2018年06月07日

朝鮮戦争とM26と東京タワー

もうすぐ米朝首脳会談が開かれる。
この会談の基本的意義は、1950年に開戦された朝鮮戦争の終戦処理ということにあるのだと思う。
それで朝鮮戦争について少し調べてみた。

1948年の夏に李承晩(イスンマン)の大韓民国と金日成(キムイルソン)の朝鮮民主主義人民共和国が相次いで成立した。
日本は当然米軍の占領下にある。

そして南北両国の建国から1年10ヶ月ほど経った1950年6月25日、ソ連のスターリンと共産中国の毛沢東の了解を強引に取り付けた金日成がソ連製T34/85戦車を前面に押し立てて38度線を超えた。
この当時の戦力は、兵員数で北20万人南10万人だったらしいが、北はT34戦車を242輌とSU-76自走砲176輌装備して機甲戦力で圧倒しており、歩兵と砲兵しかいなくて戦車未装備の韓国軍は兵員数の差以上に脆かった。
それであっという間にソウルは陥落し、韓国軍は8月には半島の南端の釜山周辺の猫の額くらいのところを守っているだけになる。

他方6月の開戦を受けて7月には国連軍が組織されて、その国連軍は米軍そのものだったわけであるが、マッカーサーが司令長官になって反撃に向けて作戦を練るわけだ。
それで実施されたのが仁川(インチョン)上陸作戦。
敵陣奥深い、ソウルの喉元に当たる仁川に直接、国連軍(というか米韓連合軍)を上陸させて、長く伸びた北の補給路を断ち一気に状況を挽回するという博打をマッカーサーは打った。
それで無事博打は成功して国連軍は戦線を回復して、アメリカ製のM26パーシング戦車も大量投入されて逆に平壌を落として北を中朝国境付近まで押し返したのが上陸作戦からひと月後、開戦から4ヶ月後の10月。

しかしここで毛沢東の中国が人民義勇軍を参戦させてもう一回国連軍を押し返して、「39度線」付近までいったのが年明け1951年1月。
この時ソウルは再び中朝連合軍に占領されている。
すかさず国連軍が反撃してソウルを再々奪還すると、中朝軍も「5月攻勢」をかけて飽きずに押し返す。

金日成が戦闘を開始してから一年後の1950年6月はそういう状況で、戦線は一進一退の攻防が続くこう着状態になった。
そこでソ連のスターリンが休戦を提案してきて、休戦会談が板門店で持たれて本格的な戦闘はここでとりあえず終息する。
ついでに言うと、板門店の休戦会談のすぐ後の1951年10月、サンフランシスコ講和条約が調印され日米安保条約も締結される。
条約発効して日本の主権回復、つまり占領からの回復はその半年後である。

朝鮮戦争の休戦協定が正式に調印されたのはさらに降って1953年7月になるが、本格的な戦闘はほぼ上記の一年間である。
この戦争をきっかけにして日本は警察予備隊(1950年8月)が創設される。
これはわたしの想像だが、アメリカは日本に再軍備をさせて帝国陸海軍の将兵を再雇用し、半島の戦線に投入したかったに違いないと思うのである。(これは吉田茂によって阻止された)

また400輛以上が投入されたM26パーシング戦車などのアメリカ製戦車は、修理拠点だった日本に大量に滞留して、中には砲銃弾を満載した新品状態のものもあったらしいが、1957年から建設が始まった東京タワーの第二展望台から上の鉄材は、このM26のスクラップが使われているらしい。
敗戦後餓死寸前だった日本が半島の戦乱をきっかけに景気回復したことの、象徴的出来事であるようだ。

ちなみに朝鮮戦争当時、敗戦国日本は情報統制されて多くの日本人は半島の戦争についてわけがわからないままに、送られてくる戦車の修理や戦争物資の製造に励んでいたという。

米朝会談での破天荒キャラな両首脳の言動が、今から気になるのである。
posted by ヤス at 10:59| Comment(2) | 徒然なるままに
この記事へのコメント
ワクワクなお話になるのかしら?
Posted by aoko at 2018年06月07日 12:41
まあそうわならんわな。
Posted by ヤス at 2018年06月07日 13:27
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