2019年08月25日

2019年08月24日

イライラを静めたい

最近どうもイライラが収まらない。
別に大声で叫び回って暴れるほどのイライラではない。
なんとなく、アレが気になる、誰それがなんだか当てにならない、体脂肪率の数字がなかなか良くならないとか、そういう些細なことがイライラの対象である。
これはひょっとして、世に言う男の更年期障害というやつなのではないか、などという想像が脳裏をかすめる。

しかし、少し落ち着いて事態をやや前向きに解釈すると、わたしは人生経験を経てさまざまな事象に繊細になり、自分の中の心象風景も若い頃よりしっかりと観察できるようになったのではないか、そのようなことも考えられるのではないか。

恐怖やイライラや憤怒などのマイナスの感情は、その発生原因が不明瞭であればあるほど恐怖心が募りイライラ感情が激高するに違いない。
この世では見えないものが何よりも恐ろしいのである。
そこへ行くと現在のわたしのイライラは、その対象物が比較的はっきりと見えている気がする。
それは原因不明のイライラではなくて、あいつがちゃんとしっかりしてくれさえすればとか、明後日までにこの宿題をやっつけないと俺の人生がやべえなあとか、イライラの中身がかなり具体的なのである。

恐怖や怒りの感情に対処するには次の3つのステップがポイントなのだという。
まず恐怖や怒りの対象物が何かをしっかりと認識すること。
次にその対象物を真正面から見据えてその中身や状況をよく分析する。
そして分析に基づいて有効な具体的対策を考え対処する。

対処方法がうまく行くかどうかはやってみないと分からない。
うまく行かなければ別の対処方法をトライすればよい。

人間は、なんだかよく分からないけれどイライラする、ということがままある。
なんだかよく分からない限りは対処方法も考えようがない。
対処できなければ自然にイライラが静まるのをじっと待つしかない。
あるいは酒かイケナイ薬物でも飲み込んで街で一暴れしてストレス発散するか。

まったく、怒りやイライラの中身をきちんと認識するのは、自分のストレスが原因で他人に迷惑をかけないための第一歩であると思う。
それに、イライラの中身を一生懸命分析している時間というのは、考えるのに忙しくてイライラの感情がかなり静まっている。
イライラを分析する作業というのは、イライラの出来事を頭の中で反芻して余計にイライラが増幅する、みたいなこととは少し性質が違うのに注意が必要だ。

ということで、今のわたしはひょっとしたら、聖人君子の境地につながるキザハシを一歩一歩登っている最中なのかもしれない、とか思う。
そして再来年辺りは、わたしは頭に天使の輪っかを乗っけて雲の上をぐるぐる飛び回っているかもしれない。
ほんとうに、馬鹿とイライラ体質は死なないと直らないのかもしれない。
posted by ヤス at 14:31| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年08月23日のつぶやき


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2019年08月23日

繰り返し読む本はきわめて少ない

本がなかなか読めない。
昔はもっとスムーズに、比較的続けて読めていたような気がする。
あるいはそれは気のせいで、昔からこんなもんだったのかもしれない。
ネット情報などで達人の読書術が紹介されることがあって、紙の本をペラペラとめくって、数分で一冊読んでしまうような人もいるらしい。
あるいは月に100冊も200冊も本を買って、なおかつ買った本はほぼ全部読むとかいう人もたまにいる。
「話題の本」を片っ端から買っていたらそういうことになるのだろう。

おそらく、達人の読書術の肝は「全部読まない」というところにある。
パラパラめくって一冊数分で読む人は、ページに並んでいる文字列を一つのかたまりとして認識し、読み取っている。
そういうようなことが速読術の本にも書いてある。
しかしわたしのような貧乏性は、一字一字を目で追ってしまう。

評論やノウハウ本のように、読みたい内容がその本の一部分のみの場合は、全部読む必要がないのは分かる。
しかし小説の場合、物語を把握するのみならず、文体の味や選択された単語のニュアンスなどを感じることも読書の大きな要素になる。
だから小説を読む時は余計に貧乏性式の読み方で一字一字を追う。
なんとか全部の内容をあますところなくなぞってゴールを目指すことになる。

それともうひとつ、自分の読書の課題をひとつ上げるとすると、一度読んだ本は、二回目は読む気にならないということだ。
実はこの傾向がわたしの斜め読みに対する抵抗感につながっているような気がする。
ノウハウ本のような本の場合、とりあえず一度斜め読みしてから重要そうなところを後からもう一度じっくり読み直す作戦。
それを実行しようと思っても、もうすでに、「斜め」とはいえ一度読んでいるので二度目のモチベーションがなかなか沸き起こらない。

わたしにとって「その本」の一度目の読書は、おそらく「その本」の最後の読書である。
そういうことがある。

ただそういうわたしにもこれまでに繰り返し読んできた本が数冊ある。
数日前にも一冊加わった。

読書の集中力が続かないわたしに選ばれたその数冊の本は、実はものすごく偉大な存在なのではないか、そういうことを思ったりした。
posted by ヤス at 11:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年08月22日のつぶやき


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2019年08月22日

映画のリアリティについて

最近も、家の中では映画「マッドマックス・怒りのデスロード(マッドマックス3)」をBGM代わりに流している。
この映画は改造車の暴走と無法者たちの乱痴気戦闘シーンがずっと続く物語なので正規の音量で流していると少々うるさい。
だから比較的ボリュームを絞って流す。
しかし毎回クライマックスの部分に差し掛かると、音量を絞っているにも関わらず心を揺さぶられるのである。
おそらく今後何百回と観返しても同じように感じるのに違いない。

「マッドマックス3」を観ていて思うのは、映画のリアリティについてである。
これはあくまで映画であって、現実にこういう世界はない。
仮に核戦争で文明が消滅し暴力だけが頼りの世界があったとして、この映画のように戦闘員の命を使い捨てにするようなスタイルで戦っていると、あっという間に戦力が枯渇するに違いない。
飛び道具を主体に使い、できるだけ味方が死なないように相手を殺す術を身につけた組織集団が覇権を握るのが筋のような気がする。
ただ、それだと映画が面白くならない。

エンターテイメントの映画では、アクションシーンが派手になるようにそのあたりは思いっきり荒唐無稽に作ることになる。
その結果爆弾付きの槍を持って相手に飛び込む自爆攻撃で爆発したり、シルク・ド・ソレイユ的に棒の先に掴まってビヨンビヨンと戦ったりするシーンが生まれる。

設定が荒唐無稽であることは、エンターテイメント映画の必要要素であり現実世界の理屈から解き放たれた映像を観ることで観客は驚いたり楽しんだりできる。

しかし一方で映画に不可欠な要素としてリアリティもある。
映画は、設定は荒唐無稽でも、ある部分できっちりとリアルに作られていないと楽しめない。
それは人間心理の部分である。
人が怒ったり悲しんだり悔しがったりする部分にリアリティがないと観ている方は感情移入ができない。

さらに言うと、映画のリアリティ描写は観ている多くの人たちの「過去の人生経験」に共鳴し、それを震わせるものであるべきなのだろう。
失恋体験のある人は映画の失恋シーンに感動するだろうし、一度でも何かを達成した快感を経験している人には「ロッキー」とかが響くのかもしれない。
ただそれも、映画の心理描写がリアルであればこそ。

わたしが「マッドマックス3」で心が動くのは、クライマックスの3箇所。
フュリオサが「13金のジェイソン」的な敵戦士に横腹を刺されて痛みをこらえているシーン、次は瀕死のフュリオサがイモータン・ジョーを殺すシーン、そして最後はエンジンヘッドを引っこ抜いたリクタスをボンネットに乗っけたままニュークスがウォーリグを横転自爆させるシーン。

特にフュリオサが刺されるシーンは何回観ても痛くて切なくて心臓の鼓動が高鳴る。
「マッドマックス3」は戦闘アクションは荒唐無稽だが、そういう痛そうな感じとかが真に迫っているのである。

などと思った。
posted by ヤス at 07:15| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年08月21日のつぶやき


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2019年08月21日

スイカを買ったことがない

そういえば最近スイカを食っていない。
もうとっくに過ぎたけれど、7月27日は「スイカの日」だったそうだ。
スイカは夏の果物の横綱で、「夏の綱=ナツノツナ」だから7月27日らしい。
かなり苦しい設定だが、夏の果物の横綱にもかかわらずわたしの口に入るチャンスはめっきり減っている。

スイカは、昔はバアちゃんの家で親戚が何人か集まった時にはしょっちゅう食べたような気がする。
リンゴや梨とちがってひと玉が8kgも10kgもあるスイカは、一人暮らしで気軽に買って食べようとはならない。
スイカの国内生産量は、1970年頃は100万トン以上あったらしい。
それが最近はがくんと減って、33万トンくらいになっている。
これはやっぱり核家族化が進んで、世の中の「親戚の人数」が減ったことによるのが大きいに違いない。

それでも30万トン強の生産量は国内で生産される果物の中ではかなり多い方で、1位の温州ミカン74万トン、2位のリンゴ73万トンに次いで3位に位置する。
ちなみに4位は梨(日本梨)24万トン、5位は柿で22万トン。
外国では、イランとトルコが日本の12〜3倍くらいの400万トン生産しているが、国別のダントツは中国の7900万トンで日本の240倍、人口あたりでも22倍くらいになる。
中国の人たちはよほど親戚が多いのだろうか。

日本におけるスイカの歴史はよく分かっていないらしい。
大航海時代(室町時代末期)にポルトガル人がカボチャといっしょに持ってきたとか全国に広まったのは江戸時代後期からであるとウィキペディアには書いてある。
スイカの原産はアフリカの乾燥地帯だそうである。
野生のスイカは、ほとんど甘さはないが水分だけはたっぷり含んでいる。
乾燥した土地に住む動物たちは喉が渇いたら野生のスイカを食べて水分を摂取する。
そのときについでに種も飲み込んで、動物はそれをウ○コと一緒に出して、そのようにしてスイカは広範囲に広がるのだそうだ。

スイカ情報を見ていたら、ちょっとスーパーでスイカを買ってみようかなと思ってきた。
スイカひと玉だいたい3〜4千円くらいらしい。
でもうちの小さい冷蔵庫にはひと玉まるごとはおろか、1/4カットも入るかどうか怪しい。
かといってコンビニの「カットスイカ」ではスイカの醍醐味に乏しい。
よく考えたら今までの人生で、わたしはお金を払ってスイカを買った経験がない。
冥土の土産に一度くらいはスイカを買っておいてもいいのかもしれない、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年08月20日のつぶやき






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2019年08月20日

夏休みの宿題について

早いものでお盆も終わり、8月も下旬である。
8月が終わりに近づくと、かつての学校時代、夏休みの終わりを思い出す。
夏休みの終わりといえばやっぱり夏休みの宿題である。
わたしは生来の駄目人間なので夏休みの宿題をとうとうやらないまま9月1日を迎えたことが何度もある。
もう何百年も昔のことのような気がしてその時の状況をよく思い出せないが、夏休みの宿題には「提出の儀式」みたいな瞬間があって、わたしは、その時間帯がやってくると教室の中で中空をうつろな目で見上げていたのだと思う。

そもそも論として、学校の宿題は何のためにあるのだろうか。
わたしは学校の宿題をたびたびサボってそのたびに先生から半殺しの目にあって来たりもしたが、しかしおじさんになった今、かろうじてではあるが生きている
もしわたしが人生をやり直して真面目に宿題をやる子供として再出発したら、今よりもっと立派なおじさんになることができるのだろうか。

ネットで拾った情報によると、日本における「宿題」の始まりは「夏休み」の創設がきっかけであるらしい。
長期にわたる夏休みで子供が休みボケしないように、あるいは自宅でも学習を行う習慣づけをするために宿題が出されるようになったらしい。
明治の頃、富国強兵の時代に国民の教育水準を上げて国力を増すために学校教育制度が整備されたのだろう。
それで子供たちの基礎学力をなんとか向上させようと役所や学校がいろいろと知恵を絞った結果宿題制度も作られたのだろう。

まあ今にして思うと、社会に出てからの仕事というのも宿題的な感じがある。
提出の期限が決まっているところに向けて、ある水準以上のクオリティのアウトプットを生産するというのは、お金を稼ぐための基本的なサイクルだったりする。
夏休みの宿題は、そのための予行演習だったのだ、と思えなくもない。

夏休みの宿題の場合、やらずに9月1日を迎えても先生に殴られたり床に正座させられたりするくらいのことで済むのであるが、社会に出てからの宿題は未提出が続くと職を失う。
そうなればやがて飢え死にするだろう。
だから学校の宿題と違って社会人の宿題は自ずと熱が入る。
そういうことは夏休みの宿題時代には想像もしなかったことだ。

それで思うのだが、学校時代の宿題は、先生はとにかくきちんと真面目にやってこいよとハッパをかけるばっかりで具体的な「宿題を手早く終わらせる技術」については指導がなかった。
しかし社会人になってからの宿題がたびたび危機的状況を迎えるわたしには「手早く終わらせる技術」こそ何より貴重であると感じられる。
それはちょっとした「やる気の出し方」とか宿題環境の整え方とか、マクドでやるとはかどるよ、とかのことである。

ひょっとしたら今の時代のどこかの先生はそういう早く終わらせる技術を教えているのかもしれないが。
ということでわたしとしては今の子供たちに言いたい。
学校の宿題は、要領よく時間をかけず手早く終わらせる術を身につけろ、そうすれば社会に出てから苦労せずに済むぞ。

それで今のわたしの宿題は、まだ終わりそうにない。
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2019年08月19日のつぶやき




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2019年08月19日

儲けの最大化を諦める(佰食屋について)

ちょっと前に京都のステーキ丼専門店で佰食屋(ひゃくしょくや)というところの社長が書いた「売上を減らそう」という本を読んだ。
社長は中村朱美という若奥さんで、元は企業の広報の仕事をしていた人らしい。
佰食屋は「100食」というコンセプトをそのまま店名にしたお店なのである。
一杯千円のステーキ丼を1日100食限定で売る。
それで100食売れたら店を閉める。
お店は席数14席の小ささで、観光都市京都の街中にあるとはいえその小さい店で千円の商品を毎日100食売るのは大したものだ、というのがまずあるのだが。

千円を100食売ったら日商10万円、月25日営業で月商250万円、年商で3000万円である。
店が目立たない安い立地にあるせいで、最初の頃は集客に苦労して100食売れずに苦労したみたいだが、いろいろ工夫を重ねてだんだんと毎日100食売り切ることができるようになったらしい。
佰食屋の毎日の営業では、今日の売上は100食、明日も100食、明後日も100食、と売上がかっちり決まっているから仕入れも簡単で廃棄も出ない。
従業員のシフトも毎日100人のお客さんを想定して組めばよく無駄がない。

言われてみれば単純な仕組みだが、最初からこれを考えて本当に軌道に乗せてしまった実現力はかなりすごいことだと思う。
中村さんという社長の女性がこの仕組みを考えたのは、残業もなく休みたい時に休めるホワイトな企業を作りたかったというのがある。
佰食屋の従業員はみんな一切残業しない、休みたい時に休みを取るし有給消化率も100%だという。


話は飛ぶ。
管理可能リスクという言葉がある。
例えば管理「不可能」リスクの代表例は35年ものの住宅ローンとかになるのだろう。
20年後30年後に世の中がどうなっているのか、自分の仕事や収入がどうか、ローンで建てた自宅が地震や水害に合わずに無事にいるのか、そういうことは誰にも予測はできない。
これが35年昔の日本なら、予測はできないが20〜30年後の日本はそんなに悪い方には転がっていないだろう、そういう風にだいたいみんな見当をつけていた。
それは結局当たっていなかったが、それ以前の日本の高度成長の実績は30年後も大丈夫というみんなの見当を後押しするものだったから、みんな安心して住宅ローンを借りる。
でも実際の日本はだんだん悪い方に振れていって、実際住宅ローンの「焦げ付き」は2000年代に入って急増した。
その後焦げ付きは減少傾向にあるが、これはたぶん歴史的な低金利政策のおかげだと思う。

話がだいぶ逸れた。
佰食屋の商売の考え方は、必要以上のリスクを取りに行かないということだと思う。
言い方を変えると、儲けを最大化するのを諦めるということだ。
明日ひょっとしたら120食売れるかもしれないし200食だって行けるかもしれない。
普通のお店はそういう未来の可能性を最大限に実現しようと考える。
しかし、明日の可能性を、あるところまで行ったらそこから上は諦めることにする。
管理可能なところで収める。
そうするととりあえず無用の損失は出ない。

これはこれでひとつの考え方である。
35年先はおろか明日の未来予測もそんなに簡単ではない。
これからこういう売り切り型の商売は増えるのではないかと思った。
posted by ヤス at 11:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年08月18日のつぶやき


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2019年08月18日

あおり運転犯人逮捕に際して

例のあおり運転の、43歳の男が逮捕されたらしい。
この数年死亡事件も起きたりしてあおり運転がかなり大きな社会問題になっている。
しかし世の中にはあおり運転をする人間はまだまだ尽きないようである。

以前会社勤めをしていた時に先輩の車に乗せてもらって走っていて、隣を走っている車と先輩がちょっとだけもめた感じになって、次の瞬間先輩が窓を開けて首を出して「馬鹿野郎っーー」とでっかい声を出してびっくりしたことがある。

道を走っていると年寄りが運転するノロノロな車に前をふさがれてイライラすることもある。
あるいは横を見ないでウィンカーも出さないで突然車線変更するおばさんに殺されそうになることもある。
世の中にはいろんなドライバーがいて狭い日本の道路を走っている。
だからイライラしたり危ない思いをすることは一定の確率で必ず発生する。
というか、一定の確率で自分の運転が回りをイライラさせている瞬間も必ずある。
公の道路交通の場とは最初からそういうものであるが、それでもやっぱり目の前でイライラな状況が発生すると車間を詰めてプレッシャーをかけたり窓を開けてどなったり、そういうことを思わずしたくなってしまう。

所詮人間は感情の動物であり、そこまで自由自在に自分の感情をコントロールできるものではないのだ。

あおり運転のような危険な状況は今に始まったことではないだろう。
それが最近急にニュースになり始めたのは、ドライブレコーダーやスマホの動画撮影が広まったことが原因なのは間違いない。
スピルバーグの出世作である映画「激突」(1971年)の頃から、あおり運転の恐怖は世界中のみんなが感じていたのだ。

これは、TwitterとかSNSの普及によって、世の中に飛び交う罵詈雑言の量が増えたのと似ている。
罵詈雑言の源の悪感情はSNS以前の昔から人々の心の奥にしまい込まれていたのが、SNSによって一気に噴出し可視化された。

あおり運転の恐怖はもちろんドラレコが生み出したものではなく、元々多くの人間が感じていたけれど表に出ていなかったものである。

最近は、高級大型セダンとかアルファードに代表されるイケイケのワンボックスとか、みんなつり目にイカツいグリルを付けて怖い顔のクルマが多いけれど、あのデザインはやっぱりそういうクルマに乗るユーザーからの要望が大きく反映されてああなっているのだという。
つり目のクルマに乗る人がみんああおり運転の常習犯だとは思わないが、人間の心に潜む闇はなんだか深いと感じる。

わたしも元々かなり気が短い質なので、その辺十分に自重してイライラのあげく誰かをぶっ殺さないように注意して運転しようと思う。
それとやっぱり、人間の未熟な自己制御能力を考えると早期の自動運転実用化が望まれる。
どうせ轢き殺されるなら、自動運転のロボットに轢かれた方があとくされなくていいんじゃないかと思ったりもするのである。
posted by ヤス at 12:21| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年08月17日

またもや人間が変る話

今朝、散歩がてら近所のファミリーマートへ向かってふらふら歩いた。
途中古い平屋の建物を壊している現場があって、1週間くらい前に解体用の機械が入ってごそごそしているのを見ていて、そのときはまだ建物があった。
それが今日通った時は、建物はガレキの山に変身していて地面の上に低く積まれていた。
そんなに大きな建物だった訳ではないが、やはりこの間まであった建物がなくなってみると街の風景はかなり変わる。
この後この建物の跡地が何になるのかは分からない。
更地になってただの駐車場になるのかもしれないし、新しく住宅か何かが建つのかもしれない。

何になるにせよ、あっという間に元の古い木造家屋があった風景は忘れる。
うちの近所は昔ながらの住宅街だがこのように風景が変化する場所がちょいちょいあって、真新しい建物の前を通る時に「ここは、この建物の前はどうだったかな」ということはとうに忘れて思い出せない。

数年前に開店した近くのマツモトキヨシも、元は古びた工場みたいな建物だったが、今となっては現在のマツモトキヨシの風景が百年前からそこにあったような錯覚さえ覚える。

建物というのはせいぜい40〜50年くらいで建て替える。
だからある程度建物が混んでいる地域では、あっちでひとつ、こっちでもうひとつみたいな感じで徐々に建物が変わって風景も変わる。
でもそれがあんまりゆっくりなもんだから、近所に住んでいる身としてはあんまり変わった感じがしない。
20年ぶりに帰ってきた、みたいな人から見ればずいぶん変わったなあとなるのだろうが、ずっと住んでいて少しずつ変わる分には全然変わった感じがしないのである。

ところで人間の場合も、日々体細胞は古いのが死んで新しいのが生まれる。
数年すると人間の体細胞はすっかり入れ替わって物質的にはほぼ別人になっているともいう。
それで10年ぶりに会った友達とかは「おまえ、なんかすげえ変わったなあ」とかいう場合もある。
でも本人は自分自身とは毎日顔を合わせているので変わっている自覚はあんまりない。
10年ぶりに指摘されてまあそうかなと思う。

まあそうかなと思うのだが人間なんていうのはやっぱり10年も20年もすると全然変わるのは間違いない。
まず第一に歳をとる。
シワやシミが増えて体力が衰えて腰痛や肩こりがひどくなる。
それでも自分では20代の頃とあんまり変わっていないように錯覚している。
客観的に冷静に見れば、歳とってじじくさくなっていることは本当は知っているはずなのだが普段は「オレは全然変わっていない」と思い込んで生活している面がある。

でも近所をふらふら歩いていて真新しい建物の前を通る時に、やっぱり風景は変わったと思うと、同じように人間も自分が思っている以上に変わっているのだろうと思ったりする。
まあ古い建物が新しくなることは、古いまま放置しているより健康的である。
人間も毎日少しずつ変わっているのは、日々部分的に新しくなっているのだと、そう思うことにする。
posted by ヤス at 13:20| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年08月16日

人間の意識が変わる話

もう25年以上昔の話であるが、わたしがある朝職場に出勤するとなんか首回りが妙にスースーする。
その日も普通のサラリーマン並みにスーツ姿で出勤したのに、ネクタイだけしてくるのを忘れていたのだった。
当然ながらこの時代にはまだクールビズなどという言葉は出来ていない。
この職場の以前に働いていた会社では、わたしはすり切れて薄くなってところどころ穴の開いたTシャツ姿が定番の労働スタイルだった。
そこから転職して、晴れて毎日スーツ姿で働くようになった。
労働内容は実際それほど変わらなかったような気もするが、労働時の服装がこうまで心理的に影響があるのかと今になっても思い出す。
何はともあれわたしは毎日気分良く安物のスーツを着てちゃんとネクタイも締めて働いていたのである。

しかしその日はネクタイだけ忘れた。

それでわたしはものすごく落ち着かなくて、結局昼の休憩時間をまるまる潰して家に帰りネクタイを締めて出直してきた。
この時のことを何かの拍子でたまに思い出す。

しかしわたしはあの日なんでそんなにそわそわしたのか。
たかがネクタイである。
仮にネクタイ無しでどこかお客さんの会社に訪問したとして、お客さんが「あれ、ネクタイしてないんですね」とか言って腰を抜かすほど驚くかというと、もちろんそんなことはないに違いない。
中には「なんだ無礼な奴だな」とか思う人もいるかもしれないが、そんな人も半日もすればたぶん忘れる。
しかし社会経験が未熟で、なおかつスーツを着るようになって偉くなったような錯覚に陥っていたわたしは、あるべきネクタイが無いことの欠如感に耐えられなかった。

最近のわたしは、就活で会社訪問する学生たちが揃いも揃って黒ずくめのスーツ姿でいるのに苦言を呈したりしている。
しかしネクタイを忘れてあたふたしていた昔の自分を思い出すと「おまえがそれ言うな」ということを感じないでもない。
まあ人間の気分なんて言うモノは、時と場所により適当に変わるモノなのである。

それで現在のわたしはというと、仕事中にネクタイを締めるということ自体、年に3回あるかないかだと思う。
靴も、革靴は下駄箱でホコリをかぶっていて、歩きやすいランニングシューズのことが多い。

仕事の現場で会う相手の方が「こいつ汚えやつだなあ」と思っているのかな、とちらっと考えることもあるが、もはや手遅れである。

人間の意識はそう簡単に変わらないと言うけれど、時を経てがらりとひっくり返ることもあるのだ。
それが時代の変化のせいなのか、自分が悟りを開いた、もしくは堕落したせいなのかはよく分からない。
しかし人間の意識変化の確かな具体例として、「人間は変わることが出来る」ことの前向きな解釈として、前述の服装に対する意識の変化をとらえることも出来るのではないか。
まあいちおうそういうことにしておく。

posted by ヤス at 14:08| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年08月15日のつぶやき


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2019年08月15日

「値段」が幻想であること

100年以上前の画家であるゴッホは、生前に売れた絵が1枚しかなかったということになっている。
その絵は「赤いブドウ畑」というタイトルの、文字通りブドウ畑を描いた絵である。
この絵が展覧会に出ていたのをゴッホの知り合いのお姉さんが11万円相当(現代日本の価値に換算して)の金額で買ったとウィキペディアに書いてある。
11万円というと、日本の法律的には税務申告もしなくてもいい金額である。
ゴッホはいちおう職業は画家ということになっているが、税務申告上(現代日本のであるが)はフリーター(またはニート)だったということになるのだろう。

今となっては懐かしい日本のバブル景気の真っ最中にゴッホの「ひまわり」が50何億円かで落札されたとかいうニュースがあったけれど、今ゴッホの絵は100億円以上の値がついているものがいくつもあって、たぶん全作品足したら1000億円以上になるのではないか。

百何十年か昔にフランスの地でオランダ人のフリーターが描いた絵が、今日に至って何十億円とか100億円とかの値がついているのである。
そう思うと絵画の値段というか、そもそも「モノの値段」というのは何だろうかと思ったりする。

ネットで見たら、今のところ絵画で史上最高値を付けたのはレオナルド・ダ・ビンチの「サルバドール・ムンディ」で450万ドル、約500億円らしい。
絵画というのはステーキや牛丼と違ってお腹もいっぱいにならない。
また娯楽映画と違って、鑑賞したからといってスカッと面白かったとか感動して泣けたとかいう分かりやすいものでもない。
「サルバドール・ムンディ」はキリストの肖像画で確かに上手に描けているのかもしれないが、500億円分感動するかというと首をかしげてしまう。

「サルバドール・ムンディ」は歴史的希少性とか「あのダ・ビンチが描いた」とかいろいろな価値が重なってそこに値が付いている。
高価な値が付くことでさらに投機的価値も生じて、それがまた絵の値段をつり上げている。
その結果の500億円。
しかしこの500億円は案外とモノの値段の本質を表しているような気がしてきた。

吉野家の牛丼大盛りは550円でどっかの有名店のうな重は5000円とかいうけれど、腹のいっぱいになり具合は両者同じくらい。
栄養価も値段分ほどには違いはない。
それでも10倍くらいの価格差が生じる。
こういうことは食べ物以外でも、例えばオーディオの世界ではペアで1万円のスピーカーも普通に音楽は聴けるが、その一方で1千万円とか1億円のスピーカーも売られている。

モノの値段というのは、たぶん集団幻想か集団催眠みたいなものなのである。
たまたまみんなが「その値段」に納得しているだけで、絶対的に「この値段」と決まったものではない。
本来ものの値段は自由であるべきであり、1杯1億円の牛丼があったってかまわないのだと思う。
(オレは買わない(買えない)けれど)
posted by ヤス at 13:25| Comment(2) | 徒然なるままに