2016年12月27日

慣れについて

突然だが、今日は「慣れ」について考えてみる。

人間はいろんなことに対して慣れることが出来る。
わたしは20代の若かりし頃、広告産業の底辺に位置するデザイン製作会社で働いていた。
そこでは朝の9時から夜中の12時頃まで働くのが日常であり、わたしもまだ若くて元気だったのでそれはまあそんなものかと思っていた。
しかし、例えばそのデザイン会社の前に、勤務時間がきっちり9時ー5時の会社に勤めていたら果たしてその後の15時間労働に耐えられていたかと考えると、たぶんかなり難しかったような気がする。

長時間労働というのはある程度「リズム」を掴むと、けっこう慣れることが出来るものだ。
今考えても当時の職場に対する思い出は、そんなに悲惨な感じではない。
ひとつには、その職場の人間関係がかなり緩い感じだったのでその面の苦労があまりなく、精神的にはまあまあ楽だった、ということだと思う。

一方で、どうしても環境に慣れることが出来ないこともある。
特に仕事の環境ということで考えても、結局慣れることが出来なかったなという状況がいくつか思い出される。
慣れることが出来なかった原因は、やはりそれまでに経験し慣れて来た環境との違いの大きさだと思う。

話が少し飛ぶが、大昔に寒中水泳を2、3度やったことがある。
年が明けて新年の1月がおそらく寒中水泳のシーズンである。
わたしのやった寒中水泳は川や海でなくプールだった。
やったことのある人はわかると思うが、寒中水泳というのは不思議なほど寒くない。
1月の冬の盛りに、海パン一丁の裸体を寒風に晒すだけでもかなりのものだと思うのだが、精神的にちょっとしたお祭り状態になっていて、感覚が麻痺しているからなのか寒さを感じない。
さらに水中に入ると、水は冷たいというより痛い。
そしてひとしきり泳いだ後水から上がると、冷たい水が身体の周辺から無くなったことで、それだけで物凄く暖かい感じになる。

今考えてみると、あの寒中水泳の感覚は「慣れ」の対極にあるもののような気がする。
寒中水泳というのは、せいぜい10分くらいが限界の荒業だと思う。
あれを1時間も2時間も続けるのはたぶん無理だ。
つまり慣れることが出来ない。
もし寒中水泳に慣れることがあったら、茹でガエルの反対だけれど、水中で凍死しないといけない。

結局ある環境に慣れることが出来るのは、その環境ならまあ生きていけるなと、そのように身体なり精神の無意識領域なりが判断した結果なのかもしれないと思う。

だがあまり慣れた環境に居続けていると、その状況に過剰適応して問題のような気もする。
時々は寒中水泳的な、絶対に適応不能そうな状況に飛び込んでみることもたぶん必要なのである。

ひょっとしたら、絶対適応不能と思っていた環境に案外慣れることが出来たりして、それはそれでめっけもの、ということがあったりするかもしれないなどと思った。
posted by ヤス at 11:17| Comment(0) | 徒然なるままに
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