2017年04月21日

偶然性に委ねる

人生というのは思い通りにいかない。
というのは今さら言うまでもない。
しかし考えてみると、「お思い通り」の「思い」はどんな「思い」なのか、それがそんなに具体的で明瞭なものなのか、そこが問題だ。

人間は、あるべき将来というものをそれほど具体的には思い描けるものでもない。
明確な未来を思い描いて、そこへ向かってまっすぐに突き進むというのは、ある少数の人々だけがなしうる特殊能力であって、その他の大部分の人々は、ただ普通に生きるのでそれなりに忙しい。

そういうものではないかと思う。

それに明確な未来を思い描けることが、人の生き方として必ずしも最高の生き方、と断言できるわけでもなかろう。
旅行のやり方にも、旅の目的やスケジュールの詳細をきっちり決めてできるだけ効率的に行う方法もあるだろうけれど、一方で行き先も決めず、その時の気分でふらふらとさまようような旅もまた思いがけず良い旅であったりする。

おそらく人生の大部分は偶然性なるものに支配されていて、人生が思い通りにいったと思える部分は、個人的目分量では数パーセント程度ではないかと思う。
人生の9割がたは思いがけない出来事の連続で、しかしそのような偶然性の揺らぎこそが人生の面白さの本質であるような気もする。

人間が頭の中で思い描いた未来をそのままトレースしていくような、そんな社会主義国の計画経済のような生き方は、そもそもあり得るものではないし、あったとしてもつまらないに決まっている。


以前にも度々触れたが「受動意識仮説」的な考え方では、人間の行動は潜在意識が全てを決めていて、顕在意識、つまり人間の自我は後からそれを追認するだけに過ぎないということがあった。
その考え方によると自我には主体性がなく、目標を思い定めてまっすぐに歩んでいるような種類の人々も含めて、我々人類の人生は非常にふわふわしたものという感じになる。

受動意識仮説によると、自我というのは高等哺乳類に備えられた無意識に対する一種のフィードバック装置であって、無意識がふわふわ行動しているのを自我がじっとモニターし学習してそれを無意識の意思決定回路に戻している。
それによって人類は生きているうちに少しづつ賢くなる。

しかし自我が異様に肥大化した人類では、自我自身が、自分こそが行動の主体であると勘違いするに至っている。
そこにこそ、人生の思い通りにならない感じの理由があり、一方で人生に偶然性が大きく作用する余地を生んで「思いがけない面白さ」が生じることになる。

人生は、思い通りにしようと気張り過ぎるのではなく、ある部分では努力放棄して偶然性に委ねてしまうことも必要な気がする。
その方が結果として「思い通り」に近づくのではないか。
これはある意味、偶然の神様との騙し合いのようでもある。

そのように、ぐうたらな人は思ったのでした。
posted by ヤス at 09:56| Comment(0) | 徒然なるままに
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。