2019年05月03日

理由の威力について

昔何かのテレビ番組でやっていたと思うのだが、人にお願い事をするのに「〜ので」と理由を言ってから頼むとすんなりいく。
しかも「〜ので」で言う理由は、別にお願い事に関係のないことでかまわないのだという。
テレビ番組の内容はもう忘れたが、例えば「頭が痒いので脚をもんでください」とかいうことだったと思う。

何かお願い事をしたいのだが、ちょっとお願い事の理由をストレートに説明しづらいとかいうときには、とりあえず全然関係なくてもいいので適当に「〜ので」と理由を頭にくっつけるといいらしい。
現実社会でこの法則がどの程度通用するのかは分からない。
しかし少なくともこの法則、半分くらいは当たっているような気もする。

世の中のお願い事でわりかし出現頻度が高くて、なおかつその理由がたまに説明しづらいことがある代表事例は、お金を借りる話かもしれない。
分不相応な高級時計を買って金欠になったとか若い姉ちゃんに貢いだとか、しかるべき相手からお金を借りるには伏せておきたい理由はあるだろう。

そんな時に上記の法則を応用し、適当な理由を付けてお金を借りることが考えられる。
理由は当たり障りのないものならなんでもよいが「ちょっと一念発起して英語の勉強をしてみようと思った」とか「見聞を広めるためにヨーロッパに行ってみたい」とか、できれば前向きな理由であればなお良いのかもしれない。

また「理由の存在」は、お願い事を「される」側にも必要とされる場合があるだろう。
若い姉ちゃんが「アメリカに語学旅行するのにあと30万足らないの」とかいう場合、オジさん側としても自分自身に対する言い訳材料として理由の存在は重要となる。

もう少し話を敷衍(ふえん)すると、人間は何か新しいことに一歩踏み出す際に、それが何であれ適当な理由があると踏み出しやすい生き物なのかもしれない、という公理がそこに見出だせる気がするのである。

あるいは謝罪の際にも、論理的つながりのない適当な「理由」を枕に持ってきてから「ごめんなさい」と言うといいかもしれない。
「あまりにもローソンの看板が青かったので、ついアイスクリームを万引きしましたゴメンナサイ」とか。(これはやっぱりダメかもしれない)

何はともあれ、何でもいいので理由を述べるとかなり広範囲な事柄にわたって贖罪が実現されるというのには、一定の真理が含まれるように思う。

逆に言うと世の中には論理的なつながりのない「理由」でものごとをなんとかしようという「言い訳」がけっこう多いのだろうとも思う。
それはあらためて考えると身につまされる話でもある。
なるべく言い訳がましくなく、論理的な理由だけを述べて生きようとは思うが、まあそれが簡単にできれば苦労はないのである。

ということであと会津若松から岡山まで約800kmの道のりを今からひたすら帰る。

posted by ヤス at 09:44| Comment(2) | 徒然なるままに