2017年06月25日

ポストトゥルース2

昨日ポストトゥルースについて考えたわけであるが、しかし思いがけず明るい結論が出てきたような気がした。
わたしは今までポストトゥルースの意味として、デマゴーグや撹乱情報によって民主的な政治手続きが阻害されたり無実の個人が貶められる可能性について悲観していた。

ネット時代の発展に伴い世の中に流通する情報量が爆発的に拡大し、かつ情報の発信源がこれまでのようなマスメディアからの一方通行だけではなくて個人からも発信されるようになったことで、情報撹乱の可能性が高まって世界は混乱の度合いを深めていくのではないか、そういう不安がこれまではあったような気がする。

しかし少し考えてみると、まあ当然といえば当然であるが、情報量の拡大や発信源の多様化は悪いことばかりではなくいい面もある。

ネット以前の社会では、我々個人レベルで受け取る情報はテレビや新聞、書籍などがせいぜいであり、何かの疑惑やモヤモヤを突き詰めて解消したいと思ったら、個人で一次情報源に直接の取材活動でも行う他なかった。

それが今では、とりあえず情報量だけは短時間でたくさん集めることができる環境が整っている。
自分の目で確かめる、という意味では直接取材には及ばないが、しかしとりあえず新聞やテレビの報道内容について、ネットで二次情報・三次情報を追いかければそれなりの検証はできる。
ネット上に転がっている、当てになるかどうか分からない断片情報を元に想定される真実を自分の中で再構成する論理的思考力と、「見たくないものも直視できる」強靭な精神力さえあれば、我々は20〜30年前より相当に真実に近づくことが可能になっているのではないか。

世の中にはいろんな人が何かの意図を持って、または無自覚的にあまたのフェイクニュースを流し続けているわけであるが、そういうフェイクだらけの現代ではあるがむしろ昔より真実に近いところにいるのだと思う。

ただ、今はまだここ10年くらいの間に起きた技術的な変化にみんなびっくりしていて、身体が環境に慣れていない。
もうあと10年か20年くらいすると、生まれた時からこういう情報環境だった、という世代が社会の中心に位置するようになってちょっとずつ時代が前へ動き出すのではないか。

そうなることを期待して、少しくたびれたおじさん世代も、「頭の中で真実を再構成できる思考力」と、「見たくないものも直視する精神力」を鍛えないといけないなあ、と思った。
posted by ヤス at 10:03| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月24日

ポストトゥルース時代

少し前から「ポストトゥルース=ポスト真実」という言葉がよく聞かれる。
ちょうど一年前のイギリスのEU離脱国民投票や11月のアメリカ大統領選が、ポストトゥルースの概念が広まる大きな契機となったようである。

以下ウィキペディア情報。
「ポスト」は「後に」「次の」の意味があるが、ポストの後に来る言葉が「過去のもの」という意味になり、それから転じて「重要でない」という意味にもなるらしい。


少し説明が難しいけれど、ポストトゥルースという言葉の意味は、ひとつひとつの事柄の嘘のことを指すというよりは、時代全体としての「真実性のなさ」という「時代の状態」を表す概念であるように思われる。

だから「ポストトゥルース」を自分なりに意訳すると、「まともな真実のない時代」ということになるのだろうと思うのである。

しかし考えてみると、いまだかつて人類社会がまともな真実だけで構成されていた時代というのもなかったような気がする。
よく言われるように、歴史は時の権力によって書き換えられる。
だから歴史資料の解読は、誰が何の目的によって記録したかをよく吟味して読み解く必要がある。
あるいは毛利元就や斎藤道三の例を引くまでもなく、権力闘争や国家間戦争において謀略戦、情報戦はつきものである。
あるいは少し昔のテレビや新聞のニュースの中にも、明らかな間違いや意図的な偽情報が入っていなかったという証拠はどこにもない。

要するにポストトゥルース的な状況は歴史時代を遡る大昔から存在したのである。
それがなぜ今になって「ポストトゥルース」と命名され、明示的に認識される必要があったのか。

それは多分、昔と違って偽の真実が、あまり時間をおかずに暴かれる可能性が生じる時代になったからではないか、と思う。
それは、インターネットの時代になったことが原因であることはいうまでもない。

しかしことはそう単純でもないかもしれない。

メジャーなネットニュースのみならず、SNS等を通じても毎日いろんな「事実」がわたしのところに流れて来る。
そういうのには名の知れたジャーナリストや「ちゃんとした」新聞社などの情報もあるし、正体不明の組織や個人からのものもある。

それらの情報は、新聞社のは真実で正体不明の情報源は偽情報とは限らない。
そのどれにも偽情報である可能性があり、いくらかの真実を含んでいる可能性もある。

現代という時代は、おそらくそうやって世の中に無数に流れている情報を拾ってきて、自分なりに事実を再構成する、そういう時代なのではないかと思う。

だから世の中に流れているニュースの数だけの事実がある、というよりはそのニュースを受け止める「受け止め手」の数だけ事実があるのだろう、と思ったりするのである。
posted by ヤス at 09:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月23日

無根拠の類型化

何年か前に観たテレビ番組で、何の番組かは忘れたけれど最近よくあるパターンのバラエティ番組だったろう、そこで「血液型占いを信じるか?」という質問を出演者に訊ねる、という場面があった。
出演者の中には東大出身の政治家もおり、ポジション的に「頭が悪い」キャラの現役アイドルもいた。

で、その反応はアイドルは信じないと言い、東大出の政治家は信じると答えた。
この答えを聞いてわたしは少なからず考えるところがあったのである。

血液型占いというのには何の科学的根拠もない。

過去に何人かの研究者がわざわざいくつか実験して、人間の性格や知能と血液型に明確な因果関係のないことは実証済みである。
またわたしの経験の範囲内でも、A型だから真面目で几帳面、O型だから大雑把、とかいうよくある当てはめに該当しない人はたくさんいる。

というか血液型占いの性格の当てはめは、だいたいどんな人にでも当てはまるような「言われてみればそう思える」的な曖昧なものであり、その意味ではこれはまさしく「占い」的である。

しかし血液型占いの信奉者は思いのほか多い。
特に企業経営者とか政治家とか、一般には相応の知性が必要とされる立場の人間にも信奉者が多い。

しかし最近はこれを問題と考える流れも出来ていて、今から10年以上前にはBPOが血液型をネタにした番組づくりについて一定の配慮を求める声明を出したりもしたらしい。
また「ブラハラ=ブラッドタイプハラスメント」という言葉も出来たりして、この10年くらいの間に世間的なブームはかなり収束はしているようだ。

血液型占いを無批判に信じる態度というのは、それをネタに友達同士で楽しくおしゃべりするくらいなら大して害はない。
しかし人間に対する「無根拠の類型化」に何の疑問も持たない姿勢は、人種差別や外国人ヘイトを行う心理と根は同じである。


で、冒頭の東大出の政治家は血液型占いを信じてアイドルは信じない件。
このシーンを観て、わたしは政治家っていうのは本当にろくでもない阿呆ばっかりだなあと思ったのと同時に、学校の勉強は多分おろそかにしているだろう現役アイドルの意外に知性的な面を見たような気がした。

アイドルというのは、人数も多く競争が激しい。
そこで生き残り、キャラを確立して売れるためには相応に合理的な行動と科学的な態度が不可欠である。
だから血液型がどうとかあまり気にしないのだろう。
そこへ行くと政治家にはそういう合理性がほとんど必要ないのかもしれない。

というとこれもアイドルと政治家を無根拠の類型化に当てはめる行為であまり望ましくないだろう。

何にせよ血液型占いのような「便利な道具」で目の前の人間を判断しパターンに当てはめるのは、頭を使わずに分かった気分が味わえるので楽チンで良いが全く知性的ではない。
目の前の人を判断するには、やはり個別の人間ごとに自分の知性と経験をフルに動員し一生懸命考える、というのが唯一の正しい方法だろうと思うのである。
posted by ヤス at 08:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月22日

クリエイティビティ

AIに対する人間の強みはある種のいい加減さ、予測不可能性である、みたいなことを書いた。
それはただの個人的な思いつきであってちゃんとした確証があるわけではない。
ただよく言われるところの、クリエイティビティは人間だけのもの、というのが、どうもそうではないんじゃないかと思えてしょうがなく、クリエイティビティ以外の強みは何かないかなあと考えたまでである。

クリエイティビティとは「感動を作る能力」であると、とりあえず定義した。
そしてその「感動」というのは、人間だけの専売特許ではないと思うのである。

それは人間だけではなくて、ある程度大脳皮質が発達した高等哺乳類ならそこそこのレベルで持っているものだと思う。

感動というのは、キレイなもの、何かすごいものを見て驚き、かつちょっと恍惚とした気分になる、みたいな感情だと思う。
人間の感情にはそういうプラスの感情以外にも悲しいとか辛いとか恐ろしいとかいうのもある。
あるいは気持ちいいとか嬉しいとかいうこともあるだろう。

そういう感情の「正体」が一体何かということである。
これらのプラスの感情、マイナスの感情は、大脳が発達した高等哺乳類が持つ、ある種の記憶の補助機能なのだろうと思う。


なんかの木に生えている赤い実を食べたら、甘くて美味しくて感動した。
そうしたらその美味しかった感動とともにその「りんご」の赤い色や形をしっかり記憶にとどめておいて、次にりんごを見つけた時に備える。

反対に、黄色と黒のシマシマの猫の大きいやつにある時飛びかかられて間一髪逃げおおせたら、その「虎」の姿を恐怖の感情と一緒にしっかり記憶して、次回シマシマ模様を見かけたら一目散に逃げる。

そういう生存性強化のための記憶の補助装置として「感情」というものがある時生じたのだろうと想像する。
こいう記憶能力はカラスなんかもかなり優れていて、人間の顔もかなり覚えて個人識別できるらしいので、逆にカラスにも「感情」のような機能が備わっているのかもしれない。



とにかくも感情というのはある程度の哺乳類に標準装備の基礎的な機能であり、したがって感情の発動条件はかなりパターン化されている。
だからそれなりの基本知識を学習した人工知能であれば、人間を感動させたり悲しませたりするのに必要な「情報の合成」はお手の物であるに違いない。

実際最近の映画やテレビドラマでは、脚本を分析する専用のソフトがあって、ハリウッドあたりでは脚本をそれらの分析ソフトにかけて修正するというのが当たり前になっているらしい。

そのうち脚本の制作そのものも、あるいは映画監督やプロデューサーの仕事も人工知能に取って代わられることだってありうると予想する。
それどころか、あと数年もすれば映画俳優も全部CGになっていて、それが本物と見分けがつかないということになるだろう。
(すでに部分的には、CGの俳優は当たり前になっている)

そうなると企画・制作・出演が全部AI、という映画も遠からず実現する。
そうなった時の人間の役割が問題であり、ちょっと心配になるわけであるが、長くなったのでまた今度考えることにする。
posted by ヤス at 09:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月21日

AIに対する人間の強み

さてAI=人工知能の話も世間的にはいい加減煮詰まってきた感じもあるし、個人的にも若干飽きてきた面もある。
しかしこのところの将棋の藤井聡太四段の活躍で、わたしの中では再び興味が再燃してきた。

実際のところ将棋の世界でもしばらく行われていた「電王戦」、いわゆるAIと人間棋士の対戦は公式戦はもう終わっている。
これはつまりAIと人間の対戦はすでに決着が着いた、AIは人間を明らかに超えてしまったということなのかもしれない。

しかしそこに出てきたのが藤井聡太四段。
まるでAIのようにミスをせず、勝負どころで奇想天外の一手を打って敵を混乱に陥れるその棋風から、あるいは藤井四段ならAIに勝てるのではないか、という声もあるようだ。


究極的に考えると、将棋で人間がAIに敵わないのは確かである。
それは、将棋には論理的なルールがあるからである。
将棋が論理的なゲームである限り論理計算能力が人間よりはるかに高く、多分将来は今よりもっと能力アップするAIが人間に負ける道理はない。

しかし今のところ計算容量の関係で、AIも想定される手筋の全てを網羅しているわけではない。
パターン認識とか過去の棋譜のデータベースを参照して計算をかなりの程度端折っている。
その端折り方こそが将棋ソフトアルゴリズムの肝であり、ちょっと人間的な部分でもあるのだと思う。

このような前提で将棋対戦における人間のAIに対する強みを考えてみると、それは非論理的で想定外の奇手を打てること、なのではないかと思うのである。
ちなみにわたしは将棋は駒の動かし方くらいは分かるが、上級者の対戦を見ても何がどうなっているのかまったく分からない素人である。

だから「奇手が打てるのが人間の強み」なんていうのは素人の妄想に過ぎないのだけれど、調子がいい時の阪神・藤浪の荒れ球に名うての強打者がキリキリ舞いするように、予想外の奇手には人間棋士もAIも混乱するのではないか、という気がしてならない。


AIといえば、将来人間の仕事がAIに奪われるから人間にしかできないことを確立しないといけないという話がある。
人間の強みはクリエイティビティだから、みんな創造的な仕事を磨いた方がいいよ、という理屈になる。

クリエイティビティというのは「感動を生み出す能力」だと思っているのであるが、人間の感動はかなり論理的にプログラムされた定型的パターンであるような気がする、だからクリエイティビティはむしろAIの得意分野なのではないかという気がするのである。

むしろ人間の強みは、ある種のデタラメさ、いい加減さ、藤浪の荒れ球(ただし調子がいい時)のような予測不可能性にこそあるのではないか。
ここから先はまだ考えがまとまっていないので、またよく考えを整理して何か思いついたらまた書くことにする。
posted by ヤス at 10:44| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月20日

マクド、マルウェア感染

マクドナルドが少し大変なことになっている。
いや、ものすごく大変なことになっているのかもしれない。

16日未明に、システム障害が発生したらしい。
dポイントカードと楽天カードが使えなくなった。
しかしわたしは、その時はすでに面倒くさくてdポイントカードを出さなくなっていたので、そこは他人事だった。

それが昨日、1日ぶりにマクドに行ってみたら電子マネーのiDも使えなくなっていた。
昨日のニュースによると、マルウェアの感染による大量のパケットでネットワークがダウンしたということである。

しかもつい先ほど、店の奥の方からこんな声も聞こえてきた。

「ごめん、来月のシフト、手書きでお願いしまーす、ネットが使えないのでー」

だそうである。

多分問題はかなり深刻である。
マクドの場合全国の店舗は本部とネットワークでつながれており、POSレジデータがリアルタイムで本部に流れている。
それで現在の売上情報とか逐一本部で把握できているわけだが、そういうのも多分今はストップしているのだろう。
シフトとか社内メールとかあらゆるネットワークが止まっている。
月末をまたぐと仕入れ請求の管理やFCとの経理上のやりとりなんかも大変そうだ。
その場合、電卓片手に手書きでやることになるのだろうか。

システムのことはよく分からないけれど、PCの場合ならこういう時は電源ボタン長押しで強制終了し、再起動するに限る。
ひょっとしたら近いうちに全店一斉休業してシステムをシャットダウンすることになるのではなかろうか。

なかなか恐ろしい状況である。
マクド的にも当然ながらセキュリティ対策は行なっていただろうが。
マルウェアがどの経路から侵入したのか分からないが、ここはジタバタしないでお店を全休にして、根本的な処置を行った方がいいような気がする。

ネットワークやコンピューターシステムは、今や経営の絶対外せない基礎インフラになっている。
半分病んだ形でなまじ頑張ると、とんでもない二次被害三次被害が発生するリスクだってあると思うのだがどうなのだろう。
posted by ヤス at 09:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月19日

急がば回れ

今朝、セブンイレブンに寄って、本コーナーでいつものように雑誌類をパラパラ立ち読みした。
その中で、月刊プレジデントをパラパラめくっていたら、先日民進党を離党した長島昭久氏のインタビュー記事があった。
その記事の中の5〜6行くらいしかちゃんと見ていないのだが、その5〜6行の中にこんな趣旨のことが書いてあったと記憶している。


どこの国でも政権交代は10年くらいの周期で起きている。
日本の場合でも、民進党は本当は10年後を目指して腰を据えて取り組んでいかないといけなかったのだ、みたいなことである。


斜め読みで見たので内容を正確に覚えていないが妙に納得した。
わたしは長島昭久という人をよく知らないし、なんならそんなに好きなタイプの政治家でもないのだが、しかしセブンでちら見したその意見はまったく正しいと思った。

それはひとつには、戦後日本では政権交代の仕組みが機能したことがなく、というかその仕組みがまだ存在していないということなのだろう。
ひょっとしたらアメリカやイギリス並みの仕組みが出来るまでに、あと数十年要するのかもしれない。
それは、少し時間はかかるが政権交代の政治土壌が出来始めたということなのか、あるいはせっかくの政権交代の萌芽が途中で摘み取られてしまったということなのか、そこはよく分からない。

おそらくは前者であって欲しいと思うわけだが、しかし確かに今の野党第一党・民進党はやることなすことが短絡的であり過ぎるように見える。
蓮舫氏が代表になったのも、「とりあえず」選挙に強そうというのが主な理由だろう。
しかし今になって見ると、当初の思惑が裏目に出ているようである。

民主主義は多数派形成が正義ではあるが、しかしちゃんとした多数派を構築するには党内における政策的方向を時間がかかってもまとめていく必要がある。
そこのところが民進党はずっと寄せ集めで数のみを目指したために、結果として肝心の数が減っている。

別に民進党が必ず野党第一党である必要はないと思うが、しかし健全な民主主義のためにはちゃんとした野党第一党が必要なこともまた間違いない。



ところで今、中学生棋士の藤井聡太四段が話題だ。
テレビのワイドショーなんかでもバンバンとりあげられている。
そういう番組を観ていると、藤井四段は相手の心理まで見透かした老獪な将棋を打つというのをやっていた。

囲碁でも同じだと思うが、ここで打った手が何手か先でものすごく効いてくる、というのが将棋の醍醐味と思う。
最近の藤井四段の話題で、将棋の勝負における「急がば回れ」的な世界にあらためて気づき、面白いと思った。

ただ「急がば回れ」を勝負の現場で実現するには日々の研究の積み重ねと何より強い精神力が必要だろう。

それで「急がば回れ」というのは、伊達や酔狂で諺になっているのではないのだなあ、と今更ながら思うのである。
posted by ヤス at 14:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月18日

AKB総選挙、衝撃発表

昨日、恒例のAKB総選挙があった。
今年の総選挙はあらゆる意味で波乱だらけだった。

まず、直前になって激しい雷雨が予想される状況になり、野外でのイベントが中止になったこと。
これについては梅雨時期の沖縄開催がそもそも無謀だったのではないか、などの批判も聞かれた。
ただそういう批判はなんだか後づけの理屈に聞こえる。
若干のリスクを気にせず(気付かずかも)どんどん新しい試みにチャレンジするのはAKBグループらしくて良いと個人的には思う。
このような大規模の野外イベントでは「お天気リスク」というのがあるのだ、ということを今回運営はよく学んだことだろう。
それでいいんじゃないか。

波乱の二つ目。
NGTの荻野由佳が速報1位、最終票数でも5位に入った。
今回NGTは全体的にものすごく票数を伸ばしたようである。
今回から選挙を辞退したゆきりんの票が他のメンバーに流れたのだろうか。
ディープなファンなら何か感ずるところが有るのかもしれないが、わたしには躍進の原因が皆目わからない。
まあそのうち各種の分析記事が出てくることだろう。

さらに波乱の三つ目。
これが最大の大波乱だと思うのだが、20位に入ったNMB須藤凛々花の結婚発表。
これにはびっくりした。

わたしの家にはテレビがなく、したがって開票番組をオンタイムで見ることが出来ない。
だから夜の9時過ぎにそろそろ結果が出たかなとネットニュースを見て最初に飛び込んできたのがこれだった。
ぱっと見、記事の意味が飲み込めなくて困惑した。
結婚するって言うのは、ファンのみなさんと結婚する気持ちです、というくらいみなさん大好きですよ、みたいな意味なのかなとまず思った。
しかしどうやらリアルの結婚発表らしい、ということをやっと理解した。

そしてこの衝撃発表に対し、直後のスピーチで19位の峯岸がぼやいたり11位に入った高橋朱里が苦言を呈したりしたらしい。
またOGの大島優子も批判的な反応を示し、さや姉も困惑のようすであるらしい。
何より、この発表に対してファンから「金返せ」的な批判が殺到しているとも言う。
わたしは直接的にそれらの批判を見たわけではないが。

この衝撃事件に関し、わたしは恋愛禁止の掟を守りファンを大切に思う高橋朱里の涙にはかなり同情した。
彼女らが数百人のメンバーがひしめく中、各々地道にファン層の拡大に努力してきた、その集大成の選挙の場でガチの結婚発表とは違和感があり過ぎると最初は感じたのである。

しかし少し考えているうち、最近のSMAP騒動とかその他のタレントの事務所移籍や独立に伴う奴隷的な契約慣習とか、今の芸能界が抱える闇に対し、この衝撃発表は須藤凛々花なりの意見表明だったのではないか、そういう気がしてきた。
まあ本人は直接的にはそういう意識はなかったかもしれない。
が、結果として、これまでは「商品」として消費されてきた「アイドルの女の子」が、事務所やファンに対してイーブンな関係のちゃんとした人格を認められる存在になるために、今回の衝撃発表はいいきっかけになったのではないか。

そういう意味では、かなり違和感はあったけれどこれは必要な違和感であり、結果的に良かったんじゃないか、今はそのように感じているところである。

posted by ヤス at 11:30| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月17日

ポケコン、Palm、iPhone

今年の2017年1月、iPhoneが登場してから10年経った。
それ以前に「スマートフォン」と言えば、小さいキーボードが付いた黒い携帯電話のBlackBerryのことを指した。
しかしiPhone以降は全面タッチディスプレイのやや大きなカマボコ板みたいのが世の中的にはスマートフォンの共通了解になった。

iPhone以前、やっぱりタッチスクリーンの薄いカマボコ板みたいなPalmという携帯情報端末があった。
調べてみると1996年頃に登場したものらしい。
わたしもPalmの端末を2台とソニー製のCLIEというクローンマシンを1台買って使っていた。

Palm端末などの情報機器を総称して当時はPDAと呼んでいた。
Palm以前にもPDAはあってシャープのザウルスはその代表格であろう。
さらにAppleのNewtonや、さらにその以前にはソニーや富士通なども「手のひらサイズのコンピューター」的なマシンを出していたらしい。

1990年頃の話である。

さらにそれ以前には「ポケットコンピューター」という製品ジャンルがあった。
カシオとシャープが双璧であり、関数電卓とコンピューターの合の子のような感じのマシンが多かったけれど、オプションで超小型の感熱プリンタやテープ式の拡張記憶装置などの周辺ガジェットがたくさん用意されており、オタク心をくすぐるに十分過ぎる状況であった。
わたしはカシオ派で、PB-110とPB-1000というのを買った記憶がある。
1980年台後半の話だ。

あの頃は32KBのメモリが1万円だったか2万円だったかしたと思う。
(「KB」っていうのは「GB」と100万倍差っていうことでいいのだろうか。つうことは、この30年ほどでメモリは100万倍くらいのオーダーで値下がりしたということらしい)

雑誌「ポケコンジャーナル」に掲載されているBASICで書かれたゲームプログラムを2〜3本入力すると、さしものPB-1000の標準搭載のメモリはすぐにいっぱいになったものである。
メモリを増設したいけれど、たかがゲームプログラムを打ち込むのに1万円も支出するのはアホらしい。
だから古いプログラムを上書きして新しいゲームを入れた。

そんなことはともかく。

ポケコンを駆逐したザウルスやPalmなどの「PDA」は1993年頃に出てきてPalmが生産終了したのが2005年、10年少々がPDAの時代。

そのPDAを駆逐したiPhoneが出たのが10年前だが、iPhoneは若干勢いは落ちがたPalmと違ってまだ寿命が尽きそうな感じではない。

ということはポケコンやPDAはスマホ誕生にあたっての露払い、前兆のようなものであり、スマホこそが真打ち登場、だったのかもしれない、そういう気がする。
またAIや音声認識技術の急速な進化により、スマホがそれらのインターフェイスとしてますます活躍しそうな感じもある。

個人的にいうと、かつてポケコンやPalmに投資した額の何倍(あるいは何十倍か)もiPhoneにはすでに投資していると思う。
逆から見ればスマホはPalmなどに比べても桁違いに大きな経済的価値を生んでいるということになるのだろう。

だからiPhoneはまだ当分は今の調子で生き残っていくのであろう、とどうでもいいけれど思った。
posted by ヤス at 10:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月16日

今年の夏は暑くなりそうだ

この間梅雨入り宣言したと思ったら、途端に雨が降らなくなった。
スマホで向こう一週間の天気予報を見ても、しばらく晴れと曇りのマークが続いている。
連日雨の日が続くといろいろ面倒くさいわけであるが、しかしこの時期に雨が少ないと今後の水の供給が心配になる。

なんでも今年は4月下旬から5月にかけてかなり雨が少なかったらしい。
気象庁のデータによると関東甲信越以西の各都道府県の降水量は、平年比が軒並み30%〜40%台だったようだ。
近所の田んぼも山の方から順番に田植えが進んでいるようだが、水は足りているのかなあとやや心配している。

例年の梅雨は、中国地方では6月7日に梅雨入りして7月21日に明けるそうだ。
で、心配される雨の量であるが、これは予想によると6月中旬以降長雨の傾向が続いて降水量は平年よりやや多めの見込み。
なんでも南の方から暖かく湿った空気が流れ込んでいるらしく、もしこの予想通りならこれからしばらく蒸し暑い日が続く。


さて、話はやや変わる。
以前にも書いたがわたしは今年、昔出場したことがある「2017歴史街道丹後100kmウルトラマラソン」に再び挑戦しようと考えている。
挑戦しようと思っているが、まだエントリーはしていない。
4月に最後のフルマラソンを走り終わって、その後しばらくランニングをサボっていて、やっと一週間ほど前から再度走り始めたところである。

一月以上ランニングをサボっていたために当初2〜3日は膝がガクガクになって先が思いやられた。
しかし数日続けて走るうちに、体が走り方を思い出したらしい。
ゆっくりであれば10km超の距離でも楽に走り終えることができるようになった。
京丹後の100kmは制限時間が14時間である。

前回の出場は10年以上前だったが、13時間40分弱くらいだった。
1kmあたりに直すと8分10秒くらいである。
前回はエイドステーションのたびにバナナを食べながらくくつろぎ、かわいい中学生のボランティアにふくらはぎをモミモミしてもらった。
また後半に入ると登りの坂道は基本歩き、そのうち平らな道でもフラフラ歩くらいまあまあ辛かった。
だが、最後の20kmくらいは止まると足が固まって動かなくなるので、なるべく歩かないように、止まらないように頑張った。

あの過酷な100kmを10歳以上歳とった現状で再び完走するには、それなりにトレーニングを積む必要がある。

特にこれからの暑い季節がどれくらい暑くなるのかはトレーニングに多大の影響を及ぼすであろう。

エントリーの締め切りは7月24日。
まだ定員には達していないようである。
もう少しトレーニングを続けながら様子を見て、大丈夫そうならエントリーしようと思っている、妙に慎重な今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 09:49| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月15日

サル多数出没

昨日吉備中央町の山の中を高梁市に向けて車で走っていたら、100mくらい先の道路の上にタヌキだか犬だかよくわからないが四つ足で歩く「動物」のシルエットが数匹分見えた。
で、近づいてよくよく見るとニホンザルの親子である。

母親ザルとおぼしきやや体の大きなのが、車を怖がるでもなく道の真ん中にデンと腰を下ろし、じっとこちらを睨んでいる。
そしてひときわ体の小さい子猿が3〜4匹、道の端の方でチョロチョロと走り回っていた。

その辺の道はこれまでも度々通ったことのある走り慣れた道であったが、サルを見かけたのは初めてだったのでやや驚いた。
しかし驚くのはまだ早い。
そこからさらに数百メートル走るとまた別の群れが、多分10匹以上のんびり道路を横切って散歩している。
さらに数km車を進めるとまた別の群れがいる。

この日は吉備中央町を抜けて高梁市に抜けて行ったのだが、その道すがら合計で30匹くらいのサルを目撃したのではないかと思う。
サルを1匹2匹見かけるのも稀なことなのに、このように集団で遭遇するのは今までなかった。

サルの生息地の山で何か事件でもあったのだろうか。
山の上の方の食糧事情が悪化して里に近い方に降りてきたのだろうか。
かなり気になる。

ちょっとだけネットで調べてみた。
ここ最近、全国的にクマ被害のニュースがものすごく増えている。
それと同様にサルの出没情報も増えているらしい。

原因はいろいろあるみたいだが、一つには、中山間地の過疎化が行き着くところまで行ってしまって、山の手入れがほとんどされなくなった。
その結果、昔は適当に間引きされていたコナラやクヌギが生え放題になって餌になるドングリがたくさん出来るようになり、そこにクマが寄って来るようになった。
そんな感じで山の上の方から人里近くにクマが降りて来て、そのうち畑や人家の方にも出没するようになった。

つまり過疎化で山の上の方の野生動物の生息地と人間の生息地の間の緩衝地帯にどんどん動物が進出して来ているということらしい。

過疎化の結果クマだけでなくサルも人間の居住圏に出て来て今までにないニアミスが起こるようになっている。

しかもサルの場合、ちょっと離れて眺めている限り、表情が豊かで動きも面白く愛嬌があってなかなか可愛い。
ちょっと親切な人だったら餌をあげたくなったりするかもしれない。
しかしサルは思いのほか凶暴で咬みつきの被害も多発している。
しかも頭がいいから弱そうな人間とか、以前痛い目に遭わされた人間とかをちゃんと記憶している。

だからサルを見かけたら大声を出して棒を振り回したり石ころを投げつけたりして追い払うべきである、とサル被害の対策のサイトにも書いてあった。
(ただしこちらが一人で分が悪そうな時はくれぐれも慎重に)

この場合、野生の作法に習って、サルどもに対し人間の縄張りを激しく主張するのがサルにとっても人間にとっても良いようなので覚えてこう、と思った。
posted by ヤス at 11:18| Comment(1) | 徒然なるままに

2017年06月14日

加計学園問題

森友問題に続いて加計学園の問題がクローズアップされている。

「総理のご意向」の文書が真正のものであるかどうかが今のところの争点となっているようである。
件の文書に関し、官邸サイドは一貫して出所不明の怪文書であり真偽や流出元について調査する必要はないと主張していた。
しかし前文科省次官の前川氏が会見を開いて文書は真正のものであると断言したことから風向きが変わった。

各種の世論調査では、今まで高い数字を維持してきた内閣支持率がジリジリと下がっているというのも出てきている。
折しも来月は東京都議選がある。

機を見て自民党を離党した小池旋風が相変わらず強い。
自民党にとって厳しい戦いが予想される。

今回突如として政府が方針を転換し、文科省内で件の文書に関する職員への調査を行うことを決定したのは、多分に都議選を意識してのものだろう。


しかし加計学園問題に関しては、森友問題にも増して色々と評価が難しい。
加計学園に対する獣医学部の認可は、果たして身内に対する利益誘導なのか岩盤規制の破壊であるのか。
わたしは、基本的には今回の一連の騒動においては前川前次官の肩を持ち、現政権を批判する立場をとっているつもりである。

しかし考えてみると、加計学園問題の根底には、大学の学部新設認可に対して行き過ぎた行政の規制があったことは否めないような気がする。
つまり政府側が、これを岩盤規制改革であると主張すればそう言えなくもない。

逆に考えると、岩盤規制の存在によってかえって権力による「身内への利益誘導」の誘惑が発生し得たという意味で、この国にある数々の岩盤規制こそが森友学園や加計学園問題の根源であるとも言えるだろう。

とすると、本当に悪いのは官僚システムの方であり、権力の暴走は官僚システムの瑕疵に基づいた「ほんの出来心」ということになるのだろうか。
だとすると前次官の前川氏の肩を持つのは筋違いになる、というややこしい話になる。



この問題での省内調査に際し、文科副大臣から法令違反を明示しない内部告発は公務員法違反で処分する可能性に言及したらしい。
これはかなり無茶苦茶な発言だ。
そういうことを言ったら内部告発はほとんど成立しなくなる。
組織の自浄作用のためにはある程度の内部告発の仕組み、自由な発言の雰囲気は欠かせないはずであるが、この文科副大臣は頭がおかしいとしか思えない。

文科省の現職の人々には是非この機会に事実を明らかにしてほしい。
そして、今回の一連の事件を契機に日本の官僚システムが少しは良い方向に向くことになりはしないかと、ほんの少しだけ期待して事態を注視しようと思う。
posted by ヤス at 09:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月13日

新卒採用の今後

さて、今に始まったことではないが、現在新卒で入社した人々もその多くが数年のうちに辞めてしまうという。
厚労省のデータによると、平成27年では1年以内離職率11.8%、2年以内22.8%、3年以内31.9%らしい。
よく3年で3割辞めるという「噂話」が業界内でささやかれていたがどうも本当らしい。

しかしこれはあくまでも平均値である。
おそらく大企業よりは中小企業において離職率は高くなっている。
わたしの周辺情報では、ある中小企業は新卒者をある年に10名ほど採用したが、5年もするとその10名が全滅した。
しかもそういう年は稀ではない。
10年して新卒者が生き残っている方がどちらかというと奇跡的である。
だから人材の主力は自ずと中途採用者に頼らざるを得ない。

そもそも新卒採用できる企業というのは、ある程度の経営規模、経営余力のあるところに限られるだろう。
社会人経験のない新卒者に対し、お辞儀の仕方や名刺の渡し方から始まり、アポ取りや報連相、仕事の段取りなどなど仕事のイロハを教えてある程度出来るようになるまでの「空走距離」の間も会社は給料を払わないわけにはいかない。

合理的に考えるなら、そのようなイロハをひととおり習得済みの「第二新卒」を採用することこそ、持たざる中小企業にとっての得策であるように思われる。
しかし、すべての企業がそうではないが、新卒者を採用したい会社は相変わらず多い。

その理由を少しネットで調べてみた。
一つには企業文化の問題である。
新卒で採用した方が我が社のカルチャーが浸透しやすい。
よその会社を数年でも経験していると我が社のカルチャーに染まりにくい、ということがあるのだろう。
だから社員と会社が同じ企業理念のベクトルを維持するのに、新卒採用が有効であるという話だ。

もう一つ、組織の年齢バランス、平均年齢を若く保つ、同期入社の横連携など組織の活性維持に関することがあるらしい。
ただこれは意地悪く見れば若手社員の割合を一定数維持することで平均賃金を下げる、という副次的意味合いが結構大きいのではないかとも思う。

しかし今後は日本における「新卒一括採用」制度の維持は難しいのではないか。
というか、前述した通り地方の中小企業では新卒採用は難しいところが多く、新卒採用は一定規模以上の大企業のものになっているように思われる。

まず、若年人口が減って莫大な採用コストをかけても中小企業には人が来ない。
また運よく採用できても教育コストを回収する前に辞めてしまう。
若年人口の減少に伴って新卒採用の割に合わなさはどんどん加速する。
やがて大企業でも採用・教育コスト面を考えて新卒採用から脱落するところが出るだろう。

そのうち新卒一括採用は名の知れた一部の有名企業だけのもになるのではないか、というかもう既にそうなっているのかもしれない、と想像するのだが実態はどうなのだろう。
posted by ヤス at 08:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月12日

零式艦上戦闘機二二型

今月の3日、4日に「レッドブルエアレース」という単発プロペラ飛行機によるレースがあったらしい。
そこで復元された「零式艦上戦闘機二二型」、つまり旧帝国海軍の「ゼロ戦」が展示飛行を行った。
復元されたゼロ戦が日本の空を飛ぶのは20年ぶりだとネットニュースには書いてあった。

ゼロ戦は、第二次世界大戦の日本軍を象徴する存在であると言われることがある。
それはつまり、ゼロ戦が1940年の夏に中国戦線に初登場してから太平洋戦争初戦の真珠湾やインドシナ戦線、そして1943年頃のガダルカナルくらいまでは圧倒的な「キルレシオ」(被撃墜に対する撃墜率)を誇る無敵の戦闘機であったのが、戦争中盤以降敵の対策が進んで急激に勝てなくなっていったからだ。

太平洋戦線初期の連合国軍の戦闘機は、米海軍がF4Fワイルドキャット、米陸軍はP40ウォーフォークやP38ライトニングなど、イギリス空軍はハリケーンなどだったがいずれもゼロ戦との空戦では分が悪かった。
また1943年にオーストラリア上空でゼロ戦と戦ったスピットファイアは新型のマーク5型であったそうだが、高出力のロールス・ロイス・グリフォンエンジンを積んだ高速機で、欧州戦線ではドイツ軍のBf109Fと互角以上だったにもかかわらずゼロ戦にはかなり苦戦した。

その後アメリカ海軍は大型戦闘機のF6Fヘルキャットが主力になり、陸軍も超大型のP47サンダーボルトが出て来て対戦後半にはP51マスタングが主力になる。

この間、日本海軍はゼロ戦を細々と改造してずっと主力に据えたまま。
ちなみに「零式艦上戦闘機二二型」の、型番の最初の二は機体番号、次の二は発動機番号である。
だから二二型は最初の型に対して機体にマイナーチェンジ(主翼端折りたたみ)を一回加え、発動機も換えた(栄一二型→二一型)やつだ。
最終的にゼロ戦は五二型が主力で終戦を迎える。
機体のマイチェン6回目の六二型も数百機作られているがこれは急降下爆撃能力を付与された戦闘爆撃機型で、最後の方は特攻に使用されたらしい。

つまりこの間ゼロ戦のエンジンは1回チェンジされただけ。
スピットファイアなどは対戦中に「マーク22」まで延々と改良が加えられ、エンジンは最初千馬力程度のロールス・ロイスマリーンが2千馬力超のグリフォンにまで強化されている。
ゼロ戦の方は栄一二型の940馬力が二一型の1130馬力になっただけである。

機体改良以外にも、レーダーの導入や編隊空戦方法の刷新など戦術面でも日本軍はどんどん立ち遅れて、戦争の終盤ではかつてカモにしていたF4Fにも勝てなくなっている。




日本で国家が成立し大和朝廷が出来上がる頃、当時の「日本」はかなりの積極外交を行っており朝鮮半島にも何度か大規模派兵を行ったらしい。
しかし半島介入政策は最終的にはうまくいかず、有名な白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗戦を喫する。
以来豊臣秀吉の半島遠征まで引きこもりの消極外交時代がずっと続き、秀吉以降は明治維新まで再び引きこもる。

要するに日本という国は歴史的に戦争下手の国なのである。
秀吉の時もそうだが、たまたま技術革新が上手くいって一時的に強くなっても、継続的に強い状態を維持することができない。
少なくとも歴史的にはそういう実績がない。

ゼロ戦二二型は、そういう長期スパンでの日本歴史も象徴している、と思った。
posted by ヤス at 10:11| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月11日

ストロベリームーン

ニュースでストロベリームーンっていうのが出ていた。
おととい9日の満月は地球から一番離れた状態、つまり年間で一番小さく見える満月だったらしい。
しかもいつもの月に比べるとイチゴのように赤く輝いて見える。

しかし赤く見えるのは「気のせい」らしい。
だいたい低い空に出る月はいつでも赤く見えるんだそうだ。
夕日や朝日が赤いのと同じ原理。
だからこの日に限らず、赤い月は年中見られることになってストロベリーのありがたみが薄れる。

だいたいストロベリームーンって、生まれて初めて聞いた気がするのも気のせいだろうか。
ストロベリームーンは「恋を叶えてくれる月」とも呼ばれるとネット上に書いてあったが、この表現、おじさんだけが今まで知らなかったのか。
調べてみると、この言い方の起源は昔のネイティブアメリカンにあるという。

頭にわしの羽根飾りをつけて、顔に絵の具を塗りたくった昔風の「インディアン」を思い浮かべるに、「ストロベリームーン」とはまた随分ハイカラな表現だなと思った。
だいたい月をストロベリーに喩えるっていうことは、「ストロベリー」もまたネイティブアメリカンにとっては身近なものだったといことなのだろうか。

と思って調べたら、「野生のイチゴ」は世界中かなり広い範囲に分布していたらしい。
そして現在のイチゴは南北アメリカ大陸原産のものをオランダで交配して出来上がったものらしい。
ということでアメリカ大陸はいわばイチゴの「本場」と言えなくもないようである。
だから「ストロベリームーン」がアメリカ大陸由来であっても不思議ではない。


そんなことはともかく、おとといの月は一番小さい満月だというけれど、そんなに小さいようには見えなかった。
一番大きい状態とどれくらい違うのか。
地球からの距離でいうとおとといはだいたい36万3千キロくらいだったらしい。
逆に一番遠いのは40万5千キロ。
その差4万2千キロ。
割合では1割くらいの差。

4万キロっていえば地球の赤道の長さである。

思った以上に大きな差だが、しかし考えようによっては赤道程度の距離の差っていうのは、個人的には案外スケールが小さいようにも感じる。
月は意外と地球に近いのである。

おとといの月の見た目も1割くらい小さく見えたのだろう。
しかしその程度の大きさの差を感じるには、おじさんの感受性はあまりに貧弱であったようだ。
今回の満月の「大きさ感」をよく覚えておいて、半年後に見られる最大の満月と比べてみようかと、今だけ思ったりしている。
posted by ヤス at 08:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月10日

リクルートスーツの続き

前回はリクルートスーツについて書いたわけだが、しかし考えてみると就活生が揃いのスーツ姿になったからといって何か実害があるわけではない。

だからそんなことにいちいち反応するのは時間の無駄である、ということも言えなくはない。

果たしてこの問題は、何か社会の暗部を反映した改善必要な事象であるのか、あるいは取るに足らない瑣末な問題で、放っておいて全然構わないのか。

就活生がみんなお揃いのスーツ姿になってしまうのは就活時の服装選択におけるリスク回避の傾向があるのでは、ということを昨日考えた。
就活を有利に進めるにはその一つの方法として「差別化」があり、みんなが黒や濃紺のスーツを着るなら自分はちょっと色味の違うグレーのスーツを着て目立ってみる、とかいう方法もあるだろう。

しかし現実は就活生は黒っぽいスーツの一本調子で、これは司馬遼太郎の小説に出てくる秦の始皇帝の百万の軍隊が黒い鎧でしずしずと進軍する様を想起させる。(個人的には)

そういう決まりがあるわけでもないのに、いつの間にか就活生の服装がある一定のフォーマットに収斂して行く現象を我々はどのように評価するべきなのか、よく考えるとこれは解読困難な難解な課題だ。

それでちょっと思いついのだが、これは自分の行動を決める時に、自分の基準を重視するのか、それとも周辺の基準を重視するのか、そのバランスの問題ではないか。

人間は社会的動物であって、一人ぼっちでは生きていけない。
だから周辺の人々とある程度調和を保って生きていかないといけない。
具体的には、時に喧嘩することがあっても概ねみんな仲良く協力しあって生きて行くべし、そういうふうに社会は出来上がっている。
そのような社会においては、行動基準を自分だけで決めていると社会の調和を乱す恐れがある。

だから多分、個人主義が強いと言われるアメリカだってヨーロッパ諸国だって、いわゆる「社会の常識」というやつがあって、その常識と言われる周辺基準にある程度合わせて人々は生きている。
周辺基準とは、つまり「人目を気にする」ということであろう。

しかし想像するに、アメリカの人々なら人目を気にするのと同時に、自分の中にかなり強い自分の基準を持っているように思う。
だから人目は気にしつつ自分基準を表に出したいという性癖が、日本人なんかと比べるとかなり強いのではないか。

自分基準を発揮するという性癖は、一歩間違うと自分勝手とか偏屈な人とか、そんな誤解を招きかねないわけだが、おそらく個人主義の強いところではそういうことにあまり頓着しない。
逆に日本では自分基準のウエイトが極端に小さく、本来必要のない場面でさえ周辺基準を探してそれに合わせようとする性癖が強いのではないか。

それが阿吽の呼吸による黒っぽいリクルーツスーツへの収斂という不思議な現象を起こしているように思われる。

で、結局お揃いのリクルートスーツは「望ましい現象」であるのかどうか。
そこのところの評価については、字数が過ぎたのでまた暇があったら考えることにする。
posted by ヤス at 09:56| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月09日

リクルートスーツと完全競争

茂木健一郎氏が例によってリクルートスーツの没個性問題についてツイートしていたのを見た。

“東京のある駅の近くを歩いていたら、全く同じようなリクルートスーツをきた学生の集団が数十人、騒ぎながら通り過ぎていた。画一性。没個性。この国は、本当に終わっているんだなあ、と思った。経団連のお墨付き。”

わたしも全く同感だなと思う。
しかし考えれば考えるほど、今の「就活生」がそのようになっている理由が腑に落ちない。
わたしの記憶の範囲では、10年くらい前まではこういう現象はなかったように思うのだが。
それがこの数年のうちに街のそこかしこに黒っぽい「リクルートスーツ」を着た若い人を見かけるようになった。

素直に考えれば、これは一種の市場原理が働いた、淘汰圧のなせる技であろうということになる。
つまり企業側が「そのような若者」を欲している。
折しも現代はSNS社会であり、「そのような若者」のスマホ実装率は100%であることが推測される。
「就活必勝法」のような有用な情報はたちまちのうちに彼らに共有され、その成果や改善点が指摘されることであろう。

その結果があのリクルートスーツ。

しかし不思議なことが一つあって、昔経済学の勉強で習ったけれど、差別化の存在しない同質商品による純粋競争下では企業利潤は最小化するという、いわゆる完全競争の理論。
まず就活生自身を「労働力」としての商品に見立ててみると、就活生同士で何らかの差別化ができていた方が彼らの利潤は大きくなるはずだ。
しかし彼らの外見は見事なほどに「同質化」している。

この解釈は、就活時の服装は、実は差別化要素とはあまり関係ないという楽観論が一つには考えられる。

もう一つ考えられるのは悲観論である。
つまり他者との差別化は、うまく行くこともあるが場合によっては逆に作用して就活失敗に繋がるリスクがありうる。
差別化による利得とそのリスクを天秤にかけ統計的期待値を計算した場合、ここは安全パイでリスク回避をした方が得だというそろばん勘定が成立する、ということがあるのかもしれない。

特に企業側があまり差別化を望んでいない場合、そのリスクは高まり差別化による利得期待値は下がる。
だからみんな同じリクルートスーツになる。

ひょっとすると企業の採用担当者そのものが、長年にわたる同質化の淘汰圧でそこそこ”非”差別化指向に純化されて行っているのではないか、というようなことも想像できる。

まあもっとも、我々が目にする典型的なリクルートスーツの就活生以外に、ひょっとすると全体の1%くらいは全然違う装いの若者もいて、そういうのは就活生と認識できていないだけということなのかもしれないが。

しかし何はともあれ、ビジネス街の人口の何%とかがあのリクルートスーツ姿の若者なのは、ものすごく目立つし何だか非常に不気味に感じる。
まあ余計なお世話かもしれない。

そしてそんなふうに不気味に感じるのが、おじさんが歳をとったせいであれば良いがなあと思う今日この頃なのである。
posted by ヤス at 07:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月08日

記憶の補助装置

今さらであるが、デジカメというのは本当に便利だ。
デジカメが芸術的に美しい写真を撮ったりできるのはまあ当然として、仕事の場面なんかでも、打ち合わせのホワイトボードを記録したり、ちょっとしたメモ書きも撮影してしまえば紙のメモそのものはポイと捨てることが出来る。
大変便利なのである。

特に最近は携帯電話に高性能のカメラが付いており、いざという時になぜか手元に必ずカメラがある、という状況が自ずと出来上がっている。
だからわたしの場合、記録が必要だったりコピーを取ったりしたい書類はあまり何も考えずにスマホで撮影するようになった。

思えば学生時代にこういう状況があればどんなにか良かったろうと思う。
わたしは近眼なので教室の少し後ろの方に座っていると黒板がものすごく見えずらかった。
だから板書には苦労した記憶がある。
ぼんやりとぼやけて見える黒板の文字を想像で補いながらノートに書き写すのであるが、大抵途中で力尽きていた。

今なら黒板の文字もスマホカメラでコンマ何秒かのうちに記録することが出来るので楽チンだろう。
ただ学生たちから一斉にスマホカメラを向けられる先生にとってはやや不気味かもしれない。
今の学校の授業はどんな感じなのだろうか、少し気になる。

まあその前に先生が板書する内容に有益な情報が含まれているかどうかが問題かもしれないが。

そんなことはともかく。
カメラにしろ手書きのメモにしろ、「記録」というのは「記憶」の補助装置であることは言を俟たない。
考えてみると大昔は、仏教の経典とか偉い人の書いた書物とかを手元に置いておくには、それらを全部手で書き写す、というのがスタンダードな方法であったわけだ。
あるいは19世紀にスキアパレッリが火星の運河を観察した記録も、オランダ人のレーウェンフックが世界初の顕微鏡でのぞいた微細世界の数々も、手書きのスケッチで残されていた。

それが写真に撮るという方法が発明され、やがてフィルムからデジタルに進化してより簡単になり、この数年のうちにスマホに搭載されてどこに行くにも持ち歩くようになった。

記憶の補助装置であるところの高性能記録装置を肌身離さず持ち歩くようになったということは、21世紀の今に生きる我々は、100年、200年前の人類に比べるとかなり頭が良くなっていると言えるのではないか。
と、ちょっと思ったがまあただの思い過ごしかもしれない。
posted by ヤス at 08:54| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月07日

だとすれば、謝ります。

前々から思っていのだが、よく政治家なんかが「○○の皆さんを傷つけてしまったとしたら謝罪します」という言い方をして謝る。
そのような発言をすると報道で「○○大臣が謝罪した」という記事になる。

しかし「〜したとすれば、謝罪します」のような表現は実際のところ謝ったことになっているのだろうか。
思うに、この表現は謝罪ではない。
これは謝罪条件の確認であって、おそらく本人にも謝罪の気持ちはないのである。

「もし被災地の皆さんに不快な思いをさせてしまったとすれば」とかいう物言いは、要するに不快な思いをさせたと明確に「確認したわけではない」ことを示している。

ひょっとしたら不快に思ってないかもしれないじゃん。
あるいは不快に思っているのは誤解に基づいている、または不快に思う人々の心のありようがちょっとおかしいんじゃない、くらいのニュアンスを含んでいるようにさえ思われる。

したがってこれは謝罪の気持ちの現れというよりはどちらかというと「謝りたくない気持ち」の積極的な表明であるようにさえ感じるのである。

しかしこのような「謝罪表現」は度々繰り返される。
というか、最近記憶にある政治家の「謝罪」はほとんどすべてこの方式によってなされているのではないかと感じる。

こういう中途半端な「謝罪」が横行するその背景には、世の中における「謝罪圧力」のようなものの存在があるのだろう。
とりあえずこの場は謝っておいた方が得策である、だから「謝罪もどき」表現の言葉を発して謝った雰囲気を作る。
しかし「謝罪者」である本人に謝意はなく、本来生じるであろう謝罪に伴う敗北感を感じずに済む。

なんとも便利な「丸く収める」ためのスキームなのである。

実際何か重大な失言があった時にとりあえず記者会見の場で謝罪の意を表明して場を取り繕う時に「〜ならば謝罪する」方式をとったとすると、これは本当には謝罪しておらず、「謝罪」以外に明確な責任の取り方をしていないとすると謝っていないけれどいつの間にか問題が収まっている、という珍妙な現象が起こることになる。

個人的に思うのは、今後は、謝罪の有無にこだわるのではなく明確な責任の取り方の方に重きを置くべきではないか。
謝る謝らないは本人の勝手な気持ちだからどうしようもない。

たとえ本人が1ミリも謝らなくても、役職辞任とか報酬返還とか形に残る責任の取り方をしてくれればその方がずっといい、と思ったりしたのである。
posted by ヤス at 07:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月06日

AI音声アシスタント

アップルの開発者向けカンファレンス、WWDC17が6月5日開催され新型iPad Pro10.5インチを始めいくつかの新製品が発表されたらしい。
わたしがこの間買ったばかりのMacbook12インチもマイナーアップデートされて、上位モデルのCPUがこれまでのインテルCore mからCore i7/i5に強化された。
ということでうちのMacbookはめでたく型遅れモデルになった。

その他のモデルもCPUのアップデートを中心に地味にマイナーチェンジが行われているが、これは多分インテルのCPU開発が予定よりかなり遅れ気味で、そのために新型CPU待ちになっていたのがやっとこさチェンジしたのではないか、と想像したりしている。
あくまでも想像ですが。

あと注目すべきはHomePod。
これは音声認識のSiriを搭載したポータブルスピーカーである。

世の中にはいつのまにか「AI音声アシスタント」という製品分野ができていたらしい。
今回のWWDC17の記事を通じて初めて知った。

HomePodもそのAI音声アシスタントの一種である。
アップルに先行してグーグルが「Google Home」、アマゾンが「Amazon Echo」というのを発表しているらしい。
このAI音声アシスタントは、基本操作が音声で出来る。
詳しいことはよく分からない。
多分「スイッチオン!」とか「ボリュームアップ!」とか言ったらその通りにスピーカーが動作してくれるのだろう。
またアップルではSiriに音楽タイトルなどの情報を重点的に学習させているとのことなので、ミュージシャンや楽曲名を言ったら該当するタイトルをiPhoneなどのデバイスやiTunesから探してきて演奏してくれるのだろう。

あくまでも想像だが。

さらにこれらのAI音声アシスタントは、将来は家電の音声コントロールにも対応するそうでエアコンやテレビや電動カーテンとか音声で操作出来るようになるらしい。

値段は3万5千円くらい。
今のところうちにはこのアシスタントで操作できそうな「家電」が見当たらない。
だから当面は不要だ。

しかし世の中のテクノロジーの進化はなかなか速い。
Ai音声アシスタントとか、一体いつの間に出てきていたのだろうか。
多分このところディープラーニングの技術が急速に進歩して、音声認識がほぼ実用化の域に達したということなのだろう。

しかし家電コントロールとかが全面音声認識になると、うっかり「スイッチオン」とか独り言を言ったら「ナンノスイッチヲイレマショウカ」とAIにそのたんびに聞かれそうで、その辺がかなりうざいなあとか思ったりした。
posted by ヤス at 09:15| Comment(0) | 徒然なるままに