2017年11月26日

信じること迷うこと

自分を信じるというのは意外に難しい。
神様を信じるとか命がけの信念を信じるとか、そういうたいそうなことではなくて、ある選択肢AとBがあって、それはビーフバーガーの方が美味いかチキンの方がいいかという時にチキンを選んで、たぶんチキンの方が美味いに違いないというような時の、自分の選択を信じる気持ちとかの話である。

そういう自分の選択を信じる時には幾らかの根拠がまああるわけで、根拠も何もなくただの直感で自分を信じようという場合もあるにはあるが、何かの裏付けがあった方が信じる気持ちが強くなるというのは確かである。
それで実際にチキンバーガーを食べたら大したことなくてやっぱりビーフの方が美味かったということになっても、その程度のリスクであればまず許容の範囲内。

この間アベマTVで将棋を見ていて、それは藤井聡太四段のプロ通算50勝目を上げることになる対局だったのだが、この時は藤井四段が途中指し手に迷ったりしてちょっと苦戦していたように見えた。
それで将棋の対局を見ていると、自分の指し手に自信を持つことの難しさ、というのを少し感じたりする。
将棋の「次の一手」には、たぶん膨大な可能性の中から一つだけを選び出すというスリリング感というか、大きな困難性がある。
わたしは将棋の素人なので実際のところはよく分からないが、プロの棋士というのは、これから展開されるおおよその流れをイメージしながら将棋を指しているに違いない。
その、自分が頭で思い描いている棋譜のイメージ通りに進むかどうか、それは相手のあることだからよく分からない。
分からないと不安になり、自分のイメージに自信が持てなくなることもあるだろう。
自分のイメージを信じることができないと、指し手に迷いが生じ、余計な手を挟んだりして墓穴を掘ることもあるのではないかと思ったりもする。

難しい選択であればあるほど、自分のイメージが外れることも多いに違いない。
しかし、対局中の棋士の場合、持ち時間は決まっていて迷ってばかりもいられない。
あるところで見切りをつけてズバッと指さないわけにはいかない。

このような決断せざるを得ない場面で「迷う」ことは、本当はたぶんほとんど意味のないことである。
にも関わらず多くの人は迷い、自分を信じることに躊躇する。

ただ多くの決断は、それが即破滅的な意味を持つというほどには重大でない。
プロ棋士は勝ったり負けたりが常なので、そういう割り切りが大切な意味を持つだろう。
逆にいうとその決断が破滅的な結果をもたらさないように地ならしをしておくと迷いにくい、そういう決断のための環境整備によって、迷うこと、自分を信じられなくなることを事前に防止出来るのではないかと思ったりする。

何れにしても自分を信じることは難しい。
だがいつまでも迷っていてもしょうがない、ということもものすごく感じたりする今日この頃であったりする。
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2017年11月25日

習慣について

「心が変われば行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば運命が変わる」

というのは元野球選手の松井秀喜の座右の銘であるそうだ。
これは少し昔のアメリカの哲学者の言葉がもとであるとのことだが、似たような言葉は元野球監督の野村克也の著作にも出てくる。

「心が変われば態度が変わる、態度が変われば行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば運命が変わる、運命が変われば人生が変わる」

こっちの方が少し長い。
またこっちの出典はヒンズー教の教えとして紹介されているらしい。
両方とも心が変わるところから始まり、途中で習慣と人格が変わるのが共通項であるが、違うのは、最後運命で終わるか人生で終わるか、である。

これらの格言の出典や細かい字句内容は、まあどうでもいいのだけれど、思うのは、やはり習慣を変えることの大切さ、という点である。
重大な成果を上げるために膨大な作業量、努力量が求められている時、これをいっきにやっつけることが到底無理そうな時には、毎日ちょっとずつの積み重ねというのが必要になってくる。
それは、膨大な作業を日々少しずつ積み重ねていくということもあるし、作業能力そのものを少しずつ上げていくという戦略的意味合いもある。

そういう意味で習慣化というのは、何か事を成し遂げるのには極めて有効なメソッドであるように思われる。
しかし問題は、「三日坊主」という金言に代表されるように、有用な習慣はなかなか定着させることが難しいということである。

だが一方で、毎日のルーティンというのは、人間生活の構成要素としてかなり基本的なものでもある。
決まった時間に起きて、歯を磨いて、飯を食って、という風に無意識に行動する順番が決まっていると、脳みそにおける余計なスケジューリング作業の負荷が無くなって精神的に楽になる、ということはあると思う。

その辺りの脳みその傾向を上手く利用し、またやや辛い作業であっても、それをあまり大きくストレスを感じないくらいのレベルの、十分に小さい作業単位に区切って日々に割り振ることで、三日坊主を免れる確率が上がると思う。
さらに言えば、三日坊主をあまり恐れすぎないことも重要で、習慣がある日途切れた場合にも、数日後にしれっと復活させるような気持ちの大胆さも必要だろう。
そのためにはわざと習慣を途中で止めてみる、そしてちょっと間を置いて復活させる、みたいな実験もやってみる価値はある。
それによって、習慣が途切れることによる精神的ダメージを事前に防ぐ事が出来る。

いずれにせよ、有意な習慣づくりというのは現代人にはかなり大切である、と思う。
posted by ヤス at 14:29| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月24日

出版業界復活のために

出版不況と言われて久しい。
ネットで検索したら経産省の平成14年3月付の資料が出てきた。
それによると出版業界は書籍・雑誌などを合わせて2兆4千億円くらいの業界規模らしい。
書籍が9,706億円、雑誌が1兆4260億円だそうである。
書籍出版点数が67,522点、同販売部数が7億7364万冊というから書籍1点当たりの部数は1万1千部ほどになる。
また雑誌は3433点(銘柄数)が出て販売部数は34億542万冊。
1銘柄当たり約百万部になる。
月刊誌なら月8万部、週刊誌なら週2万部。

ぱっと見この数字が多いのか少ないのか判別できないが、昔と比べたたら随分と量が減っているのだろう。
書籍・雑誌以上に新聞の部数減少も深刻のようで、この辺の事情は世界的な趨勢でもあるようだ。
そのあたりの状況から最近は若者の活字離れ、などということも言われる。
しかし単純に若者が文字を読まなくなった、というわけでもないと思う。
現代の人類は、メールを書いたりブログを書いたり、あるいはTwitterでつぶやいたりFacebookに投稿したりLINEでメッセージをやりとりしたり、けっこうな頻度で「執筆活動」を行なっているように見える。
送られてきたメッセージを読む機会も多いだろうし、ネットニュースや有名人のブログを読んだり、というような行動もごく日常的になっている。
現代人は紙に印刷された活字を読むことは減っているかもしれないが、文字を通じたコミュニケーションは有史以来最高潮に活性化しているような気がする。

さて、この状況下における出版業界であるが、出版不況というのはネットを通じた文字コミュニケーションの活性化に食われた結果なのではないか、という風にも見えるのである。
にも関わらず書籍出版のあり方はあまり進化しているように思われない。

逆にネットを中心に情報発信しているホリエモンみたいな有名人は、コミュニケーション経路のひとつとして紙の書籍を有効利用しているようだ。
そこには紙の書籍を使うことで、ネットだけではリーチできない層にもメッセージを届けることができる、という考え方があるようである。
紙の書籍のリーチできる先には、スマホも持たずネットにもほとんどアクセスしない中高年層とかがいる。
逆にいうと紙の出版物はそういう層への貴重なアプローチの手段としての価値を持っているという事になる。

あるいは、紙の出版物は電子書籍にはない「物体としての価値」を持ちうる。
形があり色や肌触りがある事で物体としての愛着が発生しうるし、インテリア、ファッションとしての存在価値もあるだろう。
出版業界復活のためには、その辺の、紙の書籍の存在価値を再定義する事が必要なのだと思う。
posted by ヤス at 08:43| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月23日

図書館と無料戦略

この間、10月中旬のニュースに、お笑い芸人のキングコング西野亮廣が全国の図書館5500館に自著「えんとつ町のプペル」の絵本を無料贈呈する件があった。
これはその直前に文藝春秋の社長が図書館関係者の集まりで「文庫本は借りずに買ってください」などと発言したことを受けてのものだそうである。
西野氏はこの以前に自著の絵本をYouTubeで無料公開し、その後絵本の拡販に成功している。
そんな折に飛び出した文藝春秋社長の発言を聞いて、「無料公開した方が本の売上拡大に効果がある」ことを証明したいと思ったようだ。

以前に絵本の無料公開を西野氏がTwitterでツイートしたところ、各方面から批判の声が上がり、見ていた感じ賛同の声より反対意見が圧倒的に多いようだった。
で、結果は、それまで25万部で一旦頭打ちしていた絵本の販売部数が33万部まで伸びたという。
西野氏によると、絵本というのは親が子供に買い与えるにあたり、必ず中身を確認してから買いたい商品であるそうだ。
だからぽっと出の内容のよく知られていない新しい絵本は販売に苦戦する。
そして「グリとグラ」とかの古典が根強く売れる。
だから無料公開して中身を一旦確認してもらおう、と思ったのだろう。

無料で中身を見た人たちは、それなりに多くの人が「これなら要らないや」と思って買わない。
しかし一方でそれなりの人数が「これは買おう」と思って買う。
今まで西野氏の絵本に接点のなかった圧倒的多数の人々が絵本の中身を確認する機会を得ることができ、その結果効果的な販売促進となり得たようである。

さて、文庫本ではどうなのだろうと思う。

文字ばかりの文庫本と、小さい子供も読む絵本とでは微妙に違うようにも思う。
また読書するのに「図書館を利用する人」の分布と「本を買う人」の分布はちょっとずれているようにも思われる。
両者の分布が重なっているところの面積がなるべく多い方が「無料配布」の販促効果は高くなるのだろう。

統計データによると国内図書館の利用者登録数は3000万人強いる。
そして貸出冊数は年間一人当たり3.6冊くらい。
2万部3万部売れればヒットの出版業界にとって、この数字はかなり影響のある規模のように見える。

出版業界が販売戦略上図書館を上手く利用するには、その戦略に効果的な工夫が必要な気がする。

考えてみると、紙の書籍のスタイルは大昔から驚くほど変わっていないと思う。
AKBは握手券をつけてCDを大量販売する事に成功した。
AKBの方法が良かったかどうかの評価はともかく、紙の書籍も今の時代、買いたくなる工夫が何か必要であろうことは間違いない。

出版業界にはその工夫がものすごく足りないように感じる。
そして工夫が足りない限り、やっぱり図書館に実際に需要を食われているという文藝春秋社長の心配は当たっているのではないかと想像する。

ならばどんな工夫がいいのか、という事については、また今度ゆっくり考えてみようと思う。
posted by ヤス at 10:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月22日

「欲しい」ものを作る能力

やや唐突だが、ふるさと納税の話である。
勉強不足でわたしはこの制度の詳細を正確にはよく知らない。
しかしふるさと納税には根本的な欠陥があるような気がしてならない。

そもそもふるさと納税が始まった頃は、自分の生まれ故郷や応援したい地域に税金を納めたい、というニーズに対し生まれた制度だったような記憶がある。
だから最初の頃は「返礼品」なるものは存在せず、単に自分の住民票がない市町村にも税金が納められる制度、だったような記憶がある。

ともかくも、いつの間にか「返礼品」の制度が生まれて応援したい自治体への税納付という基本形がくずれ、そろばん勘定的にお得な返礼品を手に入れるための制度、に変質したように見えるのである。

返礼品の制度に関しては、「ふるさとの特産品」が結果としてたくさん売れてその地域の産業の活性化になる、という理屈なのだろうが、この点についても少し疑問がある。

ふるさと納税した人は市場価格より相当に安い価格で返礼品を入手することが出来る。
それがふるさと納税の、納税者のメリットである。
しかしこの結果何が起こるかというと、ふるさと納税によって拡販された返礼品は、本来の市場における実力以上に売れることになり、「返礼品に指定されていない競合品で返礼品より価値の高いもの」のマーケットを圧迫することになる。
つまり返礼品になることでその商品は実力以上の価値を持つことになるのではないか。

2015年のふるさと納税の利用者は130万人、寄附金額は1500億円くらいらしい。
日本の個人の市町村民税は7兆円くらい、県民税が5兆円、国の所得税が16兆円くらいのレベルらしい。
なので1500億円というとまだまだ割合としては小さいが、しかし見ようによっては意外に大きい数字のようにも思えてきた。

物が売れるためには消費者が「欲しい」と思うことが基本である。
欲しいと思うことのきっかけはいろいろある。
おなかが減ったのでご飯が欲しい、どうせ食べるなら美味しいのが欲しい、ついでのことに美味しいご飯で女の子といい感じになりたいので雰囲気のいいお店が欲しい、みたいな感じで「欲しい」のありようにもいろいろあるのだろう。

売り物を作る側はそういう消費者心理を一生懸命考えて、みんなが欲しがりそうな物を作り、欲しがりそうなギリギリの値段を設定してもっとも適切な方法で売る努力をする。
「返礼品」の制度はそういう基本原理をないがしろにしかねない恐れがある。

逆に、ここまで返礼品の制度が盛り上がっているのは、みんなが「欲しい」と思うものを作り出すのがいかに難しいかということを示しているような気もする。
いずれにしてもみんなが欲しがる商品を作り出す能力や努力はきわめて貴重である、と思った。
posted by ヤス at 11:41| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月21日

最近の不倫報道より

昨日はモンゴル人力士の暴力事件報道について書いたが、そういえば最近報道でよく取り上げられているのに「不倫」があるのに思いが至った。
ニュースを見るとテレビにおける不倫報道は最近の2年間で以前の6倍くらいに増えているらしい。
これは現象としては明らかにベッキー事件が影響しているのだろう。
約2年前に、好感度タレントのベッキーが不倫をしていた文春砲が炸裂して、その意外性やLINE流出などの衝撃が昨今の不倫バブルを生み出したと想像する。

その後も次々にいろんなジャンルの有名人の不倫報道が出て来て、それぞれ少しずつ違う角度から話題になったりしたようである。
世の中の一部には、不倫不倫と馬鹿騒ぎしすぎだという批判の声もあってわたしも基本その立場である。
不倫はあくまで当事者間の問題であり、よくある対象不明の謝罪会見とかの映像を観ると、世の中的な不倫断罪の空気にものすごく疑問を抱かざるを得ない。

以下かなり不正確かもしれないが、わたしの個人的な観測である。

昨今の不倫報道の構図は、最初に文春や新潮などの週刊誌が写真付きのスクープを出し、記事の出版前に関係者やテレビに事前告知が発せられて「盛り上げ」の段取りが組まれる。
週刊誌発売と並行してテレビが一斉にワイドショーなどで取り上げ、不倫当事者は週刊誌の事前告知からの短時間に「謝罪戦略」を練り、謝罪会見を開く。(沈黙の場合もあるようだが)
そして最近の定番は、週刊誌が続報を2弾3弾と用意していることである。

不倫の第一発見者はおおよそ週刊誌と相場が決まっているように見える。
つまり週刊誌は、最初期のあやふやなタレコミ情報などを基に記者を張り付けてスクープの瞬間を狙う。
そういう取材活動には当然記者の人件費をはじめコストがかかるわけだが、おそらく不倫記事はそのコストをカバーするに十分な販売量を確保できるということなのだろう。

この場合テレビは、付和雷同的に雑誌のスクープに乗っているだけのように見える。
あるいは最近だと当事者やそこに親しい関係者とか、またはあんまり関係のない人たちがTwitterやFacebookなどで発言して話題になったりする。
そういうネットの盛り上がりをテレビは追いかけたりもする。

こういう構造を想像すると、テレビというのは単なる追いかけメディアでありある種の壮大な「まとめサイト」であるのではないか、と思う。
テレビ番組には、独自取材に基づいたユニークな視点のものも一部にはあると思うのだが、全体的にまとめサイト体質、他人のフンドシ体質がだんだんとひどくなっているような気がする。
というわけでで、メディアの中では経済規模が一番大きいテレビが、各メディアの中で一番のコピペ体質であるところがかなり重大な問題なんじゃないか、というのを少し思ったりした。
posted by ヤス at 08:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月20日

遊牧戦士の暴力事件について

最近、ニュースで大相撲の日馬富士と貴ノ岩の暴力沙汰の一件を毎日見る。
このニュース、もうだいぶ前から報道しているが、後から出てくる情報が当初の報道と食い違いが多くて何が本当やらよく分からない。
わたしはこのニュースを横目で見ながら、しかしあまり突っ込んで調べてみようかと思うほどの好奇心が湧いてこないので流れてくるネットニュースをチラ見するくらいで済ませている。
だから事の真相をあれこれ詮索するほどの知識を持ち合わせていない。

この事件は恒例となっていたモンゴル出身力士の酒宴の席で起きた事らしい、というのはかろうじて理解している。
部屋や番付を超えて、モンゴル出身力士が集まってお互いを激励する意味で酒宴を行なっていたのだろう。

幸いと言っていいと思うのだが、貴ノ岩の怪我は親方の貴乃花が心配するほどに大きくはないらしい。
わたしは貴乃花にはかなり好意的な立場であるが、彼の存在が事件をややこしくしているのはほぼ確からしいとも思う。

しかしである。
やや不謹慎であるが、今回の事件がモンゴル人力士の酒宴で起きたという事に、わたしはある種の歴史的憧憬を感じたりする。
モンゴル人である、ということは、ユーラシアの平原を馬にまたがって暴れまわったチンギス・ハーンの末裔であるということである。
ある時代には中華帝国を蹂躙し略奪の限りを尽くし、ある時はアラビアやヨーロッパの諸都市を根絶やしに滅ぼした、そういう戦士の血を継いだモンゴル人力士が酒宴の席で小突き合いをしたからどうだというのだろう。

貴乃花は真面目なので、暴力事件の発生がどうしても許せない気持ちがあったのかもしれず、あるいは今回の事件以前に相撲協会組織との軋轢があったのかもしれない。
その辺の貴乃花親方周辺の事情はまったくよく分からないのだが、こと酒宴の席での小突き合いだけに注目するならば、彼らはそもそもモンゴル戦士の末裔だという点を少し割り引いて考えるべきだと思う。

今回トラブルの渦中にある当事者たちは、本場所を休んだりかなり大変な状況になっているようだが、少なくとも周辺にいる人間の見方としては、彼らが誇り高き遊牧戦士の末裔だという点を頭に入れて、もうちょっと鷹揚に見守った方がいいんじゃなかろうか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 15:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月19日

企業の不正防止に必要なもの

このところ企業の不祥事のニュースがけっこう続いた。
神戸製鋼の品質検査不正、日産・スバルの無資格検査問題などである。
その前には三菱自動車・スズキの燃費不正事件もあった。(三菱とスズキで問題の深刻度はかなり違ったが)
これらの不正が発覚した企業はいずれも日本を代表する優良企業だと思われていた。
にも関わらずその優良企業が意外なくらいにずさんな不正を働いていたところに驚きがあったのだと思う。

一般論でいうと、企業における違法行為や不道徳行為はある程度の確率で必ず発生するものだと思う。
会社というのは一定以上の利益を出していないと潰れてしまう。
いつの時代も利益を出すための最も手っ取り早い方法は脱法行為を働いてそこにかかるはずだったコストを節約することだろう。
そういう意味で規模の大小を問わず、企業は不正行為を働く動機を背負いながら毎日仕事をしていると言える。

このところずっと問題になっている過剰労働問題にしても、労働力を最大限「効率的」に活用することで利益を増やしたい、もしくは増やさないと潰れてしまう、という企業側の差し迫った願望がそこにはある。
あるいは借金で首が回らなくなった社員が会社のお金を失敬するとかいうこともけっこうたくさんあるだろう。
個人でも組織でも、切羽詰まると人間何をしでかすか分からないのである。

だからある一定割合の「不正行為企業」が世の中には存在していると推測されるし、あるいはそれなりに大きな規模の企業であれば、何らかの不正がどこかの部署で必ず行われていると考えるべきだろう。

最近発覚した神戸製鋼や日産・スバルの問題に関して言えば、これは製造現場のある種の過信がもたらしたような気もする。
これらの問題はいずれも製造工程の最終段階の「製品検査」の問題だった。
製造現場では高度な技術を使って高品質・高精度の製品を作っている自負があったと想像する。
だから最終検査は形式的な儀式で構わない、という意識がどこかにあったのではないか。

時代は進み、科学技術も日々進化している。
いろんな産業が成熟して競争が激化し、劣後した企業はとっくに潰れて生き残った企業は熾烈なつばぜり合いを繰り広げている。
こういう時代に企業に一番必要なのは「創造性」とか「革新性」とかでレッドオーシャンを抜け出すことだと思う。
しかし多くの企業では創造性も革新性も低調で、それが不正発生の原因になっていると思う。

逆に言うと、クリエイティブでイノベーティブな企業にはこの種の不正問題は起こりにくいのではないか、と思ったりした。
posted by ヤス at 09:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月18日

初期値のズレ

以前軍事関係のニュースで、「最長射撃距離の世界記録」が更新されたというのがあった。
その距離は3,450mという。
3.5km先の目標に弾丸が届くまで約10秒もかかるという。
風の影響や地球の自転による力、そして目標物が動いてしまう可能性なども考えるとまさに神業と言える。
この記録を作ったのはカナダ軍特殊部隊のスナイパーである。
カナダ軍は世界記録のベスト4まで独占していて、これは幼い頃から狩猟に親しんでいてそうなったのだろうか、などと想像したりする。(カナダ人と狩猟との関係はよく知らない、想像だ)

そして記録を作った狙撃銃は50口径のマクミランTAC-50という、直径12.7mmの馬鹿でかい銃弾を発射する「アンチマテリアル・ライフル」というのに分類される銃だという。
この銃は車両などを撃つためのもので、ハーグ陸戦条約で対人使用が禁止されているのではないかという気がするのだが、まあその辺もよく分からない。

とにもかくにも、遠距離射撃で命中を得るには、銃口のちょっとしたズレも許されない。
銃口の向きが1/1000度ズレただけでも銃弾が1km飛んだら1mくらいの誤差になるはずである、たぶん。

話が少し飛ぶ。
テレビに出ているアイドルなんかでも、ものすごく人気のある人物とそれほどでもない人がいたりするのは普通のことだ。
でこの両者の違い、実力の差はいかほどかと考えてみるのだが、案外人気の差ほどに実力に違いがないように思うことが多い。
下手をすると人気のないアイドルの方がちょっと可愛いとか、面白いとかいうことだってあるかもしれない。

このようなことをぼんやり考えていて、冒頭の狙撃のライフルの銃口のズレが頭に浮かんだ(ような気がした)。
アイドルのみならずテレビタレントの人気というのは、初期値のほんの小さなズレがその後に大きな差異となって現れるのではないか。
初期値のズレ、ちょっとした努力量の差、努力内容の差が1年、5年と積み重なって数倍数十倍、あるいは数千倍数万倍の人気の差になるのではないかと思った。

あるいはプロ野球の世界とか、プロ棋士の世界。
プロになるような選手というのは人並みはずれた能力を持っている。
そしてその能力差はプロ同士で比べると何倍も離れているということはたぶんない。
にも関わらずかたや二軍で年棒500万円、かたや大リーグ入りして10億円とかの差がつく。
この200倍の年棒格差は、両選手のわずかなやり方の違い、向いている方向のかすかな違いがもたらしたものなのではないか。

ということで老い先短いわたしも、今更であるが今後はもっとシビアに銃口の向きを考えねばならぬ、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月17日

黒髪強要問題続き

黒髪強要問題の続きである。
日本の中学高校における黒髪強要はかなり明確な人権侵害であり、改善が必要なことは間違いないことだと思う。
多くの人がそう思っており、にもかかわらずすんなりと改善しそうにないところに問題の本質があるのかもしれない。
なぜすんなり改善しないかというと、黒髪強要がいろいろな意味で世の中から支持されているからだろう。

昨日は1980年頃の校内暴力問題が厳しい校則のきっかけだったのではないかと自分なりに推測した。
この推測は間違っているかもしれないが、しかし厳しい校則は、校内秩序を保つためのある種の「水際作戦」としてそれなりに有効に機能してきたという感覚が学校の現場にはあるような気がする。
それはつまり、頭髪や服装の小さな変化を咎めることによって、生徒が大きく変化することを未然に防ぐという意味合いがあるのではないか。
この場合の「変化」は、別に非行や不道徳行為に限らず、生徒の行動ふるまいの自由をある程度制限することによってざっくりと管理する方式なのではないかと思う。
髪を染めたり学生服に若干のアレンジを加えることは、それだけだと問題行動ということにはならないはずである。
しかし心情的に問題を抱えている生徒がその気分の表出として自分の見た目をアレンジするということはありうる。
そこで学校としては、問題行動もそうでないものもざっくり含めてまるごと禁止しようということになる。
多くの生徒は若干の不自由を感じるが、学校は不自由さが当たり前の状況を生徒の深層心理に染み込ませることによって管理側の手間はぐっと軽減するだろう。
そして「地毛登録」なる奇妙な制度が編み出されたりして、いちおう生来の非黒髪の生徒に対する救済策とされている。

日本の学校では、先生のマンパワーは常時不足しており、管理の手間を削減することはオペレーション上の重要テーマである。
そのような構造から生徒の人権をある程度侵害するのもやむなし、という現実に至っているのではないかと想像する。
しかし人権侵害は是非改善する必要がある。

そのための対策として先生のマンパワーを増強したり業務効率を改善することは必要だろう。

しかし問題の本質として、問題行動に対する対処ということももっと考えるべきだと思う。
上記で推測した学校のやり方では、見た目の変化のある問題生徒には対策可能だが頭髪服装が基準内にあるにも関わらず問題のある生徒への対応が後手に回るのではと危惧せざるを得ない。

またそもそもどんな行動が学校として対応の必要のある問題行動なのかという点について明確になっているかどうか、個人的には心配する。
例えば組織や目上の人に反抗的な態度というのでも、社会に出たら一定必要なこともある。
その辺のことを日本の学校はどれくらい配慮できているのだろうか。

わたしの個人的な意見としては、学校は、道徳とか社会性とか礼儀作法とか、あまり難しいことを教えるのはあきらめた方がいいと思う。
それで学業の教育に集中して、身だしなみなどや行動規定は、法律に準拠していれば原則自由にすべきだ。
道徳とか社会性は、集団生活を通じて生徒が勝手に学習するのに任せるので十分だと思う。

とは言うものの、そういう自由な学校を実現するには、自由な学校を許容する社会が必要で、けっきょくそういう世の中のあり方が最大の問題ではないかと思うのである。
posted by ヤス at 09:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月16日

黒髪強要問題

地毛が茶色なのに黒髪に染めることを強制されて不登校になった大阪府立高校の生徒のニュース。
わたしがネットを眺めている感じ、「黒髪強要はおかしい」という意見が世の多数派のようである。
わたしも普通にそう思う。
そう思いはするのだが、この事件の難しいところは、それでも多くの学校は黒髪で統一したいと思っていることだろう。

そしてかなりの割合の保護者たちも学校の髪色規制や服装の乱れ対策などを支持しているのだと思う。
だからこの種の管理体制はこれまでずっと継続してきた。

これまでいろいろとネット記事を見たところでは、偏差値の高い学校は服装も頭髪も自由のところがけっこうあるらしい。
それで特に問題が起こっているということもない。
しかし学力的にある一定レベル以下になると、そしてそっちの学校の方が多数派だと思われるが、それなりの校則が定められ、髪色髪型、服装の乱れに関する管理がかなり厳格に実施されている。
わたしも、もう何十年も昔に中学・高校と通っていたわけでそれは普通の公立の学校だったが、やはりそれなりに厳格な校則があってそれなりに厳しい管理が行われていた。
髪が耳にかかっていないか、その天然パーマはほんとうに天然か、そして女子のスカート丈がどうしたとか、かなり仔細にわたる身だしなみチェックが定期的に実施されていたことの記憶がある。

当時は校内暴力が社会問題になっていて、ひょっとしたらその時代辺りから厳しい身だしなみチェックが始まったのかもしれないと想像したりする。
その当時は、「理科の◯◯先生は2~3年前に校内暴力の鎮圧に絶大な貢献をしたらしい」とかいう話をたまに聞くことがあった。

「荒れる学校」を安定させるために教育現場の先生も必死だったろう、という点については少しばかり同情できなくもない。

ところで、アメリカあたりではこの手の頭髪服装チェックはほとんど無いと聞く。
考えてみると当たり前で、人種のるつぼのアメリカ社会では、統一すべき髪色の標準色が存在しないから統一の仕様がない。
イメージだけでいうと、欧米社会では日本と逆でエリート校こそ服装などにうるさいような感じがあるが実際はどうなのだろう。

生徒の非行と頭髪服装の乱れとの間にどれほどの相関があるのかわたしはよく知らない。
実際に有意な相関はあるのかもしれない。
しかし「頭髪服装を厳しく管理することで非行を防止する」ことの意味は、生徒を萎縮させてマインドコントロール下に置くことで管理しやすくする、という側面が強い気がする。
それは生徒の自主性や精神性を高める教育というよりは、学校が荒れないようにとりあえず生徒をうまく調教しておきたいという感じにしか見えない。
それはそれで、現場の先生のたいへんな苦労の中から生まれたというのは、まあ理解できる。

だがこういう教育は生徒が社会に出てからの副作用が大きいだろう。
不当に厳しい校則の存在が、日本の国際競争力の低下に一役買っているような気さえするのである。
また日本では少ないながらも国際結婚も毎年3〜4%の割合であるわけで、黒髪直毛で統一すると少なからず弊害が発生するのは避けられない。

ということで現状の厳しすぎて矛盾をはらんだ頭髪服装規制は早急に改善する必要があると思うが、しかしそれが必ずしも簡単な問題でないことを、学校から離れて久しい人々も理解した方がいいんじゃないかとも思う。

ということでこの黒髪強要問題は、間違っているけれど改善するのはそれなりに難しい、というのがあまり結論になっていないが今日の結論。
posted by ヤス at 09:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月15日

キャッシュレス化

今朝セブンイレブンで買い物して、いざレジで支払いをしようとしたらiPhoneを持って来ていないことに気がついた。
iPhoneが無いと電子マネー払いが出来ない。
しかしいちいちiPhoneを取りに戻るものも面倒なので久しぶりに現金で払った。
財布の中からなけなしの100円硬貨4枚を取り出して390円の支払を済ませたら、財布の中の硬貨が10円玉1枚になってしまった。

帰って、なんとなくネットニュースを見ていたら、「コンビニATMの消滅」がどうしたとか書いてある記事がある。
最近、現金信仰の根深い日本においてもようやくキャッシュレス決済がだんだんと根付いてきて、コンビニのATM稼働率が徐々に落ちてきているらしい。
わたしはマクドナルドもセブンイレブンもイオンやハピーズなどスーパーマーケットなども、たいがいの払いを電子マネーにした結果、1ヶ月まるまるATMに行かない月もあったりするようになった。

今後日本のキャッシュレス化が進んで行くと、銀行やコンビニのATMの採算割れが起こってきて、撤去されることも増えてくるのかもしれないと思う。
それでATMの台数は現状増えているのか減っているのかちょっと調べてみた。

セブン銀行のデータが出てきたので見てみる。
すると2016年現在、セブン銀行のATM台数はおおよそ2万3千台くらいで、すくなくともこの10年間対前年で2千台ずつくらい増えている。
一方で、地銀都銀のATM台数はちょっとずつだが減っているようだ。
日経の記事を見ると銀行の中には自社のATMを全廃してコンビニATMに置き換えるところもあるらしい。

銀行のATMは現金の出し入れだけでなく、振り込みなどの決済にも使用することがある。
しかしこれもネットバンキングの普及で、パソコンやスマホから振り込みが出来るようになって、わざわざ平日お昼の時間に並んで振り込む、ということが相当に減っていると想像される。

あと、最近個人間の電子送金サービスが出て来ている。
これは今まで決済機関として機能してきた銀行を「飛ばして」お金をやりとりする仕組みで、この仕組みが発展すると今までクレジットや電子マネー決済の導入に躊躇していた個人店舗の支払いにも使えると思う。
取引手数料や高価な端末無しで、スマホひとつあればお金のやり取りが出来るわけで、そうなると現金大好きの日本においてもさすがにキャッシュレス化の波がいっきに拡がるような気がする。
そしてキャッシュレス化が進めば、現状で増え続けているATMは減少に転じるだろう。
ATMが減って現金利用が面倒くさくなるとますますキャッシュレス化が進む循環が生じてそのうちめったに福沢諭吉の顔を見ることも無くなるような気がする。(個人的にはもうしばらく見ていないが)

多くの人が予想しているように、その契機になるのは環境が整い外国人がたくさん来日する2020年オリンピックの年になるのだろうか。
ということで、セブンに行くときはiPhoneを忘れないようにしないといけない、と思った。
posted by ヤス at 12:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月14日

働き方改革と生産性

最近「一億総活躍」という言葉をあまり聞かない気がする。
しかしこの政策は今もちゃんと「生きて」いて、一億総活躍大臣もいちおう任命されている。
今の一億総活躍大臣は岸田派の松山政司という人物である。
これはわたしの妄想であるが、一億総活躍の看板は下ろしたわけではないが、国民の人気もなくさしたる目玉政策も出て来そうにないのでとりあえず開店休業状態にして別の看板に差し替えようということなのだと思うのである。
その代わりの看板は、おそらく「働き方改革」である。

思い出して見ると、過労死などの日本独自の労働問題はかなり昔からあった話だ。
働き方改革が出て来たその大元にはいくつかの要因があると思うが、一つ大きいのは先進各国間における日本の労働生産性の低さであろう。
OECD諸国の労働生産性で日本の定位置は長らく20位あたりで、アメリカ、イギリスはもちろんイタリアやギリシャなどよりも下である。(購買力平価換算後の数字らしいが)

労働生産性というのは、「生産」した付加価値を労働時間で割り算した値である。
日本の労働時間は統計上は昔よりかなり減って、年間1800時間程度でおおよそ先進諸国並みとなっている。

生産性が低いのは、生産付加価値が低いか労働時間が長いかどっちかが原因なわけだが、労働時間が他国並みとなっているということは生産している付加価値が少ないのに他ならない。
生産している付加価値が大きいというのは、多少乱暴に表現するなら、かつてのソニーがウォークマンを出してヒットしたり、ニンテンドーのスーパーマリオが売れたり、その調子で自動車や電気製品やアニメ映画やラーメンの一蘭などが世界中で売れている状態のことだと思う。

そういう付加価値の生産が、より少ない労働時間で達成されることが生産性の向上だと思うのだが、とりあえず今の日本は「少ない労働時間」の方は大幅な改善が難しいところまで来ている。
(サービス残業などの脱法行為は問題だろうが)

だから労働生産性の改善を行うにあたっての大きな目標は、日本の産業界がいかに新しくて価値のある製品やサービスを創造できるかというところにあるはずである。
そして新しい価値の創造に関しては、国家の政策でどうにかなるものではない。
産業界の風土づくり、雰囲気づくり、機動的な資金調達環境の整備などがせいぜいだろう。

しかるに今の日本では生産性向上を目指して働き方改革を行なっている。
だが個人的な意見としては働き方改革で生産性は上がらない。
働き方改革的な政策は、生産性ではなくて労働者の福祉の向上をもっぱらの目的に行うべきである。

どうせ後10年もすればAIとロボット技術の進歩で放っておいても効率は上がる。
まあ逆に言うと日本政府は現在の日本産業界の生産性の低さにものすごい危機感を持っているということなのだろう。
だがそのためには「労働者の効率向上」の発想から一回離れた方がいいように思う。
posted by ヤス at 09:18| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月13日

今年の漢字

今年も残すところあと48日。
1年が経つのはあっという間だ。
年末が近くなるとこの1年を振り返る各種のイベントが行われたりする。
「流行語大賞」や「今年の漢字」などである。
「今年の漢字」は1995年に始まったらしい。
全国から公募で一年をイメージする漢字を募集し、一番多かった漢字を毎年12月12日の「漢字の日」に発表する。
ちなみになぜ12月12日が漢字の日かというと「いい・じ・いち・じ」の語呂合わせだという。
かなり無理矢理感はあるがまあそれはどうでも良い。

第一回目、1995年の漢字は「震」だった。
震災というと今では2011年のイメージが強いが、20年前に震災といえば阪神淡路と相場が決まっていた。
次の年はO157食中毒などから「食」、次は山一証券倒産などから「倒」、続いて和歌山カレー事件で「毒」、その次の1999年は世紀末のイメージ(本当の世紀末年は2000年である)から「末」と、かなりネガティブな漢字である。
これはおそらくガチで公募するとネガティなものに票が集まるということを示しているような気がする。

その次の第6回目、2000年になってやっと「金」が来て、少し明るい感じになる。
「金」はもちろんシドニーオリンピックを受けてのもので、マラソン・高橋尚子、柔道・田村亮子の金メダルがよほど印象的だったからと思われる。

その後も「今年の漢字」は「戦」「災」「偽」「変」など、けっこうネガティブ寄りの字がたびたび登場し、また2004年を除くオリンピックイヤーは「金」が4回選ばれている。
この選択結果を見る限り、「今年の漢字」の公募のガチ感が伝わってくる。
ちょっと検索していたら、主催の財団法人日本漢字能力検定協会は2009年に財団の利益を私的流用して理事長が逮捕された事件が出ていて、そんなこともあったかなあと思った。

しかし、日本の一年間の総括を漢字一字に集約しようというのは、そもそもかなり無理のある話である。
アメリカとかヨーロッパには、「今年のワード」みたいなのはあるのだろうか。
複雑でわかりにくい何かを、ある一言で無理矢理まとめてそれでその複雑さを理解した気分になると、人は少し気分が落ち着くのかもしれない。
「今年の漢字」や流行語大賞などの年末イベントは、いろいろとややこしい社会現象を「えいや」でまとめてある種の精神的安定を保つためのものであるような気もする。

あるいは日本の箱庭的な俳句文化、広大な宇宙空間をごく短い数文字に凝縮するというのは日本独特の風習なのか。
と思っていたら、中国、台湾、そして華僑文化圏のシンガポール、マレーシアなどでも今年の漢字を決めるイベントが始まっているらしい。
どうやらこの種のイベントは、日本文化というよりは漢字文化のなせる技のようである。
ということは、これは古代中国で漢字が誕生した時の、甲骨文字時代の占卜(せんぼく)・呪術の名残なのかもしれない、などと思った。
posted by ヤス at 09:25| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月12日

巨大EV市場

今、中国では電気自動車の普及に向けて、文字どおり国を挙げてさまざまな取り組みを行なっているらしい。
中国の都市部は猛烈な渋滞が社会問題になっており、自動車のナンバープレートの下一桁の数字を使って週のうち1回走れない日を設けているそうだ。
また自動車の購入にあたってあらかじめナンバープレートの取得が必要らしいのだがこれが抽選で、この抽選がなかなか当たらなくて2〜3年「ナンバー待ち」になったりするらしい。
このように、自動車を購入するにあたってさまざまな障害があるにもかかわらず、このところの中国の自動車販売は急成長を続けている。

中国の自動車市場はリーマンショック前後の2008年頃にざっと1500万台を超え、リーマンショックで落ち込んだアメリカの市場規模を抜き去った。
その後2012年頃に2000万台を超え、2016年はおよそ2800万台の規模に膨らんでいる。
中国の自動車市場はこのように急拡大を続けているが、それでも人口当たりの自動車保有台数でいうと、中国はアメリカの9分の1、日本の7分の1くらい。
ざっくり想像してもまだ優に1億台以上の潜在需要が眠っていることになる。
だから世界中の自動車メーカーが中国での販売に地道を上げている。
リードしているのはドイツのVWだが日本のトヨタやホンダも力を入れている。

その中国市場で、今電気自動車=EVが「異常増殖」しているようだ。
報道によると、すでに販売されている自動車の8%程度がEVになっているという。
台数でいうと200万台以上。
日本の年間自動車販売台数が500万台を切る水準なので、ざっとその半分くらいの規模感。
恐ろしい台数だ。
なぜEVが増殖しているかというと、冒頭に書いた都市部での制限措置からEVを外していること、つまりガソリン車だとナンバーが当たらないので購入に何年も待たねばならず、また自動車を手に入れたとしても週に1回走れない、というのがEVにはない。
EVの場合ナンバーは即時交付、走行制限もなく一台当たり100万円程度の補助金もつく。
EVが売れるわけである。

だから中国国内では現在EVメーカーが雨後の筍のようにできているらしい。
またVWやアメリカのテスラを始め、各国のEVメーカーがこぞってこの市場に参入を試みている。

今、EVはバッテリーの性能と製造キャパが大きなボトルネックになって普及が足踏みしている。
この状況は少なくともあと数年は改善しそうにない。
だからこれまで日本の自動車メーカーも、EVには今ひとつ消極的だった。
三菱自動車と日産がアイミーブとリーフで先行しているが、販売状況は予想をはるかに下回って低調だ。
しかし日本から海を挟んで隣の国でEVの巨大市場が生まれつつある。
中国のEV市場は、今のペースだと4年後くらいには確実に1000万台を超えるだろう。
日本の自動車市場の2倍の規模のEV市場が出現する。

そこに製品を投入するメーカーとしては、VWやテスラやひょっとして日産などもいるかもしれないが多くは中国の国内メーカーになると思われる。

今から10年くらいしたら、今は聞いたこともない中国のEVメーカーが販売台数2千万台とか3千万台とかでダントツ世界一の自動車メーカーになっているのではないか。
その時、日本のトヨタやホンダはどうなっているだろう。
そしてながらく自動車を基幹産業に命脈をつないできた日本経済はどうなっているだろう。
そういうことを想像すると少し背中が薄ら寒い感じがしないでもない。
posted by ヤス at 10:25| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月11日

SNS規制の可能性

神奈川県座間市で9人が惨殺される事件が発生したことを受けて、政府は「再発防止策」としてTwitterなどSNSの規制を検討する可能性に言及したらしい。
まだ具体的な規制内容が決まったわけではもちろんない。
しかし世間では色々と反発の声も上がっている。

このニュースを見て違和感を覚えた人は多かったのだろう。
わたしとしては特に「再発防止」という言葉に非常に違和感を覚えた。
現在日本国内では、公式統計に計上されている殺人被害者数はだいたい300人くらいだ。
ネットで調べていたら公式の殺人件数以外に、死因不明の「変死」が万の単位であるらしいというのがあってちょっと不気味だったけれど、それはともかく日本国内では、数は減ったとはいえそれなりの数の殺人事件が現在も発生している。

そういう殺人事件が起きるたびに政府が再発防止策を講じているのなら別にいいのだが、今回のようにSNSがらみのものだけをピックアップして規制を考えるというのはどうなのだろう。
もともと政府の側に、日常からなんとかSNSに対する影響力を持っておきたいという願望があって、今回のような事件がその願望を遂げる格好の機会と認識されたのではないか、と考えるのは穿ち過ぎか。

日本において、新聞テレビなどのマスメディアは常に権力による統制の対象とされ、そしてある程度実際に統制が行われているわけだが、SNSはマスメディアと違って多数の発信者がてんでバラバラに情報を流していて権力による統制は相当にむずかしい。
これをなんとかコントロールしようとするなら、中国のようにグーグルやTwitterなどアメリカ製SNSを禁止にし、特定のアドレスを閲覧ブロックするなどかなり過激な施策を実行することが必要と思う。
しかし日本国内からアメリカ製のネットサービスを追い出すことは政治的にも不可能だ。

本来ならSNSの犯罪利用に対する対策は、サービス提供企業の自主努力によって実施されるのが望ましいと思う。
頻繁に犯罪に利用され、あまりに反社会的なイメージが付いてしまったサービスは市場から自然に淘汰される、というのが資本主義経済におけるSNSの在り方だと思う。
それを政府が積極的に統制しようとするのは表現の自由や権力監視の観点からもあまり感心できない話である。

これは全くの妄想であるが、政府としてはSNSのNGワードを政府が主導的に決められる法律でも通したいんじゃないかと思う。
NGワードを政府の裁量で決定することによって統制困難と思われていたSNSのコントロールが世界で初めて可能になる、ということを考えているのだろうか。
それはそれで非常に興味深いような気がしてきた。
果たして、カオスで色々と病巣も内包しているがしかし圧倒的に自由な世界であるSNSを、政府のコントロール下に置くことができるのかどうか、今後もしばらく見守りたいと思った。
posted by ヤス at 09:53| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月10日

未来の人間の仕事

さて、AIが進化した未来の話である。
近い将来、AIは今よりさらに高度なものとなり社会のあらゆる分野に活用されるのは必至だろう。
そしてウィル・スミス主演の映画「アイ・ロボット」のように、人型の自律ロボットが各家庭で「お手伝いさん」をするようになって、そういうロボットは人型なので肉体的に人間のできることは基本何でもできる。
さらに彼らは人間の脳みそほどの大きさになった高性能AIを搭載して論理思考は人間をはるかに超える能力を持っている。
ロボットはやれと言われれば銀行員でも農作業でもトラック運転手でもなんでもできるだろう。
ただ、未来のトラックには人間が乗る運転席はもうないかもしれない。

そういう未来はどれくらい先のことなのかというのがひとつ問題である。
シンギュラリティ=技術的特異点、つまりAIがあらゆる点で人間の「脳力」を超えるのが2045年と言われているが、たぶんそれ以前に次々にいろんな仕事が順番にAI化され、人型ロボットもだんだん普及して2050年頃には映画「アイ・ロボット」の風景が日常のものになっているような気がする。
今から33年後、運が良ければわたしはまだ生きているかもしれない未来である。

昨日はあらゆる職業がAI化され、人間は労働から解放される代わりに純粋な消費者としてのみ「生かされ」、身分が固定化する未来を想像した。
しかしできればそういうどんより暗い未来より、明るく楽しい未来が実現して欲しい。

おそらくほぼすべての肉体労働はもとより、頭脳的な労働のうちでも事務、管理、分析業務といったかなり高度な職業もAI化はどんどん進む。
そして多くのエンターテインメント、映画や小説、お笑いコンテンツの制作についてもAIがそれなりに面白い作品を作ることができるようになる。
それは広告・デザインやアート作品の制作でも同様だろう。
これら人間の感情を揺さぶる技術についても、ある程度論理的な人間心理の分析を下敷きにして、AIは下手な人間よりよほど効率よく仕事をするに違いない。

こんな中で人間にしかできない仕事は何が残るだろうか。
ひとつ思いつくのは、例えば看護師とか介護士とか、いろんなお店の接客業とか、生身の人間がやることに価値のある仕事である。
それらの接客商売も、大半は自動化されAI化されるかもしれないが、高度なスキルを持った人間が提供するサービスはかえってプレミアム高級品として存在するようになると思う。

あるいは既述の映画の世界でも、俳優やロケーションは完全CGになって実写と全く区別がつかないくらいに技術は進化するだろう。
しかしそういう時代だからこそ、「全編ナマの人間が演技」の映画が制作されてその微妙な味わいが楽しまれるようになる気がする。

そのように考えると、人間にしかできない仕事というのはある程度残ると思われる。
そして残る仕事は事務的なスキルや論理的思考能力が問われるものよりは、「人間性」が鍵となるものが中心になる気がする。

ただ時代がさらに100年くらい進むと、バーチャルリアリティ的技術で人間の脳では夢か現実か判別できないほどにAIは真に迫る「人間性」を提供できるようになるような気がする、というのは余計な心配かもしれない、と思った。
posted by ヤス at 09:41| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月09日

AI化社会を想像してみる

近い将来、AIの導入で人間の仕事があらかた無くなってたいへんだという話がちょっと前から聞こえてきていて、以前はそれほど現実味のある話ではなかったように思うが、ここにきてジワジワとリアルな話になっているように感じる。

ある識者に言わせると、AIが人間に代わって仕事をすると今まで人間に入っていた給料が「AIのオーナー」のものになるという。
今まで人件費として企業が支出していたお金が、労働者からAIの持ち主(つまり企業自身)やAIの開発元に流れるようになって流れが変わる。
そうなると労働者側は所得が減り(というか究極的にはゼロになる)、企業側は利益が増える。
そういう理屈になる。

しかし労働者が貧乏になると消費市場が縮んで企業の側も困る。
だから大幅に増加した企業利益の税率を上げて国家が回収し、ベーシックインカムで労働者(この場合もう働いていない労働者だが)側に還流させるということになるのだろうか。
つまり労働者は「消費することが仕事」の労働者になる。

この場合の未来社会は純粋消費者と企業オーナーに2分されることになる。

いや、この社会にはあと政治家と役人という人々もいた。
彼らはどうなるのか。
役人の仕事も多くはAIに置き換え可能だろう。
むしろ役所仕事こそAI化に最適かもしれない。
ただ役所仕事は市場による淘汰圧が作用しない(つまり倒産しにくい)ので効率化のインセンティブが小さい。
そこのところが営利企業と大きく違う。
だから企業業務の多くがAI化されたのちも役所仕事はしばらく人間がやる状況が残る気がする。

一方で「政治業務」もAI化可能であろうけれど、「政治家」という職業は、AI化は難しいのではないかと予想する。
おそらく政治家の最大の役割は、役所仕事的な論理の積み重ねを「飛躍」させるところにある。
それはつまり政治家は対人商売であるからだ。
将棋の指し手でも、人間同士の将棋だと対戦相手を混乱させ幻惑させる手というのが存在しうる。
だがそういう指し手はAI相手だと効果はない。
AIは混乱も幻惑もしないからだ。

人間は混乱も幻惑もするし夢や希望や欲望を抱いたりもする。
そういう、非線形的に行動する人間を相手にする商売としての政治家はしばらく残るのだろう。


話を少し戻して世の中が純粋消費者と企業オーナーに2分される話。
この場合企業オーナーはあくまでオーナーであって経営者ではない。
なぜなら、経営者の職業はAIに代替可能と想像されるからである。

そうなると不都合なことが起こる。
企業オーナーは永遠に企業オーナーであり、純粋消費者はずっと純粋消費者のまま。
2つの身分は永遠に交錯することもなく、そういう社会をイメージするとちょっと恐ろしい。
この想像の中でのAI化社会は、まごうことなきディストピアになる。

ということで明日はもうちょっと明るいAI化社会を想像してみようと思った。
posted by ヤス at 11:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年11月08日

銀行リストラのニュース

最近、銀行のリストラの話がニュースにちらほら流れている気がする。
今朝コンビニで週間現代をパラパラ立ち読みしていたら国内メガバンクのリストラの特集記事が出ていて、今後AIの導入が進んでかなり高度な業務まで機械に置き換わるという話だ。
それで実際の銀行の決算状況はどうなのだろうと思って三菱UFJFGと三井住友FGのIR情報をちらっと見てみると、両行ともこの数年売上高(銀行的には業務粗利益というらしい)は漸増傾向。
当期利益は三菱UFJが9千億円、三井住友が7千億円前後で比較的安定しているが、直近5年のグラフを見ると少しずつ減っているように思えなくもない。

銀行の財務構造は実に独特で、三菱UFJの場合総資産300兆円に対し融資や債権株式などの運用益および各種手数料などによる売上が5.9兆円。
ものすごい資産過多の状態で経営をしている。
この数年は日経平均も安定していて保有株価の価格上昇なども銀行収益にそれなりに貢献しているのではないかと想像するのだが、もし300兆円の資産の一部分が毀損するようなことがあると損益にモロに影響するのだろう。
あらためて見ると恐ろしい商売である。

上記の状況からも銀行は規模の経済で商売を行っていることがよく分かる。
銀行は単純に言って調達金利と運用金利の「差額」で商売をしていて、そしてそのパーセントは1%とか2%とかの微妙な世界なのである。たぶん。
そして他の商売のように売上をガンガン上げて利益を稼いで行こうということにはなりにくく、なぜならあまりやり過ぎるとつまづいて怪我をする危険があるからで、しかも何兆円の商売をしているメガバンクが新たな市場を拡大するのはものすごくたいへんである。

だからおのずとマイナス部分のコストを削って利益を確保しようという話になる。
そうなると人間の銀行員とAIのどっちが安くて効率がいいかということになり、技術進化によってAIがどんどん人間の仕事を侵食していくことになる。

しかも今後の金融業は、あまり過激な「鎖国政策」を取ることは難しい。
国際競争にさらされ、海外の金融企業のみならずIT企業や仮想通貨とも競合が予想される。
そのうち田舎の非上場の中小企業なんかでも、クラウドファインディングなどの直接金融を活用するところが増えてきて、メガバンクだけでなく地方銀行や信用金庫あたりもどうなるか分からないだろう。

この辺の話は銀行だけでなく、小売業とか卸売業とかの物流業界でも同じだと思う。
結局世の中にどういう価値を提供しているのか、AIにできなくて人間だけが提供できるのはどういう価値なのかが問われる時代になったということなのだと思う。

こういう話はまったくの他人事ではないと思うので、今後ゆっくりあせって考えねば、と思った。
posted by ヤス at 11:21| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年11月07日

ミーシー

「ミーシー(=MECE)」というのがある。
これは「ミューチュアリィ エクスクルーシブ アンド コレクテイヴリィ エグゾースティブ」という英語の略だ。(ややこしいな)
要するに「漏れなく重複なく」を小難しく格好良く言い直したのがミーシーである。
いわゆる「思考のフレームワーク」のかなり基本の方にあるのがミーシーだろうと思う。
何かものを考えるときに対象物を漏れなく重複なく分類してみると、意外な良いアイデアが出てきはしないかという淡い期待を想起させる概念でもある。

B29が絨毯爆撃を行う時は、「漏れなく重複なく」爆弾を落とすことに留意すると攻撃の効率が上がる。
というのはやや物騒で不適切な事例であるが、何か広告を打つときに、10代20代女子には動画サイトやSNSで、30代40代以上は雑誌広告で、とか考えると広告の効率が上がることがある。
しかし分析を行いたい対象物に対し、何か新しいミーシー的分類軸を考え出すというのは、かなり難しい作業であるように思われる。

最近考えていることの一つに、資本主義経済におけるプレイヤーはクリエイターかディストリビューター、そしてその両方を兼ねる人の3つに分類できるのではないか、ということがある。
ここでクリエイターとは、新しい経済的価値をゼロから創造する人のことであり、ディストリビューターとはクリエイターが創造した価値を複製したり消費者の元に運び届ける人である。
音楽業界でいうと作曲・作詞家、歌手はクリエイター、CDをプレスする人、CDをトラック輸送したり店で売る人たちはディストリビューターになるのだと思う。
そして自分で作詞作曲した歌を自らレコーディングし、パソコンでCDに焼いて街で手売りする人はクリエイターとディストリビューターの二つの円が重なる部分にいる人。

こういうどうでもいいことを考え始めたのは、世の中には非常に創造的でクリエイティブな人が少数いる一方でそうでない多数の人がおり、その辺の関係がよく分からなくなったからである。
と言ってもよく分からない。

世の中、誰しもが素晴らしい創造性を持っているわけではない。
あまり創造的でない人間が現代の資本主義経済において生き残るすべはあるのか。
あまりクリエイティブでない純粋ディストリビューターは存在し得るのか。

間を端折って結論を言うと、現代のディストリビューターには「八百屋でダイヤモンドを売る」的な突拍子もなさ、ある種のクリエイティビティが不可欠の気がする。
つまりクリエイターとディストリビューターは「ミーシー分類」にはなっていない。
たぶんクリエイターとディストリビューターはどっちかがメインになることはあるが、一方の要素も必ずいくらかは持っていないと現代ではやっていけない。

ということでミーシー的には、「両方の要素を必要なだけ持っている人」と「どっちかが欠けている人(あるいは両方欠けている)」の2つに分けることはできるんではなかろうか、というのがいちおうの結論、ということにしておく。
posted by ヤス at 14:46| Comment(0) | 徒然なるままに