2018年01月22日

古墳と盗掘

何年か前に仕事で大阪に宿泊したことがあって、堺市の安ホテルに宿をとった。
それで夜中になんとなく散歩に出かけて、近くにあった「大仙陵古墳」まで行った。
「大仙陵古墳」はわたしが学生の時分には「仁徳天皇陵」という風に習ったが、墳丘の長さが486mもある世界最大級のお墓である。

この大古墳の近くまで行ったはいいが、「正面入り口」の門扉はもちろん固く施錠されていて勝手に入れない。
仕方がないので古墳の周りに沿ってぐるりと道を一周した。
たぶんその一周が2kmくらいあって、それなりにくたびれた記憶がある。

この古墳がひと昔前まで「仁徳天皇陵」と呼ばれていたのには実は確たる根拠はなく、だから最近は被葬者の名を伏せて「大仙陵古墳(または大山古墳)」と呼ぶらしい。
そもそも第16代の仁徳天皇自体が半分神話的な存在で、在位期間や生没年も不詳である。

このような大墳墓の被葬者記録が不明というのも少し驚く。
この古墳は西暦400年代、5世紀頃のものらしいが、その後の時代に管理が緩み相当程度放置された期間があったのだろう。
古墳内には盗掘の痕跡があり、また江戸時代以前の歴史記録にもどこかの古墳に入った盗掘犯を捕まえて磔(はりつけ)にしたとかいうのがあるらしい。

ところで、「墓荒らし」というのは古くからある職業で、その歴史は人類史に権力者を頂点とする社会構造が出来上がり、大権力の象徴としての墳墓が造営されるようになるのと並行して登場したものと想像される。
日本の大古墳に限らず、エジプトのピラミッドや中国の歴代皇帝・王侯貴族の墓などもほぼ例外なく盗掘にあっている。

何しろこれらのお墓には副葬品として金銀財宝が権力と比例する分量納められており、しかも墓の中には死人ばかりでやりたい放題である。
墓の主人の子孫の系譜が衰えて墓の管理が緩むと、どこからともなく盗掘集団がやってきて金目の物を根こそぎにして行く。
というのが世界共通のお約束であるらしい。

エジプトのツタンカーメンの墓がほとんど無傷だったのは、その墓が王墓としてはあまりに地味で歴代の盗掘者たちも素通りしてしまったからだという。

歴史上の権力者が立派な墓を造り金銀財宝と共に中に入る前に(つまり生前に)、盗掘の心配をしなかったわけはないだろう。
それでもなお大きな墓に財宝多数を埋めたのは、自分の子孫だけは永続し代々自分の墓を守り続けてくれると期待したからだろうか。
その辺は権力者の心理にまつわる謎であると思う。
いずれにせよ、墓はなるべく地味で、あるかないか分からないくらいのものが庶民にとっては心落ち着くよなあ、と思った。
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2018年01月21日

小室哲哉の引退

小室哲哉氏が不倫疑惑の釈明会見で業界からの「引退」を表明したらしい。
わたしは文春も会見も見ていないので詳しいことを知らない。
しかしいくつかの報道をチラ見する限りでは小室氏にかなり同情的な思いを持った。
世の中的な評価としては、不倫疑惑に相変わらず厳しい意見を述べる向きもあるようだが、全体として小室氏を応援する意見が今回に限っては多いような気がする。

ところで、この「引退」という身の振り方についてもいろいろと意見があるようだ。
小室氏の報道上の肩書きは「音楽プロデューサー」であるらしいが、音楽プロデューサーにおける引退とは一体なんなのだろう。

世の中のプロの職業には、組織化されプロ基準とでもいうべき明確なルールが決まっている業界もある。
プロ野球やプロサッカーはプロチームに所属していることがその条件だろうし、将棋や相撲の世界でも、業界団体が設定したプロ基準をクリアすることが必要である。
そういうプロ職業はプロ人数におおよその枠が決まっていて、その枠から外れるとプロでなくなる。

一方でプロレーシングドライバーとかプロゴルファーとかは、ライセンスやテストに合格することでプロになれるが、プロになったからといってそれで食っていけるかどうかは別問題である。
プロボクサーなんかもそうなんだろう。

そして、特にライセンスもなく業界団体の縛りもないプロ職業ももちろんあって、どちらかというとこの手の「プロ」が世の中には最も多い。
プロのデザイナー、プロの作家、プロの八百屋などなど、プロを名乗っていている人を見てなるほどこの人はプロだ、と思うこともあるし、本当にこの人はプロなの、と思う場合もある。

小室哲哉氏がやっていた「音楽プロデューサー」は、分類するならこの「縛りのないプロ」に該当すると思われる。
そして小室氏は詐欺事件とかいろいろありはしたけれど、現在に至るまでかなり明白にプロの音楽プロデューサーだった。
だから彼の引退宣言には、それなりの重みがあると思う。

それで彼は引退宣言をして、やりかけの仕事とかを順番に片付けて表舞台から消える算段のようである。

しかし、彼が引退して何年か経って、突然インスピレーションを得て新しい音楽を作って、それで金儲けをするかどうかはともかく、それを何かの形で世に出すようなことがあれば、彼は引退宣言はしたけれど、本当には引退していなかったことになる。
たぶんこういうアーティスト職業の人々は、本人がいくら引退したつもりでも完全にアーティストでなくなることはない。

世の中には、引退したくないけど引退しなきゃいけない人もいるし、引退しようにも引退するほどのプロでない人もおり、また引退したいけれど本当に引退はできない人もいるのだ、と思ったりした。
posted by ヤス at 14:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月20日

SVTOL機の夢

日本の海上自衛隊には「いずも型」と呼ばれる護衛艦があって、これは真っ平らな全通甲板を持つどこから見ても「空母」のような艦影をしているがもちろん空母ではない。
あえて言えばヘリ空母であり、正式には「ヘリコプター搭載護衛艦」ということになるらしい。
このいずも型護衛艦に、最近実用化が始まったばかりのアメリカ製ステルス機F35Bを載せて本来の空母として運用することを検討、みたいなニュースが流れていた。

F35BはF35シリーズの中のSVTOL(=短距離離陸垂直着陸)タイプで、米海兵隊やイギリス海軍などが採用決定している。
真下方向の推力を得るためにエンジンノズルを下向きに偏向できる特殊構造を持ち、また胴体のど真ん中にジェットエンジンの回転力で駆動するリフトファンを積んでいる。
このリフトファンが大きな体積と重量があるために、F35の空軍型A、海軍型Cと比べると燃料や兵装搭載量が劣り、行動半径も攻撃力も若干弱くなっている。

しかし小型の軽空母や長い滑走路のない島嶼部などでも運用可能なSVTOL機は現在それなりのニーズがあるらしい。
必ずしも高性能とはいえなかったイギリス製のSVTOL機・ハリアーが1982年のフォークランド紛争で意外な活躍をしたこともその背景にあるようだ。

しかし日本がいずも型を改造してF35Bを運用したとして、これを尖閣諸島周辺や南シナ海方面で使うのであればこれはほとんど意味がない。
日本はF35の空軍型であるA型を導入中だが、尖閣方面で使うなら沖縄や九州の基地からA型を飛ばして、場合によって空中給油で足を伸ばせば十分だ。
F35は超音速巡航可能なので、要するに時速千キロくらいで飛び続けることができるので、沖縄から500km飛んで尖閣に行くくらいの距離なら十分に実用範囲である。

日本が空母を持つということの意味は、中東のタンカー航路の警備に行くとか、かなりの遠隔地に航空戦力を派遣する、という話になる。
これは現在の憲法や法律の枠組みではかなり難しい話である。

F35Bで思い出したが、子供の頃にテレビでやっていた「ウルトラマン」に出てくる科学特捜隊の飛行機はどれも垂直離着陸型だった。
またサンダーバード2号や、スターウォーズのエックスウィング、帝国軍のタイファイターなども例外なく垂直離着陸している。
これらSF的空想作品に出てくる軍用機というのはほぼ例外なく垂直離着陸型なのはどうしてだろう。

これはたぶん滑走路がないと飛べない飛行機ではシナリオ作成上いろいろと不都合があるのだろうが、やはり人類の一つの夢として、軍用機は垂直離着陸した方が単純にカッコイイということなのだと思う。

開発初期の頃のハリアーとか、現在のティルトローター機のオスプレイとか、かなりの頻度で墜落事故を起こしているが、これは人類の夢に航空技術がまだ十分追いついていない、ということのようでもある。

だから飛行機は素直に滑走路を走って飛ぶのが、コスト的にも安全面からも無理がなくて良い、と、どうでもいいが思ったりした。
posted by ヤス at 14:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月19日

次に出てくるカメラの予想

「レンズスタイルカメラ」というデジタルカメラがかつてソニーから出ていた。
かつて、とはいってもほんの3〜4年前のことである。
QX10、QX100という2種類が2013年にわりかしひっそりと発売されている。
この「レンズスタイルカメラ」は丸い円筒形をして、まんまレンズの形であるが、普通のデジカメにある液晶画面が無い以外は、シャッターボタンもあるしいちおうカメラとしての機能を一通り揃えていた。
ただ、ファインダーも液晶もないので撮影時にどうやって狙いを定めるかというと、スマホとWi-Fiで繋げて使う。
専用アプリを入れたスマホにレンズから送られてきた画像が映しだされて、スマホ画面をタッチしてピント合わせができたりする。

わたしはかつてこの製品群に対する感想を書いたのだが、かなり酷評した記憶がある。
まず、ほぼ同一性能の普通のデジカメと比べても値段が高い。
本来は液晶画面が無い分安くなってしかるべきだろうが、おそらく生産数量の見込みが少なく安くできなかったのだろう。
またWi-Fiでスマホと繋ぐのが、うまく繋がらなかったり途中で切れたり送られる画像が汚かったりさんざんだった。
だからわたしはこのカメラは、残念ながら遠からずフェードアウトして終了になるだろうと予言した。

しかしである。

発売から2年くらい経った頃にホリエモンがこのカメラを激推しし、またより大型の撮像素子を搭載したレンズ交換式の新製品も出たりして、ひょっとしてわたしの予言はハズれるのではないか、という展開になってきた。
またこの頃にオリンパスからも、マイクロフォーサーズレンズ規格の同一コンセプト製品が出てにわかに市場が活気付いたように見えた。

現在、アマゾンでこれららの製品群を検索してみると、わずかに残った流通在庫に法外な値段が付いた新品が売られていたり、中古品が出ていたりする。
しかし大半の型番はおおかた終了しているようで、わたしの予言はなんとかハズれずに済んだ。

今のデジカメは、Bluetoothの常時接続技術とかが確立しており今これらのレンズスタイルカメラを「リプロダクト」すればそこそこ良い製品が開発できそうだが、しかし出てきそうな気配は微塵もない。
わざわざ液晶を外した専用製品を作らなくても、普通のデジカメをスマホで繋げれば同じことができるからだろう。

そこで第2の予言をここでしたいと思う。
レンズスタイルカメラの無念を晴らすことのできるニューコンセプト製品についての予言である。
それは、たぶん「ドローンカメラ」になる。

今もカメラ付きの小型ドローンはたくさんあるけれど、画質が良く、スマホとの連携が便利で、なおかつ精密な飛行制御で風にも強くお値段もリーズナブルなドローンカメラの決定版がそのうち出てくる。

従来、三脚や自撮り棒や通りがかりの人にシャッターをお願いするとかで行なっていた「遠隔撮影」のニーズをドローン型カメラは痛痒なく叶えてくれる。
技術的には風に飛ばされず障害物にぶつからない飛行制御が難しそうだけれど、「持ち主」の周りをブンブン飛び回って勝手にアングルを決めてシャッターを切るドローンカメラが出たらぜひ欲しい、と思ったりした。
posted by ヤス at 12:25| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月18日

信念のはたらき

リンゴの落下を見て万有引力の着想を得たことで有名なアイザック・ニュートンは敬虔なクリスチャンだったそうだ。
彼は特に後半生は物理学よりも神学研究に情熱を注ぎ、この分野でたくさんの著作も残している。
またニュートンはたいへんな変人で、まだ動物愛護思想のかけらもない300年以上の昔に街の野良猫に餌を与えたりしてご近所さんから気味悪がられていたらしい。

このニュートンは「絶対的時間」「絶対的空間」の信奉者であり、これはどういうことかというと、宇宙にある全ての分子の運動を把握することができたら完全な未来予測が可能になる、ということである。
というのを昔講談社のブルーバックスか何かで読んだ記憶があるのだがあるいは多少間違っているかもしれない。

以下、間違っていないことを前提に書く。
ニュートンの時間や空間に対する絶対性の考え方は非常に強い信念であり、ある種の宗教的な信心がその背後にあったと想像される。
それはニュートンが熱心なキリスト教信者だったことからも類推できる。
そしてニュートンの数学・物理学における業績は、狂信的とも思われるこのような信念が支えていたのだろう。

逆にニュートンが自分の信念を信じることが人並みで、性格も穏やかな普通の人だったら、たとえ彼の知能指数がどんなに高かったとしてもあんなに偉大な業績は残せなかっただろうと思う。

人間はしばしば強い信念や宗教思想や理念を信じることがある。
強い信念を持つことは、世間的にはどちらかというと良いことである、という風に受け止められることが多い。

ところで、このような信念とか宗教心とかはたいてい理屈を超越したものである。
論理的に組み上げられた数学的構造を持つ信念というのは、たぶん信念とは呼ばないのだと思う。
どうしても理屈で解明できない部分を飛躍させるものがこの場合の信念である。
信念の強みは、理屈のバックボーンを持たないので理屈によって論破されることがない、ということであろう。

17世紀に生きたニュートンは科学の世界で偉大な業績を残したが、しかし彼が長生きして20世紀まで生きたとしたらさぞかし驚き、憤慨しただろうと思う。
量子力学が出てきて、あるいは不確定性原理とかいうものが発見されて宇宙の絶対性が明確に否定されることになったからである。
宇宙では未来は絶対的に予測できない。
タイムマシンに乗って何度も過去に戻ったとしたら、その度に「偶然」が作用して違う歴史が出現する。

信念というのは捉われ過ぎると道を誤るし、しかし強い信念があることによって人は駆り立てられ、希に偉大な業績を産んだりする。
信念はなかなか扱いの難しいものであるなあ、と、どうでもいいが思ったりした。
posted by ヤス at 10:48| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月17日

電子マネー化について

最近の買い物は電子マネーを使うことが多くなった。
わたしが電子マネーを日常的に使うようになったのは、2016年の10月くらいからである。
このタイミングになったのは、iPhoneをApplePay付きの「7」に機種変したからだ。

数年前も、ガラケー時代にFeliCa搭載のシャープの携帯電話でEdyを使っていたことがあったのだが、岡山の片田舎では当時Edyで買い物ができる店が極端に少なく、いつの間にかだんだん使わなくなった。

それが、2016年10月から日常生活の7〜8割方が電子マネーになったのは、やはりiPhoneのApplePay搭載の影響が大きい。
たぶんApplePay登場の影響だと思うが、マクドナルドはそれまではクレジットカードも使えなかったのがこの頃にいっきに電子決済化に舵を切った。
コンビニはしばらく前から電子化が進んでいたけれど、それまで電子化が遅れていた地元のスーパーマーケットやドラッグストアなんかもこの時期に一斉に電子マネーの導入が進んだように思う。

あと、たまに行く吉野家が今のところイオン系のWAONしか使えなくて、わたしはWAONは持っていないのでそれだけで吉野家から足が遠のく。
いずれにせよiPhone搭載型の電子マネーは、いちいち財布をポケットから取り出す手間がなくて便利だ。
ポケットから取り出す手間だけでなく、もちろん小銭を数えたり釣り銭を受け取ったりする手間もない。
以前は、自動釣銭機でないコンビニの支払いで、年に数回くらいの頻度で釣り銭間違いがあったけれど電子化でそれも皆無になった。
またマクドナルドの電子決済も、昔に比べると店員が慣れたこともあるのだろうし、ひょっとしたらレジ機器の反応速度が改善されたりというのもあるかもしれないが、以前より相当スムーズになった感じがする。

しかし一方で、地元個人店とか小規模チェーンなどではほとんど電子決済化は進んでいない。
現在の電子マネーの導入コストは、端末が1台数万円、決済手数料が2〜3%くらいで、その気になれば個人店でも十分に手を出せる金額だと思う。
特に手数料はクレジット決済より安い。

レジ決済が電子化されると、釣り銭間違いもなくなるしいちいち銀行に行って小銭の両替をする手間も減る。
ただしそれも決済の大部分が電子化されたらの話で、「現金主義」が根強い日本国内、特に田舎の市場ではなかなか電子化に舵を切る消費者が増えない。
だから小規模店舗でも導入が進まない。

しかし、最近は外国人観光客の来日が増えており、特に電子決済に慣れた中国人とかが今後も増えれば観光地から順番に電子化が進むような気がする。
また2020年には東京五輪もある。
わたし的には昨年2017年は田舎における電子決済元年であった、と勝手に思っているが、おそらく2年後2020年は一気に大半の消費者が電子マネーを使うようになる年になるのではないか、と勝手に予想している。
posted by ヤス at 10:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月16日

食用犬と動物愛護の問題

最近のニュースに韓国の食肉用の「養犬場」が閉鎖に追い込まれているというのがあった。
アメリカの動物愛護団体からの働きかけによるものだという。
なんでも補償金と引き換えに食肉になる運命だった犬を欧米の里親に譲る取引に応じたらしい。

わたしは個人的には犬を食べることにはかなり抵抗がある。
だが一方で犬食文化を野蛮であると言下に否定する考えもない。
そして犬は食べたらダメで牛や豚は食用にしても構わないとする考え方は、理屈がなかなか成り立っていないように思える。

多くの人間が、犬を食べるのに抵抗がある一方で牛や豚はそうでもないのは、大雑把に言うと「可哀想」に感じるかどうかが大きいと言わざるを得ない。
犬は一般に表情が豊かで、犬が喜んでいたり悲しんでいる感じを人間としても受け止めやすい。
対して、牛や豚は「無表情」で感情の起伏を感じ取るのはなかなか難しそうに思える。
わたしも、牛の表情をじっくり観察した経験がこれまでにあるわけではないのでそれほど強力に主張する感じでもないのだけれど、しかし田舎の方に行くと思いがけず目の前に牛舎があって牛がのんびり餌を食っている風景に出くわすことは、ないこともない。
その時に見た牛の印象を元に語るなら、確かに牛には表情が乏しいような気がするのである。

あるいは犬の表情の豊かさというのは、家畜として生きてきたこの数千年間に犬たちが身につけた護身用の技術であるのかもしれない、と思ったりもする。
犬の表情が豊かであると、そこにある種の自我の存在を感じさせる。
それを見た人間としては犬の自我があることを予感し、いざ犬を食する時になって「こいつら食べられるのはさぞかし無念だろう」などと想像が広がる。

数千年間の犬と人の関係史において、表情の豊かな犬は可哀想な感じがして食べられることから免れ、無表情な愛想のない犬はあっけなく食されるというような淘汰圧が作用して表情の豊かな犬が残った。
そのようにも想像できる。

しかし人間というのはつくづくややこしい生き物である。
同時に、人間は感情の作用を無視して生きることができない生き物であると思う。
理屈で考えると犬も牛も豚も、生命の尊厳として分け隔ての理由はなく、その考えを拡張するとブリやハマチだって犬同様に一個の生命として尊重されるべきである。
それで行くと人間は、究極的にはメシを食うたびに重大な倫理問題にぶち当たって相当不自由することになる。

この問題は、あまり理屈で考え過ぎると袋小路に迷い込んでしまう。
だから「とりあえず」犬を食べるのは可哀想だよね、でもお腹が減ったら何か食べたいよね、というような感情に、それぞれの立場の人間たちが理屈抜きで素直に従うしか今の所答がないように見える。
これはクジラ肉の問題も同様だけれど、犬食べる派も愛護派もあまり理屈を振りかざすべきではなく、適当なところでなんとなく折り合いをつけるしかないのだ、と思ったりした。
posted by ヤス at 08:04| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年01月15日

黒塗り問題

件のガキ使の黒塗り問題。
昨日のワイドなショーで松本人志がこの件についてコメントしているのをYouTubeで観た。
が、松本人志は具体的な反論をするでもなく、「浜田が悪い」の一点張りで問題を無理やり笑いに転換しようとしているように見えた。

この問題、たぶんちょっと前なら何の話題にもならなかったと思う。
それが現在は世界的に差別への意識が高まっていて、対して国内の意識が全然追いついていなかったということなのかもしれない。
日本のお笑い界的には「寝込みを急に襲われた」不意打ち感があって、個人的にはちょっとびっくりもした。

ただ世界の潮流は、民族や思想やジェンダーなどなど、さまざまな部分が異なる人間たちがこの地球上でどうやったら平和に平穏に共存できるか、ということにちょっとやり過ぎなくらい配慮するようになっているということなのだろう。
対するダウンタウン側、というか日本のお笑い界としては、これで笑いの幅がまた狭くなった、テレビの世界がさらに窮屈になった、という思いを抱いたようである。

以前明石家さんまが何かの番組で発言していたのだが、「テレビの世界が今、自粛やコンプライアンスで窮屈になっていませんか」みたいな質問に対し、「制限のある中でどうやって笑いをとるか」が自分の中のテーマであるみたいな返答をしているのを観た記憶がある。

やっぱりさんまはすごいなあと思うのだが、しかしこの返答は見ようによっては優等生的に過ぎる、と思えなくもない。

日本の社会は、少なくとも国内では人種や民族や宗教上の「異分子」対立が大きな問題になったという歴史がほとんどなかった。
いや本当はアイヌや在日朝鮮人への差別問題とかいろいろあったのだろうが、平均的な日本人の感覚では「日本は均質社会」という認識が世間的な大勢を占めていたものと思われる。

しかしアメリカでもヨーロッパでもアジアの各地でも、人種や民族の違いをめぐって時に血なまぐさい事件が発生したりして、世界の人々の意識には日本国内と次元の違う深刻さ、というのがある。

人間が「差別」をする意識というのは、脳内の「無意識」部分での思考が大きく影響していると思う。
我々は、知らない間に「自分たち」と少し違って見える人々に違和感を感じ、その違和感が成長して「違う人々」への排撃行動に繋がったりする。
だから無意識下で発生する差別の元になる意識をなるべく事前に取り除こう、というのが、今日における世界の差別問題への対策のひとつになっている。

そこのところが均質社会に暮らしている(と思っている)日本人には理解しがたい。
日本のお笑い界も、思いもせぬところから横やりを入れられて水を差されて少々気分が悪いのかもしれないが、やはりここは制限のある中でどう新しいお笑いを作って行くか、そこを突き詰めて行くしかないんじゃないかと思う。
posted by ヤス at 08:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月14日

狩猟民族と遊牧民族は違う

数日前のニュースだが相撲協会評議員の池坊議長が、白鵬の張り手は元が狩猟民族だから、みたいなことを言ってこれが民族差別だということで、一部地域で少し炎上している。
民族差別の話は置いておくとして、わたしが違和感を抱いたのは白鵬のご先祖さまは「狩猟民族ではなく遊牧民族だろう」という点である。

この点については、実を言うと断定的に主張するほどの知識を持ち合わせているわけではない。
ただ現状のわたしの脳内における「世界史」では、狩猟民族と遊牧民族ははっきり違う。

学校で習う世界史を思い出してみると、人類の文明史は代表的な四大文明から始まる。
エジプト、メソポタミア、インダス、黄河と、主に大河川流域で文明は起こったと昔習った。
四大文明以外にも、小さいが十分に古い文明跡が各地で発見されていて、おそらく1万年前から5千年前くらいの期間に人類は農耕技術を習得し、それまでの狩猟採集生活時代より食糧事情が革新的に改善し、余剰労働力が発生して文明の礎となった。
というのはわたしの想像だがそんなにはハズレていないと思う。

そういう定住スタイルの農耕文明が河川の流域で起こったのと同時期に、おそらく「遊牧文明」というのも起こったのである。
というのも個人的想像だ。

わたしの想像内の黎明期遊牧民族は、定住しないので「遺跡」というのを遺さず、その多くは文字も持たなかったので記録も残していない。
ただ農耕民族側の歴史台帳に「いついつ頃遊牧民が大挙来襲した」とか記録されているだけである。

わたしの脳内世界史においては、農耕文明と遊牧文明はほぼ同時に沸き起こり、遊牧民族は炭水化物が食べたくなると、農耕民の集落を襲って略奪する。
略奪は現代でこそ犯罪行為であるが、当時の遊牧民族にとっては単にひとつの産業だったに違いない。
ただ遊牧民族は略奪するだけでなく、鉄を発明して農耕民族がそれを取り入れたり、遠隔地の文物を橋渡ししたりする機能も果たしていたと思うのである。

それで、13世紀のモンゴル帝国の頃までは、こと軍事技術では遊牧側が農耕側を圧倒していたわけであるが、鉄砲の発明の頃から遊牧のアドバンテージが怪しくなり、今ではすっかり農耕文明の天下になってしまった。
あくまでわたしの想像である。

炭水化物の計画的生産と備蓄の技術を引っさげて世界を我が物にした農耕文明であるが、しかし現代人を観察すると、今日に至ってかなり遊牧民族的色彩が濃くなっているようにも思われる。

まず、現代人の多くは農耕をしない。
日本における第一次産業人口は2%程度で、その他の民衆は略奪こそしないが、かつての遊牧民のように農耕民から食糧を得ている。
また、長らく定住生活は人類のライフスタイルの定番形式だったが、今スターバックスに行くと、みんなコーヒーを飲みながらMacBookを広げて「ノマド」している。

話がだいぶ逸れた。
つまり狩猟民と遊牧民を混同することにわたしは違和感を持つ。
それは狩猟採集生活の後に、人類は文明の二大形式として遊牧と農耕に分岐した(少なくともわたしはそう思っている)わけで、この点については追って自分なりに勉強してみようかと思った。
わたしの学習意欲を後押ししてくれた池坊議長に感謝である。
posted by ヤス at 11:22| Comment(0) | 徒然なるままに

2018年01月13日

さんまのアドリブ

大昔、もう30年も前の話である。
当時広島に住んでいて、正確な名称は憶えてないが「広島国際音楽祭」だったか、そういうイベントの警備員兼雑用係のアルバイトをやったことがある。

なんだか最近、昔のことを書くことが多くなっている気がする。
もう少し未来に目を向けないといけないのかな、と思わなくもない。
昔語りの多くなる歳頃になってしまったのかもしれない、と思うと少し焦る。
まあとりあえず歳の話は置いておこう。

その広島の音楽イベントに、スタッフの腕章をはめて他のバイトと一緒にステージ下に並んでいた。
事前の注意伝達で、必ず客席の方を向いているように、と言われたような記憶もある。
そのイベントは、当時テレビの歌番組に出てくる有名な歌手がたくさん出演していたと思うが、一体誰が出演していたか、今となっては記憶のカケラも残っていない。
ただ憶えていることがひとつあって、イベントの司会者が明石家さんまだった、ということだ。

明石家さんまがどこかの女子アナと二人で進行をやっていて、「ひょうきん族」でいつも観ているさんまが生で観られるというので、それが非常に楽しみだった。
それで、事前の注意事項もそっちのけで、わたしは終始首を斜めにひねってステージの方を眺めながら、明石家さんまの司会ぶりをつぶさに観察した。

録画番組と違ってカットも編集もない生の喋りっぷりが観察できるのは非常に興味深かった。

結論から言うと、明石家さんまの生の「しゃべくり」は、当時はさんまも若かったけれど、十分以上にすごかった。(と、当時の自分は感心したに違いない)
女子アナとの絡みで時折繰り出すアドリブとかも面白くて、「やっぱりさんまはおもろいなあ」と当時のわたしは思った。

それでイベントが終わって、出演歌手もさんまも司会者もみんな帰っていって、我々バイトは雑用係として会場の撤収作業に入った。
それでスピーカーコードをくるくる巻いたり会場の掃除をしたりして、ふと床をみるとA4の書類が落ちていて、拾ってみると音楽祭の台本だった。
それで掃除もほったらかして台本をめくってみると、さんまと女子アナの「セリフ」が事細かに全部書いてある。
例のアドリブもしっかり台本に書いてあったので、あれは実は「アドリブっぽいセリフ」だったことが判明した。

それで思ったのであるが、明石家さんまは音楽祭のけっこう直前にワンボックスのハイエースかなんかで会場に乗り付けて「おはうぃーす」とか言いながら眠そうにやって来たのであるが、会場に来てから開演までの短時間で台本を読んで女子アナと打ち合わせして、それで淀みなくあのナチュラルな感じの面白いMCをやったのだろうか。

なんかいろんな意味ですげえなあと思ったのをちょっと思い出したのだが、あまり昔話ばかりするのは年寄りくさくていかんなあ、とやや反省したりしている。
posted by ヤス at 11:17| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月12日

日本人の所得について

最近の日本の経済はなかなかの好景気であると言われる。
各種の経済指標、景気動向指数とか好調な企業利益が好景気を示している。
しかし一方で実質賃金は伸び悩み、個人消費はあいかわらず低迷したままだ。

今、巷は空前の人手不足で、あっちでもこっちでも人が足らないという話を聞く。
それで最低賃金が最近少し上がったことと合わせて、アルバイトの時給相場もけっこう上がっているようだ。

巷ではそういうこともあるけれど、やっぱり給料は上がらない。
これについてはいろんな専門家がいろんな解説をしているが、わたし的にいちばん腑に落ちるのは新興国の影響である。
特に製造業において、日本で作るような製品は、同等のものが中国とか東南アジアとかで製造可能になっている。
また、こられの新興工業国は人口も所得水準も急激に延びていて、製造拠点だけでなく消費市場としても有望なので、日本の製造業がこれらの地域に工場を移していくというのは少々の円安くらいでは止められないだろう。

今の時代はアジアとか、またこれからはアフリカ諸国なんかも経済成長を始めて、これらの国の企業はとりあえず欧米や日本にモノを売りたいと考えるだろう。
そうすると、これら外国で作っているのと同じものを日本国内で作るのでは、人件費を比べると明らかに日本の企業が不利である。
日本の企業の給料は、これら諸外国の労働者の給料と競争していて、たぶん今後10年20年かけて先進国と新興国の労働者の給料は格差が縮まって来る。

日本人の給料にだけ注目して述べるなら、今後当分日本人の給料は上がらないことになる。
それどころか下手をすると徐々に減っていくこともありうるだろう。

もうひとつ懸念材料としてあるのは、「サラリーマンシステム」の今後である。
サラリーマン、つまり会社と雇用契約を結び給料をもらって労働力を提供するやり方というのは、きわめて20世紀的なシステムだと思う。
それは「規模の経済」を生かして製品やサービスを大量生産するのに最適のシステムだったと思うのだが、今後の日本ではサラリーマンシステムがだんだん縮小していくような気がする。

まず低賃金のアルバイトで出来るような単純労働はロボットやAIで機械化される。
もう少し高度な正社員の仕事も省力化が進むだろう。
将来の日本でサラリーマンがいきなり消滅することはないと思うが、だんだんと雇用されて労働する人が減ってきて労働者がフリーランス化していく、というのはあると思う。
それはそうしないと企業の方が生き残っていけないからでもある。

それやこれやで日本人の所得、特に低所得者層の所得はさらにいっそう減少圧力がかかるのではないか。
そうなると「ベーシックインカム」の導入が、リアルな政治テーマとして浮上してくるかもしれない。
posted by ヤス at 11:15| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月11日

技術と社会の進化ギャップ

本当に最近の世の中の変わりようはすごいと思う。
しかし考えてみると20年30年昔の頃も、それなりの速度で世の中は変わっていた。

今ふっと思い出したのだが、たぶんわたしが中学くらいのこと。
学校の授業で「ビデオ」を鑑賞するということが始まったと思う。
それまで、小学生の頃にも教室にテレビが置いてあって(各教室全てでなく「視聴覚室」にのみ置いてあったのかもしれない)、時々「テレビを観る授業」というのがあった。
ただそれはあくまでNHK教育テレビの番組を放送時間に合わせてオンタイムで観る、ということであった。

今の小学校とか、その辺どういう感じになっているのかちょっと興味がある。
昔、VHSビデオデッキが出始めの頃は値段が10万円20万円の単位で、録画用のビデオカメラはさらに高かったと記憶しているが、今ならスマホひとつあればこれら数十万円分の機器の機能が得られる。
スマホを使って動画を撮り、その後テレビに繋げてみんなで鑑賞するということも今なら簡単に出来る。

そこいらの視聴覚関係の道具の進化を考えると、学校の授業効率が昔よりかなり上がって先生の負担が少なくなっていてもいいような気がする。
例えば教え方の上手な先生の授業をビデオに撮ってそれで授業を進め、先生は脇に控えていて生徒個々の理解度合いを見たり個別質問に答えたりするような予備校スタイルの授業とかも十分可能だろう。
もっともそういう今風のスタイルの授業は、学校によってはすでに取り入れているところもあるのかもしれないが。

ところが世間で流れているニュースなどからは、学校の先生の負担がたいへんだということばかりが聞こえてくる。
せっかく文科省の定めた要領で授業の内容が「規格化」されているのだから(これは皮肉です)、規格化のメリットを最大限活用して、余った先生の労力をよりクリエイティブな方面に傾注できるようにすればいいのにな、と思ったりする。
まあ、わたしは学校現場の実情を全然知らないのであまり独断的に書くべきではないだろう。

ひとまず思うのは、世の中は便利なツールがどんどん出てきているけれど、会社や学校や役所など社会のいろんなところが技術進化に比例して便利になっているかというと必ずしもそうではない。

役所仕事ではハンコを押した紙の書類は当分なくなりそうもない。
スーパーのレジでお金を払うおばちゃんは、財布から小銭をジャラジャラ出して延々とお金を数えていたりするのも普通である。

こういうタイムラグは昔からあったことではあるが、技術進化がどんどん加速している今日にあっては、そのギャップがますます広がっているようでちょっと心配になることもある、今日この頃であった。
posted by ヤス at 15:08| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月10日

いい加減な地図

25年前、1992年にリュックを背負って中国に旅行した件は過去にも何度か書いた。
それでさっき、どういう拍子か、その旅行の時に現地の地図を手に入れるのに苦労したことを思い出した。

中国旅行の交通手段は、街から街への大移動は鉄道、街の中の移動はバスかタクシーか徒歩である。

2度ほど大移動が長距離バスになったこともあったけれど、それが昔風に言うところの弓矢を背負った匈奴の騎兵が走り回るような砂漠地帯で、確か長距離バスに乗ったのは酒泉から敦煌の間だったと思うが、道はほとんど未舗装のデコボコで、バスは終始砂煙を上げながら走った。
そしてこのバスはフロントエンジンだったらしく、運転手のすぐ横に「点検とびら」があって、運転手は時々そのとびらを開けて、大きな「し瓶」みたいな容器にオイルを入れたのを時々とびらの口から注入していた。
そしてバスは走っている間中恐ろしく激しく揺れ、リュックを壁際に立てかけてあったのだけれど、それが数時間の振動で壁と激しく擦れて、リュックの表面の布が削れて穴が空いていた。

あと、洛陽では駅前で乗合観光バスが客引きをしていて、今から観光巡りするから乗りたい人はおいで、とやっていた。
そういうのにも2〜3度乗ったと思う。

しかし後の「小移動」は基本徒歩だ。
街の中を走る路線バスは行き先がよく分からないのであてもなく乗るには最高だが、どこかに向かおうとするとすぐに迷う。
そしてタクシーは料金が高く、また乗るたびにいちいち「北京駅までいくらで行くか?」などと価格交渉しないといけなくて面倒臭い。

だから5km、6kmくらいなら地図を見ながら歩いて行く方が精神的にはよろしい。
それで鉄道で新しい街に到着したら売店なり書店なりを見つけて街の地図を探す。
地図を探すのだがそれがなかなか置いてないことが多い。

中国語で「メイヨウ」というのは「ありません」という意味だったと思うが、その「メイヨウ」を何万回も聞いた気がする。
また、地図があったらあったでいいのだけれど、それが恐ろしくシンプルなもので特に縮尺、距離目盛が付いてないことが多かった。
略字体で書かれた地名を懸命に解読しつつ行き先までの経路を探るのだが、地図に距離目盛がないのでこの交差点から目的地まで、果たして3kmなのか30kmなのか判然としない。

そういう時はとりあえず歩き出して自分の足で実測するに限る。
たいていの場合、実測で計る中国の諸都市のスケールは想像以上に大きく、たぶん2kmくらいだろうと地図を見て見当をつけた通りの長さが実際には10kmくらいだったというようなことがしょっちゅうだった。

今は中国も近代化が進み、タクシーの価格交渉なんかもなくなっているのかもしれない。
また今はスマホでグーグルマップを使うとか便利な技術もある。
しかしよく考えると中国ではグーグルのサイトは全部アクセス不可なので、地図事情はそんなに改善していないのかもしれない。

いずれにしても旅行するのに地図は重要で、しかしいい加減な地図を頼りにフラフラ歩き回るのもそれなりに面白い(ただしくたびれる)と思った。
posted by ヤス at 08:57| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月09日

スマホの計画的陳腐化

今朝のニュースにiPhone一部機種の「計画的陳腐化」の疑いについてフランスの検察当局が調査を開始したというのがあった。
それでこの間、アップルが「バッテリー保護のために」旧機種での作動速度の意図的な引き下げを行なっていたことを認めたばかりのこともあり、アップル等に対する批判の声が上がっているようである。

しかし今さら驚くのは、スマートフォンのような現代の電子通信機器の場合、作動速度の引き下げがメーカーの思い通りにできることである。
「計画的陳腐化」製品の先輩格である自動車の場合、陳腐化の手法はエンジンのパワーアップや新しく開発された技術の投入、そしてデザインの変更などが主なもので、これらはごく当たり前の陳腐化手法でしかない。
さすがの巨大自動車メーカーでも、市場に出回って走っている旧車種のエンジンパワーを遠隔で下げることとかはできない。
もし顧客が、最近自分のクルマのエンジンパワーが弱ったなと思ったら、それは単なるクレームになって修理を要請されるのがオチだろう。

しかしスマートフォンなんかの場合は少し勝手が違う。
定期的なソフトウエアアップデートの中に「作動遅延プログラム」を仕込んでおいて、少しずつ気がつかない感じで動作を遅くすることも可能なのだろう。
(実際にそうしているかどうかは知らない)
そして新機種の売上を後押しするために旧機種の動作を遅くしてやろう、とメーカーが考えても不思議ではない。

また、スマホなどの電子機器の場合、その技術革新速度が自動車の世界とは次元が違うので、もし手元のスマホの動作が遅くなっても「まあ旧機種だからこんなものかな」と思ってしまって自然に買い替えに走ってしまう気持ちも分からないではない。

自動車の場合この10年で馬力や最高速度など物理的な性能はそれほど向上していないし、向上させる余地もない。
しかし電子機器の場合、現状でもムーアの法則的に性能が倍々ゲームで向上している。
そこにメーカーによる旧機種の動作遅延で最後にそっと背中を押すと、わりかしスムーズに機種変が進むことだろう。

そういうことを考えていると、スマートフォンというのは、購入したと思っているけれど本当は購入後もメーカーの側が依然として半分くらい所有権を持っているように見える。
顧客の購入後も、メーカーは自由に「顧客の所有物」にアクセスしてプログラムの書き換えができる。
それにスマホの支払い方法は割賦方式が主流で、たいていの場合謎の大幅機種代金割引があって、その機種を購入し支払いをしている感覚がなんだか薄い。
あれは実はスマホを本当には所有しておらず、本当には支払いしていなかった、ということのような気がしてきた。

ただ現代のスマートフォンも、あと10年もすれば脳内埋め込み型通信チップみたいなのに代替されて、消えてなくなるのではないかという予測もあったりする。

その時、脳内チップの機種変の方式とか支払い方法はどうなっているのか、かなり気になる。
posted by ヤス at 09:55| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月08日

成人することについて

昨日駅地下を歩いていたら振袖姿の若い女性が何人もいて、ああそろそろ成人式のシーズンなのだな、と思い出した。
それで国民の祝日に「成人の日」というのがあったと思ったが、ちょっと混乱していつが成人の日かよく分からなくなった。
1999年までは成人の日は1月15日の固定だった。
この日は昔で言うところの小正月なんだそうで、江戸時代あたりまで元服の儀を小正月にやっていたことからこの日を成人の日に制定したらしい。
それが政府筋による連休を作る方針によって、1月8日から1月14日の中の月曜日を新しい成人の日にすることに決まったというのは、うっすら記憶にある。

ともかくもこの時期に「成人の儀」を祝うイベントが各地で行われるわけで、高価な振袖が売れたり、恐らくは酒類の販売量も少しくらいは増加するのではないかと思う。
少なくともその点でこのイベントは経済活動の底上げに繋がっている。

しかし個人的には、わたしの場合「節目」不感症なので、数十年前の1月15日も普通に素通りし、その日は普通に街をブラブラしていたと思う。
ここだけの話、アルコール類は20代になる前から若干量摂取していたし、選挙権を獲得して初めて投票ハガキが届いた時は少しだけ嬉しかったような気もするが、しかし真面目に欠かさず投票に行くというほどの政治意識を持つにも至らなかった。

そもそも成人するとはどういうことなのだろう。
犯罪を犯すと顔写真入りで報道されるとか、凶悪犯罪の場合遠慮なく死刑が適用されるとかいうこともあるし、酒・タバコ解禁とかもある。
また選挙権やクルマの免許は20歳に先立って獲得される。
つまり20歳付近の年齢で色々と責任が重くなり、その一方でそれまで禁じられていた各種の権利が解禁される。

そしてこれは各個人の人格的な中身に関わらず、一律の年齢基準で一斉にそうなる。
成人して何十年も経った大人の中にも中身は並みの子供以下の責任能力の人もいるだろうし、若くして並みの大人以上の人格的成熟に到達している少年少女がいることもまた間違いない。

それを言い出すとキリがないので一律年齢で子供と大人の区切りをつけるのだろう。

ところで人間という生き物は、「ネオテニー(=幼体成熟)」といって、大人になるのにものすごく時間のかかる生き物であるらしい。
おそらく生物学的な意味での人間の「成人」は20歳をいくらか超えたあたり、23歳とかそれくらいではないかというのがわたしの説である。
この場合の「成人」は何を意味するかというと、これは生物としての「ピーク」であって、その後は生き物としてただ老化し弱体化の下り坂に入るということだと思う。

ただ人間の場合、20歳以降も知的存在としての成長があり、また医学知識により生物的老化の下り勾配は非常にゆっくりなので、人間的な意味での成長はかなりの期間続けることができる。

というか、20歳までは生物的な成長なので各個人間の差は小さいが、それ以降は人間的成長の期間であって、各個人間の差がどんどん広がる期間に入るということなのではないかと思う。
そういうことを成人から数十年経って今思っても、もう手遅れではあるなあ、と思ったりもしたのでした。
posted by ヤス at 14:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月07日

新しい仕事のプレッシャー

仕事というのは面倒くさい。
辛い、苦しい、そういうもんである。
これは好きが高じてやっているのだろうプロ野球選手やプロサッカー選手なんかを見ても、必ずしも楽しいばかりでなさそうなので、仕事、職業っていうのはそれが仕事や職業になった途端にいくらか辛さや苦しさが伴うようになることはある程度の普遍的事実であると思う。

それでその辛く苦しく面倒くさい仕事の中でも、とりわけ苦しい状況というのがある。
それは今まであまりやったことのないパターンの仕事をやる時で、特にどう段取りしたらいいか、どういう経路でどのようにゴールになだれ込んだらいいか、その終わりのイメージの見当のつかない仕事は特に苦しい。

苦しさを紛らわそうと、その仕事をどうやったら効率的にやっつけられるかアレコレ考えたり、それが完璧に出来上がる様子を脳内でイメージしてなんとかやる気になろうとがんばる。
でも、「やったことのない」という要素は人類にとってよほどのプレッシャーであるらしく、とても気は紛れず、依然として苦しいままである。

あまりの苦しさに、ついほっぽらかす。
そしてやり慣れた仕事をまず片付ける。
そして、やったことのないやり方のよくわからない仕事は、そこにじっと座ってこっちを見据えている。
見据えられるとますます恐れをなして手が付かなくなる。
こうして新しい面倒臭そうな仕事は、しばらく放置されていい塩梅に切羽が詰まってくる。
で、いよいよ締め切りが近づいて絶体絶命的な状況になってやっとコトが動き出す。
しかも締め切り間近で時間がないので完璧に仕上げるなんて絶対に無理である。
想定されるゴールは、とりあえず締め切りまでにその仕事が出来上がったような雰囲気を醸し出すことで、だからどういうアウトプットでその仕事が「出来た感じ」になるかを一生懸命考える。

世の中には「ルーティンワーク」という用語がある。
ルーティンワークは、ともすればクリエイティビティに乏しい簡単な仕事、というニュアンスが感じられ、ちょっと馬鹿にされている可哀想な用語である気がする。
しかし世の中の「仕事」「職業」というのは、ワークの「ルーティン化」ということにあると思う。

どんなことでも毎日やっていると人より上手になって効率よくこなせるようになる。
料理とかは一般人でも普通にできるけれど、それを毎日何時間もやってしかもどうすれば美味しくなるかをいつも考えているような人は料理を職業化することができる。
おそらく何かを職業化するということは、それを毎日ルーティンとしてやって一般的水準より十分に上手になっていることである。

だからルーティンワークはある種仕事の基本線だと思うのだが、しかし最近の傾向として世の中がどんどん変わっているので仕事が安定してルーティン化せず、ちょいちょいやり方を変えないと職業化が維持できない、ということがある。
それで、時々見たこともない新しいパターンの仕事が出現してそのプレッシャーに苛まれることになる。

だから最近の世の中になんとか追随していくためには、突如として出現する新しい種類の仕事に対し、瞬間的にその処理方法をひねり出すようなメソッドを備えておくということが必要で、いわばそのメソッドを「ルーティン化」できれば楽でいいのにと思うが、世の中そんなに簡単でなく、苦しい状況は営々と続きそうだ、と思った。
posted by ヤス at 13:23| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月06日

南極無補給単独徒歩で到達

ネットニュースに冒険家の荻田泰永さんが日本人として初めて南極への「無補給単独徒歩」に成功したとあった。
ニュースには100キロのソリを引っ張って、50日かけて1130kmの距離を踏破したとある。
しかもよくみると南極点は標高2800mだと書いてある。

日本時間の6日にこのチャレンジに成功したらしいのだが、それで気になったのは、これは6日に南極点に到達したということなのか、6日に出発地点の「ヘラクレス入江」に帰ってきたということなのか、ということ。
しかし文章を読む限り南極点に着いたということで、ヘラクレス入江にはこれからぼちぼち帰る、ということのようである。
それでやっぱり気になるのだが、この人、荻田さんという冒険家は、やっぱり単独徒歩で元来たところへ帰るのか、あるいは迎えの雪上車かなんかがスタンバイしているのか、その辺の事情はどうなっているのだろう。

この人は単独行で南極点に着いたということは、現時点で周りに誰もいないのだろうと思われる。
しかも場所は南極。
周りにいないどころか、南極大陸全体として人類が一体何人いるのか。
今ネットで調べてみたら、周辺諸島も加えると夏場で5000人、冬場は1000人くらいいるらしい。
ちなみに南極大陸は面積1400万キロ平米でオーストラリアの2倍という、けっこうな大きさの大陸らしい。
今南極は夏だと思うので、5000人くらいは人がいる。
その5000人が広い南極大陸の主に端っこの方にいる。
南極のど真ん中にいる冒険家の荻田さんは、明らかに周辺数千キロにわたって無人の曠野をまたトボトボ歩いて帰る。

これはなかなか超絶ハードな状況だと思う。
荻田さんは南極点到達に成功して、たぶんつかの間喜んだことだろう。
でも喜びの数秒後には、帰りのことを考えて憂鬱になったりはしなかっただろうか。

ただ朗報もある。
南極点は標高2800m、帰りはおそらく下りなのでいくらか楽だ。
いやその前に50日かけて徐々に登ったとはいえ、行きしは足元の状況が極悪の中2800mも登ったのかよ、と想像すると目まいがする。
しかも100kgの荷物をひこずってである。

ということで、こんなことを思うのは百戦錬磨の冒険家に対して誠に釈迦に説法であるけれど、気を緩めることなく無事に帰ってきていただきたい、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:22| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月05日

相撲と礼儀

最近のテレビはあいかわらず大相撲の問題をやっている。
うちはテレビが無いのでYouTubeで最近のニュースやバラエティ番組を適当につまんで観ているが、本当に驚くほど相撲ネタ続き。
それでこの間は、相撲協会としての貴乃花理事に対する正式な処分が決定し、2階級降格の理事解任ということになったらしい。
相撲協会の組織は詳しくはよく知らないが、最高意思決定機関が理事会で諮問機関的な位置付けで評議員会というのがあるようである。

それで理事会で貴乃花理事の降格が決議されて評議員会に諮られて正式決定となり、池坊保子議長による記者会見発表が行われていた。
その会見をちらっと観たのであるが、そこで報道でもなんども流されていたが、貴乃花理事は理事長からの電話に出なかったりして著しく礼を欠いたということを議長は指摘していた。
貴乃花の理事解任の直接の理由は、暴行事件の報告義務を怠り事後の調査にも協力的でなかったことらしい。
だから「礼を欠いたこと」は処分対象とはなっていいないわけだが、議長の言いぶりではいかにもその点が厳しい処分に繋がったかのように取れる感じだった。

さて、ここでちょっと考えたいと思ったのは「礼」とか「礼儀」とかいうことである。
相撲協会の評議員は、かなり個性的な面々が揃っているようでそれはそれで興味深いが今はそこは置いておく。

わたしは礼儀作法とかいうのは大の苦手で、正しい名刺交換のやり方とかお辞儀の仕方とか今でもよく分からない。
しかしこの世から礼儀などなくなってしまえ、とも思っていない。
「礼儀」にはそれなりの効用があってそれなりに有用だと思っている。

少し考えてみると、礼とか礼儀とかは他人へのリスペクトを表現するためのものだと思う。
目の前の相手に礼儀にかなった作法を見せることで、敬っている気持ちを伝えることが礼儀の目的であるように思われる。
だから本来は他人へのリスペクトの気持ちを持つことが出発点としてあって、その共通の表現方法として礼儀作法の約束事が決まっている、ということなのだと思う。

しかし世の中にはわたしのように他人を敬えない未熟者が多数いて、だからまず形から入るということで他人へのリスペクトがあろうがなかろうがとりあえず礼儀にかなった動作を覚えるということが奨励される。

それで往々にして礼儀は形骸化し、気持ちの込もっていないものになりがちなのだろうけれど、とりあえず気持ちがあろうがなかろうがみんなニコニコして礼儀正しくしていれば当面の諍いは回避できるということなのかもしれない。

だから礼儀の気持ちというのは、自分の心の底から自然に湧き上がってくる場合と、社会を平穏に保つためにとりあえずやっている場合とふた通りあって、それぞれそれなりに有用だと思う。

で、少しだけ貴乃花の応援をしておくと、貴乃花はもう相撲協会理事長のこととか全然リスペクトしてませんよ、という気持ちをもう隠すつもりもなくなっている、ということなのかな、と思ったりした。
しかしいい加減、世の中相撲以外のニュースもやって欲しいと本当に思う。
posted by ヤス at 12:55| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月04日

兵法と老荘思想

日本の戦国時代はいろんな作家が歴史小説に書いている時代である。
で、この時代を代表する歴史的人物は信長・秀吉・家康ということに相場が決まっている。
代表ベスト3のメンツとしては、わたしも異存はない。

しかしこの時代の有名人の中でわたしがいちばん好きなのは黒田官兵衛である。
官兵衛は秀吉による朝鮮出兵中に頭を丸めて「如水軒円清」という号を称するようになる。
だからまたの名を黒田如水ともいう。
こっちの名前の方が、少し高尚な感じがして格好がいい。

官兵衛は幼名から始まって何度か改名していて、「官兵衛」はいわゆる通称であるらしい。
そして最終的な命名であるところの「如水」は、紛れもなく本人が付けたものということになる。
この、自分の出家後の法名に「如水」と付けるセンスがいいと思う。

「如水」というのは「水のごとし」という意味で、つまり形が決まっていなくて、注がれた器の形に沿ってどうにでも変形する、というほどの意味だと思う。
おそらくこの命名の背後には、直接・間接に古代中国の老荘思想の影響があったのだろうと思う。

いろんな歴史小説を読んでいるとたくさんの戦争の場面、いろんな武将や軍師が登場する。
といっても、わたしの場合歴史小説は古代中国と中世以降の日本のものがもっぱらである。
それで中国や日本の歴史小説に出てくる軍師というのは、だいたいにおいて老荘の徒ということに決まっている。
そもそも「孫子」などの古来伝わる兵法書というのは、そのバックグラウンドとして老子や荘子の思想が土台になっている。

老荘思想の対立概念は、この場合「儒教思想」ということになる。
儒教は礼を重んじ、過去の聖王の治世を現世に復元することを至上命題としている。
あるいは葬式や結婚式などから始まって王侯貴族による国家儀礼に至るまで、各種イベントの基本作法を克明に伝承するところに儒教の使命はある。

そういう形式美の世界の反対側に、老荘の徒はいるということになる。

戦争というのはもう何千年も昔から人類はやっていた。
それで大昔は「やあやあ我こそは」とか言って一騎打ちで勝敗を決するような牧歌的戦争もあったけれど、しかし時代が新しくなるにつれて戦争のやり方がだんだん容赦なくなってくる。
それが中国四千年の歴史では、日本などよりも容赦のなさが早くに進んだようで、容赦のない戦争で生き残るには、諸事型にはまっているというのがいちばんいけない。

あらゆる可能性を考えて、裏切りや詐術は当たり前、敵のことはもちろん味方のこともあまり信用し過ぎていると寝首を掻かれる。
だから儒教的思想が脳みそに入り過ぎている人は戦争では不利になる。

話を戻して黒田如水のことだが、「如水」という命名は、前述のような詐術に満ちた世界の第一人者という自負が感じられて、そのことを秀吉あたりはどう思ったか知らないが、この時代としては命がけのユーモアという感じがして小気味がいい。
その辺が、わたしが黒田如水に魅力を感じる理由である。
posted by ヤス at 16:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月03日

人工知能と人間性

人間は他の動物とはかなり違った存在のように見える。
その辺の感覚が人間とは何か、という哲学的テーマの背後にいくらかある。
ところで最近、人工知能というものが出現した。
そしてシンギュラリティのタイミングである2045年頃には、人工知能は人間の能力をはるかに超える存在になるという。
このシンギュラリティ=技術的特異点というのはいまひとつ分かりにくい概念であるが構わず先に進む。

とにかく、人工知能というものの存在が人間探求論争に従来になかった大いなる切り口を与えたのは事実だろう。
ある人は生物進化における「人間性」の誕生になぞらえて、人工知能も自己進化を遂げる中で「人間性」のようなもの、つまり「自我」に目覚める可能性があるのではないか、などと想像したのに違いない。

わたしの好きな映画、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のHAL9000は、木星に向かうミッションの途中、ミッション遂行の使命感から乗組員を次々に殺す。
あの映画のHAL9000は自我に目覚め、主体性を持って、つまりまるで人間のように振る舞っているように見える。
そして生き残った乗組員のボーマンがHALの機能を一部停止しようとするシーンで、HALは「怖いからやめて」みたいに哀願する。

「2001年宇宙の旅」のテーマの一つはたぶん「人間とは何か」だったと勝手に想像する。
HALの存在は、そのテーマのための舞台装置になっている。
ところが続編の「2010年宇宙の旅」で種明かし的な場面があって、HALの開発者のチャンドラー博士がHALには自我のようなものは何もない、と説明するところがあったと思う。

その恐ろしく曖昧な記憶から類推するに、あの映画におけるHALの「自我」は人工知能によるイミテーションであったということなのだろうと思う。
精巧にプログラムされた人工知能は、回路を切られる瞬間にまるで人間のように怖がってみせることができる。
あるいは初期設定として与えられたミッション遂行のためなら人殺しでもする。
その辺の振る舞いがかなり人間ぽい。

でもやはりHALは人間とは決定的に違っていて、それは身体性がないことである。
HALのプログラムは、別のハードウエアに移転してもたぶん以前と同じように動いて、以前と同じ「記憶」を保持していられる。
つまりハードを変えてもアイデンティティを維持できる。

しかし人間の場合、アイデンティティは唯一の肉体と一体不可分で、いくら脳内の「思想」が元気でも肉体が滅びれば死ぬ。
そこが人工知能と人間の違いであり、身体性と一体不可分であることが「人間性」の大いなる源流である、と想像される。

人間は、たくさんの動物の中でほとんど唯一論理性を少しばかり身につけた生き物であると思うが、しかし身体性に拘束されているがために純粋に論理的な存在にはなれない。
多くの場合に論理の結論と違う選択を行うし、デタラメで気まぐれで嘘や記憶違いの甚だしいこと、このうえない。
そういう人間のデタラメさは、真面目な人工知能から見れば眉をひそめたくなるほど酷い。
でも、そういうのが人間だからまあしょうがない。
posted by ヤス at 15:06| Comment(0) | 徒然なるままに