2018年12月31日

待つことのストレス

わたしは「待つ」のは苦手だ。
「待つ」ことで思い出したが、大昔、完成して間もない頃の大阪USJに行ったことがあった。
どうもUSJがたいへん流行っているというニュースがけっこう流れていて、それなら一回くらいは行っとかないとな、と思ったのである。

それでその時は正月の3日の日に行ったと思う。
寒風吹きすさんで凍えるような天候で、しかし客の入りはかなりな感じの大賑わいだった。

ちなみにわたしはその時突然思いついて行ったので、当然一人である。
いや前から予定して行っても一人だったのかもしれない。
とにかくも、ただ一人、寒くてしかし客で賑わっているUSJに正月早々行った。

わたしは何せ待つのが嫌いだから、本来ならこういう流行っているテーマパークには近づかないはずだった。
しかし魔が差して行ってしまったからには、何がしかのアトラクションにチャレンジしないわけにはいかない。

定番のジュラシックパークやターミネーターに入り、あとバックドラフトやビートルジュースに入った記憶もある。
それらのアトラクションは、人気のものはとにかく長蛇の列が出来て2時間3時間待ちは当たり前。
行列をコンパクトに捌くためにクネクネと複雑に折り曲げられた人の列の最後尾にわたしは立って、ときおり頬に打ちつける寒風にカラダ震わせた。
何せお一人様で来ているものだから「ちょっとトイレに行って来ます」っていうわけにもいかない。

その寒くて辛い物理的状況は周りの人たちも同様なのだが、彼ら彼女らは長い行列の中でも同行の友人たちと楽しそうにおしゃべりして、みな笑顔であるようにわたしには見えた。
仕方ないのでわたしも笑顔を作って、周りの雰囲気に溶け込むよう務めた。

ここまで長々と前フリを書いた。
わたしが言いたかったのは要するに、USJの行列の中で、わたしと周囲の人たちでは時間の進みがかなり違っただろうということだ。

「待つ」というのは見えないところでかなりの精神的ストレスになっているのだと思う。
特にいつ「待つ」状態が終わるか分からない場合はなおさらである。

今朝、ファミレスでモーニングを頼んだらしばらく出てこなくて、まあ結局15分くらいで出ては来たのだが、その15分はかなり長く感じた。
これは時間が長い短いという以上に、いつまで待てばいいのか分からないことのストレスも大きいと思った。

その点USJは「あと2時間45分」とか、長いなりにおおよその待ち時間が分かるのはなるほどな感じがする。
あるいは待ち行列の脇の方で路上パフォーマンスみたいのがあったりして、その辺も工夫がある。
きっと今のUSJはさらにもっと良くなっているのに違いない。

客商売にとって「待つ」ことのストレスをどうするかは、ある意味もっとも大切であるなあと、正月の思い出とともにしばし思い返したのだった。
posted by ヤス at 11:12| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月30日

ファジーとAI

その昔に「ファジー」という概念があって「ファジー家電」なるものが雨後の筍のごとく林立した時代があった。
なんでも「ファジー理論」なるちゃんとした学術理論があり、かつてのファジー家電たちはファジー理論に基づいた制御の行われている製品群であったらしい。

最近の家電業界のトレンドは「何でもAI搭載」である。
自動炊飯器も掃除機も電子レンジもエアコンも、はては照明機器やテレビやオーディオ機器も、人工知能による「何か」の制御が入っている。
あれは人工知能が入って何を制御しているのか、そんなに制御しないといけないことがあるのか、やや不思議である。

そういうことを考えていると、今のAIにうりふたつの感じで「ファジー」な家電群が群がり立っていた時代のあったことを思い出したのである。

「ファジー」というのは、みなさんご案内の通り「あいまい」というほどの意味であろう。
家電を「あいまい」に制御するとは、まじめに想像してみるとものすごくよく分からない話だ。
ちょっとネットで調べてみると、かつてのファジー家電は周囲の状況とか動作環境をセンサー類で感じ取ってそれをフィードバックするというものであった気配が濃い。
いやそういう理解で正しいのかどうかよく分からないが、ちょっと調べた感じではそういう感じが個人的にした。

つまり「弱・中・強」とかあらかじめ定められた固定的な運転状態でブーンとひたすら動くのではなくて、例えば温度センサーが温度変化を感じとったらその変化をフィードバックして機械が勝手に運転状態を変えてくれる。
たぶんそういうものである。
そう考えるとやっていることは現在のAI制御と本質的な違いはないような気がする。

ファジーモAIもそのポイントは、一本調子でブーンと動くのではなくて、周辺状況を「自動的に感知」して機械が勝手に運転状態を変えるという点である。
これは個人的な想像だが「ファジー家電」はセンサー情報が1種類だけで、1次方程式的に線形制御しているのではないか。
他方のAIはセンサーが複数あって、それら複数変数の組み合わせの高次方程式的制御なのではないか。
そういう気がする。

そういうことを考えていると本当に偉いのは制御技術というより各種センサー類の技術進化なのではないか、という気がしないでもない。
いずれにせよ「ファジー」も「AI」も、多くの家電に搭載されているものは大部分が「なんちゃって」なけっこう単純な制御なのである。(たぶん)

おそらくメーカーの商品企画会議かなんかで開発課長か誰かが、

「うちも『AI搭載』みたいな感じで行きましょう」

みたいな発言があって、それらの製品群は生まれて来たのではないか。
そのように想像すると、AI搭載家電からひどく人間臭い匂いが漂って来るような気がする。
posted by ヤス at 10:50| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月29日

人類一般がヘタレな件について

人間は誰しも完璧ではない。
そんなことは今さら言うまでもないことだ。
しかし問題は、人間は時々自分がヘタレであることを忘れることがある、ということだ。
特に、ここぞという肝心な時に忘れがちである。
ここぞという肝心な時におのれのヘタレぶりを忘れる、自分はそこそこ出来る奴なんじゃないか、誠実な努力家で私欲の薄い至極まっとうな大人なんじゃないか、そう思っている瞬間があるのである。

少なくともわたし自身にはそういう瞬間が時々あると思われる。
だから最近は、たまに自分がいかにヘタレであったかということについて、かなり意識して思い出すようにしている。

いや、人生におけるここ一番の大勝負というような場面においては、自分に対する根拠のない自信を持つことはある程度重要であるとは思う。
しかしそれはあくまでも緊急時のターボブースト的な心のありようだ。
人間は人生の大部分の日常生活においては、おのれのいかにヘタレであるかをしっかりと受け止めて生きた方がいろいろと間違いが少なくて済むと思うのである。

人類一般がヘタレであるというのは、例えばイチローや本田圭佑などの一流アスリートのような人々だってそうである、という意味である。
これはわたしの勝手な想像であるが、イチローや本田圭佑もそれなりに怠け者で、ワガママでこらえ性のないヘタレ成分をそれなりに持っているのだと思う。
しかし彼らのような人々は自分のヘタレぶりをしっかりと受け止めている、自分の弱さを真正面から捉えている、そうやってヘタレな自分をよく理解して、ヘタレなりに自分を奮い立たせる術をわきまえているのではないか。
そういう気がする。

しかし多くの凡人は自分のヘタレを棚に上げがちである。
自分の弱いところ、みにくい部分を出来れば直視せずに生きていたい。
それもある種のヘタレ成分といえばそうだろうが、それが勝ち過ぎると人間の進歩が止まってしまうような気がする。

まあ、どこかの個人がおのれのヘタレであることを棚に上げてひっそりと生きている分には別に構わないのかもしれない。
問題は他人に対して「まったくヘタレでない真人間」としての振る舞い、行動を強要してしまうことである。
自分がヘタレであるのとほぼ同様に、目の前のその人もヘタレなのである。
そのことを忘れると話がややこしくなるのである。

相手が聖人君子のパーフェクトヒューマンである前提でいろいろと要求すると、その相手は、本当はパーフェクトではないからとても要求に応えられない。
そういう状況が続くと要求するこっちも要求されて応えられない相手もとてもストレスが溜まる。
イライラが募る。
誰彼構わず八つ当たりしたくなって暴力的になったりする人も出現する。

国の偉い人がそういう状態になると、それがもとで戦争が始まったりする。
というのは、筆が滑って今適当に書いた、適当な文章である。

いずれにせよ、すべては自分のヘタレぶりを直視し素直に認めることから始まるのである。
そして目の前の相手のヘタレぶりも広い心で受け止めて、ヘタレなりのがんばりを認めてあげることだ。

世界の平和はそこから始まる。
ラブ・アンド・ピース。
もうすぐ新しい年がやってくる。
(意味不明ながら今日はおしまい)
posted by ヤス at 10:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月28日

ことだまと忌み言葉

結婚式のスピーチなんかでは「切れる」とか「別れる」とかいう言葉を使うと怒られるらしい。
いわゆる忌み言葉というやつだ。
だいぶん前に出た誰かの結婚式で、忌み言葉を連発するスピーチをする人がいて、そのスピーチは面白くて他の人にもかなりウケていたと思う。
しかし結婚式の出席者の中にはそのスピーチを苦々しく聞いていたおじさんやおばさんもいたのかもしれない。

忌み言葉の背景には、日本に古くから存在するとされる「ことだま信仰」というのがある。
縁起の悪い言葉を口に出すと、その言葉が現実世界に影響して悪いことが起こる。
だから縁起でもないことは言わない。
言ってはいけない。
そういう文化というか、空気感がこの国の伝統としてあるそうだ。

「ことだま」が存在する背景には、アジアモンスーン気候の中で自然環境に恵まれたことも影響しているのだろう。
一年の大部分は温暖で、雨も適当に降るし、森も海も豊か。
たまに台風が暴風雨を運んできたり、冬の一時期に豪雪に見舞われたり、突然地震に揺さぶられたりという自然災害もある。
ただそういう自然災害も、目をつぶって両手を合わせて八百万の神に祈祷していると、やがて過ぎ去り、またいつもの穏やかな日常が回復する。

そこのところが、例えば砂漠地帯に生きてきた民族なんかとはだいぶ感覚が違うと思う。
砂漠の民は水を探し求めて地中深く井戸を掘り、狭い痩せた土地を耕したり狩猟や牧畜に精を出してやっとの思いで食料を確保してきたのだと思う。
そういう過酷な土地では人間の思想は能動的にならざるを得ない。

一方豊かな自然の恵みの中で歴史を刻むと、その民族の精神的傾向に受動性が強くなるのも止むを得ない。
黙っていても自然が恵んでくれる環境では、何か問題が起きても首をすくめてやり過ごすとそのうち凶事は去っていく。
そういう環境で長くやってきた中で「ことだま信仰」は根付いてきたのだろう。

でも日本列島の置かれた立場はひと頃とはだいぶ変わった。
そのきっかけは織田信長の頃か江戸時代か明治以降かはよく分からない。
とりあえず今現在は全地球的な国際社会というのが出現していて、その中ではこの国の底に流れている精神文化の受動性が、思わぬつまずきの元になることが時々あるように見える。

これからは縁起の悪いこと口に出したとして、どのおじさんもおばさんも顔をしかめないような、そういう世の中になった方がいいような気がする。
その辺の問題は大震災時の原発事故でも露呈したし、日本の防衛問題でも例えば核武装の是非についてはもっとオープンな議論があってしかるべきだと思う。
縁起でもないことを口に出してその備えをやっておく、そういうメンタリティが国際化した世界ではもっと必要な気がする。

それでそのうち結婚式の忌み言葉を誰も意識しなくなる日が来るのか、ということだけれど、その辺は全然よく分からない。
posted by ヤス at 12:05| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月27日

インプットとアウトプットを憶える

自動車のエンジンのメカニズムを理解していなくても運転はできる。
テレビの中に仕込まれている電気回路が分からなくてもテレビの視聴はできる。
自動車とかテレビとか現代にはおそろしく複雑な仕組みを持った機械や道具があふれているが、それらの内部構造のことを知らなくても使いこなすことはできるのは、まあ当たり前だ。

というか、考えてみるとこの世の中は機械や道具に限らず案外複雑なモノやコトが多い。
会社勤めのサラリーマンの給料金額が決定される仕組みとか、昇進や出世する時に誰が何を考えどのように意思決定しているのかとか、そういう社会構造的なコトだってかなり複雑なのである。

特に現代は人類の使用する機械や社会構造はひと頃よりますます複雑化している。
ちょっと前の江戸時代の社会でも、使っている道具も社会もネアンデルタール人の時代に比べるたら比べ物にならないくらい高度で、わけが分からないくらい複雑なのに違いない。

ただ前述のように、人類は高度化し複雑化したモノやコトの内部構造を完全に理解する必要はない。
つまりどのスイッチを押したらその次にどういうことが起こるか、そのようなインプットとアウトプットのいくつかの組み合わせを憶えておくだけで、高度化し複雑化したモノやコトをある程度使いこなすことができる。

というか人間というのは、どこかの偉い人が発明した複雑なマシンの内部構造を理解しようなんて、端から思わないものである。
たいていは取扱説明書をナナメに読んで、アクセルを踏んだら前に進むのね、ブレーキを踏んだらギュッと止まるのね、とか憶えるだけである。
最近は取扱説明書を読むのも面倒なのでそういうのを読まなくてもパッと見で使い方が分かる、人に優しいインターフェースの携帯電話がよく売れたりする。

現代に生きる99%くらいの人類は、世の中の複雑なモノやコトの内部構造にはあえて触れないで「インプットに対するアウトプットの関係」だけをひたすら憶える。
そして物好きな1%くらいの人がある分野の内部構造にオタク的に詳しくなって、そういう人は時々「専門家」と呼ばれたりする。

しかし世の中の森羅万象の専門家になれるほど人間の脳力は偉大でもない。
たいていの場合はある法則性を持って現れるインプットとアウトプットの関係をひたすら憶えるだけだ。

そして世の中が変わると、インプットとアウトプットの関係が思いがけないものに変化することがあったりする。
コトによっては、この変化は人間にとって大きな恐怖になりうる。
だからインプットとアウトプットの関係性はできれば永遠であってほしいと無意識に思ったりする。
そういうものではないかと想像する。

しかし現代に生きる人類は、時々は脳みそを振り絞って複雑なモノやコトの内部構造をみんなして掘り下げねばならないことがあるのではないか。

そうすると機械的なインプットとアウトプットの関係の上に生きていたのが、いくらか能動的に生きることにつながって、いくらか精神的にすっきりする、そういうことがあるのではないかとなんとなく考えたりした。
posted by ヤス at 12:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月26日

日経平均が下がったことなど

昨日の日経平均が終値で1010円安の19155円74銭となり、1年3ヶ月ぶりの安値をつけたらしい。
今日は一時300円を超える回復を見せたが、昼前の時点で86円高の19241円くらいになっている。

とはいうものの、日経平均が好調だった時にもわたしにはさしたる影響はなかったので、おそらく株価が少々下がったところでなんの悪影響もない。

わたし的にはむしろ円ドル相場の方が気になる。
アメリカの株安を受けてということなのか、このところ少し円高が進んだ。
他方で原油相場も下落している。
そしてたぶん数日前から、ガソリンの値段が安くなっている。
この間の土日に関西方面を走り回っていたら、レギュラー・リッター129円という看板も出ていて少し驚いた。

わたしとしては「円相場」にはもう少しがんばってほしい。
できれば1ドル90円くらいになってくれるとガソリンもさらに安くなるだろうし、ひょっとしたら来年の新型iPhoneの日本国内価格も多少安くなったりするのではないだろうか。(来年にiPhoneを買い換えることはないと思うが)

ただ円ドル相場と日経平均株価は負の相関関係にあり、円高になると日経平均は下がる。
さらに円が高くなって輸入物価が下がると、いわゆる「デフレ」の悪夢が再燃することになるのだろう。
しかし「デフレ」状態では、名目賃金がそのままで実質賃金が上がることになるので、わたしのような何の資産も持たない貧乏人にとって、状況として非常に好ましい。

今、ニューヨーク株価や日経平均や原油価格が下がっているのは、素人の想像によると、世界的な「金融緩和時代」が終わっていることを示しているのだと思う。
だぶついていた資金が株や原油やその他のいろんな投資先に流れ込み、それらの相場が一時的に嵩上げされていたのであろう。
それが、FRBのあの地味な議長(パウエルさんという人らしい)がトランプの猛反発を押し切って金利を引き上げに掛かっており、また日本の緩和政策もだんだん手詰まりになってきている。

そんなこんなで嵩上げされていた資産価格が、今になって少し調整に入ったということなのだろうと個人的に勝手に解釈している。

そういえばもうひとつ「株下げ」の大きな要因があった。
米中貿易戦争の激化だ。
ファーウェイのCFOがカナダで逮捕されて、米中貿易戦争がだんだん本格的な「戦争」に近づいているように見える。
来年以降、通信の5G規格の導入が世界的なイベントとして予定されており、高速通信のもたらす技術革新が世界経済の盛り上げにひと役買うことが期待されていたわけであるが、新規格の中心にいたファーウェイが西側通信業界における「禁制品」になったことで、5Gがどうなるのかもよく分からない。

ということで2019年は今年に増して激動の時代になりそうで、不謹慎だが少し楽しみにしている今日この頃なのであった。
posted by ヤス at 12:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月25日

エスカレーター片側空け問題

ネットニュースでエスカレーターの「片側空け」見直し論を見た。
エスカレーターの片側空けの習慣が日本で広まったのは比較的最近だと思っていたが、いちばん最初に始まったのは1944年のロンドンの地下鉄だと記事には書いてある。
1944年のロンドンというと、第二次世界大戦でイギリスはドイツと戦争の真っ最中だ。

ただ一時期イギリス攻略を目指して行われていたドイツ軍によるイギリス本土空襲は1944年には一段落しており、この年の6月にはノルマンディー上陸作戦が行われて米英軍による本格的な反攻が始まっている。
この当時のドイツのロンドン空襲手段はV1ロケット=飛行爆弾になっていて、パルスジェットエンジンを背負った現在の巡航ミサイルのようなV1が、唸りを上げてロンドンにさみだれ式に打ち込まれていた。

1944年のロンドン地下鉄のエスカレーターで片側空けが始まったのには、あるいはV1ロケットによる空襲の影響があったのだろうか、とも思ったのだが、その辺の詳しい状況はネット記事では当然まったく触れていない。

話がだいぶそれた。

エスカレーターの片側空けの問題についてである。
わたしの個人的観察だと、この最近エスカレーターの開けられた右側、もしくは左側を急いで歩く人は若干減ったのではないかという感じがする。
このところたびたび「エスカレーターは本来歩いてはいけない」ということがメディアなどで取り上げられるようになり、みんな少しは遠慮するようになったのかもしれない。

エスカレーターの空いた片側を歩く人がいることで毎年けっこうな数の転倒事故が発生していて、359件(03〜04年)から1023件(13〜14年)と増え続けているらしい。
世の中年寄りは増えているし、黙っていてもエスカレーターが勝手に自分を運んでくれるのだからその上をさらに歩くこともないだろう、と思うが、それでも人の隙間を縫って急ぎ足でエスカレーター上を駆け抜ける人はいる。

人間というのは不思議な生き物で、これは自動車を運転している時でもそうだが特に何時何分何秒までに目的地に着かないといけない、という用事があるわけでもないのに先を急ぐ。
ハンドルを握って道路を走っていても、つい物理的に最大限可能な速度を出そうとする。
歩いているときはクルマと違って脈も上がるし脚もしんどいのでのべつまくなしに走る人はいない。
しかしエスカレーターに載ったときは「ここでさらに自分の歩きを足したらもっと速く動ける」と思って人は歩くのだろう。

人間の脳みそには速く動くことに快感を感じる部位があるのではないか、と思ってもみたくなる。

エスカレーターの「片側空け」習慣を止めて歩く人をなくすのは、多くの人々の行動習慣を変える必要がありなかなか難しいと思う。

ひとつの案として、たまに道路の歩行者信号に付いているような「渡らないでね、信号は赤だよ」みたいなアナウンスをする装置をエスカレーターに付けて、歩いている人を感知したら「歩かないでね、エスカレーターの上は歩いちゃだめなんだよ」みたいに機械がしゃべるといいのではないだろうか。

などと思ったりもしたが、数年後、特に東京オリンピックの頃までにこの問題が改善されるのかどうか少し興味があったりする。
posted by ヤス at 10:45| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月24日

国際捕鯨委員会脱退について

日本政府は、明日にもIWC=国際捕鯨委員会からの脱退を表明する見通しであるらしい。
商業捕鯨の再開提案をする日本側と現在行われている調査捕鯨のやり方に批判的な反捕鯨国との間で議論が膠着状態に陥っているという。

今年9月のIWC総会で、日本の商業捕鯨提案が否決されたのが脱退決定の直接の引き金になったとニュースに書いてあった。

クジラの肉といえば、小学校の頃の学校給食によく出ていた。
日本の商業捕鯨が中止になったのが1988年だというから、それより前にはそれなりにクジラ肉は市場に流通していたのだろう。
給食のクジラ肉は、だいたい四角く切ったサイコロ肉を竜田揚げとか佃煮とかにしてあって、もう昔のことなので肉の味もよく憶えていないが、固くてそんなにおいしいものではなかった。

日本の捕鯨業界は、戦前に南極海周辺に進出するまでになっていたが戦争で一時途絶していた。
そして敗戦後の食料不足時代にマッカーサーの提案で遠洋捕鯨が再開され、以降しばらくの間、日本人にとって肉といえばクジラ肉というくらいの存在になった時期があったのである。
なんでも1964年に捕鯨量は最高潮に達し、年間2万4千頭も捕ったという。
わたしの小学校時代である1970年代は、その時代の最後の端っこの方に位置していた訳で、もうこの時代には一般庶民でも普通に牛肉やら豚肉やらを食べることができるようになっていた。

固くてちょっと臭みがある鯨肉は、本来ならそのままフェードアウトする存在だったのだと思う。
確かに、1980、90年代に反捕鯨国が日本の商業捕鯨に激しく反対するニュースなんかを見たときは、わたしも日本の「捕鯨の伝統」になんでそこまで横ヤリを入れられなきゃならないのか、と憤りを感じたこともあった。

しかし日本で伝統的に行われていた沿岸捕鯨とかでも、当時の絶対的なタンパク源不足を穴埋めする「生きる手段」であった訳で、その事情は戦後の遠洋捕鯨も同じ構造なのだと思う。

それが現代日本は、事情がだいぶ変わっている。

今日本の調査捕鯨は年間500頭ほど捕獲しており、この辺りも反捕鯨国の厳しい批判のマトになっている。
調査捕鯨は税金が投入されて実施されているらしいが、これが商業捕鯨になったら税金投入がなくなるのだろうか。
そうなったら結果論的に商業捕鯨再開は個人的に喜ばしい話だ。

しかし商業捕鯨が再開しても、おそらく商業的理由により長続きはしない。
現在の日本人はほとんどの人がクジラを食べないし、試しに食べてみたところでいきなりステーキの方が美味い、と言うに違いないからだ。

そんなことで、日本の捕鯨に引導を渡す商業捕鯨再開は、ある意味結果オーライなことなのではないかと思ったりしたのである。
posted by ヤス at 14:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月23日

ゴーン氏再々逮捕

先月逮捕されカルロス・ゴーン氏が、2度目の再逮捕で拘留延長になった。
その前に東京地検特捜部の拘留延長請求に対して、東京地裁がこれを棄却するというかなり異例の展開があって、この展開へのかなり強硬な対抗手段として特捜部の再々逮捕が行われた、ということのようである。

特捜部としては年末年始にかけての「越年取り調べ」でゴーン氏またはケリー氏の自白を引き出し、この一件を仕上げようと考えていたのだろう。

しかしこのような長期拘留による「自白の強要」スタイルは日本独自のものであって、欧米人から見ると人権無視、推定無罪原則無視の相当に野蛮な捜査方法に映っているらしい。
フランスでもゴーン氏の強欲ぶりに対する批判の声は大きいようだが、報道によると同時に日本の野蛮な捜査方法に対する批判の声もだんだん高まっているようである。

再々逮捕前に出された東京地裁の異例の拘留延長請求棄却は、このような国際世論に配慮したものである、という解説記事も流れている。
だとすると日本の司法の自立性もへったくれもない話だ。

しかし東京地裁が国際世論を気にし始めているのは本当のところではないか、という気がする。
一方で攻勢を強める東京地検特捜部の方は、おそらく海外の批判は眼中にない。
だからこそ再々逮捕までして拘留延長し悲願の容疑者自白を目指したのだろう。

今回の再々逮捕はリーマンショック時の18億円ほどの損失付け替えに関する件で、一説には時効が成立している可能性もささやかれている。
報道から漏れ聞こえる損失付け替えの内容はなるほどかなりあくどいものであるが、特捜部はかなり無理をしている気もするのである。

このまま行くと、海外(特にフランス)におけるゴーン氏の強欲批判より、日本の司法批判の声の方が大きくなったりするのかもしれない。
また、ゴーン氏もケリー氏も依然として日産の現取締役であり、代理が立てられているとはいえゴーン氏はルノーCEOに留まっている。
会社役員としての権能を依然として保持している。

本能寺の変で信長を討った明智光秀は10日あまり後に秀吉にほろぼされる。
今回の一件でも日産社長以下、秀吉を待ち受ける光秀の心境なのではなかろうかと想像する。

20の日には韓国軍駆逐艦が自衛隊のP1哨戒機にレーダー照射をしたりという事件があった。
日本の司法制度の後進性を思うと、欧米人がなんでも正しい訳ではないのだろうが、アジア的後進性のようなものがこの一帯に依然として根深いのかな、などと思ったりする。
posted by ヤス at 13:35| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月22日

羽生善治ついに無冠になる

昨日、将棋の竜王戦七番勝負の最終第7局が終局して挑戦者の広瀬章人八段が羽生善治竜王を破った。
その結果27年間なんらかのタイトルを保持し続けていた羽生さんはついに無冠の人になった。
昨日の対局は、もし羽生さんが勝てばタイトル獲得が前人未到の通算100期、反対に負ければ無冠になるという、文字通り天国か地獄かの大一番として話題になっていた。

今回龍王位を獲得した広瀬章人八段は、レーティングサイトの数値評価を見ても分かる通り、豊島将之二冠とならんで最強の呼び声が高い。
昨年度末の朝日杯では怪物・藤井聡太に決勝で敗れはしたものの、今期になってからはかなり安定して強さを発揮している。
ひょっとしたら、前回藤井聡太に負けたことが何らかの発奮材料になって今期の好調につながっているのかもしれない。

それでとうとう無冠になってしまった羽生善治さんの件である。
現在羽生さんの「呼称」をどうするかが日本将棋連盟で議論されているらしい。
普通に行けば「羽生九段」と呼ぶことが自然である。
しかし将棋界の八大タイトルのうちの最上位とされる「名人」「竜王」は「前名人」「前竜王」という呼称が公式に認めれられているのだそうだ。
だから羽生さんは当然「羽生前竜王」だろうとか、いやいや羽生さんならば裸一貫から出直す意味ですっきり「羽生九段」を希望するのではないか、とか、外野はいろいろ賑わっている。

わたしは羽生善治という人物は、数いる有名人の中でもっとも尊敬している。(無論間近に見たこともないが)
よく考えたら年齢はわたしより少しだけ若いが、偉大なる人生の先輩のような感じがする。
羽生さんは将棋が強いのはもちろんなのだが、それ以上にものすごく理知的なのである。
この場合の理知的の意味には、論理的とか科学的とかいう意味もあるし、精神の安定性とか強靭さとか情動的な要素も多く含まれる。

羽生さんは人工知能とか生命科学とか自然科学一般にも非常に博識だ。
そういう興味の守備範囲の広さも非常に素晴らしく、魅力的なのである。

羽生さんはとりあえず27年ぶりの無冠にはなったけれど、現在名人戦のA級順位戦で豊島八段の次点に付けている。
次局は豊島さんとの直接対決、さらに順位戦最終局は新竜王の広瀬戦。
ここでふたつ勝つといよいよ名人挑戦。
これは非常にドラマチックな展開だ。

羽生さんには是が非でも順位戦を勝ち上がって佐藤天彦名人との七番勝負を戦っていただき、無冠からの名人獲得でタイトルホルダー返り咲きという劇的展開を実現してほしい。
posted by ヤス at 12:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月21日

「いずも」空母化の理由

次期中期防衛計画の大綱が18日に閣議決定されて、その中でF35A戦闘機の追加取得と対潜ヘリ搭載護衛艦「いずも」の空母化(「多用途運用母艦」になるらしい)が盛り込まれたのがニュースになっている。
F35Aは、従来は42機の購入が計画され現在調達中である。
この42機は老朽化著しいF4EJ(改)ファントム戦闘機40機の後継ということになっている。
ファントム戦闘機は1960年から運用が始まりベトナム戦争で活躍した飛行機であるが、ご当地のアメリカでは今から32年前の1986年に全機退役している。

日本の航空自衛隊には他にF15Jイーグルが約200機とF-2A支援戦闘機が94機いる。
今回の防衛大綱でF35Aは42機取得の計画を147機にするという。
増えた105機分は、たぶんF15の代替なのだろう。
国内に約200機あるF15は前期型と後期型がいて、前期型は機内の電子装備がひと世代古い規格で製造されているのだという。
F15は導入から40年近く経っていて順次近代化改修も行われているが、前期型の100機は機内配線を総取っ替えして改修するとべらぼうな予算が要るらしい。
だから自衛隊では改修を諦めて新型機への転換を以前から計画していた。

それが今回の防衛大綱で正式にF35Aに決まったということで、この動きは従来からの既定路線に沿ったものだ。

あとはF-2Aの後継がどうなるか、というのがかなり大きな問題である。
代替新型機の純粋国内開発を叫ぶ声が大きい。
しかしそれには数兆円規模の予算が要る。
だから現実は既存機の購入か外国との共同開発になる。
しかし日本の立場からはイギリスなどと組んで共同開発ということにはならない気がする。
あくまでも開発パートナーはアメリカになるに違いない。

いずれにしても少なくない開発予算が掛かることは避けられない。

あと「いずも」の空母化であるが、これは現実の戦力的意味よりも多分に政治的精神的象徴としての意味合いが多いようだ。
大綱ではあくまでも通常型のF35Aを105機追加することになっていて、注意書き的な感じで「42機については垂直着陸のできるF35B型への転換もできる」みたいに謳っている。

F35Bはイギリスの新型空母への搭載とアメリカ海兵隊での運用を主眼に開発された「特殊機」だろう。
だから搭載量や航続距離が通常型より落ちる割には値段が高い。

これを自衛隊で買うという。
これは想像だけれど、F35Bはこのままだと製造機数が少なく量産効果が働かず値段が高止まりしたままになるので「いくらか追加で買わないか?」とアメリカから打診があったのではないか。
ただ陸上基地に配備するだけならF35Bは不要である。
F35Bを買うためには「空母に搭載する」という理由づけが必要である。
という後付け的な理由から「いずも」を空母化するのではないか、という気がする。

「いずも」の空母化は、予算不足で四苦八苦している海上自衛隊はどちらかというと反対だったらしい。
それを自民党の某議員の提案で強行したというのがニュースになっている。

この調子でいくと日本の防衛予算は順調に増加の一途をたどるのは間違いなかろう。
予算をかけて自衛隊が強くなるのならまだ救われるが、ただ予算をかけることが自己目的化してはいないか、そういう心配がたいへん強いのではないかと思ったりするのである。
posted by ヤス at 08:01| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月20日

歯磨きの評価

歯医者に定期的に通い始めてもう2年近くになるかもしれない。
病院嫌いのわたしが2年弱前に久しぶりに歯医者に行ったその訳は、別に歯が痛くなったからということではなくて、なんとなく歯がキレイに磨けていないなあという懸念を、ある時突然に抱いたからである。

芸能人は歯がイノチだというけれど、一般人だって歯は大事だ。
歯周病が原因で心臓関係の病気になる、みたいな噂も聞くし、歳取って歯が抜けて総入れ歯になったりした自分を想像するとあまりぞっとしない。

そういえばずいぶん前に亡くなったじいちゃんは、目の前で突然思い出したように入れ歯を口から出して、しばらく口をモゴモゴして整えた後に入れ歯を再度セットするという謎の行動をしばしばやっていた。
アレを見かけるたびに子どもだったわたしは内心ギョッとして、しばらく無言でその謎の行動を観察したものである。

わたしとしては、ジジイになった時にそんな行動は取りたくない。

そういう思いもあって、ちょっと前から自分の歯並びの悪い口の中をかなり気にはしていた。
それで東急ハンズで口の中を覗く丸い小さいミラーを買ってみたり、フロスや歯間ブラシで磨いてみたり、だんだん気をつけるようになった。

そうやって気をつけて、あんぐり口を開けてミラーで歯の裏側とかを観察していると、やっぱり磨き残しが原因の歯石が付着しているのが見えたりする。
なんだか汚い話ではあるが。

一回気にし出すと、寝ても覚めても口の中の衛生状態が、もう事あるごとに思い出されてなかなか落ち着かないのである。
そういう心理状態もあって、2年弱前に自宅から徒歩30秒ほどの場所にある歯医者の門を叩いた。

歯医者では口の中の基本的な掃除をしてもらう他に「右の下側に磨き残しがあります」とか「左の上の奥は念入りに」とかの指導を受ける。
わたしは指導を受けるたびに、歯科衛生士のお姉さまの言葉を忠実になぞって、日夜歯磨きをがんばるようになった。

その結果、数日前に歯医者に行った時には歯ぐきの出血一箇所、磨き残しは無くほぼパーフェクトな磨きっぷりだという評価をいただいた。

こういうのは、自分だけでせっせと歯磨きしていてもちゃんと出来ているのかどうか判断は難しかろうと思う。
そこはやはり歯医者さんの指導と客観的な評価を得てこそ、自分の歯磨きが正しかったかどうかが分かろうというものである。

ということで、ちょっと嬉しかったので歯磨き自慢をしてみましたとさ。
posted by ヤス at 11:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月19日

宿題の儀式

小学校の時の宿題というのは、おそらく低学年のときにはそんなに出なかったのだと思う。
本格的に宿題が出始めるのは何年生くらいからだったのか。
今となってははっきり思い出せないけれど、少なくとも小学校5年生とか6年生とか高学年になると毎日のように宿題が出ていた気がする。
それでわたしはその当時からある種の合理主義者だったので、宿題をせずに学校に行くということをよくやっていた。

朝、宿題をせずに家を出て学校に向かう時のドキドキ感を今思い出そうとしている。
たぶん、そんなには小さくないプレッシャーを感じていたのは間違いない。

授業が始まって先生が宿題の確認をする瞬間がやってくる。
「宿題をやってきていないやつはちょっと立て」みたいなことを先生が言うのである。
わたしは諦念の相を顔面いっぱいで表現しながら、軽く目を閉じつつ、そっと椅子から腰を上げる。
先生は順番に「なんで宿題してこんかったか」と聞いて回る。

だいたい「宿題をしてこんやつ」はメンバーが固定していたのだと思う。
10人くらいのコアメンバーのうち、1人か2人不動の主軸レギュラーがいてこいつらはほぼ毎回のように宿題をやってこない。
あとのメンバーは時々やったり、やらなかったり、気まぐれなのである。
わたしはそういう気まぐれグループの一員くらいのレベルだったと思う。

先生が宿題をやってない理由を順番に聞いて、だんだん自分の番が近づくと心臓がどきどきしてくる。
どきどきしながら「なんて言おうかな」とか考えている。
それでいよいよ自分の番が来たらほぼ毎回短く、

「忘れました」

と答えていたのだと思う。

「忘れました」とは考えてみると、宿題をやってこなかった理由としてはかなり不思議な答えだ。
宿題の存在自体をついうっかり忘れていたのか、宿題はやったけれどそのノートなりの成果物を自宅に忘れたのか、そこのところの説明はぼんやりしてよく見えない。
本当は「昨晩は気分が乗らなくて面倒くさかったからやんなかったんだよ」と言えば正直で良いと思うのだが、そう言うと追求する先生側に追加でいろいろとわたしに対する指導項目が増えて忙しいことになるだろう。

だからシンプルに「忘れました」とぼんやり説明すると、先生も「次からは忘れるなよ」と指導して一件落着、「宿題の儀式」を通じてわたしはすでに激烈なプレッシャーを感じており、その意味で禊(みそぎ)は済んでいるとも考えられる。

学校時代の宿題の確認について言えば、そのやり取りはある種の「お約束」がいつの間にか成立していて、たまに本気で宿題をやってこない理由を追求する熱血先生がいたりすると「めんどくせえ先生だな」とかいうことになる。

でも本当は、義務としての宿題を出すのなら宿題をやらない生徒に対する追求はもっと真剣に行われるべきだっただろう。
でも現実問題、宿題の完全履行を実現しようとするととんでもない労力が掛かる。
だから宿題は前述のようにある程度儀式化することは避けられない。

最年少プロ棋士の藤井聡太七段は、学校で「なんで宿題をやる必要があるのか」を先生と議論したらしいけれど、学校時代のわたしにそのような真面目さが少しでもあったなら、その後の人生にも少し変化があったのではないか、とか思わないでもないのである。
posted by ヤス at 08:37| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月18日

体重のコントロール

季節は12月、12月といえば冬、冬といえばマラソンだ。
ということで、マラソーンシーズンの到来を迎えあいかわらず体重を落とすのに苦労している。

この間はライザップが経営的に「結果にコミット」できなかったために社長が会見で謝罪していたけれど、そのライザップも本業のトレーニングジムは堅調であるようだ。
そのライザップのウェブサイトを見ると料金が載っている。
「シェイプアッププログラム」が29万8千円、「シェイプアッププログラムプラス」が49万8千円、ベアシェイプアッププログラムが39万8千円となっている。
それぞれのプログラムの内容や差異がどうなっているのかはよく分からないが、少なくともライザップに通うお客さんは自らの肉体改造に対し金銭換算で30万円とか50万円とかの価値を認めているわけだ。

ことほど左様に肉体改造というか、痩せることに対しての人々のニーズは根強いのである。

世の中に何十万円も払うお客がいるほどのダイエットビジネスが成り立つのは、現代文明のもとでは人間は放っておくと体重が増えるようになっているからなのだろう。

わたしは今はそこそこ痩せているし、物心ついた頃からそんなに太っていたこともない。
たぶん太りにくい体質なのだろう。
しかしそんなわたしでも、それなりのおじさんになって運動もせずに漫然と生きていると太ってくる。

最初にそれを体験したのは30代前半にサラリーマンを辞めたときで、ブラック企業から開放されて安心してのんびりしていたら急に太り始めて7〜8kgぐらい体重が増えた。
わたしがマラソンを始めたのはそれがきっかけである。

その後もマラソンから遠ざかったり、ストレスのたまる仕事をしばらく継続したときなどはもれなく体重が増えた。
わたしの経験から言うと、運動不足とストレスフルな生活サイクルは体重増への近道である。

マラソンから遠ざかって太るのは、運動不足によるカロリー消費量の減少というよりもマラソンを走らないことにより体重コントロールの意識が希薄になって油断して食い過ぎるということだと思う。

ストレスフルな生活習慣も同じことで、やり場のないストレスが暴飲暴食を誘発する。

デブにならないためには、突き詰めるところ必要以上に食べない、ということ以外に解決策はないのである。
そして必要以上に食べないことは、想像以上にストレスが溜まる。
ダイエットに際して食べないことのストレスが発生することは避けがたいわけであり、そのストレスを上手く逃がすことが成功への近道のような気がする。

自分の体型をコントロールすることは精神状態をコントロールすることでもあるのである。
そう思うとダイエットで何十万、という商売の成り立ちも分かるような気がする。
posted by ヤス at 14:57| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月17日

クリスマスソングを聞かない気がする

気がついたらもう12月も半分を過ぎた。
先週金曜日までは12月前半だったのが、今日月曜日はもう後半戦に突入している。
ということは、当たり前だが2018年または平成30年も残すところ半月足らずということになる。
しかし特に今年の場合は年末の感じ、もしくはクリスマスの雰囲気とかを感じない。
そういえば何年か前までは、今の時期はしつこいくらい街中にクリスマスソングが流れていたと思うのだが最近聞かない気がする。

山下達郎とかマライア・キャリーとかWham!とか(ちょっと情報が古い)とかのクリスマスソングを聞かなくなって久しい気がする。
これはわたしだけの特異現象なのか、それとも最近のクリスマスソングは最近の歌手の曲にすっかり代替されていて、おじさんの耳の可聴域に入ってこないだけなのか。

それでパソコンでググってみたが「最近クリスマスソングを聞かない」というたぐいの情報は特に見つからなかった。
ただひとつ気になるネット記事が目に入って、それはハフポストの掲載記事で「クリスマスソングが心の健康に悪影響を与える」という内容のアメリカの研究内容を伝えるものだ。
その記事によるとアメリカの心理学者の研究で、クリスマスソングを聞くと知人にプレゼントを買ったりパーティーを開かないといけないことを思い出して、それがストレスになるんだそうだ。
また小売店では客や店員は一日中クリスマスソングを聞かされて「マラソンと同レベルのストレス」を与えられているという結果もあったらしい。

また調査に参加した買い物客の88%は心拍数が毎分100回を超えていたともいう。

この研究結果って、ほんとうに妥当なのだろうかという気がしないでもない。

アメリカの研究はともかく、最近クリスマスソングを聞かない感じは確かな気がする。
わたしはこれでもちょいちょいイオンモール岡山とか駅地下とかふらふらすることがあるし、先週にもその辺をふらふらしたわけであるが、そういえばクリスマスっぽい雰囲気が記憶にちっとも残っていない。

これは単に世の中のクリスマス演出がわたしの中に入って来なくなった個人的問題なのか、それとも実際に世の中のクリスマスの盛り上がりがなくなっているのか、今週どこかで確かめるためにまた街へ出かけようかと思う。
わたしはいつの間にかクリスマス不感症とかイベント無関心症候群とかの病的状態に陥っていたのではないか、という不安を抱きつつ、そうでないことを今祈っている。
posted by ヤス at 13:20| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月16日

paypayキャンペーンについて

paypayの「100億円あげます」キャンペーンが予定の来年3月よりずいぶん前倒しで終了したことがニュースになっている。
わたしは不覚にもこのキャンペーンのことを事前に知らず、始まってしばらくしてから気がついた。
それでああそんなことをやっているのかと、iPhoneに赤い「P」の字が燦然と輝くpaypayのアプリをインストールした。
それでどの店で使えるのか見てみたら、コンビニはファミマだけ、あとヤマダ電機やエディオン、ビックカメラなど家電量販店はほぼ網羅している。
それ以外では居酒屋チェーンなどがいくつかとタクシー、ホテル関係が数件という感じで、わたし的にはあまり御利益がありそうにないと思った。

それで、アプリをインストールしたらサービスで500円分のポイントがついたのでファミマでなんか買おうかなとか考えていたら、おとといだったか「paypayのキャンペーン終わりましたね」と知り合いに言われた。

本来4ヶ月かけて配る予定だった100億円(分のポイント)が10日で終わったらしい。
この10日間都会の電器屋なんかはポイント狙いのお客がワッと押し寄せたらしいのだが、田舎住まいのわたしにはその狂騒はついに聞こえずじまいだった。
ニュースでは、あまりにアクセスが集中して一時システムがダウンする騒ぎも報じていた。

このキャンペーンは果たして成功したと言えるかどうか、論者の間でも議論になっている。

わたし自身paypayの存在自体を知ったのがひと月ほど前のことで、たぶん世の中の多くの人もそんなには認知していなかったのではないかと想像する。
それが多少炎上気味のニュースながら、今回のキャンペーンの件が広く流れて結果としてpaypayの認知度が多少広がったとすればまあ成功したような気もする。

考えてみると、paypay利用可能店舗が先述の通り少ないというのは、まだシステムが大量アクセスをさばくだけの規模に出来ていなくて、それでやむを得ず利用店舗を絞ったのではないかとも想像するのである。

paypayはバーコード決済では国内後発なのでLINEなどの先行組に追いつくために今回あえて炎上覚悟の無理なキャンペーンを催したのではないかとも思ったりする。

今回paypayのキャンペーンはまあまあエキサイトしたわけだが、一方でバーコード決済の実際の利用者は全国民のほんの数%レベルのわずかではないか。
ただその普及速度はよく分からないが今後拡大することだけは確かだろう。

しかしわたしとしてはセブンと「M」で使えないことには話にならない。
そして実際、店舗数も利用者数も多いそれらの店に入ったそれからが、バーコード決済のほんとうの戦いの始まりだ。

paypayとしては利用店舗を増やすのとシステム投資をするののバランス加減が今後かなり難しくなってくる気もする。
posted by ヤス at 15:11| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月15日

現在に集中することについて

朝、ジョギングをしていて思うのだが、今日は10km走ろうとか20km行こうとか思って、いったん5kmなり10km先まで行ってしまうとまたその同じ距離を走って帰らないといけない。

同じところをぐるぐる周回するようなコース取りをすれば好きな時に帰ることもできるのだろうが、同じところをぐるぐる走るのは飽きるし、とりあえず5km先まで出かけてしまったら否が応でももう5km走って帰らないといけないので、自動的に合計で10km走らざるを得ない状況が現出する。
それで心がくじけることをあらかじめ防ぐことができるのだ。
そんなにしんどいなら走らなきゃいいのに、という話もあるわけであるが、これが不思議なことに、走り始める前というのは「今日は100kmだって走れそうだな」という根拠のないやる気に満ち溢れていて、それが走り始めて2〜3kmして脈が上がってくると「なんかしんどいなあ」と感じ始め、4〜5km走って足がだるくなると「こんなに先まで走らなきゃよかったなあ」とか思う。

マラソン本番の時にもたまに思うのだが、42.195km先のゴールを目指して走り始め、最初の5kmくらい終わって今日はなんだか体が重いなあとかいう感じの時に「ああ、残りあと37.195kmもあるのかあ」と絶望的な気分になることがある。
朝のジョギングの時も同じで、左腕に巻いたアップルウォッチを見たら2km走ったとか3km走ったとかが分かるわけであるが、そういう時に「なんだよまだ3kmしか行ってないのかよ、残りはどんだけ長いんだよ」みたいな「はるか遠いゴールのイメージ」が精神をむしばむことがしばしばあるのである。

人類という生物種は、かなり遠い未来を想像し、先に起きる出来事を予測し計画を立てて今日の繁栄を築き上げてきたのだと思うのだが、あんまり未来のことを予測し過ぎるのも問題だなと思うのである。

「はるか遠いゴールのイメージ」が精神をむしばむことに対する対策としては、現在、もしくは手を伸ばせば指先が触れるくらいの近い未来に意識を集中するのがよい。
これは朝ジョギングをしていて体感した感覚だ。
とりあえず5km先10km先の長丁場を意識から外し、踏み出す足の一歩一歩に集中する。
あるいは少し前に見える街路灯とか道端の植樹までの数十mだけを見据えて走る。

かつて君原健二がTVCMで言っていた「次の電信柱までがんばる」のあの感じが、長距離走における精神のゆとりのためにはたいへんに重要なのだ、ということを考えながら今朝もジョギングをしたのだった。
posted by ヤス at 10:32| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年12月14日

宇宙旅行という商売

つい先ほどのニュースで流れてきたが、イギリスの有名な実業家リチャード・ブランソン氏の主催するヴアージン・ギャラクティック社の宇宙船「スペースシップ・ツー」が、飛行試験で高度82kmに到達したという。
国際的には高度100kmからを「宇宙空間」と呼ぶのが一般的(国際宇宙連盟の定義)らしいのだが、アメリカ航空宇宙局では高度80km以上を宇宙空間としている。
したがってスペースシップ・ツーはアメリカ基準では宇宙空間に到達したということになる。

スペースシップ・ツーはこれまでの「宇宙ロケット」の概念に比べるとかなり異質な形態、飛び方をする宇宙船である。
ジェット機を2機横に並べて主翼部分を結合した双胴の機体(母船「ホワイトナイト・ツー」と呼ぶ)のその結合部分に、宇宙に飛び出すシャトル機・スペースシップ・ツーをぶら下げた構造になっている。
シャトル機をぶら下げて母船は普通に飛行場から飛び立ち、高度1万5千メートルで切り離すと、シャトル機はロケットブースターに点火して宇宙空間に飛び出す。
飛び出すとは言っても、シャトル機のスペースシップ・ツーは小型の機体なので燃料もそんなにたくさん積めないのだろう。
適当なところまで行ったらそれでおしまい。
おおよそ6分間ほどの「宇宙飛行」を行なって、あとはスペースシャトルのように滑空して飛行場に帰ってくる。

すごいなあと思うのは、ホワイトナイト・ツーとスペースシップ・ツーのこの組み合わせでそのまま商業宇宙旅行を企画している点である。
旅行の予約受付は10年くらい前から始まっていて700人だか800人だかの予約が入っているという。
お値段は25万ドルというから、日本円で2800万円ほど。
2800万円といえば、お金持ちの道楽の宇宙旅行としてはまずますリアルな数字なのかもしれない。
(わたしに無縁の世界であるのはまちがいないけれど)
計画ではヴァージン・ギャラクティック社は今年中に商業飛行を開始することになっていたらしいが、もう今年も残りわずかなので計画通りにいくかどうか、かなり難しそうには見える。

スペースシップ・ツーは乗客8人を乗せることができるらしい。
ヴァージン・ギャラクティック社では年間500人ほどを「宇宙旅行」に連れて行く計画になっていて、それだと8人ずつ63回に分けて行く感じになる。
1年は51週間なので週1以上のペースである。
8人乗ると打ち上げ1回あたり200万ドル、2億2千万円くらいの売上になる。
それが63回なので年間130億円くらいの売上。

そうやって考えるとまあまあの商売のような気もする。
ただそれだけの飛行を繰り返してホワイトナイト・ツーとスペースシップ・ツーの耐久性は大丈夫なのだろうかという気がしなくもない。
まあ儲かったら新しい機体を追加で作るのだろう。

世の中にはいろんな商売があるのだと思った。
posted by ヤス at 11:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月13日

ぜいたくについて

今、朝マックしながらこの文章をタイプしている。頼んだメニューは期間限定の「超グラコロ」とドリンクMサイズセット、値段はモバイルクーポンを使って440円である。
いつもは350円のセットメニューを頼むので、この朝食はわたしにとっては過分な贅沢だ。貧乏性のわたしが、朝っぱらからこのような贅沢に耽っているのにはそれなりに理由がある。
ちょっと前のニュースで、吉野家の中間決算が赤字になったというのがあった。その時に週刊ダイヤモンドが吉野家社長(河村泰貴という人、アルバイトからたたき上げの安部修仁氏の次の人)のインタビュー記事を載せていて、赤字になった理由とか今後の方針について語っていた。
吉野家は長い間「早い、安い、旨い」を掲げて営業してきたわけであるが、ダイヤモンドの記事の中で河村社長は、現在の吉野家には「早い」を求めるお客は来ないと言っている。
以前までならストップウオッチで30秒計って牛丼が出てくるのを待つお客もいたくらいに「早い」は重要だった。しかし今の客は3分くらいならスマホをいじりながら文句も言わずに待ってくれる。今吉野家に来店するお客はスマホを何分も眺めていられるくらい「時間に余裕のあるお客」になっている。以前のように急いで昼飯をかき込むような人はもう来なくなっているというのである。
狂牛病以前の吉野家は牛丼の一本足打法で超効率的な経営をしていて、上場外食企業の経常利益率ランキングなんかでも常にベストテン入りするくらいに儲かっている会社だった。それがリスク分散のために豚丼やら鍋やらメニューを多様化し、客単価が少し上がったけれどおそらく手間ヒマも原価も掛かるようになって儲からなくなった、ということになっている。
少し想像してみるに、今吉野家がもう一度牛丼一本のスタイルに戻ったらどうなるのか。ふたたびオペレーションが効率化して儲かるようになるかというと、そんなに上手くいかない気がする。それは今吉野家に来ているお客が「早い、安い」を以前ほど求めなくなっているからだ。
河村社長のインタビューでは今の時代に急ぐ人はコンビニに行っていると書いてあった。なるほど最近のコンビニ、特に都心部の店はイートインコーナーを必ず備えるようになっており、時間のない人はそこでパンを頬張るなりカップヌードルにお湯を注ぐなりして数分で食事を片付けるのだろう。
そこでわたしは思ったのだ。今の時代には吉野家でさえある種の「贅沢」を売らないことには経営が成り立たないのだなあ、と。吉野家のような「ファーストフード」でさえ単に空腹を満たすだけの「食事機能」という無機質なモノを売る時代は終わったのだなあと。それで吉野家のように5百円6百円の単位で商売をやっているところが、ただでも人手不足の時代にどうやって「贅沢」を売るか、というのはなかなかの難題のように思うのである。
まあ吉野家は全国チェーンの大企業だからわたしが心配することでもない。
身近にある中小飲食店こそはおそらくもっと精を出して「贅沢を売る」べきなのだと思う。
大量一括仕入れとかセントラルキッチンとか複数店舗でのスタッフの使い回しとか、そういう経営効率化手法が使えない中小店舗は、せっせと贅沢を売って、それを商品単価に上乗せすることしか儲ける手段が残っていないのではないか。
そういうことを考えていた時に貧乏性のわたしは、あらためて考えてみると自分自身が贅沢のなんであるかをよく知らないことに気がついてやや焦った。それで今朝はいつものソーセージマフィンの代わりに超グラコロにアップグレードしてみた。
アップグレードした結果超グラコロでしか得られない満足感を味わえたような気もするし、そうでもない気がする。よく分からない。
まあ一つ思うのは、朝自宅で食パンをかじっていれば百円以下で済んでいただろう朝食代が朝マックすることによって350円から440円ほどもかかるわけだ。ただしその差額2〜3百円の対価としてマクドナルドでののんびりしたひと時を過ごすことが出来ている。これを贅沢と言わずしてなんと言おう。
しかし実際のところ「贅沢を売る」のは口で言うほど簡単ではない。商売人としては贅沢の何たるかをよく理解していないことにはそれを売れない。
「贅沢は敵だ」という標語は先の大戦中に我が国で公式に掲げられた標語だそうであるが、中小の商売が生き残るためには「贅沢を味方」に付けて知恵を絞らないといけない。
本当に、「贅沢」とはいったい何なのだろうか。
本当の「贅沢」を知るために、今度のマクドでは「とろけるチョコクリームでほっとひと息!三角チョコパイ黒」を食べようかな、などと考えている。
posted by ヤス at 11:48| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年12月12日

トライアルの夜間無人営業

福岡が本拠のディスカウントストア「トライアルカンパニー」が、福岡県大野城市の店舗で日本初となる夜間無人の営業をするらしい。
「トライアル」は岡山市東区と倉敷市に1店ずつある。(行ったことはないけれど)

無人化の仕組みとしては、ニュース記事には、専用プリペイドカードをかざして入店しカートに付いた端末で決済するかセルフレジの決済のどちらかでやると書いてある。
トライアルカンパニーのウェブサイトを見ると、この夜間無人店舗「Quick」のニュースリリースが出ていて、そこには「3つの日本初」が謳われている。

3つの日本初︕最新リテール AI を実装
『AI 冷蔵ショーケースを実装し、欠品商品を自動発注』
『夜間無人化を実現』
『キャッシュカードでチャージ出来るプリペイドカードチャージ機を設置』

だそうだ。

またパナソニックと提携して店内にAI(人工知能)搭載カメラ約200台を設置、商品在庫や顧客の行動データなどを自動認識するというのも書いてある。
カメラで撮影したお客の動きを解析して、棚割りとか店舗レイアウトを変えていくのだろう。
お店に入るためにはプリペイドカードを作らないといけないということは、個人情報を把握した人だけが入店できるので、前述のカメラ撮影と合わせて万引きや店を荒らす客に対する抑止が効くということだろう。

プリペイドカードは店内のチャージ機でキャッシュカードからチャージでき、将来はキャッシュカードを介さずにスマホのみで銀行口座からダイレクトにチャージできるようにするらしい。

また店内全商品に「電子プライスカード」を導入しており、例えば賞味期限が近くなった見切り品の処理なんかは、スーパーとかでよくやるような「半額シール」ではなく、電子的にスマートにできるようになっている。

そういうことで現状は22時〜5時までの無人営業らしいが(しかも当面はスタッフが張り付くらしい)そのうち24時間の無人営業になるのかもしれない。

ここまで無人化のための設備投資をして果たして採算が合うのかということだけれど、小売業の「レジ打ち」コストは売上比の2〜4%くらいを占めているらしいのでやりようによっては無人の方が儲かるのだろう。

考えてみると今自分が使っているコンビニなんかは、無人店のセルフレジでも一向にかまわないのだ。
小売店側もそっちが儲かるのならすぐにでも無人店にしたいだろうと思うが、ネックは無人営業のための設備システム、ノウハウと防犯対策である。
トライアルでも当面は棚への商品補充は人間がやるようだが、そのうちドローンやロボットが運んできて勝手に棚に置く時代が来るのかもしれない。

防犯対策に関しては、田舎の「野菜の無人販売所」を想像してみるとそんなに心配するほどのこともないような気がする。

今は夜間無人店が出るだけでニュースになるが、そのうち人間が接客する店は都心の高級店だけ、みたいな時代がすぐ来るのではないか、とコミュ障気味で接客されるのが根本的に苦手なおじさんは密かに期待するのだった。
posted by ヤス at 06:31| Comment(2) | 徒然なるままに