2017年05月29日

慣れてくると事故しやすい

大昔、運転免許を取りに教習所に通っていた若かりし頃、クルマの運転はちょうど慣れてきた頃がいちばん事故を起こしやすい、みたいな話を聞いたような気がする。

車の運転は慣れていないと、次はクラッチを踏んで、そしてミッションをセカンドに上げてとかいうことをいちいち明示的に考えながらでないと上手くいかない。(マニュアルミッション車の場合です)
つまり運転の手順を「運動能」とも呼ばれる小脳で処理するのでなく、大脳でいったん言語化して考えることが必要である。
どうも動作手順をいちいち言語化して処理していると、小脳と大脳のやりとりの「コンパイル」に若干の時間がかかる。
動作がワンテンポ遅れるためにクルマの動きもギクシャクする。


しかしそういう動作がギクシャクしている時期よりも、ある程度小脳で処理が完結し動きがスムーズになった方が事故の可能性が増えるとしたら、それはどうしてだろう。
これは今適当に思いついた想像であるが、たぶん運転経験がまだ多くない段階で運転処理を自動化すると、危険事象の発生時に対応するパターンの当てはめを間違えることがあるからだろうと思う。

かなりの程度経験を積んだ段階では、例えば横から突然歩行者が飛び出てきた場合に「ブレーキをかける」「ハンドルを切ってよける」などの回避動作が大脳と小脳のコンパイル作業抜きで出来るようになっている。
しかし経験少なく、危険対応の回避パターンが小脳にインプットされていない場合、突然の出来事に小脳はフリーズするか、あるいはその時点でふと我に返って大脳で時間をかけて言語的に対応を考える、ということになると思う。


クルマの運転に限らず、少し慣れてきたがまだ経験値が少ない段階、というのは他のいろんな場面でも起こりうる。

あるいは、十分長いこと運転して慣れている人でも、突然田舎から都会に出てきて交通状況が変わるとかいう場合には、まるで初心者のようにとまどうこともあるかもしれない。

話はずいぶんと飛ぶのだけれど、今の日本という国家の置かれた状況、これもこのクルマの運転に喩えることが出来はしないか。
「日本」は戦後長いこと平和国家として安全保障のことをほとんど考えずに経済成長に専心してきた。
この数十年間、国家としての行動についてほとんど明示的に意識すること無く半ば自動運転で来たのではなかったか。

石油ショックとかプラザ合意後の円高とか、高度成長の延長線のさらなる効率化路線で乗り切ったのも、そこには言語化された思考はあまりなくただ自動的にそう対応したようにも見える。

しかし最近の20年くらいでいろんな状況が凄まじく変わった。
特にこのところ隣の方の国から定期的にミサイルが飛んできて、弾着点がだんだんこっちに近づいている。
こういう今の状況は、従来の延長線上の自動運転では上手く乗り切れないと思う。

しかし日本では、今までの数十年の小脳的学習パターンを相変わらず当てはめようとする傾向が強すぎはしないか。
特にわたしのようなオジサン世代以上の人間はよくよく自戒しないといけない。
その辺が日本の混迷の理由ではないか、と思ってみたりした。
posted by ヤス at 16:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月28日

上から目線

「上から目線」というのは、いつ頃から使われるようになった言葉なのだろう。

案外昔からあるような気もするし、しかし頻繁に使われるようになったのはこの10年くらいではないか、という感じもする。
しかしこれがちょっとネットで調べたくらいではわからない。
おおよそ2000年代以降の流行り言葉だろう、というのがネット上における共通見解のようである。

この「上から目線」は、敬語や丁寧語を操り、見えない社会階層によって各個人の立場が知らぬ間に規定される日本ならではの言葉であるように思われる。
一般に、日本では年齢が上であるとか、組織上の立場が上とか、社会的地位が上とか、いくつかの序列構造を参照して個人間の上下関係がかなり厳密に規定される。

少し難しいのが、年齢は下だが組織上は上司という人物、こういう場合部下であり年上である「私」としてはどのように振る舞うべきか。
ある程度家族的で親密な雰囲気の中小企業のようなケースでは、上司部下や年齢の上下関係なくタメ口を言い合うことができる。
しかしあんまり親密でない大組織で、しかも「年上の部下」がそれなりの職務経験を積んでいる場合、かつ上司の押しが弱い場合は、状況によっては「年上の部下」の方が「上から目線」になることがあり得る。

そのような現象はしばしば組織のアキレス腱になりかねないので、昔の日本では概ね年功序列が標準パターンとして定着していた。

会社組織などに上司部下の関係、いわゆる階層構造というのがあるのは、それがスムーズな意思決定を促し組織の効率性に大きく影響するからである。
大佐や少尉、軍曹などの階層がちゃんと決まっている軍隊と、みんな平等で「上司」のいない軍隊では、たぶん階層のある軍隊の方が強い。

日本の社会は組織効率上必要な階層構造がほぼ年齢によって決まるという自動的な仕組みで出来上がっており、これは東アジアの儒教圏ではだいたいそうなっているのだろう。

「上から目線」というのは、このように自動的に規定されている「見えない階層構造」を破壊する危険行為なのである。たぶん。
だから身の程知らずに偉そうにする輩は、非常に嫌われる。
また下々に位置する人間は、階層構造の確認のためにわざわざ謙譲語を使いへりくだってみせる。
このような位置付けの「上から目線」がこの10年、20年ほどの間に頻繁に使われるようになったのはなぜだろう。
あるいは社会のありようが年齢よりも実力本位のウエイトが大きくなり、従来の組織秩序維持の視点からは許容範囲を超えるようになった、ということなのだろうか。

しかしいずれにしても現代の日本では「上から目線」が嫌われる状況は依然として続いている。
その点をちゃんと覚えておかなきゃなあ、と改めて思った次第です。はい。
posted by ヤス at 10:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月27日

ブーメラン

最近ネットニュースなどで「ブーメラン」という言葉をチラチラ目にする。
結論から言うと、わたしはこの言葉が嫌いだ。

これは典型的には、民進党があることで自民党批判をしたら過去に民進党にも同様の失敗があって、自分が発した批判が自らに帰ってくる、そんな場面に使われる。
直近では、加計学園問題で民進党が自民党を追求していたら、過去に民進党議員も加計学園の認可を強硬に後押ししていた事実があって、晴れてブーメラン成立。
これを使っているのは、一部のネット民とマスメディアでは主に産経新聞あたりである。

流行り言葉というのは、流行っているからこそ使うという側面がある。
最近は流行り言葉の寿命もだいぶん短くなっていて、旬を逃していつまでも使っているとただの痛い人だ。
だから流行りに鈍感なおじさんは、あまり調子にのって使わない方が身のためである。
ただブーメランというのはただの流行り言葉でもない。

これはある種の省略表現である。
民進党には過去に何度もブーメランを起こした実績がある。
だから「民進党またブーメラン」と言えばそれだけで全てが了解される感じがある。

だから少し頭の弱い一部のネット民は好んで使うことになる。
とりあえずブーメランと言っておけば敵に痛撃を与えた感じが出せるから便利なのだ。

ただ少し前にネットニュースで「今度は自民党がブーメランか?」みたいな記事を見かけたこともある。
あまり考えるまでもなく、一般に批判の応酬がなされる場面では、発した批判が自らに帰ってくるというのはかなり普遍的な現象である。
例えば「あなた今嘘つきましたね」と批判した場合、ほぼ全ての人類は過去にいくらでも嘘をついた経験があるはずであるから、ブーメラン批判を気にしていたらそういう指摘はできなくなってしまう。

それが例えば公式の政治的な場であるならば、その指摘された嘘にのみ焦点を当てて真摯に議論すべきである。
決して批判者に対して「ブーメラン」で返すべきではない。
「お前だって嘘ついたことあるだろう」と返すのは、ただのバカで政治家の資格はない。

しかし現実には、日本の政治の場、あるいはメディア報道などではこの手の批判返しが横行していて暗澹たる気分になる。
まあ最近は日本だけでなく、国際的にそういう感じなっているのかもしれないが。
あるいは昔から日本の政治はその程度のものだったのだろうか。
誰か教えて欲しい。
posted by ヤス at 13:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月26日

日本人の保険好き

日本人は保険好き、というのをよく聞く。
最近ではアメリカで、健康保険強制加入の制度であるオバマケアを巡って一悶着あったが、ああいう騒動も日本では起こりようがない。
健康保険なんていうのは最初から入るのが当たり前の日本人と、できることなら保険はなるべく入りたくないアメリカ人の違いだろう。

保険には健康保険以外にも生命保険とか損害保険とか、宇宙ロケット打ち上げの際の保険とか、色々ある。
わたしもできることなら保険にはあんまり入りたくない人なので、保険のことにはとんと疎いのであるが、しかし少し保険商品について思いを馳せるとその大まかな分類が頭に浮かぶ。

健康保険とか、生命保険とか、あるいは失業保険などもそうだと思うが、これは来るべき不幸に備えるための保険である。
病気にならなかったり失業しなければそれでやれやれだけれど、世の中的には結構な割合で病気になったり失業したりする。
ただそれで保険に入ったからといって保険が病気を防いだり失業を事前に阻止したりするものではなく、そうなった時にいくらかの金銭的な補償があるというだけのことである。

つまりそうなった時にせめて金のことで悩む可能性だけでもあらかじめ封印しておこう、というのが不幸に備える保険商品であると思われる。


それに対して、ロケット打ち上げの保険とかはリスクチャレンジを後押しする性格を帯びた保険である。
銀行からお金を借りる時の保証制度による保証料などもその種の保険であると言えなくもない。

これらのリスク保険は、頑張って何かにチャレンジする時、当然そのチャレンジはかなり無理をしているのでそこそこの確率で失敗する可能性があるわけだが、失敗した時に「全損」にならないようにするためのものである。
このようなリスクチャレンジを後押しするタイプの保険があるおかげで、世の中の進歩が促進されるご利益がある。

どちらかというと、欧米的な保険の発想はこっちの方なのであろう。
しかしどうも日本で保険というと、前半に述べた不幸に備えるタイプのものがスタンダードになっているような感じがする。

日本人は世界各国に比べると、抑うつ傾向が強く心配性であるとか不安に対する耐性が弱いとかいう話もあるのでそういう関係なのかなあとも思う。

もう一つ欧米諸国で不幸に備える保険が人気がないことの理由として、将来の安心よりただいま現在の現金の方が大切だということもあるのだろう。
通常は生命保険でも健康保険でも、毎月けっこうな金額を支払わないといけない。
保険制度に対するそれなりの信頼がないと払えないような金額である。

日本人の場合、自然環境と調和し、周囲のそこかしこに八百万の神様を感じて生きている国民性であるので、「仕組み」に対する「漠とした信頼」のようなものがいつの間にか醸成されているのではなかろうか。

保険の仕組みに限らず、世の中の大きな仕組みに無条件に依拠する傾向というのが日本人には強いのではないか、と少し思ったのである。
posted by ヤス at 09:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月25日

猫動画の流れ

この2〜3日、YouTubeで猫動画をよく観る。
猫動画のついでに犬動画も観る。
以前にも少しはまった時期があったので、今回は自分的に第何次かの猫ブームである。

しかし猫動画を観ていると、時期ごとに多少傾向の違いがあることに気づく。
以前に猫動画業界を席巻したジャンルとして「猫鍋」があった。
土鍋をさりげなく机の上に置いておくと、猫が勝手に鍋に入り込んで、鍋の円形に沿って丸くなるというアレである。

しかし今回猫動画をいくつか観ていて、YouTubeが「お勧め」してくるのに猫鍋動画はひとつもなかった。
この業界も、トレンドの流れは早く激しいものらしい。

逆に少し目についたのに赤ん坊を守る猫シリーズみたいのがあって、人間のお母さんが人間の赤ん坊に触ろうとすると、猫がお母さんと赤ん坊の間に割って入ってお母さんの「暴力」を阻止するというものだ。
これには犬版もあって、また赤ん坊についても生後数ヶ月の本当の赤ん坊以外にも3〜4歳くらいの大きくなった子供版もある。

そこでは3〜4歳の子供に対してお母さんが素手またはスリッパで叩く素ぶりを見せる。
もちろんお母さんは本気ではなく動画用のやらせである。

お母さん(もちろん人間の)が子供をスリッパで叩こうとするジェスチャーを見せると、それに気づいた猫(または犬)がお母さんのスリッパを持った手に飛びついてこれを阻止しようとするのである。

こういう動画は、いちばん最初は世界のどこかで本気で子供を叩こうとしているお母さんがいて、それに飼い猫が反応して阻止された、という事件が偶然に発生し、その一件で猫が子供を守ろうとする習性に気づいたお母さんが子供を叱るのそっちのけで「事件」を再現して動画に収め、YouTubeで配信した、というのが始まりではないかと想像するのである。

で、この、猫が子供を守ろうとする動画に触発された人で家に猫と子供がいる人々が、次々とこれを模倣し、素手で叩くのにスリッパを加えたり子供の方も大げさに怖がるふりをしたりの過剰な演技を加えたりで、だんだんバリエーションを加えて全世界的に広がっていったのであろう。

いや、最初は犬が子供を守る動画だったのが、猫でやってみたらやっぱりちゃんと反応したよ、ということだったのかもしれない。

犬が先か猫が先はともかく、ネット動画の世界にはこのようにある動画に触発されて自分もそれに乗っかる、それが次々と連鎖してひとつのジャンルになる、という流れが出来上がっているようだ。
しかもこれらの動画は英語も中国語もロシア語もあって、猫動画や犬動画における共感は国境を越えて世界共通のものなのだなあということが改めてわかる。

最近の世界にはテロなどのきな臭い事件も多いが、一方でネットによって国境を越えて気持ちがなんとなく繋がる、という流れがあることは結構重要ではないか、とも思ったりするのである。
posted by ヤス at 08:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月24日

電子的なメールに関するストレス

20年以上の大昔、ほんの一瞬期間だがパソコン通信をやっていた。
知人から、ニフティサーブというのがあって便利だと勧められて始めたのである。
モデムをアナログ電話回線につなげて、「ジー、ガリガリー」といかにも今通信やってますという大げさな音がする方式が懐かしい。

ニフティでは「電子メール」も使っていた。
といってもメールの相手は3人くらいしかおらず、今のように迷惑メールが毎日何百件も届くことももちろんなく、かなり静かなメール生活ではあった。

で、その後1995年に日本でもインターネットが始まり、間も無くニフティをはじめとしたパソコン通信サービスも次々と終了してしまった。
その頃であろう、「Eメール」という言葉を聞くようになった。

どうも「電子メール」と「Eメール」はひょっとして違うのかもしれない、というぼんやりとした疑問が生まれたのはその時からである。
実際のところ電子メールとEメールは違うのだろうか。
かつてのわたしは、仕事の場面で「じゃあ今度電子メールで送っときます」とか言うたびに、本当は、ここはEメールと言った方が正解なんじゃないか、とどこか不安で自信なさげだったように思う。

時代が少し降って現在に近づくどこかの地点で、いつのまにか電子メールにしろEメールにしろ単に「メール」と呼ぶ人が多くなって、わたしの不安によるストレスも随分楽になった。
楽にはなったけれど疑問が解消したわけではなかった。

で、今さっき思い切って電子メールとEメールの違いをググってみた。
驚くべきことに、これは世間的にはほぼ同じもの、というのが通説のようである。
なんだどっちでもよかったのか、と今更ながら思った。

多分電子メールという言い方は、ニフティやPC-VANのサービス名をそのまま引き継いでおり、Eメールというのはパソコン通信でないインターネットメールのこと、という使い分けが当初はあったのではないか。


ところで、最近はLINEとかFacebookメッセンジャーとか、普通のPCメール以外の通信手段がたくさん増えている。
LINEやFacebookだと、主たる送受信デバイスはスマホになるのでより手軽に使える。
あるいはスマホに着信通知があるから電話的に即時性の高いやりとりができる。

実際、最近は2〜3行で済むような軽めのメッセージのやり取りではめっきりPCメールを使わなくなった。
これは手軽にできるかどうかというのもあるが、PCメールでは冒頭に

「○○様 いつもお世話になっております」

みたいな時候の挨拶的な一文を入れないといけない雰囲気があってそれが重い、というのが案外理由ではないかと思う。

これはEメール黎明期に、Eメールが手紙の代替としてあったことが原因だろう。
本当に、あの冒頭の「お世話になっております」みたいな一文は書くのも読むのも面倒臭い。

ということで最近は、PCメールにおいて「○○様」も「いつもお世話になります」も可能な限り省略している。
まあそれはそれで、いきなり要件から入るメールを受け取った人はどう思うかな、とほんの少し不安に思ったりして、このように「電子的なメール」に関する不安のタネは尽きないのである。
posted by ヤス at 14:05| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月23日

無理好きの本能

さて、いつも同じことばかり書いているような気もするのだが、人間というのは、無理をするい生き物であると思うのである。
無理をするというのは、野生動物にはない「自我」の働きによるものであろう。
野生の世界では無用の無理はしないのが決まりである。
しかし人類は無理をすることによってDNA的生物進化とは別系列の人工的進化の道筋を手に入れた。

今、日本の陸上競技界では日本初の100m10秒切りが話題になっている。
100m競技の最初の公認世界記録は、ウキペディア情報によると1912年の10秒6であるらしい。
思ったよりも速い。

そこから56年後、メキシコオリンピックで9秒9の記録が生まれ、100年ほど経過してボルトが9秒58というのを出した。
人類は100年かけて100mの記録を1秒縮めたわけだ。

陸上競技でも水泳でもその他のスポーツでもそうであるが、競技の一線で活躍するには厳しいトレーニングは不可欠である。

そしていつも思うことだが、特にタイムなどの記録を競う競技の場合、世界記録は時とともに確実に少しずつ向上している。
マラソンは2時間切りを目指し、100m走は次は9秒4台がターゲットになるのだろう。
現代人はどちらかというと確実に野生生活からは遠ざかり、体力的には厳しくなっているような気もするのだが、しかしスポーツの記録は上がる一方。

これは走り方のフォームやペース配分、スタートのテクニックなどの技術系の知見が積み上がり、そして同時にトレーニングの技術も進化しているからだ。

そしてスポーツのトレーニングはある種究極の「無理」であると思う。
トレーニングの進化というのは、「無理」の仕方の進化である。

人類は、もはや狩をするために速く走る必要もなく、ただ移動するなら自転車やバイクだってある。
しかし記録のためだけに、科学技術も総動員していろんな種類の「無理」をするのだ。

マラソンのトレーニングも、疲労骨折とか怪我をしないギリギリまで追い込んだ「無理」をした選手がオリンピックなどで勝利を得る。

人類の社会でこのように各種のスポーツが盛んなのは、人類の「無理好き」が反映されているような気がする。

おそらく人類の「無理好き」は本能的なものである。
ふとした瞬間になんとなく無理してしまうのが人間というものではないか。

そして現在日本で議論が巻き起こっている「働き方改革」にも、このような人類の「無理好き」本能に関する考察が必要ではないか、とも少し思うのである。
posted by ヤス at 12:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月22日

日常のリスク

YouTubeにはいろんな動画がある。
中に「動物系」というのか、野生動物の生態を捉えたようなジャンルもある。
この間観ていたら、たぶんアフリカだろうか、サバンナの池のほとりにハイエナらしき黒い犬みたいな影が10頭くらいたむろしている。
そして池の水際にはイノシシが1頭、水を飲んでいる。

ハイエナの群れとイノシシの距離は10mくらい。
けっこう大きいイノシシだが、ハイエナが束になって襲えばイノシシに勝ち目はあるまい。

しかしハイエナは襲おうとしない。
お腹が一杯なのだろうか。
と、思っていたら池の水面にスーッとワニの背中が浮かんできてイノシシの背後でピタリと止まった。
しかしイノシシは気が付いてない。

次の瞬間、ワニはイノシシにかぶりつき、あっという間に水の中に引きずり込んだ。
そうしたらどこから湧いてきたのか、別のワニが数匹出て来てそのイノシシに好き好きにかぶりつき始めた。
しかしハイエナの群れはその激闘を横目に何事もなく平然としている。

というだけの動画である。


イノシシの歴史において、このような水辺でワニに襲われる事件はもう数限りなく発生したことだろう。
にもかかわらず、動画のイノシシはあまりにものんびりと水を飲んでいた。
生物進化の方向として、水辺では極端に臆病になるような、ちょっとした水音に驚いて飛び上がる方向への進化というのはなかったのだろうか、と、どうでもいいが思った。

しかし考えてみると、水を飲むというのは多くの野生動物にとって欠くべからざる必要な行動である。
イノシシの日常においては、餌を食い水を飲むというのが重要な大部分を占めるであろう。
とすると、しょっちゅう水は飲まねばならないのに、そこでいつもビクついていると返って精神衛生上よろしくないかもしれない。
多少のリスクには目をつぶって、のんびりと水を飲んだ方が良いということがあるのか。
そもそも水辺でワニに捕食される確率というのは、せいぜい1%くらいとか、あまり高くないのかもしれない。

それならば、100頭につき1頭の犠牲は無視しても健康上必要な量の水を心置きなく飲んだ方がイノシシ集団全体としては合理的な選択と言えるだろう。

ということを思ったのだが、以上のことはわたしの個人的な想像であって、イノシシの実態に合っているかどうかは知らない。

人間世界においても、道を歩けば事故に遭うとか、日常行動にもいろんなリスクがあり得る。
前述のイノシシに関する想像から、日常的にあるリスクをあまり気にし過ぎるよりは、多くの場合でリスクは無視した方がいろいろと精神衛生的によいよなあ、ということを連想したのだった。

ちなみにハイエナは、ほとんど水は飲まなくて平気らしい。
ハイエナがいちばん賢い、と少し思った。
posted by ヤス at 15:53| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月21日

小さい誤解の積み重ね

コミュニケーションは難しい。
当たり前の話である。
しかし最近の情報化社会では、その難しさがさらに加速している。

まず、コミュニケーションの総量が増えている。
現代では目の前にいる人と話す以外にも、電話をしたりメールやラインをしたりしてコミュニケーションをする。
さらに、今に始まった事ではないがテレビや新聞・書籍やネットから膨大な量の情報が流れ込んでくる。
そういう一方通行的な情報の流れも、ある種のコミュニケーションであるように思われる。
そのようなメディアから流れてくる情報を受け取るコミュニケーションにおいて、今はフェイクニュースとかあって、意図的に偽の情報を刷り込む、というようなことが多く生じるようになった。

我々現代人は、ただでも電話やメールやラインで次々に流れ込んでくるメッセージを処理しないといけない。
そんな忙しい中では情報判断もかなり瞬間芸的なものになり、いちいち時間をかけてフェイクニュースの見極めを行うことは困難である。


コミュニケーションの難しさ、言い換えると「コミュニケーションの失敗」というのは、「誤解」が元で生じる。
メッセージを発した人は「A」の意味で伝えたのに、受け手側は「B」とか「A’」とか少し違うふうに解釈する。
その解釈のズレが許容範囲内であればコミュニケーションは成立するが、「A」を「Z」くらいに解釈するような大きな誤解が生じると非常にまずい。

昔の国語の授業で「方言の難しさ」みたいのがあった。
「この書類を保管しておいてください」という指示を受けた人が、多分その受けた人は関西人だったのだろうか、「この書類をホカしておいてください」と受け止める、みたいな話だった。
そんな冗談みたいな誤解が実際にあるのかどうかは知らないが、メッセージの発し手と受け手のやり取りはそれくらいに危ういものである、という説明にはなっているようである。

しかし考えてみると、「A」を「Z」に間違うことは滅多になくても「A’」や「B」くらいに間違うことはしょっちゅうあるような気もする。
というか、ほぼすべてのコミュニケーションには、必ず多少の誤解が生じているに違いないとさえ思うのである。
情報の発し手と受け手では、人生経験も価値観も必ず多少は違う。
その間のやりとりにおいて、デジタル的に1mmの狂いもなく情報伝達が成功するというのはまずあり得まい。

これを前向きに考えると、DNAの複製ミスが何万年も積み重なってちょっとづつ生物進化が生じるように、コミュニケーションにおけるごく小さい誤解がたくさん積み重なって、ある種の「新しい概念」が生まれているのではないか、という気が少しだけする。
その「新しい概念」がどういうものかは、言葉ではうまく表現できない。

こういう時こそ誰かに適切な誤解をしてもらえればいいのではないか、とちょっと思った。
posted by ヤス at 10:52| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月20日

擬似的に超える体験

さて、再びマラソンの2時間切りの話。
今月の初めにイタリアで行われたナイキのマラソン2時間切りに挑戦するイベント「ザ・ブレーキング2」であるが、このイベントでケニアのキプチョゲ選手が2時間0分25秒で走り、目標まであと25秒まで迫った。
このイベントではランナー3人に対しペースメーカー30人が入れ替わり立ち替わりで入り、急カーブと風の影響を極力排した周回コースという「非現実的」な環境で行われた。

だからこの記録はもちろんマラソンの公認記録にならないし、イベントで出た記録に対する批判の声も出ている。
例えばドーピング検査の有無。
このイベントは公式レースではないので当然ながらドーピング検査が行われていないのだろう。
多分3選手はドーピングはしていないような気がするのだけれど、しかし今のところそういう情報は伝わってこない。

このイベントでは3人のトップランナーに対し、日本円で5千万円以上の「参加賞」が出ているらしい。
しかも2時間切りを達成したらボーナス1億円というのもあった。
またこのイベントはナイキのシューズの販促という目的があったので、主催者であるナイキ側としてもドーピングを止める積極的な理由はない。

このようにお金が絡んだ中ではドーピングの動機は十分にある。
しかし一方でドーピングしてしまうと「人類の限界を探る」というイベントの趣旨が台無しになる。
そこのところはどうなのだろうと思った。


わたしは昔競泳をやっていて、練習の時に半分遊び・半分本気で足にフィンをつけて泳ぐことがあった。
フィンをつけるとものすごく速く泳げる。
自分の実力が一気に3段階くらい上がる感じになって、異次元のスピードを体感できる。
しかし水泳でもなんでもそうだと思うが、たまには自分の実力をはるかに超えるスピードを体感する、というのはそれなりに役に立つことだと思う。

フィンをつけているという「ズル」はあるものの、しかし擬似的にせよ実際に速く泳ぐ体験をすると、脳みそ的にはまるで実力で速く泳いだかのような錯覚に陥る感じがある。
速く泳いだことの「体験」によって、自分はもっと速く泳げるという気分が生まれる、脳内のある種のブレーキを外す作用が生じるような気がする。

冒頭のマラソン2時間切りの挑戦イベントも同じで、「ズル」をしたとはいえ人の足で2時間で走ったという事実はそれなりに重い。

たとえ「ズル」をした擬似的な体験とはいえ、自分の実力をかなり超えた体験をしてみるのは意味があるような気がする。

そういうことでいうと、月へ行った宇宙飛行士なんかは科学の力を使って「生身の人間」の実力をはるかに超えたわけで、本人はもとより人類全体に与えた精神的影響というのはかなりあっただろう。

というようなことをちょっと考えた。
posted by ヤス at 11:20| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月19日

捨てる痛み

多くの人間にとって、何かを得る喜びよりも何かを失う悲しみの方が大きい、そういう話をたまに聞く。
だからなのだろう、物が捨てられなくてだんだん家が狭くなるという現象はかなり一般的のようである。

わたし自身を振り返ってみてもなかなか物が捨てられない。
この間も、自分的にはかなり思い切ってもう長いこと着ていない服をいくつか廃棄処分した。
もともとわたしは、仕事の時以外は大抵ジャージとTシャツで生きているので、それ以外の服は本来ほぼ必要ではない。

しかし長く生きていると、さほど必要でもない服が、いつの間にかたまっている。
ユニクロで買った2千円くらいの上着とか、つい出来心で買ってしまったようなものなどである。

それで少し思い立つことがあって、そういうのをばさっとまとめて捨ててみた。
今まで不要の服が占めていた空間が解放されて、確かに家の中がスッキリしたように思う。

しかし服を捨てるときに、胸の奥にかすかな「痛み」を感じたのは確かである。
週に2回あるゴミの日に、そういう痛みを感じることはない。
人間は、ゴミを捨てるときには痛みを感じない。
しかし日常の品を「ゴミ化」するとき、まだ実用に耐えるものをゴミに変換するときに、心に痛みを感じるものらしい。


TV番組などでアイドルが先輩の要らなくなった服を後輩がもらうみたいな話を時々している。
これは職業柄、私服も新しいのをどんどん導入していないと次の握手会に行けない、みたいなことがあって、しかし家の収納キャパシティには限界があって既存の服を処分しないといけない。
そういう時は捨てるのはストレスになるので誰かにあげてしまおう、ということなのだと思う。

服以外では書籍も捨てられないものの最右翼であろう。

ということで、服にしても書籍にしてもリサイクルショップができていて、不要のものを引き取ってくれる仕組みができている。

そう言えば先日来、ブックオフの経営悪化のニュースが流れている。
これは中古品ビジネスそのものが縮小したのではなくて、ブックオフの顧客がネットオークションに流れていっている結果らしい。

ブックオフには定期的にマンガなどを持ち込む固定客がいるのだろう。
そういう客は、少しでも高く売れるほうがいい。
手間を考えてもネットで売ったほうがよさそうなら当然そっちに流れるだろう。

しかしこの場合買取価格の高低だけが集客要素になって、それだとリサイクル業者的には厳しいのではないか。
もっと、物を手放す時の心の痛みを考えた商売を考えたほうがいいんじゃないか、とふと思ったのだが、もう考えてやっているところもあるのかもしれない。
いずれにしても、ものを捨てるのはなかなか大変だと思った。
posted by ヤス at 10:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月18日

寿命について

昔は人生50年といった。
現在の人間の平均寿命は、日本では80歳くらいのものである。
しかし他の動物では長生きするのがいるらしく、ある種類の魚は400年とか生きるというのがネットニュースで流れていた。
なんでもニシオンデンザメというサメの仲間らしい。

しかもこれは野生生活における寿命が400歳ということである。
野生動物では、怪我をしたり病気をしたりして五体満足で無くなると、おそらく生きていくことが難しいだろう。
そう考えるとこの寿命400年というのは、人間でいうところの健康寿命と考えて良いのではないかと思う。
それなりの活力を保ったままの寿命400年。

もし、人間が元気で400歳まで生きられるとしたらどうなるのかと少し想像した。
もっと卑近に自分があと300と何十年か生きられるとしたらどうか。

これはあるいは、今よりももっと怠け者になってしまうのではないかと思った。
現在の人間の寿命が80年くらいというのは、やはりそれなりに意味がある。
わたしの場合で言えば、平均寿命の真ん中をもう過ぎている。
今後の医療の進化を考えると、思いがけず100歳くらいまで元気に生きることができるかもしれない。
しかし平均余命の統計データからすると、あとせいぜい30年と少しくらいがいいところである。

死にかけるような大事故や大病を経験していないと、歳をとってもなかなか己の寿命の限界というのを実感できないもののようである。
しかし多くの人は平均寿命の折り返しを過ぎたあたりから、なんとなくではあるが「デッドエンド」の存在をぼんやりと感じるようになるのではないかと思う。


しかし、人間の平均寿命というのはなかなか絶妙な年数になっている。
何かを成すには短く何もしないには長いとはよく言ったもんで、しかし人は永遠に生きられないからこそ生きているうちにやりたいことをやってしまおう、と思うのだろう。
人間の行動が動機付けられる根底には、人はいつか死ぬというシンプルな理屈がある。

しかもそれが300年とか500年でなくてせいぜい100年足らずというのが非常に良い。
微妙に焦る年数である。
もし人間の平均寿命がニシオンデンザメ並みであれば、今の社会の様子も相当に違ったものになっていたのかもしれない。

あるいは寿命が50年とか80年とかいうのに合わせて、人間は行動の選択をしているのかもしれない。
ということえ当たり前のことであるが、寿命のタイムスケールが人間の行動に与える影響はかなり大きいというのを、ちょっと思った。
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2017年05月17日

私への理解

最近YouTubeを見ていて、その中に「ガイジン」が日本で暮らしていて感じることをレポートするのがあったのだが、そこでガイジンさんが「だいじょうぶです」「けっこうです」「いいです」などの使い方が難しいというのを言っていた。

英語表現では「Do you need this?」と尋ねられたら、要るときは「Yse」要らなければ「No」と答えれば良い。
しかし日本語の場合、「これ要る?」と尋ねられたら、どちらかというと直接的に「要らない」とはなかなか言わない。
たいていの場合、「だいじょうぶです」「けっこうです」「いいです」などという。
しかしこれらの表現は、表面的な意味としては「Yes」である。

そこの使い方が日本語ネイティブでないガイジンさんには難しいらしい。

よく考えてみると、このような表面的に肯定的な表現で否定の意味を伝える方法は、コミュニケーションとしてはかなり回りくどい。
家族や親しい友人同士なら、「要る?」「要らない」というシンプルな問答が成立もするのだろうが、少し対人関係の距離が離れると、そういう直接的なやりとりが困難になるようである。

例えば「けっこうです」についてである。
本来の「結構」は、「非常に」くらいの意味なんだろうと思う。
「結構なお味です」「結構なお値段」とか、「非常に」「ものすごく」など程度がすごいようすを表すと思われる。

それが否定に使われるときは、「ビールもう一杯どうよ?」「結構です」というのは、「もう結構な量をいただいたので要らないよ」というニュアンスを略しての「結構です」なのではないかと思う。
ただ直接否定の答えを返すと相手に申し訳ないというのがあって、結構な量をいただいて満足したよ、だからもう要らないよ、というのを伝えているようである。


しばしば日本人は単一民族であると言われる。
実際、言語的にも文化的にもまあまあ全国共通していて、その意味では日本人同士なら相手の腹の中はだいたい想像できそうなものである。
逆に言語や文化・宗教など様々なバックグラウンドの人でできている社会では、相手が何を考えているのかわからないことも多かろう。

相手のことが比較的わかる日本においてコミュニケーションが婉曲に、優しい感じになって、わからない人同士の社会で直接的になるのは、どういうことなのか。
わからない同士では、他に解釈の余地がないようにスッパリやりとりした方が誤解が生じない、逆にわかっている同士では、「そこのところわかってよ」という感じのやりとりになる。

つまり日本的なコミュニケーションは、「私への理解」を相手に強いる部分があるのだと思う。
こういうことは外国であっても、例えば企業同士のやりとり、外交的な駆け引きなどではままあると思う。

で、日本ではそういう高度な駆け引きを日常「庶民同士」でやっているのに、企業や国のレベルの駆け引きが必ずしも上手くないのはどうしてだろうか、などとちょっと思ったのでした。
posted by ヤス at 10:34| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月16日

暖簾

「暖簾」と書いて「のれん」。
よく見ると、漢字が「暖かいすだれ」になっている。

そこのところが少し気になった。
ちょっと調べてみると「暖簾」というのは「凉簾」とペアの言葉で、昔、店先に夏は日除け、冬は寒気除けにかけた布が起源であるらしい。

これは想像であるが、昔はお店の建てつけが良くなくて、出入り口の引き戸がスムーズに開かないことが多かったのではないか。
それだとお客の出入りのたびに引き戸が引っかかってストレスになるので営業中は戸を開け放し、その替わり目隠しに入り口に布を垂れ下げた。
それが、冬は寒くないように外からの風を防ぐ布、夏は陽をさえぎって暑さを防ぐための竹で編んだ簾をかけたのだろう。

お客が出入りし、通りからも良く目に入る「暖簾」はやがて看板がわりになり、また営業中を示す「記号」になって今日に至ったものと想像する。

最近の暖簾は、地面に届くような長いタイプの、その由来通りに寒風を防げそうなものはどちらかというと少数派のようである。
それよりは、顔にかかるくらいの高さのやつを片手でひょいとめくって店内に入る、そういう短いのが圧倒的に多い。
そして暖簾は布製で屋号が書いてあって、営業開始とともに店主が店先にセットし、営業終了とともにしまう。

そうなるともうそれは元々の「暖簾」ではなく、そこから派生した機能であるところの屋号看板と営業中を知らせる記号としての意味がメインとなっている。

これは多分、建物の建てつけも良くなり、また自動ドアなども発明されてお店のドアの開け閉めが便利になったからではないか。
営業中の店では入り口は必要な時だけ開ければ良いので、そこに風除け日除け機能は必要ない。

したがって記号的な機能だけが残ったのだろう。

さらに。

「のれん」は会計用語にもなっている。

最近では東芝や日本郵政が、「のれん代」をめぐって巨額の損失を相次いで出した。
この場合、あの店先にひらひらしている小さな布切れに数千億円の値がついていたというわけでは決してない。
WH(ウェスティングハウス)はアメリカの会社なので、会社の入り口に「のれん」を下げたりはしていないものと思われる。

話が逸れた。

「のれん」というのは、現代ではそもそもの機能や使用目的からは幾分変性し、その店の評判や営業の内容を表す記号になっているようである。
ある意味そういう抽象概念を「暖簾」という物体に仮託することによって、「のれん」を大切にしようという意識が芽生える、ということで「のれん」はおろそかにできないのである。

と思った。
posted by ヤス at 10:37| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月15日

五月病

このあいだ新年が開けたと思ったのに、もう5月の半ばを過ぎた。
5月というのはなかなかに微妙な月で、いちおう、年の中盤に差し掛かる頃合いであると同時に、4月から始まる「年度」でいうとまだ2ヶ月目で、その点一年の真ん中辺なのかまだ年が始まったばかりなのかが混乱する感じがある。
と、個人的には思う。

日本には五月病というのがあって、英語でいうとMay Bluesとなるらしいが、海外ではどちらかというとSeptember Blues=九月病の方が深刻らしい。

五月病というのは、わたしはあまり人並みの就職活動とかしていないので、経験した記憶がない。
五月病は、世間的には新しい会社に4月に入って、ゴールデンウィークで一息ついたところでまた仕事を始める時の憂鬱をいうらしい。

科学的な視点からは、5月は急に暖かくなったり気候が変わる時期でもあり、そこに職場環境などの変化が重なって体調を崩すことがありうるそうだ。
周辺環境の変化というのは、どうも人類にとっては十分なストレス原因になるようだ。

ただ、気温の変化などでいうと3月や4月もそこそこ気候変動が激しいように思うので、やはりそこは4月始まりの年度変わりに起因する社会的な変化の方が、ここ日本ではより重大なのかもしれない。


考えてみると生き物にとって生活環境の変化は、時に命に関わることもある重大事である。
動物園のような餌つきの「恵まれた」環境ならいざ知らず、野生で生きる動物は環境が大きく変わると、暑さ寒さへの対応とか餌の取り方も変えないといけないとか、大変そうだ。
人間の場合、服を着たり火を焚いたりして温度変化に対応する、植物でもお肉でも「何でも」食べる食生活の柔軟性がかなりある。

自然環境への対応を他の生き物以上にうまくやったその代わりに、社会的な変化というのが人類にはあって、就職する、定年退職する、新しい職種につく、地方の支店に飛ばされるなどいろいろある。
動物であった頃の自然の変化に苦労した記憶からか、おそらく人間にとって「変わる」ということそのものが大きなストレスなのである。

もう一つ、五月病が病気になるほど深刻なのは、本人の心構えがあまりないこと、「環境が変わるぞ」という意識があまりないままに変化に翻弄されることがあるような気がする。
環境変化に対してアクティブに飛び込んでいくのか、後手後手に回って翻弄されるのか、そのあたりの変化に対する心構えが五月病の原因ではないか、と思ったりした。
posted by ヤス at 16:52| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月14日

人間と器

大器晩成などと言って、「器」という字はしばしば人間の才能とか人間性そのものの意味として使われる。
「器」の通常の意味であるところのコップや茶碗やお皿など「食べ物などを盛る入れ物」としての意味と、人間の才能の意味はどの辺で繋がったのだろうとふと考えた。

入れ物としての器は、当然ながら大きいものや小さいものがある。
そこから「人間の器」の意味で、「器が大きい」「器が小さい」というふうに使うようになったのだろうか。

しかしなぜ「器」なのか。

昔の中国思想、特に老荘思想で器について言及している。
老荘思想的には、器の本質は器本体の硬いところではなくて中身の空洞部分であると考える。
同様に家で大事なのは立派な屋根や壁面ではなくて、人間が入って生活できる中の空間である。
というのは、いかにも老荘的な考えだと思う。

しかし改めて考えてみると、中の空洞に本質が存在するような「器」的なもの、というのがこの世にはたくさんある。

例えば自動車である。
自動車には鋼鉄製のボディにエンジンとタイヤなどが付いていて、中にシートがあって人が乗る。
エンジンが何馬力だとかサスペンションの動き具合がどうとか、専門雑誌では世の自動車の性能の高低や運転の味わいなどについてさんざん語られている。

しかし人が乗らない無人の車、例えば将来実現化が予想される無人運転の輸送用トラックについて想像してみると、これは人間が乗らないので、乗り心地が悪かろうがどうだろうが、積載している荷物と走行中の周辺に悪影響がなければどうでもいい。

自動車の評価というのは、搭乗する運転手や乗客との関係において発生するものであることが改めてわかる。

そういえば湯飲みや茶碗などの「器」においても、そこにお茶や食べ物を入れること以外に、その器を使う人間の存在というのがある。

器の「性能」評価としては、その器の空洞部分に食べ物が必要なだけ入るかどうかということのほかに、それを人間が使う時に使いやすいか、心地よいか、ということもあると思った。

自動車の評価には、馬力や最高速度や燃費性能などの「スペック的な性能」と、人間が乗った時の「感じ」、運転の気持ちよさやシートに座ったりハンドルを操作した時の気分の良さなど「人間が感じる性能」の二つがあるようである。

それは食器の方の「器」も同様で、その茶碗の最大容量や水漏れしないことなどのスペック性能とは別に、その茶碗を手に持った時の持ち心地、料理が入った時の美味しそうな感じなど人間が感じる部分がある。

元に戻って、「人間の器」の場合であるが、人間の場合も知能指数や100m走のベストタイムなどスペック的な性能と、それとは別に他人との関係における他人がその人に感じる部分、というのがあるだろう。

まあどうでにいいことだけれど、つらつらと思ってみた。
posted by ヤス at 10:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月13日

そもそも論

言葉というのは時代とともに少しづつ変化して行くものであろう。

最近「まるっと」という言葉をよく耳にし、または文書中に見る頻度が増えている気がする。
「まるっと」は、使用されている文脈から考えて「丸ごと」「全部」などの意味に相当すると思われる。
この言葉の語感が、個人的にはちょっと最近風の新しい感じがしたので、これは若い世代の、例えば高校生あたりで広まった新語なのではないか、と今まで思っていた。
それでさっきネットで検索してみたら、「まるっと」は別に新たに造語された言葉ではなく、各地で方言として見られるものであったらしい。

この事実にはやや驚いた訳であるが、「まるっと」は従来はローカルな方言であったものがその語感の新しさ、使い勝手のよさなどから次第に使う人が増えてきたということのようである。

「まるっと」は先に述べた意味の他に、語感的に「するりと」「スムーズに」というようなニュアンスが感じられる。
そのように個人的に勝手に思っている。

したがって、
「蛇が獲物を「まるっと」飲み込んだ」
という場合の飲み込み方は、比較的短時間に何の引っかかりもなくするりと飲み込む情景を想像するものである。
やや例が悪かったかもしれない。

とにかくも、「まるっと」には「丸ごと」に「スムーズ」をプラスした複合的な意味合いが感じられ、だからそういう意味のことを言いたい時にこの表現をつい使いたくなる、ということになる。

言葉というのは時代とともに変わる。
今までにないモノが誕生したら、当然そのモノを意味する新しい言葉も生まれる。
スマートフォンは古くはBlackBerry、今はiPhoneやAndroidの携帯電話を指す言葉である。
多分その辺から始まったと思うのだが、「スマート」なんとかという表現が少し以前から増殖している。

これは「スマート」という接頭語表現にいつからか今風の意味合いが付加され、それを世間の多くの人がひしひしと感じていることから広まったものだろう。

言葉が時代によって変わるというのは、その言葉に大多数の人が共通のニュアンスを感じることによって生じる。
そもそも言葉というのはそれを使う人々の間でそのような共通了解がないと話が通じないのが前提だからまあ当たり前である。

さて、「そもそも」についてのニュースが今流れている。
「そもそも」の意味には大辞林では「どだい」の意味があり、「どだい」には「基本的に」の意味があるという三段論法によって、「そもそも」にはそもそも「基本的に」の意味があったことが閣議決定されたという。

「そもそも」に「基本的に」の意味があることに、多くの人は共感するのだろうか。
この場合は、辞書遊びでなく世論調査でもした方がやり方として正しいような気がするよなあ、と思ったりした。
posted by ヤス at 09:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月12日

中国製品の品質

最近、Amazonサイトをウィンドウショッピングがてらチラチラ見ていると、その商品のかなりの割合が「中国製」で占められていると感じる。
また、商品が中国製で販売者は国内ということではなくて、中国の業者が直接Amazonで注文を取って中国から発送するパターンが増えているようにも思う。
実際はどうなのだろう。

そう思うのは、あの商品説明のたどたどしい「日本語」である。
いかにも絵に描いたような「中国訛り」の日本語が説明に書いてある。

わたしは野宿癖があって、一人用のテントとかキャンプ道具を見るのが好きなのだが、最近のテントは昔に比べると恐ろしく安い。
少し前に一人用のコンパクトなテントを買ったのだが、それもたどたどしい説明文の中国製であった。
値段は7千円ほどだが、一人用とはいえ重量はたったの1.4kg。

20年以上前に買った一人用のテントは、これは多分日本製だったと思うけれど、ややスペックは異なるが値段は2万円以上で重量は2.5kgくらいあったと記憶している。
それで現在の7千円のテントが安物で使い物にならないかというと、機能的にも品質的にも十分以上。
組み立ても簡単でアルミ製のポールは破断などの心配はなさそうだし、材質や縫製、防水シーリングもちゃんとしている。

Amazonにはモンベルやアライテントなど有名ブランドの製品も3万円とか4万円とかそれ以上の値段で売られている。
しかしコストパフォーマンスを重視するのなら中華ブランドで十分だろう。

一方でAmazonの製品レビューを見ると、「中国製」に対するアレルギー的な書き込みがかなり目立つ。
「買ってみたら中国製でがっかりした」
「中国製だったので予想通り早々壊れた」
などなどの意見である。

確かに、中国製の製品には明らかな手抜き商品や詐欺的不良品が大量に混じっていて、そういうのに何度も当たるとうんざりするのは理解できる。
しかし一方で、値段と機能・品質のバランスが、日本製では逆立ちしても真似できない水準の製品が存在するのもまた確かである。

中国の国民性などから考えて明らかな粗悪品が近い将来市場から一掃されることは考えにくい。
しかし前述のテントの例や、スマホのファーウェイや最近の中国製自動車の品質向上の流れなどを見ると、中国製=粗悪品と単純に言える時代は終わりつつあるように思われる。

心配なのは、日本の製造業とか国の産業政策がこのような現実をちゃんと認識しているかどうかだ。
日本製工業製品を盲目的に信用し無邪気に選択できる時代は、その圧倒的な価格差を考えても、すでに終わっているなあと、改めて思ったのでした。
posted by ヤス at 15:28| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月11日

軍拡の流れ

さて、心配されていた北朝鮮危機問題であるが、どうも今の状況を見る限り杞憂に終わったようだ。
中朝関係悪化のニュースを見るに、どうも中国による北朝鮮への「教育的指導」が強く行われているようでもある。
もしそうならこれはトランプ外交の成果ということになるのかもしれない。
まあ、事の真相はまだよく分からない。

しかし世界情勢は相変わらずきな臭い状況が続いている。
財政の悪化から大幅軍縮に向かっていたアメリカもどうも路線変更の様子であるし、ウクライナの件で経済制裁を受け、さらに原油価格の低迷で倒産寸前だと思っていたロシアも軍備拡張には余念がないようである。

それらの背景には中国の急速な軍備拡張があるのだろう。
中国では中古の旧ソ連製空母導入に次いで、ついに国産空母の建造にも着手している。
中国の空母は運用ノウハウも艦載機の性能も実用化には程遠いというのが大方の専門家の見方であるようだ。

実際その通りなのだろう。
しかし、予算と時間を投入すればいずれ中国はそれなりの空母運用国になりうる。
後10年もすれば、中国はアメリカに十分匹敵する軍事力を手にするかもしれない。

このまま行けば世界は新たな軍事対立の時代を迎えることになりそうだ。

米ソ対立時代は膨張する軍事費がソ連を国家解体の憂き目に追いやり、アメリカの財政も悪化した。
第二次対戦前も世界は軍拡と財政悪化のジレンマに悩んでいて、ワシントンやロンドンの海軍軍縮条約など海軍艦艇隻数の制限を行ったりしていた。

近年の軍縮は核兵器削減や生物化学兵器の制限、地雷やクラスター爆弾の制限など、主に人道上の理由を主眼に行われることが多いようである。
しかしロシアはもちろん米中にとっても、財政健全かの観点から軍事費の膨張を野放しにはできないのではないか。

実際最近の兵器開発では、コスト削減の謳い文句がよく聞かれるような気がする。
40兆円とも言われる新型ステルス機F-35の開発費削減をトランプが言及したり、ロシアでは新型戦車の車台を装甲戦闘車や自走砲と共通化するプロジェクトを進めている。
プラットフォームの共通化というのは、何やら最近の自動車メーカーのようであるが、これによって開発された新鋭戦車T-14は1両の値段が4億円強で、これはかなりコストダウンに頑張った日本の10式戦車に比べても半分以下、量産で安くなったアメリカM1などに比べてもさらに安い。

これは全くの想像であるが、ロシアは今シリアで活発な軍事行動を行なっているわけだが、これはひょっとして色々とコストダウンした自軍の新兵器が実戦でちゃんと役に立つか実験したかったのではないか、そういう気がする。

世界が軍拡の方向へ行くのは見ていてあまり気味のいいものではない。
また、軍備増強は最終的にその国の経済を疲弊させるというのは歴史が証明しているように思う。
わが国がこの流れに悪ノリしないことを願うばかりだと思った。
posted by ヤス at 10:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月10日

松本城

さて、松本城についてである。
5月1日の松本市は昼過ぎまでシトシトと雨模様の天気だった。
空もどんよりと曇ってどことなく寒々しい感じの中に、黒っぽい五重の天守はそびえていた。

松本城はいわゆる現存12天守の一つで、12天守では唯一の平城である。
姫路城は周囲より一段高い丘の上に建てられているが、松本城は平地の上に石垣を積み上げた天守台を造ったその上に立っている。
そしてその本丸周辺を幅の広い水堀が囲っている。

また松本城天守は現存では姫路城と並ぶ五重天守であるのだが、3階部分に中2階的な構造があって内部は6階になっている。
そういうことで、黒い外観とも相まって下から見上げるとかなり迫力がある。
高さは25mほどだそうで、姫路城の31.5mよりは幾分低いが見た目の迫力は姫路城以上のように思う。

その迫力の理由として、ひょろりと細長くそびえた天守に寄り添うように小天守が隣接し、また下部構造に月見櫓などが付属しているせいで、建物群の下回りが分厚くなっていることがあるように思った。
また全体に屋根の勾配なども直線的な感じで非常に男性的な雰囲気が漂う。
その点も姫路城と好対照である。

しかも見る角度によっては、背景に白い雪を背負った日本アルプスが見晴らせる。
松本城は外から眺めていて全然飽きないのである。

しかしながらこの松本城、天守の造営年がよくわかっていないらしい。
1591年から1615年頃までの諸説があって、松本城の公式ホームページでは1594年説を採用している。

1594年といえば本能寺の変から12年、秀吉の没年の4年前、関ヶ原の6年前。
なかなか微妙な時期だ。
1592年に始まった朝鮮出兵の最中(休戦期間中)でもある。

ちなみに姫路城の大天守は関ヶ原の後、播磨が家康の勢力圏になった後の1601年頃から工事が始まったらしい。
この場合、西国大名に対する抑えという目的であろう。
松本城の場合はどうか。
松本城が黒いのは秀吉派の城として建てられた証だともいう。

秀吉時代の大阪城も、宇喜多秀家の岡山城も黒い。
松本城も岡山城などと同時期の1590年代に建てられた可能性が高いと思う。
また松本城は本丸広場の東の端に建てられ、つまり建物は東を向いている。(のだと思う)
つまり秀吉一派の城として東の家康を向いて建てられたと想像する。
まあこの想像は全然違っているかもしれないが、松本城は予想以上に立派な城で、見てよかったと思った。
posted by ヤス at 14:44| Comment(0) | 徒然なるままに