2017年04月06日

北のミサイル発射

北朝鮮で昨日、「スカッドミサイル」とみられる弾道ミサイルが発射された。
スカッドはソ連時代に開発されたかなり古いタイプのミサイルであるらしい。
ロケット燃料は液体式のため発射準備に1時間くらいかかるのが難であるが、移動式の発射台に乗せる方式のために相応の隠密性も持つという代物である。
各種のタイプがあるが、最新型の最大射程は700km程度で1t弱の弾頭を投射することができるようだ。

当初、北朝鮮が発射したミサイルはKN-15、通称「北極星2号」と呼ばれる中距離ミサイルであるとアメリカは分析していたようだ。
KN-15は射程2000kmの固体燃料ロケットを使用する中距離弾道ミサイルで、従来の液体燃料式ミサイルより脅威度が高い。

今回は訂正が入ってスカッドだった、しかも打ち上げはどうやら失敗だったらしいということで、果たしてこの発射実験がどの程度の脅威と評価されるのか、やれやれ良かったとなるのか、いや予断を許さないとなるのかはなんだかよくわからないところである。


日本の国会が森友学園問題で紛糾している一方で、朝鮮半島情勢はかなり緊迫度を増している。
北朝鮮としては、なんとか米国本土に届くミサイルを開発したいらしい。
少し前までは、北朝鮮のミサイル開発は荒唐無稽な独裁者のホラ話のように思っていたが、この数年で彼の国のミサイル技術は目に見えて上達しているようである。

彼の国のミサイル技術は、9000kmの彼方にある米国本土まではまだ到達できていないようである。
しかし射程1000km程度の中距離弾道弾技術に関しては、ほぼほぼ実用化の域に達している。
かねてより北朝鮮は日本国内各地にある在日米軍基地を攻撃目標とすることを喧伝しているが、少なくとも日本全土については、北のミサイルは射程距離の範囲に収め終えたということらしい。

国内の某右派系メディアによると、米国情報筋では今後4年以内に北朝鮮はアメリカ本土を射程に収める核ミサイルを開発可能と分析しているらしい。
その米国本土に届く核ミサイルを交渉材料にして、北朝鮮はアメリカとの交渉、キム王朝の存続を賭けた交渉を行う腹づもりであるらしい。

で、アメリカとしては自国に核ミサイルを突きつけられる事態は何としても避けたいと考えているだろう。

色々想像するのであるが、アメリカとして最も効果的で、効率的で、現実的な対策は、王朝の御本尊を「中立化」すること、王朝三代目を消してしまう以外にないようである。

ただし中立化のミッションは、一つ手順が狂うと在日米軍基地にめがけて何発ものミサイルが飛んでくるということになりかねず、恐ろしく困難を極めることになりそうだ。

問題は、この半島情勢の一大事に当たって、韓国では大統領が失職し、日本では国内問題で政権のガバナンスが揺らいでおり、アメリカの大統領は手腕が未知数なあの人物であるとか、色々とあいにくの条件が重なっていることである。

そういうあいにくの条件も北の計算のうちに入っているのかもしれず、背後には中国も動いているのかもしれないが。

半島情勢を巡る不安な情報が、国内右派メディアの煽りであってくれれば良いのだが、今回はどうもそういうことだけではないように思う。

本当に、朝鮮戦争は未だ終戦していないのだと思うのである。
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2017年04月05日

東芝について

森友学園の問題で他のいろんなニュースが霞んでしまっているようであるが、原発関連の巨額損失の東芝がさらに大変になっている。

当初見込まれていた損失がさらに膨らんで、1兆円を超える特別損失が出るらしい。
東芝は、どうやらこの損失額がなかなか確定しなくて、2016年度の第3四半期決算を2度延期しているが、どうやらこのまま行くと再々再延期が不可避である。
たぶん上場廃止も現実味を帯びてきたのではないか。

まあ上場廃止になったからといって何がどうなるということもないだろう。
株式市場経由の資金調達が出来なくなるとか色々あるみたいだが、粉飾決算と今回の巨額損失によって現時点で実質的な上場メリットはほとんどなくなっていると思う。
だからもうとっとと上場廃止になって、もう少し落ち着いて半導体事業の売却なりに取り組んだ方が得策だと思うのだがどうなのだろう。

というか、いっそのこともうこのまま倒産してなくなった方が日本経済のためにはいいような気がする。

東芝の事業には、半導体をはじめとして事業としては存続可能なものもいくつもあるようだ。
だから18万人いるという従業員も、全員は無理でもそれなりに雇用は継続可能だと思われる。

これまでの一連の問題で、東芝は現場の事業というよりは経営部門のガバナンスが相当に劣化していることが明白になったのであり、そうであれば継続可能な事業をよそに移して「東芝という経営組織」を消滅するのが最も手間がなくていい。

しかし問題は、「東芝という経営組織」の本人たちは、どちらかというと事業部門はどうでもよくて、かつて土光敏夫も社長を務めた栄光の「東芝という経営組織」だけは無くしたくないと思っているだろうことである。

なんというのか、いつのまにか目的と手段が入れ替わっている。
会社というのは事業を行うことが主な目的であって、経営組織は事業を効率的に円滑に行うための手段だろう。
東芝のような上場企業のばあい、経営者というのは事業運営のために雇われたサラリーマンであり、経営組織が限りなく小さい会社というのはあり得ても、事業部門が限りなく小さい会社というのはあり得ない。

東芝の場合、当事者本人たちが自ら自決の道を選ぶということは無理そうなので、誰か周辺にいる金融機関なりが引導を渡した方がいいような気がするのだがどうなのだろうか。
posted by ヤス at 11:12| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月04日

てるみくらぶ

旅行会社の株式会社てるみくらぶが先月の3月27日に倒産したのは大きなニュースになった。
負債総額は151億円、うち旅行申込者の分が99億円だという。

わたしは旅行代理店の業界事情に疎いのでよく知らないのだが、てるみくらぶは1998年に母体となる旅行会社、アイ・トランスポート株式会社から分社したものらしい。
1998年といえばインターネットの黎明期、世界的にも航空チケットの予約を携帯電話から気軽にやる、という時代ではない。

アップルの初代iPhoneが発売されたのが2007年だった。
おそらく世の中的に旅行の段取りをネットで行うというのは、会社組織の場合はPC経由でやることもあったろうが、個人レベルでネット化が進んだのはiPhoneの爆発的普及以降ではないかと推測する。
iPhoneの販売台数が、2011年頃に累積で1億台を突破する感じであって、2012年に単年で1億台突破、2015年に単年2億台を突破している。
時を同じくしてサムスン他のライバル勢も大挙してスマートホンを販売しており、2010年前後にスマホが普及期を迎え、買い物や旅行予約などにも活用されるようになったのではなかったか。

てるみくらぶは、多分この世の中のスマホ普及の流れに乗って業容を拡大したのだろう。
しかしスマホの普及はてるみくらぶ的にはもろ刃の剣の側面があって、てるみくらぶの仕入れ元であるホテルや旅行会社も、閑散期の空室・空席のディスカウントセールをネット経由で直接できるようになって来た。
多分1990年代後半から2000年代の前半頃までは、ホテルや航空会社は直販の手段を持っていなかったので、空室・空席は旅行代理店に卸売処分するのが最も合理的だったのだろう。

そうやって考えてみると、ホテルや航空会社からのディスカウント仕入れによる格安旅行代理店のビジネスモデルは、早晩崩壊することは目に見えていたとも思われる。
まあ分かっていてもなかなか方針転換ができないのが事業経営の難しいところなのかもしれない。

今後はブロックチェーン技術の進展や人工知能の進化・普及によって、あるいは旅行代理店業界が、業界丸ごと消滅するのではないかという予感さえする。
そう考えると、てるみくらぶは、なまじ頑張って売上を拡大しながらの自転車操業を後1〜2年でも続けていれば今回よりさらに被害が拡大していたことは確実で、会社というのは倒産しないようにギリギリまで頑張ることも大切であるが、見切りの際の諦めの良さというのもまた重要であると思う。

新規に登場したビジネスモデルというのは、確実に儲かる期間は実に短く、多分今の時代ではせいぜい5年も持てばいい方じゃあないだろうか。

だから新規で立ち上げた商売は、3年とか5年ごとにガラッとモデルチェンジをする前提で組み立てる必要がある。
特に格安旅行代理業のような、時代のうねりの中から出てきたものは特にそうだろう。

まあ、会社というのは適当に倒産して次の新しいのが出てくるのが正しい資本主義経済のあり方であって、どこかの大企業のように公的支援を得てゾンビ化するよりは健全なことであるなあ、と思った。
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2017年04月03日

幸福度調査

世の中には幸福度調査というのが各種ある。
例えば「全47都道府県幸福度ランキング2016年版」が東洋経済新報社より刊行されていて、それによると1位の県は福井県である。
そして2位が東京都。

単純に都会は便利とか田舎の方がのんびりしていい、というものでもないらしい。

この種の幸福度調査は国際的なものもあるが、おそらく調査方式には客観方式と主観方式がある。
一人当たり所得や社会インフラの整備、就業環境の評価などを外部からの目線で点数をつけるのが客観評価。
それに対し、「あなたは幸せですか?」と直接その住民に聞いて回るのが主観評価。
多分その2種類の方式に分かれる。

冒頭に書いた都道府県幸福度ランキングは客観評価であろう。
客観方式のランキングでは、国際的なものとしては国連の「世界幸福度報告」がある。
一方でちょっと前のハフポストに紹介記事が出ていたけれど、アメリカの世論調査会社ギャラップ・インターナショナルが行なっている「世界幸福度調査」は主観評価のようである。

客観評価である国連の報告では、2016年版の1位はデンマーク、2位スイス、3位アイスランドと続く。
ちなみに日本は調査対象国157カ国中の53位だ。
そして主観評価のギャラップ社の報告では、1位がフィジー、2位がフィリピン、3位が中国。
日本は調査対象国66カ国中の25位らしい。

幸福度調査の中身については、いろいろな分析記事が出ている。
主観評価では、経済成長の続いている発展途上国が上位に来やすいとか、主観評価では社会インフラが整備されていて高福祉、かつ高所得の北欧諸国が軒並み上位に来るとかある。
ここではそういう調査内容の分析には立ち入らない。
それをするには時間がかかるし、そのエネルギーを投入するほどランキング結果に興味が湧かないからである。

それよりもなぜ幸福度調査なるものがこの世に存在するのか、その理由を知りたいと思う。

まず調査方式における客観評価と主観評価では、個人的には主観評価こそが正しい幸福度調査のやり方だと思う。
世の中には、年収300万円でも幸せな人もいれば1億円稼いで不幸せでイライラしている人もいるだろう。
確かに住居や食事や余暇時間などの生活環境は人生にとって重要な要素であるが幸福を決めるのはそういう物理的状況だけではない。

また昨日幸せでも今日は不幸になるかもしれず、「幸福」というのはあらゆる意味で相対的であやふやで、物理条件よりは心の持ちように左右されるものだろう。

だから所得的にも住環境的にも豊かな先進国の住民が、しかし社会的に孤立して不幸のどん底を味わっているような状況をあぶり出すには、幸福度調査は主観評価で調査対象に直接ヒアリングするのが正しいように思われる。
まあ、ただその結果出てくるのは、聞かれた本人にとっても甚だ謎な「幸福」についてのなんとなくの答えであるが、それが統計的なひとまとまりの量になればそれなりに意味はあるのではないか。

ただこのように幸福度を調査するという姿勢自体が、戦乱や圧政でそれどころではない状況では絶対に生まれてこないと考えられ、こういう調査を熱心にやる人たちこそ、そこそこ気持ちの余裕があってそこそこ幸せな人たちのような気がした、というと、やや身もふたもないのだけれど。
posted by ヤス at 11:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月02日

共感は危険か

昨日は4月1日で、エイプリルフールの日であった。
インターネット以降、毎年この日は世界的にさまざまな「嘘ニュース」が流されるのを目にするようになった。
しかし気のせいであろうか、昨日のエイプリルフールは例年に比べて嘘ニュースの勢いが弱かった気がする。
これはどうもこの一年ほどの間に、たとえエイプリルフールでない日であろうと、たくさんのフェイクニュースが流れるようになったせいじゃないか、と無理やり想像する。

しかし考えてみると、インターネット化に伴うフェイクニュースの増大というのは、ある意味必然だったような気もするのである。


戦国時代の梟雄、毛利元就は、安芸の国のほんの一部を領有する弱小領主であったが、数々の謀略を巡らして大内氏や尼子氏など周辺の有力大名を滅亡に追いやって中国地方を統一した。
謀略の多くは、敵方の内部に「嘘の噂話」を流して敵将と有力家臣の信頼関係を寸断するものだった。

もし毛利元就の時代にインターネットがあったら、元就はネットを最大限活用し、いろんなフェイク情報を流して宿敵を撹乱したであろう。


選挙制度を土台にした民主主義政治の権力闘争では、情報戦の勝利こそがその本質だと考えられる。
その昔は、ラジオやテレビなどの放送媒体、新聞や雑誌などの紙媒体を押さえることが最重要課題であった。
そこに1990年代にインターネットが出てきて様子がかなり変わった。

ラジオ・テレビにしろ新聞・雑誌にしろ、これらは放送会社や新聞・出版社というそれなりの大組織が編集制作して世間に向かって流す。
そのようなメディア組織はほとんどすべて営利企業であり、経営トップを頂点にそれなりの組織的まとまりを持っている。

だから政治が情報をコントロールするためには、極論すればメディア会社のトップを手懐けることが出来ればそれでよく、あるいは人的な関係に依らなくても資本関係や商取引の流れに介入することでも良い。

それがインターネットが出てきて、メディア会社からマスの大衆に情報を流す、という「安定した情報の一方通行状態」がかなり様変わりした。
個人単位で、ある時は自らブログを書いたりあるいはネットで見つけた情報を「リツイート」するようになった。
それなりに知名度のある個人の場合、その影響範囲は大メディアと互角であったり、個人的信奉に支えられている分、かえって影響力が大きかったりもするだろう。

このような時代の「情報操作」は、メディア会社に対する直接的介入ではなく、個人や組織を問わずさまざまな情報発信者がひしめく「情報市場」に対する操作でないといけない。
それはせっせと「草の根的フィエク情報」をネット社会の底辺から流し込む方法であったり、あるいはその草の根フェイクに整合する振る舞いを、それがたとえ客観的事実とはっきり違っていたとしても、自信満々に情報操作者が徹底することだったりする。

ポイントは、大衆個々の思想に響くような情報を流して共感を呼ぶことだ。

人間の持つ「共感」機能は、本来社会を平和に維持し楽しく気持ちよく生活するために重要だと思う。
しかしフェイクニュースが飛び交う現代社会では、人々は不用意に共感すると思想的に「操作」される恐れがある。
メディアやネットで何かの情報を見たら、あるいは友人や会社の同僚との会話でも、まずその情報がフェイクではないかと疑ってかかるべきである。

だから現代人の思考の基本は、「共感」は危険で「疑心暗鬼」こそが正しい態度である。

そういうことで現代人は毛利元就や斎藤道三、または宇喜多直家の「毒饅頭戦法」などの手法を勉強し、努めて実践するべきなんじゃないか。
なんかいつの間にか大変な時代になったような気がするのである。
posted by ヤス at 08:58| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月01日

銃剣道

わたしはミリタリーオタクを自認している。
中でも専門分野は第二次大戦中の軍用機だ。
旧帝国海軍の零式艦上戦闘機やライバルのF6Fヘルキャットなどについてはそれなりに造詣が深い。
(自分で言うのもなんだが)

あとは陸上兵器の花形である戦車についてもそれなりに興味はある。
第二次大戦においては、やはりドイツ軍とソ連軍の戦車はそれ以外の国のものに比べて戦闘力が頭一つ二つ抜けている。
量的にも質的にも絶対的な工業力を誇ったアメリカ軍でさえ、凡庸な性能のM4シャーマンを投入するのがやっとであった。
そこへ行くと我が旧帝国陸軍の戦車の戦闘力はさらに貧弱だったことは否めない。
大戦中の帝国陸軍の主力戦車は有名な97式中戦車だ。

1938年正式採用のこの主力戦車は、登場時は国際的な水準でそれなりの性能であったと思われる。
しかし、ドイツやソ連が熾烈な地上戦を行ううちに次々に新型戦車を繰り出し、米英もドイツ戦車に対抗すべく新型車を開発したのに対し、帝国陸軍の主力戦車は結局最後まで97式だった。
と言うのも帝国陸軍の大戦中の全戦車の生産数は4千5百両ほど。
対してソ連とアメリカは両国とも8万両近く生産した。

当時の日本は、工業力から見ればほとんどつま先立ちでギリギリ無理をして戦っていたわけで、製造のために大量の鋼材を使用し、また戦場での運用にも莫大な補給が必要な戦車の使用はかなりしんどかったものと想像する。


さて、ミリオタの世界には銃火器マニアというのもいる。
銃火器マニアはカタカナに直すとガンマニアともいう。
これは軍用機や戦車とはやや趣の異なるジャンルのような感じがする。
わたしの高校時代の友人にも、かなり重度のガンマニアがいた。
彼は高3の時、ただただ銃をぶっ放したいという理由で自衛隊を目指した。
その後の彼の消息を知らないが。

しかし銃というのは、戦闘機や戦車と違って「身体の一部感」とでもいうような特殊な感情を沸き起こらせる何かがあるのかもしれない。
銃以前には刀がそうであったように。

そういう銃の持つ「身体の一部感」は、いろんな戦争映画でも時々描かれているように思う。
アメリカの銃規制が困難なのは、市民が武装して国家権力に対する対抗手段を持つべきだという「個人の武装権」によるものだが、もう一つは銃保持者の銃に対する「偏愛」性向のようなものがあるような気がする。

さて、この度の「新学習指導要領」で中学校の保健体育で教える武道の一つに「銃剣道」が加わったらしい。
銃剣道は1980年以来国体競技でも実施されており、学校で教える武道としてもふさわしいという判断のようである。
銃剣道で使われる「木銃」は全長166cmで、大戦中の旧軍主力小銃の「38式歩兵銃」に「30年式銃剣」を装着した長さを模しているとのこと。

旧軍における銃剣術の印象は、貧弱な補給能力、戦場における乏しい弾薬をカバーするための、「弾は無くてもまだ戦える」ことを無理やり信じ込むための方便、というのが個人的なイメージだ。

今回銃剣術が学校武道に登場したのは、一つには先に述べた銃に対する「偏愛」を持つ人々の意向が強く働いた、そしてもう一つには「弾は無くてもまだ戦える」貧乏くさい敢闘精神を教えたい一派がいるような気がしてならない。

だからいっそのこと、銃剣道などという何の役にも立たない戦闘技術を教えるのではなく、銃本来の「射撃術」や、あるいは機関銃やロケットランチャーなどの歩兵用重火器の訓練を中学校では教えた方が日本の防衛力の強化にも実際的に寄与して良い。

なんなら戦車戦術の授業や砲兵の弾道計算などの授業も検討すべきだろう。
そういう方が現在の豊かな日本では、銃剣道を教えるよりもずっとふさわしいと思う。
posted by ヤス at 10:17| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月31日

ホールディングスの方も見てみる

昨日は事業会社の日本マクドナルド株式会社の決算書を見たのだが、今日は持株会社である日本マクドナルドホールディングス株式会社について見てみようと思う。

日本マクドナルドホールディングス株式会社はジャスダック上場企業なので決算情報が自社のサイトに出ている。
日本のマクドナルドの企業グループは、ホールディングスの下に日本マクドナルドと店舗指導を行う株式会社エブリデイ・マック、ドコモとの合弁会社であるTHE JV株式会社の3社がぶら下がっているらしい。

ホールディングスの決算情報は全部のグループ会社の連結である。
損益計算書を見ると、売上高は事業会社のマクドナルドと同じ数字が並んでいる。
ということはエブリデイ・マックとTHE JVは、少なくともグループ外への売上はゼロで内部取引のみということである。

気になるのはTHE JVの存在である。
ドコモと合弁のこの会社のおかげで、電子マネーのiDが使えたり、最近熱心に取り組んでいるDカードのポイントが貯まったりするということのようである。
また、わたしは携帯がソフトバンクなので知らなかったが、ドコモの携帯を買うとマクドナルドのアプリがあらかじめプリインストールされているらしい。
(真偽のほどを確かめたわけではない)

携帯電話というのは、今や端末機器も通信速度も各社似たようなもので、あとは値段の叩き合いしか競合手段がなくなっている。
こういう状況でマクドナルドのようなナショナルチェーンと提携しておくと、携帯会社にとって幾らかの非価格競争力につながるのかもしれない。

そんなことはともかく、ホールディングスの決算書。
決算をざっと見渡した感じでは、事業会社のマクドナルドは売上と利益だけを計上し、資本市場や銀行からの資金調達など財務項目はホールディングスが引き受ける構造になっていることがよくわかる。

一昨年度まで2期連続で巨額の損失を計上したために、ホールディングスの長短借入金が200億円ほど増加し、最大80.5%もあった自己資本比率は直近で60.8%に低下している。
まあ低下したと言っても件の東芝などと比べると月とスッポンほどの違いがあるが。

また、ホールディングスの決算コメント内には「時価ベースの自己資本比率」の推移も載っていて、そっちの方は簿価より随分高くて225.4%。
(時価ベースの自己資本比率:市場株価で計算した自己資本比率)
しかもこっちは少なくともこの5年間、一貫して上昇し続けていて、株式市場はマクドナルドの将来を明るいと思っているようである。
あとホールディングスの方に材料費率と労務費比率も載っていて、材料費率35.4%、労務費比率28.7%、その他26.0%とある。
その他が気になるが、ファーストフード業界だけあって材料費も労務費もそれなりに高い。当期利益率も2.4%となかなか「リーン」な事業構造なのである。

あとついでにフランチャイズ売上も含めた全店売上も載っていた。
2012/12期が5298億円。
それが2015/12期に3766億円まで減少(28%減)し、直近で4385億円まで回復したらしい。
ということはこの先、900億円分くらいは少なくとも売上拡大余地が残っているということだろうか。
その場合あと2割増くらいは行けることになる。

ということでマクドナルドという会社の将来は、結構明るいということが分かってかなり安心した。
posted by ヤス at 10:22| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月30日

マクドナルドの決算書

さて、マクドナルドの業績は相変わらず好調のようである。
運営会社の日本マクドナルド株式会社は非上場企業であるが、決算報告がウェブサイトに出ていて、それを見ると業績の回復ぶりがはっきりわかる。

少し話がそれるが、日本のマクドナルドの組織体制は、事業会社の上に持ち株会社の日本マクドナルドホールディングス株式会社というのがあって、そのホールディングス会社がジャスダックに上場しているらしい。
事業会社の日本マクドナルド株式会社はホールディングスの出資100%になっている。
そういう事情があって非上場の日本マクドナルドは業績を開示しているのだろう。

で、日本マクドナルド株式会社の貸借対照表と損益計算書を見てみる。
ちなみに日本マクドナルドは12月決算なので直近のH28年12月期を見る。
損益は、直営店売上が1641億円、FC収入が625億円の合計2266億円。
で、売上総利益297億円、営業利益70億円、経常利益64億円、税引後の当期純益56億円。
注目すべきは直営店売上原価が1495億円、原価率で91%になっているところ。
開示データには原価明細がないのだが、多分この原価には人件費も入っているのだろう。
それにしてもなかなかの高原価率というかFL比だと思う。
(FL:F=食材費、L=人件費)

マクドナルドは、2014年の後半に色々と「事件」が起こって売上が急減した。
記録を見ると2015年1月には対前年比で売上が38.6%も減っている。
それが2015年の8月あたりからぼちぼち下げ止まって、2016年の1月には前年の数字が悪かった反動増で30.9%の前年増になっている。
以降コンスタントに対前年で10%以上の売上増を継続していて、2017年の1月が11.5%増、2月が17.3%増。
(数字は全店売上の対前年比)

決算も最悪だったH27年12月期が売上1895億円当期純損失351億円、その前のH26年12月期は売上2223億円の純損211億円。

貸借対照表を見てみると、2期連続で巨額の損失を計上したために日本マクドナルドの自己資本はマイナス、いわゆる債務超過になっていて総資本1108億円に対し自己資本がマイナス433億円。
銀行借入は無し、その代わり関係会社短期借入金というのが1065億円ある。
多分借入はホールディングス会社からするようになっているのだろう(推測です)が、この借入は経営危機前のH25年12月期は440億円しかなかった。
この2年ほどはキャッシュアウトがかなり大変だったようだ。

ということで日本マクドナルド株式会社の決算内容は、非上場ということもあってかなりラディカルだが、その分実態が分かりやすくなっているのだなと思った。
posted by ヤス at 10:34| Comment(1) | 徒然なるままに

2017年03月29日

愚痴

森友学園問題は、27日の新年度予算成立後も引き続き尾を引いている。
さすがに最近はわたしも飽きがきて、国会の追及場面をYouTubeで見るとこもめっきりなくなった。
同時並行で流れている東京都の豊洲市場移転問題は、百条委員会の実施というイベントがあって浜渦下副知事と石原元知事が証言したそうだ。
本来、森友学園問題さえなければ世間のニュースはこちらの話題で持ちきりだったのだろう。
しかしネタの新しさと登場人物のキャラの濃さ、並びに安倍首相への疑惑というスケール感の大きさで豊洲問題はかなり霞んだ。
劇場政治の主役を奪われた格好になり、小池都知事は内心がっかりしているのではないか、と勝手に想像する。

しかしこの二つの政治問題は、共通点があるように思われる。
それは「出口が見えない」ということで、豊洲問題は一体移転するのかしないのか見通しが見えず、そして森友問題はことごとく対立する証言の食い違いが証明される見通しがない。

ただ豊洲問題は最終的には「えいやー」の政治的決断が下されることにならざるを得ない。
ただその決断がいつかがよくわからないが。
おそらく小池さんは、都民世論が築地・豊洲のどっちを支持しているのか一生懸命読もうとしているのだろうが、現時点でそれが読みきれない、ということなのだろう。
世論がどっちかにどっと振れれば、あっさりそっちに決まるに違いない。

さて、問題は森友問題である。
おそらく3月10日頃までは、適当なところで手打ちをして事態を有耶無耶のうちに収束させようという空気が濃厚であった。
ところが意外なことに籠池理事長の証人喚問が実現して、そこで理事長が改めて自身の主張を明確過ぎるほどにはっきり喋ったために、政権側というか安倍首相の方も引っ込みがつかなくなったようである。

だからこれは、理事長側か首相側、どっちかが斃れるまでこの仁義なき抗争は終わらない。
そして現時点においては、メディアを手懐け裁判所や検察に隠然たる影響力を保持する首相側が圧倒的に有利、従って斃れるのは理事長側だろうという観測が成立する。

今回の問題を見ていて思うのは、現在の日本の政治が抱える病理の深刻さだ。
その病理とは、ある政治勢力が周辺を「仲間」とそうでない人々に峻別し、すっかり縮小してしまった国内の利益原資を仲間の方に誘導する方法があまりにスマートでない。
政治による利益誘導は昔から存在したと思うが、昔は利益原資がそこそこ潤沢で、仲間でない人々も適当に潤った。
しかし今の利益誘導はゼロサムゲームになっていて、どこからか利益を引き剥がして仲間の方にそれを持っていく、ということになっている。

現首相はその意味で非常に律儀で頼りになる人物なのであろう。
だから金融緩和・円安誘導・株高演出の流れも止まらない。
そして例えば並み居る日経連企業が利益確保のためにどのような行動をとるべきかは自明なのであって、それがこの病理を不治の病にしている。
どうも明るい締めくくりが思い浮かばないので、今日はここでおしまい。
posted by ヤス at 10:37| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年03月28日

忖度

「忖度」と書いて「そんたく」と読むらしい。
今回の森友学園事件の最大の功績は、行政官僚組織における「忖度」のメカニズムをクローズアップしたことではないか。

忖度という言葉自体はもうずっと昔から存在し、会話の中にもごく稀に紛れ込んだりすることもあった。
しかしこの言葉の持つ不思議なメカニズム、あるいは魔法のような効力に関しては、ほとんど意識することがなかったような気がする。

わたしが若かりし頃サラリーマンをやっている時分の苦い思い出であるが、しょっちゅう「お前は本当に気が利かない」と言われていた。
全く、何かのおまじないのように繰り返し「気が利かない」と言われていて、たまに渾身の「気を利かせる」ことを頑張ってみたら、今度は「余計なことをするな」と言われる。

あまりに卑近な例を持ち出すのは適切ではなかったかもしれないが、「気を利かせる」こと、すなわち「忖度」することは、なかなか高度な技術であると個人的には思うのである。
「忖度」というのはそのものずばりの英語訳が存在しないようで、つまり多分、日本に独特の概念であるらしい。
考えてみると忖度は、組織文化的にもかなり高度な概念である。
忖度のメカニズムにおいては、上司と部下の間に明示的な指示命令が存在しない。
だから何かことが生じた際に、責任が上司に及ばず部下のところでせき止められる。
おそらく責任を一身に背負った殊勝な部下は、後で「おつとめご苦労さん」とかなんとか上司に労をねぎらわれて、それなりの戦後補償を受けることができるのだろう。
(あるいは非情な上司の場合、あっさり「トカゲの尻尾」にされて終わりかもしれない)

今、国会では森友学園問題で野党による安倍首相への執拗な追及が続けられている。
しかしこれによって現政権が退陣はおろか何らかの責任を負うこともないだろう。
それはこの問題が主要部分においてどうも「忖度」メカニズムによって駆動されていることが考えられ、その場合政治家や官僚幹部による現場への明確な指示命令の証拠は当然に存在しないからである。

評論家によっては、だから野党の追及は無意味であって、本来の予算審議に集中した方が良いという意見もある。
しかしその場合、国有地をびっくりするような安値で購入する可能性は、その裏道を知っている人にとっては違法性のない「当然の権利」として是認されることになる。
いわゆるモラルハザードが生じる。

森友問題の意味というのは、国有地の購入にあたって「忖度」メカニズムを起動することによって少なくとも市価の10分の1以下で購入できることが白日の下に晒され、しかし問題が明るみに出ることでさあこれから安く国有地を買おうと思って順番待ちしていた人々がなかなか安く買いづらくなって地団駄踏んでいる、そういうこともあるのかもしれない。
だから国民としては、国有財産の価値を保持するためにこのことを忘れないように努力しないといけない。
というのは、まあ難しいのかもしれないなあと思った。
posted by ヤス at 10:35| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月27日

道徳の教科化と生産性低下

少し話題に乗るタイミングが遅れたが、道徳の教科書検定が話題になっているらしい。
なんでも今まで正規の教科外の授業であった「道徳」が、小学校では2018年から晴れて「教科化」されるのだという。
で、その小学校道徳の教科書の検定がこの間終わり、その検定内容の不可解さがかなり興味深い。

道徳の教科化は、その理由のひとつがいじめ問題にあるらしい。
また道徳の教科化は小学校に続いて中学でも順次開始されるという。
はたして道徳の授業を教科外から教科に格上げすることによって、いじめ問題は改善されるのだろうか。

ところで教科外を教科に格上げするというのはどういうことか。
文部省のサイトで資料をちら見すると書いてあった。


“「教科」とは、教科書を使用し、教科ごとの免許があり、数値による評価を行うものを言いますが、道徳については、数値による評価を行わず、担任が担当することから、特に「特別の教科」という新たな位置づけが設けられました。”


それで「特別の教科」というのが出てきたのか、と納得がいった。
それと文科省の資料には、数値による評価はしないが「評価はする」、と書いてある。
さらに「入試には使いません」とわざわざに強調している。

道徳の授業を「教科化」するというのは、ちゃんと通信簿に評価しますよという意味なのであろうが、さてその評価方法はどうするのだろう。
いっそ数値評価の方が現場の先生には無理がなくていいんじゃないか、非数値評価で先生は対応出来るのか、心配になる。

資料には、「「国や郷土を愛する態度」などの個別の内容項目の評価はしない」、だから「「愛国心」を評価することなどあり得ません」とも書いてある。

その割に、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ」云々の理由でパン屋を和菓子に変えるそのメンタリティーがかなり不可解である。
これは教科書の記述に国や郷土への親しみが足らない部分を発見するメンタリティーが不可解というのがひとつ、親しみの不足を補うためにはパン屋より和菓子屋が適切と思うその想像力への不可解がもうひとつ。
かなり何重にもわたって不可解である。



“道徳科の評価は、道徳科の授業で自分のこととして考えている、他人の考えなどをしっかり受け止めているといった成長の様子を丁寧に見て行う、記述による「励まし、伸ばす」積極的評価を行います。”

というのが道徳の評価の方針であるらしい。
もしわたしが小学生でこの授業を受けたとして、道徳の教科書に書いてある和菓子屋のくだりを自分のこととして考えることが出来たかどうか、他人の考えを受け止め得たかどうか、甚だ自信がない。
まあわたしはわりかしソトヅラの良い子供だったので、適当に迎合してうまくやり過ごしたかもしれないが。

しかしこのようなアンチクリエイティブな議論を見るにつけ、日本におけるホワイトカラーの生産性が低いという問題の原因がなんとなく分かるような気がするのは、気のせいだろうか、と思った。
posted by ヤス at 13:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月26日

人工知能と身体性

人工知能の身体性の無さというのはもう多分あちこちで言われている話だ。
でも身体性が無いというのがどういうことなのか、そこが今ひつピンと来ない。

それで改めて人間の身体性というのを考えてみると、人間は大部分が身体性でできていて、そこに進化の最後の方の過程で、一番上にちょこんと知性が乗っかったようなイメージが浮かんだ。
比喩的にいうと、99%の身体性の上に1%の知性が載っている。
それが人間の構造バランスのような気がしている。

この場合の身体性にはかなり色々と重要な意味がある。
まず一つは、身体性があるというのは人間の体がタンパク質で出来上がった臓器やら筋肉やらの複雑な構造になっているということ。
そして体の組織は外から入ってきた物質、いわゆる「食べ物」を胃腸で分解吸収したもので徐々に置き換えが進む。
そうやって新陳代謝のサイクルが絶え間なく動いて、体の組織は古くなった部分を入れ替えて正常運転を保っている。

そういう生物の個体内部における新陳代謝の上位構造として、生物種としての新陳代謝があって、それは各個体に寿命が設定されていて、各個体は適当な年齢で死亡して次の新しい個体が種としての存続を引き継ぐ。

そうやってある個体から新しい個体に種の存続が引き継がれるときに、DNAの極々わずかな変化が生じて、それが何万年分も積み重なって生物の進化というのが起こる。

ということで、人間の身体性は生物としての進化メカニズムの重要な一部であり、そのシステムデザインに個体としての寿命も組み込まれている。

というかそれが「生き物」であることそのものである。
人間の他の生き物との違いは、99%の身体性の上に1%の知性が乗っかって、その1%の知性が人間を従来の生き物とはかなり違うものにしたことだろう。

で、今、人工知能という人間の知性による発明品が、その知性の働きを大部分代替しようとしているわけである。
それは単なる計算や記憶や株式市場の予想などにとどまらず、そのうち面白い小説を書いたり映画を製作したり美術作品を作ったり、そういうクリエイティブなところにまで及ぶのではないか。
人工知能があらゆる社会現象や人間の行動心理を学習すれば、それくらいは朝飯前になるのではないか、そういう気がする。

そうなると人間の主要な役割が、再び身体性の領域に帰っていくのだろうか。
今「人間の」お笑い芸人とかがやっているエンターテイメントを人工知能が提供してくれるようになり、人間はもっぱらそれを観るだけの存在になるとか言うと、ちょっとそれは困る気がする。

人工知能の発達が人間の知性を受動的にさせるのではなく、人工知能を相手にすることによって人間の知性がより高まる未来、そういう風になるように期待したいと思った。
posted by ヤス at 10:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月25日

人間の優位はどこにあるか

このところ「自我」について考えている。
「自我」というのは自分の中の意識化された部分のことだろう。
言語化され、顕在化された自分の中の一部が「自我」。

しかし「本当の自分」の中に占める「自我」の割合というのは、実は1%かそこらなんじゃないか、というのを最近思う。
脳機能の中の情動や生存本能的な部分は、おそらく大部分言語化されておらず、意識化されていない。
でもその部分こそが人間性を決める本質であるというのはおそらく間違いあるまい。

前に書いた「受動意識仮説」によれば、人間の行動は無意識が決定し意識はそれを後追いしてあたかも意識が主体になって行動を促したかのように思い込むだけ。

人間は人間である前にまず生き物である。
生き物というのはなるべく死なないように頑張る、そのようにできている。
人生の意味は何かと言うと、生き物として生まれてきた以上なるべく死なないように頑張る、そのことに尽きる。
それ以上に深い意味はないように思われる。

とにかくも人間は、哲学的思索に耽る以前に、生き物として死なないように頑張ることを自動的に頑張る。
それは生まれ落ちた瞬間からそうであって、まだ意識とか自我とかが芽生える前から多分そうである。
赤ちゃんはお腹が空いたらぎゃーと泣いて空腹を訴える。
そこに言語的な思索は無いわけで、ただ餓死しないように自動的に泣く。


話は少し変わるが、2045年に人工知能が人類の能力を超えるといわれているシンギュラリティ問題があったりする。
すでにチェスでも将棋でも囲碁でも人類は人工知能に敵わなくなっている。
そういうボードゲームでなくても、株式市況の新聞記事くらいなら人工知能で十分に書けるという時代になりつつある。

その辺の会社で事務員が行なっているルーチンワーク的な業務も、間も無く人工知能で置き換え可能になる。
あるいは税務とかコンサルティングとか、ひょっとしたら会社経営の社長の仕事も人工知能の方が数段上手にやる、そういう時代が来るのかもしれない。

で、いろんな仕事が人工知能に置き換わって人間の仕事がそれに奪われるというのを今みんなが心配しているわけだ。
技術が進化して知的能力で人類が人工知能に太刀打ちできなくなる未来がすぐそこまできていて、その中で人間の人工知能に対する優位はどこにあるのか、人工知能にできなくて人間だけに可能な仕事は一体あるのかということが問題である。

で、ふと思ったのだが、人間というのは知的存在である以前にまず生き物であり、しかも無意識的な生き物の部分が、意識的、知的な部分の何倍も大きい。
逆にいうと人工知能のライバルとしての知的な部分は人間の中のほんの一部に過ぎない。

まあだからどうなのという話だが、なんとなくそう思ったので、この続きはまたしばらく考えようと思っている。
posted by ヤス at 10:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月24日

証人喚問が終わって

さて、昨日の国会予算委員会で件の籠池理事長の証人喚問が行われた。
証人喚問は午前と午後の4時間半にわたり行われたそうであるが、わたしは昨日珍しく忙しかったのでその様子を1時間ほどしか見ていない。

また証人喚問の後に、外国特派員クラブで記者会見も行われたようだがそっちも見ていないので、後でアーカイブを探して見ようと思っている。

ここへ来てこの問題がにわかに盛り上がった感じがあるが、理事長の証言の様子は、予想外に落ち着いて淡々としたもので、かつ100万円の寄付についても明確に断言していた。
後、新たに浮上して来た理事長宛の昭恵夫人付き秘書からのFAXもなかなか興味深い。

100万円の寄付金についてはそれ自体に違法性はなく、昭恵夫人はFacebook上で早速反論してはいたけれど、万が一この寄付金授受が立証されたとしても本質的には大した問題でない。

まあ密室の出来事であり、もらったことの証明も、もらっていないことの証明もまったく難しい話なので、首相サイドとしては「もらっていない」ことを一貫して主張するというのが基本方針なのであろう。

しかし今回偽証罪に問われるリスクを賭けて籠池理事長は「もらった」と明言したわけであり、その一点において現段階で理事長側が一段優位になったことは確かだ。
この状況を再びイーブンに戻すには、昭恵夫人も証人喚問に立つことが必要だろう。

しかし寄付金問題は問題の本筋ではないから、首相サイドとしては夫人の喚問は見送り、従来通り「もらっていない」主張で押し通す気がする。

首相にとって、言うまでもなくFAX問題の方がより危険である。
このFAXのやり取りの構図からは、昭恵夫人が秘書を通じて財務省に「働きかけ」ているように見える。
これは、当初首相が言っていた「私や妻、事務所は一切関わっていない。もし関わっていれば首相も国会議員も辞める」発言に「抵触」するように思われる。

今回の問題は、当初から比べてかなり事態がもつれてきたように見えるけれど、それでも現段階では内閣退陣に至るところまでは深刻化していない。

ただ首相サイドに立って見ると、結果論ではあるが今回の事態の収束に向けた手際はかなり悪かったように見える。
まず今回の理事長の喚問はかなり余計であった。
理事長が100万円問題を突然出してきたのは、自分から喚問に呼ばれようというある種の策略であったようだ。
今回はまんまとそれに引っかかった。
その辺は、自分たちのメディア統制や役人の制御能力について自信が過ぎたのではないか。
現段階では国民から安倍おろしの声はあまり聞こえてこないように思われる。
それは今のところ有力なポスト安倍が国民の脳裡に浮かんでいないからだろう。
そういえば鳥取出身の自民党代議士がいたけれど、彼の最近の文章を読んでみると、わりかし慎重に現政権に対する批判が書いてあったりする。
この辺の人がどんと表に出てくるようになると、今回の騒動がもっと面白くなると思うのだが。

というのはちょっと不謹慎な見方かもしれないと、少しだけ反省して今日はおしまい。
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2017年03月23日

もう少しバイクの話

オートバイの話が続いた。
ついでにもう少し。

わたしが若かった頃、つまり日本のオートバイ市場が最高に盛り上がっていた頃であるが、当時の若者は二輪の中免を取っておおよそが250ccのバイクを目指した。

当時はレーサーレプリカというカウル付きのレーサーもどきのオートバイが全盛の時代だった。
個人的な感覚であるが、周辺に居た同世代の半分以上は中免を取っていたのではないかと思う。

で、そういう若者の多くがレーサーレプリカの250ccを買ったわけだが、当時の250ccレプリカのカタログ馬力はほぼ全部45馬力だった。
悪名の高い「馬力規制」のせいである。
例によってこの「馬力規制」は法令の定めではなく、業界団体の自主ルール。

ただ、たったの250ccで45馬力というのは、自動車のエンジンに比べると異常な高出力である。
これもまあ言わずもがなだが、これら250cc・45馬力エンジンはショートストロークの超高回転型に出来ていて、レッドゾーンが1万5千回転とか中には2万回転とかいうのがあるくらい桁違いによく回るエンジンだった。
しかもたったの250ccを4気筒にして回るようにしていた。
1気筒あたり62.5cc。
よく回るはずである。

またその当時は、今は絶滅した2ストロークエンジンも現役だった。

1980年代初頭、2ストエンジンや4スト4気筒の超高回転型エンジンで250ccバイクの馬力がどんどん上がって、それが馬力規制の誕生につながったらしい。
1989年に決まったそうで250・45馬力、400・59馬力、750・77馬力、オーバー750・100馬力というのがそれである。

さらに1992年には250・40馬力、400・53馬力へと厳しくなった。

この馬力規制は2007年には撤廃されたけれど、今のオートバイは、250ccは30馬力とかせいぜい35馬力くらいのが多い。
大排気量モデルではかつての規制値を超えるものも出ているが、250ccに関してはかつてのハイパワーに比べるべくもない。

技術は確実に進歩しているはずなのになぜ250ccの馬力は30年前より大きく劣るのか、というのが個人的な疑問としてずっとあった。

調べてみると、どうもその主因は日本の厳しい騒音規制であるらしい。
小さいエンジンでかつてのようなハイパワーを絞り出すには、今の騒音規制は技術的なハードルがかなり高いということのようである。

ということで長年の疑問が少し解けた。
ちなみにわたしのかつての車歴は、スズキGSX250E・29馬力、ヤマハセロー225・20馬力などであり、規制値の45馬力250に乗れなかったのが今でも心残りなのである。
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2017年03月22日

オートバイが売れない話の続き

今の日本でオートバイが非常に売れていない、というのを昨日書いた。
オートバイが売れなくなった要因には色々ある。
1986年の原付ヘルメット規制や軽四、電動アシスト自転車普及などである。
関連情報を見ていたら2006年には二輪の駐車違反取締りの民間委託が始まって、それが原因で二輪販売が落ち込んだ、というのがあった。
特に下駄がわりの原付や250cc以下の軽二輪が落ち込んだらしい。

ただオートバイの販売に関しては悪い話ばかりでもないようだ。
日本は世界に冠たるオートバイメーカー四社、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキがある。
この四社で世界の二輪販売のほとんど半分を占めていて、比較優位という意味では非常に重要な業界なのである。
そういう重要業界の衰退を日本の経済産業省が放置するはずもない、ということで経産省が2013年に現状40万台規模の国内二輪販売を2020年に100万台にしよう、という方針を打ち出したらしい。

これは多分アベノミクスの成長戦略の一環として出されたものだろう。

現在のオートバイの国内販売における特徴の一つに、購入者平均年齢の高齢化がある。
今オートバイ購入者の平均年齢は50歳くらいで、この10年で約10歳上昇したという。
最近リターンライダーというのをよく聞くけれど、これは1980年代の若かりし頃にバイクに乗っていた人がオジサンになってバイクの世界に帰ってくるパターン。

要は若い人の新規参入が極端に減って、このままいくと10年後には平均年齢60歳とかいうことになるのかもしれない。
ただライダーの高齢化は日本だけでなく、アメリカやヨーロッパでも大方同じ傾向があるようだ。

あと、世界各国の人口当たりの二輪車保有台数の比較の情報がネットに出ていて、日本は2011年時点で100人当たり9.5台。
ちなみにアメリカは2.6台、イギリスは2.3台。
先進国で多いのはイタリア14.2台、スイス10.5台。
さらに東南アジア圏では、台湾65.3台、マレーシア34.7、ベトナム29.5台。
東南アジア圏の異常な数字はさておくとして、ざっくり見た感じ日本の二輪普及率は世界的には決して低くない。

上記の数字からは、かつて1980年台の年間販売300万台とかいうのは、日本に訪れたアジア的バイクブームであり、その後日本は他の先進国並みに落ち着いたように見える。
ということは経産省の2020年国内販売100万台は、歴史の歯車を巻き戻すようで、非常に難しいことのように思われる。

あと、日本のオートバイブームが急速に沈静化したのは「3ない運動」をはじめとする警察の取り締まりの影響が無視できない。

警察庁にとってオートバイは犯罪予備軍の養成装置に見えるらしく、この傾向は程度の差こそあれ先進国では共通のようである。
かつて尾崎豊が「盗んだバイクで走りだす」と歌ったけれど、オートバイはある意味反権力の象徴のようなイメージがあって、警察の目の敵にされやすいのかもしれない。

ちなみに、尾崎豊が生前吐露したところによると、あの歌で歌った「盗んだバイク」は実話に基づいていて、そのバイクは「ヤマハ・パッソル」。
田舎のお母さんが買い物によく乗っていたやつだったそうである。
おしまい。
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2017年03月21日

オートバイ市場縮小

今の日本ではオートバイが売れていない。
かつて、わたしが青春を謳歌していた1980年代後半には、日本のオートバイ販売はざっくり今の10倍くらいの規模があった。

わたしが初めて「運転免許証」を取得したのは確か1986年。
中型二輪免許を島根県益田市の合宿教習所で取ったのを記憶している。
1986年といえば原付のヘルメット規制が始まった年だ。
ちなみにわたしの最初のバイクは、ホンダの「ラクーン」という50ccの、ミッション付きアメリカンもどきの原付だった。

そのバイクは部活の先輩から代々受け継がれてきた骨董品で、雨が降るとキャブレターに水が入ってエンジンが停まった。
そういえば名義変更などをした記憶がない。
ひょっとしたら自賠責とか入っていなかったかもしれない。

そんなことはともかく、譲り受けたラクーンに乗って風呂上がりに広島の街を駆け抜けたことを妙に具体的に憶えている。
想像するに原付ヘルメット規制が4月1日からで、免許取ってラクーンを入手したのがそれより少し前だったのだろう。


ところでオートバイの販売台数がピークだった1982年は、原付から大型まで合わせて320万台以上販売されていたらしいが、その8割以上は原付一種、いわゆる50ccバイクだった。
1982年は他の年に比べて販売台数が突出しているのだが、それはHY戦争といってホンダとヤマハの乱売合戦の影響らしい。
HY戦争といっても若い人には分かるまいが。

1983年以降戦争が落ち着いたのか270万台以上あった原付一種の台数がどんどん減っている。
無論1986年のヘルメット規制もかなり影響している。
2010年代では原付一種販売台数は25万台前後、これは原付二種(〜125cc)、軽二輪(〜250cc)、小型二輪(250cc〜)の3種合計と同規模の台数だ。

逆に言うと原付一種以外は、原付一種ほどには販売台数の減少幅が大きくない。
とは言うものの1985年からの比較で、126cc以上のオートバイ販売台数は31万台が10.9万台に減っている。
約3分の1に減少。

50ccクラスが10分の1になったのよりは多少マイルドだが、それにしても大した減りようである。

ヨーロッパあたりでも、オートバイの販売台数はじりじり減っているらしい。
日本にはオードバイの世界4大メーカーが頑張っているわけだが、今までよく潰れなかったものだと思う。
それはひとつには東南アジアの成長があったからだろう。

でも日本で二輪販売が減ったのは、国民が豊かになって二輪から軽四に移行したというのがある。
また電動アシスト自転車の登場、高性能化によってだいぶん市場を食われたことも大きいらしい。
日本と同じ変化は東南アジアでも起きるだろう。

そうなると今後10年20年後には、世界のオートバイ市場はかなり縮小しているかもしれない。
市場が縮小すればメーカーのラインナップも絞り込まれて、今のようにたくさんの車種の中から選ぶというのが出来なくなるのかもしれない。

また20年もすれば四輪業界は自動運転化が進んでいるだろう。
そうなった時にオートバイの存在がどうなっているのか。
かなり心配だなあ、とどうでもいいけれど思ったのだった。
posted by ヤス at 15:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月20日

23日証人喚問

森友学園問題であるが、23日に学園理事長の証人喚問がある。
ここでおそらく例の100万円寄付金問題などについての証言があるのだろう。
それ以外にも何か新しいネタげ出てくる可能性も否定できないが。

しかし安倍首相からとされる100万円の寄付金は、いろんな報道を見るにつけ相当に信用性に乏しいように思われる。
あくまで個人的推測だが、多くの人が言っているようにこの寄付金は昭恵夫人宛ての講演謝礼を受け取ってもらえなかったので、学園内部で勝手に寄付金に振り替え処理したものだろう。
少なくとも報道されている状況からはそのようにしか見えない。

だとすると、証人喚問においてこの寄付金についての証言が改めてあったとしても、理事長側にかえって不利に働くことになる。
野党側が一番欲しい証言は、やはり学園側からどこかの政治家に金銭が渡っていて、その政治家が役人側に強く働きかけた、そういうシナリオであるように思う。
実際に先のこんにゃく報道にあったように、学園側では金銭贈与の未遂については証言が出ている訳で、未遂でなく実際にお金が渡っているということは十分にあるような気がする。

問題はそれがどこの誰かということになるだろう。
果たして今度の証人喚問でその種の証言が飛び出るのかどうか。
その辺を推測するにはちょっと材料が少なすぎてよく分からないのであるが、なんとなくの予感としては、今度の喚問では寄付金問題の他に理事長の「政治的主張」が繰り返されるばかりで新ネタは出てこないのではないか、という気がする。


野党寄りの立場で考えると、この問題は理事長サイドから攻めるのはかなり得策でないと思う。
それよりは土地取引の検証の方に全力を注ぐべきではないか。
土地売却価格の正当性を検証し、そのために現場検証や工事業者、過去の土地所有者への調査などを突き詰めていくべきではないかと思う。

この土地取引がかなりの力技で行われたことは、外から見た感じでも相当に濃厚であるという気がする。
真偽が甚だ不確か学園理事長の発言をテコに首相を攻めるのは、どうも攻め手として筋が悪い。

それとこの学校にどこかの政治家が関わっていたとして、その関わり方の問題。
ただ単に森友学園の教育思想に共鳴し、公共の観点から小学校新設を助けたいと思った政治家がいた場合、それ自体に何の問題もない。
(贈収賄的要素がなければ。あと学園の教育実態には実際に問題があったが)

現段階では、「私が手伝いました」という政治家が一人も手を上げていないわけで、それはそういう人が一人もいなかったのか、手伝ったが名乗り出るには不都合な真実があるのか。
(土地取引の不正が証明されればこれはかなり不都合な真実になりうる)

もし政治家が関与していなければ、全ては役人のやったことということになる。
そういえばつい最近、東京の方でそういう発言があったけれど。

もし全て役人がやったのなら、これは役人の「政治家化」であって、本来無色透明で不偏不党であるべき役人にとってはかなり由々しき事態であると思う。

ということであまり期待せずに23日のニュースを待ちたいと思う。
posted by ヤス at 10:11| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月19日

本能と理性

さて、今まで何度も書いているが、食欲を我慢するのはかなり難しい。

今日は1食にとどめておこうと思っていても、コンビニの前を通過する瞬間に、何か「自分でないもの」に突き動かされている自分がいる。
で、気がついたらレジでパンを買っていて、こんなはずじゃなかったのになあと思いながら大して空腹でもない胃袋を満たすことになる。

この場合の「自分でないもの」というのは、多分実際には「本当の自分」である。
それは「本能」とか「潜在意識」とかと呼び換えても良い。
そして「自分のようなもの」は、「理性」とか「顕在意識」とか呼ばれるものである。

こういう分野の話は、過去100年以上前から心理学や精神分析の分野でさんざん研究されてきたことと思われるので、ここで素人が不確かな想像を記述するのもなんであるが、まあ構わず続ける。

「理性」の特徴の一つには、それが言語化されている、ということがあるような気がする。
つまり「本能」の方は言語化されていない訳で、それは脳みそのかなり深いところから、情動の力を持って人体をコントロールしているものである。

「理性」というのは時々「本能」の働きに気づいてそれをモニターし、言語によって実況中継したりするのであろう。
まあ大体の場合、「本能」の働きはあまりに無意識的過ぎて、それを逐一全部「理性」がモニターするというのは無理である。
「理性」がその時特に関心のある場合のみモニターしているに過ぎない。

例えば、あとひと月で体重を2kg減らそう、などと決意している場合、「本能」のコントロールのままにコンビニでパンを購入する自分の姿に、「理性」はハッと気がつくのだろう。
しかしたいていの場合、「理性」がそこで行うのは「本能」によってコントロールされている自分を言語的に正当化する作業であって、つい今さっきまで頑張って仕事をしていつもより余計に脳みそを使ったからパン食っても大丈夫とか、今日の晩御飯は多分あんまり食べないからとか、色々言い訳してパンを買い、結局美味しく食べる。

こういう「本能」と「理性」の関係は、おそらくよほど意思の強い人でも弱い人でもそんなに変わらない。
意思が強く、自分をコントロールすることが上手な人の場合、単に「理性」によるフィードバックで「本能」をうまく騙しているのに過ぎないと思う。

結局のところ「本能」が全てをコントロールしているのである。

この状況は、個人以外にも社会集団に対するメタファーとしても有効ではないか。
好き勝手に気ままにうごめく群衆、そこに一定の秩序を与えようとする法律の仕組みや行政組織などは、あたかも一人の人間における「本能」と「理性」の関係のようにも見える。
そして社会集団においても「本能」の方が「理性」よりかなり強力であるというのは言えそうである。
理性なんていうものは、多弁なばかりのくせに根拠薄弱で、失敗した時は言い訳ばかり、そういうもののように見える、そんな気がする。
posted by ヤス at 08:04| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年03月18日

森友学園問題について

どうも森友学園問題が予想外の展開になってきた。
というか、少々不謹慎ながら面白くなってきた。

ここへ来て学園理事長が首相からの学園に対する寄付金100万円の存在を明らかにしたのはどういう意味だろう。
もちろんこの理事長の発言に関しては、事実でない可能性も多分にあると思われる。
これまでさんざん合理性に欠く発言や著しい矛盾をはらんだことを言ってきた理事長であるので、この寄付金発言をそのまま飲み込むのは無理がある。

ただ一方で、これまでの理事長の発言は彼の立場を考えれば理解できるもの、ある種の合理性が感じられるものだったことも事実なのである。
たとえば例の小学校の建設工事契約書が同じ日付で金額が3種類あった件であるが、これは学校認可を確実にし、補助金受給額を増やすなど、それぞれの金額には明確な意図が感じられるものであった。
(違法だけれど)
あるいは会見での某新聞社へのかなり強めの苦言や幼稚園の教育内容に関する姿勢などは、理事長の思想の方向性に照らせばまあ分からないこともない。

しかし今回の100万円寄付金発言はどうだろう。
あるいは、これまで否定していた国会招致に関し、23日に証人喚問という形を決断したのはどういうことなのか。


この問題は、巷間言われているようにあくまでも最大の焦点は不透明な土地取引に関する点が最重要であることは間違いない。
国有財産の売却にあたって、はたして意図的なダンピングがあったのかなかったのか。
あったとしてそのダンピングの責任を負うべき人物は誰なのか。
そこを明らかにすべきなのは言うまでもない。

さらに言えば学校認可をめぐるプロセスに問題はなかったか。
もっと言えば認可に当たって政治的な力が働いていたのか否か。

この2点がメインテーマであろう。
そして2点に共通して影響力を行使した人物がいたのかどうか。


逆に言うと、この問題は俯瞰で眺めれば明らかに政治的意図が働いているようにしか見えない。
また財務省で一切の記録が残っていないなんていうのも、怪しいことこの上ない。

例のこんにゃく発言で「政治的な力」の状況証拠の一端が垣間見えたりもしたわけであるが、しかし明確な物証は何も出ていない。

そしてこの状況下で野党がいちばん頼りにしたいのは、状況的に見た怪しさから内閣支持率がじりじり下がって政権のボディーブローになる、というような現象であるが、この問題以降内閣支持率はかなり下がったものの、歴代の内閣退陣レベルの支持率までまだかなり距離がある。

ここについては民進党支持率の絶望的な低さが効いているようである。

結局のところ、万が一これで内閣が退陣になったところで、じゃあその次どうするの、という大きな宿題が次に出てくるのは避けられない。
野党の方はぼちぼちそっちの展望も示す必要があると思うのだが、その期待はできるのだろうか。

というようなことをちょっと思った。
posted by ヤス at 16:46| Comment(0) | 徒然なるままに