2019年02月28日

現代美術家会田誠氏とセクハラ訴訟

日本を代表する現代美術家の一人、会田誠氏の大学の講義を受講した女性がセクハラ被害を訴えたのがニュースになっている。
このニュースは、不謹慎を承知で言うけれど、かなり興味深い「面白い」案件だと思う。

訴えたのは美術デッサンのヌードモデルを職業とする女性で、仕事の足しになればということで京都造形芸術大学藝術学舎が開催した「人はなぜヌードを描くのか、見たいのか。」というタイトルの講義に参加したらしい。
大学のウェブサイトにこの講義案内が出ている。
全5回、一回2時間、受講料2万円の講義である。

この女性は会田誠氏の作風を知らないままに第3回目の会田氏の講義を受講してそのエロでグロで下品な内容に衝撃を受け、そのことを大学側に訴えたようである。
それで示談にあたっての話し合いで「お互いに関わり合いを持つことをやめる」という項目を大学側が要望して交渉が決裂して訴訟に至ったらしいのである。

今回の「事件」は、原告女性の方には申し訳ない興味本位の見方をするならば、見事に「現代美術的な構造」ができあがっていると感じる。

一般的な見方として、会田誠氏の過激な作風も知らない無知な「ややこしい人」が勝手に公開講座を受講して勝手にセクハラ被害を訴えて、そんなややこしい女性こそ間違っている、というものがあるのだろう。
だがむしろわたし的には、この女性が訴えを起こしたことは間違っていない、どんどん訴えるべきと思う。

この女性は職業として美大生相手とかでヌードモデルをしていて、おそらく仕事中は黙ってじっと静止しているだけの存在である。
その黙って静止しているだけの存在だったモデルさんが、「仕事の参考になるのでは」と考えて美術史的なヌードの意義を大学に学びに行く。
そこで主に男性視点からの、授業でヌードをデッサンする若い学生のエロい心境とかを何のオブラートに包むこともなく露骨に議論する内容に直面する。
若い男子学生のエロい思いの対象であるヌードモデルは、前からその現実にうすうす気づいていたとは思うが、あらためて露骨に直面させられることで大変な衝撃を受け傷ついたのだろう。
(この辺はぜんぶわたしの想像です)

そして本来ただ黙ってじっとしているだけのマネキンに過ぎなかったヌードモデルにその時点で初めて「心」があったことが発見される。
その「心」は、一般的には「ややこしいやつ」と捉えられかねない特殊な繊細さもいくらか含んでいたのかもしれない。

そして大きな業界構図の中でヌードモデルにお金を払って雇う側の大学が、その物言わぬはずのマネキンが突如として声を上げたことに驚き、イラつき、冷たくあしらう。
そういうような物語なのだと勝手に想像する。(あくまでわたしの想像)

これは我々が生活していて、「こいつは絶対文句とか言わない物言わぬ存在」と決めつけていたものたちが突然予想外の反撃を開始することを示唆する、そういう普遍的可能性を象徴する事件なのではないか。

ニュースの内容からは、女性が怒っているのは主に大学側の対応に対してのようであるが、数々のスキャンダラスな作品で世間を波立たせてきた会田誠氏もこの件に正面から取り組み、作家としての何らかの回答を示してほしいと期待している。

もちろん、訴訟の本筋である一人の人間を無神経な対応で傷つけたことの対応が、ちゃんと解決されることが前提であるのはいうまでもないが。

(ちなみに「会田誠」とよく似た「相田みつを」の存在が、その二者の作風のあまりの隔絶のために世間に混乱を招き、いくらか事件に「花を添えている」こともなかなか面白いと思う)

 
posted by ヤス at 10:50| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月27日

高いやつを買う過程

うちにはいちおうパソコン用のプリンターが置いてある。
以前はインクジェットプリンターを使っていたが、インクジェットはノズルが詰まるしけっこうあっという間にインクは無くなるしということで、数年前からキャノンのカラーレーザーに替えた。
おそらく現在のプリンター技術からいうと、「きれいなインクジェット」の方が「きれいなレーザー」より印刷解像度とか色再現とかはかなり有利なのだろうとは思うのだが、最近はレーザーもかなり安くなっていて、なおかつインク詰まりのないレーザーはわたしのような極小自営業者に最適だと思っている。

というようなプリンターの話をしようというわけではなかった。
用紙の話をしようと思うのだ。

インクジェットプリンターを使っていた時代にはA3出力のできるやつを使っていた。
それでたまに実際にA3で出力したりもしていたが、そのため常にA3の用紙を在庫しておかないといけい。
しかしA3の出力はA4版に比べると使用頻度がものすごく少ないので、A4の二倍の面積を専有するA3用紙の包みは一向に減らなかった。
だからレーザーに替えるときに、A3出力レーザーもそこそこ安くはなっていたのだが、A4出力対応でがまんすることにした。

そうすると、とりあえず用紙の在庫がA4に一本化できてちょっとだけすっきりした。

うちの近所には徒歩5分のところに家電の「ジョーシン」があって用紙はいつもそこで買う。
無くなったと思ったら買いに行けばいいので、いつも用紙は500枚の束をひとつ買って、それが残量数枚くらいのぎりぎりになるくらいで新しいのを買いに行く。
在庫ギリギリのトヨタのリーン生産方式みたいだ。(ちょっと違うのか)

それでジョーシンには500枚入りコピー用紙として3種類の商品が並んでいて、安い方から290円、380円、475円とあるのである。
それで今まではなんの迷いもなく最安の290円のを買って使っていた。

しかしこの290円用紙は安いだけの理由はある。
明らかに薄い感じがして、湿度やなんやらの関係で簡単にくるっとロールしたりする。
あとこれがいちばんこまるのだが、肝心なときにプリンタの中で重送(何枚もくっついて出てくるやつ)する。
おそらくこれも湿度の関係だと思うが、本当に急いでいるときとか、肝心なときに重送してエラーのライトがピコピコする。

だからこの間思い来て買う用紙を最高値の475円にしてみた。
475円の用紙は、見た目もさらさらに真っ白で厚みも十分な感触、今のところ重送はじめとする事故も起こしていない。
475円を買う前は、安いやつの1.6倍もするのを誰が買うのかなあとか思っていて、店の棚には高いやつも安いやつと同じくらいの量で並んでいてちょっと不思議だった。
まあでもこうやって、人々は少し高い商品でも買うようになるのかなあ、などと思ったりした。
posted by ヤス at 11:30| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月26日

名づけることについて

「名づけることは知ることである、と昔の偉い人が言った」というあいまいな記憶がなぜか頭の中にふらふらと浮かんできて、念のためにネットで「名づけることは知ること」を検索してみたらそれらしいものが何も出てこない。
わたしのあいまいな記憶の中では、この言葉はソクラテスが言ったことになっている。
しかしソクラテスが言ったかプラトンが言ったかというようなことはもちろん、「名づけることは知ること」がかつて知の偉人たちの間で話題に上ったのかどうかすらよく分からないことになって、少し意気消沈している。

そんなことはともかく、「名づけること」が別の表現では「概念化」と呼ばれる行為であり、それがある種の魔法的な機能を持っていることについて少し考えたいと思う。

世の中には毛むくじゃらで四つ脚で走る、ワンワンやニャンニャンなどと叫びつつ尻尾を振ってうごめくケモノが何種類かいる。
それらのケモノの中でやたらと愛想が良くてワンワンと鳴く種類のものを「犬」と名づける。
ただ犬はバリエーションが豊富でチワワのような小さいのからセントバーナードみたいなのまで大きさも千差万別、耳の垂れ方、顔の輪郭の形とかいろいろある。
いろいろあって、ほとんど別の生物のような気もするが犬はやはり犬である。
キャンキャンうるさい豆柴とのっそりと大きなマスティフも、両方とも犬である。
おそらく豆柴にもマスティフにも、人間へのなつきやすさや一定以上の頭の良さとか、愛玩動物として適した共通の性質がある。
それらの性質こそが「犬という概念」の中核であり、そのような共通概念を抽出することが「名づける」こと、概念化の中身であるのは、まあ言うまでもない。

「名づけること」は犬とか猫とかアマタいるケモノ群の中から「犬」という共通概念を抽出する場合もあるし、一方で山田太郎とか鈴木花子とか、個体のひとつひとつに一対一対応の命名を行うこともあるのである。

それは前述の犬の場合でいうと、今度どこかの家にやってきた濃い茶色の雑種犬に「ジョン」と名づける、とかいうことである。
その瞬間、血統書も何もないただの雑種犬に「ジョン」という名のたったひとつの個性が与えられる。

ここまでだらだらと分かりきったことを書いてしまった。
しかしここで少し思ったのは、「ジョン」と名前が付けられた雑種犬の心理に変化はあるのかということだ。
ジョンは自分に名前が付けられて、しょっちゅうその名前で呼ばれることで何か個性の芽生え、自我の湧出みたいなことはあるのだろか。

「名づけること」は、人間がたくさんの物体・事象の中からあるものごとの集合を共通概念でくくって分別するということだ。
あるいは烏合の衆の中の一人(または一匹)に個別の名前をつけて、彼に確たる個性を認めるということだ。

そこで概念化されある集団に分類された当人は、あるいはある個別の名前を与えられたその人には、何か心境の変化はあるのか。

「名づける方」と「名づけられる方」のつばぜり合いのようなイメージが一瞬頭をよぎったような気がするのだが、だんだんと脳みそから黒い煙が出てきたのでこの辺で終わる。
posted by ヤス at 10:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月25日

沖縄県民投票終了

沖縄の県民投票が終わった。
投票率は52%を超え辺野古埋め立てに「反対」を投じた人は投票総数の7割超、全有権者数の37%になり、デニー知事の知事選得票数39万票も超える43万4273票になったらしい。
すでにいろんな分析が出ているが、自民支持層でも「反対」を投じる人が多かったとか、やはり割合でいうと反対派がかなり多いのは間違いない。
しかしそれで政府の埋め立て継続の方針が揺らぐかというと、どうも政府はこのまま粛々と工事を続ける意向のようである。

このところの統計不正とか今回の沖縄の基地問題で現政府には強い逆風が吹いているわけだが、じゃあそれで支持率が大きく下がったかというとほとんど下がっていない。
夏に参院選に入ったら少しは票数に影響が出るのかもしれないが、しかし支持率がこれほどびくともしないんじゃ政府としても方針を変える気にならないのは、まあ分からなくもない。

なんで支持率が下がらないかといえばそれは現政権に代わる有力な「代替案」が久しく存在していないからだ。

いずれにしても今のままだと辺野古の工事は粛々と続く。
そして報道によると、辺野古周辺は地質調査の結果工事に不適な軟弱地盤のため当初より大幅に時間も費用が掛かることになり、13年間に渡り工費2.5兆円が投入される見込みであるらしい。
これも報道の通り、この2.5兆円は当初の見積は2310億円だった。
朝日新聞のネット記事によると、現在920億円が建設業者に支払済でこの支払済工区の当初見積は78億円だったらしい。
「実績」としてすでに11.8倍の費用が費やされているのだ。

2.5兆円というのは単純計算として国民一人あたり1万9700円。
13年で終わるとして一人年間1500円の負担である。
4人家族なら7万8800円、年間6000円の負担となる。
ひとつの軍事基地に、しかもこれは例外的に駐留する外国の軍隊の基地であるが、これだけの税金を投入するのは沖縄問題以前として大きく疑問を持たざるを得ない。
しかも完成は13年後。

13年経ったときに「やっぱり辺野古は埋め立てといて良かったね」という話になるのだろうか。
用事が終わったら居なくなるはずの進駐軍が70年も居座って、さらに10年20年後の居座り方について日本政府と話が出来ている状況というのは、やはり何かおかしい気がする。

ここは橋下徹の著作にもある通り、沖縄の人たちは独立運動の掛け声を上げて現政府の肝を冷やすとかしないと、事態の打開は難しいのかなと無責任な本土人の一人は思う。
posted by ヤス at 08:36| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月24日

オキナワの少年

先週の木曜日から用事があって九州の熊本に行っていたのだけれど、行き帰りの道中の暇つぶしに用意していたKindle本が金曜日の夕方に読み終わったので、旅先の地で新しいのを調達した。
Kindleのいいところは、電波が届く場所に居さえすればいつでも書籍を購入できることであるなあとあらためて思った。
それで選んだ本は1971年の芥川賞作品で東峰夫という人の「オキナワの少年」である。

折しも今日2月24日日曜日は沖縄で辺野古埋め立ての是非を問う県民投票が実施されている。
わたしは沖縄問題については正直よく分からないと日頃感じていたのであるが、日本の近未来を占う上で沖縄問題の行方はかなり大きな部分を占めるのではないか、というなんとなくの予感もあったりした。

今回の県民投票はあくまでも新基地建設に伴う辺野古埋め立ての是非であるわけで、普天間移転とか沖縄の基地縮小とかその他の問題は含まれていない。
さらに投票には法的拘束力はなく、投票に伴って制定された条例では、「賛成」「反対」「どちらでもない」の3つの選択肢のうち有権者総数の25%にあたる約29万票を得たものがあった場合に首相と米国大統領宛に結果を通知するように決まっているらしい。

期日前投票で総数の20.54%にあたる23万7447人が投票を済ませたらしいが、果たしてどういう結果が出るのか。

それで旅先で読んだ「オキナワの少年」である。
まだ昨日の夜までにやっと56%ほど読み終わったところなのであるが、舞台となった終戦直後の沖縄の様子がカラッとあけすけに描かれている。
戦中戦後の沖縄は、まず日本軍がやってきて沖縄の人々の住居や田畠を接収して兵舎や飛行場を作ったりしたところに1945年4月に米軍が大挙押し寄せて、以降6月下旬まで沖縄本島各地で激戦が行われる。
米軍は戦闘しながら日本軍が放棄した基地を直したり新しいのを作ったりしながら進軍するわけだ。
その辺りの戦闘中の描写は「オキナワの少年」には直接ないが、登場人物のあるおじさんがかつて自分の畑だった土地に米軍の飛行場ができていて、しかも土地の条件が悪いもんだから飛行場はとっくの昔に放棄されただの空き地になって柵で囲われているのを見て嘆く、みたないのがあって、なんだかなあと思った。

それでも沖縄の人は、米軍基地の横の畑を厚かましくもどんどん耕し進めていってそのうち柵を倒して基地の中までどんどん耕す、米軍はそれをただ見ているだけ、みたいな描写もあった。

ひとつの小説だけで沖縄の実態を判断することはできないが、それでも戦争直後の沖縄の空気と現在のそれは、何かかなり変質しているような気がした。
これは多分に想像に過ぎないけれど、1950年代頃の沖縄の人は、自分たちの土地を占領している米軍は「用事が済んだらそのうち居なくなる人」くらいに思っていたんじゃないかという気がする。

それから60年70年経っての現在であるが、今の沖縄の人たちがどんなことを感じているかということに、「内地の人間」はちゃんと向き合わないといけないと思った。
posted by ヤス at 14:08| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月23日

締め切りはやっぱり大切だ

仕事でもプライベートでも「締め切り」というのはとても大事だと思う。
そんな話は過去にも何度か書いた。
生きていると締め切りってやっぱりでっかいなあとあらためて思うことがちょくちょくあるから、そのたびにまた新たな感想を書く羽目になるのである。

人間にとっての究極の締め切りは「寿命が尽きる」ことだろうと思う。
医療が発達してみんな長生きするようになったけれど、それでもやっぱりいつかは力尽きるてあの世に召される。
孫正義とか島田紳助とか、若い頃に生死をさまよう大病を患って、以降の生き方が激変したというような話を本とかで読んだ記憶もある。

まあそれらの人々は別に大病を煩わなくても自分なりにいろいろ積み重ねて頑張っただろうと思うのだが、でも生死をさまよう大病が人生のがんばり方にいくらかの色付けをしたことはたぶん間違いない。

それにこれは想像でしかないのだが、鬱で思いつめて自殺を考えている人でも、目の前にヨダレを垂らしているライオンが出てきたりして生命の危機に直面したら「生きる本能」が再び目覚めてその場から逃げようともがくのではないか。

そういうことを考えていると「会社の決算」に思いが至る。
会社の決算は一年に一回あって一年分の売上がその前の一年よりどうだったとか利益が多かった少なかった、または赤字だったとかいうことで会社の評価が下される。

ただ中には大規模な設備投資をして、それを数年がかりで償却して最終的に予定の利益を出す、みたいな商売もある。
例えば三菱重工が開発中のジェット旅客機MRJみたいなケースで、開発期間中は売上ゼロにもかかわらず何千億円も開発費を投入して、商品化が成った後にちょっとずつ赤字を返していくことになる。

MRJのケースではその締め切りが何度も「延長」になったわけだが、人間の寿命の場合は「まだ仕事が終わっていないので寿命をちょっと延長します」みたいに宣言するわけにもいかない。
人間の寿命は、たいてい生物学的要因により待ったなしでやってくる。
仕事が途中だろうが趣味で書いていた小説が書き終わってなかろうが、あるところでぷつんと寿命は切れる。

しかし会社の場合、決算という日常的な締め切りがあるのに加えて、あまりに商売の状況が低調なら「倒産」という最終宣告もある。
さしもの資金力豊富な上場企業でも、あまりに内容がひどければ、投資家に見放され銀行にもサジを投げられて潰れるまでだ。

このような大小の締め切りの存在が世の中の会社を頑張らせている。

そこで注意が必要なのはナントカ省とかの役所である。
役所にもいちおう年に一度の決算はあるが基本的に役所は倒産はしない。
いや、北海道の夕張市は確かに破産したわけで、多くの地方自治体の場合財源の多くを中央政府に依存しているから破産する可能性がある。
しかしその分経営の健全性がいくらか担保されているとも言える。

注意が必要なのは中央官庁で、中央官庁は日本国が破産しない限り最終の「締め切り」にならないわけで、だからこそ他の組織に比べると職員の職業的良心に依存する割合が高まる。
あるいは国民が目を皿のようにして監視していないといけないのである。

今の日本では一部の国家公務員の職業的良心が壊滅的であることが明らかになり、またメディアの監視の目も恐ろしくユルイから中央官庁は「締め切り」のことを忘れて、税金の上に巣食って養分を吸収する「虫」のようになっている。

そこには政治もたぶん大きく関与している。

でも養分を吸って無くなったら、日本国の「締め切り」は、現役世代の子供や孫の世代になるかならないくらいの時期に必ずやってくる。

「締め切り」と無縁のように振舞っている中央官庁の頭のいい役人の方々は、その理屈を知らないわけはないのだろうが、どうも締め切りや危機的状況というのは目の前に実際に迫って来ないと実感を伴わないものらしい。

そこをなんとか実感を持っていただけないかなあと、この数日思ったりしたのだった。
posted by ヤス at 10:08| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月22日

小中学校でスマホが解禁

小中学校での「スマホ解禁」がニュースになっている。
これまでスマホが禁止だった理由は、子供が授業中にSNSやゲームに熱中して勉強に身が入らなくなるのではないかという心配があったことのようである。
それで、もしわたしが現代の小学生で、スマホを持って学校に行ったら、と想像してみた。

先生が教壇でしゃべっているのを尻目に、うつむいて机の陰でゲームをするのはスリリングで楽しいかもしれない。
もしくは席4つ分くらい離れたところに座る気になる女の子にちょっかいのラインを送ったりするかもしれないし、いやしかしちょっと度胸が足りなくて送信ボタンを押すのを3秒くらいためらって、そいでもってえいやっと目をつぶって送るかもしれない。
で、目をつむったまま心臓がバクバクしているところに不意打ちで先生に当てられてしどろもどろになる。
そんな楽しい学校生活が想像される。

でもこれまではスマホは禁止だったという。

この理不尽な禁止の元は、たぶん先生にある。
小中学校の先生自体が、スマホでゲーム中毒になったりする体質があってそれをうすうす自覚しているから、これは子供達にスマホをもたせたらやべえぞと思っているのに違いないのである。

わたしがマクドで昼飯とかを食っているとき、スーツ姿のいい歳したおっさんとかがスマホゲームに興じているのをよく目撃する。
それも何気に暇つぶしにやっているというよりか、一心不乱に目にも留まらぬ速さで親指を動かしていたりする。
その姿には鬼気迫るものがある。

監視の目が届かない外回りの営業マンとかの場合は暇つぶしにスマホゲームっていうのはけっこうみんなやっているのではないか。
ひょっとしたらサラリーマンのスマホゲームやSNS中毒によって日本の企業の生産性がいくらか阻害されていることがあるのかもしれない。
ただ、この状況はアメリカもヨーロッパも中国もどこも同じである。
どの国も同じ状況にもかかわらず、スマホ中毒が原因でどこかの国のGDPが低下したという話は聞かない。

まあ小中学生の状況は社会人とは少し異なる。
社会人は仕事そっちのけでスマホに熱中していたら会社をクビになる。
だからそこそこ仕事もがんばるという動機付けが働く。
しかし子供の場合、つまんない授業をおとなしく聴いているよりはスマホをいじっている方がずっと楽しい。
子供の場合歯止めが効かなくなるんじゃないかという心配は当然あるだろう。

しかしそれならば、授業を楽しくするように先生や教育関係者がもっとがんばればいい。
どうも日本的思想の中には、修行とか苦行とか、苦しんだ方が実になるみたいなことがあるように思うのだが、「ゲーミフィケーション」という言葉があるように何でもゲーム化して楽しめるように工夫すれば上達も早くなる。

もういっそ、つまんない座学授業とかやめて勉強もスマホでやればいいのにと思う。
貧乏でスマホを持てない子供には学校で予備のやつを貸せばいい。

そうやって考えると昔ながらの授業スタイルっていうのは今の時代にはもはや不要のものではないのか、学校としては、そのオールドスタイルを守りたい本能的恐怖がスマホ禁止の裏で作用しているのではないかと思ったりする。

だからスマホ禁止とか解禁とかの話は、本当は学校の存在意義の話なのではないか、と思ったのである。
posted by ヤス at 10:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月21日

F2戦闘機墜落

航空自衛隊のF2戦闘機が墜落した。
搭乗していた2名の隊員は無事で何よりだったが、しかし1機120億円とも130億円とも言われる高価な兵器がひとつダメになった。
事故を受けて現在運用中の同型機は一斉に飛行停止になったのもやむを得ない。

F2はアメリカの多用途戦闘機F16をベースに、全面再設計して主翼や胴体を大型化した機体である。
当初日本では前任のF 1戦闘機に続く純粋国産開発を目指していたが、アメリカの圧力やら国産開発の難しさやらなんやかやでアメリカとの共同開発になったという。
(本当のところは知らないが)

それでF2は最初は140機くらい配備する計画だったのが予算高騰でどんどん計画機数が減らされて最終的に94機が作られた。

そして2011年3月11日の東日本大震災で仙台空港に配備していたF2が18機浸水破損するという不運に見舞われたのは記憶に新しい。
F2には一人乗りと二人乗りの2種類がある。
破損した18機はほとんど二人乗りの複座型で、複座型は通常任務以外にパイロット訓練が主要用途とされていた。

最近の軍用機は20年30年と長く使われる一方、パイロットの方は順番に定年で入れ替わるから養成訓練は継続的にやる必要がある。
ところがこれに使う複座型が震災でほとんどやられたものだから、F2の安定的運用が危ぶまれることになった。
何しろ現代の軍用機は一度生産ラインを閉めてしまうと、生産再開しようと思っても莫大な費用が掛かるからなかなか難しいのである。

結局破損した18機のF2は、程度の悪い6機を部品取り用に回して12機が再生されて、当初の94機が88機体制になったらしい。
しかし今回の事故でこれが87機体制になったわけである。
まあ部隊配備の定数は3個飛行隊60機で残り28機は訓練用・予備用らしいから、直ちに戦力低下とはならないのかもしれない。

ただ思うのだが、現代の兵器、特に戦闘機とかは軒並み100億円以上の高額品であるので、もしわたしが悪いテロリストで日本の防衛力に打撃を与えようとするならば、100億円の軍用機にこっそり火をつけて燃やすとか、海自の基地に係留している最新鋭潜水艦(一隻数百億円)のそうりゅう型に穴を開けて沈めるとか、そういうことを考える。

実際最近のテロリストは5万円くらいの電動ドローンに爆弾を乗っけて落っことしたりしているらしい。
それを米軍とかは一発400万円のスティンガーミサイルで撃ち落としたりしている。

現代の軍隊は、そろばん勘定のところで「破産」して負けるのではないか、という心配が頭をよぎる。

数日前には陸自に装甲車などを納入しているコマツが、儲からないので防衛関係からは撤退するというのがニュースになっていた。
軍需製品は単価が高い割に製造量が民需より圧倒的に少ないので儲からないのである。

なんかものすごく自衛隊の今後が心配なのである。
posted by ヤス at 08:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月20日

コンビニにおけるタバコ売上

わたしはコンビニにほぼ毎日行く。
ファーストフードの「M」にも毎日のように行くがコンビニだって負けていないのだ。
それでわたしがコンビニでパンや冷凍スパゲッティを買おうとレジに向かっていると、その前に一人二人おじさんやおばさんやお兄さんやお姉さんがレジに並んでいる。
前に並んだおじさんやお姉さんたちを何気に観察していると、かなりの確率で「ニジュウロクバン」とか番号を言ってタバコを買っている。

日本たばこ産業のデータによると、2018年の日本の喫煙率は男性27.8%、女性8.7%、合わせて17.9%であるらしい。
この%は2017年比で0.3ポイント程度減っている。
人数でいうと男性1406万人、女性474万人、合わせて1880万人だそうだ。
まずこの喫煙人口、どうやって数えたのだろうかと思う。
たぶん無作為抽出のサンプルにアンケート調査して推定しているのかもしれない。
まあそれはどうでもいいか。

この調査データは日本たばこ産業のウェブサイトのニュースリリース一覧のところにあったのだが、過去に遡ると2005年発表の分まで見つかる。
2005年の喫煙率データは、男性45.8%(前年比1.1p減)、女性13.8%(0.6 p増)、合計29.2%(0.2 p減)だそうである。
人数では男性2281万人、女性739万人、合計3020万人。
資料を見ると、2001年頃は男性の喫煙率は50%を超えていたのも分かる。

この20年の間に喫煙者人口はおよそ1000万人も減っているわけだ。
しかし、ここでちょっとした疑問が持ち上がる。
わたしが毎日コンビニで観察している感じでは、コンビニにおけるタバコ買う人の比率はどう考えても18%よりかなり多いと思うのである。
あるいは半分くらいの人がタバコを買っているのではないか。

それでネットをちょちょいと繰ってみると、コンビニ売上に占めるタバコの売上比率の情報がいくらか出てきて、中にローソンのデータがあったのだが、それを見るとタバコ比率は25%くらいであるらしい。
これには驚いた。
しかも2005年頃にはコンビニ売上に占めるタバコ比率は15%程度であったという。
それが年々比重が上がってきて、2014年頃には27%くらいでピークになる。
それ以降ちょっと率は落ちて25%くらいだが、ローソンにおけるタバコ売上の実額はここ数年5千億円程度で横ばいであり、率が落ちているのはローソンの全体売上が伸びている影響だ。

タバコ人口がかなり減っているのにも関わらずタバコ売上が落ちないのは、タバコ税率がどんどん上がって単価が上がっているのもかなり影響していると思う。

ということでコンビニでは、2千円の買い物のうちの5百円は「タバコ」であるということをひとつ勉強した。

タバコ嫌いのわたしとしては、今後もタバコの値上げをどんどん勧めていただいて一箱4千円くらいにしていただければ、タバコの絶対量が減ってくさい煙を吸わなくて済むようになり、なおかつ過労死するほど重労働のコンビニ経営者の助けにもなって非常にいいのではないか、などと思った。
posted by ヤス at 12:20| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月19日

切羽詰まった時に実力が出る

「切羽詰まる」という時の「切羽」とはお侍さんが持っている日本刀をサヤに納める時にカチッとはまるようにする輪っかのことであるらしい。
お侍さんが腰に大小の刀を差して街を歩いていて、突然目の前に仇敵が現れて、それでさんざんもったいぶって格好つけて威風堂々とした構えからゆったりと太刀を抜こうとしたら切羽が詰まって抜けない、となったらものすごく焦るに違いない。

わたしも日常生きていてちょいちょい切羽が詰まることがある。
というか切羽詰まる頻度は日本国民の平均値より少し高いかもしれない。

時代劇とかでは、切羽詰まったお侍さんがサヤごと刀を抜いでそれで敵の太刀をギリギリ受けたりする場面がある。

そう、切羽詰まった時は機転を利かして急場を凌ぐことが重要である。
仇敵を前にして切羽が詰まって刀が抜けなくて、それでなすすべなく仇敵の太刀に額を割られて斃れるか、それとも機転を利かしてサヤごと刀を抜いてひとまず一の太刀を受けてとりあえず少し寿命を伸ばすか、ヒーローの資質があるかどうかはその機転の利き方にこそある。

土曜日に将棋の「第12回朝日杯」があって昨年中学生で初優勝した藤井聡太が連覇した。
朝日杯は持ち時間40分の早指しなので、中盤以降は「1分将棋」になってスリリングな展開になる。
今回は記録係が制服姿のかわいい高校生女流棋士がやっていたけれど、1分将棋に突入した対戦者は記録係の女の子が「55秒ぅー、6、7、8」とカウントして、見ているこっちがハラハラするくらいのタイミングのギリギリで駒を動かす。

決勝戦で藤井聡太と戦った強豪の渡辺明棋王は途中まで慎重な顔つきで指していたのが、途中明らかに切羽が詰まって「この辺で抜こう」と思っていた攻撃の刀が抜けなくなったように見えた。

将棋の棋士というのは、相手の指し手を読みながら自分の作戦意図を実現するために微妙に相手の裏をかくことを狙う。
それで相手を切羽詰まらせて刀が抜くに抜けなくなったところでトドメを刺しに行く。
しかし手練れの強者の場合切羽が詰まったらそれはそれで、逆に意表を突く手を返して相手を混乱に陥れ返り討ちにしたりする。(そのように将棋素人のわたしには見える)

将棋というのは切羽詰まらせたりそこから反撃したりといううゲームに見えたのである。
それで現在の藤井聡太は、相手の切羽を詰まらせる攻撃力も自分の切羽が詰まった時の反撃力も、もはや異次元の域に達しているのではないか。

将棋にせよ何にせよ、切羽詰まった時の対応力にその人の実力は出るのではないかとちょっと思った。


posted by ヤス at 10:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月18日

トランプさんとノーベル平和賞

安倍首相がトランプ大統領のノーベル平和賞の推薦をしたらしい。
なんだかヘンテコなニュースだなと思ったが、各社から続報が出ているのを見るとどうやら本当だったようだ。
昨年に行われた史上初の米朝首脳会談の後アメリカ側から日本側に推薦の要請がを受けて、ということである。

推薦理由については「日本の領土を飛び越えるようなミサイルが発射されていたが、いまは突如として日本人は安心を実感しているからだ」とトランプさんは語ったそうだ。

元はと言えばアメリカの方から「推薦してくれ」と言っておいて、その後にトランプさんの方から「日本のアベが推薦してくれたよ」と発表するのは普通に考えるとかなり順番がおかしい。
トランプさんの方が発表するならアメリカ側が事前に推薦要請したというのはぜったいに隠しておかないと格好が悪い。
アメリカから要請があったという情報は、朝日新聞のネット記事によると「日本政府関係者による」らしいので、ことによるとこの情報を漏らした「日本政府関係者」に早速探索が入って、こっぴどくお仕置きを受けているのではないか。

ノーベル賞の発表は例年10月頃のことらしいが、ノーベル賞委員会が今年の平和賞を誰にするのかはよく分からない。
過去の受賞者を見ると昨年はコンゴ民主共和国の医師で社会活動家のデニス・ムクウェゲさんと、ナーディーヤ・ムラードさんというイラク出身・ヤズィーディー教徒の女性だったらしい。
二人はそれぞれコンゴ内戦やイスラム国による内乱で多く発生した、女性たちの性的被害に対して大きな貢献があったということが受賞理由である。

昨年はそういう受賞者だったのが、女性の人権保護が著しく遅れている日本の総理大臣が女性蔑視のシンボルのようなトランプさんを推薦するというのは、コメディ以外の何物でもないと思う。

ただ歴代の平和賞受賞者を見てみると、史上初の南北会談を実現した金大中とか、長く続いた内戦を終わらせたコロンビア大統領のサントスとか、アメリカ人でもジミー・カーターやアル・ゴア、オバマ前大統領とか3人は全部民主党だが、平和賞を受けている。
平和賞の特徴は、物理学賞みたいに昔の功績が評価されるのではなく、最近の事績が即座に評価される傾向にあることだ。

オバマがもらえるなら俺も欲しいとトランプさんが思ったのは何となく想像できるような気がするけれど、ひょっとしたらトランプさんが米朝交渉を継続する真の目的はノーベル平和賞受賞で、その目的のためにせっせと金正恩と交渉をしているのかもしれない。

それに理論上は、もし北の非核化やあるいは南北統一が実現した暁にはトランプさんの平和賞受賞もあるということかもしれない。(委員会はたぶん選ばないと思うが)

このニュースは、今後の米朝会談を見方を変える面白いニュースだったと思った。
posted by ヤス at 09:02| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月17日

JR切符が郵送される件について

おとといだったか、ちょっと新幹線に乗って県外に行く用事が出来たので切符を予約した。
本当は無謀にバイクで行こうかと思ったが、高速料金・ガソリン代と割引で新幹線の切符を買うのを慎重に比較検討した結果、やっぱり新幹線で行くことにした。

なんと新幹線の方が安かったからだ。
しかも高速道路上を時速100kmで走るバイクと最高時速200km超の新幹線だと、新幹線の方が時間はほぼ半分で済む。
なおかつバイク運転の「人件費」も考えると新幹線の圧勝。
だから新幹線で行くことにして、金曜日にネットで切符を予約した。

それで新幹線の「こだま」を乗り継いで行くタイプの往復チケットを買うと通常料金のおおよそ6掛けくらいになる。
乗り継ぎが面倒くさいが、まあバイクを運転する疲労を考えると相当にマシであるとは言える。

この切符を販売しているのは日本旅行だった。
わたしは江戸時代の農民みたいに地元にへばりついて仕事をしているため、めったに新幹線とか乗らない。
だからこういう切符の買い方も初めてだったのだが、ネットでちょいと「格安チケット」を検索してみたらぽんと出てきたので、あまりよく考えずにこれを買った。
旅行会社というのは、わたしの中では勝手に絶滅危惧種の業界だと思っていたのだが、まだJTBとか近ツリとか元気に経営しているらしい。
そして今回の株式会社日本旅行は、今ではJR西日本の傘下に入っているというのも初めて知った。

こうやって切符の手配をしているうちに、わたしが20年くらい前のサラリーマン時代、業務用のJR切符とかを近所の旅行会社の窓口で手配していたのを思い出した。
ある時、九州から岡山に来る人の切符を手配したのだが、当時は手配したJR切符を、その電車に乗るお客さんにいちいち郵送していたのだった。

ある時旅行会社の窓口で、
「この切符、予約情報だけJR九州に送って向こうの博多駅とかで発券できないの?」
と聞いたら「できません」という答えだった。

そして今回も日本旅行で切符を買ったのだが、ネットで予約完了したらすぐにメールがやってきて、メールを見ると「予約確定後に切符を郵送します」と書いてある。
なんだいまだにJRの切符っていちいち郵送しないといけないのかい、JR岡山駅に情報の入ったiPhoneを持っていったら券売機から券が出てくるとか、そういうのをイメージしていたのでかなり拍子抜けした。

JRの切符がいまだに郵送により物理的にやりとりされなければならないのには、JRが地域別に分かれていることとか、その他にも深い理由があるのかもしれない。
ただ今では「5489(ごよやく)サービス」「EX予約サービス」などでは発券可能駅にiPhoneを持っていくと発券できて郵送不要らしい。

しかし旅行会社の手配する切符が郵送でないといけない理由は何か。
働き方改革とか生産性革命とかいう時代に、20年前から進化のない発券方法っていったいなんなのかとちょっと疑問に思ったりしたのでした。
posted by ヤス at 14:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月16日

世界は良くなっている

あいかわらず世の中に対する不満ばかり書いている気がする。
しかし本当は世の中そんなに言うほど捨てたものではない、というのは間違いないのである。

人類社会は確実にだんだんと良くなっている。
世界の住みやすさは年ごとに改善されており、人間にとってより快適な環境が実現しつつある。
日本で先の大戦の傷がやっと癒えた頃、1960年の日本人女性の平均寿命は70歳だったが、2017年には87歳に伸びている。
もっと遡ると1900年頃の明治時代とかそれ以前の時代には平均寿命は42歳くらいだったらしい。
これはあくまで平均寿命なので、乳幼児死亡率とかが大きく影響しているということだ。

先日競泳の池江璃花子さんが白血病に罹患したことを発表した。
山口百恵の「赤い疑惑」の時代には白血病は不治の病だった。
しかし最近は抗がん剤治療や骨髄移植などの治療法が確立し、完治する例が増えている。
その前には結核が不治の病だったが、それも昔の話である。

また、つい数十年前まで欧米列強が中心になってアジアやアフリカにたくさんの植民地が経営されていて、現地の人々は宗主国によって搾取されていた。
しかし第二次大戦後旧植民地はほとんど独立することになった。
ベトナム戦争が終わったのは44年前の1975年だ。
ベトナム戦争が起きたのは、ヒトラーに降伏していたフランスが植民地だったベトナムからも大日本帝国に追い出されていたのが、ドイツが負けて独立を回復して日本が降伏したので夢よもう一度とベトナムの再植民地化に乗り出して1946年にインドシナ戦争が起きたのが発端だった。
そこにアメリカが「共産主義拡大」を正義の旗印に介入して泥沼化した。

ベトナム戦争では両軍合わせて300万人とか400万人くらい死者が出たらしい。
アメリカ軍でも4万人以上の死者が出た。
しかし最近のイラク戦争ではアメリカ軍の死者は4千5百人くらいで、それでも膨大な犠牲者数であることに変わりないが、しかしひと頃の戦争に比べるとだいぶ人が死ななくなったというのは言える。
ただイラク戦争での民間人死者は50万人くらいという推定もあり、近代の戦争では兵隊より民間人がたくさん死ぬのが特徴になっている。

ただ民間人犠牲者数も第二次大戦では何千万人の単位だったのが最近は少しましになっている。
それでもシリアを中心に中東地域では毎日大勢が亡くなっているが。

現代に生きるわたしは一昔前の超高速電算機に匹敵する能力を持ったiPhoneを片手でグリグリ操作して世界中の情報にアクセスできて、これだけとっても10年前に比べると超便利になった。
コンビニ弁当もファミレスメニューも20年くらい前からはだいぶ美味しくなったに違いないと思う。
それでもなお現代人には、少なくともわたしには世の中が良くなっていることの実感がそれほどには感じられないのはなんでだろうと思う。
世の中ほんとうに難しいなあと思った。
posted by ヤス at 07:37| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月15日

正義はむずかしい

正義という言葉が好きではない、というのは以前にも書いたような気がする。
昔読んだ社会学者の加藤諦三氏の本に「正しいことを言うやつには気をつけろ」みたいなことが書いてあって、たぶんその時の記憶が現在の「正義嫌い」につながっている。

わたしは戦争映画が好きで「フルメタルジャケット」とか「プライベートライアン」とか「プラトーン」とかちょいちょい思い出して観る。

それらの戦争映画は、例えばアメリカ軍視点からはドイツ軍の兵隊を「ナチ野郎」とか罵ってライフルで撃つ。
しかし撃たれる方の「ナチ野郎」のドイツ兵も元はといえば普通の若者で、ヒトラーに徴兵されて仕方なく前線でライフルを構えている。
中には「祖国のために」とか、純粋な熱い想いを持っていたドイツ兵もいたのだろう。
しかしどのみちほとんどのドイツ兵は殺されるいわれのない若者たちで、その本来殺される理由のないドイツ兵をアメリカ兵はバンバン撃つ。
その逆も同じことだ。

爆音鳴り響き硝煙渦巻く地獄のような戦場にあっても、やはり敵兵を撃ち殺すのはたいへんな精神的ストレスがある。
クリント・イーストウッド監督の「アメリカンスナイパー」でも、主人公の狙撃兵クリス・カイルは敵兵を255人も狙撃した猛者らしいが、スコープにはっきり映る人間を一人ずつ斃すのに伴う重圧が半端ないことが映画にしっかり描かれている。

前線に駆り出されて、お互い殺されるいわれのない若者同士が、それでもお互いにライフルを撃って戦う時に必要になるのが「正義」の概念である。
祖国を守るために、悪の帝国を倒すために、虐げられた民衆を助けるために、などなど、いろんな正義の理由が考えられて兵隊たちに叩き込まれ、若者はライフルを構えて前線に向かう。

第二次大戦でヒトラーを倒す戦いとかなら、まだなんとなく正義の理由は分かりやすかった。
でもベトナム戦争とか、アフガン戦争、イラク戦争とか、だんだん正義の内容が複雑で分かりにくくなっているのが最近の戦争の特徴である。
だから戦争映画の兵隊たちは口々に言うようになる。
「俺達は仲間のために戦う」

ほんとうは、民主主義を守るとか人道主義を守るとか、正義の実現のために戦争が始まるというのがものの順番なのだろう。
でも実際は、戦争のためには何かの正義が必要、我軍の兵士が迷いなくライフルの引き金を引くために正義が必要、そんな風に現実は順番が逆転している。

もちろん正義は戦争を遂行するために必要というだけではなくて、例えば近代国家で法律の執行にあたっても正義の概念は必要だ。

だから結局、正義はこの世からなくなると困るものではある。

戦場で無実の若者を撃ち殺すための正義とか、本来なら正しくないことを無理矢理に正当化するため正義は機能する。
正義は暴走すると怖いという点で、原子力発電所と似た感じもする。
無いと困るし、暴走すると怖い、正義って本当に何なのだろうと、アマゾンプライムで「バンド・オブ・ブラザース」を観ながら思った。
posted by ヤス at 10:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月14日

モラルの崩壊について

もう20年くらい昔の話だが、少しだけ面識のある経営者が20数億円規模の粉飾決算が露呈して「首をつった」ことがあった。
その新聞記事を見たときは、なんだか血の気がひくような感じがして、20億円は人間一人ころすくらいの威力のある金額なのかなと考えたのを憶えている。

日本は世界的にも自殺大国である、というのはよく聞く話であるが、自殺原因を調べた厚労省の統計データがネット上で検索すると見つかった。
まさかこのデータに不正はあるまいと思う。
いったん厚労省を信じて内容を見てみると、自殺原因の断トツ1位は「健康問題」である。
2位は「原因不詳」、そして3位が「経済・生活問題」。
10年くらい前までは「経済・生活問題」が2位で「原因不詳」は4位あたりだった。
想像するに、自殺原因が簡単にこれとは断定できない複雑な状況になっているのかもしれない。

この「経済・生活問題」には会社経営に伴うものがかなり多く含まれていると思う。
実際最近数年は企業倒産件数が減少傾向で、それと軌を一にするように経済要因の自殺者数も減っている。
それは自殺者数の多くが「40〜60代男性」に集中している年齢性別分布からもうかがえる。
またリーマンショック発生後しばらくした2009年に経済的自殺者数が若干跳ね上がって8千数百人になっており、その後しばらくかけて数字が落ち着いてきているので経営要因というのはやはり一定大きいのだろう。

それで思うのだが、会社経営が苦しくなってする自殺というのは、そこには粉飾とか長年取引先に嘘をついてやりくりしていたとか、そういう背徳的行為があるケースが多いのではないか。
そのようなやましさが心の重圧になって気を患うことになるのではないかと思う。
さすがにそこまでは厚労省の統計には出ていない。
だからこれはわたしの身近でこれまでに起きたことからの想像に過ぎない。

ただ世の中にはよほど面の皮が厚い人種もいるらしく、冒頭に書いた20何億円の粉飾事件でも、他の役員で本来ならこの人も気を患ってしかるべきと思った人が、表向き平気な顔をして生きながらえていたということもあった。

最近の大企業をめぐる巨額の粉飾事件でも、意外なほどに疑惑の当事者たちは元気な気がする。
それくらいでないと大企業のトップは務まらないのか、あるいは彼らはあくまでサラリーマン経営者で、過去の粉飾は我が社の古くからの伝統芸くらいに軽く考えているのかもしれない。
そこへ行くと中小企業の場合オーナー経営者が多いだろうから、そういうオーナー経営者が粉飾に手を染めた場合、罪の意識を一身に背負うことになるのかもしれない。



会社が粉飾や詐欺的行為に手を染めるのは「それをしないと生きていけない」という切羽詰まった状況があるからだろう。
あるいは詐欺や泥棒や違法行為をするのがいちばん手っ取り早く儲かる、というのは昔からずっとそうであって、だからこそ資本主義社会には各種のモラルとか倫理規定とかが有形無形に存在する。

騙したり泥棒したりせず、せっせと付加価値を生産してまっとうに儲ける、それが資本主義の正常な姿である。

それで思うのだが最近の日本では、今に始まったことではないかもしれないが、しかし騙したり泥棒したりする不正が、無際限なモラルの崩壊が、会社経営以外でも政治の世界でも役人の世界でもだんだんと広がっているのではないか。
日本全体規模のモラルの崩壊が進んでいるのではないか。

モラルの崩壊は、実際に人の命を多く奪うことになると思う。
どうにかしないといけないが、しかしやっぱりこれはなかなかの難問だと思った。
posted by ヤス at 08:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月13日

体が弱って分かること

わけあって、左足の膝を痛めた。
普通に座っている分にはぜんぜん大丈夫なのだが、椅子からよっこらしょと立ち上がるときに膝をひねる方向に動かすと、ぎくりと鈍い痛みが走る。
歩くときはなるべく左膝を固定した状態で、左足を一本の棒のように使って股関節を支点にして回転運動するという歩行方法を編み出して、なんとか日常の移動の目処はついた。

あとたいへんなのは階段だ。
階段はどうしても左膝を曲げないことには上り下りができない。
なので左足を左右にブラさないように正確に真っ直ぐ曲げることに注意を集中し、ただ膝をひねらないように一段一段踏みしめるように上がる、もしくは降りるということを心がけている。

足を怪我すると年寄りの気持ちが少し分かるような気がしてくる。
横断歩道を渡るときも小走りで駆け抜けたりできないので、車が迫ってこようが歩行者信号が点滅し始めようがそれらの迫り来る脅威を無視しきって、一歩一歩踏みしめるようにしてゆっくり進むしかない。

あるいは階段の上り下りでも、わたしがよく行くマクドナルドは2階席まで階段なのだが、足の悪い年寄りからすると階段を自分の足で登って行かないといけない店とかマジありえない。
できることならエレベーターが欲しい。

わたしも2階席に向かってそびえ立つ階段の絶壁を前にしたときは、今日は大人しく1階席にしておこうかと思った。
しかし「俺はまだまだ年寄りじゃないぞ」と思い直し、グランガーリックペッパーセットを満載したプラスティックのトレーを両手でしっかりと支えながら、ゆっくり階段を登り始めた。

いつもは無意識のうちにすいすい登る階段が、なんだかとても神聖な傾斜であるように感じられた。
こういう場合のためにマクドナルドの階段には手すりが付いている、そういう設備設計上の配慮も新鮮に感じられる。
しかしわたしの両手はトレーを支えることでフル稼働しており、手すりを掴まえることはできない。
曲げにくい左足と健常な右足を交互に動かしてゆっくり確実に登るしかない。

そうやって登るといつもの何十倍もの時間がかかったような気がしたけれど、登り終えたときの2階席はいつもより少し明るく見えたような気がした。


ということで池江璃花子さん、そして全国の病気や怪我と戦っているみなさんへ、そのたいへんさは本人にしか分からないものだと思いますが、早く元気になりますように。
陰ながらお祈りしています。
posted by ヤス at 12:41| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月12日

コンビニいたずら投稿で思う

最近またニュースで、くら寿司のバイトが厨房で食材の魚をポイっとゴミ箱に捨てるのとか、セブンイレブンでおでんの白滝を口に入れたのを出した後に店内で踊ったりとか、ファミリーマートで商品をペロペロ舐めるとか、これらの店のアルバイトが酷いイタズラ行為を行なってSNSに投稿して解雇されたとか会社側は法的措置を検討とかいうニュースが流れている。

これらのイタズラ行為は少し前に流行っていて近頃はニュースで見なかったと思ったが、やっぱりこのようなことをやるアホは絶滅せず、水面下で活動していたようである。

たぶんこれらのアホは、少し前に牛丼店とかファミレスとかコンビニとかで発生したイタズラのSNS投稿が炎上した事件については、それなりに憶えていたのではないかと想像する。
以前のよそのアホがやった炎上事件の記憶がうっすらと脳みそに残っていたからこそ、何か常識はずれな悪さを投稿すればSNSにフィーバーがかかるぞ、というイメージが頭に浮かんだ瞬間に凶行に至ったのではなかろうか。

SNSを投稿するにあたって気をつけなければいけないのは、それはSNSのいいところでもあるわけだが、あまりあれこれ考えずに瞬間的に思いついたことを世の中に投げ込むことができるので、場合によっては後で「しまった」と後悔することがしばしばあることだろう。
SNSのような瞬間芸的な「創作活動」には、第三者の監視のフィルターとかが入らないままにアホの脳みその中身がそのまま晒される。

そこまでのイタズラでなくても、例えばツイッターとかインスタとかで普通に瞬間的につぶやく内容というのは、思いのほか投稿者の「素」が出てしまうものではないかと思う。
インスタやフェイスブックで多少の演出を加えてリア充を装ったとしても、スマホの画面の向こうに彼や彼女の演出前の素面の姿が透けて見えるような気がする、というのはあまりに性格悪いSNSの見方だろうか。

今回のような犯罪的なイタズラ投稿は、最近の人手不足で猫の手も借りたいくらい人材が払拭する中、こいつヤバそうだなと多少思ってもとりあえず採用せざるを得ない状況もあるのかもしれない。

ただコンビニとかは幾多の経営的試練を乗り越えて今日まで生き延びてきたので、今後はこういうアホを採用しないように、ある程度の採用におけるフィルタリングの技を磨いていくことが予想され、また損害賠償請求なども実現すればだんだんと同種のアホは減少するのではないか。

今回の一連の事件で思ったのは、SNSの投稿があまり考えずに瞬間的になされることで投稿者の「素」が出やすいのだなということで、かといってあまりあれこれ考えているといつまでも投稿できない。
結局SNSで「素」を晒しても事故らないためには、アホはアホなりにおのれの「素」を日頃から磨いておくことしかないのかな、ということだ。

つまりSNSはアホがバレやすいので自分も気をつけないとなと思うわけだが、アホにはものが見えないのでやっぱり明日も明後日も、ぽろぽろと炎上ボヤ騒ぎが起きたりするのだろう。
posted by ヤス at 09:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月11日

電話ぎらいについて

今朝のYahoo!ニュースに「最近の若者が電話に出ない問題」につついての記事が出ていた。
あのホリエモンなどは自身の著作などで「電話ムカつく」件について触れており、そういうのに感化されている若者も増えているのではないかということも記事には書いてあった。
さらに、若者が電話に出てくれなくて困っていると嘆いているおじさんたちも、実のところ本音では電話に出たくないのだ、とも書いてあった。

ところでわたしもご多分にもれず電話は嫌いだ。

大昔、今のNTTがまだ電信電話公社だった頃、わたしは一人暮らしを始めアパートに電話をつけた。
その頃の電話は掛かってくるといえば友だちから「飲みに行こうぜ」または「そっちに飲みに行くぜ」というようなものがすべてだった。
その当時には数時間に及ぶけっこうな長電話もちょいちょいしたことがあった。
当時はまだ電話は嫌いではなかった。

わたしが電話が嫌いになったのは、社会に出てからだ。
働き始めて会社の電話を取るのがひたすら苦痛だった。
相手の顔が見えないし、たいていの場合電話の向こうの人が怒っているように感じられた。

何年か研鑽を積んで「社会人電話」に対する免疫が多少できた。
やっと免疫ができた頃には周りの人たちは携帯電話を持つようになっていた。
無論わたしのスーツのポケットにも、モトローラの携帯電話が入っていた。

携帯電話というのは、固定電話に比べると電話ぎらいにとって非常に良い面もある。
まず掛かってくる電話はすべてわたしをターゲットにしている。
会社の他の人に用事がある場合の「取り次ぎ作業」が原理上発生しないのは非常に良い。
他人宛にかかってきた電話をリレーする作業ほど無駄なものはない。
その意味では大きな会社にいる受付嬢とかも無駄以外の何者でもない。

しかし「取り次ぎ」に唯一長所があるとすれば、それは居留守が使えることだろう。
「◯◯はあいにく長期出張で」とか適当に言っておけば嫌な電話に出なくてすむ。
しかし携帯電話だとそうはいかない。
長期出張だろうが海外だろうがどこまでも発信側は追いかけることが可能だ。

あと思うのだが固定電話というのは、ある程度フォーマルな通信手段みたいな感じがあるのかもしれない。
電話冒頭に「お世話になります」とか「お久しぶりです」とか、人によっては3分程度の仕事に関係ない時候のあいさつを延々と述べたり、通信内容に無駄な「ノイズ」が多い。

携帯電話はパーソナルな通信手段なのでその辺のノイズがかなり低減されてはいるのだが、中には固定電話の文化を引きずって「雪が降って寒いですけどお風邪など召されてませんか・・・」とかやられてこちらはイライラして発狂しそうになることが、いまだたまにある。

それで冒頭の若者が電話に出ない問題に戻ると、電話の方がメールやラインより細かいニュアンスが伝えやすいとかいうおじさんもいて、確かに電話の方が手っ取り早いケースはある。
ただそういうケースは目分量で全体の3%程度であるので、電話を掛けるのもこれに比例した量に減らすべきだ。
メールやラインなどの文字による通信は証拠も残るし話し言葉より「デジタル」なので誤解も少ない。
どう考えても通信手段としてはメールやラインが電話より優れている。

ということで若者に限らず「電話に出ない」人が増えると、世の中の電話をかける人も絶滅方向に向かって、ほんとうにけっこううなことだ、と思ったりしているのだ。
posted by ヤス at 11:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月10日

眉村ちあきについて

眉村ちあきといいう自称「弾き語りトラックメイカーアイドル」がいるのを少し前に知った。
彼女はウィキペディア情報によると2015年頃から3人組のアイドルグループに入って活動を始めたらしい。
2016年にはメンバーの脱退などでグループは活動休止となり、その頃に並行してソロ活動を始めていたそうだ。
自身で作詞作曲編曲した曲でライブをぼちぼちソロライブもやっていたが、グループ解散を機にソロ活動を本格化。

2017年には映画にも主演し、いくつかの
アイドルイベントにて精力的に活動をしているうちに、アイドルウォッチャーでプロインタビュアーの吉田豪の知るところとなった。
その後は吉田豪の「推し」も追い風になって、テレ東のゴッドタンを皮切りにいくつかの民放テレビにも出て劇団ひとりなど出演芸人がリクエストした「ゲロ」「うんち」などお下品なお題に対し見事に芸術的な即興ソングをその場で披露して感動を呼んだ。

その後もわけありアイドルのコンテストである「ミスiD2019」でグランプリをとったりしている。

眉村ちあきが他のアイドルとひと味違うのは、破綻気味に素っ頓狂なそのキャラクターが大きな要素を占めていることは言うまでもない。
ただ、素っ頓狂をウリにするアイドルは業界ではすでに定着した「定番キャラ」の一類型であって、それだけでは珍しくもなんともない。
眉村ちあきの場合、その破綻気味のキャラクター以外に抜群の歌唱力が際立っている。
さらに作詞作曲編曲をすべて自ら行う創作能力、民放テレビで見せた類まれな即興の才能など、常人には得難い異能の数々を兼ね備えている。

眉村ちあきは2017年12月に自身が代表取締役となる「株式会社かいしゃじゃないもん」を設立した。
最近でこそ二十歳そこそこの若い女性アイドルが自分の会社を設立することは珍しくない。

眉村ちあき自身もその辺の「二番煎じ感」は強く感じているようで、遅ればせながら自分の会社を作ったことを言い訳がましく自虐ネタにしているYouTubeもある。
おそらく彼女は破天荒なキャラ設定にもかかわらず自分のことがよく観察できている。

案外、素はまともなのではないかと思わざるを得ない。

世の中には月給3万円で10代のか弱い女の子を搾取する奴隷労働的なアイドル業界がある一方で、眉村ちあきのように製作活動からセルフプロデュースから事業運営に至るまで自己完結する傑物がだんだんと出てきているのは非常に良いことだ。

彼女の曲の中では「リアル不協和音」がとてもいいと思う。

眉村ちあきはよく天才と言われるが、弟によると「本当は努力の人」だそうである。
たぶんこの弟の発言も彼女が言わせているのではないかと思う。
posted by ヤス at 10:57| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年02月09日

「政府の借金国民一人あたり」について

毎日新聞のネット記事によると、
” 財務省は、国債と借入金、政府短期証券を合計した国の借金が2018年12月末時点で1100兆5266億円となり、過去最大を更新したと発表した。19年1月1日時点の総人口1億2632万人(総務省推計)で割ると、国民1人当たり約871万円の借金を抱えている計算になる。”
らしい。

こういうニュースが流れると、政府の貸借対照表には負債の反対側に「資産」が650兆円もあって、負債だけ取り上げるのはおかしいとかいう意見が出てくる。
あるいは、国の借金1100兆円はほぼ国内の金融機関等によって保有されており海外比率は5〜6%程度である。
したがってギリシャなどと違って破綻の恐れはない、とかいう話もある。

実際1100兆円の公債は今後数年のうちに返さないと行けないものではない。
理論上は100年とか200年かけて返していけばよい。
ということは事実上返さなくてもいい借金であるとも言える。
だからますます日本政府に破綻の心配はない。
そういうことになる。

国の借金をめぐる話は、わたしにとって何が本当かよく理解できない難問である。

昨年9月時点の国債994兆円についていうと、銀行生保等の金融機関が379兆円持っている。
この379兆円は、もとはと言えば国民が銀行や生保に預けたお金で買ったものである。
さらに半分近くの454兆円は日銀が持っている。
454兆円は、異次元金融緩和によって日銀が銀行から買い上げた分である。

日銀は資本金1億円でうち55%は政府が出資している。
残り45%は民間出資であり、日銀株はJASDAQに上場されて取引もされているが日銀株には議決権がない。
それで日銀が持っている日本国債を「債権放棄」したら日本の借金は454兆円減らせて日本の借金問題がいっきに解決するという議論もある。

しかし日銀法によって決まっているらしいのだが、日銀が解散した場合の残余財産は持ち株応分で配分されず、全額政府のものになる。
日銀が454兆円を放棄すると債務超過になり、この債務超過分は全額政府の責任ということになって日銀の債権放棄作戦はどうどうめぐりの末にスタート地点に戻る。
だからたぶんこの作戦はもともと意味がない。たぶん。

日本国民が生保や銀行を通じて持っている政府の借金は、あるいは預金のようなものと考えることができるかもしれない。
一般市民が銀行に預金しているお金は、表現を変えると「銀行に貸している金」である。
これは国民が政府にお金を貸して、そのかわりに国債が発行されるのと相似のかたちに見える。

銀行預金と国債の違いで大きいのは、国は国民から税金を徴収することである。
銀行は預金者から税金を取らない。

国債の返済は、原資は税金である。
国債の海外比率は6%とか書いたが、日本政府は原則的には海外の外国人から税金は取れない。
外国人に対しては預金者に対する銀行と同じかたちになり、国内から徴収した税金を海外の国債保有者に返すかっこうになる。
だから海外にいっぱい借金していたギリシャは破綻した。

いろいろ考えていると、政府の借金は国民に対する未来の税金によって担保されていると見える。(少なくともわたしにはそのように見える)

だから国民一人あたりの借金871万円とかいう表現は正確ではなくて、本当は国民一人あたり871万円の税金をこれから徴収しますよ、というのが正しい。
と思ったりした。
posted by ヤス at 13:17| Comment(2) | 徒然なるままに