2017年03月14日

吉野ヶ里遺跡と免疫機能

最近、ちょっと城跡めぐりに凝っているというのは以前に書いた。
お城というと、一般的には石垣と天守閣のイメージが強いと思うが、天守閣がちゃんと建っているお城というのは案外少ないようである。

立派な石垣というのも必ずあるかというとそうでもなくて、静岡の高天神城跡や尼子氏の根城であった月山富田城などは全体に土の城の印象が強い。
ただ立派な石垣はないけれど、要所に大掛かりな空掘が掘ってあって、また往時には各種の建物が建っていたであろう広大な曲輪(台地状になっている城郭内の平地、別名で二の丸とか本丸とかいうやつ)があったりする。

だいたい石垣のない土の城は、年代的には少し古く戦国時代中期以前のものが多いのだろう。
土の城はだいたい草木が鬱蒼と茂っていて、残存の構造物もほとんどないので「現役時代」の全体像がイメージしにくい。
そういうことが出来るようになればお城マニアとしては一人前なのだろうが、わたしの場合はまだまだその域には遠い。

城といういうのは、現在一般的なイメージである石垣と天守閣のパターンが確立するのは信長の安土城以降くらいで、それより前の城は敷地の円周に空堀を掘り、それで出た土砂を積んで曲輪を作ってその上に木の柵を立てて、天守閣は無いが遠くを見通せる望楼のような簡単な塔を建てたりしていたものらしい。

それは城というよりは前線にしつらえた「砦」と言うべきものかもしれない。
そういえば大昔九州に遊びに行った時に佐賀県の吉野ヶ里遺跡に行ったことがあるが、吉野ヶ里遺跡の基本構造はほとんどその土の城と変わらないように思う。
周辺に掘があって、いくつかの望楼が建っていたと思われる柱の跡が残っていたりするようだ。

吉野ヶ里遺跡は、集落が形成され始めたのは紀元前の縄文時代かららしいが、本格的な「砦」になったのは3世紀頃、ほぼ卑弥呼の時代くらいだと言う。
吉野ヶ里は背後は里山があって南に遠浅の海があり、そこから食料が得られて住みやすい土地だったのだろう。

古代吉野ヶ里の人口は一説によると5千人以上だったらしい。
それらの人々は、この豊かな土地を侵入者から守るため、掘りをめぐらし望楼を建てて警戒を厳重にしたものと想像する。

基本的に城とか砦の機能というのは、侵入者に対する効率的な防衛を最大の目的とすると考えられる。
そしてそういう大小の砦が、黎明期の日本列島にはいくつもあったのだろう。
それらの砦はひとつの共同体として、お互い知り合い同士、ある種の精神的紐帯で繋がっていたのだろうか。

ちょっと思ったのは、列島各地に存在した大小の砦が厳重に侵入者を排除しようとしている姿は、生物学における免疫機能のようであるなあということである。
これはあくまで個人的な想像であるが、砦を中心とする集落は免疫機能において自己と非自己を峻別し非自己をシャットアウトするように、よそ者を排撃していたのではないか。

そういう免疫機能的な性質が、人間の作る社会にはあるような気がすると、今少し考えているところである。
posted by ヤス at 16:15| Comment(0) | 徒然なるままに
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