芸人のキングコング西野亮廣が全国の図書館5500館に自著「えんとつ町のプペル」の絵本を無料贈呈する件があった。
これはその直前に文藝春秋の社長が図書館関係者の集まりで「文庫本は借りずに買ってください」などと発言したことを受けてのものだそうである。
西野氏はこの以前に自著の絵本をYouTubeで無料公開し、その後絵本の拡販に成功している。
そんな折に飛び出した文藝春秋社長の発言を聞いて、「無料公開した方が本の売上拡大に効果がある」ことを証明したいと思ったようだ。

以前に絵本の無料公開を西野氏がTwitterでツイートしたところ、各方面から批判の声が上がり、見ていた感じ賛同の声より反対意見が圧倒的に多いようだった。
で、結果は、それまで25万部で一旦頭打ちしていた絵本の販売部数が33万部まで伸びたという。
西野氏によると、絵本というのは親が子供に買い与えるにあたり、必ず中身を確認してから買いたい商品であるそうだ。
だからぽっと出の内容のよく知られていない新しい絵本は販売に苦戦する。
そして「グリとグラ」とかの古典が根強く売れる。
だから無料公開して中身を一旦確認してもらおう、と思ったのだろう。

無料で中身を見た人たちは、それなりに多くの人が「これなら要らないや」と思って買わない。
しかし一方でそれなりの人数が「これは買おう」と思って買う。
今まで西野氏の絵本に接点のなかった圧倒的多数の人々が絵本の中身を確認する機会を得ることができ、その結果効果的な販売促進となり得たようである。

さて、文庫本ではどうなのだろうと思う。

文字ばかりの文庫本と、小さい子供も読む絵本とでは微妙に違うようにも思う。
また読書するのに「図書館を利用する人」の分布と「本を買う人」の分布はちょっとずれているようにも思われる。
両者の分布が重なっているところの面積がなるべく多い方が「無料配布」の販促効果は高くなるのだろう。

統計データによると国内図書館の利用者登録数は3000万人強いる。
そして貸出冊数は年間一人当たり3.6冊くらい。
2万部3万部売れればヒットの出版業界にとって、この数字はかなり影響のある規模のように見える。

出版業界が販売戦略上図書館を上手く利用するには、その戦略に効果的な工夫が必要な気がする。

考えてみると、紙の書籍のスタイルは大昔から驚くほど変わっていないと思う。
AKBは握手券をつけてCDを大量販売する事に成功した。
AKBの方法が良かったかどうかの評価はともかく、紙の書籍も今の時代、買いたくなる工夫が何か必要であろうことは間違いない。

出版業界にはその工夫がものすごく足りないように感じる。
そして工夫が足りない限り、やっぱり図書館に実際に需要を食われているという文藝春秋社長の心配は当たっているのではないかと想像する。

ならばどんな工夫がいいのか、という事については、また今度ゆっくり考えてみようと思う。
posted by ヤス at 10:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月22日

「欲しい」ものを作る能力

やや唐突だが、ふるさと納税の話である。
勉強不足でわたしはこの制度の詳細を正確にはよく知らない。
しかしふるさと納税には根本的な欠陥があるような気がしてならない。

そもそもふるさと納税が始まった頃は、自分の生まれ故郷や応援したい地域に税金を納めたい、というニーズに対し生まれた制度だったような記憶がある。
だから最初の頃は「返礼品」なるものは存在せず、単に自分の住民票がない市町村にも税金が納められる制度、だったような記憶がある。

ともかくも、いつの間にか「返礼品」の制度が生まれて応援したい自治体への税納付という基本形がくずれ、そろばん勘定的にお得な返礼品を手に入れるための制度、に変質したように見えるのである。

返礼品の制度に関しては、「ふるさとの特産品」が結果としてたくさん売れてその地域の産業の活性化になる、という理屈なのだろうが、この点についても少し疑問がある。

ふるさと納税した人は市場価格より相当に安い価格で返礼品を入手することが出来る。
それがふるさと納税の、納税者のメリットである。
しかしこの結果何が起こるかというと、ふるさと納税によって拡販された返礼品は、本来の市場における実力以上に売れることになり、「返礼品に指定されていない競合品で返礼品より価値の高いもの」のマーケットを圧迫することになる。
つまり返礼品になることでその商品は実力以上の価値を持つことになるのではないか。

2015年のふるさと納税の利用者は130万人、寄附金額は1500億円くらいらしい。
日本の個人の市町村民税は7兆円くらい、県民税が5兆円、国の所得税が16兆円くらいのレベルらしい。
なので1500億円というとまだまだ割合としては小さいが、しかし見ようによっては意外に大きい数字のようにも思えてきた。

物が売れるためには消費者が「欲しい」と思うことが基本である。
欲しいと思うことのきっかけはいろいろある。
おなかが減ったのでご飯が欲しい、どうせ食べるなら美味しいのが欲しい、ついでのことに美味しいご飯で女の子といい感じになりたいので雰囲気のいいお店が欲しい、みたいな感じで「欲しい」のありようにもいろいろあるのだろう。

売り物を作る側はそういう消費者心理を一生懸命考えて、みんなが欲しがりそうな物を作り、欲しがりそうなギリギリの値段を設定してもっとも適切な方法で売る努力をする。
「返礼品」の制度はそういう基本原理をないがしろにしかねない恐れがある。

逆に、ここまで返礼品の制度が盛り上がっているのは、みんなが「欲しい」と思うものを作り出すのがいかに難しいかということを示しているような気もする。
いずれにしてもみんなが欲しがる商品を作り出す能力や努力はきわめて貴重である、と思った。
posted by ヤス at 11:41| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月21日

最近の不倫報道より

昨日はモンゴル人力士の暴力事件報道について書いたが、そういえば最近報道でよく取り上げられているのに「不倫」があるのに思いが至った。
ニュースを見るとテレビにおける不倫報道は最近の2年間で以前の6倍くらいに増えているらしい。
これは現象としては明らかにベッキー事件が影響しているのだろう。
約2年前に、好感度タレントのベッキーが不倫をしていた文春砲が炸裂して、その意外性やLINE流出などの衝撃が昨今の不倫バブルを生み出したと想像する。

その後も次々にいろんなジャンルの有名人の不倫報道が出て来て、それぞれ少しずつ違う角度から話題になったりしたようである。
世の中の一部には、不倫不倫と馬鹿騒ぎしすぎだという批判の声もあってわたしも基本その立場である。
不倫はあくまで当事者間の問題であり、よくある対象不明の謝罪会見とかの映像を観ると、世の中的な不倫断罪の空気にものすごく疑問を抱かざるを得ない。

以下かなり不正確かもしれないが、わたしの個人的な観測である。

昨今の不倫報道の構図は、最初に文春や新潮などの週刊誌が写真付きのスクープを出し、記事の出版前に関係者やテレビに事前告知が発せられて「盛り上げ」の段取りが組まれる。
週刊誌発売と並行してテレビが一斉にワイドショーなどで取り上げ、不倫当事者は週刊誌の事前告知からの短時間に「謝罪戦略」を練り、謝罪会見を開く。(沈黙の場合もあるようだが)
そして最近の定番は、週刊誌が続報を2弾3弾と用意していることである。

不倫の第一発見者はおおよそ週刊誌と相場が決まっているように見える。
つまり週刊誌は、最初期のあやふやなタレコミ情報などを基に記者を張り付けてスクープの瞬間を狙う。
そういう取材活動には当然記者の人件費をはじめコストがかかるわけだが、おそらく不倫記事はそのコストをカバーするに十分な販売量を確保できるということなのだろう。

この場合テレビは、付和雷同的に雑誌のスクープに乗っているだけのように見える。
あるいは最近だと当事者やそこに親しい関係者とか、またはあんまり関係のない人たちがTwitterやFacebookなどで発言して話題になったりする。
そういうネットの盛り上がりをテレビは追いかけたりもする。

こういう構造を想像すると、テレビというのは単なる追いかけメディアでありある種の壮大な「まとめサイト」であるのではないか、と思う。
テレビ番組には、独自取材に基づいたユニークな視点のものも一部にはあると思うのだが、全体的にまとめサイト体質、他人のフンドシ体質がだんだんとひどくなっているような気がする。
というわけでで、メディアの中では経済規模が一番大きいテレビが、各メディアの中で一番のコピペ体質であるところがかなり重大な問題なんじゃないか、というのを少し思ったりした。
posted by ヤス at 08:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月20日

遊牧戦士の暴力事件について

最近、ニュースで大相撲の日馬富士と貴ノ岩の暴力沙汰の一件を毎日見る。
このニュース、もうだいぶ前から報道しているが、後から出てくる情報が当初の報道と食い違いが多くて何が本当やらよく分からない。
わたしはこのニュースを横目で見ながら、しかしあまり突っ込んで調べてみようかと思うほどの好奇心が湧いてこないので流れてくるネットニュースをチラ見するくらいで済ませている。
だから事の真相をあれこれ詮索するほどの知識を持ち合わせていない。

この事件は恒例となっていたモンゴル出身力士の酒宴の席で起きた事らしい、というのはかろうじて理解している。
部屋や番付を超えて、モンゴル出身力士が集まってお互いを激励する意味で酒宴を行なっていたのだろう。

幸いと言っていいと思うのだが、貴ノ岩の怪我は親方の貴乃花が心配するほどに大きくはないらしい。
わたしは貴乃花にはかなり好意的な立場であるが、彼の存在が事件をややこしくしているのはほぼ確からしいとも思う。

しかしである。
やや不謹慎であるが、今回の事件がモンゴル人力士の酒宴で起きたという事に、わたしはある種の歴史的憧憬を感じたりする。
モンゴル人である、ということは、ユーラシアの平原を馬にまたがって暴れまわったチンギス・ハーンの末裔であるということである。
ある時代には中華帝国を蹂躙し略奪の限りを尽くし、ある時はアラビアやヨーロッパの諸都市を根絶やしに滅ぼした、そういう戦士の血を継いだモンゴル人力士が酒宴の席で小突き合いをしたからどうだというのだろう。

貴乃花は真面目なので、暴力事件の発生がどうしても許せない気持ちがあったのかもしれず、あるいは今回の事件以前に相撲協会組織との軋轢があったのかもしれない。
その辺の貴乃花親方周辺の事情はまったくよく分からないのだが、こと酒宴の席での小突き合いだけに注目するならば、彼らはそもそもモンゴル戦士の末裔だという点を少し割り引いて考えるべきだと思う。

今回トラブルの渦中にある当事者たちは、本場所を休んだりかなり大変な状況になっているようだが、少なくとも周辺にいる人間の見方としては、彼らが誇り高き遊牧戦士の末裔だという点を頭に入れて、もうちょっと鷹揚に見守った方がいいんじゃなかろうか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 15:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月19日

企業の不正防止に必要なもの

このところ企業の不祥事のニュースがけっこう続いた。
神戸製鋼の品質検査不正、日産・スバルの無資格検査問題などである。
その前には三菱自動車・スズキの燃費不正事件もあった。(三菱とスズキで問題の深刻度はかなり違ったが)
これらの不正が発覚した企業はいずれも日本を代表する優良企業だと思われていた。
にも関わらずその優良企業が意外なくらいにずさんな不正を働いていたところに驚きがあったのだと思う。

一般論でいうと、企業における違法行為や不道徳行為はある程度の確率で必ず発生するものだと思う。
会社というのは一定以上の利益を出していないと潰れてしまう。
いつの時代も利益を出すための最も手っ取り早い方法は脱法行為を働いてそこにかかるはずだったコストを節約することだろう。
そういう意味で規模の大小を問わず、企業は不正行為を働く動機を背負いながら毎日仕事をしていると言える。

このところずっと問題になっている過剰労働問題にしても、労働力を最大限「効率的」に活用することで利益を増やしたい、もしくは増やさないと潰れてしまう、という企業側の差し迫った願望がそこにはある。
あるいは借金で首が回らなくなった社員が会社のお金を失敬するとかいうこともけっこうたくさんあるだろう。
個人でも組織でも、切羽詰まると人間何をしでかすか分からないのである。

だからある一定割合の「不正行為企業」が世の中には存在していると推測されるし、あるいはそれなりに大きな規模の企業であれば、何らかの不正がどこかの部署で必ず行われていると考えるべきだろう。

最近発覚した神戸製鋼や日産・スバルの問題に関して言えば、これは製造現場のある種の過信がもたらしたような気もする。
これらの問題はいずれも製造工程の最終段階の「製品検査」の問題だった。
製造現場では高度な技術を使って高品質・高精度の製品を作っている自負があったと想像する。
だから最終検査は形式的な儀式で構わない、という意識がどこかにあったのではないか。

時代は進み、科学技術も日々進化している。
いろんな産業が成熟して競争が激化し、劣後した企業はとっくに潰れて生き残った企業は熾烈なつばぜり合いを繰り広げている。
こういう時代に企業に一番必要なのは「創造性」とか「革新性」とかでレッドオーシャンを抜け出すことだと思う。
しかし多くの企業では創造性も革新性も低調で、それが不正発生の原因になっていると思う。

逆に言うと、クリエイティブでイノベーティブな企業にはこの種の不正問題は起こりにくいのではないか、と思ったりした。
posted by ヤス at 09:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月18日

初期値のズレ

以前軍事関係のニュースで、「最長射撃距離の世界記録」が更新されたというのがあった。
その距離は3,450mという。
3.5km先の目標に弾丸が届くまで約10秒もかかるという。
風の影響や地球の自転による力、そして目標物が動いてしまう可能性なども考えるとまさに神業と言える。
この記録を作ったのはカナダ軍特殊部隊のスナイパーである。
カナダ軍は世界記録のベスト4まで独占していて、これは幼い頃から狩猟に親しんでいてそうなったのだろうか、などと想像したりする。(カナダ人と狩猟との関係はよく知らない、想像だ)

そして記録を作った狙撃銃は50口径のマクミランTAC-50という、直径12.7mmの馬鹿でかい銃弾を発射する「アンチマテリアル・ライフル」というのに分類される銃だという。
この銃は車両などを撃つためのもので、ハーグ陸戦条約で対人使用が禁止されているのではないかという気がするのだが、まあその辺もよく分からない。

とにもかくにも、遠距離射撃で命中を得るには、銃口のちょっとしたズレも許されない。
銃口の向きが1/1000度ズレただけでも銃弾が1km飛んだら1mくらいの誤差になるはずである、たぶん。

話が少し飛ぶ。
テレビに出ているアイドルなんかでも、ものすごく人気のある人物とそれほどでもない人がいたりするのは普通のことだ。
でこの両者の違い、実力の差はいかほどかと考えてみるのだが、案外人気の差ほどに実力に違いがないように思うことが多い。
下手をすると人気のないアイドルの方がちょっと可愛いとか、面白いとかいうことだってあるかもしれない。

このようなことをぼんやり考えていて、冒頭の狙撃のライフルの銃口のズレが頭に浮かんだ(ような気がした)。
アイドルのみならずテレビタレントの人気というのは、初期値のほんの小さなズレがその後に大きな差異となって現れるのではないか。
初期値のズレ、ちょっとした努力量の差、努力内容の差が1年、5年と積み重なって数倍数十倍、あるいは数千倍数万倍の人気の差になるのではないかと思った。

あるいはプロ野球の世界とか、プロ棋士の世界。
プロになるような選手というのは人並みはずれた能力を持っている。
そしてその能力差はプロ同士で比べると何倍も離れているということはたぶんない。
にも関わらずかたや二軍で年棒500万円、かたや大リーグ入りして10億円とかの差がつく。
この200倍の年棒格差は、両選手のわずかなやり方の違い、向いている方向のかすかな違いがもたらしたものなのではないか。

ということで老い先短いわたしも、今更であるが今後はもっとシビアに銃口の向きを考えねばならぬ、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:31| Comment(0) | 徒然なるままに