2018年05月20日

好き嫌いを超越する

人間の好き嫌いというのはやはりどうしてもあるものだ。
しかし「あの人が嫌い」だからといってその人が正しくない人物であるかというと、そういうことでもない。

あたりまえである。

世の中にSNSなどが普及してさまざまな人の意見が否が応でも目に入ってくる今日、さまざまな人物に対する論評意見が飛び交っている。
あの人の言ったことは間違っているとか、誰それのやったことは問題であるとか、有名人に対する論評がやはり多いわけであるが、その有名人の言説や行動をたくさんの人が批判したり賛意を表していたりする。

だがそれらの論評は論理的思考から出てきたものというよりも、単にその有名人のことは好きだとか嫌いだとかいう「感情」から沸き起こったものであることが多い気がする。
だからそれらの論評はもはや論理の世界を飛び出していて、あいつは目つきが悪いからやはり悪いことをやっているにちがいないとか、具体的な証拠に基づかない超越的な意見が飛び交うことになる。

SNSに限らずとも人に対する態度では、好きな人には甘く嫌いな人には厳しくなりがちである。
それはまあ人間だから仕方がない。

ただネット空間と違って、日常空間でしょっちゅう顔をあわせる相手に対しあまり無際限に批判を浴びせるということは心情的になかなか難しい。
そこが日常空間の救いであろうし、逆にネット空間の救いのないところでもある。

そういえば昔、人にあったらとりあえず何かその人を褒めろと教えられた憶えがある。
人は褒められると悪い気分はしない。
だからとりあえず褒めておけば対人関係において損はない。
またよくよく考えてみると、その人を好きになるのは、その人が自分をやたらと褒めてくれる場合であることが多いのかもしれない。

ただ人の褒め方というのは意外に奥が深くて、いかにも軽薄に「とりあえず褒めておけばいい」という感じで褒めてくる場合、こっちとしてはじろりと相手を見て真意を確かめたくなる。
まあこういう風に褒められて疑念を抱くのは、残念なオジさんの損な体質であるだけかもしれないが。

それで思ったのであるが、好きな相手に褒められたり好きな相手を褒めたりするのは問題が少ない。
しかし嫌いな相手に褒められた時、嫌いな相手を褒める場合、その場合の正しい作法というのはどうなのだろう。
あくまでも好き嫌いを超越して、ニュートラルに、建設的思考に基づいて反応するのが作法であろうと思うのだが、そんなことが自分にさらりと実行できるだろうか。
ただオジさん(またはオバさん)になるにつれて、そういう対人関係が無意識的に無難に処理できるようになるのは確かだろう。
ともすると人への好き嫌いの感情そのものが薄れてくるのかもしれない。

ただネット空間には誰のことが嫌いだ(または好き)とかいう感情が多量に渦巻いているから、人々の気持ちの中に好き嫌いの感情は根強くある。

好き嫌いの感情は、それはそれで人間的で、ある意味非常に良いものだと思う。
だから好き嫌いの感情は残しつつも、しかし一方で理性の力で好き嫌いを乗り越えて思考できるようになるのがりっぱな大人になることなんだろうと、ちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 12:27| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年05月19日

藤井聡太、七段昇段

昨日の晩に将棋の竜王戦予選の5組準決勝というのがあって、藤井六段が勝って藤井七段になった。
藤井新七段は、2016年10月に四段に昇段してプロデビューしたのち、14ヶ月後の2018年2月1日に五段、その半月後の2月17日に六段に昇段している。
そこからさらに3ヶ月後の七段昇段である。

いろんな棋士の昇段歴を眺めていると、藤井聡太に限らず早い人は一段上がるのに数ヶ月でぽんぽん行く場合もあるようだ。
ざっと計算すると、四段から六段までは一段あたりの昇段期間はだいたい平均4年になっている。
しかし六段から七段は平均で5年、七段から八段は6年、八段から九段は8年弱くらいである。
平均値的に計算すると本来12年かかるところ、藤井聡太は1年7ヶ月で駆け抜けたわけで、あらためて彼のここまでの昇段ペースが化け物じみていることが分かる。

彼のここまでの昇段のポイントは、やはり2月17日の朝日杯優勝が大きかったと思う。
あそこで負けていたら今頃はまだ藤井六段だったわけで、ここで勝ったらものすごいことになるというその舞台で、期待通りに勝ちきってしまうのが彼の強さだろう。

それで次は八段昇段が期待されるわけであるが、報道によると藤井七段が八段になるのは(1)竜王位1期獲得(2)順位戦A級昇級(3)七段昇段後公式戦190勝の3通りのどれかを達成しないといけない。
(2)と(3)は3年以上かかるのが確実なので期待は(1)の竜王タイトル奪取になる。
これだと最短で今年12月の竜王タイトル戦で羽生竜王を倒すと八段昇段である。

もちろん竜王奪取は非常に困難な道のりであることは間違いない。
次回の竜王戦5組決勝で勝って本戦トーナメントに進み、そこで各組を勝ち残った強豪相手に5連勝してやっと羽生竜王との番勝負に進める。
その番勝負で4つ先勝すると晴れて竜王になって八段昇段、ついでに史上最年少タイトルホルダー(従来は屋敷九段の18歳6ヶ月)の誕生になる。

さしもの藤井七段でも竜王奪取はかなりむずかしいだろうけれど、しかしひょっとしたらと期待させてくれる感じが彼にはある。
いやほんとうに、強い人というのは単に強いのではなくて「ここ一番」で神がかり的に強くなるものである。

わたしも死ぬまでに一度でいいからそういう境地に達してみたかったなあ、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:31| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年05月18日

暴力より知力の方が強い件

なんか今、アメフトの「危険なタックル」問題がニュースでたくさん流れている。
わたしは、あまりまともにニュースの内容を見ていないので詳細についてはまったくよく分からない。
日大の選手が試合中にルールで禁止された危険なタックルをして相手選手が怪我をしたとか、そのタックルは実は監督の指示だったとかいう話らしいが、しかしアメフトにほとんど興味がないのであまりそれ以上掘り下げてニュースを読もうという気力も起きない。

しかしこの問題はけっこうな社会問題になっているらしくこの数時間頻繁にニュースで見る。
だから以下、問題を一般論的に敷衍して、想像を交えながらやや適当に考えてみる。

スポーツにしても経済活動にしても、近代以降における人類の活動はかなりの程度ルールに定められた範囲内で行うことが決まりになっている。
それ以前の大昔の人類は、暴力によって勝ちをもぎ取るようなやり方が主流だったと思われる。
しかし人類は文明的になるにつれてルールによる社会秩序の維持ということをするようになる。

古代ギリシャの哲人ソクラテスは「悪法といえども法なり」と言ったとか言わないとかいう話があるが、その頃にはすでに「ルールに従ったほうがよい」という秩序維持の考えが出来上がっていたことが想像される。

それで思うのだが、なぜ人類は秩序のある社会を重んじるようになったのかということだ。
別に野生時代のように、全部暴力で決着をつければいいんじゃないのか。
ルールを守るとか面倒くさいことを言ってないで、脅したり暴れたりしてものごとを思い通りにすればいいんじゃないか。
それで最終的に力の強い奴が勝ち残ればいいのではないか。

人類が暴力よりも秩序を重んじたというのは、結局のところ暴力より知力の方がよりパワーが大きいということに他ならないということだと思う。
人類が地球上で今日の繁栄を築いた理由は、人類がライオンより喧嘩が強かったからではなくて知力が優れていたからであるのは間違いない。

また同じ知力を用いるのでも、嘘をついて相手を騙すのではなく、正直を貫いた方が周囲からの信頼が得られて最終的にゲームに勝ち残る確率が大きくなる。
そういうことがゲーム理論で数学的にきわめて厳密に証明されているらしい。

いろんなスポーツでいちいち細かいルールが決められているのは、一定の制約条件の中で工夫して勝利することは非常に「人間的な勝利」であって、そのよい練習になるという側面もあるのではないか。

あと、ボクシングなどの格闘技でもそうだが、スポーツ中に意図的に相手に怪我を負わせるのはほんとうは「傷害罪」だと思うが、しかし意図的かどうかの判断が難しく罪に問いにくい。
さらに今回の問題のように「誰が指示したのか」ということもある。
しかしそれだと怪我をする方はたまったものではないので、専門家がよく吟味してもう少し厳重に刑事罰に問うようにするとか、それこそ人工知能で判定する仕組みを導入するとか、その辺もうちょっと厳しくてもいいような気はする。
posted by ヤス at 09:37| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月17日

見た目の地味な人

人の見た目はどれほどの意味があるのか、その人の中身との関係はどうなのかというのはよく分からないものである。

ちょっと前に初対面の人で、垢抜けない感じの好人物そうなおじさんとあいさつをしたのだが、少し話をしているうちにそのおじさんは文学や思想方面に博識な人であるというのが分かって、なんだかすごいなあと思ったことがあった。
わたしはイケメンと物知りでは断然物知りの人の方を尊敬する。
イケメンは、いけすかないだけであるが、物知りの人は話していると勉強になる。
それでは「イケメンかつ物知り」はどう思うかというと、その人の「イケメン部分」はあえて無視して「物知り部分」にのみ着目する。
いや、やはりイケメン部分を完全に意識の外に追いやるのは難しいかもしれない。
話をしている最中に、「ああやっぱこいつイケメンだわ、なんかいけすかねえなあ」とか思ったりするのかもしれない。

人間の容姿というものはある程度自分でコントロール可能である。
伸ばしていた髪をざっくり切るとか着ている服をファッショナブルにするとか化粧をするとかいうのが、容姿コントロールの基本になるかもしれない。
そして後は食事制限をして痩せる、筋トレしてムキムキになるとかいう風に、肉体そのものを食事や運動で変化させることもある程度は可能である。
さらに整形手術をして骨を削ったり肉を盛ったりして、外科的に肉体を変えることもできる。
整形手術では、例えば足の骨を継いで多少長さを伸ばすとかも可能なようだが、しかし背骨の長さを伸ばしたりして基本的な身長を大きくするとかいうのは難しかろう。

そう考えると人の見た目というのは、変容困難な部分もあるにはあるが、しかしかなりの程度自分で変えることができる気がする。

そして世の中には自分の見た目に気を使っている人とそうでない人がいる。
ひとまず「見た目」を見ることでそのあたりは一目瞭然に分かる。

だがこの地球上には某国のスパイみたいな人が暗躍していて、そういう人は目立つと困るのでかなり意識して目立たない見た目を心がけていることだろう。
そうすると、見た目を見ただけでその人が自分の見た目に気を使っていない人だと断言もできない。
実際、黒一色のリクルートスーツの一群のように、悪目だちしないためにわざと周囲に溶け込む服装に身を固めたりすることもあるのだ。

だから目の前に地味な感じの人がいても、いったいそれが意図した地味なのか無意識の「自然な地味」なのか判断をしないことには、その人が容姿に気を使っていない人であると断定することはできないのである。
ということで、見た目が地味な人の中身を見通すのはなかなか難しいなあとか思ったりしている。
posted by ヤス at 09:48| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年05月16日

ATMとキャッシュレス化

銀行が業績不振らしい。
そういうニュースがちらちら流れている。
まあ業不振とはいうものの、大手銀行もまだまだ巨額の利益を出していて赤字に転落したとかいうわけではない。
ただ、この数年の動きを見ていると銀行業界に吹く逆風は少しずつ確実に強くなっているように思われる。

その逆風を象徴する話のひとつにATMの問題があって、この数年ATMの稼働率がどんどん下がって掛かる費用に見合わなくなってきている。
ATMは一台設置するのにもけっこうな費用が要るし、電気代や修繕メンテナンス、中身の現金の集配などにも確実にコストが掛かっている。
特に最近は電子マネーなどの電子決済の利用が増えている。
日本は諸外国に比べてキャッシュレス化でかなり遅れを取ったというけれど、それでもキャッシュレス化は確実に進んでいるのである。
特にこのところの外国人観光客の増加で、キャッシュレスに慣れた彼らを相手に商売をするのには電子決済を導入していないと話にならない。
そういうことで都会や観光地を中心に、小規模店などでも今後電子決済が広がっていくものと思われる。
そうするとさしもの日本人の方でもだんだんと電子決済を使う人が増えていく。
そして現金を利用する人が減る。
現金が減るとATMの稼働率が確実に下がる。

おそらく近い将来、銀行は独自のATMを放棄して、コンビニとか郵便局とか、ある特定の会社が「ATM
サービス提供者」として各銀行に現金預け払いのサービスを提供することになるのだろう。

銀行の経費削減の動きから世の中のATMが減っていくと一般庶民の現金の扱いが今より不自由になって、これまで渋っていたような人々でも電子決済に移行する人が増える。
そうやって「キャッシュレス化」スパイラルが進行して近い将来日本でも、電子決済化、キャッシュレス化が進むような気がする。

ただそれだけでは済まなくて、今までお金が余っているところから預金で集めて足らないところに貸し付けで供給するという銀行の役目そのものが、今後大きく変わる可能性がある。
それが、現金決済から電子化することで急加速するような気がするのである。

仮想通貨とかクラウドファンディングとか「銀行を介さない」貨幣価値の移動手段が新しく出てきて、単なる現金輸送業務としての銀行業はちょっとずつしぼんでいくのだろう。

ただそれでも就活生の人気企業ランキングでは大手銀行は軒並み上位に並んでいる。
人々の脳裏に刻まれた「企業ブランド」の根強さを感じる。

ということで、やっぱり商売にとってブランディングはとても重要だな、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月15日

有印私文書を投函する

今朝、下駄箱の上に切手を貼った封筒を置きっぱなしなのが、ふと目に入った。

この封筒は本当なら昨日の朝に出すはずだったのに、なんやかんやしているうちに存在を忘れて約24時間放置してしまっていたらしい。
さあ今からシャワーでも浴びようかなと思っていたところではあったが、それでまた忘れると困ったことになるので、それでかなり面倒臭くはあったのだが、そのまま下駄箱から「つっかけ」を取り出して履き、徒歩3分の距離にある郵便局に向かった。

いや、本来なら徒歩1分のところに赤い郵便ポストがある。
そっちに投函する方がずっと合理的な選択といえる。
おそらく、徒歩1分のポストも3分の郵便局のポストも、朝の郵便物は集荷で一緒くたにされて中央郵便局かどこかに集められるのに違いない。
しかしこれは人間のサガというものだろうか、ぽつんと道端に心細げにたたずむ郵便ポストに投函するよりは、寄らば大樹とばかり白亜の郵便局の真ん前に誇らしげに立っているポストに投函した方が、何かより確実に届きそうな感じがする。

こういうところで合理的行動を貫けないのがわたしの弱さであろうか、と少し反省したりもしていたのだが、しかしよく考えてみるとそれ以前に、今の時代に紙の郵便物を物理的に送付しなければならないことの非合理について思いが至った。

世の中でEメールがポピュラーになってもう20年以上も経っているだろう。
そんな電子化時代に数百文字の情報が記入されたA4の紙切れを莫大なコストを費やして送付するのは恐ろしく理屈に反していないか。

ただわたしには、業務上紙の書類を郵送することがいまだになくならない理由はちゃんと分かっている。
それは「ハンコ」の存在である。
有印私文書は、その性格上なかなか電子的送付で済ますということにはいかないらしい。

ただ最近は携帯ショップでもハンコなしで契約ができる時代である。
近頃は「ハンコの不思議」についての議論も少しずつ聞こえてくるようになった。
そもそもハンコというのは、志賀島で発見された「漢の倭の奴の国王」の金印のように、皇帝からその地位を認められた各地の支配者が使ったりするものだった。
下々がハンコを勝手に作ったりすると首がはねられたりという時代がかつてはあった。
それが、時代が下って日本の戦国時代とかには、中央の権威が弱った影響もあったのか戦国武将が勝手にデザインした自分のハンコを使うようになった。
江戸時代以降にはそれまで母印とかで済ませていた庶民層も私印を使うようになり、明治時代になって法律によって印章制度が定められたそうである。

そういう経緯からすれば、偉い人から下賜された二つと無いハンコを押す場合か、あるいは戦国武将のように自分の文書に格好をつけてお洒落なハンコを押すというのが本来のハンコの押し方で、現在のように三文判でもなんでも押さないと文書の効力が発揮しないというハンコの押し方は邪道であるとしか思えない。

そんなことを思いながら、3分ほどかけてより遠いポストに封筒を投函したのだった。
posted by ヤス at 09:35| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年05月14日

今朝の出来事

今朝ジョギングをしていて帰って来る途中、路地裏の四角のところにいつものおばちゃんが立っていた。
「いつものおばちゃんが立っていた」件に関しては少し説明しないといけない。
世の中のおばちゃんは話をするのが好きな人が多い。
そのおばちゃんは、もう十分に「おばあちゃん」と呼んで差し支えない容貌と年齢だと思うのだが、ここでは若干の遠慮を込めておばちゃんと呼ぶことにするが、とにかくそのおばちゃんも話をするのが好きらしい。

どれくらい話好きなのか。
わたしが出かける途中にその四角を通り過ぎるときに、10回通り過ぎるうちの2〜3回はそこに立っていて、さらにそこに立っているときに会釈だけで済ますのは50%くらいの割合である。
で、残りの50%はどうかというと、おばちゃんは頭上の少し上くらいに片手をあげてひらひらと手招きをする格好をする。
ちょうど招き猫が手を挙げているくらいの高さであると思ってよい。
ちなみにそのおばちゃんは昔の人らしく背格好が小さい。
間違いなく身長145cmは下回っている。
しかし、おばちゃんとしてのフォルムが自然な感じで、ある意味体の小ささを感じさせないのは何か凄いなと思うことがある。

少し話が逸れた。
とにかくおばちゃんがそこに立っていると半分くらいの確率で手をひらひら手招きして、それにつられてこっちがいつも通りの会釈をして通り過ぎようとしていると、もうすでにおばちゃんは戦闘モードに入っているのだ。
とにかく目があった瞬間にはすでに話を始めている。
話の内容は、この間知らないおっさんがいきなり玄関に上がり込んできて怖かった、掛かり付けの医院の院長がもう引退しているのだが莫大に貯金して悠々自適な件、それから自宅前の植木鉢の花の種類と生育状況や最近近所に猫が増えたとか、とにかくいくつかのパターンをランダムに繰り返す感じである。

わたしは本来、人と話をするのがおっくうでかつ非常に冷たいタイプの人間であると自己認識している。
だからいつもならこの手のおばちゃんには、せいぜい「ちわーす」とか言って相手が話を始めたのを無視して通り過ぎるのが関の山である。

しかしこのおばちゃんはひょっとしたら「ジェダイ」で、フォースでも操っているのかもしれない。
あるいはこのおばちゃんは、地球上でわたしが唯一無視できなかった話好きの人類かもしれないと思う。

で、今朝もおばちゃんは立っていて、やはり招き猫の高さで手をひらひらさせている。
ここは「ちわーす」とだけ言ってジョギング中を口実に走り抜けようかと思っていたその矢先、おばちゃんはわたしのすぐ後ろに出現した作業服姿の若いお兄ちゃんに向かって話し始めた。

手をひらひらさせていたのはわたしに向かってではなく、作業服の若いお兄ちゃんに向けてだったのだ。
その時わたしは、10代の頃に少しだけ味わった甘酸っぱい感情を思い出していたような気がする。
やはりあのちっちゃいおばちゃんは、「ジェダイ」に違いない。
posted by ヤス at 09:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月13日

MRJの残した教訓

最近国産ジェット旅客機MRJ関連のニュースがまた少し増えたように思う。
5月になったからだろうか。
3月決算関連の発表などがあって、あらためて三菱重工グループの財務内容がクローズアップされているのかもしれない。
MRJの開発にあたっている三菱航空機は三菱重工が64%出資する子会社であるらしい。
その子会社の三菱航空機はMRJの開発費がかさんで1000億円くらいの債務超過に陥っている。
それを親会社の三菱重工が債務超過解消にむけて2018年度内になんとかしようという話である。

で具体的な債務超過解消の手法はどうするのかというと、三菱航空機が三菱重工から借りている借金を株式に転換するそうだ。
報道によると2017年3月末時点で重工からの借入は3600億円を超えており現在さらに増えている。
だから債務超過のためのタネは十分にあるわけだ。
これにより貸借対照表の「債務」が減って「自己資本」が増えてめでたしとなるのかというと、これがそうでもないから難しい。

現在三菱航空機への出資は重工が64%の他に三菱商事とトヨタが10%ずつ、他に商社その他が10数%出している。
この状況で重工が借入1000億円分を株式に転換すると出資比率がたちまち増えてバランスが崩れる。
だからトヨタとか三菱商事など他の出資者にあらかじめ相談して応分の出資を仰ぐ、というのが普通の流れになるのだろう。

そういうやや複雑な交渉を残しているので「2018年度中」と実施時期に幅をもたせた表現になったということだと思う。

前にも書いたと思うが、MRJをめぐる環境は非常に厳しい。
大型旅客機の二大巨頭であるボーイングとエアバスが、中型旅客機専業メーカーであるブラジル・エンブラエルとカナダ・ボンバルディアとそれぞれ提携することがすでに明らかになっている。
ボーイング、エアバスとも今後急成長が見込まれる50〜100席クラスのリージョナルジェット機市場を押さえておこうと、当然のように手を打ったということだと思う。

ということで少し気が早いがMRJはほぼ失敗が約束されているように思われる。
今のところMRJの受注予約のキャンセルは先日のイースタン航空の40機しか出ていないが、他のところだってどなるか分からない。
これは「こっちの方からキャンセルを申し入れる」と交渉上不利だから三菱の方が「参りました」というのを単に待っているだけのように見える。

MRJがここまでひどい状況になったのは、もっと早い段階でやるべきこと、できることを片っ端からやらなかったせいであると思う。
三菱航空機では最近になって人材のリストラを進め、開発経験のある外人スタッフを大幅に増やしたりしているらしい。
それを最近になってやっと着手したのは「日本人による開発」にこだわりがあったのかもしれない。
エンブラエルがボーイングと提携したのだって、MRJが開発初期の段階でボーイングと提携交渉していればなあとかつい思ってしまう。

MRJプロジェクトを見ていると、何か難しいことに挑戦するときは、やるべきこと、できることは少々無理を押しても全部やっとかないと後で泣きを見る、そして大いに後悔が残る結果になるんだなあということである。
少なくともMRJはそういう教訓は残したと思う。
posted by ヤス at 15:36| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月12日

人生は運まかせか

最近の日本人の平均寿命は、女性の方がいくらか男性を上回ってはいるものの、男女共おおよそ80歳くらいである。
それでそういう多くの日本人の人生、それはだいたい一個あたり70年とか80年とかそれ以上になると思われるが、それを一個ずつ検証した時、それがどれだけ合理的になっているか、最適化されていて無駄がないか、当初構想された戦略の通りをたどっているかどうかを考えた場合。

多くの人の人生は、その足跡がほとんど脈絡がないように見えるのではないか。
いや自分は幼少の頃から将来を夢見て、自分の頭で考えて研鑽を積み、例えばプロ野球選手になったという人もいるのかもしれない。
だがそのような「目指して頑張らないとなれない職業」の人々でさえ、その途中に運や偶然に左右され、本当はサッカー選手になるかもしれない場面もあったりしながら野球選手になったのかもしれない。

野球をやめた後の人生というのも待っていて、おそらく引退後の目標通りに監督になるとかいう人は、プロ野球選手になるのからさら狭き門になる。
つまり思い通りにいかない人がそこでまたいくらか発生することになる。

というか、プロ野球選手になり、監督になり、人生の晩年はテレビ解説とか球団経営者とかそれなりのキャリアに収まっているような「成功者」でさえ、それが当初の人生設計通りなのかというと、たぶんそんなことはない。
多くは「あの時のたまたま」に左右され、気がついたら今のポジションにいたというのが真相ではないか。

別に長期の目標を立てて頑張る人生を否定するような論陣を張ろうというのではない。
人生における合理的な選択、効率的な行動を目指すのが意味ないわけでもない。
人は一生懸命脳みそを絞って論理的に行動し、もっとも無駄のないキャリアを目指したいと常に思っている。
どんな時もそのように行動しているかどうかはともかく、「そのように合理的でありたい」と願っているのはたぶん間違いない。

ところが一部の「成功者」を除いて多くの人類は合理性からは程遠いように見える。
そしてよほど合理的で努力家である一握りの人々でさえ、自分自身の人生を完璧にコントロールするのは不可能である。
というか、ほぼほぼ運命に翻弄されっぱなしの中を懸命に前に進んでいるのにすぎない。

人類は賢くてお得な選択を常に望んでいるが、その選択は多くの場合賢くもなくお得でもないという矛盾は現実としてある。
いや、その選択が結果的に賢かったのかお得だったかは、人生が結末を迎えるまでは分からない。
そう考えると賢くお得な選択を目指すというのは、実はあまり賢くないことのではないか。
そういうどうでもいいことを少しだけ考えたりした。
posted by ヤス at 09:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月11日

「小説」のむずかしさ

小説を書くのはおそろしく難しいと感じる。
百戦錬磨のベテランの書き手なら、鼻歌まじりでさらさらっと書き上げるのかもしれないし、そうではなくいつまでも難しいのかもしれない。
そこはよく分からない。
熟練の大工さんが家を建てる時、その大工さんがよほどの達人であれば、図面も引かず適当に材料を見繕って建てるのだろう。
それでなおかつ出来の悪い大工より工期も出来具合も素晴らしいのが完成したりするに違いない。

そういうのと同じ感じがどうも小説を「製造」するのにもあるように思うのだが、素人は小説を書く前にまず入念に図面を引き、材料をきっちり揃えてから作業にかからないといけない。
そうでないとあるべき材料が不足して工事が遅々として進まなかったり、完成したはいいものの二階建てにしたのに階上に上がれないのが出来たり、散々の結果が待っているに違いない。

いやおそらく、ちゃんとした「図面」なしだと素人小説は永遠に完成に至らない。
それぐらいに書く前の構想段階は必要不可欠で重要だと感じる。
それというのも小説というのは、多くの場合何を書くのも作者の自由である、ということがある。
街をぶらぶら歩いていて、突然呼び止められて、真っ白なキャンバスにさあ何でもいいから何かを描けと突然言われて、そこでスラスラと何かを描ける人はよほどの天才だろうと思う。

やはり小説を書くのにも「書きたい何か」がないと話が前に進まない。
それは一般には「主題」とか「テーマ」とか呼ばれる何かである。
男女の愛憎劇を書きたいとか人類の存在論的な矛盾点を掘り下げたいとか、あるいは誰それをモデルにしてその生き様を描写したいとか、そのテーマのようなものはいろいろな形でありうる。
それはある程度明確に決まっていた方がいいような気もするし、しかしそこそこ曖昧で、書いている途中に変性していった方が広がりや深みが出ていいとかあるような気もする。

とにかくも、書きたいテーマのようなものを発見したらあとは登場人物を決定したり、お話が展開する場所決め、登場人物それぞれの経歴やキャラクター、相互の人間関係などを「地道に」設定していく。
思うに、「テーマのようなもの」は突拍子もなかったり、作者の独善による強引なものであってかまわない。
しかし「設定」に関してはなるべくリアルに緻密に考える必要があるように感じる。

設定が緻密だと読者をケムに巻きやすいというのがあって、テーマが多少的外れでもなんとなく読者をだまし通せそうな気がする。
このようにすれば作品の商品的価値はいったん横に置いておくとして、「小説」の一丁上がりである。

ひょっとしたら小説というのは誰でもかんたんに書けるのではないか、だんだんそういう気がしてきたりする今日この頃である。
posted by ヤス at 10:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月10日

「小説」を書くことについて

昨日は「小説を読むこと」の意味について少し考えたのだが、それで結局結論までは出ていない気がするのだけれど、今日は「小説を書くこと」について考えてみることにする。
というのもこの間実際に小説を書くことがあって、それで人生で初めて「小説」についていろいろと考える機会を得た。
その時に感じたことなどを振り返ってみたい。

まず何が「小説」かというのが難しい。
それによっては、小説を書いたつもりが、実は小説ではないものを書いていたということになりかねない。
起承転結のような抑揚のある物語があればよいのか、なくてもいいのか。
登場人物は何人くらい必要か、あるいは登場人物のいない小説もありうるのか。
考えてみるとその定義はますます分からなくなる。

ところで漢字で「小説」と書くけれど、この語源は古代中国の歴史書「漢書」から出たらしい。
市中の出来事を王様に伝える文章として「稗史(はいし)」というのがあり、その稗史の中でも巷に伝わる伝承話とか王様にとっては特に価値のない「どうでもいい話」のことを特に「小説」として分類したらしい。
なるほどそれで「小説」の頭の「小」の字のニュアンスが分かった気がする。

さらに小説は英語では「novel」である。
これは「new story」を意味するラテン語が元であるらしく、つまり「新しい物語」ということらしい。
また「新しい物語」と同時に「奇抜な物語」というニュアンスもあるそうだ。

これらを無理やり総合すると「世間に流布している、取るに足りないけれどちょっと新しく、一風変わった物語」であれば「小説」または「novel」と呼んで差し支えない。
そういうことになりはしないか。

つまり「小説」というのは、世界を揺るがすような大事件を描く必要は特になく、その辺に転がっている日常の風景を描くのでまったく構わない。
むしろそちらの方が「取るに足らないお話」たる「小説」にふさわしい。

ただそこに、少しだけ新鮮に感じられる何か、心に引っ掛かる要素をどう加えるか、そのあたりが小説の品質に大きく影響を与えるのだろうと想像する。

しかし語源というのは調べてみるものだと思った。
世の中の取るに足らないどうでもいい話を書き連ねて、十分にそれが小説の範疇に収まるのであればこれは気分としてはぐっと楽になる。
後はこれが「new story」になっているかどうかだ。
そこが次に考えるべき宿題であるかもしれない。
posted by ヤス at 08:50| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月09日

「小説」の効用について

突然だが、少し「小説」というものについて考えてみたい。
わたしの読書量は、おそらく世の中の平均値より上だとは思うが、しかし読書家と言われるような種類の人々に比べるとそんなに多くない。
なかでも小説というジャンルの書籍を読むことはこれまであまりなかったように思う。
わたしがこれまでに読んだ小説といえば司馬遼太郎や宮城谷昌光などの歴史もの、吉村昭などのドキュメンタリー的なものが中心だった。
いわゆる純粋に文芸的な小説は、食わず嫌いというのか、読めばそれなりに面白いというものもあるにはあったが、あまりそればかりを読むということにはならなかった。

後、読書といえば科学や歴史などに関する新書(といっても電子書籍がほとんどだが)なども多いかもしれない。
とにかく、司馬遼太郎作品で読むものがなくなり、宮城谷昌光も文章に漢字が多くて読み疲れするようになって、歴史小説さえもここ数年やや遠ざかっている。

自分が小説を読まないことには少し心当たりがある。
小説にはいわゆる実利性というのが乏しい。
つまりあまり生活の役には立たない。

役に立たないということでいえば、人類のDNAにネアンデルタール人の成分が何パーセント入っているかとかいうような話の本を読んでもまったく役には立たない。
だがそういうサイエンス的な本を読むと少し賢くなった気分がする。
一方小説というのは、それを読み終わった後にオレは賢くなったぞと思うことがない。
娯楽的な小説などは読んでいる間確かに面白さを感じている。
脳内である種の快感物質が出ているに違いない。
しかしそれだけのことである。

また純粋文芸的な小説、例えば村上春樹のものはどこがどう面白いのか、あるいは多少人生の役に立つ教訓でも紛れ込んでいるのか、そのあたりの「効用」の在りかがまことに分かりにくい。
ただ何となく引き込まれる感じがして(それさえ感じない箇所もあるが)、読み終わった後何となく感動したような、していないような微妙な心情になる。

世の中の文芸小説というのは、そういう掴み所のなさ、あるいは解釈の幅の広さと言ってもいいかもしれないが、そのような分かりにくさに存在意義があるのかもしれないと今改めて思う。

ところで現在の日本国内の書籍市場というのは、雑誌やコミックなど合わせて1兆円を超えるくらいらしい。
データによっては1兆7千億円くらいとするものもあるが、書籍分類の仕方や電子版の扱いでかなり幅が出るのかもしれない。
そういう数字を眺めてみた感じ、日本国内における「小説」の市場はざっと2千億円くらいのように見える。

文字が読める日本国民一人当たり、おおよそ年間2千円とか3千円とか払っている勘定である。
世の人々は小説にいったい何を求めて金を払っているのだろう。
そこのところがわたしには明瞭には分からないわけであるが、しかしそうこうするうちに紙幅が尽きたのでまた今度落ち着いて考えてみようと思う。おしまい。
posted by ヤス at 08:35| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月08日

最近「M」が続き過ぎている件について

人間はいろんなものを食べる。
人間ほどいろいろと多岐にわたるものを食べる動物はいないだろう。
それが人間の大きな強みのひとつであると考えられる。
前にも書いたが、数百万年前の原始人類はまず二足歩行を完成させたがその時の脳みそはまだチンパンジー並みだった。
それが、前脚(腕ともいう)が自由に使えることでハンティングの道具を操ったり出来るようになり、大型動物、牛とか猪とかマンモスとかを狩って食べることが出来るようになったという。

こうして日常的に肉食が可能になった人類はそれ以前と比べてカロリー摂取や脳機能の維持に重要なある種の脂肪分確保が大きく改善され、脳容量・機能の大幅な進化が可能になったそうだ。
また人類は、大型哺乳類だけではなくて、小型動物や昆虫や、魚類・貝類などの水生動物なども貪欲に食べる。
もちろん植物も、木の実やフルーツやキノコに葉っぱもの、海藻類など摂取可能でありそうなものは何でも食べることができる。
なんならドングリを水につけてアク抜きをしたり火を通して毒素を抜いたりして食べたりもする。

おそらく何人もチャレンジして命を落としたであろうトラフグだって、捌き方をマスターして食べる。

今日人類が地球上のあらゆる地域に分布し、ほんの一瞬であったが38万キロメートル彼方の「月」の地面をも踏み、数年後には火星に到達しようと計画を練っていられるのも、人類の「なんでも食べることが出来る」能力のおかげに違いない。

ところでわたしは今のところそんなに食べ物の好き嫌いはないのだが、しかし苦手な食べ物はいくらか存在する。
例えば納豆。
あのネバネバの食感と唯一無二の「香り」のコンビネーションはいまだに慣れない。
あとセロリとかも食べるときに少しだけ躊躇する。
これらのものは食べろと言われればまあ食えないこともないという程度である。

しかし世の中には食物アレルギーというのがあって、これは子供だけでなく大人でもある日突然発症するというから恐ろしい。
アレルギーというのは、体内に「非自己」の異物が侵入することを防ぐ免疫機能の暴走であるようだが、人類はこれまであまりに多種多様のものを食べてきたので免疫機能が追いつかなくなったのだろうかと思ったりする。(根拠はない想像です)

まあ人類は生物種としてなんでも食うことがアドバンテージであって、個体としてはそれぞれ好きなもの、食べることの出来るものを食べれば良いのだと思う。
個人的な感覚からは、食べる種類よりも、食べ過ぎとか食べなさ過ぎとかアルコールの過剰摂取とか、量のコントロールが重要な気がする。(これも単なる個人の感想です)
ということで最近「M」の朝飯が続いたので明日は少し変えてみようかと思っている。おしまい。
posted by ヤス at 08:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月07日

初めて会う人の顔の記憶

わたしは初めて会った人の名前や顔を憶えるのは比較的苦手なたちである。
特に仕事上で一度名刺交換したくらいの接触度合いだと、はてこの人は前に会ったことがあったかな、それとも初めて会う人だろうか、とほぼ必ず迷う。
それでも中には、ああこの人は前に会ったなあと憶えている人もいる。

「エピソード記憶」というのがあって、人は単純に会った人の顔だけを憶えるのよりは、その記憶に結びつくような「出来事」とセットで憶えると記憶が定着しやすく思い出しやすい、そういうことがあるそうだ。
だから初めて会ったのに二度目に会って憶えている人というのは、前回よほどの「出来事」があったに違いないのである。

しかし実際には、憶えている人に関し何かよほど大きな出来事があったかというと、そういう記憶が頭に残っているわけでもない。
おそらくその出来事は、大事件というほど大げさである必要はなく、何かちょっとした引っ掛かり、例えばこの人は無精ヒゲが濃いなあとか背広の色が青いなあとか、そういうささいなことが記憶のフックとして機能し、その人を憶えることにつながる気がする。

逆にいうと、わたしがたまに名刺交換する多くの初対面の人々は、たぶんわたしのことをほとんど憶えていないのではないか。
中には、「ずいぶんと汚い格好したおっさんだなあ」とか「やたら眠そうな顔をしているなあ」とかわたしの姿を見た瞬間に感じることがあって、それがフックになってわたしのことを記憶に留めてしまう気の毒な人もいるかもしれない。

だから犯罪を犯すとかCIAのスパイをやるとかでなるべく人々の記憶に残らないようにするためには、記憶のフックになりそうな特徴をなるべく消してごくニュートラルな感じを装う、そして挨拶をした時も多くを語らず、しかし語らな過ぎて「なんだか妙に無口な人だな」とか思われない程度にあたりさわりのないことをしゃべる、そうすると無事に相手の記憶細胞に自分の印象が格納されることを免れるのだろう。

記憶といえば、例えば日本国憲法の全条文を暗唱できるとかいう人がたまにいる。
文字情報はデジタルなかたちの情報なので、一字一句間違えずに記憶する「完全記憶」が可能である。
しかし人の顔を憶えるとかいうのは、顔の形が細いとか太いとか、目が大きいとか小さいとか、形状の諸要素には微妙なグラデーションがあるので、これを完全記憶するのは不可能だろう。
特に面会頻度の少ない人の顔面形状は実はほとんど憶えていなくて、ポイントになる要素を少しだけ記憶していて本人に再会して記憶内容が修正され強化されてだんだんとその人の顔をしっかり憶える、そういう感じになっている気がする。

そうやって考えると「言語」とか「文字」とかのデジタル情報の発明は、人類が持つ記憶機能の活用の観点からかなり画期的であったことが想像される。
しかし文字などのデジタル情報というのは現実世界を相当程度抽象化し、余分を省いて記述するやり方なので、それが表現できるのはかなり不完全な世界であることに注意が必要だ。

最近はスマホも普及して現実世界を写真や動画でかなり克明に残せるようになった。
初めて会った人も後でフェイスブックの写真を見れば「ああかんな顔をしていたか」と記憶強化が簡単に出来る。
これは人間の記憶機能の拡大という観点から実はかなり画期的なことではないか、などと思う今日この頃である。
posted by ヤス at 08:01| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月06日

騎馬民族匈奴の出現のいきさつ

昔、2千年以上昔のアジア大陸、中国の北方のゴビ砂漠のあたりに「匈奴」と呼ばれる遊牧騎馬民族が存在した。
日本で言えば弥生時代が始まって間もない頃のことだと思う。
匈奴は古代中国を描いた歴史物語にはたびたび登場し、最初に出てくるのは「戦国の七雄」の時代、秦の始皇帝が中国大陸を統一する直前だろう。

七雄のうちの一国の「趙の武霊王」が、自国の兵にズボンを履かせ馬に直接騎乗して戦う「胡服騎馬」を採用して戦力アップを果たしたわけだが、おそらくそのモデルは趙のすぐ北方を跋扈していた匈奴たちの姿であったと思われる。

古代中国の戦国時代には、土造の原始的な構造ながら既に「長城」が築かれているのでその当時から北方騎馬民族による侵略・略奪行為は始まっていたようである。
というか、どちらかというと黄河流域で沸き起こった中華文明が東西南北にどんどん拡張していって、北の端で初めて異民族とぶつかったのがゴビ砂漠の南の端のあたりだった、ということかもしれない。
それまで平和裡に暮らしていた遊牧民族は、勝手に草原地帯を耕して畑にしていく農耕民の出現に驚き、狩猟で培った騎乗・騎射の技術を活かしてにわかに一軍を催したのではないだろうか。
そういういきさつは専門家の本にも歴史小説にもほとんど書かれていないのだが、素人の自由な妄想の中ではそういう風景が浮かんでくる。

草原というのは、灌漑をして水を引きいったん耕して畑にしてしまうとなかなか元の草原には戻らないものらしい。
おそらく周辺の天候条件と土壌の乾燥具合のバランスの中でこそ緑の大地が保たれるということがあって、草原地帯をものすごい勢いで耕していく農耕民族は、草原を重要な生活基盤とする遊牧騎馬民族にとってはたいへんな脅威であったはずだ。
だから自分たちのテリトリーを侵す農民たちに定期的に打撃を与えてその北上を防ぐというのが年中行事のひとつになった。
遊牧民族たちはそのための襲撃技術や遁走術を磨いていくうち、それが本格的な軍事技術に変貌し、中華文明の正規軍をやすやす打ち破るほどに成長したのではないか。

「匈奴」というのはその人種的な分類とか、使用していた言語や文字の判定とかが不明の謎の民族である。
しかし上記想像したように「中華文明の北方拡張」が、そこにいた遊牧民を激しく刺激して、「匈奴」というひとかたまりの戦闘集団を生成した、そういう側面があるような気がする。

その辺のいきさつは、アフガンのタリバーンとか、ISとか、現在政情不安定な中東周辺の状況と若干の共通部分もなくはないと思う。

おそらく農耕民族というのは、自分たちの地道な「農耕活動」が匈奴のような存在を作っていることに無自覚なのではないか。
というのは根拠薄弱な歴史素人の妄想で、甚だ不確かな想像の域を出ない。
posted by ヤス at 10:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月05日

非日常体験と退屈

ゴールデンウィークも残り少なくなってきた。
多くの日本人が連休の間、全国の観光地に繰り出し、あるいは海外に渡航して束の間の非日常を楽しんだことだろう。
そして少なくない人々がそれらの観光地で押し寄せる客を相手にせっせと商売に汗を流したのだろう。
(まだ終わっていないが)

それでもう帰省ラッシュが始まっていて、主要な高速道路とかは大渋滞に見舞われている。
しかしこのような光景は、年間に数度ある大型連休期間中のいわば風物詩である。
だから高速道路で渋滞が20kmとかいっても、「去年は22kmだったけな」とか思ってなんとか我慢できるのに違いない。

大型連休で観光地に繰り出すのは一種の「非日常体験」であるが、しかし一年を通した繰り返しの行事として見てみればやはりこれも日常風景の範疇を出ていない、と思えなくもない。

ところで大型連休のたびに人々が観光地に繰り出したりするのは、やはりたまには新鮮な刺激を入れないと人生が退屈になるからだろう。
しかし5年10年のスパンで俯瞰してみると、連休のたびに少し遠出をして観光をしたところで「なんか連休でドライブもそろそろ飽きてきたな」とか思ったりするのではないか。
それで今年は思い切って家で存分にごろ寝をして過ごしたりすれば、あるいはそれが新しい非日常になるかと言えば、そうでもない。

非日常というからにはそれなりの強さの「刺激」が必要なのであり、それは家でごろ寝では得られない。
やはりいつもいる場所とは違う場所にテレポートし、会ったこともない人、それがどこにでもいそうなありふれたおじさんおばさんとかでも、そういう初めて顔を見る人とひとことふたこと会話を交わすとかうのでも、それなりに非日常な感じがする。

おそらく人間の脳みそは、想像以上に退屈しがちなものらしい。
赤ん坊の頃は何をするのも初めてで新鮮で、驚きの連続であったものが、だんだんと人生経験というのに慣れが出てきて、過去のデータベースの引き出しの範囲でいろいろとやり過ごすことができるようになってくる。
それは20歳代30歳代くらいならまだしも、40年50年と生きてくるとどんどん新しい刺激が薄まってきて、これは脳みそ的にはけっこうクライシスな状況なのに違いない。

だから人々は連休のたびに刺激を求めて遠方に繰り出す。
だがその年に数度の刺激もまた年月を経るうちに効果が薄れる。

何十年も生きてなお脳みそを退屈させないよい方法としては、日常生活の中に非日常的体験がしょっちゅう出て来る、そういう波乱万丈な毎日を送るのがいちばんである。
しかし見渡したところ、そのようなけっこう疲れる波乱万丈の毎日を送っている人はそんなには多くないかもしれない。
しかしそれでも各人類が首の上にいただいている脳みそは、定期的に刺激を求め、刺激を得るために連休のたびに遠出をして渋滞に巻き込まれる。
なんとも因果な人間のサガである、と思わずにはいられない今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 09:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月04日

ゴム膜としてのルール

この社会にはいろいろとルールがある。
法律とか条例とかそれを破るとなんらかの罰を受けるのもあるし、道徳とか倫理観とか、なんとなく社会的に共有されているゆるいやつもある。

生きているとたびたびこのルールにぶつかることがあって、なんなら時々破ってしまうこともある。
車で道を走っていて制限速度を超えることなんかはよくあるし、「このことは誰にも言わないで」と言われて聞いた話をよそでべらべら披露するようなこともあるかもしれない。

ルールの破り様にも様々あって、意図的に「悪意」を持って破ることもあれば、ついうっかり、知らない間に破っていて、あれいけねえと思うこともある。
とにかく、この世にはルールがあり普通に生きているとたまにはそれを破ることもあるのである。

そうやって考えると、「ルール」のイメージについてのある想念が脳内に浮かんで来る。
それはトランポリンに張られた布のような、あるいはゴム風船の表面のような弾力のあるゴム膜のようなものの気がする。

ルールに関して「セーフ」と「アウト」の二つの領域があってその二つの世界を分けている膜が「ルール」である。
人々は普段は「セーフ」の領域で活動しているが、何かの拍子に「ルールのゴム膜」に近づいて行ってそれを突き破ろうとするような格好になる。
だがその膜には弾力があってある程度の「破り具合」であれば膜に穴が開くことはなく、その弾力によって人々を「セーフ」の領域にそっと押し戻す。

そういう、ルールを破りがちな人には都合の良すぎるイメージを想像してみたのだが、しかし実際問題、ルールの種類によってはみんなしょっちゅう破っており、それにいちいち全部罰を与えていると世の中が忙しくなり過ぎるという側面は間違いなくある。

だからゴム膜を突き破って穴が開いた案件のみ罰を与える。
どんな時に膜が破れるのかというと、実はそれはかなり偶然に左右されるいい加減なもののような気がする。
いや、膜が破れるかどうかは「運次第」なのは間違いなく、この間は大丈夫だったのに次の時は驚くほど簡単に穴が開く、みたいなのが普通なのである。

ルールというのは人間が作ったものなので、これによって犬や猫が罰せられることはない。
それどころか人間でも、ルールを承服しない、つまり国家とか世間とかを承服していない人は実は原理的にはルールの仕組みの外側にいるとも考えられる。
つまりルールのゴム膜の形、構造は人によって全然違っている可能性だってある。

気まぐれで捉えどころがなく、しかし突然罰を与えて来たりする「ルール」とは、そういうイメージで付き合った方がいいんじゃないかとふと思ったが、まあそういうことでもないのかもしれない。
posted by ヤス at 07:45| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月03日

集中の極意

人間というのは、時になかなか集中出来なくて苦労することがある。
というかわたしの場合、苦労することが多い。
仕事でもなんでも、パソコンを目の前にして、よしこれから集中してがんばるぞと思っている時ほど集中出来ないものである。
さあ集中するぞとか集中しなきゃあとか思っている時はたいていあぶない。
そのように思っている時の精神状態はどちらかというと集中からかなり遠いのである。

よく言われることだが、世間一般で言われるようないわゆる「集中スイッチ」というのは存在しなくて、その仕事に集中するための最良の方法は「とりあえず始める」ことしかない。
とりあえず始めてほんのちょっとでも集中し始めた時にようやく、脳みそのどこかでぱちぱちとスイッチが入り始める。

で、わたしがそんな当たり前のことをなぜ今わざわざ書いているかというと、頭でわかっていてもその「とりあえず始める」のがなかなか難しいことがあるからである。

清水の舞台から飛び降りようというのでもなく、想像を絶するような難しい数学問題に取り掛かろうというのでもない。
それでもなんだか腰が重いということが少なくない。

それはなんでだろう、どんな時に特に腰が重いかと考えてみた。
それはたぶん仕事を進める手順がどれくらい具体的にイメージ出来ているかが大きい気がする。
それともうひとつ、「俺なら出来る感」とでもいうのだろうか、いったん始めたら一定時間後にはそれなりに出来ているに違いないという自分自身への自信。
そういう「出来る感じ」の有無がかなり大きい気がする。

出来る感じさえあれば少々ややこしい作業であっても案外気楽に取り掛かれたりする。
逆に、たぶん簡単な作業に違いないとは思うのだが今までやった経験がなくて「出来る感じ」が自分の中に具体的に出来ていないと、始めるのが億劫であったりする。

ルーティンワークの繰り返しではこういう問題は少ないのかもしれないが、不定形の仕事が連続するような状況、例えばクリエーター系の仕事の場合なんかは未知の作業が次々現れて「出来る感じ」を持つのがかなりしんどいのではないか。

だからこういう仕事の場合、「俺はなんだって出来るスーパーマンだ」くらいに思える能天気か、よほどタフなメンタルの持ち主でないと務まらないだろう。

わたしの場合、能天気がまだ少し足りてないのかもしれない。

あと、スタバやマクドやファミレスなどの雑然とした雰囲気の中の方が集中出来るという話があるが、あれは集中を開始するための十分条件ではなくて、運良く集中し始めて以降に、その状態を「維持しやすい」というだけのことだと思う。

考えてみるに、集中に関してはもう40年以上も悩んで来たような気がする。
結局悩むだけ無駄だったということか。

ということです、集中するためには「集中しよう」なんて思わないのが一番、という禅問答のような答えをもって今日の結論としたい。
posted by ヤス at 08:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月02日

誤った一般化の集積

ちょっと前にテレビの報道番組かなんかで、どこかの企業の採用担当者がインタビューに応えていた。
いわく、「ここ数年の若い人の特徴として、指示を受けるまで行動しない、自分で考えて仕事を作るのが苦手」うんぬんかんぬんと言っていた。

その時にちょっと思ったのであるが、こういう「今の若い人に対する愚痴」のようなことは、ずいぶんと大昔から同じように言われていた気がする。
わたしが「今の若い人」だった30年くらい前にも同じように言われていて、その時は頭を掻きながら「いやあどうもすみません」などと思っていたけれど、しかしよく考えてみるとこのような若い人への愚痴は根拠薄弱なこと甚しい。

いや、おそらく生まれ育った「時代性」の影響というのはとても大きくて、各世代ごと時代による気質の差異は確かにあるに違いないと思う。
ただ一介の企業の採用担当者が全てを悟ったかのように若者一般の傾向を語るのは間違いの元である。
こういうのはきちんとした学術的統計データに基づいて語るべきで、その若者の傾向はたまたまその企業の新人だけの特徴かもしれず、あるいは10人採用した中の3〜4人だけのことかもしれない。

世間的にかなりちゃんとした企業の採用担当者がスーツにネクタイ締めて「今の若者は」とやると、それが真に迫っていて社会的な影響も大きかろう。
たぶん何年も長生きしていると、少し経験の浅い人間を見てなんとなく頼りなく、今ひとつ信頼しきれないと思うのは人類にとって数千年も前からの「伝統芸」かもしれない。

限られたサンプルを見て、きちんとした比較対照もなしにこうした決めつけをするというのは、しかしよくある人間のサガであって、誰でも陥りうる誤りだろう。

企業の採用担当者の取るべき態度は、日本全体の新人のことを論じるのではなく、彼が担当し影響を及ぼしうる目の前の新入社員個々の傾向を読み取って対応することであるに違いない。
まあ、そういう意味ではどこかの企業の人が「今の若者は」と大上段に構えたところで大した意味はなく、ただの会話上の枕ことば程度の話なのかもしれないが。

しかし目の前の現象事物をニュートラルに捉える、あくまでもサイエンティフィックに処理することのなんと難しいことだろうか、というのはたまに思う。

いろんな差別問題や宗教対立や民族紛争、国家間対立とか、人類が長年抱えてきた多くの問題の根っこには、上記のような人々の「誤った一般化」の集積があるような気がする。

だから問題は軽いようであり、しかしかなり重大でもあるような気がする。

まあわたしとしては甚だ不完全な人類の端くれとして、物事をニュートラルに見るべきことを折に触れ思い出すよう頑張るしかないか、などと思う今日この頃である。

posted by ヤス at 07:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月01日

好きとか嫌いとかについて何となく

人間には「好き」とか「嫌い」とかいう感情があって、その対象は誰か他の人間だったり食べ物だったり絵画とかアイドルとかいろいろある。

この「好き」「嫌い」の起源を考えてみた時、あの人は大好きとか納豆は苦手だとかいう気持ちの発生源はなんとなく分かるのだが、「ゴッホの絵は嫌い」だとか「乃木坂にハマってます」とかいうやや込み入った好き嫌いはどういう風に出来上がったのだろうかと思う。

人が誰かのことを好きというのは、人類以前のはるか昔、サルの時代くらいから、自分を守ってくれる親ザルや群れのボスザルとかを頼りにしていた感情が元にあるのだろうか。

で、ある種類のサルは同類のサルであっても自分の子供でなかったら殺してしまったりとか、時に残酷な幼児殺しをしたりするそうだ。
また群が違うとケンカもするだろうし、同じ群れの中でもイジメとかあって、そういう場合被害者のサルは加害者のサルのことをよく憶えて嫌いになるに違いない。

食べ物の嗜好の好悪も毒があったり栄養があったりの目印として好きな味、嫌いな味がだんだん出来ていったのだろうか。

そこへいくと、ゴッホの絵が好きとか嫌いとか、例えば芸術方面におえる好き嫌いはどういう風に出来たのだろうかと思う。

ラッセンの絵のクジラを見ているうちに心が穏やかになっていくとか、あるいはピカソの「ゲルニカ」を見てなんとも言えない気分になるとか、芸術の感じ方は千差万別にあって、その多様な感情があった後にその絵が好きだ、ということになったりする。

単純にハンバーグが好きとか三軒先のオヤジが嫌いとかと比べると好悪の情の構造がかなり複雑であるように思われる。

テレビタレントとかアイドルなどのいわゆる有名人には「ファン」というある共通の特殊感情でくくられる人々の集合体が形成される。
で、有名人にはファンだけでなくほぼ必ず「アンチ」という別の集合体も出来る。

一般に、人間が誰かある有名人を「知った」場合、人間の中には有名人に対するかすかな好ましいとか嫌だなとかいう感情が沸き起こるもののようである。
有名人のことをどんどん深く知るうちに好きが昂じてファンになり嫌いが煮詰まってアンチになる。

アンチになるには有名人のことをよく知ってないといけなくて、誰かを嫌いになるというのはその人にひとかたならぬ関心を抱くのと同義である。

結局のところ、何かを誰かを好きになる嫌いになるのはその対象を「認知する」ことの結果である。
何かを認知すると人間の脳の中でその対象は「好き」か「嫌い」もしくは「関心なし」のどれかにいく。

何かを好きになるのはそれをよく認知した結果なのだ、というのはなんとなく分かるのだが、しかしなぜゴッホの絵を見て惹かれるのか、ラッセンの絵を見て文句を言いたくなるのか、その辺りの人類の感情の機微については今もって判然としない。

ひとつ言えると思うのは、何でも激しく好きになったり嫌いになっりする人は、浮世の森羅万象を認知しようという好奇心の非常に旺盛な人なんだろう、ということだろうか。

posted by ヤス at 09:42| Comment(2) | 徒然なるままに