2016年09月12日

人によって違って見える

数学の世界、というのがある。
すべてが一分の隙も無い定理やら法則の積み上げによって出来上がった形而上の世界。
そしてその緻密な数学的世界の対極には、人間の生きるあいまいな現実世界がある。

しかしよく考えてみると、人間の生きる現実世界は言うまでもなくさまざまな物質で出来ており、それらの物質は原子とか、もっと細分化して素粒子などという微細な「何か」で出来ている。
そして原子や素粒子の世界は、精密な数式によってきわめて正確に記述可能だ。

つまり我々の生きる物理世界は、一分の隙も無い数学的世界の上に出来上がっていると言える。
もっと言うとこの現実世界は、まったく理屈の誤りを許容しない数学的世界そのものであるとさえ言っていいのではないか。

にもかかわらず、人間というのはかなりあいまいでいい加減だ。
人間の肉体も理論的に一分の誤りも無い原子や素粒子によって構成されているはずであるのに、人間の行動は理論的な正確さが思ったほどではない。
真面目で日頃の事務作業にも滅多に間違いのないようなきっちりした人でも、その口から出てくる言葉が常に厳密に理論的、ということもない。

そもそもこの言葉というのが曲者だ。
人間はおそらく目に見えたり耳に聞こえた外部世界をひとまず言語化して脳みそに格納する。
例えば「今日の天気は曇り空で日は照っていないが温度が高くてかなり蒸し暑い」、などという風に今日の気象状況も言語化出来る。
しかし上記の表現には温度が何度とか湿度何パーセントとかの情報が含まれていない。
あるいはこの記述が今日の何時何分何秒頃の状況であるか、というような細かい情報は省略されている。

我々は、普通の場合温度計がないと正確な温度を知ることが難しい。
また、ある地点の「今日の天気」を委細漏らさず正確に記述することは不可能だ。
だから人間は状況を大胆に省略し、現実に起こっている膨大な数の原子のうごめき、今わたしの周辺に原子が何百兆個の何兆倍あるか知らないが、ともかく、ほぼ無限大の情報量になるはずの現実世界の現象記述をほんの数バイトの薄っぺらい文字量に変換する。

人間は、一人一人がそうやって外部世界を大胆に省略して認識しており、省略の仕方は一人一人の思考のクセで微妙に違うだろう。
だから同じ風景を見ても人によって違う風景に見えているはずだ。

人間が外部の世界を見たときの認識の仕方は、違う人で同じに見えている共通部分よりは、どちらかというと人によって違うように見えている部分の方が多いのではないか。

人付き合いとかコミュニケーションの本質というのは、そもそも個人個人で違って見える世界の認識について、数少ない共通部分を探る試み、と言えるような気がする。

少し気を緩めると、自分と同じ場所にいる他の人も同じ風景を同じように見ているに違いない、そう思い込みがちである。
そのことに最近やっと気付いたのだが、自分でない他の人は同じ方向を向いていても自分とは違う物を見ているに違いないので、いつも忘れないようにしよう、と思った。
posted by ヤス at 14:21| Comment(0) | 徒然なるままに
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