2017年09月27日

「納車しました」問題

最近はYouTubeとかに自分の自動車やバイクの動画をアップする人が多い。
で、その手の動画の定番になっているのに「納車動画」というのがあるらしい。
自動車ディーラーやバイク屋にクルマを受け取りに行く場面を自撮りするやつである。
そして、その「納車動画」においてたびたび使われる表現に「納車しました」というのがあって、それがものすごく気になる。

「納車しました」は本来自動車屋販売店やバイク屋の立場で使う表現である。
しかし多くのYouTube動画で、クルマを買った側が「納車しました」と言っている。

さらに言うと、「今日、この間注文していた念願のCBR250ダブルアールが納車しました」みたいな表現もあるようである。
この場合、バイクが主語になって「自身を納車」するという変な表現になっている。

この問題に関しては、価格コムの掲示板やヤフー知恵袋を見ると数年前からけっこう熱い議論が行われていることがわかる。
掲示板で熱い議論になるほどこの誤用をする人は数多く、かつ誤用を指摘されても「誤用ではない」と考える人も多いらしい。
あるいはマンガや映画とかで、きっかけになることがあったのかもしれないと思う。
その辺の起源については判然としない。

誤用を改めない人々にとってこの表現、つまり自分が買ったクルマが「納品された」ことを「今日納車しました」と言うことは、たぶん自分なりに、それなりにしっくりきているから使っているのだろう。
おそらく、「納車」の「納める」の部分を「注文したクルマを手元にオサめる」のニュアンスで受け止めているような気がする。
しかしやや厳密に言うと、「納める」はしばらく使わないから押し入れに「納めて」おくとかいう時に使う表現であって、欲しかったものを手に入れるのは「収める」の方ではないかという気がするのである。

また納車と似た構造の言葉に「納税」がある。
ある市民Aさんが税務署に税金を収めた時に、税務署の側の方が「今日納税しました」というのは変である。

そんなこんなで、クルマが納車されたことについて「納車しました」と表現する誤用は、今もどこかで繰り返されている。
そんなことは気にしなければよい、というのはその通りである。
しかし例えばTwitterにCBR250の写真一枚を載っけて、そこに一言「今日CBRを納車しました!」と書いてあったら、それは通常はバイク屋さんのツイートだろうと考えるべきだが、最近の傾向からお客の側のツイートかもしらん、と余計なことを考えないといけない。
つまりこのような誤用の蔓延は、わずかではあるがコミュニケーションコストの増大につながる。
それに契約書やビジネス文書にまでこの手の誤用が進出すると、さらにややこしいことになりそうであると危惧する。

しかしだからといってYouTubeのコメント欄に「納車されたじゃね?」と書き込んだりはしない。
それはそれでまたややこしい罵り合いに発展することがなくはないと思うからである。
だから当面はこの「納車しました」問題について、ぐっと我慢して静観することにする。
posted by ヤス at 08:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月26日

暇と経済成長

日本は現在、総人口が減少傾向になっている。
総人口が減少カーブを描く前には、すでに生産年齢人口部分は1996年頃から減り始めていて、今では毎年ざっくり100万人くらい減っている。
さらに、14歳以下人口は1982年頃から減っている。
日本の人口は、若年人口を中心に30年以上前からゆっくり減少に向けて動いており、よほどのことがないと再び増加基調に戻ることはないし、戻るとしても30年40年かけないといけない。

そして日本の経済規模は確実に人口規模、それも消費の多い生産年齢人口部分と比例している。
だからこれからの時代、経済成長の様相は総人口が増えていた1970年代や80年代とはかなり異なるのは自明である。

わたしは経済の勉強をしていないので正確なことは知らないが、経済成長というのはひとことで言うと、「消費」と「生産」の総量が年々増えていくことだと思っている。
現在の日本は、人口は減っていてその減少率は年0.2%くらいらしい。
しかしその一方で、経済成長率はわずかながらプラスになることもあるし、この数年を均してもすくなくともゼロ成長は維持している感じだ。
人口が減ったのに経済がまだそれほど縮小していないのは、人口一人あたりの経済規模がわずかながら増えているからと考えることが出来る。

これはつまり、人口一人あたりの「消費」が増えているということになる。
それは同時に「生産」も同量だけ増えていることを意味する。
例えば介護産業というのは、儲かっているかどうかは知らないが、10年前に比べると全体としての売上を随分と増やしている。
この間日本人は介護分野に関する「消費」を増やし、介護産業に多くの新規就労が流れ込んで介護サービスの「生産」も同量増えている。

同じように、携帯電話というのは1990年代以降に急速に拡大した分野で、それ以前の時代には存在しなかったものである。

つまり前の時代に存在しなかった、人間が消費するに値するような「価値」が次々に生み出されて、人口一人あたりの経済規模が営々と拡大し続けている。
しかし一日は24時間で決まっていて、最近ではテレビやゲームの業界とか携帯電話などの通信業界はその24時間の取り合いをするような状況が生まれつつある。
その煽りを食って、若い人が自動車を買わなくなって自動車業界は困っているくらいである。

時間は典型的な例だが、人間の肉体性も含めて「消費の土台になる各人のリソース」はおのずと限界がある。
だからある程度経済が成熟すると、新しい産業はそのリソースをより古い産業から奪う構図とういのが生じて経済成長は鈍化する。

しかし今後自動車が自動運転になったり、あるいは人間が人工知能に仕事を「奪われて」暇になったりするのは、「消費のためのリソース」の開放という意味では朗報かもしれない。
今政府が躍起になっている「生産性革命」とかいうのも、働いている人が今までより仕事時間を減らして暇になるという方向性は、そんなに悪いものではないような気もする。
(労働時間減少に伴う所得減少の問題を別にすればだが)

あまり結論めいたことまで思いが至っているわけではないが、ちょっとそういうことを思ったりしたのであった。
posted by ヤス at 10:37| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月25日

人間の行動を駆動するもの

人間の欲望というのは、コントロールが難しいのはいまさら言うまでもない。

わたしはこの数年、アイスクリームを買って食うという「奇習」を繰り返すようになっている。
砂糖というのは自然界には存在しない特殊な食い物だと思う。
単糖類を精製して純度100%にしたものをあらためて他のいろんな食い物に入れる。
するとその自然界にはない刺激がわたしの脳みそに伝わって、そこで何かの脳内物質が分泌されるという図式は、ほとんどヤク中やアル中と同じではないか。

しかしいったん砂糖によるこうした脳内サイクルが出来上がると、糖分の多い食べ物、その刺激の強いものを自然と欲するようになって「買い物かごに知らぬ間にアイス」という現象が多発する。

ところで人間は、動物として本能的衝動や各種の欲望に支配されている一方で「理性」というものを持っており、これによって本能や欲望をコントロール出来る、と多くの人が考えているだろう。
しかし最近わたしが思うのは、人間を駆動するものはあくまでも動物的な本能や欲望であって、理性はある程度本能や欲望に働きかけ、これらをいくらか喚起する、それだけのものではないかということである。

つまりここに非常に理性的な人間がいて、その人がコーヒーを淹れに行こうと立ち上がるのも、最近お腹が出始めたなと思ってスポーツクラブに入会するのも、それらの行動の端緒にある種の本能的衝動が働いているに違いないと思うのである。

あるいはこれはいくらなんでも理性的な行動だろうと思うようなこと、例えば受験勉強を頑張るとか政治家が自分の政策を実現しようとするとか、社長が会社を立ち上げるとか、それらのことも具体的な行動の端々には本能的衝動や欲望が作用している。
それは、いい大学に入って将来給料をたくさんもらって美味いものを食いたいとか、自分の名を揚げて名誉欲や自己承認欲求を満たしたいとかいうことであろう。


そして我々が本能的な行動をある程度抑えることが出来るのは、おそらく抑える対象の本能的衝動を上回るような衝動を理性によって喚起するからである。たぶん。
腹いっぱい食いたいと思った時にこれ以上デブになったら女にもてないとか、勉強が面倒くさいのでゲームをしたいと思った時にここで勉強したら輝かしい未来が待っていて新しいゲーム機がいくらでも買えると思ったり、理性によって創造されるあらたな欲望や衝動が抑える対象を上回るようになれば、理性の目論見は成功するわけである。

理性はダイレクトに我々の肉体を駆動しているのではなく、間に欲望や本能的衝動を一枚挟んで動いていると考えることが出来る。
そこにアイスクリームの誘惑を絶つ重要な鍵が隠れているのではないか、と思う今日この頃であった。
posted by ヤス at 09:36| Comment(4) | 徒然なるままに

2017年09月24日

未来の働き方(または働かない方)

最近ずっと疑問に思っていることがあって、それは未来の人類の「働き方」の姿である。

今、急速な勢いで人工知能の技術が進化している。
土台になるコンピューターチップの集積度も、少し限界が見えてきた感じもするが、しかし相変わらず毎年のようにプロセスルールが進み計算能力が向上している。
また量子コンピューターやニューロコンピューターなど、全く新しいアーキテクチャーの提案もなされている。
そして2045年はシンギュラリティ=技術的特異点の年であるという。
その頃についに電子頭脳の能力が人間を超えるのだそうだ。

並行してロボット技術も着々と進歩している。
ロボットがバランスをとって二足歩行で歩いても、もはや誰も驚かない。
また先日のiPhoneXにも見られるように、現在の技術でも人間の表情の変化を相当程度まで読み取ることが可能になっている。

このような世の中の技術の進化を考えると、あと10年20年したら、今は映画やアニメの中の存在である鉄腕アトムやC3POのような自律行動型のヒト型ロボットが普通に街を歩いている時代がやってくるのかもしれないと思う。

そうなった場合、当然それらのロボットは人間のやることは大抵マスターしているので、人間の代わりに働くことができるようになっているだろう。
製造工場などの比較的マニュアル化された労働現場は言うに及ばず、介護施設の高齢者のお世話とか小説を書いたり映画を作ったりとかもロボットができるようになると思う。
銀行の窓口とかレストランの料理人とかあらゆる職場でロボットが働けるようになる。
場合によっては飲み屋のお姉ちゃんも良く出来た「お姉ちゃん型ロボット」に代替されるだろう。

職場によってはロボットが必ずしも「ヒト型」である必要はないわけであるが、ロボットが人間と同じような形態を持ち、人間と同じか、それを超える思考能力やコミュニケーション能力を備えることによって、人間ができる仕事は全部「ヒト型ロボット」ができるのである。

そうなると人間は働き場が全部なくなる。
これは良いことなのか、最悪の出来事なのか。

しかし考えてみると今我々がイメージしている「労働」は、産業革命以降の最近の2〜300年間になって急に出来上がった概念だと思う。
もともとの原始時代には、サラリーマンという種類の人類は存在しなかった。
それが資本主義とか近代国家の社会システムが出来上がる過程で、サラリーマンという労働形態が定着していったのだと思う。
原始人から見たらサラリーマンはさぞかし奴隷的に見えると思う。

ということで少し未来の視点に立って考えてみると、ロボットや人工知能にできて人間にできない仕事というのは実は存在しないのではないかと思う。
逆に人間にできてロボットや人工知能にできないことは何かと突き詰めて考えると、それは結局「消費行動」しか残らないのではないか。

原始時代の人類も消費者である、という点は現代人と同じだった。
ただ原始人は消費者であると同時に自分たちの消費を支える生産者であった。
しかし近い将来、人類は生産者であることから解放される可能性が高いのではないか。

働く必要のない時代が到来した時、果たして人類は100%の消費者になって遊び暮らすのか、それとも相変わらず働きたいと思うのか。
そこのことろはやっぱりもうちょっと考えないと結論が出ない。
posted by ヤス at 08:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月23日

北朝鮮危機

1週間くらい前までは、解散総選挙は年末のことだろうと予想していたのだが、この何日かで事態が急転直下、今月28日の臨時国会で冒頭解散、来月22日投票で選挙があるという。
また北朝鮮情勢も国連の制裁決議を機にさらにややこしさを増してきているようで、太平洋上での「水爆実験」予告とか日米首脳が国連で強硬姿勢の演説をやったりにわかに緊迫している。

今から考えてみると、直近数年の日本の政治状況というのは色々あったように思うのだが結果的には平穏なべた凪の期間であったようにも思われる。
これから総選挙が実施されてその結果が出、また北朝鮮情勢はしばらくゴタゴタが続きそうで、この秋から冬にかけてはかなり激動の状態になるような感じである。

しかし北朝鮮情勢はなんでここまで危機的な状況になってしまったのか。

北に対する強硬派がよく使う例えで、第二次大戦直前のヒトラーに対する各国の姿勢というのがある。
1930年代後半に、ヒトラーが再軍備をしてチェコを併合したり、やりたい放題を始めた時に英仏はじめ周辺国が弱腰外交に終始したために、それがその後の大戦につながったという話だ。
もしもっと早期に強硬措置に出ていればあんなに大きな戦争にならなかったという考え方があるようである。
だが現在の北朝鮮と当時のヒトラー第三帝国では少し状況が違っていて、ヒトラーは拡大主義で周辺諸国への侵略を意図していたのに対し、現在の北はとりあえずは侵略指向はない。(南併合の意図を除くとだが)

またヒトラーの当時も、英仏が「事前に」強硬措置に出るケースがありえたかどうかというと、なかなか難しかったのではないかと思う。
再軍備の比較的初期の段階、まだまだドイツが弱い段階で英仏側から先制攻撃を仕掛けていれば、というのは未来から振り返った場合のみに言えることのような気がする。
当時のリアルタイムの状況でそのように打って出られるリーダーはまずいないだろう。

そこの状況は現在も共通している。
北朝鮮の核が実用化の以前に北に軍事制裁していれば、というのは今だから言えることでしかない。
それやこれやを考えても、米朝ともに軍事オプションの可能性はないと予測する。
これからしばらくの間は今のような恫喝合戦が続く。

中国・ロシアとしては、緩衝地帯としての北朝鮮は是が非でも必要である。
そこに両国の北支援の動機はある。
北が無くなった時の両国の反応を考えると、むしろ北滅亡後のシナリオこそがむしろ一層危機的である。

その辺を考えても、あまり気分は良くないが現在のバランスを維持したまま行かざるをえないのだと思う。
posted by ヤス at 15:21| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月22日

まずい給食について

昨日、惣菜店のO157中毒と大磯町の中学校給食について書いた。
それで大磯町の方でもうちょっと思うことがあったので続きを書く。

給食といえば橋下市長時代の大阪市でも話題になったことがあった。
この時も大磯町と同じ「デリバリー方式」で提供していて、冷たい、まずい、で残食が多いのがニュースになっていた。

この時の大阪市では、塩分量を基準以下に抑えていたために味が薄くいというのが問題になって、ふりかけを付けたら残食が減るのでは、というような議論もあったようだが教育委員会等の反対でなかなか前に進んでいなかった。
この時に思ったのは、毎回毎回塩分量を律儀に基準以下にするのではなく、献立内容によって濃い時と薄い時とメリハリをつけてもいいんじゃないか、ということであった。

また、「冷たい給食」はデリバリー方式の宿命的欠点である。
どこかのテレビ番組で、デリバリー方式ながら保温カートに温かいままの料理を入れて配送し生徒からも美味しいと評判の自治体の例も出ていたが、このような配送方式は当然ながらそれなりのコストがかかり財政的に余裕のある自治体でないと実現が難しい。

結局のところ、それなりの栄養価の食事をそれなりに美味しく提供するには各学校に厨房を設けて現場で作るのがいちばん適切なのは想像に難くない。
しかし全国の多くの自治体は財政的な余裕がない。
各学校にいちいち厨房設備を設置するのはカネがかかって大変だ。
また、特にこれからの時代は調理スタッフの確保も頭の痛い問題である。
カネがかかる上に余分なスタッフの雇用管理もやるのはますます大変だろう。

そうなると給食は「外部調達」することにして学校建設費を節約するという結論に至る自治体が多くなるのは必然である。

まあ大半の公立小中学校は受験による選別もなくしたがって、学校間の競争原理というものが存在しない。
競争がなく生徒の取り合いの図式がないので、給食を美味しくして競争力を増そうという動機づけが働かない。
そういう面がある。

大磯町など一部の自治体で「給食がまずい」問題が発生するのは、地方自治体の慢性的な財政難と給食を美味しくすることへの強い動機が存在しないことが根本原因だろうと思う。
この問題の解決のためには、国レベルで音頭を取って学校給食への予算配分を優先的に増加させることが必要だろうと思う。

今、消費増税分を教育無償化に充てるとかいう話が出ているが、給食の方にもいくらか予算を回すことを考えた方がいいのではないかと少し思ったのである。
posted by ヤス at 10:21| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月21日

食中毒、残食異物混入など

最近、食べ物関係の悪いニュースが続いている。
ひとつめは、8月に発生した惣菜店「でりしゃす」のO157中毒。
最初は17店展開している同チェーンのうちの3店でポテトサラダを食べた客が複数人、O157の中毒症状を発症したという。
それがポテトサラダ以外でも患者が発生し、そのうち炒め物を食べていた3歳の女児が9月に入って死亡するという最悪の事態になった。
これを受けて全店が閉店。

同チェーンでは、特定の料理はセントラルキッチンで製造したものを各店に配達して販売していたらしく、ポテトサラダも集中調理で作っていた。
複数店で食中毒が発生していることから考えると集中調理の料理が感染源と推定されるわけだが、調査の結果は陰性で、結論としては現場でのトングの使い回し、期限切れの消毒液使用が発覚するなどずさんな衛生管理が原因とされたようだ。

少し調べてみるとこの「でりしゃす」という惣菜チェーンは地元群馬県等でスーパーマーケットを運営するフレッシュコーポレーションというのが運営している。
で、このフレッシュコーポレーションは牛丼チェーンのゼンショー傘下のグループ企業らしい。

ゼンショーグループのウェブサイトを見てみたのだが、今のところこの事件に関するお詫び文のようなものはない。
報道でも、わたしの知る限りゼンショーの名前は出ていない。
ゼンショーグループはM&Aを繰り返して膨大な数のグループ企業を抱えており、いろいろと複雑な事情があるのかもしれないがその辺ものすごく不透明な感じを受ける。


さて、もうひとつ話題になっているのが神奈川県大磯町の中学校給食の問題。
まずい上に異物混入が相次いでおり「残食率」が55%と給食開始から半年ですでに壊滅状態なわけだが、町としては業者を変更する考えはないらしい。
これも少し調べてみると、この業者は大磯町での事業拡大のためにわざわざ工場を新設している。
また報道でも出ていたが、この給食の委託費は中学校2校分で年間3300万円。

業者選定にあたっては公募プロポーザル方式の入札が行われたらしいが、業者公募はかなりひっそりと行われて参加企業は2社のみだったらしい。
もともと本命の1社が決まっていて、体裁を整えるために1社はカタチだけ入札参加したのではないか、とゲスの勘ぐりもしたくなる感じである。

こういう事件が相次ぐと、見えないところで作られた食べ物を食べるのにいちいちものすごい勇気がいるようになる。
今後は給食でも惣菜販売でもその他の加工食品でも、作り手の顔の見えない食べ物については、クリーンな最新工場で超厳密な衛生管理をやってますよ、とアピールしないと消費者は食べる気が失せるのではないかと危惧するのである。
posted by ヤス at 10:35| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月20日

自分の見え方

多くの人にとってはもうどうでもいい話になりつつあるようだが、この数日暴言・暴行騒動の豊田真由子議員が会見を開いたりして久々に表に出てきたのが話題になっている。
そのようすを伝えるTV番組をわたしはYouTubeでチラチラ見たわけであるが、そこで思ったことがいくらかある。

豊田議員はまず最初に月刊文藝春秋のインタビューに応じ、その次にフジテレビに宮根さんと一対一のやり取りの形で出演し、その後1時間37分に及ぶ「謝罪会見」を開いた。
この一連の表舞台への再登場のやり方に、順番がおかしいとか内容が残念とかの意見がたくさんあるようで、ワイドショーもほぼ批判一色で報じていた。
ここでその内容部分についてあれこれ考えてもしょうがないと思う。
次の選挙に無事出馬出来るかどうか知らないが、もし出るとすればその時の選挙結果が評価のすべてになるだろうからである。

この方は東京大学も出て厚生省入省後に国費留学でハーバード大学にも行っている。
絵に描いたような高学歴の方である。
たぶん知能指数的な意味での頭の良さはものすごい。
でもひとつ欠けているのではと思うのが「メタ認知」の能力だと思った。
この人は仕事も出来るんだろうしたぶん英語もペラペラで記憶力もよくてひょっとしたら数学とかも得意なのかもしれない。

でも決定的に、自分を客観視するというところの能力だけがひどく欠けているように見える。
わたしも含めて多くの人が、「あの謝罪会見はものすごく逆効果じゃね?」と思ったように思った。
ワイドショーでもコメンテーター陣が口を極めて酷評していた。
しかし本人は、そこのところの反省をどれくらい出来ているのかと思う。

政治家というのは、選挙で票を集めるには第三者からの自分の見え方をそれなりにコントロールする必要があるように思われる。
そういう点でこの方はちょっと政治家的ではないのではと思わざるをえない。

おそらく彼女は彼女なりに、自分の見え方について考えてそれを実行している。
でもそれがひどく表層的で、かえってあまり見せたくはない本質部分が見え見えになっている。
というか、彼女の心の中に自身でも御しがたい「何か」があって、それがセルフコントロールを飛び越えて出てしまっている感じがする。

考えてみると、メタ認知を自分に言い聞かせながらも、しかし御しがたい「何か」が溢れ出てしまうというのは程度の大小はあれほとんどの人間に共通の弱みとしてあるように思うし、わたし自身も過去に何度も身に覚えのある現象である。
結局のところ「自分の見え方」を理想的たらしめるよう制御するには、自分自身の根幹土台の部分からきちんと整える他にはない、という当たり前の結論しかないのである。

そのためには「メタ認知」、それもがんばって自分をまっすぐに見つめるしかないのであるが、それが簡単でないから人はしばしば苦労する。
ということをちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 12:02| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月19日

水素自動車の未来が明るくない件

最近、電気自動車に関するニュースを目にする機会が増えているような気がする。
トランプ大統領はあまり関心はないようだが、ヨーロッパでは大気汚染や温暖化対策として排ガス規制がますます強化されている。
その煽りを受けてこの間もかなり多機種にわたる国産オートバイの生産終了がアナウンスされたばかりだ。

そういうニュースを見ていて思い出したのだが、環境に優しい自動車はハイブリッドやEVばかりではなく、燃料電池車というのもあったんじゃないか。
そう、トヨタが2014年にMIRAIを、ホンダが2016年にクラリティフューエルセルを出している。
これらの燃料電池車は、あんまりバカ売れしているというニュースを聞かないけれど果たしてどれくらい売れているのか。

検索してみると、2017年5月のニュースに、MIRAIが2年で1500台弱売れたというのがあった。
ホンダの方は、台数のデータは見当たらない。
当初の目標では、トヨタは2020年に年産4万台にするという計画をぶち上げていたらしいが、現状では年数百台レベル。

燃料電池車は、燃料として水素ボンベに水素を充填して走る。
現在水素ステーションは全国に100箇所程度らしい。
ガソリンスタンドは、かなり数が減ったとはいえ3万箇所以上ある。
しかも24時間営業のところも多く、燃料補給に関する「水素自動車」の利便性はガソリン車に遠く及ばない。

それでも燃料電池車には、捨てがたいメリットがいくつかあるらしい。
まず燃料補給にかかる時間がトヨタのMIRAIで3分と短いこと。
航続距離もMIRAIはカタログスペックで650km以上ある。
ちなみにホンダは700km。

あと、少し前までマツダが既存のガソリンエンジンを小改造しただけの水素自動車の開発に熱心だったと記憶しているのだが、既存のガソリンエンジンは比較的簡単に水素駆動にスイッチできるらしい。
つまり水素インフラさえ整えば「水素自動車」の普及には潜在的な可能性がなくもないように思えるのである。

しかし現実には、燃料電池車はじめ水素自動車勢力が急拡大する気配はない。
水素ステーションは、一箇所整備するのに4〜5億円かかるらしい。
これだと千箇所造るのに4000〜5000億円、1万箇所だと4〜5兆円かかる。
このコストは数年間で整備するにはかなりキツい金額である。

ホンダがコスト10分の1の小型水素ステーションを開発したというニュースもあったが、その小型ステーションは大き目の自販機みたいな箱の中で「電気分解」で水素を製造するものらしい。

だがそれって、直接的にバッテリーに充電した方が話は簡単な気がする。

ということで、水素ステーションの普及がコスト的に難しいので水素自動車の未来は明るくない。
というのがわたしの結論である。
posted by ヤス at 10:33| Comment(3) | 徒然なるままに

2017年09月18日

中国の無人コンビニ

数日前のニュースに中国・上海の無人コンビニの話があった。
これは「ビンゴボックス」という名前のコンビニである。
24時間営業で、入り口にスマホで開錠する鍵がかかっている。
店内には死角無しに店内を撮影する防犯カメラが設置され、無事に鍵を開けて入店した顧客はスマホ決済のWeChatPayなどで買い物するらしい。
当然ながら現金では買えない。

このコンビニは大中の二つのサイズがあるらしく、中は4.8×2.6m、大は6×2.6mというから小ぶりの公衆トイレくらいのサイズだろうか。
坪数でいうと中が3.7坪、大が4.7坪。

商品にはRFIDのタグがついていて出口のスキャナーを通すと自動的に清算される仕組みだ。
また防犯カメラは顔認識機能付きで、もし万引きをする客がいた場合個人を特定できるようになっている。
(会員登録の際に自分の顔を「提出」するらしい)

中国では現在すでに相当なキャッシュレス化が浸透しているという。
同時に個人の信用スコアのシステムも出来上がっている。
各種の支払いの遅れや犯罪行為があると信用スコアが落ちてスマホ決済が使えなくなったりする恐れがある。
そこのところをうまく使ったシステムである、という解説記事もあった。

このビンゴボックスは現在上海周辺に10店程度で営業中だが、今後一年で中国全土に5000店を展開する予定だという。
店の規模と「店員が要らない」仕組みを考慮すると、十分に可能な計画のようにも思える。

日用消耗品の購入に関しては、日本にもこのような自動販売機的な小売システムがあって良いと思う。
ただし顔認証を使った防犯システムは、プライバシー保護にやかましい日本では難しい面があるかもしれない。
また、日本は先進各国の中でも突出した「現金主義社会」であり、世の中の電子マネー化がある程度進まないと難しい面もあるだろう。

その辺は電脳立国に向けた国際競争力強化の大いなる障壁であるように思われる。

だが遠からず日本でも、この手の無人店舗が現在のコンビニに取って代わる日が来るに違いない。
無人コンビニの大きなメリットはレジ打ちコストが不要で出店コストも安い点だ。
つまり全体としてより安く商品提供ができる。
これは流通の本質に関わるメリットなので、普及しない道理がないのである。

現状ではRFIDのコストまだちょっと高いが、これが安くなってスマホ決済がそれなりに普及した段階、それはおそらく5年以内の未来だと思うのだが、その頃からこういう仕組みが日本でも爆発的に普及するのではないかと思う。

逆にいうと、この程度の社会の効率化が進まないようだと日本の未来もかなり危ういのではないか、と思った。
posted by ヤス at 11:21| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月17日

自我と人間

人間の定義には色々なものがありうると思うのだが、「自我」の存在はその最右翼ではないかと最近考えている。
自我とは自他の区別であり、個性の元であろう。
これはたぶんそうだろうと思うのだが、犬や猫は「自分」という意識がない。
鏡に映った自分の姿に対して、ワンワン吠えたり猫パンチを繰り出したりするのは、それが夢にも自分だという想像がないからだ。

でもチンパンジーなどの類人猿とかはどうだろう。
彼らの中にはひょっとしたら自分があるのかもしれない。
映像とかで見る彼らの仕草を観ると、少し人間臭い感じがするような気がして、あるいはそれは自我の萌芽ではないかと思えたりするのである。

いずれにせよ進化の過程のどこかの段階で、それはたぶん100万年くらい昔からもしれないし30万年前くらいかもしれないが、ある猿の一派にちょっとづつ自我が芽生えてきてそれが「人間化」したのだと想像している。

その自我の形成というか、自我の強化の過程こそが人間の歴史なのではないかと思うのである。
それは最初は単純な自他の区別であったのだろう。
それがだんだんと自意識が深まっていいって自己主張とか色々な能力の違いによる優越感の意識とかが育っていった。

人類史においては、最初の頃の集団的狩猟採集生活から農耕が始まって、1万年くらい前に文明史がスタートしたわけであるが、その流れの中で自我とか自意識というものもだんだんと強化されていった流れがあるのだと思う。
文明社会の初期の頃は、特に支配階級において自我の意識が出来上がっていったのだろう。
支配階級は一般大衆に対して圧倒的な優越の地位にあり、「他の人間どもとは違う」意識が自己増殖的に強化されていったものと想像する。

その頃は大多数の一般大衆は、自己主張も自己実現もない単なる「田舎の田吾作」であって、強い自我を持つことはある種の社会的特権ではなかっただろうか。

それが歴史が進んで生活環境も豊かになり、数百年くら前の段階ではかなり多くの人がそれなりに強い個性を持つようになり、その流れは今日にまで続いている。
一般大衆が自我を強化するというのは、たぶん趣味を持つとか娯楽を楽しむとかいうことにつながっている。
「ファッション」と称してお洒落(と自分で思っている)な服を着てみたり、かっこいいSUVを乗り回したりするのも自我のなせる技であるが、それは近代「自我社会」の象徴的現象であるように思う。

自我社会はSNSの炎上とか、怨恨殺人事件とか、ややこしい問題やマイナス面の要素も多いけれど、それが行き着く未来は案外平穏な社会に向かうのではないか。
なんとなくではあるが希望的にそのように思っておきたいと、「わたしの自我」が言っているのである。
posted by ヤス at 12:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月16日

年内解散について

さて、最近は森友・加計問題の報道もめっきり減ったようである。
代わって北朝鮮の核・ミサイル関連のニュースが大きくなっている。
さらに、民進党はスキャンダルに離党者も相次いでいて自壊状態。
さらにさらに言えば、自民に対する「受け皿」への期待が大きい都民ファーストも、代表辞任からの新代表決定に係るプロセスが不透明であることから党内で不満が出ていたり、議員のSNSでの自由な発言を制限するなど何やら不穏なものを感じなくもない。

ここへ来て北朝鮮危機から急降下していた日経平均株価も少し回復して来ている。
株価が2万円の大台を超え、これからいくつか予定されている衆院補選を自民党がもし無事に乗り切ったら、これはたぶん年内の解散総選挙がかなり急浮上するのではないかと思われる。

もしそうなったら安倍首相は本当に運がいい。
この7月ころまでは森友・加計問題で支持率も下がり絶体絶命の空気が漂っていたのに、今振り返ってみると内閣改造の辺りから流れがかなり変わっている。

しかしこの流れの変化は自民党や現政権の自助努力によるものというよりは、民進党の自壊、そして今ひとつ方向が固まらないように見える都民ファースト(の国政版政党)の動きによるものだと思う。
あと、降って湧いて出た何度目かの北朝鮮危機の空気。

つまり敵失と外部環境の追い風によるものである。

こういう政治状況は、国民にとってはあまり良くない。
自民党に代わりうる政党が無い、というのは自民党自身にとっても良くない。

都民ファーストの国政版政党は、政策コンセプトが今ひとつ見えない。
たぶんここのコンセプトは自民に変わる「受け皿」である、というのがもっとも当たっている。
そういう意味では政策の中身は自民と変える必要もない。
自民党に比べて「なんとなく」信用出来そうという空気づくり、そういう「風」を起こすことが党勢拡大の主要テーマになる。
しかし現在の党運営のようすを眺めている感じ、そろそろ風が止みつつあるように見える。

やはり民進党はここで一度解体して政策ごとにカラーを明確に、出来れば自民の対立軸になりうる政策集団を、人数は少なくても作ってほしい。

わたしの個人的憶測で、年内総選挙の確率は8割以上と想像している。
野党のみなさんは準備するならもうほとんど時間が無いですよ、と言いたい。
posted by ヤス at 13:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月15日

またミサイル発射

朝っぱらから、北朝鮮からのミサイルが日本上空を通過していって東日本地域でJアラートが鳴ったらしい。
おかげでNHK朝ドラの「ひよっこ」も放送中止になったという。

今回の発射は11日に採択された北朝鮮に対する経済制裁の国連決議を受けてのものだろう。
この決議の後の13日に北朝鮮から決議に賛同している日本を核で海に沈めるぞというおどろおどろしい警告声明が出されていた。

今回のミサイルは3700km飛翔して北海道の2000km先に着水したという。
この距離をグーグルマップをぐっと引きにして確認してみると、朝鮮半島からアメリカ大陸までのおよそ3分の1くらいのところ。
太平洋戦争の激戦地、ミッドウェー諸島よりもかなり日本寄りに落ちている。
ハワイは着水点からはさらに向こうにあり、しかし距離的には十分にグアムを射程円に捉えている感じである。

今回のミサイルは最高高度が770kmだったと韓国当局が分析しているようである。
ミサイルの弾道曲線を頭の中でイメージしながら日本上空通過時の高度を目分量で推測すると、たぶん200kmかそこらではないかと思う。
少なくとも100kmは超えていただろう。

高度100kmは大気圏の境目とされている高さであり、それよりかなり高いところをミサイルは通過していったものと想像する。
おそらく、この辺は北朝鮮としてもかなり綿密にミサイル軌道の企画をしているのではないだろうか。

ちなみに、今回のミサイルはおそらく国際法的な意味での領空侵犯にはならない。
宇宙空間は宇宙法で国家による領有が禁止されているからだ。
今回のミサイルも宇宙空間を飛んでいったわけだが、これはたぶんかなり意図的に領空侵犯を回避したような気がする。
また発射の方角も韓国を通らないように、何もない日本海方面に飛ばして日本の上を宇宙空間を通して通過し、公海上に落としている。

おそらくJアラートで騒々しい日本の何倍も、北朝鮮の方が命がけなのであろう。
間違って韓国や日本に着弾したり破片を落としたりすると米韓の反撃を誘発しかねず、そうなるとキム王朝の滅亡が決定的になる。
かといって制裁措置に何も反応しないと体制が持たない。
だから慎重に方角と飛行高度を選んで、韓国や日本に万が一にも落ちないように命がけで発射している。

命令する首領様も命がけだが、現場で発射する担当技術者も相当命がけだろう。
というようなことを今朝の7時過ぎに想像したりした。
posted by ヤス at 10:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月14日

iPhoneXの表情認識

さて、9月12日は新型iPhoneの発表があった。
日本時間では13日未明に、iPhoneXと8、8Plusの3機種が発表された。
今年はiPhone発売から10年目ということがX(テン)のネーミングになったらしい。
しかしさすがに10年も経つと最初の頃の驚きや新鮮さはかなり薄くなっている。

10年前には、あの片面が全部ディスプレイでキーが無くてタッチで操作する持ち歩ける電子機器への尊崇の念が確かにあった。
これ一つで電話からネット閲覧からメールチェック、カレンダー、ゲームに表計算、さらには音楽再生、ビデオ鑑賞などなんでもできてすごいと思った。

その後も、ディスプレイがRetinaになって画素の点々が見えないくらい綺麗になったり、指紋認証で煩わしいパスコード入力が無くなったり、画期的な進化ポイントがいくつかあった。

今回、Xの「売り」は指紋認証の代わりの顔認証であるようだ。
しかし顔認証は、すでに10年前わたしが使っていたシャープのガラケーに搭載されていて、当時それなりに使っていた。
それから考えるとXは顔認証ができますと言われてもそれほど驚かない。

で、ネット情報をチラチラ見た感じによると、Xの顔認証は指紋認証の代替機能というよりは、その先の展開をにらんだものであるような気がする。
Xの顔認証は個人の顔が認証できるだけでなく、表情まで読み取れるのが本当の売りらしい。
おそらくそのことをアピールするのが最大の使命であるツール、「Animoji(アニ文字)」を搭載している。

なるほど単純に静的な顔の形状認識でなく、その人の顔が表情ごとに変わるのまで追跡できるというのはかなり画期的かもしれない。
これはつまり、わたしの表情が仏頂面であるときも激しく眉を吊り上げて怒っているときも、変わらず「わたし」であると認証してくれるということであろう。

少し想像してみるとこの表情識別機能つきの顔認証というのは、今後の将来、いろいろな広がりがあるような気がするのである。
学校の教室で全生徒の表情を漏れなく監視し、誰それが真剣な表情を34分47秒継続していたとかこいつは終始眠そうだったとかデータが取れるかもしれない。
あるいは小売店で、「物欲にキャッチされた」表情のお客だけをピックアップして効率的なセールをかけるとかはどうか。

iPhoneXの表情認識がどの程度の精度のものかまだ分からないけれど、この機能がただのスマホの認証機能だけに留まるものでないことはまず間違いあるまい。
そういう意味でアップルが今後この機能をどのように展開していくのかにはかなり注目だと思っている。
posted by ヤス at 10:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月13日

オートバイの未来について

先日、オートバイの新しい排ガス規制に基づき、ヤマハSR400やセロー250などの定番モデルが生産終了になった。
ヤマハで15車種、カワサキでも5車種が終了になったらしい。

幸いなことにSR400もセローも販売ランキング上位の常連であるため、現在規制に対応した新モデルを鋭意開発中であるという。
わたしは1988年にセロー225を買って乗っていたのでこのバイクには若干の思い入れがあるのだ。

しかしオートバイを巡る環境はかなり厳しい。
特にヨーロッパでは二酸化炭素排出対策が年々厳しくなっており、今後もオートバイ業界は対応していかないといけない。

同じようにエンジンで動く乗り物ではあるが、四輪と二輪は置かれた立場が多少違うようである。
四輪の方は、すでに内燃機関エンジンから卒業して電動化またはハイブリッド化に向かう流れができつつある。
また自動運転が技術的に目処が立ちつつあり、電動化と並行して自動運転化が進むようである。

しかしオートバイの場合、おそらく電動化やハイブリッド化は簡単ではない。
まずオートバイの場合、1トン以上ある四輪に対し多くのモデルがせいぜい200kg前後の車重である。
重量のあるバッテリーやハイブリッド機構を搭載して50kg重くなりました、というのがなかなか出来ないのである。

最近のニュースによると今から20年後くらいには純ガソリン車、ディーゼル車の生産を終了しようという流れができつつあるようだ。
そうなると心配なのが、ガソリンスタンドがどんどん減るのではないかということである。
スタンドが減るとタンクが小さく航続距離の小さいオートバイにとってはますます居心地が悪くなる。

だから四輪の世界があらかた電動化する30年後くらいには、ガソリンエンジンのオートバイはおそらく絶滅するか、今のフィルムカメラやアナログレコードみたいに一部マニアの希少趣味になるのだろう。
まあその頃にはさすがにバッテリー技術が進化し、オートバイに搭載出来るくらい小型軽量高密度の高性能バッテリーが出来ているかもしれない。

ただオートバイが電動化すると、それはそれで便利なことも有る気がする。
ひとつは、「バックギア」が普通になること。
重いバイクを腕力や脚力でバックさせるのはかなり大変だ。
電気駆動になるとたぶん今より簡単にバック機構が実現できて便利になる。

あと低速走行時のジャイロスタビライザーやバイク用エアバッグが標準になって、今のところオートバイ最大の課題である安全性が飛躍的に改善するのではないだろうか。

そうなるとオートバイにとっていちばんの問題は四輪交通の自動運転化だろう。
オートバイは運転そのものを楽しむためのものなので、これを自動化すると存在意義がなくなる。
これは四輪のスポーツカーも同じだけれど、「自動運転交通」の中でいかに手動運転車両が調和していくか、そこのところが上手くいけば未来の電動バイクもあながち悪くないかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 13:41| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月12日

人類の文明運が良かった説

今日は昨日に引き続き、えらく日経平均株価が上がっている。
このところ北朝鮮問題で下がっていた株価は、建国記念日前後に大きな事件もなく、とりあえず危機が一服したということなのかもしれない。

この問題に関して、少し前にある政治家は防空壕を造るべきと発言して物議をかもした。
また、8月29日の日本列島越しのミサイル発射に際しては「Jアラート」が一部地域で起動した。
このミサイル発射は早朝だったので、「朝っぱらからうるさい」とか批判の的になったりもした。

「Jアラートがうるさい」問題について考えると、アラートが聞こえた後に人々がどのような避難行動を取るべきか、その情報が全然国民に届いていないというところにそもそもこのシステムの決定的な欠陥がある。

そもそもミサイルの類が市街地に向けて飛んできた場合、自衛隊や米軍の迎撃システムが無事にこれを撃ち落としてくれるのを「祈る」他に、一般大衆レベルで出来ることはほとんどないと思う。
少し理屈をこねてみると、北のミサイルは限られた攻撃力のリソースを日本の普通の街に無差別に向けるほどには豊富でないはずで、照準の先は米軍基地や自衛隊基地に集中するだろう。
そうなると普通の市民に被害のあるケースというのは、照準が外れた流れ弾が飛んできた場合など、かなり確率的には限られると思う。


6年前には東日本大震災があって東北・北関東を中心に大きな被害があった。
その後もこの国では地震や水害などの自然災害が絶えない。
そのような自然災害に比べると、北の脅威はまだ外交努力や防衛技術への注力で対策可能な分、災害よりましという考え方も出来る。

一説によると、今日の人類の文明進化があるのは、この数万年の間比較的地球の気候が穏やかに安定していて、恐竜を絶滅させたような巨大隕石の衝突などもなかったことが大きな要因という話もある。
たまたま運良く文明は発達できたのである。

考えてみると人間の生き死には、かなりの程度「運」に左右される。

ただでも事故や病気のリスクもあるというのに、北のミサイルリスクでその悪運が少し増えるというのは、ものすごく損な気分がする。
人類はせっかく数万年間「お天気」にも恵まれて、自然災害や病気などに対しても技術を磨いてせっせと対策をしてここまで来たのに、である。

いずれにしてもミサイルに関する限り一般人に出来ることはごく限られているので、運悪くそれが落ちて来ないように祈っていよう。
posted by ヤス at 16:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月11日

核武装論議

さて、北朝鮮問題が一向に解決の糸口が見つからないなか、「無事」に9月9日の建国記念日が過ぎた。
この日に何かが起きる、という事前の報道がいくつかあったが結局大きな事件は何もなかったようである。(たぶん)

個人的には、この問題は現在の状況がある種の平衡点なのではないかと思うようになっている。
北は核兵器の実用化をアピールし、運搬手段のミサイルもおそらくアメリカ本土の一部を射程に収めるほどに進化している。
通常戦及び核攻撃の総合力でアメリカが北を圧倒していることに依然として変わりはないが、北がアメリカに対する直接攻撃の手段を獲得したことで(少なくとも北はそう主張している)、米朝は軍事的にある種の対等関係に立ったと言える。

ところで、この状況に対抗するために日本も核武装すべきという議論がある。
日本で核武装の議論は、ある意味「人殺しは良くない」の議論と似ているような気がする。
現在でも日本自体が核武装することについては、多くの国民が反対だと思う。
しかし実際に新聞社等がその手のアンケートを取ると、けっこう数字にバラツキが出て、場合によっては核武装肯定派が多数になることもあるようだ。

日本が核武装することは良くない、というのは、日本は唯一の被爆国であり悲惨な核兵器の惨禍を繰り返すべきでない、という辺りに主な論拠があるのだと思う。
だから、外交手段としての核武装についてはあまり活発に議論されているとは言い難く、そちら方向からの核武装反対論というのはあまり決定的な話を聞いたことがない。

さて、「人殺しは良くない」の話である。
念のために言うと、わたしも人殺しは良くないと思っている。
ではなぜいけないのか。
そこのところを綺麗に筋道立てて説明するのはなかなか難しい。

また日本では死刑がまだ存続していて、国家による犯罪者に対する殺人は合法である。
あるいは正当防衛による殺人も合法とされる。
正当防衛というところでは、世界各国において戦争中の戦闘での殺人もいちおう合法。

人殺しが良くないことの理由については、倫理面とか人間心理の面からなどいろいろと議論立てがあるのだろうが、今わたしがおもいつくのは、人殺しは法律で違法と決めているからダメなのだ、というものである。
法律というのは文明社会を維持するためのものと考えると、つまり無秩序の殺人は文明社会を維持することの障害になるからダメということになる。

さて、日本の核武装について。
核武装はNPTの国際的な枠組みの中で、いちおう部分的に合法である。
しかしその枠組外で、北朝鮮やイランやその他の国々でもなし崩し的に「違法」に核開発が続いている。

核兵器が世界に与えた実害は今のところ日本の2都市の数十万人だけであるが、潜在的な核兵器の脅威は今厳然としてあるのは間違いない。
核兵器は過去にはそれなりの違法・合法のラインが決まっていたわけだが、今はそれがすっかり曖昧、いい加減になっている。
そこのところがいい加減というのはかなり文明的でないと思う。

不倫の話もそうだけれど、文明の力によって人間の中に眠る野生をコントロールするのは相当に難しいということのようだ。
少なくとも日本国には、文明の側に立って各国に働きかける立場を維持してもらいたいと思う。
posted by ヤス at 11:16| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月10日

初の9秒台

昨日、陸上の桐生祥秀選手が、日本人初の100m走9秒台となる9秒98の日本記録を出した。
伊東浩司が長らく保持していた10秒00から19年、人類初のジム・ハインズからは49年目にしての9秒台とのこと。

ただジム・ハインズの記録は高地のメキシコシティーで出した記録であり、次に更新されたのは1983年のカルビン・スミスでこの間15年かかっている。
わたしの記憶では、その次のカール・ルイスくらいから100mの記録はぐんぐん伸びてきたような印象がある。

日本の100mはこの数年10秒0台に多くの選手がひしめく状況になっていて、いつどこで出てもおかしくない感じだった。
特に今期になってからのサニブラウン・ハキームの快進撃があって、他の人が破れなくてもサニブラウンの体調が戻ればすぐにも出しそうな感じに思えた。
その中での桐生の9秒台。

桐生は今まで肝心なところで硬さが出るとか、プレッシャーのかからない時は速いとか、メンタル面での弱さを指摘されることも多かったけれど、そんな桐生が「当初の予定通り」に一番最初に9秒台に突入したことは、本人的に非常によかったと思う。
おそらくこれで重荷が取れて、以降より無心で走ることができるようになるのではないか。

100m走は競技時間がたったの10秒しかないから、スタートから中盤のスピードアップ、そして終盤のまとめまで、少しのミスが命取りになる。
集中力が要求される、かなりメンタルな競技だと思う。

だから実は、日本で誰が一番最初に9秒台を出すかはものすごく大事だったと思う。
今期世界陸上で個人代表資格を逃して悔しい思いをした桐生としては、ここで悔しい思いをしたからこそ、初の9秒台は何としても自分が出さないともう後がない、そんな気持ちがあったのではないかと勝手に想像する。

水泳の100mも2005年に佐藤久佳が初の49秒台(世界から29年遅れ)で泳いだ後、他の選手も続々と49秒台を出し、かなり差があった競泳短距離が世界に接近する転機になった。

「日本初の9秒台」という大きな壁が無くなって、他の選手も続いていけば400mリレーで金メダルの期待もますます高まる。
短足胴長の日本人が陸上短距離で活躍できれば、陸上競技以外にもいろいろな場面で心理的バリアの解消に役立つんじゃないか。

ところで桐生選手の下の名前は祥秀と書いて「よしひで」と読む。
今まではなんとなく読み方をスルーしていたがこれからはしっかり「きりゅうよしひで」とフルネームで呼ばなければ、と思った。
posted by ヤス at 07:42| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月09日

徒弟制度のふしぎ

さて、将棋の藤井聡太四段はその後若干負けが込んで既に6敗目を喫したが、しかしなお今年だけで29勝していて8割以上の勝率を誇るから大したもんである。

そしてわたしは最近も相変わらず「見る将」として将棋の番組をネットでチラチラ観ている。
観ていて思うのだが、将棋も相撲と同じく日本の伝統文化である、という意識を各プロ棋士はかなり明確に意識しているらしい。
だからタイトル戦によっては和装での対局が習慣になっていたりする。
また対局が始まる時の最初の駒を並べるのにいちいち「なんとか流」の流儀があったりして、まるで相撲の土俵入りの不知火型みたいだなあと思う。

伝統という意味で、相撲と将棋には類似点が多く、細かい作法に流儀や型があったりというのも似ているが、「徒弟制度」があるという点でもわりかし似ている。

ただし、相撲の場合は部屋持ちの親方だけが弟子を取れる。
そのためには「株」を買ったり日本国籍がないといけなかったり色々大変である。
一方で将棋の師匠は、おそらく特別の資格とかなくても弟子は取れる。
弟子を取ろうと思えば取れるし、自分は弟子は取らないと思えば取らない。
しかし弟子の方は、プロ棋士になるためには誰かの門下に入る必要があるようだ。

相撲と将棋で若干の違いはあるものの、伝統文化に徒弟制度はつきもののようだ。
ということは徒弟制度にはそれなりに合理的な存在理由があるのだろう。

ふと思うのだが、徒弟制度における師匠は必ずしも弟子より競技力が上ではない、というのが案外ポイントなんじゃないか。
相撲で、歳をとった親方が若い弟子に敵わないのは当然として、知力勝負の将棋であっても、経験豊かな師匠を弟子の方が若くして超えるというのは珍しくない。

師匠の目標は、自分より強い弟子を育てるというところにある。
だから弟子が若くして師匠を超えるのはある程度必然になる。

相撲や将棋に見られる徒弟制度の現状は、少なくとも強い弟子を育成して門下の勢力を拡大するという点で相応に機能しているように見える。

大学における教授を中心に准教授・助手などの組織や、ある種の職業でしばしば見られる徒弟制度的な組織体制は、時として弟子を酷使するだけのものであることがあるのと対照的だな、とちょっと思う。
おそらく徒弟制度的な仕組みというのは、ともすれば弟子が師匠に奴隷的にこき使われるということになりやすいのではないかと思うのである。

その点、将棋の徒弟制度はうまく機能しているように見え、その理由がなんなのか少し気になるのだ。
(内実、いろんなドロドロ劇もあるようであるが)

わたしは、将棋の師匠は弟子が自分より良い成績を上げたら心中複雑なのではないかとちょっと心配したりもしていたのだが、上記の理由により、強い弟子を持った師匠は「それなりに」嬉しいのかな、と最近は思ったりしている。
posted by ヤス at 15:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月08日

電気自動車普及のネック

この間、日産自動車が電気自動車の新型リーフを発表した。
初代は2010年12月に発売され、発売から5年の2015年12月に世界累計で20万台売ったという。
新型リーフの売りは自動運転技術とかいろいろあるようだが、イチオシは航続距離が280kmから400kmに延びたことだろう。

リーフが最初に登場した時の航続距離は230kmだったがその後のマイナーチェンジで280kmになった。
これらの数字はカタログスペックなので実走行距離は1〜2割くらい減るらしいが、まず「満タン」で200km走ればほとんどの場合実用上の問題はないと思われる。
しかし電気自動車の航続距離というのには、なんだか知らないがぼんやりとした不安が常にある。

今朝のニュースにイギリスのジャガーも2020年以降は全車種を純電気・HVだけにするというのがあった。
またイーロン・マスクのテスラも紆余曲折ありながら販売台数を増やしており、2016年一年で8万3922台売ったらしい。

はたして電気自動車の将来はどうなのか。

電気自動車普及の鍵を握るのが充電インフラの整備であるといわれる。
日本の充電設備は、最近急ピッチで整備が進んでいるようだがそれでもガソリンスタンドに比べるとかなり少ない。
最近は高速道路のサービスエリアにも充電スタンドを見かけるが、その数は大抵ぽつんと一基あるくらいだ。
まだ電気自動車の絶対数が少ないので、取り合いになることもないのだろう。
しかし充電時間は、ガソリンのように1分2分で終わるわけではないので、運悪く2、3台重なった時はかなり待たないといけなくなる。

充電スタンドの数の少なさ、充電時間の長さの問題は電気自動車普及の大きなネックである。
まあこれは、電気自動車がある程度増えればそれなりに改善されるのかもしれない。
しかし出先での充電が数分の感覚で終わらないと少々かったるい。
そのためには充電池技術の進歩が欠かせない。

しかし今のところ超急速充電可能な電池実用化のニュースはあんまり見ないのだ。

それならば、太陽電池をクルマに乗せて発電しながら走ったらどうだろう。
100馬力は換算するとおよそ74kwになる。
現在市販されている10kwの太陽電池は面積がおよそ50平米くらいらしい。
100馬力のクルマをフルパワーで駆動するには単純にいうと25mプールの面積の太陽電池が要る。

クルマは常にフルパワーを発揮するわけではなく、バッテリーとの組み合わせの航続距離延伸装置と割り切って25mプールの10分の1の面積としても、一般的なクルマ4〜5台分の投影面積が要る。
これだと将来的に太陽電池の効率が上がるとしてもあまり期待が持てない。

つまるところ、充電インフラが街中至る所に整備されるか、電池技術が劇的進化して航続距離の心配が無くなるかしないと、電気自動車普及の心理的バリアが解けない気がする。

あるいは自動運転化に伴い、クルマの充電管理をAIが行って人間はその心配をしなくなる、みたいなことであっさり解決するのかもしれないという気もするが。

内燃機関エンジンから電気化へのスイッチはおそらく今後10年くらいで急速に進む雰囲気が漂っているのだが、電気自動車普及の未来像が今ひとつ見えないというのが、トヨタを始め既存メーカーの多くが電気自動車に本腰が入らない要因なのかなあとも思ったりしたのである。
posted by ヤス at 12:09| Comment(0) | 徒然なるままに