2017年08月11日

北朝鮮情勢

北朝鮮がグアム周辺にミサイルを打ち込む計画を表明したことが物議を醸している。
そのせいで日経平均株価は2万円を大きく割り込み、理由はよく分からないが円相場もかなり円高に振れて、ミサイルはまだ発射されていないがかなり実世界にも影響が出ている。

それでアメリカはこの計画に対しグアムを拠点とする戦略爆撃機B1Bランサーによる北朝鮮のミサイル発射拠点に対する爆撃の可能性に言及するなどかなり緊迫度を増す事態になっている。
しかし思うのだが、北朝鮮のミサイル拠点を攻撃するのにB1Bを使うというのはちょっと合点がいかない。

ターゲットとなるミサイル拠点は、一部報道によると24箇所というのが出ていたからもう具体的に特定されているのかもしれない。
爆撃機で攻撃するためにはターゲット位置が正確に分かっている必要がある。
だからアメリカの表明は、言いたかったのはミサイル拠点をアメリカ軍は把握しているぞ、ということだったのではないかと思う。

そして攻撃ターゲットが把握できているなら、攻撃は有人爆撃機ではなく密かに北朝鮮沿岸に近づいた原子力潜水艦の巡航ミサイルによって行うのではないか。

最近は原子力空母艦隊を派遣したとか、アメリカ軍が韓国軍や日本の自衛隊と共同で北朝鮮攻撃の演習をするとか、目に見えやすい威嚇的行動が目立っている。
グアム攻撃を示唆されて、それに対しグアムから爆撃機を飛ばして攻撃するというのは、ちょっとドラマチック過ぎてなんだか却って現実味が薄い気がするのである。

そもそも北朝鮮がグアム攻撃計画を表明したのは、ここを拠点にするB1B爆撃機が目障りだったからだろう。
しかし北朝鮮に対する攻撃手段はグアム以外にも在韓米軍基地や洋上の原子力空母や前述の潜水艦などいくつもある。
物理的距離から言えば在日米軍基地からの攻撃も可能だろう。

北朝鮮としてはそのどこかに一発でも攻撃を繰り出せば、アメリカ軍の攻撃を受けて金王朝体制の破滅につながる。
だから北朝鮮に出来ることは、ミサイル実験など「周辺敵国」に損害を与えない程度の示威行動がせいぜいであろう。
つまり、実際にミサイルがグアムなり日本なりに飛んでくる可能性は事実上あり得ないと思う。
まあ彼らが合理的思考を行う限りにおいては、であるが。

北朝鮮としては、現在の緊張状態をなるべく長く維持して、その中で体制を維持する覚悟なのだろう。

ただ金正恩同志の体形を見るに、彼の健康状態が事態の解決に大きく作用するのではないか、という気もする。
だから彼が痩せて肌ツヤが良くなったりし始めるといよいよ面倒くさいことになるのではないか、と思ったりした。
posted by ヤス at 14:34| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月10日

暇つぶしについて

現在全世界的にテレビ離れが進んでいるという。
おそらくその原因の一つは、インターネットの出現にあると思われる。

ネット出現当初、1990年代は「ネットサーフィン」という利用法がネット視聴の主流であったとされる。
これは思いつくままにリンクページをクリックして、あてもなくネット世界をさまよう作法を指す。
いわゆる暇つぶしである。
ネット以前の暇つぶしの主要手段はテレビであったろう。
したがってネット普及が原因のテレビ離れは、ある意味暇つぶし手段がテレビからネットにシフトした現象であると捉えることができる。

多くの大衆はそこそこに暇であり、無意識的に適当な暇つぶし手段を求めている。

人間の脳みそは、他の動物に比べるとかなり高い情報処理能力を持っている。
これはわたしの個人的想像だが、突出して高い能力を持つ人間の脳みそは、アイドリング状態でもある程度以上の回転数で回っていないと調子が悪くなるのである。
何もしていない時、それこそ寝ている時でさえ脳内の神経細胞で電気火花をパチパチ散らしていないと気が済まない厄介な臓器なのだ。

それで暇を持て余している人間に格好の暇つぶし手段としてテレビ番組は提供された。

考えてみるとテレビのような「動画コンテンツ」は映像と音という、出現当時の感覚からすれば「仮想現実的」なコンテンツ形式で、音だけのラジオや文字だけの本・新聞などよりよほどのリッチコンテンツであった。

最近は3DのVRコンテンツなんていうのも出ているけれど、これも二次元平面に映像を表示するという点では動画コンテンツの派生形式の範囲だろう。
人間の認知の大部分は、視覚から得られた二次元映像と聴覚情報の「動画コンテンツ」形式になっているので、この形式は人間がもっとも自然にハマる情報形式なのだと思う。

インターネットは、今までテレビがほとんど独占的に提供していた暇つぶしとしての動画コンテンツをテレビとは違う形で提供し始めた。
そしてテレビの独占的地位を少しづつ削り続けて今日に至っている。
たぶんそういうことなのではないかと想像するのである。

そして同時に、テレビには広告媒体としての重要な役割がある。
現在テレビや新聞広告は市場が縮小しているが、ネット広告は急速に成長している。

考えてみると、大衆が暇であるがゆえに大量のテレビ番組が視聴され大量の企業広告も大量に出稿された。
暇な大衆の存在が現代資本主義社会の土台にある。

この先人工知能が発達し、考えようによっては人類はますます暇になる可能性がある。
そうなった時、人類は引き続きテレビやネットやその他の新しい手段によって今よりもっと暇つぶしをしているのだろうか。

そういうことを想像していると、能動的に、主体的に暇を埋めることについてもっと考えないといけないよな、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:29| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月09日

人づくり革命

8月3日行われた内閣改造の話題のひとつに人づくり革命大臣がある。

そもそも今回の改造内閣の初閣議で、
(1)東日本大震災からの復興加速
(2)「人づくり革命」の断行
(3)「1億総活躍社会」の実現
(4)世界の中心で輝く日本
の4つの政策課題が閣議決定されたらしい。

人づくり革命は主要4課題のひとつに位置づけられる。

さらに、人づくり革命は以下の5つのテーマを掲げているらしい。
「無償化を含む教育機会の確保」
「社会人のリカレント(学び直し)教育」
「人材採用の多元化、高齢者活用」
「人的投資を核とした生産性向上」
「全世代型の社会保障への改革」

一億総活躍といい人づくり革命といい、現内閣の言語感覚にはいつも驚かされる。
しかしこの独特の、過激な言語感覚は一種の炎上商法として捉えると理解出来るような気もする。

現内閣はネット対策にもかなり熱心で、莫大な人的・金銭的リソースを投入してネットを活用した広報活動を行っている。
あるいはその中で学習したことがあったのかもしれない。
「悪名は無名に勝る」式の論法で、当たり障りのない政策を発表するよりは多少炎上しようともニュースで取り上げられて世間に認知される方がよほど実利がある。
そういう考え方のもとに、キテレツなネーミングを連発している可能性も考えられる。

先の人づくり革命5つのテーマを見ると、そこには「血塗られた革命的要素」はほぼ感じられない。
革命というからには、既存権威を転覆する闘争的要素があって然るべきと思うがそういうことでもないようである。

あるいはその闘争のターゲットは文部科学省という官僚組織であるのかもしれない。
かねてから現政権は岩盤規制の突破を基本姿勢とする傾向が見られる。
人づくり革命は文科省権威に対するクーデターである、とすれば革命の意味が理解出来なくもない。

あるいは、安倍首相の頭の中には郷土の英雄・吉田松陰的な革命思想が渦巻いているのかもしれない。
安倍さんの政治的立場は「保守」であると思うが、しかし日頃の行動や考えは基本的に「革命」であり、既存の体制(例えば「戦後レジーム))を転覆しようとするところにその特徴がある気がする。

そう考えると「人づくり革命」は奇抜でも炎上商法でもなく、真面目にナチュラルに命名された自然なネーミングである、と思えなくもないのである。
posted by ヤス at 11:22| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月08日

生産性の向上について

最近、「生産性の向上」というフレーズを聞くことが多くなった。
生産性という概念自体は、ものすごく昔からポピュラーに使われている。
それが今になってにわかに脚光を浴びている(ように見える)のはなぜだろう。

おそらくこの背景には、下がり続ける日本の国際的ポジション、なかなか上がらない賃金水準がある。

ひとことで言うと、政府的には経済を活性化したい。
経済を活性化することによってGDPが拡大し税収が増え、財政プライマリーバランスが改善して国債新規発行が減少する。
また今後継続的に予測される人口減少に対する対策としても、国民一人当たりの経済的生産性を拡大することは重要である。

一方で政府は国内企業に対し、賃金水準の改善についてしばらく前から口を酸っぱくして言い募っている。
これはニワトリとタマゴ論争的な話だが、賃金を上げることによって消費が拡大し企業収益が改善して結果としてさらなる賃金上昇につながる。(という幻想が一部に存在する)

企業収益の拡大は企業にとっては生産性の向上そのものであるから、上記の論法では賃金を上げない企業が頭が悪いことになる。
しかし企業側としては容易には賃金を上げられない事情がある。
現在、国内企業の内部留保が総計400兆円に迫ろうかという規模に膨れ上がっているらしい。
内部留保がこれだけ膨らんでいるのだから、そこからちょっとくらい賃金に回しても良さそうなものである。

しかしやはり賃金はおいそれと上がらない。
内部留保の拡大は、賃金原資の増加を意味しない。
むしろ内部留保の縮小が始まると、企業各社は利益水準維持のために賃金切り下げに邁進し始める。
内部留保と賃金水準はそういう一方向的関係にある。


しかし個々の日本人を見ると、それほど絶望的に生産性が低いようには思えない。
わたしは外国人のことをよく知らないが、たぶん日本人個々の能力は、少なくとも他の先進国と同レベルくらいにはあるのではないか。

そうなると国際的に低いとされる日本の生産性の問題点は、社会や組織や仕組みにあるとしか考えられない、ということになる。

ひとつ思うのは、意思決定についてである。
日本には集団的意思決定が個人的意思決定に優先する風土があると思う。
日本にも、かつての織田信長とかワンマン的リーダシップが皆無であったわけではない。
むしろ今でも個人の力量で成長を続けるリーディングカンパニーがたくさんある。

しかし一方で、社会の基底では集団的意思決定を重んじる気風が強い。
特に役所や伝統的大企業、町内会や政治の世界などドメスティックな社会では集団意思が個人意思に優先する。

しかし生産性の観点から見ると、千人の凡人による集団的意思は一人のスーパーマンのアイデアにかなわない。

一方でワンマンや独裁は弊害が多い。
だから特に政治の仕組みは過度の独裁を防止する仕組みが組み込まれている。
しかし企業の世界は、スーパーマンによるワンマンでないとライバルに勝てない。

ここでいうスーパーマンは、かなり相対的な概念と言うことができるかもしれない。
1万人に1人の傑物もいれば10人の集団の中で最も優秀くらいのスーパーマンもいるだろう。

そういう相対的スーパーマンが力を発揮できる気風こそが、日本の生産性向上に効果があるのではないかと思う。
posted by ヤス at 10:00| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月07日

ファーストについて

ニュースで見たけれど小池都知事率いるグループが、国政進出を目指して「日本ファーストの会」を立ち上げたらしい。
かねてから予想された行動であり、世間的にはそれほどの驚きも無いようであるが、しかしその命名はどうなのか。

「国民ファースト」というのが事前予想の多数派意見だったようにも思うのだが、「国民」ではなく「日本」となった経緯には興味を覚える。

都議選における「都民ファースト」は、都政における国政の干渉に対する反旗として、都民のための都政という分かり易すぎるほど分かり易い看板だったと思う。

しかし、国政の場合はまた勝手がかなり違う。
何に対して何を「ファースト」するか、考えてみるとちょっと難しい問題である。
そしてそれが「日本」であるということで、ますます分からなくなった。
都民の上位のディメンジョンは国民であるから、都民ファースト的構造を当てはめて考えると日本ファーストの「日本」は国民と同義ということなのか。


しかし、政治的標語として「ファースト」を使うのはななか優れたアイデアであるように思う。
現在の世の中の問題点の要点は「リソース不足」であるのは明白である。
国家予算は慢性的な歳入不足で赤字国債発行になかなか歯止めがかからない。
それは全世界共通の悩みであるが、それが故に今全世界中で何を「ファースト」にするかの論争が巻き起こっているように思う。

リソースが足りない場合、物事に優先順位をつけ何かを犠牲にして最優先事項に取り組まねばならない。
東京都政の場合、リソース不足甚だしい国政が従来から都政の財布に手を突っ込んできたことに対する都民の怒りがこの間の都議選の結果につながった。

さて、国政の場合同様の構図で考えることは出来るのか。

目下のところ国政における国民の不満は、首相に近い人々に「甘い汁」が集中しているのではないかという疑惑があるかもしれない。
この場合、『「首相周辺ファースト」の是正』こそがテーマになるべきであろう。

ファーストするモノを取り替えるというよりは、過度の「ファースト状態」を修正することこそがことの本質であると思う。
しかし国民の本音には、自分の周辺がファーストされる状況への渇望があるのかもしれない。
自分の会社の業績が良くなるとか、持ち家の値段が上がるとかすると嬉しいのは人情としていた仕方ない。

それはアメリカやイギリス辺りでもそのようであり、中東ではISが自分達の桃源郷を夢見て凄惨な戦いを戦っている。

「ファースト」は、全世界的に蔓延しているようにも思われるそういう人間の本音に響く効果的な言葉のようである。

しかし言うまでもなく行き過ぎた「ファースト」は大きな弊害を生む。
小池都知事には、ひとつ思い直してもらって、「ファースト」とは違う切り口の国政党名を考えて欲しいなあと思うのであるが、どうなのだろうか。
posted by ヤス at 14:16| Comment(1) | 徒然なるままに

2017年08月06日

出会いについて

人間は、生まれてから死ぬまでに一体何人くらいの他人に出会うのだろうか。
この場合、「出会い」の定義がやや問題である。
たまにオノボリさんをして東京なんぞに出かけた場合、東京駅とか新宿の雑踏とか、田舎にいるのとは比べ物にならないくらいの人とすれ違う。
おそらく、たまたま近くをすれ違ったりするだけの関係を出会いとは言わない。

しかしふと考えてみると、都会の雑踏で数百数千の人間の集団がうごめいている姿は、昔テレビのドキュメンタリー番組とかで観た草原を移動するバッファローの群れのようにも見える。
ああいう風にお互いに個人的な関係はないが、一群の人間集団が路上を流れているのは人間的というより野生動物の群れに近い。

ああいう、単に物理的にたまたま近くに接近遭遇するというのも、あるいはある種の出会いであるような気もするがここではこれ以上深入りはすまい。

ともかく、軽く挨拶してひとことふたこと以上に会話を交わすような出会いを人間はどれくらいするのか。
これには当然個人差があって、例えば引きこもりになって久しい40歳代の中年とかはあまり他人に出会う機会がない。

その一方で、新規開拓営業をせっせと行う営業マンとかは毎日たくさんの名刺交換をしているだろう。
また、芸能人とかプロスポーツ選手とか、いわゆる有名人になると放っておいてもあっちの方から勝手に会いに来て出会いの人数が普通よりかなり増える。
あるいは政治家なんていうのも出会った人数が得票数に比例するかもしれず、人数がおのずと増えるだろう。

しかしそうは言っても人間の寿命や一日のうちの活動時間とかはおのずと上限が決まっている。
だから挨拶して軽くひとこと交わすくらいの出会いでも、会える人数はそんなに多くはならない。

仮想例として、一日に8時間を人と出会ってひとこと交わすのを職業とする人物を想定してみる。
その「出会い屋」は一人と10秒会話を交わしたらすかさず次の人と出会う。
そう仮定するとその出会い屋は8時間で2,880人と出会える。
これを一年365日継続すると約100万人と出会える。
そしてこれを80年間継続すると8千万人に出会える。

人生のすべてを出会いに捧げてこの人数である。
なにもかも投げ打ったとしても、生涯で出会える人数は日本の人口にも満たない。

当然のことながら、普通の人間が出会える人数はこの出会い屋の1万分の1とか10万分の1、つまり生涯に数千人か数百人がせいぜいではないかと思う。
さらに言えば、頼み事をしたり悩み相談に乗ったりとか、ある程度深い付き合いの出来る人との出会いはもっと限られてくる。
たぶん普通は数人か、せいぜい10人20人が正味のところではないかと思う。

地球人口は今76億人ほどだと言うが、人間の出会いのキャパシティはその総数に比べるとかなり範囲が限られるなあと、あらためて思った。
posted by ヤス at 12:31| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年08月05日

いろいろ足りない

世の中何をするにしても、「制約条件」というのが付いて回る。
一番ベーシックな制約条件は寿命だろう。
人間というのは長生きしたとしても120歳くらいがせいぜいである。
しかも元気に活躍できる健康寿命となるとさらに短くなる。
まあ高齢になる程個人差も大きくなるから一概には言いにくいが、起業をするとかその他の大事を成し遂げるとか言うとやっぱり50代くらいが一つの節目ではないかという気がする。

また、あれば良いのに大抵は足りないもの最右翼として、時間の他にはお金がある。
おしゃれなカフェをオープンしたいと思っていて、いろいろ見積もりを取ったら1000万円くらいかかりそうだという時、しかし手元には300万円しかない、とかいうことはしょっちゅうある。
そういう時は足りない700万円をどこかから借り集めてきてお金を作るか、1000万円のプランを縮小して実現可能性をより手元に手繰り寄せるか、何かの工夫が必要になる。

本当に、何かをやろうとする時には足りないものはたくさんある。
経験や知識が足りない、バイトが足りない、体力が足りない、などなどである。

しかし考えて見ると、何かする時にすべてのリソースが充足しているとそれはもはやチャレンジでもなんでもない。
ただの日常的行為である。
いろいろと足りない、でもやり遂げたい、と思うからこそのチャレンジなのである。


制約条件について考えていると、あるいは宇宙の原理としての有限性などというものに想いを馳せざるを得ない。
何かが足りないというのは、この時空が有限だからこその現象であろう。
いま手元にある資源量は必ず有限なのであって、そうなるとそれが次のチャレンジに必要な量に達しない可能性も当然生じる。

そして我々は、きっと手元にある資源量を少し超えたチャレンジをしたがる傾向にあるのであり、したがって夢や目標に対するチャレンジは、不足する資源をどう調達するか、その工夫やアイデアこそがチャレンジの本質であるという感じがする。

あるいは、しょっちゅういろいろなものが足りなくて四苦八苦しているような人は、人生を通じて継続的に困難にチャレンジし続けている人であり、それなりに偉大な人である、と思えなくもない。

ということで、わたしもお金が足りない時間が足りないとかいう時は(そういうことは日常的にしょっちゅうあるのだが)、わたしは今偉大な挑戦の過程にあるのだ、と思うことにしようと思った。
posted by ヤス at 16:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年08月04日

戦争を思い出す時期

さて、早いもので2017年も早8月。
昔広島市に住んでいた頃は、この時期平和公園の方が警察機動隊なんかが出て妙に騒がしくなる季節だったのを思い出した。

先の大戦は日本にとってはまことに厳しい戦争で、やる前からみんな薄々負けることが分かっていながら始めた戦争だったわけである。
と言うのも日米開戦時の両国のGDPは、アメリカ9千億ドル超、日本2千億ドルで日本が圧倒的に少なく、粗鋼生産量は9分の1、自動車保有台数では200分の1という圧倒的な工業力の差があったからである。

だから山本五十六は開戦したら最初の半年一年は大暴れする、と言ったわけであり、事実対戦中にアメリカは航空母艦を正規空母22隻、軽空母93隻をベルトコンベヤーで自動車でも作るように量産した。
その間日本は正規空母9隻と軽空母9隻を新造するのがやっとで、しかもそのうち戦争に間に合わないものが多数あり、できた時には搭載する航空部隊が壊滅状態だったりした。

この工業力の差を見ると、ミッドウェーで空母が4隻沈んでいなくても日本の負けは歴史の必定だったようにしか思えない。


最近は零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦の話題がメディアでよく流れている。
数年前の映画「永遠のゼロ」や最近復元されたゼロ戦が日本の空を飛んでニュースになったことなどが影響しているのだろう。

このゼロ戦は、大戦劈頭は神がかり的に強く終戦間際は特攻に追い込まれるほど性能陳腐化して旧日本軍の盛衰を象徴する存在であった。
戦争に負けた日本人としては、ゼロ戦が戦争当初には米英軍が腰を抜かすほど強かった、というのがせめてもの心の拠り所になっているのかもしれない。

数日前、大戦中のイギリス情報部がドイツの暗号エニグマを解読する映画「イミテーション・ゲーム」を観た。
現代のコンピューターの父、天才数学者のアラン・チューリングが活躍する映画である。
映画では、エニグマ解読に成功した秘密のプロジェクトチームは、その事実をドイツ軍に悟られないようにUボートの攻撃情報を把握してもある程度放置する。
そしてここが要所というところだけ、解読した暗号情報を元に対策を打って戦争を勝利に導く。

その辺りのアングロサクソンの「戦争術」は、ゼロ戦の戦術的活躍に一喜一憂する日本とはかなりの好対照である。
戦争の記憶が少しだけ蘇るこの時期には、そういうことも思い出した方がいいような気がする。
posted by ヤス at 10:56| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年08月03日

改造人事

昨日の夜遅くに安倍内閣の改造人事が報道されていた。
個別の閣僚の手腕についてはわたしはよく分からないところが多い。
だからあまり正確な評価はできないのだが、しかし有権者目線のざっくりとした第一印象としてはかなり上手くやったのではないかと思った。

まず、甘利元経産相が入っていない。
かなり早い段階から甘利氏の名前はニュースで流れていたけれど結局入らなかったのは、流れていたニュースはいわゆる観測気球ということだったのだろう。
甘利氏が入れば支持率浮揚どころか数字が下がる、という結論になったのではないかと思う。
首相としては、「腹心の友」として甘利氏の入閣を熱望していた、そういう事前の報道ぶりであったが、叶わなかったのはしかし首相視点で考えてもプラスだったのではないか。

サプライズ的な人事としては野田聖子氏の総務省だろう。
一体どうやって口説いたのか、野田聖子氏にとってもやっぱり大臣のイスはよほど魅力的だったのか。
あるいは次の党総裁選で出馬の邪魔をしないという約束を取り付けたのではないか、と邪推したりする。

何れにしても野田聖子入閣は今回の改造人事の目玉であり、最大のプラス要素だったような気がする。
それ以外の大きなサプライズはあまりないように見える。
逆に目立つ民間大臣を入れたりしなかったところが今回の特色だと思う。
多分身体検査も今まで以上にやっていることだろう。
その上で安定性の高いメンバーを選んだらこうなった、と言うことのようである。

基本方針としての「支持率浮揚に資する改造」の視点から見ると、リスクをとってまで大きな浮揚を狙わず、しかし確実に数字を上げる方向性は一貫しているように見え、国民のための改造かどうかは横に置いておくとしてかなり合目的に徹した、それなりに頑張った改造だと思った。

菅・麻生を変えなかったのは、マイナスのような気もするけれど、適任の代わりが見つからない、だからしょうがないということなのだろう。
このような意外に堅実な改造人事を見ると、自民党の土俵際の粘り腰にやや感心させられる。

こうなると民進党の代表選がますます心配になる。
おそらく期待通りに混乱の渦が巻き起こるのだろう。
この国の政治がまともになるために、そっちの方に良いサプライズが起きることを少しだけ期待しておこうと思う。
posted by ヤス at 08:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月02日

世界水泳

7月末にハンガリーはブタペストで開催されていた世界水泳が閉幕した。
今回の日本チームは金メダルゼロの結果に終わり、銀・銅メダルは計7個取ったもののやや微妙な結果だった。
今回の日本チームは顔ぶれ的にも従来からの安定メンバーで、今思いつく範囲では女子個人メドレーの大橋悠依が新しく入ったくらいだったようだ。

また本大会に先立つ選考会でもその大橋を除くと全般に記録低調で、オリンピックの翌年ということもあってしかたない面もあるが全般に調子が今ひとつのまま終わった感がある。
特にエースの萩野公介は肘を手術した影響もあり、クロールの調子がかなり悪かったようだ。
800m自由形リレーと400m個人メドレーは残念な結果だったけれど、距離の短い200m個人メドレーできちんと銀メダルを確保するあたりは、さすがと言っていいのではないかと思う。

また萩野のライバル瀬戸は、最近個人メドレーもバタフライも記録の伸びが止まって傍目に苦しんでいるようにも見えていたわけだが、大会本番では両種目で銅メダルを取ったのは非常に良かった。
たぶん正直なところ、一番いい時に比べると瀬戸の調子は7割くらいの出来だったのではないかと個人的には思うのだけれど、調子が悪いなりにその時の力を100%出し切れるのが瀬戸のすごいところだと思う。

一方、200m平泳ぎで世界記録を出した渡辺一平と、この一年くらい200mバタフライで瀬戸に勝ち続けていた坂井聖人は今ひとつ爆発しきれない結果に終わった。
それでも記録ホルダーの渡辺は悪いなりに銅メダルに手がかかり、チャレンジャーの坂井はひとつ狂うとメダルが獲れない。
やはり本気で金メダルを狙うのなら世界記録か年度最高記録は出しておかないといけない。
そういう意味で、今回下馬評的に金の可能性があったのは、世界記録ホルダーの渡辺と年度1位を出していた女子個人メドレーの大橋くらいだったことになる。

日本チームにとって本当の本番は3年後の東京オリンピックだと思うが、東京に向けては2019年時点でどのくらい世界最高レベルの記録を出せるかというのが大きいと思う。

今回の世界水泳には10代の若手もけっこういたが、みんな記録の伸びが一段落していて大幅な記録更新というのが無かったのは残念だったけれど、わたしの一押しの今井月選手が大橋選手銀メダルの影で200m個メで2分9秒台の自己ベストを出していたのは地味に嬉しかった。おしまい。
posted by ヤス at 10:04| Comment(0) | 徒然なるままに