2017年07月28日

最近の政治について

さて、日本の政治は森友問題とそれに続く加計問題で揺れている。
当初わたしはこの問題は政権側がのらりくらりでかわしてそのうち収束してしまうのだろうと予測していた。
しかしそうはならなかったわけで、その原因としては政権側の危機管理の甘さがあったような気がする。

一連の問題は疑惑の段階であって、何か具体的な違法行為が認定されたわけではない。
しかし政治問題としては違法認定の有無はそれほど問題ではないだろう。
それよりは国会や記者会見などでの首相はじめとする政権側の人々の姿が国民にどう映るかが問題である。

そこのところが現政権には正確に見えていなかった。
ついでに言うと森友や加計の学校認可に至る一連のプロセスも非常に鷹揚な感じで、悪く言えば雑な感じであり、そこには将来問題が疑惑化したときに備えて何か布石を打っておこうという感じが全然ない。

一連の問題が仮に何の不正もなく行政手続も政治の関与も適法であった場合でも、将来あらぬ疑惑がかけられないように身ぎれいにしておこうという配慮があったように見えないのである。

「政治的」には疑惑がかけられると一定のダメージが生じるのは確実なのであり、そのへんの配慮が足りなかったのは一強体制のおごりと言われてもしょうがない。

何かもう政権の終わりが近いような書きぶりになってしまったが、もちろん当分の間現体制が続くことはまだあると思う。


ところで今回の問題がここまで大きくなった背景には、経済問題が実は大きく作用したように思う。
安倍政権が誕生した当初の平成12年12月頃は、リーマンショックと東日本大震災による経済的な落ち込みから自律的に回復している途上にあった時期である。
いったんドンと下がったところから元の水準に回復するその上昇気流に安倍政権は上手く乗って力を発揮してきたのだと思う。

この間に株価も上がり企業利益も増加した。
しかしそこから4年余り経過して自律的回復が一服すると、今度は下がり続ける実質賃金や達成のめどが立たない日銀のインフレ目標などがだんだん目立ってきた。

その中で当初喧伝されていた「三本の矢」もほとんど話題にのぼらなくなり、代わって打ち出した「新三本の矢」「一億総活躍」もどうも不発のようで、安倍政権としてはこれまで政策運営を下支えして来た経済的成果が見込めなくなり、それとともに政権は「神通力」を失ったようである。

しかし今の経済的状況を考えると、安倍さんが続けるにせよ他の人に代わるにせよ、今年後半以降の政権運営は少なくとも経済的には相当に厳しいと思う。
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2017年07月27日

未来の組織について

前にも書いたが、今サラリーマン社会が曲がり角を迎えているように思える。
二百年以上昔の社会では、労働者というのは農業従事者や街の自営業者が圧倒的多数であり、「宮仕え」の身分はかなりの少数派だったと思う。
それが産業革命と資本主義企業経済の発展で、会社に雇われる労働者が多数派になった。

特に20世紀までは、工場や小売店などで比較的単純な定型労働がたくさんあって、そこに大量の労働者需要があったわけであるが、21世紀になって情報技術の進展による省力化がどんどん進んできた。
20世紀半ばから進行していたロボット化と合わせて、単位生産量あたりの必要労働者数というのがだんだん少なくて済むようになってきた。

さらに、人工知能が実用化されればかなり複雑な労働も「機械」に置き換えられようかという時代がやってこようとしている、と言われている。

果たして本当にそんな時代がやってくるのかにわかには信じられないわけであるが、しかし人間を雇うより人工知能化した方がコスト的に有利ということになれば、そっちの方に傾くのが道理だろう。


さらに、ビットコインなどで脚光を浴びた「ブロックチェーン」の技術が出てきて従来からの組織のあり方がかなり変わる可能性が出てきたのではないかと思う。

人間は社会的動物であって、現代では会社とか国家とか町内会とか様々な組織が機能して人間の世の中は出来上がっている。
そして組織というのはその維持のために「引力」が必要である。

会社であればそれは経済的利益であり、組織として協力して事業にあたりお金を稼いでみんなに分配する、そういうご利益を共有することで維持されている。
国家であればみんなで税金を出し合って自衛のための軍隊や社会保障の仕組みを共有する。
さらに国家の場合は民族や宗教、あるいは建国の理念とか、国民を束にするための「精神的紐帯」が必要であったりする。

また組織維持のために重要なのは「信用」である。
組織の中で利益をネコババしたりあからさまな不公平が生じたりする不正が蔓延すると、たちまち組織は瓦解する。
だから大組織というのは、国家でも企業でもかなりのコストをかけて不正防止に努める。

ブロックチェーンというのは、やや乱暴に言えばほとんどコストゼロで「信用」が担保できる技術である。
現在は議員を選んで議会で行っている民主的決定というのは、その運営維持に莫大なコストがかかっているが、ブロックチェーンで「議員レス」の民主主義ができる可能性もある。

企業の場合も同様に、ブロックチェーン技術により取引や内部管理で「原理的に不正のできない仕組み」が出来上がる可能性がある。

また今の会社と「正社員」の固定的な関係というのも変化し、社員の側は持てる能力のうち必要な分だけを会社に提供するようになる。
だから有能な人は複数の会社に自分の能力を提供し、会社の側は固定給を払うのではなく労働者から提供された分だけを払ってコストを節約する。

そうなると中には仕事にあぶれる人も出てくるが、そこはベーシックインカムによる必要最低限のセーフティーネットを整備する。

そういう未来の想像をしてみたが、まあ全然そうはならないのかもしれない。
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2017年07月26日

視点移動

将棋界のレジェンド、加藤一二三氏の必殺技に「ひふみんアイ」がある。
ひふみんアイの効果について、あるプロ棋士は「普通のプロ棋士なら頭の中で盤面をひっくり返せるのでわざわざ相手の後ろに回る必要があるのか・・・」と言っていたし、別のプロは「視界が変わり、それなりに新しい発想が得られるのでは」と語っていた。
一体どっちが本当なのだろう。

ひふみんアイの効能の是非はともかく、視点を変えるということはしばしば思いがけない新しい着想をもたらすことがあるのは事実だろう。

ホリエモンが中心的に関わって開発中のロケットが、いよいよ今月打ち上げられるらしい。
到達高度100kmに20キロ程度のペイロードしかないささやかなロケットであるが、今こういう小型のロケットに対するニーズがかなりあるという。
最近の電子機器の進化による人工衛星の小型化でロケットも小さくて済むようになっており、そなると衛星の打ち上げコスト全体がかなり下がる。
コストが下がると様々な用途の人工衛星の商業化が企画されるようになって市場が一気に活性化する。

ところでロケットの商業化の発想は、わたし的にはかなりの視点変更に見える。

考えて見るとロケットの原型というのは、空気と燃料を混ぜて燃やすジェットエンジンなんかより遥か昔から存在する。
いわゆる「ロケット花火」式の火薬を詰めて飛ばす兵器は、今から千年前の中国ですでにあったらしい。
近代的な実用ロケットとしては第二次大戦中のヒトラーのV2ロケットが有名だ。

V2から30年足らずでアメリカのサターンロケットが人類を月まで運ぶところまで行ったけれど、その頃ロケットは重要な軍事技術であったためにしばらくはもっぱら、国家による宇宙開発と核兵器の運搬手段としてしか活用されなかった。

それがおそらく東西冷戦体制の終焉で、一気に民間企業の参入するところとなったわけである。
それともう一つはアメリカのスペースシャトル計画の予算的破綻というのも大きかったと思う。
国家主導でやっている限りコスト削減による商業化は進まないと気づいた人がいて、それで民間企業主体のロケット開発の流れが出来たのだと思う。

ロケットはV2から言っても、実用化からもう何十年も経った技術でそういう意味ではコンピューターなんかよりずっと枯れた技術だからとっくの昔に民間ベースの開発体制になっていてもおかしくなかった。
それが軍事がらみの国家独占体制が長く続いたために「ロケットは国家プロジェクト」的な発想がいつの間にか世の中に定着していた。

そういう一度できた固定観念を乗り越えて「ロケットで商売しよう」と思うのは実はかなり難しいことだと思う。

世の中にはロケットの固定観念と同じようなことがまだたくさんあると思うが、固定観念を打ち破るために意識して「盤面をひっくり返して考える」ような視点移動が大切ではないか、と思った。
posted by ヤス at 09:36| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月25日

ニコン創業100年

カメラメーカーのニコンが7月25日で創業100年を迎えるらしい。
そういうニュース記事が出ていた。
最近のニコンはカメラ不況のあおりで業績が苦しいらしい。

ニコンのサイトでIR情報を確認してみた。

2017年3月期の決算発表も、売上は7488億円で前年の8193億円から9%減。
一方で営業利益は509億円で316億円から38%増。
しかしリストラ費用が計上されて最終損益はマイナス71億円と7年ぶりの赤字決算だったそうだ。

セグメント別に見ると、ニコンの売上はステッパーというLSIなどの半導体チップを製造するための露光装置(=精機事業)とカメラ関係(=映像事業)が2本柱である。
他にはメディカル事業、インストルメンツ事業、その他がある。
インストルメンツ事業は何かと思ったら、顕微鏡とか測量機械とかの測定器関係のようである。
いずれにしても2本柱の事業で売上の84%を占めており、他の事業がそれほどたくさんあるわけではない。

でセグメント別利益では精機事業が510億円の営業黒字で稼ぎ頭、映像事業も277億円を稼いでいる。
しかし売上が全体の2.7%しかないメディカル事業が45億円の営業赤字になっている。
内部重複と本部経費が▲285億円あり、他事業の黒字が52億円を通算して509億円。

前期の営業利益は精機事業が96億円、映像事業が457億円だったので、今回の決算ではステッパーで頑張ったがカメラは儲けが縮小したということになっている。

ステッパーの精機事業は売上も前期の4割増しで好調だったが、やはりカメラ関係の映像部門の縮小傾向が気になる。
映像事業は売上で前期比26%も減っている。
そして2018年3月期の予想では、さらに10%の減少を見込んでいる。
(本当にその程度で下げ止まるのかやや疑問だ)


わたしは1992年頃からニコンの一眼レフを使っている。
デジタル時代になってもニコンのデジイチを使い続けているが、最近はオリンパスPENの出番が圧倒的に多い。
オリンパスは素子サイズが小さいのでボケや画質はニコンのフルサイズに比べるとそれなりだが、やはり軽くて小さいから取り回しがいい。

そして大きくて重いプロ用のカメラは、今後も一定の需要はあるだろうが一般向けには軽くて小さい方が絶対的に有利だと思う。
特にファインダーを電子化したミラーレスの流れというのが今後一層進むと予想する。

ニコンはガラスプリズムファインダーへのこだわりを捨てて、フルサイズ機のミラーレス化を進めるべきだと思う。
この分野ではソニーのαが先行しているが、レンズマウントをFマウントの不変でファインダーを電子化するとニコンファン的には十分魅力的だと個人的には思う。

そしてフィルムカメラ時代のFMやFEくらいの本体が500g台のサイズ感のやつが出ると、個人的には欲しくなると思う。(買えるかどうかは知らない)

あるいは往年のリトルニコン、EMのような400g台が出来るともっといい。

世の中のニコンカメラのファンも年々高齢化し力が弱っている。
だからカメラも小さく軽くが正義である、と思う今日この頃なのである。
posted by ヤス at 08:52| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月24日

擬似的理解

たとえ話は分かり易い。
一方で、抽象的な議論は理解するのに苦労する。
理解しにくい抽象的議論の究極は数学の世界だと思う。

数学の記述は、たとえ話やアナロジーの要素を完璧に除いてある。
このことについてちょっとだけ考えてみたのだが、これは要するに、本当の理解とたとえ話を使った「擬似的理解」はやっぱり違う、ということではないかと思った。

たとえ話がなぜ分かり易いのか。
人間の認知機能は、ある種のパターン認識なのだと思う。
例えば、毛むくじゃらの四足動物でワンワン吠えるのは「犬」という。
そういうパターンが脳の中に出来上がると、犬の大小や色が黒とか白とか多少の違いを乗り越えて「犬」を認識できるようになる。

あるいは格言の世界。
「急いては事を仕損じる」と言う格言を聞いてなるほどと思うのは、あせって失敗したおのれの過去の体験パターンと符合するからだろう。
または「善は急げ」では、いいと思ったことをすぐやったらいいことがあった、という体験があって、なるほどと思える。
これらはお互いに矛盾した格言だけれど、双方に符合する過去の体験パターンがあると、格言に対しなるほどと思える。

人間は物の名前やいろいろな体験パターンを記憶していって、そのパターンに符合するものは「理解」出来るし、自分の中にあるパターンに符合しないモノ、つまり全く新しいパターンに対しては理解が難しい。
そして人間は、目の前の事象が理解できると安心出来るし多少気持ちがよろしい。
しかしそれが理解出来ないものだと不安になり、不快である。
だから少しめんどくさがり屋の人類は、少しの差異には目をつぶって目の前のモノを無理やり自分の中のパターンに当てはめて「理解したことにする」ようにやってきたと思う。

我々人類は、日常生活レベルでは自分の中にあるパターンを使って多少力技でも目の前の事象を理解したことにしてほとんど問題なく生きていける。
しかし一方で、科学の世界やあるいは思想哲学の世界でもそうだと思うけれど、人類的な新しいパターンを発見して付け加えることによってだんだんと進歩してきたのだと思う。

そこでは安易に過去のパターンに当てはめない、「懐疑」の態度が重要である。
そして何か今までにないあたらしいパターンがあるんじゃないかと探索する好奇心が大切になる。

だからたとえ話やアナロジーは分かり易いけれどあくまで擬似的理解だと心に留めておこうと思った。
posted by ヤス at 12:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月23日

結果を受け入れる

長く生きていると、手痛い失敗の経験に数限りなく遭遇する。
そのたびに時間を巻き戻して少し過去に戻りたい、と思ったりするわけであるが、もちろんそんなことは出来ない。


ところで今月はハンガリーのブタペストで世界水泳が開催される。
(もうシンクロとか始まっている)
また8月に入るとすぐ世界陸上もある。

競技によって様々だけれど、選手たちは大会に向けて何年・何ヶ月と準備を重ねてくるが本番レースは一瞬で終わる。

中には時間を巻き戻してスタートからやり直したい、と思う選手もいるだろう。
こういう世界大会に出てくる選手たちは、選りすぐりの人々であるから凡人に比べると失敗ははるかに少ないのだろう。

それでも出場する選手の幾らかは、持てる力を発揮できないまま敗退していくだろう。
本番で安定して実力を発揮できることこそ真の実力ということだ、たぶん。

そしてどの競技でも金メダルを取る勝者はたったの一人しかいない。
(競泳なんかでは稀に同着一位があるが)
その一人の勝者以外は基本みんな敗者である。

しかしこういう一流の競技の模様を観ていると、勝った人がものすごく喜ぶのはもちろんであるが、負けた選手も気持ちよく勝者を称えるのがお約束になっている。
昔の日本の選手は、そういう決着がついた後の勝者への祝福があんまり得意ではないように見えたものだ。
それは、そこまでの精神的余裕がなかったのかもしれず、あるいはただ単に喜怒哀楽の表現が苦手だったのかもしれない。

しかし最近は、概ね海外の選手並みに勝った場合は2位3位になった選手をねぎらい、負けた場合も相手を祝福する仕草が自然になってきた感じがする。


わたしは一流の国際的競技大会に出場する選手の心情を逐一理解できるわけではないが、なんとなく思うのは、決着がついた後の結果を受け入れる時の「潔さ」と競技のパフォーマンスというのはかなりリンクするのではないかと思う。

オリンピックなんかでも、金メダル大本命の選手が番狂わせで負けるケースが時々起こる。
そういう時でも真のチャンピオンは、自分を負かしたチャンピオンを気持ちよく祝福する。
腹の底ではものすごく悔しい気持ちがあるに違いないが、テレビカメラに映る彼の顔は晴れやかな笑顔であったりする。

そういう場面を観ると、わたしも心の涙腺がウルウルくるような年頃になったようである。
時間というのは一方向にしか流れず、勝敗の結果は決して覆らない。
だから結果は良くても悪くてもそのまま飲み込むよりほかはない。
どうせ飲み込むなら、気持ちよく飲んだ方が良い。
理屈ではわかっているのだが、そういう心境にはなかなかなれないものである。
posted by ヤス at 15:29| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月22日

自己評価について

何か新しいことにチャレンジした時、たいていはそんなに上手くいかない。
しかしそこで、上手くいかなかったなりにまずまず良く出来たなと思えるか、または俺って全然ダメだなと思うか、人によって分かれるところだと思う。

世の中にはいろんな人がいて、何をやっても上達が早い人もいればそうでない人もいる。
わたしが上達が早いタイプの人になるためには、新しいチャレンジの結果をどのように自己評価するのがいいのだろう、とふと考えた。

YouTubeで将棋の動画を観ていて、たまたま女流棋士の藤田綾という人が出ているのがあった。
この藤田女流は「絵が下手」で有名で、ある時その実力が衆目の知るところとなり、棋譜解説の時間つぶしのネタとして、ことあるごとに下手な絵を描く羽目に陥った。

しかしこの藤田女流が、下手は下手なのだけれど実に嬉しそうに絵を描いている。
そして時々「今回はとても上手く描けた」とか、満面の笑顔で言ったりする。

客観的に見て、その絵はとても上手に描けたとは言い難い。
百歩譲って藤田女流本人の絵の実力の成長度合いで評価したとして、そんなに上達したとも思えない。
ただ本人としてはなんとなく、「上手く描けたような気がする」ということで嬉しかったのだろう。

この時は隣にいた男性棋士も、うまいツッコミが思い浮かばなくてただただ苦笑していたのだけれど、わたしとしてはこの場面を観て少し感じるところがあった。

人間というのは、時々は無条件に己のことを肯定し受け入れることも必要なのではないか。

それは決して自分を甘やかすとか、不都合な真実に背を向けるとかいうことではないと思う。
人間誰しも完璧ではなく、部分部分によって他の人の後塵を拝するのは仕方のないことである。
しかしそういう自分のダメな部分を喜んで受容するという態度は、これはむしろ必要なことではないか。

藤田女流の場合、絵を描くことは仕事でもなんでもなく下手でも全然構わない。
そもそも絵が上手になりたいという気持ちが画面のこちらに寸分も伝わってこないわけであるが、自己評価にあたってはそういうメリハリが大事なのかもしれない。

人間は、やはり自分が勝負をかけている分野においては自分に厳しく、常に己を客観視していることが大切だと思うが、自分の不得意の部分まで虚飾で糊塗しようとするのは少々格好が悪い。
そこはダメなりにさらけ出してそのまま受容するのが良い。
などと思った。
posted by ヤス at 10:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月21日

値下げ戦略について

商売をやっていると、「値下げの誘惑」にかられることがしばしばある。
値段を安くするとお客さんが喜ぶ。
また、よく練られた値下げ戦略は時として売上を倍増させ利益を大幅に増やすことがある。

吉野家がそれまで一杯400円だった牛丼並盛りを280円に大幅値下げしたのは2001年のことだったらしい。
実に120円、30%の値下げである。
この時吉野家はまだ牛丼一本足打法の時代だったと思うけれど、この値下げによって売上が大幅に増えて利益も拡大したと記憶している。
しかしこの後2004年にBSE騒動があって主力の米国産牛肉の輸入がストップしてこの成功はほんの一時的なものに終わってしまう。

それどころか、定食メニューの拡大などでオペレーションコストが増えたこともあり従来は業界屈指の利益率を誇っていたのが恒常的な赤字状態に陥ってしまう。

似たような事例はマクドナルドでもあった。
マクドナルドも100円マックの導入など、大々的な値下げ戦略で一時的に業績を改善した時期があった。

しかしご案内の通りマクドナルドもやがて行き詰まるのである。

昨日のニュースで日銀の黒田総裁が、インフレ目標2%の達成年次を「2018年頃」から「2019年頃」に先延ばしした、というのが出ていた。
世の中デフレであるという。
最近のインフレ率は1%をやや下回る水準らしいが、1990年代の終わりころから2000年代初めはゼロないしマイナスの状況が続いていた。

特に家電などの製品価格において、価格下落が激しかった。
これは中国やアジア圏の工業化がどんどん進んで安い労働力で高品質のものを作るようになったからである。
だからまあ理屈としてはそれら輸入製品が安くなるのは道理である。

一方で食品価格というのは、1990年代初頭の農産物輸入自由化とかがあって徐々に下がっていたわけだが、最近では投機市場の影響などで上昇する年も珍しくない。
だから今の時代、外食産業で一本調子の値下げ戦略を行うとどのみち行き詰まるのは当たり前だろう。

業界にはサイゼリヤや餃子の王将など、「お値打ち価格」のイメージで商売をやっているところもあるが、そういう企業は仕入れや現場コストも含めて利益の出る原価率設定を行い、価格をほとんど動かしていないように見える。

そして前述の吉野家もマクドナルドも、最近は高単価商品を矢継ぎ早に投入して客単価アップの方向に舵を切り、それなりにうまく行っているようだ。

おそらく今の商売で重要なのは、単純な安さよりもそこそこ高い客単価でいかにお値打ち感を出していくかというところ、それがお客さんも惹きつけ利益も確保する上でポイントではないかと思う。

そういう意味では商品別の原価率をよく吟味して、お値打ち感が出ているかどうか考えることが大切だと思う。
posted by ヤス at 10:53| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月20日

戦争と経営と、個人の才能

人類の歴史は戦争とともにあった、とは巷間よく言われることである。
そして戦争の物語では、天才的戦略家やカリスマ将軍が登場して大活躍するのがおきまりのパターンである。
2千年以上昔に世界帝国を創り上げたアレキサンダー大王やローマ時代のハンニバルやカエサル、諸葛亮孔明や源義経、やや時代が下るとナポレオンや砂漠の狐エルヴィン・ロンメルなど、立場や率いた軍隊の規模はまちまちだが、戦争の歴史には色々と魅力的な人物が登場する。

科学技術の進化はいつの時代も戦争が大きな原動力だったわけであるが、今の時代、技術の進化で戦争の様相は昔とはかなり変わっている。

技術進化が戦争にもたらした最大の変化は、個人的才能が活躍する余地がどんどんなくなっていることではないかと思うのである。
現代の戦争では、敵情偵察は監視衛星や偵察用ドローンで行う。
そうなると経験に裏付けられた個人の感やひらめきは、相対的に地位が低下するのではないか。

必要な情報はモニター画面にクリアに映し出されており、その情報を元に、訓練された士官であれば適切な命令が下せるに違いない。

カラシニコフとRPGを手にゲリラ戦を行なっているような非正規軍であればまだ個人的戦略の才能に活躍の場はあるかもしれないが、少なくとも先進国軍隊の戦闘指揮は個人的才能を必要としなくなったのではないか。


同じようなことが企業活動にもひょっとしたらあるのではないか、とふと思ったのだがどうだろう。

しかし企業における経営の才能というのは、今でもかなり重要であるように見える。
というか近年ますます、経営者の優劣による差が目立ち始めているようにも見える。

世界的に潜在成長率が低下し、20世紀の古き良き時代に比べると企業を急成長させることがおしなべて難しくなっている。
にも関わらず、いくつかの企業は優秀なリーダーに率いられて成長を遂げている。

企業経営の場合、企業の成長と経営者の資質は100%リンクしているように見える。
テクノロジーが進化して経営技術も日進月歩しているが、この分野では個人の才能は依然として必要不可欠である。

戦争と違って経営が相変わらず個人的才能に駆動されているというのは、経営の方が戦争よりかなり複雑で関与する変数が多いということなんだと思う。
将棋の棋譜の可能性は10の220乗のパターンがあるらしいが、経営の場合はさらにそれを上回る複雑系の世界になっているのではないか。

したがって、全く同じシチュエーションというのは二度とは現れず、同じような状況で正反対の結果が出たりする。

そういう複雑系の世界では、リーダーの資質というのが組織の行方をかなり左右する、ということなのだろう。
posted by ヤス at 10:27| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月19日

1日8時間労働など

日本の今の法律では、サラリーマンは原則として一日8時間、週40時間が労働時間の上限ということになっている。
そしてこれを超えて働く場合は残業手当が支給される。
さらに、昨今の働き方改革の議論を通じて残業時間の上限を100時間にしようとかいうニュースが伝わってくる。
この一日8時間、週40時間労働というのはアメリカあたりでも同様の規制があるらしい。

そもそも「8時間労働」は産業革命後の欧米の各種の労働運動の結果、20世紀に入ってから始まったもののようである。
1919年に国際労働機関の第一回総会で1日8時間週48時間を国際的労働基準として確立した、とウィキペディアに書いてあった。

続いて1980年代に日本でも週休二日制が定着して週労働時間が40時間になり現在に至っているわけであるが、しかし一日8時間労働制というのは始まってそろそろ100年経過する制度なわけである。


一日や一週間の労働時間の上限を定める必要というのは、これは世の中にサラリーマンという就業形態が増えたことが根本的な理由なのだろうと思う。
産業革命以前の社会では、人口の大多数が農業従事者であったはずであり、しかも彼らは小作農とは言えいちおう自営業者だったわけで、建前上は労働時間決定の裁量権を自分で持っていた。
一方、街の商工事業者で丁稚奉公する使用人とか、大工や鍛冶屋の弟子とかのサラリーマン的な種類の人々も居たには居ただろうがごく少数であったと思われる。

それがイギリスで勃興した産業革命により、「工場」というものが出来て膨大な労働力を必要とする時代が来た。
そこで田舎の農家から、家で遊んでいる次男三男坊を工場に送り込んで現金収入を得る、という新たな経済構造が出来上がったであろうことは想像に難くない。
しかし工場では一日16時間労働は当たり前、寝る時間以外はすべて労働に充てて効率を最大化しようとしていて、労働者は過労死ラインを超える劣悪な環境を強いられていた。

そこから労働運動というものが発生してマルクス主義なるものも出現し、やがて8時間労働制が出来上がるわけである。(たぶん)

最近100年間の経済構造の流れというのは、ある意味、世の労働者のあらかたがサラリーマンになるという時代変化であったと捉えることが出来る。
そしてこれは「豊かな中産階級」という現代社会を支える経済構造の完成に向けた動きでもあった。

おそらく次の時代はこのサラリーマン構造の変化なんじゃないかという気がする。
ロボットや人工知能の進化は、この変化にとどめを刺す一撃になるのではないか。

そうなると残業時間の上限が100時間とかいう議論も、早晩あまり意味はなくなるよなあ、などと思った。
posted by ヤス at 10:56| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月18日

直感に頼る

先入観というのは、一般的にはマイナスの意味で捉えられることが多いと思う。
昔の人はこの地球は平らな円盤で端に行ったらそこは滝になっていると思っていた。
各種の観測から古代ギリシャ時代に地球は丸いのではないかという人もいるにはいたが、丸いとやっぱり端っこの方から滑り落ちそうで、だから地球は平らに違いないと思ったのも無理はない。

しかし先入観というものはなぜあるのか。
これは、生存確率を高めるための高等哺乳類の学習機能の一つだと思う。
(いつも同じようなことを書いている気がする)

つまり、先入観がない人間よりは先入観のある方が生き残る確率が高いということがあって、人類は先入観機能を保持するに至ったのものと思う。

そういう動物としての生存確率という意味では、先入観は間違いなく良い機能であったのだ。
しかし生き物のその手の機能は、確率的に見ればちょっとだけ正しいというものであって、少なくとも的中率が5割を下回らない、その程度のものである。

しかし人間の場合、他の哺乳類からは数段進化した大脳を持ち複雑な推論も可能であり、かなり先の未来まで正確に見通せるようになっている。
だから論理的推測による意思決定と先入観による意思決定の内容がまるで違う、ということはしばしば起こりうる。

多分そんな時は論理的推測の方が正しいことが多いような気がする。
それどころか、手練れのプランナーによって入念かつ慎重に練られた合理的計画が、素人の先入観によって阻害されて台無しになることだってあるだろう。

人類の論理的緻密さに対し、先入観による生存戦略はそろそろ間尺が合わなくなっているのであろうか。

先入観というのは、やや角度を変えて見ると「直感」と言い換えることもできるだろう。
前言を翻すようだが、ある種のプロフェッショナルの直感は、素人の論理的推論を軽々と凌駕することがありうる。
分かりやすい例としては将棋がある。

将棋というのは駒の動かし方くらいはわたしでも分かる。
そしてここをこう歩で突いたら次にそこの銀が出てきてそしたらこっちの飛車が取られるとか、素人でも目先の1〜2手くらいならなんとか先読みができる。
しかし4手先、5手先と先に進むにつれ、駒の動かし方のパターンが幾何級数的に増えてとてもそれ以上は読み切れない。

だから適当に直感で指して負ける。

しかしプロ棋士の第一人者羽生善治氏によると、プロだって指す時は直感で手を選ぶのだ、と言っていた。

おそらくプロ棋士の場合、その直感の背後にはそれまでの実戦や棋譜研究の膨大な積み重ねがある。
つまり膨大な積み重ねに裏打ちされた直感や先入観は、生半可な論理的推論を凌駕する。

この世界は複雑系であり、どんなに正確に論理を重ねても正解にたどり着くとは限らない。
したがって当分の間人類は、ややあやふやだが己の直感に頼るしかないのだろう、というのが今日の結論。
posted by ヤス at 12:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月17日

人工知能は人間の仕事を奪うのか

近い将来人工知能が発達して、今人間がやっている仕事があらかた奪われる、という議論を聞くようになってすでに久しい。
この議論では、人工知能に職を奪われた多くの失業者が発生するというマイナスの捉え方が一般的なのかもしれない。
しかし他方では、いよいよ人間があくせく働かなくても豊かな文明生活を享受できる世界が来る、とプラスに捉える向きも少数派ながらあると思う。

どっちが正解かというのは現段階では分からないのだが、しかし人工知能が職業的に人間を代替していくことは、まず確実に進んでいくと思わざるを得ない。

根拠としては、肉体労働の機械化・動力化の歴史がある。
4500年前にエジプトでピラミッドが造られていた当時は重機もトラックもなかったから1個2.5tの石材をすべて人力で運ぶしか無かった。
現代なら2.5tの石材は10t積みトラックなら4個積める計算だし、現場で石を積み上げるのもクレーンを使えばほとんど人力をかける必要がない。

もう少し新しい時代で言えば、自動車をはじめとする機械類の組み立ては1970年代以降急速に産業用ロボットが導入されてそこでも省力化が進んだ。

仕事の現場でこのような機械化が進行するいちばんの動機はコスト効率であろう。
人間に給料を払って作業をやらせるよりも、機械を買って代替した方が経済的である場合、もれなく機械化が進むのが資本主義社会の常道である。

同様に、人間のホワイトカラーにやらせるよりも人工知能にやらせた方が経済的であるということになれば、容赦なく職場における人工知能化は進行していくものと考えられる。

過去、肉体労働の機械化が進行した時代には余剰になった労働力は別の産業に徐々に移動していった。
したがって製造業の就業者数が減ってサービス業にシフトする、という現象が進行したはずである。

と思ってネットで調べてみると、日本における第2次産業の割合は、ピークの昭和50年頃が34%、今が26%で思ったほど減っていない。
減っているのは第一次産業でこちらは昭和30年頃は4割超だったのが今は5%足らず。
第2次産業と言っても、その中身が現場労働者からホワイトカラー主体の構造に変化しているのかもしれないが。


とりあえず昔は職業としては少数派だった第三次産業であるサービス業が近年は日本における職業の過半を占めている。

それともうひとつデータとしてあるのが、最近の物価動向は分野別にかなりばらつきがあって製品分野では激しく物価が下落する一方で、サービス分野ではむしろ物価は上昇しているということだ。
製品価格下落の原因は製造業における機械化や技術進化、海外生産の進展などと考えられる。
最近のパソコン価格の下落と性能向上がその象徴である。

となると将来人工知能が人間の仕事を代替し始めると当然この分野のコストダウンが進み、サービス業でも物価下落が発生することが考えられる。
例えて言えば弁護士や会計士や経営コンサルタントの仕事を人工知能が代替し、今まで弁護士さんに100万円で頼んでいた仕事が千円くらいで出来るようになるということだ。

そういう時代がもし現実化した場合、人間の行う何か新しい職業分野が出てくるのか、あるいは貨幣経済の構造や意味合いが変わってしまうのか、その辺はわたしの脳みそでは想像が難しいので、出来れば頭のいい人工知能に考えて欲しい、と思ったりした。
posted by ヤス at 14:53| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月16日

政党政治の是非

今、わたしの目には日本の政治は著しく混乱しているように見える。
混乱の原因は色々考えられるが、一つ考えられるのは今までの日本を支えて来た様々なシステムがそろそろ寿命を迎えつつある、ということだろう。
それは年金システムがこのままでは破綻必至とかいうこともあるし、20世紀までのように為替を円安に誘導しておきさえすれば日本人がみんなハッピーになる、とかいうのもある。

それらの日本オリジナルの問題以外に、世界的に普遍性を得ているシステムもいくつか寿命を迎えつつあるものがあると思う。
その一つに政党政治が挙げられる。

政党政治というのはよく考えてみると不思議なシステムである。
特に日本では異常に強い党議拘束の力とかがあって、これだと議員個人の中身はボンクラでも木偶の坊でも構わない、ということになりかねない。

本来の代議制民主主義は、議員個人こそがその主役であって政党はそれを補完するものであったはずだ。
政党というのは政策や政治思想を同じくする議員同士が結束して多数派を形成し、自分たちの主張を通りやすくするための政治的手段であったはずだ。

しかし今の政治ではまず政党を作ることが目的化している。
そして政策や思想は後からとってつける。

特に最近は政党交付金の制度が出来て、何はともあれ5人以上で政党を作ることが政治闘争の一里塚になっている。
そして政治家希望の立候補者も、どの政党に所属すべきかというのを自分の思想を軸に考えるのではなくて、どこから出るのが通りやすいかということでしか考えていないように見える。

今の政党で政党らしいと言えるのはおそらく共産党くらいだろう。
もう一党、この数年「明治的政治」の復興を目指す勢力が台頭しているけれど、これなんかは信念を持ってやっている人はごく少数で、やはり選挙で票になるからそっちになびいているのが大半であると見えるし、そうであってほしいとも思う。


現代人類であるホモ・サピエンスの歴史を約10万年とすると、それまでの遊動生活が定住生活が始まるのが1万年前。
そこから農耕社会が発展し、社会が複雑高度化して権力構造が多層化高層化して貧富の格差が始まって5千年くらいだろうか。
やがて国民国家の世界になって大規模戦争もいくつかあったのがこの100年。

国民国家も政党政治も人類史の中ではついこの間始まった若いシステムである。
それはあくまでも過渡的なシステムで、やがて個人本位の社会システムに取って代われられるような気がするし、そうなった方が個々の人類は幸せになれるのではないか、と思ったりするのである。
posted by ヤス at 11:29| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月15日

攻撃的姿勢

プロ野球の強いチームには、大抵勝ちパターンというのがある。
そしてそれは、ほとんどの場合先取点を取って先発・中継ぎピッチャーが試合を作って抑えピッチャーが抑えきって逃げ切る。
野球における勝ちパターンの基本は、ピッチャーを中心にする堅実な守りが中心に来る。
わたしは野球のことをそれほど詳しくは知らないのであんまり断言は出来ないのだが、ここでは一応そういうことにしておく。

野球における勝ちパターンがピッチャーを中心に守り勝つ形になる理由については、いくらか想像するところがある。

プロ野球におけるバッターは打率3割で一流とされる。
そしてプロ野球のチーム打率というのは、2割8分もあればかなり良い方である。
逆に言うとピッチャーの側はおおむね7割以上の確率でバッターを抑えていることになる。

少し調べてみると一流ピッチャーの被打率は2割そこそこで、2017年のセリーグでは巨人の菅野が被打率.208であるらしい。
少し力の落ちるピッチャーでも5割も打ち込まれることは稀だろう。

つまり打撃より守備の方が、明らかに確実性が高い。
だから先取点を取った試合は継投で確実に守り勝つという戦略が成立する。

少し話は跳ぶ。

今の日本はやれ消費不況、やれ少子高齢化の人口減少とかいって商売をするのもなかなか大変である。
飲食店をするのでも小売業をするのでも、世の中には美味しいものがたくさんあって、欲しいものも一通りは手元にある。
そういう厳しい中では、自分の商売に勝ちパターンが出来ていると精神衛生上非常に良い。
野球の例えから推測するに、商売における勝ちパターンも守備を確実にして不用意の失点をしないことが重要になるのかもしれない。

商売における守備はコスト管理なのであろう。
売上に対する仕入を抑える、無駄な経費をチェックして無くしていくということが大事になると思われる。
特に市況が厳しく競争が激しい中では、昔より勝率が悪いのでますます守備の確実性は重要になる。

しかしただ守備を強化すること、仕入を抑えたり経費を削ったりっていうのだけしていればいいわけではもちろんない。

野球でも、勝つためには敵を0点に抑えるだけでなくこっちも最低1点以上取らないといけない。

商売でも、当たり前だが売上がゼロだといくらコストが少なくても利益は出ない。

売上のためには営業する、広告を打つ、店を綺麗にするなどそれなりのチャレンジが必要だ。
勝ちパターンに持っていくためには、その前提として少々確実性は落ちるけれど果敢な攻撃的姿勢というのはやっぱり欠かせない。
あたり前のことだがあらためてそのことを思い出したのでちょっと書き留めておく。
posted by ヤス at 16:21| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月14日

夏のマラソン

暑い日が続いている。
こう暑いとマラソンの練習にも差し支える。

2020年の東京オリンピックも7月に開幕しマラソンは女子が8月2日、男子が8月9日にあるらしい。

実施時間はまだ正式には決まっていないようだが、ある情報サイトには朝7時半スタートの線が濃厚と出ていた。
これまでも夏のオリンピックにおけるマラソンの時間は真昼を避けて早朝や夕方に実施されることが多かった。

野口みずきが金メダルを獲ったアテネは夕方スタートだった。
しかし東京の場合、暑さとともに問題になるのが湿度の高さであるそうだ。
アテネの夏の湿度は40%程度、非常にからりと乾いているが、東京の場合70から80%くらいになるらしい。
湿度が高いと汗をかいても蒸発量が少なくなって体熱が下がりにくくなる。
そうなると熱中症の心配も高まってランナーのパフォーマンスはかなり下がるだろう。

ただその分日本の蒸し暑さの中で育った日本選手には有利になる気もする。
ケニアやエチオピアの有力選手も大半が涼しい高地育ちなので暑さには弱い。

これまでも夏のオリンピックでは絶対的なスピードを持つ選手よりは暑さに強い粘り腰型の選手がたびたび勝っている。

男子の場合、2時間10分かかる展開になると日本選手にもいくらか勝機が出て来るんじゃなかろうか。

夏のマラソンの大変さを考えると、マラソンっていうのはやっぱり冬のスポーツなんだなあと思う。
私も過去に気温がマイナス2度くらいのコンディションで走ったことがあったが、その時でもけっこうしっかり汗をかくくらい暑くなった。

ということは、マラソン中の身体は余程の熱を発生しているに違いない。
計算してみると、体重60kgの人がkmあたり5分のペースで走った場合、電気ストーブ的に表現すると840Wの熱を出しているらしい。

なるほど暑いはずだ。

ましてやこの熱を出しながら真夏に走って平気なわけはない。
個人的にはシューズの中が時々たまらなく熱くなって、そういう時はマメが出来て皮が破けたりして痛いから困る。

だから比較的暖かい日のマラソンではシューズごと足先を水浸しにしてからスタートしたりする。
あと足の熱さ対策に地味に効いているのに靴下があると思う。
たまに素足にランニングシューズを履いて歩き回ったりすると、靴下を履かない時より蒸れて熱くなる。

靴下の布切れ一枚が間にあるだけで、通気や吸湿にけっこう効いているのだろう。
最近は体感温度を下げる高機能繊維とかも出ているので、今後はそういうのも試してみようかなと思ったりした。

いずれにせよ真夏の東京オリンピックを走る選手は大変だなあと思ったのでした。
posted by ヤス at 09:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年07月13日

最近の政局について

国会閉幕中というのに何やら政局がきな臭くなってきた。
各種メディアの調査で内閣の支持率が軒並み低下して30%強くらいになり、一方の不支持率が一部では50%を超える数字も出ているらしい。

当初のわたしの個人的予想では、あくまでも素人考えだが、森友・加計と続いた一連のスキャンダルも持ち前ののらりくらりでかわして一時的に支持率が下がるが、ほとぼりが冷めた頃に経済や外交がらみなどで盛り返してちょうどそのタイミングで総選挙を打つ、というものだった。

特に来年はロシアの大統領選挙もあり、北方領土がらみのウルトラCが出るかもしれない。
またトランプとの交渉で何かプレゼントを引き出すこともできるかもしれない。

しかし今回の様子を見ているとそう簡単に行きそうにない。

首相悲願の憲法改正では、おそらく来年12月の衆院任期ギリギリまで引っ張って衆参3分の2の勢力があるうちに改正発議を行う方針に腹を決めたようにも見える。
そうなると最重要課題は来年9月の総裁選になるだろう。

ここで自民党員が間近に迫る総選挙の看板として安倍さんが適当かどうかを判断することになる。
もし安倍さんでは戦えないとみんなが思えば安倍さんの3選目はなくなる。
だから総選挙と自民党総裁選の順番の前後がどっちに転んでも、安倍さんは支持率浮揚のための強力な一手を指す必要から逃れられない。

まず支持率回復の第一手として来月早々に内閣改造がある。
小泉進次郎の入閣が噂されている。
あるいは野田聖子の名前もニュースでちらりと出ていた。
しかし今回、政治的に首相から遠い人物はみんなポスト安倍のことを一生懸命考えているので、いずれも入閣しない公算が強いと思う。
今回の改造は「問題閣僚」の整理という守りの一手に終始するに違いない。

それともう一つ安倍さんにとって苦しいのは、ここへ来て金融緩和政策が完全な行き詰まりを見せ、加計問題で第三の矢の成長戦略にも味噌がついたり、経済政策で大きな巻き返しが難しそうなことだ。

そういえば数年前に「三本の矢」なる経済政策があり、その後「新三本の矢」に衣替えしてその後すっかり消息を聞かなくなった。
最近は「一億総活躍」というフレーズもだんだんフェードアウトしていっているように見える。

残るは外交における成果が頼みだ。
あるいは現在の北朝鮮情勢のきな臭さは、国内政局挽回を考える首相にとっては悪魔的な魅力があるかもしれない。
政治がそういう変な方向に向かないように注意が必要だと、少しだけ思った。
posted by ヤス at 10:51| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月12日

藤井四段31勝目と高校進学問題

昨日は将棋の加古川青流戦があって、藤井聡太四段が都成竜馬四段を下してベスト8に進出した。
都成四段とは3度目の対戦だったが今回も鮮やかな勝利であった。(ようである)

藤井四段は今回が14歳最後の対局だったらしい。
彼は名古屋大学附属中学というなにやら偏差値の高そうな学校の3年生である。
ネットニュースに藤井四段の高校進学問題が載っていた。
果たして彼は高校に行った方がいいのか。

これまでに誕生した中学生プロ棋士4人はいずれもタイトルを獲得して大活躍しており、藤井四段もこれまでの戦いぶりを見るにつけ、おそらくそれに続きそうな勢いである。
つまり高校に進学しようがしまいが、就職の心配はしなくても済みそうである。

一方でもし高校に進学すると、義務教育の中学と違って最低限必要な出席日数というのが出てきて、将棋の仕事に多少なりとも差し障りが生じることは間違いない。
ちなみに中学生棋士の先輩である谷川、羽生、渡辺は高校に行ったらしい。

ネットニュースでは藤井四段の母親が高校進学を熱望していると書いてあった。
本人の意向ははっきりとは書いてなかったが、本人が行かないと思っている可能性もあるのかもしれない。

こうなると学校に行く意味というのが問題になる。
高校っていうのは、一体何をしに行くところなのだろう。
高校に限らず学校では、英数国理社など基本科目と体育とか技術家庭科、美術などの授業がある。
あと、クラブ活動があって、その上に運動会とか学園祭とかのイベントもあったりする。
基本科目の授業を通じて将来の職業生活に必要な知識を習得し、課外活動などで集団生活とか人間関係とかを学ぶ、という感じになっている。

また直接的には、特に普通科高校は大学などに進学するための受験教育を行う場所という意味合いが強いと思う。
今の日本では高校生の半分が大学に行く。
大学を出ているのといないのでは就職後の生涯賃金もかなり違う。
藤井四段が通っている学校は中高一貫なのでエスカレーターで高校に行けるらしい。
しかし頭の良さそうな学校なので、周りはみんな大学を目指して勉強するのだろう。
その中に進学することは、「世の中もけっこう大変だなあ」というのを身を以て実感する社会勉強にはなるかもしれない。

ネットニュースには高校に行ったら友達ができるから行った方が良いと書いてあったけれど、将棋で成功すれば学校では出会わない人と友達になれることだろうからあんまり意味があるようにも思えない。
むしろ周りの「友達」の方が史上最年少プロ棋士と友達になったということで自慢できるかもしれない。

まあ最後は本人が決めるのだろうからとやかく言うのはこれくらいにしておこう。
posted by ヤス at 14:40| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月11日

サントリーCM炎上

なにやらサントリーのビールのCM動画が炎上しているらしい。
くだんの動画は7月6日にYouTubeのCMとして配信が始まったところ、クレームが相次いだので翌日には配信が停止された。
なんでもCMに出てくる女性の、「コックーン」という色っぽいセリフ回しが性的なメタファーを感じさせるというクレームらしい。

ネット上には今でも各所に問題の動画コピーが貼り付けられていて簡単に観ることができる。
観た感想は、それほどエロい感じでもないと思ったが、しかしやっぱり制作側の意図としては、かなり明確に性的なメタファーを意識しているように思った。

だいたいにおいて広告の世界では、ビジュアルや音声、コピーライティンの中に性的なメタファーをそっと忍ばせるというのはかなりベタな手法として昔から行われていることであろう。
その場合、そのメタファーはあくまでもそっと忍ばせる、視聴者が普通に見聞きした分にはすぐには気がつかない、というのが広告におけるセンスというものだと思う。

その点、このサントリーのCMはメタファー=暗喩というにはあまりにも開けっぴろげな感じであって、天下のサントリーのCMの割にはあんまりセンスを感じさせない仕上がりになっているような気がする。

ハフポストに今回の炎上の件についてサントリーの広報担当者に取材した記事が出ていて、それによるとサントリー側としては性的なメタファーを込める意図についてはかなりはっきり否定している。
しかし前述の通り、わたし的にはとてもその言を信じる感じにはならない。

あるいはサントリー広報担当として公式には「そういうこと」になっているのかもしれない。
しかし制作の現場では性的な感じの入れ込み方についてあれこれ議論が行われ、その方針に基づいて女優陣に対する演技指導なども行われたのだろうと、勝手に推測する。

そのわたしの勝手な推測に基づいて考えると、サントリー広報担当の木で鼻をくくったような回答はなかなか残念な感じがする。
まああくまでわたしの勝手な推測であるが。

この動画は多分ネット専用に制作したのだと思うが、そうなると実は最初から炎上狙いで分かりやすい性的メタファーを入れ込んだのでは、という疑念も湧く。
あと、動画を観た感じ無名の女優を使って普通の飲食店を借りてかなり安上がりに制作しているように見え、制作費に対する炎上マーケティングの「広告効果」はそこそこ効率的であるように思われる。

そうやって考えると、これはサントリーとしては炎上マーケティングの一つの実験であり、その実験は一応成功したのであろう、というのはあくまでもわたしの勝手な推測であることは念を押しておく。
posted by ヤス at 09:56| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月10日

パソコンエラーに思う

少し前からうちのパソコンが調子わるい。
まだ買って1年ほどしか経っていないというのに、やたらと細々したエラーが出るようになった。
Google ChromeやExcelを立ち上げても当分反応がなかったり、Windowsボタンが反応しなくなったりする。

しかし今までのところ再起動、もしくは強制再起動によって一応症状が治まるのでまあよしとする。

そもそもコンピューターというのは、中で恐ろしく複雑なプログラムが蠢いている。
そのプログラムの情報量が、新聞に換算して何百ページ分くらいになるのか知らないが、21世紀になってもパソコンのソフトウエアエラーが絶えないということは、なかなかに感慨深い。
ソフトのデバッグ技術も時代とともに進化しているのだろうが、それを上回るくらいにプログラムの方が複雑怪奇になっているのだろう。

パソコンというのは、いうまでもなくエラーが出ずに快適に動作することが理想である。
しかし技術が進化してもエラーは出続ける。
その状況を見るにつけ、何か人間の言いようのない業というか、サガのようなものを感じざるを得ない。
パソコンを製造する人間の立場に立つと、彼らは多分エラーの出ないマシン開発を目指しているに違いない。
しかしパソコンにインストールするプログラムは複雑であり、また継ぎ接ぎで新しいのが入ってきたりする。

だからエラーの出ないパソコンというのは見果てぬ夢である。

そう考えてみるとそもそもエラーの出ないパソコンを目指すこと自体に無理がある気がする。

大体において、人間自体がかなり不完全で忘れっぽい、ソフトウエアエラーの塊のような存在である。
不完全な創造主が完全なパソコン製造を目指すことに、かなりの矛盾を感じてしまうのである。

やや話は跳ぶが、生物進化というのは、DNAの複製コピーのミスが積み重なって生じていたのではなかったか。
そうなのだ。
生き物というのはその存在自体が行き当たりばったりで、出たとこ勝負の存在なのである。
その中で環境に適応したのだけが生き残る。
生き物というのは言うなれば、基本的にその行動はエラーまみれであって、偶然の正解手が稀に生じることがある、そういうものだろう。

その生き物の進化系統樹の端っこの方にいるのが人間という生き物である。

だから人間だって、その行動は基本デタラメで時々正しい手を打つ、その程度のものだと思う。
ただ人間の場合、記憶力や推論機能が発達して他の生き物に比べると正解手の確率がちょっとだけ高いのである。

そう思うとパソコンのエラーもフェイクニュースの世の中もあまり怖くない、と言えなくもない気がするのである。
posted by ヤス at 09:43| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年07月09日

藤井四段30勝目など

にわかファンでやや気恥ずかしいが、最近将棋が面白い。
2〜3年前、わたしがニコニコ動画のプレミアム会員だった頃にも将棋の番組はけっこう観ていて、その時も面白いと思っていたのだけれど、今回のハマリ方は少し違う。
昔はただ面白キャラの棋士のトークを楽しむくらいが関の山だったのだが、今回は手筋の読み方とか戦法の内容にもかなり興味を持つようになった。

しかもその辺は、普通のテレビのバラエティー番組などでもけっこう解説するようになっている。
そういう分かり易い番組を見ているうちに、わたしも藤井聡太四段の30万分の1くらいの「読みの能力」が備わってきているのではないかと思う。

この間の7月6日も、藤井四段初敗戦後の一戦が中田功七段との間で行われて、アベマTVでチラチラ観た。
夜に入ってほぼ互角の感じで進んでいって、20時半過ぎた辺りから後ひと押しで中田七段の勝ちというギリギリの状況になるのだが、たぶん藤井四段はそのギリギリ具合を読み切っていたのだろう、平然と攻撃を続けて最後勝ちきった。

将棋に詳しい人はよく知っているのだろうが、終盤に、金とか香車とか前に進める駒があれば中田七段の詰めが成立する場面が出来るのだが、中田七段の持ち駒には前に進めるのが歩しかない。
「打ち歩詰め」といって最後歩を打って詰めるのは禁じ手なので、この場面詰めきれなかったのである。

この場面、藤井四段の手元が少しでも狂って歩以外の前に進める駒を取られるとそこで中田七段が勝ちになる。(のだと思う)
そこを冷静に、ひとつも間違えずに打ち続けられる精神力が藤井四段の強さであるのだろう。

ところで、7月8日には藤井四段に初の黒星を付けたイケメン佐々木勇気五段が、竜王戦の勝ち上がりで強敵阿久津主税八段と戦って、それも最後の方ずっと観ていたのだが、今回の佐々木五段は優勢に棋譜を進めていたのにもかかわらず、夜中になって最後の方の場面で詰み筋を間違えて危うく逆転されかけるということがあった。

しかし阿久津八段はすでに持ち時間少なく、佐々木五段が再逆転してやっと勝った。
そのシーソーゲームが、将棋の定石があんまりよく分かっていないわたしにもなんだか面白かった。

将棋の対局を観ていて思うのは、人間は間違える生き物だなあということである。
いかに間違いを最小限に抑えるか、またいかに敵を揺さぶって間違いを誘発させるか、その辺りの駆け引きが本当に面白いと思った。
posted by ヤス at 15:15| Comment(0) | 徒然なるままに