2017年04月12日

人生の不平等 後編

人の人生というのはどうしようもなく不平等であるという話について。

この、不平等である、というのは例えば全地球的共産主義革命を成功させれば克服できる、というものでもない。
この不平等は物理現象としての不平等であって、人類の英知を総動員したところで克服できないのはいうまでもない。

わたしの人生の置かれた環境が他の誰かより著しく有利、あるいは著しく不利というのは不可避の現実だ。
社会システムの改善によってその有利不利はいくらか平らに均すこともできるだろうが、全地球の人類が完全に真っ平らになる、という未来は絶対に実現しない。

ところで、新しくこの世に生まれてくる子どもは、自分の意思で生まれてくるわけではないということについて昨日言及した。
しかし最近読んだ本に、逆のことが書いていた。

人間の「親」はほぼほぼ自らの意思で子どもを産むわけであるが、その時にどういう子どもが生まれてくるかということこそ大きなバクチであり、子どもの誕生は多分に偶発的なイベントである。

男の子が欲しいと思っていても女の子が生まれるかもしれず、思い持病や障害を持って生まれてくることもしばしばあるだろう。
子どもは親を選べないけれど、親の方もどんな子どもが生まれるかはもっぱら偶然に左右される。

考えてみるまでもなく当たり前の話であるが、しかしその本を読むまでその点についての想念が、わたしの中では見事に欠落しているのにふと気がついた。

結局のところ親の方も子どもの方も、「事前に」お互いを選ぶことはできないのであって、偶然の親子関係を粛然と受け入れる他はない。

これは、生命科学が進化して男女の産み分けなどがある程度可能になったとしても、親の思いのままにならない部分は相当程度残るということで、絶対的なものである。

親の方でも子どもの方でも、組み合わせの偶然性をどうすることもできない。


かなり手短に、かつ途中の理屈を端折っていうならば、実は偶然性がもたらす不平等というのは、ある種の幻想と考えることができる気がする。
その幻想は、人間的価値観がもたらすものである、そのように考えることが可能だと思う。
貧乏人の家に生まれるか金持ちの子どもになるかというのは、経済的価値観というフィルターがもたらす幻想ではないか。
不平等と思っていたのは大部分が人間の創造した価値観による幻想である、そのように言えるような気がする。

そうやって考えると、世の中のあらゆる不平等は「多様性の維持」と読み替えることができる、そういう気がするのである。
人間の自我の作用によって、人類の行き先があまり一箇所に集中しないように、いい塩梅に多様性が維持されて人類という種が継続する。
そのために結果として偶然性は存在しているような気がしなくもない。

そう考えると、人生が思う通りにいかないことにも一定の意味を見出せそうだ、と思った。
posted by ヤス at 10:51| Comment(2) | 徒然なるままに
この記事へのコメント
ほんとほんと。
不平等だから宝くじ当たらないかなぁって
いつも思ってるかも。。
Posted by aoko at 2017年04月13日 15:54
少しちがうような気がしなくもないが。
Posted by ヤス at 2017年04月14日 09:15
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