2019年04月30日

障壁があった方が燃える

ロミオとジュリエットの恋が燃え上がったのは、それが禁じられた恋だったからだろう。
世の中の有名人、無名人の間に不倫の話が絶えないのも、禁じられた恋愛関係がよほど燃え上がるからなのかもしれない、と想像したりする。
ここで書きたいのは禁じられた恋がいかに燃えるか、という話ではない。
もとよりわたしはその分野について専門家でない。

人はおそらく、なにがしか制限のあることに挑むときに若干燃えるのだと思う。
その辺に転がっている男子と女子が適当にくっつくのでは燃えないのである。
ある種の制限、いくらか高さのある障壁を乗り越えた先にあるものに、人は燃えるのである。
たぶん。

人間の持つ高次脳機能は一日中一定以上のアイドリング状態を保っていないといけない。
何か考え事をしたり、SNSを見たりゲームをしたりおしゃべりをしたり、いくらかのごく軽い負荷のかかった状態にいるときがたぶん一番心地いい。
やることがなくなって負荷がなくなると、いわゆる、退屈する。

我々の脳みそは常に一定以上の負荷を求めているのである。(と思う)
そしてその延長線上で、人間は日常生活における行動においても常に何か新しい刺激を求めている。(と思う)

このような人間の性質を利用し、かつそこに「オーバーロードの原則」を適用すると、人間はより強い負荷に耐えられるようになり、また日常的に欲しいと感じる刺激のレベルが徐々に高くなるのではないか。
プロの将棋指しが一般人なら脳みそがパンクするような複雑な棋譜を寝ても覚めてもずっと脳内に描き続けるのとか、そういうことではないかと思う。

おそらく人間は長い進化の過程で、脳みそがより複雑な思考に耐えられるように、常に一定のアイドリング状態を保ち、かつトレーニングによってそのアイドリングレベルをどんどん引き上げることができるようになったのだろうと勝手に想像する。

というか、放置しておくと我々は常にアイドリングレベルを引き上げる方向に傾いていく。
その途中で多少の障壁があっても、勢いづいた脳みその進化本能は嬉々として障壁を越えようとするのであろう。

いや適当にいくつか障壁があった方が、それを乗り越えたときに分泌するノルアドレナリンなりドーパミンなりの脳的快感がさらに事態を加速させ、人々はさらなる刺激を求めて走る。
つまり人間は障壁があった方が燃えるのである。
こうして人々は不倫に走る。

というような理屈をこねてみた。
やはり少し疲れている。
理屈のこね方が何だかままならない。

目的地の弘前城まで54km、時間にして1時間20分ほど。
たぶんもうすぐ雨になる。
posted by ヤス at 09:52| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月29日

たいていのイラつきは無駄なイラつき

コカインで捕まったピエール瀧氏が保釈されて、電気グルーヴの相方の卓球と満面の笑みのツーショット写真を撮ったのがネットに流れている。
いい歳こいてなんだか楽しそうだなあと思っていたが、この写真を引用しながら記事を書いている人がいて、それが保釈で出てきたときの「あの神妙な顔での謝罪はなんだったんか」という内容で、なんだかあいかわらず世の中イラついているなあと思った。

いわゆるこれが「不謹慎オバケ」というやつなのだろう。
さっきまで謝って下を向いていた人が次の瞬間に笑顔になっていると妙にイラつく。
謝っている人は「ほとぼりが冷めるまで」ずっと下を向いていないと気にくわない。

「不謹慎」の中の「謹」も「慎」も、両方とも「つつましい」とか「つつしむ」とかいう感じの意味合いを含んでいるのだろう。
だから「謹慎」は「つつしむ」ことの最上級的表現なのかな、とか思ったりするわけだが「不謹慎オバケ」はもっとも慎むべき人があんまりつつしんでいないぞ、という時に発生する。

しかし例え犯罪行為をしたような人でも、状況により笑ったりふざけたりすることはその人の自由のはずである。
まあ現代のようなネット社会では何かの拍子にその笑顔写真が公衆の往来に晒される場合がしばしばあって、ネット社会以前ならイラつかずにすんだオジさんがその写真をみて頭に血を昇らせる。

それで思ったのだが、人はなぜ、こんな関係ない人の「不謹慎」を見てそのたびにイラついたりするのだろうか。

たぶんネット社会以前にも不謹慎にイラつく人は普通にいたのだと思う。
30年くらいの昔にも、しょっちゅうイラついているオジさんやオバさんはいた。
不謹慎とはちがうけど、昔わたしが勤め先の中で数人で打ち合わせをしている時に、あるタイミングで「なるほど」と小さめの声でつぶやいたら、斜め前にいたオジさんが突然わたしに向かって声をあげて「自分だけ納得するなっ」と叫んで、叫ばれたわたしは「おやまあ」とびっくりした。

そのオジさんはちょっと調子が悪いとすぐイラついてたけれど、そんな人は他にもチラホラいた。

しかし人はなぜそうもイライラするのだろう。
これはわたしの個人的想像に過ぎないのだけれど、このイライラというやつは、ある種の心理的自己防衛なのだと思う。
たぶんそのイラついたおじさんは、イラつきの元になった出来事にたいして、心の奥底の方で自己に対する脅威を感じた。
先述の「なるほど」事件でいうと、わたしがしたり顔でわかった風な雰囲気を表に出したものだから、あのオジさんはそれじゃあ自分が相対的にわかってない人の立場に置かれるように感じて、それがオジさんの序列意識の脅威になってイラついたのだと思う。

おそらくたぶん他人に腹が立ったりイラついたり「不謹慎だ」とか思ったりするのは、心理的自己防衛(それもたぶんに反射的な)なのだ。
でも人は往々にして自分とあんまり関係のないことでイラつく。
つまりたいていのイラつきは、ほとんど無駄なイラつきである。

ということで、そういう風に思ってわたしもあんまり世の中にイラつかないようにしようと思う。

現在新潟市のやや北方にいて、目的地の青森県弘前市まではちょうどあと400kmなのである。



posted by ヤス at 09:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月28日

立場について考える

人には立場というのがある。
立場はたいていの人にほぼまんべんなくあるものだと思う。
例えば、すべての人は誰かの子供である。
子供には子供の立場がある、親には親の立場がある。

とはいうものの、立場ってほんとうはいったいどういうことなのかとふと疑問に思った。
親の立場、子供の立場って何なのか。
上司の立場、部下の立場、政府の立場、国民の立場、いろいろある「立場」って何なのか。

少し考えると、立場は相対するふたつの関係の中にあると思われる。
二人の人間がいて、その関係性の中で立場が決まるようである。
上司と部下なら一方の方が指示をする立場、もう片方が指示を受ける立場。
責任を負う立場、責任を免れる立場とか、数え上げると「立場」の違いはいろいろある。

たぶん社会に生きている人々は誰もが何かの立場についていて、しかもそれは時と場所によって変わったりする。
家庭では家庭における立場、職場では職場における立場。

「立場でものをいう」みたいな表現がある。
おそらく何らかの立場にいる人には、いわないといけないことがある場合があるのだろう。
そう思うと立場というのはある種の義務を伴うものであると考えることができるかもしれない。

また他方、「立場を離れて」みたいなこともいわれたりする。
人は立場を離れることによってはじめて見える風景があるのかもしれない。

ヘルマン・ヘッセの小説「シッダールタ」の一場面に、主人公がバラモン教の山に籠って神秘体験的な修行をする場面がある。
その修行で主人公は魂を身体から浮遊させて空を飛ぶ鳥の中に入ったり、死んだ山犬に入ったりする。
「人間という立場」すら超える摩訶不思議な修行が行われる。

それで主人公のシッダールタが修行の末に到達した結論は、こんな修行には何の意味もない、ということだった。

人間はしばしば立場にとらわれる。
上司をながらくやっていると、自分が部下だった頃の思いを忘れる。
金持ちには貧乏人の気持ちはわからず、貧乏人には金持ちの趣味がわからない。

「シッダールタ」でも、小説の最初、「若い頃の主人公」は厳格な父親の意向にさからって山に修行に出るが、後に自分に子供ができて、その子供が放蕩するのに悩んだりする場面がある。
立場は輪廻するもののようである。

人間は、ときに立場から自由でありたいと思うことがあっても、なかなかそんな簡単にいろんな立場を自由に往来はできないのかもしれない。
人間にできることは、せいぜいが自分は今どの立場でものをいっているのか自覚するくらいが関の山なのかもしれない。

ほんとうは「立場」について少し違う結論に着地させようと思っていたのだが、結局よくわからずじまいだった。

今京都にいて、明智光秀が本能寺に向けて軍を整えたあたりにいる。
これから北陸方面を目指す。
posted by ヤス at 09:09| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月27日

大塚家具の父娘和解

大塚家具の久美子社長が、スポンサーの通販会社ハイラインズの社長の仲介で、父親で元大塚家具社長の勝久氏と和解した。
まるでテレビドラマみたいな和解劇だなあと思った。

日本国内の家具業界は、バブルの頃が一番のピークで市場規模はおよそ2兆円くらいだったらしい。
それが一時期は1兆円以下に縮小し、その後「お値段以上・ニトリ」の躍進やIKEAの進出などがあって最近また1兆円を上回るところまで回復してきているそうだ。

ちなみに、やや古いが平成27年度時点の家具業界のシェア1位ニトリの売上は4500億円くらい。
2位が無印良品を展開する良品計画で3000億円。
3位が事務関係に強いコクヨで1000億円。
そして4位が大塚家具で580億円となっている。
(上記の数字には、たぶん家具以外の売上も入っているような気がする)

大塚家具は順位では4位だが、1位ニトリの10分の1くらいのスケールに過ぎない。
家具市場が回復傾向にあるといっても、それはニトリやIKEAや無印などの販売する低価格品が伸びているのであって、大塚家具が売っている高級品、あるいは久美子社長が新たに展開しようとしていたカジュアル路線の中級品などは依然としてジリ貧傾向なのである。

だから大塚家具的には、オヤジとケンカをしている場合ではない。
高級品業態どうしで潰しあいして消耗するのではなくて、適度に連携して低価格品への対抗策を練るなり海外進出を行うなり、高級品業態の生き残り策を考えないといけないのである。

そういうことでは今回の仲直りを仲介した大塚家具のスポンサーで通販企業のハイラインズ陳海波社長の助言は適切だったと思う。

昔から「金持ち喧嘩せず」なんていう。
国家間の戦争にせよ、個人のケンカにせよ、争いごとは非常に消耗するものである。
2500年前の古代中国の孫子の兵法においても「百戦百勝は、善の善なる者にあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善」とかいう。
つまり戦って勝つことが最上の策とは限らず、戦わないで屈服させることができるのならそっちの方がいい。

しかし考えてみると、人間は有史以来ずっと戦争やら紛争やら内紛やら戦いに明け暮れてきたわけであるが、人間が戦いに明け暮れるのはたぶん人間の本能がそうさせているのだと思う。

人間というものは、実はケンカや戦争が死ぬほど好きなのである。たぶん。
だから何かにつけて「いっちょやったろうか」と拳を振り上げがちである。
でもケンカや戦争をすると、たとえ戦いに勝ったとしても怪我をしたりスタミナを消耗したりする。
さらに万が一負けるようなことになると、多くを失う。

だからケンカも戦争もなるべくやらないに越したことはない。

大塚家具の父娘和解のニュースを見てちょっとそう思った。
わたしもけっこう気が短くて一歩間違うとすぐにプンプンしがちであるので、なるべく仏のような表情で、腹を立てずにケンカをせずに生きていこうと思う。
そして本来喧嘩好きな人類が、これを上手く回避する秘訣は「だってケンカしない方が得になるじゃん」と思い出すことだと思った。
posted by ヤス at 10:59| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月26日

10連休を前に休みについて考える

さて、いよいよ4月26日の金曜日がやってきた。
暦上、平成最後の平日でありいちおう労働者の半分以上の人々は明日から10連休に入る。
その一方でサービス業とかで連休も普通に出勤日が組まれている人もいれば、10連休も仕事しないと支障が出るので適当に出勤するというような人もいるのだろう。

わたしなんかは毎日が連休なので、あんまり10連休のこととか意識していなかったのだけれど、しかし世の中が一斉に休みに入ると仕事の電話やメールが入ってくることもなくなるし、土日も働いている取引先に対しても「連休なので僕はいないよ」などと比較的気兼ねなく言えて、その点はなにげに心地よい開放感があると思った。

ニュースでやっていたけれど、日本は法律で決まった「祝日」が主要国でいちばん多い国らしい。
アメリカが年間10日、フランスが9日、遊んでいばかりいる印象の国であるブラジルが8日、イタリア7日である。
日本の祝日は17日。
群を抜いて多い。

これに対し、有給休暇の各国の法定日数を見てみると、日本の法定有給日数は20日に対しフランスやブラジルは30日。
アメリカはやや少なくて15日らしい。
しかしその消化率を見ると、イタリアもフランスもほぼ100%だそうな。
アメリカが80%。
対する日本は50%。(しかも中小零細企業の実態は悲惨だろうと想像する)

日本は祝日日数は他国より7日以上多いが、実質的な有給休暇日数が圧倒的に少なく結果として労働者の出勤日数は他国より多いことになっているものと思われる。
単純計算するとフランス人は祝日と有給休暇で土日以外に年間39日休みがあるのに対し、日本の場合は27日程度しかない。
ただこの単純計算で行くと、アメリカの休日日数は22日になって日本よりかなり少ない。

ただあえていうと、日本の場合の休日は自分で決められる有給休暇でなくカレンダー上で「すでに決まっている祝日」が主軸となっているのは「休日の性質」に大きく影響しているような気がする。

日本人は他国に対し「有給休暇に対して罪悪感を感じる人の割合」がダントツに多いという調査結果もある。
想像するに、多くの日本人にとっての「休み」は労働の疲れを取るためのものになっているのではないか。
対してフランス人やブラジル人やイタリア人は、休むために働いているような気がする。(あくまで想像だが)

AIが進化して人間の仕事が無くなる話を書いた時にも考えたことだが、本来人間は自らの消費のために働いているはずだ。

ここでいう消費はほとんど「休み」とイコールだと思うのだが、人間の労働は休みの日のためにある。
どっちかというと休みが主役の目的で労働は手段に過ぎない。
そういう意味では「休み」という表現も良くないかもしれない。
まるで仕事の「なか休み」みたいなニュアンスを感じる。
「休み」が労働のための付随物のようである。

「休み」とか「休日」とかいう表現を変えて「人間本来の消費生活に専念する日」とかにした方がいい。
そういうことを考えるきっかけには、この「10連休騒動」は意義があるのかもしれない、と思ったりした。

posted by ヤス at 14:15| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月25日

こいのぼりと日本経済

最近こいのぼりを見かけなくなった、というのがネットニュースで流れている。
それでマクドの2階席から街を見渡してみると、たしかにこいのぼりらしき布切れがはためいているのがまったくない。
マンションやアパート住まいが増えたのがこいのぼりが減った大きな要因ともいうらしいが、しかし戸建ての住宅が瓦を並べているあたりにも、鯉のしっぽのカケラも見えない。

というか、である。
あらためて思い出してみるとそもそもこの10年20年、こいのぼりなんてそうそう見たことがなかったような気がする。
ネット情報によるとそもそもこいのぼりの習慣は、端午の節句で武家の家で床の間に鎧兜を飾り、邸宅の軒先には旗指し物を飾っていて、それに対抗して裕福な商人たちが模造品の武具を飾り軒先に5色の吹き流しを流したりしたのが始まりらしい。
やがて洒落ものがいて、中国の故事で鯉は出世して龍になるというので、吹き流しを鯉の形にしたのを流すようになって、こいのぼりの原型になったという。

ただこの風習はもっぱら江戸を中心に東国地方限定の風習で、関西に入ってきたのは少なくとも明治期以降のことのようである。

それでネットニュースには、こいのぼりがすたれたのは隣近所でこいのぼりの大きさを競う見栄っ張り競争が激化して、ある自治体では「見栄の張り合い防止条例」ができてこいのぼりが禁止になったなんてこともあったんだそうな。
ほんとうだろうか。

少し考えてみると、「女の子」のお祝いである雛祭りの雛飾りは家の中にあるので外からは見えない。
そこへいくと「男の子」の方のこいのぼりは外から丸見え、というか外からよく見えるように誇示するのがその主たる目的であるように思われる。

もとはといえば「うちの家には跡取りの男の子がいるぞ」というのが嬉しくて、わざわざそのことを外に見せびらかしたかったのではなかろうか。
そういうことが雛飾りとこいのぼりの外からの見え方の違いになっているような気がする。
おそらくそんな背景もあって、こいのぼりがご近所同士の「見栄の張り合い」を誘発していたのだろうと思う。

まあ現代のようにジェンダーフリーが声だかに叫ばれる世の中では、外にみせびらかすこいのぼりは確かに時代に合っていない気はする。

ただ、見栄の張り合いで大きくて高価なこいのぼりが売れて多少とも日本のGDPに貢献するということはあったはずで、「見栄の張り合いなんてアホらしい」と思う賢い人が増えてGDPのマイナスにつながるのも何か複雑な感じである。

そんなこんなで人間のアホな部分が経済を押し上げ、貨幣の循環を後押しすることもあるんだろうなあと、こいのぼりのニュースを見て思ったりしたのでした。
posted by ヤス at 09:45| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月24日

肉が食いたい

この間吉野家の蕎麦屋業態である「そば処吉野家」でミニマグロ丼天そばセットを食った。
そのマグロは畜養なのか何なのか、まあマグロであることはたぶん間違い無い。
そば処吉野家のマグロ丼が、わたしはけっこう好きだ。
何よりもマグロ丼にシソの葉っぱが一枚どーんと載っている。
わたしはこれらの食材の中でシソの葉っぱがいちばん好きだったりする。
丼ごはんにわさび醤油をかけて、マグロの肉とご飯をシソの葉っぱでぐるぐるにしてパクッと食べると美味い。

わたしはもともと胃腸がそれほど頑健にできていないのか、ジジイになったということなのか油っぽいものが最近めっきり食えなくなった。
いや、油っぽいものは動物の本能としては食べたいのはやまやまなのだが、下手に食べると胃もたれを起こすから最近やや遠慮している。

そういうこともあってシソの葉っぱの乗ったマグロ丼は、胃もたれしないいい感じに魚の脂もまじっていて非常に良い。

とここまで長々と書いたが、それでもわたしはできれば肉が食いたいといつも思っている。
それもできれば、脂身たっぷりの牛カルビとかを食いたい。

ものの本によると、他の動物に比べてダントツに大きな人類の脳みそは、その成分がある種の脂肪分でできているらしい。
かつて森の中で暮らしていた人類の祖先は、樹上から降りてサバンナを走り回るようになり、森の中では植物性の食べ物をたくさん食べていたのがサバンナでは狩をしてたくさん肉を食うようになった。
そうやって動物性脂肪を大量に摂取するようになったことが脳の肥大化につながり、結果として知的進化が達成された。
というようなことがひとつの定説になっているらしい。

世の中にはいろんな人がいて、ベジタリアンとかヴィーガンとか菜食主義者とかいう人がたまにいる。
ベジタリアンの人たちの動機には宗教的なものとか「健康主義」とかいろいろあるのだろうが、それはかなり大脳皮質的な、頭の中でいろいろ理屈をこね回した末の「主義」であるように思われる。

それに対して「肉が食いたい」という気持ちは、もっと脳の奥深くの脳髄や小脳あたりから発せられる「本能」に基づいたものであるように思われる。

わたしの勝手な想像によると、人間というのはあまりストレートに本能のまま行動することに何か恐れを抱くもののような気がする。
本能の暴走を恐れる気持ちが、宗教的な禁欲主義や健康オタク的なライフスタイルとかにつながっている、そんなようなことがあるのではないか。

だが人類は、大量の肉を摂取することによって人類になったわけであるから、今になって急に肉食を止める道理はない。

加齢による胃腸機能の低下で食いたいのに思い切り牛カルビが食えない現状は、わたしも人類の個人としていよいよ終焉に近づいているということなのだろうかと少し心配になる。
だから牛カルビの代替として、吉野家のマグロ丼を食う。
でもやっぱり本当はウシを食いたい。
なぜならそれは過酷なサバンナの環境を生き抜いた人類の本能であるからだ。
妥協案として、ファーストフードの「M」に牛肉をパンで挟んだやつでも食いに行こうかな、と思ったりした。

posted by ヤス at 11:17| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月23日

AIで仕事が無くなる心配について考える

近い将来AIによっていろんな職業が人間から取って代わられるという話が出てもう久しい。
力仕事や単純作業だけでなくて、弁護士やら税理士やら経営コンサルタントやらの「知的職業」においてもその影響は免れることができない、という。
たぶんもうあと20年や30年はなんとかなるが、しかしあと50年もすれば、AIとロボット技術の進化により「人間の職業」はあらかたなくなるような気もする。

しかし人間にできてAIやロボットに絶対できないことがただひとつあって、それは「消費」である。
あるいは多少格好をつけて「人間として生きること」と言い換えてもいい。
AIは逆立ちしても「人間として生きること」はできず、「消費」もしない。

考えてみると人間の労働は、その人が生きること、消費することのためにやっていることである。
現代社会は原始時代と違って、食糧生産する人、家を建てる人、それ以外の仕事をする人などが完全に分業されている。
食糧生産以外の職業についている人は、自分の職業を通じていくらかの貨幣を得て、その貨幣で食料を買ってそれを「消費」する。

生きるためには、すなわち「消費」するためには働かねばならず、その一方で自分の働きが他の人の「消費」を支えているという面もある。
これがAIによって大半の職業が奪われると「消費」のための貨幣が得られなくなって生きていけなくなるから問題だ。
というのがAI問題のあらすじであるように思う。

しかし少し想像してみると、例えばオリックスみたいな会社が数千万台のAIロボットを持っていて、それを今まで人間が働いていた職場に派遣する。
そして今まで人間が得ていた労働の対価たる貨幣は、オリックスに入る。
今までの人たちは給料が消えて無一文。
ただそうなると今度はオリックスが困る。
「三面等価の原則」的に考えると、「消費」する人々が無一文になる、つまり「所得」がゼロになると「生産」もゼロになって日本経済が消滅してしまう。
オリックスは請求書を出す先がなくなる。

それじゃあどうなるかというと、結局AIロボットを駆使するオリックスに富が集中するので、政府がオリックスに集中的に課税して、徴収した分を仕事の無くなった消費者に配る。
それでめでたく消費者は心置きなく「消費」ができるようになる。

最近議論が活発化している「BI=ベーシックインカム」的な世の中にならざるを得なくなる。
たぶん遠い未来のAI社会では、前述の「オリックス」的な会社がいくつかあって、しかし政治とか多少の分野で人間の職業が残る。
例えば歌手が歌うとかダンサーが踊るとかプロ棋士が将棋を指すとか絵描きが絵を描くとか、そういう芸術芸能活動は活動自体が職業であると同時に「消費」でもある。
だから残るのではないか。

ということでAIが活躍する世の中では人間は純粋に「消費」する人になってほとんど働かなくてもよくなる。
というか、そうなったらいいなあとナマケモノのおじさんは思っている。
posted by ヤス at 10:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月22日

謝罪について

Yahoo!ニュースを見ていると、このところいろいろな事件が立て続けに起きている。
スリランカで大規模テロもあり、国内では統一地方選もあり、奇っ怪な交通事故も続き、芸能人の不祥事なんかもあったようだ。
またアイドルグループNGT48の山口真帆が大方の予想通り卒業を発表した、なんていうこともあった。

それでわたしもそのグループ名を聞いたことのない「男女6人組のダンス&ボーカルグループ」のリーダーが酔っ払って女性を平手打ちしてその謝罪会見を開いた、とかいうのも流れていた。
なんでも会見を開いたその男の子は染めていた髪の毛を黒に戻し、「酔っていてよく憶えていない」というのを繰り返して、しかもその時ちょっと半笑い気味だった、ということがまた批判の対象になったりして騒々しい。

こういうどうでもいい芸能ネタがネットニューストップの大部分を占める状況もどうかと思うわけだが、そのよく知らない人物の記事を懸命に追いかけるおじさん(つまりわたし)もどうかしている。

思うのだが、こういう有名人の不祥事が起きるとどこからともなく「謝ってほしい」というファンの声が湧き上がってくる。
いや、ファンでないその他の人々からも「謝った方がいい」という意見が出る。

その、一部の人々の「謝ってほしい」心理が今回はちょっとわたしの気持ちに引っかかった。
もとより、謝罪の主であるよく知らない男の子のことには、わたしはまったく関心が持てないでいる。

あの「謝ってほしい」心理って、何なのだろう。

人間として本来あるべき謝罪のかたちは、謝る方の人間が心底反省してその心情を謝罪対象者に吐露するのが「正解」だろう。
また謝罪には本来きちんと目的があって、それは謝罪対象者からちゃんと「許してもらう」ことにあると想像される。

許してもらうスタイルにはいくつか種類があるように思うが、ひとつは過ちを犯すに至った経緯を論理的に説明し納得してもらい理解を得るパターンがある。

それともうひとつは感情に訴える方式、憔悴した顔つきで、できれば涙ぐみながら思い切りへりくだって見せるパターン。
この場合土下座とか大げさなジェスチャーを入れ込んだりすると見ている方がしらけるので避けた方が無難。
あくまでそこはかとなく、申し訳ない気持ちがにじみ出るようにやるのが肝心だ。
謝罪された方は、ひとつにはこれはさすがに可哀想だなあと思って許す、あるいは生意気だったアイツがすっかりしょげて落ちぶれたのを見て溜飲を下げ、許す。

たいていの謝罪はこのふたつの組み合わせで企図されるわけだが、しかしその割合バランスとしては圧倒的に後者の、情に訴える謝罪パターンの分量が多い。
まあ酔って人を殴ったとか、不倫したとか、薬物に溺れたとか、あまり論理的な申し開きができそうにないタイプの謝罪が世の中には多いので、情に訴える謝罪パターンが多くなるのも仕方ない。

わたしとして気になるのは、本来謝罪対象者の範囲に入っていない赤の他人が「誤ってほしい」と横から割り込んで言うパターンが多いような気がすることである。
こういう人々の心理は、有名人がしょげかえっているのを見て溜飲を下げるというやや下品な趣味もあるのだろうし、「この人の場合はどんな謝り方を見せてくれるのか」という単純な好奇心もあるんじゃないか。

そういう点で「謝罪」は今やある種のエンターテイメントであり、大きなニュースネタの一つになっている。
はたして今の日本はそんなことでいいのか。
というようなことを、今朝も芸能ニュースの精読に余念のないおじさんは思うのでした。
posted by ヤス at 07:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月21日

高齢者は免許返納すべきか

先日池袋で87歳の男性が運転する自動車が猛スピードで次々に人をはねる事故というか事件が起きた。
男性は直前に歩道と車道を隔てる金属柵に接触して、それが元でパニックになったらしいとニュース記事に書いてあった。

その昔、交通事故の死亡者数が年間1万人を超えた時代があって(現在は年間4千人ほどである)、それは平成元年頃の数年間であったわけだが、その頃はバブル期ということもあって自動車の台数も爆発的に増えていて、それが事故増加の一因だったろうことは想像に難くない。
年間死亡事故件数1万人は平成7年まで続いたが、その後は世の中の自動車保有台数自体は依然としてゆるやかに増え続けているものの、死亡事故件数はだんだん減少していって現在の4千人程度にまでなった。

これはABSとか横滑り防止装置の義務化、あるいは最近の衝突対策レーダーの装備や安全構造ボディの採用など技術面の進化が大きく貢献しているのだと思う。
あるいは、シートベルト装着や飲酒・酒気帯び運転などにかなり徹底した取り締まりが行われたことも地味に効いているのかもしれない。

そういうことで事故件数も事故率も順調に減っているわけだが、ここへきてまた別の問題が大きくなっている。
それは言うまでもなく高齢ドライバー増加である。
内閣府の統計によると75歳以上ドライバー10万人あたりの死亡事故発生件数は8.9であるらしい。
これは75歳未満ドライバー10万人あたり3.8と比べると倍以上の値である。
で、この75歳以上ドライバーが10年前の2009年には325万人ほどだったのが2019年にはおよそ600万人になって倍増している。

高齢者がらみの事故が交通事故全体に占める割合は2割くらいで、この10年間で倍増しているという情報もあった。

また高齢者の事故の特徴は死亡事故の割合が多いことらしい。
事故発生件数がどうこうよりは、いったん事故が起きたら重大事故になりやすいということだ。

それで歳よりは危ないので免許を返上しろ、とかいう議論になるのかもしれない。

しかし高齢者にも人間の尊厳が当然ある。
高齢者も人に気がねなく出かけたりする自由はあってしかるべきだ。
また免許のない不自由さがかえって鬱や痴呆の原因になるとかいうこともあるのではないか。
そう考えるとこれはなかなか難しい問題だ。
また期待の「自動運転時代」は技術確立や法整備にまだ10年以上かかるという説もある。

この過渡期を乗り切るには、もう一段、新しい安全技術が必要な気がする。
今の衝突防止レーダーを進化させて、走行中前方に障害物を検知したら強制的に徐行停止させる装置の義務化は最低限必要だと思う。
さらに車載AIによって周辺状況、信号とか周辺車両とか歩行者とかの状況を適切に読み取って、アラームを出すとか強制停止させるとかいう装置ができるといいなあと思う。

わたしの希望としては、歳とって運動機能や認知機能が落ちたからといってただちに免許を返納しなくてもいいような技術の確立がされればいいと思う。

そうでないと自動運転確立が予想外に遅延した場合に、自分も歳とって自動車に乗れなくなるのはつらい。

今の時点では高齢者の免許返納はある程度仕方ないかもしれないが、しかし基本的には、何歳になっても、できれば死ぬまで自動車の運転ができる世の中であればいいなあと思っている。
posted by ヤス at 14:32| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月20日

マイナンバーカードを窓口に取りに行った話

確定申告の真っ最中に住基台帳カードの電子証明書の期限が切れているのに気がついて、仕方ないので電子申告は税務署に行って「IDとパスワード」を発行してもらって乗りきった話は以前に書いた。
それでそれに懲りて、また政府筋でも住基カードから「マイナンバーカード」に大々的にスイッチしようとしていることでもあるし、と思ってその「マイナンバーカード」をネット経由で「注文」したのだった。

地方なんちゃら機構とかいう団体のサイトを検索して見つけて、そこに必要事項を打ち込んで、さらにカードに張り付ける顔写真をパチッと自撮りしてアップロードすると「申請が終わりましたひと月くらいお待ちください」的な案内が出て終了、みたいな感じだったと思う。

それでそのひと月が経って、いよいよ「マイナンバーカードを交付するので市役所に取りに来てください」的なハガキが来たのでこの間行ってきたのである。

まず思ったのだが、カードの申請はウェブサイト経由でできて写真も自撮りを送るだけでいいのにカードの交付は役所の窓口の手をわずらわせるのだなあと。
市役所の窓口に行って1階のインフォメーションで「マイナン・・・」と言いかけたら、あまり若くない受付の女性がすかさず「順番整理券(正式にはなんていうの?)」発券機のボタンを押しながら「3番窓口でやってます」的な感じで案内された。

結論を言うと待ち時間も含めてカードの交付には25分くらいかかったと思う。
あと、窓口では「通知カード(数年前に送られてきたやつ)」と「住基カード」の返還を求められた。
これらはマイナンバーカードと同時に保持してはいけないことになっているらしい。
わたしはうすうす気づいてはいたのだが、面倒臭かったのでそのどちらも持参しなかった。
そうしたら「通知カード」は紛失届け提出、「住基カード」は後日ご持参くださいと言われた。

どうして通知カードは紛失届けで済むのに住基カードは後日持参が必要なのか。
たぶん通知カードは失くしてもしょうがないと、行政サイドも諦めているということなのか。
それにたぶん、わたしとしては住基カードも面倒くさいので後日持っていかないと思う。

窓口でカードを受け取って分かったが、なぜマイナンバーカードの交付が郵送ではなくて窓口受け取りなのかというと、返還するものがあるっていうのと、あと運転免許証を窓口職員が確認して「本人かどうか同定」する必要があるということなのだろう。

しかし運転免許証による本人確認を窓口でやることにどれほどの意味があるのか。
カードの交付に一人当たり0.5時間かかるとして、この調子で例えば10万人分交付すると時給千円で単純掛け算して5千万円分の人件費がかかることになる。
100万人だと5億円、1000万人で50億円。

カードを取りに行くこちらの手間もばかにならない。
市役所ではわたしのカード交付を処理するために何枚ものA4版の書類を作成して、それを使い回しのシワシワのクリアファイルに挟んでいた。
電子技術を結集したICカードの発行の割りに、何かものすごい場違いな、アナログな感じがした。

つい最近観かえしたテリー・ギリアムの怪作映画「未来世紀ブラジル」を思い出した。
日本は近いうちに、滅びると思った。

posted by ヤス at 09:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月19日

人の素は言葉に出る

昔、若い頃に、当時勤めていた会社の社長から「ぼーっとした感じの人には気をつけろ」と言われることがあった。
これの意味はぼーっとした人は頭の中身もぼーっとしているから気をつけろということではなく、見た感じはぼーっとしているが頭の中身が実はキレキレの人が案外いるから気をつけろ、ということだった。

それで実際にヨレヨレの背広に風采の上がらないオヤジ臭の漂う感じの人で、しかし実際はものすごくできる人というのがたまにいて、やあ人は見かけだけで判断すると見誤るなあと思ったりしたのだった。

もし先入観だけで風采の上がらないオヤジを最初からダメなやつだとなめてかかっていたとしたら、その実キレキレのそのオヤジにたちまちこちら側の人を見る目の不確かさを見破られてしまっただろう。
というか、人を見た目だけで判断してわたしのうかつさを見破られていたケースというのは、わたしが気が付かないだけですでにいっぱいあったのかもしれない。

ことほど左様に人の見た目と中身はリンクしていない。
ただこのことは、中身がキレキレの人がその見た目が必ずぼーっとして風采が上がらないと決まっているという話ではない。
外見キレキレで中身もキレキレもいれば中身がぼーっとして外見もぼーっとしているような人も適当に分布している。
要は中身と外見は必ずしもリンクしていないということなのだろう。

そんなことは誰でも知っている当たり前の話であるが、しかし目の前に具体的な人物像としてお洒落でピカピカの外見を見せられると、無意識にその外見に印象が引きずられる。
しかしそれでも、その人の中身は確実に表に漏れ出ている。
ファッションコーディネーターにお任せすれば服装や髪型は即時にぴかぴかにできるかもしれないが、しかしその人の口から反射的に発せられる言葉とかには、やはりその人の素が出る。

あるいはその人が書く文章とかにも、その人の中身は色濃く反映される。
わたしはやたらメールが長い人とか、難しい漢字をたくさん使ったような文章を書く人物のことをあまり信用する気にならない。

わたしは以前、人間の語る「言葉」には例外なく多量の嘘が含まれている、言葉は必ずしも現実世界を正確に記述しない、というようなことを書いた憶えがある。
それからいくと、その人の語る言葉にその人の素が出る、というのはある種の矛盾だと感じることもできるかもしれない。

たぶん言葉は現実世界を正確に記述できないというのは間違いないと今でも思う。
人々が語る言葉は厳密にいうと、本来すべて嘘というか、虚構なのだと思う。
ただ、その人が世界をとらえて言葉に変換した時の「その人の世界のとらえ方」としては真実なのではないか。
話されたり書かれたりする言葉は、話したり書いたりしたその人の世界のとらえ方そのものを表し、その意味でその人そのものである、という風に考えることもできるのではないか。(ちょっとややこしくなってきた)

だから何気に話したり書いたりする行為は、素っ裸のフ○チンで街を闊歩するのとあまり変わらないことのような気もする。
それが大々的にできるネット時代はなんだかたいへんな世の中だなあとか、脈絡なく思ったりした。
posted by ヤス at 11:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月18日

ノートルダム大聖堂焼け落ちる

パリのノートルダム大聖堂で火災が発生して、尖塔が焼けて崩れ落ちてしまった。
ノートルダム大聖堂の尖塔は高さが90mもあってパリの街のシンボル的な存在でもあったわけだが、その尖塔が崩れ落ちる動画がYouTubeにも出ていて、その崩れる姿もものすごくシンボリックな感じがするなあと思った。

ノートルダム大聖堂のような宗教建築には「塔」というのが付きものである。
ヨーロッパ各地にあるキリスト教会の大聖堂にはだいたい高い塔がそびえ立っている。
日本でも法隆寺の五重塔とか有名なお寺さんには高い「塔」がそびえている。

わたしは27年前に中国大陸を旅行したことがあったが、その途中に立ち寄った西安の街にも、有名な大雁塔をはじめ有名無名いろいろ、大小の塔があったのを思いだす。

「塔」という字はもとはサンスクリット語の「ストゥーパ」の音に漢字を当てたもので、つまり「塔」の字は意味的には卒塔婆のことで、それ自体が一種の宗教的な言葉ととらえることもできる。
そして洋の東西を問わず宗教建築に塔は付き物なのである。

京都の東寺の五重塔は日本でいちばん高い木造建築らしいけれど、高さは54.8mあるらしい。
ただ五重塔のてっぺんには「相輪」と言われる長い飾り柱が突き出ていて、それが高さのかなりの割合を占めるので、人間が登れる部分の高さは30数メートルくらいなのかなと思う。
それでもその高さまで登ると普段とはまったく違った視界が開けるわけで、飛行機もなくブルジュ・ハリファもエンパイアステートビルも無い時代の昔の人にとって、それはたいそう新鮮な体験だったのだろうと思う。
昔の人にとって地面に這いつくばって生活している日常から高い塔に登って下界を見下ろす行為には、多分に宗教的なスペシャルな意味合いがあったのかなと想像する。

と同時に下界をはいつくばる庶民からすれば遠くから見える高い「塔」に、えも言われぬ荘厳なイメージを抱いたはずで、いろいろ想像していると高い非日常の場所に登ることのできる高貴な身分とただ地上から仰ぎ見るだけの庶民との絶対的な身分の差を生じさせる装置としても「塔」は機能したのだろうと思う。


ニュースによるとフランス政府では、ノートルダム大聖堂の尖塔の再建デザインを世界中から公募するのだという。
公募したデザインのとおりに再建するかどうかは今後の検討課題らしいが、かつて宗教的権威の象徴であった「塔」のデザインを広く公募するというのは、ひどく民主的でさすがは革命の国フランスだなあ、とか思ったりしたのだった。
posted by ヤス at 09:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月17日

俺が本人だと思っていること

最近のスマホは、昔みたいに暗証番号を打ち込まずに指紋や顔認証でロック解除できて便利だ。
昔ながらの暗証番号の場合、番号さえ分かれば赤の他人でもロックが開ける。
しかし指紋や顔認証は指紋や顔の「持ち主」が現場にいないとロックが解けない。
その点で「本人認証」としてもより厳密になっている。

そんなことを思いながらなんとなく「生物と無生物のあいだ」の福岡伸一氏のYouTubeをなんとなく観かえしていて思ったことであるが、本人が本人であるというのは何であるのか。
スマホの「本人認証」では指紋や顔がおおよそ同一だとその本人と同一と判断するわけだが、その一致率は100%ではないはずだ。

もし100%の一致率で認証した場合、飲み過ぎた翌日に顔がむくんでいるとか不摂生で太って指のサイズが微妙に肥大化したりした場合に認証されなくなる。
むしろ本人の基準というのはいつも少しずつ変化している。
太ったり痩せたり怪我したり成長したり歳とったり、実はけっこう変化している。
だからスマホの認証もある程度の幅の中で本人かどうか確認しないと機能しない。

そんなことを考えていると、いったいわたしが「私である」ということの意味は何なのだろうかと思う。
スマホの認証で言えば、例えば指紋から顔のシワから本人そっくりの人形を作った場合、そのそっくり人形を使えばスマホの認証くらいは突破できるだろう。
つまり物理的な姿形には、実は「本人」の本質はない気がする。

福岡博士的な話の中では、人間の体の細胞だって毎日ごはんを食べてちょっとずつ入れ替わっている。
人間の体は数年経つとすっかり「別人のように」入れ替わっているという考え方もできる。

ひとつ本人が本人であることの証明になりそうなものとして、記憶がある。
生まれてから今までの思い出やらトラウマやらが脳細胞に蓄積されて、本人が脳みその中の記憶を思い出すたびに「俺って本人だよなあ」と思っている。
「俺」が自分のことを「本人だと思う」その気持にこそ、本人が本人であることのわりかし重要な根拠があるように思える。

ただそう考えると映画「ブレードランナー」(最初のやつ)でタイレル博士の姪の記憶をレイチェルに移植したケースとかはどうなるのか。
「レプリカント」であるレイチェルは物理的には明らかにタイレル博士の姪の「本人」ではない。
しかしレイチェル本人は、自分のことを「本人」だと思っている。

そして同時に、レイチェルは自分が「本人」でないことにもうすうす勘付き始める。

「ブレードランナー」では不安定な状況に置かれたレイチェルがややメンヘラ的にいらつくようすが描写されてそこもこの映画の醍醐味になっている。

しかしわたし的には、本人が「本人」と思っていることこそ本人の証のような気がしてならない。
それは例えば「2001年宇宙の旅」の続編「2010年宇宙の旅」のように、本人の記憶が物理的な身体から幽体離脱のように離れて純粋な情報のかたまり状態になった場合でも、そのふわふわと漂う本人の記憶こそが本人の本体のような気がする。

というようなことを考えていたら頭が痛くなってきたので、何だかよく分からないが今日はこの辺でおしまいにする。
posted by ヤス at 10:41| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月16日

見えない不安をためないために

不安について少し考えている。

自分は最近、以前に比べると飽きっぽくて集中力が続かなくてやる気がないような気がする。
そういうメンタル的に不活性な状態が続くとこれはけっこう強力な不安要素になる。
それともうひとつ物忘れも時々あったりして、やあこれは俺もジジイになったのかなあとか思う。
まあこれらは前からそうだったのかもしれない。

ネットに書いてあったけれど、スマホやSNSが不安要素になりそれがもとで短期記憶に支障が生じたり集中力が弱ったりする影響があるらしい。
スマホで暇つぶしにゲームをしたり、SNSで知り合いが海外旅行の写真を載せているのを見て嫉妬心に狂ったりすると、少なからずメンタルに影響があるというのは分からない話ではない。

スマホとかSNSとかいうものは以前にはなかった。
飽きっぽくて物忘れが激しいのが加齢のせいではないにしても、あるいはスマホやSNSが原因なのではないか、そういうことでは「最近の問題」なのではないか、とも思ったりする。

こういうのはどこまでメンタルに影響しているのか。
スマホやSNSが漠とした不安の主たる原因になっているのか。

自分の中にある「不安な気持ち」を少し分析的に眺めてみると、やはりそれは不安要因が見えないことによるものが大きい気がする。
以前にあるお店屋さんをやっている中小企業のオヤジで「毎日の売上を見るのが怖い」というヘタレな人がいたけれど、実はわたしにはそのオヤジの気持ちが痛いほど分かる。

売上が足りない現実を直視するのは死ぬほどつらい。
直接的にメンタルが痛い。
しかし足りない売上を具体的に見ないとどれくらい足りないのかが見えなくなる。
怖いものの具体的な姿が見えないことによって不安が生じる。
そしてその不安がメンタルを蝕んで売上を直視する心のスタミナをますます奪う。

見るとつらいし見ないと不安がたまる。
結局のところ少々つらいのに耐えて少ない売上を直視するほかない。
そっちの方が漠とした不安がたまってウツっぽくなるよりよほど健康的だと思う。

先に書いたスマホやSNSっていうのは、つらい思いをまぎらわせる暇つぶしになる。
スマホやSNSそのものが悪いというよりは、つらい現実から逃避するための道具に使われる点に問題があるような気もする。

それで思い出すのだが、塩野七生氏の著作「ローマ人の物語」には人間のサガである「見たいものだけ見る」問題が大きなテーマとして出てくる。
ユリウス・カエサルが英雄になれたのも「見たくないものを直視」したからだと書いてあった。(と思う)

わたしは最近、主人公が悲劇的な死を遂げたりする映画を最後まで観るのがつらいなあとか思っていたわけであるが、しかしここはメンタルトレーニングと思ってぐっとこらえて最後までがんばろうと思う。

何の話だったか最後はよく分からなくなったが、少々つらいのに耐えていないと見えない不安がたまってメンタルが病むので、少しづつつらいのに耐えてメンタルを鍛えようと思ったという話だ。(と思う)
posted by ヤス at 13:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月15日

最低賃金引き上げの議論

昨日コンビニ店員のことについて考えたわけだが、それにしてもコンビニに限らずいろんな会社やお店で人は足らないようである。
それでふと考えてみると、もう20年近く前にも、某企業で学生アルバイトを募集していた某店長が「最近バイトが集まらない」とぼやいていたのを思い出す。
人が足らないという話は、それこそ就職氷河期の時代も含めてけっこうあったような気がするのである。

明治以降一貫して増え続けていた日本の総人口が減少に転じたのは2008年頃だったとされる。
しかし他方で16歳から64歳の生産年齢人口は1990年頃には早くも減り始めている。
最初の頃はだいたい年間に2〜30万人ずつ、最近では年間50万人くらいのペースで減っている。
特に出生率の低下によって昔は日本全国の一学年の人口は200万人くらいだったのが最近は100万人くらい、つまり生まれる人の数が多い時の半分くらいになっている。

だから人手不足は、まず学生バイトにおいて顕著になる。
学生バイトに関してはすでに1990年代から「不足感」が目立っていたのだと思う。


少し前から、最低賃金引き上げの議論が活発化している。
これは主に近年ずっと続いている消費不況への対策、あるいはどんどん増加していると言われている貧困層もしくはワーキングプアに対する救済策ということで提言されているのだろう。

特に日本の最低賃金の国際比での低さが取りざたされ、そこで「上げるべき」という論拠が持ち上がっているようだ。
ウィキペディア情報だが、主要国の最低賃金一覧表(2015年基準らしい)を見ると日本は時給換算で7.22ドルらしい。
これはアメリカの7.25ドルや韓国の7.38ドルと同水準、オーストラリア14.22ドル、イギリス12.54ドル、ドイツ、フランスの10ドル強と比べるとかなり低い。
この辺の数字を参照して日本の最低賃金は1200円とか1500円とかくらいにすべきという話が出ている。

ただ経済界の反対があって、おそらく日本の最低賃金はなかなか上がらない。
政府としては経済対策の一環として上げたい気持ちはあるのではないかと想像するが、政権基盤の一端を担う経済界が反対するのではなかなかやりにくい。

わたしは今までは最低賃金の引き上げには反対の考えだった。
だがつい最近考えがやや変わった。
今の日本では全体の7割8割を占める一般消費者から大企業に向けて「所得移転」する構造が一貫している。
これには円安による「企業の利益増、輸入インフレによる庶民の窮乏化」もあるし、低賃金労働者の活用による人件費の節約効果もある。
その結果企業業績は史上最高を年々更新し内部留保もどんどん積み上がる一方で消費者側の実質賃金は下がる一方である。

最低賃金の引き上げはこのような経済構造の一方的な流れを止めるという点で、政策の「方向性」としては少なくとも正しい。
ただし最低賃金を引き上げると企業はコスト対策として人間を機械(またはAI)に置き換える、もしくは事業拠点を海外に移すなどするに違いないので最低賃金を上げた分が100%一般庶民の所得増加にはつながらないのが難しいところである。
しかし一般庶民がたとえ救われなかったとしても、職場の生産性の向上という点では寄与するだろう。
その結果、今までより給料の上がる人が少しだけ増えたり労働環境の改善する人が増えたりするのかもしれない。

そう考えると最低賃金引き上げは避けて通れない議論のような気がする。
そして最低賃金が1500円くらいになった暁には、わたしもマクドでバイトしてみたいなあ、とか思ったりした。
posted by ヤス at 11:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月14日

コンビニ店員の「内外格差」

日本の人口がさらに減っている。
というのは今さらの話だが、おとといのニュースによると、総務省の発表で昨年10月1日時点の人口は1億2644万3千人で昨年より26万3千人少なかったという。
減少率では0.21%、労働の担い手となる15〜64歳の「生産年齢人口」は、51万2千人減の7545万1千人、総人口に占める割合は59.7%で、50年以来最低となった、らしい。

それで人手不足が問題だ、コンビニの24時間が難しい、年金問題が深刻化するのではないか、そういう心配がいろいろ出てくる。

人手不足は確かに問題だ。
周りの会社やお店やさんでもアルバイト、社員がなかなか見つからなくて苦労している。
セブンイレブンや吉野家とかの店員は今やアジア系外国人の割合が圧倒になっている。

昨日セブンで買い物をしたときのことだが、名札に「チョウ」と書いたのを胸にピン留めした若い女の子が「ヨーグルトのスプーンは大きいのと小さいのはどっちがいいですか」と聞いてきた。
コンビニでは最近、ヨーグルトのスプーンにカレーとかを食べるときに使う黄色い大きいサイズのスプーンを付けてくることがしばしばあった。
レジの対応は買い物する方もレジ打ちする方も一瞬も無駄にすまいと忙しく動いているもんだから、レジ袋に入ったスプーンが大きいやつか透明の小さいやつかその時は判別できず、帰って袋の中身を見て気づくことが多い。

わたしは育ちがお上品なので、容量180gの明治ブルガリア低糖ヨーグルトの小さい容器にカレー用の大きいスプーンを突っ込んで食べるのはやや抵抗がある。
最近のガサツな若者とかは、大きいスプーンでガツガツ食べる人がいたりするのだろうか、としばしば悶々としていた。

しかしどうもわたしのように悶々とした人は他にもいたようで、いくつかクレームが入ったのかもしれない。
スプーンの大小を事前に尋ねること、というのがマニュアルに加わったのだろう。
そしてそのあたりの対応は日本語が決して万全ではない外国人店員であっても問題なくこなすことができる。
その「チョウ」さんも流れるような手さばきをしながらスプーンの大小を聞いてきて、要領よく業務をこなしているように見えた。

そうかと思っていると、この間ファミマで買い物した時には日本人のおばさんの店員がレジを打ち間違っていて買っていない商品がレシートに印字してあって「これって何ですか」と質問する羽目になった。
バーコード式のPOSレジで余計な商品がレシートに入っているとか、よく分からないエラーだと思うが、そのおばさんも何が何だかよく分かっていないようで、店長的な人が奥から出てきて対応してくれた。

これは多分に何となくの印象であるが、コンビニで働く日本人というのは労働スキル的にピラミッドの底辺に位置するような人が多いのかもしれない。
そこへ行くと日本に出稼ぎにくるような外国人は、本国では比較的優秀な部類に属する人が多いのではないか、ぱっと見そんな印象があるのである。

今はコンビニなどの単純労働現場で散見される(ように思われる)労働スキルの内外格差であるが、これが今後もう少し複雑な労働の現場にも広がっていくのではないか(あるいはすでそうなっているのかもしれない)、そういう心配がふと頭をもたげたりする。

人口減少は大きな問題だが、量の問題ばかりに気を取られているのはやっぱりまずい。
問題は量よりもむしろ質の方であり、労働の質さえ整えば案外なんとかなるのではないか、とも思ったりするのである。
posted by ヤス at 14:08| Comment(1) | 徒然なるままに

2019年04月13日

F35A三沢沖で墜落

航空自衛隊の最新鋭ステルス機であるF35Aが4月9日、三沢基地沖合で墜落したのが大きなニュースになっている。
F35シリーズはアメリカを中心にイギリスなどの「西側諸国」が共同で開発した多目的戦闘機であり、将来3千機とか4千機とか量産される予定の機体である。
現在すでに世界中で400機ほどが生産され300機くらい実戦配備されているという。

日本は老朽化した主力戦闘機のF15J戦闘機およびF-2支援戦闘機の代替として各型合計145機導入する計画になっている。
日本はF35計画開始時に「共同開発国」に入っておらず後から調達を決めて、その代わり日本国内の工場で自衛隊用F35Aを組み立てる契約を取り付けて、合計38機国内生産する計画らしい。
38機のうち現在までに13機が部隊配備され、今回墜落したのはその国内生産したうちの1機だという。

ただF15戦闘機のときの国内ライセンス生産と違い、F35の場合は「共同開発国」から届いた部品を三菱重工小牧南工場の敷地内にある「FACO」と呼ばれる工場で組み立てるだけであるらしい。

完成した機体はメーカーのロッキードマーチンと米軍関係者が日本側をシャットアウトして完成検査を行うらしい。

ということが今回の事故を契機に報道されている。
基本的にF35の設計情報は機密の塊で、それは145機も購入予定の上得意の日本に対しても厳重に機密管理されて開示されない。

したがってもし自衛隊が事故機残骸を発見した場合でも、「正規の手続き」を踏むならいの一番に米軍に一報を入れ、海中からの引き上げ作業とかその後の事故分析はすべて米軍とロッキードマーチンの関係者によって行われることになるのだろう。

その間日本の自衛隊関係者も組み立てた三菱重工もじっと蚊帳の外で分析が終わるのを待つしかない。

今回の事故は単に人命に関わる軍用機事故という点以外に、F35Aとして初の墜落事故である点、さらに国際共同開発した「機密の塊」が共同開発の「外」の国で墜落して「残骸」になったという点で国際的な重大事故なのだと思う。

アメリカとしても「残骸」を日本が勝手にいじったりしたら共同開発国からクレームが入るので神経質にならざるを得ない。
何せ共同開発国は莫大な参加費を払ってプロジェクトに入っているのである。

こういうことがあると、航空自衛隊の次期戦闘機F-X計画が一層国産化の方に傾くのかもしれない。

事故機の回収も自由にできない状況は、空自的にも非常に屈辱的だろう。
しかしだからといって一足飛びに次期戦闘機の国産化に行くのは性急過ぎる。

戦闘機を飛ばす前に日本の国家予算がパンクして、戦わずして焼け野原になったら元も子もないのである。

個人的には空自は無人攻撃機の開発に注力して有人機と無人機のミックスを考えた方がいいんじゃないかと思う。

いずれにしても今回の事故は各方面にいろいろ影響大なのは間違いないと思う。
posted by ヤス at 11:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月12日

Amazonの中華製品を眺めて思うこと

以前にも書いたが、最近はAmazonで買い物をしても、なんというか並んでいる商品の8割くらいは「中華製」の印象がある。
昨晩深夜、例によってPCを開いてAmazonのサイトを徘徊していたわけであるが、ただぼんやり徘徊していたわけではなく、このゴールデンウィークに使えそうな薄手の春秋用「ダウン寝袋」を探していたのである。
いや薄手のダウンの寝袋は、ちょっと前からなんとなく気になってはいたのだ。
しかし有名ブランドであるナンガとかモンベルとかの商品は2万円とか3万円とかけっこういい値段がするので躊躇していた。
そこへ行くと中華製のダウンの寝袋は7〜8千円とかからある。

たぶん品質的には、縫製のしっかり感とかダウンの保温性などでは2〜3万円の商品の方が、まだ分がある。
しかし何せ中華製は圧倒的に安い。
どうせすぐに汚して使い捨て的に買うものだと割り切るなら、中華製を買う選択は大いにありうる。

面白いと思ったのは最近は中華製でも、名も無い安物製品と多少名前の通った「有名ブランド」とに二極分化している感じが見て取れることだ。
中華製有名ブランドはそれなりに品質も高いし、不良品の修理交換の体制もまあまあ整っていて、なおかつ価格もそれに見合った「ちょっと高い値付け」になっている。

別に日本アルプスの高山の極限状態で使うわけでもなし、野宿で寒くない程度に、それなりにコンパクトに収納できる寝袋であれば、まあ私の場合何でもいいわけなのである。
そうなるといよいよ本来の有名ブランド製品を買う動機が薄まる。

Amazonを徘徊したり、また実際に製品を購入して使ってみたりした感じでは、中華製品のここ数年の品質向上は目覚しいものがあると思う。
ただ中華製品の場合、100点満点で60点、70点くらいのものがある一方で、明らかな不良品とか注文と違う商品が届くとか、10点とか0点とかの場合も現状でまだある。
ただ今後数年のうちにそんな不合格の「赤点商品」も市場原理で急速に淘汰されて、やがてそこそこ安心して中華製品を買える時代というのが、すぐ近くまで来ている感じがする。

ふと気がつくと身の回りには中華製品が溢れている。
目の前にあるiPhone8もiPadも、「Designed by Apple in California」ではあるが、製造はまあ中国である。
最近買ったHUAWEIのタブレットは中華設計の中華製造、ついでに心臓部のCPUも中華製だが、けっこうな「高品質感」を身にまとっている。(セキュリティの件はともかく)

たぶんこの次に中華製が世界を席巻するのは自動車の分野だろう。
今、中国が国家をあげて普及に取り組んでいる電気自動車は、確実に中華製が主流になるに違いない。

その時日本の自動車メーカーはどうなっているのか。
何社かは現在のBMWやベンツみたいなプレミアムカーを作って生き残ることになるかもしれないが、おそらくいくつかの会社は潰れてなくなるのだろう。
中華製のダウン寝袋の品質向上のことを考えると、そういう未来が何となく見える気がするのである。
posted by ヤス at 10:18| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年04月11日

人間は感情の動物であること

人間というのはつくづく感情の動物だと思う。
例えば、締め切りを考えたらどうしてもこの仕事を今すぐやっつけないといけない、とかいう場合に「面倒臭えなあ」とか思ってアマゾンプライムビデオの連続ドラマを観に行ったりするのは、そういうことだと思う。
簡単にやっつけられる種類の仕事もあるわけであるが、中には恐ろしく面倒臭く感じられるものもある。
これはその仕事をやることによって脳にかかる負荷を「無意識」が勝手に想像して、「こりゃあけっこう脳みそ的にしんどいぞ」とか思ったりするものだから、それで自動的に仕事を進める手が止まってしまう。
この事態を打破するには、この仕事を終えた時の脳みそ内での達成感による快感を想像するとか、これをやって請求書を書いたら3万5千円もらえるぞと考えてみたり、要するに面倒臭いマイナスの感情に対抗して、物事を進める方向のプラスの感情を懸命に無意識に送り込む作業が必要になる。

それでもこういう場合は大抵「面倒臭い」が勝つ。
「無意識」によって無意識的に自然に沸き起こった感情と、「意識」が意識的に人工的に「無意識」に送り込んだ「感情のようなもの」とでは、どうも自然に沸き起こった天然物の感情の方が勝つことが多いようである。

それでちょっと思うのだが、人間の持っている感情の働きというものは、他の動物に比べてもたぶん相当に強いものであるということなのである。

感情というのは、腹が減ったとか死にたくないとかオンナにモテたいとか、そういう本能的欲求と強く結びついているような気がするわけであるが、人間の場合意識の働きによってそれらの感情がより詳細にイメージされているようで、つまり犬の場合の「腹が減った」に比べると人間の「腹が減った」には、ステーキが食いたいとかダブルチーズバーガーが食いたいとかいう詳細が付随している分、余計に「腹が減った」の感情が強化されている。

人間は犬や猫に比べると「意識」の領域が高度に発達しているから人間である、ということになっていると思うのであるが、同時に感情の部分でも、つまり「無意識」の部分も並行して肥大化して意識による制御が困難になっているというのは、考えてみると不思議な感じがする。

数年前に知った「受動意識仮説」、つまり人間は「喉が渇いたので水を飲もう」と意識の中で考える0.3秒くらい前にすでに無意識的に蛇口に向けて立ち上がっているという理論がある。
人間が意識で考えることは、本当は「意識」が知らない間にすべて無意識に支配されているのだというのはかなり衝撃的ではあるが、しかし最近どうも面倒臭えなあと思うことが多いので、たぶんそれは真実なのだと思わざるを得ないのである。

かなり話がわけが分からなくなったので今日はこの辺でおしまい。
posted by ヤス at 09:48| Comment(2) | 徒然なるままに