2019年06月16日

考えるな、感じろ

考えを整理するためにはいったん考えていることを紙に書き出すと良い、みたいなことをよくいう。
頭で考えるのと紙に書くのとでは、言語情報の内容としてはたぶんそんなに変わらない。
ただ紙に書くと、その内容を頭の外に追い出すことができる。

考えを頭の外に追い出すことができると、なんとなく頭が軽くなる。
考えるというのは脳の中で言葉を組み立てる作業をしているのであり、紙に書くことによりとりあえず脳内言語化作業を中断しても言語情報は目の前の紙に固定化されている。

そうすると脳のワーキングスペースに少し余裕ができて、さらに一歩思考を進めることができるのではないか。

かつてブルース・リーは“Don’t think. feel!”と言った。
「考えるな、感じろ!」というのは、あるいは考えていることを紙に書き出すのに近いかもしれないと思った。
この後に続く言葉は、

“ It’s like a finger pointing away to the moon. Don’t concentrate on the finger, or you will miss all the heavenly glory.”

だそうである。

「それは月を指差すようなものだ。指に気を取られていると栄光を失うぞ」

みたいな意味だと思うが、要するに大事なのは、月を指す指ではなく、指が差している月なのである。

言葉はモノを考えるのには便利である。
言葉を使うことによって複雑なことや抽象的なことも考えることができる。
でも言葉はあまりにデジタルな存在なので、時々思考の幅を狭める作用をすることがある。
思考の広がりにブレーキをかけることがあると思う。

だからいったん脳内から言語情報を取り除いてみる。
そのためにはそれを書き留めて外部化すると良い。

そうすると頭が少し軽くなってちょっとだけ自由になり、より良いアイデアが生まれるかもしれないし、やっぱり生まれないかもしれない、と思ったりした。

posted by ヤス at 09:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月15日

やらないために必要なこと

昔読んだ「生産性向上」の本に、何かを効率的に片付けたい時はそれを「やらない」ことを考えるのがいちばん良い、と書いてあったのをちょっと思い出した。
それを読んだ当時、なんだか少しだけ感激したのを憶えている。
何かをやらないというのは、難しいようで案外簡単であり、しかし簡単なようで難しい。

やらないといけないことを単純にスルーする、サボるっていうのではたぶんダメなのである。
「何かをやらない」ためには、やらないといけないことをやらなくてもいいことに変換する作業がおそらく必要になる。

シンプルに考えると、それを丸々誰かに頼んでしまうという方法がある。
それも自分よりそれが得意な人に頼むのが良い。
近代以降の社会は分業制を高度に発達させてここまで来た。
分業して得意な人に頼む、時間の空いている人に頼むと自分の時間が増える。

ただ分業で人に頼みごとをすると、大抵の場合「頼み賃」が要る。
分業に当たっては、適正な「頼み賃」を算出する作業とか相手との交渉とか、いろいろと面倒くさいことも出てくるのは致し方ない。

だからやっぱり人にも頼まないで、単純にやらないで済ませたい。

やらないといけないことを単純にスルーする、サボると、精神的に後ろめたい。
ああ、いつあのことを言われるかな、と始終ドキドキしないといけない。

だからここでやりたいのは、それを人に頼むことでもなく、また単純にサボってスルーするのでもなく「自信をもってそれをやらない」ことなのである。

そのために必要なのは、やはり考えることである。
それをなぜやらないのか、なぜやる必要がないのかをよくよく考えないといけない。
そしてそれをやらなかった後に発生する諸事象に想いを馳せ、ああこれはやる必要ないな、と分かったらやらない。

結局「やらない」ことで生産性を上げるには惰性で動かないことが大切なようである。
特に習慣化した行動は注意が必要だろう。
無意識のうちにやっていたことも時々意識化して考えた方が良さそうだ。

現代人は、人間がのんびり生きていた原始時代の原始人と比べると圧倒的に「やるべきこと」が多いのに違いない。
本当に、現代人は「やらないこと」を見つけるのがなんだかとても重要なのだと思うのである。




posted by ヤス at 12:09| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月14日

雨中のオートバイ

昼過ぎに出発して、雨が降る中をオートバイを走らせて、島根県の三瓶山までやってきた。
最初のうち雨はパラパラと降っている感じだったが、三瓶山に近づくにつれかなり本降りになって、バシャバシャ雨を全身に受けながら走った。

30年くらい前のオートバイでは、こういう雨の中を走るとどこからともなく雨滴が浸入してきて知らない間にずぶ濡れになったのもであるが、今はカッパの性能も良くなって少々の雨は平気なのである。

特に防水のライディングシューズの性能向上は著しいと思った。
昔は、ごつい革のシューズにオイルを塗りまくったりしていたけれど、2〜3時間も走ると足は水浸しになったものである。
足が濡れるとメンタル的に堪える。
今のシューズは、この時期まあちょっと蒸れ気味ではあるがとりあえず雨を通さないのは大したものなのである。

屋根のある自動車に乗っていると雨に鈍感になりがちであるが、オートバイで雨を体に受けていると雨に対して神経質にならざるを得ない。
ただ、雨の中に体を晒しているにもかかわらずカッパ一枚でかろうじて濡れないでいるあの感覚が、わたしはわりかし好きなのだ。

カッパを着ていないで雨中を走ると当たり前だがずぶ濡れになる。
しかしカッパ一枚あると不思議なくらい乾いている。(実際はけっこう湿っているのだが)

雨が降ると体が濡れる、というのは野生動物にとっては当たり前の話だが、文明人にとっは失われがちな感覚である。

だから雨の中をオートバイで走ると、少し野生の感覚が蘇っているような気がするのである。

ということで、今から雨中のキャンプをしようと思う。


posted by ヤス at 16:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月13日

カメラのシャッター音について

メシ屋で写真を撮る人が多い。
そんなことは最近の話ではなくて、もう何年も前からのことである。
特に、わたしのようなおじさんが行かない小洒落たカフェとかでは、インスタ女子がせっせと料理にスマホを向けてシャッターを切っているのに違いない。

ここで「シャッターを切る」について語らねばならない。
シャッターというのは、言うまでもなくカメラ用語である。
昔ライカM型という有名なカメラがあって(今もあるが)、ライカMは長方形の箱の前面にレンズが付いていてそのレンズを通った光が箱の後ろで待ち構えているフィルムに当たって露光し写真が写る。
で、レンズとフィルムの間に何も無いと、フィルムに光が当たりっぱなしになって写真が「真っ白な風景」になってしまう。
だからレンズとフィルムの間に遮光幕を置く。
写真を撮るときだけ遮光幕をちらっと開ける。
その時に遮光幕が超速く動いて鋭い音がする。
光をシャットするからシャッターである。
ということを今この文章を書いていて久しぶりに思い出した。

で、今のiPhoneのデフォルトのカメラアプリは「カシャッ」というシャッター音がする。
この音は日本以外に出荷されているiPhoneでは消すことができるが日本向けでは消せないらしい。
何やら日本らいしい繊細な話ではあるが、しかしシャッター音が「カシャッ」と鳴ると「写真を撮った」という気分が盛り上がるのも事実である。

だからiPhoneには光を遮るシャッターはどこにも入っていないけれど、それでも「カシャッ」とシャッターらしい音がするのは、「今確かに写真を撮ったよ」というひとつのシンボルである。
他人がカメラを持って自分を撮ってくれている時、シャッター音が鳴ると「ああ今写真撮ったな」というのが直感的に伝わってくる。
フィルムの時代には撮影画像を直後に確認するということが基本できなかった。
だからシャッター音は、写真を撮った確かな感覚として重要だった。
時々フィルムを入れ忘れたままシャッターを切っていて、フィルムが入ってないからもちろん写っていないんだけれど、それでもシャッター音が鳴っている限り「写真を撮っている実感」は確かにそこにあった。

今のカメラもフィルムは電子的撮像素子に変わったけれど一眼カメラなどには昔ながらのシャッターが付いていて、正真正銘のシャッター音を鳴らしている。
でも、電子的なオンオフで撮影ができる今のデジカメでは必ずしもシャッターは必須でない。

それで思うのだが、将来すべてのカメラから「シャッター」が消えたとして、「シャッター音」はその時でもまだ生き残っているのだろうか。
ちなみにわたしのiPhoneは200円くらい払って「無音カメラ」アプリを入れているので、だいたいスマホ写真はシャッター音なしで撮る。

あの「カシャッ」にはある種の精神作用があるような気がして、そういうことでは、世の中に「正真正銘の機械のシャッター」を切ったことのない人の割合が99.999%になった未来にも、あの「カシャッ」は生き残っているような気がする。
posted by ヤス at 11:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月12日

動物の赤ちゃんの可愛いさアピール

TwitterとかYouTubeなどのSNSをぼんやり眺めていると、時々「動物の赤ん坊」系のコンテンツが流れてくる。
いや、時々流れてくるというよりはある一定の頻度でかなりコンスタントに流れてくるわけであり、多くは子猫と子犬だったりする。
犬猫以外にもシロクマ、ゴマフアザラシ、ライオン、チンパンジーなどかなり多種類の動物の赤ちゃんが登場してくる。

これらの動物の赤ちゃんは例外なくどれも可愛い。
他人からココロが薄いのではないかとよく批評されるわたしが観ても、やはり可愛いと思う。
特にライオンやシロクマなど、成長してでっかくなると獰猛になる動物、これらの赤ちゃん時代というのは、成長後の獰猛さとちっちゃい時の可愛さのギャップがあってこれがかなり萌える原因になっている気がする。

ただ思うのであるが、動物の赤ん坊が可愛いのは、これは一種の生存戦略に違いないのである。
生まれたばかりのライオンの赤ちゃんがまだ足もとがおぼつかなくて、そのやや頭でっかちなフォルムでよちよち歩いて飼育員さんの持つ哺乳瓶に両手でしがみつく姿はとても愛らしい。
おそらくライオンのお母さんもきっと愛らしいと思っているに違いない。
ひょっとしたらライオンのお父さんだってまんざらでない。

おそらく動物の赤ん坊が「可愛い」のは、野生動物の世界では小さくて弱々しくて頭でっかちのフォルムに対し萌える本能があって、その本能が「可愛い」の感情を引き出している。
小さくて弱々しい「生き物」に、より萌える種の方が子供を大切にするに違いない。
子供を大切にする種は繁栄するだろう。
そういう進化サイクルがあって、高等哺乳類の片割れである人間も小さくて弱々しいモノを可愛いと思うようになっているのではないか。

動物赤ちゃん動画を観ながらそんなことを考えた。

そう思ってパンダの赤ちゃんがでんぐり返ししている動画とか観ていると、いやこれはパンダの赤ちゃんも生き延びるために可愛いアピールに余念が無いのだ、と考えるようになった。

で、思ったのだが、人間は人間の赤ちゃん以外にも、シロクマやライオンやイルカの赤ちゃんを可愛いと感じるが、他のシロクマやライオンの大人は異種の赤ちゃんを見て可愛いと感じるのだろうか。

野生動物の世界では、小さい赤ちゃんは捕食しやすい「美味しい餌」でもあるわけで、ライオンやチンパンジーなどは群れの中のよその家の子供を殺して食べることもある。(たまには自分の子供も食べるのかもしれない)

そこには、いくら赤ちゃんがキュンキュン可愛く鳴いたところで腹の減った大人の知ったところではない、という厳しい現実も同時にある。

そういう厳しい野生の現実があればこそ、今日も動物の赤ちゃんは大きい目をクリクリさせて精一杯可愛さアピールしているのだな、と思ったら、さすがにココロのない人間のおじさんも少し泣けてくる気がした、と思った。
posted by ヤス at 11:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月11日

老後資金2000万円問題

金融庁の審議会かなんかで夫婦の老後資金として「30年間で2000万円必要」という試算が発表されて、その報告では2000万円を貯めるために株式投資なんかも勧めているのだという。
というか、わたしは報告の中身を読んでいないからくわしいことは知らない。
ただ政府与党も、政府を批判する野党の方も、金融庁の報告をめぐって熱くなっているようなのでなんだかたいへんそうだなと思った。

今朝のニュースでは与党自民党がこの報告書に対し撤回を要求するというのが流れてきた。
麻生財務大臣も報告書の受け取りを拒否するそうだ。

野党の批判に目を向けると、「100年安心の年金制度」のはずだったのに金融庁の報告はこれと矛盾するのではないか、というもののようである。
この批判に対し国会審議で安倍首相が熱くなって反論する場面もあったようだ。

どうも話が込み入ってきているのでいったん整理する。
老後のために2000万円を年金と別に用意しろという話が金融庁から出てきて野党が与党に対しこれを批判する。
与党の反応は、2000万円をめぐる批判は「まったくの誤解」だ、というものだ。
その誤解の元を作ったのは金融庁なので与党側は金融庁をはげしく叱責する。

それで思ったのだが、金融庁の報告はある意味正直過ぎたのではないか。
歳寄りが増え若者が減る現状をみると、年金制度が将来的に維持できないのは自明である。
しかし与党はこの自明の事実をなかなかはっきりと言わない。
それをうっかり金融庁が言ってしまったものだから、パンドラの箱が開いたようになって大騒ぎである。

あと、老後資金が年金だけで足りないというのはよく理解できるのだが、金融庁のいうそのためには夫婦で「2000万円要る」とか投資をして金を増やそうとかいう具体案は蛇足だった。
世の中には金遣いが荒くて、2億あっても3年もたないとかいう人もひょっとしたらいるだろうし、いやワシは年間50万円もあれば生きていける、という仙人のような人だっているに違いない。

そこに「一律2000万円」の話を持ってきてもすべての人に当てはまるわけではない。
2000万円で足らない人もいるし、少ない年金だけで生きていける人もいる。

こういう問題は、報告した金融庁側のうかつさもさることながら、そのうかつさを誘導したのは国民の多くが求める「分かりやすさ」にあるのではないかと思った。
例えば金融庁の報告が、所得階層別に5段階だか10段階だかに分けて、この階層では5000万円要りますこっちの人は1000万円で大丈夫ですとかやっても伝わりにくい。

シンボリックな数字で「ズバリ2000万円」とか言うと、大衆にとっては分かりやすい。
そういう大衆心理があっての2000万円の報告書なのではないかと思ったのである。

だから結論としては、国民は安易に分かりやすい説明に飛びつくべきではない。(というのはまあ無理だと思うが)
そして老後資金はそれぞれが自分の分を自分で計算するべきである。
ただ将来の年金給付水準があやふやな現状では、そういう自助努力も難しい。
その辺が本当の問題点だと思った。
posted by ヤス at 13:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月10日

パンプス・ヒール問題について

世の中にはいろんなニュースがあるなあと思う。
いわゆる「パンプス・ヒール問題(以下「ヒール問題」という)」について。
いや、女性の職場の服装になんでカボチャが関係しているのか最初はよく分からなかった。

上記のヒール問題であるが、最近になって職場でいわゆるハイヒールを強制されるのはおかしいと告発した人がいたらしい。
それで“#kuToo”とかいうハッシュタグも登場して少なくともネット界隈では話題になっている。
世間の流れに疎いわたしの耳目でも捉えるところとなった。
それで女性のハイヒール強制を問題化するついでに、男性のネクタイも要らないんじゃないか、というところまでつながってきている。

例えば百貨店のちょっとお高そうな婦人服や宝飾売場なんかでは、やっぱり女性の売り子はハイヒールを履いている(履くことがルール化されている)のだろう。
そういう職場では、その空間にいる人間もできるだけ高級な空気を発散していた方が販売促進上望ましいということがある。
だから雇用者側としてはなるべく売上につながるように、売り子の女性に対してばっちり目のメイクの上に格好いいユニフォームを着用し、脚がスラリと長く見えるハイヒールを履くことを要求するだろう。

よく考えてみるとわたしは、あのハイヒールという靴を履いたことがない。
たぶん隣の女性に試しに履かせてよとお願いしたところで、サイズが合わないで断念するか気持ち悪がられるかどちらかになる。
だから履いたことがない。
だからハイヒールを履いた女性の気持ちや身体感覚が、よく考えるとまったく分からない。

ついでに言うとわたしはマラソンを少々走るので、ランニングシューズ以外でもあらゆる靴の履き心地にはかなりうるさい方である。
実際微妙に靴の足への「当たり」が合わなくて膝を悪くしたこともある。
その経験から想像するに、ハイヒールの足・脚への健康上の影響はかなり悪そうだ。
たぶん百貨店の高級売場のお姉さん方は、脚が痛いのを我慢して必死の作り笑顔で接客していたのかなと思うと、なんだか気の毒になってきた。

これはまったく想像だが、高級売場におけるハイヒールとか、あるいは男性におけるネクタイを締めた営業マンとかの服装と利益の相関関係というのはたぶんあるような気がする。
ただ利益になるからといって健康に悪い服装を強要するのは労働衛生的には確かに良くない。

おそらく、ヒール問題が最近になって盛り上がった理由というのは、企業が利益を追求することより人間の健康が優先する方に世の中の価値観が転換した結果なのであろう。
例えヒールを止めたことが遠因で給料がいくらか減ったとして、それでもなお人間の健康は優先される。
そういうことになったのだと思った。

今から30年くらい昔、巷は「ワンレンボディコンピンヒール」のおねえちゃん達であふれていた時代があって、女性のハイヒールが広まったのはあの時代からなのではないかとも思うわけであるが、あの頃のねえちゃん達は自らの意思で足にマメを作りながらヒールを履いて「自傷行為」をしていたわけだが、価値観が変わった今となってはあの乱痴気騒ぎの時代も二度と来ないのかな、とか思ったりもした。
posted by ヤス at 10:55| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月09日

想像力ドーピング

人間の記憶力と想像力はトレードオフの関係にあるのだという。
つまり記憶力のいい人は想像力が比較的弱くなり、想像力たくましい人は記憶力にやや難がある。
そういうことが学術的に研究されているそうだ。

わたし自身について考えたとき、忘れっぽくて妄想癖が止まらないこの性癖はなるほどそういうことなのかな、と思ったりした。

記憶力の中でも瞬間的な短期記憶は人間よりもチンパンジーとかの方がよほど優秀だったりする。
コンマ何秒とかのわずかの間に次々に図形を見せるテストなどでは、チンパンジーの方が人間より図形をよく憶えているらしい。
野生生活では瞬間的な認識、記憶機能の優劣が生存確率を大きく左右するということなのだろう。

ということは、人間の豊かな想像力というのは、野生の厳しい生存競争からある程度解放されて心に余裕が出てから発達した能力なのかもしれない、と思ったりする。

話はだいぶん飛ぶが、タレントで元ミュージシャンのピエール瀧の裁判がちょっと前に始まったらしいが、クリエイティブな仕事をやっている人がしばしば薬物に手を染めるというのは、薬物による「想像力の強化」が目的だったりすることもあるのだろう。

現実にアメリカでは、薬物の専門家であるはずの医学研究者が、頭がシャッキリしたり判断力が明晰になるような薬物(違法かどうかは知らない)を1〜2割の人が使っているという報告もあるそうだ。

もし副作用がなくて「頭が良くなる」薬があるのなら、わたしも使ってみたい、と正直思う。

というか、何年も前から我々はパソコンやスマホをガンガン使っているが、これらの電子デバイスを使うことによって少なくとも記憶作業はすでにかなり強化されている。

グーグルカレンダーは忘れっぽいわたしに毎回親切にアラームを出してくれるし、今や100個200個の単位であるいろんな「IDとパスワード」もスマホが全部憶えている。

スマホを使い過ぎると記憶力が弱って「人間が退化するぞ」というような警告をする向きもあるが、記憶力が弱ると反比例で想像力が伸びるのならば、それも大いにありなんじゃないか。

いやむしろ想像力を使って仕事をする人は、記憶作業をどんどん電子デバイスに任せて行って、自分はクリエイティブな作業に専念した方がいい気がする。
それが今風の人間の生き方なのではないか。

そうすれば後々どんな副作用があるか分からない「薬物ドーピング」に頼らず、健康的に「想像力ドーピング」できるのではないか。

ということで今後は脳機能の退化をあまり心配しないで、記憶作業は全部iPhoneに任せようと思ったが、そんなことでわたしの脳みそは大丈夫だろうか、とちょっとだけ心配だったりする今日この頃である。

posted by ヤス at 11:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月08日

神のおかげ、について

わたしはいちおう仏教徒である。
とはいってもいわゆる「葬式仏教」で、特に信心があるわけではない。
たぶん日本人にはわたしのような人間はけっこう多いのだと思う。
それで思ったのだが、たまにスポーツニュースで外国の選手が優勝インタビューなんかで「神に感謝します」的なことをよく言うけれど、日本人で「仏様に感謝します」というのは聞いたことがない。

これはひとつには日本人がそもそも神様仏様を信心していないということがあるのだろう。
ただ日本人の中にも信心深い人はいる。
実際お坊さんとかは「御仏のおかげ」とかなんとか言っているのをよく聞く。
あるいは日本人でも敬虔なクリスチャンもいて、中でも自らの意思で入信したような人はたいそう信心深いのに違いない。

わたしがたまに買って読む本の著者の中にもそんなクリスチャンの日本人がいたと思うのだが、しかしそういう人であっても神様がどうのこうのと言っているのを聞いたことがない。

そういうわずかな事例からざっくり類推するに、日本人が神様どうのこうの(あるいは「仏様どうのこうの」)とあまり言わないのは、信心の深さにはあまり
関係なくて、日本人特有の事情なり心理状況というのがあるのかもしれない、とふと思った。

ここからはあまり根拠のない想像である。

結局のところ神様がどうとか日常的によく言う人は「生かされている」感が強いのではないか。
神様によって、あるいは「宇宙的な大いなる意思の力によって」生かされている感じ。
それはひっくり返すと、何か事があったら罰せられる感じ。
そういう緊張感が「神様」をよく口にする人にはあるのではないかとなんとなく考えた。

日常会話に神様が出てこない日本人の日常には、生かされているとか天誅がくだるとかいう感覚が実は希薄なのではないか。
ただ自然体で粛々と生きている感じがあるのではないか。

でもよく考えてみると、日本昔ばなしに出てくるお婆さんとかは、しょっちゅう両手を合わせて拝み倒している。
昔の日本人は、仏様に祈ったり天に祈ったりしていたはずなのに。

たぶんある程度時代が進化した以降の日本というのは、神や仏に祈るまでもなく、それなりに快適で生きやすい環境になったのだろうか、それで神仏やら罰当たりやらを意識することなく生きることができるようになったのだろうか。

という想像がどこまで合っているのか知らないが、スポーツニュースで優勝してゴールするたんびに胸の前で十字を切って神様に祈っている選手を見たりすると、その心境がどんなものなのか興味あるなあと、信心深くない罰当たりなおじさんはふと思ったのでした。

posted by ヤス at 12:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月07日

消費増税の流れについて

気がついてみたらもう6月になっている。
それで来月には参議院選挙がある。
世の中ではいま解散風というのが吹いていて、この機に衆議院も解散してダブル選になるのではないかという声がどこからともなく出ている。
さらに10月に控えた消費税増税、これも「中止じゃないか」とか「中止にすべし」とか、既定路線がひっくり返る予想の声が大きくなっている。

ダブル選になるとか増税中止とか、世の中にその手の意見が多く聞かれるとなんとなくそうなのかな、という気分になってくる。
たぶん今の首相の腹の中は、どちらに転ぶかその時の状況に合わせていちばんいい選択をしようということなのかなと思う。

で、特に増税中止の方だけれど、たった2%とはいえ経済に与える悪影響が予想以上に大きいとも言われている。
野党はもとより増税を主導すべき与党の中にも増税慎重派や反対派は多い。
たぶん今の「結局増税しないんじゃないか」の予想は、反対派がわざとそういうウワサを流して世論を誘導しようとしている「流れづくり」の面もあるだろう。

世の中の流れというのは、いったん大きくなるとせき止めるのがかなり難しくなると思う。
もともと増税は与野党合意で決まったことではあるけれど、今では一般庶民も政治の世界も慎重派反対派が絶対多数になっているように見える。

いちおう増税は将来の福祉を維持するのに必要な財源確保のため、となっているが、前回増税時も増税分は大部分が景気対策に回った(ように見えた)こともあり、将来福祉の維持の大義名分もなんだかかすんで見える。

人間は、思いのほか他人とか「世間の空気」に流されやすいものだと思う。
それなりに流行に乗っておくことや友人知人と話題を共有しておくことは、社会的動物である人間のサガなんだろう。
アフリカのサバンナのシマウマの群れも、突然ライオンが現れたのに一匹が気がついてわっと駆け出すと、群れの他のシマウマ達も釣られてわっと走り出す。

あの群れの一匹の動きに釣られてわっと動き出す感じが、人間の本能の中にも色濃く残っているのだと思う。
わっと動き出さずにのんびり草を食べていると、逃げ遅れてライオンに食べられる。

人間集団も太古の昔からライオンに食べられないように他人と行動が共鳴し合う本能を発達させてきたわけだが、加えて人間の場合、コミュニケーション的な共鳴が社会の絆を強くすることもある。
絆が強くなると集団も強くなってますます生存に有利になる。

そんなこんなで人間は集団に共鳴し、他の人の意見や行動に釣られる。
今は「まさか今回は増税中止はないだろう」という空気がまだまだ強いようにも感じるが、これから選挙間近になったら一匹に釣られてわっと駆け出すシマウマみたいに、止めるに止められない大きな流れができるんじゃないか。

最近日増しに「増税中止」の想像が脳内で強まっている今日この頃であったりするのである。
posted by ヤス at 08:33| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月06日

梱包材の再利用について

先日わりかし大量のゴミを捨てた。
捨てたゴミは「物置き」に放置していた炊飯器やらトースターやらの家電製品、古雑誌とダンボールの束などである。
炊飯器はなぜかそこに2つあって、きれいに拭いてコンセントにつなげればまだ使えそうなおもむきだったが2つとも捨てた。
トースターもしかり。
他に3つ4つの家電といっしょに最近流行りのリサイクル業者に持ち込んできた。
その日は日曜日だったがリサイクル業者は持ち込みの車が行列をなすほど大繁盛しており、世の中の人は家にたくさん捨てるものがあるんだなあと思った。

段ボールの束は、家電製品を引き取ってもらったリサイクル業者とはまた別の、わたしが「行きつけ」にしている資源ゴミ回収屋に持ち込んだ。

それで少しだけ気分がすっきりしたわけであるが、しかしこれもつかの間で、そのうちまた捨てるものがどんどん溜まってくる。
中でも特に段ボールである。

Amazonで買い物をすると段ボールに入ってブツは届く。
これが地味に溜まる。
ずっと以前は段ボールを細かく分解して「燃えるゴミの日」に出したりしていたが、資源の有効利用の観点からこれはまずいと思い、回収屋に持ち込むようになった。

こういう回収屋は、ちょっと昔にはそんなになかったと思うが最近はあちこちにできている感じがする。
よほどみんなAmazonの段ボールの処理に困っているのだろう。

と思っていたら、今朝ニュースを見ていてフリマのメルカリが繰り返し使える梱包材を開発したというのがあった。
丈夫で水濡れに強いターポリン素材の梱包材で数百回繰り返し再利用できるらしい。
わたしもAmazonの「余白」だらけの段ボールを開封するたびに、この段ボールが再利用できればわざわざ回収屋に持っていく手間が省けるのになとちょうど思っていた。

メルカリの場合、Amazonと違って買う人ばかりでなく売る人がいる。
買う人はブツを受け取り売る人は発送する、そういう双方向の動きがある。
だから繰り返し利用可能な梱包材は、その流れの中を行ったり来たりするイメージになんだろう。

だがAmazonは基本一方通行なのでその辺少し工夫が必要かもしれない。
ヤマトや佐川のお兄ちゃんが空きの箱を回収するとかすればいいのかもしれない。
ドローン配達になったらドローンが回収していくことになるのだろうか。

いや、たぶん近いうちにAmazonの梱包はあらかた再利用タイプになるような気がする。
買い物しているうちに放っておくとどんどん溜まる段ボールの束は、顧客にとってはAmazonでの購入を心理的にかなり阻害しているだろうからだ。

わたし的には最近、買う本は9割がた電子ブックなので古雑誌が溜まる傾向はかなり緩和された。
これでAmazonの段ボールが溜まらないとゴミ捨ての手間がはぶけて嬉しいなあ、とか思ったりしたのだった。
posted by ヤス at 10:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月05日

赤と青の色の意味

わたしは赤い色は比較的好きだ。
赤というと、フェラーリとか派手なスポーツカーのイメージがあったりする。

それで赤い色というのは、女性の「性的アピール」に強く関連しているらしい。
赤は血の色であり、原始時代以来妊娠の準備ができた女性は血色がよくなってなんとなく赤くなる。
ざっくりいうとそういうことから赤と性的アピールは関係しているのだろう。

ある研究によると赤い色を身にまとった女性は実際に男性に対するアピールが強くなる。
つまり女性は赤い方が男にモテるらしい。
しかし実際には、ファッション業界的に女性用の赤い服は必ずしも多数派であるわけではない。
これはすべての女性がいつでも男の目を引きたいと考えているわけではないからだろう。
それどころか、のべつまくなく女性が赤いと、不要な男まで引き寄せるリスクがある。
だから世の女性は、ここぞという場面においてのみ赤くなる。(のかな?)

それで思ったのだけれど、真紅のフェラーリのあの赤色は実は性的な存在としての女性を象徴しているのだろう。
スポーツカーを運転する興奮と性的な興奮がない混ぜになったのがあの赤色なのではないかと思った。

それでいうと、フェラーリの性別は女性ということになるのだろうか。
というのはあくまで「男性社会」目線における話かもしれないが。

幼少期の頃の思い出で、赤は女の子の色と決まっていて、あの赤白リバーシブルの運動帽をかぶる時に、何かの拍子で赤をかぶる時になったら、なんか女の子になったみたいで嫌だった。
しかし考えてみると、赤が「女性を象徴する色」(それは男性目線の色かもしれないが)だったとして、男性を象徴するのは何色なのか。

リバーシブル運動帽の赤じゃない白の方か。
あるいは赤が血の色であり、熱い炎の色であるならば、水の色、冷たい色であるところの青が男色なのか。

そこのところは判然としない。

そういえばわたしの乗っているオートバイは色が青い。
それもちょっとだけ青いのではなく相当に青い。
タンクからサイドカバーからタイヤをはめるホイールのところまで真っ青である。

赤という色がおろかな男性が興奮する色であるとして、青は対照的に知的で冷静な色、興奮を鎮める色である。

昔デザインの仕事をしていた経験上からいうと、青いデザインと赤いデザインを2案企業に提案すると、たいていのおじさん連中はみんな青を選ぶ。
青はおじさんに好かれる色のようである。
これは「俺は赤が好きなんじゃない」と言っているように思えなくもない。
おじさん達は「俺は赤が好きなエロおやじではない」と言下に主張していたのではないだろうか。

ちなみにわたしのオートバイが青色に決まったのは、とりあえず選択肢がそれしかなかったからだ。
ということで、青いオートバイに乗っているわたしを見て、世の女性達が「あら、知的でクールなおじさんだわ」と思ってくれればめっけものだな、とか思ったりしている。
posted by ヤス at 12:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月04日

良品不良品問題について

5月28日に発生した川崎市の殺傷事件に関して、芸人の松本人志と太田光の意見がネットニュースに流れている。
太田光は、一時期は自身も引きこもり気味で友達が誰もいない深刻な時期があって、ピカソの絵に感動したのをきっかけに「立ち直ることができた」というのが記事になっている。

一方で松本人志の意見。
何万人に1個かの割合くらいで「不良品」が出てくるのは仕方ない。
でも不良品を減らす努力はしないといけない、みたいな内容だった。

論点はいくつかあると思うが、一つには「どっちが正しいか」論争がある。
あるいは、松本人志の意見に反発する人々からの「そういう意見は言うべきでない」論争。

わたしとしては、はっきり言うと松本人志の意見は事実認識として間違っていると考える。
しかしだからと言ってその意見を公の場で言うべきでない、とまでは言わない。
いろんな意見が表に出てきた上で議論がより深まるということは当然あると思う。

松本人志の意見が間違っているというのは、人間が良品と不良品に完全に分かれているという考え方の部分。
例えば3万人に1人の割合で「不良品」が誕生するとして、それを10万人に1人にするように科学技術を進歩させよう、という方向性が出てくるかもしれない。
または、3万人に1人出てきた「不良品」を隔離するなり矯正治療するなり抹殺するなりという方向性。

しかしそもそも「不良品」の認識は間違っていると思う。
わたしの考えでは、すべての人間には「不良品」になる可能性がある。
世の中に明確な良品の人間と不良品の区別はない。
すべての人は良品であり不良品でもある。
ただ可能性として、何かの偶然が重なって「不良な行動」に走ってしまう人が3万人に1人くらいいるという話だ。

最近この手の話題がSNSでよく流れている。
その流れの中に1981年に発表された森村誠一の「悪魔の飽食」を紹介する記事がたまたまあった。
「悪魔の飽食」は、戦前戦中にあった満州関東軍の「731部隊」のことを書いたドキュメンタリーである。
731部隊は中国人や韓国人やロシア人の、犯罪者や戦争捕虜や街を歩いている普通の人を細菌戦の人体実験に使って、その実験材料にされた犠牲者が三千人にのぼるとされている「悪魔の研究部隊」である。

森村誠一の「悪魔の飽食」を読むと、この間まで普通の役人や医者や大学教授だった人々がやがて嬉々として「実験材料」を切り刻んでいく様子が克明に描かれている。

「悪魔の飽食」の内容がほぼ事実であるならば、その辺にいる普通の人々(そして自分も)の中にも確かに悪魔が住んでいて、それが何かのきっかけで頭をもたげてくることはあり得るのだと思う。

この本を読むと、人間が良品と数万人に1個の不良品に分かれる、とかいう話は、とても分かりやすくて飲み込みやすくはあるが、しかし実のところまったくのフィクションと考えざるを得ないのである。
posted by ヤス at 12:18| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月03日

顔は性格を反映する話

脳研究者の池谷裕二のエッセイ本を読みかけなのだが、その中に「顔は性格を反映する」という項目があった。
この本は科学論文とかの裏付けを下敷きにしたエッセイ本なのだが、この本によると顔と性格は確かにある程度関係しているという研究結果があるらしい。
最近のAIの発達で、顔と性格の関係性のデータをAIに読み込ませて、顔を見ただけである程度の性格を分析してみせるというようなシステムもあるとか書いてあった。

例えば中国には古来「人相見」の慣習がある。
耳たぶが大きく膨れているから王者の風があるとか、薄い唇で人情が薄いとか、中国伝来の人相の見方をわたしはよく知らないが、しかしそのような人相見にも実はある程度の真実が含まれていたのかもしれない。

人間の顔はチンパンジーやゴリラなんかと比べても表情筋が異様に発達していて、つまり他の動物よりずっと表情が豊かであることはよく知られている。
人間は言葉を使って複雑なコミュニケーションを行うけれど、しかし言葉の「発明」以前にも複雑な表情でさまざまな情報を伝達できるようになっていたのだろうと想像する。
そして表情によるコミュニケーションは、言葉の発達以降も「言葉では言い表せない」種類の情報をやりとりするのに役立っているのだと思う。

表情筋の発達した人間の顔は、人生経験を経るとともに「その人がする表情の方向」にだんだん寄っていくのだろう。
笑っている人は笑う表情筋が鍛えられてそういう顔になっていく。
不機嫌な人、不満足な人もだんだんそっちの方に顔面が寄っていく。

ここまで書いてふと思ったのだが、それじゃあ、ある人が自分の性格を大いに反省して「変わろう」と一大決心した場合。
例えばいつも割り箸を口に挟んで口角を上げる訓練をして「笑い顔」をキープしたりすると、その人の性格は明るいものに変わるのだろうか。

これはまるでデフレの原因が不況なのか、不況の原因がデフレなのか、好景気だから初めてインフレになるのか、無理くりインフレに持っていくと好景気になるのか、みたいな話だ。

まあ考えてみると「変わろう」と思った時点で人間の内面にも変化が生じているわけで、その時点で内面から顔面に対する変化圧がもうすでに伝わっている。
だから「変わろう」と思った時点で、割り箸を口に挟むまでもなくその人の顔面はいくらか変わっているだろう。

わたしは昔から顔が怖いとかいつか犯罪をやらかしそうとか、周りの人から外見についてさんざんな評価をされて今まで生きてきた。
そしてそういうさんざんな評価をたわいもない戯れ言として一蹴してきたわけであるが、しかしこれはそうも言っていられないのかもしれない。

などと少しだけ思ったりした。
posted by ヤス at 11:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月02日

前と違うことを話す

時々以前と全然違うことをしゃべる人に出くわす。

人間は生きているうちにいろいろと考え方が変わる。
周りの状況も変わるし、肉体的変化とかもある。
人が違うことをしゃべるのには、そういう理由もあると思う。

これは内緒の話だが、この間仕事上のことで打ち合わせをしていて、その時に自分のしゃべっていることがこの間とちょっと違っているのかな、という場面があった。
しゃべりながら頭の中で違うことに気がついて、でもまあバレなきゃいいか、とちょっとだけ開き直ってそのまま続けた。

でも自分の発言の矛盾に気がつくと、話ながら頭の中で自動的に「以前話したこととの差異」を修正するような言葉が出てきている感じがした。
以前と違うことをしゃべることそのものより、その自動的に修正をかけてしまう感じがなんだか気持ち悪かった。

相手がわたしの話の矛盾に気がついたかどうかは知らない。
あるいは気がついていて、その上でまったく気にもかけなかったのかもしれない。
または全然気がついてなくて単純にスルーしたとも思われる。

わたしは以前からの習慣で、人の発言の「揺れ動き」にはかなり敏感な方だと思う。
人と話をしていると「これは前聞いたのと内容が変わったな」というところばかりに注意している嫌な性格なのである。
だから自分の発言に関しても、以前の発言と違うことをしゃべってしまうとけっこう気になる。
(ということがしょっちゅうある)

人の発言が揺れ動くのにはいくつか理由があると思う。

ひとつには「嘘をついている」場合である。
現実とは違う空想上の内容を話すと食い違いが生じやすい。

あるいは理論的に不整合な人。
理論的に考えるのが苦手な人は話の理屈が途中で合わなくなることがしばしばあり、五月雨式に話を修正しているうちに、前の話から軌道がそれるということが起こりやすい。

あとは単純に忘れっぽい人。
わたしの個人的推測によると、よくしゃべる人は前しゃべったことをどんどん忘れていて、だから前しゃべった内容と違うことをどんどん上書きしてしゃべるのだと思う。

逆になかなか矛盾した発言をしないタイプの人もいるかもしれない。
例えば軸になる考え方とか論法が毎回寸分違わないような人。
こういう人はいつも決まった話をするのかもしれない。
このタイプは考え方のしっかりした立派な人だとも言えるし、一歩間違うとただ融通の効かない偏屈だとも言える。

まあ人間の話が、話しているうちに内容が変わってくるというのは、そこに悪意がない限り基本的には全然ありだと思う。

人間は日々変わる。
発言内容が変わることは人間が成長した証という種類のこともあるだろう。
だから今後は、人の揚げ足取りばかりに注意を払うのではなくて、そういう前向きな発言の変化にもっと集中しないとダメだな、とか思ったが、はたして人間はそんなに簡単に変われるものだろうかとも思ったりした。
posted by ヤス at 12:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月01日

ご当地危険運転のニュース

「ご当地危険運転」が話題になっている。
代表的なものに「松本走り」「茨城ダッシュ」「山梨ルール」などがあるそうだ。
他にも名古屋、阿波、伊予とかもニュース記事に載っている。
岡山にも「ウィンカー出さない」ルールがあるらしい。
しかしそういうご当地ルールがあるのは、わたしはニュースが流れるまで知らなかった。

というかご当地ルールの中身を見ると、だいたい「交差点の右折がらみ」のものが多い。
青信号に変わった直後、直進車が直進する前にその前を横切ってダッシュして右折するパターンが多いようだ。
だからこれはご当地ルールというよりは、「強引な右折」の地域ごとの固有名とでも説明した方がしっくりする気がする。
つまり危険運転はそのご当地特有のものではなく、日本全国に普遍的なもので、その呼び名だけが地域ごとだというのに違いない。

それではなぜこのような危険運転が普遍的にあるかというと、こういうことを言うと身も蓋もないが、それが人間というもの、思わず危険運転してしまうのが人間の本能なのだと思う。

日本以外の国、例えば東南アジアとかに行くと現地の運転は日本の何倍も激しかったりする。
交差点におけるルールも「左方優先」とかそういう悠長なことは微塵もなくて、ただひたすら早い者勝ちであったりする。
それに比べれば日本の交通マナーはまだマシなのかもしれない。

おそらく交通マナーの穏便さは、信号など道路設備の整備状況と警察による取り締まりの厳格さの関数になっている。
逆に言うと、警察の取り締まりの緩い地域では人々の運転が「本能に忠実」になる。
おまわりさんに捕まる恐怖が、かろうじて人々を自制させているのだと思う。

そうやって考えると「ご当地危険運転」の報道は、晒されたご当地には戒めの効果があるかもしれないが、それ以外の都道府県からはどこか他人事として感じられる恐れがあるのではないか。

強引な右折とかは、大きな声では言えないがわたしも何度かやったことはある。
スピード違反とか信号無視とかもあるし、検挙されたことはないが駐禁違反もやったと思う。

ということで、危険運転はすべてのドライバーが自分の問題として自覚すべきことだと思う。
そこに異存のある人は少ないのではないか。

人間の「危険運転の本能」のことを思うと、人間は人間である以前に想像以上に動物なのだなあと思わざるを得なかったりする。
posted by ヤス at 11:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月31日

怒りの鎮火作業

怒りの感情は、人間の脳みその比較的奥深くの大脳辺縁系の辺りから出て来ているらしい。
脳みその奥深くということは、脳の部位としては進化過程における原始的段階ということだろう。
「爬虫類脳」とか呼んだりすることもある。
そのような脳の原始的部位から発生する原始的なアウトプットが「怒り」というものである。

人はしばしば怒りの感情をコントロールすることができなくなる。
わたしなんかもしょっちゅう怒りの感情にさいなまれる。
あの、かーっと頭に血が昇る感じ、血が昇って目が血走って手元に適当な灰皿でもあれば怒りの対象に投げつけてやりたいあの衝動。
そういうものに時々とらわれることがやっぱりある。

ただ残念なことにタバコは吸わないので手元に灰皿はなく、しかもそれなりに長く生きてきてこのような場合の対処法にもだんだん慣れてきている。
だからしばらくすると、なんとかかんとか冷静を取り戻す。
しかし大脳辺縁系から昇り立ってきた怒りの燃えかすから出る煙が、しばらくの間、前頭葉から頭頂部にかけて紫色に漂っているのを感じる。

後からもう一度怒りの場面を思い出して「なぜわたしは怒ったのか」「相手の何がわたしを怒らせたのか」を前頭葉の辺りで考えるのだが、この後から考える作業は下手をすると、事態をますますややこしくする危険がある。

いや、ぼんやりとした怒りの感情に「論理」によって分析を加える、原因を論理的に求めて次からはそのドツボにはまらないようにする、そのためにも怒りの場面を反芻する作業は是非必要であるように思われる。
しかしともすると、くすぶっていた怒りの残り火が、論理的に考えている最中にまた勢いを強めて大脳辺縁系が再炎上する、そういうケースが意外に多い。

だからこの消化作業は、実はかなり慎重に行わないといけない。

怒りの感情は、まっとうな社会人として生きていく上ではけっこう邪魔になることが多いと思う。
誰かに怒るとその人を嫌いになる。
嫌いになると、たとえそれがビジネスライクな付き合いであっても、顔を合わせたり話をしたりする時に多少ともギクシャクが生じる。
そういうのはちょっとしたストレスである。

だからできるならなるべく誰にも怒らないように生きていきたいのだけれど、大脳辺縁系の不思議で、何の前触れもなく怒りの感情は出てきたりする。

しかし考えてみると、今に至るまで人間の脳にこのような怒りの感情が脈々と引き継がれていることにはそれなりに必要があってのことのなのではないかと思う。
おそらく行動のモチベーションになる感情には、空腹とか恐怖とか、わりかしマイナスなものが多いと思うのだけれど、怒りの感情も生きる上でのけっこう重要なモチベーションになっているのではないかと思う。

「怒り」は人間がまったく前頭葉的に生きる上ではちょっと邪魔になるけれど、しかし生きることの根源部分においてはそれなりに必要なものなのかもしれない。
だからわたしは、怒りの感情を完全に抹消して悟りの境地に達することはできず、たぶん死ぬまでの間怒るたび慎重な消化作業を行う、そして時々消化に失敗して再炎上する、そういうシーシュポス的な所業を続けていくのに違いないと思った。
posted by ヤス at 11:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月30日

三菱UFJ、紙の通帳廃止

三菱UFJ銀行が6月10日から紙の通帳の新規発行を原則取りやめるらしい。
その記事がYahoo!ニュースに出ていたけれど、記事の下の方に「紙の通帳廃止、どう思う?」というアンケートの結果の円グラフが載っていて、それを見ると84%が「反対」になっていた。
そうか、世の中の人は紙の通帳廃止に反対なんだなというのが分かってちょっとだけ驚いた。

わたしとしては、今や紙の通帳は多少持て余し気味の存在になっている。
あたりまえだが紙の通帳は記帳しないといけない。
わたしは最近ほとんどの支払を電子マネーで済ませているので、銀行のATMに行く用事がない。
現金を下ろしに行くのは、3ヶ月とか半年に1回くらいだと思う。
しかし通帳記帳だけはいちおう毎月やっている。
記帳を長期間サボると、一定以上昔の分が「この期間の記録はもう消えました」みたいになって記帳されなかったりする。
だから記帳だけはコンスタントにしないといけない。

しかし一方で今はインターネットバンキングがあるので、ほんとうは通帳はもう要らない。
若い人は知らないだろうが、30年かそれ以上前までは「通帳とハンコ」でお金を下ろしていた。
銀行から預金を引き出すのに通帳が必須の時代があったのである。

今のところ通帳の唯一の存在意義は口座の動きを記録しておくということである。
しかしそれも、ネットバンキングが100%普及すれば必要なくなる。
ただし、世の中にはスマホもPCもタブレットも持っていない人がまだたくさんいる。
そういう人はさしあたり通帳がないと困る。

今回の三菱UFJは「原則」廃止なのであって、希望者には紙の通帳を発行するということらしい。
銀行側の立場に立つと、確かに紙の通帳を発行するコストもバカにならない。
ほんとうはさっさと電子化した方がいいに決まっている。
おそらく今後、他の銀行も通帳廃止に追随していくのではないだろうか。
そして紙の通帳に関しては、別途発行手数料を取る。
間違いなくそういう風になると思う。

「電子的な通帳」と紙の通帳を比べると、紙の通帳は紛失したり火事で燃えたりして物理的に消滅するリスクが有る。
「電子的な通帳」だってハッキングやらデータ消失やらのリスクは多少あるだろうが、たぶん物理的な紙の通帳よりは、そのリスクは低く安全なのは間違いないのである。

それと通帳とセットになっている「銀行の登録のハンコ」。
あれも最近は通帳に印影が無いので「あれ、どれが通帳印だっけな」みたいなことがたまに起こってうっとおしい。

紙の通帳廃止の流れは、日本社会における「印鑑至上主義」の終わりの始まりでもあるとのだ。

紙の通帳を廃止することに世の中の多くの人が反発を覚えているというのには、人間ってやっぱり保守的な生き物なんだなあということをつくづく思わざるを得ない。

しかしその一方で、顧客の反発にもかかわらず銀行がそれを廃止するのは、コスト削減をしないとこの先やってられないということで、やっぱり危機的状況が起きると世の中は変わる、変わらざるを得なくなることの良い例なのではないか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 14:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月29日

包摂する社会について

また小さい子供が犠牲になる事件が発生して、19人が被害にあってうち2人が命を落とした。
犠牲になった方のご冥福をお祈りします。
また怪我をした小さい子供も心に深い傷を負ったはずで、それらのことを思うとなんとも言えない気持ちになる。

加害者の50代男性は自刃して亡くなったそうであるが、こういう事件が起きると「死ぬなら一人で死ね」という意見が出てくるのもまあ仕方がない面がある。
ただあるネット記事の中に、こういう「一人で死ね」的な意見は非常に危険だ、というのがあってなるほどなとも思った。

もし自分が被害当事者になった時にそんな冷静な話ができるのか、ということを考えるとかなり難しいけれど、しかし理屈としてそういうことは心得ておいた方がいいと思う。

このような痛ましい事件が起きると世の中はやり場のない復讐感情で膨れ上がってしまうものかもしれないが、しかし冷静な理屈を言うなら大事なのは同種の事件が再発するのを防止することのはずだ。

凶悪犯罪に対しては、しばしば「厳罰化」の声が大きかったりする。
しかし厳罰化は、必ずしも犯罪抑止に効果がないとも言われる。
一方で犯罪の種類によっては厳罰化の効果は確かにあるという研究もあるらしい。
ただ衝動的殺人のようなケースにおいては、厳罰がどうこうというのはあまり関係ないのではないか、という風に個人的には思う。

日本列島には1億3千万人も人間が暮らしていて、その上に多数の外国人もいる。
そんなにたくさん人がいれば、その中に凶悪犯罪を起こす人間が一定割合で出てきてもしょうがないのかもしれない。

そういう人間は精神的に重大な病を抱えているのかもしれず、それは治癒不可能な種類のものかもしれない。
そんな人間がいつか重大犯罪を起こす可能性というのは常にあり、そうなるとそんな異常者は事が起きる前に社会から排除してしまえ、という感情が世の中に沸き起こってもおかしくはない。

そういう感情は仕方のない面もあるけれど、それでもやはり我々は、病的な人間、異常な精神の持ち主とも共生していくしかないのである。
人間の凶悪な部分も包摂しつつ社会をつくっていくしか仕方がない。
それは異常者を排除するとしても線引きをどのあたりに決めるかが不可能であるし、排除の理論は最終的にはホロコーストに行き着くしかないからである。

凶悪犯罪が起きると大きなニュースになって、最近こういうのが多いなあとか感じるが、凶悪犯罪はこの数十年で確実に減少しており、その意味では社会は確実に良くなっている。

被害に遭われた方々の感情の回復が行われることはもちろん最優先だと思うが、そこから少し距離のあるところにいる他の人たちは、被害者の方々の被害感情に共鳴しつつ心の片隅にそういう冷徹な気持ちを置いておくこともまた大事なのではないかと思ったりした。
posted by ヤス at 08:20| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月28日

オートバイのカッパ

雨がぱらついている。
もうすぐ梅雨の季節だ。
今年の梅雨はわたしの個人的な予測でいうと、日本列島はまた何度か大雨に見舞われる気がする。
それで水害とかにならないといいのだけれど、まあ昨年の教訓があるから今年はうまく雨をイナして無事で済むに違いないと信じている。(ほんとに大雨が降ればだが)

ところでわたしはこのところオートバイに乗ることが多い。
オートバイにとって雨は大敵である。

クルマに乗っていてフロントガラスにパラパラ雨滴が付き始めると、「おや雨かな」くらいである。
しかしオートバイに乗っていてメットのシールドに雨滴が光ると「やべえええ」と焦る。
ただの小雨で済めば良いが、次の瞬間に突然の集中豪雨に襲われないとも限らない。
オートバイに乗っていてシールドに雨滴が付き始めた瞬間、止まって「カッパ」を着るのが良いか、そのまま小雨と見切って走り続けるのが良いか、その判断は難しい。

わたしの場合ビビリの小心者なので多少の雨滴でもすぐにカッパを着ることにしている。

30年くらい昔にオートバイに乗っていた頃の二輪用カッパは、ちょっとした豪雨の中を走っていると隙間という隙間から次々に雨滴が浸入してきて、知らぬ間に浸入した雨滴が股間のあたりにたまってそこからずぶ濡れになる。
また靴周りの防水は、いちおうシューズの上にレインカバーを着けていてもそのうちシューズの中もタッポンタッポンになって、だから30年前に大雨に降られると「カラダと雨が一体化」することが避けられなかった。

しかし今のレインウェアや防水シューズは大したもので、この2年ほどだが昔のような悲惨な目にあったことはない。

雨の日にカッパを着用し手に防水グローブをはめてオートバイを走らせていると、なんというかカッパの薄いビニール素材一枚隔てて「大自然」と接している感じがものすごく強くて、なんだか良い。
特に最近のカッパは防水透湿素材でできているのが多く、わたしも最近「透湿カッパ」を着用しているが、これが非常に良いのである。

普通の透湿ゼロカッパはやっぱり体から出る汗で多少蒸れてくる。
それが透湿カッパだとほとんど蒸れがない。
わたしが最近買ったのはゴールドゥインというメーカーの「Gベクター3コンパクトレインスーツ(新製品だよ)」というやつであるが、これは透湿性能8000g/u•24hだそうで、少し肌寒い時にウィンドブレーカーがわりに着ていても普通に快適である。(透湿性能測定というのは各メーカーけっこういい加減であまり参考にならないともいうが)

本当に技術の進歩というのは素晴らしいものだと思った。

Gベクター3の前のGベクター2は4500g/u•24hだったそうなので、たいそう「蒸れ」に対する性能が上がっているに違いない。

ということで、新しい透湿カッパを手に入れたわたしとしては、早く大雨の中を走りたくてしょうがないのである。
posted by ヤス at 12:24| Comment(2) | 徒然なるままに