2019年06月30日

出汁ダイエット

梅雨の季節ではあるが、このところ蒸し暑い日が続いている。
今日はひと雨降って少しだけ涼しいが、それでもやっぱり暑い。
だからわたしは家の中では熱帯の密林に住む未開人のごとくほぼ裸で過ごしているのはここだけの話である。
未開人は、ちょっと前までアイスクリームを食べるのを控えていたが、こうも暑いとむしょうに食べたくなる。
ということで先日も3日連続で明治エッセルスーパーカップバニラを食べたこともあった。

しかし、いいおじさんがアイスを食う絵はあまりダンディでない。
できればアイスクリームとかその他の甘いものを食べないクールなライフスタイルを手に入れたい。
そう思っていたら、最近はなんでも「出汁ダイエット」というのが話題になっているらしい。

出汁の効いた食べ物を食べると、少量でも満足感が増し食べ過ぎ防止にいいらしい。
また出汁は甘みだけでなく、減塩した場合の味付けの物足りなさを補う効果もあるという。

だから、というわけでもないが、わたしはこのところほぼ毎日「マルコメだし入り一休さん」で味噌汁を作って食している。
「一休さん」は汁椀の中で茶こしを使ってお湯に溶かすだけでできるので非常に便利なのである。
また、以前までは「一休さん」の味噌汁は具の無い汁であったが、このほどめでたく「味噌汁の具」を買って、毎回ひとつまみ汁に放り込んでいる。
そうすると、この間までわびしい具の無い味噌汁だったものが、旅館の朝ごはんのような立派なのに生まれ変わる。

「一休さん」の出汁は「かつお、昆布」であるらしい。(パッケージに大きく印刷してある)
出汁の成分は大きく分けてアミノ酸系と核酸系に分かれる。
アミノ酸の一種であるグルタミン酸が昆布に含まれていて、これが旨味の素になる。
グルタミン酸は玉ねぎや味噌・醤油とかにも豊富らしい。
これはどうも植物系の材料に含まれる旨味成分なのである。

一方、カツオの出汁はイノシン酸と呼ばれ、これは核酸系に分類される旨味成分である。
イノシン酸は牛豚鶏などの肉類にも含まれる、動物性の旨味成分のようだ。

旨味成分にはもうひとつ「しいたけ」のグアニル酸があるが、グアニル酸はキノコ類にしかない成分のようである。

旨味成分は組み合わせで効果が増大するそうで、グルタミン酸とイノシン酸を合わせるとぐっと旨味が増す。
というのが合わせ出汁の「能書き」であるらしい。

しかし出汁の効いた食べ物を積極的に食べるにはひとつだけ難点があって、それはコストの問題である。
まともに鰹節や出汁昆布を買ってきて出汁を摂っているとかなり材料代が掛かる。
貧乏人と金持ちで、貧乏人の方が肥満傾向が強いとかいう統計結果もこのあたりに由来しているのではないか。

それで考えたのであるが、一番安上がりに旨味成分を摂るには「味の素」のお徳用1kg袋を買ってきて、白いご飯でも何にでも振り掛けたらいいのではないかと思う。
ちなみに「味の素」の原材料はサトウキビなので、何に振り掛けても安心なのである。
posted by ヤス at 12:48| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月29日

PCとかAIとかによる革命について

わたしが社会人になった1991年頃、世の中の人々はまだみんなコンピューターなんか使わないで仕事をしていた。
ただし何年か前からワープロ専用機が普及していて、わたしも富士通オアシスを1台持っていたのだが、みんな書類を作る時はワープロだった。
それで1993年頃、わたしはちょっとした地域開発の手伝いをする会社に転職したのだが、その会社では某上場企業が主導するリゾート開発の事業計画を下請けで作っていた。
事業計画ではいわゆる「表計算」を多用する。
その頃はたぶんMS-DOS版の「ロータス1−2−3」が表計算ソフトの王様だった。

しかし田舎で細々と仕事をしていた「我が社」には「1−2−3」はない。
何しろMS-DOSパソコンがなく、キャノンのワープロ専用機しかなかったから仕方がない。
恐ろしいことにその当時は、10年20年にわたる投資回収計画の表計算を電卓でやっていた。
まあわたしは事業計画の直接の担当ではなく「デザイン担当」だったのでたまに手伝いをするくらいだったのだが、その事業シミュレーション計画を会議で報告する数日前とかになると「会社総出」で電卓を叩いて検算やらなんやらにてんてこ舞いしたものである。

で、この頃にApple ComputerのMacintosh版のExcel日本語版が出た。
それで「我が社」も大枚叩いてMacintoshを買い、めでたくExcelも導入された。
Excelの導入以前と以降は、それこそ革命といっていいほど仕事ぶりが変化したのだと思う。
それまで5〜6人で1週間がかりでやっていた計算作業が、1人の人間の1日の働きで十分以上にこなせるようになった。

しかしわたしも最初の頃は表計算に慣れなくて、Macintoshでやればあっという間にできるような計算作業を頑なに電卓でやっていた保守的な瞬間もあった。
それで、これではいけないと思ってキヨミズの舞台から飛び降りる覚悟で25万円投入してPowerBook150というMacの入門用ノートパソコンを買ったのがわたしの最初のパソコン購入なのであった。

1990年代は、それでもパソコンによる生産性改善に懐疑的な意見も多く、パソコンは却って生産性を下げるのだ、という主張の書籍が売れたりしていたけれど、間近に「働き方改革」の実例を見ていたわたしのパソコンのありがたみに対する信頼は揺るがなかったのはいうまでもない。

で、パソコンによる生産性の改善は、最初はパソコンそのものの計算能力、第二波がインターネットによるもの、そして第三波が今来ていると思う。

それはAIによる革命であり、全地球上のビッグデータが個人で活用できることである。
テキスト情報に始まり、画像、音声、動画などいろんな形態の情報をスマホひとつで自由自在に検索できる時代がやってきたのである。
Googleレンズを使うと、目の前のハンバーガーが「グランガーリックペッパー」であることをスマホが瞬時に教えてくれる。
あるいは岡山弁しか喋れないわたしでも、英語はもとより、中国語やらフランス語やらスペイン語やら、アラビア語やらスワヒリ語やら、どんな言語でも瞬時に翻訳して理解し、また返答することができる。

1992年に漢字による筆談だけで中国を40日間バックパック旅行した身としては、この進化はなかなかアンビリーバブルだなあ、とか思ったりする今日この頃なのであった。
posted by ヤス at 11:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月28日

遠慮なく生きることについて

仕事の先に行ってエレベーターに乗ることがある。
その時に「どうぞどうぞ」とかいって、お客さんに先にエレベーターに乗るように促されることもある。
そんな時の正式な作法がどういうものか知らないのだが、わたしの場合もう遠慮なくすっと先に乗ることに決めている。
本当は相手が自分より「偉い人」の場合は、逆に相手が先に乗るように「いやいやそちらこそお先に」みたいに譲った方がいいのかもしれない。

それでわたしも世間に出た最初の頃は「そちらこそ」とやっていたように記憶している。
しかしエレベーターというのは「上がる(または下がる)」ボタンを押してから到着するまでの間が、実際は十秒くらいしかないのに妙に長く感じるものである。
何かを待っていて、その待つ間に何もすることがない場合、その時間が無限のように長く感じられる。
かすかにイライラする時だってある。

そんな時、ひょっとしたら上の方の階のエレベーターホールで「どうぞどうぞ」「そちらこそ」とやっている場面を想像すると、少しだけ腹が立つ。
そういう想像をするようになってから、エレベーターでの「そちらこそ」は止めた。
とにかくエレベーターが到着してスッとドアが開いたら、何も言わずに真っ先に入る。
それで「開く」ボタンを押すかドアのフチのところを押さえて、後続の人が入るのを待つ。
誰か一人が真っ先にエレベーターに入ると「どうぞどうぞ」とかやっている暇がなくなる。
そうするとエレベーターの運転がスムーズになる。(はずだ)

あと、宴会とかで大皿料理があって、皿の上に唐揚げがひとつ残っているときとか、率先してその残りのひとつを食べるようにしている。
残りの唐揚げを早く消費することによって、給仕のお姉さんが皿を片付けるのがスムーズになる。

「遠慮」という概念がどのようにしてこの社会に定着したのか知らないが、人々の遠慮は社会の回転を少しさまたげている感じがある。
そういう感じがしたので、わたしは現在「遠慮のない」キャラを己に設定して生きている。
誰かに奢ってもらう時も遠慮なく奢ってもらう。
そういう時多少ためらいというか、正直いって「遠慮」の気持ちが心にまったくないわけではないが、キャラ設定した以上、今のところそれを通している。

「遠慮」と書いて「トオクをオモンバカる」と読める。
ということは、世の中の遠慮する人々は先々のことを考えに考え、周囲に入念に気を遣った上でエレベーターを譲ったり唐揚げを残したりしているのだろうか。
やっぱり多少は遠慮して生きた方がいいのだろうか。

ただ幸いなことに歳をとってジジイになると、若い頃よりは遠慮すべき場面が減る。
近いうちに心底から遠慮のない人間になれそうな予感もする。
その辺、「遠慮」との付き合い方はけっこう難しいなと思ったりしている。
posted by ヤス at 13:50| Comment(1) | 徒然なるままに

2019年06月27日

吉本芸人闇営業について少しだけ

カラテカ入江をはじめとする吉本興業の芸人の「闇営業」がこのところずっとニュースになっている。
入江が吉本を契約解除になって、それでこのニュースは収束して他のネタに流れていくのだろうと思って見ていたら、それからいくつか「続報」があって数年前の事件のネタをここまで引っ張っている。
それでそれらのネットニュースを眺めていてちょっと思ったのだが、事件に関する批判が闇営業に関わった芸人に集中していて吉本へのそれがあまり見られない感じがする。

最近は芸人たちも企業CMやらニュースバラエティみたいな番組のキャスターをやったり、一定の社会性が求められるようになっているのかもしれない。
そういうこともあって、吉本的にはお抱えの芸人たちのイメージをそれなりに適切な感じに保っておかないといけない。
だから昔と違って芸人に対する処分がかなり重くなるのはしょうがない。

また今回の闇営業に関わった芸人たちも、あまり深く考えずにホイホイ話に乗ったようで、その点でかなり間抜けであったり、あるいは小遣い欲しさのゲスな側面があったろうことも否めない。
また事件がバレた直後に「ギャラはもらっていない」とか嘘をついたのも決定的にまずかった。

しかしそれにしてもである。

吉本側は関わった芸人を契約解除したり謹慎処分にしたりして必要以上に「正しい管理者」然としているように見えてしょうがなくて、そこのところがなんだか釈然としない。
本当は、こういう「直営業」がらみの犯罪組織との関わりについては、吉本がその責任の大部分を負うべきではないのか。
本来なら役員の報酬カットとかしてもいいのだと思う。(何かしているかもしれないが)

報道されているところでは、吉本と芸人の間にはちゃんとした「紙の契約書」もなく、今回の「契約解除」とか「謹慎処分」には「法的裏付け」は何もない。
その点は吉本側のさじ加減ひとつなわけである。
これもいろんな報道を見ていると、吉本の芸人管理は基本的に「放し飼い」であって、営業とか企画とか、かなりの部分芸人の自主管理でまかなわれていたという。
そういうことだから、ちょっと間抜けな芸人の場合、闇営業にせよオモテ営業にせよ反社会勢力から受注する可能性もなくはないのだろう。
で、万が一反社会勢力との関わりが発覚した場合は、その仕事をセッティングした芸人を切れば吉本本体には大きな害が及ばない。

そういう仕組みになっているように見える。
それはあまりフェアでないように思うがどうなのか。

まあ私企業のやることだから基本的には「勝手にやってください」ということなのであるが、しかし世の中のニュースが芸人個人への批判で埋め尽くされている現状は、なんだかバランスが悪い。

本当は吉本の管理体制にも相応の批判がなされて、そこから芸人なり芸能人なりの労働組合結成とかの話に発展していったりすると、もうちょっとお話として面白いのにと思うのだが、たぶんそうはならないのだろう。
posted by ヤス at 12:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月26日

文字情報に含まれる嘘について

歴史上、世界最古の文字はメソポタミア地方はシュメール人の「くさび形文字」だ、と昔習った。
ネットで調べると紀元前4千年というから、今から6千年前の話である。
中国の「漢字」も、最古のものは3500年前のが見つかっているらしい。

文字というのは、言語情報を記録できる便利な道具として超画期的な発明だったのだと思う。
想像すると、文字の発明以前はもうその時には話し言葉はある程度完成していたと思うのだが、文字無しの話し言葉オンリーの時代には、約束といえば全部「口約束」になる。

例えば秋になって麦を収穫したら、収穫物を壺3つ分隣の家にプレゼントしようと約束したとする。
文字のない世界では、春にした約束が秋になって気が変わって「そんな約束は覚えがない」と言ってしらばっくれる人が多かったのではないか。
だから文字のない世界での約束では、第三者の証人を立てることが大切になってくる。
約束事における「証人」というのは、文字のない時代にこそ不可欠のものだったに違いない。

しかし一方で文字が発明されたことで、文字記録を使った「嘘」も発生するようになる。
権力を持った王様が、本当は大した実績は残していないが、王様の親戚やら部下やらが立てた手柄を勝手に自分のものにして、その記録を石の表面に楔形文字で刻みつける。
そしてその碑文の石を街の往来に立てると、国民のみんなは碑文の文字が事実だと信じる。

口頭の嘘は口づてに伝わるだけであるが、文字情報の嘘は複製などを作ることでより早く広く広まるし、固定化された情報として後世にも残る。

また言語情報というのは文字に限らず話し言葉であっても、事実の偏った側面しか捉えていなかったり、観察者が誤解した内容を言語化することで、意図的に嘘をついたのではなくても、いくらか意図せざる嘘が混入するものである。

だから何か文章を読んだときは、この文章にはいくらかの意図的な嘘、もしくは意図せざる嘘が入っているという前提をもって読解する必要がある。


不思議なもので手書きの汚い文章は「なんだか嘘っぽいなあ」と感じることが多いのに、カッチリと印刷された文字の場合はものすごく本当らしく読める。
確かに、それなりのコストとエネルギーを掛けて製造された活字文字は、やけくそに書かれた手書き文字より平均値とてしては信頼できるのかもしれない。

ただ、ある種の思想信条に突き動かされて製造されたような活字文字は、その情念のあまりに事実をジャンプした上でカッチリした印刷文字になることもある。
そういう注意が必要だと思う。
しかも事実をジャンプして書かれたような「情念的文章」の方が読んでいて面白いことが多いからますます始末が悪い。
一方で丹念に裏取りをして事実を忠実にたどったような本、例えばそれは「数学の教科書」とかだと思うが、そういう本は読みにくいこと甚だしい。
しかし真理に近いというところではより信用できる。

だから何か文章を読むときは、筆者の情念が感じられて面白い時はかえってその内容に注意が必要だなあと、そういうややこしいことをちょっと思ったりしたのだった。
posted by ヤス at 12:06| Comment(2) | 徒然なるままに

未来のVRを想像する

ネットニュースにVR技術を使った「バーチャルオフィス」の記事が出ていた。
例のVRゴーグルを顔に装着して、リビングにいながらにして会社に出勤する不動産屋がアメリカにはあるそうな。
ただし「手元の書類を見てください」という場面では、ゴーグルを外さないといけないらしい。
そういう点では普通の「テレビ会議」の方が使い勝手がよいようだ。

しかし、もうちょっと未来になって技術が進化して「VR出勤」が実用化されると、いろいろ革命的だろうということはなんとなく想像できる。
都会の通勤地獄もなくなるし、通勤やら出張移動時間そのものがなくなるからかなりスケジュールに余裕ができる。
朝は岡山で出勤して、5分後に東京で打ち合わせして、でも実は人間本体は北海道にいて夕方になったらジンギスカンを食っている。
そういうアクロバティックな生活も可能になるだろう。

VR技術も現在はでっかいゴーグルを顔に装着して、いわゆる視覚と聴覚だけ、絵と音に頼ったものである。
しかし未来のVRは映画「トータルリコール」のシュワちゃんみたいに、頭にヘッドギアを被って脳みそにダイレクトに刺激を送り込むものになる。(と思う)
そうすると、絵や音や、匂いや食べ物を食べた感じも、触ったり触られたりした感じも、全部本物そっくりに感じる。
というかたぶん本物の体験と区別がつかない。

今のゴーグルを被ったVRでは、腹の立つ上司を思い切りぶん殴るとかいうことはできない。
殴っても空振りするばかりだ。
しかし脳に直接信号を送り込む未来のVRでは、上司を殴ると殴った自分の拳にも手応えがあるし、殴られた上司も確かに痛い。

おそらくそこまで行って初めて「本物のVR」だと思う。

「本物のVR」が実用化されると、たぶん真っ先に需要開拓されそうな分野は「エロ」の世界だと思う。
VR上ではセックスをしても、本物と寸分区別のつかない快感はあるが女性は妊娠しない。
だから安心して、し放題である。
あるいは薬物の体験も、実際に薬物を摂取しないままに「ラリる」ことができる。
この場合ひょっとしたら中毒性もなくなって、「バーチャルドラッグなら合法」みたいな話になるのかもしれない。

ただバーチャルではニューヨークの三つ星レストランで食事をしても、絶品料理を存分に味わうことも満腹感を感じることもできるが、しかし実際に体に栄養素が入って来ているわけではない。
そういう点では「バーチャル満腹感」でダイエットとかいう商売もできるかもしれない。

また他方では、バーチャルで筋トレすると脳みそが本当に筋トレしたと勘違いして筋肉モリモリになれたりするのかもしれない。

未来のVRについて想像していると、楽しいようでもありちょっと怖い感じもする。
ただ、わたしが生きているうちにそういう完全なVRが実用化されたら、最後の余生はバーチャルでパーっと遊び狂い「VR廃人」になるのも悪くないかもしれない、とか思った。
posted by ヤス at 12:05| Comment(0) | 徒然なるままに

2019年06月25日

未来のVRを想像する

ネットニュースにVR技術を使った「バーチャルオフィス」の記事が出ていた。
例のVRゴーグルを顔に装着して、リビングにいながらにして会社に出勤する不動産屋がアメリカにはあるそうな。
ただし「手元の書類を見てください」という場面では、ゴーグルを外さないといけないらしい。
そういう点では普通の「テレビ会議」の方が使い勝手がよいようだ。

しかし、もうちょっと未来になって技術が進化して「VR出勤」が実用化されると、いろいろ革命的だろうということはなんとなく想像できる。
都会の通勤地獄もなくなるし、通勤やら出張移動時間そのものがなくなるからかなりスケジュールに余裕ができる。
朝は岡山で出勤して、5分後に東京で打ち合わせして、でも実は人間本体は北海道にいて夕方になったらジンギスカンを食っている。
そういうアクロバティックな生活も可能になるだろう。

VR技術も現在はでっかいゴーグルを顔に装着して、いわゆる視覚と聴覚だけ、絵と音に頼ったものである。
しかし未来のVRは映画「トータルリコール」のシュワちゃんみたいに、頭にヘッドギアを被って脳みそにダイレクトに刺激を送り込むものになる。(と思う)
そうすると、絵や音や、匂いや食べ物を食べた感じも、触ったり触られたりした感じも、全部本物そっくりに感じる。
というかたぶん本物の体験と区別がつかない。

今のゴーグルを被ったVRでは、腹の立つ上司を思い切りぶん殴るとかいうことはできない。
殴っても空振りするばかりだ。
しかし脳に直接信号を送り込む未来のVRでは、上司を殴ると殴った自分の拳にも手応えがあるし、殴られた上司も確かに痛い。

おそらくそこまで行って初めて「本物のVR」だと思う。

「本物のVR」が実用化されると、たぶん真っ先に需要開拓されそうな分野は「エロ」の世界だと思う。
VR上ではセックスをしても、本物と寸分区別のつかない快感はあるが女性は妊娠しない。
だから安心して、し放題である。
あるいは薬物の体験も、実際に薬物を摂取しないままに「ラリる」ことができる。
この場合ひょっとしたら中毒性もなくなって、「バーチャルドラッグなら合法」みたいな話になるのかもしれない。

ただバーチャルではニューヨークの三つ星レストランで食事をしても、絶品料理を存分に味わうことも満腹感を感じることもできるが、しかし実際に体に栄養素が入って来ているわけではない。
そういう点では「バーチャル満腹感」でダイエットとかいう商売もできるかもしれない。

また他方では、バーチャルで筋トレすると脳みそが本当に筋トレしたと勘違いして筋肉モリモリになれたりするのかもしれない。

未来のVRについて想像していると、楽しいようでもありちょっと怖い感じもする。
ただ、わたしが生きているうちにそういう完全なVRが実用化されたら、最後の余生はバーチャルでパーっと遊び狂い「VR廃人」になるのも悪くないかもしれない、とか思った。
posted by ヤス at 10:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月24日

同日選消滅で面白くない件とリブラなど

いよいよ国会の閉会期日が今日を入れて後3日になった。
この感じだと国会は延長されず、参院選は自動的に7月4日公示、21日投票になるらしい。
一時期は衆院選との同日選確実の噂もまことしやかに流れていたのに、なんだか肩透かしをくらったようだ。

ただ中曽根政権時、1986年の同日選(これが直近の同日選である)は「死んだふり解散」として有名で、直前まで同日選なしのかまえから国会が会期通りに終わった直後に臨時国会を開いて解散を打ったということもあったらしい。
だからまだまだ何が起こるか分からない、という向きもあるようだ。
とは言うものの、やっぱり99.99%くらいの確率で同日選はなくなった感じがする。

そして消費税も予定通り上がるのだろう。
同日選もなく増税延期もなし。
というのは、当初の予定通りでサプライズはなかったということだ。
なんだか面白くないがまあしょうがない。

ところで、話は変わってFacebookが仮想通貨を出すらしい。(今は「暗号資産」と呼ぶ決まりになっているらしいが)
その「リブラ」だが、これは仮想通貨(というか「暗号資産」)であって電子マネー的なものとは明確に違うところに注意が必要だ。
ただFacebookのリブラが同じブロックチェーンを使ったビットコインとまったく同等かというとそうでもないらしい。

Facebookでは、リブラはいちおう匿名で利用可能にするが、おそらく犯罪対策としてだろう、利用状況と同社のユーザー情報を紐づけて後から追跡できるようにするらしい。
またドルやユーロと価格を連動ささせて、他の仮想通貨のような乱高下を防ぐ仕組みにするというようなこともどこかに出ていた。
まあそれらの仕組みをどういう風に具体的に実現するのかはよく知らない。

Facebookのユーザー数は全世界27億人いるそうで、それらの人々がリブラにアクセスできるようになると、ドルよりユーロより人民元よりもずっと大きな「通貨圏」になる可能性がある。
もちろん日本円よりはるかに大きい。

ただし、インドではリブラに限らず仮想通貨に対する規制強化が進行中のようで、人口の多いインドでリブラが普及できないのはFacebook的には痛手である。

ただ状況としてはインドに限らずアメリカでもヨーロッパでも、そして日本でも、政府当局としてはこのような大規模な仮想通貨の広がりは自国通貨の権能保護の観点から見過ごせないに違いない。

日本の金融緩和政策も継続困難になるかもしれない。
アメリカの政府筋でも「リブラ中止」を求める強い声が出ているという。

ということで日本の政治状況はいったん落ち着いた(ように見える)わけであるが、近い未来に向けた火種は、日々あちらこちらで沸き起こっているのである。
posted by ヤス at 10:49| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月23日

最低賃金が上がる件について

今度の参院選では、最低賃金政策がひとつのポイントになりそうな感じになっている。
安倍首相は平成27年に最低賃金の毎年3%の引き上げを表明し、現在その方針に沿って最低賃金は順調に上がっている。
もうあと3年で目標の千円に届こうかというところまで来ている。
そしてここへ来て、野党の立憲民主党が「5年以内に1300円に引き上げる」ことを打ち出した。
最低賃金の引き上げは、もともと民主党の目玉政策だったと思うのだが、「元祖」としては自民党に負けていられないというところなのだろう。

とにかく、与野党ともに最低賃金の引き上げ合戦的な様相になってきて、この感じだといずれにせよ当分の間最低賃金は上がる。
最低賃金がそれなりに上がった数年後でも、同時並行でインフレが進んで物価が上がればその調整のためにさらに上げる必要も出て来てずっと上がり続けることになるのかもしれない。

野党の「5年以内に1300円」は、現在の最賃全国平均874円を元に計算すると年率8.4%程度の上昇率になる。

で、今でもバイト代がきついのに、そんなに上がったら経営が成り立たないよ、とボヤく中小零細企業の社長たち(大企業もだが)の姿が浮かんでくる。
最低賃金が上がると、それが原因で許容範囲を超える赤字の会社が出て来て潰れるところもあるだろう。
他方で、機械化して人を減らすとか創意工夫で生産性を上げるとか、対応するところもあるに違いない。

最低賃金の上昇は、一方では低所得者層の所得拡大という効果もあるので、それでいくらか景気浮揚する側面もある。
また最低賃金が上がっても、心配するほど失業率は上がらないという研究もある。
1990年代後半の話だが、イギリスは年率4.17%平均の最低賃金引き上げ政策を実行して、結果として最低賃金を政策実施前の2.2倍にまで引き上げたが顕著な失業率の上昇はなかった。

他方で隣の韓国を見ると、文在寅大統領の最低賃金引き上げ政策は一年で16.4%という過激なもので、引き上げ幅があまりに大きすぎて経済が混乱に陥った。

最低賃金の「マイルドな引き上げ」は経済の生産性を向上させる効果がある。
人口減少社会の日本では、人口増加による経済成長への効果は「マイナス」なので、生産性向上に取り組む他ない。
そのためには最低賃金の引き上げは合理的な選択であるように思う。

ただし、最低賃金の引き上げによる生産性向上のカラクリには、人件費上昇圧力により低生産性のボロな企業が潰れて消えることが含まれていることには注意が必要である。

最低賃金が千円になる日は意外に近いと思う。
その時に淘汰される側にいるか、最賃上昇の恩恵を受ける側にいるか、そこが問題だと思った。
posted by ヤス at 12:56| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月22日

客単価を引き上げることの必要性について

客単価について考えている。
飲食店の単価は、それでも最近はちょっとずつ上がって来ていると思う。
食材費の単価もこの数年で少し上がったし、世の中のインフレ率もわずかではあるがプラスで推移している。
こういう中では、巷の中小零細の飲食店も商品単価なり客単価なりを上げざるを得ない。
というか、そもそも中小零細飲食店の経営の肝は、本来から単価の引き上げにこそあったのではないか。
そういう思いを最近強くしている。
おそらくより重要なのは、お客さん一人当たりの買い上げ単価、つまり客単価の引き上げである。

客単価が重要なことの背景には、まず人手不足がある。
というか、この場合の人手不足は「安い時給で働いてくれるアルバイトの不足」のことであるが、つまりこの先人件費コストはだんだん上昇していくことが予想される。
政治的な「最低賃金の引き上げ」の話もある。
今の政府案だと年率5%で引き上げて3年程度で今の全国平均874円を1000円超にもっていく腹づもりらしい。

最低賃金が本当にそんなに引き上げられるかどうかは微妙だと思うが、政府が上げなくてもある程度は市場原理で上がる。
中小零細飲食店は(大規模店でもそうだろうが)この人件費単価の上昇に備えないといけない。

そのためには客単価を引き上げることが必要だ。
今まで客単価千円だったのなら、将来1200円とか1300円とか1500円を目指さないといけない。
極端な話、多少売上が減っても客単価を上げることは是非ともやり通すべきだ。
客単価が1.2倍になれば客数が0.9倍に減ってもトータルで1.08倍の売上が確保できるのである。
店は多少賑わいが減るが、賑わいが減ってもそっちの方が確実に儲かるに違いない。

あと、市場人口が減っているという現実。
昔たまたま大阪の方で仕事をしたことがあったけれど、半径数キロの商圏内に50万人60万人がいる都会では広告宣伝の効率も良く、田舎の地方都市よりはるかにたくさん集客できる。
折り込みチラシを入れても雑誌広告を打っても、田舎ではなかなか集客効果が目に見えない。

田舎では集客に過大な期待はできない。
しかも今後ベースの人口はだんだん減ってくる。
だから客単価の引き上げを今から考えていないといけない。

ただ、当然のことながら客単価の引き上げは言うほど簡単ではない。
客単価を上げるとたいていは客数が落ちるだろう。
それは、今まで月3回来店していたお客さんが1回しか来なくなるということかもしれないし、まったく来なくなる人もいるということかもしれない。
客単価上昇によって、たぶんお客さんの来店パターンはかなり変わり、お客さんの顔ぶれそのものも入れ替わる。
それは単純な集客よりもずっとハードルが高い。
相当に脳みそを絞らないといけない。

あと、値段を上げるのには店の側に強い覚悟とか勇気が必要だ。
頭ではわかっていても、メンタル的にあと一歩が踏み切れないというところは多い気がする。

本当に、最後の最後は、メンタルとか「勇気」の問題だと思う。
posted by ヤス at 13:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月21日

余白の研究

昔、30万年くらい以前にわたしはデザインの仕事をしていて、デザインラフをお客さんに出してしばらくすると「直し」が返ってくる。
その「直し」の中にしばしば「余白になんか入れろ」というのがあったのを思い出した。

そのたびにわたしは「ちぇっ、崇高なデザインの世界における余白の意味が分かってねえんだよな」と心の中でブーたれながら、しかしお金をくれるお客さんの言うとおりに直しをしたものである。
だが今考えると、わたしの作ったデザインの余白は、やっぱりお客さんにとってはただの余白にしか見えなくてなんだか未完成な感じを与えていたのだろうと今更ながら反省する。

良い余白は、その白い何もないスペースそのものに何とも言えぬ存在感がある。
何もレイアウトされていないけれど、何かが詰まっている感じ。
あれは何なのだろうかと思う。

音楽なんかでも、音と音の間にしばらく無音が続く瞬間があったりする。
あるいは漫才とか演説とかのしゃべりでも、何もしゃべっていない「間」の置き方が上手なしゃべり方のポイントだったりする。

それで少し考えてみたのだけれど、あの何もない空間、無のスペースは、見る人や聞いている人の脳みそが想像力を働かせてその何もない空間を埋めるための空きスペースなのだろうと思った。

これは小説なんかでもあることかもしれないが、全てを語らず、それまでに作り手によって提示された内容を材料にしてその空きスペースをお客さん自身が埋めるための部分である。
空きスペースの埋め方はお客さんそれぞれで違うだろうし、その埋める内容は分量として作り手が提示した内容の何倍にもなる可能性もある。
そういうことで空きスペースがあることで、その作品に思いがけぬ含蓄や広がりが感じられるようになる。
そういう含みを感じさせる空きスペースこそ、良い「余白」なのだろうと思う。

どうも30万年前にわたしが作ったデザインラフの余白は、お客さんの想像力を何ら掻き立てなかったらしい。
それはただの欠落であり、怠慢労働の動かぬ証拠に見えたに違いない。

しかし今一度反省してみるに、良い余白が豊富なデザインは、はっきり言って作業時間の著しい節約になる。
その上で見る人の想像力を刺激して何らかのワクワクを与えるのだから、発注者側にとっても下請け労働者側にとってもいいことずくめだ。
そういう点で「余白の研究」は、今後もっと追求してみるべきテーマのような気がする。

ということで、今後はいろいろと余白が多めになるかもしれないが、みなさまにはけっして頭の中を真っ白にせずその余白を味わっていただきたいのである、などと思った。
posted by ヤス at 11:46| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月20日

タピオカゴミ問題

今「タピオカ」が熱いらしい。
東京の原宿は最近ではタピオカの街と化しているそうだ。
わたしはもちろんタピオカティーとか、飲んだことはもちろん見たこともない。
それで「タピオカ」について早速ググってみた。

“タピオカ (葡: tapioca、木薯) は、トウダイグサ科のキャッサバの根茎から製造したデンプンのこと。菓子の材料や料理のとろみ付けに用いられる他、つなぎとしても用いられる。紙の強度を上げるための薬剤の原料としても重要である。”

ウィキペディアにこのように書いてある。
わたしはタピオカティーの底に沈んでいる黒いつぶつぶは、てっきりぶどうやブルーベリーみたいな「実」なんだろうと思っていたがどうもそうでもないらしい。

それで今、原宿界隈ではタピオカを「歩き飲み」した後の飲みガラが大量に捨てられて、それで関係ない自販機のゴミ箱にもタピオカティーのプラスティック容器が溢れて問題になっている、とニュースに出ている。

しかし流行りものの威力は恐ろしい。
発祥の地の台湾で初めてタピオカを入れたミルクティーが世に現れたのが1983年頃のことらしいのである。
これが台湾名物としてすっかり定着し、比較的すぐに日本にも上陸し、1990年代後半頃にはその知名度が高まった。
日本におけるタピオカティー(面倒臭いので以下「タピ」と省略する)は2008年頃にもちょっと盛り上がりを見せ、2018年から始まった現在の流れは第三次ブームであるそうな。

第三次ブーム発生原因については、たぶん「タピ」がインスタ映えするためであろうということだ。
それで原宿あたりではお上りさんが「タピ」を買って、適当な原宿らしい街角を借景にして「タピ」をインスタで投稿する。
そしてインスタの役目を終えた「タピ」は飲みかけのまま路上に捨て置かれる。

「タピ」が話題になっているのは、単に流行りものであるからということよりは今はその廃棄物としての始末の悪さがメインとなっている。
「タピ」は店で座ってゆっくり飲むものというよりは、原宿の街をぶらつく際のアクセサリー的な存在であることが今回の事態の原因である。
かつてはビッグサイズのカラフル綿アメがそれだった時期もあったような気がする。

しかし他の飲み物に比べても特にサイズの大きい「タピ」容器は飲料系廃棄物としてはまことに始末が悪い。
お上りさんがあまりものを考えずに「タピ」を買ったはいいものの、てくてく歩いているうちに「タピ」の大きな容器がじゃまになり、捨てようと思っても専用のゴミ箱があるはずもなく、適当に手近なところにポイする光景が目に浮かぶ。

だから今後は「タピ」の売上に、ガソリンの揮発油税みたいに50円だか100円だかの容器廃棄費用を上乗せしたらどうかと思う。
その費用を各店から徴収して「タピ」の店で共同で容器を掃除する人を雇うといいんじゃないか。

と思ったりしたけれど、たぶん「タピ」のブームは間も無く終わるだろうからまあ静かにブーム終了を待つというのが最善の方法かもしれない。

おじさんもブームが終わって岡山の田舎から「タピ」が消えないうちに飲みに行こうかな、と思ったりしている。
posted by ヤス at 10:33| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月19日

モバイルバッテリーの容量について

先日モバイルバッテリーをAmazonにて購入した。
Anker PowerCore 15000 Redux (15000mAh)(3699円)というやつである。
これまでcheero Power Plus 3 13400mAh(当時3190円)というのを使っていたのだが、この間キャンプしていたら台の上からコンクリート床面に落下させ、見た感じそんなに壊れてもいなかったが、電源スイッチみたいなやつの押し込みが変になったので買い換えたのである。(もしくは買い足した)

前のcheeroは2016年10月16日に注文したのでかれこれ2年半ほど使っている。
使用感としてはバッテリーの劣化などはまったく感じないが、たぶん満充電容量などは確実に減少しているだろうと思う。
だから新しいAnkerを買った。

わたしにとってモバイルバッテリーはもはや竹馬の友、心強き援軍、気前の良いパトロンみたいな存在である。
出歩いているとみるみるうちにiPhoneの電池%が減る。
あるいはソニーのデジカメRX100の電池がいざという時に切れかかっていたりする。
またMacBookも調子よく使っているとみるみる電池が減る。
そういう時にはモバイルバッテリーで減った分を補てんする。

最近は客席回転改善の観点からだろうか、マクドナルドの客席コンセントが店舗改装を契機に消滅するという事例が各地で多発している。
出先で電源に難渋するケースが増えている気がする。
これは電源の消滅もあるしわたし自身の電源消費装置の増加というのもある。
そんな時のためのモバイルバッテリーなのである。

わたしがモバイルバッテリーに求める第一の要点は大容量であることだ。
iPhoneやデジカメや場合によってはでっかいiPadやMacBookも充電しないといけない。
そういうこともあて以前は13400mAh容量のを買った。
しかし同時に小ささ軽さも非常に重要だ。
わたしの主力移動手段は「徒歩」であって、カバンの中にはただでも重い電子機器が充満している。
モバイルバッテリーに残された重量的余地はきわめて少ない。

Cheeroの重量は245gほどだった。
大昔のバッテリーに比べるときわめて小さく軽い。
今回のAnkerは実測で267gほど。
約20g強の重量増である。

Ankerの購入ボタンを押す直前、わたしはカタログスペックで重量の絶対値が増えることを知り、Anker買おうか買うまいかかれこれ30分ほども悩み苦しんだ。
もうひとつ下のクラスに10000mAhが184gというのもあったけれど、大容量の過剰さの魅力はそれでもなお大きかった。
それと10000mAhの方には電源取り出し口が1個しかなく15000mAhは2個口付いているのも決定的だった。

だが今少し冷静になって考えていると、あるいはわたしは道を誤ったような気がしなくもない。
電源取り出しが1個口しかなく容量が多少小さくても、東洋思想的な精神に基づくならひとつ下のクラスでやりくりするのがベストだったのではないか。
わたしは自身の心の弱さゆえに要らざる過剰さを求め、過剰さに守られたわたしの精神はやがて堕落し、人間的にダメになってしまうのではないか。
それよりか多少足らずの感があるとはいえ、軽快な方を選択して足らずの部分はマネジメントによって補う方が人間鍛錬として正解だったのではないか。

そういう後悔が真新しいAnkerバッテリーを前に少し湧き上がってきたりしている。

まあ、何はともあれ、届いたAnkerは黒い筐体にちらっと見える青いパーツ、青い容量インジケーターLEDが挿し色になってなかなか格好いいじゃん、と思ったりもしたのでした。
posted by ヤス at 11:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月18日

新種の恐竜と人類初飛行

中国で、新種の飛ぶ恐竜の化石が発見されたらしい。
ネットニュースに復元像が出ていて、ずいぶん小さめな羽根を広げて、キジかクジャクのような長い尻尾を後ろにぴんと伸ばした姿をしている。
体に短い羽毛も生えていて、これは化石でも羽毛の痕跡が発見されたということなのだろう。
ただあの短い羽根だと現代の鳥やコウモリのように自由に飛び回ることは全然無理な感じである。

ネットニュースにもムササビやモモンガのように滑空していたのだろう、と出ている。
しかしムササビの方が身体に対する「羽根」の大きさの比率はずっと大きいように見える。
この小さめの羽根を備えた新種の恐竜は、たぶんムササビやモモンガなんかよりずっと飛行能力は低かったのではないか。
ムササビの滑空距離は普段は数十mだが最大で200m飛んだ記録もあるらしい。

まったくの想像だけれど「新種の恐竜」はせいぜい10mかそこらの距離を、枝から枝に飛び移る時にジャンプ距離を多少延伸するために羽根を使うくらいの感じだったのではないか。

しかしこの「新種の恐竜」は、やがて始祖鳥など、より本格的な飛行を行う種に進化したかもしれず、そこからもジリジリ進化を続けて現代の鳥類に化けて今では自由自在に空を飛んでいるわけである。
その間が数百万年か数千万年か知らないがものすごい時間をかけて空を飛ぶようになったというのは、そこに何か「空を飛びたい執念」でもあったのではないかと錯覚する。


ところで1903年に「人類初の動力飛行」を行なったとされるライト兄弟だが、この人類初飛行を行った「ライトフライヤー号」を復元して飛ばすプロジェクトが何年か前に行われたことがあったらしい。
しかし復元した「ライトフライヤー号」は操縦特性が恐ろしくピーキーで、微妙な舵操作ですぐに安定を失って結局飛べなかったらしい。

というのも当然で、120年前のライト兄弟は動力初飛行に先駆けてグライダーによる飛行実験を何年もの間重ねて、超絶的な飛行テクニックを習得してから動力初飛行に挑戦したらしい。
その当時は、重たくてパワーのないガソリンエンジンを積んだ「機械」が空を飛ぶのは不可能という論調が支配的でライト兄弟の試みは嘲笑の対象だったそうだ。
そのような世間の逆風にもめげず、ライト兄弟はさまざまな飛行機の形態を模索し、同時に夢の初飛行に向けて操縦技量も磨いていった。
人類初の動力飛行のためにはかなり超越的な操縦テクニックが必要というのを見抜いてそれを戦略的に磨いたライト兄弟は、実はその点こそがものすごく偉大だったのかもしれないと思う。

しかし数年後に飛行機が商品として売られる段階に至り、ライト兄弟の作った量産機はたぶんその飛行特性のピーキーさから、ライバルのカーチスとかに商業的に敗北する。
というエピソードを妙に羽根の短い新種の恐竜の写真を見てなんとなく思いだした。

そしてすでに絶滅した古代生物に「新種」っていうのもなんだか変な話だなあ、と少し思ったりもした。
posted by ヤス at 09:08| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月17日

「おひとりさま」について

「おひとりさま」文化というのは、ひょっとしたら日本ならではのものなのかもしれない。
大昔は温泉旅館なんかでも、女性の一人客は「訳あり」だというのでお断りされていたようなこともあったらしい。
それが最近では、温泉宿はもちろん焼肉屋も映画もディズニーランドも「おひとりさま」で出かける文化がすっかり定着したようである。

この「おひとりさま」文化は2005年頃から流行しだした言葉らしい。
誰が最初に「おひとりさま」と命名したのか、ネットでちょっと調べたがよく分からない。

男性の場合はもともと一人で何かをする、吉野家に行くのも焼肉屋に行くのも一人というのは大昔からそんなにめずらしくはなかったと思う。
おそらく「おひとりさま」の言葉が主に指しているのは「女性の一人客」なのではないかと思う。

最近は海外でも「おひとりさま」が少しずつ広まっているらしいけれど、日本でこれが広まったのは、ひとつには日本は治安がいいので女性の一人でも全然安心というのがあるのかもしれない。

あと、結婚年齢が高齢化したりそもそも結婚しないという人が増えて、かつてなら夫婦二人で行動していたものが女性一人で行く、というケースが増えているらしい。
なるほど学生時代なら誰かを誘ってどこかに行くというのは自然な行動パターンであるが、社会人になって20歳代後半から30歳過ぎくらいになると、なかなか友達を誘ってどこかに行くのもやりにくくなるだろう。

しかしそれでもディズニーランド(またはシー)に行きたい、と思う人はいるわけで、そういう場合はもはや一人で行かざるを得ない。
そこへもってきて「おひとりさま」なる言葉が流布されて、今まで一人で行くことがなんとなく憚られていた場所が一人客に広く門戸を開くようになった。

ディズニーランドや焼肉屋だって、家族客やカップル客の減少を、ただ指をくわえて見ているわけにもいかない。
「おひとりさま」をひとつのセグメントとして明確に認識し、そこへ向けたプロモーションをがんがん打つ流れがいつしかできたのだろうと思う。

それやこれやがあっての「おひとりさま」文化の定着なのではないかと想像する。

最近マクドナルドに行くと「おひとりさま」を効率的に収容できるカウンター席が、だいたいどの店にも設置されるようになっている。
あれはもともとは、カウンター席主体で商売していた吉野家あたりが発祥だと思うが、少し前から吉野家の方が複数客を取り込むためにボックス席に力を入れたりしていて、その辺の業界的な交錯具合もなかなか興味深い。

まあわざわざ「おひとりさま」と認識する必要があるほど、この世は複雑な人間関係がからまっているのだろうかなあ、とか思ったりした。
posted by ヤス at 11:25| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月16日

考えるな、感じろ

考えを整理するためにはいったん考えていることを紙に書き出すと良い、みたいなことをよくいう。
頭で考えるのと紙に書くのとでは、言語情報の内容としてはたぶんそんなに変わらない。
ただ紙に書くと、その内容を頭の外に追い出すことができる。

考えを頭の外に追い出すことができると、なんとなく頭が軽くなる。
考えるというのは脳の中で言葉を組み立てる作業をしているのであり、紙に書くことによりとりあえず脳内言語化作業を中断しても言語情報は目の前の紙に固定化されている。

そうすると脳のワーキングスペースに少し余裕ができて、さらに一歩思考を進めることができるのではないか。

かつてブルース・リーは“Don’t think. feel!”と言った。
「考えるな、感じろ!」というのは、あるいは考えていることを紙に書き出すのに近いかもしれないと思った。
この後に続く言葉は、

“ It’s like a finger pointing away to the moon. Don’t concentrate on the finger, or you will miss all the heavenly glory.”

だそうである。

「それは月を指差すようなものだ。指に気を取られていると栄光を失うぞ」

みたいな意味だと思うが、要するに大事なのは、月を指す指ではなく、指が差している月なのである。

言葉はモノを考えるのには便利である。
言葉を使うことによって複雑なことや抽象的なことも考えることができる。
でも言葉はあまりにデジタルな存在なので、時々思考の幅を狭める作用をすることがある。
思考の広がりにブレーキをかけることがあると思う。

だからいったん脳内から言語情報を取り除いてみる。
そのためにはそれを書き留めて外部化すると良い。

そうすると頭が少し軽くなってちょっとだけ自由になり、より良いアイデアが生まれるかもしれないし、やっぱり生まれないかもしれない、と思ったりした。

posted by ヤス at 09:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月15日

やらないために必要なこと

昔読んだ「生産性向上」の本に、何かを効率的に片付けたい時はそれを「やらない」ことを考えるのがいちばん良い、と書いてあったのをちょっと思い出した。
それを読んだ当時、なんだか少しだけ感激したのを憶えている。
何かをやらないというのは、難しいようで案外簡単であり、しかし簡単なようで難しい。

やらないといけないことを単純にスルーする、サボるっていうのではたぶんダメなのである。
「何かをやらない」ためには、やらないといけないことをやらなくてもいいことに変換する作業がおそらく必要になる。

シンプルに考えると、それを丸々誰かに頼んでしまうという方法がある。
それも自分よりそれが得意な人に頼むのが良い。
近代以降の社会は分業制を高度に発達させてここまで来た。
分業して得意な人に頼む、時間の空いている人に頼むと自分の時間が増える。

ただ分業で人に頼みごとをすると、大抵の場合「頼み賃」が要る。
分業に当たっては、適正な「頼み賃」を算出する作業とか相手との交渉とか、いろいろと面倒くさいことも出てくるのは致し方ない。

だからやっぱり人にも頼まないで、単純にやらないで済ませたい。

やらないといけないことを単純にスルーする、サボると、精神的に後ろめたい。
ああ、いつあのことを言われるかな、と始終ドキドキしないといけない。

だからここでやりたいのは、それを人に頼むことでもなく、また単純にサボってスルーするのでもなく「自信をもってそれをやらない」ことなのである。

そのために必要なのは、やはり考えることである。
それをなぜやらないのか、なぜやる必要がないのかをよくよく考えないといけない。
そしてそれをやらなかった後に発生する諸事象に想いを馳せ、ああこれはやる必要ないな、と分かったらやらない。

結局「やらない」ことで生産性を上げるには惰性で動かないことが大切なようである。
特に習慣化した行動は注意が必要だろう。
無意識のうちにやっていたことも時々意識化して考えた方が良さそうだ。

現代人は、人間がのんびり生きていた原始時代の原始人と比べると圧倒的に「やるべきこと」が多いのに違いない。
本当に、現代人は「やらないこと」を見つけるのがなんだかとても重要なのだと思うのである。




posted by ヤス at 12:09| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月14日

雨中のオートバイ

昼過ぎに出発して、雨が降る中をオートバイを走らせて、島根県の三瓶山までやってきた。
最初のうち雨はパラパラと降っている感じだったが、三瓶山に近づくにつれかなり本降りになって、バシャバシャ雨を全身に受けながら走った。

30年くらい前のオートバイでは、こういう雨の中を走るとどこからともなく雨滴が浸入してきて知らない間にずぶ濡れになったのもであるが、今はカッパの性能も良くなって少々の雨は平気なのである。

特に防水のライディングシューズの性能向上は著しいと思った。
昔は、ごつい革のシューズにオイルを塗りまくったりしていたけれど、2〜3時間も走ると足は水浸しになったものである。
足が濡れるとメンタル的に堪える。
今のシューズは、この時期まあちょっと蒸れ気味ではあるがとりあえず雨を通さないのは大したものなのである。

屋根のある自動車に乗っていると雨に鈍感になりがちであるが、オートバイで雨を体に受けていると雨に対して神経質にならざるを得ない。
ただ、雨の中に体を晒しているにもかかわらずカッパ一枚でかろうじて濡れないでいるあの感覚が、わたしはわりかし好きなのだ。

カッパを着ていないで雨中を走ると当たり前だがずぶ濡れになる。
しかしカッパ一枚あると不思議なくらい乾いている。(実際はけっこう湿っているのだが)

雨が降ると体が濡れる、というのは野生動物にとっては当たり前の話だが、文明人にとっは失われがちな感覚である。

だから雨の中をオートバイで走ると、少し野生の感覚が蘇っているような気がするのである。

ということで、今から雨中のキャンプをしようと思う。


posted by ヤス at 16:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月13日

カメラのシャッター音について

メシ屋で写真を撮る人が多い。
そんなことは最近の話ではなくて、もう何年も前からのことである。
特に、わたしのようなおじさんが行かない小洒落たカフェとかでは、インスタ女子がせっせと料理にスマホを向けてシャッターを切っているのに違いない。

ここで「シャッターを切る」について語らねばならない。
シャッターというのは、言うまでもなくカメラ用語である。
昔ライカM型という有名なカメラがあって(今もあるが)、ライカMは長方形の箱の前面にレンズが付いていてそのレンズを通った光が箱の後ろで待ち構えているフィルムに当たって露光し写真が写る。
で、レンズとフィルムの間に何も無いと、フィルムに光が当たりっぱなしになって写真が「真っ白な風景」になってしまう。
だからレンズとフィルムの間に遮光幕を置く。
写真を撮るときだけ遮光幕をちらっと開ける。
その時に遮光幕が超速く動いて鋭い音がする。
光をシャットするからシャッターである。
ということを今この文章を書いていて久しぶりに思い出した。

で、今のiPhoneのデフォルトのカメラアプリは「カシャッ」というシャッター音がする。
この音は日本以外に出荷されているiPhoneでは消すことができるが日本向けでは消せないらしい。
何やら日本らいしい繊細な話ではあるが、しかしシャッター音が「カシャッ」と鳴ると「写真を撮った」という気分が盛り上がるのも事実である。

だからiPhoneには光を遮るシャッターはどこにも入っていないけれど、それでも「カシャッ」とシャッターらしい音がするのは、「今確かに写真を撮ったよ」というひとつのシンボルである。
他人がカメラを持って自分を撮ってくれている時、シャッター音が鳴ると「ああ今写真撮ったな」というのが直感的に伝わってくる。
フィルムの時代には撮影画像を直後に確認するということが基本できなかった。
だからシャッター音は、写真を撮った確かな感覚として重要だった。
時々フィルムを入れ忘れたままシャッターを切っていて、フィルムが入ってないからもちろん写っていないんだけれど、それでもシャッター音が鳴っている限り「写真を撮っている実感」は確かにそこにあった。

今のカメラもフィルムは電子的撮像素子に変わったけれど一眼カメラなどには昔ながらのシャッターが付いていて、正真正銘のシャッター音を鳴らしている。
でも、電子的なオンオフで撮影ができる今のデジカメでは必ずしもシャッターは必須でない。

それで思うのだが、将来すべてのカメラから「シャッター」が消えたとして、「シャッター音」はその時でもまだ生き残っているのだろうか。
ちなみにわたしのiPhoneは200円くらい払って「無音カメラ」アプリを入れているので、だいたいスマホ写真はシャッター音なしで撮る。

あの「カシャッ」にはある種の精神作用があるような気がして、そういうことでは、世の中に「正真正銘の機械のシャッター」を切ったことのない人の割合が99.999%になった未来にも、あの「カシャッ」は生き残っているような気がする。
posted by ヤス at 11:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年06月12日

動物の赤ちゃんの可愛いさアピール

TwitterとかYouTubeなどのSNSをぼんやり眺めていると、時々「動物の赤ん坊」系のコンテンツが流れてくる。
いや、時々流れてくるというよりはある一定の頻度でかなりコンスタントに流れてくるわけであり、多くは子猫と子犬だったりする。
犬猫以外にもシロクマ、ゴマフアザラシ、ライオン、チンパンジーなどかなり多種類の動物の赤ちゃんが登場してくる。

これらの動物の赤ちゃんは例外なくどれも可愛い。
他人からココロが薄いのではないかとよく批評されるわたしが観ても、やはり可愛いと思う。
特にライオンやシロクマなど、成長してでっかくなると獰猛になる動物、これらの赤ちゃん時代というのは、成長後の獰猛さとちっちゃい時の可愛さのギャップがあってこれがかなり萌える原因になっている気がする。

ただ思うのであるが、動物の赤ん坊が可愛いのは、これは一種の生存戦略に違いないのである。
生まれたばかりのライオンの赤ちゃんがまだ足もとがおぼつかなくて、そのやや頭でっかちなフォルムでよちよち歩いて飼育員さんの持つ哺乳瓶に両手でしがみつく姿はとても愛らしい。
おそらくライオンのお母さんもきっと愛らしいと思っているに違いない。
ひょっとしたらライオンのお父さんだってまんざらでない。

おそらく動物の赤ん坊が「可愛い」のは、野生動物の世界では小さくて弱々しくて頭でっかちのフォルムに対し萌える本能があって、その本能が「可愛い」の感情を引き出している。
小さくて弱々しい「生き物」に、より萌える種の方が子供を大切にするに違いない。
子供を大切にする種は繁栄するだろう。
そういう進化サイクルがあって、高等哺乳類の片割れである人間も小さくて弱々しいモノを可愛いと思うようになっているのではないか。

動物赤ちゃん動画を観ながらそんなことを考えた。

そう思ってパンダの赤ちゃんがでんぐり返ししている動画とか観ていると、いやこれはパンダの赤ちゃんも生き延びるために可愛いアピールに余念が無いのだ、と考えるようになった。

で、思ったのだが、人間は人間の赤ちゃん以外にも、シロクマやライオンやイルカの赤ちゃんを可愛いと感じるが、他のシロクマやライオンの大人は異種の赤ちゃんを見て可愛いと感じるのだろうか。

野生動物の世界では、小さい赤ちゃんは捕食しやすい「美味しい餌」でもあるわけで、ライオンやチンパンジーなどは群れの中のよその家の子供を殺して食べることもある。(たまには自分の子供も食べるのかもしれない)

そこには、いくら赤ちゃんがキュンキュン可愛く鳴いたところで腹の減った大人の知ったところではない、という厳しい現実も同時にある。

そういう厳しい野生の現実があればこそ、今日も動物の赤ちゃんは大きい目をクリクリさせて精一杯可愛さアピールしているのだな、と思ったら、さすがにココロのない人間のおじさんも少し泣けてくる気がした、と思った。
posted by ヤス at 11:53| Comment(2) | 徒然なるままに