2017年05月08日

面倒臭いこと

世の中、いろいろとい面倒臭いことが多い。
例えば家の掃除や洗濯などの家事全般は、身近にある面倒臭いことの筆頭であろう。
面倒臭いことをそれなりに上手くやるための方法論はいくつかあるようである。
一つは、習慣化すること。

毎日決まった時間に掃除をする、洗濯をする、などと1日の行動パータンに組み込んでしまい、意識に上ることを希薄化する。
そうすると、面倒臭い感情もやや希薄化し面倒臭くなくなる可能性がある。

まあ掃除にしても洗濯にしてもこれを長期間実施せずに過ごすと、えらいことになる。

部屋はゴミ屋敷になり、今日着る服がなくなる。
だから最低限の家事は、家に居る住人の誰かがこなさねばならない。
ルーチン化し行動パターンに組み込んでしまうという対策は、必要が産んだ生活の知恵であるように思われる。

しかし似たような面倒臭い行動の一つに歯磨きがあって、これはこれで寝る前に、ものすごく眠いんだけどまだ歯を磨いていないというシチュエーション、このような瞬間には歯磨きはものすごく面倒臭いことの一つになりうる。
しかし他方で、歯を磨くと口の中がスッキリして気持ちがよくなる。
だからものすごく眠い時などの極限的な状況以外では、案外自然と歯を磨きたくなる心情が発生したりする。

掃除や洗濯でも部屋がスッキリきれいになったり服が柔軟剤でいい香りになったり、それなりに気持ちよくなる快感を味わうことができるわけだが、しかし掃除などは特にそれなりに重労働であり、快感による報酬と労働負荷のバランスが歯磨きほど有利ではないような気がする。


そうやって面倒臭いことについて考えていて思うのは、面倒臭いことの存在というのは、人類が人類であることの証、あるいは人類は面倒臭いことを色々と増やして人類になったと言えるのではないか、ということである。

どういうことか。

だいたい、野生動物は面倒臭いと思ったらその自分自身の気持ちに素直に従うものである。
眠いと思えばゴロンと寝っ転がるだろうし、腹が減ってスイッチが入れば食料を求めて行動するであろう。
面倒臭いことはやらない、というのが野生の掟であるように思われる。

その点人類というのは、毎日元気に挨拶をしようとか、便所はきれいに使いましょうとか、他にも様々にわたって膨大な社会的ルールを増やしつつ生きて来た。
それらのルールにはちょっと面倒臭いことからかなり面倒臭いことまで、面倒臭いの程度もかなり幅がある。

中でも結婚式やお葬式、あるいは卒業式や入社式などの儀礼式典はとりわけ面倒臭いことが多いように思う。
しかし、そういう一見何も生産しない儀礼式典的なことを人類はこれまで営々と取り行ってきたわけである。

人類の文化・文明の本質というのは、儀礼式典に象徴されるような面倒臭いこと、これをあえて行うことにあるのではないか、別にどうでもいい話だがそういうことを思った次第である。
posted by ヤス at 16:14| Comment(0) | 徒然なるままに
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