2019年03月31日

NHKの営業の作戦

一週間ほど前、外出から返ってきて郵便ポストの中を確認したら、NHK岡山放送局営業部が置き手紙を残していたのを発見した。
いや置き手紙ではない。
「置き契約書」とでもいうのか、複写式で必要事項を記入した後に端を切ったり折り曲げたりしたら受取人払の封筒になる複雑な構造の用紙である。

NHKの営業がうちに来るのは初めてではない。
だいぶん前にも一度来て「うちにはテレビがない」と言って追い返したことがあった。
その時の情報が残っていなかったのか、あるいは残っていても定期的に再訪をかけるシステムになっているのか、もうぼちぼちテレビを買っただろうと思ったのか、その辺は定かでない。

「置き契約書」の表には緑色のポストイットが貼られていて、そこには

「このご住所でまだお届けを頂いていないようですので、お伺いしました。こちらの用紙をご利用ください。」

と、いかにも若い女の子が書いたような可愛らしい字体で書いてあって、横に「山田」のシャチハタが押印してあった。

わたしは思った。
ははーん、こっちがスケベなおっさんと見切ってこんな可愛らしい字体でアピールする作戦で来たのだな。
おそらくこの「山田」というのは可愛らしい字体の主とは別人で、たぶんでっぷり腹の出たむさ苦しいおっさんなのに違いない、と。

だいたい「お届けを頂いていないようです」とか「こちらの用紙をご利用ください」とか、さも契約することが当然という調子でポストイットに書かれているのがそもそも気に入らない。
例えこの字体の主が20歳そこそこの可愛い女の子であったとしてもだ。

ネット情報によると全国のテレビ普及率は2018年3月末時点で96.6%らしい。
単身世帯の男性に限ると90.5%だそうだ。
なるほど普及率はそこそこ高い。
しかし普通の企業営業の感覚ならば、3.6%なり9.5%なりの「テレビのない人々」に配慮して「もしテレビお持ちの場合にお願いします」的な一文があってしかるべきだろう。
(「テレビ」はNHK的には「テレビジョン受信機」というらしい)

「置き契約書」には「テレビがない場合はこちらに連絡ください」みたいなことも、どこにも書かれていない。
あくまでもテレビがあって当然、テレビがあれば受信契約して当然という空気がみなぎっている感じが極めて気に入らないのである。

ということで早速「置き契約書」をシュレッダーにかけようかとも思ったのだが、その瞬間に緑のポストイットに書かれた女の子文字が目に入って、もしかしたらこの女の子は残虐な山田のおっさんに脅されて涙ながらにこの文をしたためたのかもしれない、そう想像した瞬間にポストイットの文字をシュレッダーで粉砕することが躊躇され、すんでのところで手が止まった。

よし、この女の子が直接わたしに「そんな野蛮な契約書はポストイットごとシュレッダーしてください」と直接言ってくるまでこの書類はそっとしておこう。

いずれにしてもNHKは、いろいろ考えて営業しているようなのである。
posted by ヤス at 12:51| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月30日

「御」の字を二本線で消す作法

今机の上に、某所から届いた同窓会の案内の往復ハガキが置いてある。
さっき必要事項を記入の上、「欠席」のところに丸をつけたところだ。
このハガキを見ていて、ふたつみっつ思ったことがある。

まず、当然のことであるがこのハガキの表面にはわたしの住所と氏名が書かれてある。
さらにこれも当然ながら、わたしの氏名の末尾にはやや小さめのフォントで「様」の一字が付されているのである。
そして、往復ハガキの復路の方の表書き、こちらには相手方の住所と氏名があらかじめ書いてあって、その相手方の氏名の末尾にはやはり小さめのフォントで「行」の字が付されている。

世の中の常識的な作法としては、この「行」の字を二本線で消してあらためて「様」とか「御中」とかに訂正した上で送ることになっている。
さらに同窓会の出欠を尋ねる欄に書かれている「御出席」「御欠席」の「御」の字も同様に二本線で消すのが正しい。
誰が決めたのかは知らないが、そういうことになっている。

わたしは上記のような「常識」を数年前から止めた。
時々以前のクセから条件反射式に「行」を「御中」に直しちゃったりすることもままあるが、意識の範囲内では「行」を直したり「御」の字を消したり一切しない。
これはうっかり忘れているのではなくて、意識してやらないのである。

その結果「行」の字が直されていない返信ハガキ(または返信封筒)を受け取った相手方は、「まあこのおっさんは本当に常識のない人ねえ」とか思っているかもしれない、とたまに想像したりする。
しかしおそらく実態としては、受け取った側はそんなところはほとんど気にも留めないだろう。
わたしから返信されてきたハガキを見て「あらまあ」と思う人の割合は、たぶん全人口の3.5%くらいに過ぎないと思う。

ほとんどの人が気にしないのだとすれば、もしくは気にしたからといって何がどうなるわけでもないのだとすれば、わざわざ「行」を「御中」に直したり「御」の字を消したりするのはまったくの無駄だ。

だいたい今の世の中で、単なる連絡情報の伝達に高コストの紙媒体を使うその神経からしてどうかしている。
まあこれはたぶん、今でもメールを使わないおじさんとかけっこういて、メールだと同窓会の案内が漏れなく届かないという問題があるのだろう。

しかし紙媒体で同窓会のご案内をするとその途端に、その文体が妙に古色蒼然となり、「出席」「欠席」の頭に「御」の字が付いたりするのは何なのか。
同窓会なんてみんな同級生なんだから「御」の字とかいらなくねえか、と思ったりするのだが、同窓会の苦手なわたしは「同窓会が苦手」という理由で欠席するから、関係ないっちゃ関係ないのだった。

posted by ヤス at 10:32| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月29日

レシート電子化のニュース

ハフポストのWorldニュースに、アメリカ・カリフォルニア州で紙レシートを禁止化する動きを伝えるものがあった。
日本でもやたらながーいレシートをもらうことがある。
わたしの身近では、マツモトキヨシなんかは比較的長い。
こういう長いレシートは、肝心の「買い物内容と金額」が占める面積割合はほんの一部で、あとは売り出しセールがどうとかお得なクーポン券が付いていたり、販売促進に関するやたら無駄な「付録」がレシートを長くしている。

マーケティング大国であるアメリカでも同様の事情に問題を感じる人がいるらしい。

「領収証」としての本来の目的から逸脱してレシートが無駄に長過ぎるのではないか、という問題提起はなかなかナイスな指摘だ。
それで下院議員のフィル・ティン氏が議会の天然資源委員会に法案を提出して委員会賛成多数となり、次ステップの公聴会に持ち込むことに成功したそうだ。

あの、レジスターの機械から出てくるレシートは、その多くが感熱紙になっているので表面に特殊なコーティングがしてあってリサイクルもしにくいらしい。
それに世の中急速にキャッシュレス化が進んでいて(少なくともアメリカや中国では進んでいるだろう)せっかく物理的現金を省略してコストダウンできているのに、紙のレシートは出てくるというのはちょっとした矛盾だ。
しかもそのレシートが販促情報満載で無駄に長い。

というニュースを見ていてちょっと思ったことがある。

たぶん5〜6年くらい前だったか、世の中のお店が「わたしにレシートを渡してくれない問題」についてブログに書いたことがあったような気がする。
もっと前だったかもしれない。
とにかく数年前には、町の零細商店はもちろんのこと、セブンイレブンとかマクドナルドとかの大手企業であってもレジから出て来たレシートを渡してくれないケースが多発していた。
わたしは毎日家計簿を記録している都合上、レシートはもらわないと困る。

だからくれない場合は「レシートください」とわざわざ言う。
中にはセブンの若いバイトのお姉ちゃんとか、レシートがプリントアウトされるなり条件反射的にクシャクシャっと丸めて「廃棄レシート箱」にぽいと捨てるような人もまあまあの割合でいたりした。

しかしそのような場合でもわたしは「レシートください」と辛抱強くねばった。

最近2〜3年くらいのことだろうか、その状況が明らかに改善した。
今でもたまにクシャクシャポイっとするタイプの店員もいるのはいるが、以前に比べると明らかに減った。

世の中のお店が、特に大手を中心に急にレシートを必ずくれるようになったのは、何か「心境の変化」があったのだろうか。
そういう疑問を思い出した。

話を戻してアメリカの「紙レシート廃止」の議員提案では、紙のレシートを将来的に電子化しようということらしい。
レシートの電子化は、技術的にはすぐにでも可能なのだろうがそのためのシステム投資とかいろいろと問題もあるような気がする。

しかしわたしとしては、どうせもらうなら紙よりも断然電子レシートをもらいたい。
日本でもレシートが電子化される日がいつか来るのだろうか。
多少不安に思いつつ、その日を待ちたい、と思った。
posted by ヤス at 10:02| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月28日

懲りずにブレグジット問題の続きを書く

ほんとうに、日本にいるとヨーロッパのブレグジット問題を、実感をもって理解することがむずかしい。
ブレグジット問題というのは、日本では主に製造拠点とか金融センターの問題とか、経済問題としてとらえられているような気がするが、わたしの個人的な感想としてはこれは「国とは何か」の話なのだと思う。

EUというのは、たぶん将来的にヨーロッパの国家統合を目指している。
もともとヨーロッパ諸国というのは、歴史的に王族同士で嫁さんを出したり養子を取ったり親戚的な関係でやってきたのだろう。
その一方で100年戦争とか30年戦争とか、第一次・第二次の世界大戦とか、絶えず戦争を繰り返してきたこともあった。
EUは親戚同士で戦争を繰り返して来た反省に立ち、この辺でひとつの国にまとまっていこうという目標を持って誕生したのであろうと、聞きかじりの知識などから勝手に思っている。

ところが現在の過渡的過程において、例えばイギリス国民からすれば自分たちの国の上にもうひとつEUという「国のようなもの」が乗っかって、それが自分たちの政府の決定のさらにその上から、移民を受け入れろとか巨額の分担金を出せとかいろんな要求をするようになったという感覚があるものと想像する。

わたしはオートバイに乗っているけれど、このところEUがオートバイの排ガス環境基準を矢継ぎ早に厳しくして、やれユーロ4だ、その次はユーロ5だとかいって、CO2やらNOXの許容排出量をものすごく厳しく規制し始めていることに胸を痛めている。
そのせいで細々とがんばって販売されていた多くの「名車」がコスト上の問題から規制適合を諦めて廃盤になるという、オートバイ好きにとっての悲しい現実が発生している。

イギリス国民ならずとも極東の島国にいながらにして、オートバイ産業に無理な負担を強いるEU政府のあつかましさには多少憤りを覚える。
そんなEU排ガス規制のことを思うと、イギリス国民がEU離脱を考える気持ちが分からなくもない気がしてきた。

もともと国家というのは国民にあつかましいものと相場は決まっているのだろうが、それが元からあるイギリス政府の上にさらにEU政府が乗っかれば、そりゃあイギリス国民としては今までよりもっと暑苦しいだろう。

それとさらに民族問題。
昔社会科の授業で「民族自決」という言葉を習ったような記憶がある。
「民族自決」とは、世界中の諸民族が自治権を持ちうるという考え方(たぶん)。
しかしこれについて言えば、イギリス自体が多種類の民族を包含する「帝国国家」であって「民族国家」の対極にいる。
そのような構造を念頭にブレグジットを眺めると、本来なら帝国国家のイギリスこそがEUを先導する立場にあるべきなのではないかと思える。
イギリスは間違っても「民族自決」を声高に叫べる立場にない。
(北アイルランド問題という民族問題に火を付ける恐れがある、たぶん)

その辺、国家というのは民族ごとに分化独立した方がいいのか、それとも民族を超えて統合されるべきなのかということや、そもそも民族なんてそんなにスパッと綺麗に切り分け可能なのかという問題もあって、ほんとうに「国って何なの」ということを考えざるを得ないのである。
posted by ヤス at 13:12| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月27日

ブレグジット問題がよく分からない

ヨーロッパの方でイギリスのブレグジット問題がいよいよ胸突き八丁の段階に来ているようである。

とはいうものの、この問題のどこがミソであるのか、イギリスとイギリス国民とEUとのそれぞれがどのようなことを目指しているのか、その辺のところは極東の島国からぼーっと眺めているだけではまったく分からない。

ニュースを見ていると、移民問題、北アイルランドの国境問題、EU分担金の問題などが取り上げられている。
中でも北アイルランド国境の問題は、極東の島国のおじさんにはよく理解できない。

グレートブリテン島の西隣にある「アイルランド島」には32の州があって、もともと全島イギリス領に属していたが民族運動の高まりから1919年にアイルランド独立戦争が勃発した。
独立戦争は1921年に終わってアイルランド自由国として独立を果たしたということがあったそうである。
しかしカトリックの多い南部に対し北部の6州はイギリス本土から移民してきたプロテスタントが多数を占め、アイルランド自由国から離脱してイギリス領残留を選択したらしい。

その後全アイルランドの完全独立を目指していた「共和国軍」と、イギリスの息がかかった状況で形式的な独立を目指した「自由国軍」が激しく対立し、1922年のアイルランド自由国の成立後激しい内戦状態に陥った。

凄惨を極めた内戦は1年弱で終結したが、北部6州がイギリス領として残留することに反発する勢力が根強く存在し、内戦を戦った共和国軍の一部が「IRA」となってその後北アイルランド各地でテロ事件が頻発するということになったらしい。(ちょっと理解が間違っているところもあるかもしれないが)

その後1998年にベルファスト合意というものがイギリスとアイルランド共和国との間で締結され、アイルランド共和国は長らく主張していた北アイルランド6州の領有権を正式に放棄し、この地域にくすぶっていた火種が鎮火した。

1993年に発足したEUにはイギリス、アイルランド共和国とも当初から加盟しており、イギリス領の北アイルランドと南部のアイルランド共和国との国境は往来自由になっている。
これがブレグジットによってふたたび目に見える国境が復活すると、沈静化していた北アイルランド紛争問題が再燃する懸念があるということなのだろう。

というようなことをネット情報で拾った。
しかしアイルランドの民族問題といってもやっぱり極東の島国からはいまいちピンとこない。

イギリスのEU離脱というのは、もしイギリスが離脱してその後幸せな末路をたどると「うちの国も後に続け」とドミノ倒し現象が起きる恐れがある。
だからEU側としては離脱するイギリスには、ドン底に落ちて不幸になって欲しいと思っている。

対するイギリス側は、半数はいると思われる離脱賛成派の人々だって、不幸になりたくて離脱したいわけではない。

そのような原理的な困難を抱えている以上ブレグジット問題はすんなり解決する道理はないようである。
(結局よく分からないけれど今日はこれでおしまいにしておく)
posted by ヤス at 11:33| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月26日

成功する万引きの方法

昨日の夜、ファミリーマートで買ったメンチカツバーガーをチンしようと思って、電子レンジに手を伸ばした時のことである。
電子レンジのアミアミのガラス扉の向こうに何か黒っぽい影が鎮座しているのが見えて、びくっとして手が止まった。

その日は夜になるまで電子レンジには触れていない。
ファミマで買ったものは、メンチカツバーガーの他はレジ袋に入って机の上に転がっている。
このタイミングで電子レンジの中に「何か」が入っているはずはないのである。

それで恐る恐る扉を開けたら、そこには美味しそうな天満屋ハピーズの「レバニラ炒め」のお惣菜があった。
そういえば、その前日の夜ハピーズに行って「巻き寿司」と「レバニラ炒め」を確かに買ったなあと思い出した。

天満屋ハピーズの「レバニラ炒め」は、ほんのり甘辛く味付けがされていてなかなか美味しいと思う。
ただ値段が300円以上するので、副菜としてしょっちゅう買うにはやや抵抗のあるところだ。
だから、多少気分のいい時とかでないと買わない。
というようなことはどうでもよい。

話を元に戻すが、記憶をたどってみると、巻き寿司は確かに食べた憶えがあるがレバニラ炒めは食べていなかったなあという事実が蘇って来た。

たぶんレバニラ炒めは、あまりに大切に思う思いが先走りすぎてそーっと大事に電子レンジに入れたのだろう。
そして、その直後に何か他の考え事が頭に浮かんで、レバニラ炒めは何せそーっと電子レンジにしまったものだからそのまま忘れてしまって、巻き寿司だけ食べてそこから約24時間が経過したものと推測できた。

こういう事件があると、オジサンになってモウロクした自分に愕然として落ち込む。
しかしこういうことが起こるのは、必ずしもオジサンになったからばかりとも限らない。

20代の頃広島に住んでいて、広島の本通り商店街の書店「丸善」で立ち読みしていて、たぶんその時も何か考え事をしていたのだろう、気がついたら黄色いややゴツめの本を小脇に抱えたまま本通りの人通りの中を歩いていた。
黄色いゴツめの本は、おそらく3千円くらいはするアート関係の本だったと思うが、この本は「丸善」から勝手に持ち出したものでもちろんレジでお金も払っていない。
本を抱えたまま考え事をしていて、そのまま店を出てしまったらしい。

よく万引きで捕まらなかったものだと思う。
冷や汗をかきながら100mくらいも歩いて「丸善」に戻り、外から持って入った本をレジで精算する格好になったのはなんだか面白かったなあと記憶している。

それにしても、あの時の「丸善」はあからさまな万引き犯を見逃してかなりうかつだったと思う。
あるいは、万引きというのは無意識的に自然な感じでやると監視する方も案外気がつかないものかもしれない。
生活苦に陥った時のために憶えておこう。

また話が逸れた。

要するにわたしは電子レンジの中に大好きなレバニラ炒めを忘れるほどモウロクしたのではないかと落ち込んだわけだが、しかしよく考えるとそれは今に始まったことではなく、つまりわたしは決して歳とってモウロクしたわけではない、ということである。

そういうわたしとしては、歳をとって最近物忘れが激しくなったなあと落ち込んでいる世の中のオジサンオバサンに対して、それは今に始まったことではないよ、あんたは昔からそういう人だったんだよと励ましてあげたいと思った。

ちなみに24時間経過したレバニラ炒めは、無事に美味しく頂きました。
posted by ヤス at 10:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月25日

NGT事件と48Gの責任体制

アイドルグループNGT48の山口真帆さん暴行事件をめぐる「第三者委員会」の調査報告に関する記者会見が、3月22日金曜日に行われたらしい。
この会見の途中、会見を観ていたのであろう当事者である山口真帆さんがTwitter会見内容に異議を唱える異例の展開になったのはみなさんご承知のとおりである。

またこれも各方面から指摘されていたことであるが「第三者委員会」の報告は調査をした「第三者」の人々によって行われるべきもので、当事者の一方である運営はそれを横で神妙に聞いている、というのが本来の姿だったはずだ。

それがどういうわけか今回は「第三者委員会」の人は会見に一人も出てこなくて、「調査対象」であるはずの運営が調査結果を報告することになったのは変な感じだった。

といって、3時間近く行われたというこの会見をわたしはすべて観たわけではない。
だからその内容について言及することはできないのであるが、しかし今回の事件を眺めているといろいろな疑問が沸き起こってくる。

まず、NGT48の運営組織の責任体制がものすごく分からない。
事件発生後、NGT運営の「支配人」だった人物が交代して今回の会見にも出たちょび髭のおじさん(もとフジテレビの人らしい)が就任した。
(訂正:事実誤認があった、新支配人は左に居た女性でちょび髭のおじさんはAKS取締役だった)
この支配人交代は誰の権限責任において決まったものなのか。
NGT運営組織による自主的決定なのか、さらに上位にある組織または人物からの「天の声」によるものなのかが報道などを見ても分からない。

軽い気持ちで想像するに、48グループでいちばん偉い人であるのだろう「秋元先生」の鶴の一声によるものではないかというのがまず出てくる。
しかしもう少し頭をひねって考えてみると、48グループにおける地方グループというのは、それぞれにスポンサー企業が付いていているからそのスポンサーの意向によるところが大きいのではないかという想像もある。

たぶんこの問題が泥沼化していることの原因には、そのあたりの責任構造のカオスがあるのではないか。

表向きの印象としては、48グループの意思決定の最大権限者は秋元先生であるように見え、それはたぶん実際もほとんどそのとおりなのだろうけれど、しかし一方で地方グループの運営はスポンサー企業の支援に依存していて、そこにはなかなか切り込みづらい状況があるのではないか。

映画スターウォーズのジョージ・ルーカスは映画製作にスポンサーが付いてそのスポンサーから横ヤリが入るのが嫌で、興行収入で「ルーカスフィルム」を設立し続編を作った。(だったと思う)
その辺を考えると拡大路線をひた走った秋元先生は重要な部分でしくじったのではないか、と勘ぐってしまう。

いずれにせよアイドルグループを運営する以上、今後も大小の事件は発生して社会的に取り上げられ、そのたびに運営は対応しないといけない場面というのが発生するのだろう。
その時に今のままの無責任体制が続いているといろんな意味で危うい。

だから今回を機に組織の責任体制の一本化が進めばいいがなとか思う。(かなり難しそうですが)
posted by ヤス at 07:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月24日

マボロシ概念としての「成功」

先日のイチロー選手の引退会見で、「成功という言葉は嫌い」という話が出ていた。
それでやっぱりイチロー選手も成功という言葉が嫌いなんだなあとあらためて思ったわけだが、世の中には成功という言葉が嫌いと語る人はけっこう多い。
ふと思ったのだが、「成功という言葉が嫌いな人」の出現は、まあまあ最近のことのような気がしたのだがどうなのか。
これはまったく個人的想像だが、世の中に自己啓発本みたいなのがわんさか出て来て、それらの中に「成功哲学」について高らかに謳うような内容のものがたくさん出回るようになって、その反作用としての「成功嫌い」が出現したのではないか、などと思うのである。

最初に結論を述べておくと、世間一般で言うところの「成功」という概念はほとんど意味のないものであるに違いない。
それは実際にどこかに存在するような気がするけれど、よく探すとどこにもないものである。

うろ覚えで申し訳ないが、天気予報でいうところの「高気圧の定義」は、単純に「まわりより気圧の高いところ」だったような気がするのだが、「成功」というのは考えてみるとそんな「高気圧」に似た感じがしないでもない。

加えて世間一般で言う「成功」には「ゴール」のニュアンスも含まれていると思われる。
これで人生上がり、すべての努力が報われてやれやれ、これからは一生楽して暮らしていける、暗にそういうイメージを持ってみんな「成功」を語っているのではないか。

しかし実際には、「成功のような状態」に到達した人というのはそれまで以上に失敗しやすい状況にハマっていると言えなくもない。
高い地位を得た人は他愛もない醜聞でその地位を追われる、多くの財を積み上げた人というのは同時に失い得る多くのものを抱えた、と見えるのである。
「成功のような状態」に達した人はエントロピーが高い状態にあって極めて不安定なのである。
それは、実際には「失敗の入り口に立った」というのとほぼ同意だと思う。

このようにかえって失敗のとば口に立つようなハラハラドキドキの状況は、一般的な「成功」の概念がその後の安寧な人生を保証するイメージであるとすると、明らかにそれに反するものだ。
つまり一般庶民が憧れるいわゆる「成功」のイメージは、実はマボロシ概念であったことが分かる。

あえて現実的に「成功」を定義するなら、それは多大の苦労の末に新たな試練に直面すること、それでこの新しい試練にどう対処したものかと思い悩んでいる状態、というくらいになるのだろう。

そしてまた、人生においていわゆる「成功」にいちばん近い状態というのは人生が終わる瞬間、つまり死ぬ時じゃないかと思ったりする。
「死」は森羅万象あらゆる難問を解決し、永遠の安寧を与えてくれるという点でもっとも「成功」に近い。

そういう意味ではあまり「成功」はしたくないものだ。
などということを日頃成功に縁のないおじさんとして、思ったりした。
posted by ヤス at 12:44| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月23日

今後30年間に70%の確率で首都圏地震

政府が設置した「地震調査研究推進本部」という組織があるらしい。
今、その地震本部が作成した今後30年間の「地震動予測地図」というのを眺めている。
日本列島の地図に地震(の揺れ)の発生確率ごとに色が着けられていて、それを見ると関東平野一円から神奈川静岡全域、名古屋、三重、和歌山と来て、四国の徳島南部と高知ほぼ全域くらいの地域が「26%以上の確率で震度6以上が発生」を示す濃い赤紫色になっている。

これを見ると瀬戸内海沿岸地域は比較的色が薄い。
しかしその中で岡山市周辺が少し色が濃くなっていて、かつて阪神淡路大震災があった淡路島や神戸市周辺よりも濃い赤紫になっている。

なかでも首都圏では、今後30年間にマグニチュード7程度の直下型の地震が起こる確率が70%と予想されているらしい。
地震本部ではその場合の被害予測も行なっていて、最悪の場合最大2万3千人の死者、61万棟の建物の全壊・消失が想定されているらしい。

無論上記の予想は「最悪の場合」なので、実際に起こってみたらそうでもなかった、ということになるのかもしれない。
首都圏に林立する高層建築はおそらく日本が世界に誇るゼネコン会社が最高の技術を傾けて建築されているのに違いない。
その設計にあたっては十分な安全率も見積もられているだろう。
地下深く複雑に構築された地下鉄網もあらかじめ入念に準備された安全装置が作動して大した被害もなく維持されるのかもしれない。

だからことさらに「近い将来ほぼ確実に大地震が来る」から心配するのも違うような気がする。

30年内に70%という数字は、たぶんわたしが生きているくらいの間に「ほぼ確実に」地震が起こることを示しているのだと思う。
おそらく普通に生活している一般市民にとって、30年以内に70%と言われてもそれはどこか他人事の話にしか感じられない。
そしてそれは、ある程度仕方のないことであるのに違いない。

ただ地震発生が来週のことなのか30年後のことなのかによって、同じ地震でも影響はかなり変わる。

おそらく首都圏地震で最も大きな影響は経済面に出るのだと思う。
2011年に人口の比較的少ない北関東以北を中心に起きた地震津波被害で、日本経済は一時的に大きく落ち込んだ。
また昨年7月の豪雨災害を受けて、主要被災地域だった広島の呉市や倉敷市真備地区などでは1500人とか2千人とかの単位で人口流出が続いている。
被災地域からの転出は一時的な避難もあるだろうが、この機会に危ない地域から永続的に引っ越す人もたぶんたくさんいる。
同じことが、おそらく近未来に発生する首都圏地震でも桁外れの大規模で起きるのだと思う。

東京の大規模被災で一時的にせよ日本経済は大きく落ち込み、一方で復興のために税金が増額されることになるのかもしれない。
また国内の建設能力を被災地域がブラックホールみたいに吸引して、地方の建設工事はふたたび大規模停滞に陥ることもあるだろう。

まあそういう心配ばかり考えていてもしょうがないのも一方の事実ではある。

ただし、わたしは近所で災害を想定した非難があったとか防災マップの説明会があったとかいう話をまったく聞かないのだが、そんなに心配ばかりする必要もないけれど、「形ばかり」のものでもいいので避難経路を示す動画をCMで流すとか、みんなでワイワイニコニコしながら避難訓練するとかいうことがたまにあってもいいのではないか、そういう「形ばかり」の備えがいざという時に案外役に立ったりするのではないか、などと思ったりしている。
posted by ヤス at 10:59| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月22日

未来はいつでも少し明るく見える

イメージトレーニングのやり方が最近少し変わっているらしい、という話を聞いたのはいつ頃だったか。
我々が学生時代に水泳をしていた頃、つまり30年とか35年とか前の「イメージトレーニング」はまだ言葉自体に目新しさがあって、「お前ぼーっとしてないで練習しろや」と先輩に言われた時にも「俺、今頭の中でイメージトレーニングやってるんで」みたいなジョークを言えるくらいな感じに、イメージトレーニングという単語自体に少し力があった。

スポーツにおける「メンタル」の研究は特に海外を中心に確実に進化していたようで、学生だった我々が冗談でしか活用していなかったイメトレはいつの間にか、ちゃんとした選手なら当たり前に取り組む練習メニューの一項目になっていたらしい。

オリンピック金メダリストの北島康介さんだったか、彼らがやっているイメージトレーニングというのは、レース前の召集所で集中して、開場アナウンスでコールされて入場口から出て行って、ジャージを脱いでスタート台をセットして、「テークユアマークス、バン」で水に飛び込む、みたいな感じで始めるのだと思う。
続いて、理想のフォームで泳いでいる自分をイメージしながら、後半の苦しい場面を乗り切ってゴールタッチし、一番になってガッツポーズをする。
イメトレはそこで終わりではなくて、プールから上がって勝利インタビューを受けて表彰式で日の丸が上がるのを眺めている、くらいのところまでイメージするというのを聞いたことがある。

たぶん今の日本代表選手たちは、みんなそんな感じでイメトレをやっているのだと思う。

これも北島さんだったかコーチだったかが言っていたことで、ゴールタッチまでで終わるイメージトレーニングだと、本番のレースの最後の方でどうしても力が抜けるのだそうだ。
本番の最後の最後まで力を振り絞るには、日頃のイメトレでゴールの少し先までイメージするのが大切なのだ、ということらしい。

それでちょっと思い出したのは、オートバイを低速走行させるときは少し遠くに目線をやれという話だ。
低速のバイクで足元ばかり見ていると余計にフラフラする。
それを数メートル先に目線を固定するとびしっと安定する感じになるのは、あれは何なのだろうか。

昨日劇的な引退試合を行ったイチローはずっと「50歳まで現役を続ける」と言っていた。
彼は少し先の未来に目線を固定することで、結果として今出せる最大限の力を振り絞っていたのかなと思う。

スピードもパワーも要求されるMLBにおける40代50代は、草野球におけるそれとはわけが違う。
それをあの華奢な身体で「50歳まで」って言うのは、周りの人が普通に聞くと、まあ多少の誇張が入っているんだろうと思って当然だと思う。
でもあれはたぶん他人に言っているのではなくてイチローが自分自身に向けて言い聞かせていたことなのだと思った。

まだ実現していない未来というのは、それが明日とか明後日とかの近未来でもよく見えないのは当然だ。
ましてやそれが数年後とか10年後の未来だと、かなりぼやける。
でも人間の性質としてぼやけてしか見えない少し先の未来は、今より多少うすピンクに色がついていて、ちょっと明るい感じに見えるのではないかと思った。

メジャーリーガーが50歳になるというのは絶望以外の何物でもないはずであるのに、それでもなお50歳で現役の未来を思って今の自分を鼓舞するというのは、これはなかなかいい話だなあとあらためて思ったりした。
posted by ヤス at 10:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月21日

自由意思の問題

ちっちゃい子供に、「なんでドロボウをしちゃいけないの」とか「なんでヒトゴロシはダメなの」とか訊かれた場合に何と答えるか。
といってもわたしはいまだかつてちっちゃい子供からそんなマセた質問を受けたことはない。
しかしまあもし仮に、たぶん死ぬまでにいちども訊かれることはないかもしれないが、ひとつの想像としてそのような場面を考えてみる。

それで考えられるスタンダードな答えとしては、「法律で決まっているから」とか、「そんなことしたらたくさんの人が悲しむから」とかいうものがあるのかもしれない。

しかしこのような素朴な疑問は、考えれば考えるほどその答え方が難しい。

それでちょっと飛んで結論に行くと、それは「やってはいけない」と最初から決まっているものではない。
だって「やってはいけない」と決めるとして、それは誰が決めるのか。

「法律が決める」という考え方がある。
それは世の中の人の総意で「やってはいけない」と決めましょう、ということだ。
しかし法律でやってはいけないと決めたことなのに、それを破る人々が後を絶たない。
後を絶たないからこそ法律がなんとかかんとか歯止めを掛けて最小限に食い止めている、ともいえる。

法律で「やってはいけない」と決まっているのにドロボウをしたりヒトゴロシをしたりする人が後を絶たないのは、そういうことをする人々の自由意思を止めることは誰にもできないからだ。
その意味において、やってはいけない」ことは実は「やろうと誰でも思えばやれる」ことであることが判明する。

やろうと思えばやれるという意味において、それは「やってはいけない」ことというよりは、「できればやって欲しくない」ことだったことが分かり、一方で本当にやらかす人が時々出現する事実が、現実として目の前にある。

すべては自由意思の問題なのである。

みんながやって欲しくない感じの、ドロボウとかヒトゴロシをやってしまうのもその人の自由意思なら、その同じ自由意思が、場合によってはギリギリのところで犯罪行為回避の選択を取ることだってあるだろう。

たぶん普通の人間は、できれば自分の自由意思で選択をしたくない。
選択には常にリスクがつきまとう。
また何かを選び取るということは、何かを諦めるということでもあるだろう。
感情の絶対値として、選び取るプラスより諦めるマイナスの方がメンタル的に重い。
人間は、決定的な選択を無意識的に回避するものではないだろうか。

だから自分で決めるよりは「法律で決まっている」とか「神様が決めた」とか、誰か自分以外の人が決めてくれた方が気分が楽なのである。
たぶん。

それで結論としては、ちっちゃい子供に「なんでドロボウはいけないの」と訊かれたら、「それはドロボウする前に自分でいろいろ考えて、その考えの結果ドロボウしない方がいいと思うからドロボウしないのだ」と答えるのが真面目な答えであると思った。

本当に、人間の自由意思はいろいろ重いのである。
posted by ヤス at 14:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月20日

人は何のために生きるのか

わたしはいつも、むつかしい顔をしてむつかしいことを考えている。
例えば1行前に書いた「むつかしい」は、ほんとうは「むずかしい」じゃないのかとか。
なんとなく思いつきで「むつかしい」と書いてみたのだが、これはどっちがほんとうなのか。
ネットで調べてみると、古くは「むつかしい」をずっと使っていたという。
それが江戸時代に「むづかしい」と変わり、今日に至って「むずかしい」となったらしい。
「むづかしい」と濁音化するのは関東訛りで、関西では清音、関東では濁音という傾向があるらしい。

というようなことはどうでもいい。

最近考えているむつかしいこと(今日は関西風の清音でいってみる)というのは、例えば「人は何のために生きるのか」とかいうことである。
しかしこの問題については、わたしの中ではすでに結論は出ていて「人は何かするために生まれてきたわけではない」ということだ。
人はただ、たまたま生まれてきたから生きているのに過ぎないということである。
もっと言えば、たまたま生まれてきて、下手をすると死ぬからがんばって生きている。

ときどき「天命」とかいって、「俺はこれをやるために生まれてきたんじゃあなかろうか」みたいな話があるわけであるが、それはもちろんあと付けの理屈である。

人間というのはそもそもメンタル的にもあやふやで、なるべく楽をして生きていたい。
なるべくイージーに「死なない」状態をキープしていたいのが人情だろう。
ほんとうに、「生きる」ということは「死なないようにする」こととまったく同義であるのに間違いない。

多少の語弊を覚悟していうと、おそらく人間、死にかけのときがいちばん生き生きしているような気さえする。

生きた魚を「いけす」に入れたまま飛行機やトラックで長距離輸送する時に、そのままだと長旅のストレスでたくさん死んでしまうという話がある。(ほんとかどうかは知らない)

それで「いけす」に天敵の魚を1匹放り込むと、魚たちは天敵に食べられないように輸送の道中必死に「いけす」の中を逃げ回り、目的地に着いた時にもみんなぴんぴん元気に逃げ回っている。

わたしはこの話がけっこう好きだ。

あえて人間に特権があると考えるなら、「いけす」の魚と違って人間は、そういう自分自身の生きざまをきちんと自覚できることにあるのだろうと思う。
posted by ヤス at 11:36| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月19日

今年の桜開花予想

ちょっと前まであったかくなったな、とか思っていたのに最近なんだか冷える日が多い。
それで、こんなに冷えるんじゃあ桜の開花も遅れたりするのかなと思って調べてみた。

すると株式会社ウェザーマップという「気象予報会社」の開花予想が出てきた。
よくテレビに出ている森田正光などが所属している会社らしい。
そのウェザーマップが推測するところによると、岡山の今年の桜開花は3月27日であるらしい。
気象庁で確認すると岡山の桜開花の平年値は「3月29日」となっている。
であるから今年は平年より2日ほど早いということだ。

こんなに寒いのにいつもより2日早いのか、と少し拍子抜けする気がした。
それで念のために気象庁のサイトで今年3月の気温と平年値を確認した。
すると岡山における今月の気温は、3月1日〜7日頃までは順調に暖かかったようだが8日以降特に最低気温が0℃台に下がったりして(平年の最低気温は3℃以上)、以降今日まで昼間はそこそこ温かいが朝晩冷える感じの天気が続いていることがわかった。

しかし、にもかかわらず桜は平年より2日早く開花するという。
株式会社ウェザーマップでは桜の開花予想にあたって、気温と開花日に関する過去の学術研究を基に、日本全国各地の気温データの推移を統計処理して開花予想を行っているらしいので、まあこの予想はそれなりに当たるのかもしれない。

ちなみに桜の「開花」とは、「標本木」で5〜6輪以上の花が開いた状態をいうらしい。
さらに「満開」は標本木で80%以上のつぼみが開いた状態だそうだ。

さらにちなみに、「標本木」とは、気象庁が指定した観測対象の木であるらしい。
これもネットで調べたところ、岡山の標本木は後楽園の中にあるようだ。
ちゃんと木の根っこの方に「植物季節観測用標本 ソメイヨシノ 岡山地方気象台」と書かれた木製の看板が設置されている写真もネット上で発見することができた。(岡山の標本木は「3本ある」という情報もあった)
今度後楽園に行ったら標本木を見つけてみようかと思う。

しかし世の中には、わざわざ専門の役所としての「気象庁」があったり、また気象予報や気象データの配信や気象予報士の派遣業務を行う会社があったり、「気象予報」というものの存在が意外に大きいのに少し驚く。
まあ大昔ならお天気の行方は農作物のできに影響して、飢え死にするかしないかに関わる重要事項だっただろうし、現代でも桜の開花次第でお花見弁当が売れたり売れなかったり、経済現象にわりかしダイレクトに関係するので、お天気の行方はそれなりに重要なのだろう。

ということで今、3月27日に「桜開花予想」とグーグルカレンダーに記録した。
この予想が当たるかはずれるか、少しだけ楽しみにしておく。
posted by ヤス at 13:25| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月18日

出演者逮捕による「いだてん」視聴率への影響

コカイン使用で逮捕されたピール瀧が出演中だったNHK大河ドラマ「いだてん」の視聴率がニュースになっていた。
「いだてん」のこれまでの視聴率は、

初回(1月6日) 15.4%
第2話 12.0%
第3話 13.2%
第4話 11.6%
第5話 10.2%
第6話 9.9%
第7話 9.5%
第8話 9.3%
第9話 9.7%
第10話(3月10日) 8.7%

だったらしい。
それでピエール瀧が逮捕後の回である第11回3月17日放送分の視聴率は10回目と同じく8.7%だったらしい。
わたしが思ったのは、別に「いだてん」がドラマとしてつまらないとか観ている視聴者のレベルがどうとかいう話ではない。(もちろんわたしは「いだてん」を観たことがないのだ)

数字の推移を見る限りピエール瀧の逮捕がおそらく「いだてん」の視聴率に何の影響も与えていないらしいということを思ったのである。
Twitterとかネットニュースとかではかなりの頻度でピエール瀧逮捕関連のトピックが流れてくる。
それでピエール瀧が出演している映画の放送が取りやめになったとか、電気グルーヴや相方の石野卓球のイベントが中止になったとかいうのが流れてくる。

それで、元東京都知事の舛添さんがいいことを言っていた。
「品行方正な芸人に魅力はない。ピエール瀧、新井浩文だから、常人に不可能な創造ができる。道徳が支配する国に芸術や文化は育たない」
ほんとうに、道徳が支配する国というのはテリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」みたいなもんで悲惨なものだと思う。

いいことついでに書いておくと、「芸術は爆発」の岡本太郎もさすがにいいことを言っている。
「ただひたすら人間的に生きる、それがほんとうの芸術だよ」
もしくは、
「人間即芸術。芸術即人間」
だそうである。

岡本太郎の言葉を借りると、文化とか芸術とかいうものは絵を描いたり彫刻を彫ったりすることがそれではなくて、人間が人間として生きていること、つまり「人間性そのもの」のことなのである。

おそらくピエール瀧は、日々面白いことを創造しないといけないプレッシャーとたたかっていて、そのプレッシャーを薬物の快楽で癒やしていたのだろう。(あくまで想像ですが)
それは確かにかなり退廃的であるが同時にひどく人間的で、わたし的には一刀両断に断罪する気になれない。

それはともかく、ピエール瀧が出ていた「いだてん」の視聴率は彼の逮捕によって影響を受けなかったというのはいったいどういうことなのだろう。

大河ドラマを観ている人々はピエール瀧の存在とか、少なくとも観ている最中は全然意識してなかったのだろう。
ニュースとかの騒ぎと、「世の中」(少なくとも大河視聴者の方々)の無関心ぷりのコントラストが、なんだかとても面白いと思ったのだった。
posted by ヤス at 13:41| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月17日

食べ残しは本能の問題

昔の記憶である。
26、7年も前の話であるが比較的はっきり憶えている。
当時「まちおこし」関係の仕事をする会社に所属していたわたしは、島根の山奥にできた小洒落たレストランに会社の人と4、5人連れで行ったことがあった。
島根の山奥の町役場の人と打ち合わせをしていて、今度「三セク」でレストランを作ったという話を聞いた。
ちゃんと修行した若いシェフが切り盛りしているのでぜひ味見しに行ってくれ、おすすめは地元の和牛を使ったビーフシチューだっていう。

それで教えてもらった「三セク」の小洒落たレストランにみんなで行ったわけである。

役場の人のおすすめ通りみんなしてビーフシチューを頼んだ。
もちろん払いは会社の経費だ。
しかし他のみんなは何口か食べて口々に「いまいちだなあ」とか言っている。
わたしは心の中で「まあいうほど不味くもないんじゃないの」と思いながら眼の前の皿で湯気を立てている肉を食らっていた。
しかし驚いたのは、そのうちみんなビーフシチューを食べるのを止めて「なんか別のものを頼もう」とか言い始めたことだ。

それで結局みんなビーフシチューは食べかけのまま放置して、他のものを食べたのだと思う。
わたしはその時内心非常に驚いたのだ。
眼の前にあるのは、曲がりなりにもそれなりのランクの和牛であって、味付けに多少「焦げ臭さ」が混じっているような気がしないでもなかったが、それなりに柔らかくてちゃんと和牛の脂の味もしていたと思う。
また多少不味くとも、栄養摂取という食事の機能面における役割を考えたとき、目の前のやや不味いかもしれないビーフシチューを完食することに十分な意味はある。

ビーフシチューを平然と食べ残せるみんなのメンタルの強さに、ほんとうに驚いた。

わたしは、とにかく目の前に食べ物があったら可食部分は残らず食べる。
茶碗に付いた飯粒、汁椀の底に残った直径1cmの残留汁などが目に入ると、動くものに何でも飛びつくカエルみたいに反射的に果敢に食べに行く。
それは本能に根ざした何かがそうさせているような、自分ではどうしようもない内的衝動によるものだ。
時々、これはちょっと病的かもしれない、とか思うことさえある。

その一方でファミレスとかでちょいと隣の席に目をやると、ほとんど半分以上も食べ残したまま食事を終える人々をたまに見かけて、気の小さいわたしはそのたびに血の気が引く思いがする。

今度国会に「食品ロス削減法案」が提出されるそうで、国民一人あたり年間51kgにものぼるとされるまだ食べられる食品の廃棄を、国連目標に従い半減させることを目指すらしい。

しかし食品ロスの問題は、これはいろいろな意味で「本能に根ざした衝動」が原因であると思う。

恵方巻きやコンビニ弁当の廃棄が減らないのは、これはコンビニという営利組織の本能がそうさせているのである。
だから法律の方も営利組織の本能に作用する対策を打たない限り効果はないだろう。

そして食べる個人の方に目を向けると、美味いものと不味いものが両方眼の前にあったら、不味いものを食べ残してでも美味いものを食べたいと思うのは現代人の「サガ」だろうと思う。
それは人間の情動の問題であって、これを法律で制御するのもけっこうたいへんだと思うのである。

その削減法案に、そういう「本能」に訴えるみたいな視点が入っていればいいがなあ、とちょっと思ったりしたのだった。
posted by ヤス at 13:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月16日

最近の物欲状況について

私ごとですが、最近カメラを買っていない。
もともと貧乏で欲しくても買えない、ということもあるが、しかしそれ以上に「物欲が疼(うず)かない」ことが大きいように思う。

そんな風にくたびれる一方のわたしを尻目に、最近デジタルカメラ業界が活気付いていている。
昨年下旬に一眼レフ業界の二大巨頭であるニコン、キャノンがあいついで「フルサイズ」ミラーレスカメラを発売したことが発端である。
続いてマイクロフォーサーズ陣営のパナソニックも、ライカLマウントのフルサイズミラーレスを発売するに及んで、「ミラーレス」「フルサイズ」をキーワードとする業界戦国時代の火蓋が切られた感がある。

特に、ついこのあいだの3月14日かから販売が開始された軽量フルサイズミラーレスのキャノンEOS RPは岡山のビックカメラにも現物が置いてある。
売り場の棚に鎮座していたRPを触った感じでは、バッテリーやメモリーカード込み485gの軽量ボディは想像以上に軽く、そして小さかった。
値段はAmazonだと現在15.6万円だ。
「驚くほど安い」ということに、業界的にはなっている。
しかしわたしは驚かないし安いとも思わない。
15.6万円は十分に高価な買い物だ。

だいたいうちには年代物の、たぶん2008年発売だったはずのNikon D700がある。
シャッタスピード8千分の1、常用最高感度ISO6400、フルサイズ1200万画素センサー搭載のこの老齢マシンは、バッテリーグリップを付けっぱにしてあることもあって大きく重い。(グリップ込みで重量1キロ以上ある)

しかし上記のスペック数値は現状でも実用にあたってなんの支障もない。
というかD700は重いので最近はほとんど持って出ない。
持って出るのはもっぱら2013年発売のオリンパスE−P5、全備重量420gだ。
E-P5は動画も撮れるし8千分の1秒も切れるし何より軽くて小さくて年寄りに優しい。

そういうことでわたしとしては、古い手持ちのカメラで現在の需要は十分にまかなわれており、最新のフルサイズミラーレスに今ひとつ物欲が傾かないでいる。
ただそのような、「今ひとつ物欲が湧かないなあ」という感情は他の多くの人が抱えているのではないか、と勝手に思ったりする。
今やデジタルカメラは完成の域に達し切っており、多少新技術が搭載されても以前ほどのありがたみを感じない。
5年前や10年前のカメラでも十分な写真が撮れて余りある

むしろ現在はカメラの機械技術によるのではなくて、人間の側の感性や撮影時におけるシャッターを切る野生の感とか、そっちの方が出来上がった写真に大きく影響する時代になっていると思う。
技術革新が一段落してふたたび人間の「腕」が問われる時代が蘇ったのだと考える。

そしてそういう人間の腕が問われる時代には、カメラボディよりレンズが欲しくなるものなのである。
その点、最近のフルサイズ用レンズは「バカ」がふたつみっつ頭に付くほどにバカ高い。
さらにレンズのドンガラも大きくて重い。
これじゃあせっかく最新ボディが画期的に小型化してもあまり意味がない。

そんなこんなでわたしが今唯一物欲をくすぐられているのは「M.ZUIKO DIGITAL ED 30mm F3.5 Macro」、ちっちゃくてイカしたマクロレンズ、ぐっと近づいてボヨヨーンと大きく撮れるレンズだ。
値段も今の世の中ではかなりリーズナブル、Amazonにて28,180円。
誰か親切な人が買ってプレゼントしてくれないかなあ、とか思う。
(色はブラックでお願いします)
posted by ヤス at 11:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月15日

ゴマキの不倫は正しくないのか

元モー娘。の後藤真希が不倫していたことを13日に自身のブログで明かしたらしい。

いや、ゴマキの不倫とかは別にどうでもよい。
世間では不倫を告白したゴマキに非難の声やら一部には応援する意見もあるようだが、不倫問題に賛否両論あるのもまあ当然だ。
ゴマキを応援したいという人が存在するのは、そういう人々が今回のゴマキのシチュエーションにさまざま共感できる部分があるからではないかと想像する。
反対に非難する多くの人々は「こいつはまったく共感できない」と感じているのだろう。

結局のところ有名人の不倫問題(それが本当に「問題」なのかどうかはまた別の問題であるが)に対する世間の受け止め、意見、感じ方というのはつまるところ「共感」のお話なのではないかと思うのである。

「不倫」という字句の意味は辞書的には「人の道でないこと」なのであろう。
それはほぼ「不道徳」と同じ意味であるように思われるのだが、今日の日本では不倫といえば男女関係における不道徳な行いを指すと相場が決まっている。
世の中には他にも、人の道を外れた行いは溢れているはずなのであるが、「不倫」という言葉が脳の中に入ってくるなり、神経細胞上に男女のドロドロ劇が瞬時に浮かび上がるほどに人々の不倫に対する関心は高いのであろう。

ここで少し話を戻す。
不倫が共感の問題であるということについて。

つまるところ今日の我が国における「不倫」は、「正しいか正しくないか」の問題ではないと思うのである。
それはむしろ「共感できるか共感できないか」の問題に違いないのである。
今日もどこかで有名人が不倫をしたとして、その事例に対して共感できる人が多い場合は世間的に許される感じになり、共感できない人が多いとその芸能人が社会的制裁を受けたりすることになる。
共感できないケースの代表事例は、嫁さんが妊娠中に旦那がよその若い娘とよろしくヤル、みたいなことだ。
このような場合、世の中の女性の99.9%が「共感できないわ」と感じ、それに付和雷同する76%くらいの男性も発生して、そういう事例は世間的には「正しくない」問題として処理される。

しかしそれは本当に「正しくない」ことだったのだろうか。
この世の中において「正しい」こととは一体どういうことなのだろうか、と思う。
それ(嫁の妊娠中によろしくヤルこと)は、もちろん「正しい」わけでもないがたぶん必ずしも「正しくない」ことでもないのではないか。
正しいか正しくないかというのは、多分に哲学的で、論理的で、非感情的で、きわめて冷徹な世界にある話のはずなのである。

基本的に人間は、「正しくないもの」を非難している時に脳内である種の快感物質が出るという脳科学的なお話がある。
だから世間の多くの人々は毎日、鵜の目鷹の目で正しくないものを探し出してきて、非難したり説教したりする、ということになりがちである。
それはそういうことを書いているわたし自身もそうであるに違いない。

しかしそんな時、はたと立ち止まって、目の前の問題は本当に正しい正しくないの問題であるのか、それともただ自分が共感できなかっただけの問題であるのか、たまに立ち止まってよく考えてみた方がいいのではないかと思ったりする。

ということで、今からゴマキの不倫事件について遅ればせながら各種ニュース記事を精読し、ことの詳細を追っていきたいと考えている。
posted by ヤス at 12:18| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月14日

G mailのバックアップがあると安心な件について

たまにプロ野球の試合を見ていて、バッターがヒットを打って塁に出た何ていうことのない場面でベンチの監督が血相変えて怒っていて、そこで解説の人が「今のプレーでピッチャーがバックアップに走らなかったのを怒ってますねえ」みたいなことがある。
野球というのは失敗のスポーツであって、ピッチャーは平均すると半分くらいしかストライクゾーンに投げられないしバッターの方は7割くらいは打ち損じ、ただ守備だけは10割に近い数字を残すことができる。(だったと思う)
だから野球では基本的に「どうやって失敗を減らすか、未然に防ぐか」ということに地道を上げる。
守備におけるバックアップとかいう地味なプレイはたぶん非常に重要で、ちゃんとした監督ほどそういう地味なプレイに厳しくなるのだと思う。

わたしは昔は水泳をやっていて、今はたまにマラソンを走るくらいでチームスポーツの経験がまったくない。
水泳では、他のチームメイトのバックアップに入るなんてことはない。
自分の順番が来たらひたすらバシバシ泳ぐだけのことである。

それは今の仕事も同じような感じで、わたしには上司も部下も同僚もいない。
したがってわたしは誰かのバックアップに入る必要もない代わりに、誰かがわたしのバックアップをしてくれるわけでもない。

しかし最近の技術の進歩によってその状況がちょっと変わったのかなと思うのだが、例えばGoogleカレンダーではスケジュールを入れると、そのスケジュールが間近に迫ったら「もうすぐ用事があるよ」っていう風にメールが来たりアラームが鳴ったりする。
あれは地味に便利だと思う。
わたしは基本かなりヒマなので、たまにスケジュールが入っていても、うっかり忘れてしまわないとも限らない。
そんな時Googleカレンダーのアラームが事前に鳴って「あらいけない」と思い出してこと無きを得る。

あとバックアップで言えばクラウドのストレージのサービス、DropboxやGoogleDriveやOneDriveの登場はいつ訪れるか分からないパソコンクラッシュに対する備えとしてかなりありがたい。
わたしはメール送受信もGmailを使っている。
Gmailだとメールデータはクラウド上に存在するからパソコンを買い換えようがクラッシュしようが他人のを借りようがなんてことはない。
ほんとうに、わたしのような「人的バックアップ」のない孤独な自由業者にとってはいい時代になった。

と思っていたら、昨日の昼ごろそのGmailが突然エラーの嵐に見舞われて、通常の送受信はできるのに添付メール付きの送信がまった不可能になって困った。
どうしてもそのメールを早く送らないといけなくて、やあ困ったなあと思って、いろいろ考えた挙句Outlookのメーラーを引っ張り出してきて「えいやっ」と送信したらあっさり送ることができた。

ここで期せずして、Gmailに対するバックアップとしてのOutlookという手段を見い出すことができたのである。

わたしは少なくともこの10年くらい、Outlookはスケジューラーとしてもメーラーとしても一切無視して生きてきたわけであるが、盤石と思われたGoogleの各種サービスがクラッシュした時にOutlookが役に立って生き返る思いがして、世の中バックアップというのは忘れたところや意外なところに眠っているのだということを思い知ったのである。

ひょっとしたらまだ他にも、わたしの周りには「いざという時」に備えて眠っている「何らかのバックアップ」があるのかもしれない。
いやたぶんきっと他にもたくさんあるに違いない。

そのようにして、「人的バックアップ」のない孤独な自由業のおじさんは、勝手に少し元気になったのでした。
posted by ヤス at 13:50| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月13日

e-Taxについて

さて今年も確定申告が終わって、e-Taxにおける電子認証についてあらためて体験し考える機会を得たので、ついでに今日もそれについて考えてみる。
確定申告においてその申告書を提出したのが申告する本人であるかどうかの問題。

はたして世の中には「成りすまし」で、他人の確定申告を勝手にやるとかいうイタズラというか犯罪は実際に発生しているのだろうか。
そういう場合の被害の内容としては、勝手に高額所得の申告をされて税務署から多額の税金の請求書が来るとかいうパターンが想像される。
ただそういう虚偽の申告が行われれば、身に覚えのない申告内容に、請求書が来るタイミングとかこれから申告するぞとかいった時に早々に気がつくだろう。
気がついた時点で、前の申告内容が他人による虚偽のものであることを税務署に報告した上で、あらためて真正の申告をすればこうした犯罪は一件落着なのではないか。

まあ本人が申告した後で、例えば旦那が申告した後に嫁がその申告内容を上書きして虚偽の申告をしておく、それによって後々データに矛盾が生じて旦那の事務作業が滞る、それを嫁が横目じっとで見ている、そういう業務妨害的なイタズラはありうるかもしれない。

ただまあいろいろ考えてみると「成りすまし」等による確定申告関係の詐欺は、それによって莫大な利益を得られる犯罪アイデアもそんなにないのではないか。
だからそこまで深刻に考える必要もないとは思うのだが、しかしそれでもやっぱり最低限の認証の仕組みが必要なのは当然だ。
認証の仕組みを用意してそれなりに「成りすまし」に対するハードルを設けておかないと、軽い気持ちの愉快犯がどっとなだれ込んで来るからだ。

ただそれはネットバンキングとか、Amazonとかヤフーショッピングとかの認証の仕組みと同程度のもので十分な気がする。
ある意味、確定申告における詐欺犯罪よりはネットバンキングやネットショッピングにおける詐欺の方が直接に金銭被害が発生するという意味で3万倍くらい深刻だと思うので、ネットバンキングの認証の仕組みが現在それなりに機能しているのなら、e-Taxの方もネットバンキングのシステムと同等レベルで全然かまわないような気がする。

そこを、ICカードリーダーを導入してそれに本人認証カードを挿してどうたらこうたらとやるから話がややこしくなる。

わたしが今回初めて体験したe-Taxにおける「IDパスワード方式」は、カード認証方式とやり方がごっちゃになっていてきわめて分かりにくかった。(ワシの認知能力が低かっただけか?)
税務署的には、カード認証に伴うトラブルがけっこうたくさん発生していて、それであわてて対策でID方式を導入したのだろうと邪推するが、カード認証方式とID方式が混在したやり方はかなりまずいと感じた。

e-Taxは平成16年(2004年)に開始以来15年の歴史を重ねているので、もうそろそろ洗練されて使いやすくなってもバチは当たらない時期だと思う。
ついでにいうとe-Tax WEB版が、マイクロソフトがセキュリティ的に不使用を推奨しているウィンドウズ版MSエクスプローラーでないと動かないとか(最近はMacOSも使えるのかな?)、世の中の動きに追随できていない感じもなんだかなあと思う。

ということで国税庁のみなさんにはもっとおおらかな気持ちでe-Taxのシステムの改善をしていただけるとこちらとしては助かるんですけど、と思ったりした。
posted by ヤス at 13:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月12日

わたしがマイナンバーカードを申請した理由について

昨日の夜、念願の確定申告を終えた。
年々申告時期が遅くなっているような気もするのだが、とりあえず今年も間に合ってよかった。
というより、今年の申告処理は昨年や一昨年に比べて非常に難航したのでそれについて述べる。
ほんとうは今年の申告は3日前の土曜日の午前中に終えるはずだった。
でも土曜日は洗濯とかいろいろと他の雑用をしていたりしているうちに夕方になってしまって、「まあ明日でいいや」と日曜日に先延ばしした。
それで日曜日の朝も、バイクの掃除とかあって気がついたら夕方になった。
しかしカレンダーを眺めた感じではこの土日に申告作業を終えないとちょっとやばい感じだなあとは思っていたですよ。

だからふと窓の外をのぞいたらとっぷりと日が暮れてもはや夜になってはいたのだけれど、ここは奮起することにしよう、と考えたのである。

ただ自分の申告データは弥生会計にあらかた入っている。
弥生会計WEB版の「確定申告」のところのボタンを適当にクリックしていくと、e-Tax用の「星1︎.txtファイル」が自動的に生成される。
この間わずか 10分くらい。(あるいは15分だったかもしれない)
こういうところはすごい便利だと思う。

あとは生成したファイルを国税庁のe-TaxWEB版の所定の画面で読み込んで、ICカードをセットして電子認証の準備を整えた上でデータ送信するだけだ。
e-TaxWEBを開いてデータ送信するまでの時間は、たぶん10分もかからない。
よほどもたもたしていても30分もあれば十分だ。

弥生会計の申告データ生成と合わせると1時間もかからない。
だったら早いうちにさっさとやれよ、っていうことなのだが繊細なおじさんの心理はいろいろムズカシイのだ。

で、日曜日の夜に順調にデータ送信の一歩手前まで漕ぎ着けたわけであるがここでトラブル。
わたしの電子証明の唯一の頼りである「住基カード」が昨年で期限が切れていた。
住基カードの表面には期限が2021年になっていたのだが、電子証明の期限はまた別で、その期限はICチップに記憶されていてカードの表面に印字されているわけではない。

しばらくその事実に気がつかなくて、うっかり1時間以上も期限切れの住基カードで何度もトライした。
電子証明の画面には電子認証の選択メニューが出てきて、その中に住基カードが見当たらないので変だなあとは思っていたのだが。
しかしヘルプサイトでは期限内の住基カードは使えると書いてあるし、選択メニューを引っ張り出すたんびに、どこか誇らしげな感じで「マイナンバーカード」が一番上に出てくるのもいちいち腹立たしい。

それで最終的に住基カードの電子証明期限が切れていることに気がついて、あわててググったら最近はID・Password方式というのが出来たらしくて、税務署にいったらIDとpassを発行してくれて、その上で電子申告が出来るらしい。

昨日の夕方、ちょっと時間が空いたので岡山東税務署にバイクを走らせた。
ID passの発行は15分くらいであっという間に出来たのだが、帰ってきてあらためパソコンで申告作業をしたら、ID・Password方式では弥生会計の生成データがどうも使えないようで、もう貸借損益や申告情報をいちから打ち直す羽目になった。
そしてID・Password方式による電子申告は、前準備がいろいろたいへんな割に妙に手応えなく終わった。

申告画面を閉じたあと、ちょっとしゃくに触ったけれど早速マイナンバーカードをパソコン申請することにして、その場で何やかやの情報を打ち込んで、さらにiPhoneでくたびれたおじさんの顔(つまり自分の顔です)を撮ってマイナンバーカード申請画面でアップロードしといた。

今からマイナンバーカードが来るのが楽しみだ。
posted by ヤス at 10:48| Comment(2) | 徒然なるままに