2018年02月13日

画面の変遷について

iPhoneの画面のデザインというのは、最初頃からあんまり変わっていないように思うのだけれど、しかし当然ながら少しずつ進化して変わってきている。
10年前、iOS 1.0の頃は画面が左右に動かなかったりアイコン配置が固定だったりしたそうだ。
また、初期の頃のアイコンデザインはアップルの「アクア」コンセプトに基づいており、ふんわり立体的な感じに影がついていた。

それがわりかし最近、ちょっとクラシックな感じのフラットデザインに変わって、あの時はかなり「変わった感」を感じたものだ。
しかしそれでも基本的な構成や、操作方法はずっと変わらないまま来ており、このことはiOSが、リリース当初からよく練られて完成されたものだったことを示していると思う。
ちなみにiOSは、当初は「iPhone OS」という名前だった。

一方パソコン版のMac OSの方は、出現当時と今とでは当然ながらかなり大幅に変わっていて、1980-90年代の頃のMacの画面と今の画面では全然別の会社の機械のようである。
これはCPUの処理能力とか画面の解像度や色数などが劇的に進化しているから、当然といえば当然である。
わたしの最初のMacはモノクロ液晶のノート型だったけれど、あの当時の「ウィンドウ」のエッジに液晶ドットのギザギザ感が出ている感じのアイコンデザインは、あれはあれで味わいがあった。
今のやつはドット感がみじんも無くて、細かい文字や柄も潰れずにちゃんと表示されてその技術進化には感心するばかりだが、しかし今のデザインは綺麗にまとまり過ぎていて、初期の頃のオタク感が失われたのは多少寂しくもある。

パソコンの画面で言えば、Windowsの変わりようもかなりのものだ。
Windowsに関しては、Macの何倍も台数が出ていて幅広い客層を相手にしているので、画面デザインの変更にはMac以上の苦労があるのではないかと想像する。
特にWindows MeとかXPとか7や10とか、一連の仕様変更に対する世間の風当たりはかなり強かったように記憶している。
パソコンの操作感の細かな変更は、特にパソコンに不慣れなオジサン世代とかには拒絶反応を出されがちであるし、OS仕様変更によりアプリケーションの互換性に難が出たりして、変えるたびにたくさんのクレームが発生したことだろう。

この場合、操作やアプリ互換以上に画面デザインの雰囲気の違いは大きい。
Windowsの画面上に出るマイコンピューターのアイコンが、いつの間にか妙にスマートに細かくなっていたりするのに気がついた時、なんだか無性に腹が立ったような憶えがなくもないのである。
ということでわたしは今でもWindows10の画面をクラシック仕様にして、マイコンピューターのアイコンもWindows95風のギザギザ感のあるやつをネットで拾って来てそれに変えている。

Windowsの場合、アイコン配置を95風に変えてもほとんど支障がなく使えるのは、Macと違ってその操作コンセプトが画面デザインの変更ほどには変わっていないからかなと思う。

OSのメジャーアップデートの時に突如として変わっていたりするパソコンの画面デザインであるが、よく考えてみると個人が所有しているパソコンの画面を販売元メーカーが勝手にいじるというのは、これまでの工業製品の歴史を考えるとかなり「画期的」な出来事のような気もする。

パソコンの操作やデザインがメーカーの方針により問答無用で変わるのは、ある種の横暴であるようにも思われるが、しかし新しい画面にとまどい、慣れていくまでの過程は、ちょっとした頭の柔軟体操になるから、それはそれでまあいいのかもしれない、と思ったりした。
posted by ヤス at 14:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月12日

「らしさ」について

「大人しい」と書いて「おとなしい」と読む。
「大人しい」は、おそらく「大人らしい」がなまって出来上がった言葉ではないかと思う。
一般的に「大人しい」の意味は、ガキのように騒がない、抑制が効いている、穏やかで従順とかいう意味らしい。

つまり「大人しい」の言葉の中には、「大人とはこうあるべし」というひとつの思想が見え隠れしている。
まあ世の中では、けっこうな大人になっても依然として馬鹿騒ぎをする向きも多いわけであるが、しかしそれも時と場所をわきまえた、きちんとコントロールされた馬鹿騒ぎであれば十分に「大人しい馬鹿騒ぎ」と呼ぶことが出来るのだろう。

しかし「大人しい・大人らしい」などという言葉が成立する背景には、あるカテゴリーに属する人類の性質が一定の期待内に収まることを要求する気分があるのだろう、と思ったりする。
世の中には「女らしく」「男らしく」「中学生らしく」「社会人らしく」などなど、いろんな属性に対し「らしく」振舞うことを要求される気分があるのである。

つい最近も「おかあさんだから」という歌詞が起点となって炎上した事件があったが、「おかあさんらしく」あれ、と言われたおかあさんの気持ちの窮屈さは、まあ分からないでもない。

「らしさ」というのはなかなかの曲者である。
それはある場合は肯定的な前向きの言葉として使われることもある。
しかしそれが一見して前向きな意味に使われているような場合であっても、それは実は世間がある個人に対して「ナントカらしさ」を要求する窮屈さを伴うものであり、ほぼすべての「らしさ」には世間の圧が含まれているということで、わたしは基本的には、個人的に「らしさ」を要求されるのは好きではない。

あるいは「女」「男」「中学生」「社会人」など社会的属性に対し「らしさ」が要求されるのとは別に、ある個人に対して「Aさんらしい」とか、あるいはある社会的集団に対して、「トヨタ自動車らしい」「メルセデスベンツらしい」などと使う場合もある。

たぶん人間というのは、目の前の誰か、何かが期待通りに「ナントカらしく」振舞う時、事前期待が満たされて気分が良い。
だから何かに「らしさ」を求める。
またこっちの方も、他人に対する一種のサービスとして「自分らしく」振舞う、あるいは所属集団の「らしさ」に準拠して振舞う。

そういう感じで、「らしさ」のやりとりはある種のコミュニケーションとして社会を豊かにすることもあるのだろう。
しかしだからといってあまり「らしさ」を強要するのは強欲が過ぎるし、こちらの方から「らしさ」を安売りし過ぎるのも良くないのである。

わたし個人として望ましい「らしさ」のあり方というのは、その人が死んだ後で周辺の人々が「まあ結果、あの人らしかったね」と言ってくれるようなことであり、ボクの前に「らしさ」はなく、ボクの後に「らしさ」は出来る、のがいい、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:35| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月11日

ことわざは、話半分

「井の中の蛙、大海を知らず」という諺(ことわざ)がある。
これは2300年前の中国の「荘子」の中に出てくる一節であるらしい。
「荘子」はグリム童話のように具体的な寓話の体裁を多く使っている。
「胡蝶の夢」なんかが特に有名だろう。
で、「井の中の蛙」も寓話の中から抽出された諺である。

「井戸の中のカエルは海を知らない。狭い「くぼみ」にとらわれているから。夏虫とは氷のことを語り合うことができない。季節といえば夏しかないと思っているから。視野の狭い人とは道を語り合えない。教えに縛られているから」

というような内容らしく、これは初めて海を見て驚いた「黄河の神様」に対して「北海の神様が」語りかけた言葉、というふうになっている。

北海の神様いわく、「君も広い世界を知った。これで君とも世界の真理について大いに語り合える」
ということである。

ところで、世の中の諺とか金言格言というのは、今はたいていオジサンしか使わないのかもしれないが、これはある種の「議論の省略」と言ってよいと思う。
「古くからの格言にこうある」とか言うと、「そうか、カエルみたいに狭い世界に閉じこもっていてはダメだ」と、みんなが最初から思い込むかどうかは知らないが、「狭い世界に閉じこもることの非」については議論する雰囲気がなくなる。

だがあえて「井の中の蛙」に反証を試みると、多くの人類にとっては敢えて荒波うねる大海に漕ぎ出すよりは、狭くても安全で安心できる世界に生きる方が幸せである、という考え方だってできるだろう。
「知らぬが仏」という諺もある。

だいたいの諺は普通に反証可能であることが多いし、「急いては事を仕損じる」と「急がば回れ」みたいに、まったく反対の意味を唱えているものも多数ある。

あるいは会話の中で「上手いこと言う」場合。
上手いこと言うというのは、ものすごく納得できる理屈を言うことだと思うのだが、おそらくそういう時、聞いた人間の脳の中で何かが起きている。
それはたぶん、何かが「理解できた」と感じた時の快感だと思う。

そういう何かが理解できたり、納得できた時にかすかに生じる脳内の快感が、「上手いこと言う」ことや古来の金言格言を裏から支えている。
だがそういうのはだいたいにおいて「分かったつもり」が多い。
「分かった」と思って脳内で何かの快感物質が分泌されたことを検知したら、その時は少しだけ注意した方がいいと思う。

だから「諺は話半分で聞け」みたいな諺がひょっとしてあるのかなと思ったりしたのだが、まあたぶん無いかもしれない。
posted by ヤス at 12:05| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月10日

アルマーニ標準服

東京都中央区立泰明小学校の、アルマーニ標準服がニュースになっている。
ニュース記事をざっと読み、校長の記者会見の一部を見た感想を述べる。

内容を知らないいちばん最初の時点、この校長が何かの業者と結託していて、「袖の下」でも受け取っている疑惑があって大騒ぎしているのかなと思った。
しかし見てみるとそういうことでもないらしい。

結論的に言うとこのニュースは、校長と同小学校に通う子どもの保護者との間で問題解決すべき事案であって、学校や校長が糾弾されるべきとか社会的大問題として大きく報道すべきだとか、そういう問題ではないと感じる。
我が国におけるいつもの騒ぎグセがまた始まったのだな、と思った。
ただ校長にまったく一切の非がないということでもないとは思うが。

これは想像であるが、この校長はそれなりに生真面目に考えて標準服を高級なものにすることを思いつき、思い浮かぶメーカーやお店にこつこつと電話等で問い合わせを始めた。
それでやっとの思いで話に乗ってくれたのがアルマーニ(アルマーニジャパンという日本法人)だったらしい。
以降校長とアルマーニの間に百貨店の松屋が入ってプランニングを進めたようだが、校長としては不慣れな作業を旧知の松屋に依頼することで、仕事がスムーズにはかどると考えたのだろう。

校長に問題があったとすれば高価な「標準服」を企画するにあたり保護者や教育委員会の了解を得つつ進める、というプロセスを飛ばしたことだろうが、これもやっとの思いで了解をとりつけたアルマーニに配慮した結果であったとすれば、ほんの少しは同情の余地があるのではないか。

また泰明小学校は銀座という立地や特認校などの条件もあって、生徒の家庭は金持ちが多い。
また事前に調査した周辺小学校の制服価格では、それなりに高価なものもあってそれほど重大な問題はない、と考えたのかもしれない。

この校長は、たぶん生真面目でそれなりに意欲的に仕事に取り組んでおり、制服(というか標準服)も教育活動の一環として最大限活用したいと考えてそれを苦労して実行に移したように見える。
そういう点で、ことなかれで何もしないタイプの校長よりはるかにましだと思うが。
ただこの校長は学校一筋で生きてきたためにやや「世間ずれ」している部分はあったのかもしれない。

本件に関してはいろいろな評価はあるのだろうが、だが伝わってくるものがかなり否定的な意見が多いのだけれど、少しはこの校長を評価してあげる見方があってもバチは当たらないと思う。
ましてや自分に関係もないのに、ただ叩きやすいからSNS等で叩くというのは、見ていてなんだかなと思うのでした。
posted by ヤス at 14:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月09日

恵方巻きのニュースより

今年もいつものように2月3日節分の日がいつの間にかやってきて、コンビニやスーパーに恵方巻きが並んでいた。
そして3日が過ぎたら恵方巻きは跡形もなく消えて(当たり前だが)、今はもっぱらバレンタインチョコが並んでいる。

で、兵庫県のスーパーが、売れ残った恵方巻きの廃棄問題について提起するというニュースがあった。
兵庫県内で8店舗を展開するヤマダストアーが、昨年SNSで恵方巻きの廃棄問題が話題になったのを受けて、今年の恵方巻きは昨年実績でつくるので売り切れの際はご容赦、というのを告知するチラシを撒いてそれがニュースになっていた。

問題の背景には、コンビニでの恵方巻きをはじめとした「季節商品」の販売ノルマが加熱していて、店長やバイトスタッフまで自腹で購入するとかいうこともあったようだ。
最近は、バイト先で発生したちょっとした問題でも、誰かがSNSでつぶやいてそれが何かのきっかけでわっと広まる。
そんなこんなで冒頭述べたヤマダストアーの告知はそこそこ顧客の共感を呼んだようで、後刻顧客からのクレームは1件もなかったというお礼の告知が同社のウェブサイトに出ていた。

昨今の日本小売業界においては、恵方巻きやらバレンタインやら土用の丑、ハロウィン等々、季節的なイベントでの売上拡大がかなり大きなウエイトを占めていると想像される。
日本は、人口は減るし年寄りは増えるしで、小売業の事業環境はますます厳しくなっている。
というかもうだいぶ前からレギュラー営業の売上が厳しくなって、スーパーでもコンビニでもイベントの売上をいかに拡大するかは企業生き残りのためにどんどん重要になっている。

だから恵方巻きでもバレンタインチョコでも、去年より今年、今年より来年と力が入らざるを得ない。
特に恵方巻きの場合モノが日持ちのしない寿司なので、イベント当日に売れ残るとどうしても即廃棄になってしまう。

農水省の発表によると、日本の食料廃棄量は他国に比べて異常に多い、などとも言われる。
そこに大量の恵方巻きが廃棄される「絵」が報道されると、なんだかものすごく心配になる。

食料廃棄問題について心配し、改善を試みるのは非常に良いことだと思う。
しかしまた同時に、あまりヒステリックに心配しすぎるのも良くない。
考えてみると、特に日本のコンビニなどは、多額の費用をかけて商品管理を行なっており、廃棄ロスの削減についても相当厳しく取り組んでいるはずである。

そういう経営上の制約が働いている限り無際限に廃棄が増えることはないだろう。
単純に、売れ残りが心配になったらSNS等で顧客に告知拡散するとか(今もやっているだろうが)、一歩進めて店頭の在庫量を遠隔で顧客がチェックできるようにするとかで、一定の改善はするのではないか。
また最近の流通業界では電子値札とかRFIDとかの導入も進んでおり、近い将来賞味期限の短い食品類については、例えば製造から10分経過するごとにちょっとずつ値段が下がっていって、それが全自動で電子値札に表示されPOSデータにも反映されるとかいう仕組みも可能になるのではないかと思う。

なるべくならあまり我慢するのではなくて、みんながハッピーになる方向でコトが解決すればいいなあ、と思ったりしたのでした。
posted by ヤス at 10:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月08日

テスラロードスター宇宙を走る

https://www.youtube.com/watch?v=UO3h4FBLWqY

昨日アメリカでスペースX社の宇宙ロケット「ファルコンヘビー」が打ち上げ成功した。
NASAのケネディ宇宙センター39A発射台というのから発射されたらしいのだが、39A発射台はかつてサターンVロケットが月に向かって打ち上げられたりスペースシャトルが発射されたりした由緒正しい発射台であるそうだ。

この打ち上げはいろんな意味で近年稀に見る画期的なものだった。
まず、このロケットが現在実用で使われているものの中でもっとも強力なロケットであること。
ネット情報によると低軌道への投射能力が54.4tらしい。
歴史上最強のロケットは月に行ったサターンVで、こちらは低軌道投射能力118t。
ファルコンヘビーはサターンVの半分ほどの能力ではあるが、世界の現用ロケットの能力がだいたい20t前後であることに比べると、格段に強力といえる。
ちなみに日本最強のH-2Bは低軌道投射能力16.5tである。

あと、ファルコンヘビーはクラスタリングといって、ロケットエンジンを複数基束にしてひとつのロケットにしている。
ファルコンヘビーの一段目は、スペースX社のファルコン9の両サイドに同じのをくっつけて3つ繋げた形になっている。
ファルコン9のロケットエンジンは、スペースX社が開発・改良を進めているマーリン系のエンジン「マーリン1D」を9つ束にしている。
たぶんマーリンを9つ使っているのでファルコン「ナイン」なのだろう。

クラスタリングは、既存のエンジンをたくさん束にすることで簡単に推力を上げることができるので有効な技術であるが、反面、噴射制御が難しく燃費面も不利、エンジン同士の噴射干渉などもあって、それなりに難しい技術でもある。
昔のアメリカはその難しさを嫌ってサターンVは5基のF-1エンジンを束にするにとどめたが、旧ソ連は伝統的に小さいエンジンをたくさんクラスタリングする方向でロケットを作ってきた。

アメリカはスペースシャトル以降ロケット開発が停滞し、そのために現用ロケットにはロシアの技術がたくさん使われているらしいので、ファルコン9のクラスタリング制御もそうなのかもしれない。

あとファルコンヘビーの打ち上げ費用は9000万ドル、日本円で約100億円らしい。
これは能力半分の欧州のアリアン6とほぼ同程度、打ち上げkgあたりで言えば半分ということになる。
スペースXはロケットエンジンを現在週1ペースで量産しており、あと、今回の打ち上げでも一段目が見事に地上に「着陸」していたが、ブースターの再利用技術も活用してさらにコストダウンを進める腹づもりらしい。

そして、ファルコンヘビーの積荷は、冒頭のYouTubeにある通りイーロン・マスク率いるテスラ社のロードスターに宇宙服を着たマネキンが窓枠に肘をかけて「運転」している。
これでテスラ・ロードスターは宇宙を飛んだ世界最初の車という栄誉を手にしたわけで、テスラ社とスペースX社の相乗効果がものすごい破天荒な形で実現しているのを見て本当に痺れた。
こういう桁外れに壮大なアホの発想は他に誰も真似ができない、と思った。
posted by ヤス at 09:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月07日

陸自ヘリ墜落

佐賀県で陸上自衛隊の攻撃型ヘリコプターが民家に墜落し搭乗員2名が死亡した。
墜落時の動画をタクシーのドラレコが撮影していて、ゆるく弧を描きながら「落ちて行く」ようすが確認できる。

墜落したヘリはAH64Dアパッチ・ロングボウであるが、このヘリは陸自調達をめぐっていろいろと問題を起こしている。

陸自の攻撃ヘリは、1980年代にアメリカ・ベル社製のAH1Sコブラというのが採用されて合計90機が日本国内でライセンス生産された。
ただ生産は年に数機ずつ20年以上にわたって細々と続けられ、そのためにアメリカ軍が調達する価格の3〜6倍のコストがかかることになった。
しかも長年にわたってライセンス生産する間にAH1Sは型遅れになり、アメリカからの部品供給が困難になって、それが価格高騰の一因にもなったようである。

このような効率の悪い生産ペースになるのは、日本のヘリコプター産業が自衛隊にほぼ100%依存しているためらしい。
自衛隊が注文を止めると日本のヘリ産業が消滅するので、毎年コンスタントに注文を出し続けないといけない感じになっている。

これと同じ方式で後継機のAH64Dも調達が2000年代に計画され、当初は62機の予定で細々とライセンス生産が始まったようであるが、本国アメリカでモデルチェンジが行われて陸自が調達していたモデルの部品供給が途絶え、わずか10機で生産中止、その後3機が追加で生産されたが合計13機で正式打ち止めになったのが2〜3年前の話。
しかも最終的な調達価格は、アメリカで20億円くらいの機体にもかかわらず100億円程度になったらしい。
その時生産中止をめぐり富士重工が防衛省を損害賠償で訴えて、全額賠償の判決が出ている。

このAH64D、性能は高いが陸自仕様はアメリカ仕様よりダウングレードの「モンキーモデル」で自慢だったネットワーク能力未搭載でコスパは著しく悪い。
しかも最近は重装甲の攻撃ヘリでも、中東の戦場で歩兵携帯型のスティンガーミサイルによる被害が続出している。
スティンガーは1発数百万円で、これで何十億円もするヘリが撃墜されるのは非常に割りが合わない。
ということで、攻撃型ヘリコプターそのものの存在意義が近年かなり難しくなっている。

しかも陸自のAH64Dは残存12機しかなく補修部品供給は途絶えがちで、稼働機はせいぜい5〜6機くらいという話であり実質的な戦力になっていない。

今回の墜落原因が、その辺の機体維持の難しさに起因するものかどうかは分からない。
皮肉なことにAH64Dは従来機に対し、墜落時の操縦席周りの防護に相当念入りに配慮した設計になっている。
だが今回の墜落はそうした設計想定さえ超える事故だったということで、今回の件は単なる整備不良による墜落というには闇が深すぎる、と思った。
posted by ヤス at 10:46| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月06日

生命の突拍子なさ

世の中は理屈通りにはなかなかいかない。
やってみないと分からないことが多いのである。
というか、基本的に世の中のことはやってみて結果が出るまで予測がつかないのが基本である。
理屈をあれこれ考えて先行きを予測して、それでやってみても、予測通り、理屈通りにいくことは少ない。

20年くらい前だったか、「複雑系」とう言葉が流行ったことがあった。
複雑系は、その昔は目新しい言葉だったが、しかしいつの間にか基本的用語として世の中に定着したようである。
世の中が理屈通りにいかないのは、世の中が複雑系であることが一因であるのは間違いない。
無数の変数が歴史の進行に影響している現実世界では、ほんの小さな出来事が未来を大きく変えたりする。
だから世の中は理屈通りにいかない。

ところで、人間はいつから「理屈通りにいかないなあ」ということを思い始めたのだろうか。
考えるに、生命の本質というのはある種の突拍子のなさにあると思う。
無生物の宇宙では、星屑同士がぶつかったりくっついたりしているわけだが、それらの動きはほぼニュートン力学的に理屈通りに予測可能である。

ところが生命というのは、DNA的な自己修復、自己複製の「本能」を身につけた頃より、ニュートン力学的な動きを大きく逸脱し始めたようである。
それこそまるで生き物のように、ある種の秩序を目指してうごめき始めたのが生命の始まりだと想像する。
しかし原始の生命が目指した秩序の方向は、まったくのでたらめ、たまたまこっちの方に向いたのがいたかと思えばあっちを目指すのもいる、という具合にバラバラだった、と思う。
個別の生命はとりあえず、たまたまベクトルの矢先が向いた方向に向かってがんばる。

しかしある方向に向いていた生命の一群は環境が変化した時にたまたま「向き」が悪くて絶滅し、あるものは向きが合っていて生き残る。
生命は、自己複製という生き物的な秩序を維持するために懸命に頑張るわけであるが、その時にどっちの方向を向くか、それはまったく突拍子もなく決定する。
おそらくあらゆる生き物は、今日もめいめい突拍子なく行動している。
そしてたまたま突拍子なく向かった方向が環境変化に適合していて生き残る。

人間というものを考えた時、人間は、あらゆる生命が突拍子なく決定しているベクトルの向きに自分の意思を反映させることができるようになった時に人間になった、ということのような気がする。
そういう意味で人間は、少し生命的な突拍子なさを失ったようにも見える。

しかし人間は、依然として理屈を無視し、物理法則や社会科学を超越して、時々突拍子なく行動する。
というか、たいていの場合人間の行動は完全な理屈の枠組みに収まっているということがない。
宝くじを買ったり、決して目には見えない神様を信じたり、無謀な挑戦をしてみたり、理屈通りでないこと甚だしい。

それはたぶん人間が生命としての突拍子なさをいまだに保持しているからだと思う。
人間は突拍子なさを乗り越えようとこれまでランダムだったベクトルの向きに意思の力で働きかけを行い、生き物の中である種超越したポジションを保持したわけだが、しかし依然として人間の奥深くには生命的な突拍子なさがしぶとく残っている。
posted by ヤス at 10:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月05日

藤井聡太、六段なるか

さて、若干今さらだが、将棋の藤井聡太「四段」が、1日に行われた順位戦C級2組9回戦で梶浦宏孝四段に勝利し、最終10回戦を待たずにC級1組への昇級を決めた。
さらに昇段規定により、晴れて藤井五段になった。
順位戦参加から最短1年での昇級は加藤ひふみん以来の快挙らしい。

昨年の夏、藤井五段(当時四段)の29連勝フィーバーの時は、このフィーバーがいつまで続くのかなと思って見ていた。
連勝記録が止まり、連敗があったりもしてぼちぼち適当に負け始めた時は、とりあえずここいらで加熱していた報道も一段落して藤井五段周辺も静かになるのだろう、と思っていた。
そして引退して自由になったひふみんがテレビに出まくって、将棋界において世間的な話題はひふみんが牽引していくのだろう、と思った。

しかしその後も藤井聡太は、初の対A級棋士・屋敷九段戦に勝ち、現役タイトルホルダーの佐藤名人から勝利を奪うなど、かなりすごい話題を適当な間隔で供給し続けている。
そしていよいよ来たる2月17日には、かのレジェンド羽生永世七冠と公式戦初対局を実現するところまで漕ぎ着けた。
デビューから1年半の新人棋士が、これだけ軒並みトップ棋士と対戦するというのも近年稀なことだと思う。

このように次々と話題を提供し続けている藤井五段だが、朝日杯で羽生永世七冠との対戦は準決勝なので、これに勝った上で次の決勝も制すると、五段昇段後棋戦優勝の規定を満たして六段に昇格する。
普通の棋士は五段に昇段するのに4年も5年もかかり、六段まで行くのに10年かかるのも珍しくはないので、ここで一気に六段昇段とかになるといよいよ漫画の世界である。

朝日杯で優勝するのは正直かなりの運も必要と思うのだけれど、しかし来年度以降も藤井五段をめぐっては話題の源にことかかない。
最年少でのタイトル奪取がなるかどうか、さらに順位戦で「年一昇給」ペースで一気にA級まで駆け上がるのか、などなど、しばらくは注目が続くだろう。

藤井五段を見ていると、対戦後のインタビューも一年前と比べてかなり落ち着いた感じになって、密度濃く経験を重ねてきた感じが伝わってくる。
彼の場合、棋力の強さもさることながら、常に大勢の報道陣に囲まれても平静を失わない安定したメンタルも勝利の原動力になっていることは想像に難くない。
というかあのメンタルこそが藤井五段の強さの核心に違いないのである。

藤井五段は昨年末に行われた対A級深浦戦、敗色濃厚の場面で人目をはばからず脇息に突っ伏して悔しがっていたけれど、あの悔しがっている瞬間にも何かを吸収し強くなっているんだろうな、と思う。

おじさんも頑張らないといけない。
posted by ヤス at 11:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月04日

自在の境地に至る

「自由」という単語の中の「由」の元の意味は、たどってきた道筋とかいう意味があるらしい。
「由来」や「理由」という言葉も、そのような「由」の意味からできあがっている。
そして「自由」の前の一文字「自」は、この場合「みずから」というニュアンスになる。
一方で「自由」とよく似た言葉で、若干古めかしい言葉であるが「自在」というのがあって、この「在」は、「存在する」「ある」という意味なのは言うまでもない。

問題は最初の「自」のニュアンスで、「自在」の「自」は、「おのずから」になるということである。
ここに「自由」と「自在」の言葉の意味の違いが表れている。
「自由」には、「みずからが、みずからの意思でたどってきた道筋」というほどのニュアンスが込められていることが予想される。
あえて言えば、西洋的ヒューマニズムを感じさせる言葉のようにも思われる。

一方の「自在」は「おのずと、ある」ということになり、ただひたすらそこにある、自然なたたずまいでそこに居る、そういう意味から転じて人間が外界に影響されず心静かに存在している様子、というような意味になるのであろうか。
こちらの言葉には明らかに東洋的な雰囲気が感じられる。

「自由」というのは、人間が自分の意思に忠実に、思い通りに行動できることを指すのであろうが、その自由意志の周辺には、欲望とか自尊心とかの余計なものがまとわりつきがちであり、自由な人間が必ずしも正しく美しい存在であるとは限らない。
そこへいくと「自在」は、一切の煩悩から脱し、無為自然に、ありのままに振る舞うことで、無色透明な存在になりきることなのだろう。

ここで老成した人間であれば、「やはり自由であることを目指すよりは、自在の境地に至りたい」などと思うべきなのだろうけれど、自在の境地を目指し、意識した時点で、すでに心がいくらか囚われており、束縛されていて「自在」から遠ざかっている。
まことに、人間が「自在」に至るのはむずかしい。

人間は「自由」については、「自由になりたい」と思えば自分の意思でそこに近づくこともできるのかもしれない。
しかし「自在」については、手を伸ばせばすっと遠ざかり、望めば姿を消して見えなくなり、結局のところ自在の境地に至るなんていうのはある種のマボロシなのだと思う他ないものである。

だからとりあえず、人生においては、西洋思想的アプローチにより「みずから」の意思で道をたどるより他はない、というのが今日のところの結論である。
という、ほんとうにどうでもいい「自由」と「自在」の違いの考察でした。
posted by ヤス at 09:02| Comment(2) | 徒然なるままに