2017年06月05日

夢を覚えてない

ふと思ったが、最近ほとんど寝ている時に見た夢を覚えていない。
昔はもっと覚えていたような気がするのだが、最近は「こんな夢を見たな」という記憶がない。

多分夢は見ているのだと思う。
というか人間、寝ている時にはほぼ必ず夢を見ているものらしい。
睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があるそうだが、一般には大脳が活発に活動しているレム睡眠の状態で見る夢はよく覚えている。
ノンレム睡眠は、いわゆる深い眠りであって誰かに肩を揺すられても容易には目覚めないくらいの状態。
この時にも夢は見ているらしいが大体忘れてしまう。

ということは、わたしが最近夢を覚えていないのは、ノンレム睡眠過多だからなのだろうか。

しかし普通の人間であれば大体レム睡眠とノンレム睡眠のパターンは決まっていて、どちらか一方が極端に多いということはないらしい。

ネットでちょっと調べたところでは、ノンレム睡眠が多過ぎるのは一種の病気である。
「ナルコレプシー症」というそうで主な症状としては日中の眠気、情動脱力発作、入眠時幻覚、睡眠麻痺(いわゆる金縛り)の4つが出るそうだ。

またこの症状で見る夢は大体のところ「悪夢」らしい。

なんか恐ろしい症状だ。

しかしわたしは幻覚も金縛りもあまり覚えがない。
日中はいつも眠そうかもしれないがそれは大昔からそうである。
情動脱力発作というのは、喜怒哀楽など過度の情動刺激が原因で抗重力筋が脱力して倒れたりする症状らしい。
これもすごい発作だと思うが、わたしの場合、抗重力筋が脱力したことは今までにない。

ということで、該当する症状がないのでわたしのレム睡眠とノンレム睡眠のバランスはまあまあ正常なのかもしれない。

しかしではなぜ夢を覚えていないのか。
あるネットの記事には「夢を覚えておくぞ」と寝る前に気合いを入れると覚えておけるというのが書いてあった。
本当だろうか。

あるいは、日中に大きく感情を揺さぶられるような体験をした人の方が夢を覚えている確率が高い。
そういう人は夢でもやはり情動的な振幅が大きな「体験」をしていて記憶に定着しやすくなるらしい。
これは記憶と情動の振幅にかなり相関があって、大きな感情を伴う体験は強く記憶されるということがあるからだと思われる。

ということで結局夢を覚えていないことの原因はよく分からないままだが、しかし寝る前に夢を覚えておくように気合いを入れること、そして日中にたくさん感情を働かせること、を心がけたら少しは夢を覚えておけるだろうか、と今日のところは思った。
posted by ヤス at 15:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月04日

地方創生

今から30年ほど昔、1989年頃に、ふるさと創生一億円事業というのがあった。
時の総理大臣竹下登の発案の元実施された事業である。
交付金不交付団体を除く全国の各市町村に使途の条件をつけない1億円を交付するというもので、当時の市町村数は3千強あったそうなので、予算規模も3千億円くらいだったのだろうと想像する。
まあまあ大きな規模だと思う。

わたしは昔、地域開発系コンサルと広告会社のあいの子のような会社でサラリーマンをやっていた。
そして中国地方のとある町で、いわゆる「地域おこし」的な仕事に携わっていた。
夏祭りがあると言えば盆踊りを踊りに行き、屋台で作務衣を着て蕎麦屋をやったこともあった。

かなり献身的にその仕事に没入していたのではないかと思う。
没入していたのにはそれなりに理由があって、それは要するに金になったからである。
ふるさと創生一億円事業を契機にしてリゾート開発などの箱物事業も動き出しており、地域おこしがらみの予算がその頃継続して付くようになっていた。
だから営業担当でもあった身としては町に深く食い込む必要があった。

しかしそのような地域おこしブームも間も無く終わった。
多分2000年くらいには終わっていたような気がする。
それはふるさと創生事業がバブル期の最後を飾る打ち上げ花火であって、その後日本経済が次第に右肩下がりになる中で地方に予算をばらまくほどの余裕がなくなって来たからであると思われる。
で、なぜか今、再び地方創生が叫ばれて担当大臣まで任命されるほどの重要事とされている。

30年前のふるさとブームは、その当時過疎化と高齢化が進んで将来が危ぶまれていた中央政府が救済するという構図であったように思う。
中央政府による地方の救済とは、その実態は都会による田舎の救済であった。
そのような構図に対し、当時はそれなりに批判もあったがまあそれほど大きな反対運動にはならなかった。

現在の地方創生は当時とは趣が異なる。
今は日本全体としてどんどん右肩下がりになっており、もはや都会が田舎を支えるとかいう余裕はない。

だから地方は国にぶら下がるのではなく経済的に自立しよう。
地方は知恵を絞って自分たちの地域内に仕事を作ろう、雇用を作り税収を増やして国の財政負担を減らすのに協力すべし、というのが今の地方創生の構図だろう。

30年前のふるさと創生は、配布する1億円に使途の制限を設けないというのがある種の慧眼だった。
ついでのことに、この時に思い切って国の税源のいくらかを地方に渡してしまっていればその後の地方の様子はだいぶ変わったかもしれない。

本気で地方を創生する気があるならば、税源を地方に渡していって本来の地方の自治を実現することが先だろう。

あるいはもっと本気になるなら、いっそ地方の経済を物々交換化して政府の税体系から脱出し、それによって経済的自立を獲得する、とかいう方法しかないんじゃなかろうか、などと思ったりする今日この頃である。
posted by ヤス at 08:33| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月03日

スポーツ嫌い半減目標

スポーツ庁が、スポーツ嫌いの中学生を半分に減らす目標を「スポーツ基本計画」で打ち出したのが、ちょっとした波紋を呼んでいるようである。

同庁の調査によると、運動やスポーツが「嫌い」「やや嫌い」な中学生は16.4%で、これを5年かけて8%に半減させたいらしい。

で、このニュースを受けてテレビ番組の中で元体育嫌いのタレントだった人たちが「反旗」を翻したり、2チャンネルにスレが立ったりしているという。

朝日新聞のネット記事には五輪金メダリストでスポーツ庁長官の鈴木大地の写真が付いていたりして、これは鈴木大地長官の強い意向を匂わせる意味なのだろうかとも思う。

まあそうかもしれない。
スポーツ嫌い中学生の割合を示す棒グラフは、2014年度から2016年度にかけて確かにジリジリと増えている。
この傾向を見て鈴木大地としても何かを感じたのであろう。

あんまり役所のやることに何でもかんでも反対意見を言いたくはないのだけれど、やはりこの計画には反対せざるを得ない。

しかしスポーツ好きの中学生を増やしたいというその思いには、必ずしも反対ではない。

話はかなり難しいのである。

ネット記事には、スポーツ嫌いの中学生が増え続けると運動しない大人が増えてしまう、そのようにスポーツ庁が考えているように書かれていた。
本当にそうだろうか。

今、日本は大変なマラソンブームである。
しかもこれは一時の流行りではなく、ここ10年来の大きな流れであるように感じられる。
マラソンなんて急いで走るとしんどいし、冬のレースではちんたら歩くと寒いし、筋肉痛や関節痛にはなるしあまりいいことはない。
しかしそんなマラソンに人々はわざわざ金を払って出る。

あえて言うならみんなマラソンが好きなのだろう。
「マラソンが好き」は「スポーツが好き」にほぼ近似の事象と言えなくはない。

マラソンは、多くの大会には制限時間はあるけれど、その制限時間内であれば歩こうが走ろうがランナーの自由である。
マラソン好きが多いのはそこがポイントだと思う。
自分のペースでできて、走ると脳内である種の快感物質が出て気持ちいい。

スポーツ嫌いが発生する原因は、他と同調させないといけないプレッシャーにあると思う。
特にチームスポーツの球技なんかは、技術がヘタでチームメイトとのシンクロができない人には難しくストレスが大きい。
だから嫌いになる。

しかしそんなスポーツ嫌いも、自分のペースで自由に走れるマラソンなら好きになれる。
それでいいじゃんと思う。

そもそも16%を8%にするとか数値目標を決めると、色々気持ち悪いことが起こりそうな気がする。
鈴木大地長官にはその点、よく考えてもらいたいと思う。
posted by ヤス at 10:51| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月02日

様子見

今日はめでたく日経平均が2万円を回復し、またゴルフ界のスーパースタータイガー・ウッズが虚ろな目で逮捕される動画が巷に流れたりもしている。

わたしの方は、最近はマラソン大会の予定もないのでもう随分久しくランニングのトレーニングもサボっている。
しばらく走りもせず、また妙に暑い日が続いたりして得意のアイスクリームを食べたりしていたら、少し体重が増えてきた。

62kgを切って61kg台だったものが63kgを越えてきた。
これはたいへんだ。

ということで4日ほど前から食べる量をかなり減らしてみた。
だいたい1日1500kcal以下。
1日1.5食くらいの感じだ。

最初のうちはモーレツにお腹が減って困った。
でも空腹も峠を越えると少し落ち着いてくる。
そしてどうかしていると腹が減っていることも忘れていたりする。

なかなかいい傾向だ。

しかしさすがに今日は腹が減って、空腹の感じがなかなか癒えない。
昨日の夕方、超美味しい明治エッセルスーパーカップ超バニラを食ったせいで血糖値が不安定化してしまったのかもしれない。

だが腹が減っている分の成果は上がっていて、今日は体重が久しぶりに61kg台を回復した。
しかしこういう体重の減らし方は大きな反動増も予想される。
今は筋中グリコーゲンが枯渇気味であると思われるが、これからちょっと炭水化物を食べたりすると枯渇したグリコーゲンを回復しようと身体が備蓄活動に精を出し、水分をたっぷり含んだグリコーゲンが急速に増えて体重も増える。

というのが今後予想されるシナリオである。
だから適当に走ってそいつを消費しないといけない。

ということでこれからあるランニングの大会にエントリーしようかと思ったりもしている。
ひとつダイエットにおあつらえ向きの大会があって、9月にある京都府・京丹後市の100kmウルトラマラソン。

大昔に1回だけ出たことがあり、制限時間の14時間ギリギリで完走したことがある。
エントリー締め切りは7月24日だからまだ考える時間はある。
ただこれにエントリーするのはなかなか勇気が要る。

ネックは3つある。
まず参加費の1万8千円(高いな)をどう捻出するか。
そしてあと3ヶ月で暑い中練習して完走可能な状態までいけるかどうか。
そして体重を出来れば昔のように60kg以下に落として身軽に走りたいのだが、そこまでいけるかどうか。

日経平均に負けないようにがんばって、少し様子を見ながらエントリーするかどうか考えようと思う、今日この頃だったりする。
posted by ヤス at 15:04| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月01日

カッコいいということ

カッコいいとはどういうことだろうか。
と、少し思った。

まずその必要条件として、自然体であること、「いかにもな感じ」が無いことではないだろうかと思ったのである。
それはカッコいい男性も、カッコいいスーパーカーでも同じではないだろうか。
車のデザインと人間のカッコよさに、そのような相似性があるとすればちょっとした発見だなあと思う。

車のような無機物に自然体の感じがあるというのはどういうことだろう。
それはたぶん、車の形に「不自然な部分」が無いことである。
なんだか議論が堂々巡りになってきた。

逆に不自然な部分があるというのは、あそこのボディのライン形状がなんだか妙に引っかかる、「自然な形に見えなく」て心がソワソワする、ということがあるのではなかろうか。
つまり、自然なデザインは心にスッと入ってきて引っ掛かりが無い。
だから気持ちがいい。
そのかわり、デザインの咀嚼にあたって大きなインパクトもない。
不自然さが無く、不快要素がないこと、デザインの咀嚼があまり意識化されないことがカッコいいデザインなのではないか。

いや、少し違う。
インパクトがあってカッコいいデザインというのがこの世の中には存在する。
それは、車の形状の中にワザと「崩し」を入れて「妙な心の引っ掛かり」があるようなデザインである。
しかしそれでいて全体としては調和している。
そのような絶妙さこそが車のデザインにおけるカッコよさの秘訣であるような気がしてきた。

さて、話がやや逸れた。
もともとは人間におけるカッコよさを考えていたのだった。
人間のカッコよさを車のデザインにおけるアナロジーに仮託しようとしたのであるが、果たして上記の想像は人間にも当てはまるだろうか。

そもそも人間のカッコよさを考えるきっかけは、最近よくある謝罪の記者会見とかで、妙に不自然な感じの人がいてなんだかカッコわるいなあと思ったことだった。
逆に自然な感じで気負いの無い人物だと、喋っていることの真実味が増すような気がする。
しかし気をつけないといけないのは、上手な詐欺師ならきっと自然な感じを作為的に作り出せるだろうということだ。

ますます話がこじれてきた。
結局自然な人は、カッコいいのかカッコよくないのか。
これはおそらく、自然な感じであることはカッコよさの必要条件ではあるが十分条件ではない。

車のデザインの例を引いて考えると、全体としてはバランスが取れている人なのだけれど、部分部分でトンガっているところがある、ちょっと危うい感じがある人というのが、カッコいいかどうかはともかく妙に惹かれるということはあるかもしれない。

ただ自然な感じで角の取れた感じだけだとカッコよくはないわな、部分的に崩れたところがあるのに全体が調和しているのがカッコよさの秘訣であろう、しかしそこへ行くのはなかなか難しそうだな、というのが今日の結論。
posted by ヤス at 09:05| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月31日

終末思想

大昔、わたしが小学生か中学生の頃、「ノストラダムスの大予言」が流行っていた。
大予言によると1999年に空から火の玉が降ってきて世界が滅亡するとかいう話であり、あるいはもうちょっと複雑な予言内容だったかもしれない。

今調べてみると、ノストラダムスというのは16世紀のフランスの医者らしい。
それなりに「まともな人」だったようであるが、後に占星術に凝りだして「予言集」を出版し当時けっこう流行ったらしい。

さらに横道に逸れるならば、グーテンベルクの活版印刷の発明がノストラダムスの時代の100年ほど前である。
16世紀の時代にノストラダムスの予言が流行したことには、当時の新技術であった印刷による情報革命が一役買っていたようである。

そして16世紀に大予言がもてはやされていたからこそ、遠く20世紀中盤の東アジアの一国でその歴史が掘り返されることになったものと想像される。

わたしが子供の頃に「ノストラダムスの大予言」を知るようになったのは、1973年出版・五島勉氏著「ノストラダムスの大予言」という本が出たことが原因であるようだ。
1973年といえばオイルショックの年だ。
当時の日本は高度経済成長でイケイケの時代ではあったが公害問題なども深刻で、決してただ明るいだけの脳天気な雰囲気ではなかった。

そういう時代背景にあって作家・五島勉氏は、16世紀に流行った「大予言」を掘り起こして出版したのである。
作家として活動していた五島氏は、ポルノ小説を書いたり雑誌編集に携わったりスパイ小説を書いたりひとヤマ当てようといろいろ試行錯誤していた形跡がある。
で、最終的に「ノストラダムスの大予言」が大ヒットし、オカルト路線で行くことを決意したようである。


ところで1999年が来る頃には時代を席巻したオカルトブームはとっくに収束していて、恐怖の大王が降ってくると言われていた7月前後に若干テレビなどで暇つぶしに掘り返されたくらいで世界は滅亡することもなかった。
そのかわり2年後にニューヨークに旅客機が突っ込んで予言を思い出す羽目になったわけであるが。
空から何かが降ってきて世界が破滅する、というイメージは、6600万年前に巨大隕石で恐竜が絶滅して以来地球上の生命のひとつの「原体験」になっているのだろうか。

あるいはいろんな社会不安がある中で、個人的に「滅亡」するくらいならいっそ世界中一斉に滅亡した方が望ましいというリセット願望がこういう終末思想の背景にあるような気もする。


しかし不思議なのは、1970年代は公害や戦争による不安要素はたくさんあったが少なくとも日本は経済成長の真っ只中で、ある意味今よりいい時代だったことだ。

当時よりはずっと厳しい時代になっている現在、ノストラダムスの大予言みたいな終末思想があまり聞かれないのは、現実世界があまりにリアルな終末なためにオカルト思想が流行る心の余裕がないということなのかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 06:19| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月30日

職業の寿命

どうもこの数年の間に、「10年後に無くなる仕事」「AIに奪われる仕事」みたいなニュース記事をよく見るようになった。
これは確かにAI=人工知能がものすごく進化して将棋や囲碁で人間が敵わなくなったり、簡単なニュース記事なら朝飯前で書けるようになったことがある。

そういう人工知能の進化とは別に、現代という時代の、ものすごい職業の種類の多さがあるのではないかと思う。
数百年前の日本であれば、職業の大分類としては農民、サムライ、商人、職人、それ以外に少数の貴族階級があっただけだ。
貴族階級が職業であったかどうかはよく分からないが、商人や職人はまたそれぞれ両替商やちりめん問屋、大工に鍛冶屋などの中分類に分かれていたのだろうが、その頃には職業の大分類・中分類・小分類がそれぞれ現在より大幅に少なかったものと思われる。

さらに言えば、新しく生まれる職業と必要なくなって消える職業の入れ替わりも今よりずっと少なかっただろう。
だからいったん何か役に立つ「手に職」を身に付ければ、それで死ぬまで食い扶持に困らないという状況があった。

たぶんその時代のいろんな職業の「平均寿命」は、百年とか二百年とか、少なくとも人間個人の寿命よりも随分長かったことは間違いない、と思うのである。
ところで現在におけるいろんな職業の平均寿命は何年くらいなのだろうか。

少し考えてみると、例えば市役所や県庁の職員の仕事は大昔、おそらく明治時代くらいからある。
だがその執務スタイルは時代とともに激変しているのもまた間違いない。
30年くらい前まではよほどの大企業でないとコンピューターを使って仕事をするのはかなりのレアケースだった。
ところが役所の仕事も何時の頃からかパソコンでやるようになった。

おそらく役所の職員がコンピューターで執務するというのは、昭和の時代もかなり後半になってからである。
いっとき、どこかの役所の中高年職員が、パソコン操作を憶えることを拒絶してクビになったとかどうとかいうニュースが流れたこともあったと記憶している。

一部の中高年職員が苦痛に思うほどに、その執務スタイルは激変したのである。(と思われる)
こういう現象は役所職員に限らず、大工さんでも銀行員でも生じている。
つまり「職業名」は同じだが仕事のやり方が激変している。

そんなことを考えると、職業というよりその職務の「こなし方」は、江戸時代だったら百年二百年ほとんど変わらなかったのが、21世紀の現在だと5年かせいぜい10年くらいでほとんど別ものに変わるのではないか。

そんなことを考えていると、人工知能が進化してもなくならない仕事というのは、その仕事のやり方の本質部分がずっと変わっていない職業なのではないか、とちょっと思ったりするのである。
それが具体的にどんな職業なのかは、また別の機会に考えてみるかもしれない。(考えないかもしれない)
posted by ヤス at 14:43| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月29日

慣れてくると事故しやすい

大昔、運転免許を取りに教習所に通っていた若かりし頃、クルマの運転はちょうど慣れてきた頃がいちばん事故を起こしやすい、みたいな話を聞いたような気がする。

車の運転は慣れていないと、次はクラッチを踏んで、そしてミッションをセカンドに上げてとかいうことをいちいち明示的に考えながらでないと上手くいかない。(マニュアルミッション車の場合です)
つまり運転の手順を「運動能」とも呼ばれる小脳で処理するのでなく、大脳でいったん言語化して考えることが必要である。
どうも動作手順をいちいち言語化して処理していると、小脳と大脳のやりとりの「コンパイル」に若干の時間がかかる。
動作がワンテンポ遅れるためにクルマの動きもギクシャクする。


しかしそういう動作がギクシャクしている時期よりも、ある程度小脳で処理が完結し動きがスムーズになった方が事故の可能性が増えるとしたら、それはどうしてだろう。
これは今適当に思いついた想像であるが、たぶん運転経験がまだ多くない段階で運転処理を自動化すると、危険事象の発生時に対応するパターンの当てはめを間違えることがあるからだろうと思う。

かなりの程度経験を積んだ段階では、例えば横から突然歩行者が飛び出てきた場合に「ブレーキをかける」「ハンドルを切ってよける」などの回避動作が大脳と小脳のコンパイル作業抜きで出来るようになっている。
しかし経験少なく、危険対応の回避パターンが小脳にインプットされていない場合、突然の出来事に小脳はフリーズするか、あるいはその時点でふと我に返って大脳で時間をかけて言語的に対応を考える、ということになると思う。


クルマの運転に限らず、少し慣れてきたがまだ経験値が少ない段階、というのは他のいろんな場面でも起こりうる。

あるいは、十分長いこと運転して慣れている人でも、突然田舎から都会に出てきて交通状況が変わるとかいう場合には、まるで初心者のようにとまどうこともあるかもしれない。

話はずいぶんと飛ぶのだけれど、今の日本という国家の置かれた状況、これもこのクルマの運転に喩えることが出来はしないか。
「日本」は戦後長いこと平和国家として安全保障のことをほとんど考えずに経済成長に専心してきた。
この数十年間、国家としての行動についてほとんど明示的に意識すること無く半ば自動運転で来たのではなかったか。

石油ショックとかプラザ合意後の円高とか、高度成長の延長線のさらなる効率化路線で乗り切ったのも、そこには言語化された思考はあまりなくただ自動的にそう対応したようにも見える。

しかし最近の20年くらいでいろんな状況が凄まじく変わった。
特にこのところ隣の方の国から定期的にミサイルが飛んできて、弾着点がだんだんこっちに近づいている。
こういう今の状況は、従来の延長線上の自動運転では上手く乗り切れないと思う。

しかし日本では、今までの数十年の小脳的学習パターンを相変わらず当てはめようとする傾向が強すぎはしないか。
特にわたしのようなオジサン世代以上の人間はよくよく自戒しないといけない。
その辺が日本の混迷の理由ではないか、と思ってみたりした。
posted by ヤス at 16:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月28日

上から目線

「上から目線」というのは、いつ頃から使われるようになった言葉なのだろう。

案外昔からあるような気もするし、しかし頻繁に使われるようになったのはこの10年くらいではないか、という感じもする。
しかしこれがちょっとネットで調べたくらいではわからない。
おおよそ2000年代以降の流行り言葉だろう、というのがネット上における共通見解のようである。

この「上から目線」は、敬語や丁寧語を操り、見えない社会階層によって各個人の立場が知らぬ間に規定される日本ならではの言葉であるように思われる。
一般に、日本では年齢が上であるとか、組織上の立場が上とか、社会的地位が上とか、いくつかの序列構造を参照して個人間の上下関係がかなり厳密に規定される。

少し難しいのが、年齢は下だが組織上は上司という人物、こういう場合部下であり年上である「私」としてはどのように振る舞うべきか。
ある程度家族的で親密な雰囲気の中小企業のようなケースでは、上司部下や年齢の上下関係なくタメ口を言い合うことができる。
しかしあんまり親密でない大組織で、しかも「年上の部下」がそれなりの職務経験を積んでいる場合、かつ上司の押しが弱い場合は、状況によっては「年上の部下」の方が「上から目線」になることがあり得る。

そのような現象はしばしば組織のアキレス腱になりかねないので、昔の日本では概ね年功序列が標準パターンとして定着していた。

会社組織などに上司部下の関係、いわゆる階層構造というのがあるのは、それがスムーズな意思決定を促し組織の効率性に大きく影響するからである。
大佐や少尉、軍曹などの階層がちゃんと決まっている軍隊と、みんな平等で「上司」のいない軍隊では、たぶん階層のある軍隊の方が強い。

日本の社会は組織効率上必要な階層構造がほぼ年齢によって決まるという自動的な仕組みで出来上がっており、これは東アジアの儒教圏ではだいたいそうなっているのだろう。

「上から目線」というのは、このように自動的に規定されている「見えない階層構造」を破壊する危険行為なのである。たぶん。
だから身の程知らずに偉そうにする輩は、非常に嫌われる。
また下々に位置する人間は、階層構造の確認のためにわざわざ謙譲語を使いへりくだってみせる。
このような位置付けの「上から目線」がこの10年、20年ほどの間に頻繁に使われるようになったのはなぜだろう。
あるいは社会のありようが年齢よりも実力本位のウエイトが大きくなり、従来の組織秩序維持の視点からは許容範囲を超えるようになった、ということなのだろうか。

しかしいずれにしても現代の日本では「上から目線」が嫌われる状況は依然として続いている。
その点をちゃんと覚えておかなきゃなあ、と改めて思った次第です。はい。
posted by ヤス at 10:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月27日

ブーメラン

最近ネットニュースなどで「ブーメラン」という言葉をチラチラ目にする。
結論から言うと、わたしはこの言葉が嫌いだ。

これは典型的には、民進党があることで自民党批判をしたら過去に民進党にも同様の失敗があって、自分が発した批判が自らに帰ってくる、そんな場面に使われる。
直近では、加計学園問題で民進党が自民党を追求していたら、過去に民進党議員も加計学園の認可を強硬に後押ししていた事実があって、晴れてブーメラン成立。
これを使っているのは、一部のネット民とマスメディアでは主に産経新聞あたりである。

流行り言葉というのは、流行っているからこそ使うという側面がある。
最近は流行り言葉の寿命もだいぶん短くなっていて、旬を逃していつまでも使っているとただの痛い人だ。
だから流行りに鈍感なおじさんは、あまり調子にのって使わない方が身のためである。
ただブーメランというのはただの流行り言葉でもない。

これはある種の省略表現である。
民進党には過去に何度もブーメランを起こした実績がある。
だから「民進党またブーメラン」と言えばそれだけで全てが了解される感じがある。

だから少し頭の弱い一部のネット民は好んで使うことになる。
とりあえずブーメランと言っておけば敵に痛撃を与えた感じが出せるから便利なのだ。

ただ少し前にネットニュースで「今度は自民党がブーメランか?」みたいな記事を見かけたこともある。
あまり考えるまでもなく、一般に批判の応酬がなされる場面では、発した批判が自らに帰ってくるというのはかなり普遍的な現象である。
例えば「あなた今嘘つきましたね」と批判した場合、ほぼ全ての人類は過去にいくらでも嘘をついた経験があるはずであるから、ブーメラン批判を気にしていたらそういう指摘はできなくなってしまう。

それが例えば公式の政治的な場であるならば、その指摘された嘘にのみ焦点を当てて真摯に議論すべきである。
決して批判者に対して「ブーメラン」で返すべきではない。
「お前だって嘘ついたことあるだろう」と返すのは、ただのバカで政治家の資格はない。

しかし現実には、日本の政治の場、あるいはメディア報道などではこの手の批判返しが横行していて暗澹たる気分になる。
まあ最近は日本だけでなく、国際的にそういう感じなっているのかもしれないが。
あるいは昔から日本の政治はその程度のものだったのだろうか。
誰か教えて欲しい。
posted by ヤス at 13:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月26日

日本人の保険好き

日本人は保険好き、というのをよく聞く。
最近ではアメリカで、健康保険強制加入の制度であるオバマケアを巡って一悶着あったが、ああいう騒動も日本では起こりようがない。
健康保険なんていうのは最初から入るのが当たり前の日本人と、できることなら保険はなるべく入りたくないアメリカ人の違いだろう。

保険には健康保険以外にも生命保険とか損害保険とか、宇宙ロケット打ち上げの際の保険とか、色々ある。
わたしもできることなら保険にはあんまり入りたくない人なので、保険のことにはとんと疎いのであるが、しかし少し保険商品について思いを馳せるとその大まかな分類が頭に浮かぶ。

健康保険とか、生命保険とか、あるいは失業保険などもそうだと思うが、これは来るべき不幸に備えるための保険である。
病気にならなかったり失業しなければそれでやれやれだけれど、世の中的には結構な割合で病気になったり失業したりする。
ただそれで保険に入ったからといって保険が病気を防いだり失業を事前に阻止したりするものではなく、そうなった時にいくらかの金銭的な補償があるというだけのことである。

つまりそうなった時にせめて金のことで悩む可能性だけでもあらかじめ封印しておこう、というのが不幸に備える保険商品であると思われる。


それに対して、ロケット打ち上げの保険とかはリスクチャレンジを後押しする性格を帯びた保険である。
銀行からお金を借りる時の保証制度による保証料などもその種の保険であると言えなくもない。

これらのリスク保険は、頑張って何かにチャレンジする時、当然そのチャレンジはかなり無理をしているのでそこそこの確率で失敗する可能性があるわけだが、失敗した時に「全損」にならないようにするためのものである。
このようなリスクチャレンジを後押しするタイプの保険があるおかげで、世の中の進歩が促進されるご利益がある。

どちらかというと、欧米的な保険の発想はこっちの方なのであろう。
しかしどうも日本で保険というと、前半に述べた不幸に備えるタイプのものがスタンダードになっているような感じがする。

日本人は世界各国に比べると、抑うつ傾向が強く心配性であるとか不安に対する耐性が弱いとかいう話もあるのでそういう関係なのかなあとも思う。

もう一つ欧米諸国で不幸に備える保険が人気がないことの理由として、将来の安心よりただいま現在の現金の方が大切だということもあるのだろう。
通常は生命保険でも健康保険でも、毎月けっこうな金額を支払わないといけない。
保険制度に対するそれなりの信頼がないと払えないような金額である。

日本人の場合、自然環境と調和し、周囲のそこかしこに八百万の神様を感じて生きている国民性であるので、「仕組み」に対する「漠とした信頼」のようなものがいつの間にか醸成されているのではなかろうか。

保険の仕組みに限らず、世の中の大きな仕組みに無条件に依拠する傾向というのが日本人には強いのではないか、と少し思ったのである。
posted by ヤス at 09:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月25日

猫動画の流れ

この2〜3日、YouTubeで猫動画をよく観る。
猫動画のついでに犬動画も観る。
以前にも少しはまった時期があったので、今回は自分的に第何次かの猫ブームである。

しかし猫動画を観ていると、時期ごとに多少傾向の違いがあることに気づく。
以前に猫動画業界を席巻したジャンルとして「猫鍋」があった。
土鍋をさりげなく机の上に置いておくと、猫が勝手に鍋に入り込んで、鍋の円形に沿って丸くなるというアレである。

しかし今回猫動画をいくつか観ていて、YouTubeが「お勧め」してくるのに猫鍋動画はひとつもなかった。
この業界も、トレンドの流れは早く激しいものらしい。

逆に少し目についたのに赤ん坊を守る猫シリーズみたいのがあって、人間のお母さんが人間の赤ん坊に触ろうとすると、猫がお母さんと赤ん坊の間に割って入ってお母さんの「暴力」を阻止するというものだ。
これには犬版もあって、また赤ん坊についても生後数ヶ月の本当の赤ん坊以外にも3〜4歳くらいの大きくなった子供版もある。

そこでは3〜4歳の子供に対してお母さんが素手またはスリッパで叩く素ぶりを見せる。
もちろんお母さんは本気ではなく動画用のやらせである。

お母さん(もちろん人間の)が子供をスリッパで叩こうとするジェスチャーを見せると、それに気づいた猫(または犬)がお母さんのスリッパを持った手に飛びついてこれを阻止しようとするのである。

こういう動画は、いちばん最初は世界のどこかで本気で子供を叩こうとしているお母さんがいて、それに飼い猫が反応して阻止された、という事件が偶然に発生し、その一件で猫が子供を守ろうとする習性に気づいたお母さんが子供を叱るのそっちのけで「事件」を再現して動画に収め、YouTubeで配信した、というのが始まりではないかと想像するのである。

で、この、猫が子供を守ろうとする動画に触発された人で家に猫と子供がいる人々が、次々とこれを模倣し、素手で叩くのにスリッパを加えたり子供の方も大げさに怖がるふりをしたりの過剰な演技を加えたりで、だんだんバリエーションを加えて全世界的に広がっていったのであろう。

いや、最初は犬が子供を守る動画だったのが、猫でやってみたらやっぱりちゃんと反応したよ、ということだったのかもしれない。

犬が先か猫が先はともかく、ネット動画の世界にはこのようにある動画に触発されて自分もそれに乗っかる、それが次々と連鎖してひとつのジャンルになる、という流れが出来上がっているようだ。
しかもこれらの動画は英語も中国語もロシア語もあって、猫動画や犬動画における共感は国境を越えて世界共通のものなのだなあということが改めてわかる。

最近の世界にはテロなどのきな臭い事件も多いが、一方でネットによって国境を越えて気持ちがなんとなく繋がる、という流れがあることは結構重要ではないか、とも思ったりするのである。
posted by ヤス at 08:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月24日

電子的なメールに関するストレス

20年以上の大昔、ほんの一瞬期間だがパソコン通信をやっていた。
知人から、ニフティサーブというのがあって便利だと勧められて始めたのである。
モデムをアナログ電話回線につなげて、「ジー、ガリガリー」といかにも今通信やってますという大げさな音がする方式が懐かしい。

ニフティでは「電子メール」も使っていた。
といってもメールの相手は3人くらいしかおらず、今のように迷惑メールが毎日何百件も届くことももちろんなく、かなり静かなメール生活ではあった。

で、その後1995年に日本でもインターネットが始まり、間も無くニフティをはじめとしたパソコン通信サービスも次々と終了してしまった。
その頃であろう、「Eメール」という言葉を聞くようになった。

どうも「電子メール」と「Eメール」はひょっとして違うのかもしれない、というぼんやりとした疑問が生まれたのはその時からである。
実際のところ電子メールとEメールは違うのだろうか。
かつてのわたしは、仕事の場面で「じゃあ今度電子メールで送っときます」とか言うたびに、本当は、ここはEメールと言った方が正解なんじゃないか、とどこか不安で自信なさげだったように思う。

時代が少し降って現在に近づくどこかの地点で、いつのまにか電子メールにしろEメールにしろ単に「メール」と呼ぶ人が多くなって、わたしの不安によるストレスも随分楽になった。
楽にはなったけれど疑問が解消したわけではなかった。

で、今さっき思い切って電子メールとEメールの違いをググってみた。
驚くべきことに、これは世間的にはほぼ同じもの、というのが通説のようである。
なんだどっちでもよかったのか、と今更ながら思った。

多分電子メールという言い方は、ニフティやPC-VANのサービス名をそのまま引き継いでおり、Eメールというのはパソコン通信でないインターネットメールのこと、という使い分けが当初はあったのではないか。


ところで、最近はLINEとかFacebookメッセンジャーとか、普通のPCメール以外の通信手段がたくさん増えている。
LINEやFacebookだと、主たる送受信デバイスはスマホになるのでより手軽に使える。
あるいはスマホに着信通知があるから電話的に即時性の高いやりとりができる。

実際、最近は2〜3行で済むような軽めのメッセージのやり取りではめっきりPCメールを使わなくなった。
これは手軽にできるかどうかというのもあるが、PCメールでは冒頭に

「○○様 いつもお世話になっております」

みたいな時候の挨拶的な一文を入れないといけない雰囲気があってそれが重い、というのが案外理由ではないかと思う。

これはEメール黎明期に、Eメールが手紙の代替としてあったことが原因だろう。
本当に、あの冒頭の「お世話になっております」みたいな一文は書くのも読むのも面倒臭い。

ということで最近は、PCメールにおいて「○○様」も「いつもお世話になります」も可能な限り省略している。
まあそれはそれで、いきなり要件から入るメールを受け取った人はどう思うかな、とほんの少し不安に思ったりして、このように「電子的なメール」に関する不安のタネは尽きないのである。
posted by ヤス at 14:05| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月23日

無理好きの本能

さて、いつも同じことばかり書いているような気もするのだが、人間というのは、無理をするい生き物であると思うのである。
無理をするというのは、野生動物にはない「自我」の働きによるものであろう。
野生の世界では無用の無理はしないのが決まりである。
しかし人類は無理をすることによってDNA的生物進化とは別系列の人工的進化の道筋を手に入れた。

今、日本の陸上競技界では日本初の100m10秒切りが話題になっている。
100m競技の最初の公認世界記録は、ウキペディア情報によると1912年の10秒6であるらしい。
思ったよりも速い。

そこから56年後、メキシコオリンピックで9秒9の記録が生まれ、100年ほど経過してボルトが9秒58というのを出した。
人類は100年かけて100mの記録を1秒縮めたわけだ。

陸上競技でも水泳でもその他のスポーツでもそうであるが、競技の一線で活躍するには厳しいトレーニングは不可欠である。

そしていつも思うことだが、特にタイムなどの記録を競う競技の場合、世界記録は時とともに確実に少しずつ向上している。
マラソンは2時間切りを目指し、100m走は次は9秒4台がターゲットになるのだろう。
現代人はどちらかというと確実に野生生活からは遠ざかり、体力的には厳しくなっているような気もするのだが、しかしスポーツの記録は上がる一方。

これは走り方のフォームやペース配分、スタートのテクニックなどの技術系の知見が積み上がり、そして同時にトレーニングの技術も進化しているからだ。

そしてスポーツのトレーニングはある種究極の「無理」であると思う。
トレーニングの進化というのは、「無理」の仕方の進化である。

人類は、もはや狩をするために速く走る必要もなく、ただ移動するなら自転車やバイクだってある。
しかし記録のためだけに、科学技術も総動員していろんな種類の「無理」をするのだ。

マラソンのトレーニングも、疲労骨折とか怪我をしないギリギリまで追い込んだ「無理」をした選手がオリンピックなどで勝利を得る。

人類の社会でこのように各種のスポーツが盛んなのは、人類の「無理好き」が反映されているような気がする。

おそらく人類の「無理好き」は本能的なものである。
ふとした瞬間になんとなく無理してしまうのが人間というものではないか。

そして現在日本で議論が巻き起こっている「働き方改革」にも、このような人類の「無理好き」本能に関する考察が必要ではないか、とも少し思うのである。
posted by ヤス at 12:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月22日

日常のリスク

YouTubeにはいろんな動画がある。
中に「動物系」というのか、野生動物の生態を捉えたようなジャンルもある。
この間観ていたら、たぶんアフリカだろうか、サバンナの池のほとりにハイエナらしき黒い犬みたいな影が10頭くらいたむろしている。
そして池の水際にはイノシシが1頭、水を飲んでいる。

ハイエナの群れとイノシシの距離は10mくらい。
けっこう大きいイノシシだが、ハイエナが束になって襲えばイノシシに勝ち目はあるまい。

しかしハイエナは襲おうとしない。
お腹が一杯なのだろうか。
と、思っていたら池の水面にスーッとワニの背中が浮かんできてイノシシの背後でピタリと止まった。
しかしイノシシは気が付いてない。

次の瞬間、ワニはイノシシにかぶりつき、あっという間に水の中に引きずり込んだ。
そうしたらどこから湧いてきたのか、別のワニが数匹出て来てそのイノシシに好き好きにかぶりつき始めた。
しかしハイエナの群れはその激闘を横目に何事もなく平然としている。

というだけの動画である。


イノシシの歴史において、このような水辺でワニに襲われる事件はもう数限りなく発生したことだろう。
にもかかわらず、動画のイノシシはあまりにものんびりと水を飲んでいた。
生物進化の方向として、水辺では極端に臆病になるような、ちょっとした水音に驚いて飛び上がる方向への進化というのはなかったのだろうか、と、どうでもいいが思った。

しかし考えてみると、水を飲むというのは多くの野生動物にとって欠くべからざる必要な行動である。
イノシシの日常においては、餌を食い水を飲むというのが重要な大部分を占めるであろう。
とすると、しょっちゅう水は飲まねばならないのに、そこでいつもビクついていると返って精神衛生上よろしくないかもしれない。
多少のリスクには目をつぶって、のんびりと水を飲んだ方が良いということがあるのか。
そもそも水辺でワニに捕食される確率というのは、せいぜい1%くらいとか、あまり高くないのかもしれない。

それならば、100頭につき1頭の犠牲は無視しても健康上必要な量の水を心置きなく飲んだ方がイノシシ集団全体としては合理的な選択と言えるだろう。

ということを思ったのだが、以上のことはわたしの個人的な想像であって、イノシシの実態に合っているかどうかは知らない。

人間世界においても、道を歩けば事故に遭うとか、日常行動にもいろんなリスクがあり得る。
前述のイノシシに関する想像から、日常的にあるリスクをあまり気にし過ぎるよりは、多くの場合でリスクは無視した方がいろいろと精神衛生的によいよなあ、ということを連想したのだった。

ちなみにハイエナは、ほとんど水は飲まなくて平気らしい。
ハイエナがいちばん賢い、と少し思った。
posted by ヤス at 15:53| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月21日

小さい誤解の積み重ね

コミュニケーションは難しい。
当たり前の話である。
しかし最近の情報化社会では、その難しさがさらに加速している。

まず、コミュニケーションの総量が増えている。
現代では目の前にいる人と話す以外にも、電話をしたりメールやラインをしたりしてコミュニケーションをする。
さらに、今に始まった事ではないがテレビや新聞・書籍やネットから膨大な量の情報が流れ込んでくる。
そういう一方通行的な情報の流れも、ある種のコミュニケーションであるように思われる。
そのようなメディアから流れてくる情報を受け取るコミュニケーションにおいて、今はフェイクニュースとかあって、意図的に偽の情報を刷り込む、というようなことが多く生じるようになった。

我々現代人は、ただでも電話やメールやラインで次々に流れ込んでくるメッセージを処理しないといけない。
そんな忙しい中では情報判断もかなり瞬間芸的なものになり、いちいち時間をかけてフェイクニュースの見極めを行うことは困難である。


コミュニケーションの難しさ、言い換えると「コミュニケーションの失敗」というのは、「誤解」が元で生じる。
メッセージを発した人は「A」の意味で伝えたのに、受け手側は「B」とか「A’」とか少し違うふうに解釈する。
その解釈のズレが許容範囲内であればコミュニケーションは成立するが、「A」を「Z」くらいに解釈するような大きな誤解が生じると非常にまずい。

昔の国語の授業で「方言の難しさ」みたいのがあった。
「この書類を保管しておいてください」という指示を受けた人が、多分その受けた人は関西人だったのだろうか、「この書類をホカしておいてください」と受け止める、みたいな話だった。
そんな冗談みたいな誤解が実際にあるのかどうかは知らないが、メッセージの発し手と受け手のやり取りはそれくらいに危ういものである、という説明にはなっているようである。

しかし考えてみると、「A」を「Z」に間違うことは滅多になくても「A’」や「B」くらいに間違うことはしょっちゅうあるような気もする。
というか、ほぼすべてのコミュニケーションには、必ず多少の誤解が生じているに違いないとさえ思うのである。
情報の発し手と受け手では、人生経験も価値観も必ず多少は違う。
その間のやりとりにおいて、デジタル的に1mmの狂いもなく情報伝達が成功するというのはまずあり得まい。

これを前向きに考えると、DNAの複製ミスが何万年も積み重なってちょっとづつ生物進化が生じるように、コミュニケーションにおけるごく小さい誤解がたくさん積み重なって、ある種の「新しい概念」が生まれているのではないか、という気が少しだけする。
その「新しい概念」がどういうものかは、言葉ではうまく表現できない。

こういう時こそ誰かに適切な誤解をしてもらえればいいのではないか、とちょっと思った。
posted by ヤス at 10:52| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月20日

擬似的に超える体験

さて、再びマラソンの2時間切りの話。
今月の初めにイタリアで行われたナイキのマラソン2時間切りに挑戦するイベント「ザ・ブレーキング2」であるが、このイベントでケニアのキプチョゲ選手が2時間0分25秒で走り、目標まであと25秒まで迫った。
このイベントではランナー3人に対しペースメーカー30人が入れ替わり立ち替わりで入り、急カーブと風の影響を極力排した周回コースという「非現実的」な環境で行われた。

だからこの記録はもちろんマラソンの公認記録にならないし、イベントで出た記録に対する批判の声も出ている。
例えばドーピング検査の有無。
このイベントは公式レースではないので当然ながらドーピング検査が行われていないのだろう。
多分3選手はドーピングはしていないような気がするのだけれど、しかし今のところそういう情報は伝わってこない。

このイベントでは3人のトップランナーに対し、日本円で5千万円以上の「参加賞」が出ているらしい。
しかも2時間切りを達成したらボーナス1億円というのもあった。
またこのイベントはナイキのシューズの販促という目的があったので、主催者であるナイキ側としてもドーピングを止める積極的な理由はない。

このようにお金が絡んだ中ではドーピングの動機は十分にある。
しかし一方でドーピングしてしまうと「人類の限界を探る」というイベントの趣旨が台無しになる。
そこのところはどうなのだろうと思った。


わたしは昔競泳をやっていて、練習の時に半分遊び・半分本気で足にフィンをつけて泳ぐことがあった。
フィンをつけるとものすごく速く泳げる。
自分の実力が一気に3段階くらい上がる感じになって、異次元のスピードを体感できる。
しかし水泳でもなんでもそうだと思うが、たまには自分の実力をはるかに超えるスピードを体感する、というのはそれなりに役に立つことだと思う。

フィンをつけているという「ズル」はあるものの、しかし擬似的にせよ実際に速く泳ぐ体験をすると、脳みそ的にはまるで実力で速く泳いだかのような錯覚に陥る感じがある。
速く泳いだことの「体験」によって、自分はもっと速く泳げるという気分が生まれる、脳内のある種のブレーキを外す作用が生じるような気がする。

冒頭のマラソン2時間切りの挑戦イベントも同じで、「ズル」をしたとはいえ人の足で2時間で走ったという事実はそれなりに重い。

たとえ「ズル」をした擬似的な体験とはいえ、自分の実力をかなり超えた体験をしてみるのは意味があるような気がする。

そういうことでいうと、月へ行った宇宙飛行士なんかは科学の力を使って「生身の人間」の実力をはるかに超えたわけで、本人はもとより人類全体に与えた精神的影響というのはかなりあっただろう。

というようなことをちょっと考えた。
posted by ヤス at 11:20| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月19日

捨てる痛み

多くの人間にとって、何かを得る喜びよりも何かを失う悲しみの方が大きい、そういう話をたまに聞く。
だからなのだろう、物が捨てられなくてだんだん家が狭くなるという現象はかなり一般的のようである。

わたし自身を振り返ってみてもなかなか物が捨てられない。
この間も、自分的にはかなり思い切ってもう長いこと着ていない服をいくつか廃棄処分した。
もともとわたしは、仕事の時以外は大抵ジャージとTシャツで生きているので、それ以外の服は本来ほぼ必要ではない。

しかし長く生きていると、さほど必要でもない服が、いつの間にかたまっている。
ユニクロで買った2千円くらいの上着とか、つい出来心で買ってしまったようなものなどである。

それで少し思い立つことがあって、そういうのをばさっとまとめて捨ててみた。
今まで不要の服が占めていた空間が解放されて、確かに家の中がスッキリしたように思う。

しかし服を捨てるときに、胸の奥にかすかな「痛み」を感じたのは確かである。
週に2回あるゴミの日に、そういう痛みを感じることはない。
人間は、ゴミを捨てるときには痛みを感じない。
しかし日常の品を「ゴミ化」するとき、まだ実用に耐えるものをゴミに変換するときに、心に痛みを感じるものらしい。


TV番組などでアイドルが先輩の要らなくなった服を後輩がもらうみたいな話を時々している。
これは職業柄、私服も新しいのをどんどん導入していないと次の握手会に行けない、みたいなことがあって、しかし家の収納キャパシティには限界があって既存の服を処分しないといけない。
そういう時は捨てるのはストレスになるので誰かにあげてしまおう、ということなのだと思う。

服以外では書籍も捨てられないものの最右翼であろう。

ということで、服にしても書籍にしてもリサイクルショップができていて、不要のものを引き取ってくれる仕組みができている。

そう言えば先日来、ブックオフの経営悪化のニュースが流れている。
これは中古品ビジネスそのものが縮小したのではなくて、ブックオフの顧客がネットオークションに流れていっている結果らしい。

ブックオフには定期的にマンガなどを持ち込む固定客がいるのだろう。
そういう客は、少しでも高く売れるほうがいい。
手間を考えてもネットで売ったほうがよさそうなら当然そっちに流れるだろう。

しかしこの場合買取価格の高低だけが集客要素になって、それだとリサイクル業者的には厳しいのではないか。
もっと、物を手放す時の心の痛みを考えた商売を考えたほうがいいんじゃないか、とふと思ったのだが、もう考えてやっているところもあるのかもしれない。
いずれにしても、ものを捨てるのはなかなか大変だと思った。
posted by ヤス at 10:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年05月18日

寿命について

昔は人生50年といった。
現在の人間の平均寿命は、日本では80歳くらいのものである。
しかし他の動物では長生きするのがいるらしく、ある種類の魚は400年とか生きるというのがネットニュースで流れていた。
なんでもニシオンデンザメというサメの仲間らしい。

しかもこれは野生生活における寿命が400歳ということである。
野生動物では、怪我をしたり病気をしたりして五体満足で無くなると、おそらく生きていくことが難しいだろう。
そう考えるとこの寿命400年というのは、人間でいうところの健康寿命と考えて良いのではないかと思う。
それなりの活力を保ったままの寿命400年。

もし、人間が元気で400歳まで生きられるとしたらどうなるのかと少し想像した。
もっと卑近に自分があと300と何十年か生きられるとしたらどうか。

これはあるいは、今よりももっと怠け者になってしまうのではないかと思った。
現在の人間の寿命が80年くらいというのは、やはりそれなりに意味がある。
わたしの場合で言えば、平均寿命の真ん中をもう過ぎている。
今後の医療の進化を考えると、思いがけず100歳くらいまで元気に生きることができるかもしれない。
しかし平均余命の統計データからすると、あとせいぜい30年と少しくらいがいいところである。

死にかけるような大事故や大病を経験していないと、歳をとってもなかなか己の寿命の限界というのを実感できないもののようである。
しかし多くの人は平均寿命の折り返しを過ぎたあたりから、なんとなくではあるが「デッドエンド」の存在をぼんやりと感じるようになるのではないかと思う。


しかし、人間の平均寿命というのはなかなか絶妙な年数になっている。
何かを成すには短く何もしないには長いとはよく言ったもんで、しかし人は永遠に生きられないからこそ生きているうちにやりたいことをやってしまおう、と思うのだろう。
人間の行動が動機付けられる根底には、人はいつか死ぬというシンプルな理屈がある。

しかもそれが300年とか500年でなくてせいぜい100年足らずというのが非常に良い。
微妙に焦る年数である。
もし人間の平均寿命がニシオンデンザメ並みであれば、今の社会の様子も相当に違ったものになっていたのかもしれない。

あるいは寿命が50年とか80年とかいうのに合わせて、人間は行動の選択をしているのかもしれない。
ということえ当たり前のことであるが、寿命のタイムスケールが人間の行動に与える影響はかなり大きいというのを、ちょっと思った。
posted by ヤス at 12:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年05月17日

私への理解

最近YouTubeを見ていて、その中に「ガイジン」が日本で暮らしていて感じることをレポートするのがあったのだが、そこでガイジンさんが「だいじょうぶです」「けっこうです」「いいです」などの使い方が難しいというのを言っていた。

英語表現では「Do you need this?」と尋ねられたら、要るときは「Yse」要らなければ「No」と答えれば良い。
しかし日本語の場合、「これ要る?」と尋ねられたら、どちらかというと直接的に「要らない」とはなかなか言わない。
たいていの場合、「だいじょうぶです」「けっこうです」「いいです」などという。
しかしこれらの表現は、表面的な意味としては「Yes」である。

そこの使い方が日本語ネイティブでないガイジンさんには難しいらしい。

よく考えてみると、このような表面的に肯定的な表現で否定の意味を伝える方法は、コミュニケーションとしてはかなり回りくどい。
家族や親しい友人同士なら、「要る?」「要らない」というシンプルな問答が成立もするのだろうが、少し対人関係の距離が離れると、そういう直接的なやりとりが困難になるようである。

例えば「けっこうです」についてである。
本来の「結構」は、「非常に」くらいの意味なんだろうと思う。
「結構なお味です」「結構なお値段」とか、「非常に」「ものすごく」など程度がすごいようすを表すと思われる。

それが否定に使われるときは、「ビールもう一杯どうよ?」「結構です」というのは、「もう結構な量をいただいたので要らないよ」というニュアンスを略しての「結構です」なのではないかと思う。
ただ直接否定の答えを返すと相手に申し訳ないというのがあって、結構な量をいただいて満足したよ、だからもう要らないよ、というのを伝えているようである。


しばしば日本人は単一民族であると言われる。
実際、言語的にも文化的にもまあまあ全国共通していて、その意味では日本人同士なら相手の腹の中はだいたい想像できそうなものである。
逆に言語や文化・宗教など様々なバックグラウンドの人でできている社会では、相手が何を考えているのかわからないことも多かろう。

相手のことが比較的わかる日本においてコミュニケーションが婉曲に、優しい感じになって、わからない人同士の社会で直接的になるのは、どういうことなのか。
わからない同士では、他に解釈の余地がないようにスッパリやりとりした方が誤解が生じない、逆にわかっている同士では、「そこのところわかってよ」という感じのやりとりになる。

つまり日本的なコミュニケーションは、「私への理解」を相手に強いる部分があるのだと思う。
こういうことは外国であっても、例えば企業同士のやりとり、外交的な駆け引きなどではままあると思う。

で、日本ではそういう高度な駆け引きを日常「庶民同士」でやっているのに、企業や国のレベルの駆け引きが必ずしも上手くないのはどうしてだろうか、などとちょっと思ったのでした。
posted by ヤス at 10:34| Comment(0) | 徒然なるままに