2015年12月25日

言葉の不思議

我々は日本語環境の中で育ち、自然に日本語を習得する。
言葉を覚える時に、いちいち辞書を引いて字句の意味を確かめたりしない。

たとえば、クルマと言ったらエンジンが付いてて人を乗せて走る自動車のことと思う人が多いだろう。
でも人によっては車輪状のクルクル回る「輪っか」を指してクルマという場合もある。

たいていの単語にはいくらかその意味に幅がある。
犬と言ったら大きい犬も小さいのも、老犬も幼犬も犬。
犬の意味を絞り込みたいときは「大きい犬」「小さい犬」など他の言葉との組合わせ技を使う。

その意味にある程度の幅があるために、少しの単語であらゆる事象を表現出来る。
もし単語の意味が今よりもっとピンポイントだったら、膨大な量の単語を覚えねばならない点で言葉の習得がひどく不自由になるのだろう。



言葉の意味には幅がある、すなわち多くの単語はかなり抽象的である。

言葉を使う我々は、抽象的な単語の連なりで相当程度具象的なことがらを表現出来る。


たぶん言葉を発した人の脳裏には、使った単語のそれぞれに、大なり小なりのバックストーリーがある。
さらに、その言葉を受け止めた人にも受け取った単語のそれぞれにバックストーリーがあって、同じ単語がだいたい共通のバックストーリーで結ばれている。

だから文脈が伝わる。

実際問題、あらためて考えると、日常使っている言葉はかなりぶつ切りで、飛び飛びで、ざっくりした単語の連なりであると感じる。
こんなざっくりした文章でよくコミュニケーションが出来たもんだと、人間の能力に感心するのである。

それはたぶん、三つ四つくらいの単語からなる短い文章でも、耳から入って脳の言語中枢に到達した瞬間に、ばっーと具体的なイメージに変身するメカニズムがあるからだろうと思うのである。

ところで、バックストーリーの肝心な部分にお互い相違があるとそれは誤解の元になる。
国籍や文化や宗教の違い、金持ちか貧乏か、男か女か、年寄りか若いかなど、さまざまな要因で言葉に対するバックストーリーの違いが生じるだろう。

でも人間はかなり偉大なので、多くの場合細かい食い違いはスルーする。
スルーしないと言語処理が渋滞してお話にならなくなるからだ。

言葉によるコミュニケーションは、すごいような、いい加減なような、不思議なものであるなあと、ぼんやり思ったのでした。
posted by ヤス at 14:59| 徒然なるままに