2017年09月12日

人類の文明運が良かった説

今日は昨日に引き続き、えらく日経平均株価が上がっている。
このところ北朝鮮問題で下がっていた株価は、建国記念日前後に大きな事件もなく、とりあえず危機が一服したということなのかもしれない。

この問題に関して、少し前にある政治家は防空壕を造るべきと発言して物議をかもした。
また、8月29日の日本列島越しのミサイル発射に際しては「Jアラート」が一部地域で起動した。
このミサイル発射は早朝だったので、「朝っぱらからうるさい」とか批判の的になったりもした。

「Jアラートがうるさい」問題について考えると、アラートが聞こえた後に人々がどのような避難行動を取るべきか、その情報が全然国民に届いていないというところにそもそもこのシステムの決定的な欠陥がある。

そもそもミサイルの類が市街地に向けて飛んできた場合、自衛隊や米軍の迎撃システムが無事にこれを撃ち落としてくれるのを「祈る」他に、一般大衆レベルで出来ることはほとんどないと思う。
少し理屈をこねてみると、北のミサイルは限られた攻撃力のリソースを日本の普通の街に無差別に向けるほどには豊富でないはずで、照準の先は米軍基地や自衛隊基地に集中するだろう。
そうなると普通の市民に被害のあるケースというのは、照準が外れた流れ弾が飛んできた場合など、かなり確率的には限られると思う。


6年前には東日本大震災があって東北・北関東を中心に大きな被害があった。
その後もこの国では地震や水害などの自然災害が絶えない。
そのような自然災害に比べると、北の脅威はまだ外交努力や防衛技術への注力で対策可能な分、災害よりましという考え方も出来る。

一説によると、今日の人類の文明進化があるのは、この数万年の間比較的地球の気候が穏やかに安定していて、恐竜を絶滅させたような巨大隕石の衝突などもなかったことが大きな要因という話もある。
たまたま運良く文明は発達できたのである。

考えてみると人間の生き死には、かなりの程度「運」に左右される。

ただでも事故や病気のリスクもあるというのに、北のミサイルリスクでその悪運が少し増えるというのは、ものすごく損な気分がする。
人類はせっかく数万年間「お天気」にも恵まれて、自然災害や病気などに対しても技術を磨いてせっせと対策をしてここまで来たのに、である。

いずれにしてもミサイルに関する限り一般人に出来ることはごく限られているので、運悪くそれが落ちて来ないように祈っていよう。
posted by ヤス at 16:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月11日

核武装論議

さて、北朝鮮問題が一向に解決の糸口が見つからないなか、「無事」に9月9日の建国記念日が過ぎた。
この日に何かが起きる、という事前の報道がいくつかあったが結局大きな事件は何もなかったようである。(たぶん)

個人的には、この問題は現在の状況がある種の平衡点なのではないかと思うようになっている。
北は核兵器の実用化をアピールし、運搬手段のミサイルもおそらくアメリカ本土の一部を射程に収めるほどに進化している。
通常戦及び核攻撃の総合力でアメリカが北を圧倒していることに依然として変わりはないが、北がアメリカに対する直接攻撃の手段を獲得したことで(少なくとも北はそう主張している)、米朝は軍事的にある種の対等関係に立ったと言える。

ところで、この状況に対抗するために日本も核武装すべきという議論がある。
日本で核武装の議論は、ある意味「人殺しは良くない」の議論と似ているような気がする。
現在でも日本自体が核武装することについては、多くの国民が反対だと思う。
しかし実際に新聞社等がその手のアンケートを取ると、けっこう数字にバラツキが出て、場合によっては核武装肯定派が多数になることもあるようだ。

日本が核武装することは良くない、というのは、日本は唯一の被爆国であり悲惨な核兵器の惨禍を繰り返すべきでない、という辺りに主な論拠があるのだと思う。
だから、外交手段としての核武装についてはあまり活発に議論されているとは言い難く、そちら方向からの核武装反対論というのはあまり決定的な話を聞いたことがない。

さて、「人殺しは良くない」の話である。
念のために言うと、わたしも人殺しは良くないと思っている。
ではなぜいけないのか。
そこのところを綺麗に筋道立てて説明するのはなかなか難しい。

また日本では死刑がまだ存続していて、国家による犯罪者に対する殺人は合法である。
あるいは正当防衛による殺人も合法とされる。
正当防衛というところでは、世界各国において戦争中の戦闘での殺人もいちおう合法。

人殺しが良くないことの理由については、倫理面とか人間心理の面からなどいろいろと議論立てがあるのだろうが、今わたしがおもいつくのは、人殺しは法律で違法と決めているからダメなのだ、というものである。
法律というのは文明社会を維持するためのものと考えると、つまり無秩序の殺人は文明社会を維持することの障害になるからダメということになる。

さて、日本の核武装について。
核武装はNPTの国際的な枠組みの中で、いちおう部分的に合法である。
しかしその枠組外で、北朝鮮やイランやその他の国々でもなし崩し的に「違法」に核開発が続いている。

核兵器が世界に与えた実害は今のところ日本の2都市の数十万人だけであるが、潜在的な核兵器の脅威は今厳然としてあるのは間違いない。
核兵器は過去にはそれなりの違法・合法のラインが決まっていたわけだが、今はそれがすっかり曖昧、いい加減になっている。
そこのところがいい加減というのはかなり文明的でないと思う。

不倫の話もそうだけれど、文明の力によって人間の中に眠る野生をコントロールするのは相当に難しいということのようだ。
少なくとも日本国には、文明の側に立って各国に働きかける立場を維持してもらいたいと思う。
posted by ヤス at 11:16| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月10日

初の9秒台

昨日、陸上の桐生祥秀選手が、日本人初の100m走9秒台となる9秒98の日本記録を出した。
伊東浩司が長らく保持していた10秒00から19年、人類初のジム・ハインズからは49年目にしての9秒台とのこと。

ただジム・ハインズの記録は高地のメキシコシティーで出した記録であり、次に更新されたのは1983年のカルビン・スミスでこの間15年かかっている。
わたしの記憶では、その次のカール・ルイスくらいから100mの記録はぐんぐん伸びてきたような印象がある。

日本の100mはこの数年10秒0台に多くの選手がひしめく状況になっていて、いつどこで出てもおかしくない感じだった。
特に今期になってからのサニブラウン・ハキームの快進撃があって、他の人が破れなくてもサニブラウンの体調が戻ればすぐにも出しそうな感じに思えた。
その中での桐生の9秒台。

桐生は今まで肝心なところで硬さが出るとか、プレッシャーのかからない時は速いとか、メンタル面での弱さを指摘されることも多かったけれど、そんな桐生が「当初の予定通り」に一番最初に9秒台に突入したことは、本人的に非常によかったと思う。
おそらくこれで重荷が取れて、以降より無心で走ることができるようになるのではないか。

100m走は競技時間がたったの10秒しかないから、スタートから中盤のスピードアップ、そして終盤のまとめまで、少しのミスが命取りになる。
集中力が要求される、かなりメンタルな競技だと思う。

だから実は、日本で誰が一番最初に9秒台を出すかはものすごく大事だったと思う。
今期世界陸上で個人代表資格を逃して悔しい思いをした桐生としては、ここで悔しい思いをしたからこそ、初の9秒台は何としても自分が出さないともう後がない、そんな気持ちがあったのではないかと勝手に想像する。

水泳の100mも2005年に佐藤久佳が初の49秒台(世界から29年遅れ)で泳いだ後、他の選手も続々と49秒台を出し、かなり差があった競泳短距離が世界に接近する転機になった。

「日本初の9秒台」という大きな壁が無くなって、他の選手も続いていけば400mリレーで金メダルの期待もますます高まる。
短足胴長の日本人が陸上短距離で活躍できれば、陸上競技以外にもいろいろな場面で心理的バリアの解消に役立つんじゃないか。

ところで桐生選手の下の名前は祥秀と書いて「よしひで」と読む。
今まではなんとなく読み方をスルーしていたがこれからはしっかり「きりゅうよしひで」とフルネームで呼ばなければ、と思った。
posted by ヤス at 07:42| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月09日

徒弟制度のふしぎ

さて、将棋の藤井聡太四段はその後若干負けが込んで既に6敗目を喫したが、しかしなお今年だけで29勝していて8割以上の勝率を誇るから大したもんである。

そしてわたしは最近も相変わらず「見る将」として将棋の番組をネットでチラチラ観ている。
観ていて思うのだが、将棋も相撲と同じく日本の伝統文化である、という意識を各プロ棋士はかなり明確に意識しているらしい。
だからタイトル戦によっては和装での対局が習慣になっていたりする。
また対局が始まる時の最初の駒を並べるのにいちいち「なんとか流」の流儀があったりして、まるで相撲の土俵入りの不知火型みたいだなあと思う。

伝統という意味で、相撲と将棋には類似点が多く、細かい作法に流儀や型があったりというのも似ているが、「徒弟制度」があるという点でもわりかし似ている。

ただし、相撲の場合は部屋持ちの親方だけが弟子を取れる。
そのためには「株」を買ったり日本国籍がないといけなかったり色々大変である。
一方で将棋の師匠は、おそらく特別の資格とかなくても弟子は取れる。
弟子を取ろうと思えば取れるし、自分は弟子は取らないと思えば取らない。
しかし弟子の方は、プロ棋士になるためには誰かの門下に入る必要があるようだ。

相撲と将棋で若干の違いはあるものの、伝統文化に徒弟制度はつきもののようだ。
ということは徒弟制度にはそれなりに合理的な存在理由があるのだろう。

ふと思うのだが、徒弟制度における師匠は必ずしも弟子より競技力が上ではない、というのが案外ポイントなんじゃないか。
相撲で、歳をとった親方が若い弟子に敵わないのは当然として、知力勝負の将棋であっても、経験豊かな師匠を弟子の方が若くして超えるというのは珍しくない。

師匠の目標は、自分より強い弟子を育てるというところにある。
だから弟子が若くして師匠を超えるのはある程度必然になる。

相撲や将棋に見られる徒弟制度の現状は、少なくとも強い弟子を育成して門下の勢力を拡大するという点で相応に機能しているように見える。

大学における教授を中心に准教授・助手などの組織や、ある種の職業でしばしば見られる徒弟制度的な組織体制は、時として弟子を酷使するだけのものであることがあるのと対照的だな、とちょっと思う。
おそらく徒弟制度的な仕組みというのは、ともすれば弟子が師匠に奴隷的にこき使われるということになりやすいのではないかと思うのである。

その点、将棋の徒弟制度はうまく機能しているように見え、その理由がなんなのか少し気になるのだ。
(内実、いろんなドロドロ劇もあるようであるが)

わたしは、将棋の師匠は弟子が自分より良い成績を上げたら心中複雑なのではないかとちょっと心配したりもしていたのだが、上記の理由により、強い弟子を持った師匠は「それなりに」嬉しいのかな、と最近は思ったりしている。
posted by ヤス at 15:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月08日

電気自動車普及のネック

この間、日産自動車が電気自動車の新型リーフを発表した。
初代は2010年12月に発売され、発売から5年の2015年12月に世界累計で20万台売ったという。
新型リーフの売りは自動運転技術とかいろいろあるようだが、イチオシは航続距離が280kmから400kmに延びたことだろう。

リーフが最初に登場した時の航続距離は230kmだったがその後のマイナーチェンジで280kmになった。
これらの数字はカタログスペックなので実走行距離は1〜2割くらい減るらしいが、まず「満タン」で200km走ればほとんどの場合実用上の問題はないと思われる。
しかし電気自動車の航続距離というのには、なんだか知らないがぼんやりとした不安が常にある。

今朝のニュースにイギリスのジャガーも2020年以降は全車種を純電気・HVだけにするというのがあった。
またイーロン・マスクのテスラも紆余曲折ありながら販売台数を増やしており、2016年一年で8万3922台売ったらしい。

はたして電気自動車の将来はどうなのか。

電気自動車普及の鍵を握るのが充電インフラの整備であるといわれる。
日本の充電設備は、最近急ピッチで整備が進んでいるようだがそれでもガソリンスタンドに比べるとかなり少ない。
最近は高速道路のサービスエリアにも充電スタンドを見かけるが、その数は大抵ぽつんと一基あるくらいだ。
まだ電気自動車の絶対数が少ないので、取り合いになることもないのだろう。
しかし充電時間は、ガソリンのように1分2分で終わるわけではないので、運悪く2、3台重なった時はかなり待たないといけなくなる。

充電スタンドの数の少なさ、充電時間の長さの問題は電気自動車普及の大きなネックである。
まあこれは、電気自動車がある程度増えればそれなりに改善されるのかもしれない。
しかし出先での充電が数分の感覚で終わらないと少々かったるい。
そのためには充電池技術の進歩が欠かせない。

しかし今のところ超急速充電可能な電池実用化のニュースはあんまり見ないのだ。

それならば、太陽電池をクルマに乗せて発電しながら走ったらどうだろう。
100馬力は換算するとおよそ74kwになる。
現在市販されている10kwの太陽電池は面積がおよそ50平米くらいらしい。
100馬力のクルマをフルパワーで駆動するには単純にいうと25mプールの面積の太陽電池が要る。

クルマは常にフルパワーを発揮するわけではなく、バッテリーとの組み合わせの航続距離延伸装置と割り切って25mプールの10分の1の面積としても、一般的なクルマ4〜5台分の投影面積が要る。
これだと将来的に太陽電池の効率が上がるとしてもあまり期待が持てない。

つまるところ、充電インフラが街中至る所に整備されるか、電池技術が劇的進化して航続距離の心配が無くなるかしないと、電気自動車普及の心理的バリアが解けない気がする。

あるいは自動運転化に伴い、クルマの充電管理をAIが行って人間はその心配をしなくなる、みたいなことであっさり解決するのかもしれないという気もするが。

内燃機関エンジンから電気化へのスイッチはおそらく今後10年くらいで急速に進む雰囲気が漂っているのだが、電気自動車普及の未来像が今ひとつ見えないというのが、トヨタを始め既存メーカーの多くが電気自動車に本腰が入らない要因なのかなあとも思ったりしたのである。
posted by ヤス at 12:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月07日

民進党出鼻を挫かれる

代表選挙が終わって心機一転巻き返しを図るはずであった民進党だが、予想外の不倫スキャンダルがあって出鼻を挫かれたらしい。
たぶん多くの人も同感だと思うのだが、わたしは、政治家のこの手のスキャンダルにいちいち驚かなくなっている。

政治家といえども人間であり、他の職業の人間とそれほど違わないということだ。
あるいは政治家であるからこその野心性がアダになって、その手のスキャンダルの発生割合が高いくらいかもしれない。

つまるところ、人間は依然として野生動物時代の性壁を色濃く保持しており、その野生の性壁を完全にコントロールすることは難しいということなのであろう。
(ここまで書いていてなんだが、今回の民進党における不倫事件が事実かどうか、わたしは知らない)

「不倫」とは元々は「ミチを外れる」の意味で、本来道徳に悖る行為全般を指すのだと思う。
それが今では、男女間における問題の専用用語になっている。

こういうことを言うとかなりの批判を受けそうなのだけれど、どうせこの文章は大した人数に読まれていないので構わないだろう。
おそらく全ての人間が男女の倫(ミチ)を守り通すということは、それなりに難しいことなのだと思う。
人間の中の野生の本能が生きている限り、不倫問題は無くならず一定の割合で発生を続ける。

おそらく、一夫一婦制というか「浮気はいけない」という倫理観が、そもそも現在の人類にカチっと収まっていない。

そもそも、この「浮気はいけない」倫理観は絶対的に正しいのだろうか。
これは全くわたしの想像であるが、男女のペアが固定的であるべきだという倫理観は、おそらく太古の昔に配偶者の争奪を巡って争いが絶えなかった時期があって、その対策としてだんだんと出来上がってきたのではないかと思う。
それに後から宗教的倫理観とか、国家的家族政策とかが乗っかってきて、近代社会の重要な倫理観の一つになったものではないか。

つまりこれは人類の自然な性壁では決してなく、たぶんに人工的な概念なのだろうと思うのである。

こういう人工的な概念は他にもたくさんあるだろう。
民主主義とか国民国家の枠組みとかも、我々は当たり前のものとして自然物のように感じているが、これらもかなり人工的な概念であり、浮気に関する倫理観と同様あちこちでボロが出ている制度である。

人工的な制度や概念というのは、所詮その程度のものなのである。
そういうことを考えると、ものすごい無力感にさいなまれるわけであるが、しかし一方でいろんなトラブルがあるからこそ人間社会は面白いのだと言えなくもない。

ちなみにわたしは無用のトラブルは避けたいタイプである。
いくら不完全な人工の概念であるとは言え、男女関係における倫理観はこれまでそれなりに機能して世の中のトラブル減少に貢献したものとして尊重している。
だから不倫スキャンダルの類からは距離を置きたいと思っている人間なので念のために記しておく。
posted by ヤス at 11:11| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月06日

歴史教育について

ちょっと前に話題になったニュースに、進学校で有名な灘高校の校長のブログの話があった。
灘高校(の中学)が採用した歴史の教科書がちょっと「右寄りの人たち」の攻撃対象とされ、抗議のハガキがたくさん来たというのを校長先生がブログに書いていた。

「右寄りの人たち」を十把一絡げに「右寄り」と断じることには多少の抵抗がないこともないが、ここは便宜上このまま進める。

右寄りの人たちの意見としては、灘高のようなエリート校こそ「愛国的な」教科書を採用すべきであるということらしい。
この教科書は学び舎発行の「中学歴史教科書・ともに学ぶ人間の歴史」である。

この教科書は中身を見ていないから内容には触れない。

この件に関する右寄りの方々の主張としては、教科書の内容が自虐史観的である、愛国教育の妨げになる、という思いがあるようである。

しかし歴史教育の在り方というのは実は非常に難しい問題だと思う。
歴史というのは、それがたかだか五十年や百年前の出来事であっても、その正確な事実を知ることは困難である。
というかただ今現在発生している出来事であっても、それぞれの立場によって評価や見方は全く異なる。

客観的に正しい唯一の歴史的真実というのは、どこを探しても絶対に見つからないのである。
である以上歴史教科書の記述は、「そのような見方がある」とか「そういう風に推測する人たちもいる」的な記述にならざるを得ないはずである。

それがそもそもの歴史の授業の在り方だと思うのだが、世の中の平均的な中学校ではそういう「あやふやな事実」を教えることがおそらく難しい。
日本の学校では、ともすると唯一絶対の正解が存在する前提で授業が行われ、テストの採点がなされる。
日本の学校の先生は、そのような機械的な割り切りの元に授業を行い生徒の評価を行わないと仕事が回らない羽目に陥っているように見える。

そこへ行くと灘高のようなエリート校においては、生徒も先生も一定以上の水準にあってそれなりに「考える」スタイルの授業が可能なのだろう。
(というのはかなりの偏見かもしれないが)

いずれにしても、一部の右寄りの方々が主張している愛国教育、極度の自虐史観アレルギーというのは、子ども達に対して「考えるな」「判断するな」と言っているようでその点で非常にまずいのではないかと思う。
歴史の授業というのは、ある一つの出来事に対しても立場や思想の違いで色々な見方が出来るのだということを教えるべきで、年号の記憶よりもそのような「考え方」を学ぶことにその本質があるように思う。
そこを否定して自分で考えない人間を量産する教育は、かえって亡国的ではないか、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:57| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月05日

教育のタイプについて

ジャズトランペッターの日野皓正氏がステージ上で教え子の子どもに往復ビンタをした、というニュースが何日か前に出ていた。
この報道については、ネットニュースでテキスト記事をチラ見しただけであり、テレビのワイドショーなんかでもコメンテーターなどがいろいろ意見を言っているらしいがそういうのはあまり観ていない。

この問題については日野氏の釈明が良くなかったとか、体罰はいかなる場合もいけない、いや場合によっては許されるとか、いくつかの角度から論評がなされているようである。
それらの論評については正直あまり興味が持てなかったのであるが、わたしが少し考えたのは「教育」の意味についてである。

教育とか指導とかコーチングとか、何かを「教える」状況というのは世の中にたくさんある。
もっとも代表的であり、かつ世間の関心が高いのが学校における教育だろう。

最近も大学教育の無償化とかの問題が憲法改正論議と合わせて話題になった。
しかしそもそも学校教育というのはどこから出てきたものだろう。
こういう話はすでに研究者によって研究されつくされているに違いないのだが、そこをいちいち勉強してから理屈をこねるのも面倒なので適当に推測してみる。

おそらく、ある種の教育というものは社会と個人の関係において存在する。
それなりに出来上がった社会に新しく参加する人間、つまり多くの場合子どものことであるが、彼らに社会の決まりごとを教えるシステムとしての教育というのがひとつありうる。
その場合、子どもが社会的に望ましい行動をとる人間になる方向で教育は行われる。
このタイプの教育の派生型として、軍隊における新兵訓練とか企業における新人教育とかもあるだろう。

そしてこの手の教育において、体罰の必要性が議論されることになる。

教育にはまた別のタイプがあるように思う。
さっきちょっとネットを調べていたら、世界最古の大学はイタリアのボローニャ大学で11世紀頃、つまり今から千年ほども前に出来たらしい。
最古の大学のスタイルはちょっと意表を突かれたのだが、これは貴族や金持ちが自分たちの息子に高等教育を与えるために有名な学者を雇用する、つまり「教えさせる」タイプのものだったという。

こういうスタイルにおいては、教育における体罰の是非は論争のテーマになり得ないと思う。
現代のプロフェッショナルスポーツでも、例えばフィギュアスケートで選手がコーチを雇ったりする。
社会による要請ではなく個人側の要請によって行われるタイプの「教育」というのがある、というのは今さら当たり前のことだけれど少し新鮮に感じた。

教育における体罰問題は、前提条件としてそのような教え方のタイプについても、少し考えてから論じる必要があるような気がしたのである。
posted by ヤス at 15:42| Comment(3) | 徒然なるままに

2017年09月04日

精神の若さについて

精神の老化は分かりにくい。
対して肉体の老化は、めっきり白髪が増えるとか、階段を駆け上がると息が上がるようになったとか、わりかし明確なかたちで現れるから気が付きやすい。

精神の状態はほとんど目に見えない種類のものである。
これをどうにかして見えるようにしないと、精神がくたびれてきているのかどうかがよく分からない。

先日来、人類における中高年からの年頃は、文明時代以降の現象であることを書いたと記憶している。
我々は原始時代には30歳そこそこで天寿を全うし、肉体的にはまだ十分に若い段階で死滅していたと思われる。
それが、文明が発達して食糧事情や医療技術が進化し、肉体の衰えを思考の力で補うことが出来るようになった。
つまり人類は肉体的に老化することが出来るようになった地球上で最初の生き物であると推定される。
我々は肉体が老いても知恵の力で生き延びることが出来るようになったようである。

のみならず、ほとんど寝たきりでベッドの上でものも言えないような病人でさえ、しばらくの間延命させることが出来るほどである。

こういうことは最近百年くらいの話であり、かつ先進国と呼ばれるある程度余裕のある国において初めて可能になった。
余裕のある社会では、生きる力が尽きかけているような人間でも延命することが出来る。
あるいは百年先くらいの未来に介護ロボットが甲斐甲斐しく人間の世話をするようになると、人口の大半が寝たきりになっても平気な社会が実現するのかもしれない。
というのはあまりゾッとしない想像ではある。

そんな話は横においておくとして、我々現代人は、せっかく原始時代の3倍ほどにもなる天寿を授かったのであるから、この期間を出来るだけ健康に充実して生きることに越したことはない。

そのために何より大事なのは、精神の若さをいかに保つかということだと思う。
ここで精神の老化とはどういう状態なのかを考えてみると、それは脳みそが自然的に持っている怠惰の性格を全面に出してきた時かもしれないと思う。

パソコンで長い文書や複雑な図表を作成している時、突然画面がフリーズすることがままある。
そんな時に限ってファイルの保存が出来ていない。
後はえいやっと再起動をかけて、フリーズした画面は思い切りよくあきらめて最初から新しい気持ちで作業をやり直す。

それに似た出来事はリアルの社会でもたまに発生するけれど、その時にいかにリスタートを新しい気持ちで始められるかというのは、あるいは精神的若さのリトマス試験紙であるような気がする。

あるいは長い人生で獲得した「パターン」を目の前の事象に過度に適用することなども老化の現れだろう。
目の前の事象は、過去に似たようなことはいくつもあったかもしれないが、厳密にはどれも「生まれて初めて」見る事象であるはずである。

人類は自然状態を脱して寿命が延びたのだから、脳が本来持っている怠惰の性質にも「人為的」に喝を入れないといけないのかもしれない、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月03日

脳みそのある傾向


人間の脳みそというのは、たいへん怠惰なもののようである。
我々は目の前のものを見ていてもその中のほんの少しの部分にしか意識を集中していない。
その他の部分は一応見ていることにはするが、ほとんど記憶にも残らないくらいにしか見ていない。

プロ棋士は、長時間の対局を一局終えると体重が2〜3kgも減るという。
その話が本当かどうか知らないが、脳というのは思いの他エネルギーを食う臓器であることは確かなようである。
一説には体全体の2割くらい消費するという。
また、脳のカロリー消費の割り当ては無際限に増やせるわけではないらしい。
だから限られたカロリー・リソースをやりくりして脳は活動している。

おそらくそういう事情があって脳はいろいろな情報処理をなるべく端折っているのであろう。
目に見えた風景のうちの、必要最低限のモノにしか注意を向けないとか、現在の周辺環境を分析判断するのに、過去の記憶で代替してその都度新しく判断するということをしない。
過去にヘビに噛まれた経験のある人間が、細長くて黒っぽい紐を見てびくりとするように。
記憶のメカニズムは、脳の情報処理をかなりの程度端折ることができるという意味でもかなり有効のようである。

しかしこういう脳の怠惰な特性には、現代人はよほど注意しないといけない。
我々の脳は、過去の記憶の流用以外にも様々な情報処理のショートカットを行う傾向がある。
「誤った一般化」というのがあって、これはある法則を論理的整合としては全くデタラメに別の事象に当てはめてしまうことである。

例えばある一人の日本人がチビで出っ歯でメガネをかけていた。
すると「全ての日本人はチビで出っ歯でメガネをかけている」と思おうとする傾向が脳みそにはある。

一般的に、カテゴライズとか分類化は、ある特性を軸にしてモノやコトの集合をグループ分けする作業である。
しかし「日本人」というのは、そもそも日本国籍を有する人間の集合というくらいの意味であって「チビ」の特性を持つ人の集合ではないだろう。

ある特性を軸にカテゴライズされた「集合A」に対して、たまたまその「A」に属する一部の特性を引っ張り出してきて、それを「A」全体に適用することには全く論理的整合がないことは今さら言うまでもない。
しかし人間というのはちょっと冷静になってみると、自分でも驚くほど知らない間にそういうことをやっている。

それもこれも人間の脳が本来持っている傾向によるもので、しばらく人類はこのような脳みその怠惰と向き合っていかないといけないのである。
posted by ヤス at 07:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年09月02日

さらに老後問題について

ここ数日、人間の老後について考えている。
そこで発見したことは、老後というのはきわめて現代的な現象であるということだ。
つい百年か2百年くらい前までは、40歳50歳はジジイババアの年頃だった。
そして文明以前の人類の野生時代においては30歳くらいが一般的な寿命の尽きる年齢だった。

野生時代においては、肉体的な青春時代の終わりがすなわち人生の終わりとイコールだったらしい。
それがこの百年くらいの間に、少なくとも先進国においては医療技術が進歩し食糧事情も随分と良くなって平均寿命はかなり伸びた。
しかし寿命が延びたことによって人類は老後の心配をあれこれとしなければならなくなった。

「寝たきり老人」とか「痴呆症老人」とかの介護は現代日本ではかなり大きな問題である。
これらの老人は、ほとんど労働力の足しにもならなず、野生時代ならもちろんこと、経済的に逼迫していた中世以前の時代ならただ静かに息を引き取るのを傍観されるだけの存在であったに違いない。

それが現代では、他の人の面倒が見られるくらい社会が豊かになったことによって、そういう肉体的な活動性が極度に低下した人でもさらに長く生きることができる。

これは実は地球上の生き物の中でかなり人類特有の特徴だと思う。
(他にも年寄りの世話をする生き物は、探せばいるかもしれないが)

人類はここ百年くらいの間に急速にクローズアップされてきた「老後」の問題に、今たぶん少し戸惑っている。
しかし肉体的な老化については、寿命の延伸に伴って少し改善も見られる。

数十年前の40歳というのは、完全なおじさんおばさんだった。
なんなら初老と言って差し支えないような40代だっていた。
しかし今の40歳は、その年齢でまだアイドルをやっている人もいるし周りを見回しても若い人が多い。
これは栄養事情が良くなったということもある思うし、ただ単に観察者であるわたしが歳をとった相対的な問題と言えなくもないが。

さらにまた現代人は、精神的にも昔より相当若返っているのではないか、という気がする。
昔は脳みその中が50歳くらいですっかり老成していたのが、その老成年齢がどんどん後にズレて行っているのではないか。

ただ、そういう現代における肉体的精神的若返りの分を差し引いても、寿命延伸に伴い「老後」期間は増大している。
だから人類は引き続きさらなる若返りをがんばらないといけない。

結局のところ、人類が「健康な老後期間」の割合を増やしてその問題に終止符を打つには、土台となる肉体の若返りを図り、その後に精神的な(つまり脳みその)若返りに努力する必要がある。
特に精神の老化は自覚がしにくい。
そこのところの良い対策が何かないか、と思ったりする今日この頃なのである。
posted by ヤス at 10:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年09月01日

「老後」の現代性について

縄文時代の平均寿命は15歳に届かなかったという推計があるらしい。
このように短命だったのは乳幼児死亡率が恐ろしく高かったことが最大の原因である。
そして15歳までなんとか生き延びた時点における平均余命は16年あまり、つまり普通に成人した人間は31歳くらいで天寿を全うする感じだったようだ。

もちろんこれは推計であり事実だったかどうかは分からない。
一つの比較として、野生のチンパンジーの寿命は15〜20年くらい、ゴリラは30〜40年くらいだとあるサイトに出ていた。
そして動物園などでの飼育下ではチンパンジーもゴリラも寿命が50年くらいに伸びるという。

動物の場合、一般に陸上動物より水棲動物が長生きし、さらに体が大きい方が小さいより長生きする傾向がある。
だから大きいゴリラはチンパンジーより長く生きる。

その辺りから推測すると、ほぼ野生状態における人間が30過ぎてそろそろあの世に行く、というのは当たっているような気がする。
おそらく、野生の動物では肉体的に若いことが生存のための絶対条件なのである。
だからそろそろ「若くなくなった」頃が寿命の尽きる頃、という話になる。

人間の30歳といえば、文明未発達の原始時代においてもそこそこに若い感じに見える年恰好だと思う。
しかし野生では、少し老いていることが命取りになるのである。たぶん。

ということは、人類というのは文明発達前の10万年だか数万年だかの間、だいたい30歳くらいで死ぬようにプログラムされてやってきたことになる。
30歳で死ぬ人類には「四十肩」とかは発生しようがない。
また現在死亡率上位である癌とかの発症なんかも随分少なかったし、アルツハイマー症とかはほとんどなかったと想像する。
野生の人類は歯磨きもしなかったと思うけれど、30年しか生きないのであればその必要もないだろう。

逆にいうと、現代人は平均して80年くらい生きるので、野生時代にはあまり気を使わなかったところまで色々とケアしないといけない。
「中高年」とか「老後」と呼ばれる時代は、野生時代の人類の人生には存在しなかったのであり、この人生の「新しい後半」をより良く生きるには、縄文人のように毎日気の向くままにのんびりとしているわけにはいかないのである。

それは歯磨きを頑張るとか食べるものに気を使うとかの肉体的なケアも大事だし、また精神のケア、脳みその神経細胞のつながり具合、働き具合をなるべく健康に維持することも大事だと思う。

いずれにしても人生における「老後」というのは、たぶんせいぜい数百年の歴史しかない新しい出来事なのである。
そのことを時々思い出した方がいいんじゃないか、と思ったのである。
posted by ヤス at 09:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年08月31日

山本彩に学ぶ

昨日30日、NMB48の須藤凜々花の卒業公演が行われた。
しかし今回書きたいのはリリポンの話ではない。

その卒業公演でキャプテンの山本彩が以下のような意味の発言を行なったとされる。
いわく、歳をとるとどんどん保守的になる、大人になるにつれ自分の脳みそがすごいつまんねえなあと思うことがある。
山本彩によると、そういう自分を違う方向、新しい方向に導いてくれたのが須藤凜々花であり、その点を感謝しているという。

ちなみに須藤凜々花は20歳、山本彩は24歳である。

24歳といえばまだ全然年寄りではない。
にもかかわらず山本彩はこのような見方で自分を見ているというのが、少し驚きである。
山本彩は2010年の10月からNMBでのキャリアを始めている。
その前にも中学生時代に1〜2年の芸能活動経験があるらしい。
かれこれ活動歴10年。

これまでのアイドル業界や芸能界における活動において、山本彩は数々の試練を乗り越えて今がある。
初期の頃、かなり無理のある一発芸でスタジオの空気を凍らせたり、東京の番組では「借りてきた猫」状態に陥るなど、これまでに結構ギリギリの戦いを続けてきたように見える。
しかし今ではその芸風はすっかり安定したものになり、はたからも安心して見ていられる。(実は時たましか見ていないが)

彼女は懸命の努力によって、業界において一定の存在感を得るに至ったようである。
しかしまたその過程において業界的な約束事をいくつも身につけ、自分のスタイルやイメージもだんだんと固まっていく。

この世の中というのは、生き残っていくための術についてある程度のバリエーションが身につき、その精度が一定の水準に達すると途端に生き易くなるものなのだろう。
しかし一方で周辺環境が突如として変わったとき、そのことに気がつかずに今まで通りの術を繰り出していたのでは全く通用せず、たちまち死に至るという危険がある。

山本彩はおそらくそのことがよく分かっている。
だから、マーケットの嗜好に寄り添いつつもあまりそこに完全にフィットし過ぎないという意識が自然に湧いてくるのだろう。

このようにマーケットにフィットする努力をしつつもある程度の新しさ、少しの「はずし」を常に用意しておく、というのは芸能界におけるアイドルの生き残り術として非常に重要なのだと思う。
そしてこのことは芸能界のみならず、自然界における生物種においても、マーケットにおける企業経営においても重要であることはいうまでもない。
そして複雑高度な社会に生きる現代人のあり方一般としても欠かせない視点であるように思う。

問題は、保守的になり脳みそがつまんなくなる自分自身のことが、なかなか自分では見えないというメタ認知の件である。
わたしのようなオジサンは、山本彩の3万倍くらいの覚悟を持って自分を見つめないと自分のつまんなさが見えないのではないか。

と、そのようなことを少し思ったのである。
posted by ヤス at 10:35| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月30日

人工知能のつくる未来社会

さて、巷では2045年には人工知能が人類の知力を超えると言われている。
レイ・カーツワイルという人工知能の研究者がそのように予言しているらしい。
いわゆるシンギュラリティ=技術的特異点というやつである。

そしてその頃には人類の仕事の半分は人工知能に取って代われられるという。
さらに言えば、人間の脳みそにコンピューターが直接接続されることにより、脳の拡張が行われるという予想を多くの人が行っている。
2045年といえばあとたったの28年である。
順調に行けばわたしはまだ生きている。

はたして今から20年、30年後の未来はどうなっているのか。

気がかりなのは未来の仕事がどうなっているかだ。
あらかたの仕事は人工知能に奪われるとすると、みんな失業して貧乏になってしまうのか。

トラックの運転とか建設現場の作業員とか、肉体作業系の仕事は高度な電子頭脳を搭載したロボットに代替されるだろう。
またスーパーやコンビニのレジ打ちなども、非接触タグやら電子決済の進化で早晩消滅する。
(そもそも店に買い物に行く、という消費行動自体がなくなるだろう)

また弁護士や医師や会計士など知的に高度な仕事においても人工知能が活躍することはほぼ疑いない。
むしろ知的に高度であればあるほど人工知能に代替される可能性が高いような気もする。
あと、小説を書いたり映画を作ったり芸術絵画を制作したりという、創作的な仕事においてもかなりの程度人工知能が進出するのではないか。
創作的な仕事については人工知能の能力に懐疑的な研究者も多いようであるが、しかしこのような芸術分野の仕事は、言ってみれば人間の脳みそにある種の快感を与えるものである。
人間のどのスイッチを押すと気持ちよくなるか、その辺の分析は人工知能は得意だろう。
少なくとも「軽いノリ」の大衆娯楽の創作物というのは、ある意味人工知能の独壇場になるような気さえする。

つまり、人間の仕事のうち将来人工知能やロボットに代替されないものを探す方がむしろたいへんなのである。

そうなると未来社会は古代ギリシャのように、奴隷である人工知能と働かない自由市民によって構成されるようになるのだろうか。
古代ギリシャでは知的労働も含めてあらゆる仕事を人口の9割を占める奴隷が行い、残り1割の自由市民は飲んだり食ったり遊んだりするのが仕事だったそうである。

未来の社会が古代ギリシャと似たことになって、わたしも自由市民の仲間に入れてもらえればこれはたいへん楽チンで楽しそうである。
実際問題、未来の社会はある程度その方向に行く、つまり人間は遊ぶ時間が現代よりずっと増えるのではないかと思う。

しかし労働力を商品として販売し対価を得ている現在の所得メカニズムは、人類が働かなくなった時どのように変化するのだろうか。

例えば人格的に「いい人」はお金持ちになり、「悪い人」は貧乏になるとか、そういう新しい経済が出現するのだろうか。
また古代ギリシャ文明がやがて没落していったように、働かない人類は「ダメ人間」になってしまわないだろうか。

その辺の未来予想は、わたしの脳みそでは今のところ結論は出そうにない。
posted by ヤス at 12:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月29日

悪手を避ける

今朝早く、北朝鮮からまた弾道ミサイルが発射されたらしい。
ミサイルはかねてから予告のあったグアム方面ではなく、北海道をかすめて米国本土方面に向かい2700km飛翔した後に太平洋に落下したとのこと。

グアム方面を避けたのはアメリカをあまり刺激しないためのようにも思えるが、なぜこのコースを選んだのかは決定的なことはよく分からない。

北朝鮮としてはアメリカが報復をしないギリギリのところで挑発行為を続けるつもりなのかもしれない。
この「問題」が簡単に収束してしまわないように、できるだけギリギリの線で行動を続けるということなのであろう。

この状態は悲観的に捉えれば軍事衝突の発生半歩手前のものすごく危険な状態であるとも言えるし、やや呑気に考えるならこの辺が新しいバランス点であり、米朝両国は軍事衝突をギリギリ回避しつつ挑発や示威行動をずっと続けていく、という風に考えることも出来る気がする。

次にバランスが変化するのは、死亡やクーデターで金王朝が倒れる時か、弾道ミサイルの迎撃技術が成功率100%になった時だろうか。
ただミサイル迎撃が完璧になっても国境越しに韓国を砲撃などで攻撃されたりするとこれを防ぐことは不可能である。

ということでこの問題に関する限り、ものすごい手詰まり感というのを感じるわけであり、今出来ることは決定的な事態が発生しないようにうまくバランスをとりつつようすを見る、しか無いような気がする。


こんな時に例えば今話題の人工知能を使ったら、どういう選択肢が出て来るのだろうか。
ひょっとしたらアメリカでは問題の分析を人工知能にやらせているのかもしれない。
ただし人工知能というのは、答えを出すための「学習」にあたって数百万規模のデータが無いといけないらしい。
数万くらいのデータでケーススタディをするのでは全然足らないらしいのである。
だから人工知能は周辺的な情報の分析とかには使えるけれど、アメリカが攻撃に最終ゴーサインを出すような決定的な判断というのはたぶん出せない。

そもそもこの世には、「絶対的な正解」というのは存在しない。
だから人工知能に出来るのは唯一の正解を探してくることではなく、どちらかというと「最悪の一手ではない手」を提示することである。
そういうことが最近読んだ人工知能の本にも書いてあった。

そういう意味ではこの事態は何か将棋の勝負にも似ている気がする。

将棋のコツは「悪手を指さない」ことである、とプロ棋士の誰かが言っていた。
将棋では、ここは自分の手番だけれど、出来れば何も指さずにパスした方がいい場面、というのが意外に多くあるという。
現実世界も今将棋の勝負と似たようなことになっていて、最悪の手を避ける視点が必要のような気がする。
そのために、どんな行動が手筋が悪いか、その辺を読むことが今必要なんじゃないかと思ったりする。
posted by ヤス at 11:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月28日

映画「アメリカン・スナイパー」

昨日、Amazonプライムで大枚999円を払ってアメリカ映画「アメリカン・スナイパー」をやっと観た。
この映画はアメリカで2015年初頭に公開された戦争映画である。

舞台は2003年頃(たぶん)のイラク戦争、最初の戦場シーンはファルージャの街が出て来る。
そこに30歳で海軍特殊部隊「ネイビーシーズルズ」の地獄の訓練を突破した主人公クリス・カイルが狙撃兵として味方の海兵隊の援護をしている。

それでクリス・カイルの初仕事が、アメリカ戦車に向ってなにげに接近するイラク人の母親と10歳くらいの男の子の親子を射殺するところである。

母親が丈の長い服の裾から「対戦車手榴弾」を取り出して男の子に渡し、男の子はそれを持って戦車に向って駆け出す。
まずそこにクリス・カイルの初弾が命中して男の子は絶命。
次に母親が地面に転がる手榴弾を拾って戦車に向かうが、手榴弾を投げる瞬間に2発目が母親を貫く。
それが最初のクライマックスである。


この映画を観た後に、Amazonのレビューをざっと読んだのだけれど、平均的に評価は高いが低評価の意見もかなりあった。
低評価意見の概要は、イラク兵のデティール描写がほとんど皆無でアメリカ万歳型の国威発揚映画だと知って落胆した、とかいうものである。

確かに、敵方のイラク兵はほぼ99%その他の雑兵として出演するばかりで、ほとんど顔のアップを写すような表情描写すら無い。
わずかに、敵のシリア人で元オリンピック射撃選手のムスタファがアップになるシーンがいくつかある。
申し訳程度に、ムスタファが嫁と一緒に赤ん坊をあやす場面がちらっと映るくらい。
本来なら敵方の主役として、もっと丁寧に扱って観客のムスタファに対する感情移入を喚起して物語を盛り上げるのが映画の定石であろう。

しかしそれをやらないところがクリント・イーストウッド監督の特徴でありいいところだと思う。
この映画はそういう背景描写や心理描写の雑さも含めて、ある意味徹底したB級映画なのである。

イーストウッドの映画は、初期の頃に比べると最近になるほど有名俳優の出演が減っているように思う。
有名どころを排して制作費を安く抑え、スポンサーの意見に左右されない「作りたい映画」を作る。
その結果が「アメリカン・スナイパー」なのであろう。

だからハリウッド式・マニュアル式のストーリー展開になっておらず、娯楽作品としては戦闘場面の分量も少なめで上映時間も長めの、非常に退屈な作品である。

そして個人的な解釈によると、この映画はおそらく戦争映画ではない。
たまたま戦場で160人をスコープではっきり視認しながら次々に射殺した人間が最終的にどうなるのかを描いた「殺人者」についての映画である。

そういういかにも流行りそうにない映画は、若かりし頃のイーストウッド出演の映画のように、低予算のB級映画であるほうが都合が良い。
とはいっても制作費は58百万ドル、ざっくり60億円だから日本映画とは比べるべくもない。

とにかく個人的には非常に良い映画と思ったし、イーストウッド映画のナンバーワンかもしれないとも思った。
posted by ヤス at 12:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月27日

「らしさ」について

ふと「らしさ」とはなんだろうと思った。
男らしいとか女らしいとか、関西人らしさや日本人らしさとか、いろいろな場面で「らしさ」は使われる。
この「らしさ」のニュアンスの受け止め方については、良い意味に感じる場合とマイナスの意味に思える場合があるのである。

会社で新人がミスをして先輩がその新人をやんわりたしなめる時。
「◯◯さんらしくないね、今後は気をつけようよ」
みたいな使い方は、「らしさ」は良い意味で使われていると感じる。
この場合の「◯◯さんらしさ」というのは、本来のポテンシャルをフルに発揮している状態を指すのであろう。
阪神タイガースの藤浪晋太郎が、突然ストライクが入らなくなるのはある意味藤浪らしいと言えるし、しかし荒れ球なりに要所を締めるのが本来の藤浪らしいピッチングであるはずで、今の藤浪はある面藤浪らしいのに別の面では藤浪らしくない。

そういう、持てる能力を発揮しているか否かの「らしさ」がある一方で、その人の属性、階層、所属などに基づいた「らしさ」がある。
前述の男女別の「らしさ」とか、地域ごとのお国柄による「らしさ」とかである。

この場合は話が少々すんなりとはいかなくなる。
あなたが男性であるとか関西人であるとかいうことは、一定の事実であろう。
しかしだからと言って、あなたが男気に溢れていたりお笑いのセンスに秀でているとは限らない。
しかし、周辺の人々はついついあなたに「何からしさ」を期待してしまうことがあるようである。

多くの人間は心の奥底で、世界がある種の予定調和の下に流れていくことを期待しているのだと思う。
周りの人間の行動とか気候の変化や株式市況とかあらゆる事象が自分の予想の範囲内で変遷していくことによって、人間は心の平穏を保てる面があると思う。

人類の脳みそは、おそらく常に自動的に少し先の未来を予想する性癖があるようである。
その予測能力こそが、人類に生物界における現在の地位をもたらしたのであろう。
そして人類は、深層心理で自動的に予測している未来が次々に現実化すると安心し、反面予想が外れると精神不安定になる。(と思う)

そういう特性があるものだから、人類はいつの間にか周辺の人々に対しても未来の行動を知らないうちに予想しており、密かに予想通りに行動することを期待してしまっている。(と思う)
そういう人類の性癖が隣の人間に対する「らしさ」の期待を生んでいる。

隣の人間に様々な属性を当てはめ分類し、分類結果に基づいてその人の未来予測は行われる。
「この人は関西弁を喋る関西人だから次に面白いことを言うだろう」
という具合に。

しかしそういう属性分類に基づく未来予測は、いわゆる誤った一般化であり著しく論理性を欠く。

色々理屈をこねたわけであるが、「らしさ」を使うときは注意しないといけないなと思うのである。
posted by ヤス at 10:32| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月26日

ゼロ戦の強さについて2

昨日、帝国海軍の戦闘機・ゼロ戦の強さについて少し考えた。
ゼロ戦には、確かに機体強度や生産性などの問題があった。
しかし少なくとも対米戦争開戦当初においては十分すぎる強さを発揮して戦果を挙げた。
問題は戦争後半になって急速に陳腐化して行ったことである。

ゼロ戦の開発要求は、正式には1937年10月5日に提示されたらしい。
この時に設計主務者の堀越二郎も泣きを入れるほど、当時の技術では過酷な性能要求が並んでいた。
主には最大速度、上昇性能、航続距離、空戦性能そして当時他国でもほとんど採用例のなかった大口径20mm機銃の装備要求などである。

この過酷な要求に対し、設計チームは徹底した重量軽減策をもって臨み結果として要求の大半を満たすことに成功する。
それが大戦序盤の快進撃にもつながる。

しかしゼロ戦が強かったのが1942年までの開戦後1年間で、1944年に入るとアメリカ軍の反抗がいよいよ本格化して戦況がにわかに激化する。
その最中に行われたマリアナ沖海戦では、ゼロ戦隊を始めとする海軍航空隊はパイロットの技量不足や数的劣勢もあってほとんど壊滅状態に陥る。

この時に至ってゼロ戦の弱さが次々露呈する訳であるが、ではゼロ戦の当初の開発コンセプトは間違っていたのだろうか。

おそらく守勢に回ったゼロ戦の最大の弱点は脆弱な防弾防火対策だったろう。
それまでは「被弾しなければ良い」という考え方で、実際に相手の弾が当たることがあまりなかったのが、戦争後半になって周りは敵だらけで四方八方から敵弾が飛んでくる状況では、防弾対策の欠如はパイロットを激しく損耗し戦力低下に拍車がかかった。

また米軍機の半分のエンジン出力で速度差がかなり広がり、低い急降下速度制限と合わせて「追いつけない、逃げきれない」状況が増えてそもそも戦闘機としての基本能力を失っていたとも思われる。

だから後知恵で考えるとゼロ戦の能力向上策としては、エンジン換装により出力向上し重量増になる防弾対策と機体強化を実現して飛行速度も上げる、というのが結果的には正解だったろう。
だけれども海軍当局では堀越側から提案があったエンジン換装に対し最後まで決断ができなかった。

しかもそんなこんなで1945年初頭に紫電改が戦力化するまでの約1年間、海軍はほとんどまともに戦えなくなっていたゼロ戦で戦うしかなかった。

その紫電改も、元はと言えば開発会社の川西航空機の自主開発プロジェクトに海軍が乗った結果やっと出て来た機体である。

これは個人的推測だが、つまり大戦後半の帝国海軍はほとんど戦意を喪失していたということなのではないかと思う。
だから海軍上層部では戦争に勝つこと、または有利な講和条件を引き出す状況づくりとかを考える向きが皆無で、ゼロ戦の戦力低下はそのような海軍の心理状態をそのまま表していたのではないかと思うのである。

戦争というのはやるからには本気で勝ちにいかないといけないし、勝てそうにないなら始めてはいけない。
それが孫子の兵法以来の戦争の定石なのだろうが、しかし帝国陸海軍(というか政府)にはその辺の判断能力がなく、実はそれが日本古来の伝統なのではないか、と思ったりするのである。
posted by ヤス at 12:05| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月25日

ゼロ戦の強さについて

どうでもいいことだが、帝国海軍の零式艦上戦闘機の強さについて考えている。

零式艦上戦闘機、すなわちゼロ戦は1940年に対中国戦争に投入されてから1942年頃までは間違いなく世界最強の戦闘機であったようだ。
それが1943年頃を境に急速に勝てなくなって行く。
それまでは圧倒的なキルレシオでアメリカ軍機と戦っていたのが、急に逆転されるのである。

ゼロ戦の設計思想についてはこれまでにたくさんの議論がなされており、賞賛と批判と両面がある。
賞賛の声ついては、基礎工業力が未熟な1940年当時の日本においてとりあえず世界最強の戦闘機を開発し、空母に乗せて各地を転戦し、多くの戦果を挙げた事実に対してであろう。

一方の批判意見としては、機体強度が軍事用の「戦う道具」としてはあまりにギリギリの線で設計されている点。
また燃料タンクの防弾防火や操縦席周りの防弾装備が全くの未装備である点などであろう。
機体の強度不足は、何度かの空中分解事故にもつながっている。
さらに急降下速度制限が同時代の米軍機に比べて非常に低く、旋回で敵を追い詰めても急降下で逃げられるという問題点が、ゼロ戦関係の書籍を読むと度々出てくる。
あるいは重量軽減用に構造部材の至る所に肉抜きの「穴あけ」が行われており、これが生産性を著しく阻害していたこともよく問題として取り上げられる。

しかし急降下速度や防弾装備の欠如は、日本海軍が攻勢を保っているときはあまり問題にならなかった。
それが1943年以降に米軍が新型機を繰り出し、またゼロ戦対策として編み出したサッチウィーブ戦法と呼ばれる編隊戦法を徹底するようになるとかなり分が悪くなった。
やがて量的にも日本軍は常に圧倒されるようになり、歴戦のベテランパイロットもどんどん戦死してゼロ戦はただの鈍足の旧式機になってしまう。

そして、本来なら1944年初頭頃に後継の新型機が出てしかるべきだったのが、1942年10月に次期艦上戦闘機「烈風」の開発が始まったばかりで実用化の目処は全く立っていなかった。

一方の陸軍は、開戦当初の主力機「隼」はゼロ戦に対しやや性能不足だったが、二式戦「鍾馗」、三式戦「飛燕」、四式戦「疾風」と異なるコンセプトの新型機をコンスタントに投入している。

この陸海軍の開発ペースの違いがどこから来たかということである。
わたしの憶測では、海軍は対米戦争として1年程度の短期決戦しか想定していなかったというのが大きく影響したのではないかと思う。
山本五十六あたりは、戦争が長引けばそれはすなわち日本側の負けを意味すると思っていたのではないか。

だから当時の技術水準でギリギリ到達可能な極限性能の兵器を用意して、開戦したら一気呵成に勝つ。
そういう思想の元にゼロ戦の開発は行われたのではないか。

また、帝国陸軍は兵器性能が劣るのを兵士の「敢闘精神」でカバーし、その一方で海軍の方はマニアックに高性能化した兵器性能に頼る傾向、というのも影響したのではないかと想像したりしている。
posted by ヤス at 15:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月24日

ホンダジェット、カテゴリー首位に

自動車会社のホンダが(というか関連会社が)開発製造し、現在絶賛販売中のホンダジェットが2017年上半期に小型ジェット機の販売シェアで、約4割を占めてトップに躍り出たらしい。
ライバルは2000年代初期にデリバリーが開始されたセスナの「サイテーション・マスタング」やエンブラエルの「フェノム100」だという。

ホンダジェットも含めてこれらの機体は、パイロット2名プラス乗客5〜6名でジェットエンジン2発、全長・全幅12m余りの機体サイズの超軽量ジェット機という分類になる。

ウィキペディアで調べると、サイテーションやフェノム100以外にも主要な超軽量ジェット機の一覧が出ている。
この表には巡航速度や航続距離、機体価格なども載っているのだが、これを見るとホンダジェットの特徴は最大巡航速度が他より際立って速いこと、そして値段が一番高いことである。
航続距離は大体どれも2000km程度で大差ない。

値段は、ウィキペディアには「$3.65m」と出ている。
365万ドル、今のレートでちょうど4億円。
他は、セスナのサイテーションが$2.65m、エンブラエル・フェノム100が$3.6mである。
値段的にはベストセラー機のセスナが安く、エンブラエルはややエンジン出力が大きくその分速度性能が上で、値段も高い。

ホンダジェットのエンジンはさらに高出力で最大巡航速度は778km/hと、セスナ630km/h、エンブラエル704km/hよりだいぶん速い。
セスナで1000km飛ぶと単純計算で1時間35分かかるところがホンダジェットでは1時間17分で着く。
しかもホンダジェットのエンジンHF120はホンダが自主開発したものをジェットエンジンのトップメーカーGEとの技術提携で実用化した新型エンジンで、燃費は従来機より40%向上しているという。

さらにホンダジェットの最大の特徴はそのエンジンの搭載方法で、通常双発の小型ジェット機では2発のエンジンを胴体後部、尾翼の少し前に横向きの支持ブームに固定する方法をとる。
それがホンダジェットでは主要付け根の後端に縦向きの支持ブームを介して装着している。
こうすると空気抵抗的に有利なのと胴体を貫通する構造物がなくなって内部容積を有効に使えるらしい。

ということであるが、ホンダジェットは数々の新技術を導入された新型機なので性能的に従来機を上回るのはある意味当たり前なのである。
また、サイテーション・マスタングもフェノム100もデビューから3年後くらいがデリバリーのピークで年間約100機に到達している。
その後徐々に機数が落ちていってデビュー10年くらいで年間10機くらいのペースになるようだ。

そういう「デリバリー曲線」がこのマーケットの一般的な特性なのであろう。
するとホンダジェットが2015年12月24日の初デリバリーから2年程度経って、年間製造数が100機ペースになったとして、それは理想的な成功のパターンではあるが想定を大幅に超える事態である、とまでは言えないのだろう。

ホンダジェットの成功は、ピークの製造ペースをどれくらい長く維持できるか、そして派生型の開発でより幅広く市場を押さえて行くことができるかどうかを見るまでは決して油断はできないのである。

まあしかし、ホンダジェットが成功への第一歩を歩み始めたこともまた確かだろう。
三菱のMRJもぜひホンダの後に続いて欲しいが、こっちはちょっと「不成功」への道を確実に歩んでいるようでかなり心配である。
posted by ヤス at 08:37| Comment(2) | 徒然なるままに