2017年10月09日

文字記録と口述伝承

2017年の10月、つまり今月、1963年11月22日、アメリカはテキサス州ダラスで起きたケネディ暗殺事件の政府文書が公開される(公開期限を迎える)らしい。
ケネディ暗殺事件については、オリバー・ストーンの映画「JFK」が記憶に残っているけれど、とりあえず捜査機関によって犯人と認定されたソ連帰りの元海兵隊員、リー・ハーヴェイ・オズワルドの件に関しては誰も信用しておらず、今回の情報公開で決定的な事実が判明するのではないかと期待が高まる。

ただし今回の情報公開に関しては、最終的にはトランプ大統領の権限で公開範囲を一部または全部について制限できるそうだ。

アメリカの場合、公的な機密情報に関しても30年後とか50年後に公開などという例が多いのはよく指摘されるところである。
一方の我が国でも、例の「特定機密保護法」なる法律により「特定秘密」の公開指定期間は60年以下にすることが定められているらしい。
しかしながら、同法の元ではそもそも何が「特定秘密」なのかが分からない。
やや悪意に推測すると、政府側は都合の悪い真実は「特定秘密」に指定して、その真実の「存在」そのものを闇に葬ることができる。
そうなると、市民社会側が機密情報の公開を迫る、というような話にはなりにくい。


話は少しとぶ。
中国の漢の時代の歴史家の司馬遷は、時の絶対権力者の武帝・劉徹の不興を買い、男性器を切断される宮刑に処せられ、その莫大な怒りをエネルギー源に歴史書の「史記」を書いたとされる。
おおよそ歴史記録というのは、時の権力者によってその内容に都合の良い脚色が加えられるのが常だと思うが、古代中国の歴史業界においては、実態はともかくその気概としては、権力者の意向に左右されないありのままの史実を記録しなければならないというスピリットが確かにあったらしい。
某国の某歴史家がありのままの史実を記録して、王の怒りを買って処刑され、今度はその子供が親の業績を引き継ぐ、みたいな話が古典として残っていたりする。

ところで、世界の歴史をざっと概観した時、自分たちの社会の記録を後世に残す方法論としては、「文字記録」と「口述伝承」の大きくふた通りがあるという。

で、前述の古代中国の歴史を見るとこれは「文字記録」の文化が色濃い。
多分に個人的な意見だけれど、「ありのままの事実」を残したいという気分は文字記録の文化に特有のものではないかと思う。
対して日本の場合は、間違いなく「口述伝承」文化の社会だと思う。
口述伝承では、親から子へと社会共有の歴史が語り継がれるのだけれど、子供がお話を効率的に記憶する都合上、お話の「物語性」が過度に強化されるのではないだろうか。

対して文字記録の文化では脳細胞の記憶力に依存する必要性が薄く、記録は淡々とした事実の羅列であって構わない。
だから文字記録の社会では、歴史に対する態度がドライで思い入れは薄くなり、口述伝承文化では歴史に情緒的になり、感情移入が過度になるきらいがあるかもしれない。

ただ現代の技術進化は、人間が歴史物語を脳細胞に記録する手間を大容量の電子記憶装置によって大規模に代替してくれるようになっているから、歴史に対する情緒性は今後だんだん薄れていくような気もするのである。

その分、市民社会は自分たち歴史に対する関心を保つための、意図的な努力が必要になっている、というような気がしなくもないわけであるが。
なんにせよ、ケネディ暗殺の文書公開にはかなり期待が高まるのである。
posted by ヤス at 10:39| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月08日

個人認証と影武者

さて、いきなりだが映画や小説の世界では武田信玄には何人もの「影武者」がいたことになっているのがお約束である。
実際、史実的にも信玄には影武者がいた可能性が高いという説が有力であるらしい。
信玄の影武者は主に信玄の兄弟・親戚が務めることが多く、それらの影武者が他国からの使者の応対を信玄に代わってやることも度々あったらしい。
兄弟なら顔や声音が似ているのは当然で、しかもテレビも雑誌もインターネットもない時代の話である。

使者は信玄に会ったことのある人からその特徴を教えてもらい、その情報を頭に叩き込んで信玄との面会を行なったことだろう。
しかし肝心の信玄情報の元の人が、実は信玄本人ではなく影武者にしか会っていない可能性だってあるはずで、その当時の「本人確認」というのが非常に困難を極めたことは容易に想像される。
たまに何かの物語で、ホクロとか眉間の古傷とか、身体的な特徴を手掛かりに本人確認する場面があったりするが、それは本人確認のための「顔情報」がそもそもない時代には、ほとんど唯一の確実な方法であったりしたのかもしれない。

そこへ行くと現代は、特にテレビ普及以降はそうだと思うが、政治家とか俳優とかテロリストの親玉とかの有名人は、おおよそが世の中に顔を晒すようになっている。
テレビ以前の時代には、ぼやけたスチル写真が出回るくらいがせいぜいだったのが、テレビの時代には動画によって動きの特徴や声色、話し方などもセットで流れるようになって、いよいよ世の中に対する有名人の「アイデンティファイ」は確かなものになっている。

そうなると古き良き時代のように、気軽に影武者を立てるというのはかなり難しいだろうことは容易に想像できる。
仮に双子の兄弟を影武者に立てたような場合でも、現代の高度に進化した個人識別技術を使えばちょっとした癖や身体的なわずかな特徴の差異を読み取って、容易に見破ってしまうに違いない。

この間発表されたiPhoneXには3D技術を使った高精度の顔認証技術が搭載された。
これまで顔認識はグーグルなんかも力を入れていたけれど、それはあくまでも二次元平面的な認識技術だったと思う。
それがiPhoneXでは、顔の凸凹を正確に読み取って99.7%の精度で個人の識別をするらしい。
近い将来には、顔の3D認識にとどまらず動画情報から動作の癖を読み取るとかして、限りなく100%の個人識別をする時代になることは、まず間違いない。

つまり有名人のみならず、市井に生きる「その他大勢の一般大衆」も一人一人かなり厳密に「アイデンティファイ」されるという時代が来るのである。
それはハンコやサインで「個人認証」している現代が、ほとんど原始時代に感じられるほどの変化だと個人的には感じる。
有名人から無名の一般大衆に至るまで、影武者やなりすましがほぼ原理的に不可能になる未来は、はたして幸せな時代なのかどうかは、なかなか一概には言えないなと、少し思ったのである。
posted by ヤス at 10:36| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月07日

いわゆる内部留保について

希望の党の公約にも出て来ていたけれど、企業の内部留保の話。
この数年企業業績が好調で、法人企業統計によると2016年度の利益剰余金(=内部留保)の総額は406兆円以上にのぼるらしい。
そんなに利益が積み上がっているのなら、その一部を賃金引き上げに回せとか、あるいは希望の党の公約にある「内部留保課税」で消費税の代替財源で国が吸い上げようとかいう話が出ている。

内部留保課税について、麻生財務省が「二重課税になる」という反対論を言っているのがニュースになっていたけれど、麻生氏はまったく正しいと思う。
ちなみに内部留保は正式の会計用語ではない。
いわゆる内部留保は、企業の決算書の貸借対照表の右の下の部分、純資産の部の資本金以外、つまり利益剰余金にあたる部分と思って間違いないと思うのだが、この部分は企業が利益を出して税金を払った残りが貯まっている項目である。
いろんな専門家がすでにコメントしているけれど、この貯まった部分に課税するというのは、過去の法人税の追加徴収になるので非常に筋が悪い。
それよりは単純に法人税率を上げるのが素直な方法であるのは間違いない。

ただしアメリカでは州によっては「留保金課税」というのがあるという。
しかしその場合、貯まった留保金全額が対象ではなく、単年度分を対象としたかなり限定的な課税であるとのこと。
小池百合子氏はその辺の情報を聞きかじったのを元に、消費増税凍結、代わりに内部留保課税と言っているのかもしれないが、おそらくそれだけで消費増税分をカバーするのは難しい。


あと、麻生財務省は内部留保を貯めてないで給料に回せとも言っているらしい。
しかしこっちの方の発言は明らかにおかしい。
これも多くの専門家が指摘しているが、内部留保はイコール現金ではない。
上場企業であれば、過剰な現預金を持ち過ぎると株主から「もっとお金を有効利用しろ」と怒られるので、余剰の現金は土地や設備などの資産に変わったり、債権や株式などの金融商品に変わっている可能性が高い。

これはそっちの方がよりたくさんの利益が稼げると考えているからで、賃金を上げて利益が出るのならとっくにそうしているだろう。
内部留保が貯まりすぎているから給料上げろという主張は、企業の行動原理に反した社会主義的な考えである。

まあ時の政権がこういう態度に出るのは日本だけでなく世界的な風潮かもしれない。
世界にはびこる「ポピュリズム政治」では、利益追求に走る大企業群は、政治家が人気獲得するためのスケープゴートにされるのが定番になっている。

本当は、安易なポピュリズムではなく民主主義や資本主義の根本的なあり方を議論することが必要なんだと思う。
ちょっと前に流行ったピケティ的な話を、もっともっと深めていくことが必要なのだと思うが、今の政治状況を見るに、そういう段階がやって来るにはまだまだ遠いようである。
posted by ヤス at 14:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月06日

ベーシックインカムの公約

さて、また選挙関係の話だが、希望の党の公約原案の中にベーシックインカムが入ったのがちょっとした話題になっているらしい。
希望の党に関しては、いろんな政党出身者が混ざったごった煮状態になっており、「憲法改正」が大きな目標であることはなんとなく分かってはいたものの、それ以外の部分でどっちの方向に向かっていくのか今ひとつ掴めなかった。

それがベーシックインカムが入り、また道州制や議員定数削減なども盛り込まれたことにより、政策の向かう先がかなり絞り込まれてきた感じがする。
個人的な感想としては、これは民進党(または維新)が本来唱えていたものに接近し、自民党的政策からはちょっと離れた、という感じがしている。

また「原発ゼロ」には「2030年までに」と明確に期限が切られ、しかしそれまでの間安全稼働可能な原発は動かしていく、ということらしい。
さらに従前から目玉政策であった消費増税凍結については「凍結」が「反対」に強められ、代替財源として企業の内部留保課税が挙げられている。

さらにもう一つ面白いと思ったのは金融緩和と財政出動に過度に依存しない「コイケノミクス」推進の項目だろうか。
それが具体的に何を意味するのか、ちょっと判然としないわけであるが、例の「第一次・三本の矢」を参照するならば3番目の矢の「成長戦略」に重きをおくということになる。

最近の報道では希望の党は、選挙結果次第で自民党との連携に含みをもたせているらしいのだが、しかしこの公約原案を見る限り従来の民進党的立場に寄って行って、自民党との対決姿勢を鮮明にしたと見るべきなのかもしれない。

ベーシックインカムの導入についていうと、これを実現できれば政治的にものすごく画期的であることは間違いない。
ただしこれの導入のためには莫大な財源がいる。
というか、消費税が2%上がるとか内部留保に課税とかのレベルの話ではもはやない。
税体系をひっくり返してゼロから組み直すことが必要になるだろう。
また、ベーシックインカム導入はその他の福祉政策の廃止または極端な簡素化が条件である。
それによって行政コストを極小化するのがベーシックインカムの肝だろう。
生活保護や公的年金制度、医療保険なども含めた福祉政策の枠組みを総取っ替えする話であり、そのためには霞ヶ関の強力な拒絶反応も予想される。

希望の党の公約原案を見る限り、「日本をリセットする」というスローガンに全く則したものになっていると言わざるを得ないわけであるが、このような超ハードルの高い政策を果たしてどうやって実現していくのか。

その辺の明確なロードマップもぜひ示してもらいたい、などと思った。
posted by ヤス at 10:18| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月05日

自由について

ここ最近、「リベラル」とは何かについてちょっとだけ考えている。
前にも書いたが、政治用語であるリベラルは「リバティ=自由」から来ている。
まあ日本の政治におけるリベラルは「護憲派」だったり「原発ゼロ派」だったりするようで、その言葉の使い方はわたしにはいまいち判然としない。
しかしながら、なんとなくリベラルと言えば「あの辺の人々」というイメージはある。

ところで政治においては「自由」という概念がけっこう重要であるようだ。
日本の現政権である自民党の党名にもその言葉が入っているし、また野党のひとつにも「自由」を冠した党があったりする。
外国にも自由を冠した政党名はたくさんあるようで、近代政治と自由は切っても切り離せない関係であることをうかがわせる。

ところで、自由というのはいったいなんだろうかと思うのである。
近代政治に自由の概念が重要なのは、かつての時代、民衆の自由がはなはだしく圧迫され侵害されていたことがあって、そこから民衆による自由の獲得、というのが近代政治のひとつの目標としてあったからだろうと想像する。

しかしちょっと根源的に考えて、人間は完全な自由を獲得することが出来るのだろうかと疑問に思わないこともない。
自由を抑圧するのは、時の権力を握る王侯貴族であったり、はたまた国境を侵して征服をたくらむ異民族だったりしたのかもしれない。
また複雑高度化した現代社会では、主権者たる民衆が作り上げているはずの社会システムによる束縛が問題であるように見える。

長いこと苦労して草の根の民衆は主体的に自分の好きなように生きる権利を獲得したはずだったのに、自分たちが作った政府とか、社会の重要要素である企業組織が人々を縛りつけている。

そもそも、人間が「生き物」として生きることを考えた時、不安定な食糧事情とかライオンやトラなどの猛獣の脅威とか、生きていく上でかなりの阻害要因はあったわけで、その意味で原始人たちはそれなりに不自由であったと思う。
それが、文明が進化し、また民主政治が進化して普通の人々が自由で快適な暮らしぶりを獲得していったはずなのに、ひょっとすると現代人は、生きていくのがやっとだった原始人より不自由であるのかもしれないと思ったりする。

ということで、自由とは何かというのは結局よく分からないのであるが、それでもわたしはなんとなく政治における真の「リベラル派」というのがいるとしたら、それを支持したい。
posted by ヤス at 13:23| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月04日

選挙情勢雑感

さて、毎日のように変転が続く日本の衆院選情勢であるが、先日「立憲民主党」が立ち上がって、多分これで最後の「極」が出揃ったのだと思う。
一方で希望の党は民進党議員の受け入れに際し「リベラル系排除」の方針を示し、また恐ろしく生々しい10項目の「政策協定書」が流出して「憲法改正」や「希望の党に対する資金提供」に関し無条件降伏を迫る様子が伝わっている。

わたしは小池百合子氏が政治におけるマーケティングの天才だと思っていたのだが、どうもそうでもなかったのかもしれず、ここ数日の動きは非常にいただけないと感じる。
声高に排除の論理を振りかざしたりえげつない「選別条件」が露呈したおかげで、支持率調査の数字もかなり落ちているようである。

あとちょっと思ったのが、産経の記事にあった「リベラル派を排除する」とかいう話。
会見で産経記者から「リベラル派を排除するのか」と聞かれて「排除する」と小池氏が明確に答えたのが記事で「リベラル派を排除する」と小池氏が言ったように伝わっている件である。
おそらく小池氏は直接的に「リベラル派を」の部分は言っていない。
それがあたかもそう言ったようにニュースになっているのは小池氏にとって非常にまずくないかと思うし、小池氏らしくないと思った。
その「リベラル派を」の部分にちょっと断りを入れるべきだったのではないか。

わたしは実は政治における「リベラル派」の厳密な意味を知らないのであるが、これは一般的に「自由主義」の意味であり、「穏健改革派」の意味とされる。
アメリカで言うと国民皆保険支持はリベラル的であり保険反対はアンチリベラルになるのだと思う。(違うかもしれないが)
しかし日本においては伝統的に「リベラル」は政治勢力分類に使われることが多く、古くは旧社会党勢力を指していた。
そして日本で今リベラルと言うと、ごく自然に民進党左派のこととして理解される。

希望の党が「アンチリベラル」をあまりアピールし過ぎると、「小池の乱」が実は「自民党内部」における主導権争いであって、選挙後は安倍か小池どちらが主導権を握るかはともかく、どっちみち自民党的政治に収束する構図が見え過ぎてマーケティング上不利な気がする。
国内には多くのアンチ自民票がくすぶっており、順調に行けば希望の党はそっちの票をたくさん拾える可能性があったのに、と思ったりするのである。

それと新しくできた立憲民主党も、あるいは共産党勢力にも言えることだと思うがいい加減に「反安倍」を言うのは止めた方がいい。
標的にすべきは具体的な政策の中身であり、個人を攻撃する感じには違和感しか感じない。
posted by ヤス at 10:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月03日

ラスベガス銃撃

昨日ラスベガスで、58人(多分それ以上)の死者、527人以上の負傷者を出す無差別銃撃事件があった。
死傷者数でアメリカ史上最悪の大惨事だという。

容疑者は、詳しい情報は定かではないが64歳の「スティーブン・パドック」という人物であるという。
また狙撃地点となったホテルの部屋からはライフル銃など10挺以上の銃器が発見されたという。

このニュースを聞いてまず思ったのは、容疑者一人の割に死傷者数が異常に多いということ。
その後の報道によると、狙撃地点となった32階のホテルの一室を特定するまでに2時間程度かかったようで、その「攻撃時間」の長さが多数の犠牲者数につながったようである。
犯人は400m以上離れた位置から次々と銃弾を犠牲者に命中させていった銃撃技術を持っていたということで、多分元々軍隊にいた人物なのだろうと推測する。
年齢は64歳ということだから、ちょうどベトナム戦争に従軍していたくらいの世代である。
ちなみにベトナム戦争は、最後の方の「サイゴン陥落」が1975年なので今からだいたい40年以上前の戦争だ。
その時で容疑者は24歳なので、あるいはもっと早期の1960年代くらいにベトナムに行っていたかもしれない。
まあ推測だが。

事件の発生時刻は現地で夜中の10時過ぎくらいということで、本来なら真っ暗な時間なのだろうが、娯楽都市ラスベガスの場合、街中はその時間でも昼間のように明るかったと思われる。
逆に犯人が潜んでいたホテルの32階は相対的にかなり暗かったはずで、現場ではどこから銃弾が飛んでくるかも分からず、だからどっちに逃げたらいいのかも分からず、大変な混乱が起きていたことが想像される。

これまでの銃撃事件の場合、銃を持った犯人が犠牲者たちのごく間近にいて、至近距離から確実に撃つケースが多かったように思うが、400mといえば普通の感覚では相当な遠距離だと思う。
その距離から撃って人を殺そうという発想は、過去にその距離で狙撃を成功させた経験者でないと出てこないだろう。

今回、銃撃が始まった時に当然だが銃声音が響いたらしいのだが、これがもしライフに消音装置を付けて撃っていたら、銃口から出る発射炎の光も見えず、2時間かかった発射地点発見がもっと遅れ、犠牲者数がさらに増えていたかもしれないと思う。
そう想像すると、犯人はあえて銃声を響かせ銃口から発射炎を出して、わざと自分が見つかるようにという心理がはたらいていたのではないかと、以上憶測ながら想像した。
posted by ヤス at 09:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月02日

本来の仕組みのあり方について

最近思うのだが、日本のいろいろな「システム」には、多くの場合その設計思想に「現場でなんとかする」前提というのが入っているような気がする。
例えば企業のコンピューターシステムなんかでも、実際の運用上の不出来を現場の創意工夫でなんとか乗り切る、そういう感じがあるのではないかと思ったりする。

そうはいってもわたしはその辺の分野は門外漢の素人なので、あんまり断言口調でそのような主張をするわけでもない。
ただそのようになんとなく思うだけの話である。

なんでそんなことを思ったかといえば、それは日本的な「真面目・勤勉」を重んじる空気がそのような現象を引き起こすことがありうるのではないか、と考えたからである。
あるいは全体的に良質な労働力が、多少仕組みに不具合があってもそれを吸収して最終的には円滑に業務を遂行してしまう。
全部の会社がすべてそうだということもないのだろうが、しかしアメリカとかヨーロッパのような移民社会では難しい「日本流」の仕事のやり方のというのは、確かにあるような気がする。

欧米などでは、言葉のコミュニケーションもおぼつかない「外国人労働者」が一定数いて、あるいはろくに教育を受けていないような人々もいる。
それらの、労働者レベルとしては決して高くはない人々が就業する仕事は、難しい説明や訓練なしにそれなりにこなせるよう、細分化され単純化されていたりするのだろう。

そうたくさん払わないとはいえお金を払って雇用する以上、給料分くらいの労働的価値を生み出すように、そこはいろいろと工夫されているはずである。

それで思い出すのがファーストフードのマクドナルドである。
マクドナルドの業務は高度にマニュアル化され、社会経験がほとんどない高校生バイトでも、短時間のトレーニングであっという間に戦力化してしまう。
(今わたしがイメージしているマクドナルドは、資本は外資だがまぎれもない日本の企業であるけれど)
日本の飲食サービス業はどこもかなり高度なサービスレベルを目指しているので(そのように感じるので)日本の他の飲食企業ならとても雇わないようなボーっとした兄ちゃん姉ちゃんでもマクドナルドはかまわず雇って戦力化してしまう。(そういうイメージがある)

これはアメリカ的な労働現場の考え方がかなり影響しているんじゃないかと、勝手に想像したりするわけであるが、しかしこのようにシステムの方が現場の不具合を補う、支援する、というのが本来の「システム」や仕組みのあり方であり、たまにみかける現場個人がシステムの不具合を穴埋めしているのはたぶん考え方が「あべこべ」なんだろうな、とちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 12:51| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月01日

マツモトキヨシにて

この間、いつもの通りマツモトキヨシで買い物をしていた。
レジに行ったら、小太りのおばちゃんが決済している。
しかしそのレジ決済がちょっと変わっていた。

レジ上に置かれていた買い物カゴは洗剤やらシャンプーやらで満タン状態だったのだが、その洗剤一品、シャンプー一品ごとに「レジを打って支払い」、「レジを打って支払い」をしていた。
だから洗剤をひとつレジ通して「398円になります、千円お預かりします、402円のお返しです」
「206円になります、300円お預かりします・・・」
と延々10品くらいの決済をやっていてちょっと驚いた。
というかそういう光景は初めて見た。

今でもあれは何だったろうと思う。
まあちょっとした嫌がらせか、おばちゃんのストレス解消のようなことだったのかなと思うのであるが、客に頼まれるといちいちむげに断れない立場の、レジのお姉ちゃんにわたしはかなり同情した。

で、その小太りのおばちゃんはやっとこさレジが終わると、今しがた購入した品々を詰めたマツモトキヨシの薄いレジ袋を手に下げて、わざわざわたしの方に向いて「すいませんねー」と言いながらニッと笑ったように見えた。

わたしはとっさに微笑みの表情をつくったのだが、その時は小太りのおばちゃんではなく、レジのお姉ちゃんの方に向って微笑んでいる感じを出すことを心がけた。
そしておばちゃんに対しては、なるべくスルーしている感じを出してみた。

しかしおばちゃんは、特にスルーされてダメージを受けたようなようすもなく、すたこらとマツモトキヨシを後にしたようだった。

わたしがこの「事件」を通じて思ったのは、やっぱりスーパーやドラッグストアやコンビニなど、日常よく使う小売店の決済は、早いとこ非接触タグの全自動になればいいなあということ。
買い物かごをバッと読み取り装置にかざすと一瞬でレジ打ちが完了し、お支払は電子マネーでやるようになれば、あのおばちゃんのような蛮行もなくなるだろう。
まあ今でもあんな蛮行めったに発生しないだろうし、あおのおばちゃんは電子マネーを最後まで使わないタイプの人かもしれないので、そうだとあんまり関係ない話だが。

まあとりあえず今でもスマホで電子マネーは十分に便利であり、コンビニやマクドの支払いも一瞬で速いし、今はまだ使用率が低いみたいだが、みんながつかうと店員さん的にもかなり楽になるのではないか、とあらためて思ったりしたのでした。
posted by ヤス at 16:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月30日

人類はだんだん主体的になっているのか

さて、昨日つらつらと経済成長のことを書いたが、当初はもっと別のことを書くはずだった。
本当は人類における「自主性」の位置付けについて思いついたことがあって、書こうとしていたのである。
しかしキーボードを打つうちに話があらぬ方向に逸れて行って、思わぬところに着地してしまった。
今日は改めて昨日書きそびれたことを思い出す。

最近同じことばかり書いているような気もするのだが、人類にとっての「自我」の位置付けというのを時々考える。
人類は、他の動物に比べるとかなりはっきりとした「自我」というのを持っていて、それが「人間性」の元になっている、というイメージがまずある。
ここで「自我がある」というのは、自分が自分であると認識していること、ということは自分以外に他人が存在していることもちゃんと認識していることである。

前にも書いたような気がするが、人類の精神文化の進化カーブというのは、人類の「自我」の成長と軌跡を同じくしているような気がする。
自我がまだ十分に成長していない段階というのは、人類は脳容量や骨格的には現生人類になっているけれど、その社会性としては、まだ有象無象の「少し賢い猿の群れ」の域を出ていない。

それが言語が発達して抽象思考ができるようになったことが大きいと思うのだけれど、だんだんと人類は「自分」というのを持つようになってきた。
最初は支配階級など社会の上の方から、やがてはその他大勢組もだんだんくっきりとした「自我」に目覚めるようになり、個人の権利を主張するようになり、ひと頃の黒人奴隷や非差別民のような、人間の形をしているが人間でない存在、というような歪んだ概念が無くなってきて、人類は誰しも等しく自我を持ち尊重されるべき人権を持つ存在、と認識されるようになってきた。

そして自我を持つというのは、少し角度を変えてみると、それは自主性、主体性を持つということである。
つまり自分の行動を自分で決めるということ。
その逆は自分に決める自由がないこと、つまり何をするのもご主人の指示を仰ぐ奴隷的な存在というのがある。
そして人類の近代史は、すべての人間が自主性を持ちうる、つまり自分の意思が尊重されて行動を強制されることが少なくなる、そのベクトル方向で進んできたのだと思うのである。

しかし一方で、資本主義の進化は社会を複雑にし、つまりシステムが複雑になって人類は自身が創造したこの巨大システムに自由を、自主性を奪われつつあるように見える。
今までは主体性が強化され、自由になる方向で人類の歴史は進んできたように見えたのに、この最近、気がついたらそのベクトルがいつの間にか逆を向いている。

今の状況は、そういうことになっていないか。
これは人類の明るい未来に向けた、ほんの踊り場なのか、ただ単に人類は今まで自由に向かっていると錯覚していただけなのか、というのはちょっと考えたくらいでは分かりそうもないが、忘れないようにいちおう書き留めておく。
posted by ヤス at 10:49| Comment(0) | 徒然なるままに