2017年09月29日

「生産性革命」雑感

さて、総選挙にあたって現政権が掲げた公約の中に「生産性革命」というのがあるようである。
最近ちょっとだけ忙しかったので、この辺の情報の中身についてあんまり見ていないからこれの意味するところはよく分からない。
まあより詳しく見ても結果詳しい意味は分からないような気もするわけであるが、しかし「生産性革命」に込められた意味合いは、なんとなく推測出来ないでもない。

世間に流れている情報を斜め読みした感じでは、この「革命」を通じてGDP600兆円を達成するというのが現政権の腹積もりであるようだ。

つまり、現政権としてはあくまでも「経済成長」の旗印を下ろすつもりはないのである。
一部リフレ派の経済学者によると、日本の財政状況はすでにきわめて健全であるというのだけれど、しかし一方で国債をはじめ公的債務の残高は「見た目」には他国を圧倒して多額であるように見えるということもある。
この「見た目」の債務残高をなんとか減らす、あるいは減らないまでも増やさないというのがひとつの国際公約になっている。

だからリフレ派の学者の意見はともかく、財政再建を進めないといけない。
報道では2020年までのプライマリーバランス黒字化を延期する方針もこの間聞こえてきたりもしたけれど、これまでのところの財政再建の柱は「経済成長」ということになっていて、その部分は引き続き継続するようである。

というか、経済成長は是が非でも継続せざるを得ない。
それはこの国では残る財政健全化手段の「増税」と「歳出削減」が事実上コチンコチンに凍結されているからである。
高齢化が進行して福祉予算は増大の一方、さらに各省庁の利権が雁字搦めになっている状況では予算削減の余地がない。
消費増税はなかなか進まないし、これはどちらかと言うと法人税減税の原資もしくは教育無償化などあらたな歳出拡大の原資に消える勢いである。

だから経済成長するしかない。

こういう構造を傍から見ていると、「生産性革命」はあくまでも財政健全化のための革命であるように思われる。
というか事実上そうに違いない。

これは日本に限ったことではないかもしれないが、サラリーマン社会というのは個人のためというよりは会社が存続するために会社側が「個人がんばれ」と言っているように見える。
そして会社がモーレツに頑張るのをそわそわしながら期待している国家がある。

そして世界中の民衆は、薄々その構図に気が付き始めている。
まあ、だからどうすればいいというアイデアもないわけであるが。
posted by ヤス at 12:35| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月28日

小池氏の勢い

いよいよ9月28日がやってきた。
今日、臨時国会が開幕して順調に行けばそこで「冒頭解散」があるという。
しかし当初、首相の解散表明(というか最初の方は観測気球だったと思うが)の頃とは、政治勢力的な様相がかなり変わっている。
なんといっても小池百合子率いる「希望の党」が立ち上がり、代表に小池氏本人が就任した。

小池氏については、Twitterでプロの声優の誰かが「喋っている時の呼吸の入れ方、間のとり方がすばらしい」と絶賛していたけれど、今回のような政治的駆け引きにおける間のとり方もかなりうまいらしい。
一方の安倍首相の方は、最初に少し解散風を吹かせて世間の声を観測し、いけそうと見たところで会見を開いて正式発表、さらにはテレビ局をハシゴして「丁寧な説明」を行うというのはいつものパターンであったように思う。
さらにもう一方の民進党は、解散の声が聞こえるや離党ドミノが加速し傍目には党内統治がすっかり壊れてしまっているように見える。
挙句の果てに嘘か本当か知らないが、前原党首自ら「無所属で出る」という情報が飛び交っている。

このようにたいへん面白そうな政局話はたくさん聞こえてくるのだが、「政策ばなし」はかなりおざなりにされているように思われる。
小池新党の目玉政策の一つは「原発ゼロ」であるという。
それ以外には、「憲法改正に前向き」というのがあり、そして若狭氏がまだ主要人物だった頃に打ち出された「一院制」というのもある。
また小池氏は明確に希望の党を「保守政党」と位置づけているようだ。

また都議選ではタッグを組んだ公明党に対するあてつけとも謝罪とも取れる「山口党首首班指名発言」なども飛び出し、たった1日2日の短時間に風速も強く暴風域も広い「風」を巻きおこしたようである。

ちなみに、わたしは小池氏の希望の党には票を入れない予定である。
小池氏は「風」を起こすことに巧みで、つい何週間か前までは苦戦が予想された自陣営の勢いをこの数日でみごとにひっくり返してみせた。
だがそれは、あくまでポピュリストとしての手腕が天才的ということで、必ずしも、政治家として現在の国難を救う力量があるわけではないと思う。
どちらかと言うとイメージの作り方が「上手すぎる」のである。
そこに一抹の危惧を覚える。
この辺の感じはフランスの女性右派政治家ルペンと同じようであるのかもしれない。

本人は自分が女性でほんとうに良かったと思っているだろう。

幹部連中にもまったく根回しをせずに次々に重要な意思決定をするやり方、古巣の自民はもちろん公明党や民進党やらほうぼうに喧嘩を売ってまわって敵をつくりつつも、小池氏が女性であればこそ民衆は自分になびくということを彼女は痛いほどよく分かっているに違いない。

脂ぎった議員のオジサン連中は、小池氏の爪の垢を煎じて飲んだ方がいいかもしれない。
たぶん小池氏の「切り崩しブルドーザー」は、民進党だけでなく遠からず自民党にも向かう。
それでオセロの白黒がいっきにひっくり返るように勢力地図を塗り替え、公明党も自陣に加えてひと息に政権奪取をするつもりではないか、とそのような近未来の絵が見えるような気がするのである。
posted by ヤス at 11:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月27日

「納車しました」問題

最近はYouTubeとかに自分の自動車やバイクの動画をアップする人が多い。
で、その手の動画の定番になっているのに「納車動画」というのがあるらしい。
自動車ディーラーやバイク屋にクルマを受け取りに行く場面を自撮りするやつである。
そして、その「納車動画」においてたびたび使われる表現に「納車しました」というのがあって、それがものすごく気になる。

「納車しました」は本来自動車屋販売店やバイク屋の立場で使う表現である。
しかし多くのYouTube動画で、クルマを買った側が「納車しました」と言っている。

さらに言うと、「今日、この間注文していた念願のCBR250ダブルアールが納車しました」みたいな表現もあるようである。
この場合、バイクが主語になって「自身を納車」するという変な表現になっている。

この問題に関しては、価格コムの掲示板やヤフー知恵袋を見ると数年前からけっこう熱い議論が行われていることがわかる。
掲示板で熱い議論になるほどこの誤用をする人は数多く、かつ誤用を指摘されても「誤用ではない」と考える人も多いらしい。
あるいはマンガや映画とかで、きっかけになることがあったのかもしれないと思う。
その辺の起源については判然としない。

誤用を改めない人々にとってこの表現、つまり自分が買ったクルマが「納品された」ことを「今日納車しました」と言うことは、たぶん自分なりに、それなりにしっくりきているから使っているのだろう。
おそらく、「納車」の「納める」の部分を「注文したクルマを手元にオサめる」のニュアンスで受け止めているような気がする。
しかしやや厳密に言うと、「納める」はしばらく使わないから押し入れに「納めて」おくとかいう時に使う表現であって、欲しかったものを手に入れるのは「収める」の方ではないかという気がするのである。

また納車と似た構造の言葉に「納税」がある。
ある市民Aさんが税務署に税金を収めた時に、税務署の側の方が「今日納税しました」というのは変である。

そんなこんなで、クルマが納車されたことについて「納車しました」と表現する誤用は、今もどこかで繰り返されている。
そんなことは気にしなければよい、というのはその通りである。
しかし例えばTwitterにCBR250の写真一枚を載っけて、そこに一言「今日CBRを納車しました!」と書いてあったら、それは通常はバイク屋さんのツイートだろうと考えるべきだが、最近の傾向からお客の側のツイートかもしらん、と余計なことを考えないといけない。
つまりこのような誤用の蔓延は、わずかではあるがコミュニケーションコストの増大につながる。
それに契約書やビジネス文書にまでこの手の誤用が進出すると、さらにややこしいことになりそうであると危惧する。

しかしだからといってYouTubeのコメント欄に「納車されたじゃね?」と書き込んだりはしない。
それはそれでまたややこしい罵り合いに発展することがなくはないと思うからである。
だから当面はこの「納車しました」問題について、ぐっと我慢して静観することにする。
posted by ヤス at 08:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月26日

暇と経済成長

日本は現在、総人口が減少傾向になっている。
総人口が減少カーブを描く前には、すでに生産年齢人口部分は1996年頃から減り始めていて、今では毎年ざっくり100万人くらい減っている。
さらに、14歳以下人口は1982年頃から減っている。
日本の人口は、若年人口を中心に30年以上前からゆっくり減少に向けて動いており、よほどのことがないと再び増加基調に戻ることはないし、戻るとしても30年40年かけないといけない。

そして日本の経済規模は確実に人口規模、それも消費の多い生産年齢人口部分と比例している。
だからこれからの時代、経済成長の様相は総人口が増えていた1970年代や80年代とはかなり異なるのは自明である。

わたしは経済の勉強をしていないので正確なことは知らないが、経済成長というのはひとことで言うと、「消費」と「生産」の総量が年々増えていくことだと思っている。
現在の日本は、人口は減っていてその減少率は年0.2%くらいらしい。
しかしその一方で、経済成長率はわずかながらプラスになることもあるし、この数年を均してもすくなくともゼロ成長は維持している感じだ。
人口が減ったのに経済がまだそれほど縮小していないのは、人口一人あたりの経済規模がわずかながら増えているからと考えることが出来る。

これはつまり、人口一人あたりの「消費」が増えているということになる。
それは同時に「生産」も同量だけ増えていることを意味する。
例えば介護産業というのは、儲かっているかどうかは知らないが、10年前に比べると全体としての売上を随分と増やしている。
この間日本人は介護分野に関する「消費」を増やし、介護産業に多くの新規就労が流れ込んで介護サービスの「生産」も同量増えている。

同じように、携帯電話というのは1990年代以降に急速に拡大した分野で、それ以前の時代には存在しなかったものである。

つまり前の時代に存在しなかった、人間が消費するに値するような「価値」が次々に生み出されて、人口一人あたりの経済規模が営々と拡大し続けている。
しかし一日は24時間で決まっていて、最近ではテレビやゲームの業界とか携帯電話などの通信業界はその24時間の取り合いをするような状況が生まれつつある。
その煽りを食って、若い人が自動車を買わなくなって自動車業界は困っているくらいである。

時間は典型的な例だが、人間の肉体性も含めて「消費の土台になる各人のリソース」はおのずと限界がある。
だからある程度経済が成熟すると、新しい産業はそのリソースをより古い産業から奪う構図とういのが生じて経済成長は鈍化する。

しかし今後自動車が自動運転になったり、あるいは人間が人工知能に仕事を「奪われて」暇になったりするのは、「消費のためのリソース」の開放という意味では朗報かもしれない。
今政府が躍起になっている「生産性革命」とかいうのも、働いている人が今までより仕事時間を減らして暇になるという方向性は、そんなに悪いものではないような気もする。
(労働時間減少に伴う所得減少の問題を別にすればだが)

あまり結論めいたことまで思いが至っているわけではないが、ちょっとそういうことを思ったりしたのであった。
posted by ヤス at 10:37| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月25日

人間の行動を駆動するもの

人間の欲望というのは、コントロールが難しいのはいまさら言うまでもない。

わたしはこの数年、アイスクリームを買って食うという「奇習」を繰り返すようになっている。
砂糖というのは自然界には存在しない特殊な食い物だと思う。
単糖類を精製して純度100%にしたものをあらためて他のいろんな食い物に入れる。
するとその自然界にはない刺激がわたしの脳みそに伝わって、そこで何かの脳内物質が分泌されるという図式は、ほとんどヤク中やアル中と同じではないか。

しかしいったん砂糖によるこうした脳内サイクルが出来上がると、糖分の多い食べ物、その刺激の強いものを自然と欲するようになって「買い物かごに知らぬ間にアイス」という現象が多発する。

ところで人間は、動物として本能的衝動や各種の欲望に支配されている一方で「理性」というものを持っており、これによって本能や欲望をコントロール出来る、と多くの人が考えているだろう。
しかし最近わたしが思うのは、人間を駆動するものはあくまでも動物的な本能や欲望であって、理性はある程度本能や欲望に働きかけ、これらをいくらか喚起する、それだけのものではないかということである。

つまりここに非常に理性的な人間がいて、その人がコーヒーを淹れに行こうと立ち上がるのも、最近お腹が出始めたなと思ってスポーツクラブに入会するのも、それらの行動の端緒にある種の本能的衝動が働いているに違いないと思うのである。

あるいはこれはいくらなんでも理性的な行動だろうと思うようなこと、例えば受験勉強を頑張るとか政治家が自分の政策を実現しようとするとか、社長が会社を立ち上げるとか、それらのことも具体的な行動の端々には本能的衝動や欲望が作用している。
それは、いい大学に入って将来給料をたくさんもらって美味いものを食いたいとか、自分の名を揚げて名誉欲や自己承認欲求を満たしたいとかいうことであろう。


そして我々が本能的な行動をある程度抑えることが出来るのは、おそらく抑える対象の本能的衝動を上回るような衝動を理性によって喚起するからである。たぶん。
腹いっぱい食いたいと思った時にこれ以上デブになったら女にもてないとか、勉強が面倒くさいのでゲームをしたいと思った時にここで勉強したら輝かしい未来が待っていて新しいゲーム機がいくらでも買えると思ったり、理性によって創造されるあらたな欲望や衝動が抑える対象を上回るようになれば、理性の目論見は成功するわけである。

理性はダイレクトに我々の肉体を駆動しているのではなく、間に欲望や本能的衝動を一枚挟んで動いていると考えることが出来る。
そこにアイスクリームの誘惑を絶つ重要な鍵が隠れているのではないか、と思う今日この頃であった。
posted by ヤス at 09:36| Comment(4) | 徒然なるままに

2017年09月24日

未来の働き方(または働かない方)

最近ずっと疑問に思っていることがあって、それは未来の人類の「働き方」の姿である。

今、急速な勢いで人工知能の技術が進化している。
土台になるコンピューターチップの集積度も、少し限界が見えてきた感じもするが、しかし相変わらず毎年のようにプロセスルールが進み計算能力が向上している。
また量子コンピューターやニューロコンピューターなど、全く新しいアーキテクチャーの提案もなされている。
そして2045年はシンギュラリティ=技術的特異点の年であるという。
その頃についに電子頭脳の能力が人間を超えるのだそうだ。

並行してロボット技術も着々と進歩している。
ロボットがバランスをとって二足歩行で歩いても、もはや誰も驚かない。
また先日のiPhoneXにも見られるように、現在の技術でも人間の表情の変化を相当程度まで読み取ることが可能になっている。

このような世の中の技術の進化を考えると、あと10年20年したら、今は映画やアニメの中の存在である鉄腕アトムやC3POのような自律行動型のヒト型ロボットが普通に街を歩いている時代がやってくるのかもしれないと思う。

そうなった場合、当然それらのロボットは人間のやることは大抵マスターしているので、人間の代わりに働くことができるようになっているだろう。
製造工場などの比較的マニュアル化された労働現場は言うに及ばず、介護施設の高齢者のお世話とか小説を書いたり映画を作ったりとかもロボットができるようになると思う。
銀行の窓口とかレストランの料理人とかあらゆる職場でロボットが働けるようになる。
場合によっては飲み屋のお姉ちゃんも良く出来た「お姉ちゃん型ロボット」に代替されるだろう。

職場によってはロボットが必ずしも「ヒト型」である必要はないわけであるが、ロボットが人間と同じような形態を持ち、人間と同じか、それを超える思考能力やコミュニケーション能力を備えることによって、人間ができる仕事は全部「ヒト型ロボット」ができるのである。

そうなると人間は働き場が全部なくなる。
これは良いことなのか、最悪の出来事なのか。

しかし考えてみると今我々がイメージしている「労働」は、産業革命以降の最近の2〜300年間になって急に出来上がった概念だと思う。
もともとの原始時代には、サラリーマンという種類の人類は存在しなかった。
それが資本主義とか近代国家の社会システムが出来上がる過程で、サラリーマンという労働形態が定着していったのだと思う。
原始人から見たらサラリーマンはさぞかし奴隷的に見えると思う。

ということで少し未来の視点に立って考えてみると、ロボットや人工知能にできて人間にできない仕事というのは実は存在しないのではないかと思う。
逆に人間にできてロボットや人工知能にできないことは何かと突き詰めて考えると、それは結局「消費行動」しか残らないのではないか。

原始時代の人類も消費者である、という点は現代人と同じだった。
ただ原始人は消費者であると同時に自分たちの消費を支える生産者であった。
しかし近い将来、人類は生産者であることから解放される可能性が高いのではないか。

働く必要のない時代が到来した時、果たして人類は100%の消費者になって遊び暮らすのか、それとも相変わらず働きたいと思うのか。
そこのことろはやっぱりもうちょっと考えないと結論が出ない。
posted by ヤス at 08:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月23日

北朝鮮危機

1週間くらい前までは、解散総選挙は年末のことだろうと予想していたのだが、この何日かで事態が急転直下、今月28日の臨時国会で冒頭解散、来月22日投票で選挙があるという。
また北朝鮮情勢も国連の制裁決議を機にさらにややこしさを増してきているようで、太平洋上での「水爆実験」予告とか日米首脳が国連で強硬姿勢の演説をやったりにわかに緊迫している。

今から考えてみると、直近数年の日本の政治状況というのは色々あったように思うのだが結果的には平穏なべた凪の期間であったようにも思われる。
これから総選挙が実施されてその結果が出、また北朝鮮情勢はしばらくゴタゴタが続きそうで、この秋から冬にかけてはかなり激動の状態になるような感じである。

しかし北朝鮮情勢はなんでここまで危機的な状況になってしまったのか。

北に対する強硬派がよく使う例えで、第二次大戦直前のヒトラーに対する各国の姿勢というのがある。
1930年代後半に、ヒトラーが再軍備をしてチェコを併合したり、やりたい放題を始めた時に英仏はじめ周辺国が弱腰外交に終始したために、それがその後の大戦につながったという話だ。
もしもっと早期に強硬措置に出ていればあんなに大きな戦争にならなかったという考え方があるようである。
だが現在の北朝鮮と当時のヒトラー第三帝国では少し状況が違っていて、ヒトラーは拡大主義で周辺諸国への侵略を意図していたのに対し、現在の北はとりあえずは侵略指向はない。(南併合の意図を除くとだが)

またヒトラーの当時も、英仏が「事前に」強硬措置に出るケースがありえたかどうかというと、なかなか難しかったのではないかと思う。
再軍備の比較的初期の段階、まだまだドイツが弱い段階で英仏側から先制攻撃を仕掛けていれば、というのは未来から振り返った場合のみに言えることのような気がする。
当時のリアルタイムの状況でそのように打って出られるリーダーはまずいないだろう。

そこの状況は現在も共通している。
北朝鮮の核が実用化の以前に北に軍事制裁していれば、というのは今だから言えることでしかない。
それやこれやを考えても、米朝ともに軍事オプションの可能性はないと予測する。
これからしばらくの間は今のような恫喝合戦が続く。

中国・ロシアとしては、緩衝地帯としての北朝鮮は是が非でも必要である。
そこに両国の北支援の動機はある。
北が無くなった時の両国の反応を考えると、むしろ北滅亡後のシナリオこそがむしろ一層危機的である。

その辺を考えても、あまり気分は良くないが現在のバランスを維持したまま行かざるをえないのだと思う。
posted by ヤス at 15:21| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月22日

まずい給食について

昨日、惣菜店のO157中毒と大磯町の中学校給食について書いた。
それで大磯町の方でもうちょっと思うことがあったので続きを書く。

給食といえば橋下市長時代の大阪市でも話題になったことがあった。
この時も大磯町と同じ「デリバリー方式」で提供していて、冷たい、まずい、で残食が多いのがニュースになっていた。

この時の大阪市では、塩分量を基準以下に抑えていたために味が薄くいというのが問題になって、ふりかけを付けたら残食が減るのでは、というような議論もあったようだが教育委員会等の反対でなかなか前に進んでいなかった。
この時に思ったのは、毎回毎回塩分量を律儀に基準以下にするのではなく、献立内容によって濃い時と薄い時とメリハリをつけてもいいんじゃないか、ということであった。

また、「冷たい給食」はデリバリー方式の宿命的欠点である。
どこかのテレビ番組で、デリバリー方式ながら保温カートに温かいままの料理を入れて配送し生徒からも美味しいと評判の自治体の例も出ていたが、このような配送方式は当然ながらそれなりのコストがかかり財政的に余裕のある自治体でないと実現が難しい。

結局のところ、それなりの栄養価の食事をそれなりに美味しく提供するには各学校に厨房を設けて現場で作るのがいちばん適切なのは想像に難くない。
しかし全国の多くの自治体は財政的な余裕がない。
各学校にいちいち厨房設備を設置するのはカネがかかって大変だ。
また、特にこれからの時代は調理スタッフの確保も頭の痛い問題である。
カネがかかる上に余分なスタッフの雇用管理もやるのはますます大変だろう。

そうなると給食は「外部調達」することにして学校建設費を節約するという結論に至る自治体が多くなるのは必然である。

まあ大半の公立小中学校は受験による選別もなくしたがって、学校間の競争原理というものが存在しない。
競争がなく生徒の取り合いの図式がないので、給食を美味しくして競争力を増そうという動機づけが働かない。
そういう面がある。

大磯町など一部の自治体で「給食がまずい」問題が発生するのは、地方自治体の慢性的な財政難と給食を美味しくすることへの強い動機が存在しないことが根本原因だろうと思う。
この問題の解決のためには、国レベルで音頭を取って学校給食への予算配分を優先的に増加させることが必要だろうと思う。

今、消費増税分を教育無償化に充てるとかいう話が出ているが、給食の方にもいくらか予算を回すことを考えた方がいいのではないかと少し思ったのである。
posted by ヤス at 10:21| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月21日

食中毒、残食異物混入など

最近、食べ物関係の悪いニュースが続いている。
ひとつめは、8月に発生した惣菜店「でりしゃす」のO157中毒。
最初は17店展開している同チェーンのうちの3店でポテトサラダを食べた客が複数人、O157の中毒症状を発症したという。
それがポテトサラダ以外でも患者が発生し、そのうち炒め物を食べていた3歳の女児が9月に入って死亡するという最悪の事態になった。
これを受けて全店が閉店。

同チェーンでは、特定の料理はセントラルキッチンで製造したものを各店に配達して販売していたらしく、ポテトサラダも集中調理で作っていた。
複数店で食中毒が発生していることから考えると集中調理の料理が感染源と推定されるわけだが、調査の結果は陰性で、結論としては現場でのトングの使い回し、期限切れの消毒液使用が発覚するなどずさんな衛生管理が原因とされたようだ。

少し調べてみるとこの「でりしゃす」という惣菜チェーンは地元群馬県等でスーパーマーケットを運営するフレッシュコーポレーションというのが運営している。
で、このフレッシュコーポレーションは牛丼チェーンのゼンショー傘下のグループ企業らしい。

ゼンショーグループのウェブサイトを見てみたのだが、今のところこの事件に関するお詫び文のようなものはない。
報道でも、わたしの知る限りゼンショーの名前は出ていない。
ゼンショーグループはM&Aを繰り返して膨大な数のグループ企業を抱えており、いろいろと複雑な事情があるのかもしれないがその辺ものすごく不透明な感じを受ける。


さて、もうひとつ話題になっているのが神奈川県大磯町の中学校給食の問題。
まずい上に異物混入が相次いでおり「残食率」が55%と給食開始から半年ですでに壊滅状態なわけだが、町としては業者を変更する考えはないらしい。
これも少し調べてみると、この業者は大磯町での事業拡大のためにわざわざ工場を新設している。
また報道でも出ていたが、この給食の委託費は中学校2校分で年間3300万円。

業者選定にあたっては公募プロポーザル方式の入札が行われたらしいが、業者公募はかなりひっそりと行われて参加企業は2社のみだったらしい。
もともと本命の1社が決まっていて、体裁を整えるために1社はカタチだけ入札参加したのではないか、とゲスの勘ぐりもしたくなる感じである。

こういう事件が相次ぐと、見えないところで作られた食べ物を食べるのにいちいちものすごい勇気がいるようになる。
今後は給食でも惣菜販売でもその他の加工食品でも、作り手の顔の見えない食べ物については、クリーンな最新工場で超厳密な衛生管理をやってますよ、とアピールしないと消費者は食べる気が失せるのではないかと危惧するのである。
posted by ヤス at 10:35| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月20日

自分の見え方

多くの人にとってはもうどうでもいい話になりつつあるようだが、この数日暴言・暴行騒動の豊田真由子議員が会見を開いたりして久々に表に出てきたのが話題になっている。
そのようすを伝えるTV番組をわたしはYouTubeでチラチラ見たわけであるが、そこで思ったことがいくらかある。

豊田議員はまず最初に月刊文藝春秋のインタビューに応じ、その次にフジテレビに宮根さんと一対一のやり取りの形で出演し、その後1時間37分に及ぶ「謝罪会見」を開いた。
この一連の表舞台への再登場のやり方に、順番がおかしいとか内容が残念とかの意見がたくさんあるようで、ワイドショーもほぼ批判一色で報じていた。
ここでその内容部分についてあれこれ考えてもしょうがないと思う。
次の選挙に無事出馬出来るかどうか知らないが、もし出るとすればその時の選挙結果が評価のすべてになるだろうからである。

この方は東京大学も出て厚生省入省後に国費留学でハーバード大学にも行っている。
絵に描いたような高学歴の方である。
たぶん知能指数的な意味での頭の良さはものすごい。
でもひとつ欠けているのではと思うのが「メタ認知」の能力だと思った。
この人は仕事も出来るんだろうしたぶん英語もペラペラで記憶力もよくてひょっとしたら数学とかも得意なのかもしれない。

でも決定的に、自分を客観視するというところの能力だけがひどく欠けているように見える。
わたしも含めて多くの人が、「あの謝罪会見はものすごく逆効果じゃね?」と思ったように思った。
ワイドショーでもコメンテーター陣が口を極めて酷評していた。
しかし本人は、そこのところの反省をどれくらい出来ているのかと思う。

政治家というのは、選挙で票を集めるには第三者からの自分の見え方をそれなりにコントロールする必要があるように思われる。
そういう点でこの方はちょっと政治家的ではないのではと思わざるをえない。

おそらく彼女は彼女なりに、自分の見え方について考えてそれを実行している。
でもそれがひどく表層的で、かえってあまり見せたくはない本質部分が見え見えになっている。
というか、彼女の心の中に自身でも御しがたい「何か」があって、それがセルフコントロールを飛び越えて出てしまっている感じがする。

考えてみると、メタ認知を自分に言い聞かせながらも、しかし御しがたい「何か」が溢れ出てしまうというのは程度の大小はあれほとんどの人間に共通の弱みとしてあるように思うし、わたし自身も過去に何度も身に覚えのある現象である。
結局のところ「自分の見え方」を理想的たらしめるよう制御するには、自分自身の根幹土台の部分からきちんと整える他にはない、という当たり前の結論しかないのである。

そのためには「メタ認知」、それもがんばって自分をまっすぐに見つめるしかないのであるが、それが簡単でないから人はしばしば苦労する。
ということをちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 12:02| Comment(2) | 徒然なるままに