2016年11月23日

世間とエーテル

以前ネットで何かの番組を見ていて、「世間」という日本語を英訳するのに苦労する、というのを誰かが言っていた。
「世間」というのはいったい何者であるのか。
という疑問が、その時に多少とも脳内の一部を占めた。
脳内の一部を占めたのではあるが、そのうち他の雑事が脳内に入るとともにすっかり関心がなくなってそのままになっていた。

しかし、「世間とは何か」の疑問は、うっすらと脳内に滞在を続けていたらしい。

昨日ブルーバックスのことを書いていて、かつて物理学業界を席巻していた「エーテル」のことが頭をよぎった。
特にそれらしい理屈があったわけではないが、かつてのエーテル理論と「世間」というものが、何かどこかで結びついているような予感がしたのである。

とは言ってもわけが分からない。

かつて物理学業界を賑わした「エーテル」は、粒子であると同時に「波」でもある光が、この宇宙空間内を伝播するための必要不可欠の媒質である、と考えられていた。
「音波」というのは、空気中とか海の中ではよく伝わる。
よく伝わるからこそ音は聞こえる。
しかし宇宙空間には空気や水などの媒質が無いので音は聞こえない。
だから宇宙空間は無音の世界である。

おそらく音波伝播の理屈をなぞるように、光を伝播する媒質エーテルは考案されたものと想像する。
しかしいろいろと理論的に突き詰めていくうち、エーテルは極めて珍妙な特性を備えることが要求されることが分かってきた。
光というのは超高周波なので、これを伝播させるためにはエーテルは超高硬度の、かたーい物性でないといけない。
かつ、空気や水のような分子のツブツブではなく、空間を一様に満たす連続体である必要がある。
さらに、地球や太陽はこのエーテルで満たされた宇宙空間内で運動しているわけだが、これら天体の運動を観測した時に、エーテルの抵抗は微塵も観測されていない。
つまりエーテルの粘性や質量はゼロであることが推定される。

まあ難しい理屈はよく分からないのであるが、そういうことで数々の矛盾をはらんだ「エーテル」なる仮想の媒質は、結局のところ幻であったという結論に達したらしい。

広い宇宙空間には1立方センチあたり1個とかの割合で水素分子が漂っているというから、完全な「無空間」というわけでもない。
しかしその漂っている水素分子と、隣の水素分子との間の空間はまったくの無である、ということになる。

考えてみると不思議なことである。
まったく何の物質も存在しない「無」によって、この宇宙は満たされているのである。
昔の学者がエーテルの存在を半ば願望として想像したことが、少し理解できるような気がする。

ところで「世間」の話だ。
世間というのは元は仏教用語であるらしい。

その根源的な意味合いは難しくてよく分からないが、しかし世間一般でいうところの「世間」の意味は、そこに住むすべての人々の、人間関係の見えない糸の集合体であるようにも想像される。

その「世間」には、粘性とか剛性とかの物理的な実体は無いようであるが、しかしやっぱり「世間」はしっかりと存在している実感がある。
そういうことでエーテルと世間はやっぱり少し違うのかもしれない。
まあどうでもよいことではある。
posted by ヤス at 12:04| Comment(0) | 徒然なるままに
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