2016年09月29日

がんばってはいけない

時々マラソンを走る。
最近は、「走る」と言うほどには激走出来なくなった。
思い返すと最初のフルマラソンは13年前、2003年2月の「吉備路マラソン」だった。
そこから脚を痛めたりしての長期休養なども挟みつつ、なんとかちんたら走り続けている。

マラソンというのは大変苦しい。
特に最後の方は青息吐息になる。
特に最近は齢を重ねて人間が無精になっている。
いきおい、練習もいい加減なので42km余の中の20kmを過ぎたあたりでもう9割くらいの燃料を使い果たしている。

この状況を打破するには、適切な練習を重ねるしかない。
適切な練習とは、今よりもたくさん走り、かつ質的にもより追い込んだものにすべきであることは言うまでもない。
つまり今の練習より苦しい練習をしないといけない。

しかし苦しい練習は嫌だ。
本番のフルマラソンだけでも十分苦しいのに、その前にさらに苦しい練習を重ねるのはあまりに苦し過ぎる。
なんとか苦しくない練習で今より速く走れるようにならないものか。

そういうことを考える。
だいたい、苦しい練習というのは何年も続けることが出来るものではない。
オリンピックに出るようなトップアスリートが活躍出来るのは、ここで引退、という絶対的な期限が存在することが事前に分かっているからで、塗炭の苦しみもいつか終わると思えばこそ激しい練習に耐えることが出来る。

そういうものではないだろうか。

ごく普通の一般ピープルが、マラソンでもなんんでも何かを長く続けるつもりならば、それはなるべく苦しくない方がいいと思う。
まあ、時々苦しいくらいはいいのかもしれない。
マラソンでも、大会に出て42km余を走るのはまあまあつらい。
だが同時にマラソン大会独特のお祭りの高揚感があり、それでテンションが上がる分で実際に走る苦しさが相殺される。

その、ややマゾヒスティックな快楽がマラソンを続けることの動機になっている。

しかし日々の練習はあまり苦しくしてはいけない。
苦しい練習は、着手のハードルが上がる。
練習にとりかかるのが億劫になる。
短パンはいてタンクトップ着て気合を入れていても、いざ家のドアを開けて外に出て走り出す時に、なんとも言えないためらいが生じる。
練習を継続するには、このためらいが十分に小さくなる程度の精神的な負荷に抑えていないと、「三日坊主」ということが生じる。
一方で、あまり三日坊主の発生にこだわり過ぎるのもよくない。
継続がたびたび途切れても、ふつふつと湧き上がる意欲によってあまり間をおかずに練習再開出来ればそれで十分だろう。

おそらく、苦しくない練習の継続で現状よりも実力向上するには、苦しくはないけれどいくらかのトレーニング効果のある練習負荷のポイントを探り出すことである。
そのポイントで練習を重ねていると、負荷のポイント自体がだんだんレベルアップしていく。
そうやって苦しくない練習のレベルが上がっていくと、フルマラソン本番で今よりいくらか激走出来るようになるかもしれない。

というのはまあ考えてみると当たり前のことだ。
ポイントは、練習は苦しくない方が絶対に良く、人生はあまりがんばり過ぎない方が良い気がする、ということだ。
そのように思った。
posted by ヤス at 11:21| Comment(0) | 徒然なるままに
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