2019年05月31日

怒りの鎮火作業

怒りの感情は、人間の脳みその比較的奥深くの大脳辺縁系の辺りから出て来ているらしい。
脳みその奥深くということは、脳の部位としては進化過程における原始的段階ということだろう。
「爬虫類脳」とか呼んだりすることもある。
そのような脳の原始的部位から発生する原始的なアウトプットが「怒り」というものである。

人はしばしば怒りの感情をコントロールすることができなくなる。
わたしなんかもしょっちゅう怒りの感情にさいなまれる。
あの、かーっと頭に血が昇る感じ、血が昇って目が血走って手元に適当な灰皿でもあれば怒りの対象に投げつけてやりたいあの衝動。
そういうものに時々とらわれることがやっぱりある。

ただ残念なことにタバコは吸わないので手元に灰皿はなく、しかもそれなりに長く生きてきてこのような場合の対処法にもだんだん慣れてきている。
だからしばらくすると、なんとかかんとか冷静を取り戻す。
しかし大脳辺縁系から昇り立ってきた怒りの燃えかすから出る煙が、しばらくの間、前頭葉から頭頂部にかけて紫色に漂っているのを感じる。

後からもう一度怒りの場面を思い出して「なぜわたしは怒ったのか」「相手の何がわたしを怒らせたのか」を前頭葉の辺りで考えるのだが、この後から考える作業は下手をすると、事態をますますややこしくする危険がある。

いや、ぼんやりとした怒りの感情に「論理」によって分析を加える、原因を論理的に求めて次からはそのドツボにはまらないようにする、そのためにも怒りの場面を反芻する作業は是非必要であるように思われる。
しかしともすると、くすぶっていた怒りの残り火が、論理的に考えている最中にまた勢いを強めて大脳辺縁系が再炎上する、そういうケースが意外に多い。

だからこの消化作業は、実はかなり慎重に行わないといけない。

怒りの感情は、まっとうな社会人として生きていく上ではけっこう邪魔になることが多いと思う。
誰かに怒るとその人を嫌いになる。
嫌いになると、たとえそれがビジネスライクな付き合いであっても、顔を合わせたり話をしたりする時に多少ともギクシャクが生じる。
そういうのはちょっとしたストレスである。

だからできるならなるべく誰にも怒らないように生きていきたいのだけれど、大脳辺縁系の不思議で、何の前触れもなく怒りの感情は出てきたりする。

しかし考えてみると、今に至るまで人間の脳にこのような怒りの感情が脈々と引き継がれていることにはそれなりに必要があってのことのなのではないかと思う。
おそらく行動のモチベーションになる感情には、空腹とか恐怖とか、わりかしマイナスなものが多いと思うのだけれど、怒りの感情も生きる上でのけっこう重要なモチベーションになっているのではないかと思う。

「怒り」は人間がまったく前頭葉的に生きる上ではちょっと邪魔になるけれど、しかし生きることの根源部分においてはそれなりに必要なものなのかもしれない。
だからわたしは、怒りの感情を完全に抹消して悟りの境地に達することはできず、たぶん死ぬまでの間怒るたび慎重な消化作業を行う、そして時々消化に失敗して再炎上する、そういうシーシュポス的な所業を続けていくのに違いないと思った。
posted by ヤス at 11:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月30日

三菱UFJ、紙の通帳廃止

三菱UFJ銀行が6月10日から紙の通帳の新規発行を原則取りやめるらしい。
その記事がYahoo!ニュースに出ていたけれど、記事の下の方に「紙の通帳廃止、どう思う?」というアンケートの結果の円グラフが載っていて、それを見ると84%が「反対」になっていた。
そうか、世の中の人は紙の通帳廃止に反対なんだなというのが分かってちょっとだけ驚いた。

わたしとしては、今や紙の通帳は多少持て余し気味の存在になっている。
あたりまえだが紙の通帳は記帳しないといけない。
わたしは最近ほとんどの支払を電子マネーで済ませているので、銀行のATMに行く用事がない。
現金を下ろしに行くのは、3ヶ月とか半年に1回くらいだと思う。
しかし通帳記帳だけはいちおう毎月やっている。
記帳を長期間サボると、一定以上昔の分が「この期間の記録はもう消えました」みたいになって記帳されなかったりする。
だから記帳だけはコンスタントにしないといけない。

しかし一方で今はインターネットバンキングがあるので、ほんとうは通帳はもう要らない。
若い人は知らないだろうが、30年かそれ以上前までは「通帳とハンコ」でお金を下ろしていた。
銀行から預金を引き出すのに通帳が必須の時代があったのである。

今のところ通帳の唯一の存在意義は口座の動きを記録しておくということである。
しかしそれも、ネットバンキングが100%普及すれば必要なくなる。
ただし、世の中にはスマホもPCもタブレットも持っていない人がまだたくさんいる。
そういう人はさしあたり通帳がないと困る。

今回の三菱UFJは「原則」廃止なのであって、希望者には紙の通帳を発行するということらしい。
銀行側の立場に立つと、確かに紙の通帳を発行するコストもバカにならない。
ほんとうはさっさと電子化した方がいいに決まっている。
おそらく今後、他の銀行も通帳廃止に追随していくのではないだろうか。
そして紙の通帳に関しては、別途発行手数料を取る。
間違いなくそういう風になると思う。

「電子的な通帳」と紙の通帳を比べると、紙の通帳は紛失したり火事で燃えたりして物理的に消滅するリスクが有る。
「電子的な通帳」だってハッキングやらデータ消失やらのリスクは多少あるだろうが、たぶん物理的な紙の通帳よりは、そのリスクは低く安全なのは間違いないのである。

それと通帳とセットになっている「銀行の登録のハンコ」。
あれも最近は通帳に印影が無いので「あれ、どれが通帳印だっけな」みたいなことがたまに起こってうっとおしい。

紙の通帳廃止の流れは、日本社会における「印鑑至上主義」の終わりの始まりでもあるとのだ。

紙の通帳を廃止することに世の中の多くの人が反発を覚えているというのには、人間ってやっぱり保守的な生き物なんだなあということをつくづく思わざるを得ない。

しかしその一方で、顧客の反発にもかかわらず銀行がそれを廃止するのは、コスト削減をしないとこの先やってられないということで、やっぱり危機的状況が起きると世の中は変わる、変わらざるを得なくなることの良い例なのではないか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 14:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月29日

包摂する社会について

また小さい子供が犠牲になる事件が発生して、19人が被害にあってうち2人が命を落とした。
犠牲になった方のご冥福をお祈りします。
また怪我をした小さい子供も心に深い傷を負ったはずで、それらのことを思うとなんとも言えない気持ちになる。

加害者の50代男性は自刃して亡くなったそうであるが、こういう事件が起きると「死ぬなら一人で死ね」という意見が出てくるのもまあ仕方がない面がある。
ただあるネット記事の中に、こういう「一人で死ね」的な意見は非常に危険だ、というのがあってなるほどなとも思った。

もし自分が被害当事者になった時にそんな冷静な話ができるのか、ということを考えるとかなり難しいけれど、しかし理屈としてそういうことは心得ておいた方がいいと思う。

このような痛ましい事件が起きると世の中はやり場のない復讐感情で膨れ上がってしまうものかもしれないが、しかし冷静な理屈を言うなら大事なのは同種の事件が再発するのを防止することのはずだ。

凶悪犯罪に対しては、しばしば「厳罰化」の声が大きかったりする。
しかし厳罰化は、必ずしも犯罪抑止に効果がないとも言われる。
一方で犯罪の種類によっては厳罰化の効果は確かにあるという研究もあるらしい。
ただ衝動的殺人のようなケースにおいては、厳罰がどうこうというのはあまり関係ないのではないか、という風に個人的には思う。

日本列島には1億3千万人も人間が暮らしていて、その上に多数の外国人もいる。
そんなにたくさん人がいれば、その中に凶悪犯罪を起こす人間が一定割合で出てきてもしょうがないのかもしれない。

そういう人間は精神的に重大な病を抱えているのかもしれず、それは治癒不可能な種類のものかもしれない。
そんな人間がいつか重大犯罪を起こす可能性というのは常にあり、そうなるとそんな異常者は事が起きる前に社会から排除してしまえ、という感情が世の中に沸き起こってもおかしくはない。

そういう感情は仕方のない面もあるけれど、それでもやはり我々は、病的な人間、異常な精神の持ち主とも共生していくしかないのである。
人間の凶悪な部分も包摂しつつ社会をつくっていくしか仕方がない。
それは異常者を排除するとしても線引きをどのあたりに決めるかが不可能であるし、排除の理論は最終的にはホロコーストに行き着くしかないからである。

凶悪犯罪が起きると大きなニュースになって、最近こういうのが多いなあとか感じるが、凶悪犯罪はこの数十年で確実に減少しており、その意味では社会は確実に良くなっている。

被害に遭われた方々の感情の回復が行われることはもちろん最優先だと思うが、そこから少し距離のあるところにいる他の人たちは、被害者の方々の被害感情に共鳴しつつ心の片隅にそういう冷徹な気持ちを置いておくこともまた大事なのではないかと思ったりした。
posted by ヤス at 08:20| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月28日

オートバイのカッパ

雨がぱらついている。
もうすぐ梅雨の季節だ。
今年の梅雨はわたしの個人的な予測でいうと、日本列島はまた何度か大雨に見舞われる気がする。
それで水害とかにならないといいのだけれど、まあ昨年の教訓があるから今年はうまく雨をイナして無事で済むに違いないと信じている。(ほんとに大雨が降ればだが)

ところでわたしはこのところオートバイに乗ることが多い。
オートバイにとって雨は大敵である。

クルマに乗っていてフロントガラスにパラパラ雨滴が付き始めると、「おや雨かな」くらいである。
しかしオートバイに乗っていてメットのシールドに雨滴が光ると「やべえええ」と焦る。
ただの小雨で済めば良いが、次の瞬間に突然の集中豪雨に襲われないとも限らない。
オートバイに乗っていてシールドに雨滴が付き始めた瞬間、止まって「カッパ」を着るのが良いか、そのまま小雨と見切って走り続けるのが良いか、その判断は難しい。

わたしの場合ビビリの小心者なので多少の雨滴でもすぐにカッパを着ることにしている。

30年くらい昔にオートバイに乗っていた頃の二輪用カッパは、ちょっとした豪雨の中を走っていると隙間という隙間から次々に雨滴が浸入してきて、知らぬ間に浸入した雨滴が股間のあたりにたまってそこからずぶ濡れになる。
また靴周りの防水は、いちおうシューズの上にレインカバーを着けていてもそのうちシューズの中もタッポンタッポンになって、だから30年前に大雨に降られると「カラダと雨が一体化」することが避けられなかった。

しかし今のレインウェアや防水シューズは大したもので、この2年ほどだが昔のような悲惨な目にあったことはない。

雨の日にカッパを着用し手に防水グローブをはめてオートバイを走らせていると、なんというかカッパの薄いビニール素材一枚隔てて「大自然」と接している感じがものすごく強くて、なんだか良い。
特に最近のカッパは防水透湿素材でできているのが多く、わたしも最近「透湿カッパ」を着用しているが、これが非常に良いのである。

普通の透湿ゼロカッパはやっぱり体から出る汗で多少蒸れてくる。
それが透湿カッパだとほとんど蒸れがない。
わたしが最近買ったのはゴールドゥインというメーカーの「Gベクター3コンパクトレインスーツ(新製品だよ)」というやつであるが、これは透湿性能8000g/u•24hだそうで、少し肌寒い時にウィンドブレーカーがわりに着ていても普通に快適である。(透湿性能測定というのは各メーカーけっこういい加減であまり参考にならないともいうが)

本当に技術の進歩というのは素晴らしいものだと思った。

Gベクター3の前のGベクター2は4500g/u•24hだったそうなので、たいそう「蒸れ」に対する性能が上がっているに違いない。

ということで、新しい透湿カッパを手に入れたわたしとしては、早く大雨の中を走りたくてしょうがないのである。
posted by ヤス at 12:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月27日

捨てるトレーニング

わたしは「トレーニング」ということを比較的信じている。
昨日まで100メートル連続で走れなかった凡人が、週に数日ぼちぼち走っていると、いつの間にか42km走れるようになったりする。
わたしのイメージする「トレーニング」とはそういうもので、トップアスリートの地獄のトレーニングとは対極にある、ごくゆるめの「日々の習慣」くらいのレベルの話である。

それは別に絶対的に毎日続けねばならぬトレーニングということもなく、場合によってはちょいちょい三日坊主になったり半年くらい間が空いたりするけれど、いつの間にかまた復活して人生トータルで見ればまずまず継続しているかな、くらいの習慣でよいと思う。
それくらいのゆるめのトレーニングでも42km完走できるようになり、日本記録とかは絶対無理にしても一般人よりは良く走れるようになる。
おおよその場合ゆるめのトレーニングを続けるだけで、少なくともその「種目」に関しては全日本人の上位10%くらいの能力に達するのではないかと勝手にイメージしている。

そういう「トレーニング項目」が、走ること以外にもいくつかあるといいのだと思う。

そんなことを思っていたらひとつ新しい項目に想いが至った。
それは「捨てること」である。

最近は、というか随分前から「断捨離」が世の中的なブームである。

ずっと所有してきたものをぽいっと捨てるのは、実は精神的なダメージがかなり大きい。
たぶん一般の人はみんなそれなりにそうだと思う。
わたしもかなりそうである。

周辺を見回すと中には掃除が得意な人もいて、そういう人はとにかく思い切りよく捨てる。
まだ使えるんじゃないの、とか思っても捨てる。
そんな大事なものも捨てるの、というのも捨てる。
必要以上に捨てることによって、掃除がはかどる。
逆にいうと捨てないと掃除は始まらないのである。

そういう掃除得意の人は、たぶん「捨てるトレーニング」をずっと重ねてきたのである。
何かを失うことの精神的ダメージとか、物理的不都合とかに対処する方法に慣れている。

それでわたしもある時から「これは捨てられないな」というものを意図的に捨てる「トレーニング」をするようにしている。
でもやっぱりまだまだ甘いのだと思う。

会社の経営者の人とかは、毎日がヘビーな決断の連続だと思うが、何かを決断することは別の何かを諦めることである。
経営的に意味のある重要な決断というのは「リスクを取る」タイプのものである。
将棋で飛車を切って王将を詰ましにかかるような決断こそが本当の決断だろう。
そのためにも「捨てるトレーニング」は有効なのではないかと思う。

ということで今日は月曜日、燃えるゴミの日である。
そんなたいそうなことを思いながらゴミ袋の口を結んだりしたのだった。
posted by ヤス at 10:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月26日

マッドマックス

Amazonのプライムビデオに「マッドマックス怒りのデスロード(2015年日本公開)」が無料の会員特典に出ていた。
ということに昨日の深夜23時過ぎに気がついた。

わたしは最近集中力が衰えて、2時間の映画をじっと続けて観ることができなくなっていて、それが大きな悩みになっている。
そもそも、昔のように「この映画面白そう」という感情が気持ちの中になかなか育たない。
だからまず映画の観はじめからテンションが低い。
そして15分くらい観ていると、お尻の辺りがむずむずしてきて、一旦停止ボタンを押してコーヒーを淹れに席を立ったりするのがパターンになっている。
さらに途中を早回しにして飛ばしたり、2倍速にしたりする。
なんというかこの数年、映画の観方がす荒廃しているなあと思う。

「もう俺は、映画館に2時間大人しく座って、一本貫徹で観ることができない身体になってしまったのか」と悲しくなっていた。

しかし昨日の23時過ぎに「マッドマックス怒りのデスロード」のタイトル字をタブレットの画面で目にした時、心の中で何かが疼くような感覚があった。
今から2時間4分をかけてこれを観るとけっこうな時間になるなと思ったが、わたしは魅入られるようにして「今すぐ観る」ボタンを押したのだった。

「マッドマックス怒りのデスロード」は、メル・ギブソンが1979年に作った最初の一本からはシリーズ4作目にあたる。
「マッドマックス」の世界観は、その後の「北斗の拳」とかにも如実に影響を与えた。
今作はその世界観を引き継ぎつつ、1作目のストーリー内容もいくらか引用してはいるが映画としては独立した一本になっている。

わたしは今に至るまでこの話題作を観ずに生きてきたわけだが、世の中にこれを観た人が多くいるのはちゃんと知っている。

映画は最初の方と途中に何回か小休止的な「ひと休み」的な時間帯を挟みつつ、ほぼ全編にわたりマッスルカー(一部バイクも)が砂煙上げてやたら走り回って鉄砲でどんぱちする内容である。
主人公のマックスとシャーリーズ・セロン演じるフュリオサが「ウォー・リグ(でっかいトレーラートラック)」で走るコースも、行ってまた帰ってくるだけの往復コースだったりする。

主人公たちがウォー・リグに乗って逃げる、それを白塗りの気色悪いウォーボーイズが追いかける。
それでまたもと来た道を引き返してきて最後敵方のボスをやっつけておしまい。
要するにそれだけのストーリーである。

そんな単細胞的な作りの映画をわたしは夜中の2時近くまでかけて一気に観た。
面白かった。

核戦争の後遺症で寿命の短いウォーボーイズの描写なんかは、映画制作当時に問題になり始めていた「イスラム国」の影響もあったりするのかなと思った。
しかしこの映画はそういう難しいことは言わずに、口を半開きにして、我を失ってぼーっと観るのが正しい観方である、と思った。
おしまい。
posted by ヤス at 14:31| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月25日

頭に被る日傘について

東京都が試作品を発表した「かぶる傘」。
それをかぶった都職員のおじさんのシュールな姿を見て、わたしは少し圧倒された。
あの試作品を被る役をめぐっては、これはあくまで想像だが、都の担当セクションで誰が被るのか相当に白熱した議論が交わされたに違いない。

見ようによっては江戸時代の参勤交代のお侍さんが頭に被る陣笠のように見えなくもない。
というか、ファッション上の観点からはいっそ現代風にデザインアレンジした陣笠を被った方が多少はしっくりくるのではないかと思ったりもする。

問題はなぜ傘を頭に被ることにしたか、そのあたりのアイデアの発展経路である。
いや、人間はあまり常識に縛られてばかりではいけないのは分かっている。

この頭に被るタイプの傘は、数年前から雨傘だか日傘だかで、ネットでちらほら見かけるものである。
たぶん発祥の地は中国ではないかと思う。
そのような既出感を踏まえると、今回の東京都の頭に被る傘は冗談としてもいまひとつ突き抜けて笑えない感じがする。

小池都知事のこの傘を発表する記者会見動画を見たけれど、どうも小池都知事は冗談ではなくて、この傘を本来の用途の日傘として本気で普及させようと思っているらしい。
ちなみに、記者会見中に都知事にうながされて傘を被って出てきた都職員の顔が、終始こわばった感じの苦笑いだったのがものすごく印象に残っている。

日傘を頭に被るかどうかはともかくとして、日傘というものが熱射病対策としてそれなりに有効なことは疑いがない。
わたしは走ったり歩いたりするのが趣味なので、暑い夏でも街なかをウロウロすることが多いのであるで、信号待ちで立ち止まったりするときも電柱の長細い日かげにぴったりと体を重ねると、少し涼しい。
電柱の影の面積が不足しているときは、頭だけでも影に重ねる。
それだけでちょっとほっとする。

だからおじさんのわたしだって日傘を差して歩くのはありかな、と思ったりする。
熱帯化が容赦なく進む日本列島にあっては、案外しばらくしたら、おじさんもお兄さんもおじいさんも、みんな日傘を差して歩くようになっている気もする。

こういうのは最初の思い切りが大切で、思い切ってしまえば最初の違和感は「慣れ」が解決するのだろう。

ということで、わたしも頭に被る傘まではいかないまでも、今年は日傘デビューしてみようかな、とか思い始めている。
Amazonにメンズ日傘が何本も出ているが、しかしこれをクリックする気になかなかなれない。

小池都知事の考えとして、なかなか日傘に行ききれないおじさんたちに突き抜けたシュールな絵を見せることでその背中を押したい、それによって世の中に日傘男子を増やして熱射病を予防したい、というのがあるのだとしたら大したPR戦略だと思った。

そういえばニュースで小池知事の顔を見るのも久しぶりだなと思いながら、わたしはまだAmazonをクリックできないでいる。

posted by ヤス at 11:00| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月24日

ZOZOの時給1300円

昨日最低賃金について書いたあと、何かと話題のZOZOがアルバイトの時給を1300円に引き上げるニュースを見た。
当初の時給1000円を300円引き上げて賞与支給もあるらしい。
その発表に対して2000人の枠を大幅に超える応募者が殺到したという。

募集時給を上げたらたくさん人が集まった、というだけの単純な話であるがいろいろ示唆に富んでいると思った。
現在の「人手不足の状況」の現在にあっても、時給をそれなりに上げると応募はたくさん集まる。
同様のことは岡山の田舎でもたぶんある。
わたしの知る限りでは、バイト時給1000円以上出しているところではあまり「人手不足」の話を聞かない。

わたしもバイトするなら850円よりは1200円くらいは欲しいと思う。
現在の人手不足の状況は絶対数として働き手が足らないという話ではなく「安い賃金で働いてくれる人」が不足しているのだ、という話をよく聞くがまさにそういうことだと思う。

現状だと安い賃金では人が集まらないので外国から新たに「安い人」を入れる。
それによって時給水準を安いままに維持するというのが外国人労働者受け入れの基本構造のように思われる。
ただし今後はアジア圏域でも労働力の取り合いが起こってきて、日本の賃金が安いままだと日本よりは韓国に行きますシンガポールに行きますという人が増えて日本に来る人が集まらない(または人材水準が落ちる)ことも考えられる。

だからアジア的な成長率に合わせて常に時給を上げていかないといけないとう話なのかもしれない。

ZOZOの募集時給1300円は月額に換算するとだいたい20万円くらいになるのだろう。
いくらか賞与も付くとしてこれだと年収300万円に届くかどうかの水準。
ZOZOは正社員の代わりにバイトを増やして雇用を不安定化させている、という批判も一部にあるようだ。
まあ会社にあまり縛られないバイトでこれくらいもらえればけっこういいような感じもする。

芸人やミュージシャンの卵が夢を追いかけつつ、バイトで生計を立てるのには時給が高ければ働く時間も短くて済む。
「バイトの時給を上げる」話にはそういう意味もあるそうである。

それで思ったのだが、正社員とか正規社員というのはいったい何なのか。
解雇規制が厳しく各種保険も完備したより安定した待遇のことを正社員と呼ぶのかもしれない。
ただ実際にはバイトの解雇規制も正社員とたいして違わない。
現状では正社員は「ちょっと会社を辞めにくいアルバイト」のような気もする。

何にせよZOZOの1300円のニュースは、時給水準としては実はたいしたことはないのだけれど、傾向としては非常にいいことのように思った。

儲かっている会社から順番に賃金水準が上がっていけば、そっちの方が大規模金融緩和よりはインフレ目標2%への近道のような気がする。
posted by ヤス at 06:57| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月23日

最低賃金を上げる件について

相変わらず世の中は人手不足の状況が続いている。
そんな話はもう聞き飽きた感じであるが。
しかし人手不足にもかかわらず、実質賃金がなかなか上昇基調にならないところに今の日本経済の病みっぷりが現れている気がする。

いや、実はバイト時給もけっこう上がっているようではある。
求人広告企業のリクルートによる情報によると、日本の三大都市圏における募集時の平均時給は10年くらい前には930円くらいだったのが、2014年頃から上昇基調に入って今は1050円くらいになっているらしい。
実に1割以上のアップである。(直近1年くらいは停滞ぎみだが)

ただし上記の情報にはやや注意が必要である。
というのも、2014年は消費税が5%から8%に上がった年である。
また円安が進行して輸入インフレが生じた時期でもある。
だから最近ニュースでよく聞く「実質賃金」に関してはこの10年間、実はそれほど上がっていないとも思われる。

人手不足の一方でワーキングプアとかの問題もあって、最低賃金を上げようという議論が続いている。
わたしはこれまでは、最低賃金を上げ過ぎると企業がアルバイトの求人を絞って学生とかのバイト先がかえって無くなるのではないか、と考えていた。
時給が上がると「単純で楽な」仕事がどんどん減って気軽なバイト先がなくなる感じがしていた。

しかし最近実質的な外国人労働者受け入れ(建前としては研修生受け入れ)が大幅拡大されたこともあり状況が変わった。
外国人労働者受け入れによって「人手不足からの時給上昇圧力」はいくらか緩和された。

しかしバイトする側の立場からすると、徐々にとはいえ物価も確実に上がっているしもうすぐ消費税も上がる(かもしれない)し、このまま時給(実質でなく名目の時給)が上がらないとますます生活が苦しくなる。

世の中に生活苦の人が増えると日本全体の景気も底上げしない。
そうなるとやっぱり最低賃金は上げた方がいいのかもしれない。
企業サイドとしては、最低賃金は上げてほしくないのは当たり前だ。
特に中小零細企業は、今の最低賃金でぎりぎりなんとか採算を合わせている(もしくはもはや合っていない)ところも多いと思う。

昨年の日本の最低時給は全国平均で874円だったらしいが、これを1000円、1200円と上げると小さい企業では赤字になって倒産や廃業とかも増えるのだろう。
しかしその一方で、今まで人がやっていたことを機械化するとか、社内でやっていたことをアウトソーシングするとか、日本の企業の「人海戦術指向」が変わるきっかけになるかもしれない。

あるいは、世の中の飲食店では普通に注文取りとか料理提供とかを生身の人間がやっているが、ああいう人手をかけたサービスは、本当は客単価が2千円3千円以上とかの、ある程度の店でこそ可能なものだと思う。
客単価が1000円以下の店というのは価格帯でいえば「ファーストフード」なのであり、本当はセルフサービスでないと成立しない業態なのを今までは安いバイト時給と正社員のブラック労働で無理やり採算を合わせていたのに違いないのである。

最低時給が上がるとそんな問題ももはやごまかしが効かなくなっていくらか正常化するのではないか。

今朝のニュースで政府が最低時給を1000円にするというのが流れていたが、これは多分に参院選対策ということもあるだろうが、財界の反対も想像されるこのような方針を出したことは、まあ評価に値するのではないか、などと思ったりした。


posted by ヤス at 10:36| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月22日

Huaweiと米大統領令

5月15日、トランプ大統領が「情報通信技術とサービスのサプライチェーンの保護に係る大統領令」に署名したらしい。

これは米国籍企業に特定の外国企業との取引を禁ずる命令らしい。
で、その取引を禁ずる企業リストにHuaweiが入ったらしい。
というか、ニュースによるとこの大統領令はそもそもHuaweiを標的にしたものだったようである。

それで米ロイターで、この禁止令によってGoogleがHuawei向けのソフトウェア出荷を停止し今後GmailやAndroidOSなどが利用できなくなる見込みであると報道された。

この4月にHuaweiのタブレットをゲットしたばかりのわたしは、日頃このHuaweiでGmailをチェックしたりWordの文書を打ったりしまくっている。
そんなわけでAndroidのアップデートが止まるとちょっと困るのかなあと心配になった。

ただAndroidはオープンソースなのでGoogleがサポートしなくても使い続けることはできるのだという。
そりゃあそうだろうなあ、と少し安心した。
Huaweiの方で勝手にAndroidのアップデートに対応する限り、たぶん使い続けることができる。

恐ろしい世の中になったもんだなあと思う。
米ソ冷戦時代なら、こんな話はありえなかった。
現代における新たな超大国同士の対立では、米中はただ政治的に対立しているだけではなくて、一方では経済的に不可分の濃密な関係ができあがっている。
経済における濃密な関係があればこそ、今回のように「関係を切る」方向の懲罰的行動を取ることも出来るわけであるが、しかし「関係を切る」ことによる影響はさまざまに及ぶ。
米中間の島国の田舎に住む、わたしのところにも及ぶ。

現代における「冷戦」は米ソ冷戦と比べるとより複雑なのである。

しかしただのアメリカ企業の枠をとっくの昔に超えていたと思っていたグローバル企業のGoogleも、大統領令には従わざるを得ないのだなあとあらためて分かった。
ただ一方でGoogleはAndroidをオープンソースにしていたおかげで、表向きは大統領令に素直に従いつつも、その実HuaweiはAndroidやGmailを今までどおり使い続けることができるわけで、これだとGoogleは本当に大統領令に従っているのかどうか分からないことになるのが面白いと思った。

トランプ大統領はそのあたりのことが分かってやっているのかどうか。
まあどっちにせよ、中国との対決姿勢を見せつけることが今必要だ、という判断なのだろう。

あとAppleなんかは、現在は自社製品のほぼすべてを中国で製造している。
トランプ大統領は中国製IT製品への輸入関税をそのうちかけるかもしれない。
ただこれも報道によると、少々の関税では(一説によると25%くらいまでは)Appleは中国製造から撤退しない見込みであるらしい。
それぐらい「中国での製造」には今のところメリットがあるのだ。

ということでアメリカと中国の経済的関係は、そんな簡単に切れるようなものではなさそうだ。
だからわたしも、いったん心を落ち着けてHuaweiでWordを打つことにしようと思った。
posted by ヤス at 12:25| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月21日

高度プロフェッショナル制度適用1人

「高度プロフェッショナル制度」がこの4月から施行されて、適用されたのが全国で1人しかいないという衝撃のニュースが流れている。

「高度プロフェッショナル制度」についてちょっとおさらいしてみる。
年収1075万円以上で「金融商品開発」「ディーリング」「アナリスト」「コンサルタント」「研究開発」の5業種が対象。
適用には本人と労使委員会の同意が必要。
年間104日以上、4週に4日以上の休日を確保すること、あと健康管理のためのいくつかの措置が必要などの内容が制度の中身である。

適用された人には時間外手当や深夜休日の割増賃金が適用されない。
その代り、適用された人は好きな時間に出社し好きな時間に退社できる。
理屈上は、成果さえ上げれば出社しなくても良いのだろう。
逆に、年間休日104日(および有給休暇)を除いては一日24時間ぶっ通しで働いても差し支えない、制度の内容を見るとそのように解釈できる。

今回唯一適用された1人は、研究職の人らしいけれどどういう気持でこの制度を引き受けたのかかなり気になる。

これで総務の人から「残業時間が制限を超えているので早く帰って」とか注意されなくてすっきりした、ということなのだろうか。
あるいは逆に、これで一日10分ほど会社に顔を覗けるだけでいい、8時間労働の義務を気にせず自由に研究できて良いと思ったのだろうか。

「高度プロフェッショナル制度」はその内容をあらためて見てみると、それは時間無関係にしっかり成果を出すためのものというよりは、やはり「労働時間の上限をはずす」方向に向いた制度であるように思われる。
しかし日本には現実問題、労基署の目をかいくぐって「労働時間の上限なく」働いている人々がたくさんいるのは間違いない。
それらの人々は会社からなかば強制されて働かされている人もいるだろうが、中には自らの意思で自由に長く働きたいと思っている労働者もまあまあたくさんいると想像される。

今回そういう労働者たちが「高度プロフェッショナル」として出てこなかったのはなぜなのか。
それらの多くが対象5業種に入っていなかったということもあるのだろう。
しかしコンサルタントや研究員で、もっと思う存分長時間働きたいという変態もいくらかはいるだろうに、それらの変態たちはどうしたのか。

たぶんそういう変態たちは、既存の労働法制の中でもそれなりに自由に長時間働いていたのではないか。
時間制限なく働くということでは、スタバでパソコンを開いたり自宅の書斎で仕事をしたりすればよく、わざわざ妙ちくりんな制度を導入するまでもない。

「高度プロフェッショナル制度」は労働者のニーズによる制度ではなく、あくまで企業側の熱望により実現した制度であるように思える。

おそらく経団連とかの思惑としては、今後対象5業種を広げていったり、労使委員会や本人同意の条件を緩和していったりして「企業都合による適用」が出来るように、徐々にしていきたいのだろうと推測する。

そういうことでは今後の制度の「拡充」の動きに要注目だと思った。
posted by ヤス at 11:54| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月20日

座り過ぎは良くない

座り過ぎは健康に良くない。
ということを座ってパソコンをタイプしながら考えている。
ネット情報だが、オーストラリアの研究機関が発表しているところによると、1時間座るごとに余命が22分短くなり、1日に11時間以上座っている人は死亡リスクが40%高くなるのだそうである。

死亡リスクが40%高まることがどの程度危ないのかが今ひとつ具体的に理解出来ないが、とにかくも座り続ける生活をしていると体にあまりよくないのは確からしい。
座り続けていると足腰の血管が圧迫されて血流速度が急速に下がるらしい。
それで本来なら血液に乗って体の隅々に運ばれる酸素や栄養素の補給がおかしなことになるという。
そして体の老廃物である脂肪や糖の回収も滞ってよろしくない。

そういえばプロ棋士で関西の天才・藤井聡太に対する関東の天才とも呼ばれる増田康宏六段は将棋研究を立ってやる。
ネット番組で立ったままパソコンを操作する増田六段の写真が紹介されていた。
プロの棋士なんていうのは、それこそ対局時には一日中座りっぱなしで将棋を指しているわけで、しかも公式対局以外にも練習将棋とかパソコンでの研究とかも基本座ってやっているのだろう。
そうするともう仕事の日も休みの日もずっと座りっぱなしということになりかねない。

そう思ってプロ棋士を見ていると、そういえばこの人達は対局中もしょっちゅう中座して対局室から出ていく。
トイレに行く場合も多いのだろうが、単なる気分転換で「ちょっと歩いて来る」ために席を立つ人もいるようである。
あれはプロ棋士の本能として座りっぱなしだと血流が悪くなって頭の回転が鈍るとか、そういうことを感じているのに違いない。

それで自分のことを振り返ってみると、わたしも平均するとけっこう長い時間座りっぱなしであることが多い。
パソコンの前でじっとすわっていてなんだか四六時中ぼーっとしているのは、あるいは座り続ける時間が長過ぎることに問題があったのかもしれない。

座り過ぎの弊害は、長時間座り続けたあとに歩いたり走ったりすれば解消されるというものでもないらしい。
キモはあくまで「座り続けない」ことらしい。
30分に一度立ち上がってスクワットをするとか、こまめに立ったり歩いたりして血流を回復させる必要があるのである。

本や資料を読むとかいう作業は別に座っていなくてもできるので、そういうケースは立ってやるとか、あるいは文章のタイピングもiPhoneで室内を歩きながらやるとかするといかもしれないと思う。

いつも長時間パソコンの前に座っている割にあまりナイスアイデアが出てこないのは、座りすぎて血流が滞って頭が働いていないせいかもしれない。

ということで、今日からなるべく立っていても出来ることは立ち上がってやることにする。
そうすると血の巡りが良くなって見違えるほど良い仕事が出来るに違いない。(と思った)

posted by ヤス at 09:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月19日

旅のいい人作用

オートバイにのって野宿旅行していると、知らない人に声をかけられる。
それもたまにかけられるというのではなくて、ほぼ一日に一回以上の感じでコンスタントに声をかけられるのである。
声をかけてくるのはたいていおじさんが多い。
あとはおばさん。
それからどこかの駐輪場にバイクを停めたときに他のライダーと「こんにちは」とあいさつして、そこからふたことみこと、適当に会話を交わすようなこともある。
一方で妙齢の若い女性とかはまったく声をかけてくる気配がない。

おじさんはたいていオートバイに対して興味を示し、排気量はいくらなんとか、値段はなんぼだったのとか、燃費はどんくらいだとか、そういうことを尋ねてくる。
それに適当に返事をしていると、俺はこれから友達のところに酒飲みに行って明日はゴルフだ、とか聞いてもないのに自分のことをペラペラしゃべる。

おばさんは相手が地元の人の場合、この辺に来たらこの店でアレを食べて帰ってよ、とかマイナーなグルメ情報を教えてくれたりする。

そういうことが、オートバイに乗って遠隔地をふらついていると日に2、3度発生する。

これは旅ならではの体験だと思う。
まず普通に生活している限りにおいては、知らない人としゃべることが滅多にない。
わたしの場合、人と話すの極端におっくうなので知っている人と会ってももあまりしゃべらない。

だが旅先でしらないおじさんやおばさんとしゃべる分には、あまり面倒くさいということももない。
今思い返してみると、旅先で言葉を交わした知らないおじさんやおばさんは、だいたいいい人だったように思える。
それは声をかけてくるおじさんおばさんが実際にすごくいい人だったのかもしれないし、本当は極悪非道の意地悪なおじさんだったのが、旅先で短い会話をする限りにおいてはすごくいい人に見えるということだったのかもしれない。

まあとりあえず、会話の瞬間においては、それらの人はいい人に感じられたということである。
相手にとって、汚い格好で野宿旅行しているおじさんはどう映ったのか。
希望的観測も交えて想像するに、たぶんそんなに悪い人物とは映っていないのではないか。

たぶん旅先で知らない人と話をしている時は、お互いの「いい人成分」だけを交換するような作用が働くことがあるのかもしれない。

そういうことで旅先で知らない人と話をするのは、なかなか気分の良い体験であるとあらためて思った。

それともうひとつ、旅先で話をする人はいい人であると同時にちょっと変わったところのある人のような気もする。
ちょっと変な人と話をするのは、けっこう楽しい。

そういう時、相手もやっぱりわたしのことを変な人と思っているのだろうか。
そこが少し気になった。







posted by ヤス at 07:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月18日

終身雇用が維持できない

最近日本企業の終身雇用をめぐるニュースをよく見る。
日本のそれなりに大きな会社は、これまで新卒一括で採用して原則定年まで雇用し続ける「終身雇用」方式を採ってきた。
ソニーとか、だいぶ前に新卒採用をやめて中途の随時採用に変えた会社もいくらかあるらしいが、それでも以前として終身雇用が日本の大企業の標準形ということのようである。

この場合「終身雇用」という表現があまり適当でないという意見もあったりする。
確かに雇用期間の終了はあくまで「定年」までであり、死ぬまで雇用するわけではない。
だから本当は「新卒採用・定年まで雇用」制度と呼ぶのが正しいと思われる。

そんなことはともかく、現在の日本ではすでに終身雇用が維持できなくなっているという話なのである。
終身雇用では、それなりにコンスタントに毎年一定数の新卒新人を採用する。
採用する一方で、定年に達する社員も一定数発生し、出ていく人と入っていく人がだいたい釣り合うようになるのが終身雇用の仕組み上のミソである。

しかしこれだと、業績不振でちょっと人を減らそうかという場合、クビキリなしだと採用を絞って人数を調整することになる。
そうなると組織の平均年齢が上がって会社がジジ臭くなる。
だからある程度の「若さ」を保つために、早期退職制度などで中堅・ベテランに辞めてもらうことになる。
ただ、これもよく言われる話だが、退職募集をかかけるとたいてい優秀なやつが応募してくる。
そうなると行き場のないポンコツの古株と右も左もわからない新人が増えて会社の体力は明らかに落ちるだろう。

つまり終身雇用だと人員の機動的な増減がちょっと難しいということがある。
終身雇用を採用している大企業でも、新分野進出などにあたってすでに専門知識を持ったベテランを中途で引き抜いてくることもあるだろう。
本来会社の採用はすべてその方式で行くのが合理的のはずで、営業が足りないなと思ったら営業スキルを持った人間を、管理業務が増えたらそっち方面の人材を採るとタイムリーなはずである。

だがこれまでの日本では(少なくとも大企業では)、新卒を採ってゼロから教育する方式が主流だった。
これは日本の経済がかつては一本調子で成長を続けてきたからであり、あるいは最近に至っても一本調子で成長の幻影がまだ残っているからだろう。

しかし実態的には、終身雇用はもうとっくの昔に終わっていたような気もする。
某銀行なんかでは、40歳代前半から次々と「出向」という名の島流しで人員が外に出ていっているっていうし、週刊誌には終身雇用を唱う大企業の「追い出し部屋」の惨状が記事に出ていたりする。

先にも書いた通り「終身」雇用という表現事態が元々マボロシだったのであり、だから今ニュースでやっている「終身雇用が維持できない」ニュースは「これでやっと終身雇用のタテマエを止められる」というのが企業の本音なのではないか、と思ったりした。










posted by ヤス at 07:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月17日

令和の時代についてなんとなく

5月も今日で17日目になった。
令和に元号が切り替わる前から平成を総括するネット記事や書籍をまあまあたくさん目にした。
おおよその印象でいうと、世の中の平成という時代に対する印象は、日本が下り坂を下った30年というものだと思う。

平成が下り坂の時代だったとして、それはもちろん天皇陛下の責任ではなく、それは誰の責任というよりは、日本という国のたどるべき運命だったようにも思われる。
いや、わたしは個人的には運命論でものごとを語らない、というのを基本スタンスにしていたのだった。
もういちど100年前あたりから歴史をやり直したら、ひょっとしたら日本はまた全然別の道を歩んだのかもしれない。

しかしまた思うのであるが、何回やり直しても、日本国民がいくらあがいても、日本のたどる道はおおよそ同じようなものになっていたような気もしないでもないのである。

今海を隔てた隣国の中国は、世界一の経済大国へ向かって成長を続けている。
もう10年くらい前から、中国の経済が崩壊する日は近いというのを盛んに言う向きもあったけれど、今のところその気配はない。
いくらかバブルの調整みたいなことはあるかもしれないが、おそらく中国経済は大崩壊はすることなく今後10年以内にアメリカを抜いて、一人あたりの富の量はともかくも、少なくともGDPでは世界一になる。
さらに10年くらいでアメリカの倍くらいの経済規模になる。

インドもそれに続き、中国が世界一になる頃に日本のGDPを超えると予想されている。
あと10年すると、少なくとも経済の観点からは地球の中心はアジアになる。
その時に日本はどうなっているか気になる。

そんな中で欧米諸国のこれからの価値観は、経済の総量から一人あたりの豊かさにますますシフトしていくのだろう。
現在のところヨーロッパは移民問題や経済格差問題で混迷しているが、この問題を解決することがヨーロッパの至上命題になる。
個人的なぼんやりとした感じに過ぎないが、ヨーロッパは時間をかけてこの問題をなんとか解決するのではないだろうか。

アメリカは「唯一の超大国」の座から降りて、欧中露印などと釣り合いを保ちながら世界秩序を維持する体制に切り替えざるを得ない。

それで日本である。
今まではアメリカの庇護の下でやってきたけれど、たぶんこれから中国の影響が強くなる。
というか、もうすでに貿易量では中国の影響がアメリカより大きい。
文化や政治面でどこまで中国の影響が強くなるのかよく分からないが、今よりはずっと強くなるのは間違いない。
というかもうすでに日本の観光地は中国人で溢れている。
観光みたいな「ライトな人的交流」が何年も続いたら、やっぱり影響は強くならざるを得ない。

ということで、令和時代の日本は経済的存在感は平成よりさらに小さくなり、文化政治的にもアメリカから中国寄りに寄っていくのだと想像する。

20年以上前にシンガポールに旅行した時、ガイドの若いシンガポール人が「俺達も日本のように豊かになる」と言っていて、それはもう10年くらい前に現実化して今では逆に1.5倍くらい差をつけられている。

あの時のシンガポール人のガイドを思い出すと、まあその分、令和の時代に生まれた若い人たちは「やりがい」があることになっていいのかもしれない、などと思った。
posted by ヤス at 08:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月16日

テンションの上がる買い物

朝からなんか胃の調子がわるい。
コーヒーの飲み過ぎかもしれないなあとか、ちょっともやもやしていたらクロネコヤマトの宅急便から荷物が届いた。
荷物とはいっても、A4サイズくらいの緩衝材入りの封筒に入ったやや小さめのサイズ。
Amazonで注文したオートバイ用のグローブ、手袋である。

数日前にバイク用品屋の「バイクワールド」に寄ったのだが、そこでは何も買わず、いつものウィンドウショッピングをした。
でもひとつだけ気になるものがあって、それは夏用のバイクグローブだった。

オートバイに乗るときはグローブをはめる。
わたし的には、革のグローブが装着感やら操作感が感触よくてお好みなのだが、これからの季節、灼熱の太陽にあぶられると、革のグローブだと手がものすごく熱くなる。
だから夏の間は夏用のメッシュ布を使ったやつをはめる。

グローブというのは消耗品なのである。
革グローブだと比較的長持ちするのかもしれないが、布と合皮とナイロン繊維の複合技で作られたグローブは摩耗や加水分解でみるみる消耗していく。
だから2シーズンくらいで買い換えないといけない。

今使っている夏用グローブは3000円くらいの安物で、まあ消耗品だからそんなものだろうと思っていたのだが、3シーズン目に突入するに及んで、指先の合皮がほとんど剥がれて下地の布が露出しており、実用には差し支えないのだがちょっと貧乏くさくなってきた。
だから新しい夏用グローグが欲しいと思って「バイクワールド」に寄った。

そうしたら、黒地に青いメッシュ布がアクセントで入って、指先は本皮のグレーのパンチングレザーになっているグローブが視界に飛び込んで、なんだか妙にかっちょいい。
さらにゲンコツで人を殴る時に相手のほっぺたにめり込む関節の尖っている部分、あそこにプラスティック製のエアインテークが装備されている。
また指の付け根にも小さめのインテークが付いていて、それらのインテークの穴から今にもミサイルが飛び出しそうな「ロボット感」がたまらないと思った。

「こりゃあ、ほしいな」

と思った。
しかし少々お高い。

結局そこでは買わぬまま、しかしその日の晩の草木も眠る丑三つ時になってAmazonのサイトを夢遊病患者のようにクリックしたらしい。

人が、ある商品を見てたまらなく「欲しい」と思うことがあるのはなぜなんだろう、と思った。
オートバイの夏用グローブの機能のことだけで言えば、安物でも何でも価格差ほどの違いはない。
その商品の見た目、雰囲気、ブランドストーリー、ミサイルが飛び出てくる感じなどにぐっとやられて欲しくなるのは考えてみると不思議だ。

それで宅急便が届いて実物を手にはめた感じだが、なるほどこれは3000円のグローブをはめるよりはかなりテンションが上った。
室内で用もないのにグローブをはめたまま、しくしくと痛む胃のあたりをさすったりした。
それで胃の痛みに変化はなかったが、テンションが上ったのでまあよい。

何か商品をつくるのであれば、こんな感じで多くの人のテンションが上がるものを作らないといけないなと思った。
もうあとひとつふたつテンションの上がるものを買ったら、胃の痛みもあるいは治まるかもしれない、などと思ったりもした。

posted by ヤス at 13:30| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月15日

オートバイはやっぱり危ない

オートバイに乗っていることを人に言うと、危ないから気をつけてね、と返されることが多い。
実際オートバイの事故の発生率、事故が発生した場合の重篤度は四輪に比べるとかなり高いようである。

あるデータによると、四輪の国内登録台数は約770万台だそうである。
対して四輪のある年の事故による死傷者数は44万人。
登録台数あたり約0.6%程度。
これが二輪(125cc以上)だと登録台数360万台に対し3万人。
率にして0.9%ほど。
四輪と二輪では平均の年間走行距離が、四輪の方がだいぶ長いと思うので単純な比較はあまり意味がないかもしれない。
それを念頭においても、二輪の事故による死傷者数はいうほどでもないように一見見える。

しかしこの死傷者数のうち、「死亡者数」は四輪が約1300人、二輪が700人弱。
登録台数あたり比率で言うと、四輪0.002%弱、二輪0.01%強。
登録台数あたりの事故死亡者の発生数は、二輪の方が四輪より一桁高いのである。

事故の発生確率そのものは四輪と二輪ではそれほど大差はないが、二輪における死亡者数発生はかなり高い。
これは重傷者数の発生についてもほぼ同傾向。
四輪では死傷者のうちの97%が軽傷者で死亡重傷は3%程度だが、二輪では同じく83%、17%くらいになっている。

二輪は事故に合う確率そのものは四輪と大差ないが、いったん事故するとただでは済まないということだ。
これは四輪がエアバッグとかABSとか安全ボディとか自動ブレーキとか、安全装備がどんどん進化して市販車への義務化も進んでいるのに対し、二輪の場合はせいぜいABSの義務化が進んだくらいで、それ以外の安全装備は二輪の構造上なかなか難しいというのがあるのだろう。

だから確かに二輪に乗る人、それも原付きよりは速度の出しやすい大型バイクの場合は特に安全に注意する必要があるのは当然だ。

しかし逆に言うと、オートバイのいかにも危ない感じがその魅力であるというのもひとつ言えるのである。

オートバイに乗っていると、強風に横から煽られてフラフラし、ロクに横を見ずに運転しているおばさんの自動車に横から割り込まれてぶつかりそうになり、いろいろ「危ないなあ」と思うことが多い。
この間も、特攻隊的な運転をするおっさんの軽トラが右車線にはみ出しながら強引な幅寄せからの追い越しをかけられて、死にそうになった。
こういう目に合うのも二輪ならではだと思う。

ただいつも考えるのであるが、人間が生きているというのは「死ぬ可能性がある」ということだと思う。
「死ぬ可能性のない」人間はすでに死んでいる人である。
だから死ぬ目にあうと、生きていることを実感せざるを得ない。
オートバイに乗ることの「原因」のひとつには、そういうこともあるような気がする。

ということで、これからもキレたおっさんが運転する四輪の危険運転にもなるべく腹を立てないように、必要以上に安全運転でオートバイに乗っていこうと思う。
posted by ヤス at 10:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月14日

北方領土は戦争で取り戻せるか

日本維新の会の丸山議員が北方四島ビザなし交流で「(北方領土を取り戻すためには)戦争をしないとどうしようもない」と発言したのが大きな問題になっている。
それでいくつか関連のニュースを見たり「謝罪」の短い動画も見たのだが、結局どういう文脈で具体的にどういう発言をしたのかよく分からない。
だからここでこの酒グセの悪い議員について具体的に批判することは止めておく。

ところで一般論としては、20世紀以前の世界では国際的領土紛争は戦争で「解決」されることが普通にあった。
そういうことでいうと20世紀的国際社会においては、領土紛争は戦争によって決着することが普通のことだったわけだ。

しかし第一次と第二次の世界大戦を経て、あるいはそれ以前の幾多の国家間戦争の反省もあって、戦争で領土紛争の「決着をつける」ことは止めましょう、という話になった。
それでできたのが昨日仁徳天皇陵を世界遺産に登録勧告もした「国連」である。
国連加盟国は国際紛争を解決するのに戦争に訴えることが禁止されている。
ただ、よその国から攻撃された時の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」は、いちおう国家防衛のために認めるということになっているらしい。

この国連方針がそっくりそのまま適用されたのが日本国憲法なのは周知の通り。

したがって、あたりまえだが日本は軍隊を派遣して北方領土を再占領することはできない。
そのような軍事行動を「合法的」に行うためには、憲法を改変して「戦争による国際紛争の解決」を禁止しないことにする必要がある。

さらに国連からも脱退しないといけない。
もし国連から脱退しないまま戦争を起こした場合は除名処分になったりするのだろうか。

その辺よく分からないが、しかしもし日本がふたたび軍事行動を起こすと、かつてクゥエートに侵攻したサダム・フセインのイラクみたいに国連軍の攻撃対象になるのではないか。
あるいは国連決議を受けたロシア軍の爆撃機が、現在シリアで行なっているような苛烈な空爆を北海道あたりに加えてくるのだろうか。

まあシリアと違って日本の空自は規模も装備もかなり水準が高いので、ロシア空軍もかなり苦労はするだろうが。

そういえばロシアには核ミサイルがたくさんあった。
強大な通常戦力を今なお維持し、さらに核を持つロシアに喧嘩を売ることは相当に想像を飛躍させたとしてもナンセンスだ。

戦争できるように憲法を変えて、また国連も脱退して、そんなかなり無理のある仮定をいくつか重ねたとして、それでもやっぱり北方領土を戦争によって取り戻すことは現在の日本の軍事力・経済力では難しそうである。

今や世界の戦争は、国家間のがっぷり四つの本格戦争というのが当分なくなっている。
国連とか核抑止力とか、その辺の効果にはいろいろ疑義もあるが、少なくとも数百万人、数千万人が死ぬような大規模戦争がなくなったのは人類のひとつの進化なのだろうと思う。

だから北方領土も戦争以外の方法で解決する他しょうがない。
というのが今日の結論ということにしておく。
posted by ヤス at 11:49| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月13日

2020年に改正憲法施行の意味について(妄想)

この間の憲法記念日にあらためて安倍首相が「2020年を新しい憲法が施工される年にしたい」と述べたらしい。

そういえば憲法改正の話がなかなか進んでいないなあと思っていたので、なんだまだやる気はあるんだなと少し「安心」した。

今年は7月に参院選挙(3年毎の半数改選)がある。
そして10月には消費税の8%から10%への増税が控えている。
参院選では、ひょっとしたら衆院総選挙との「ダブル」もあるのではないかとささやかれている。
ダブル選なら与党的にぐっと勝率が上がるらしい。

わたしは政治の専門家でもないし最近は特に関連ニュースを熱心に読んでいるわけでもないのであまりその辺の確かな状況を語ることもできないのだけれど、上記の材料をながめていて少し妄想が膨らんではいる。

まず最近憲法改正論議があまり聞こえなくなった状況で、なぜわざわざ安倍首相が「2020年新憲法施行」を言ったか。
2020年中に「国民投票の実施」ではなくて「施行」なのである。
そのためには現在開催中の通常国会(会期6月26日)に改憲原案を提出しないといけないような気がする。
そんなことが可能なのか。

ひとつ思うのは、憲法改正は安倍首相の政治的な命の源であるということだ。
安倍さんなら憲法を変えてくれる、というので多くの人々の支持を引きつけている現実がある。
定期的に「憲法を変えます」のアナウンスを欠かすことができない。
だから憲法記念日にわざわざ改憲に言及したのだろう。

しかしならなぜ2020年施行なのか。

ここには消費税が関係しているのではないか。
本当は増税をしたくない安倍首相としては、増税を既定路線と見せかけつつ土壇場で再々度の増税中止をするつもりなのではないか。
財務省を中心とした増税派(その中に麻生さんとかもいるのかな)を煙に巻きつついきなり増税を止める。

増税中止のリミットはギリギリ参院選公示のちょっと前くらい、6月頃までだとか言われている。
そこで増税中止を宣言し、これを争点にして衆院と合わせたダブル選にする。

どのみち今度の参院選は、与党はかなり分が悪い。
ひょっとしたら現行勢力の3分の2を割り込む。
そうなると憲法改正どころではなくなるという事情もある。

だから増税中止を争点にダブル選にして議席を確保する。
そうするととりあえず改憲可能な体制だけは維持できる。

安倍首相にとって改憲可能な体制にほころびが生じるのは、コアな支持者の離反を招き命取りになりかねないのである。
だから現実の改憲を実行はできなくても、改憲可能な体制を維持し「必ず改憲します」と言い続けることは必須なのである。

そうなると消費税が改憲体制維持の材料に使われることがなくもないような気がする。

それで安倍さん的に本当のところ改憲をやる気があるのかないのか。
安倍さんとしては改憲が悲願だというのは本当だとは思う。
ただ、実際に改憲に着手してもし途中で頓挫するとそこで安倍さんは終わる。
だから必勝の態勢を確保できないとなかなか着手もできないのではないか。

というのはあまり大した根拠のない妄想であるが、まあ、あとひと月少々もすると状況が明らかになるだろうから、それまで待つことにする。
posted by ヤス at 11:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年05月12日

キレ方の心得について考える

人は歳を取るとキレやすくなるとかいう。
その一方で年輪を経てカドが取れて丸くなるとかいうこともある。
どっちがほんとうだろうか。

わたし自身について振り返ってみると、若い頃はまあまあしょっちゅうキレていたような気がする。
だんだん若くなくなってからは、キレるのもけっこう疲れるというか、いちいち面倒臭いというのもあってキレ具合が減ってきたような気がするのだが、実際はどうか。

それで周辺を見回してみると、世の中にはキレやすい人もいるがあんまりキレない穏やかな人も多い。
自分のキレやすさの度合いは世の中の平均値と比べてどうなのかなあ、とかいうことがちょっとだけ心配になった。

人がキレるのは、原因として大きいのは脳の「前頭前野」の不活性があるのだという。
前頭前野は人間の脳の中でもいちばん最後に進化した部分で、本能的欲望を司る大脳辺縁系とか比較的脳の奥の方にある部位の働きに対して、「理性」による抑制を効かせる機能があるらしい。
この前頭前野の働きは、幼い頃からの訓練によって鍛えられるという側面がある。
小さい頃から欲しいものを我慢したり、他人の感情を類推して自分の行動をコントロールするような訓練ができていると、大人になった時に前頭前野の働きが良くなる。
そしてキレにくい立派な人物になるそうである。

そんなこと大人になってから言われても、今さら遅い。
それで思ったのであるが、世の中の人がいろいろキレているのを見ていると、許せるキレ方、みたいなのがあるような気がしてきた。

つまりしかるべき理由があって、そりゃあキレてもしゃあないよなあというところでキレている分にはまあいいのではないか。
なおかつ、その人が自分がキレているのをきちんと自覚していて、それなりにキレている自分をコントロールする余地を残しつつキレている、そういうのは大人のキレ方としてはありなのではないか。

一方で、突然よく分からないのに怒り出す、気分の変化に合理的理由がない、なおかつキレる自分を制御しきれておらず、声を荒げるほどにだんだん自家発電的に怒りの感情が増幅するタイプの人。
こういう人を上司に持ったりするとほんとうに疲れる。
できれば関わり合いになりたくない。

世の中はいろいろ複雑なので、いつもニコニコ仏様のような温顔でいて収まるほど簡単ではない。
少なくともわたしの場合、そこまでの人望もマネジメント能力もないので、やっぱりたまにキレ気味になる場面が避けがたい。

人間というものは所詮不完全なものなので、それもまあしょうがないのか。
しかしやはりたまにキレるにしても、それが制御不能な野放図な怒りにならないよう注意はしないといけない。

さっきコンビニで立ち読みしていて、キレやすい感情のコントロールみたいなのが書いてある本があったのだが、たまたま開いたページに「意識して笑顔をつくると怒りが鎮まる」、みたいなことが書いてあった。
こういうことは基本的で当たり前のようにも思えるが、意外に効果的かもしれないと思った。
だから今後は、日頃から意識してニヤニヤしていようかとなあとか考えたりしているのである。
posted by ヤス at 12:15| Comment(2) | 徒然なるままに