2017年05月17日

私への理解

最近YouTubeを見ていて、その中に「ガイジン」が日本で暮らしていて感じることをレポートするのがあったのだが、そこでガイジンさんが「だいじょうぶです」「けっこうです」「いいです」などの使い方が難しいというのを言っていた。

英語表現では「Do you need this?」と尋ねられたら、要るときは「Yse」要らなければ「No」と答えれば良い。
しかし日本語の場合、「これ要る?」と尋ねられたら、どちらかというと直接的に「要らない」とはなかなか言わない。
たいていの場合、「だいじょうぶです」「けっこうです」「いいです」などという。
しかしこれらの表現は、表面的な意味としては「Yes」である。

そこの使い方が日本語ネイティブでないガイジンさんには難しいらしい。

よく考えてみると、このような表面的に肯定的な表現で否定の意味を伝える方法は、コミュニケーションとしてはかなり回りくどい。
家族や親しい友人同士なら、「要る?」「要らない」というシンプルな問答が成立もするのだろうが、少し対人関係の距離が離れると、そういう直接的なやりとりが困難になるようである。

例えば「けっこうです」についてである。
本来の「結構」は、「非常に」くらいの意味なんだろうと思う。
「結構なお味です」「結構なお値段」とか、「非常に」「ものすごく」など程度がすごいようすを表すと思われる。

それが否定に使われるときは、「ビールもう一杯どうよ?」「結構です」というのは、「もう結構な量をいただいたので要らないよ」というニュアンスを略しての「結構です」なのではないかと思う。
ただ直接否定の答えを返すと相手に申し訳ないというのがあって、結構な量をいただいて満足したよ、だからもう要らないよ、というのを伝えているようである。


しばしば日本人は単一民族であると言われる。
実際、言語的にも文化的にもまあまあ全国共通していて、その意味では日本人同士なら相手の腹の中はだいたい想像できそうなものである。
逆に言語や文化・宗教など様々なバックグラウンドの人でできている社会では、相手が何を考えているのかわからないことも多かろう。

相手のことが比較的わかる日本においてコミュニケーションが婉曲に、優しい感じになって、わからない人同士の社会で直接的になるのは、どういうことなのか。
わからない同士では、他に解釈の余地がないようにスッパリやりとりした方が誤解が生じない、逆にわかっている同士では、「そこのところわかってよ」という感じのやりとりになる。

つまり日本的なコミュニケーションは、「私への理解」を相手に強いる部分があるのだと思う。
こういうことは外国であっても、例えば企業同士のやりとり、外交的な駆け引きなどではままあると思う。

で、日本ではそういう高度な駆け引きを日常「庶民同士」でやっているのに、企業や国のレベルの駆け引きが必ずしも上手くないのはどうしてだろうか、などとちょっと思ったのでした。
posted by ヤス at 10:34| Comment(0) | 徒然なるままに
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