2018年07月18日

視聴率の記憶

視聴率というのがある。
この間のサッカーワールドカップは日本がらみの対戦カードは深夜帯ながら視聴率が30%とか40%とかになっていて、いまだにこんな大きな数字をとる番組があるんだなあと思った。
しかし大昔、50年くらい昔のテレビではNHK紅白歌合戦が視聴率80%とか、日テレのプロレスの力道山が出るやつが60%とか、ケタ違いの視聴率を取る番組がたくさんあったらしい。

わたし自身の記憶でも、子どもの頃の土曜日夜8時はドリフターズの「8時だヨ!全員集合」を欠かさず観ていた記憶がある。
「全員集合」を夜の8時から9時まで観て、その後「Gメン75」が始まってそれを観ながらウトウト寝る、みたいな感じのサイクルが毎週律儀に繰り返されていた記憶がある。

ほんとうに習慣というのはおそろしいもので、よほどの天変地異でもない限り「全員集合」から「Gメン75」の流れは鉄板だった。
そしてそれは他の多くの家庭でもそうだったようで、「全員集合」の視聴率は最盛期はだいたい40%台、最高50%、少し低調になった時代も合わせた平均値でも27%だったらしい。

しかし「全員集合」はいつの頃からか全然観なくなって、ただその時も小学生の間でヒゲダンスが流行っていたりしてまあまあ人気はあったようなのであるが、何か遠くの他人ごとのような感じになってしまった。
なぜ観なくなったのかは今ではよく憶えていないが、やはり小学生、中学生、高校生と成長するにつれ生活習慣も変わるしその中でテレビの観方も変わったのだろうと思う。
あるいはテレビ番組に求める好みも変わったのだろう。
学生時代は先輩の家で焼酎を飲みながら「オレたちひょうきん族」を観てゲラゲラ馬鹿笑いしていた。

でも変わったのはわたしの生活習慣だけではなくて、その頃からだんだんとビデオデッキも普及してきて「録画して観る」方法が広まってきたりした。
あるいはニンテンドーのファミコンが出てきたりしてみんないろいろと忙しくなった。(わたしはファミコンはほとんどやってないが)

そのうち知らない間にインターネット時代になって、最初の頃はISDN回線で動かないページをサーフィンしていただけだったが、今では動画サイトがたくさん出てきて好きな時間に適当に時間つぶしをできるようになった。

こういう時代には「視聴率」的なものはたぶんもう古い。
今の時代に視聴率が有効なのは、ワールドカップみたいにリアルタイムで観る必要があって瞬間最大風速的に日本中が盛り上がる番組くらいだと思う。
そのワールドカップの視聴率だって、以前と比べるとだいぶ下がっている。

あと10年たったら、たぶん視聴率の数字のレベルは現在よりさらに下がるのだろう。
そしていつか消えてなくなる。

と考えると、くだらないテレビ番組しか時間つぶしの方法がなかった大昔がちょっとなつかしく思えたりする。
posted by ヤス at 09:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月17日

セミの季節

しかし、本当に暑い日々が続いている。
いつのまにかセミの大合唱も盛大に始まっていて、クソ暑さに拍車をかけている状況である。

ところでそのセミ、夏だけ見かける昆虫のセミは、7年間地中で過ごしその後樹上に出てきて1週間で死ぬ、みたいな話が流布しているが、ネット記事を見るとそんなに長く地中にいるセミは日本にはいない。
ツクツクボウシで1〜2年、アブラゼミで3〜4年、クマゼミで4〜5年と書いている。

わたしにはどの形がクマゼミでどれがツクツクボウシかまったく判別はできないが、セミの種類でだいぶん「地中期間」が違うのだなとはじめて知った。

ところでこの地中期間は「幼虫期間」でもあるわけだが、そう考えるとセミの場合、生涯の99%以上が幼虫期間ということになる。
でもその期間配分を考えると、地中にいる間に実は大人になっていて、羽が生えて地表に出てくるときは死にかけのお爺さんとして出てくる、という見方もできる気がする。

いったいどうなのだろうか。

セミの場合は地中にいる期間が生きている期間のほとんどを占めるわけだが、地中では木の根っこに張り付いて静かに樹液をちゅうちゅう吸っているだけなので、あまり世界に関する見聞を広めることはできない。
最後の1週間に地面から這い出てきて、この世界の広いことを知り、中にはカラスに襲われたりするのもいて世界の危険なことも知り、最後の最後に今までの分を取り戻すように、地中の何倍速もの速さで人生を学び(「蝉生」を学びかな)、そういう意味では地表に出てから初めて大人になるのかもしれない。

それにセミの場合は羽があって空を飛べるのもポイントが高い。

セミのような超極端な大器晩成も、なかなか劇的でいいかもしれないと思った。
(でもやっぱり大人の時間は長い方がいい。暑いといろいろ考えが乱れる)
posted by ヤス at 09:15| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月16日

MacBookの脆弱性

今この文章をMacBookで打っているのだが、どうもキーボードの調子が悪くて調子が狂う。
症状としてはキーボードの「P」がおそろしく反応が悪くて、少し押したくらいではうんともすんともいわない。
それで渾身の力を薬指に込めて数秒間「P」を押し続けるとやっとこさ反応して、液晶画面に「P」の字が現れる。
今こうやって「P」と打つたびに渾身の力を数秒間込めているのであるから、そういうけなげな努力を続ける自分を、自分で褒めてあげたい気分である。

また「P」以外にも「i」(こちらはなぜか小文字で表記することにする)もやや反応が悪い。
少し急いで「タイピング」と打とうとすると「P」と「i」の反応の悪さが邪魔をして「タング」となる。
あるいは、「i」だけ反応して「隊員具」(どういう意味だよ)となる。
このMacBookは2016年モデルで、1kgを切る軽さと小さすぎないサイズ感、打鍵感のよいキーボードなどが気に入って、主に文章を打つ用に購入したものである。

CPUスペック(「CPUスペック」には「P」が2度も登場して打鍵に苦労したぞ)はかなり控えめで、それでも文書を打つくらいのことなら差し支えあるまいと思っていたわけであるが、たしかに文書を打つ限りにおいては、性能の低さは気にならずそこそこ気に入っていた。

ところがここへ来てのこのキーボードトラブル。
ネットを調べてみると、このキーボードは最近のMacBook Proなどにも採用されている新世代キーボードであり、薄いくせに打鍵感が良いのが売りだそうだ。
ところがあまりに無理をして薄くしすぎたのだろう、アメリカでは同様のトラブルが多発してそれに怒ったユーザーが集団訴訟を起こす騒ぎになっているらしい。

いや、わたしもほんとう、その訴訟に加わりたいくらいかなり頭に血が上って来た。
(こうやって打っているうちに「U」も微妙に調子が悪いのに気がついた)

技術的に無理をしてトラブルになるのは、戦争中の大日本帝国の航空機エンジン・中島飛行機「誉」みたいだ。
誉エンジンも当時の日本の乏しい技術力の中、設計に無理を重ねて、軽量小型に高回転型の高性能を目指し、結果トラブル続発で現場の整備兵を泣かせたのである。

それで、アップル(「ップ」を打つのがものすごくむずかしいぞ)のサイトに出ていた対策として、エアダスターでキーボードの中に入り込んだホコリを吹き飛ばす、というのをやったが効果はない。

エアダスターで整備をするなんて、清掃に圧搾空気が必須の、アメリカ軍がベトナム戦争から大量導入したM16ライフルみたいだ。
M16ライフルは近未来的な外観から多くの無知な兵士がメンテナンスフリーと勘違いして実践時に弾詰まりが多発した。

まあどんな兵器も日頃のメンテナンスを怠るといざという時に役に立たないわけで、そういう意味では今までノーメンテでMacBookを使って来たわたしにも責任はあるのかもしれない。(MacBookは兵器ではないが)
が、それにしもてこの薄型キーボードはちょっと脆弱すぎるのではないか。

ということで、これからはなるべく「P」の付く単語は避けて文章を書こうと思っている今日この頃なのでした。
posted by ヤス at 15:09| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月15日

災害対策にドローン輸送の可能性

個人的にドローンの将来に期待している。
人を乗せられるくらい大型の電動ドローンで都市交通の一翼を担おうという構想は世界中で研究が進んでおり、ひところは中東のドバイで実用試験間近というニュースも流れていた。
またアマゾンがドローンによる物流の構想を表明したのは2013年のことだったらしい。
その後アマゾンは2016年にイギリスで実証実験も行っているが、現在に至るまで実用化の目処は立っていないようだ。
また日本でも楽天がドローン輸送の実証実験を行っており、こちらは秩父の山間部で高架電線を利用して飛行ルートを設定し、弁当の配達に成功したという。

ドローンの機体開発に関しては有人タイプの飛行デモも多く行われるようになっており、荷物専用の大型機も旅客機メーカーのボーイングが230kg積載して30km飛行可能なものを開発するなど、ほぼ実用可能なところまでできあがっている。

ただネックとなるのは関連する法律の整備、そのための実験データの蓄積、そして墜落など万が一の事態に備えた安全性の確保であることは間違いない。
最近のドローンが、ヘリコプターみたいに大きな回転翼がひとつふたつのタイプより、小さいプロペラが10個も16個も付いたようなタイプが多いのは、プロペラ、モーターのどれかが壊れても大丈夫なように、という配慮からだろう。

そのうち日本でも、安全性を検証した上での実証実験が各所で行われて大型のドローンが荷物を運ぶ姿がたびたび見られるようになるのではないか、と期待したりもするのであるが、ただし日本の市街地はいまだに電柱が林立し電線が錯綜しているのでドローンが飛ぶには危険過ぎるかもしれない。

そうやって考えると輸送用のドローンがまず活用できそうなのは、人口があまり密集しておらず障害物が少ない過疎地の田舎になるかもしれない。
公共交通も不便で自動車も運転できなくなった高齢者が、ちょっとデイサービスまでの移動手段として有人ドローンを使うとか、スーパーに買い物に行く代わりにドローンでの配達を利用するとかは十分ありだろう。

また現在も先日の大雨被害の復旧作業が続いているが、このような大規模災害時、道路寸断や渋滞で陸の孤島になった地域に緊急手段としてドローンで荷物を届けるとかは現状の技術で可能ではないか。
既存のヘリコプターは機数が限られ運行コストも高額で小回りが効かない。
今後も大雨や地震災害は定期的に発生が予想されるので、この部分に特化したドローン活用の法律を整備し体制を整えたらどうかと思ったりする。

そうやっていろいろ考えていると、輸送ドローンがさっそく活躍できそうなのは軍事利用である。
先述のボーイングが開発した大型ドローンも軍事用を見据えているのだろう。
実際に軍事用のドローン輸送システムは開発が進んでいて、今後は戦争で鍛えられたドローンの技術が民生用に降りてくるという感じになるのかもしれない。
それはそれでやや複雑だが、今後のドローンの活躍に期待したいと思っている。
posted by ヤス at 12:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月14日

シート倒していいですか問題

最近時々新幹線やバスの座席を倒す時に、後ろの人に「倒していいですか」と確認した方がいいとか、別にしなくてもいいじゃないかとかいうのがネット上で話題になることがある。
どこかのバス会社で、出発するタイミングとかで運転手さんが「みんなで一斉にシートを倒しましょう」みたいなことを言って、それで乗客がみんな気兼ねなくシートを倒せて神対応、みたいなのがニュースで流れていたこともあった。

そういうわけで、現在世間的にこのような乗り物におけるシートリクライニング時に、後ろの人に声をかけた方がいいのかどうかがかなり重大な問題となっているわけであるが、実を言うとわたし自身は後ろの人に確認したことはたぶん一度もない。
たまに新幹線とかに乗って前の人がシートを倒すことがあり、中には「倒します」と丁寧に確認いただくこともままあるわけだが、わたしとしては別に確認や了解なしにシートを倒したら許さん、と思ったことは一度もない。

第一、新幹線のシートはよくできていて、背もたれのところにある小さいテーブルとかも前の人がシートを最大に倒そうが全然位置が動かないようになっている。
またシートの前後間隔もシートのリクライニングを考慮して設計されているに違いなく、前の人が最大角度まで倒したところで後ろ側のわたしとしては、狭くて苦しいとかも一切ない。

電車の設計をする人も運用しているJRの人たちも、おそらく誰一人リクライニングの時に後ろの人に確認しろとかは思っていないはずなのである。
にもかかわらず確認する人が絶えないのは、これはもっぱら乗客側の都合によるということになる。

これはあくまで想像だが、ある時お客さんがシートの前後に座っていて前の人が黙ってシートを倒して、その時後ろ側の人が無言で倒れてくる目の前のシートの動きを見て少々イラっときて、「俺様の了解なしにシートを倒しやがって」と思って、「チッ」と舌打ちをしたりしたんじゃなかろうか。
その舌打ちが前の人の耳に入って、それでビビってそれがトラウマになって、以来その人はいちいち後ろに了解を取るようになったのではないか。

つまりこれは後ろ側の人が、箸が転んでもイラっとする、目の前のシートが自分めがけて倒れてきたらさらにイラっとする、という世間的なイライラ問題なのではないか。

この「シートを倒していいですか」といちいち聞いてくる人というのは、東京方面の品のいい紳士とかが多いような気がなんとなくするのだが、逆にそういう人は日頃から世間のイライラに晒されて常に防衛的になっているのかもしれない。

しかしクソ田舎に生きるわたしのような鈍感な人間は、後ろの人のイライラに一切頓着せずに平気でシートを倒すことができるのは、田舎暮らしの最大の効用ではなかろうか。

というのは少し違うかもしれないが、あまり何でもイライラしないのは、重要な人生のノウハウであることは間違いない。
posted by ヤス at 11:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月13日

血液型占いは下火になったのか

最近、A型はまじめだからどうしたとかB型はいいかげんだからどうとかいうような、いわゆる血液型占い的な話を聞くことが少なくなった気がする。
従来から血液型占いの撲滅をひそかに念願していたわたしとしては、少しうれしい。

ただ人間というものは、いつでも何かよりどころを欲する生き物であるようで、だからいつの世にも占いとかのたぐいはなくならない。
O型はおおざっぱとかAB型は分裂症ぎみとか、とりあえず4つの血液型である程度その人物の傾向と対策を確定することができると、そこに至る人物判断のための思考が節約できて楽チンだ。
しかも血液型による性格類型は幅広く世間的に共有されており、A型だからどうだとかいうと、「わかるわかる」と他の人もそれに共感するようにできている。

血液型占いというのは、結局これは人物分析をやりたかったのではなく、その実体は知り合い同士で共感を得るためのコミュニケーションツール以外の何ものでもなかったのだ、と思う。
ところが世の中には人物分析のための血液型占いをいまもってかたくなに信じている人がいて、それも会社の社長とか国会議員とかそれなりの社会的地位にいる人だったりする。
そういう人は、血液型を参考にして社員の処遇や対人関係をやりくりしたりしているのだろう。


ここでもうひとつ思うことは、人間関係とか人物対応とかにおいては根拠のない血液型を使おうが使わなかろうが、結果にそんなに差異はないのではないかという点である。

出典はよく知らないが、フランスとスペインの国境地帯にあるピレネー山脈で遭難した登山隊の話がある。
山中で雪崩にあって装備をあらかた失い、死を覚悟した登山隊の中の一人がポケットから取り出した地図を頼りに、隊長はその地図を懸命に読んで下山ルートを探りそのルートに従って進んでなんとか無事生還するが、帰ってからふとその地図を見たらそれはアルプスの地図だった、というお話。

結局のところ正確な情報をせいいっぱい論理的に解析した上で行動するのと、いいかげんな情報をもとに適当に考えて行動するのとでは、実は得られる結論にほとんど違いはないのではないかということだ。
現実世界の人間の行動では、緻密かつ厳密に論理的な計画はあまり頼りにならなくて、それよりは行動しながらの臨機応変の方が結果に重大な影響を与えうる。

だから血液型で人を判断しようがしまいが、未来の結果にたいした影響はないのだろう。
だとすればなおさら、根拠もなしに人の性格を決めるのはやめた方がいいに違いない。

実際いろいろ人と接していると、ふとした時に当初思っていたのとはずいぶん違うな、と感じることが多々あるものであり、そういう意外性を見つける面白さにとって、根拠なき決めつけほど害悪になるものはないのである、と思う。
posted by ヤス at 09:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月12日

人類の基本生態

最近の学説では、ホモ・サピエンスつまり現生人類は基本生態として「一夫一婦制」だったことが有力になっているらしい。
一夫一婦制による子育てがある種のアドバンテージになって、進化競争上有利に働いたということのようだ。

わたしはそれまでは、現生人類もチンパンジー型の「乱婚制」をベースにして子育てをしてきたのではないか、と勝手に思っていたので最近の学説に対する衝撃はかなり大きかった。

一夫一婦制においては、父親も子育てに参加することになるのだろう。
「ネオテニー」的な人類は出生から「成獣化」まで時間がかかり、そのため父親も参加して手厚い子育てをした方が子どもの生存確率が上がるということなのかもしれない。

チンパンジーのような乱婚制だと、子どもは基本的に「父無し子」として生まれるので子育てはもっぱら母子家庭で行われることになる。
一夫多妻制における社会でも、たまにボスザルも手伝ったりするのかもしれないが母親のみによる子育ては乱婚社会と同様だと想像される。

現生人類の基本生態が「一夫一婦制」だとすると、アラブの方の一夫多妻社会はどうなんだ、という話にもなるのだが、あれは人類特有の文化的多様性ということになるのかもしれない。
あるいは最近は(昔からかな)、父親のいない子どもとか、もっと言えば母親も蒸発して両親のいない子どもとかも少数だがいる。
野生状態なら親とはぐれた子どもはそのまま生きて行くことは難しいだろうが、人間の場合、役所とか慈善団体とか親切な他の人がたいていの場合助けてくれる。
フランスとかの場合、20〜30年前と比べるとシングルマザーの比率が急激に増えていて、全体の半分以上がシングルマザー家庭の子どもになっていたりする。

そんなこんなで人類の場合、文明化による文化的多様性とか社会システムによる「子育て支援」の機能も働いて、人類の基本的生態としての一夫一婦制は、もはや野生状態におけるレガシーシステムであって、現代人には必ずしも必須の「生態」とは言えなくなっているような気がする。

先進国では例外なく少子化が進行して、人類は文明の進行とともに野生状態におけるデフォルトであった一夫一婦制からだんだん離れて行っているようにみえる。

わたしは別に野生状態に戻ろう、ということを言いたいわけではない。
かといって子どもを社会の共有財産として共同して育てよう、とかいうつもりもない。
(これは共産主義のめざしたかたちである)

人類は野生状態における各種の「くびき」からずいぶんと自由になったんだな、ということを思ったまでである。
今後人類の家族のかたちや社会システムはどのように変化していくのか、というのは、わたしが心配してどうにかなるような話でもないが、でもやっぱり野生状態の形態からは離れてどんどん自由になって行くのではないか、などと思った。
posted by ヤス at 14:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月11日

人を見る

どこかの病院で看護師の人間が、点滴に消毒液を混入させて患者を殺害していたというのが流れているが、患者を助けるはずの病院で人殺しをする人間が働いていたのはかなりの衝撃だ。
容疑者はすでに自供を始めていて、それによると20人くらいにやったらしい。
しかし別の報道によるとこの病院では過去に不審なかたちで死亡した患者が48人いたとかいないとかいう話もあるらしい。

この事件の真相はよく分からないので以下わたしの想像により、あくまで一般論として考えてみると、全国には多数の病院・医院があって大量の医療従事者が働いているわけで、確率論的に考えればその医療従事者の中に人殺しをするほどに精神を病んだ人間というのも、数人か数十人か知らないがいるのだろうと思う。
それで時々、それらの病んだ人間が事件を起こしてニュースになる。
おそらくは病院で働く医師や看護師やその他の関係者というのは、基本的には全員が使命感を帯びて日夜仕事に励んでいるに違いない。
ただその中に、例外的に病んだのがいて事件を起こし病院全体の信用を貶めることが発生する。

こうなると患者サイドにいる我々としては、この病院にはひょっとしておかしな人が働いていないかとか、かすかな不安が湧き上がらないとも限らない。
そういう時には目の前にいる医者なり看護師なりを見て、この人なら信頼できそうだという自分の感覚に頼る他ない。
まああまりそんな心配をして病院に通っている人はいないような気もするのだが、それはやはり普通の人には「人を見る目」があって、日常生活においては病院で猟奇事件があったという抽象的な情報より、自分の「人を見る目」による直接具体的な情報が優先するという状況があるからに違いないのである。

さらに考えてみると、病院に限らず人を殺したりするようなやばい人間というのはこの世の中には一定数存在していて我々はそのこともよく承知している。
ちなみに日本国内の最近の殺人被害者数は年間400人弱で1990年代の約800人から半分以下に激減している。(人口100万人あたり3人くらいの割合である)

減っているとはいえやばいやつが多いこの世の中で、普通の市民が曲がりなりにも平穏な生活を送れているのは、めいめいが「人を見る目」を働かせて目の前の人間を信頼できる、そのような能力を日々働かせているからこそと思う。(たまに信頼できないやつも出現するが)
そういうことで考えると、目の前の人間を見て信頼できると思えるかは、我々の生活の平穏を保つ上できわめて重要な要素だという気がする。

それは同様に自分自身が他人から見て信頼できる人間に見えるか、という問題でもある。
そんなこんなで、これから鏡を見ながら「信頼されそうな表情」の練習でも始めようかと思っている。
posted by ヤス at 11:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月10日

汗をかいて水を飲む

わたしは日頃、ドラッグストアで2L入りのペットボトルの水を買って飲む。
毎日まあまあの量を飲んでいると思う。
特に今のような夏場には、よく汗をかくので飲む量が増える。

よく汗をかくのにはそれなりに理由があって、ジョギングをするとか家であまりエアコンをかけないとかいうことで汗腺から吹き出る汗の量が増えている。
マツモトキヨシで買う2Lのペットボトルは値段は70円ほどでたいして高いものではないのだが、それでもよく考えてみると、わざわざ大量の汗をかいてそれを2L当たり約70円のコストを払って補充するのは、なにか無駄なような気がしてきた。

ただ同様に、運動して腹が減って余計にメシを食うとか、あるいは遊び回って散財して、それをいつもより余分に働いて散財分を補填するとかした場合、日本のGDP的には成長方向に向かうことにつながるので、悪いことばかりではないかもしれない。

世の中の人がみんな家でじっとしていると、GDP的に困ることになる。
じっとしているよりは、歩いたり走ったりドライブしたりして、腹を減らし散財して、それを補充するというサイクルを回した方が日本の経済は活性化する。
そうやって考えてみると日本の経済成長は、国民の多くがいかにじっとしていないか、その辺をウロウロして汗をかいているか、いつもより余計に腹を減らしているかということにかかっているのであろう。

最近はガソリンが高い。
ガソリンが高いのでいきおい、車を運転するときになるべく走行距離を減らすことを考えてしまう。
そういうケチ臭いことを考える人間がどれくらいいるかよく知らないが、こうガソリン価格が上昇すると日本全体としての車の走行距離にかなりの影響があることは間違いあるまい。
だが日本経済のためには財布が軽くなるのに臆せず、みんなガンガン走った方がいい。

しかし一方で、人類の活動は地球環境に大きく影響する。
最近はプラスチック製ストローの規制とかが話題になっているが、ストローに限らず、ペットボトルの水をガンガン飲むのだってなにがしか環境に影響があるだろう。
メシをたくさん食えば生態系に影響があり、ガソリンをたくさん燃やせばCO2も排気ガスも出る。
この三段論法をまとめると、人間がガンガン活動すると環境に少なからず負荷がかかるということになる。

人間はじっとしているよりは活動的であった方が精神衛生的に好ましいし、現在の資本主義は成長状態の維持が絶対的な存立条件になっている。
だがそのことが有限な地球環境に大きな負荷をかけている。
そういうことを少し思いながらさきほどコップ一杯の水をぐいと飲み干した。
また2Lのボトルがひとつ空になりそうなので、マツモトキヨシに行かねばと思った。
posted by ヤス at 10:49| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年07月09日

リスクの中に住む

塩野七生の著作「ローマ人の物語」に書いていたことで、古代文明都市のローマがテベレ川沿いの「七つの丘」から出来上がったというのをちょっと思い出した。
七つの丘は、文明都市のローマが始まる以前から人が住み始めていたらしいが、都市の成立後はここに神様が祀られたりして象徴的な役割も果たすようになったようである。

ローマの母なる川であるところのテベレ川はぐねぐねといたるところで急なカーブを描きながら地中海に注いでいるわけだが、その蛇行のようすを見るに、たびたび氾濫を起こしてローマ市民を悩ませただろうことが推測される。
この一帯で人が最初に定住を始めたというのが水害の及ばない丘の上だったというのは、そういうテベレ川のリスク対策ということもあったのではないかと勝手に思っている。

人類が猿と違っているポイントはいくつもあると思うが、他の獣などと比べてももっとも違っていることのひとつは「どこにでも住む」ということだと思う。
人類は出身地の暑いところはもちろん、北極圏周辺の極寒の地にも多く分布している。
あるいは現在の日本列島のような、地震や火山活動の盛んな場所でもかまわず住んでいる。
人類が散らばっていった先々で直面するリスクは天候や地質的なもの以外に、ライオンやトラやヒグマやオオカミなどの猛獣類などももちろんある。

人間は技術が進んで、気温の高低に対しては家屋や衣類やエアコンの工夫で乗り切ることができる。
あるいは猛獣などの天敵に対しては、弓矢や鉄砲でいつしか彼らを圧倒できるようになった。
そういうことで、自然状態の人類にくらべると現在の文明下の人類はかなりリスクを少なくして暮らすことができている。

ローマ人も安全な丘の上でずっと暮らしていれば良かったのになあと思ったりするのだけれど、やっぱり文明化が進むうち、川沿いの平地とかにもどんどん建物を建てて生活圏を広げて行く。
たぶんあぶないのは承知の上だ。
そういうリスクのあるところにもどんどん広がって行くのが人類というもののサガであると思う。
というかリスクのない住み場所というのは基本的にはこの世にないので、あんまり気にし過ぎも楽しくないとは思うのだが、その住み場所のリスクのことをいつも頭の片隅に入れて暮らすようにしないといけないのだなあ、と思った。
posted by ヤス at 12:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月08日

今朝の旭川

今朝の9時前後に旭川の河川敷、岡山城付近(後楽園付近ともいう)を歩いてようすを見てきた。
以下はその記録である。(事実のみを羅列し、オチも何もない)

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本来ならこの先に川をわたる橋があるのだが、今朝は当然ながら、ない。

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ランニング走路の脇の土の部分は濁流に削られて深いわだちができている。

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画面中央の黒い点(川の向こうのちいさい黒い点だ)は鵜である。鵜もぼうぜんとしている。

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濁流に削られて川のようになった走路脇の土の部分。

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少し上流に行くともう走路は見えない。あえてここを走ると水中ウォーキングになる。

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アスファルトは水面下に没している。

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砂まみれの走路。掃除がたいへんだろう。

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この表示の意味がはじめてわかった気がする。

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さらに上流では、あぶなくて水中ウォーキングもできまい。

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土手上道路からのアプローチは水面下に続く。

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にゅるっと気持ちわるい泥がアスファルトの上にたまっていた。

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掃除がたいへん。

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ここも本来なら散歩中の犬とかが遊んでいたはずなのに。

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ひたすら濁流が流れる旭川。

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真ん中にある白っぽいのは水中に取り残された案内板だ。

以上今朝の旭川の河川敷のようすでした。
posted by ヤス at 12:20| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月07日

艦上攻撃機「流星」に思うこと

旧日本帝国海軍の軍用機に「流星」というのがある。
正式名称を「艦上攻撃機流星」という。
十六試艦上攻撃機として昭和16年に開発がスタートし、昭和17年12月に初飛行したがその後開発が難航し1944年からなし崩し的に量産にとりかかったが、当時発生した東南海地震やその後のB29による空襲などで敗戦までに生産されたのは110機あまりに過ぎない。

この機は名称が示す通り航空母艦上で運用される艦載機であり、魚雷を搭載して敵艦船に雷撃を行う「攻撃機」の役割と、徹甲爆弾を搭載して急降下爆撃を行う「爆撃機」の機能を併せ持っていたとされる。
その当時、日本海軍はもちろんアメリカ海軍でも雷撃機と急降下爆撃機は別の機体を開発して当てており、攻撃機(雷撃機)は重くかさばる魚雷を搭載するので機体も大きく重くなり、急降下爆撃機(爆撃機)は敵の対空砲火を突っ切って爆弾を投下するための機動性を確保するためなるべく小型で小回りの効くように作られていた。

それが戦闘技術が進化していって、大型の雷撃機にも俊敏な機動性が必要になり小回りの効く急降下爆撃機にも大型爆弾の搭載が必要になって両者の差異がなくなったので、「流星」は初めてこれらの機能を統合した機種として作られた。

「流星」は決戦発動機の中島飛行機製「誉12型」エンジンを搭載し、零戦と同等の高速性能と太平洋上をどこまでも飛び続けることのできる大航続力を備えていた。
たいへんな高性能機ができたわけであるが、ひとつ問題があって、それは「流星」がものすごく大きく重くなった(重量6トン弱)ことで、当時の帝国海軍の航空母艦で運用できるかどうかのギリギリのサイズだった。

かたや敵国のアメリカ海軍の主力攻撃機TBFアベンジャーは約8トンの巨体だったが、こちらの方は9800機ほど製造されて日本の艦船を遠慮なく沈めていく。
結局のところ「流星」が戦力化された時にはこれを搭載可能な大型空母が一隻も残っていなかった。
だから「流星」は敗戦間際に陸上基地で運用されて少数が特攻に使用されただけで、その有り余る高性能を発揮する機会はほぼなかった。

「流星」は「く」の字に折れ曲がった主翼の形も無骨で、プロペラ直径も日本機離れして大きく、非常に格好いい。
だが当時の帝国海軍空母の貧弱な装備(着艦制動索など)では、「流星」をとどこおりなく運用するのは難しかったのではないか。
本来なら大型機を運用可能な空母装備をまず実用化し、しかる後に高性能な大型機を開発するのが順番だと思うのだが、70年前の日本の国力では爪先立ちするように無理してなんとかかんとかシステム上はアンバランスな高性能機をつくるのが精いっぱいだった、ということだろう。

このことは次の教訓を示している。
それをたとえるなら弓矢の「矢じり」だけがいくら鋭く殺傷力が高くても、土台になる弓の強さやそれを射る射手の腕力が貧弱ならせっかくのするどい「矢じり」も宝の持ち腐れになるということである。

まったく、鋭い矢を射るためには土台が肝心ということを、艦上攻撃機「流星」を見ると思ったりするのだった。
posted by ヤス at 17:06| Comment(2) | 徒然なるままに

なんか岡山周辺は大雨でいろいろひどいことになっているようだ。
7月7日午前11時前には、岡山市中心部の雨は止んでいる。
また、この辺では特に大きな浸水などはない。
posted by ヤス at 11:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月06日

タイの洞窟の事故

タイの洞窟でコーチを含むサッカーチームの少年たちが閉じ込められている件。
閉じ込められてから今日ですでに2週間になるらしい。
無事が確認されて映像で見る彼らの姿は、ものすごく痩せてやつれているように見えたのだが、とりあえず全員生きていたというのはものすごくよかったと思った。
思うに、閉ざされた狭い空間の中、とぼしい食料を食いついないで2週間を過ごした状況は広々とした「外界」にいる人間には想像を絶するものがある。

コーチは僧侶の経歴も持つ25歳の人物ということだが、おそらくタイ人の少年たちもめいめい敬虔な仏教徒なのかもしれない。
手を合わせてするタイ式の挨拶をする姿が印象的であった。

ひとつ間違えばパニック状態に陥りかねないこのような極限状況下では、確かに彼らの宗教的バックボーンというのは非常に役に立ったのだろう。
それはひとことで言ってしまうと「祈り」の力であると思う。
祈ることによって外界につながる穴が開いたり溜まった地下水がなくなったりするものではない。
ただ、祈ることは祈り手自身に作用して事態を好転させうる。
それが祈りの効果なんだろうと、神も仏も信じないおじさんは思うのである。

このタイの事故で思い出したのだが、吉村昭が書いた小説「漂流」というのがある。
これは江戸時代に4人の水夫を乗せて土佐を出帆した船が暴風にあって難破し、黒潮に流されて600kmも離れた無人島に流れ着く話である。
主人公の長平は、仲間が次々と死ぬ中で経を唱え、島での日常で神仏に祈りながら生き延びる。
やがて数年おいて大阪と薩摩から船が漂着。
その島はアホウドリが群生する鳥島で、その肉を食い雨水を貯めて飲料水としながら彼らは命をつなぐ。

樹木がまったく生えない南海の孤島で、長平はあとから漂着した十数人と数年がかりで流木や破船の残骸を集めて小舟を作り、島を脱出するという物語である。
この時長平は、12年半もの間人類文明のまったく及ばない無人島で生き続けた。
気力を失って病死したり、精神を病んで自死するものが相次ぐ中で長平を生きながらえさせたのは祈りの作用だったと小説は描写している。

また、数年かかって安定した生活方法を確立したのちに寄せ集めの材料で船を作って脱出するわけであるが、ボロ船で大洋に出るのは無人島に居続けるのよりは当然死亡するリスクが高い。
そこをあえて危険をおかして文明社会に帰り着こうとする人間の気持ちというのも、非常に興味深いものがある。

タイのサッカー少年たちには無事を祈るくらいしかできることもないが、せっかくがんばって助かった命であるからここは慎重に時間をかけて、元気で帰ってきてほしいと切に願う。
posted by ヤス at 13:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月05日

負けて辛辣になる

昨日勝負で負けるのがつらいことについて少し言及した。
それで思うのだがこの1日2日の間、サッカー日本代表チームへの声が「よくがんばった」モード一色なのは少し緩すぎるんじゃないか。
それでもやっぱりセルジオ越後は辛辣に苦言を呈していたのは期待通りだったのだが、しかし流れるニュースがことごとく「よくがんばった、感動をありがとう」なのはいかがなものか。

これが常に優勝争いを義務付けられたブラジルやドイツなら、負けて帰ってきて「よくやった」とはならないはずである。
そこが日本サッカーの弱さの証拠というか、いわゆる「強豪国」の一角を占めるに至らない原因のような気がする。

曲がりなりにも日本はこのところW杯に連続出場しており、また今回の「公式」の目標は過去最高のベスト8進出だったような気がする。
ベスト16で終わった大会結果は、実は多くの人々の期待に届いていないのだと思う。
無論、日本の実力がそこまで到達していないとか、直前に監督が変わったハンディキャップとか「よくがんばった」と思ってしまうことの根拠はいくつかあるだろう。
考えようによっては予想外によくがんばった、ということなのかもしれない。

しかし同じ日本で他のスポーツ、例えば柔道とかレスリングとか日本が強い競技でこうなるかというと、たぶんそうはならない。
「よくがんばった」とねぎらう意見もあるにはあるだろうが、少なくない人々がもうちょっとがんばり方があったんじゃないかとか苦言を呈するはずなのである。

今回のサッカーの結果でも、確かによくがんばったような気もするけれど、しかし世論の大半がそちらにふらふらと流れるのではなくて、せっかくいいとこまでいったのになんで勝ちきれないのかとか、負けて傷心の部分をわざとえぐるような辛口の意見がもっとあっていいと思う。
負けたらまあ世論の半分くらいからそういう辛い意見が出るようにならないと、土壇場のひ弱さみたいなものが克服されない気がする。

おそらくその辺が次回大会の課題になると思うのである。
ということで、4年後に日本が出場しているかどうかが最大の問題であるが、日本人でも外国人でもいいから早く体制を整えて、選手だけでなくファンも含めた日本の「サッカー環境」が、もうひとまわりふたまわり進化して強豪国ぽくなればいいなあと思った。
posted by ヤス at 09:36| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月04日

勝負のメンタル

日本代表のサッカーW杯も終わって、世の中的になんだか一段落した気分がただよっているようである。
スポーツ競技には勝ち負けがつきものであるので、ふたつのチームが対戦すれば必ずどちらかが勝ち一方が負ける。
そういうことでスポーツの結果はメンタル的に非常にきつい。
負けた場合その事実を飲み込むのにかなり体力を消耗する感じがある。

話はまた変わるが勝ち負けということでいうと、この間将棋の藤井聡太七段が高校生になってからの初黒星を増田康宏六段に喫した。(その後の対局が昨日あり無事勝って連敗は逃れた)
増田六段は昨年藤井七段が29連勝目をあげたときの対戦相手である。
そのあと藤井七段は30連勝目を賭けた戦いで佐々木勇気六段(当時五段)に敗れるのだが、その対戦が今回増田六段に破れた竜王戦決勝Tの2回戦というのも何か因縁を感じる。

藤井七段が増田六段に敗れたのは、増田六段が強かったからというのももちろんあるが、藤井七段の側にも昨年の連勝途絶の一戦が少し頭によぎったのではないか、そんな気がする。
藤井七段は増田戦の終盤、1分将棋の秒読み中にいったん桂馬を打ったのをあわててやめて飛車を打ち直すという「待った」疑惑の一手を指している。
秒読みでバタバタするのはこれまでにも何度かあったが、ここまで慌てたのは初めてのような気がする。
その辺は藤井七段の少年らしさがかいま見えて、おじさん的には少しホッとしたりもした。

しかし考えてみると、勝負事で一喜一憂してメンタル的に疲れるというのは、確かに疲れるのではあるがしかし必要不可欠なことの気がする。
世の中には、勝っても負けても眉ひとつ動かさない冷静沈着な勝負師もいるにはいる。
メジャーリーグで活躍した野茂英雄とか、イチローとかはそういうタイプに一見思える。
だがそういうタイプの勝負師でも、心のうちは燃えたぎったり落胆したり喜んだり、内心は実は人並み以上に揺れているんじゃないかと勝手に想像する。
一流の勝負師は決して氷のメンタルを持ったサイコパスではなく、激しく心の揺れ動く人なのではないか。
揺れる心をトレーニングによって制御し、平静を装って見えるだけなのではないかというのがわたしの仮説である。

それは単純なポジティブシンキングとかネガティブ思考とかいうのでもないと思う。
勝負師のメンタルは、基本はポジティブであってもネガティブな心配性の成分も一定量必要に違いない。

W杯で負けた選手たちががっくりうなだれる姿とか、藤井七段が負けてくやしい気分を一生懸命飲み込んでいる(ように見えた)のを見ると、こういうのが勝負の世界なのだなあ、と勝手に思っていたりする。
posted by ヤス at 10:50| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月03日

読解間違い

インターネット時代における大きな課題のひとつに「読解力」があると思う。

人と人とのコミュニケーションというのは、いうまでもなく「ことば」によって媒介される。
しかし面と向かって誰かと喋っている時というのは、相手の表情とか声色とか身振り手振りとか、いわゆる非言語的な伝達によって思いのほか多くの情報が伝わるもののようである。
だからそういう場合は片方から発せられる「ことば」が多少あやふやでも、あるいはそれを受け取る側の読解力がいい加減でも、なんとなく会話が成立するものである。

日常誰かと面と向かって喋っている時、しゃべる方の表現間違いや相手側の聞き間違いはしょっちゅう生じているというのは、ものすごくよくある。
表現を間違ったのを相手がそのまま受け止めて、その間違いを前提にそのまま話を進めた場合なんだか話の筋がおかしくなったのにすぐに気がついて、「あうん」の呼吸でどちらからともなく会話を軌道修正したりするのもよくある。
面と向かって話している時は言い間違い・聞き間違いは会話の軌道修正装置が働いて、なんとなく丸く収まるものである。

ところがテキストベースのコミュニケーション、紙やディスプレイの上にある文字を読み取るタイプのコミュニケーションではそうはいかない。
そこには表情も身振り手振りも声の抑揚もない。
だから齟齬なく会話が成立するためには文字を書く方も誤解されないよう気をつけねばならず、読む方も予断を持たずに透明な気持ちで読み取らないといけない。

この場合どうしても、書く側よりは読む側の方が受け身な分いい加減になりがちな気がする。
透明な気持ちで相手の文字を読み取らず、予断を持って「言いたいこと」ではない読解をする危険が多い。
これは瞬間芸的なSNSのやりとりでは特にそうだと思う。

あるいは、中にはわざわざ意図的に「読解間違い」をやらかして相手の主張を勝手に改変する受け取り手というのも、SNS上にはものすごくたくさん蠢いている。
その結果今日もネット上のあちこちで、不毛なことばの乱闘騒ぎが起きているのである。

そういう乱闘騒ぎは見ていて疲れる。
じゃあ見なきゃあいいじゃん、という話なのだが、ネットを徘徊していて乱闘騒ぎだけを器用に避けて通るのは至難の技だ。

面と向かっての会話では、齟齬があれば自動的に軌道修正する技を身につけたように見える人類だが、ネット上の「読解間違い」による乱闘も、そのうち自動収束させる技が出てくるのだろうか。
ネット利用者による相互監視によるとか、人工知能で読解間違いを自動検出してアラートを出すとか、いろいろ対策はあるような気もするが、もっともまっとうな方法は、人類の読解力の平均値を少しずつでも向上させることしかないと思う。

テキストベースでも、面と向かった会話でも、人類のコミュニケーションで読解間違いによるトラブルのなくなる日は来るのだろうか。
今日もなんだか愚痴っぽくなったな、と思った。
posted by ヤス at 11:54| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月02日

「いちびり」の意味について

さて、また昔話だが子どもの頃に岡山から兵庫に引っ越したことがあった。
数年してまた舞い戻ってくるのだが、その間岡山弁の少年は関西弁の渦の中で過ごすことになった。
それで岡山弁の少年は、さまざまな関西ことばを憶えていく羽目に陥る。
「捨てる」ことを「ほかす」というのも、なるほどうわさに聞いていた通りであった。
それから「あなた、君、おまえ」のことを「じぶん」というのも新鮮であった。
そうやって日々吸収していく関西のことばのなかで、なんだか意味が分からなくてとまどったのに「いちびる」というのがある。
もしくは名詞用法で「いちびり」、形容詞的に「いちびりな」とかもある。

この「いちびり」の意味がいまいちピンとこなくて、友達との日常会話の中で出てくるたびに意味が分かったふりをして「ははは」と半笑いでごまかしたりしていた。
他のことばの場合、だいたい使われる会話の文脈やその場のシチュエーションでなんとなくその意味が類推できるのであるが、「いちびり」の意味というのは、とうとう最後までよく理解できなかった。

それでも時々、キヨミズの舞台から飛び降りる覚悟で「おまえもたいがいいちびりやなあ」とか、わたし自身も分かった風に会話の中に取り入れたりした。
その時はもう、ほんとうにこの「いちびり」の使い方はこの感じで合っているのだろうか、見当違いな使い方で会話がしーんとしずまり返ったりしないだろうか、とドキドキしたものである。
しかしわたしの使った「いちびり」でその場がしずまり返ることは、幸いにしてほぼなかったと思う。

今あらためて「いちびり、いちびる」の意味を調べてみると、「市場のような活気あるやかましい様子の言葉〜市振ることから、目立ちたがり屋やお調子者を揶揄する時に使われることが多い。また、人と違う変わったことをしている人を良い意味で褒める場合にも使われる」とある。

さわがしいやつやお調子者をからかう意味というのは、なんとなく分からないでもない。
しかし後半の、良い意味で使う場合もある、というのはなかなか高度な用法である気がする。
というか相手を持ち上げるように「いちびり」が使われている場に居合わせたことはない。

わたしの観察では、関西人どもは「いちびり」を会話の調子を整える目的で、例えば「アホやなあ」とかと同じような感じで話の中にテキトーに入れてくる印象がある。
つまりその「いちびり」にはあまりたいした意味はなくて、相手を軽く落とす時にあまり具体的な意味を込めずにぶっ込んでくるのではないか。
その辺が「いちびり」の意味を捉えにくくしている主要因ではないか、などと考えたりもするのだが、その辺の間合いは関西弁ネイティブでないわたしには死ぬまで分からないのだろう、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:54| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月01日

尻財布

今朝マクドナルドで朝飯を食っていたら、隣の方に中年夫婦と高校生くらいの女子のおそらく3人家族連れとみられるご一行がいて、その女の子がなかなか可愛かったというのはまあどうでもいいとして、父親と思しき人物が、電話がかかってきてスマホを耳に当てながら席を立つ、という瞬間があった。

彼はそのまま出口の方に向かってゆっくり歩いて、わたしの方からはその後ろ姿が見えたのであるが、その時たまたま彼のズボンのお尻のポケットが目に入ったのだった。
彼のお尻のポケットには薄茶色の長財布がやや無造作に突っ込まれていて、それが約半分くらいもポケットから露出していて、あまり強い衝撃を受けるとぽとりと落っこちるのじゃあないか、そんな不安定さを見せていたのである。

そういう不安定なものを見せられると、わたしのような神経薄弱な軟弱者はもう心臓がドキドキして、脳みその中が「アウアウアウ」と泡立ってしまう。
しかし当のご本人のお父さんはわたしの心配などどこ吹く風で、そのままスタスタと歩き去ってわたしの視界から消えていった。

それでわたしとしては、過去に知り合いの男性がメシ屋のお会計の時に尻ポケットから財布を引っ張り出す光景を自然に思い出して、そういえば世の中の男性陣は尻ポケットに財布を突っ込む人が多いのかもしれないなあと考えた。
その仮説に立脚して、それからマクドナルドの店内を歩く男性の尻ポケットを仔細に観察することにしたのである。

その結果、先述のお父さんが去っていった2、3分後には同じように尻ポケットに突っ込んだ長財布を半分露出させているジーパンのお兄さんを発見した。
またその後には、長財布ではなかったがおそらく短いサイズの財布をポケットに入れて、尻に四角い膨らみを乗せて歩いている別の男性を発見した。
この短時間の間に「尻財布」の男性を3人も見つけたので、おそらく世の中全体としては男性の「尻財布」比率は相当な割合に登ることが推測されると思った。

わたしは、わたし自身のメンタルの特性上尻ポケットに財布を入れることが出来ない種類の人間である。
これは落とすのを用心して財布をあえて「入れない」、というのではなくて、そこに財布があることで生じる不安に、わたしのメンタルが耐えられなくて「入れられない」ということである。
入れるのなら最悪、ズボンの前側のポケットだろうと思う。

それでわたしは、ズボンの尻ポケットに長財布を半分露出して闊歩出来る男性たちの不用心にハラハラしつつも、同時にその豪胆さをうらやましく思ったりしたことはまあほんとうにどうでもいい話ではあるが、もうひとつ思ったのは尻ポケットを装備する世の女性たちは、やはりそこに財布を突っ込んだりするものだろうかという疑問であった。
だがそのことを観察によって確認するのは、このご時世変な嫌疑をかけられるのもいやなので、とりあえず自粛しておきました。
posted by ヤス at 10:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年06月30日

W杯次戦は背水の陣

さて、ネット情報を見ているとあいかわらずこの間のサッカーW杯日本対ポーランド戦の最後の10分のボール回しの件がくすぶっているようである。
勝ち点、得失点、直接対戦結果いずれも互角のセネガルに対し「フェアプレーポイント」の差でグループリーグ突破を図る「他力本願」作戦をめぐっていまだにああだこうだ議論が続いている。

前書いた通りわたしはあの作戦は十分に「あり」だと思っている。
ただ批判の声が沸き起こるのは致し方ないとも思う。
西野監督も選手たちも批判は承知の上での作戦採択だったに違いない。
そして日本代表を応援していた人々のうちの少なくない割合が批判の声を上げるのもある程度理解できる。
というか「理解すべき」であると思っている。

サッカーを楽しんでいるたくさんの人々の間には、当然ながら多様な人生観、人格・性格、行動癖などがあることだろう。
そういう多様な人々の中では、今回の作戦の受け止め方も様々であるのはある意味当然である。

わたしが今回の作戦を是とするのは、今W杯における日本代表の目標を決勝T進出もしくはさらにひとつふたつ勝ち進むことと考えた時、予選第3戦のあの戦い方は極めて合目的的な、合理的なものであったように見えたからである。
あの第3戦目、日本代表は最悪負けても勝ち抜けできる可能性が残されていた。
「美しい勝ち抜け方」としては、ベストメンバーで臨んで勝利をもぎ取り、あるいは引き分けにもちこんで自力で予選突破できれば言うことはなかった。

しかし日本チームは1戦目2戦目に対しメンバーを6人入れ替え、1、2戦目とは別の新しい戦い方を模索するかのような、ちょっとしたリスクテイクのかたちで3戦目に臨んだ。
結果リスクテイクはあまり機能せず(と報道されていた)、そうこうするうちに後半1点ビハインドになり、しかし他方でセネガルも1点差で負けている情報が入ってきてさあどうするか、ということになった。

ここでもう一発リスクを取って攻勢に出ることをせず、安全策ではあるが「他力作戦」でもある時間潰しを採用したわけである。
これは日本が攻勢に出て同点に追いつく可能性、逆に裏目に出て失点する可能性、セネガルがコロンビア相手に得点する可能性を吟味した結果採用したものである。
つまりセネガルが得点する確率より日本の攻勢が裏目に出る確率がより大きいと判断したわけであり、これは、日本が弱いチームだと自覚している結果採用された作戦だと思う。

しかしこれで、決勝Tに向けたスターティングメンバーの考え方もすっきりしたように思うし、諸々考えると日本は「3戦目に負けても予選突破できるアドバンテージ」を100%活用出来たわけである。
なんだか非常に「プロっぽい」勝ち抜け方だと感じた。(彼らはもとよりプロであるが)

これは鈴木大地の金メダルとか、ベトナム戦争のベトコンのゲリラ戦とかの例をひくまでもなく、弱者が「弱いけど勝ちたい」と思った時に当然取るべき戦略だったと思うのである。

まあ他方でそういう「なんでもいいから勝ちたい」を最終目標にするのではなく、もっとエモーショナルな部分を重視する人々は「気持ちよく負ける」ことを選択するのかもしれない。
それはそれでひとつのスポーツの在り方だとは思う。

何はともあれ、重要なのは次戦である。
次戦の結果次第で、あの時間潰し作戦の価値が激しく非難されることにもなりうる。
そういう意味では次戦は「背水の陣」的な戦いになるのだろう。
posted by ヤス at 14:00| Comment(2) | 徒然なるままに