2017年10月17日

褒め上手になりたい

わたしは褒められるのはどうも苦手である。
決して褒められるのが「嫌い」なわけではないと思う。
おじさんだって褒められると一応嬉しい。
ただ褒められた後のリアクションのレパートリーが、自分の中でほとんど用意できていない。

褒められるのが苦手ということは、きっと褒めるのも苦手なのである。
今思い返すと、人のことを積極的に褒めてやろう、という気分になることはあまりないような気がする。

こういうのは人間関係のあり方としては、かなり最悪なんだろうと思う。
円滑な対人コミュニケーションのためには褒め上手・褒められ上手であることは非常に重要なのだと分かってはいるのだけれど、もうこの歳になると色々と面倒くさくて、細かい気苦労をするくらいなら仏頂面で黙っといた方が気分的に楽だったりする。

一般論として、男性よりは女性の方が「褒める・褒められる」のが上手だと思う。
これは一種の偏見か、あるいは単なるステレオタイプ的見方かもしれないが、ある年代の「おばちゃん」同士の褒め合いはおしなべて見事である。
あまり相手のおばちゃんの「深いところ」をえぐり過ぎることなく、絶妙に表層的な部分を切り取って的確に褒める。
そして典型的な「褒めパターン」として、まず挨拶がわりに「旦那」「子供」「今日の服装」のいずれかを褒める、という風に序盤の手筋もあらかた決まっている。
そしてお互いに「褒め」のジャブを数発ずつ繰り出しながら、時に痛烈な皮肉を込めた「褒め殺し」を決めたり、あるいは軽く褒めているうちに気持ちがだんだん入ってきて涙ながらの本気の「褒め」に移行したり、横で聞き耳を立てているわたしとしては時々戦慄の思いを抱く。

しかもすごいのは、そういう褒め合いの基礎的技術は妙齢のおばちゃんなら例外なく全ての人が持ち合わせていること。
さらに恐ろしいのは、その辺の女子高生とかでもそういうおばちゃん的な高度な褒め技量の片鱗を見せることがあったりする。

ちなみに申し添えておきますが、以上は決しておばちゃんをけなしているのではない。
ちゃんと褒めているつもりである。

ここまで書いてやっと思い至ったのだが、褒めるというのは一方通行ではダメで、ちゃんとしたキャッチボールになってないといけない。
人から褒められたら、それに対して的確な返しをする。
そこで一つの褒めのコミュニケーションが完結する。
だから褒めの名人は、相手の褒められ方の反応を見定めて、無意識に次の褒め方を微調整したりしているのではないかと想像する。

いや、わたしもいつの日か仏頂面を卒業して、褒め上手になってみたい、とちょっとだけ思ったりした。
posted by ヤス at 10:54| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月16日

荒れる画面を眺めて思う

毎日Twitterを眺めていると、やっぱり今日もそこかしこでツイート上の激論が展開されている。
もちろん全部が全部というわけでもない。
少なくともわたしのTwitter画面では、むしろ大半がまあまあおだやかな「お知らせ」とか「思いつき」とかのつぶやきである。
しかし時々、いつ果てるともしれぬ主張の激突、言い合い、罵り合いなどが流れてくる。

こういうツイート上の「喧嘩」には、大体の場合フォロワーを多く抱える有名人が絡んでいることが多いようだ。
ごく一部、ある種類の無名の大衆の中には、有名人と炎上的な絡みで絡んで自分の存在を拡散したい、という欲求があるのかなとも思う。
またそういう確信犯的なもの以外にも、有名人のツイートで自己の存在を否定されたと感じ、それに対する反論を返すタイプの喧嘩もあるようだ。

そういうことで今日もわたしのTwitter画面はいつものように荒れている。
こういう荒れ模様は、いつの日か少し静かになる日が来るのだろうか、と少し想像してみる。

Twitterに限らずSNS上では、特に面識の無い人同士の激論は喧嘩になりやすい要素をたくさん含んでいるのだと思う。
まず顔が見えないし、それに基本、社会的な関係の無い者同士、親子関係とか友人関係とか上司と部下の関係とかが全くない、個人と個人のぶつかり合いになる。
そこには多くの場合年齢の上下関係も無いし性別も関係ない場合が多い。

あらゆる社会的な関係、というか社会的な「しがらみ」が無い場では、純粋な人対人の主張がまともにぶつかる。
どっちかが一歩退いて主張を譲ろうということになりにくいので喧嘩になりやすい。

それともうひとつはダイレクトなメールのやりとりと違って公開の場でやっていることの影響もあると思う。
「みんな」が見ている公の場で激論して自分の主張が否定されたら、自分の存在が公の場で否定された気分になるのかもしれない。
だから自分の主張に合理性があるかどうかの振り返りはそっちのけにして、ひたすら一本調子に自分の主張を押し出すしかなくなってしまうのではないだろうか。

まあそういう気持ちは分からないでもない気がするから言下に批判もしにくい。
ただ本来の議論というのは、違う主張がぶつかりあってお互いの良いところを発見し、それでステージがひとつ上昇するというようなのが建設的な議論のあり方だ。
それでいくとただの主張のぶつけ合いは、個人の精神力の鍛錬にはなるかもしれないが人類文化への貢献は少ない。

ただこのようなSNS上での主張のぶつけ合いというのはこの数年で盛んになったものなので、将来テキストに代わって動画投稿が増えてきたり、AIを使った酷い投稿の取り締まりが効果をあげたりする近い将来には随分とようすが変わっているのではないか、ということも思ったりする。
そんなことを思いながら、今日も果てしのない罵り合いを眺めるのであった。
posted by ヤス at 10:52| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月15日

コンビニについて

どうでもいいが最近少しだけ驚いたことがあって、近所のコンビニのサンクスでたまに買い物するのだが、この前久しぶりに行ってふともらったレシートを見たら店名が「ファミリーマート」になっていた。
不覚にも店に入るときには全然気がつかなくて、とぼとぼ歩いて店が見えなくなったところでレシートを見て気がついた。
わたしはコンビニは断然「セブン派」なので、普段は連チャンで「サンクス」に行くことはないのだが、ものすごい気になって、その翌日に2日連チャンで「サンクス」に行って見た。

そうしたらあの赤っぽい看板のサンクスがちゃんと緑のファミリーマートになっているのが確認できた。

サークルKサンクスがファミリーマートの傘下に入ったのが昨年2016年9月。
報道によると来年2018年夏には、ブランドとしてのサークルKサンクスは完全に消滅するらしい。
コンビニ店舗は、今日本全国に5万8千店あってまだ増え続けているそうだ。
一昔前には、3万店が限界とか5万店が上限という説が唱えられていたが、今の勢いではまだまだ増えて6万を超えるのは確実である。

今、日本の小売業界はスーパーマーケットも百貨店も専門量販店も、みんな頭打ちの感じだがコンビニだけはまだ元気がいい。
これからの日本のコンビニ業界は、サークルKサンクスがファミマに吸収されて、そのファミマとセブンとローソンの3強(というか1強2弱)時代でいくようである。

実際セブンの平均日販が66万円くらいあるのにファミマとローソンは50万円くらいしかなく、その差は歴然である。
一消費者として店の棚を眺めていても、セブンと比べるとファミマとローソンの棚のどことなくスカスカとした感じは否めないところである。

わたしは、アマゾンや楽天がのして来ていた10年くらい前には、通販業界が小売のパイを奪っていけばやがてコンビニも縮小に向かうのだろうと勝手に想像していたのだが、コンビニで売っているような弁当惣菜や100円200円の少額日用品は通販で売るには嵩が小さすぎたようである。

通販には「配送コストの限界」というのが常についてまわり、従って「数千円以上のたまに買うもの」を買う以外の市場に進出するのにはまだいくつもハードルがある。

毎日買う少額品は、小型店舗で街中に密度濃く販売拠点をこしらえて売るのが今の所売る方としても効率がいいし、買う方としても便利がいい、ということなのであろう。

そういう理屈がコンビニを成長させている。

今の所のコンビニ最大のアキレス腱は、24時間営業のためのスタッフの確保である。
ここだけはそれほど「技術革新」が出来ていないと思うのだが、逆にここの弱点が改善された時、コンビニはさらに成長に拍車がかかるのではないか、と想像したりしている。
posted by ヤス at 15:51| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月14日

神戸製鋼問題

神戸製鋼が不正問題で揺れている。
この8月からニュースになっていて、その後よりたくさんの製品について不正があったことが発覚してかなりやばそうな感じである。

で、どんな不正があったのか調べてみた。
ネットで5〜6分しか検索していないけれど、不正の具体的内容がいまいち分からない。
当初はアルミ・銅製品など限られた事業で限られた期間内に造った製品の一部、4%くらいが出荷検査に引っ掛かっていたのをデータ改ざんして出荷していた、ということだったようだが、どうもこの10年くらい、いろんな製品分野にわたって常習的に行われていた疑惑が浮上しているらしい。

神戸製鋼は年間売上高1.6兆円の巨大企業である。
しかし営業利益は100億円弱くらいしかない。
これは飲食業で薄利商売をやっている、売上2千億円余の日本マクドナルドHDより少ない。
そして2016、2017年3月期の当期純益は連続赤字で経営的にはかなり切羽詰まっていたようである。

そんな中で今回の不正発覚。
わたしは製造業の人間ではないからあんまりいい加減なことは言えないのだが、今回の不正は、おそらく製品検査で本来ハネるべきだった不良品をどさくさに紛れて売っていたということだ。
不正が行われたアルミ材や鋼材は、トヨタ、ホンダ、日産の自動車各社はもとより、電車メーカーや飛行機、ロケットにまで使われているらしい。
ホリエモンのロケットにも使用されていたそうだ。

まあ自動車や飛行機の設計にあたっては、「安全率」という概念があって、それこそ製品強度のバラツキや想定外のストレスも考慮して、少し余裕を持った設計をやっている。
今回の不正のようすを見ると、おそらく「まあこれくらいならギリギリ大丈夫なんじゃない」という軽い感覚で不良品を出荷していたようである。
だから現実的にはただちに問題は発生しないだろう。(と思いたい)

神戸製鋼としては不正することによって4%の不良ロスが帳消しになって、少ない利益がそれ以上減るのを防いでいたわけだ。

今回の不正事件は、命を運ぶ自動車や飛行機の安全に影響することであり許容されることではない。
単に経営者辞任とかで済む話ではないような気がする。

神戸製鋼の直近の経営状態を見ると、利益状態は良好とは言えないがただちに倒産というレベルでもない。
また鉄鋼・アルミ・銅以外にチタン素材なども扱っており、また機械や電力事業なども手がける複合的な経営をおこなっているそうだ。

そして現首相の安倍氏が昔サラリーマン時代を過ごした会社でもある。

わたし的にはこの事件は、鉄鋼など日本の重厚長大型製造業の「構造的な無理」を象徴する出来事であり、「製造業立国日本」の「終わりの終わり」が始まった感じがしてならない。
posted by ヤス at 13:54| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月13日

トヨタ車種半減報道について

昨日のニュースに、トヨタ自動車が2020年台半ばをめどに国内販売車種を半減する、というのがあった。
これはこれで衝撃的なニュースだと思うのだが、それでちょっと気になったのでトヨタの国内販売台数の推移を調べてみた。

するとさらに衝撃的な数字が出てきた。
「トヨタ自動車75年史」のサイトに1950年から2011年までの推移データが出ている。
1950年の販売台数は乗用車が548台、トラック・バス8680台、合計9228台で市場占拠率は34.4%。
その辺からトヨタ自動車の歴史は始まったわけであるが、そこから1980年代まで途中1974年のオイルショックによる小休止はあったけれど、ものすごい勢いで販売台数は増加を続け、1990年にピークを迎えて乗用車+RVが215万台超、トラック・バスと合わせて250万台超を記録する。
いわゆるバブル全盛の時期である。

そこからは逆につるべ落としの減少に転じ、ピークから10年後の2000年には乗用車+RVが159万台、トラック・バスと合わせて177万台。
そして2011年は乗用車+RV108万台、トラック・バスと合わせて120万台。
つまり今はピークから半分以下の水準になっている。

ニュースによるとトヨタ自動車は全世界で1千万台を売り、GMやフォルクスワーゲンと販売台数首位を争うイケイケのイメージがしていたのだが、こと国内販売に限ってはものすごいことになっているのである。
しかも国内の市場占拠率、いわゆるシェアはこの数年拡大傾向で45%を超える感じ。

市場シェアが増えているのに台数が減っているというのは、トヨタの販売台数以上に日本市場がシュリンクしているということだろう。
1990年の215万台が21年後の2011年に107万台減って108万台になったということは、単純計算で年5万台の減少ペース。
つまり2020年台半ばにはもう後40万台くらい減る感じになる。
つまりピークに乗用車+RV215万台だったのが70万台くらいになる。

ただし後10年くらいしたら、自動運転化もある程度進展していて、また乗用の自動操縦電動ヘリもブンブン飛んでいるかもしれないと思う。
そして人間が運転する「マニュアル運転車」は超少数派になっていて、自動車の定義づけもかなり変わっているのかもしれない。
あるいは世界最大の自動車メーカーのクルマは、ボンネットにリンゴのマークが光っているかもしれず、トヨタ自動車車種半減どころの話ではないかもしれない、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:52| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月12日

三式戦闘機・飛燕

最近どういうわけか第二次大戦中の帝国陸軍戦闘機「三式戦・飛燕」について、報道等で目にすることが多い気がする。
わたしは中学生の時以来のプロペラ戦闘機オタクを自認しているのだが、世間様がこんなに「飛燕」について触れるのはこれまでになかったことだ。(と思う)

三式戦闘機・飛燕は、1943年5月のニューギニア戦線が初陣であったらしい。

しかし飛燕は、思えば不思議な戦闘機であった。
第二次大戦が始まった頃、ジェットエンジンは一応研究は進んでいたが実用化には程遠く、飛行機のエンジンはみなガソリンエンジンである。
当時の航空エンジンは大きく2種類、水冷(というか液冷)と空冷に分類できる。
現代の自動車エンジンは、空冷エンジンがトレードマークだったポルシェですら90年代末に水冷化されてしまったけれど、飛行機の場合温度の低い高高度を高速で飛行するので空冷エンジンはそれなりに合理的なものになりうる。

空冷エンジンはラジエターがないからその分軽くなるし、液漏れや冷却系のトラブルもなくなるから工業技術に不安のあった大戦中当時の日本が空冷エンジンを好んで採用したのは当然である。
しかしそんな中で「飛燕」は液冷エンジンを搭載して完成した。

液冷と空冷で何が違うかというと、まず見た目の違いが大きい。
液冷エンジンはシリンダー配列がV12とかで細長く、それを積んだ飛行機はスマートで格好良くなる。
空冷エンジンはシリンダーが星形配置でズングリとなるので飛行機もズングリになる。
これは個人的推測だが、ヨーロッパの戦闘機がほとんど液冷エンジンだったのは、それらの国民性として「我が国の戦闘機はスマートで格好良くあるべき」だ、という思いが強かったんだと勝手に思っている。
一方で合理主義のアメリカと技術のない日本は空冷星形エンジンをたくさん採用した。

飛燕のエンジンはドイツのメッサーシュミットBf109も搭載していたダイムラーベンツDB601のライセンス生産品であったが、技術オタクの国ドイツが作ったこのエンジンは農業国だった日本国内で製造するには難し過ぎたのは当然である。
当初の予想どおり飛燕のエンジンは工作不良に起因するトラブルが相次ぎ、なかなかまともに動かない。

また飛燕は空冷エンジン搭載機に比べてかなり重かったため、水平速度はまあまあ速く、急降下速度に限っては鬼速かったが、戦闘機の命とも言える上昇力がヘタレだった。
だから戦闘ではゼロ戦なんかと違って米軍機にナメられぱなしだったらしい。
それでも飛燕がニューギニアに渡ったのは、広い太平洋で戦えるほどの航続性能を持つ陸軍機が他になかったからである、多分。

見た目はスマートでいかにも強そうなんだが、実はその「強そうな感じ」は大部分ハッタリという、ちょっと悲しい戦闘機というのが「三式戦・飛燕」の実像だと思う。
そうやって考えると、海軍のゼロ戦は登場のタイミングといい、薄氷を踏むようなギリギリのキワモノ的設計で大活躍した実績からいっても、飛燕と好対照である。
まあ飛燕は見た目が格好いいので、博物館とかに復元して飾っておく分には見栄えがする。
そういう意味では平和な時代に似つかわしい飛行機であるとあえて言えなくもない、ということにしておく。
posted by ヤス at 15:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月11日

思慮について

わたし的に考える「テーマ」の中に、人間とは何モノか、というのがある。
そういうことを考えても飯のタネにならないからたいへんな無駄なのだが、しかしつい考えてしまうから仕方がない。
それで最近思いついたのが、人間性の大きな特徴は「反射的でない」ことではないかということ。

「反射的でない」というのは、つまり「思慮がある」とでもいうことである。
この場合の「人間性」は、その他の動物たちとの対比で見つかる違いのことだ。

人間以外の生き物は、だいたい「反射的」に見える。
YouTubeの猫動画で、道路の上で自動車に轢かれかかって、パニックになって狂ったようにぐるぐる走り回る猫を見たことがある。
あの場合の猫は、絶体絶命の場面ではとにかく激しく動き回ったほうが生き残る確率が高いというのを進化の歴史を通じて会得していて、それが本能に組み込まれているのだろう。
逆に南米のジャングルに住むナマケモノは、おそろしく動きがのろいけれど、それもその方が生き残る確率が高いからだ。

そういうわけで人間以外の生き物の場合、本能のROMに組み込まれたプログラムが適宜発動して、「どちらかというと」生き残る確率が高い行動に促すメカニズムが出来上がっている。
しかし人間の場合はそういう本能的能力を飛び越え、後天的に学習した情報を大脳皮質に溜め込んでそれをもとに「思慮」することが出来る。
人間は思慮することで、もっぱら反射的な他の動物に比べて飛躍的に生き残る確率を高めることが出来たのである。
反射的な行動というのは、ものすごく大雑把な状況分類で取るべき行動を規定していて、危ないと思ったら暴れまわるとか、美味しそうな匂いがするものはとりあえず口に入れるとか、行動パターンを単純化するものである。

しかし人間の思慮の力は、同じ危ないケースでもライオンに襲われた場合と毒蛇に出くわした場合を正確に認識し、それぞれのケースに最適の行動をひねり出す。
そして万が一未経験の事態に出会っても、過去の類似例から論理的に想像してわりかしいいアイデアを思いついたりする。

だがそういう思慮の能力を懸命に働かせるには、最近の人類は少し安全で豊かになり過ぎたのかもしれないと思ったりする。
直接命に別状のない「他人事」の場合、人間は「思慮」を停止して「反射的」になるようになりがちなのではないか。
自分の命に別状が無いからネット上では「反射的」に誰かを非難したり罵ったりして脳内で快感物質が出るのに任せる、そういう新しい行動パターンが、最近出来つつあるような気がする。

やはり人間は、人間である限り人間性を出来るだけ維持すべきと思うので、自分の中で暴れそうになる野生の反射を統御しつつ、「思慮」することをいつでも忘れないようにしないとな、と思ったりした。
posted by ヤス at 14:12| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月10日

反射的行動と数秒間の熟慮

わたしはSNSの中では比較的Twitterが好きだ。
LINEやFacebookだとちょっと閉鎖的過ぎるような感じがするし、インスタは写真専用だし、いろんな人の短文が時々写真動画混じりで流れているのを眺めている分には、脳みそのためのちょっとした刺激としてもTwitterはちょうどいい感じがする。

最近ではしょっちゅう「140字」制限がはずれる噂が流れていて、この前も有料版限定で長文が可能になるような話が出ていたがほんとうだろうか。
わたし的には、140字と言わずなんなら50字くらいに短い方がいいような気さえするのであるが、まあ日本語と英語では文字数に込められる情報量が違ったり、多くのユーザーが今の文字数に慣れているとかいうこともあるから、とりあえず今のままでかまわない。

それで今朝も暇にあかしてTwitterを眺めていたのだが、今日は総選挙公示日ということもあり、流れてくるツイートがいつもの1割5分増しくらいに力が入っているように見えた。

特に「政敵」を非難する類のツイートはけっこう刺激的な表現になっていたりする。
あるいは、あいかわらず有名人を攻撃する匿名の一般人によるツイート、または有名人同志の非難の応酬、さらには有名人によるその他大勢に対するボヤキようなものも流れている。
その辺の感じはいつもとそれほど変わらない。

というわけでTwitterの画面は、少なくともわたしの場合、どちらかと言うと「負のエネルギー」がたくさん流れる場になっているのだが、その原因としてかなり多くの人々が反射的につぶやいていることがあると思う。

最近は、誰かが書いたブログまたはどこかの新聞社の報道なんかを、タイトルだけ読んで「反射的に」何かわめいたツイート、みたいなのを丁寧にリツイートで晒すパターンが人も多くなっているんじゃないか。
今に始まったことじゃないが、本当に、表面的な言葉じりに反射的に反応する人の多いこと。
おそらくタイトルを読んだだけで記事の中身を読んでいない。
困ったことに、元ネタをしっかり読まずに自分のイメージで尾ひれをつけて拡散するひともいたりして、ますます状況がひどくなるということもある。
そこへいくと有名人のツイートは「見られている」意識がある分、さすがに多少抑制的である気がする。

よく考えないで「反射的に反応」するのは、これは人間というより昆虫などに見られる「生物的」的な行動パターンのようである。
これら反射的行動を見るにつけ、自分も何かの意見に反応する際には少なくとも数秒間でも熟慮の時間を持たないとやばいなと思ったりする。
おそらくたったの数秒間でも熟慮出来る強みこそ人類の特徴だと思うので、かつ、熟慮を経ない反射的な言説をSNS上にバラ撒くのはたいへんな情報ノイズになる「公害」なので、言説を表に出す時にはちょっとした慎重さをいつも忘れないようにせねばならない、などと思った。
まあ、そういう自由な感じがTwitterの良さであることも間違いないのだが。
posted by ヤス at 14:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月09日

文字記録と口述伝承

2017年の10月、つまり今月、1963年11月22日、アメリカはテキサス州ダラスで起きたケネディ暗殺事件の政府文書が公開される(公開期限を迎える)らしい。
ケネディ暗殺事件については、オリバー・ストーンの映画「JFK」が記憶に残っているけれど、とりあえず捜査機関によって犯人と認定されたソ連帰りの元海兵隊員、リー・ハーヴェイ・オズワルドの件に関しては誰も信用しておらず、今回の情報公開で決定的な事実が判明するのではないかと期待が高まる。

ただし今回の情報公開に関しては、最終的にはトランプ大統領の権限で公開範囲を一部または全部について制限できるそうだ。

アメリカの場合、公的な機密情報に関しても30年後とか50年後に公開などという例が多いのはよく指摘されるところである。
一方の我が国でも、例の「特定機密保護法」なる法律により「特定秘密」の公開指定期間は60年以下にすることが定められているらしい。
しかしながら、同法の元ではそもそも何が「特定秘密」なのかが分からない。
やや悪意に推測すると、政府側は都合の悪い真実は「特定秘密」に指定して、その真実の「存在」そのものを闇に葬ることができる。
そうなると、市民社会側が機密情報の公開を迫る、というような話にはなりにくい。


話は少しとぶ。
中国の漢の時代の歴史家の司馬遷は、時の絶対権力者の武帝・劉徹の不興を買い、男性器を切断される宮刑に処せられ、その莫大な怒りをエネルギー源に歴史書の「史記」を書いたとされる。
おおよそ歴史記録というのは、時の権力者によってその内容に都合の良い脚色が加えられるのが常だと思うが、古代中国の歴史業界においては、実態はともかくその気概としては、権力者の意向に左右されないありのままの史実を記録しなければならないというスピリットが確かにあったらしい。
某国の某歴史家がありのままの史実を記録して、王の怒りを買って処刑され、今度はその子供が親の業績を引き継ぐ、みたいな話が古典として残っていたりする。

ところで、世界の歴史をざっと概観した時、自分たちの社会の記録を後世に残す方法論としては、「文字記録」と「口述伝承」の大きくふた通りがあるという。

で、前述の古代中国の歴史を見るとこれは「文字記録」の文化が色濃い。
多分に個人的な意見だけれど、「ありのままの事実」を残したいという気分は文字記録の文化に特有のものではないかと思う。
対して日本の場合は、間違いなく「口述伝承」文化の社会だと思う。
口述伝承では、親から子へと社会共有の歴史が語り継がれるのだけれど、子供がお話を効率的に記憶する都合上、お話の「物語性」が過度に強化されるのではないだろうか。

対して文字記録の文化では脳細胞の記憶力に依存する必要性が薄く、記録は淡々とした事実の羅列であって構わない。
だから文字記録の社会では、歴史に対する態度がドライで思い入れは薄くなり、口述伝承文化では歴史に情緒的になり、感情移入が過度になるきらいがあるかもしれない。

ただ現代の技術進化は、人間が歴史物語を脳細胞に記録する手間を大容量の電子記憶装置によって大規模に代替してくれるようになっているから、歴史に対する情緒性は今後だんだん薄れていくような気もするのである。

その分、市民社会は自分たち歴史に対する関心を保つための、意図的な努力が必要になっている、というような気がしなくもないわけであるが。
なんにせよ、ケネディ暗殺の文書公開にはかなり期待が高まるのである。
posted by ヤス at 10:39| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月08日

個人認証と影武者

さて、いきなりだが映画や小説の世界では武田信玄には何人もの「影武者」がいたことになっているのがお約束である。
実際、史実的にも信玄には影武者がいた可能性が高いという説が有力であるらしい。
信玄の影武者は主に信玄の兄弟・親戚が務めることが多く、それらの影武者が他国からの使者の応対を信玄に代わってやることも度々あったらしい。
兄弟なら顔や声音が似ているのは当然で、しかもテレビも雑誌もインターネットもない時代の話である。

使者は信玄に会ったことのある人からその特徴を教えてもらい、その情報を頭に叩き込んで信玄との面会を行なったことだろう。
しかし肝心の信玄情報の元の人が、実は信玄本人ではなく影武者にしか会っていない可能性だってあるはずで、その当時の「本人確認」というのが非常に困難を極めたことは容易に想像される。
たまに何かの物語で、ホクロとか眉間の古傷とか、身体的な特徴を手掛かりに本人確認する場面があったりするが、それは本人確認のための「顔情報」がそもそもない時代には、ほとんど唯一の確実な方法であったりしたのかもしれない。

そこへ行くと現代は、特にテレビ普及以降はそうだと思うが、政治家とか俳優とかテロリストの親玉とかの有名人は、おおよそが世の中に顔を晒すようになっている。
テレビ以前の時代には、ぼやけたスチル写真が出回るくらいがせいぜいだったのが、テレビの時代には動画によって動きの特徴や声色、話し方などもセットで流れるようになって、いよいよ世の中に対する有名人の「アイデンティファイ」は確かなものになっている。

そうなると古き良き時代のように、気軽に影武者を立てるというのはかなり難しいだろうことは容易に想像できる。
仮に双子の兄弟を影武者に立てたような場合でも、現代の高度に進化した個人識別技術を使えばちょっとした癖や身体的なわずかな特徴の差異を読み取って、容易に見破ってしまうに違いない。

この間発表されたiPhoneXには3D技術を使った高精度の顔認証技術が搭載された。
これまで顔認識はグーグルなんかも力を入れていたけれど、それはあくまでも二次元平面的な認識技術だったと思う。
それがiPhoneXでは、顔の凸凹を正確に読み取って99.7%の精度で個人の識別をするらしい。
近い将来には、顔の3D認識にとどまらず動画情報から動作の癖を読み取るとかして、限りなく100%の個人識別をする時代になることは、まず間違いない。

つまり有名人のみならず、市井に生きる「その他大勢の一般大衆」も一人一人かなり厳密に「アイデンティファイ」されるという時代が来るのである。
それはハンコやサインで「個人認証」している現代が、ほとんど原始時代に感じられるほどの変化だと個人的には感じる。
有名人から無名の一般大衆に至るまで、影武者やなりすましがほぼ原理的に不可能になる未来は、はたして幸せな時代なのかどうかは、なかなか一概には言えないなと、少し思ったのである。
posted by ヤス at 10:36| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月07日

いわゆる内部留保について

希望の党の公約にも出て来ていたけれど、企業の内部留保の話。
この数年企業業績が好調で、法人企業統計によると2016年度の利益剰余金(=内部留保)の総額は406兆円以上にのぼるらしい。
そんなに利益が積み上がっているのなら、その一部を賃金引き上げに回せとか、あるいは希望の党の公約にある「内部留保課税」で消費税の代替財源で国が吸い上げようとかいう話が出ている。

内部留保課税について、麻生財務省が「二重課税になる」という反対論を言っているのがニュースになっていたけれど、麻生氏はまったく正しいと思う。
ちなみに内部留保は正式の会計用語ではない。
いわゆる内部留保は、企業の決算書の貸借対照表の右の下の部分、純資産の部の資本金以外、つまり利益剰余金にあたる部分と思って間違いないと思うのだが、この部分は企業が利益を出して税金を払った残りが貯まっている項目である。
いろんな専門家がすでにコメントしているけれど、この貯まった部分に課税するというのは、過去の法人税の追加徴収になるので非常に筋が悪い。
それよりは単純に法人税率を上げるのが素直な方法であるのは間違いない。

ただしアメリカでは州によっては「留保金課税」というのがあるという。
しかしその場合、貯まった留保金全額が対象ではなく、単年度分を対象としたかなり限定的な課税であるとのこと。
小池百合子氏はその辺の情報を聞きかじったのを元に、消費増税凍結、代わりに内部留保課税と言っているのかもしれないが、おそらくそれだけで消費増税分をカバーするのは難しい。


あと、麻生財務省は内部留保を貯めてないで給料に回せとも言っているらしい。
しかしこっちの方の発言は明らかにおかしい。
これも多くの専門家が指摘しているが、内部留保はイコール現金ではない。
上場企業であれば、過剰な現預金を持ち過ぎると株主から「もっとお金を有効利用しろ」と怒られるので、余剰の現金は土地や設備などの資産に変わったり、債権や株式などの金融商品に変わっている可能性が高い。

これはそっちの方がよりたくさんの利益が稼げると考えているからで、賃金を上げて利益が出るのならとっくにそうしているだろう。
内部留保が貯まりすぎているから給料上げろという主張は、企業の行動原理に反した社会主義的な考えである。

まあ時の政権がこういう態度に出るのは日本だけでなく世界的な風潮かもしれない。
世界にはびこる「ポピュリズム政治」では、利益追求に走る大企業群は、政治家が人気獲得するためのスケープゴートにされるのが定番になっている。

本当は、安易なポピュリズムではなく民主主義や資本主義の根本的なあり方を議論することが必要なんだと思う。
ちょっと前に流行ったピケティ的な話を、もっともっと深めていくことが必要なのだと思うが、今の政治状況を見るに、そういう段階がやって来るにはまだまだ遠いようである。
posted by ヤス at 14:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月06日

ベーシックインカムの公約

さて、また選挙関係の話だが、希望の党の公約原案の中にベーシックインカムが入ったのがちょっとした話題になっているらしい。
希望の党に関しては、いろんな政党出身者が混ざったごった煮状態になっており、「憲法改正」が大きな目標であることはなんとなく分かってはいたものの、それ以外の部分でどっちの方向に向かっていくのか今ひとつ掴めなかった。

それがベーシックインカムが入り、また道州制や議員定数削減なども盛り込まれたことにより、政策の向かう先がかなり絞り込まれてきた感じがする。
個人的な感想としては、これは民進党(または維新)が本来唱えていたものに接近し、自民党的政策からはちょっと離れた、という感じがしている。

また「原発ゼロ」には「2030年までに」と明確に期限が切られ、しかしそれまでの間安全稼働可能な原発は動かしていく、ということらしい。
さらに従前から目玉政策であった消費増税凍結については「凍結」が「反対」に強められ、代替財源として企業の内部留保課税が挙げられている。

さらにもう一つ面白いと思ったのは金融緩和と財政出動に過度に依存しない「コイケノミクス」推進の項目だろうか。
それが具体的に何を意味するのか、ちょっと判然としないわけであるが、例の「第一次・三本の矢」を参照するならば3番目の矢の「成長戦略」に重きをおくということになる。

最近の報道では希望の党は、選挙結果次第で自民党との連携に含みをもたせているらしいのだが、しかしこの公約原案を見る限り従来の民進党的立場に寄って行って、自民党との対決姿勢を鮮明にしたと見るべきなのかもしれない。

ベーシックインカムの導入についていうと、これを実現できれば政治的にものすごく画期的であることは間違いない。
ただしこれの導入のためには莫大な財源がいる。
というか、消費税が2%上がるとか内部留保に課税とかのレベルの話ではもはやない。
税体系をひっくり返してゼロから組み直すことが必要になるだろう。
また、ベーシックインカム導入はその他の福祉政策の廃止または極端な簡素化が条件である。
それによって行政コストを極小化するのがベーシックインカムの肝だろう。
生活保護や公的年金制度、医療保険なども含めた福祉政策の枠組みを総取っ替えする話であり、そのためには霞ヶ関の強力な拒絶反応も予想される。

希望の党の公約原案を見る限り、「日本をリセットする」というスローガンに全く則したものになっていると言わざるを得ないわけであるが、このような超ハードルの高い政策を果たしてどうやって実現していくのか。

その辺の明確なロードマップもぜひ示してもらいたい、などと思った。
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2017年10月05日

自由について

ここ最近、「リベラル」とは何かについてちょっとだけ考えている。
前にも書いたが、政治用語であるリベラルは「リバティ=自由」から来ている。
まあ日本の政治におけるリベラルは「護憲派」だったり「原発ゼロ派」だったりするようで、その言葉の使い方はわたしにはいまいち判然としない。
しかしながら、なんとなくリベラルと言えば「あの辺の人々」というイメージはある。

ところで政治においては「自由」という概念がけっこう重要であるようだ。
日本の現政権である自民党の党名にもその言葉が入っているし、また野党のひとつにも「自由」を冠した党があったりする。
外国にも自由を冠した政党名はたくさんあるようで、近代政治と自由は切っても切り離せない関係であることをうかがわせる。

ところで、自由というのはいったいなんだろうかと思うのである。
近代政治に自由の概念が重要なのは、かつての時代、民衆の自由がはなはだしく圧迫され侵害されていたことがあって、そこから民衆による自由の獲得、というのが近代政治のひとつの目標としてあったからだろうと想像する。

しかしちょっと根源的に考えて、人間は完全な自由を獲得することが出来るのだろうかと疑問に思わないこともない。
自由を抑圧するのは、時の権力を握る王侯貴族であったり、はたまた国境を侵して征服をたくらむ異民族だったりしたのかもしれない。
また複雑高度化した現代社会では、主権者たる民衆が作り上げているはずの社会システムによる束縛が問題であるように見える。

長いこと苦労して草の根の民衆は主体的に自分の好きなように生きる権利を獲得したはずだったのに、自分たちが作った政府とか、社会の重要要素である企業組織が人々を縛りつけている。

そもそも、人間が「生き物」として生きることを考えた時、不安定な食糧事情とかライオンやトラなどの猛獣の脅威とか、生きていく上でかなりの阻害要因はあったわけで、その意味で原始人たちはそれなりに不自由であったと思う。
それが、文明が進化し、また民主政治が進化して普通の人々が自由で快適な暮らしぶりを獲得していったはずなのに、ひょっとすると現代人は、生きていくのがやっとだった原始人より不自由であるのかもしれないと思ったりする。

ということで、自由とは何かというのは結局よく分からないのであるが、それでもわたしはなんとなく政治における真の「リベラル派」というのがいるとしたら、それを支持したい。
posted by ヤス at 13:23| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月04日

選挙情勢雑感

さて、毎日のように変転が続く日本の衆院選情勢であるが、先日「立憲民主党」が立ち上がって、多分これで最後の「極」が出揃ったのだと思う。
一方で希望の党は民進党議員の受け入れに際し「リベラル系排除」の方針を示し、また恐ろしく生々しい10項目の「政策協定書」が流出して「憲法改正」や「希望の党に対する資金提供」に関し無条件降伏を迫る様子が伝わっている。

わたしは小池百合子氏が政治におけるマーケティングの天才だと思っていたのだが、どうもそうでもなかったのかもしれず、ここ数日の動きは非常にいただけないと感じる。
声高に排除の論理を振りかざしたりえげつない「選別条件」が露呈したおかげで、支持率調査の数字もかなり落ちているようである。

あとちょっと思ったのが、産経の記事にあった「リベラル派を排除する」とかいう話。
会見で産経記者から「リベラル派を排除するのか」と聞かれて「排除する」と小池氏が明確に答えたのが記事で「リベラル派を排除する」と小池氏が言ったように伝わっている件である。
おそらく小池氏は直接的に「リベラル派を」の部分は言っていない。
それがあたかもそう言ったようにニュースになっているのは小池氏にとって非常にまずくないかと思うし、小池氏らしくないと思った。
その「リベラル派を」の部分にちょっと断りを入れるべきだったのではないか。

わたしは実は政治における「リベラル派」の厳密な意味を知らないのであるが、これは一般的に「自由主義」の意味であり、「穏健改革派」の意味とされる。
アメリカで言うと国民皆保険支持はリベラル的であり保険反対はアンチリベラルになるのだと思う。(違うかもしれないが)
しかし日本においては伝統的に「リベラル」は政治勢力分類に使われることが多く、古くは旧社会党勢力を指していた。
そして日本で今リベラルと言うと、ごく自然に民進党左派のこととして理解される。

希望の党が「アンチリベラル」をあまりアピールし過ぎると、「小池の乱」が実は「自民党内部」における主導権争いであって、選挙後は安倍か小池どちらが主導権を握るかはともかく、どっちみち自民党的政治に収束する構図が見え過ぎてマーケティング上不利な気がする。
国内には多くのアンチ自民票がくすぶっており、順調に行けば希望の党はそっちの票をたくさん拾える可能性があったのに、と思ったりするのである。

それと新しくできた立憲民主党も、あるいは共産党勢力にも言えることだと思うがいい加減に「反安倍」を言うのは止めた方がいい。
標的にすべきは具体的な政策の中身であり、個人を攻撃する感じには違和感しか感じない。
posted by ヤス at 10:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月03日

ラスベガス銃撃

昨日ラスベガスで、58人(多分それ以上)の死者、527人以上の負傷者を出す無差別銃撃事件があった。
死傷者数でアメリカ史上最悪の大惨事だという。

容疑者は、詳しい情報は定かではないが64歳の「スティーブン・パドック」という人物であるという。
また狙撃地点となったホテルの部屋からはライフル銃など10挺以上の銃器が発見されたという。

このニュースを聞いてまず思ったのは、容疑者一人の割に死傷者数が異常に多いということ。
その後の報道によると、狙撃地点となった32階のホテルの一室を特定するまでに2時間程度かかったようで、その「攻撃時間」の長さが多数の犠牲者数につながったようである。
犯人は400m以上離れた位置から次々と銃弾を犠牲者に命中させていった銃撃技術を持っていたということで、多分元々軍隊にいた人物なのだろうと推測する。
年齢は64歳ということだから、ちょうどベトナム戦争に従軍していたくらいの世代である。
ちなみにベトナム戦争は、最後の方の「サイゴン陥落」が1975年なので今からだいたい40年以上前の戦争だ。
その時で容疑者は24歳なので、あるいはもっと早期の1960年代くらいにベトナムに行っていたかもしれない。
まあ推測だが。

事件の発生時刻は現地で夜中の10時過ぎくらいということで、本来なら真っ暗な時間なのだろうが、娯楽都市ラスベガスの場合、街中はその時間でも昼間のように明るかったと思われる。
逆に犯人が潜んでいたホテルの32階は相対的にかなり暗かったはずで、現場ではどこから銃弾が飛んでくるかも分からず、だからどっちに逃げたらいいのかも分からず、大変な混乱が起きていたことが想像される。

これまでの銃撃事件の場合、銃を持った犯人が犠牲者たちのごく間近にいて、至近距離から確実に撃つケースが多かったように思うが、400mといえば普通の感覚では相当な遠距離だと思う。
その距離から撃って人を殺そうという発想は、過去にその距離で狙撃を成功させた経験者でないと出てこないだろう。

今回、銃撃が始まった時に当然だが銃声音が響いたらしいのだが、これがもしライフに消音装置を付けて撃っていたら、銃口から出る発射炎の光も見えず、2時間かかった発射地点発見がもっと遅れ、犠牲者数がさらに増えていたかもしれないと思う。
そう想像すると、犯人はあえて銃声を響かせ銃口から発射炎を出して、わざと自分が見つかるようにという心理がはたらいていたのではないかと、以上憶測ながら想像した。
posted by ヤス at 09:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月02日

本来の仕組みのあり方について

最近思うのだが、日本のいろいろな「システム」には、多くの場合その設計思想に「現場でなんとかする」前提というのが入っているような気がする。
例えば企業のコンピューターシステムなんかでも、実際の運用上の不出来を現場の創意工夫でなんとか乗り切る、そういう感じがあるのではないかと思ったりする。

そうはいってもわたしはその辺の分野は門外漢の素人なので、あんまり断言口調でそのような主張をするわけでもない。
ただそのようになんとなく思うだけの話である。

なんでそんなことを思ったかといえば、それは日本的な「真面目・勤勉」を重んじる空気がそのような現象を引き起こすことがありうるのではないか、と考えたからである。
あるいは全体的に良質な労働力が、多少仕組みに不具合があってもそれを吸収して最終的には円滑に業務を遂行してしまう。
全部の会社がすべてそうだということもないのだろうが、しかしアメリカとかヨーロッパのような移民社会では難しい「日本流」の仕事のやり方のというのは、確かにあるような気がする。

欧米などでは、言葉のコミュニケーションもおぼつかない「外国人労働者」が一定数いて、あるいはろくに教育を受けていないような人々もいる。
それらの、労働者レベルとしては決して高くはない人々が就業する仕事は、難しい説明や訓練なしにそれなりにこなせるよう、細分化され単純化されていたりするのだろう。

そうたくさん払わないとはいえお金を払って雇用する以上、給料分くらいの労働的価値を生み出すように、そこはいろいろと工夫されているはずである。

それで思い出すのがファーストフードのマクドナルドである。
マクドナルドの業務は高度にマニュアル化され、社会経験がほとんどない高校生バイトでも、短時間のトレーニングであっという間に戦力化してしまう。
(今わたしがイメージしているマクドナルドは、資本は外資だがまぎれもない日本の企業であるけれど)
日本の飲食サービス業はどこもかなり高度なサービスレベルを目指しているので(そのように感じるので)日本の他の飲食企業ならとても雇わないようなボーっとした兄ちゃん姉ちゃんでもマクドナルドはかまわず雇って戦力化してしまう。(そういうイメージがある)

これはアメリカ的な労働現場の考え方がかなり影響しているんじゃないかと、勝手に想像したりするわけであるが、しかしこのようにシステムの方が現場の不具合を補う、支援する、というのが本来の「システム」や仕組みのあり方であり、たまにみかける現場個人がシステムの不具合を穴埋めしているのはたぶん考え方が「あべこべ」なんだろうな、とちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 12:51| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月01日

マツモトキヨシにて

この間、いつもの通りマツモトキヨシで買い物をしていた。
レジに行ったら、小太りのおばちゃんが決済している。
しかしそのレジ決済がちょっと変わっていた。

レジ上に置かれていた買い物カゴは洗剤やらシャンプーやらで満タン状態だったのだが、その洗剤一品、シャンプー一品ごとに「レジを打って支払い」、「レジを打って支払い」をしていた。
だから洗剤をひとつレジ通して「398円になります、千円お預かりします、402円のお返しです」
「206円になります、300円お預かりします・・・」
と延々10品くらいの決済をやっていてちょっと驚いた。
というかそういう光景は初めて見た。

今でもあれは何だったろうと思う。
まあちょっとした嫌がらせか、おばちゃんのストレス解消のようなことだったのかなと思うのであるが、客に頼まれるといちいちむげに断れない立場の、レジのお姉ちゃんにわたしはかなり同情した。

で、その小太りのおばちゃんはやっとこさレジが終わると、今しがた購入した品々を詰めたマツモトキヨシの薄いレジ袋を手に下げて、わざわざわたしの方に向いて「すいませんねー」と言いながらニッと笑ったように見えた。

わたしはとっさに微笑みの表情をつくったのだが、その時は小太りのおばちゃんではなく、レジのお姉ちゃんの方に向って微笑んでいる感じを出すことを心がけた。
そしておばちゃんに対しては、なるべくスルーしている感じを出してみた。

しかしおばちゃんは、特にスルーされてダメージを受けたようなようすもなく、すたこらとマツモトキヨシを後にしたようだった。

わたしがこの「事件」を通じて思ったのは、やっぱりスーパーやドラッグストアやコンビニなど、日常よく使う小売店の決済は、早いとこ非接触タグの全自動になればいいなあということ。
買い物かごをバッと読み取り装置にかざすと一瞬でレジ打ちが完了し、お支払は電子マネーでやるようになれば、あのおばちゃんのような蛮行もなくなるだろう。
まあ今でもあんな蛮行めったに発生しないだろうし、あおのおばちゃんは電子マネーを最後まで使わないタイプの人かもしれないので、そうだとあんまり関係ない話だが。

まあとりあえず今でもスマホで電子マネーは十分に便利であり、コンビニやマクドの支払いも一瞬で速いし、今はまだ使用率が低いみたいだが、みんながつかうと店員さん的にもかなり楽になるのではないか、とあらためて思ったりしたのでした。
posted by ヤス at 16:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月30日

人類はだんだん主体的になっているのか

さて、昨日つらつらと経済成長のことを書いたが、当初はもっと別のことを書くはずだった。
本当は人類における「自主性」の位置付けについて思いついたことがあって、書こうとしていたのである。
しかしキーボードを打つうちに話があらぬ方向に逸れて行って、思わぬところに着地してしまった。
今日は改めて昨日書きそびれたことを思い出す。

最近同じことばかり書いているような気もするのだが、人類にとっての「自我」の位置付けというのを時々考える。
人類は、他の動物に比べるとかなりはっきりとした「自我」というのを持っていて、それが「人間性」の元になっている、というイメージがまずある。
ここで「自我がある」というのは、自分が自分であると認識していること、ということは自分以外に他人が存在していることもちゃんと認識していることである。

前にも書いたような気がするが、人類の精神文化の進化カーブというのは、人類の「自我」の成長と軌跡を同じくしているような気がする。
自我がまだ十分に成長していない段階というのは、人類は脳容量や骨格的には現生人類になっているけれど、その社会性としては、まだ有象無象の「少し賢い猿の群れ」の域を出ていない。

それが言語が発達して抽象思考ができるようになったことが大きいと思うのだけれど、だんだんと人類は「自分」というのを持つようになってきた。
最初は支配階級など社会の上の方から、やがてはその他大勢組もだんだんくっきりとした「自我」に目覚めるようになり、個人の権利を主張するようになり、ひと頃の黒人奴隷や非差別民のような、人間の形をしているが人間でない存在、というような歪んだ概念が無くなってきて、人類は誰しも等しく自我を持ち尊重されるべき人権を持つ存在、と認識されるようになってきた。

そして自我を持つというのは、少し角度を変えてみると、それは自主性、主体性を持つということである。
つまり自分の行動を自分で決めるということ。
その逆は自分に決める自由がないこと、つまり何をするのもご主人の指示を仰ぐ奴隷的な存在というのがある。
そして人類の近代史は、すべての人間が自主性を持ちうる、つまり自分の意思が尊重されて行動を強制されることが少なくなる、そのベクトル方向で進んできたのだと思うのである。

しかし一方で、資本主義の進化は社会を複雑にし、つまりシステムが複雑になって人類は自身が創造したこの巨大システムに自由を、自主性を奪われつつあるように見える。
今までは主体性が強化され、自由になる方向で人類の歴史は進んできたように見えたのに、この最近、気がついたらそのベクトルがいつの間にか逆を向いている。

今の状況は、そういうことになっていないか。
これは人類の明るい未来に向けた、ほんの踊り場なのか、ただ単に人類は今まで自由に向かっていると錯覚していただけなのか、というのはちょっと考えたくらいでは分かりそうもないが、忘れないようにいちおう書き留めておく。
posted by ヤス at 10:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月29日

「生産性革命」雑感

さて、総選挙にあたって現政権が掲げた公約の中に「生産性革命」というのがあるようである。
最近ちょっとだけ忙しかったので、この辺の情報の中身についてあんまり見ていないからこれの意味するところはよく分からない。
まあより詳しく見ても結果詳しい意味は分からないような気もするわけであるが、しかし「生産性革命」に込められた意味合いは、なんとなく推測出来ないでもない。

世間に流れている情報を斜め読みした感じでは、この「革命」を通じてGDP600兆円を達成するというのが現政権の腹積もりであるようだ。

つまり、現政権としてはあくまでも「経済成長」の旗印を下ろすつもりはないのである。
一部リフレ派の経済学者によると、日本の財政状況はすでにきわめて健全であるというのだけれど、しかし一方で国債をはじめ公的債務の残高は「見た目」には他国を圧倒して多額であるように見えるということもある。
この「見た目」の債務残高をなんとか減らす、あるいは減らないまでも増やさないというのがひとつの国際公約になっている。

だからリフレ派の学者の意見はともかく、財政再建を進めないといけない。
報道では2020年までのプライマリーバランス黒字化を延期する方針もこの間聞こえてきたりもしたけれど、これまでのところの財政再建の柱は「経済成長」ということになっていて、その部分は引き続き継続するようである。

というか、経済成長は是が非でも継続せざるを得ない。
それはこの国では残る財政健全化手段の「増税」と「歳出削減」が事実上コチンコチンに凍結されているからである。
高齢化が進行して福祉予算は増大の一方、さらに各省庁の利権が雁字搦めになっている状況では予算削減の余地がない。
消費増税はなかなか進まないし、これはどちらかと言うと法人税減税の原資もしくは教育無償化などあらたな歳出拡大の原資に消える勢いである。

だから経済成長するしかない。

こういう構造を傍から見ていると、「生産性革命」はあくまでも財政健全化のための革命であるように思われる。
というか事実上そうに違いない。

これは日本に限ったことではないかもしれないが、サラリーマン社会というのは個人のためというよりは会社が存続するために会社側が「個人がんばれ」と言っているように見える。
そして会社がモーレツに頑張るのをそわそわしながら期待している国家がある。

そして世界中の民衆は、薄々その構図に気が付き始めている。
まあ、だからどうすればいいというアイデアもないわけであるが。
posted by ヤス at 12:35| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月28日

小池氏の勢い

いよいよ9月28日がやってきた。
今日、臨時国会が開幕して順調に行けばそこで「冒頭解散」があるという。
しかし当初、首相の解散表明(というか最初の方は観測気球だったと思うが)の頃とは、政治勢力的な様相がかなり変わっている。
なんといっても小池百合子率いる「希望の党」が立ち上がり、代表に小池氏本人が就任した。

小池氏については、Twitterでプロの声優の誰かが「喋っている時の呼吸の入れ方、間のとり方がすばらしい」と絶賛していたけれど、今回のような政治的駆け引きにおける間のとり方もかなりうまいらしい。
一方の安倍首相の方は、最初に少し解散風を吹かせて世間の声を観測し、いけそうと見たところで会見を開いて正式発表、さらにはテレビ局をハシゴして「丁寧な説明」を行うというのはいつものパターンであったように思う。
さらにもう一方の民進党は、解散の声が聞こえるや離党ドミノが加速し傍目には党内統治がすっかり壊れてしまっているように見える。
挙句の果てに嘘か本当か知らないが、前原党首自ら「無所属で出る」という情報が飛び交っている。

このようにたいへん面白そうな政局話はたくさん聞こえてくるのだが、「政策ばなし」はかなりおざなりにされているように思われる。
小池新党の目玉政策の一つは「原発ゼロ」であるという。
それ以外には、「憲法改正に前向き」というのがあり、そして若狭氏がまだ主要人物だった頃に打ち出された「一院制」というのもある。
また小池氏は明確に希望の党を「保守政党」と位置づけているようだ。

また都議選ではタッグを組んだ公明党に対するあてつけとも謝罪とも取れる「山口党首首班指名発言」なども飛び出し、たった1日2日の短時間に風速も強く暴風域も広い「風」を巻きおこしたようである。

ちなみに、わたしは小池氏の希望の党には票を入れない予定である。
小池氏は「風」を起こすことに巧みで、つい何週間か前までは苦戦が予想された自陣営の勢いをこの数日でみごとにひっくり返してみせた。
だがそれは、あくまでポピュリストとしての手腕が天才的ということで、必ずしも、政治家として現在の国難を救う力量があるわけではないと思う。
どちらかと言うとイメージの作り方が「上手すぎる」のである。
そこに一抹の危惧を覚える。
この辺の感じはフランスの女性右派政治家ルペンと同じようであるのかもしれない。

本人は自分が女性でほんとうに良かったと思っているだろう。

幹部連中にもまったく根回しをせずに次々に重要な意思決定をするやり方、古巣の自民はもちろん公明党や民進党やらほうぼうに喧嘩を売ってまわって敵をつくりつつも、小池氏が女性であればこそ民衆は自分になびくということを彼女は痛いほどよく分かっているに違いない。

脂ぎった議員のオジサン連中は、小池氏の爪の垢を煎じて飲んだ方がいいかもしれない。
たぶん小池氏の「切り崩しブルドーザー」は、民進党だけでなく遠からず自民党にも向かう。
それでオセロの白黒がいっきにひっくり返るように勢力地図を塗り替え、公明党も自陣に加えてひと息に政権奪取をするつもりではないか、とそのような近未来の絵が見えるような気がするのである。
posted by ヤス at 11:07| Comment(2) | 徒然なるままに