2016年05月22日

自意識について

さて、今日は「自意識過剰」について少し考えてみる。
舛添都知事の記者会見をちら見していると、自意識、というか世間に対する自分の見え方をすごく気にしているのだろうなあと突然感じたからで、まあ他に深い意味は無い。

そもそも自意識とは何であろうか。
あるいは自意識が過剰、とはどういう状態のことを言うのだろう。

今地球上には70億人以上の人間が居る。
70億人居るけれど、「私の自意識」はわたしというただ一人の人間にあるのみだ。
「私の自意識」から見える社会的関係性は、一人対70億人の構造を持つ。
一人対70億人の関係性が70億個集まって地球の上に人間社会が出来ていると言える。

「私」にとっての「私の自意識」は、唯一特別の存在であって、それ以外の70億個の他人の自意識は、親類とか友達とか多少の関係性の差異こそあれ、まあ似たり寄ったりの存在であろう。
そう考えると、地球上の70億の人類にはみんな自意識過剰の素質があるように思えてくる。

そこへ持ってきて近代社会の特質であるところの「個人」の確立。
例えば中国の人たちは、つい30年くらい前まではみんな人民服を着て女性の化粧もかなり控えめだった。
それが今では経済の自由化が進んで「西側」の文化が一挙に流入し、特に都会の人たちを手始めにファッションもライフスタイルどんどん個性化してきている。
これなんかは社会的な自意識拡張の見本のようである。

あるいは、テレビタレントとか政治家とかハリウッドスターとかは、職業的義務として自意識に意を割かないといけない。
自分がテレビ画面を通じてどのように見えているのか、一般大衆は自分のことを嫌いな人が多いのか好きな人が多いのか、どうやったら好きな人が増えるのか、こういう職業の人は気の休まる暇もなくそんなことを考え続けているに違いない。
そういう意味では一般大衆に比べると自意識が過剰な人たちに違いないわけであるが、一方であまりに自意識が過剰なようすを悟られると好感度が下がる。

そしてテレビ画面を観ている大衆が抱くタレントイメージと、タレント本人がプロデュースするセルフイメージがある種の認知的不協和を起こすとおそらく好感度が下がる。
そういう時、観ている人たちは「裏切られた」と思うのだろう。
この構図は一般人の人間関係でもたぶん同じで、相手が私に持つイメージと私自身の自意識とがある日突然食い違うと、裏切られた感じがして関係が損なわれる。

そうならないためには、相手にあんまり期待しない、「自意識」の側もあんまり背伸びしない、ということが必要であろうと思う。

「自意識」とそれを受け止める相手側の関係の難しさは、おそらく近代社会のひとつの宿命なのであろう、と思った。
posted by ヤス at 17:00| Comment(0) | 徒然なるままに
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