2017年01月24日

バタフライの教訓

わたしは昔、今から30年前とかだが、学生時代に競泳をやっていて三流スイマーだったというのは何度か書いた。
種目はバタフライである。
バタフライは傍目には派手で格好良く映るかもしれない。
わたしも一流スイマーのスイスイ進むバタフライは格好良いと思う。
しかし三流スイマーにおける種目選択の事情というのがあって、一般にバタフライは選手層が薄く出場者が少ない。
バタフライ以外では400m個人メドレーなんかもそうである。
特に女子の場合はその傾向が顕著で、2バタ(=200mバタフライ)や4個メ(400m個人メドレー)は、地方の小さい大会では出場者が3人とか4人とか、あるいは1人という場合だってある。

出場がゼロなら話は却って簡単だが、1人の場合は、その1人のためだけに予選兼決勝のレースプログラムを実施しないといけない。
このレースでは、失格にならない限り彼女の優勝は確実である。

そういうことが2バタや4個メでは起こりうる。
男子ではさすがにもうちょっと多く出るわけだが、自由形や平泳ぎの選手の多さに比べるとその少なさは歴然である。
だから、少し練習するだけで6位入賞の可能性なども出て来る。
したがって、三流スイマーだがバタフライで一応200m泳げる人は、層の厚い自由形や平泳ぎには入れてもらえず、バタフライに回されることになる。

わたしの場合もかねてから一貫して平泳ぎを希望していたのだが、それだと学校別の出場選手枠(いわゆるレギュラー枠だな)には入れそうになく、バタフライを続けざるをえなかったのだ。
面白いのは、当然ながら各学校にそういう自分では望まないバタフライ選手が1人や2人はいて、それらの選手たちにはある種の連帯感があったことだ。
ひとにぎりの一流バタフライ選手を尻目に、我々はいつもプールサイドに自然に集まり、200mバタフライで最後のターンをした時、遥か50m先のゴールタッチ板を見て気を失いかけた話とかをして盛り上がったものである。

バタフライという泳法は、見た目の印象通り非常に体力を消耗する。
少し無駄な動きが多いのである。
わたしが中学生の時に初めて50mをバタフライで泳いだ時、最後腕が上がらなくなって溺れかけた。
しかしレースは100mと200mの2種類しかない。
あの無駄な動きの泳ぎで200mを競争しないといけないから過酷だ。
わたしは他の三流バタフライヤーと同じように、2バタのラストで溺れかけながら命からがらゴールし審判員の温情で失格は免れるというレースを数回経験した。

だが苦しい2バタを泳いでいたおかげで、100mバタフライは不思議なほど短く感じられ、200mの後にある100mのレースはいつも本当に楽しみになった。

自分なりの極限状態を経験しておくと、それよりマシな苦境がなんだか楽しくなる。
それがわたしがバタフライを泳いで学んだ教訓である。

それともう一つ、バタフライを泳いでいて良かったと思うのは、時々昔は水泳選手で種目はバタフライだったと言うと、水泳をよく知らない人はなんだか尊敬の眼差しで見てくれる(ような気がする)ことがある。
やはり若い時の苦労は買ってでもするものだ、と苦労の足りないおじさんは思った。
posted by ヤス at 16:42| Comment(0) | 徒然なるままに
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。