2018年06月09日

2回目の元寇がちょうど今頃の季節だった件について

このところ朝鮮戦争とかミリオタとか戦争関係の話が続いている。
それでちょっと思ったのだが、日本という国は長い歴史の上で外国からの攻撃がきわめて少ない。
ヨーロッパ諸国などは地続きでユーラシア大陸上のどこかで戦争が発生すると、その波が必ず伝播して伝染病が拡散するように関連戦争が起こる、という具合になっている。
その点、日本は大陸との間に海があって波の伝播を遮断している。

そういう日本も歴史上外国から「本土」攻撃を受けたことがある。
というか、ざっくり1500年くらいの日本の有史上、外国の攻撃は2回しかない、と言うのが正確かもしれない。
1回目は13世紀の元寇(1274、1281年の都合2回あったが)と、せんだっての米軍による沖縄戦である。
長い歴史記録が残っていて、千年以上の間に外国の攻撃が2回しか無い国は、大陸国家ではあり得ないと思う。

第二次大戦の沖縄戦のことはひとまず横に置いておくとして、最初の外国からの攻撃である元寇。
7年の間隔を開けたモンゴル軍の2度にわたる来襲が、神風が吹いたおかげで撃退できたというのはもちろんある種の「都市伝説」だろう。
これは当時の武士たちの、朝廷に対する遠慮だったんじゃないかというのがわたしの想像である。
京都の朝廷を構成する公家さんたちというのは、もちろん戦うことも出来なかったし、かといって外交文書をやりとりするような交渉ごとをする事務能力さえ持っていない。
出来ることはただひたすらお祈りするだけ。
だから公家さんたちの祈祷が通じて神風が吹いた、ということにして武士たちが朝廷に功を譲った側面があるのではないか。

元寇は1974年文永の役と1981年弘安の役の2回あった。
当時のモンゴル帝国は中国大陸になだれ込んで漢民族の国の宋を攻略している最中だった。
中華の国である宋は、源氏の仇敵であった平清盛の頃から日本と盛んに貿易をするようになって、源氏や北条氏の時代になっても交易関係はずっと続いている。
だからその当時の日本は、おそらくモンゴル軍の恐ろしさとか大陸の情勢について相当詳しく知っていたはずだ。
当初モンゴル皇帝のクビライ・ハーンが考えていたのは、日本を属国的同盟国にして宋との経済関係を断つことだった。
あるいはあわよくば日本から宋に向けて軍隊を出させることだった。

それでクビライは征服した高麗国をせきたてて軍船と兵隊を用意させ、日本をビビらせることを目的に派兵をしたのが1回目。
しかしその後に宋は降伏して、今度はモンゴル兵や高麗兵とは別に南宋からも10万の兵を挑発して、南宋から出発した船には農機具や家畜も積んで植民する気満々で2回目の遠征にやって来る。

その2回目の遠征があったのがちょうど今くらいの時期、旧暦の5月下旬、新暦で6月10日前後の頃である。
しかし南宋からの船団は何しろ大人数なので出航が遅れ、先行して博多で戦闘していたモンゴル高麗連合軍はせっかく台風の時期を避けて6月に上陸したのに、南宋船団の到着は新暦7月下旬になる。
それで暴風雨が来て粗製濫造の軍船多数が沈没し、モンゴル軍の幹部たちは残っていた大型船から高麗人を追い出して、さっさと帰って行ったらしい。

それでその当時のモンゴルの見立ての中に、大昔の白村江の戦い当時の倭の国の軍隊は弱かったので、今回も楽勝だろうと思った、とかいうのがあったらしい。
それに対し、日本側はモンゴルの恐さを最初からよく知っていた。

本当に、歴史というのは連綿とつながっている。
そして高麗や宋のように覇権国に従属した国の運命は、かなり悲惨なのである。
おしまい。
posted by ヤス at 13:11| Comment(2) | 徒然なるままに
この記事へのコメント
よかったぁ
日本が島国で
(*^_^*)
Posted by aoko at 2018年06月11日 12:28
よかったのお
Posted by ヤス at 2018年06月11日 12:59
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