2017年05月16日

暖簾

「暖簾」と書いて「のれん」。
よく見ると、漢字が「暖かいすだれ」になっている。

そこのところが少し気になった。
ちょっと調べてみると「暖簾」というのは「凉簾」とペアの言葉で、昔、店先に夏は日除け、冬は寒気除けにかけた布が起源であるらしい。

これは想像であるが、昔はお店の建てつけが良くなくて、出入り口の引き戸がスムーズに開かないことが多かったのではないか。
それだとお客の出入りのたびに引き戸が引っかかってストレスになるので営業中は戸を開け放し、その替わり目隠しに入り口に布を垂れ下げた。
それが、冬は寒くないように外からの風を防ぐ布、夏は陽をさえぎって暑さを防ぐための竹で編んだ簾をかけたのだろう。

お客が出入りし、通りからも良く目に入る「暖簾」はやがて看板がわりになり、また営業中を示す「記号」になって今日に至ったものと想像する。

最近の暖簾は、地面に届くような長いタイプの、その由来通りに寒風を防げそうなものはどちらかというと少数派のようである。
それよりは、顔にかかるくらいの高さのやつを片手でひょいとめくって店内に入る、そういう短いのが圧倒的に多い。
そして暖簾は布製で屋号が書いてあって、営業開始とともに店主が店先にセットし、営業終了とともにしまう。

そうなるともうそれは元々の「暖簾」ではなく、そこから派生した機能であるところの屋号看板と営業中を知らせる記号としての意味がメインとなっている。

これは多分、建物の建てつけも良くなり、また自動ドアなども発明されてお店のドアの開け閉めが便利になったからではないか。
営業中の店では入り口は必要な時だけ開ければ良いので、そこに風除け日除け機能は必要ない。

したがって記号的な機能だけが残ったのだろう。

さらに。

「のれん」は会計用語にもなっている。

最近では東芝や日本郵政が、「のれん代」をめぐって巨額の損失を相次いで出した。
この場合、あの店先にひらひらしている小さな布切れに数千億円の値がついていたというわけでは決してない。
WH(ウェスティングハウス)はアメリカの会社なので、会社の入り口に「のれん」を下げたりはしていないものと思われる。

話が逸れた。

「のれん」というのは、現代ではそもそもの機能や使用目的からは幾分変性し、その店の評判や営業の内容を表す記号になっているようである。
ある意味そういう抽象概念を「暖簾」という物体に仮託することによって、「のれん」を大切にしようという意識が芽生える、ということで「のれん」はおろそかにできないのである。

と思った。
posted by ヤス at 10:37| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月15日

五月病

このあいだ新年が開けたと思ったのに、もう5月の半ばを過ぎた。
5月というのはなかなかに微妙な月で、いちおう、年の中盤に差し掛かる頃合いであると同時に、4月から始まる「年度」でいうとまだ2ヶ月目で、その点一年の真ん中辺なのかまだ年が始まったばかりなのかが混乱する感じがある。
と、個人的には思う。

日本には五月病というのがあって、英語でいうとMay Bluesとなるらしいが、海外ではどちらかというとSeptember Blues=九月病の方が深刻らしい。

五月病というのは、わたしはあまり人並みの就職活動とかしていないので、経験した記憶がない。
五月病は、世間的には新しい会社に4月に入って、ゴールデンウィークで一息ついたところでまた仕事を始める時の憂鬱をいうらしい。

科学的な視点からは、5月は急に暖かくなったり気候が変わる時期でもあり、そこに職場環境などの変化が重なって体調を崩すことがありうるそうだ。
周辺環境の変化というのは、どうも人類にとっては十分なストレス原因になるようだ。

ただ、気温の変化などでいうと3月や4月もそこそこ気候変動が激しいように思うので、やはりそこは4月始まりの年度変わりに起因する社会的な変化の方が、ここ日本ではより重大なのかもしれない。


考えてみると生き物にとって生活環境の変化は、時に命に関わることもある重大事である。
動物園のような餌つきの「恵まれた」環境ならいざ知らず、野生で生きる動物は環境が大きく変わると、暑さ寒さへの対応とか餌の取り方も変えないといけないとか、大変そうだ。
人間の場合、服を着たり火を焚いたりして温度変化に対応する、植物でもお肉でも「何でも」食べる食生活の柔軟性がかなりある。

自然環境への対応を他の生き物以上にうまくやったその代わりに、社会的な変化というのが人類にはあって、就職する、定年退職する、新しい職種につく、地方の支店に飛ばされるなどいろいろある。
動物であった頃の自然の変化に苦労した記憶からか、おそらく人間にとって「変わる」ということそのものが大きなストレスなのである。

もう一つ、五月病が病気になるほど深刻なのは、本人の心構えがあまりないこと、「環境が変わるぞ」という意識があまりないままに変化に翻弄されることがあるような気がする。
環境変化に対してアクティブに飛び込んでいくのか、後手後手に回って翻弄されるのか、そのあたりの変化に対する心構えが五月病の原因ではないか、と思ったりした。
posted by ヤス at 16:52| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月14日

人間と器

大器晩成などと言って、「器」という字はしばしば人間の才能とか人間性そのものの意味として使われる。
「器」の通常の意味であるところのコップや茶碗やお皿など「食べ物などを盛る入れ物」としての意味と、人間の才能の意味はどの辺で繋がったのだろうとふと考えた。

入れ物としての器は、当然ながら大きいものや小さいものがある。
そこから「人間の器」の意味で、「器が大きい」「器が小さい」というふうに使うようになったのだろうか。

しかしなぜ「器」なのか。

昔の中国思想、特に老荘思想で器について言及している。
老荘思想的には、器の本質は器本体の硬いところではなくて中身の空洞部分であると考える。
同様に家で大事なのは立派な屋根や壁面ではなくて、人間が入って生活できる中の空間である。
というのは、いかにも老荘的な考えだと思う。

しかし改めて考えてみると、中の空洞に本質が存在するような「器」的なもの、というのがこの世にはたくさんある。

例えば自動車である。
自動車には鋼鉄製のボディにエンジンとタイヤなどが付いていて、中にシートがあって人が乗る。
エンジンが何馬力だとかサスペンションの動き具合がどうとか、専門雑誌では世の自動車の性能の高低や運転の味わいなどについてさんざん語られている。

しかし人が乗らない無人の車、例えば将来実現化が予想される無人運転の輸送用トラックについて想像してみると、これは人間が乗らないので、乗り心地が悪かろうがどうだろうが、積載している荷物と走行中の周辺に悪影響がなければどうでもいい。

自動車の評価というのは、搭乗する運転手や乗客との関係において発生するものであることが改めてわかる。

そういえば湯飲みや茶碗などの「器」においても、そこにお茶や食べ物を入れること以外に、その器を使う人間の存在というのがある。

器の「性能」評価としては、その器の空洞部分に食べ物が必要なだけ入るかどうかということのほかに、それを人間が使う時に使いやすいか、心地よいか、ということもあると思った。

自動車の評価には、馬力や最高速度や燃費性能などの「スペック的な性能」と、人間が乗った時の「感じ」、運転の気持ちよさやシートに座ったりハンドルを操作した時の気分の良さなど「人間が感じる性能」の二つがあるようである。

それは食器の方の「器」も同様で、その茶碗の最大容量や水漏れしないことなどのスペック性能とは別に、その茶碗を手に持った時の持ち心地、料理が入った時の美味しそうな感じなど人間が感じる部分がある。

元に戻って、「人間の器」の場合であるが、人間の場合も知能指数や100m走のベストタイムなどスペック的な性能と、それとは別に他人との関係における他人がその人に感じる部分、というのがあるだろう。

まあどうでにいいことだけれど、つらつらと思ってみた。
posted by ヤス at 10:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月13日

そもそも論

言葉というのは時代とともに少しづつ変化して行くものであろう。

最近「まるっと」という言葉をよく耳にし、または文書中に見る頻度が増えている気がする。
「まるっと」は、使用されている文脈から考えて「丸ごと」「全部」などの意味に相当すると思われる。
この言葉の語感が、個人的にはちょっと最近風の新しい感じがしたので、これは若い世代の、例えば高校生あたりで広まった新語なのではないか、と今まで思っていた。
それでさっきネットで検索してみたら、「まるっと」は別に新たに造語された言葉ではなく、各地で方言として見られるものであったらしい。

この事実にはやや驚いた訳であるが、「まるっと」は従来はローカルな方言であったものがその語感の新しさ、使い勝手のよさなどから次第に使う人が増えてきたということのようである。

「まるっと」は先に述べた意味の他に、語感的に「するりと」「スムーズに」というようなニュアンスが感じられる。
そのように個人的に勝手に思っている。

したがって、
「蛇が獲物を「まるっと」飲み込んだ」
という場合の飲み込み方は、比較的短時間に何の引っかかりもなくするりと飲み込む情景を想像するものである。
やや例が悪かったかもしれない。

とにかくも、「まるっと」には「丸ごと」に「スムーズ」をプラスした複合的な意味合いが感じられ、だからそういう意味のことを言いたい時にこの表現をつい使いたくなる、ということになる。

言葉というのは時代とともに変わる。
今までにないモノが誕生したら、当然そのモノを意味する新しい言葉も生まれる。
スマートフォンは古くはBlackBerry、今はiPhoneやAndroidの携帯電話を指す言葉である。
多分その辺から始まったと思うのだが、「スマート」なんとかという表現が少し以前から増殖している。

これは「スマート」という接頭語表現にいつからか今風の意味合いが付加され、それを世間の多くの人がひしひしと感じていることから広まったものだろう。

言葉が時代によって変わるというのは、その言葉に大多数の人が共通のニュアンスを感じることによって生じる。
そもそも言葉というのはそれを使う人々の間でそのような共通了解がないと話が通じないのが前提だからまあ当たり前である。

さて、「そもそも」についてのニュースが今流れている。
「そもそも」の意味には大辞林では「どだい」の意味があり、「どだい」には「基本的に」の意味があるという三段論法によって、「そもそも」にはそもそも「基本的に」の意味があったことが閣議決定されたという。

「そもそも」に「基本的に」の意味があることに、多くの人は共感するのだろうか。
この場合は、辞書遊びでなく世論調査でもした方がやり方として正しいような気がするよなあ、と思ったりした。
posted by ヤス at 09:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月12日

中国製品の品質

最近、Amazonサイトをウィンドウショッピングがてらチラチラ見ていると、その商品のかなりの割合が「中国製」で占められていると感じる。
また、商品が中国製で販売者は国内ということではなくて、中国の業者が直接Amazonで注文を取って中国から発送するパターンが増えているようにも思う。
実際はどうなのだろう。

そう思うのは、あの商品説明のたどたどしい「日本語」である。
いかにも絵に描いたような「中国訛り」の日本語が説明に書いてある。

わたしは野宿癖があって、一人用のテントとかキャンプ道具を見るのが好きなのだが、最近のテントは昔に比べると恐ろしく安い。
少し前に一人用のコンパクトなテントを買ったのだが、それもたどたどしい説明文の中国製であった。
値段は7千円ほどだが、一人用とはいえ重量はたったの1.4kg。

20年以上前に買った一人用のテントは、これは多分日本製だったと思うけれど、ややスペックは異なるが値段は2万円以上で重量は2.5kgくらいあったと記憶している。
それで現在の7千円のテントが安物で使い物にならないかというと、機能的にも品質的にも十分以上。
組み立ても簡単でアルミ製のポールは破断などの心配はなさそうだし、材質や縫製、防水シーリングもちゃんとしている。

Amazonにはモンベルやアライテントなど有名ブランドの製品も3万円とか4万円とかそれ以上の値段で売られている。
しかしコストパフォーマンスを重視するのなら中華ブランドで十分だろう。

一方でAmazonの製品レビューを見ると、「中国製」に対するアレルギー的な書き込みがかなり目立つ。
「買ってみたら中国製でがっかりした」
「中国製だったので予想通り早々壊れた」
などなどの意見である。

確かに、中国製の製品には明らかな手抜き商品や詐欺的不良品が大量に混じっていて、そういうのに何度も当たるとうんざりするのは理解できる。
しかし一方で、値段と機能・品質のバランスが、日本製では逆立ちしても真似できない水準の製品が存在するのもまた確かである。

中国の国民性などから考えて明らかな粗悪品が近い将来市場から一掃されることは考えにくい。
しかし前述のテントの例や、スマホのファーウェイや最近の中国製自動車の品質向上の流れなどを見ると、中国製=粗悪品と単純に言える時代は終わりつつあるように思われる。

心配なのは、日本の製造業とか国の産業政策がこのような現実をちゃんと認識しているかどうかだ。
日本製工業製品を盲目的に信用し無邪気に選択できる時代は、その圧倒的な価格差を考えても、すでに終わっているなあと、改めて思ったのでした。
posted by ヤス at 15:28| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月11日

軍拡の流れ

さて、心配されていた北朝鮮危機問題であるが、どうも今の状況を見る限り杞憂に終わったようだ。
中朝関係悪化のニュースを見るに、どうも中国による北朝鮮への「教育的指導」が強く行われているようでもある。
もしそうならこれはトランプ外交の成果ということになるのかもしれない。
まあ、事の真相はまだよく分からない。

しかし世界情勢は相変わらずきな臭い状況が続いている。
財政の悪化から大幅軍縮に向かっていたアメリカもどうも路線変更の様子であるし、ウクライナの件で経済制裁を受け、さらに原油価格の低迷で倒産寸前だと思っていたロシアも軍備拡張には余念がないようである。

それらの背景には中国の急速な軍備拡張があるのだろう。
中国では中古の旧ソ連製空母導入に次いで、ついに国産空母の建造にも着手している。
中国の空母は運用ノウハウも艦載機の性能も実用化には程遠いというのが大方の専門家の見方であるようだ。

実際その通りなのだろう。
しかし、予算と時間を投入すればいずれ中国はそれなりの空母運用国になりうる。
後10年もすれば、中国はアメリカに十分匹敵する軍事力を手にするかもしれない。

このまま行けば世界は新たな軍事対立の時代を迎えることになりそうだ。

米ソ対立時代は膨張する軍事費がソ連を国家解体の憂き目に追いやり、アメリカの財政も悪化した。
第二次対戦前も世界は軍拡と財政悪化のジレンマに悩んでいて、ワシントンやロンドンの海軍軍縮条約など海軍艦艇隻数の制限を行ったりしていた。

近年の軍縮は核兵器削減や生物化学兵器の制限、地雷やクラスター爆弾の制限など、主に人道上の理由を主眼に行われることが多いようである。
しかしロシアはもちろん米中にとっても、財政健全かの観点から軍事費の膨張を野放しにはできないのではないか。

実際最近の兵器開発では、コスト削減の謳い文句がよく聞かれるような気がする。
40兆円とも言われる新型ステルス機F-35の開発費削減をトランプが言及したり、ロシアでは新型戦車の車台を装甲戦闘車や自走砲と共通化するプロジェクトを進めている。
プラットフォームの共通化というのは、何やら最近の自動車メーカーのようであるが、これによって開発された新鋭戦車T-14は1両の値段が4億円強で、これはかなりコストダウンに頑張った日本の10式戦車に比べても半分以下、量産で安くなったアメリカM1などに比べてもさらに安い。

これは全くの想像であるが、ロシアは今シリアで活発な軍事行動を行なっているわけだが、これはひょっとして色々とコストダウンした自軍の新兵器が実戦でちゃんと役に立つか実験したかったのではないか、そういう気がする。

世界が軍拡の方向へ行くのは見ていてあまり気味のいいものではない。
また、軍備増強は最終的にその国の経済を疲弊させるというのは歴史が証明しているように思う。
わが国がこの流れに悪ノリしないことを願うばかりだと思った。
posted by ヤス at 10:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月10日

松本城

さて、松本城についてである。
5月1日の松本市は昼過ぎまでシトシトと雨模様の天気だった。
空もどんよりと曇ってどことなく寒々しい感じの中に、黒っぽい五重の天守はそびえていた。

松本城はいわゆる現存12天守の一つで、12天守では唯一の平城である。
姫路城は周囲より一段高い丘の上に建てられているが、松本城は平地の上に石垣を積み上げた天守台を造ったその上に立っている。
そしてその本丸周辺を幅の広い水堀が囲っている。

また松本城天守は現存では姫路城と並ぶ五重天守であるのだが、3階部分に中2階的な構造があって内部は6階になっている。
そういうことで、黒い外観とも相まって下から見上げるとかなり迫力がある。
高さは25mほどだそうで、姫路城の31.5mよりは幾分低いが見た目の迫力は姫路城以上のように思う。

その迫力の理由として、ひょろりと細長くそびえた天守に寄り添うように小天守が隣接し、また下部構造に月見櫓などが付属しているせいで、建物群の下回りが分厚くなっていることがあるように思った。
また全体に屋根の勾配なども直線的な感じで非常に男性的な雰囲気が漂う。
その点も姫路城と好対照である。

しかも見る角度によっては、背景に白い雪を背負った日本アルプスが見晴らせる。
松本城は外から眺めていて全然飽きないのである。

しかしながらこの松本城、天守の造営年がよくわかっていないらしい。
1591年から1615年頃までの諸説があって、松本城の公式ホームページでは1594年説を採用している。

1594年といえば本能寺の変から12年、秀吉の没年の4年前、関ヶ原の6年前。
なかなか微妙な時期だ。
1592年に始まった朝鮮出兵の最中(休戦期間中)でもある。

ちなみに姫路城の大天守は関ヶ原の後、播磨が家康の勢力圏になった後の1601年頃から工事が始まったらしい。
この場合、西国大名に対する抑えという目的であろう。
松本城の場合はどうか。
松本城が黒いのは秀吉派の城として建てられた証だともいう。

秀吉時代の大阪城も、宇喜多秀家の岡山城も黒い。
松本城も岡山城などと同時期の1590年代に建てられた可能性が高いと思う。
また松本城は本丸広場の東の端に建てられ、つまり建物は東を向いている。(のだと思う)
つまり秀吉一派の城として東の家康を向いて建てられたと想像する。
まあこの想像は全然違っているかもしれないが、松本城は予想以上に立派な城で、見てよかったと思った。
posted by ヤス at 14:44| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月09日

草間彌生の点々

連休中、ちょっとしたはずみで、長野県は松本市にある松本市美術館に行く機会を得た。
というのも松本に行ったのが5月1日で、その日はたまたま松本市の市制施行110周年の記念日だったらしい。
それで市内の教育文化施設が無料開放されていて、現存12天守の一つ松本城にもただで登ることができたのであるが、そのあと市内をフラフラしていて美術館に入ってみたらそこも入館無料だった。

松本市美術館には同市出身の有名なアーティストである草間彌生の作品が展示してあった。
わたし的には、アートの世界は決して嫌いな方ではない。
しかし何かの芸術作品を見て震えるほど感動した、などという体験をしたことがない。

そこのところが、何かちょっと自分自身に対して物足りない感じがしなくもない。
たまにふらりとどこかの美術館に入って作品を見るたび、そういうことを思ったりする。

松本市美術館に展示してあった草間彌生の作品は、館外にあるケバケバしい彫刻作品やあの特徴的な点々模様の、というか水玉模様のひたすら繰り返したのをキャンバス一面に描いた「絵画」などには少々ギョッとさせられはした。
3m四方くらいの巨大なキャンバスに、大小の水玉をアクリル絵の具で一つ一つ丁寧に描いてある作品を見て、その水玉をやはり全部手で描き入れたのだろうと思うとその「労働量」には敬服せざるを得ない。

水玉の平均直径を約10cmとして、一辺3mにおよそそれが300個並ぶので、縦横掛け算してこのキャンバスにはおよそ900個の水玉を手で描き入れたことになる。
水玉のサイズは大小あるので、その数はあるいは千個以上かもしれない。

で、思うのは、そういう芸術作品の価値のことである。
草間彌生の作品が価値を持つのは、水玉を描き入れる労力の結果ではないだろう。
その作品が少なくない人の心を動かした結果相応の価値を持つに至ったのであろう。

しかし芸術作品に感動できる才を持たないわたしには、その肝心のところが実感できない。
こういうのは他の人はどうなのだろうと思うのだが、例えば美術館に入って他のお客さんをしげしげと観察した時、「フランダースの犬」のネロが教会の絵に感動したように、美術館の作品に感動している人というのはいるのだろうか。

最近のアート作品のオークションで一番高い落札額は3億ドル(330億円ほど)にもなるらしい。
それだけの経済的価値が付けられるというのは、需要と供給の関係におけるものすごい強い需要が存在するということなのだろうけれど、その「値段の理由」というのもかなり理解が難しい。

どうもアートの世界というのは、有名な美術館にどれほどの格付けで陳列されているのかとか、その値段は今どれくらいなのかというかなり間接的な情報でしか理解ができない。
目の前に見えているのに触れられない、そういうマボロシのような感じこそが、あるいはアートというものの本質なのではないか、とやや負け惜しみ的に思ってみる。
ということで、芸術作品に心動かされる日がいつか来るのだろうか、などと草間彌生作品の点々を見ながら思ったのだった。
posted by ヤス at 16:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月08日

面倒臭いこと

世の中、いろいろとい面倒臭いことが多い。
例えば家の掃除や洗濯などの家事全般は、身近にある面倒臭いことの筆頭であろう。
面倒臭いことをそれなりに上手くやるための方法論はいくつかあるようである。
一つは、習慣化すること。

毎日決まった時間に掃除をする、洗濯をする、などと1日の行動パータンに組み込んでしまい、意識に上ることを希薄化する。
そうすると、面倒臭い感情もやや希薄化し面倒臭くなくなる可能性がある。

まあ掃除にしても洗濯にしてもこれを長期間実施せずに過ごすと、えらいことになる。

部屋はゴミ屋敷になり、今日着る服がなくなる。
だから最低限の家事は、家に居る住人の誰かがこなさねばならない。
ルーチン化し行動パターンに組み込んでしまうという対策は、必要が産んだ生活の知恵であるように思われる。

しかし似たような面倒臭い行動の一つに歯磨きがあって、これはこれで寝る前に、ものすごく眠いんだけどまだ歯を磨いていないというシチュエーション、このような瞬間には歯磨きはものすごく面倒臭いことの一つになりうる。
しかし他方で、歯を磨くと口の中がスッキリして気持ちがよくなる。
だからものすごく眠い時などの極限的な状況以外では、案外自然と歯を磨きたくなる心情が発生したりする。

掃除や洗濯でも部屋がスッキリきれいになったり服が柔軟剤でいい香りになったり、それなりに気持ちよくなる快感を味わうことができるわけだが、しかし掃除などは特にそれなりに重労働であり、快感による報酬と労働負荷のバランスが歯磨きほど有利ではないような気がする。


そうやって面倒臭いことについて考えていて思うのは、面倒臭いことの存在というのは、人類が人類であることの証、あるいは人類は面倒臭いことを色々と増やして人類になったと言えるのではないか、ということである。

どういうことか。

だいたい、野生動物は面倒臭いと思ったらその自分自身の気持ちに素直に従うものである。
眠いと思えばゴロンと寝っ転がるだろうし、腹が減ってスイッチが入れば食料を求めて行動するであろう。
面倒臭いことはやらない、というのが野生の掟であるように思われる。

その点人類というのは、毎日元気に挨拶をしようとか、便所はきれいに使いましょうとか、他にも様々にわたって膨大な社会的ルールを増やしつつ生きて来た。
それらのルールにはちょっと面倒臭いことからかなり面倒臭いことまで、面倒臭いの程度もかなり幅がある。

中でも結婚式やお葬式、あるいは卒業式や入社式などの儀礼式典はとりわけ面倒臭いことが多いように思う。
しかし、そういう一見何も生産しない儀礼式典的なことを人類はこれまで営々と取り行ってきたわけである。

人類の文化・文明の本質というのは、儀礼式典に象徴されるような面倒臭いこと、これをあえて行うことにあるのではないか、別にどうでもいい話だがそういうことを思った次第である。
posted by ヤス at 16:14| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月07日

マラソンの戦略

5月6日、イタリアはモンツァのF1コースで「ザ・ブレーキング2」という、マラソンの2時間切りに挑戦するイベントが行われた。

現在のマラソンの世界記録は、ケニアのキメットが2014年のベルリンで出した2時間2分57秒。

「ザ・ブレーキング2」はナイキが主催し、平坦で、木立によって風の影響が少ない周回コース、入れ替わりで走る「風除け」兼用のペースメーカーなど、本来のマラソン競技からはかなり異なる環境でのレースだった。
で、結果の方は2時間3分5秒のベストを持つケニアのキプチョゲが2時間0分25秒という驚異的なタイムを出した。

最近のマラソンは、なるだけフラットなコースで記録を狙うタイプのものが多い。
今年の東京マラソンもコースをガラリと変えて、橋梁の上り下りや風の影響を極力排除した結果、エチオピアのキプサングが2時間3分58秒という記録で優勝している。

マラソンという競技はコースコンディションやその日の天候などで記録が大きく左右される。
またペースメーカーの有無やそのペース設定なども記録にとって重要なポイントである。

マラソンのコースは、勝負所に坂道を設定したりすることでレースに駆け引きの要素を付け加え、選手が持つスピード以外の「マラソン競技の実力」を競うことができる。
そしてオリンピックは基本夏のレースなのでだいたい2時間10分くらいになることが多く、暑さに強い選手に活躍の余地がある。

しかし、マラソンの記録が2時間切りの目前に来ている現在、世界のマラソンレースの趨勢は、ますますスピード重視の記録狙いが主流になるのだろう。

そうなると今後の日本のマラソンにとって、苦難の道が続くことが予想される。
特に男子は、2時間切りという世界の大目標を前にすると、勝負の土俵がかなり遠い。
マラソンの2時間は、1km2分50.6秒、1万mで28分26秒のアベレージで走る計算になる。
今、1万mの日本記録は27分29秒であるらしいが、世界の1万mは26分台で走る。
マラソンの途中ラップも、早い区間では28分を切る勢いである。

日本に限らず1万mやマラソンのスピードで、ケニアとエチオピアの選手に他国の選手は歯が立たない状況が続いている。

日本のマラソン界は、今後も地道にスピードランナーの育成を目指すことは必要なことであるが、今後は少し視点を変えて「暑さに強い」「アップダウンに強い」「風に強い」など、目標レースの特殊性に合わせた選手選考、育成も考えた方がいいのではないかと思う。

オリンピックや世界選手権は基本夏のレースになるので、「夏のマラソン選手」をピンポイントで目指す、そういう選手がいてもいいような気がするのである。
posted by ヤス at 10:36| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月06日

巡航ミサイル

アメリカがシリアの空軍基地に59発の巡航ミサイルを打ち込んだのが、もう随分昔のことのような気がする。
この巡航ミサイル「トマホーク」には色々な派生タイプがある。
1発あたりの調達コストはだいたい100万ドルから140万ドル程度らしい。
日本円で1.2〜1.5億円くらい。

この値段は、最大3000km飛んで命中誤差半径10mの無人ミサイルとしては非常に安いように感じる。

シリアに打ち込まれた59発(一説には60発撃って命中弾が59発だったともいう)は、日本円では70億円から90億円くらい。
発射プラットフォームの駆逐艦の運行費用が別にかかるとしても、これはかなりリーズナブルだと思う。

巡航ミサイルの炸薬量は454kgで、59発分の炸薬量を有人の攻撃機に搭載しようとするとF16が20機くらい必要な計算になる。
1機50億円ほどのF16を何機も動員して敵地に潜入する攻撃方法は、巡航ミサイルと比べるとはるかにリスクが高いのは明らかだ。
そういう意味で巡航ミサイルの存在は、アメリカ軍にとって大きな軍事オプションとなっている。
この巡航ミサイルのルーツがドイツ第3帝国のV1であることは有名だが、もっと遡ると第一次対戦中、ライト兄弟の人類初飛行から15年ほど後に無人の爆弾搭載飛行機として企画されたものもあるらしい。
そのプロペラ式の古風な無人飛行機は、簡易なジャイロ式の飛行安定装置でとりあえずまっすぐ飛ぶことを目標に開発が行われたが、所定の性能を得られずに開発中止になったらしい。

巡航ミサイルの肝はまさにこの誘導装置であって、現在のトマホークが実用化されたのは地形の凸凹を読み取りながら目標に向かうシステムが実用化されたからだという。

巡航ミサイルのシステムは、値段もそこそこ安く人命のリスク(攻撃側の人命リスク)も低く、命中精度も十分に高い。
また厚いコンクリートも貫通するタイプも開発中のようであるから、彼の国の首領様も安心していられない。

ただ問題は兵器がいかに高性能になろうとも、目標を選んで攻撃を意思決定し攻撃成果を評価する、その一連の流れをどれだけ正確に思慮深くできるかは兵器の威力以上に重要である。
今は爆弾の類でも化学兵器にしても無差別に大量に被害をもたらすことは比較的簡単であって、テロ行為と「テロでない攻撃」を隔てるモノは、攻撃目標選択の適切さとそこをピンポイントで狙う能力だろう、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:45| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月05日

吉野家・松屋の実験

昨日の東洋経済のニュース記事に松屋と吉野家の実験店舗のことが書かれていた。
両社がセルフサービス店舗に取り組んでいるという記事だ。
吉野家は2016年3月に恵比寿駅前店で、松屋は文京区の本郷三丁目店で今年4月24日から取り組んでいるらしい。

このセルフ業態では、注文・会計は券売機で行い、券売機から出た番号札の番号がカウンターのモニターに「調理中」「出来上がり」と表示され、食べ終わった客は返却口に食器を返す仕組み。

世の中空前の人手不足時代を迎えている。
飲食業に限らず、長時間営業のコンビニなんかでも人手不足の影響は甚大である。
吉野家・松屋は、今は実験的にセルフ業態を実験しているわけだがそう遠くない将来に全面的にセルフになる気がする。

セルフサービスのデメリットはやっぱりサービスに人の手がかかっていないのでなんとなく温かみがない、味気ない、そっけないというところだろう。
しかし考えてみると牛丼チェーンのようなファーストフード業態に対し、どれだけのお客さんがそういうハイタッチサービスを求めているか、そこは甚だ疑問だ。
多くのオヤジやおにいちゃん連中は、そこそこ美味くて安ければ満足するに違いない。

そういう観点から言えば、人手不足にならずとも牛丼チェーンがセルフ業態になっていてもおかしくなかったはずだ。
実際、なか卯は前からセルフ券売機でオーダーを受けている。
しかし今まで吉野家・松屋などがセルフ化しなかったと言えば、そこは飲食業界の伝統的なこだわりが影響していたような気がする。

飲食業は昔からピープルビジネスと言われ、良い人材がサービスレベルを上げて売上を増やし生産性も押し上げる、だから良い人材を育成することを経営の根幹に置く、そういう思想が飲食業界にはあると思う。
その思想は全く正しいと思う。

ただし人の手で行うサービスはコストがかかるので、自ずと提供価格の下限が高止まりする。
その水準はデフレ化で下がりきったファーストフードの客単価には、もはや見合わなくなっているのだろう。
そこを無理やり「合わせ」ようとするからサービス残業蔓延やワンオペによる現場の荒廃が発生することになる。

それに、そもそも券売機でなく人がオーダーを受けることのメリットは、料理の説明をしたり気の利いた提案をしたり、機械でできないことができることだろう。
しかし促成栽培の高校生バイトではそういうことも難しく、たまにオーダーミスで客を怒らせるのがオチである。

無機的で味気なくはなるけれど、現状でもサービスの機械化、セルフ化の理由は十分以上にあり、今までの業界の動きが遅すぎたと思えなくもない。

いずれ券売機のオーダーは、客の手持ちのスマホ経由になると思う。
スマホにインストールしたアプリでオーダーし電子マネーでお会計する。
そうなれば、まあ味気ないのは仕方ないにしても便利にはなるだろう、などと思った。
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2017年05月04日

カメラの要件

カメラというのは、撮りたい時に手元にあることがまず肝要だ。
そう考えるとカメラは何より小さく軽い方が有利になる。
そしていつも携帯する習慣が身についていること。
というとこれはもう、携帯電話、というかスマートフォンのカメラに敵うものは他にない。

カメラ業界も一昔前とは全く様変わりしたものである。
20年くらい前なら、フィルムの一眼レフがその高画質とハンドリングの良さのバランスからカメラの王様だったと思う。

実際このクラスには各社から様々なモデルが投入され(それは今でもそうだが)、多種類の交換レンズも用意されていた。
だからとりあえず写真好きを公言する御仁は一眼レフを首から下げて闊歩したものである。

わたしも26年ほど前にキャノンのEOS10というフィルム(当然だが)の一眼レフを買った。
EOS10は、当時かなり画期的なカメラだった。

まず、当時はやっとオートフォーカス機構がポピュラーになった頃だったが、このEOS10はファインダーを覗くと小さい四角が横に三つ並んで見えた。
その四角はオートフォーカスのフォーカスポイントである。
他のカメラの場合、フォーカスポイントは真ん中に一点と相場は決まっていた。
それがEOS10は三つ。
真ん中でもピントが合うし、画面の少し右または少し左側でも合わせることができた。

またEOS10の「不思議な」セールスポイントとして「アートコード機能」があった。
これは名刺サイズの丈夫なプラスティック紙に作例写真が載っているのが何枚もあって、カード記載のバーコードをカメラ付属のバーコードリーダーで読み取ると、その作例に準拠したカメラ設定が行われるという非常に野心的な仕組みであった。

この仕組みは、後継のEOS100にも引き継がれたがそこで息絶えた。(と記憶している)
まず、刻々流転する被写体を撮影するのに悠長にバーコードをピッピさせるような暇は大抵ない。
ただこれは時代の気分というものだったのだろう。
あるいは当時はPOSレジみたいな情報機器が「新しかった」のかもしれない。

さて、話が冒頭からだいぶ逸れた。
とにかくもカメラは撮りたい時に手元にあって、さっと構えてさっと撮れることが肝要。
その点でスマホに敵うカメラは今のところいない。

EOS10のアートコード機能は、スマホのいない時代だからこそ許された見事な企画倒れ機能だったと言える。

あとEOS10には当時珍しかったリモコンが付属していた。
EOS10の自慢は、少し暗い場所で全自動モードでリモコンレリーズすると、勝手にペンタ部のストロボがポンッとポップアップしてピカッと光り、次の瞬間にはシュッと自動でストロボが格納されるというところであった。

当時も今も、ストロボの自動ポップアップというのはあったが自動格納というのは他に見たことがない。
こういう余分なサーボモーターの設置なんていうのは、バブル時代の匂いが濃いこと甚だしい。

とにかくカメラは小さく軽くいつも携帯していること、これに勝るカメラの要件はない。
カメラメーカーはともすると忘れがちなこの要件を肝に命じて仕事をすべきである、と思った。
posted by ヤス at 08:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月03日

情報圧縮時代

昨日のニュースでネット通販のアマゾンが、出版取次最大手・日販との取引を一部中止するというのが流れていた。

出版不況が言われ出してもう久しい。
日販やもう一つの業界の雄・トーハンともども業績不振に悩んでいるらしい。
すでに中小規模の出版取次は廃業したり日販・トーハンに吸収されたりしてどんどん消滅している。

出版取次の業績不振はある意味当たり前で、出版市場がどんどん縮小しているからこうなることは全くの想定内。
出版市場の売上額推移を調べてみると、2006年まで2兆5千億円くらいだったのが2015年には1兆8千億円くらいまで減っている。
出版物売上の3分の1を占める雑誌はこの10年ほどで売上が3割以上減って大変な状況だ。

ニュースを見るとアマゾンの言い分では、日販の供給形態がリアルのオフライン書店向けになっていてネット書店のアマゾンにマッチしていないということのようだ。
日販はこの数年、取引企業と協力して返本率の改善など業務改革を進めてきたようだが、市場縮小による業績悪化を食い止めるまではとても間に合っていない。

ずっと以前にも書いたことがあったが、今世の中に流通している「情報量」というのは、出版物の減少とは関係なく猛烈に増えていっているらしい。
逆にいうと、世の中の情報流通量が増えて人々の情報処理のリソースがそっちの方に取られたせいで紙の出版物の処理時間が削られていると想像することができる。

また、少し古いが平成23年の総務省情報通信白書によると、平成13年と21年の情報流通量比は1.98倍に増えている。
対して情報「消費」量は1.09倍にしか増えていない。
現在の日本人は出版不況になるほど本を読んでいないわけだが、しかし決して「情報処理」をサボっているわけではない。
そもそも基準年の平成13年の水準でさえ、その10年前から比べると情報流通量も消費量も膨大に増えている。

この間にFacebookやTwitterができたり、その前にはブログやmixiが流行ったり、電子的な「メール」というものがこの世に出現したり、人々を情報処理に駆り立てるツールが目白押しに誕生している。

こういう状況では、今後もさらにアマゾンやリアルの書店のあり方は変化せざるを得ないだろうと思う。
つまり具体的には、人々の情報処理負荷が増え過ぎているので、いろんな情報コンテンツの要約サービスとか今後増えていくのではないか。
今は「作品レビュー」がその代わりをしているが。
あるいは本を買ったら「書籍要約機」に入れて、内容を3行くらいにまとめてくれる機械とかあると便利そうだ。

たいていの映画だって2倍速で観ても内容は十分理解できる。

これからあらゆる情報を圧縮し、端折る時代がやってくるような気がする。
というかもう既に、かなりの程度そういう時代になっているのかもしれない、とアマゾンと日販のニュースを見ながら思った。
posted by ヤス at 08:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月02日

地毛証明書

今さらだが、「地毛証明書」なるものが話題になっているらしい。

我々が中学生だった時代、つまり35、6年も前にそういうものがあったかどうか、記憶が残っていない。

多分あったのかもしれない。
わたしの居た西宮市立上甲子園中学校は、男子は丸刈りでこそなかったがそれなりに「整った」校則もあり、また「スカート丈チェック」や「もみあげチェック」など、謎の風習もあった。
またちょうど校内暴力がどうにか鎮圧され沈静化した時期だったので、まだ校内にはピリピリとした空気が漂っていた。
実際、たまに生徒の誰それが教師に掴みかかったなどという小規模な暴力事件が発生することもあった。
しかし逆に先生が生徒を殴るのは事件とはならず、そこかしこで先生は生徒を殴りつけていたものである。

さて、地毛証明書である。
ここまで世界がグローバル化し、人権思想もまあそれなりに普及した現代日本に、まだそんなものが残っていたとは驚きだ。

地毛証明書の正当性については、普通に考えると普通に大きな疑義があると言わざるを得ないわけだが、しかしそういう普通でないものが未だに生き残っていることの意味とはなんなのだろう。

ふと思うのは、学校というのはかなり刑務所的な存在なのではないか、ということだ。
しかもこの場合の刑務所は、矯正と社会復帰を目的とした真っ当な刑務所ではなくて、管理の効率化を追求するだけのダメな刑務所。

多くの日本の中学校等は、生徒の管理を効率化したいのだと思う。
意識してそう思っていないかもしれないが、無意識に強くそう願っているに違いない。
学校になるべく面倒な問題が発生しないこと、ただでも仕事が多くて先生のマンパワーが足りない中で日頃から生徒を手なずけて管理を容易ならしめることは、かなり基本的な問題意識であろう。

「服装の乱れは心の乱れ」というのはあるいは統計的に有意なのかもしれない。
しかしそもそも「乱れ」の定義が拡張されすぎており、ただの多様な個性も「乱れ」のうちに入れられているのではなかろうか。

それはとりもなおさず、筋の通ったことも不条理なこともひっくるめて問答無用で生徒に刷り込むためだろう。

こういう「人間管理」の効率化思想は、学校のみならず会社組織などにもあるのかもしれない。
企業社会、あるいは家庭もひっくるめた日本における社会全体の要請、その凝縮したのが学校に降りてきているのではないか、そんな気さえする。
ただこういう組織管理の効率化要請は、アメリカにもヨーロッパにもかつての社会主義国にもある普遍的現象であるようにも思う。
日本の問題は、「全体」と「個人」が綱引きをした時に「全体」勢力が強すぎることだろう。

もう少し「個人」の側が強くなって「全体」とのバランスを取り戻す必要があるように思う。
posted by ヤス at 08:13| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月01日

ローグ・ワン

この間、スターウォーズのスピンオフの「ローグ・ワン」をiTunesで観た。

「ローグ・ワン」は昨年の暮れから劇場公開していてよほど観に行こうかと思っていのだが、混んでいるのは嫌だし、最近とみに視力が弱っていて暗がりの映画館ではスクリーンを観るのがやや疲れる。
劇場公開の次のステップとして当然iTunesやアマゾンなどで販売が始まることが予想されたので、劇場は遠慮してiTunesで買って観ることにした。

そんなことはともかく。
宣伝文句の「シリーズ史上最高傑作」の謳い文句はダテではないと思った。
スターウォーズシリーズではお約束の「ライトセーバーファイト」もなし。
主人公やサブキャラも含めてみんな最後に死んでしまう。

色々と型破りで、その意味でシリーズのスピンオフ作品にふさわしい。

わたしはエピソード4・5・6(一番最初からの三部作)のDVDセットを持っているのだが、「ローグ・ワン」はエピソード4「新たなる希望」の直前の話である。
だから「ローグ・ワン」の最後のところから1977年公開の「新たなる希望」の冒頭シーンは連続している。

そこのところが気になって、「新たなる希望」のDVDを続きで観てみたら、昔見た宇宙船の廊下でバンバン撃ち合うシーンとか、その廊下がそっくり同じになっていて何気に感動した。
まあ今の「スータウォーズ」は制作費も潤沢だから、そっくり作るくらいは当たり前の話だろうが。

それともう一つ当たり前の話だが、DVDの画質とiTunesダウンロード版の画質は比較にならないくらいダウンロード版が綺麗。
ブルーレイだともう少し綺麗になるのだろうが、多分ブルーレイよりダウンロードが綺麗な気がする。
もう映画ソフトもメディアで買ったり借りたりの時代は過去のものになったようである。

今残っているDVDやブルーレイなどの物理メディア市場はそう遠くない将来に消えてなくなるのではないかと思う。
CDはまだしぶとく残っているが、映像ソフトというのはこれから4K、8Kとどんどん綺麗になっていき、映像の場合その差が如実にわかる。
物理メディアで高画質化に追随するのはなかなかしんどいだろう。
その点、データのダウンロードなら元データを高画質化して再生ソフトをアップデートするだけでいいから簡単そうだ。

少し話が逸れた。
そういうことで「ローグ・ワン」は面白かった。
あと1977年版に出ていた帝国のターキン提督がそっくりそのまま出ていて少し驚いた。
(ちなみにターキンのフルネームは「グランド・モフ・ウィルハフ・ターキン」らしい、長い)

さらに大トリで出てきたレイア姫については、CGのターキンに比べてもより不気味だったのが少しだけ気になったなあ、と思った。
おしまい。
posted by ヤス at 09:23| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月30日

伝統の一戦

伝統の一戦といえば、巨人阪神戦あるいは早慶戦などが思い浮かぶ。
ところでこの時の伝統という言葉、この言葉の意味が少し引っかかったので調べてみた。

「伝統」は「伝」と「統」で出来ている。
「伝」は字句通り「伝える」こと、「統」は「ひとつながりに続いて」いるようなイメージの意味らしい。
また「統」には「統べる」などという使い方でコントロールするとか統御するとかいう意味もある。
これは想像であるが、あるモノを長く存続させる様子が転じてそのモノの維持に腐心する様を表す意味が「統」の字に加わったのではないか、と思ったりする。

それやこれやを考えると、「伝統」というのは単に昔から淡々と続いているだけではダメで、その存続にそれなりの尽力があることが必要なのではないか、そういうイメージが浮かぶのである。

巨人阪神戦(もしくは阪神巨人戦)は、ただ淡々と戦っているのはもはや伝統の一戦ではなく、強い巨人と阪神が戦っているのが正しい伝統の一戦のありようだろう。
あるいは最近トップ選手を輩出しているフィギュアスケート界はそろそろ伝統の域に入りつつあるようだが、例えば凋落著しくなって久しい男子マラソンはもはや「伝統の糸」が切れている。

統の糸へんを見る限り、繋がってこその伝統であるようで、そういう意味では男子マラソンは伝統の作り直しが必要なのだろう。
(女子マラソンもぼちぼち頑張らないと糸が切れそうだ)

このように「伝統」の意味について理屈をこねた上で世の中のスポーツ中継などを観てアナウンサーが時折発する「伝統」の意味を考えた場合、そこにはすでに切れてしまった伝統や、その維持に大した尽力の無い伝統など、まやかしの伝統が案外散見されるのではないか、とどうでもいいが思ったりする。

しかし思うのは、例えば衣笠祥雄の連続出場記録とか双葉山の64連勝とか、何かが続くということに人はなぜそこまで執心するのだろうかということ。
連続出場でたまに一つ休んだり、連勝の途中に一敗したりしたところで数字上は大した違いがないような気がする。

切れると困るのは、例えば王統の血筋で、これが切れると王様一族は王権を失って大変なことになる。

あるいはそれ以外の伝統でも、一旦切れると再興するのに、連続的に維持する何倍もの労力を必要とするからわざわざ切れないように頑張るのかもしれない。

伝統に似た言葉で「老舗」というのでも、気をつけないといけないのは過去の栄光にあぐらをかいてしまうことだろう。
そうなった瞬間にそれは伝統でも老舗でもない、ただの歴史的事実になる。

伝統にとっては案外「今」が大事なのである。
どうでもいいがそんなことを思った。
posted by ヤス at 08:27| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月29日

穴を塞ぐ

ちょっと前に福岡の道路陥没事故、そして事故からの急速な復旧工事が話題になったがあれはいつだったか。

あの事故で思うのは、あれだけの大きな穴をあっという間に埋め戻して道路を復旧し、その早さが賞賛されたわけだが、そもそも街の真ん中に多穴が空く事故が発生したこと自体がもっと問題視されるべきだったろう。

調べたら事故は昨年11月だったらしい。
あの後事故原因もほぼ究明されて、真下で行われていた地下鉄工事が原因らしい。
(他の原因説も根強いみたいだが)
類似の事故が過去に起こっていたこともあるらしく、そうなると近い将来にまた同じようなことが起こることもあるのかもしれない。

今回書こうとしていることは道路陥没事故のメカニズムについてではない。

事故で開いた穴を塞ぐ仕事の「生産性」についてだ。
そもそも穴を塞ぐ仕事は、穴が開かなければ不要のものだった。
そういう意味ではこの仕事の生産性はゼロもしくはマイナスという評価になる。
というと、ちょっと関係者の皆さんには可哀想かもしれない。

しかしこういう種類の仕事はたくさんある。
パッと頭に浮かぶのは、東日本や熊本などの震災復興だろう。
特に東日本大震災については、復興予算も10兆円単位の莫大なもので、復興予算に関しては予算の未消化や流用、不正受給による焼け太りなど問題が多い。
しかしながら、まずは大きな損害を蒙った被災地域の復興が何よりも優先されるべきであって、そのためには多少の「事故」には目をつぶるべきだろう。

で、復興工事などで何兆円という予算が投入され、地域の建設業等にはそれなりにお金が回っていると思われる。
しかしこの辺の予算投入による付加価値の増加というのはどう評価すべきなのだろう。

先日の元復興大臣の発言によると、東北地域の損害額は25兆円ほどにもなるらしい。
今後もし、この地域で25兆円分のGDP増加があったとして、それでやっと震災前に復元したことになる。

震災は天災で不可避のものであり、先の陥没事故と比較するのは適切ではないような気もするが、どうもあの穴を埋める工事と震災の復興とが、頭の中でなんとなくダブって浮かんだ。
とりあえず、今日はそれだけ書いておく。
posted by ヤス at 15:05| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月28日

ランエボの復活予想

今世界中に自動車会社はたくさんあるが、しかし全世界で220兆円と推計される業界規模の割に、企業数は少ない。
それは既述の通り自動車という製品が複雑高度化して、研究開発にも莫大な費用が必要なことが大きな理由である。
また自動車が軍需と近く、ほとんどが第二次大戦前からの企業で占められていること、早々に足場を築いた自動車会社が業界を占有する構造というのがあるように思う。

第二次大戦後、自動車業界の民間需要が急拡大して軍需の何倍もの規模になり各自動車会社も規模拡大のために民需中心の会社に変化していったのだろう。
ヨーロッパなんかでは、しばらく自動車会社の国営時代があったりしたが、自動車業界の「民需化」の進展とともにそういう国有化状態が解消されていったのだと想像する。

民需化した自動車の製品開発の肝は、お客が「欲しいクルマ」を作ることであろう。
それは各社のブランド戦略につながっている。
ざっくりいって、アメリカのお客は大きくて見栄えが良いクルマが欲しくて、ヨーロッパのお客は走行性能が優秀でデザインや内装にもうるさく、日本のお客は安くて壊れないクルマが良かった、というところだろうか。

各国の自動車会社の製品イメージがずいぶんと違うのは、各国市場の「欲しいクルマ」の種類が違うからに違いない。
今、曲がりなりにも生き残っている会社というのは、それなりに市場の欲しいクルマを作る能力があったということになる。

日産がルノーに買収されてカルロス・ゴーンが日産に乗り込んできて最初の頃にやったのは、フェアレディZとGT-Rの開発にGOを出して日産のブランドイメージを再構築することだったという。
スポーツカーというのは台数は売れずたいして儲からないけれど、会社にポジティブなイメージを付加する。
自動車という製品は、安いのでも百万円くらいするやつを今の日本では平均9年くらいで買い換えている計算になるらしい。
(20年前は平均6年強だった)

やや大仰に言えば、とにかく「欲しい」圧力を最大に高めて、無理やり市場に製品をねじ込んでいるようにも見える。

そういう中でブランドが毀損して「欲しい」圧力が弱まると、たちまち売上が急減する。
その点不正のあったVWと三菱では、VWはブランドがしぶとく三菱は脆かった。

三菱に関して言えば、度重なる不祥事でダメージが蓄積していたこともあるけれど、一方でランエボをやめパジェロを10年以上もモデルチェンジなしで放置するというところに、根本的な戦略の誤りがあったように思う。結果論ではあるが。

ランエボもパジェロも台数が売れるクルマではないが、三菱では数少ない「欲しい」クルマだったと思う。
ということで、三菱に大ナタを振るうゴーンさんは、そのうちランエボを復活させパジェロをビッグチェンジするのではないか、というのが目下の予想である。
まあ全く根拠はないが。
posted by ヤス at 10:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年04月27日

三菱自動車2

2016年の世界自動車販売台数は、フォルクスワーゲン(VW)がトヨタを逆転して首位に返り咲いた。
2015年の排ガス不正から、早くも立ち直ったようである。
VWの戦略には一つ特徴があって、それは中国市場にどのメーカーよりも特化しているところである。
VWの販売台数は、その40%が中国市場で出ているらしい。
中国市場は年間28百万台の世界一の自動車市場だ。
2番はアメリカの1786万台、日本は3番で497万台。

25年ほど前にリュックを担いで中国に旅行した時は、北京の街中はVWゴルフとダイハツシャレードが大半を占めていたと記憶している。
その頃からせっせと中国市場を開拓していたのが現在のVWの躍進につながっているのは間違い無いのだろう。

VWは排ガス不正でかなりイメージダウンしたけれど、しかし過去数十年にわたる信用の蓄積は、この程度のイメージダウンで崩壊するものではないようだ。

VWは、ヒトラーの国民車構想によって完成した「タイプ1(=ビートル)」がそのスタートである。
戦後は、たぶんヒトラーの肝いり会社だった負い目もあったろうと想像する。
また戦後長い間ビートル頼みだった商品構成にゴルフが加わって、ゴルフの走行性能や安全性の追求姿勢が世界的な評価も集めて、会社としての発展に繋がっていったものと思われる。

さて、三菱自動車である。
三菱自動車は日本最古の自動車メーカーで、現在も陸上自衛隊に戦車や各種車両を供給している。
戦前も帝国陸軍の主力97式中戦車を開発・生産していた。

こういう歴史はVW・三菱に限らず、自動車メーカーというのはだいたい戦前戦後と軍需に関わっていたところが多いようだ。
三菱を買収したルノーは、第一次大戦で現在の戦車の原型となったルノーFTを作った会社だ。

純粋な戦後の民需主導の自動車会社で今パッと浮かぶのはホンダくらいだ。

そんなことはともかくも、VWはヒトラーの国民車から始まって、戦後しばらくビートルで稼いだのちゴルフで花が開いた。
ゴルフの成功は、質実剛健である意味地味なクルマ作りのコンセプトに支えられていたと思う。

でVWのブランドイメージは、これは個人的なイメージであるが、ヒトラーの国民車のイメージを払拭すること、もともとキューベルワーゲンなど軍用車両の会社だったことを払拭することがその土台にあるような気がする。

しかし一方の三菱は、戦前から現在に至るまで軍用車両に深くコミットしていて、代表的なブランドは四輪駆動のパジェロで、自衛隊にも通称「パジェロ」と呼ばれる汎用車両があって、戦後しばらく国営会社だったVW以上に官製企業のイメージが強いような気がする。

その辺が三菱自動車凋落の遠因ではないかと思う。
posted by ヤス at 10:48| Comment(0) | 徒然なるままに