2017年11月06日

EVシフトとバッテリー問題

2年に一回開催されていた東京モーターショーが昨日閉幕したらしい。
日本の自動車市場が急激に縮小するのに伴い海外メーカーの参加が少なくなったり出品規模が減ったり、暗い話題も無くはなかったが、とりあえず今回も無事開催されたのはよかった。

で、今回のモーターショーの傾向のひとつにEV(電気自動車)シフトがあったと思う。
世界一のEVメーカーである日産とその傘下の三菱はもとより、トヨタやホンダやスズキなどもEVのコンセプトカーを出展していたらしい。
しかし一方でマツダなどは当分の間ガソリンエンジンでがんばることを宣言しているし、今現在EVが爆発的に売れる感じもない。

ヨーロッパ方面では年限目標を切って全面EV化を目指す動きが出ているが、現実問題としてそこまでEVが売れていない現状を見ると今後EV化はほんとうに進むのだろうかとやや疑問に思う。
調べてみると2016年のEVの台数シェアは全自動車の0.2%、台数で200万台ということらしい。
(数字はEVとPHEVの合計とのこと)
ちなみに現在EVの台数が一番多いのは中国らしく、全世界の3割65万台になっている。
EVシェアではノルウェーが3割弱、オランダ6.4%、スウェーデン3.4%とヨーロッパ諸国はややEV比率が高いがそれでも全体としてみるとまだまだ少ない。

EVには高トルクの独特のドライバビリティとか、エネルギー効率が高いとかいろいろとメリットはある。
AIを活用した自動運転化との相性もおそらくいい。
そしてEVの基本的な技術はほぼ完成されている。

にもかかわらずEVがなかなか普及しないのは、ひとえにバッテリーの問題だと思う。
現在のバッテリーで必要な航続距離性能を満たそうとするとかなり重く、そして値段も高くなる。
また、現在主流のリチウムイオンバッテリーは化学反応で充放電を行うので経年劣化が避けられない。
スマホなんかでも3年くらい使い続けると急にバッテリーがヘタって使用時間が半分以下になる。

自動車の場合も同様で、日産のリーフなんかでも数年で航続距離が半分くらいになるとどこかの自動車評論家が書いていた。

リチウムイオン電池は1979年に発明され、1991年に世界で初めてソニーが量産化したらしい。
それから26年、途中リチウムイオンポリマー電池が開発されたりもしたけれど、リチウムイオン電池の基本原理は特に変わっていない。

現在新世代の電池として全固体電池というのが開発中らしく、2020年にトヨタも市販化を目指している。
全固体電池は電解質が個体になって、燃えない、小型軽量、充電時間短縮、長寿命とかなり革新的なものになるらしい。

全固体電池のポテンシャルがどの程度なのかはよく分からないのだが、しかしもし現在のリチウムイオンバッテリーの数倍のエネルギー密度が実現するのなら、いっそ電動ヘリに搭載して空を飛んだ方がいいんじゃないかと個人的には思う。
電動ヘリは渋滞もなく、自動運転化との相性もよく、目的地まで基本まっすぐに飛んでいけるので交通システムの革命になると思う。
それになにより、わたし自身が死ぬまでに電動ヘリで街の中を移動する体験をやってみたい
というのが東京モーターショーのEVシフトについて考えた結論でした。
posted by ヤス at 11:32| Comment(3) | 徒然なるままに

2017年11月05日

ロボットの寿命

さてロボットネタも飽きてきたのでとりあえず今回でいったん最後。

ある調査によると、AIBOのような「コミュニケーションロボット」の日本国内における2020年の市場規模予想は、台数で250万台、金額で2400億円くらいになるという。
ちなみに現状はおよそ50万台、500億円くらいだというから3年後に5倍に増えることになる。
本当にそこまで増えるかどうかは分からないが、それでもかなり増えることは間違いなさそうに思う。

コミュニケーションロボットというのは、別にルンバみたいに掃除もしてくれないし皿洗いの一つもやってはくれない。
ただ人間の呼びかけに反応したり、逆に人間に適当に声をかけてきたりするだけである。
そういうペット的なやりとりに対してAIBOの場合で20万円以上の金額を投入する人が少なからずいる。

そういうわたしもかなり昔のことだが「ファービー」というアメリカ発のおもちゃを購入した前科がある。
ファービーは、値段は5千円くらいと手頃で良かった。
ファービーは若干の改良を加えられながら現在も販売されているが、値段が安い分AIBOに比べると動作はかなり単調で、どちらかというと子供向けの感じ。
だがそれはそれでまあまあ面白かった記憶がある。

何しろ人間は、動きもせず声も出さないぬいぐるみなどに対しても、それなりの愛着を抱き大事に思うことのできる生き物である。
ファービーくらいの反応でもけっこう十分なのかもしれない。

また近い将来、ファービークラスの数千円〜1万円ぐらいのロボットに通信機能がついて、クラウドサーバーとつながったりすることもあるかもしれない。
クラウドサーバーで複雑な情報処理を負担して、「現場」のファービーはサーバーからの指令を忠実にこなす「端末」に徹する、ということになれば、安いロボットでもかなり高度なやりとりができるようになってヒットするのではないか、という気がしなくもない。

で、最終的に考えたいのはそういうペット型のコミュニケーションロボットの「寿命」についてである。
AIBOの売りの一つは「死なない」ということもあったらしい。
「ブレードランナー」のレプリカントは4年で死に、(元)天才子役のハーレイ・ジョエル・オスメント主演の映画「A.I.」の子供のロボットは寿命がなくて人類滅亡後も生きていた。

色々考えてみるのだが、ペット型ロボットもそれなりの寿命はあった方がいい気がする。
なんというか、その方が飼い主もより愛情が注げるのではないか。
あと、AIBOは一台一台育て方で全部性格が違うことになるそうだが、これも途中でリセットできない、性格形成は後戻りできないというのが重要である気がする。

生き物と生き物が対峙する感じの中にこそ、真に迫るコミュニケーションが生まれる気がするのだがどうなのだろう。
posted by ヤス at 07:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月04日

ロボットの脅威

ロボットというとSF作家アイザック・アシモフの「ロボット三原則」が有名である。

1ロボットは人間に危害を及ぼしてはならない、また人間の危険を看過してはいけない
2ロボットは人間の命令に服従しないといけない、ただし1に反する場合はこの限りでない
3ロボットは1、2に反しない限り自分を守らないといけない

というようなのがそれである。

SF業界には「フランケンシュタイン・コンプレックス」という概念があるらしい。
これは自分たちが創造した被造物が創造主を滅ぼしてしまうのではないかという潜在的恐怖のことを言うそうだ。
フランケンシュタイン・コンプレックスの根元に何があるのかはよく知らないのだが、想像するに、「原罪」の意識、アダムとイブの時代から引き継ぐ人間が自身に対して感じる罪の意識があるような気がする。
人間は生まれながらにして罪深い存在であるという無意識下の意識があって、もし高度な知性を持ったロボットを創造するとロボットは合理的判断に基づいて人間を抹殺しようとするのではないか、そういう一抹の不安がなんとなくあるのではないか。

ここ最近、物理学者のスティーブン・ホーキング博士やテスラ社のイーロン・マスク氏なども将来の人工知能による脅威について警告の声明を発表したりしている。
未来のロボットは本当に人間の脅威なのだろうか。
この問題に関しては楽観論も根強いようでFacebookのザッカーバーグ氏はそっちの立場らしい。

人工知能に関する楽観論も悲観論も、その論拠がわたしには今ひとつ不明なのであるが、個人的な想像としては人工知能が自我に目覚めるかどうかがその分かれ目である、というのはありそうだと思う。

超頭のいい人工知能が自我に目覚める
〜人間は地球環境の害悪と気がつく
〜人工知能が人間を滅ぼしにかかる

というループが一つ考えられる。

あるいは、昨今は軍事技術にも無人攻撃機はじめ人工知能や戦闘ロボットが実用化されようとしている。
軍事ロボットはアシモフの三原則とは無縁であり、「敵を殺せ」とプログラミングされた戦闘ロボットが暴走して人類をあらかた殺しつくすという方向のパターンもあるのかもしれない。
ただしこっちの方はプログラムミスのヒューマンエラーになる。

一つの対策、安全装置としてロボットに寿命を設定するというのがあるかもしれない。
映画「ブレードランナー」のレプリカントみたいに4年の寿命が来たら機能停止すると機械の暴走に一定の歯止めになる。
ただし、ロボットが自分で自分を改造して寿命の設定を変更したりすると事態はややこしくなる。

さらに自分たちの複製を勝手に「増産」し始めるとこれはもはや一個の生命と言えなくもない。
そうなると早晩人間と競合するのでこれを滅ぼす、みたいなことになるのかもしれない。

そんなこんなで、人工知能を搭載したロボットの反乱は「自我の目覚め」「自己改造」「自己複製」、この辺がポイントではなかろうか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 09:33| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月03日

ロボットのいる生活

ロボットが出て来る映画やアニメは昔からたくさんある。
その中にウィル・スミス主演の「アイ・ロボット」というのがあった。
もう10年以上前の映画だと思うが、映画の中の近未来には白っぽい半透明のロボットがたくさん出て来て、いろいろと人間の世話をするようになっている。

おそらくあと20年くらいしたらこういう風景が現実に日常になっているような気がする。

ロボットで思い出したが、自動車会社のホンダが二足歩行ロボットの「アシモ」を最初に発表したのは1996年のことだったらしい。
その当時は人間と同じようにバランスをとりながらの完全2足歩行ロボットはある種の夢の技術であり、ホンダのアシモはまだゆっくりとしたよちよち歩きだったけれど、驚きを持って世の中に受け止められたと記憶している。

今ではロボットの2足歩行はめずらしくもなんともなくなっている。
階段を昇り降りしたりジャンプしたりダンスを踊ったりするロボットもいるくらいで、人型ロボットの技術の発展は目覚ましいものがある。

現在開催中の東京モーターショーのヤマハのブースには「MOTOBOT Ver.2」という、人間用のオートバイを乗りこなすレーシングロボットが出ている。
目標は人間のレーサーのバレンティーノ・ロッシに勝つことらしい。
今はまだかなり負けているようだが、あと数年でMOTOBOTはロッシを抜くんじゃないかと思う。

というようなことで、この調子でいくなら、あと20年もすればロボットは人間と同等かそれ以上の運動能力を持つようになり、また人工知能の技術も進化するので頭も良くなって、脚立に登って電球を取り替えたりスーパーに買物に行ったりあらゆる場面で人間生活のサポートができるようになるのだろう。

今、わたしはこの文章をパソコンで打っているのだけれど、30数年前、当時「マイコン」と呼ばれていたパソコンが初めて世に出て、その時わたしはそのマイコンを買わなかったけれどその何年か後に買って、以降適当に買い替え買い増ししながら現在に至っている。
その間にパソコンの性能は激速に進化し、値段は安いモデルだと3万円も出せば買えるようになった。

パソコンと同じように人型ロボットもやがて家庭用市販モデル第一号が発売され、少し歳をとってくたびれたわたしも自分の介護用に1台買ったりするのかもしれない。

またコンビニに行くとレジはロボットのお姉さんがテキパキとやってくれて、ファミレスもロボットが料理を運んで来るようになって、生身の人間がサービスするお店はプレミアム付きの高級店、ということになっているのかもしれない。
そういうことを今ちょっと想像したりしている。
posted by ヤス at 15:11| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月02日

AIBO復活

ソニーから新型の「犬型ロボット」AIBOが発表された。
発売は来年の1月だが先行予約が昨日から始まり、あっという間に予約は埋まったらしい。
値段は本体が税別198000千円、他に月々のクラウド費用が必要だという。
今ソニーオンラインストアを見ると次回予約再開は未定と出ている。

前回のAIBOは1999年に販売が始まりいくつかのバリエーションモデルが出ながらも2006年に事業撤退。
2014年には公式の修理対応も終了している。
修理対応終了で多くの故障AIBOが復活不能となり、動かなくなったAIBOの合同葬儀が話題になったりもした。

その記憶もまだ新しいうちの今回AIBO復活。
AIBO復活の主要因としては、ソニーの業績が急回復していることがあるらしい。
ソニーの今期の決算は久々の過去最高益を予想しているそうである。
ただし儲かっているのは金融とゲームで、本流のエレクトロニクス製品はスマホ事業はじめ相変わらず苦戦していると想像されるが。

とにかくも、AIBOをやるにはいくらか赤字を覚悟して、体力に余裕のある時でないと難しいということなのだろう。
ソニーは昨年、家庭用ロボット事業への本格参入を宣言しており、グーグルやアマゾンが出しているAIスピーカーなんかにも積極的に取り組んでいくようだ。

と思っていたら11月18日から発売予定の「コミュニケーションロボット「Xperia Hello!」というのを出したというのがニュースに出ている。
これは、見た目はグーグルのAIスピーカーに近い、先のすぼまった円柱形のイメージだが、お腹のところに液晶モニターがあってテレビ電話的な使い方ができる作りになっている。
あと20人分の個人顔認証ができる(つまりカメラが付いている)らしい。
Xperia Hello!は脚もタイヤも付いていないので自分では動けないのだが、台座から上の部分がくるくる回るようになっていて、話をするご主人様の方に勝手に向いてくれる。
それで「海の手線が遅れています」とか「結婚記念日の1週間前です」みたいに、聞いてもいないのに色々と忠告もしてくれるらしい。

おそらくソニーとしてはアマゾンやグーグルに対して、よりたくさん動くタイプの、よりロボットライクなAIスピーカーの開発を目指しているのではなかろうか。

そして近い将来AIBOがAIスピーカーの機能を包摂して、自分で勝手に動き回る、より可愛げのあるAIスピーカーをソニーは作ろうとしているのではないか、と思えないこともない。
将来的には食事の後の洗い物とか、庭の雑草抜きとかも手伝ってくれるような人型ロボットがすぐ近い将来に出てくるような気もする。
その場合のロボットの「仕様」について少し思いついたことがあったのだが長くなりそうなのでまた今度書くことにする。

いずれにせよ、将来の本格的家庭用ロボットの序章としての今回のAIBOの復活と勝手に思いながら、AIBOの今後を見守りたい。
posted by ヤス at 14:22| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月01日

株高は続くか

さっきスマホをチェックしたら今日も日経平均がものすごく上がっている。
21年ぶりの高値との報道も流れていたが、NYダウも上がっているし円高傾向も最近は一服している。
さらに企業業績も堅調引き続き堅調。
このまま年末に向けてさらに上昇することも十分予想される。

しかし実質賃金はなかなか上がらない。
失業率は2%台と低く、アルバイトが足らないという声はあちこちで聞こえてくる。
実際周辺のアルバイト時給相場は、人手不足に最低賃金上昇もあってかなり上がっているように感じる。

そして大企業も、最近は政府の掛け声もあって賃金は上がっている。
また中小企業の正社員給与も、2016年のデータではそれなりに上がったようだ。
しかしアルバイトも大企業と中小企業の正社員もみんな賃金水準は上がっているようなのに、日本全体としては賃金が上がっていない。

インフレ率を加味した実質賃金では今もって下落傾向が止まっていない。
これはなぜかというと、大きな原因としては就業構造の変化がある。
構造の変化とは、まず平均賃金の高い製造業の就業者数がどんどん減っていることがある。
最近は円安に加えて、新興国の賃金がかなり上がってきていることもあって製造業の国内回帰の動きがちらほら聞こえてきたりもしている。

しかし仮に、今後さらに国内回帰が進むにせよ日本の若年人口は減少し続け国内市場は縮小を続ける。
そういう状況では製造業の国内回帰にも自ずと限界があるだろう。

今現在日本の就業人口の増加に大きく貢献しているのは介護業界だろう。
そして介護業界は製造業より賃金水準が低い。
統計を見ると日本全体の就業者数は2012年以降急速に増加を続けている。
就業者数のグラフが右肩上がりなるのとシンクロして失業率が下がっている。

日本の就業構造は、給料の高い製造業就業者が減って給料の安い介護業就業者数が増える傾向がしばらく続いている。
だから今後もなかなか給料の総額は拡大しない。

この間、日銀が物価目標2%は達成していないけれどそれとは別にデフレ脱却を宣言するかどうか検討中、みたいなニュースが流れていた。
しかし世の中の所得が増えないと、いくら円安で輸入物価が上がったところでそこから先の安定的な物価上昇など起きるはずもない。

リフレ派の人々は物価が上がってデフレ状態を脱却したら続けて賃金が上がるという話をしているが、これはもちろん順番が逆で、まず最初に給料が上がると安定的に物価も上昇しデフレ状態を脱却できる。

そして今の日本全体の賃金水準は国際的な競合状態によって決まっているので、安定的な物価上昇が起きてデフレ状態を脱却するためには日本人が国際的に見て価値のある仕事をする他にはない。

つまり給料がなかなか上がらないのは現在の日本人の仕事の価値が国際的にあまり高くないからで、ということは現在の株高もあまり長くは続かない、というのがわたしの現在の予想だったりする。
posted by ヤス at 15:57| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月31日

人生はリセットはできない

わたしは暇つぶしで将棋ゲームを時々やるが、しかししょっちゅう「待った」をするタイプである。
最近は、他のゲームはほとんどしないけれど、シミュレーションゲームなんかをしているときは、ちょっと状況が不利になったりすると即座にリセットして最初からやり直しをしたくなるタイプなのである。
しかし現実世界の厳しさのことを思うとこのようなゲームに対する姿勢は良くなかったなと反省する。

現実世界は不測の事態の連続であり、絶体絶命のピンチがしょっちゅうやってくる。
そしてそういう不測の事態、絶体絶命のピンチの原因は、だいたいにおいて過去の自分の行いにある。
まあそれでもなんとかこうして生きているから、なかなか本気で反省できないのだろう。

よく「人生は一回きり」、みたいなことが言われるが、しかしそういうことをわざわざ言わないといけないほど、人間は、少なくとも自分の場合はそのことに気がつきにくい。

よく冒険映画に出てくる典型的なシーンで、岩だらけの広い洞窟に細いボロボロの石の橋が架かっていて、それが地震で端から順に崩落していくのがある。
主人公は落ちたら大変と思ってその崩れていく橋の上を一生懸命走る。
その映画のシーンみたいな感じで、今こうしている間にも「現在の瞬間」が次から次へものすごい勢いで崩落して、ゴーッと音を立てて過去という名の奈落の底に吸い込まれていく感じを、最近になってようやくちょっとだけ認識するようになった気がする。

本当に、現在の瞬間は一瞬も止まることなく次々に過去に向けて流れ去っていく。
当然ながら失敗したのでちょっと過去の、ある時点に戻ってそこからやり直しとかはできない。
人生には過去に遡ってやり直しというのはなくて、今この瞬間からもう一回新しく始めるというのしかない。

そういうことを将棋ゲームをやりながら思ったのだが、ゲームの場合はいくらでもリセットできるし、前回セーブした場面からやり直して強引に勝利をおさめることも難しくはない。
色々反省もしてみるのだけれど、バーチャルなゲームのそんなところはやっぱりちょっと素敵だなと思ったりもするのだった。
posted by ヤス at 09:58| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月30日

プロ棋士の喜ばない感じ

だいたいのスポーツにおいて、技を決めたり勝利の瞬間とかにガッツポーズはつきものである。
しかし一方でガッツポーズがタブーの競技もある。
大相撲とか柔道とか日本の国技とされている競技では、ガッツポーズとかで感情をあらわにすることはあまりない。
ただ柔道に関しては国際スポーツとして世界各国で広く行われており、オリンピックなどを見ると海外の選手はガッツポーズをする人もいる。
ただし、礼の精神がそれなりに理解されているためだろうか、他の格闘技やサッカーなどに比べると喜びの表現もかなり控えめのような気がする。

国技ということでいうと、体を動かさない頭脳スポーツである将棋でもほとんど感情を出さない。
トップ棋士の羽生善治氏の本を読んでいたら、奨励会時代からあまり感情を表に出さないように師匠から指導を受けているそうなのだが、ほとんどのプロ棋士は若い頃から勝っても喜ばないようにしてきているからだろう、将棋の世界では勝利の瞬間、勝者に笑顔が微塵もない。

将棋にはもちろん勝ち負けがあり、プロスポーツであるから勝利は棋士の収入にも直結する。
だから勝って嬉しくないわけはないと思うのだけれど、しかし、勝っても喜ばない習慣をずっと続けていると、勝っても喜びの感情がわかなくなってくるのかもしれない。
それと将棋は心理戦の側面もあり、勝ちを急ぐと思わぬポカをしたり相手に作戦を見透かされたりするので、棋戦中にポーカーフェースを突き通すのはけっこう重要なのかもしれない。

将棋に限らず相撲や柔道で勝って喜びを顔に出さないというのは、負けた相手への思いやりという意味合いも強いのだろう。
だからといって、海外のスポーツが礼を失しているということではなくて、海外は海外で、負けた相手が笑顔で勝者を祝福する姿をよく見るけれど、あれはあれでいつ見ても気持ちがいい。

トップアスリートやプロスポーツの世界は、人並みはずれた負けず嫌いの人間が切磋琢磨しているところである。
だから負けた人間は死ぬほど悔しいはずだし、勝った方は脳でドーパミンがドバッと出て興奮状態になっているはずだ。

羽生さんも若い時分は、負けると終局直後はポーカーフェースなのだけれど、その日の晩は悔しかったりあの時こうすればよかったとか、なかなか寝付けないことも多かったらしい。
それが経験を重ねるごとに気持ちの切り替えが上手くなって、悔しいのは死ぬほど悔しいのだけれどいつまでもマイナスの感情を引きずらなくなる。
そういうプロ棋士の、大きな気持ちの振幅をうまく統御している感じが、なんだかすごくかっこいいなあとちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 11:28| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月29日

選挙の棄権について

さて、衆院総選挙から1週間経ってそっち方面の話題もだいぶ落ち着いてきた。
落ち着いては来たのだがひとつ気になることがあって、それは投票棄権の件についてである。
今回は大義なき選挙とか投票したい先のない選挙とかいう意見がこれまでよりもやや多目に聞こえて来たような気がする。
そこで果たして選挙における棄権は是か非か、少しだけ考えてみる。

ちょっと前まではわたしも、選挙に行かない知人に対し「選挙には行った方がいいよ」と言っていた。
しかし今回に至って選挙は別に行く気がしなければ行かなくてもいいんじゃないかと思うようになっている。

「選挙に行こう」の考え方はいく通りかのパターンに整理可能であろう。

ひとつは「選挙は行かないといけない」のパターン。
選挙が有権者の権利であり義務でないことは憲法や公職選挙法によって明確に規定されている。
したがって行かないと「いけない」と必ずしも言えないのは自明。
ただし、有権者が誰一人選挙に行かなくなると現在の政治の仕組みが維持できなくなるので、それが5%か10%かわからないが最低限維持されるべき投票率というのはたぶん存在する。
その限りにおいて、それなりに「選挙には行くべき」だと言えなくはない。

次のパターンは「選挙には行った方がいい(あるいは投票はした方がいい)」。
選挙は別に行くのは義務ではないけれど、行った方があとあといいことがあるんじゃないか。
あるいはより多くの人が投票した方が民意の反映された政治になるという考え方もあるだろう。
しかしどう考えても、情報をいろいろ調べても投票したい先のない人はどうすべきか。
その場合でも消去法なり批判票なりの考え方で何らかの選択をして有効票を投じるべき。
というのがこのパターンだがどうなのだろう。

最後のパターンは「投票したい人だけ行けばいい」。
行った方がいいけれど義務ではなく、投票したい先がなければ棄権するか白票無効票を入れればいい。
ちなみにわたしは投票に行かないのも白票を投じるのも本質的な違いはないと思っている。
ともかくも、「投票したい人だけ行けばいい」の考え方の下では、低投票率は常に許容される。
つまり「投票率は低かったけれど、まあしょうがないよね」となる。

最初に言った通り現在のわたしは最後のパターンに傾いている。
ふたつ目のパターンの場合、ある種の政治的「動員」が働いて、例えば「イメージ選挙」で何となくの投票行動が地滑り的な政変を引き起こす危険がありうる、そんな気がする。
それならば政治に関心があり、それなりに投票理由を持っている人だけが行く方がまだマシなのではないか。

いずれにせよ、わたしとしてはただ盲目的に投票に行こうと言うのはあまり意味が無い(というか少々危険)と思えてしょうがない。
正しくは「政治に関心を持とう(あるいは政策内容に関心を持とう)」というべきなのであろうけれど、しかしそれがなかなか難しいから議論は尽きない。
今日のところはこれでおしまい。
posted by ヤス at 13:55| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月28日

保育士は誰でもできる問題

2週間くらい前だと思うが、「保育士は誰でもできる」問題でホリエモンが炎上した。
「『なんで保育士の給料は低いと思う?』低賃金で負の循環」(10月12日)という朝日新聞デジタルの記事にホリエモンが「(保育士は)誰でもできる仕事」と短くツイートしたのが事の発端だった。
このツイートに対し現役保育士はじめ関係者から反発のツイートが多数寄せられる結果になった。

ちなみに、わたしもホリエモンに同意である。
ホリエモンへの反論にはさまざまなものがあったが、一つの方向性として、保育士が国家資格であり厚労省の定めた「保育所保育指針」を理解しこれに沿って業務を行う「専門性」を挙げるものがあった。

ここで落ち着いて考えないといけないと思うのは、ホリエモンが「誰でもできる」と言ったそのニュアンスについて明確にしておくことである。
「誰でもできる」とは具体的にはどういうことになるのか。
例えば、オリンピック選手やプロ野球選手は「誰でもなれない」。
それは人並みはずれた才能や努力が求められるからだ。
昨日はプロ野球のドラフト会議だったが、最近は毎年70人くらいが指名を受けてプロ入りしているらしい。
対してドラフト対象の選手の総数はおおよそ6万人くらいらしい。
つまりプロ野球の一員になれるのは確率0.11%の超狭き門である。
だから「誰でもなれない」。

保育士は「子供好き」の性格やコミュニケーション能力、付随業務のための事務処理能力とか一定のスキルは必要だろう。
だがそれは大体誰でも一定の訓練によって身につけることができるレベルのものと思われる。
そういう意味で保育士はおおよそ「誰でもできる」と言える。

ホリエモンに反発する保育士さんたちの言いたいことは、どちらかというと「誰でもやりたがらない」、だから結果として「誰もができるわけではない」ということではないか。
そしてそれは仕事内容が大変な割に給料が安い、という点にほぼ集約されるように思う。

この問題に関しいろいろとネット情報を見ていたのだが、一応の結論としては保育業界の社会主義的あり方に諸悪の原因があるということだと思った。
まず、子供を預ける親の負担額の設定が安すぎる。
だから需要過剰になる。
それに対して行政規制により供給が増えないので「待機児童」という名の行列ができる。
この状況はかつてのソビエト連邦と同じ匂いがする。

保育料が安いのは多額の補助金が投入されているからである。
最大の問題は、補助金の受け取り手が保育士でも保護者でもなく「保育園」という事業者であることだろう。
事業者は保育士の給料をなるべく安く抑えることで補助金のもらい得になる。
だから保育士給料を上げる動機がなかなか働かない。

あるサイトでは、この補助金をすべての子育て世帯に均等に配分し、補助金をもらって自分で育てるかそれでもあえて高額の保育料を払って保育園に預けるかの二者択一にすべきというのがあった。
つまり補助金の行き先を変えて保育料を市場メカニズム的な正規料金(月額10万円とか20万円とかそれ以上)にする。

そうすると何が起きるかというと、需要が減って(多くの家庭が自分で育てる)保育園の多くが潰れる。
保育士の絶対数も減るが待遇は大幅に改善されるだろう。
プロの保育士として誇りが持てる状況が生まれると思う。
このような変更は、それはそれで諸々の問題があってたぶん実質不可能だと思うが、しかし方向性としてはそっちの方しかないような気がする。

話が「保育士は誰でもできる」からやや逸れたが今日のところはこの辺を結論としておく。
posted by ヤス at 10:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月27日

とりあえずぶっ込む

確かあれは明石家さんまだったと思うけれど、お笑い芸人に大事なことは、なんか思いついたらとりあえず勇気出して言ってみること、って言っていたのが何となく記憶に残っている。
ひょっとしたらさんまちゃんじゃなくて別の芸人だったかもしれない。
それはともかく、お笑い芸人の「とりあえずぶっ込む」感じが大事というのはなんか面白いなあと突然思った。

お笑い芸人は大勢のお客さんの前に立って面白い芸を披露するわけだが、当然毎回ウケるわけではなく、ややウケの時もダダすべりの時もある。
世に出ているお笑い芸人というのは、すべった時の腹の据わりようというか、ウケなくても微塵も動揺しない感じ、がひとつの資質条件としてあるような気がする。
素人芸の場合、客のウケを探り探りやる感じやすべった時の「しまった」が顔に出る感じが場の空気をますます冷やしてどんどんドツボにはまる。

「良い芸人」はちょっとやらかしたとしても、その失敗から瞬時に切り替えて何事もなかったかのように次のネタを繰り出す。
その辺の感じがある種の安定感になり、安心してみていられる心地の良さにつながるような気がする。
まあ芸人にそのようなハートの強さが必要なのは今さらいうまでもないことだ。
しかしすべるのを恐れずにとりあえずぶっ込むというのは、お笑いの世界に限らず、ある意味人生の本質でもあるように思われる。

お笑いの場合、がんがんぶっ込んでいかないと芸として成立しないということがあるわけだが、普通の人々の人生の場合は、遠慮したり空気を読んだりしてそっとその場をスルーすることがどうしても多くなりがちである。
やっぱりがんがん行っているとどうしてもそのうちかなりの確率でダダすべりが発生し、気持ちが落ち込んだりすることが多くなる。
その精神的ストレスを考えると多くの人の人生はどうしても遠慮がちなものにならざるを得ないわけであるが、逆にストレスに耐えられる人はそこを乗り越えられるだけの強い動機づけがあるということなのだろう。

よく野球は失敗のスポーツであると言われ、またサッカーもシュートを10本くらい放ってやっと1点か2点取れる、たいへん失敗の多いスポーツである。
あるいは将棋の世界にも「悪手の海を渡る」みたいな言葉があって、将棋というのはいかに相手の悪手につけ込むか、自分の悪手をリカバリーするかが大事というゲームらしい。

人の人生においては、成功体験よりも失敗体験の方が圧倒的に多いと思うわけで、失敗に対する対処、そこからの切り替え、そしてその精神的ダメージを積極的に乗り越えていく動機づけが大切だと思ったのだが、じゃあどうすれば失敗に強くなれるかということについては、またちょっとゆっくり考えてみようと思った。
posted by ヤス at 13:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月26日

フェイクニュース対策

フェイクニュースがいろいろと問題になっている。
フェイスブックやツイッターなどのSNSやニュースサイト運営会社なども人工知能を使った対策に乗り出したりしている。

自分なりに考えると、フェイクニュースにはいくつかの種類がある。
典型的なやつは最初から「フェイク」の自覚を持って作られ流布された明らかな偽ニュース。
これらの大半は、知られているいくつかの事実を土台にして、その上にまったくの想像ででっち上げたフィクションをあたかも事実のようにニュースに仕立てる。
ニュース内容のほとんどが「記者」の頭の中だけで作られているという点ではわりかし分かりやすい。

しかしフェイクニュースには別のパターンもあって、それは基本的に取材に基づいて書かれているのであるが、記事作成の段階で内容の方向づけが意図的に捻じ曲げられているもの。
どこかの人物にインタビューして、そのインタビューに基づいて記事を書くのだが、その時に聞き取った内容を適当に切り取ったり言っていないことを付け加えたり言い回しを勝手に変えたりして記事の内容を都合の良いように変えてしまう。

大まかに、フェイクニュースはこのふた通りがあるように思う。

前者のフェイクニュースは、あるいは人工知能をフル活用することであぶり出しが可能かもしれない。
そのニュースに記載の事実が現実のものかどうかを他の情報源に当たって検証するようなアルゴリズムを組むことができれば、おそらく近い将来に事実無根のフェイクニュースに関しては相当程度撲滅が進むような気がする。

しかし問題は後者のパターンだと思う。
それなりの手続きを経て作成されていながらも、必要以上に記事作成者の意図が入り込んでいるものについては、なかなか一律的な対策は難しいと思う。

そもそも世の中のニュースというのは、程度の差こそあれ記事作成者の意図が何らか入り込んでいるものだ。
逆にいうと、何らかの問題意識があるからこそニュース記事は作成され流布されるわけであり、そういう意味では「意図のないニュース」というのはあり得ないものである。
歪んでいたり過激であったりする「危険思想」に基づいて事実が書き換えられているようなわかりやすいパターンなら、あるいは何かの規制も可能かもしれない。(ドイツのナチズム規制みたいに)

しかしあまりやり過ぎると思想信条の自由に触れるから難しい。
対策として唯一有効なのは、ある事実に対して一方向の記事だけでなく反対側の見方も含めた多角的なニュースを参照して読み手が判断することに尽きると思う。

結局のところフェイクニュースは、「自分の読みたい記事」を読みたいという読者側の「心の弱さ」につけ込むものなので、最終的には読者側のリテラシーが最後の砦だと思うのだが、昨今のフェイクの流行りようを見るとこれはなかなか難しい問題だなと思う。
posted by ヤス at 09:45| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月25日

ジジイの自覚

そろそろコンビニなんかではクリスマスケーキの予約が始まっている。
ということで、いつの間にか今年もそろそろ終盤戦である。
まったく、月日の経つのは早いもので、ということを何十回か言っているうちに人間は寿命が尽きる生き物のようである。

確か中学生の頃、西暦でいうと1980年頃に考えていたことをふと思い出した。
その頃は「ノストラダムスの大予言」が流行っていて、1999年に地球が滅亡するらしいというのを半分冗談ながら友だちと語り合っていたものである。
それでよくよく計算してみると、1999年のわたしはとうに30歳を超えていることが判明して、その時に予想した30歳代の自分というのがひどくジジイになっているように感じたのを思い出した。

その後実際に1999年を無事迎えたけれど、現実の30歳代は中学時代に思っていたほどジジイではなかった。
そして40歳代も過ぎて、時々周囲に対して「ジジイになった」と弱音を吐いて見せているが、しかし実のところそれほどジジイになった自覚はないのである。

これはひとつには、30年くらい昔の40代50代のオジサンと現代のオジサンでは、現代の方がかなり「若づくり」になっているということがある。
医学的にもライフスタイル的にも現代人はかなり若返っているようであり、今の自分を見た時に昔想像したのより案外若いな、と思ってしまうのかもしれない。

しかしそれなりに歳を食った自分がそれほどジジイに思えないことの根本的な原因は、ジジイの程度が常に自分を基準に判別されるところにあるのは、まあ当然のことである。
ジジイの基準そのものが年々歳を食っていくのだから、その基準を元に判定される自分のジジイの程度があまり進行しないのは道理なのだ。

しかしこの感覚は、この先もずっと続くものなのだろうか。
さすがに70歳80歳になったら、身体的にもそれなりにやれて、脳みその方も適当にボケて、ジジイになった自覚がはっきりしてくるのだろうか。
そこのところが少し気になる。

しかし歳を取ると確実に感じるのは、どちらかというと1年が過ぎるのがどんどん早くなることの方かもしれない。
1年歳を取るごとに、1年の比重は確実に数%ずつ小さくなっていくのを感じる気がする。
ということで、正月からクリスマスまでの年中行事の回転が年々早くなっていく感じがして、そう感じているとやっぱり自分はジジイになったなあと思う、今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 11:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月24日

「狂」の字の由来

もう故人であるが、白川静博士といえばその道では有名な「漢字博士」である。
その白川博士が編纂した「常用字解」という、「漢字」の一文字一文字についてその成り立ちを解説した辞書が、なぜか我が家に転がっている。
それで、その常用字解でたまたま「狂」の字のページを開いてみたのである。


この数日、わたしは「狂」について少々考えることがあった。
なぜかはよく分からないのだが、ひとつには先日の衆院総選挙の喧騒がきっかけだったような気もする。
ほんとうに、選挙に出る先生方というのは一般ピープルから見るとかなり狂の側に寄っているように思われる。
一部の候補者では自身のスキャンダル騒ぎで当選が危ぶまれるところ、ドブ板選挙のお詫び行脚を展開して受かった人もいるし落ちた人もいる。
一般的感覚だと引きこもりになってもしょうがないような状況でも、群衆の前に立ち、またテレビのインタビューでキャスターの意地悪な質問に応えるというのは並の心臓で出来ることではない。

しかし選挙に限らず、普通の感覚を大きく飛び越える、常識的判断をジャンプする蛮勇というのは、あらゆる人々の人生において、時に必要なことかもしれないと思ったりもする。

今年のAKB総選挙で20位に入り、そのスピーチで結婚宣言をしてファンのみならず世間を騒がせた元NMB48の須藤凛々花は、哲学者ニーチェの言葉を引用して「人生を危険にさらせ」というのをよく言っている。
人生は安全パイだけでは乗り越えられない局面があり、より安全になるためにはこの身を絶体絶命の危険にさらさねばならないという、究極的にパラドキシカルな状況というのがありうる。
そういう状況を乗り越えるにはいったん狂ってみる、世間的常識や自身の安全を一回全部放棄してみるということが必要ではないか、そういうことを最近時々思うのである。



それで「狂」の字を白川博士の常用字解で引いてみると、この字は、昔の王様が遠方に使者を出す時に使者に力を与えるために「まさかり」の上に足を置くという儀式をやっているカタチが元であるらしい。
この儀式を通じて使者は常ならぬ力を授かり、文字通り命がけの困難な使命を果たす。
つまり使者はこの時に「狂う」のである。

少なくとも漢字の成り立ちとして「狂」の字にそういう意味が込められているというのは、かなり新鮮であった。
この辞書はたまにしかページを開かないので10年以上前に買ったのにいまだに新品のように綺麗であるが、たまに開くと面白いことがあるなあと思ったりしたのでした。
posted by ヤス at 15:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月23日

選挙における認知と人気

さて、台風が心配された総選挙もなんとか終わった。
選挙の結果については人によっていろいろな考え方があると思うし今回はあえて触れない。
今考えているのは選挙とは何か、ということである。

選挙といって思い出すのは「AKB総選挙」である。
本家本元の衆議院総選挙とAKB総選挙は当然まったく異質のものであるわけだが、しかしある部分については当然ながらかなり共通している。
それはファンや支持者からの票を集めた人が勝つ、という点である。
少し言い方を変えるとファンや支持者の人数が多い人が勝つのだ、とも言える。

わたしはこの間から、絵本作家でもある炎上芸人・西野亮廣の書いた本を読んだりしている。
西野亮廣によると、これからのタレントは「人気タレント」にならねばならず、従来のテレビタレントのタイプである「認知タレント」のままであってはならないと説く。
彼によると認知タレントというのは、テレビにたくさん出ていて有名で好感度の高いタレントのことであるらしい。
そのような認知タレントは、有名で好感度が高いのでテレビ番組からの需要が高い。
同様の理由でCMに起用されることも多く、テレビやCMにバンバン出ることによって認知タレントとしての地位をどんどん固めていくことができる。

しかし、である。
そういう認知タレントが一旦不倫騒動やらのスキャンダルに見舞われると、一気に好感度が下がりその地位を失う。

認知タレントの弱みは、彼・彼女がもっぱらスポンサーからのお金に頼っていることである。
テレビ番組の制作費やタレントのギャラはスポンサーフィーに頼っていて、視聴者は番組やタレントに対して直接お金を払っている訳ではない。

AKBが画期的だったのは、認知タレントが大部分を占めていた芸能界に「人気タレントによるダイレクト課金」の仕組みを組み込んだことなのである。たぶん。

そしてインターネット的な仕組みがそこそこ発展した現代においては、必ずしもテレビに出なくても、ユーチューブやショールーム、ニコ動などネット配信番組とかでタレント一人養うくらいの収入を得ることは決して不可能ではない。

そういう「人気タレント」型のビジネスモデルは、ネット以前にも、ミュージシャンや芸人ならライブをやったりするやり方がすでにあった。
あるいは街の個人飲食店なんかも、どちらかというと固定のファンによる「人気タレント」型のモデルが当てはまるところが長続きするのだと思う。

そして衆議院の総選挙は、そもそもずっと「人気タレント」モデルでやっていたわけである。
「認知度」が物を言う比例区というのもあるが、しかし選挙区選挙には認知度はそれほど役に立たず、候補者が、彼・彼女の属するコミュニティにおいてどれだけ名前も顔もある「支持者」を固定できているかが勝負だったのだ、と今さらながら思う。

今回、スキャンダルで落選した人もいれば逆風をはねのけて当選した人もいた。
それはその辺のところに原因があったのであろう、とあらためて思ったのだった。
posted by ヤス at 15:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月22日

見た目の影響

人の見た目は人生にどれくらい影響するのだろうか。
野生動物の場合、例えば体の大きさ、そういう見た目の違いは彼の人生にそれなりの影響を及ぼすのだろう。
体が大きいと天敵に襲われる可能性も多少減るだろうし、ケンカをしても強いのかもしれない。
だから餌を余計に食べられたりするかもしれないし、異性の興味を小さい個体よりも余計に惹くのかもしれない。

人間の場合は見た目の違いは野生動物よりやや複雑で、単に大きいとか小さいとかの話にとどまらず、美しいか美しくないかというような質的な見た目の違いがより重要である。
しかも孔雀のオスの羽根が綺麗とかいう分かり易い美しさというより、顔面の目鼻立ちの配置とか全体的な雰囲気であるとか、より微妙な項目が問題になったりする。

それは要するに、見た目の微妙な差異を受容する人間の認知能力もまた微妙である、ということなんだろうと思う。
また人間の場合、生まれつきの顔つき体つきというよりは、成長するにしたがって「身についていく」ファッションセンスとか女性であればお化粧の方向性によって見た目がかなり変わる。
そして人間の見た目は生まれつきの見た目よりむしろ後天的に、本人の趣味によって決定される要素がかなり大きくならざるをえない。

また40歳過ぎたら男は自分の顔に責任を持て、みたいな決まり文句があるけれど、人の表情というのはその人の人生の軌跡がちょっとずつ刻み込まれている、というのはたぶん確実だと思う。
だからその人の生き様が顔の表情にどうしても表れる。

ということで見た目がその人の人生に影響を与えるということも当然あるし、人生の軌跡が人の見た目にフィードバックされるという逆の要素もあることが分かる。

ここまで考えてくると結論としては、人間というのはおそらく、他人の見た目にまったくの無関心でいることは出来ないのだと思われる。
そして実際、人間は、目の前にいる人の「見た目」を見て、いろいろなことを感じているに違いない。

そして人間は、ファッションやお化粧で自分の見た目をコントロールするところにはかなり意識的であるが、「人の見た目を感じている自分」については、案外無意識的なのではないかと思うのである。

人の見た目を見ていろいろ思う自分、というのにもう少し意識を向けると、その後の自分の行動が少し違ってくることがあるのではないか、ちょっとややこしいがそんなことを少し思ったりした。
posted by ヤス at 14:22| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月21日

低投票率について

明日は総選挙の投票日である。
タイミング悪く大型台風が近づいてきていて低投票率に拍車がかかるのではと心配されている。
前回総選挙の投票率は52.6%、前々回は59.3%だったらしいが果たして今回はいくらになるのか。
選挙そのもの行方よりそっちの方が気になっていたりする。
ただ日本の国政選挙の投票率が低いのはまあ当たり前だと思う。
それは投票によって政治に影響力を行使した「実感」がかなり乏しいからだ。

まあ、与党の自民党に入れた人に関しては、自分の一票を通じてさまざまな施策が実現した感触を多少感じることはできるのかもしれない。
しかし有力な対立野党が不在で政権交代が起こりようのない状況では、非自民党的な政策を要望する有権者は投票する先がない。
与党不支持の表は小さい野党にバラバラに投票され、相互に食い合って結果与党を利する。
この数年の野党の「もがき」は、この問題に最適解を出すためのものであったわけであるが、しかしそれが今回、とうとう具体的な形で実現した。
実現はしたけれど、その形はかなり不完全で政局を動かすところまで至らず(一応まだ分からないけれど)与党の安泰は続きそうである。

しかし最近思うのは、結局選挙で与党が勝とうが負けようが日本の将来動向にあまり影響はないのではないか、ということである。
かなり適当な見方かもしれないが、わたしの予想する日本の未来は、かなり暗い。
総人口が減って高齢化が進むので経済のパイ縮小が避けられないということもあるし、日本固有の「社会の硬直性」が健全な発展を阻む弊害がますます顕著になる、ということもある。

将来のGDPもインドはもちろんインドネシアやブラジルやメキシコなどに次々に抜かれて、何より一人当たりのGDPがさらに低下して多くの国民が貧乏を実感する時代が来るのだと思う。
そういう「どん底」を味合わないと、大衆の中に社会を変える動機というのがなかなか生まれてこないのではないかというのがわたしの基本的な考え方である。

そして日本の社会がかなり悪くなった状況でこそ、選挙の重要性、一票の重みというのが再びクローズアップされるのではないか。
それまでは低投票率で与党が勝ち続け、首相の解散権も乱用のし放題、政治状況の固定化が進んで政治的な重要情報の公開も一向に進まず、日本は「緩慢な死」に向かってよろよろと進み続けるのではないかと予想する。

しかしものは考えようで、経済的に貧乏でも精神的に豊かでいることは可能だろうし、現在(または近未来)における貧乏の水準は、江戸時代や中世・古代の貧乏と比べると比べ物にならないくらい豊かであるとも言える。
そういう来るべき混乱の時代にどれだけ心に余裕を持ち、人生を楽しめる状況を作ることができているか、その辺が個人的なテーマであると勝手に妄想していたりする。
posted by ヤス at 11:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月20日

電動ヘリは実用化されるのか

最近時々、道路や橋などの社会資本が老朽化して大変だという話を聞く。
日本のコンクリート構造物の耐久年数はだいたい50年くらいが上限と言われる。
そうすると基本的に鉄とコンクリートで建造された橋梁の場合、50年経ったら架け替える必要が出てくる。
今から50年前の時代を思い返すと、1960年台後半のちょうど高度経済成長期の真っ只中。
そして1972年に田中角栄の日本列島改造論が出てきて70年代は列島改造ブーム。
この頃に作られた橋や道路やトンネルが今後次々に完成後50年を迎える。
今問題になっているのは、これらの老朽化する社会資本のメンテナンスが、費用的にもマンパワー的にも今後は難しくなってくるということである。

そのことを考えているところにあるニュースが目に入って、それは中東のドバイで空飛ぶ電動バイクを警察が導入することを決めたというものである。
ドバイについては、確か昨年「空飛ぶタクシー」を2017年夏までに飛ばす、みたいなニュースの憶えがある。
ドバイの人はよほど空を飛びたいらしい。
あるいは地上の道路の渋滞がひどいのかもしれないが。

ドバイのニュースを見て思ったのは、将来世の中の自動車がみんな空を飛ぶようになったら、もはや道路や橋梁のメンテナンスは必要なくなるんじゃないかということである。
そしてこの2〜3年の間に、電気動力の乗用ヘリコプターが開発中というニュースがバンバン流れるようになっている。
で、今の所バッテリーなんかは決定的な技術的ブレークスルーにはまだ達していないようだけれど、エネルギー密度も充電時間も確実に進化はしている。
しかし果たして人々が日常の乗り物として電動ヘリに乗る時代はやってくるのか。
どうなのか気になる。

それでちょっと計算を試みた。
電動ヘリの理論的エネルギー効率。
空を飛ぶのは機体と搭載物を浮かせないといけない分、地上を走るよりエネルギーが余計に要る。
それはどれくらいの量になるのか、今後の開発次第で地上を走る自動車より高効率化できるものなのだろうか。

地表面の重力加速度は9.8m毎秒毎秒。
1kgの物質を1m毎秒で動かす力が1N(ニュートン)。
ということは1kgのものを浮かばせるのに必要な力は9.8N。
100kgだと980N(毎秒)。
これを仕事量Whに変換すると980N×3600秒=350万Wh。
1馬力=735Whなので350万Wh=約5馬力。

100kgの電動ヘリが空中に浮かぶためには5馬力の電気モーターが要る。(ただし効率100%)

間違っているような気がするし合っているような感じもする。
ざっくり効率50%として10馬力くらいあれば浮かんでいられるんじゃないだろうか。
これは今の125ccスクーターの出力くらいだ。

ちなみに現在の電気自動車のエネルギー総合効率(発電所の発電効率からEVの走行効率までを総計した効率)は約30%でガソリン車の総合効率14%の倍以上らしい。
電動ヘリは道路との摩擦も少ないのでその面は有利だけれど、空中に浮かぶ分の「ロス」は結構大きい感じがする。
一方で電動化による効率上の有利さを加味すると、電動ヘリにも十分勝算はあるような感じもするし、結局今日のところは結論が出ないので、そのうち関連の情報を探しておこう、と思った。
posted by ヤス at 11:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月19日

人類規模の精神安定

たまに世界人口の推移グラフ、みたいなのを目にすることがある。
そのグラフを見ると、特に20世紀に入ってからの曲線の右肩上がりの具合がものすごく急になっている。
人類の人口が10億人になったのは1800年くらいらしい。
つまり人口10億人はホモ・サピエンスの誕生以来10万年くらいかけて達成したことになる。
それが百年後の1900年に20億人になり、60年後1960年に30億人、14年後1974年40億人、7年後1987年50億人。
その後人口増加の勢いはやや沈静化してはいるが依然として増えている。

そしてこの人口が急増した200年くらいの間の世の中の変化というのも凄まじい。
おそらく15世紀以降くらい、ルネサンスと大航海時代の後に色々と画期的な技術開発が実現して、特に軍事技術では火縄銃や大砲が出てきてそれが日本にも伝わり、日本史を大きく揺り動かしたりした。
火縄銃の時代はしばらく続き、日本では300年くらい続いて明治維新の頃に新式の後装銃とアームストロング砲の時代がやってきた。
そして軍事技術刷新と幕藩体制の終わりという世の中の大変化がちょうどシンクロしている。
その後は日露戦争、第一次大戦があってこの頃の軍事的トピックは戦車や潜水艦やマシンガンの実用化である。
やがて戦略兵器としての飛行機の時代とともに第二次大戦があって、その延長線上に朝鮮戦争やベトナム戦争があったのだと思う。
しかし第二次大戦後は核兵器の時代でもある。

核兵器の登場のおかげということなかどうか知らないが、この時代以降大国同士のがっぷり四つの正面戦争というのはなくなって、超大国アメリカとならず者国家の戦いとか対テロ戦争とかの非対称戦が主流になっている。

ちょうど昨日のニュースでも、シリアのIS拠点が陥落したというのがあったけれど、ISが消滅したとしてその次はアフリカとか中央アジアとか世界各地で似たような紛争が続くのではないかという嫌な予感もする。

これは個人的な想像なのだけれど、世の中の戦争の発生というのは人口増加と無関係ではないと思う。
昔読んだ本に、人口密度の増加が人類の精神状態に悪影響を与える、みたいな話が書いてあって、そういうのが紛争・戦争の発生の裏の要因として大きいんじゃないかと思ったりする。
実際、20世紀中の戦争犠牲者の数というのはなんだかんだ合わせて1億人くらいになるはずである。
これはそれ以前の時代に比べると、ゼロの数が2つ3つ違うレベルだ。

また、今の時代には世界規模の大戦というのは発生しなくなっているが、アフリカや中東では死者百人規模のテロとか虐殺事件が頻発していて、それがほとんどニュースにもならない。

そういうことを考えると、人口増加によるイライラが原因で戦争や虐殺事件が起きているのかどうか定かではないけれど、しかし人類規模の「精神の安定」みたいなことを現代のテクノロジーで何か実現できないものか、と時々思う今日この頃だったりする。
posted by ヤス at 10:59| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月18日

割り切れない世の中

さて、総選挙投票日までもうあと4日ほど。
だいぶん選挙結果も見えてきたようであり、また当初から今回の選挙の意義については多くの疑問の声が上がっていたわけで、わたし的にもなかなか難しい選挙だった。
結局この選挙の争点が何かということなのだけれど、消費税とかアベノミクスの成果とか、あと北朝鮮を巡る危機的情勢への対応とかいくつか論点はあったのだと思う。
だけれども、いまひとつスパッと気持ちよく投票行動を促してくれる明確な争点というのがなかなかなくて、その辺が非常に難しかったなあと思うのである。

しかし考えてみると、争点が難しいのはある程度当然なのである。
現在の世の中は一昔前のように、スパッと一刀両断にできない世の中になっている。
資本主義対共産主義の対立はとっくに終わり、かと言って資本主義が絶対的に正しいかというとそうでもなくて、そのあり方に重大な疑問が生じている。
それは民主主義のあり方、議会の仕組みやそれこそ選挙制度そのものについても、今のやり方が必ずしもベストでないという感じが日増しに増している。
少なくともわたしの中でそれらに対する疑問は増している。

今回某政党の公約にも、情報公開とか一院制とかベーシックインカムとか、民主主義や資本主義の「プラットフォームの見直し」に関わる項目が出てきたのは、まあ成果といえばそういえなくもなかったかもしれない。
それらの公約はどうもポピュリズムのための道具として出てきたようにも見えたわけであるが、まあそれでも全然出てこないのよりは良かったような気もする。

あと、個人的な気がかりは北朝鮮問題である。
この問題は、わたしの素人予想では今後しばらくこう着状態が続くのだと思っている。
経済制裁はもちろん必要だとは思うけれど、朝鮮半島の政治的現状維持を北朝鮮(というか金王朝)自身はもちろん中国やロシアも望んでいる現状では、経済制裁だけで問題が解決に向かうことはないだろう。

「斬首作戦」などの実力行使も時々報道で流れているけれど、朝鮮半島や日本の一般市民の被害をゼロに抑えつつ軍事力を行使するというのは至難であり、政治的現実として実施不可能だと思う。
ただ「やるぞやるぞ」という姿勢は崩すわけには行かず、それは北朝鮮も同様。
今後も米朝が「やるぞやるぞ」と恫喝し合いながらしばらくの間現状が続く。
というのが、たいへん最悪の感じがするけれど現下のベストシナリオではないか。

その間拉致問題に関しては、使える外交カードで現実的な交渉をして現実的な成果を少しずつ引き出すしかない。
そのように思うので、あまり北朝鮮に関して勇ましいことは言うべきでないと感じる。

何はともあれ、現代はスパッと気持ちよく物事が割り切れる世の中ではない。
だから国民の側もスパッと気持ちの良い政治的主張を求めるべきではないと思うがたぶんこれはなかなか難しいことなのだろう。
などと選挙終盤戦に当たって思った。
posted by ヤス at 11:41| Comment(0) | 徒然なるままに