2017年06月05日

夢を覚えてない

ふと思ったが、最近ほとんど寝ている時に見た夢を覚えていない。
昔はもっと覚えていたような気がするのだが、最近は「こんな夢を見たな」という記憶がない。

多分夢は見ているのだと思う。
というか人間、寝ている時にはほぼ必ず夢を見ているものらしい。
睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があるそうだが、一般には大脳が活発に活動しているレム睡眠の状態で見る夢はよく覚えている。
ノンレム睡眠は、いわゆる深い眠りであって誰かに肩を揺すられても容易には目覚めないくらいの状態。
この時にも夢は見ているらしいが大体忘れてしまう。

ということは、わたしが最近夢を覚えていないのは、ノンレム睡眠過多だからなのだろうか。

しかし普通の人間であれば大体レム睡眠とノンレム睡眠のパターンは決まっていて、どちらか一方が極端に多いということはないらしい。

ネットでちょっと調べたところでは、ノンレム睡眠が多過ぎるのは一種の病気である。
「ナルコレプシー症」というそうで主な症状としては日中の眠気、情動脱力発作、入眠時幻覚、睡眠麻痺(いわゆる金縛り)の4つが出るそうだ。

またこの症状で見る夢は大体のところ「悪夢」らしい。

なんか恐ろしい症状だ。

しかしわたしは幻覚も金縛りもあまり覚えがない。
日中はいつも眠そうかもしれないがそれは大昔からそうである。
情動脱力発作というのは、喜怒哀楽など過度の情動刺激が原因で抗重力筋が脱力して倒れたりする症状らしい。
これもすごい発作だと思うが、わたしの場合、抗重力筋が脱力したことは今までにない。

ということで、該当する症状がないのでわたしのレム睡眠とノンレム睡眠のバランスはまあまあ正常なのかもしれない。

しかしではなぜ夢を覚えていないのか。
あるネットの記事には「夢を覚えておくぞ」と寝る前に気合いを入れると覚えておけるというのが書いてあった。
本当だろうか。

あるいは、日中に大きく感情を揺さぶられるような体験をした人の方が夢を覚えている確率が高い。
そういう人は夢でもやはり情動的な振幅が大きな「体験」をしていて記憶に定着しやすくなるらしい。
これは記憶と情動の振幅にかなり相関があって、大きな感情を伴う体験は強く記憶されるということがあるからだと思われる。

ということで結局夢を覚えていないことの原因はよく分からないままだが、しかし寝る前に夢を覚えておくように気合いを入れること、そして日中にたくさん感情を働かせること、を心がけたら少しは夢を覚えておけるだろうか、と今日のところは思った。
posted by ヤス at 15:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月04日

地方創生

今から30年ほど昔、1989年頃に、ふるさと創生一億円事業というのがあった。
時の総理大臣竹下登の発案の元実施された事業である。
交付金不交付団体を除く全国の各市町村に使途の条件をつけない1億円を交付するというもので、当時の市町村数は3千強あったそうなので、予算規模も3千億円くらいだったのだろうと想像する。
まあまあ大きな規模だと思う。

わたしは昔、地域開発系コンサルと広告会社のあいの子のような会社でサラリーマンをやっていた。
そして中国地方のとある町で、いわゆる「地域おこし」的な仕事に携わっていた。
夏祭りがあると言えば盆踊りを踊りに行き、屋台で作務衣を着て蕎麦屋をやったこともあった。

かなり献身的にその仕事に没入していたのではないかと思う。
没入していたのにはそれなりに理由があって、それは要するに金になったからである。
ふるさと創生一億円事業を契機にしてリゾート開発などの箱物事業も動き出しており、地域おこしがらみの予算がその頃継続して付くようになっていた。
だから営業担当でもあった身としては町に深く食い込む必要があった。

しかしそのような地域おこしブームも間も無く終わった。
多分2000年くらいには終わっていたような気がする。
それはふるさと創生事業がバブル期の最後を飾る打ち上げ花火であって、その後日本経済が次第に右肩下がりになる中で地方に予算をばらまくほどの余裕がなくなって来たからであると思われる。
で、なぜか今、再び地方創生が叫ばれて担当大臣まで任命されるほどの重要事とされている。

30年前のふるさとブームは、その当時過疎化と高齢化が進んで将来が危ぶまれていた中央政府が救済するという構図であったように思う。
中央政府による地方の救済とは、その実態は都会による田舎の救済であった。
そのような構図に対し、当時はそれなりに批判もあったがまあそれほど大きな反対運動にはならなかった。

現在の地方創生は当時とは趣が異なる。
今は日本全体としてどんどん右肩下がりになっており、もはや都会が田舎を支えるとかいう余裕はない。

だから地方は国にぶら下がるのではなく経済的に自立しよう。
地方は知恵を絞って自分たちの地域内に仕事を作ろう、雇用を作り税収を増やして国の財政負担を減らすのに協力すべし、というのが今の地方創生の構図だろう。

30年前のふるさと創生は、配布する1億円に使途の制限を設けないというのがある種の慧眼だった。
ついでのことに、この時に思い切って国の税源のいくらかを地方に渡してしまっていればその後の地方の様子はだいぶ変わったかもしれない。

本気で地方を創生する気があるならば、税源を地方に渡していって本来の地方の自治を実現することが先だろう。

あるいはもっと本気になるなら、いっそ地方の経済を物々交換化して政府の税体系から脱出し、それによって経済的自立を獲得する、とかいう方法しかないんじゃなかろうか、などと思ったりする今日この頃である。
posted by ヤス at 08:33| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月03日

スポーツ嫌い半減目標

スポーツ庁が、スポーツ嫌いの中学生を半分に減らす目標を「スポーツ基本計画」で打ち出したのが、ちょっとした波紋を呼んでいるようである。

同庁の調査によると、運動やスポーツが「嫌い」「やや嫌い」な中学生は16.4%で、これを5年かけて8%に半減させたいらしい。

で、このニュースを受けてテレビ番組の中で元体育嫌いのタレントだった人たちが「反旗」を翻したり、2チャンネルにスレが立ったりしているという。

朝日新聞のネット記事には五輪金メダリストでスポーツ庁長官の鈴木大地の写真が付いていたりして、これは鈴木大地長官の強い意向を匂わせる意味なのだろうかとも思う。

まあそうかもしれない。
スポーツ嫌い中学生の割合を示す棒グラフは、2014年度から2016年度にかけて確かにジリジリと増えている。
この傾向を見て鈴木大地としても何かを感じたのであろう。

あんまり役所のやることに何でもかんでも反対意見を言いたくはないのだけれど、やはりこの計画には反対せざるを得ない。

しかしスポーツ好きの中学生を増やしたいというその思いには、必ずしも反対ではない。

話はかなり難しいのである。

ネット記事には、スポーツ嫌いの中学生が増え続けると運動しない大人が増えてしまう、そのようにスポーツ庁が考えているように書かれていた。
本当にそうだろうか。

今、日本は大変なマラソンブームである。
しかもこれは一時の流行りではなく、ここ10年来の大きな流れであるように感じられる。
マラソンなんて急いで走るとしんどいし、冬のレースではちんたら歩くと寒いし、筋肉痛や関節痛にはなるしあまりいいことはない。
しかしそんなマラソンに人々はわざわざ金を払って出る。

あえて言うならみんなマラソンが好きなのだろう。
「マラソンが好き」は「スポーツが好き」にほぼ近似の事象と言えなくはない。

マラソンは、多くの大会には制限時間はあるけれど、その制限時間内であれば歩こうが走ろうがランナーの自由である。
マラソン好きが多いのはそこがポイントだと思う。
自分のペースでできて、走ると脳内である種の快感物質が出て気持ちいい。

スポーツ嫌いが発生する原因は、他と同調させないといけないプレッシャーにあると思う。
特にチームスポーツの球技なんかは、技術がヘタでチームメイトとのシンクロができない人には難しくストレスが大きい。
だから嫌いになる。

しかしそんなスポーツ嫌いも、自分のペースで自由に走れるマラソンなら好きになれる。
それでいいじゃんと思う。

そもそも16%を8%にするとか数値目標を決めると、色々気持ち悪いことが起こりそうな気がする。
鈴木大地長官にはその点、よく考えてもらいたいと思う。
posted by ヤス at 10:51| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月02日

様子見

今日はめでたく日経平均が2万円を回復し、またゴルフ界のスーパースタータイガー・ウッズが虚ろな目で逮捕される動画が巷に流れたりもしている。

わたしの方は、最近はマラソン大会の予定もないのでもう随分久しくランニングのトレーニングもサボっている。
しばらく走りもせず、また妙に暑い日が続いたりして得意のアイスクリームを食べたりしていたら、少し体重が増えてきた。

62kgを切って61kg台だったものが63kgを越えてきた。
これはたいへんだ。

ということで4日ほど前から食べる量をかなり減らしてみた。
だいたい1日1500kcal以下。
1日1.5食くらいの感じだ。

最初のうちはモーレツにお腹が減って困った。
でも空腹も峠を越えると少し落ち着いてくる。
そしてどうかしていると腹が減っていることも忘れていたりする。

なかなかいい傾向だ。

しかしさすがに今日は腹が減って、空腹の感じがなかなか癒えない。
昨日の夕方、超美味しい明治エッセルスーパーカップ超バニラを食ったせいで血糖値が不安定化してしまったのかもしれない。

だが腹が減っている分の成果は上がっていて、今日は体重が久しぶりに61kg台を回復した。
しかしこういう体重の減らし方は大きな反動増も予想される。
今は筋中グリコーゲンが枯渇気味であると思われるが、これからちょっと炭水化物を食べたりすると枯渇したグリコーゲンを回復しようと身体が備蓄活動に精を出し、水分をたっぷり含んだグリコーゲンが急速に増えて体重も増える。

というのが今後予想されるシナリオである。
だから適当に走ってそいつを消費しないといけない。

ということでこれからあるランニングの大会にエントリーしようかと思ったりもしている。
ひとつダイエットにおあつらえ向きの大会があって、9月にある京都府・京丹後市の100kmウルトラマラソン。

大昔に1回だけ出たことがあり、制限時間の14時間ギリギリで完走したことがある。
エントリー締め切りは7月24日だからまだ考える時間はある。
ただこれにエントリーするのはなかなか勇気が要る。

ネックは3つある。
まず参加費の1万8千円(高いな)をどう捻出するか。
そしてあと3ヶ月で暑い中練習して完走可能な状態までいけるかどうか。
そして体重を出来れば昔のように60kg以下に落として身軽に走りたいのだが、そこまでいけるかどうか。

日経平均に負けないようにがんばって、少し様子を見ながらエントリーするかどうか考えようと思う、今日この頃だったりする。
posted by ヤス at 15:04| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月01日

カッコいいということ

カッコいいとはどういうことだろうか。
と、少し思った。

まずその必要条件として、自然体であること、「いかにもな感じ」が無いことではないだろうかと思ったのである。
それはカッコいい男性も、カッコいいスーパーカーでも同じではないだろうか。
車のデザインと人間のカッコよさに、そのような相似性があるとすればちょっとした発見だなあと思う。

車のような無機物に自然体の感じがあるというのはどういうことだろう。
それはたぶん、車の形に「不自然な部分」が無いことである。
なんだか議論が堂々巡りになってきた。

逆に不自然な部分があるというのは、あそこのボディのライン形状がなんだか妙に引っかかる、「自然な形に見えなく」て心がソワソワする、ということがあるのではなかろうか。
つまり、自然なデザインは心にスッと入ってきて引っ掛かりが無い。
だから気持ちがいい。
そのかわり、デザインの咀嚼にあたって大きなインパクトもない。
不自然さが無く、不快要素がないこと、デザインの咀嚼があまり意識化されないことがカッコいいデザインなのではないか。

いや、少し違う。
インパクトがあってカッコいいデザインというのがこの世の中には存在する。
それは、車の形状の中にワザと「崩し」を入れて「妙な心の引っ掛かり」があるようなデザインである。
しかしそれでいて全体としては調和している。
そのような絶妙さこそが車のデザインにおけるカッコよさの秘訣であるような気がしてきた。

さて、話がやや逸れた。
もともとは人間におけるカッコよさを考えていたのだった。
人間のカッコよさを車のデザインにおけるアナロジーに仮託しようとしたのであるが、果たして上記の想像は人間にも当てはまるだろうか。

そもそも人間のカッコよさを考えるきっかけは、最近よくある謝罪の記者会見とかで、妙に不自然な感じの人がいてなんだかカッコわるいなあと思ったことだった。
逆に自然な感じで気負いの無い人物だと、喋っていることの真実味が増すような気がする。
しかし気をつけないといけないのは、上手な詐欺師ならきっと自然な感じを作為的に作り出せるだろうということだ。

ますます話がこじれてきた。
結局自然な人は、カッコいいのかカッコよくないのか。
これはおそらく、自然な感じであることはカッコよさの必要条件ではあるが十分条件ではない。

車のデザインの例を引いて考えると、全体としてはバランスが取れている人なのだけれど、部分部分でトンガっているところがある、ちょっと危うい感じがある人というのが、カッコいいかどうかはともかく妙に惹かれるということはあるかもしれない。

ただ自然な感じで角の取れた感じだけだとカッコよくはないわな、部分的に崩れたところがあるのに全体が調和しているのがカッコよさの秘訣であろう、しかしそこへ行くのはなかなか難しそうだな、というのが今日の結論。
posted by ヤス at 09:05| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月31日

終末思想

大昔、わたしが小学生か中学生の頃、「ノストラダムスの大予言」が流行っていた。
大予言によると1999年に空から火の玉が降ってきて世界が滅亡するとかいう話であり、あるいはもうちょっと複雑な予言内容だったかもしれない。

今調べてみると、ノストラダムスというのは16世紀のフランスの医者らしい。
それなりに「まともな人」だったようであるが、後に占星術に凝りだして「予言集」を出版し当時けっこう流行ったらしい。

さらに横道に逸れるならば、グーテンベルクの活版印刷の発明がノストラダムスの時代の100年ほど前である。
16世紀の時代にノストラダムスの予言が流行したことには、当時の新技術であった印刷による情報革命が一役買っていたようである。

そして16世紀に大予言がもてはやされていたからこそ、遠く20世紀中盤の東アジアの一国でその歴史が掘り返されることになったものと想像される。

わたしが子供の頃に「ノストラダムスの大予言」を知るようになったのは、1973年出版・五島勉氏著「ノストラダムスの大予言」という本が出たことが原因であるようだ。
1973年といえばオイルショックの年だ。
当時の日本は高度経済成長でイケイケの時代ではあったが公害問題なども深刻で、決してただ明るいだけの脳天気な雰囲気ではなかった。

そういう時代背景にあって作家・五島勉氏は、16世紀に流行った「大予言」を掘り起こして出版したのである。
作家として活動していた五島氏は、ポルノ小説を書いたり雑誌編集に携わったりスパイ小説を書いたりひとヤマ当てようといろいろ試行錯誤していた形跡がある。
で、最終的に「ノストラダムスの大予言」が大ヒットし、オカルト路線で行くことを決意したようである。


ところで1999年が来る頃には時代を席巻したオカルトブームはとっくに収束していて、恐怖の大王が降ってくると言われていた7月前後に若干テレビなどで暇つぶしに掘り返されたくらいで世界は滅亡することもなかった。
そのかわり2年後にニューヨークに旅客機が突っ込んで予言を思い出す羽目になったわけであるが。
空から何かが降ってきて世界が破滅する、というイメージは、6600万年前に巨大隕石で恐竜が絶滅して以来地球上の生命のひとつの「原体験」になっているのだろうか。

あるいはいろんな社会不安がある中で、個人的に「滅亡」するくらいならいっそ世界中一斉に滅亡した方が望ましいというリセット願望がこういう終末思想の背景にあるような気もする。


しかし不思議なのは、1970年代は公害や戦争による不安要素はたくさんあったが少なくとも日本は経済成長の真っ只中で、ある意味今よりいい時代だったことだ。

当時よりはずっと厳しい時代になっている現在、ノストラダムスの大予言みたいな終末思想があまり聞かれないのは、現実世界があまりにリアルな終末なためにオカルト思想が流行る心の余裕がないということなのかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 06:19| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月30日

職業の寿命

どうもこの数年の間に、「10年後に無くなる仕事」「AIに奪われる仕事」みたいなニュース記事をよく見るようになった。
これは確かにAI=人工知能がものすごく進化して将棋や囲碁で人間が敵わなくなったり、簡単なニュース記事なら朝飯前で書けるようになったことがある。

そういう人工知能の進化とは別に、現代という時代の、ものすごい職業の種類の多さがあるのではないかと思う。
数百年前の日本であれば、職業の大分類としては農民、サムライ、商人、職人、それ以外に少数の貴族階級があっただけだ。
貴族階級が職業であったかどうかはよく分からないが、商人や職人はまたそれぞれ両替商やちりめん問屋、大工に鍛冶屋などの中分類に分かれていたのだろうが、その頃には職業の大分類・中分類・小分類がそれぞれ現在より大幅に少なかったものと思われる。

さらに言えば、新しく生まれる職業と必要なくなって消える職業の入れ替わりも今よりずっと少なかっただろう。
だからいったん何か役に立つ「手に職」を身に付ければ、それで死ぬまで食い扶持に困らないという状況があった。

たぶんその時代のいろんな職業の「平均寿命」は、百年とか二百年とか、少なくとも人間個人の寿命よりも随分長かったことは間違いない、と思うのである。
ところで現在におけるいろんな職業の平均寿命は何年くらいなのだろうか。

少し考えてみると、例えば市役所や県庁の職員の仕事は大昔、おそらく明治時代くらいからある。
だがその執務スタイルは時代とともに激変しているのもまた間違いない。
30年くらい前まではよほどの大企業でないとコンピューターを使って仕事をするのはかなりのレアケースだった。
ところが役所の仕事も何時の頃からかパソコンでやるようになった。

おそらく役所の職員がコンピューターで執務するというのは、昭和の時代もかなり後半になってからである。
いっとき、どこかの役所の中高年職員が、パソコン操作を憶えることを拒絶してクビになったとかどうとかいうニュースが流れたこともあったと記憶している。

一部の中高年職員が苦痛に思うほどに、その執務スタイルは激変したのである。(と思われる)
こういう現象は役所職員に限らず、大工さんでも銀行員でも生じている。
つまり「職業名」は同じだが仕事のやり方が激変している。

そんなことを考えると、職業というよりその職務の「こなし方」は、江戸時代だったら百年二百年ほとんど変わらなかったのが、21世紀の現在だと5年かせいぜい10年くらいでほとんど別ものに変わるのではないか。

そんなことを考えていると、人工知能が進化してもなくならない仕事というのは、その仕事のやり方の本質部分がずっと変わっていない職業なのではないか、とちょっと思ったりするのである。
それが具体的にどんな職業なのかは、また別の機会に考えてみるかもしれない。(考えないかもしれない)
posted by ヤス at 14:43| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月29日

慣れてくると事故しやすい

大昔、運転免許を取りに教習所に通っていた若かりし頃、クルマの運転はちょうど慣れてきた頃がいちばん事故を起こしやすい、みたいな話を聞いたような気がする。

車の運転は慣れていないと、次はクラッチを踏んで、そしてミッションをセカンドに上げてとかいうことをいちいち明示的に考えながらでないと上手くいかない。(マニュアルミッション車の場合です)
つまり運転の手順を「運動能」とも呼ばれる小脳で処理するのでなく、大脳でいったん言語化して考えることが必要である。
どうも動作手順をいちいち言語化して処理していると、小脳と大脳のやりとりの「コンパイル」に若干の時間がかかる。
動作がワンテンポ遅れるためにクルマの動きもギクシャクする。


しかしそういう動作がギクシャクしている時期よりも、ある程度小脳で処理が完結し動きがスムーズになった方が事故の可能性が増えるとしたら、それはどうしてだろう。
これは今適当に思いついた想像であるが、たぶん運転経験がまだ多くない段階で運転処理を自動化すると、危険事象の発生時に対応するパターンの当てはめを間違えることがあるからだろうと思う。

かなりの程度経験を積んだ段階では、例えば横から突然歩行者が飛び出てきた場合に「ブレーキをかける」「ハンドルを切ってよける」などの回避動作が大脳と小脳のコンパイル作業抜きで出来るようになっている。
しかし経験少なく、危険対応の回避パターンが小脳にインプットされていない場合、突然の出来事に小脳はフリーズするか、あるいはその時点でふと我に返って大脳で時間をかけて言語的に対応を考える、ということになると思う。


クルマの運転に限らず、少し慣れてきたがまだ経験値が少ない段階、というのは他のいろんな場面でも起こりうる。

あるいは、十分長いこと運転して慣れている人でも、突然田舎から都会に出てきて交通状況が変わるとかいう場合には、まるで初心者のようにとまどうこともあるかもしれない。

話はずいぶんと飛ぶのだけれど、今の日本という国家の置かれた状況、これもこのクルマの運転に喩えることが出来はしないか。
「日本」は戦後長いこと平和国家として安全保障のことをほとんど考えずに経済成長に専心してきた。
この数十年間、国家としての行動についてほとんど明示的に意識すること無く半ば自動運転で来たのではなかったか。

石油ショックとかプラザ合意後の円高とか、高度成長の延長線のさらなる効率化路線で乗り切ったのも、そこには言語化された思考はあまりなくただ自動的にそう対応したようにも見える。

しかし最近の20年くらいでいろんな状況が凄まじく変わった。
特にこのところ隣の方の国から定期的にミサイルが飛んできて、弾着点がだんだんこっちに近づいている。
こういう今の状況は、従来の延長線上の自動運転では上手く乗り切れないと思う。

しかし日本では、今までの数十年の小脳的学習パターンを相変わらず当てはめようとする傾向が強すぎはしないか。
特にわたしのようなオジサン世代以上の人間はよくよく自戒しないといけない。
その辺が日本の混迷の理由ではないか、と思ってみたりした。
posted by ヤス at 16:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月28日

上から目線

「上から目線」というのは、いつ頃から使われるようになった言葉なのだろう。

案外昔からあるような気もするし、しかし頻繁に使われるようになったのはこの10年くらいではないか、という感じもする。
しかしこれがちょっとネットで調べたくらいではわからない。
おおよそ2000年代以降の流行り言葉だろう、というのがネット上における共通見解のようである。

この「上から目線」は、敬語や丁寧語を操り、見えない社会階層によって各個人の立場が知らぬ間に規定される日本ならではの言葉であるように思われる。
一般に、日本では年齢が上であるとか、組織上の立場が上とか、社会的地位が上とか、いくつかの序列構造を参照して個人間の上下関係がかなり厳密に規定される。

少し難しいのが、年齢は下だが組織上は上司という人物、こういう場合部下であり年上である「私」としてはどのように振る舞うべきか。
ある程度家族的で親密な雰囲気の中小企業のようなケースでは、上司部下や年齢の上下関係なくタメ口を言い合うことができる。
しかしあんまり親密でない大組織で、しかも「年上の部下」がそれなりの職務経験を積んでいる場合、かつ上司の押しが弱い場合は、状況によっては「年上の部下」の方が「上から目線」になることがあり得る。

そのような現象はしばしば組織のアキレス腱になりかねないので、昔の日本では概ね年功序列が標準パターンとして定着していた。

会社組織などに上司部下の関係、いわゆる階層構造というのがあるのは、それがスムーズな意思決定を促し組織の効率性に大きく影響するからである。
大佐や少尉、軍曹などの階層がちゃんと決まっている軍隊と、みんな平等で「上司」のいない軍隊では、たぶん階層のある軍隊の方が強い。

日本の社会は組織効率上必要な階層構造がほぼ年齢によって決まるという自動的な仕組みで出来上がっており、これは東アジアの儒教圏ではだいたいそうなっているのだろう。

「上から目線」というのは、このように自動的に規定されている「見えない階層構造」を破壊する危険行為なのである。たぶん。
だから身の程知らずに偉そうにする輩は、非常に嫌われる。
また下々に位置する人間は、階層構造の確認のためにわざわざ謙譲語を使いへりくだってみせる。
このような位置付けの「上から目線」がこの10年、20年ほどの間に頻繁に使われるようになったのはなぜだろう。
あるいは社会のありようが年齢よりも実力本位のウエイトが大きくなり、従来の組織秩序維持の視点からは許容範囲を超えるようになった、ということなのだろうか。

しかしいずれにしても現代の日本では「上から目線」が嫌われる状況は依然として続いている。
その点をちゃんと覚えておかなきゃなあ、と改めて思った次第です。はい。
posted by ヤス at 10:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月27日

ブーメラン

最近ネットニュースなどで「ブーメラン」という言葉をチラチラ目にする。
結論から言うと、わたしはこの言葉が嫌いだ。

これは典型的には、民進党があることで自民党批判をしたら過去に民進党にも同様の失敗があって、自分が発した批判が自らに帰ってくる、そんな場面に使われる。
直近では、加計学園問題で民進党が自民党を追求していたら、過去に民進党議員も加計学園の認可を強硬に後押ししていた事実があって、晴れてブーメラン成立。
これを使っているのは、一部のネット民とマスメディアでは主に産経新聞あたりである。

流行り言葉というのは、流行っているからこそ使うという側面がある。
最近は流行り言葉の寿命もだいぶん短くなっていて、旬を逃していつまでも使っているとただの痛い人だ。
だから流行りに鈍感なおじさんは、あまり調子にのって使わない方が身のためである。
ただブーメランというのはただの流行り言葉でもない。

これはある種の省略表現である。
民進党には過去に何度もブーメランを起こした実績がある。
だから「民進党またブーメラン」と言えばそれだけで全てが了解される感じがある。

だから少し頭の弱い一部のネット民は好んで使うことになる。
とりあえずブーメランと言っておけば敵に痛撃を与えた感じが出せるから便利なのだ。

ただ少し前にネットニュースで「今度は自民党がブーメランか?」みたいな記事を見かけたこともある。
あまり考えるまでもなく、一般に批判の応酬がなされる場面では、発した批判が自らに帰ってくるというのはかなり普遍的な現象である。
例えば「あなた今嘘つきましたね」と批判した場合、ほぼ全ての人類は過去にいくらでも嘘をついた経験があるはずであるから、ブーメラン批判を気にしていたらそういう指摘はできなくなってしまう。

それが例えば公式の政治的な場であるならば、その指摘された嘘にのみ焦点を当てて真摯に議論すべきである。
決して批判者に対して「ブーメラン」で返すべきではない。
「お前だって嘘ついたことあるだろう」と返すのは、ただのバカで政治家の資格はない。

しかし現実には、日本の政治の場、あるいはメディア報道などではこの手の批判返しが横行していて暗澹たる気分になる。
まあ最近は日本だけでなく、国際的にそういう感じなっているのかもしれないが。
あるいは昔から日本の政治はその程度のものだったのだろうか。
誰か教えて欲しい。
posted by ヤス at 13:26| Comment(0) | 徒然なるままに