2016年11月14日

リアリティの範囲

この間知人と話をしていて聞いた話。
その知人はいつもの感じで先輩に電話して話していたそうだ。
それで何分か話をしていたら携帯電話の向こうの先輩から、

「今アメリカにいるから長電話したら電話代がかかるかもよ」

と言われて驚いた、という話だ。

こういうのは今時珍しくもないのだろうが、今や携帯電話でもメールでも、何千キロの海外でも国内と同じ感じでコミュニケーション出来る。
数十年前の時代には、テレビの海外生中継は通信衛生を経由するために大掛かりな設備が必要だったけれど、今ならインターネット回線とiPhoneを使ってごく個人的に生中継することだって出来なくはないだろう。

この十数年でまことに世界は小さくなったようである。

考えてみるとつい200〜300年前くらいまでは、自分の生まれた村から一歩も出ないで死んでいくような人だって少なくなかったと思われる。
そういう時代には、普通の庶民は身の回り半径2〜3kmのことだけ考えて暮らしていたのだろう。
たまに旅の坊さんとかがふらりと村を訪れて、遠い都の栄華の様子なんかを語ってくれたりするのが唯一の外部情報、というようなことだったのではないかと想像する。

我々現代人は、いちおう国政選挙といって、衆議院選挙や参議院選挙の投票をしたりしているが、このような国家レベルの「判断」を普通の庶民が出来るというのは、全国レベルの政治や経済の情報をみんなが日々受け取っているということが選挙の前提としてある。

だから庶民の多くが身の回りの狭い情報しかない江戸時代や室町時代なら国政選挙とかは出来ないということになる。

しかし一方で、普通の人間の思考範囲というのは、身近な出来事に対しては一生懸命考えるけれど、そのスケールが身近な範囲を大幅に超えるとあまり現実感がなく、何か他人事の感じが強くなる。
イギリス人がEU離脱に賛成したのも遠いEUより近くの自分の生活の方がはるかに重要に感じられたからだろう。
先のアメリカ大統領選も同じような構図があったと思われる。

普通の人間はある程度身近なことにしかリアリティを感じられず、10年先の未来のことより明日明後日の生活が大事である。

平凡な一個人が人口1億2千7百万人の日本国全体のことを考えたり、3億1千8百万人のアメリカ全体を考えるのは、何か無理があるように思えなくもない。
そういう意味では、民主主義の理想的な姿は道州制などの地方分権に分があるように思える。

だが、海外旅行はすっかり身近になり、インターネットを通じて20年前よりかなりミクロなコミュニケーションが出来るようになって、「一般庶民」の有り様もかなり進化はしている。

今、世界の民主主義は理想主義からだんだんポピュリズムの方に向かっているとか言われている。
それは人間のリアリティを感じる範囲が昔とさほど変わっていないことに原因があるように思うのだが、この先民主主義とか資本主義はどっちの方に向かうのだろうか。

というようなとりとめもないことを考えていたが、今から2〜3時間せっせと業務に精を出し、請求書を作って明日のおマンマを確保しなきゃ、と思った。
posted by ヤス at 17:42| Comment(0) | 徒然なるままに
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