2018年04月30日

雨宿りの庇を借りる感じ

旅行していて思うのは、ほんとうに至る所に「自分の行ったことのない所」があるということだ。
日本国内で見ても、行ったことがない場所がたくさんある。
わたしの住んでいる岡山県内でも、行ったことない所、通ったことのない道路とか無数にあるだろう。
そう考えると外国に関して言えばほぼ100%行ったことがないと言って過言ではない。

そういう感じではあるが、遠方に出かけた時に過去行ったことのある所に立ち寄ると、「帰ってきた」感じがするのはなぜだろう。
それで、わたしは某ハンバーガーチェーンをよく利用するのだが、大阪とか東京とか、あるいは静岡や信州に行って「ああこの店は前に来たことがあるな」という場合がけっこうある。

そういう時にかなり「帰ってきた感じ」を感じたりする。
この「帰ってきた感じ」っていったい何だろうかと考えてみた。

たいていの野生動物の場合、「巣」というのがあって、巣はただ単に一夜の寝床であったり子育ての場所であったりする。
ある種の動物は地面に穴を掘ってそこを巣にし、外敵が襲ってきたら巣に逃げ込んだりする。
そういう場合の巣はその動物にとっての安全基地であり、帰るべき場所である。

帰巣本能とかいうものがあるけれど、ほとんどの動物には安全基地である巣に戻ろうとする習性があるのかもしれない。
そして巣に戻ると、それまで、「外」にいた時はライオンや狼の気配に気をつけたりして一定の緊張感を持っていたのが、巣に戻るとその緊張感がいくらか解けて気分が楽になる。
動物にとっての巣とはそのような効用があるような気がする。

自分の家からはるか遠方に出かけて知らない所をウロウロすると、あまり明示的に意識はしないが精神的にいくらか疲れる。
それは土地に不案内で右に行けばいいか左がいいのか分からない戸惑い、今夜の宿は大丈夫かなあというような余計な心配ごとがいろいろあってそうなるのだと思うが、そこに以前行った覚えがある避難場所があるとかなりほっとする。

そこが桃源郷のようなパラダイスでなくて、ただ雨露しのげるだけのちょっとした空間に過ぎないと分かっていても、その心強さはいささかも揺るがない。

そういう、旅先で雨宿りの庇を貸す感じというのは、たぶん庇を貸す側はあまり意識していないのではないか。
まあ、庇を借りる側としてはあまり恩着せがましく庇を貸してもらうと居心地が悪くなる。
貸す側も借りる側もあまり意識することなくなんとなく立ち寄ってなんとなくほっとしているのが適切な状態であると思われる。

旅先でほっとする体験も旅の重要な一要素であるとは思うが、あまりそれを求め過ぎてもいけないのかもしれない。
未知の土地をさまよってそこで緩い緊張感を味わうのが本来の旅のあり方であると思うので、あまり頻繁に雨宿りの庇を借りるのは控えておこうかな、と思ったりしている。

posted by ヤス at 09:35| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月29日

手を洗わない人々へ

トイレに入った後で手を洗わない人がたまにいらっしゃる。
わたしは、そういう人のことは基本あまり信用しない。
「手を洗わない奴のことを今後は信用しないことにする」とある時に決心した、ということではまったくなく、なんとなく「信用出来ねえな」と感じるだけだ。

ではなぜ信用出来そうもないのだろうかとふと思ったのだが、これが今ひとつ判然としない。
自分で感じていることの中身がわからないのも不可解な話ではあるのだが、まあこういうのは別に珍しいことでもない。
だからなぜ自分はトイレで手を洗わない人を信用しないのか考えてみた。

そんなことを思ったのにはきっかけがある。
昨日手が油で汚れたので公衆トイレの洗面所でゴシゴシ洗っていて、その間に何人かが用を足しに出入りした。
その時連続で二人のオッさんが手を洗わずに出て行って、一人だけならまだしも連続二人とは、いや参ったな、と思った。

わたしの観察では、手を洗わない人は意外に多い。
目分量だけれど、たぶん10人に一人か、ひょっとして二人くらいの割合で洗わない。
女子トイレの方は観察したことないから分からないがやっぱりいるのだろうか。

あと、若いお兄ちゃんとかの場合、用を足して思わせぶりに洗面台に向かったはいいが、一向に手を蛇口の方に差し出さずに鏡を見ながらひとなでふたなで髪を手ぐしでとかして、結局そのまま洗わずじまいで出て行ったりする。

思うに、手を洗わない人は多少挙動が不審になっている気がする。
わたしがその「手を洗わない様子」を横でじっと観察しているせいかもしれないが、手を洗わない人は、出て行く前に髪の毛を気にしたり身だしなみをチェックするフリをしたり、何か言い訳がましい挙動がそこにある気がしてならない。
その辺が信用出来ない原因かもしれない。

以前テレビ番組で松本人志が、「何にも汚いとこ触ってないから、手を洗わへん」みたいな言い訳をしていた。
まことに理屈っぽい言い訳だ。
こういうのはいかにもわたし自身が言いそうなことにも思える。
あるいは手を洗わない人に対し、わたしは自身の幻影を見、ある種の自己嫌悪的な感情を起こしていたのかもしれぬ、とも思う。

トイレはドアノブとか至る所ばい菌だらけだから手を洗った方がいいと言うけれど、わたしがトイレで手を洗うことの最大の理由は「習慣化しているから」ということに過ぎない。

だから手を洗わないくらいどうってことないのだが、洗わない人を見るたびに、脈拍が毎分あたり3回上がるくらいの軽い衝撃がある。

だから手を洗わない人に今言いたいことは、洗わないなら洗わないで、堂々と、自然な感じでトイレを出て行って欲しい、それだけである。
posted by ヤス at 09:41| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月28日

人類進化の新ステージ

この間、SNSの雄Facebookのサービスで情報流出事件があって騒ぎになって、スティーブ・ウォズニアックとかの著名人がFacebookの利用を止めているとかいうのをニュースで見た。
それでアメリカなどSNS先進国ではFacebookの需要が頭打ちになっている、みたいなニュースも見た覚えがある。

にもかかわらずFacebookの企業としての成長は続いており、この間のたぶん四半期業績発表だったと思うが、過去最高益を出したらしい。
これは、アメリカとかヨーロッパとか日本とかで需要が頭打ちになったとしても、アジア諸国などこれから普及する先で急速に市場が拡大しているからなのだろう。

また、SNS疲れとか言われている先進国でも、それでもまだまだFacebookの人気は根強いということだと思う。

今日のSNSの隆盛を見るに、ほんとうに多くの人が写真をアップしたりコメントを流したり動画を撮影編集してみたり、情報発信に余念がない。

この状況は20年くらい前には想像も出来なかったことだ。
ただし、ひとつ今日に通じる20年前の流行り物の中に「写るんです」というのがあったかもしれない。
携帯電話もGo Proも無い時代に写るんですは女子高生でも買える値段でコンビニなどの店頭に並び、これによって女子高生をはじめとするきゃぴきゃぴの女の子たちが潜在的に写真撮影が大好きだった、そういう新事実が明らかになったのは画期的だった。

現在Snowなど写真の「加工」カルチャーが隆盛を極めていることは言うまでもない。
かくして女子高生たちは、今日もせっせとスマホカメラを構えては大量の作品を生産し続けているわけであるが、しかし写真というのはシャッターを切る回数に比例してその腕が上達する。

おそらく最近の日本人の写真撮影スキルは、20年前、あるいは写るんです以前の30年以上昔と比べるとかなり向上している気がする。

あるいは、人びとがFacebookとかTwitterとかLINEとかで日常的に大量のタイピングをする結果、タイプ能力はもちろん、文章作成能力もいくらか上がっているんじゃなかろうか。

さらに、今後はユーチューバー人口の裾野が一層拡がり、みんなが自撮り動画の中でいろいろスピーチをするようになると、人類のプレゼン能力の平均値を著しく引き上げることになるのではないか。

人類の進化のステージは、最初は生物的進化から始まり衣類などで寒暖に対応する文化的進化と来て、情報技術の発達によるコミュニケーション能力の異常な進化という新たなところに達したのかもしれない。

などと最近つくづく思うのである。
posted by ヤス at 15:37| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月27日

分類に臨む心構えについて

世の中には分類というものがある。
カタカナで言うと「カテゴライズ」。
この分類というのは、学問研究の分野なんかで考えを整理するために使われたりする。
あるいは学問以外の場でも、日常生活における普通の人間の脳みその中で意識的、無意識的を問わずいろんな「分類」が行われているのだろう。

また学問としての「分類学」というのもあるくらいで、これは生物学の一分野として、この地球上にゴマンといる生物種の分類をいかに適切に行うかというのをひたすら追求するものである。
このような分類学というのがある種の研究テーマとして成立するのは、それだけ生き物の分類が難しく議論が尽きないということの証左である。

分類が難しいのは何も生物学に限った話ではない。
例えばわたしのパソコンの中にも、地球上の生き物の数ほどではないにせよ、大小様々なファイル類がやはりゴマンと存在する。
そのようなファイルはある種の「分類」を行なって、パソコン操作上それはフォルダを作成することを意味するわけだが、親フォルダの下に孫フォルダ、さらにその下にひ孫フォルダという具合にいくつもの階層にもわたるディレクトリを重ねてアマタあるファイルを格納していくことになる。

ところがパソコンファイルの分類は意外と難しく、時間の経過とともにどんどん複雑化するフォルダ・ディレクトリはそのうちどこがどうだったか分からなくなって、あとから目当てのファイルを探索するのがどんどん困難になる。
それがパソコンファイル整理の、ひとつのお約束になっている。
(少なくともわたしの場合は)
このように整理が困難になるのは、あるひとつのファイルには「仕事ファイル」とか「現在進行中ファイル」とか「銀行がらみの内容ファイル」とか複数の分類軸が複雑に絡んでいるからである。

それで、ディレクトリに頼らずにファイルを探しやすくするためにウェブ検索で言うところの「タグ」のようなものをファイル名に付ける、とかするのだが、そういうのもタグ付ルールが常に揺れているので安定した検索がなかなか難しい。

パソコンには「全文検索」という便利な機能があって、これはファイル数が肥大化しディレクトリも複雑になりカオスになったパソコンのフォルダ内を、ファイルに含まれるキーワードで検索する技であるが、これも時と場合によっては検索結果に無数のリストが出現して呆然としたりする。

それもこれも「分類」ということの難しさ、というか世の中の森羅万象を厳密に分類することの不可能性の表れである。
ほんとうに、分類は神様だけが出来ることで、人類がやる分類はあくまでも不完全な「とりあえず」のものに過ぎない。

しかし人類は普通の状態では世の中の事象・物体は当然分類可能なものとタカをくくっている傾向がある気がする。
だがそういう態度は神をも冒涜する人類の思い上がりに過ぎない。
我々人類に出来る「分類」は常に不完全であり、至る所論理矛盾だらけであり、ママゴトのようなものに過ぎないのだ、そういう自覚を持って我々は分類に臨まねばならない、ということをなぜかちょっと思った。
posted by ヤス at 14:22| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月26日

心配について心配してみる

たまに、かなり心配性な人がいる。
こちらの方が少し心配になるくらいである。
しかしよく考えて見ると、ひょっとしたら自分も少し心配性の気があるのでは、と思えなくもない。

出かける時、家の玄関の鍵を閉めたっけな、石油ファンヒーターのスイッチはちゃんと切ったかな(もう春になったのでファンヒーターの心配は要らなくなったが)とか、いろいろと心配になることがある。
それで実際に、家に帰ってみたら玄関の鍵が開きっぱなしだったということが過去にあって、いやこれはしまった、もし泥棒に入られたらえらいことだな、と思ったりもした。

だがそういう反省の気持ちも家に入ってしばらくするとすっかり忘れてしまって、コーヒーを飲みながら落ち着いた瞬間とかに、そういえば鍵を閉め忘れたまま出かけたけれど泥棒は入らなかったかな、とか思い出す。
もちろん泥棒に入られたとか実際には思ってもいない。
第一、部屋の中は泥棒が荒らしたような形跡が一切ない。
また部屋の中にはリスクを負って盗難するに値するような値打ちものがない。

あえて言えば、パソコンとか一眼レフカメラを盗られたらかなり困るし悲しい。
パソコンがなくなると仕事に支障をきたすだろうし、一眼レフカメラは、今ではあまりシャッターボタンを押すこともなくなったけれど、それでもそれなりの思い入れが詰まっているので無くなると悲しいだろう。
ただし、パソコンも一眼レフも経年劣化でそれなりにヤレており、換金してもたかがしれた金額にしかなるまい。

そうなるとうちのパソコンと一眼レフを盗むような輩は、金銭目的というよりわたしのことを困らせ悲しませることをもっぱらの目的にしているということになる。
ただ、犯罪者になることも顧みずにわたしを困らせ悲しませようというほどわたしに関心のある人類はおそらくこの世におるまい。
したがって、我が家のパソコンと一眼レフは限りなく安全なのに違いないのである。

心配性の人というのは、心配事がストレスというマイナスの気持ちよりは「とにかく安心したい」という気持ちの方が強いそうだ。
こういう人は現状の「安心感」が常に不足していて、もっと安心できるんじゃないかと四六時中思っているもののようである。

特に日本人の場合、DNA的な平均値としてストレス耐性が他国の人よりやや低いという研究結果もあり、心配性の人は比較的多いのかもしれない。
あまり心配性が度を過ぎると問題だけれど、しかしあまりに能天気で心配の量が足りない人間というのも、側から見ていてこっちが心配になって多少ストレスに思ったりする。

ただ能天気な人間には、そういう自分の姿が自分では見えにくいものである。
だからあんまり心配性が過ぎるのも問題だけれど、少しくらいはいろいろと心配してみた方がいいのかなと思ったりした。
この文章を書いていて、なんだか面白いオチに持っていけなくて、読んだ人が「ふんっ」と思わないかちょっと心配だと思った。
posted by ヤス at 10:01| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月25日

アポロ宇宙船の記憶

わたしがずいぶんと小さい頃、たぶん幼稚園児くらいの時、アポロ宇宙船のおもちゃで遊んでいた記憶がかすかに残っている。
そのアポロ宇宙船は、円筒形のロケットの先端に円錐形の帰還用カプセルが付いている司令船と、複雑な多面体で構成され着陸用の脚がにょきっと出ている月着陸船のプラモデル的な何か、であったと思う。
いや、それはプラモデルというほどの精密さもないようなセルロイド製の大雑把な造形であったかもしれない。
その時のわたしはなんにせよ幼かったので、それが人類を月面に運んだ偉大な宇宙船の模型であったということをちゃんと理解していたかどうか。

しかしこうやって半世紀近い年月を経ても、そのおもちゃの記憶がいくらかでも残っているというのは、当時幼いなりに少しは理解していたということの証拠かもしれない。

アメリカのアポロ計画でニール・アームスロロング船長ら3名を乗せた11号が、人類史上初めて月面に到着したのは(月面を踏んだのは2名)1969年7月のことであったらしい。
この頃わたしはすでにこの世に存在して、よちよち歩いたり限りなく日本語に近い叫び声を上げていたりしていたはずである。
ただ、全世界にテレビ中継され日本でも多くの人が固唾を飲んで見守ったアポロ11号の飛行のようすは、ひょっとしたらわたしも観ていたのかもしれないが、残念ながらその記憶はまったく残っていない。

ただその後2、3年を経て多少まともな日本語を喋るようになった頃の、アポロ宇宙船のおもちゃの記憶が残っているのみである。

そのおもちゃはもうとっくの昔に廃棄処分されたのだろうが、しかしあの「アポロ宇宙船」は少なからずわたしの趣味嗜好に影響を与えたように思う。
まず、「宇宙の不思議」に興味を持つようになった。
また、ロケットとか飛行機が俄然好きになった。
飛行物体好きはその後、軍用機、わけても第二次大戦中のレシプロ戦闘機(要するにエンジンでプロペラを回して飛ぶのがレシプロ機)への興味へと成長して「ゼロ戦好き」に変異したりした。

しかしよく考えて見ると、月面に人類が降り立つというのはすごいことだ。
1972年12月にアポロ17号が最後の有人月面探査に降り立って以降、人類は地球外の天体の地面を踏むことがなくなった。
これは当初の想像に対し、1980年頃から世界経済に思わぬ停滞が生じたり、米ソ冷戦が終わったと思ったらあっちこっちで紛争が起きるようになって宇宙進出どころではなくなったということなのかもしれない。

キューブリックの「2001年宇宙の旅」(というかA・Cクラーク原作)では、「今から17年前」の2001年には、月面に有人基地があって人間が常駐しており、地球の周回軌道上には立派な宇宙ステーションが建設されて大勢がそこに住んでいるはずだった。
クラークやキューブリックの想像した世界が現実のものになるにはもうあと50年くらいはかかりそうな感じだけれど、なんとか健康に長生きしてその未来を見てみたいと思っている。
それがわたしの生きる目標のひとつである。
posted by ヤス at 12:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月24日

特権意識の暴走

最近の世の中の問題課題を見ていると、ある種の「特権意識」が作用している事例が多いような気がする。
高級官僚の不祥事とか(その件について容疑が確定しているわけではないが)、あるいは最近のクレーマーの問題とかは「特権意識問題」と分類することが出来るのではないか。

「特権」というのは、ある特定の人に付与される他を超越した権利のことであろう。
人が特権を獲得するというのは、そこには何らかの権力闘争があって、その闘争に勝ち抜いた人が何かの権利を獲得する、とかいう構図はまず分かりやすい。
これは具体的には、政治家が選挙を勝ち抜いて議員になって有名になり、テレビに出てますます顔が売れて著作も売れるようになるとか、議員不逮捕特権とか制度上に定められた権利を得るとかいうことがある。
あるいは一介の市民が社長になってそこそこ儲かって、自分の給料とか出勤時間とかある程度自由に決められるような裁量を得るとかいうこともあるかもしれない。

そういう、自分で獲ってきた特権というのはそれなりに自覚的であり、自覚的であるだけに、この際獲得した権利を最大限行使しようという不埒な人間も出てくるのかもしれない。
しかし良識のある大人であれば、自らが勝ち取った権利を正当に行使しようとがんばるものだろう。
時々特権的身分に堕した自分の姿を振り返り、これではいけないと反省したりすることもあるんじゃなかろうか。

しかしより深刻なのは、そういう自覚的に自ら勝ち取った権利では「ない」場合であると思う。

どこかの会社で財閥オーナーの娘がひと暴れもふた暴れもしてニュースになっていたようだが、これなんかも自分で得た権利というより、天から勝手に特権が降ってきて、いろいろと便利なのでつい度が過ぎたということもあるかもしれない。

あるいはもっと卑近な例で言えば、お店におけるお客さまの立場がある。
お客さまというのはお金を払ってそのお店の経営を支えている。
それはある意味お客さま自らの意思によって得られた立場である。
しかし最近、お客さまの中の一部の人間にはいつの間にか「特権意識」に似たものが芽生えていて、それが人間の心を惑わすことがあるようである。

その行動がお客さまの持つ正当な権利の範囲に収まっていれば問題はないのだろうが、特権意識の作用はしばしば人間を暴走させる。
店員に対し必要以上に横柄な言葉遣いをしたり、土下座を強いたりとかする。
そういう分かりやすい暴走以外にも、私は上得意なのだからちょっとくらい値段をまけろとか満席なのをどうにかして自分の席を確保しろとか、そういうことがあったりする。

それは、あるものはささいな特権濫用に過ぎないかもしれないが、その特権濫用の気が知らぬ間に成長して人を暴走させることもあるのではないか。
だから現代に生きる人間というのは、貧乏人でも社会的地位のない特権に遠いと思っている人々でも、その意識にメタ認知を働かせて「自分のどこかに特権意識はないか」と自覚的であることが必要な気がちょっとだけした。
posted by ヤス at 10:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月23日

セブンのオムニ戦略

セブン&アイ・ホールディングスが「オムニ7」戦略を見直しているらしい。
最高益だった2017年決算で、ネット通販部門で234億円の減損を計上したという。
そういう記事が今朝のニュースで流れていた。
セブングループでは中興の祖の鈴木敏文氏が退任したこともあっていろいろと戦略の見直しが進行しているようだ。

そういえば鳴り物入りで始まったセブンドーナツも、最近は普通の棚のパンコーナーの一番上の段にわずかのスペースで売っているだけである。
セブンドーナツも、鈴木氏が辞めていなければ今でもレジ横でがんばっていたのではないだろうかと思う。

セブングループのウェブサイトを見ると、オムニ戦略はグループ内のそごう・西武やイトーヨーカドーなど百貨店やスーパーも含めた総合的な取り組みで、これらの店で取り扱っている商品を全国1万8千店舗のセブンイレブンで受け取れるようにする、というものであったらしい。
しかし今朝のニュースではそこの部分には触れられていない。
あくまでセブンイレブンがコンビニとしてネット通販に乗り出し、頓挫したということになっている。

まあ減損234億円は事実なので、グループ全体としてのネット通販戦略が行き詰まったのはまぎれもない。

コンビニというのは国内全域に小さい店をたくさん出してそのネットワークで商圏を押さえようという考え方である。
店が小さいので品揃えを絞らざるを得ないわけだが、そこは情報システムに金をかけて売れ筋を絞り込み、逆に無用の商品を置かないことで常識を打ち破る店舗効率を実現するという逆転の発想がもとにある。

この2〜3年、Amazonの存在感がぐっと増してきていて、日本国内の大手小売企業も相当な危機感を持ち始めているようである。
調べて見ると、Amazonはアメリカでは2017年のネット売上がほぼ10兆円に達し、日本国内でも同年1.3兆円であるらしい。
おそらく日本で3兆円とか4兆円とかになるのも時間の問題である。
日本の小売業ではイオングループが年商8兆円超、セブングループが6兆円弱なので、Amazonは彼らにとって「今そこにある危機」である。

わたしが勝手に考えるセブンのネット戦略は、稠密な店舗網を最大限に活かすためにも「ネット通販の受け取り場所」を指向することだと思う。
国内のスーパーマーケットがネット通販を目指すのも、大型化して小回りが効かなくなったことの裏返しという側面があると思う。
それに対しもともと小回りが得意のコンビニは、コストをかけてお客さんの家まで配達するのは理屈に合わない気がする。

ただ今後ロボットやドローンが進歩した暁には、その店舗網を活かして注文から5分でロボットが家まで配達、とか出来るような気がする。

個人的には、スマホで注文して10分以内に持ってきてくれるなら、まあ家で待っていてもいいかなと思う。

というかAmazonがすごいことになっているのに改めて驚く今日この頃でした。
posted by ヤス at 10:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月22日

諦めについて

そういえば行政文書改ざんのニュースがセクハラ問題に押されたのか、あんまり報道で見なくなったが、しかし最近の日本は世の中の仕組みが狂ったり歪んだりしているようでかなり危機的状況であるように思われる。

わたしが若い時分の日本では、「日本は政治は二流だが経済が一流だから大丈夫」とか「我が国は官僚がしっかりしてるから大丈夫」とかよく言ってたような気がするのだが、ここ数年の日本は大丈夫なものがどんどんなくなって来ているようだ。

それで最後の砦は、国民が賢くて礼儀正しくて暴動とかも起こさないから大丈夫みたいな話が一部方面から聴こえて来るが、今の日本を作っているのはその国民たちなので、そういう意見にはどうも素直に賛同も出来ない。

今の状況で暴動が起きないというのは、日本人が大人しいとか礼儀正しいとかいうのもあるかもしれないが、そこにはもうひとつ「諦め」みたいな気持ちもあるような気がする。

昔観たヒットラーの最後を描いた映画で、ベルリンのすぐそこまでソ連軍が迫って来ていて、砲声やら銃声やらが間断なく轟く中で残ったナチ党員たちが連日賑やかなパーティーを開いて酔い狂う場面があった気がするのだが、そういう、滅びに対して抗うこともなく最後の宴に気を紛らわせている感じるが、今日のこの状況に近い気がするがまあ気のせいかもしれない。

ところで、「諦め」というのは、「諦めが肝心」な場合と諦めたらダメな場合があるのだろうが、その違いはどこなのかと思う。

結局のところ、人間にとって「過去と他人」は変えられない対象である。
逆に未来の自分に関して変更が可能であるのはまあ当たり前だ。
物事を諦めるべきだったり諦めないでいるべきだったりというのには、その当たり前のことをよくわきまえて判断しないといけないのは、やっぱり当然だろうと今さらちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 09:36| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月21日

受動喫煙防止条例など

最近また世間で「禁煙化」のニュースが聞こえてくる。
オリンピックを間近に控えた東京都でも飲食店を原則禁煙とする条例制定を目指すそうである。
発表によると従業員を雇っている飲食店は店の規模に関わらず禁煙化するらしい。
(あくまでこれから制定を目指すらしいが)
そういう記事がウェブ上の毎日新聞記事にあった。

「従業員がいるのが条件」ということは、これはお客さんの受動喫煙防止というよりは、どちらかというと従業員の受動喫煙を防ぐことが主眼のようである。
わたしの観察によると飲食業界の従業員は、特に10年20年選手のベテランであるほど喫煙率がきわめて高い。
学生バイトなどではその限りではないだろうが、どちらかというと業界内部の喫煙率が高いところに従業員の受動喫煙を防ぐ施策、というのはなかなか興味深い構図ではある。

わたしはタバコは吸わないし、あのちょっと酸っぱい感じの、ニコチンの煙の「残り香」の感じが苦手なので個人的に世の中の禁煙化が進むのは歓迎である。
だから禁煙化条例とか法律とかの類が出てくると「もっとやれやれ」と内心思ってしまう。
それで傍迷惑なタバコ吸いが世の中から消えていなくなってしまえ、と心の中で思っている。

しかしタバコ吸いの立場で昨今の情勢はどうなのだろうか、というのも少しは思う。

ところで、日本におけるタバコ消費量推移を調べて見ると、ピークは1996年の2585億本らしい。
15歳以上の国民一人当たり平均2341本になるそうだ。
一人当たりでいうとそのピークは1970年代後半の3500本なので、おそらく1980年代あたりからタバコ勢力の減衰は始まっていたものと想像される。
このデータは厚労省関係の資料がもとであるが、一人当たり本数を出すのにその母数として「15歳以上」を採用するあたり、きわめて実際的で思い切りがよい、と思ったのはまあどうでもいい。

しかしわたしがむしろ感じたのは1970年代以前のタバコ消費の少なさである。
戦前の一時期までは一人当たり本数で1000本いくかいかないかの水準に留まっている。
さらに1945年あたりの敗戦時期に極端な落ち込みで線グラフに「鋭い谷」が出来ている。

日本では、1960年代70年代の高度成長とともにタバコの消費が著しく伸びて行ったようすが見て取れるのである。
大昔のタバコは大変高価な嗜好品で、一般庶民ではなかなか大量消費が難しい高級品だったのだろう。

現在の日本は受動喫煙防止も他の先進国と比べて遅れ気味というような話もたまに聞くけれど、タバコ勢力の勢いを削いで国民の健康づくりを増進するのならば、経済原理に従うのがいちばんよいような気がする。
タバコ税をさらにさらに上げて、一箱3千円とか5千円とかすれば戦前並みにタバコ消費が減るのではないか。

あ、気がつくと自分でも知らぬ間にタバコ吸いのみなさんを攻撃しているのに気が付いてちょっと愕然とした。
何はさておき愛煙家の皆さん、健康のため吸い過ぎにはくれぐれも注意しましょう。
posted by ヤス at 11:53| Comment(0) | 徒然なるままに

2018年04月20日

川内優輝プロ転向

先日のボストンマラソンで瀬古利彦以来日本人として31年ぶりに優勝した「最強市民ランナー」の川内優輝が一年後のプロランナー転向を表明した。
川内選手は少し前に日本代表引退を宣言しており、今後は練習もほどほどにして普通の市民ランナーになるのだろう、わたしはてっきりそのように思っていたがどうやら違ったようだ。
報道ではベストタイムを5年間更新できていないこと、弟がランニングに専念してベストタイムを更新しているのを見て刺激を受けたと書いてあったが、これらを見ると彼はまだまだ競技としてのマラソンを諦めたわけではなかったらしい。

さらに、日本代表からの引退をいったん表明してはいたものの、その後東京オリンピックに向けた熱意も示しているようで、ファンとしては非常に嬉しい。

川内選手は1年前の吉備路マラソンにも来ていたけれど、ハーフを走った後次々とサインをねだりに来るファンに終始にこやかに対応していて、なんか偉い人だなあと思っていたわけであるが、彼ならば、色んな意味で真のプロランナーになれると思う。

ところで川内選手が今のタイミングでプロ転向を決意したのはボストンの賞金が1650万円ほど獲得出来たので、これを当分の活動資金に充てるめどが立ったからであるらしい。
しかし弟からは「遅すぎる」と言われたと報道に出ていたけれど、確かに31歳にしてのプロ転向は、やや遅かったような気がする。

仮にボストンの賞金がなかったとしても、彼くらいの人気者ならゲストランナーとしてお金をもらって各地の大会に出たり、テレビに出たりしながらある程度の安定収入を得ることも可能だったろう。
それがここに来てのプロ転向というのは、ある程度歳もいってだんだん先が見えてきたからこそ、という面もあるような気がする。

川内選手は現時点で東京オリンピックに向けたMGC=マラソングランドチャンピオンシップの挑戦権を獲得しており、いちおうオリンピックにチャレンジする態勢がととのっている。
当面は2020年に向けた活動が主軸になるのだろうし、オリンピックがあったればこそのプロ転向なんだろうと思う。

しかしむしろこちらの関心はその後の方である。
いったい何歳までプロとして活動するのか、40歳を過ぎてもプロとして走っていたらすごい。
オリンピックの歴史では、1984年のロス五輪マラソンで37歳のカルロス・ロペスが金メダルを獲っているらしいが、この最高齢記録にも挑戦してほしいと勝手に思う。

ものごとを決断するのに「遅過ぎる」ということはないのだと思う。
思い立ったその時こそが常に最速のタイミングなのであるなと、川内選手プロ転向のニュースを見て思った。
posted by ヤス at 09:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月19日

最近の政治、財務次官辞任など

さて、特に書くことも思い当たらないので久しぶりに政治関係のことでも書こうかと思う。
今まさに安倍さんはアメリカに行っていて、トランプさんといろいろ話をしてきたところである。
報道の通り、この訪米は今後の政権再浮上に向けた非常に重要な政治日程であったのは間違いないのだろう。

おそらく今回の外交成果は、安倍さん訪米前の事務方の下打ち合わせでだいたい分かっていたような気もするのであるが、先ほど行われた会見ではトランプさんが拉致被害者の救出に全力で協力することを約束するなど一定のリップサービスが盛り込まれていたようである。
他方、日本サイドが懸念している日米貿易の「二国間化(TPPなど多国間の枠組みから『差し』の交渉になること)」がほぼ決まったような報道もなされていて、安倍さん的には必ずしも満面の笑みで帰国とはいかなさそうである。

しかし最近の政治はほんとうに分からない。
いや、政治が分からないのは昔からのことだったかもしれない。
どっちにせよ分からない。

これだけモリカケ問題やら財務時間セクハラ疑惑やらで騒がしい中、下がったとは言え内閣支持率は30%程度を「保っている」と言えるのではないか。
一部週刊誌報道によると内閣総辞職間近とか、解散して6、7月頃に総選挙実施のウルトラCアイデアが示されるなど、世の中には多少話題作り的にも見える情報が錯綜しているが、個人的には安倍政権は以前に増して非常に打たれ強くなったという感じしかしない。

おそらく政権中枢の意向としてはいろいろ批判を浴びながらも9月の自民党総裁選まで突き進む意向を早々に固めているのではないか。

ところで、例のセクハラ「疑惑」財務次官が昨夜になって辞任を発表したらしい。
この財務次官の発言とされる報道を見ると、彼は報道されたような下品な発言は「記憶になく」、したがって辞任理由はこの疑惑を認めてのことではないという。
これは財務省周辺が大変な時期にこのように「世間を騒がせたこと」の責任を取るものであるらしい。

これを一言で表現すると「私の不徳の致すところ」になる。
「不徳の致すところ」の「徳」とは儒教思想的な概念であり、親孝行とか忠誠心とか礼節とか、いわゆる道徳的資質が十分に備わっている人のことを「徳のある人」というそうだ。

意味を逆から辿っていくと、徳のない人というのは立派な人ではないけれど別に罪までは犯していない普通の人ということになる。
とすると、「不徳の致すところ」による財務次官辞任は、「私は思ったより普通の人だったので次官を辞めます」みたいな意味に聞こえなくもない。

これは一見「私」の非を認めているようで実は認めていないような、実に絶妙の表現である。
徳はないが普通の人に罪はないので、後で刺されることもない。
一方神妙な顔つきで不徳うんぬんと繰り返すことで、世間に向かって「申し訳ない感じ」を醸し出すことが出来る。(今回はあまり申し訳なさそうではないようだ)

一部報道では今回の騒動は財務省による安倍政権に対する自爆テロ説も出ているようだが、今後夏に向けての政局の行方が注目される。
posted by ヤス at 10:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月18日

エアタクシーの設計アイデア

https://www.youtube.com/watch?v=LeFxjRMv5U8&t=82s

個人的に「エアタクシー」の実用化が非常に気になっている。
したがってその現状についてまあまあウォッチしているのだが、そんなところにちょっと前、「Cora」という新手の機種のニュースが目に入った。

この「Cora」はパイロットの他に2名の乗客を乗せ、最大速度145km/h、航続距離95kmというスペックが発表されており、完全自動操縦の機能もあるらしい。
そして何より実際の飛行シーンがYouTubeで公開されており、これはかなり実用化に近いのではないかと思われる。

「Cora」は電動の垂直離着陸が出来る有人機で、いちばんの特徴は普通の飛行機のように大きな主翼と尾翼が付いているところである。
主翼には片側6機、左右の翼合わせて都合12機のプロペラが付いているのだが、ただしその12機の主翼のプロペラは垂直方向に推力を発揮するように固定されていて、普通に水平飛行する時は胴体後部に推進式に装着された3枚ブレードのプロペラで前に進む。
最初垂直に離陸してその後前方に増速し、失速速度を超えたら主翼のプロペラは回転を止めてブランブランの状態になる。

この形態はなんというか、目からウロコというのか、かなり大胆でもあるし、ものすごく割り切った超合理的な設計のように感じられる。

主翼があることのメリットは、水平飛行時に燃費(というか電費)の悪いヘリコプターより効率がよく、また万が一動力系にトラブルが合った場合、ある程度滑空して時間を稼ぎ適当な不時着地点を探す余裕が出来ることであろうか。

とにかく、普通の飛行機に後付け的に垂直方向のプロペラを付けるという発想は、かなり新しいのではないか。
普通なら、米軍のオスプレイのようにプロペラを上に向けたり横に向けたりして最大限の効率化を目指すところである。
そこのところを敢えて垂直方向に働くだけで固定して、水平飛行時にはほったらかしにするというのは構造的にシンプルに出来るメリットはあるにせよ、かなり勇気が要る設計のように思う。

今後このCoraの設計が電動エアタクシーのスタンダードになるのかどうかは分からないが、しかし見れば見るほどこれは優れたアイデアであるように思える。

飛行機の設計というのは空気力学的制約の中、同じ目的の機体はある程度同じ形になる宿命であるように思うのだが、まだこういう新手のアイデアがあったというのはやや驚きである。

ライト兄弟の最初の飛行機「ライトフライヤー」は、先端に水平「尾翼」、中央に複葉の主翼、後端に垂直尾翼が付いてプロペラは推進式になっていた。
それが10年くらいかけていろんな技術者がアイデアを絞って、鼻先にプロペラとエンジン、中央に主翼、後端に水平・垂直尾翼のあの形が出来上がった。

電動エアタクシーは今まさにそういう形態確立プロセスの途上にあって、最終的にどんな形に落ち着くのか楽しみなのである。
posted by ヤス at 12:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月17日

メモ取る派、取らない派

世の中には「メモ取る派」と「メモ取らない派」がいるらしい、ということには以前からうすうす気づいていた。
学校の先生なんかでは、その大半は「メモ取れ派」が占めているのだが、一部に「メモ取らなくていいよ派」の先生がいて「ノート取らなくていいので先生の話を聞いて」みたいなことを言う。

しかし世の中的にはメモは取った方がいい、というのが大方の意見のように思う。
わたしも最初の頃の職場では、「ちゃんとメモを取れ」となんども怒られた記憶がある。
なるほど、特に仕事の場面においては上司からの指示や顧客の要望に関してはメモを取って委細漏らさないようにした方がよかろう。

昔、会議の議事録係を何度かやったことがあったけれど、そういう記録を取ったりとか、インタビューをした時の文字起こしなどにはメモを取ることが必須になる。
たまに横着をして録音機で記録を取ってメモをさぼったりしたこともあったが、誰かがしゃべったことの要約を文字に起こすのには、録音よりメモの方が断然効率がいい。

人の話を聞きながらメモを取っていると、当然のことながら時々聞き逃したりうやむやに聞こえたりしてその内容がいくらか欠落することになる。
だが記録に残す場合にはある程度欠落するぐらいがちょうどよくて、たぶん人が喋っている時というのは、同じことを表現を変えて何度も言ったりしているから全部を文字に起こす必要はないのである。

いや、たまに重要なことを聞き漏らしてメモを取り損ねたりしている可能性も無くはない。
だがある程度人生経験を経て思うことは、人間がしゃべる言葉くらいいい加減で間違いが多いこともないということだ。
どうせいい加減なことを話しているのだからその記録もまた多少いい加減になるのはしょうがない。

とはいうものの世の中にはほんとうにこの人はものすごく賢い人であるなあ、というような人物もいないこともないのだが、そういう賢い人の話す内容は理路整然として聞きやすく、変な重複や言い間違いも少ないので非常にメモも取りやすい。
だからメモ取りが乱れることの第一の要因は、しゃべっている人物がいい加減であると断定して差し支えなく、そう思うと議事録の文字起こしもいくらか気楽にできる。

「言葉」によるコミュニケーションは今のところ人類だけが行うことの出来る非常に便利なやり方であるが、話し言葉のコミュニケーションでは、実は表情とか声色とかしぐさとか、非言語的な要素の方がよほど「物を言っている」ように思えることも多い。
議事録の文字起こしではそういう非言語的な情報は基本的に全部省略されていて、そういう点から見てもメモをもとにした記録というのは甚だ不完全であると言わざるを得ない。

それやこれやを考えると、人の話を聞くときに一生懸命メモを取ってまでいろいろ残そうと試みるのは、何かちょっと無駄な努力であるような気がしなくもない。
だから今日のところはとりあえず、「メモ取らない派」にやや心が傾いている。
posted by ヤス at 08:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月16日

過去の自分が他人であることについて

知識労働においては、記憶がかなり重要な役割を果たす。
たぶんそうだと思う。
こうやって何かの文章を書く場合でも、数行前に何を書いたか、あらかた憶えておかないとなかなか前に進めないのは当たり前である。
だから文章を書く際のいちばんのポイントは、何はさておき早く書くことだ。

しかしそうは言っても実際にはそう上手くいかなくて、半分くらい書いた後、ふとした隙が生じて次を書き始めるまでに空白の時間が出来たりする。

それがちょっと、トイレの2〜3分ならどうということはない。
しかし、気分転換に昼メシでも行って来るかなとかして1時間も間が空くとやや大変なことになる。
さらに、その間が2日、3日と空いてしまうと致命的である。

前に何を書いていたかかなりの割合で記憶が喪失されている。
いや、再び書き始める直前まではけっこう憶えているつもりでいたりする。
「ああ、今日もアイデアがとめどなく湧いて来る感じだなあ」とか呑気に思っているのだが、いざ続きに取り掛かろうとキーボードに触れた瞬間、「はて俺は今まで何を書いていたのだろう」と、記憶を喪失していた事実に気付いて愕然とするのである。

そういうことで、目の前にある書きかけの文章を表示してパソコン画面をもう一度舐めるように読み取るのであるが、なるほど目の前の文章はそれで一通り頭に入れることが出来る。

「俺がこんなヘタな文章を作るとは、にわかには信じがたい」とか思いながら読み返すわけであるが、しかしそこで文章の表面的な意味は理解出来たとしてもその文章の裏側に込めていた意図のようなものまでは蘇って来ない。

この冒頭の段落を伏線にして驚愕の結論になだれ込むはずであったのか、あるいは冒頭はただのマクラで、途中話題を変えて驚天動地の場面転換が行われるのだったか、いずれにせよ傑作となるべきだった文章の続きが一向に記憶に蘇って来なくて困るのである。

今日の日本では、「記憶にある限りそういう事実は存在しない」という話法が用いられることもしばしばあるわけだが、個人的実感としても3日も昔の「自分」は従兄弟・再従兄弟(いとこ・はとこ)より縁遠い他人である、と心得るべきであろう。

実際問題として、過去の自分というのはほんとうの他人以上の他人ではないかと感じることすらある。
それは過去だけでなく、未来の自分が同様に他人であるのも当然である。

真の自分は今この瞬間にしかいなくて、数秒と置くことなく、隙間なしに「過去の自分」との別離は次々と進行している。

過去の自分の痕跡と向き合う時、そのようなことが感じられる今日この頃であった。

posted by ヤス at 14:31| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月15日

人生は運次第か

人の人生に「運」の影響が占める割合はどれくらいなのだろうか。
ここで考えておかねばならないのは、「運」ではない要素とはいったい何かについて明らかにしておくことだと思う。
単なる幸運や不幸ではないものは、その人の「実力」ということになるのだろうか。
その場合の実力とは何なのか。

最近思うのであるが、人というのは自分で思っている以上に「無意識的」に生きているものである。
そもそも「意識」というのは無意識的に生きてきた動物の行動をより的確に、精度高くするためにできた後付けのフィードバック回路であり、イメージとしては大きな無意識というエンジンに装着された小さなターボチャージャー的な補機である、と考えることができる。

実のところで言うと人生を駆動しているのは「無意識」なのであって、しかし人は、自分はあくまでも自己の意思によって自分自身を動かしていると勘違いしている。
少々人生の鍛錬を積んだ人間であれば意識のありようを適切にコントロールして「無意識」をある程度自分の都合の良いように変化させることも可能だろう。
しかし無意識を統御するのにも自ずと限度がある。
無意識を大部分、意識の支配下に置いておけるようなスーパーマンはおそらく存在しない。

そうなると我々の人生は、そもそも自分が持ち合わせている「無意識」の素性次第ということになる。

かつて元プロ野球選手の桑田真澄は、「自分の持っている才能は、努力する才能」みたいなことを言っていた。
この言葉をやや斜めに捉えるならば、人々がものごとに努力して人生を変えようとする営みですら、元々持っていた「才能」、すなわち無意識の素性によって左右されることになりはしないか。

無意識の素性は、幼少期から少年期に至る人生の最初の10年余りの間にある程度外部的に作り込みを加えることも可能なのだろう。
だがそういう幼い時期においては、本人の意思が介入できる余地はたいへん少ない。
無意識の素性がある程度固まった時点においては、その人がどれくらい頑張れるか、どれくらいの思考能力を持っているか、周辺の人々とうまくやっていけるのか、とかいう人生を左右するような諸要素もほぼほぼ固まっていて、その後の人生はそれらの無意識的諸要素によって勝手にドライブされることになりはしないか。

そんなふうに考えていると、人生の大部分は「運」によって左右されていると考えざるを得なくなるような気もする。
しかし他方で、そうではないような気も多少するし、そうであって欲しくないような気も大いにする。
その辺りはさらに掘り下げて考える必要があるようである。
posted by ヤス at 11:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2018年04月14日

人類史のおさらい

いつものようにYouTubeを眺めていたら、NHKスペシャルの人類の進化史の番組があった。
あるいはこれは違法アップロードであるかもしれないが、人類史はわたしの好物のひとつであるので観たのである。

人類がどのように今の人類になったのかというのは、なかなかに興味深いテーマである。
その科学的な研究が始まったのは、おそらく1800年代後半、件のダーウィンの進化論出版がひとつの契機であったことはおそらく間違いない。
ダーウィン以降、人間は猿から進化したらしいという当時としては革命的な考え方が生まれ、そこから各地で古人類化石の発掘研究が行われるようになったらしい。

だから人類史の科学的研究というのはせいぜい150年かそこらの歴史しかない、比較的新しい学問分野であると言える。
その人類史研究が最近になって革命的に「進化」しているらしいのであるが、その原動力のひとつが、DNA解析技術の確信であることもまた間違いない。

程度の良い人類化石の場合、そこからDNAを抽出解析するというような芸当もできるらしく、少し前に発表された現生人類とネアンデルタール人の混血の説などもDNA解析技術の進歩に負うところが大きい。

さらに化石が出てくる地層の年代特定の技術もこの何年かで急激に精度が上がっているそうで、だから人類史研究もこの何年かで面白い説が次々と出てきているのである。

で、冒頭のわたしが観たNHKスペシャルであるが、番組内では最近の人類史研究の最新の成果が盛り込まれていて、全体を俯瞰的に整理するのには非常によい番組であったと個人的には思った。

ということで個人的なおさらいとして、番組でも紹介されていた人類進化のポイントを少しまとめる。

まず200万年前頃、頑丈型猿人と非頑丈型猿人がいて、頑丈型はガタイが強かったが非頑丈型は噛む力とかも弱く、その代わり「道具」を使ってなんとか生き延びていて、結果、頑丈型は絶滅し非頑丈型の方が生き残った。

脳は小さいままで直立二足歩行を行なっていた人類の祖先は食物豊富な森林で暮らしていたが、気候変動で森林が少なくなって、たまにサバンナに出て行ってライオンの食べ残しとか、肉を食べるようになった。

その延長上で長駆獲物を追いかけて獲物のスタミナ切れを待って狩をするスタイルを確立し、それに最適化するために人類は「無毛」になって発汗によりマラソン能力が高くなった。
肉食の習慣化がエネルギー消費量の大きい脳の大型化高機能化を可能にした。

あと、他にもいろいろとポイントはあるのだが、もっとも衝撃的なのは「一夫一婦」の仕組みを確立したことである。
わたしは人類の基本はチンパンジーなどのような「乱婚制」であると最近まで信じていたのであるが、どうも人類はある時から一夫一婦になって、それが進化上有利に働いて今日に至ったらしい。
動物としての人間は「子供の期間」が極めて長いので、夫婦で協力して子育てに当たることがいろいろと有利であったらしい。
一夫一婦の痕跡としては「犬歯の退化」があって、メスを巡ってオス同士争うことが少なくなって、人類の犬歯は退化したらしい。

しかしそれにしても、人類における一夫一婦が生命進化の淘汰をくぐり抜けた「ちゃんとしたシステム」であったというのは、なんというか、驚きであり、これを受け止めるのに少々複雑な気分がする、と思った。
posted by ヤス at 13:38| Comment(0) | 徒然なるままに

2018年04月13日

反省の構造

日本の裁判では被告が反省の意を示してこれが認められると、情状酌量が考慮されて減刑されたりする。
このような裁判を行なっている国は、世界広しと言えど日本くらいのものであるらしい。
反省の意によって減刑が行われるというのは、個人的にも強烈な違和感がある。

そもそも「反省」というのは、ある個人の内部で完結すべき行いである。
それは基本的には、外部空間に対する物理的な作用を及ぼさない。
例えばある人が罪を犯したのだが反省して、外界に対する物理的な作用として自分の全財産を慈善団体に寄付する、みたいなことはあるかもしれない。
ただそのような寄付行為は、内的な反省とは区別して贖罪とか、つぐないとかの別分類にすべきもののような気がする。

「反省」とはあくまでも、自分自身の意思によって自分の行いを振り返り、それが良かったのか悪かったのかと自問自答することだろう。

だから夫が浮気をしたのが妻に見つかって、そのことに対し夫が妻に反省の意を示す、というのは本来あまり意味がないことになる。
ただ夫が反省の意を表示するのと並行して、妻にハンドバッグを買って贈るとか、なんらかの物理的な行いを敢行した時、それは単なる反省の範囲を超えて、妻にとって意味のある行為になりうる。
まあそう考えると、反省の言葉を口に出すとか申し訳なさそうな表情を顔面に全力で振り絞るとかいうのだけでも、妻の精神にいくらか変化が生じ、妻の脳内で各種の化学作用が働いていくらか物理的な現象につながる、そういうことがあるので言葉や表情だけでも反省してみることにはいくらか意味はあるのかもしれない。

「反省」とか「贖罪」とかいう概念は、やはり宗教的なバックボーンの中でこそより明確に理解できるのだと思う。
個人の中でただ一人自問自答的に反省するのと、その個人内部の奥にいる唯一絶対神に向かって反省するのとでは、その趣がずいぶんと違って見える。

やはり人間たるもの、自分の中で反省したらその気持ちを誰かに理解してほしいと思うのは人情だろう。
その時に、反省の言葉を聞いてくれる唯一絶対神があらかじめいる場合、反省行為は個人の狭い範囲で完結する可能性が高まる。
しかしそういう神様が不在の場合、反省の聞き手は周辺の人々もしくは「世間さま」ということになり、だから神様が不在の我が国における「反省行為」は、もっぱら個人と世間との間のやりとりになったのかもしれない。

したがって何かにつけて世間は個人に反省を促し、個人は世間に反省の意をアピールすることが横行することになる。

だがやはり真の「反省」は個人の内部で完結すべきものであり、世間を派手に往復している「反省の意」はなんだかまやかしに見えてしょうがない、などと思う今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 10:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月12日

財布はかさばる

普段出歩く時に必ず持って出るものには何があるか。
まずスマホ。
iPhoneはこの数年来欠かせなくなった重要装備のひとつである。
それ以外ではGPSウォッチをいつもはめているが、しかしこれは別になければないで構わない。
実際問題、ときたま腕にはめるのを忘れたまま出かけることがあったりするが、しかし腕に余計なものがくっついていない分、やや爽快な気分さえ感じる。
あと、財布。
別段、中身が大量に入っているわけではない。
まれに、一万円札はおろか千円札さえみじんも入っていないことさえある。
その場合財布に入っているのは数枚の小銭とクレジットカードなど。
しかし最近は田舎においても電子マネー決済がそこそこ普及してきたのでこれで困らない。

ところで今思ったのであるが、財布というのは中身に一万円札が数枚入っていようが数百円しか入ってなかろうが、その容積、重量にほとんど変化が感じられない。
わたしは現在、懐かしのイトーヨーカドーで購入した牛革製の二つ折り財布を使用している。
その財布の形態は二つ折り財布としてはごく一般的なものであると考えられる。
今現在中身を確認すると、千円札が2枚と小銭が10枚余入っているだけであるが、財布の厚みは目分量で3cmを優に超えているのではないか。

この膨らみ具合は、中に50万円ほど入れてますと言っても十分に通用するほどである。
ただ、この膨らみの主たる要因は銀行カードやクレジットカードなどのプラスティックカードが7〜8枚無造作に差し込まれていることによる。

とにかくも、iPhoneより腕時計より、財布こそが持ち物の中で相当にかさばって邪魔であることは言を待たない。
特にこれから夏の薄着シーズンに向かって行くと、その収納場所が相当に限定される。

しかも電子マネーの普及により財布の出番は最近極小化されつつある。
銀行のキャッシュカードだって年に何回出番があるかというくらいである。
銀行カードに関しては、急遽現金が必要な場合に備えたバックアップとしての意味しかないようにも思われる。
出かけて途中買い物したとしても、財布にノータッチで帰ってくることが多い。
しかし今のところ、かさばる財布を家に置き去りにして出かけるほどの思い切りも持てないでいる。

まあ近い将来、おそらくは今後5年以内に、早ければ東京オリンピック開催と時を同じくするくらいのタイミングで、世の中の現金決済があらかた電子化されて財布やクレジットカードの出番がほとんどなくなるのではないか。
そうなると、このかさばる財布を身につける必要もなくなり、軽やかにあちこち出かけることができる。
ただその場合、財布のメーカーや小売店は困ったことになるのかもしれないが、まあそれも世の流れだからしょうがない、などと中身の寂しい財布を見て思った。
posted by ヤス at 10:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年04月11日

好きの表明

さて、世の中には「ブランド物」と呼ばれるジャンルの商品群が存在する。
それは主にファッションの領域において、服とかバッグとか時計とかの身に着けて使うような物たちである。
なんか最近「女の価値を決めるバッグ」の大喜利的なムーブメントが話題を呼んで盛り上がっているそうであるが、しかしその人が身に着けた「ブランド物」というのは、その人の価値を決めるかどうかはともかくとして、その人物を知るための手がかりとしては有効であるのかもしれない。

以前芸能ニュースなんかで「シャネラー」と呼ばれる、全身シャネルで固めたタレントさんのことが話題になっているのを見たことがあるが、シャネルのブランドは「自立した女性」としてのアイコン的機能があり、また全身それで固めるには相応の経済力が必要であるので、そこにはそれなりに強力なメッセージが生じることになる。
そこまで強烈ではなくても、ハンドバッグだけはブランド物の一張羅とかいう人も多いのだろう。

わたしは、ファッション関係はトンと関心が薄くてよく分からない。
世の中のおじさんはだいたいそういうもんだと思う。
いまいちファッションブランドの感覚が分からないおじさんにとって、有名ブランドのバッグや時計に数万円あるいは数十万円またはそれ以上を投入する感覚というのはよく分からないがしかしなんとなくなら推測はできる。

ブランド物の効用としては、人格の拡張機能とか経済力の誇示とかいうことも想像されるのであるが、もうちょっと基本的なところでいうと「好きの表明」というのがあるような気がする。
ブランドに関する自分の嗜好を明確にする自己表現が、脳内である種のカタルシス作用を生じせしめて気持ちいいというのがあるのではないか。
これはテレビに出ているタレントのファンになることとほぼ相似の現象のようにも思われる。

人々のブランド志向というのは、まず人がそのブランドを「好きになる」ことと、好きになったことを「表明する」ことの二段階構造になっている。
そう推測する。
あるいはもっと言えば、何かを好きであることを表明するために、表明することを目的としてそこから遡って好きなブランドを無理繰り決めている側面もあるのではないか。

ブランド物の世界に関し、そういうことを少し考えたりした。
posted by ヤス at 12:21| Comment(2) | 徒然なるままに