2018年07月07日

艦上攻撃機「流星」に思うこと

旧日本帝国海軍の軍用機に「流星」というのがある。
正式名称を「艦上攻撃機流星」という。
十六試艦上攻撃機として昭和16年に開発がスタートし、昭和17年12月に初飛行したがその後開発が難航し1944年からなし崩し的に量産にとりかかったが、当時発生した東南海地震やその後のB29による空襲などで敗戦までに生産されたのは110機あまりに過ぎない。

この機は名称が示す通り航空母艦上で運用される艦載機であり、魚雷を搭載して敵艦船に雷撃を行う「攻撃機」の役割と、徹甲爆弾を搭載して急降下爆撃を行う「爆撃機」の機能を併せ持っていたとされる。
その当時、日本海軍はもちろんアメリカ海軍でも雷撃機と急降下爆撃機は別の機体を開発して当てており、攻撃機(雷撃機)は重くかさばる魚雷を搭載するので機体も大きく重くなり、急降下爆撃機(爆撃機)は敵の対空砲火を突っ切って爆弾を投下するための機動性を確保するためなるべく小型で小回りの効くように作られていた。

それが戦闘技術が進化していって、大型の雷撃機にも俊敏な機動性が必要になり小回りの効く急降下爆撃機にも大型爆弾の搭載が必要になって両者の差異がなくなったので、「流星」は初めてこれらの機能を統合した機種として作られた。

「流星」は決戦発動機の中島飛行機製「誉12型」エンジンを搭載し、零戦と同等の高速性能と太平洋上をどこまでも飛び続けることのできる大航続力を備えていた。
たいへんな高性能機ができたわけであるが、ひとつ問題があって、それは「流星」がものすごく大きく重くなった(重量6トン弱)ことで、当時の帝国海軍の航空母艦で運用できるかどうかのギリギリのサイズだった。

かたや敵国のアメリカ海軍の主力攻撃機TBFアベンジャーは約8トンの巨体だったが、こちらの方は9800機ほど製造されて日本の艦船を遠慮なく沈めていく。
結局のところ「流星」が戦力化された時にはこれを搭載可能な大型空母が一隻も残っていなかった。
だから「流星」は敗戦間際に陸上基地で運用されて少数が特攻に使用されただけで、その有り余る高性能を発揮する機会はほぼなかった。

「流星」は「く」の字に折れ曲がった主翼の形も無骨で、プロペラ直径も日本機離れして大きく、非常に格好いい。
だが当時の帝国海軍空母の貧弱な装備(着艦制動索など)では、「流星」をとどこおりなく運用するのは難しかったのではないか。
本来なら大型機を運用可能な空母装備をまず実用化し、しかる後に高性能な大型機を開発するのが順番だと思うのだが、70年前の日本の国力では爪先立ちするように無理してなんとかかんとかシステム上はアンバランスな高性能機をつくるのが精いっぱいだった、ということだろう。

このことは次の教訓を示している。
それをたとえるなら弓矢の「矢じり」だけがいくら鋭く殺傷力が高くても、土台になる弓の強さやそれを射る射手の腕力が貧弱ならせっかくのするどい「矢じり」も宝の持ち腐れになるということである。

まったく、鋭い矢を射るためには土台が肝心ということを、艦上攻撃機「流星」を見ると思ったりするのだった。
posted by ヤス at 17:06| Comment(2) | 徒然なるままに
この記事へのコメント
ほんま
好きなんだね〜
戦闘機に魅力を感じるなんて
ヾ(@⌒ー⌒@)ノ
Posted by aoko at 2018年07月07日 20:21
戦闘機ではない、艦上攻撃機である。
Posted by ヤス at 2018年07月08日 07:01
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。