2017年07月08日

退屈の感覚について

毎度のことながら、どうでもいいことをまた考えている。
それは「退屈の感覚」についてである。
人間はふとした瞬間に退屈を感じる。
これはなぜであろうか。

以前に何かの本で人間の脳みそは日常的にある程度以上の負荷を与えていないと退屈を感じる、みたいなことを読んだような気がする。
それはマグロが泳ぎ続けていないと息が止まるとかいうのと同じことなのだろうか。
人間の脳みそは、何しろ眠っている時でも夢を見るくらいに四六時中活発に動いている。
あるいは自分で思っている以上に自分の脳みそは勤勉であるのかもしれない。

注意しておくべきなのは、ここでいう脳みそとは大脳皮質と呼ばれる高等哺乳類などで特に発達している部位のこと、ということである。
人間の大脳皮質は容量・機能とも全生物の中で突出して発達しているとされる。
その大脳皮質が退屈を感じるのである。
ということは、人間よりは幾分か大脳皮質が小さい犬や猫もそれなりに退屈しているということだろうか。

実際、犬や猫を眺めていると、生存活動とは全然関係のない「遊び」を行なっているような場面がしばしばある。
あれは彼らなりに退屈して暇つぶしをやっているのであろう、と勝手に推測する。

ところで、退屈を感じるということでひとつ思いついたことがある。
それは退屈は、時間の流れを体感するというところに通じるのではないかということである。
人間、何もすることがない暇な時は死ぬほど退屈である。
一方で、趣味に没頭している時とかゲームに熱中している時など、一時的に時間が止まる。
あるいは、締め切りに追われて寝食を惜しんで仕事に励んでいる時などは暇な時の30倍くらいの速度で時間が経過する。

退屈を感じている時というのは、やや哲学的に表現するなら無為のうちに己の寿命がすり減っているのを感じている状態と言える。
一方で忙しくて時間が足りない状況というのは、寿命がすり減っている間を有為の時間で埋めることができている状態である。
そのように考えると、退屈という感覚を軸にして人間は時間の経過を感じていると思わざるを得ないのである。

一方で趣味に没頭している時というのはその時間感覚が麻痺している状態と言える。
それは生物的機能の停止という意味で後ろ向きに捉えることもできるだろうが、前向きには寿命の感覚からしばし自由になれた、という風に考えることができるのかもしれない。

いずれにせよ長い進化過程で人間が退屈を感じるようになったというのには、生存競争的にそれなりの意味があるものと思われる。
言い換えると時間に敏感な生き物であることが、人間の生物としての繁栄を支えていると思ったわけであるが、それ以上の考察は、字数が尽きたのでまた今度にする。
posted by ヤス at 14:02| Comment(2) | 徒然なるままに
この記事へのコメント
じゃ、私は敏感なんだ。
と。思った。
Posted by aoko at 2017年07月08日 16:48
おつむが人並みより少々発達している、
と言えなくもない、
かもしれない。
Posted by ヤス at 2017年07月08日 19:17
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