2017年08月01日

議員先生の不倫問題など

今さら力強く言うのもなんであるが、日本の代議制民主主義はかなりの危機的状況にあると思う。
国会議員も地方議員の先生も、不倫問題に歳費の不正疑惑などが後を絶たない。
しかし議員の先生はたくさんいる。
定数で衆院475、参院242、地方議員は県議市区町村議が約3万3千人もいるらしい。
問題となっているケースはその3万人以上の先生方のごくごく一部なのであろう。

しかし逆に考えると、ゴキブリを一匹見かけたら見えないところにもっと隠れている、の理屈で見えないところに不倫や不正経理の事例がゴマンとうごめいているのかもしれない。
まあ議員の先生も我々と同じ人間であるから、不倫騒動などは下界の人間と同じ発生確率で生じてもなんの不思議もないわけではある。

しかしわたしとしては、不倫問題にはあまり関心はない。
そもそも仕事のできる人間の一つのタイプとしてサイコパス的な、人間的感情がやや欠落したタイプの人というのも時々いるものである。
人間的感情が欠落しているからこそ上手くできる仕事というのも当然あるわけであり、同様の理論で女たらしや男たらしの才能を持った人間であるからこそできる仕事というのもあるかもしれない。(あるいは無いかもしれない)

いずれにしても、不倫の癖が即議員失格となる考え方には必ずしも賛同できない。
できることなら、これまでに不倫問題を起こした議員の業績内容をつぶさに調査し定量的に分析して、不倫の癖と議員能力の相関関係について明らかにするような社会学的研究などすると面白いかもしれない。(結果は大して面白くないかもしれないが)


それとこれも枚挙にいとまがない議員先生方の不正経理問題であるが、これは明らかにシステムの問題だと思う。
不正の起こりにくい透明性のあるシステムがこの国では未だに導入されていない。
どちらかというと、不正行為を助長する穴だらけのシステムが温存されている。

なぜそうなっているかというと、これはつまるところ市民の関心がそこに向いていないということだと思う。
よく言われるところの「民度が低い」というやつである。

我々一般市民も、その多くが心のどこかで棚から落ちてくるボタ餅にありつきたいと思っているのだろう。
そのメンタリティがゆるゆるのシステムを温存する結果につながっている気がする。

現在の議会の姿というのは、選挙民の姿を写す鏡なんだというのを選挙民は時々思い出した方がいいと思う。
posted by ヤス at 09:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月31日

ネット炎上について

ネットの世界では随所で大小の「炎上」事象が発生している。
ネットの世界で炎上が発生しやすいのは、テキストだけのぶつかり合いでは相手の顔が見えないのでその内容に遠慮がなくなる、そういう分析は以前からある。
それに加えてSNSでは小さなボヤ騒ぎにあっという間に多数が群がって炎が激しくなる、ということもある。

一方でリアルの世界での意見のぶつかり合いでは、面と向かってきついことは言いにくいしその場に多数が群がることもほとんどない。
だから「炎上」はネット時代ならではの新しい事象である。

さらにこの炎上の背景には日本人の国民性もあるような気がする。
試しに海外の炎上事件をネットで調べてみると、ちょっと見た限りでは企業CMなどでの差別的表現に対するものが多いようである。
特にアメリカではウォルマートやターゲットなどの大企業が提供する商品に女性蔑視や人種差別、反社会的表現などがあった場合に炎上するというパターンが多い。

日本の炎上事件のように、個人(といっても芸能人や国会議員など著名人が多いが)の発言に対しそれにケンカを売るネット民が群がるという構図はあまりないのかもしれない。

このような構造の差をどのように説明すればいいのだろうか。

少し意地悪く、「日本的視点」に立ってアメリカのネット炎上を眺めると、ある意味すごく建前的な炎上であると言えなくもない。
大企業の反社会的行動に対し群衆が声を上げるというのでは、あまりに真っ当すぎて面白みがない。
対する日本の炎上では、「死ね」とか「殺すぞ」とかいう物騒な表現と共に心の奥底に沈殿している人間の醜い部分をありのままにさらけ出していて、ある意味こっちの方が人間的だと思う人もいるかもしれない。
(ちなみにわたしはそうは思ってません)

表現を換えるならアメリカ型の炎上は依然として抑制的でありその分建前的である。
しかし日本式はあくまで本音ベース、もっというと本音に塩コショウして「しっかり味」にしてから出しているようなしつこさも感じる。

これはあるいはキリスト教的倫理観の影響かもしれない、とも思う。
または日本人は、会議の場でも発言や質問とかしない人がとても多いと思うのだが、そういう日頃の抑制的姿勢から、我が身を縛るタガのないネットの世界ではついつい言いたい放題になる、ということなのかもしれない。

まあネットにおける下品な書き込みの大半はネット民の中の数%かそれ以下の限られた人々による、という研究もあるからあまり一概に断言はできない。

最後に一つ言っておくと、ニュースで流れてくるネット炎上事件はほとんど気分の悪いものばかりなので、いい加減こういうのをニュース化するのはやめませんか、ということである。
こういうのがニュースになるということは、それをけっこうな人数が見ているということで、その現状はかなり情けないのである。
posted by ヤス at 11:11| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月30日

緩和出口の心配

さて、昨今の日本の政治状況はいろいろ混乱している。
しかしわたしの目下の関心事として、日銀の金融緩和からの出口戦略の心配がある。

一部のリフレ派識者は、日銀保有の国債350兆円は政府と日銀の連結で見れば消えてなくなる、さらに日本政府には670兆円の保有資産があるので、実質的な借金額はそれと差し引きして考えるべきだということもよく聞く話だ。

しかし、日銀保有国債の債権放棄も政府資産売却による公債圧縮も、「含み」の数字で見る分にはなるほどそうなのだが、これらを実行することはおそらく不可能というのが悩ましいところだと思う。
だから連結で見れば国債残高が減るとか政府資産と債務の差額に注目すべきとかいう意見は、一種の精神安定剤以上のものではない。

最近日銀で金融緩和の出口戦略について議論が始まっているようだ。
ニュースによると日銀内部で出口の具体的なシミュレーションも行っているという。
金融緩和を止めた時、つまり今は毎年国債の買い入れを80兆円とか60兆円とか目標を決めて銀行から買い上げているわけだが、それを止めると国債価格がどのくらい下がるか(金利がどのくらい上がるか)、その場合の日銀の損失がどうなって財務状況がどうなるのか、そういったことをせっせと計算しているのだろう。

出口戦略でひとつポイントになるのは日銀に多額の損失が出て債務超過になる心配があることだ。
日銀は総資産が今年5月末に500兆円を超えたらしいが、自己資本は8兆円ほどしかないらしい。
ある試算によると出口にあたって日銀は年間数兆円から最大10兆円規模の損失が出て最悪一年で債務超過になる可能性も言われている。
(一方で日銀に損失は出ないというシミュレーションもある)

しかし日銀は数ある日本の企業の中で、間違いなく最も資金繰りが安定している。
だから債務超過になったくらいでは倒産しない。(というか原理として倒産しない)
だから識者の中には債務超過でもまったく問題ないという人がいる。

しかし例の「連結論」で考えると、日銀の損失は政府の損失になる。
連結論の立場からは、政府は日銀の損失を補填する必要があるだろう。
しかし緩和を停止し、つまり新規国債の発行が無い状態で政府がこれを補填することはきわめて難しい。
だから政府としては日銀の債務超過を「静観」する他に道はない。

まあ緩和からの出口で、もし日銀に損失が発生すればの話だが。

経済学の知識が乏しい人間がこのような心配をするのは時間の無駄かもしれない。
しかしアメリカFRBも緩和の出口に向けて動き出しているし、日銀の現在の膨らみきったバランスシートを見ても、あと2〜3年もすれば否応なく大問題になる。

日本の政治は現在いろいろと忙しそうだが、もっとこの問題に真剣に取り組むべきだと思う。
posted by ヤス at 13:58| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月29日

日本国債について

前からずっと疑問に思っていたことがあって、それは日銀の保有国債の行方についてである。
日銀のサイトで貸借対照表を確認してみると、平成29年3月期(28年度)では日銀の総資産は4,900,893億円(要するに490兆円)になっている。
一年前に比べて85兆円増加している。

資産の中で一番大きいのが言うまでもなく「国債」で、3,491,955億円(要するに349兆円)である。
ちなみにそのうちの長期国債(10年以上)は3,018,986億円(要するに302兆円)。

ある議論によると、このおよそ350兆円の国債が日銀と日本政府の連結決算で相殺されて消えて無くなると言う。
日銀は政府が55%を出資している政府の子会社であるから、日銀・政府の資産・負債項目が相殺できるというのはいちおう理屈に合っている感じがする。

しかしそうなると、政府は日銀が引き受けることを前提に無限に国債が発行できることになる。
国債の日銀直接引受は財政法により禁止されている。
だから日銀は市場を通じて銀行から国債を買っている。
したがって、銀行が何かの理由(例えば国債価格暴落など)で国債を買わなくなると日銀は国債の「間接」引き受けができなくなり、そうなるとそこで日本政府はそれ以上借金ができなくなる。

話を少し元に戻す。
政府・日銀の連結で国債が相殺できると言うが、では実際に日銀が国債の債権放棄を実行したらどうなるのか。
これについてはネットで調べても本を読んでもどこにもズバリこうなる、という明瞭な答えが書いていない。
だからあてずっぽの推測をしてみる。

日銀が保有する349兆円の国債、日本政府の借金を債権放棄した場合。
3月末時点で日本政府の借金は1,071兆円あるのでそれが722兆円になる。
依然として多いがかなり減ることは減った。

しかし政府・日銀の連結バランスシートは債権放棄前と寸分変わらない。
損益的にも利払いの「行って来い」が無くなるだけなので変わらないはずだ。
問題はここでインフレになるかどうかだ。
一定水準以上のインフレになった場合、いわゆる「インフレ税」による国民負担が生じる。
日銀券は350兆円分の裏付け資産を失うのでその分のインフレになるのではないか。
ものの道理としてはこれが自然の流れのように思えてしょうがない。

さらに少し方向を変えて、日銀が今持っている国債を売却し始めたらどうなるか。
売却規模にもよるだろうけれど、日銀は現在年間60兆円国債を買い進めており(昨年まで80兆円だった)、それを止めるだけでもかなりの影響がありそうだ。
まず国債価格が下がる、言い換えると金利が上がる。
そしてインフレになる。

問題は、インフレ傾向に振れた時に日銀がそれに適切にブレーキがかけられるかどうかだ。
ブレーキが失敗して高率のインフレが生じるとやはり「インフレ税」により国民は窮乏化する。

ただしインフレの良いところは、これによって政府の借金が減ることである。
いずれにしても、政府の借金は国債という名の未来の税金か、物価上昇による「インフレ税」か、あるいは消費増税などなどによる直接の税金、そのいずれかによって弁済されるほかないのではないか、というのが、あんまり面白くもなんともないがわたしの当面の結論である。
posted by ヤス at 10:51| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月28日

最近の政治について

さて、日本の政治は森友問題とそれに続く加計問題で揺れている。
当初わたしはこの問題は政権側がのらりくらりでかわしてそのうち収束してしまうのだろうと予測していた。
しかしそうはならなかったわけで、その原因としては政権側の危機管理の甘さがあったような気がする。

一連の問題は疑惑の段階であって、何か具体的な違法行為が認定されたわけではない。
しかし政治問題としては違法認定の有無はそれほど問題ではないだろう。
それよりは国会や記者会見などでの首相はじめとする政権側の人々の姿が国民にどう映るかが問題である。

そこのところが現政権には正確に見えていなかった。
ついでに言うと森友や加計の学校認可に至る一連のプロセスも非常に鷹揚な感じで、悪く言えば雑な感じであり、そこには将来問題が疑惑化したときに備えて何か布石を打っておこうという感じが全然ない。

一連の問題が仮に何の不正もなく行政手続も政治の関与も適法であった場合でも、将来あらぬ疑惑がかけられないように身ぎれいにしておこうという配慮があったように見えないのである。

「政治的」には疑惑がかけられると一定のダメージが生じるのは確実なのであり、そのへんの配慮が足りなかったのは一強体制のおごりと言われてもしょうがない。

何かもう政権の終わりが近いような書きぶりになってしまったが、もちろん当分の間現体制が続くことはまだあると思う。


ところで今回の問題がここまで大きくなった背景には、経済問題が実は大きく作用したように思う。
安倍政権が誕生した当初の平成12年12月頃は、リーマンショックと東日本大震災による経済的な落ち込みから自律的に回復している途上にあった時期である。
いったんドンと下がったところから元の水準に回復するその上昇気流に安倍政権は上手く乗って力を発揮してきたのだと思う。

この間に株価も上がり企業利益も増加した。
しかしそこから4年余り経過して自律的回復が一服すると、今度は下がり続ける実質賃金や達成のめどが立たない日銀のインフレ目標などがだんだん目立ってきた。

その中で当初喧伝されていた「三本の矢」もほとんど話題にのぼらなくなり、代わって打ち出した「新三本の矢」「一億総活躍」もどうも不発のようで、安倍政権としてはこれまで政策運営を下支えして来た経済的成果が見込めなくなり、それとともに政権は「神通力」を失ったようである。

しかし今の経済的状況を考えると、安倍さんが続けるにせよ他の人に代わるにせよ、今年後半以降の政権運営は少なくとも経済的には相当に厳しいと思う。
posted by ヤス at 12:22| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月27日

未来の組織について

前にも書いたが、今サラリーマン社会が曲がり角を迎えているように思える。
二百年以上昔の社会では、労働者というのは農業従事者や街の自営業者が圧倒的多数であり、「宮仕え」の身分はかなりの少数派だったと思う。
それが産業革命と資本主義企業経済の発展で、会社に雇われる労働者が多数派になった。

特に20世紀までは、工場や小売店などで比較的単純な定型労働がたくさんあって、そこに大量の労働者需要があったわけであるが、21世紀になって情報技術の進展による省力化がどんどん進んできた。
20世紀半ばから進行していたロボット化と合わせて、単位生産量あたりの必要労働者数というのがだんだん少なくて済むようになってきた。

さらに、人工知能が実用化されればかなり複雑な労働も「機械」に置き換えられようかという時代がやってこようとしている、と言われている。

果たして本当にそんな時代がやってくるのかにわかには信じられないわけであるが、しかし人間を雇うより人工知能化した方がコスト的に有利ということになれば、そっちの方に傾くのが道理だろう。


さらに、ビットコインなどで脚光を浴びた「ブロックチェーン」の技術が出てきて従来からの組織のあり方がかなり変わる可能性が出てきたのではないかと思う。

人間は社会的動物であって、現代では会社とか国家とか町内会とか様々な組織が機能して人間の世の中は出来上がっている。
そして組織というのはその維持のために「引力」が必要である。

会社であればそれは経済的利益であり、組織として協力して事業にあたりお金を稼いでみんなに分配する、そういうご利益を共有することで維持されている。
国家であればみんなで税金を出し合って自衛のための軍隊や社会保障の仕組みを共有する。
さらに国家の場合は民族や宗教、あるいは建国の理念とか、国民を束にするための「精神的紐帯」が必要であったりする。

また組織維持のために重要なのは「信用」である。
組織の中で利益をネコババしたりあからさまな不公平が生じたりする不正が蔓延すると、たちまち組織は瓦解する。
だから大組織というのは、国家でも企業でもかなりのコストをかけて不正防止に努める。

ブロックチェーンというのは、やや乱暴に言えばほとんどコストゼロで「信用」が担保できる技術である。
現在は議員を選んで議会で行っている民主的決定というのは、その運営維持に莫大なコストがかかっているが、ブロックチェーンで「議員レス」の民主主義ができる可能性もある。

企業の場合も同様に、ブロックチェーン技術により取引や内部管理で「原理的に不正のできない仕組み」が出来上がる可能性がある。

また今の会社と「正社員」の固定的な関係というのも変化し、社員の側は持てる能力のうち必要な分だけを会社に提供するようになる。
だから有能な人は複数の会社に自分の能力を提供し、会社の側は固定給を払うのではなく労働者から提供された分だけを払ってコストを節約する。

そうなると中には仕事にあぶれる人も出てくるが、そこはベーシックインカムによる必要最低限のセーフティーネットを整備する。

そういう未来の想像をしてみたが、まあ全然そうはならないのかもしれない。
posted by ヤス at 11:15| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月26日

視点移動

将棋界のレジェンド、加藤一二三氏の必殺技に「ひふみんアイ」がある。
ひふみんアイの効果について、あるプロ棋士は「普通のプロ棋士なら頭の中で盤面をひっくり返せるのでわざわざ相手の後ろに回る必要があるのか・・・」と言っていたし、別のプロは「視界が変わり、それなりに新しい発想が得られるのでは」と語っていた。
一体どっちが本当なのだろう。

ひふみんアイの効能の是非はともかく、視点を変えるということはしばしば思いがけない新しい着想をもたらすことがあるのは事実だろう。

ホリエモンが中心的に関わって開発中のロケットが、いよいよ今月打ち上げられるらしい。
到達高度100kmに20キロ程度のペイロードしかないささやかなロケットであるが、今こういう小型のロケットに対するニーズがかなりあるという。
最近の電子機器の進化による人工衛星の小型化でロケットも小さくて済むようになっており、そなると衛星の打ち上げコスト全体がかなり下がる。
コストが下がると様々な用途の人工衛星の商業化が企画されるようになって市場が一気に活性化する。

ところでロケットの商業化の発想は、わたし的にはかなりの視点変更に見える。

考えて見るとロケットの原型というのは、空気と燃料を混ぜて燃やすジェットエンジンなんかより遥か昔から存在する。
いわゆる「ロケット花火」式の火薬を詰めて飛ばす兵器は、今から千年前の中国ですでにあったらしい。
近代的な実用ロケットとしては第二次大戦中のヒトラーのV2ロケットが有名だ。

V2から30年足らずでアメリカのサターンロケットが人類を月まで運ぶところまで行ったけれど、その頃ロケットは重要な軍事技術であったためにしばらくはもっぱら、国家による宇宙開発と核兵器の運搬手段としてしか活用されなかった。

それがおそらく東西冷戦体制の終焉で、一気に民間企業の参入するところとなったわけである。
それともう一つはアメリカのスペースシャトル計画の予算的破綻というのも大きかったと思う。
国家主導でやっている限りコスト削減による商業化は進まないと気づいた人がいて、それで民間企業主体のロケット開発の流れが出来たのだと思う。

ロケットはV2から言っても、実用化からもう何十年も経った技術でそういう意味ではコンピューターなんかよりずっと枯れた技術だからとっくの昔に民間ベースの開発体制になっていてもおかしくなかった。
それが軍事がらみの国家独占体制が長く続いたために「ロケットは国家プロジェクト」的な発想がいつの間にか世の中に定着していた。

そういう一度できた固定観念を乗り越えて「ロケットで商売しよう」と思うのは実はかなり難しいことだと思う。

世の中にはロケットの固定観念と同じようなことがまだたくさんあると思うが、固定観念を打ち破るために意識して「盤面をひっくり返して考える」ような視点移動が大切ではないか、と思った。
posted by ヤス at 09:36| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月25日

ニコン創業100年

カメラメーカーのニコンが7月25日で創業100年を迎えるらしい。
そういうニュース記事が出ていた。
最近のニコンはカメラ不況のあおりで業績が苦しいらしい。

ニコンのサイトでIR情報を確認してみた。

2017年3月期の決算発表も、売上は7488億円で前年の8193億円から9%減。
一方で営業利益は509億円で316億円から38%増。
しかしリストラ費用が計上されて最終損益はマイナス71億円と7年ぶりの赤字決算だったそうだ。

セグメント別に見ると、ニコンの売上はステッパーというLSIなどの半導体チップを製造するための露光装置(=精機事業)とカメラ関係(=映像事業)が2本柱である。
他にはメディカル事業、インストルメンツ事業、その他がある。
インストルメンツ事業は何かと思ったら、顕微鏡とか測量機械とかの測定器関係のようである。
いずれにしても2本柱の事業で売上の84%を占めており、他の事業がそれほどたくさんあるわけではない。

でセグメント別利益では精機事業が510億円の営業黒字で稼ぎ頭、映像事業も277億円を稼いでいる。
しかし売上が全体の2.7%しかないメディカル事業が45億円の営業赤字になっている。
内部重複と本部経費が▲285億円あり、他事業の黒字が52億円を通算して509億円。

前期の営業利益は精機事業が96億円、映像事業が457億円だったので、今回の決算ではステッパーで頑張ったがカメラは儲けが縮小したということになっている。

ステッパーの精機事業は売上も前期の4割増しで好調だったが、やはりカメラ関係の映像部門の縮小傾向が気になる。
映像事業は売上で前期比26%も減っている。
そして2018年3月期の予想では、さらに10%の減少を見込んでいる。
(本当にその程度で下げ止まるのかやや疑問だ)


わたしは1992年頃からニコンの一眼レフを使っている。
デジタル時代になってもニコンのデジイチを使い続けているが、最近はオリンパスPENの出番が圧倒的に多い。
オリンパスは素子サイズが小さいのでボケや画質はニコンのフルサイズに比べるとそれなりだが、やはり軽くて小さいから取り回しがいい。

そして大きくて重いプロ用のカメラは、今後も一定の需要はあるだろうが一般向けには軽くて小さい方が絶対的に有利だと思う。
特にファインダーを電子化したミラーレスの流れというのが今後一層進むと予想する。

ニコンはガラスプリズムファインダーへのこだわりを捨てて、フルサイズ機のミラーレス化を進めるべきだと思う。
この分野ではソニーのαが先行しているが、レンズマウントをFマウントの不変でファインダーを電子化するとニコンファン的には十分魅力的だと個人的には思う。

そしてフィルムカメラ時代のFMやFEくらいの本体が500g台のサイズ感のやつが出ると、個人的には欲しくなると思う。(買えるかどうかは知らない)

あるいは往年のリトルニコン、EMのような400g台が出来るともっといい。

世の中のニコンカメラのファンも年々高齢化し力が弱っている。
だからカメラも小さく軽くが正義である、と思う今日この頃なのである。
posted by ヤス at 08:52| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月24日

擬似的理解

たとえ話は分かり易い。
一方で、抽象的な議論は理解するのに苦労する。
理解しにくい抽象的議論の究極は数学の世界だと思う。

数学の記述は、たとえ話やアナロジーの要素を完璧に除いてある。
このことについてちょっとだけ考えてみたのだが、これは要するに、本当の理解とたとえ話を使った「擬似的理解」はやっぱり違う、ということではないかと思った。

たとえ話がなぜ分かり易いのか。
人間の認知機能は、ある種のパターン認識なのだと思う。
例えば、毛むくじゃらの四足動物でワンワン吠えるのは「犬」という。
そういうパターンが脳の中に出来上がると、犬の大小や色が黒とか白とか多少の違いを乗り越えて「犬」を認識できるようになる。

あるいは格言の世界。
「急いては事を仕損じる」と言う格言を聞いてなるほどと思うのは、あせって失敗したおのれの過去の体験パターンと符合するからだろう。
または「善は急げ」では、いいと思ったことをすぐやったらいいことがあった、という体験があって、なるほどと思える。
これらはお互いに矛盾した格言だけれど、双方に符合する過去の体験パターンがあると、格言に対しなるほどと思える。

人間は物の名前やいろいろな体験パターンを記憶していって、そのパターンに符合するものは「理解」出来るし、自分の中にあるパターンに符合しないモノ、つまり全く新しいパターンに対しては理解が難しい。
そして人間は、目の前の事象が理解できると安心出来るし多少気持ちがよろしい。
しかしそれが理解出来ないものだと不安になり、不快である。
だから少しめんどくさがり屋の人類は、少しの差異には目をつぶって目の前のモノを無理やり自分の中のパターンに当てはめて「理解したことにする」ようにやってきたと思う。

我々人類は、日常生活レベルでは自分の中にあるパターンを使って多少力技でも目の前の事象を理解したことにしてほとんど問題なく生きていける。
しかし一方で、科学の世界やあるいは思想哲学の世界でもそうだと思うけれど、人類的な新しいパターンを発見して付け加えることによってだんだんと進歩してきたのだと思う。

そこでは安易に過去のパターンに当てはめない、「懐疑」の態度が重要である。
そして何か今までにないあたらしいパターンがあるんじゃないかと探索する好奇心が大切になる。

だからたとえ話やアナロジーは分かり易いけれどあくまで擬似的理解だと心に留めておこうと思った。
posted by ヤス at 12:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月23日

結果を受け入れる

長く生きていると、手痛い失敗の経験に数限りなく遭遇する。
そのたびに時間を巻き戻して少し過去に戻りたい、と思ったりするわけであるが、もちろんそんなことは出来ない。


ところで今月はハンガリーのブタペストで世界水泳が開催される。
(もうシンクロとか始まっている)
また8月に入るとすぐ世界陸上もある。

競技によって様々だけれど、選手たちは大会に向けて何年・何ヶ月と準備を重ねてくるが本番レースは一瞬で終わる。

中には時間を巻き戻してスタートからやり直したい、と思う選手もいるだろう。
こういう世界大会に出てくる選手たちは、選りすぐりの人々であるから凡人に比べると失敗ははるかに少ないのだろう。

それでも出場する選手の幾らかは、持てる力を発揮できないまま敗退していくだろう。
本番で安定して実力を発揮できることこそ真の実力ということだ、たぶん。

そしてどの競技でも金メダルを取る勝者はたったの一人しかいない。
(競泳なんかでは稀に同着一位があるが)
その一人の勝者以外は基本みんな敗者である。

しかしこういう一流の競技の模様を観ていると、勝った人がものすごく喜ぶのはもちろんであるが、負けた選手も気持ちよく勝者を称えるのがお約束になっている。
昔の日本の選手は、そういう決着がついた後の勝者への祝福があんまり得意ではないように見えたものだ。
それは、そこまでの精神的余裕がなかったのかもしれず、あるいはただ単に喜怒哀楽の表現が苦手だったのかもしれない。

しかし最近は、概ね海外の選手並みに勝った場合は2位3位になった選手をねぎらい、負けた場合も相手を祝福する仕草が自然になってきた感じがする。


わたしは一流の国際的競技大会に出場する選手の心情を逐一理解できるわけではないが、なんとなく思うのは、決着がついた後の結果を受け入れる時の「潔さ」と競技のパフォーマンスというのはかなりリンクするのではないかと思う。

オリンピックなんかでも、金メダル大本命の選手が番狂わせで負けるケースが時々起こる。
そういう時でも真のチャンピオンは、自分を負かしたチャンピオンを気持ちよく祝福する。
腹の底ではものすごく悔しい気持ちがあるに違いないが、テレビカメラに映る彼の顔は晴れやかな笑顔であったりする。

そういう場面を観ると、わたしも心の涙腺がウルウルくるような年頃になったようである。
時間というのは一方向にしか流れず、勝敗の結果は決して覆らない。
だから結果は良くても悪くてもそのまま飲み込むよりほかはない。
どうせ飲み込むなら、気持ちよく飲んだ方が良い。
理屈ではわかっているのだが、そういう心境にはなかなかなれないものである。
posted by ヤス at 15:29| Comment(0) | 徒然なるままに