2017年07月08日

退屈の感覚について

毎度のことながら、どうでもいいことをまた考えている。
それは「退屈の感覚」についてである。
人間はふとした瞬間に退屈を感じる。
これはなぜであろうか。

以前に何かの本で人間の脳みそは日常的にある程度以上の負荷を与えていないと退屈を感じる、みたいなことを読んだような気がする。
それはマグロが泳ぎ続けていないと息が止まるとかいうのと同じことなのだろうか。
人間の脳みそは、何しろ眠っている時でも夢を見るくらいに四六時中活発に動いている。
あるいは自分で思っている以上に自分の脳みそは勤勉であるのかもしれない。

注意しておくべきなのは、ここでいう脳みそとは大脳皮質と呼ばれる高等哺乳類などで特に発達している部位のこと、ということである。
人間の大脳皮質は容量・機能とも全生物の中で突出して発達しているとされる。
その大脳皮質が退屈を感じるのである。
ということは、人間よりは幾分か大脳皮質が小さい犬や猫もそれなりに退屈しているということだろうか。

実際、犬や猫を眺めていると、生存活動とは全然関係のない「遊び」を行なっているような場面がしばしばある。
あれは彼らなりに退屈して暇つぶしをやっているのであろう、と勝手に推測する。

ところで、退屈を感じるということでひとつ思いついたことがある。
それは退屈は、時間の流れを体感するというところに通じるのではないかということである。
人間、何もすることがない暇な時は死ぬほど退屈である。
一方で、趣味に没頭している時とかゲームに熱中している時など、一時的に時間が止まる。
あるいは、締め切りに追われて寝食を惜しんで仕事に励んでいる時などは暇な時の30倍くらいの速度で時間が経過する。

退屈を感じている時というのは、やや哲学的に表現するなら無為のうちに己の寿命がすり減っているのを感じている状態と言える。
一方で忙しくて時間が足りない状況というのは、寿命がすり減っている間を有為の時間で埋めることができている状態である。
そのように考えると、退屈という感覚を軸にして人間は時間の経過を感じていると思わざるを得ないのである。

一方で趣味に没頭している時というのはその時間感覚が麻痺している状態と言える。
それは生物的機能の停止という意味で後ろ向きに捉えることもできるだろうが、前向きには寿命の感覚からしばし自由になれた、という風に考えることができるのかもしれない。

いずれにせよ長い進化過程で人間が退屈を感じるようになったというのには、生存競争的にそれなりの意味があるものと思われる。
言い換えると時間に敏感な生き物であることが、人間の生物としての繁栄を支えていると思ったわけであるが、それ以上の考察は、字数が尽きたのでまた今度にする。
posted by ヤス at 14:02| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年07月07日

人に迷惑をかけない

最近、「人に迷惑をかけない」というマインドセットに対する批判をたびたび聞くような気がする。
人に迷惑をかけないというのは、おおよそ日本における家庭教育の共通理念だと思う。

人に迷惑をかけないことは迷惑をかけるよりは望ましいことであり、わたし自身もたまに迷惑をかけられるとその程度によっては腹が立つこともある。

だから日本の各家庭で、人に迷惑をかけたらダメだよと子どもに教育していることは妥当性があることのように思われる。

しかし考えてみると我々の人間関係においては、人に迷惑をかけた、かけられた、という場面がしょっちゅう出現する。
別にみんな意図して迷惑をかけようとしているわけではない。

例えば営業マンが寝坊して遅刻して商談を失敗させて会社に損害を与えたりすることもあるかもしれない。
または病気になって長期入院して、その間収入が途絶えて全面的に家族や友人の世話になることもあるだろう。
前の例の営業マンの場合は明らかな過失であって、これは他人に迷惑をかけるなというマインドセットがそもそも想定しているケースに入るだろう。
一方で病気で周辺に迷惑をかける、というのは必ずしも本人の過失とは言い難い。
誰しも病気になる可能性はあり、その場合大なり小なり人に迷惑をかけてしまう。

あるいは、例えばプロ野球選手の場合。
プロ野球選手はシーズン中は遠征も多く生活時間も不規則、食生活も大変だ。
プロ野球選手の奥さんになったりすると、かなりの努力や我慢を強いられるだろう。
それを迷惑と言ってしまっていいものかどうかよく分からないが、何かを猛烈に頑張っている人の周辺の人々は、往々にしてそれを支える努力を強いられる。

しかしまたまた考えてみると、プロ野球選手並みに激しく頑張っているわけではない普通の人でも、影に日向に周辺の人々の支援を受けているものである。
そしてそういうお世話になっている人々に、時々は「過失」による迷惑をかけたりすることもあるけれど、そこは日常からの人間関係で許してもらえる。

そうやって考えてみると、人間が周辺の人間に迷惑をかけたりある種の努力を強いたりするケースはかなり普遍的に存在するようにも思われる。
さらに言えば、何かでっかいことをやろうとしている人というのはだいたい周辺に多大の迷惑を撒き散らしているものである。

そういう中で「人に迷惑をかけない」というマインドセットがあまりに独り歩きするのは、世の中の挑戦する気分を損ねる心配がある。

だから本当は、「人に迷惑をかけない」という教育を子どもたちにするよりも、「人に上手に迷惑をかけよう」というように教えたほうがいいんじゃないか。

そうすれば、人生でずっと迷惑を撒き散らし続けている人にも立つ瀬があるっていうものだろう、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:00| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月06日

プロの給料

この間、公益社団法人日本将棋連盟の財務諸表を見たが、そういえば日本にはもう一つ伝統芸能的に継承されて現代においても活動盛んな日本相撲協会があるのを思い出した。

日本相撲協会の財務諸表は将棋連盟と比べてどうなのだろう。
相撲協会は正式名称「公益財団法人日本相撲協会」だそうである。

まず貸借を調べてみる。
将棋連盟は総資産22億円、現預金残高4億円だったけれど、相撲協会の方は総資産440億円、現預金残高55億円と一桁サイズが大きい。
損益にあたる財産増減計算書というのを見てみると、売上に該当する経常収益が相撲協会は120億円。
対する将棋連盟は27億円だった。
将棋連盟が地方の中堅企業とすると、相撲協会は東証2部上場の全国企業くらいの違いだろうか。

将棋のプロ棋士が160名いるというのは今回初めて知ったのだけれど、相撲取りは何人いるのか。
調べてみると2017年3月現在で692名いるらしい。
そのうち幕内が42名、十両が70名だそうである。

相撲協会の損益表では人件費関係が事業費と管理費に分かれている。
多分事業費に載っている給料や力士等奨励基金などが力士に支払われる給料に相当するのではないかと勝手に推測する。
それら事業費の人件費はおよそ59億円ほどなので単純に力士692名で割り算すると850万円くらいになる。

ちなみに別の情報源では横綱の年間給料は4500万円、大関3700万円、前頭2000万円で十両でも1600万円だそうである。
それ以下はスズメの涙で幕下が年額で90万円、序の口では42万円。
力士は基本部屋に住み込みで三食付きなのでこれでも生きていけるのだろう。

一方で将棋連盟の棋士に渡るお金は、多分こちらも事業費に載っている対局料と賞金であろうと見当をつける。
合わせて12億円ほどである。
棋士160名で割ると750万円である。
ただこちらも一番稼いでいると思われる羽生三冠が約1億円くらい取っているらしい。
それ以外にもタイトル戦の本戦に進むと対局料が予選の1局5万円から50万円くらいに上がるし、決勝進出やタイトル獲得でかなりの賞金が出る。
一方一番下位の方の棋士は1局5万円の対局を年間30戦くらいして150万円とかいう人もいるのかもしれない。

それでも相撲の序の口よりはいいと考えられなくもない。
ただしこちらは原則三食付きではないが。

いずれにせよ、プロの世界は上位と下位で差があって厳しいのである。
posted by ヤス at 10:00| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年07月05日

アジアインフラ投資銀行について

AIIB=アジアインフラ投資銀行に関するニュースが最近もいくつか流れている。
中国が主導するこの枠組みは2014年10月に設立され、かつての「シルクロード」沿いの地域のインフラ開発を目的に作られた。
AIIBの構想について、これを主導する中国は「一帯一路」というのを出している。
800年前にマルコ・ポーロも通ったヨーロッパから中国に至る陸のシルクロードが「一帯」で、アラビア半島・アフリカ東岸からインド洋、東南アジア地域を経て中国に繋がる海のシルクロードが「一路」ということらしい。

設立時の資本金は1000億ドルというからおよそ11兆円、2017年時点で日本とアメリカは入っていないがヨーロッパ主要国は英仏独など含めてあらかた域外加盟している。
ついでに言うとカナダとブラジルも参加しているらしい。
オーストラリアなんかは域内主要メンバーの一つである。
さらに言うと、台湾と北朝鮮も参加申請したがこれは多分中国の意向で申請が拒絶されている。

このAIIBに関しては、日本における取り扱いはかなり微妙な感じである。
またちょっと前に宇宙人・鳩山由紀夫元総理が顧問に就任したことがかなり批判の的にされたこともあった。
また日本の場合、アメリカと共同で出資しているADB=アジア開発銀行というのがあって、AIIBに入るとこれの立ち位置が曖昧になるというのもあったのかもしれない。
それと一番大きいと思うのは、日本の同盟国のアメリカが入っていないこと。

おそらく日本が参加する場合は、アメリカと同時参加か後追い参加になるのだろうと勝手に思っている。

日本ではネトウヨの人々に限らず中国アレルギーの空気がかなり根強いので、これも参加の障害になっている。
しかし日本とアメリカが傍観しているうちにAIIBの活動は確実に前に進んでいるようで、特に今力が注がれているのが中国の新疆ウイグルからパキスタンに抜けるルートの開発だそうである。

この沿線は、国内にテロ組織の温床をたくさん抱えて国際的批判にさらされているパキスタンがありその隣にアフガニスタンがあり、イランを挟んだ先には対ISの激しい戦闘が続いているシリアやイラクがつながっている。
この地域に投資を行って経済的な発展が実現すれば、世界の大問題であるテロ問題の根本的解決になる可能性があるような気がする。

そしてこの地域に縁が深いイランやロシア、トルコにサウジアラビア、インドなども軒並みAIIBに参加しているのである。
これらの国々はそれぞれの関係は必ずしも友好的ということではないが、とりあえずAIIBを通じた協力関係は出来上がりつつあるようである。

さて、AIIBに関して日本は(というかアメリカは)今後どのような方向でいくのだろうか、とちょっとだけ考えてみた。
posted by ヤス at 09:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月04日

ネットの評価について

たまに東京とかに遊びに行くと、どこでメシを食ったらいいか迷う。
そんな時は食べログとかぐるなびとか、いわゆるランキングサイトを見て店を選ぶことになる。
なるべく口コミの書き込みが多くて、それもステマっぽくないやつはないか。
場合によっては厳しい書き込みがあっても、それを補うに十分な良い評判があればむしろそっちの方がリアルな評価の感じがして選択に値する可能性だってあるだろう。

何はともあれ単純に点数が高くて評価の高いのが「当たり」の店と断言出来ないところがランキングサイトの難しさであり、ある意味面白いところでもある。
しかし実際のところ、現代ニッポンでそんなに大ハズレの店を選ぶのは稀だと思う。
むしろハズレの店に当たった方がSNSのネタになってラッキーかもしれない。

つまり、どこにどんな店があるかという基礎的情報を収集するにはこれらのランキグンサイトは非常に便利だと思うのだが、その店が自分にとって良いか悪いかは結局のところ入って試してみないと分からない。
目当ての店にたどり着いたら、まず外から店の佇まいをぐっと睨んでどういう料理が出てきそうかを想像するしかない。
その辺りの作法はネット社会以前とそんなに変わらないと思う。

ランキングサイトは、店選び初期段階の情報収集作業をかなり便利にしてくれたけれど、最終的にその店に入るかどうかの判断をするところは昔とそんなに変わらないのである。

このような考え方、つまりランキングサイトは店選びの決定打になり得ないというのは、店の側に立っても同じようなことが言えると思う。

口コミに思いがけず悪い評価を書かれると、店の人間としては当然気分は良くない。
少しメンタルの弱い人なら、そういうのを見たらひどく落ち込むこともあるだろう。
しかしそこそこ真面目に商売をやっている店であれば、そんなに気に病む必要はないのである。
まあ実際、お客によっては単純に悪い評価を気にしてその店をパスする、という人も多いかもしれない。
だがそういう客はそれなりの思慮の浅い客なんだから重視する必要もあるまい。

さらに別の客においては、虚実入り交じるネット評価の裏読みをして、その悪い評価をむしろ参考材料として選択側に心が傾くことだってあるに違いないのである。
例えば「量が少なくて腹一杯にならない」というような評価は、歳を食って胃袋のキャパが縮小したオジサンには好ましい情報かもしれない。

世の中のクレームとか悪い評判とかは、それが全顧客中の2〜3%の人の意見であっても、まるで過半数の意見であるかのように増幅して聞こえてくるものだと思う。
ということでネット情報はかなりの程度鷹揚な心構えで利用するのが適切であるなあ、と思う今日この頃であった。
posted by ヤス at 14:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月03日

7月2日

昨日はなかなか激動の一日であった。
まず、公式戦29連勝中の藤井聡太四段がとうとう初の一敗を喫し、また東京都議選で都民ファーストが大勝、自民党が歴史的惨敗に終わる結果が出た。

藤井聡太四段と佐々木勇気五段の一戦はAbemaTVで途切れ途切れに観たのであるが、中盤以降は佐々木五段が終始圧倒したようである。
おそらく今回はかなり時間を割いて藤井対策を練ってきたのだろう。
わたしの想像としてはプロ棋士の世界は一年目の新人でも十年、二十年のベテランでも実力は拮抗しており、勝敗の要因はどれだけ相手の戦法を研究し有効な対策を準備できるかという部分に追うところが大きいように思う。

佐々木五段はその辺りの対策の立て方がかなり徹底的であったことが今回の勝ちにつながったようである。


さて一方の都議選。
こちらは自民の苦戦がある程度予想されたわけであるが、ふたを開けるとその予想を超える惨敗だった。
選挙前に立て続けに起きた国政自民の醜聞報道が逆風になったことは間違いない。
しかしそれ以前に都政自民党のオリンピックや築地移転問題に絡む利権疑惑が根底にあったこともまた事実であろう。

今回の都議選で分かったことは、現在の自民党はその実、政治基盤が決して盤石ではないということで、特に今回の都民ファーストのように有力な対抗勢力が現れると途端に票を失う、そのような脆弱性が明らかになった。

そしてもう一つ、地味に議席を減らした民進党。
本来は逆風に苦しむ自民に対し、反対票の受け皿になるべき存在だったはずなのに全く見せ場なく終わった。
今後都民ファーストが国政に打って出るという噂も流れているけれど、せっかく旧維新とくっついて勢力を増強したはずだったのに、党勢が回復する兆しが全く見えない。

次の総選挙は一年半以内に確実にやってくるわけであるが、今のままの民進党では存在意義が感じられない。
この調子で行くと逆風に喘ぐ安倍政権の対抗馬は自民党内部から出てくるか、都民ファーストの国政版(その場合党名は何になるのだろう)とかになって決して民進党にはならないだろう。

民進党は一旦解党して数を減らしてもリベラル寄りで出直した方がいいような気がする。

何にせよ絶対得票率25%に過ぎない現政権のアキレス腱がことのほか露骨に明らかになった都議選だったと思った。
posted by ヤス at 08:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月02日

盤石の財務内容

さて、先ほどいよいよ藤井聡太四段と佐々木勇気五段の将棋の竜王戦2回戦が始まった。
佐々木勇気五段はジュネーブ生まれのイケメンが話題になっていたが、将棋連盟のサイトで確認したところ今期の勝率7割8分の実力派でもある。

メディアでは「目力」がスゴイということになっているらしいが、確かに甘いマスクにやや不釣り合いな不敵な勝負師の面構えでいかにも強そうな感じがする。
対する藤井聡太四段は、いつもの通り茫洋とした、集中しているんだかいないんだか分からない、捉えどころのない感じで、30連勝も意識しているのかいないのかその表情を見ているだけでは判別がつかない。

これが小説や映画なら、ぼーっとしている方が戦ってみたら実は強い、という筋書きになるのかもしれない。
しかし現実の藤井聡太四段は、先手佐々木五段の初手目に続く藤井四段の2手目、すぐに駒に手を動かすのかと思ったら数分考え込んでその後さらにもったいぶってゆっくりお茶を一口すすって、そのあたりの仕草が百戦錬磨のベテランのようにも見えた。


ところで連盟のサイトを見ていたら財務諸表が公開してあって、ちょっと興味が湧いたのでチラ見してみた。
それによると、一般企業の売上に当たる連盟の経常収益は昨年度が約27億円。
収益は大きく3種類で、一番大きいのが事業収益の26億円、次が会費・入会金が5千万円弱、続いて寄付金・補助金などが5千万円弱。

さらに事業収益は棋戦等契約金などの契約金が約20億円。
それ以外の事業収益は普及事業、賃料収入、物販売上などである。
物販売上は売上収益として内訳も出ていて、出版関係27百万円、盤駒売上33百万円、扇子売上38百万円、書籍売上26百万円、その他売上が43百万円である。
最近話題の藤井聡太四段のクリアファイルや新発売のジグソーパズルはその他売上に集計されるものと思われる。
また、盤駒より扇子の売上の方が大きいのはやや驚きである。

ネットで検索してみたところ、日本の「扇子・うちわ」の市場規模は約80億円らしいので、将棋連盟の扇子販売量はその0.5%に相当する。(多いのか少ないのか評価がよく分からない)

貸借対照表を見ると総資産22億円、企業風に言うところの自己資本である正味財産は16億円弱。
なかなか手堅い内容なのである。

さらに見ていると資産のところにある土地1億8千万円とあるのは、東京、大阪、札幌の将棋会館だと思うが、国立競技場にほど近い東京千駄ヶ谷と大阪の梅田駅すぐ近くの将棋会館の土地は結構なお値段だと思うのでその含み益も想像すると将棋だけに盤石のバランスシートだと思った。
posted by ヤス at 11:19| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年07月01日

謙虚の教訓

日本中の薄毛のオジサンを敵にまわした国会議員のおばさんが話題になっている。
このおばさんが東大とハーバード大を出たエリートで、しかも新人議員としてもまあまあ出世街道を走っていたということでバラエティ番組的なネタ要素も豊富、実際いいネタとして各番組で重宝されているようである。

それでその暴言・暴行現場の録音データが絶えることなく聞こえてくるわけであるが、録音を聞いて思ったのはその暴言の淀みの無さ、発声の確かさなどであった。
まあ仕事が議員で普段からしゃべり慣れていることもあるのだろうが、しかし暴言時の台詞回しの滑らかな感じを聞いていると、このおばさんはもうずっとこの調子で豊かな声量でわめき散らすことを続けていたのだろうと想像してしまう。

しかし誤解を恐れずに言えば、こういうパワハラ的な事象は例えば国会議員と秘書の力関係の中では往々にして生じやすいことなのではないかと思う。

生き物として別の個体よりも優位に立つことは、例えば食料の配分とか異性の獲得などに多大の影響を及ぼす。
だから優位に立ちたい気持ち、そして優位に立ったことの「示威行動」はきっと動物的本能なのである。
このような本能は、きっと世の中の多くの人間がそもそも誰でも持っている特性であると思う。

しかしまた、多くの人は本能とは別の理性の部分で、そのような野生の本能に対し「はしたない」「下品」などと思ってぐっと気持ちを押しとどめるのであろう。
あるいはまた別の理性回路を働かせて、そのような暴虐の限りを続けていれば秘書仲間ネットワークを通じて悪い噂が静かに広まり、表舞台のふるまいとのあまりのギャップからいつか悪い作用を起こして手痛いしっぺ返しを食らうのではないか、そういう見通しだって出来ただろう。

このような野生の本能を統御する術としては古来「謙虚」の姿勢が推奨されていて、将棋の藤井四段などは14歳にして完璧な謙虚さで世間の支持を獲得するに至っている。

そういうことで結論としてはあの議員のおばさんは結果としてものすごく頭が悪かったと言わざるを得ない。
本来知能指数高く、潜在的には先々を見通す十分な能力も持っていただろう。
しかしそのような理性的能力を封じ込めてしまうほどに「野生の本能」は麻薬的な力を発揮することがあるとうことである。
我々も気をつけないといけない。

ということで、勝って驕らず会見の場でも的確な言葉を選びつつ話が出来る藤井聡太四段は、本当に偉いなあというのが、今日の結論。
posted by ヤス at 15:32| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月30日

ビットコイン

最近、ビットコインがちょっと大変らしい。
来る今年の8月を境に規格が分裂する危機にあって、このタイミングで、ビットコインを今まで持っていた人々が他の仮想通貨に乗り換える動きを見せているらしい。
実を言うとわたしも昨年、ほんのちょっとだけビットコインを買ってみたのだけれど、その相場の乱高下で眼が回りそうになって、こんなに相場が動くんじゃおちおち買い物に使ったりも出来ないなあと思ったりしていたところだった。

わたしがビットコインに投資した金額は、まあ小学生のお年玉くらいの規模にすぎないが、しかしビットコインは買ってはみたものの、当然のことながら保有している感覚はほとんどない。
売り買いもせず、仲介業者にお小遣いを少し預けているだけなので、現状実質的にはお小遣いを騙し取られているのとあまり変わりはない。

しかし冒頭のような不穏なニュースを耳にすると、ここいらであっさり売却処分した方がいいのかな、それとも最初から実験のノリで買っているわけであるから、ビットコインが分裂し、消滅して雲散霧消するところまでとことん付いて行った方がいいのかな、などと迷ってしまう。

だが仮想通貨というのは、名前に違わずなかなかに「実感」の薄い通貨であるように感じられる。
しかし考えてみると「貨幣」というものは本来そういうものだったのかもしれない。

なにせ日銀でせっせとお札を刷っても、日本の物価がほとんど反応しないというくらいに、今や日本円の存在もかなり怪しい感じになっている。
(ちなみに実際の市中の貨幣流通量はあまり増えていないので、言うほどお札は刷っていないと思う)

しかし一方で、何はともあれ現代社会は「貨幣社会」である。
給料は年貢米ではなく日本円で支払われ、ものを買うにも貯金をするにも貨幣がその土台にある。

だが今の貨幣社会は金本位制でもないし、世の中に出回っている福沢諭吉や夏目漱石の柄の紙切れの背後には、何かちゃんとした物質的な「実質」のようなものは何もない。
敢えて言えば貨幣の発行元の「信用」を、貨幣を使う人々が信じているだけのことだ。

そうやって考えるとビットコインも日本円も大した違いはない。
大した違いはないというのは、どちらもまあそれなりにちゃんと信用出来そうだというよりも、ビットコインも日本円もどちらも大した実態はない、ということである。

ということで、その最後を見届けるためにも、小遣いを投じたビットコインは売らずに置いておこう、となんとなく思ったのでした。
posted by ヤス at 10:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月29日

手段に生じる自我

手段と目的は、しばしば混同され、入れ替わり、手段が目的を乗っ取る、ということが起き易い。

例えば日本における官僚機構がその例としてよく引用される。
日本の官僚、とくに国家の高級官僚は学歴も一流で頭が良い。
しかもその大半はいわゆる善人である。
よくは知らないがたぶん9割以上が善意の人で真面目に仕事に打ち込んでいるに違いない。
にもかかわらず、今日の日本では官僚機構に端を発するさまざまな弊害が存在するように見える。

大きな弊害として、岩盤規制がある。
大学の設置許認可は強力な規制の枠で固められており、新設は至難の業である。
大学新設の前に立ちはだかる固い守りを官僚が担っていて、それがある特定の業界団体の利益に結びついたりしている。
そしてそこにいわゆる天下りの余地が生じている。

こういう官僚の利権がらみの岩盤規制が日本の場合数限りなくあって、日本が右肩上がりの時代、まだ元気が良かった頃はそんなに問題にされてこなかったけれど、世の中の利益の総量が減りつつある今の時代では、だんだん社会的に許容されなくなっている。

しかし依然として規制は減らず、政治も掛け声だけは威勢がいいが実効として規制廃止に向っているかというと疑問である。


なんでこんな事になるのか。
官僚機構というのは、考えてみるまでもなく日本国家を運営するための手段としてのシステムであった。
これは例えがあまり上手くないかもしれないが、運送会社における運送手段としての「トラック」のようなものである。
これは最初の頃は性能も十分で、とても役に立っていた。
しかしこの「トラック」に知らない間に密かに「自我」が芽生えていて、本来なら人間の運転するままに動くだけの存在だったはずが、「トラック」自らの意思で勝手にいろいろと行動するようになっていたという話だ。
こんなことが実際の運送会社で起こっていればホラーであるが、今の日本の官僚機構の動きはそれに近いと思う。

しかも時代が進んでこれからはトラックじゃなくて無人ドローンの時代だとなった時に、「トラック」には自我が芽生えているので自己保存の本能から廃車になるまいと抵抗を始めるかもしれない。

本来無機物であるはずの「トラック」に「自我」が芽生えるとものすごくややこしくなるわけだが、どうせ自我が芽生えるなら、「ターミネーター2」で親指立てて溶鉱炉に沈んでいった「T−800」型のように本来の目的をわきまえた、手段としての自覚を備えた「自我」であって欲しい、と思った。
posted by ヤス at 10:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月28日

将棋が面白い

さて、ニュースとしてはやや落ち着いたようであるが、将棋における藤井聡太四段の29連勝がついに達成された。
わたしも将棋の内容はチンプンカンプンながら、対局の様子をAbemaTVで夜の8時半頃から投了までつい観てしまった。

で、今さらながらだけれど将棋の世界というのは面白いと思う。
将棋界には160人ほどのプロ棋士がいるそうだが、それらの棋士が8大タイトル(少し前までは7大タイトルだった)をかけて熱い戦いを繰り広げる。
また女流棋士というのもあって、若くてきれいなお姉さん方が難解な棋戦に臨む姿は、そのギャップから非常に萌える。

また棋士の面々はどの人物もかなり癖があって、中にはわざわざ強めのキャラ設定を自ら行う棋士もいたりして、そのあたりのエンターテイメント性がかなり秀逸なのである。

またひとつ感心するのは、最近の藤井四段フィーバーでテレビのバラエティ番組などにも何人も棋士が登場するようになっているのだが、それらの棋士がちゃんとしたテレビタレントとして「出来上がっている」ことだと思う。

これは、各棋士とも普段から持ち回りで対局解説をやっていてしゃべりがこなれているということが大きいのだろう。
特に将棋の勝負は、持ち時間の長い対戦の場合は一手打ってから次を打つまでに1時間も2時間もかかることがあったりして、その間「解説トーク」で番組をつなげないといけない。

ともすれば間延びしてつまらなくなる可能性が高いところ、次の指し手予想とか今までの棋譜のおさらいとか、対戦者の人物紹介とか、全然関係のない解説者個人の面白話とかいろんな話題でつなぐことによって棋士たちのトーク能力は自ずと高まっていくのだろう。

わたしがパラパラと将棋の動画をネットで観ていて個人的に面白いと思ったのは、「藤井システム」でおなじみの元祖フジイ、藤井猛九段である。
他にも、わたしのような初心者にも非常に分かりやすく指し手の解説をする人とかいてなかなかに面白く飽きないのである。

そういえば最近テレビで引っ張りだこの加藤一二三九段も、若干滑舌が悪いのはご愛嬌だが、そのトークの面白さはとても70歳代後半のおじいちゃんのそれではない、テレビ的な切れ味鋭さがあると思う。

そういうことで将棋コンテンツはニコニコ動画なんかでもゲーム、政治と並ぶ三大コンテンツに並び称されるほどのポテンシャルを持っているわけだが、個人的には若干心配な点が少し有る。

それは将棋ビジネスの経済構造がかなり新聞社のバックアップに依存している点である。
これは長らく将棋コンテンツを新聞紙面で活用してきた経緯からある意味しょうがないわけであるが、新聞の購読部数減少による将来の利益減少を考えた時、新聞マネーに依存しない将棋界のあり方というのを今から準備しておく必要があるのだと思う。

まあ将棋のコンテンツパワーを考えると、収益化の可能性はたくさんあるのかもしれないが。
ということで藤井四段の今後についても注目していきたいと思う今日この頃であった。
posted by ヤス at 12:12| Comment(3) | 徒然なるままに

2017年06月27日

ややこしい妄想

さて、今日も性懲りも無く昨日の続きを書く。

昨日、人間は他の生き物と同じくDNAの入れ物に過ぎないという考え方について書いた。
DNAと呼ばれるタンパク質の塊がいつ頃誕生したのかは知らないが、DNAはその誕生以来ひたすら自己複製を続けて今日に至っている。
そして自己複製に必要な材料のアミノ酸を最初は適当に手近にあるのを使っていたのだろうが、そのうち材料を自分自身で作った方が効率がいい、ということで光合成とかが始まったのだと思う。

いや、都合がいいから光合成を始めたというよりは、ただひたすら無心に自己複製を続けながら色々とやっているうちに、たまたま光合成の能力を身につけてしまった、そういう個体がたまたま出来上がったのだと思う。

言うまでもなく自己複製能力の高い個体は、その後に繁栄し数が増える可能性も高い。
何億年も自己複製をしているうちにたまたま光合成能力を身につけてしまい、あるいは単細胞から多細胞化したり個々の細胞が色々と機能分化したりしながら、自己複製能力の高い個体がどんどん増殖していった。

そのうちあるものは植物になり他のものは動物になりして、「DNAの入れ物」は多様化の一途を辿ったものと思われる。

その中の一派が、脳機能が肥大化したところに特徴を持つ人類と呼ばれる動物である。
この動物はものを考えたり憶えたりするのが得意なことによって他の生き物に比べて高い生存性と繁殖能力を維持している。(今のところは)
さらにこの動物の得意技としては、複雑な推論能力、道具の製造能力を持っていて、生物的な進化の次元を相当に超越した「自己進化」の能力を持っていることである。

この動物は「自我の芽生え」からせいぜい数十万年ほどで他の野生動物的な暮らしぶりから卒業して、人工的な「人類的社会」を築き上げるに至った。
そして「人類的社会」の開始からせいぜい1万年ほどの後に、シリコン半導体による電気仕掛けの機械によって、この動物が「AI=人工知能」と呼ぶところのモノを創造した。

さて、AIを発明するに至った人類という名の動物は、それでもやはり実のところはDNAの入れ物であることに変わりはない。

少し視点をずらして考えると、人類というのは、DNAが意図せずに40億年かかってたまたま作り上げたDNAにとっての人工知能である、と言えなくもない。

ということは、別途人類が最近になって創造したAIは、DNAが創造した「人類という名の人工知能」の作品であるということで、人工知能が作った「AI=人工知能」と言えるのではないか。

ここで考えられることは、人類が作り上げたAIが、さらに「彼」なりの人工知能を創造する可能性もあるのではないかということだ。

少し話がややこしく、頭が痛くなってきたのでとりあえず今日はここで終わることにする。
posted by ヤス at 08:58| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月26日

DNAの雑感

最近ちょっと人工知能とか、人間の認知機能の本をチラチラ読んだりしているのだが、それらの本を読んでの感想は、「人間」とか「人間の自我」とかいうものは、本当はかなり単純なつくりなのではないか、ということである。

人間の持つ自我とか創造性とか感情の動きとか、そういう「心の動き」の原理は案外単純なつくりであって、実はAIによって十分に再現可能なのではないかと、なんとなく思う。

というのも、前にも何度か書いたのだけれど、人間の情動は高等哺乳類の進化の延長線上にあるのだと思う。
(これは単なる個人的な仮説(妄想)に過ぎないが)

情動による記憶強化のメカニズムが高等哺乳類でだんだん進化してきて、それとともにその機能を司る大脳皮質が拡大したとりあえずの最終型が人類であるような気がする。

人類の場合、情動〜記憶フィードバック機能にプラスして言語能力や道具の製造などの周辺能力も獲得するに至り、その点で犬や猫と、あるいはチンパンジーやゴリラと比べても隔絶しているように見える。

しかしこの大脳皮質がもたらした人類の特殊能力は、あくまでも小脳や脳幹などの原始脳の補助機関に過ぎないのである。たぶん。
そして小脳や脳幹などの原始脳はまた、ひたすら自己複製を繰り返す「DNAの存在」を補助する装置であるに過ぎない。(と思う)

DNAというのは、単純なタンパク質構造の壮絶な繰り返しである。
その繰り返しのパターンのごくごく微妙な違いが、トカゲやカエルやウサギやサルの違いとなって表れる。
そう書くとまるでDNAは生き物の「設計図」であるようにも思えるわけだが、その実は逆さまで、DNAはおのれの複製をつくるのに有利ないろんな「身体=DNAの入れ物」を選んでいるのに過ぎないのである。

それはある時代は恐竜の一派であったりするし、今なら人間もわりかし上手くいっている方かもしれない。
しかし実はDNAの入れ物として地味に大成功しているのはゴキブリとかの昆虫類、あるいはもっと単純な菌類であったりするのかもしれない。

DNA視点でみてどの生き物がいちばんの成功作なのかはわたしにはよく分からないけれど、しかしそうやって考えるとこの人類社会の間近で起きている人間関係のギスギスとか、あるいはニュースで流れてくる頭の痛くなるような社会問題が少し違って見えてくるような気がしたのであるが、まあ気のせいかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 14:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月25日

ポストトゥルース2

昨日ポストトゥルースについて考えたわけであるが、しかし思いがけず明るい結論が出てきたような気がした。
わたしは今までポストトゥルースの意味として、デマゴーグや撹乱情報によって民主的な政治手続きが阻害されたり無実の個人が貶められる可能性について悲観していた。

ネット時代の発展に伴い世の中に流通する情報量が爆発的に拡大し、かつ情報の発信源がこれまでのようなマスメディアからの一方通行だけではなくて個人からも発信されるようになったことで、情報撹乱の可能性が高まって世界は混乱の度合いを深めていくのではないか、そういう不安がこれまではあったような気がする。

しかし少し考えてみると、まあ当然といえば当然であるが、情報量の拡大や発信源の多様化は悪いことばかりではなくいい面もある。

ネット以前の社会では、我々個人レベルで受け取る情報はテレビや新聞、書籍などがせいぜいであり、何かの疑惑やモヤモヤを突き詰めて解消したいと思ったら、個人で一次情報源に直接の取材活動でも行う他なかった。

それが今では、とりあえず情報量だけは短時間でたくさん集めることができる環境が整っている。
自分の目で確かめる、という意味では直接取材には及ばないが、しかしとりあえず新聞やテレビの報道内容について、ネットで二次情報・三次情報を追いかければそれなりの検証はできる。
ネット上に転がっている、当てになるかどうか分からない断片情報を元に想定される真実を自分の中で再構成する論理的思考力と、「見たくないものも直視できる」強靭な精神力さえあれば、我々は20〜30年前より相当に真実に近づくことが可能になっているのではないか。

世の中にはいろんな人が何かの意図を持って、または無自覚的にあまたのフェイクニュースを流し続けているわけであるが、そういうフェイクだらけの現代ではあるがむしろ昔より真実に近いところにいるのだと思う。

ただ、今はまだここ10年くらいの間に起きた技術的な変化にみんなびっくりしていて、身体が環境に慣れていない。
もうあと10年か20年くらいすると、生まれた時からこういう情報環境だった、という世代が社会の中心に位置するようになってちょっとずつ時代が前へ動き出すのではないか。

そうなることを期待して、少しくたびれたおじさん世代も、「頭の中で真実を再構成できる思考力」と、「見たくないものも直視する精神力」を鍛えないといけないなあ、と思った。
posted by ヤス at 10:03| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月24日

ポストトゥルース時代

少し前から「ポストトゥルース=ポスト真実」という言葉がよく聞かれる。
ちょうど一年前のイギリスのEU離脱国民投票や11月のアメリカ大統領選が、ポストトゥルースの概念が広まる大きな契機となったようである。

以下ウィキペディア情報。
「ポスト」は「後に」「次の」の意味があるが、ポストの後に来る言葉が「過去のもの」という意味になり、それから転じて「重要でない」という意味にもなるらしい。


少し説明が難しいけれど、ポストトゥルースという言葉の意味は、ひとつひとつの事柄の嘘のことを指すというよりは、時代全体としての「真実性のなさ」という「時代の状態」を表す概念であるように思われる。

だから「ポストトゥルース」を自分なりに意訳すると、「まともな真実のない時代」ということになるのだろうと思うのである。

しかし考えてみると、いまだかつて人類社会がまともな真実だけで構成されていた時代というのもなかったような気がする。
よく言われるように、歴史は時の権力によって書き換えられる。
だから歴史資料の解読は、誰が何の目的によって記録したかをよく吟味して読み解く必要がある。
あるいは毛利元就や斎藤道三の例を引くまでもなく、権力闘争や国家間戦争において謀略戦、情報戦はつきものである。
あるいは少し昔のテレビや新聞のニュースの中にも、明らかな間違いや意図的な偽情報が入っていなかったという証拠はどこにもない。

要するにポストトゥルース的な状況は歴史時代を遡る大昔から存在したのである。
それがなぜ今になって「ポストトゥルース」と命名され、明示的に認識される必要があったのか。

それは多分、昔と違って偽の真実が、あまり時間をおかずに暴かれる可能性が生じる時代になったからではないか、と思う。
それは、インターネットの時代になったことが原因であることはいうまでもない。

しかしことはそう単純でもないかもしれない。

メジャーなネットニュースのみならず、SNS等を通じても毎日いろんな「事実」がわたしのところに流れて来る。
そういうのには名の知れたジャーナリストや「ちゃんとした」新聞社などの情報もあるし、正体不明の組織や個人からのものもある。

それらの情報は、新聞社のは真実で正体不明の情報源は偽情報とは限らない。
そのどれにも偽情報である可能性があり、いくらかの真実を含んでいる可能性もある。

現代という時代は、おそらくそうやって世の中に無数に流れている情報を拾ってきて、自分なりに事実を再構成する、そういう時代なのではないかと思う。

だから世の中に流れているニュースの数だけの事実がある、というよりはそのニュースを受け止める「受け止め手」の数だけ事実があるのだろう、と思ったりするのである。
posted by ヤス at 09:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月23日

無根拠の類型化

何年か前に観たテレビ番組で、何の番組かは忘れたけれど最近よくあるパターンのバラエティ番組だったろう、そこで「血液型占いを信じるか?」という質問を出演者に訊ねる、という場面があった。
出演者の中には東大出身の政治家もおり、ポジション的に「頭が悪い」キャラの現役アイドルもいた。

で、その反応はアイドルは信じないと言い、東大出の政治家は信じると答えた。
この答えを聞いてわたしは少なからず考えるところがあったのである。

血液型占いというのには何の科学的根拠もない。

過去に何人かの研究者がわざわざいくつか実験して、人間の性格や知能と血液型に明確な因果関係のないことは実証済みである。
またわたしの経験の範囲内でも、A型だから真面目で几帳面、O型だから大雑把、とかいうよくある当てはめに該当しない人はたくさんいる。

というか血液型占いの性格の当てはめは、だいたいどんな人にでも当てはまるような「言われてみればそう思える」的な曖昧なものであり、その意味ではこれはまさしく「占い」的である。

しかし血液型占いの信奉者は思いのほか多い。
特に企業経営者とか政治家とか、一般には相応の知性が必要とされる立場の人間にも信奉者が多い。

しかし最近はこれを問題と考える流れも出来ていて、今から10年以上前にはBPOが血液型をネタにした番組づくりについて一定の配慮を求める声明を出したりもしたらしい。
また「ブラハラ=ブラッドタイプハラスメント」という言葉も出来たりして、この10年くらいの間に世間的なブームはかなり収束はしているようだ。

血液型占いを無批判に信じる態度というのは、それをネタに友達同士で楽しくおしゃべりするくらいなら大して害はない。
しかし人間に対する「無根拠の類型化」に何の疑問も持たない姿勢は、人種差別や外国人ヘイトを行う心理と根は同じである。


で、冒頭の東大出の政治家は血液型占いを信じてアイドルは信じない件。
このシーンを観て、わたしは政治家っていうのは本当にろくでもない阿呆ばっかりだなあと思ったのと同時に、学校の勉強は多分おろそかにしているだろう現役アイドルの意外に知性的な面を見たような気がした。

アイドルというのは、人数も多く競争が激しい。
そこで生き残り、キャラを確立して売れるためには相応に合理的な行動と科学的な態度が不可欠である。
だから血液型がどうとかあまり気にしないのだろう。
そこへ行くと政治家にはそういう合理性がほとんど必要ないのかもしれない。

というとこれもアイドルと政治家を無根拠の類型化に当てはめる行為であまり望ましくないだろう。

何にせよ血液型占いのような「便利な道具」で目の前の人間を判断しパターンに当てはめるのは、頭を使わずに分かった気分が味わえるので楽チンで良いが全く知性的ではない。
目の前の人を判断するには、やはり個別の人間ごとに自分の知性と経験をフルに動員し一生懸命考える、というのが唯一の正しい方法だろうと思うのである。
posted by ヤス at 08:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月22日

クリエイティビティ

AIに対する人間の強みはある種のいい加減さ、予測不可能性である、みたいなことを書いた。
それはただの個人的な思いつきであってちゃんとした確証があるわけではない。
ただよく言われるところの、クリエイティビティは人間だけのもの、というのが、どうもそうではないんじゃないかと思えてしょうがなく、クリエイティビティ以外の強みは何かないかなあと考えたまでである。

クリエイティビティとは「感動を作る能力」であると、とりあえず定義した。
そしてその「感動」というのは、人間だけの専売特許ではないと思うのである。

それは人間だけではなくて、ある程度大脳皮質が発達した高等哺乳類ならそこそこのレベルで持っているものだと思う。

感動というのは、キレイなもの、何かすごいものを見て驚き、かつちょっと恍惚とした気分になる、みたいな感情だと思う。
人間の感情にはそういうプラスの感情以外にも悲しいとか辛いとか恐ろしいとかいうのもある。
あるいは気持ちいいとか嬉しいとかいうこともあるだろう。

そういう感情の「正体」が一体何かということである。
これらのプラスの感情、マイナスの感情は、大脳が発達した高等哺乳類が持つ、ある種の記憶の補助機能なのだろうと思う。


なんかの木に生えている赤い実を食べたら、甘くて美味しくて感動した。
そうしたらその美味しかった感動とともにその「りんご」の赤い色や形をしっかり記憶にとどめておいて、次にりんごを見つけた時に備える。

反対に、黄色と黒のシマシマの猫の大きいやつにある時飛びかかられて間一髪逃げおおせたら、その「虎」の姿を恐怖の感情と一緒にしっかり記憶して、次回シマシマ模様を見かけたら一目散に逃げる。

そういう生存性強化のための記憶の補助装置として「感情」というものがある時生じたのだろうと想像する。
こいう記憶能力はカラスなんかもかなり優れていて、人間の顔もかなり覚えて個人識別できるらしいので、逆にカラスにも「感情」のような機能が備わっているのかもしれない。



とにかくも感情というのはある程度の哺乳類に標準装備の基礎的な機能であり、したがって感情の発動条件はかなりパターン化されている。
だからそれなりの基本知識を学習した人工知能であれば、人間を感動させたり悲しませたりするのに必要な「情報の合成」はお手の物であるに違いない。

実際最近の映画やテレビドラマでは、脚本を分析する専用のソフトがあって、ハリウッドあたりでは脚本をそれらの分析ソフトにかけて修正するというのが当たり前になっているらしい。

そのうち脚本の制作そのものも、あるいは映画監督やプロデューサーの仕事も人工知能に取って代わられることだってありうると予想する。
それどころか、あと数年もすれば映画俳優も全部CGになっていて、それが本物と見分けがつかないということになるだろう。
(すでに部分的には、CGの俳優は当たり前になっている)

そうなると企画・制作・出演が全部AI、という映画も遠からず実現する。
そうなった時の人間の役割が問題であり、ちょっと心配になるわけであるが、長くなったのでまた今度考えることにする。
posted by ヤス at 09:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月21日

AIに対する人間の強み

さてAI=人工知能の話も世間的にはいい加減煮詰まってきた感じもあるし、個人的にも若干飽きてきた面もある。
しかしこのところの将棋の藤井聡太四段の活躍で、わたしの中では再び興味が再燃してきた。

実際のところ将棋の世界でもしばらく行われていた「電王戦」、いわゆるAIと人間棋士の対戦は公式戦はもう終わっている。
これはつまりAIと人間の対戦はすでに決着が着いた、AIは人間を明らかに超えてしまったということなのかもしれない。

しかしそこに出てきたのが藤井聡太四段。
まるでAIのようにミスをせず、勝負どころで奇想天外の一手を打って敵を混乱に陥れるその棋風から、あるいは藤井四段ならAIに勝てるのではないか、という声もあるようだ。


究極的に考えると、将棋で人間がAIに敵わないのは確かである。
それは、将棋には論理的なルールがあるからである。
将棋が論理的なゲームである限り論理計算能力が人間よりはるかに高く、多分将来は今よりもっと能力アップするAIが人間に負ける道理はない。

しかし今のところ計算容量の関係で、AIも想定される手筋の全てを網羅しているわけではない。
パターン認識とか過去の棋譜のデータベースを参照して計算をかなりの程度端折っている。
その端折り方こそが将棋ソフトアルゴリズムの肝であり、ちょっと人間的な部分でもあるのだと思う。

このような前提で将棋対戦における人間のAIに対する強みを考えてみると、それは非論理的で想定外の奇手を打てること、なのではないかと思うのである。
ちなみにわたしは将棋は駒の動かし方くらいは分かるが、上級者の対戦を見ても何がどうなっているのかまったく分からない素人である。

だから「奇手が打てるのが人間の強み」なんていうのは素人の妄想に過ぎないのだけれど、調子がいい時の阪神・藤浪の荒れ球に名うての強打者がキリキリ舞いするように、予想外の奇手には人間棋士もAIも混乱するのではないか、という気がしてならない。


AIといえば、将来人間の仕事がAIに奪われるから人間にしかできないことを確立しないといけないという話がある。
人間の強みはクリエイティビティだから、みんな創造的な仕事を磨いた方がいいよ、という理屈になる。

クリエイティビティというのは「感動を生み出す能力」だと思っているのであるが、人間の感動はかなり論理的にプログラムされた定型的パターンであるような気がする、だからクリエイティビティはむしろAIの得意分野なのではないかという気がするのである。

むしろ人間の強みは、ある種のデタラメさ、いい加減さ、藤浪の荒れ球(ただし調子がいい時)のような予測不可能性にこそあるのではないか。
ここから先はまだ考えがまとまっていないので、またよく考えを整理して何か思いついたらまた書くことにする。
posted by ヤス at 10:44| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月20日

マクド、マルウェア感染

マクドナルドが少し大変なことになっている。
いや、ものすごく大変なことになっているのかもしれない。

16日未明に、システム障害が発生したらしい。
dポイントカードと楽天カードが使えなくなった。
しかしわたしは、その時はすでに面倒くさくてdポイントカードを出さなくなっていたので、そこは他人事だった。

それが昨日、1日ぶりにマクドに行ってみたら電子マネーのiDも使えなくなっていた。
昨日のニュースによると、マルウェアの感染による大量のパケットでネットワークがダウンしたということである。

しかもつい先ほど、店の奥の方からこんな声も聞こえてきた。

「ごめん、来月のシフト、手書きでお願いしまーす、ネットが使えないのでー」

だそうである。

多分問題はかなり深刻である。
マクドの場合全国の店舗は本部とネットワークでつながれており、POSレジデータがリアルタイムで本部に流れている。
それで現在の売上情報とか逐一本部で把握できているわけだが、そういうのも多分今はストップしているのだろう。
シフトとか社内メールとかあらゆるネットワークが止まっている。
月末をまたぐと仕入れ請求の管理やFCとの経理上のやりとりなんかも大変そうだ。
その場合、電卓片手に手書きでやることになるのだろうか。

システムのことはよく分からないけれど、PCの場合ならこういう時は電源ボタン長押しで強制終了し、再起動するに限る。
ひょっとしたら近いうちに全店一斉休業してシステムをシャットダウンすることになるのではなかろうか。

なかなか恐ろしい状況である。
マクド的にも当然ながらセキュリティ対策は行なっていただろうが。
マルウェアがどの経路から侵入したのか分からないが、ここはジタバタしないでお店を全休にして、根本的な処置を行った方がいいような気がする。

ネットワークやコンピューターシステムは、今や経営の絶対外せない基礎インフラになっている。
半分病んだ形でなまじ頑張ると、とんでもない二次被害三次被害が発生するリスクだってあると思うのだがどうなのだろう。
posted by ヤス at 09:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月19日

急がば回れ

今朝、セブンイレブンに寄って、本コーナーでいつものように雑誌類をパラパラ立ち読みした。
その中で、月刊プレジデントをパラパラめくっていたら、先日民進党を離党した長島昭久氏のインタビュー記事があった。
その記事の中の5〜6行くらいしかちゃんと見ていないのだが、その5〜6行の中にこんな趣旨のことが書いてあったと記憶している。


どこの国でも政権交代は10年くらいの周期で起きている。
日本の場合でも、民進党は本当は10年後を目指して腰を据えて取り組んでいかないといけなかったのだ、みたいなことである。


斜め読みで見たので内容を正確に覚えていないが妙に納得した。
わたしは長島昭久という人をよく知らないし、なんならそんなに好きなタイプの政治家でもないのだが、しかしセブンでちら見したその意見はまったく正しいと思った。

それはひとつには、戦後日本では政権交代の仕組みが機能したことがなく、というかその仕組みがまだ存在していないということなのだろう。
ひょっとしたらアメリカやイギリス並みの仕組みが出来るまでに、あと数十年要するのかもしれない。
それは、少し時間はかかるが政権交代の政治土壌が出来始めたということなのか、あるいはせっかくの政権交代の萌芽が途中で摘み取られてしまったということなのか、そこはよく分からない。

おそらくは前者であって欲しいと思うわけだが、しかし確かに今の野党第一党・民進党はやることなすことが短絡的であり過ぎるように見える。
蓮舫氏が代表になったのも、「とりあえず」選挙に強そうというのが主な理由だろう。
しかし今になって見ると、当初の思惑が裏目に出ているようである。

民主主義は多数派形成が正義ではあるが、しかしちゃんとした多数派を構築するには党内における政策的方向を時間がかかってもまとめていく必要がある。
そこのところが民進党はずっと寄せ集めで数のみを目指したために、結果として肝心の数が減っている。

別に民進党が必ず野党第一党である必要はないと思うが、しかし健全な民主主義のためにはちゃんとした野党第一党が必要なこともまた間違いない。



ところで今、中学生棋士の藤井聡太四段が話題だ。
テレビのワイドショーなんかでもバンバンとりあげられている。
そういう番組を観ていると、藤井四段は相手の心理まで見透かした老獪な将棋を打つというのをやっていた。

囲碁でも同じだと思うが、ここで打った手が何手か先でものすごく効いてくる、というのが将棋の醍醐味と思う。
最近の藤井四段の話題で、将棋の勝負における「急がば回れ」的な世界にあらためて気づき、面白いと思った。

ただ「急がば回れ」を勝負の現場で実現するには日々の研究の積み重ねと何より強い精神力が必要だろう。

それで「急がば回れ」というのは、伊達や酔狂で諺になっているのではないのだなあ、と今更ながら思うのである。
posted by ヤス at 14:10| Comment(2) | 徒然なるままに