2016年10月25日

見えない自分を見る

最近「メタ認知」なるものについてよく考えるようになった。
メタ認知とは、「認知を認知すること」である。
「メタ」はギリシャ語起源で「超」というような意味合いであるらしい。
だからメタ認知は「超・認知」と書き換えることが出来るのかもしれない。

一般に、人間が何かを認知している瞬間、その認知している自分を客観的に認識することはあまりない。
例えば自動車の運転は、初心者時代はすべてがおっかなびっくりびっくりで、ハンドルやブレーキ・アクセル操作などをいちいち意識して動作しないといけないので非常に疲れる。
運転に慣れてしまうと、やがてそれらの操作はだんだん無意識化していき、全然別のことを考えながらでもスムーズに運転出来るようになる。

または普通に美味しい食事を食べている時、特に脇でスマホをいじくったりしていれば、無意識で咀嚼し飲み込んで、よく味も分からないままだったりする。
これが2万円のコースのフランス料理とかだったら、ぐっと意識を料理に集中して、その味や食感を細大漏らさず味わって元を取ろうと努力するだろう。

テレビの番組でタレントの武井壮が、椅子に座ったりコップを手に持ったりする時に、無意識に動作しないで身体の細かい動きに集中して意識する、そうすることによって身体操作の機能が研ぎ澄まされる、というような話をしていた。

試しに普通に街を歩いている時、骨盤の動きや手の振り、重心が踵よりか爪先よりか、ハムストリングの力の入れ方など、身体の隅々に意識を巡らせることによって無意識に歩くのとは少し違った感じになる。
それは、ぎこちないと言えば多少ぎこちない感じだ。
でも、日頃あまり意識しない「歩き方」に意識を時々向けていると、無意識時の歩き方もだんだん洗練されて疲れないスムーズな歩き方が手に入るような気がしている。

結局のところ、日頃無意識にこなしてしまう数々の動作を多少意識的にコントロールするようにすることで、無駄や無理が省かれていくのではないか。
無意識に自動車を運転していたのをハンドルの握り方やアクセルの踏み方に集中してみる、吉野家の牛丼を食う時にも、玉ねぎの噛み応えやツユの塩加減に注意を向けてみる、そういうようなことで運転が上手くなったり食事の味に敏感になったりするだろう。

おそらくある分野のプロフェッショナルというのは、その分野に関して人一倍集中してメタ認知している人のことを言うのだろう。
一流の大工が木材にカンナがけする時とか、指先で感じる振動や木屑が削れる音の具合、あるいは削れた断面が発する微かな匂いなども敏感にキャッチして最高のカンナがけをしているのではないか。
というのは素人の勝手な想像であるが。

人間というのは自分のことはなかなか見えない。
というか、自分で見ることの出来る自分は内側から見える自分だけで、他人視点からの自分は自分では絶対に見えない。

そういう絶対的に見えない自分が存在することをメタ認知することも重要なことである、などと考えているうちに、なんだかよく分からなくなってきたので今日はここでおしまい。



posted by ヤス at 15:58| Comment(0) | 徒然なるままに
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