2017年06月07日

だとすれば、謝ります。

前々から思っていのだが、よく政治家なんかが「○○の皆さんを傷つけてしまったとしたら謝罪します」という言い方をして謝る。
そのような発言をすると報道で「○○大臣が謝罪した」という記事になる。

しかし「〜したとすれば、謝罪します」のような表現は実際のところ謝ったことになっているのだろうか。
思うに、この表現は謝罪ではない。
これは謝罪条件の確認であって、おそらく本人にも謝罪の気持ちはないのである。

「もし被災地の皆さんに不快な思いをさせてしまったとすれば」とかいう物言いは、要するに不快な思いをさせたと明確に「確認したわけではない」ことを示している。

ひょっとしたら不快に思ってないかもしれないじゃん。
あるいは不快に思っているのは誤解に基づいている、または不快に思う人々の心のありようがちょっとおかしいんじゃない、くらいのニュアンスを含んでいるようにさえ思われる。

したがってこれは謝罪の気持ちの現れというよりはどちらかというと「謝りたくない気持ち」の積極的な表明であるようにさえ感じるのである。

しかしこのような「謝罪表現」は度々繰り返される。
というか、最近記憶にある政治家の「謝罪」はほとんどすべてこの方式によってなされているのではないかと感じる。

こういう中途半端な「謝罪」が横行するその背景には、世の中における「謝罪圧力」のようなものの存在があるのだろう。
とりあえずこの場は謝っておいた方が得策である、だから「謝罪もどき」表現の言葉を発して謝った雰囲気を作る。
しかし「謝罪者」である本人に謝意はなく、本来生じるであろう謝罪に伴う敗北感を感じずに済む。

なんとも便利な「丸く収める」ためのスキームなのである。

実際何か重大な失言があった時にとりあえず記者会見の場で謝罪の意を表明して場を取り繕う時に「〜ならば謝罪する」方式をとったとすると、これは本当には謝罪しておらず、「謝罪」以外に明確な責任の取り方をしていないとすると謝っていないけれどいつの間にか問題が収まっている、という珍妙な現象が起こることになる。

個人的に思うのは、今後は、謝罪の有無にこだわるのではなく明確な責任の取り方の方に重きを置くべきではないか。
謝る謝らないは本人の勝手な気持ちだからどうしようもない。

たとえ本人が1ミリも謝らなくても、役職辞任とか報酬返還とか形に残る責任の取り方をしてくれればその方がずっといい、と思ったりしたのである。
posted by ヤス at 07:06| Comment(0) | 徒然なるままに
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