2018年11月30日

紳士服業界の縮小について

今さらの話だが、紳士服業界が市場縮小してたいへんなことになっているらしい。
そういえば、何年か前まではたまに「はるやま」や「洋服の青山」の店に行って何かしら買い物をしていたような遠い記憶があるのだが、ここ最近はそれらの店に通った憶えが全然ない。
最近はワイシャツやネクタイもネットで買う。
ネットで買うそれらの商品は品質も実用上最低限のものには違いないのだろうが、しかしぱっと見の感じ、薄目を開けてやや遠くから観察する限りにおいては、ネットで買った安物であることがバレないくらいの水準には到達している。(と思う)

また本来ズボラで快楽主義者のわたしとしてはスーツにネクタイの格好はまことに窮屈で、そのようなフォーマルな服装で固めていると仕事に身が入らないのである。
また世の中の風潮もクールビズが広まったりカジュアルな仕事の格好がスタンダードになったりして、だんだんとスーツにネクタイ以外の格好で仕事をすることの抵抗がなくなってきている。

そういえば思い出すのだが、大昔の20代の頃、日頃スーツにネクタイで仕事をしていたのだがある時急いで出社してネクタイを締めてくるのを忘れて、昼休みの時間にわざわざ家に帰ってネクタイを締めて出直した記憶がある。
当時はネクタイを締めていないと首元がものすごくスースー寂しくて落ち着かない気分がしたものである。
今なら考えられないような出来事だ。
最近はそもそも自分的な「仕事の格好のデフォルト」の中に、ネクタイはもはや含まれない。

そういうこともあって紳士服業界は1990年前後のバブル時代に比べると、マーケットが2割くらいに縮小しているらしい。
しかしひと頃一斉を風靡した「青山」や「はるやま」や「AOKI」や「コナカ」などは相変わらずそこそこの利益を出してがんばっているらしい。
報道などによると各社ともそれぞれ紳士服以外の業態や商品の多角化に精を出しているそうだ。

「青山」の場合は紳士服以外のアパレル全般への多角化、業界2位の「AOKI」はカラオケや複合カフェへの進出などで頑張っている。

スーツを中心とする紳士服の業界は、一時期は猫も杓子もホワイトカラーはみんな同じ格好で仕事をするべしという空気が世の中にあって、それで仕方なく吊るしの9800円の背広の上下を買ったりする人もたくさんいて成り立っていた部分もあるのだろう。
しかしこれからは、スーツにネクタイを着る人は自分がその格好をしたいと思ってそこにお金を投じるというような人が中心になるのに違いない。

そういうことで最近はリーズナブルなオーダースーツとかが流行ったりして、昔の「作業服としてのスーツにネクタイ」から、今後はファッションとしての高価格品が主になる流れなのだろう。
そういう時代には少量生産の小規模メーカーも活躍できるようになって、商品自体も多様化して、それはそれで良い時代になるのではないか、と思ったりしたのである。
posted by ヤス at 10:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月29日

予断について

「予断を持たない」という言い方があるけれど、そういう言葉があるっていうことは、世の人々はつい予断を持つ、ということなのだろう。
予め(あらかじめ)断じる、っていうのは、ある程度人間の本能的な行動のようにも思われるのである。

だから「予断を持つ」の使い方としては、「なるべく予断を持ちましょう」というような方向の言い方はあまりしない。
人は放っておくと脳みその中に「予断」が生じがちで、その「予断」が正解ならまあ問題はないのだけれど、しかし「予断」は往々にして間違っていることが多い。
勝手に脳みそに生じた「予断」のおかげで行動を間違える人が多い、それに気をつけましょうというのが「予断を持たない」ことの意味なのだろうと思うのである。

わたしも誰かとしゃべっている時に、相手が話し終わる前に勝手に「そういうことね」的な言葉を差し挟むことがあったりする。
あれも本当はやり過ぎると良くないのだと思う。
ただ会話というのは互いの言葉を肯定し合いながらスムーズに流れるものだと思うので、そういう「肯定のシグナル」として相手の言葉を先回りして喋る、という場面はあったりするのかもしれない。

ただこれも相手に先回りして放った言葉が相手の意図とズレていると、逆に会話のリズムを破壊することになる。
そういうことを何年か前に考えて、わたしとしては会話で相手に先回りするのはなるべく回避するようにときどき意識するようになった。
相手が喋っている間じっと黙って「予断を持たずに」その言葉をなるべく透明な気持ちで飲み込むように心がけたいのであるが、しかしそれでもたまに「予断を持って」相手に先回りしちゃっている時がある。

人間がなぜ予断を持つかというと、これは想像であるが、未来が見えないことが怖い、というのがいくらか影響しているのだと思う。
それがちょっとした会話の中でも、相手の口から予想外の言葉が飛び出してくることに小さなストレスがあって、そのストレスから身を守るために「予断を持って」相手に先回りする、そういう性癖が人間にはあるのではないか。

生きている上で予断を持たずに、その瞬間瞬間に飛び出てきた状況に臨機応変に対応するというのは、ひょっとしたら言うほど簡単ではないのかもしれない。

完全に予断を排除する生き方は不可能だが、たまに「予断を持たないこと」を思い返すくらいのことは、まあやってもいいのかなと思ったりした。
posted by ヤス at 07:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月28日

キーボードに関するどうでもいい話

今iPhoneでこの文章をタイプしている。
目の前には別のパソコンがあって、文章をタイプするならそっちの方が楽でいいのだが思うところあってiPhoneなのである。

というのも、最近Amazonでウィンドショッピングしている時に、iPhoneやiPadで使える折りたたみ式のステキなBluetoothキーボードがたびたび「おススメ」で登場するようになっているのである。
わたしの物欲の傾向をAmazonはとうの昔に見破っているらしい。
そのキーボードは、3つ折り式で背面がいかにも高級っぽいアルミで作られており、ブラインドタッチするのにはギリギリ許容範囲の絶妙な小ささにまとめられている。
値段は3980円で売られている。

同様の品がビックカメラでも5千円ちょいで売られているのは確認済みである。
それで最大の危機が昨日発生して、Amazon恒例の「タイムセール」で問題のキーボードが3300円ほどに一時的に値下げされていた。
Amazonの中をぼんやり徘徊していてタイムセールに出くわしたわたしは、次の瞬間には「カートに入れる」ボタンを押しそうになっていた。

しかしすんでのところで正気に戻り、そこで自問自答したのである。
現在のわたしに果たしてこのキーボードが必要なのかと。

だいたいわたしがこのキーボードにそそられたのにはいくつかの理由があった。
従来の折りたたみ式キーボードは「2つ折り」が主流であり、そのために折りたたみヒンジがある場所の中央部のキー(特にスペースキーとか)がつじつまあわせで不自然な形に分割変形させられている。
それがこのキーボードは3つ折りにすることで中央にヒンジがなく左右にあるヒンジ部のキーも自然に配置され、展開するとまんま普通のキーボードの形態になる。
そして折りたたむと約10cm角の正方形になり重量もわずか185g、最近はBluetoothも進化して突然の切断とかのトラブルも少なくなっている。

あと、たまにオートバイに乗ってふらりと出かけることがあるのだが、わたしは旅先でもたまに文章を打ちたい人なのであるが、文章を打つのにパソコンを持っていくのは大儀である。
だから旅先ではもっぱらiPhoneでワードや「Pages」を開いてフリック入力でタイプする。

しかしこのフリック入力が面倒くさがりやのわたしには、ちょっとした苦行である。
そういう時に小さくてイカしたキーボードがあれば、というのは積年の願望なのである。

しかし一方で、フリック入力でも文章が打てないわけではないという状況もある。
そしてスティーブ・ジョブズ的価値観ではシンプルイズベストでフリック入力でいけよ、という話になるのは明白だ。
実際今のところは、旅先でジョブズ式を採用しフリック入力でがんばっている。

旅の荷物を増やさないためにもジョブズ式が正解なのに違いない。
そして一度は「もうこのキーボードのことは忘れる」と決意したのである。
しかしAmazonでタイムセールを見て放棄したはずの物欲は呆気なく蘇った。

そういうことがあったので、現在自戒を込めてこの文章をパソコンのキーボードに頼るのではなく、わざわざiPhoneのフリック入力で打っている。

というようなことは本当にどうでもいい話だな、と書いていて思った。
posted by ヤス at 13:11| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月27日

いずも型の空母化に反対する

今朝ニュースを見ていたら海上自衛隊のいずも型護衛艦を空母化することが、新しい防衛大綱に盛り込まれる方向で最終調整というのが流れていた。

いずも型の空母化については以前にも書いたが、意味がないので止めた方がいいと個人的には思っている。
そして、いずも型空母化に反対する批判記事もちょいちょい出ている。

いずも型の空母化をなぜ止めた方がいいかというと、日本の防衛力強化に全く役に立たないと思うからである。
ニュース記事によると、この空母化の目的は「中国が海洋進出を強める中、尖閣諸島を含む南西諸島の防衛力を強化する狙い」からだそうである。

地図を見ると、尖閣諸島は沖縄の那覇から直線距離で300kmくらいのところにある。
これはスーパークルーズ(超音速巡航)能力を持つF35Aステルス戦闘機なら20〜30分で到着できる距離だ。
F35Aの作戦行動半径は約1000kmなので尖閣は那覇を起点とすればその半径に余裕で収まる。
しかし今度の防衛大綱の構想では、この状況でいずも型を空母化し搭載機として垂直離着陸型のF35Bを新たに調達して尖閣防衛に当たらせる計画らしい。
F35BはF35Aの1.2倍以上の値段がするし、胴体内に大きなリフトファンを装備するので燃料搭載量や兵装搭載量もやや劣る。

それでもF35Bが開発されたことの意味は、排水量2万トン程度の小型の空母で運用できる戦闘機にいくつかの国(おもにアメリカ海兵隊、イギリスなど)で需要があるからだ。
しかしその需要の中身は、近くに適当な空軍基地のない遠隔地にリーズナブルに空軍力を投入したい、というものである。
実際に1982年のフォークランド紛争でハリアー戦闘機を各10機程度搭載した軽空母2隻を投入したイギリス軍は、フランス製攻撃機にエグゾゼミサイルを装備したアルゼンチン軍を相手に威力を発揮したという実績がある。
ただその時も2隻の軽空母からの出撃回数は1日1回が限界で、計20機の出撃が1日のMAXだったらしい。
またアルゼンチン空軍の攻撃機は数が足りていなくて、最後まで英軍空母を射程に捉えることができなかったが、もし十分な機数の攻撃機が飽和攻撃をしかければ英軍空母群はあっけなく沈んでいただろうと思われる。

海上自衛隊のいずも型2隻を空母化すると、仮想敵国の中国の最重点目標はこの空母群になるのは明白なのである。
アルゼンチン軍と違って数量的には十分以上に揃えている中国海空軍の攻撃機が一斉に海自空母群に殺到したら、これを完全に防ぐのは難しいのではなかろうか。
そうすると1隻およそ1200億円、搭載機のF35Bが10機として1500億円くらい、2隻合計で約5000億円が海の藻屑に消えることになる。

そうならないためには防空用のイージス艦を増産して空母群に張り付ける必要がある。
(いずも型が空母化するとたぶん実際そうなる)
そうすると、その分の予算がさらに掛かるということになる。

そんなことをするくらいならより高性能のF35A型を少なくとも沈没の恐れのない陸上基地から飛ばした方がずっと合理的なのである。
そうなると、海自が空母を持ちたいのはただ「空母を持ちたい」という気分の問題であるのか、あるいは中東あたりまではるばる遠征して集団的自衛権の行使でももくろんでいるのかということになる。

いずれにしても「いずも型」の空母化は防衛予算だけ無駄に使って得るところが全くないので止めた方がいい。
そのように思うのである。
posted by ヤス at 09:48| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月26日

2025大阪万博

2025年の大阪万博が誘致成功したらしい。
2020年東京オリンピックに続く国際大イベントの誘致ということでそこそこに盛り上がっているようである。
大阪では前に一度、1970年に万博が開かれたわけであるが、わたしはそのちょっと前に誕生を済ませていて、個人的に多少の思い出がないこともない。
わたしは当時3歳児であったはずであるが、うちの家族は幼少のわたしをばあちゃんの家に預けて大阪に行ってしまったのである。
ばあちゃんの家でぽつねんと佇んで、ひたすら暇を持て余していた記憶がかすかに残っている。

まあ個人的には前回の万博はそういう残念なものであったわけだが、さて今回の万博はどういうことになるのだろうか。
意地の悪い一部の人々は今さら万博とか時代錯誤も甚だしいとか、早速声だかな批判も始まっている。
わたしも正直いうと、1970年当時と2025年とでは万博の意義も性格もがらりと変わってしまって、このタイミングで日本でやる意味はあるのかなと思っている。

1970年当時は日本経済が急な成長カーブを描いていて、万博はその上向きのカーブに拍車を掛ける役割を果たし得たのだと思う。
しかし2025年の万博は、どちらかというと低下気味の日本の潜在成長力になんとか歯止めをかけようというものにならざるを得ない。
このような大イベントの経済効果は、発展途上の状況の方が投資対効果も大きいのはたぶん間違いないのである。

また前回の万博ではアポロ計画で持ち帰った「月の石」が爆発的な人気で、展示してあるアメリカ館には数時間待ちの長蛇の列ができたそうだ。
ソ連館も負けずに宇宙展示で人を集め、万博会場は全体としても人でごった返して、それからしばらくの間、万博といえば「壮絶な人混み」のイメージが定着していたのではないかと思う。

前回の万博は1970年に183日間に渡って開催され6421万8770人を集客したらしい。
これは1日あたりに均して35万人という恐るべき人数である。
しかし前回は外国人の集客は約170万人ということで、意外に少ない。

個人的な観察によると現在の大阪ミナミの繁華街の人通りの外国人比率はおよそ7割くらいなので、2025年には外国人比率がずっと高くなって半分以上になると予測する。

それと2025年にもなれば今よりさらに世の中が変わっていると想像される。
自動運転は一部の特区あたりで完全実用化されているかもしれない。
人工知能や自律型ロボットもさらに進化しているだろう。

わたしの個人的願望としては新しい輸送機関として、自動運転の電動旅客ドローンを運行して欲しい。
できれば大阪駅や関空から会場まで飛ばして欲しいが、それが無理なら会場内の移動だけでもいい。
もしそれが実現化したら、ドローンに乗るために行ってもいいかなと思ったりする。
posted by ヤス at 08:01| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月25日

小豆島でマラソン

今日は小豆島でマラソンがあった。
わたしは昨日夕方に、バイクに乗って港へ向かい、バイクごとフェリーで小豆島に渡った。
そして島内某所に場所を見つけて野営し、朝起きてマラソン会場に乗り付けた。

この島にはひとつ問題があって、それはマクドがないということだ。
「淡路島にはあるけど、小豆島にはないもの、それなーんだ」
それはマクドナルドである。

仕方がないので島内唯一のファミリーレストランであるジョイフルに野営前に行ってハンバーグを食べて腹ごしらえして野営場所に向かい、特にすることも無かったのですぐに寝た。
寝たのはたぶん20時頃である。
それで朝4時に起きたのだが、あんまり早くマラソン会場に行っても暇なのでもう一度寝ることにして6時にふたたび起きた。

それでテントも畳んで荷物もまとめてさあいつでも出発できるぞとなった時に、バイクの鍵が見当たらないのに気付いた。
それでまとめ終わったばかりの荷物をまたバラして、文字通り荷物をひっくり返しながら探したのだが見つからない。

荷物をバラしてパタパタしたり裏返したりして、また片付けてまたバラして、そういう作業を数回繰り返したのち、丸まったテントの中からポロっと鍵が出てきた。

それで1時間近くも無駄にしてマラソン会場に着いたら着替えていつものようにトイレに並ぶのも面倒くさいので、そのままスタート列の最後尾に陣取った。

そんなていたらくだから、マラソンの方の調子も推して知るべし。

まあいいお天気で島から眺める瀬戸内海の景色もキレイだったので良しとしよう。

しかし小豆島は沿道の応援もお年寄りの割合が多い。
マラソンの最後の方で、ヨレヨレのおじいちゃんが塀に掴まってやっとの感じで立って手を振りながら「がんばりや」と蚊の鳴くような声を絞り出して、わたしも内心、「じいちゃんもがんばれよ」と心の中でつぶやいたのはここだけの話である。

おしまい。
posted by ヤス at 15:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月24日

国際的な重量基準の変更について

2019年つまり来年5月に「キログラムの定義」が変わるらしい。
「国際度量衡委員会」という組織があって、これは1875年に成立した国際メートル条約に基づき、長さや重量などの単位を国際的に統一的に定義するところらしいのだが、その組織がキログラムの定義を変える。

「国際キログラム原器」というのがフランスのパリにある国際度量衡局というところに厳重にしまってあって、これが今までは国際的な重さの基準になっていたそうだ。
この国際キログラム原器は3つの鍵がかかった部屋の中の金庫に収まっていて、金庫を開けるとさらにごついガラス容器に入っているらしい。
なんでも年に一回、国際度量衡委員によってこの原器が金庫の中にちゃんとあるかどうかを確認するという儀式があって、金庫の中に原器があるのを見て委員同士で顔を見合わせてまた金庫を閉めるだけのことを100年以上も続けているのだという。

当初、白金とイリジウムの合金製のキログラム原器が製作された時は、錆びることも腐食もしないこの原器があれば、向こう10万年くらい重量の絶対基準の役割を果たすことが期待されていた。
しかし数十年前には「見えなかった」10のマイナス数十乗とかいうウルトラ微小な重量変化が最近では測定できるようになって、国際キログラム原器もごくごくわずかに酸化したり化学変化を起こしたりして重量が変わっていることが観測できるようになった。
これを受けての国際的な基準変更であるらしい。

新基準は「プランク定数」という、大昔に物理の授業で習ったかもしれないエネルギー定数を用いて定義することになっているが、その詳細はおじさんの脳みそには謎なのでここでは説明を試みない。

ところでうちにも体重計とかキッチンスケールとか重量を量る秤がある。
わたしはどちらかというと測定マニアなので、毎朝体重を計るし、お茶やコーヒーを淹れる時もかなり精密にお茶っぱや豆の量を計る。
むずかしいのはお茶っぱの量である。
わたし的なコーヒー豆の量の基準は、水200ccに対し豆9gである。
一方でお茶の方は一杯あたり1.5〜2g。
お茶っぱは極端に軽いから最低単位0.5gの秤だとものすごく計りにくいので、基準を緩めにしておかないと計量がいつまでも終わらない。
Amazonで見たら0.1g単位の秤が千円くらいで売っているので今度これを買おうかとも思う。
ただお茶っぱは1.5gでも2gでも、味の差はほとんど感じない。
変わらないんだけれど、0.1g単位の秤は欲しい。
わたしが測定困難なお茶っぱの重量を今日も計り続けるのは、日々変わらないお茶の味の安定を求めるというようなしみったれた理由ではない。
ただ目の前にあるそのお茶っぱの真実の重量が知りたいのだ。

ちなみにキログラム原器が新基準に変わっても我々一般人にはもちろん何の影響もないそうだ。
それでも基準変更になる来年の5月に「何か」が変わるような気がして、なぜだか楽しみな今日この頃である。
posted by ヤス at 08:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月23日

ゴーン潰しは本能寺の変に重なる

19日のカルロス・ゴーン逮捕から4日ほど経ったが、あいかわらず関連のニュースがバンバン流れて収まる気配がない。
ここでまず気になるのが、日本のいろんなニュースでゴーンさんのことを申し合わせたように「ゴーン容疑者」と呼ぶことだ。
ゴーンさんに限らず、この国では逮捕された人物には「容疑者」という肩書きを付けるのが習わしである。
「ゴーン容疑者が、ゴーン容疑者は、」と連呼されていると、なんだかほとんど有罪確定のような響きがする。

ところでゴーンさんの逮捕直後からこれは一種のクーデターではないか、という説がまことしやかに流れていたわけだが、いろんな情報を総合するとやっぱりクーデターと考えるのが自然である、という感じになっていると思う。

まず、逮捕から間も無く日産の代表取締役会長職の解任が臨時取締役会で決議された。(三菱も同様)
これはなんだか段取りが良すぎる。
有価証券報告書に役員報酬を実際より50億円少なく記載した(それを首謀した)というよく分からない「容疑」といい、当初からゴーン解任を第一目標にして、検察や西川社長らは動いていたように見える。

また、世の中に流れている噂話をまとめると事の発端はフランスの若き大統領マクロンで、マクロン大統領がゴーンを焚きつけてルノーが日産・三菱を吸収して経営統合し、EU内でのライバル国ドイツに負けない世界最大級の自動車会社を持ちたい、というのが元にあるらしい。(あくまで噂)
それでマクロンがゴーンを説得し、ゴーンが日産・三菱の吸収に動き出したところでそれに危機感を抱いた日産内のゴーンの元「忠臣」たちが手のひらを返し、東京地検特捜部にタレ込んで一気のゴーン潰しを試みた。

これはまるで信長を本能寺で討った明智光秀のようである。
光秀は本能寺の直前まで信長麾下の最有力の「忠臣」だった。
それが領地替えや四国討伐問題などでのっぴきならない危機感を抱いた光秀が、わずかのチャンスをものにして電光石火で本能寺に信長を討つ。

この謀反の背後には朝廷がうごめいていたとか、イエズス会がどうとかいう説もあるけれど、そのような黒幕の存在も、今回のゴーン事件の背後にいるマクロン大統領と重なる。

400年前の光秀と違って、現在の日産・西川(さいかわ)社長は世論の支持も取り付け、マスコミも概ね西川寄りの報道姿勢で「三日天下」よりは長続きしそうな情勢にも見える。

しかし「光秀」サイドにも懸念材料はある。
それは日本の後進的司法制度である。

これまでの東京地検特捜部の「習性」からして、ゴーンは当面東京拘置所に留め置かれるだろう。
そして家族の面会や取り調べにおける弁護士同伴なども制限され、録画も録音もされないまま密室での取り調べが粛々と続くのだろう。
それに対しゴーン、あるいは事によるとフランス政府が日本の司法の人権無視を非難する戦術を取らないという保証はない。

日本国内では通用しても、人権先進国のフランスから日本司法の汚点を指摘されると、特捜部は反論のしようがないだろう。
とりあえず日産はゴーン追放には成功したけれど、事件の第二幕第三幕で、ゴーンサイドから巨額の損害賠償請求が突きつけられる可能性だってあるだろう。

ただマクロンとゴーンの関係は必ずしも蜜月というわけでもなさそうで、マクロンが日本との外交関係を重視すればゴーンを使い捨てにして幕引きを図る、という日産的には万々歳の結論になるのかもしれない。

個人的には今回の事件を契機にして日本の司法制度の問題点が世界に晒され、それで司法制度の中身がいくらかまともにならないかと思ったりしている。
posted by ヤス at 10:44| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年11月22日

デジャブは歳とるとなくなるらしい

デジャブは日本語でいうと既視感であるが、最近個人的にあんまりデジャブを感じないなあと思ったりした。
ネットで見たらデジャブというのは、ある程度若い人が感じやすいものらしい。
歳をとるにつれてデジャブはだんだん感じなくなるのだという。
また疲れている時にデジャブを感じやすいということもよく聞くが、同時に、感受性が強い人ほど感じやすいらしい。
つまり歳とって感受性が希薄になってストレスも感じずのんきにしているおじさんは、デジャブと無縁になりがちということなのか。

人間がデジャブ、既視感を感じる件については、その原因がさまざまに分析され推定されている。
記憶のメカニズムに起因するものだとか、前世の記憶が蘇ったとか、そういうことがネットにいろいろ書いてあった。

個人的な勝手な想像では、デジャブは人間の思考のパターナリズムが土台にあるのではないかと思ったりする。
人間が外界の情報を認識するのに、ある種のパターン分けが使われているのだと想像する。
人間は忙しく生きているとたくさんの状況に遭遇する。
その状況にはいろんな人物が登場したりするだろうし、犬や猫が出てくるかも知れず、自動車や飛行機が関係することもあったりするかもしれない。
あるいはご飯を食べたり、痛い思いをしたり、そうやって書き連ねていくと無数の種類の状況が人生の過程には現出する。

高等哺乳類の生存戦略は、生きている途中で遭遇する事件のうち重要なものはなるべく記憶に留めて、次に似たような状況に遭遇した時に以前の経験を活用しよう、ということなのだろう。
だから高等哺乳類の人間は、日々の体験のうちインパクトのあるやつをせっせと脳の記憶領域に格納することになる。

しかしそれだけだと記憶容量にすぐ限界が来るので、日々の体験を何種類かのパターンに分けて、似たようなものは十把一絡げにまとめて憶えたりするのではないだろうか。

「おばあちゃん細胞」というのが有名だが、脳の中には世の中の「おばあちゃん」一般に反応する神経細胞があることが知られている。
同様に三角形や四角形に反応する細胞もあるらしい。
そういうおばあちゃんや三角形に反応する神経細胞が何種類も組み合わさって、日々に発生するエピソードを記憶している。
だからエピソードの記憶は「パターンナリズム」にならざるを得ない。

というのは多くがわたしの勝手な想像だ。
でも実際に人生で遭遇する体験は、わりかし単純なパターンの組み合わせでほとんど表現できてしまうような気も確かにする。

若い時分にたくさん感じていたであろうデジャブを最近感じていなくて、あの感じが妙になつかしいなあとか突然思ったりして、そんなことをぼんやり考えたりした。
posted by ヤス at 07:22| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年11月21日

反応的にならないこと

昔読んだスティーブン・コヴィーの「七つの習慣」には、戦略的なこと(自分みがきってことなのだろう)にリソースの3分の1を投入しろというのが書いてあった。
「七つの習慣」にはもうひとつ大事なことが書いてあって、それは「反応的になるな」ということだったと思う。

昔読んだことなのでもうほとんど正確に思い出せないのだが、「反応的になる」というのは「他人の発言にいちいち反応する」というくらいの意味だったと思う。
要するに、人に何か言われてカチンと来たりする、いちいち怒ったり取り乱したりするのが「反応的である」ことだろう。
「七つの習慣」では、周りの人に何か言われてそれに対しいちいちネガティブな感情をもよおすのは意味のないことである、みたいに書いてあったと思う。

上記のことをおぼろに憶えているだけでも、まああのごつい本に金を出した元は取れたのかな、と思ったりする。(今その本はどこに行ったか分からないが)

人生において「反応的である」ということは、まったく無駄なことだ。
「ブス」とか「ハゲ」とかひどいことを言われて怒ったり傷ついたりするのは、人生をドライブすることの主導権をいくらか他人に渡してしまっているということになる。
他人が「ブス」とか「ハゲ」とか言うことに関しては、何しろ他人のやることなので、こっちの方で自由な制御は不可能である。
悪意のある他人の立場からすると、攻撃対象に対して「ブス」とか「ハゲ」とか言うことは、自分の意思で自由にできる。

あまりにひどい「ブス」や「ハゲ」に対しては名誉毀損や慰謝料請求などもできるだろうが、日常的な小さな悪口陰口のすべてに法的対抗措置を取るわけにも行かない。
だから日常的な小さめの悪口に対しては軽く受け流していちいち気にしないというのが、できる大人の正しい対応方法になる。

特に最近はネット時代で、他人の発言がサイバー空間を通じて大量に流通する世の中である。
自分に向けられた悪口でなくても、SNSの他人の投稿を見てカチンとくるとか、ネトウヨやパヨク的な事象に対するリアクションとか、人々の「反応的な」発言が飛び交っている。
自分への悪口でなくても自分が崇拝する人への非難とか、自分が信じる主張や思想をくつがえすような発言には、ついつい心にさざ波が立つ、何かひとこと反論したくなるのが人情というものである。

しかしそういう時でも「反応的である」ことの無駄さ加減をちゃんと自覚してさえいれば、必要以上にヒートアップして無用のストレスを発生させることもなくなる。

ということでネット時代の今だからこそ、いちいち反応しないで華麗にスルーする感情制御のスキルは大切だ。
またそういうことを本で読んで記憶の片隅に置いておくこと無駄ではないなあと、今さらながらにとつぜん思ったりしたのだった。
 
posted by ヤス at 10:33| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月20日

カルロス・ゴーン逮捕

日産会長のカルロス・ゴーン氏が逮捕された。
有価証券報告書で役員報酬を過小に申告した、金融商品取引法違反容疑だという。
昨晩、日産の西川(サイカワと読むらしい)社長が逮捕を受けての記者会見を行い、その中では報酬の過少申告以外に、日産の投資資金の私的流用、さらに費用についても私的流用があった疑いが強いのだという。

過少申告の金額は過去5年間で本来約100億円のところ50億円しか計上していなかったという。
それで疑問に思うのは、ちょろまかした50億円をどのように処理していたのかということだ。
西川社長の記者会見でも質問に出ていたけれど「捜査の関係上答えられない」ということのようで、もろもろの疑問点は時期を見て発表することになるという。

また5年で50億円をちょろまかしたというのも、時効の関係で5年分だけが問われているということで、実際にはもっと前からやっていたというニュアンスでもある。

ゴーン氏は今を遡ること19年前の1999年に、ルノーから日産のCOO(最高執行責任者)として着任し、座間工場閉鎖や長年の系列下請け整理などコストカットに辣腕を振るって短期間で倒産しかけの日産を再生した。
また車好きということでも有名で、ほとんど消滅しかかっていた「Zカー」ことフェアレディZを復活させ、また同じく消えかかっていたスカイラインGT−Rを「NISSAN GT−R」として開発にゴーサインを出し、ポルシェやフェラーリも凌ぐ性能を持つスポーツカーとして復活させた。
あまり儲からないだろうスポーツカーも大事に扱ってコストカット一辺倒ではない部分を見せていたからこそ、日産もゴーン氏も一定の支持を維持できたというのはあると思う。

それで、ゴーン氏の役員報酬が実際には年間約20億円だったという話であるが、これは果たして高過ぎるのか。
MLBでは田中将大の年俸が22億円、ダルビッシュが怪我で1勝しかできなくて28億円。
ちなみにMLB最高年俸は40億円くらい。
さらに企業の役員報酬を見ると、アメリカの報酬額1位がだいたい50億円くらいのレベルらしい。

以前、日本に納税者ランキングがまだあった時代、投資会社の部長で給料が年100億円の人が話題になったり、ちょっと前にソフトバンクの前副社長ニケシュ・アローラに半年で165億円というのが話題になったりもした。

ゴーン氏について言うと、日産以外にもルノーから約9億円、また三菱自動車やその他の関連会社からも報酬を得ていただろうし、それ以外にも株式の配当金などもあるだろうから毎年かなりの収入があっただろう。

ただ他の役員との報酬のバランスとかいろいろ問題はあるのだろうが、報酬の水準としては年間売上11兆円以上の日産で役員報酬として10億20億レベルを払うことはそんなに難しくもないだろうし、まあ世界的には適正の範囲なのではないかと個人的には思う。

ただ金額をちょろまかすのは良くない。
ゴーン氏の件はまだ容疑段階で詳細な事実も明らかになっていないので、なんとも言えない感じであるが、とりあえず詳報が出てくるのを待ってからあれこれ言うことにしようと思う。
 
posted by ヤス at 10:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月19日

RIZAPの赤字

「結果にコミットする」で知られるRIZAPの赤字転落がニュースになっている。
ニュースが流れるまでRIZAPの経営は順風満帆なんだろうと思っていたので意外だった。
ちょっと調べてみると、RIZAPは2003年に「健康コーポレーション株式会社」として設立、2006年に札幌証券取引所アンビシャス上場している。
そして2007年に会社の形態を持ち株会社に変更している。
つまり当初からRIZAPは「M&A会社」だったということだ。
また2016年7月に社名を「RIZAPグループ株式会社」に変更。

売上は、2016年3月期554億円、2017年3月期952億円、2018年3月期1362億円と順調に拡大。
当期利益は24億円、76億円、92億円となっている。

RIZAPの問題点として、積極的な企業買収にからむ「負ののれん代」の話があるらしい。
RIZAPは業績不振に陥っている会社を純資産額(単純な帳簿上の価値)より安く買う。
企業買収の際には、例えば業績好調の会社を買う時はその会社の将来利益も織り込んで純資産額より高い値付けで買うのが普通だ。
この時、買収価格の純資産額を上回る分が「のれん代」と言われるものだ。
「正ののれん代」は、将来利益を見込んだ分の費用である。
一方のRIZAPでは買収のたびに「負ののれん代」が発生していた。
これを利益に計上して正味の利益額からかなりかさ上げしていたらしい。

またRIZAPでは利益額に対し営業キャッシュフローがほとんど出ていない。
帳簿の現金残高は増えているのだが、これは借入金が増えたことによるものだ。

RIZAPは「結果にコミットする」を売り文句にする会社だけに、上場企業としての業績コミットに関してもまあまあのプレッシャーを感じながら経営していたのかもしれない。
それで業績目標を達成するために、適当な業績不振企業を見つけてきて買収し、それで売上拡大目標を達成して「負ののれん代」を利益に計上することで利益目標もクリアする。
そして業容の拡大に合わせて銀行から借り入れする。
そういうサイクルで回していたということのようである。

ただそういうとRIZAPが粉飾まがいの経営をやっていたような感じもあるわけであるが、以上のことはいちおうはルールの範囲の出来事である。
瀬戸社長の赤字発表会見のようすをちらっと見たけれど、たいへん神妙な感じで、声を絞り出すような感じで今後しばらくのM&A凍結や役員報酬返上を報告していた。

おそらくRIZAPはこれからしばらく業績的には停滞(もしくは多少の縮小)が続くのだろう。
しかし依然として本業のパーソナルトレーニングは好調のようなので、不採算事業を整理していけばまあ自ずと業績は回復するのかもしれない。

商売は正直がいちばんということだ。
RIZAPは、正直に現状の問題点を白日のもとに晒してリスタートできたのは良かったのではないかと思った。
posted by ヤス at 08:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月18日

二輪のすり抜けについて

一週間ほど前に家の前でオートバイをいじくっていたら一人のおばさんが道を通りかかって、そのおばさんはもう歳は70歳過ぎでちょっと前まで「田町」で飲み屋をやっていたのだという。

なんで道を通りかかっただけのおばさんの素性がそんなに分かったかというと、そのおばさんが「いい天気だねえ」とかなんとか言いながらいろいろ話しかけてきたからである。
そのおばさんによると、今旦那が仕事の関係で大阪に居てその旦那がバイク好きらしい。
それで旦那が近いうちにハーレーを買うかもしれないと言っていて、いい歳してそんなでかいオートバイを買いたいなんていかれたジジイだわね、みたいなことも言っていた。

ただオートバイに乗る人間というのは多少いかれているのは確かだ。
オートバイは転ぶことが多い。
四輪だって絶対に転ばないことはないだろうが、そのリスクは二輪に比べるとずいぶんと低い。
オートバイにはエアコンもないしサイドエアバッグみたいな安全装備があるわけでもない。
したがって20年落ちのよれよれの軽自動車アルトとぶつかった場合でも、ほぼ必ずオートバイが負けることは間違いない。

そんな危ない乗り物にあえて跨ろうという人間は、頭の配線がどうかしている。

あと道を走っていて思うのだが、オートバイのすり抜け、あれを見ていてもオートバイに乗る人間の頭のおかしさが垣間見える。
わたしはなるべく頭のおかしいやつと思われたくないので、すり抜けはしないことに決めている。
どんなに渋滞していようが、四輪と同じ作法を守ってクラッチレバーを握る左手の疲労に耐える。
そんな中を後ろからビュンと大型二輪が抜いていく。
左側の路側帯には、スクーターの小さいのや大きいのが走り抜けていく。

オートバイのすり抜けというのは、わたしもやったことはある。
しかしすり抜けは一度すり抜け出すと、永遠にすり抜け続けねばならない感じになって、危ないことも危ないけれど、その前にものすごく疲れるのである。

わたしの観察では、全オートバイの半分以上はビュンビュン車の間を縫ってすり抜けている感じがするけれど、あれはほんと止めた方がいい。
大きな事故にならなかったにしても、ちょいちょい車のボディにぶつかって傷をつけたりとか、トラブルのタネになる可能性が高い。
それに四輪の立場で危ないすり抜けに遭遇すると二輪全体に危ないイメージが定着して目の敵にされる。
すると江戸の敵を長崎で討つ方式で、すり抜けしないわたしのオートバイが無用に煽られたり割り込まれたりして危ない思いをすることになりかねない。

法律的にも「追い越し」は右側からというのが原則なので、車線の左側をすり抜けるのはまず明確に違法。
右側を追い越すのも、安全確認してウィンカー出してという正規の「追い越し」でない限り、走行中の追い越しは違法であるらしい。
そしてやっぱり違法である前に、二輪四輪ともに危ない目に遭う可能性が生じやすい。

冒頭のおばさんも、去り際に「あんたも死なんようにしいよ」と笑顔で言っていた。
だからというわけでもないが、人生の最期は路上ではなく畳の上で、などとあらためて思ったりした。
posted by ヤス at 12:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月17日

サインはフルネームで、

今朝、郵便局のお兄さんがゆうパックを配達しにきた。

例によって「ここにサインをお願いします」と言って、ゆうパックの箱に貼り付けてある伝票の受け取り確認欄を指差した。
そこでわたしとしては、ちょっと魔が差したので「サインはフルネームですか」と訊いてみた。

そうしたら「『できるだけ』フルネームでお願いします」と返事が返ってきた。

この場合の『できるだけ』というのは、どういう意味なのだろうかとしばらく考え込んだ。

「ご面倒でなかったら」という感じなのか、あるいは「ペンを握る手が疲労困憊しているのならまあフルでなくもて構いませんよ」ということなのか。

ゆうパックに限らず、宅配便でもだいたい受け取りはハンコかサインをするのが一般的だ。
わたしはこれまでのまあまあ長い人生の中で、同様の場面で何度か「サインはフルネームでお願いします」と言われたことがあった。
おそらく郵便局でもクロネコヤマトでも佐川急便でも「サインはフルネームで」が社内規定でデフォルトなのであろう。
そんなこんなで「サインはフルネームで」が数回続いたので、最近はこのような場合は原則フルネームでサインするようにしている。
しかし、それでも時々面倒臭いので苗字だけをポンと書いて渡したりする。
しかしその場合にフルで書いてくれと「サインの追加」を頼まれたことは一度もないような気がする。

こうなるとサインをフルネームで書くことの意味はいったい何なのだろうかと少しモヤモヤしてくる。
ひょっとしたらこれらの会社の規定には「受け取りのサインは『できるだけ』フルネームで書いてもらってください」と書いてあるのだろうか。

これは推測であるが、おそらく規定にはサインは必ずフルネームでもらうこと、となっているのではないか。
しかし世の中には致命的に面倒臭がりな人とか性格的にややこしい人がいて、フルでサインを書いてくれない場合がわりかし多いのだろう。
そういう「例外的な場合」はやむを得ない状況が発生したということで、特例的に黙認しているのではないか、という気がする。

そもそもあの受け取りのサインは、配達人が配達荷物を確実に届けるようにというある種の「サボりの歯止め」のようなものではないかと思う。
配達人が荷物をネコババしたりドブに捨てたりしたら「受け取りサイン」がもらえないので、自分で偽造する必要が出てくる。
サインの偽造まですると心理的ハードルがかなり高くなるので、そういった不正を防止できるということなのではないか。

そうやって考えると受け取りのサインはフルネームが望ましいが、まあ、できるだけフルがいいけどどうしてもというなら苗字だけでもいいよ、というそのニュアンスは分からなくもない。

そんなこんなで今朝のゆうパックのお兄さんには、いつものようにミミズが這いつくばったような難解な文字で、自分の名前をフルで書いて渡した。
ミミズ文字で名前を書くとフルでも1秒くらいで済むから、苗字だけの場合と実はあんまり変わらなかったりするのだった。
 
posted by ヤス at 12:49| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月16日

オートバイ冬の寒さ対策

冬のオートバイは寒い。
一般には風速1m/sにつき体感温度が1度下がるとか言われる。
実際には、気温が下がるごとに風による体感温度低下の効果は逓減する、つまり寒くなるほど風で寒さが増す効果はゆるやかになるらしい。
これは逆に言うと、暑い時ほど風の効果は高いということである、とウィキペディアには書いてある。

それで今の時期に風の影響で体感温度がどれくらい下がるのかというのは結局よく分からない。
とりあえず風速1m/sで0.5度くらい下がるものとして計算してみることにする。
気温10度の中、時速50kmで走ったとする。
時速50kmは秒速に直すと17m/sくらいか。
そうすると気温10度から17×0.5≒8を引いて、体感温度は2度くらいにはなるのかもしれない。
気温10度というのは、冬の寒さとしては比較的耐えられるレベルだと思う。
しかし気温2度はまあまあ寒い。
ましてや冬が本格化して気温が0度近くになると体感温度は確実に氷点下。

加えて、オートバイで走るとあちこちから「すきま風」が入ってくる。
主要な「すきま」は3ヶ所あり、足首のところの靴とズボンの境目、お腹のベルトのあたり、そして首のヘルメットの下に開いているところ。
この3ヶ所は、オートバイにおける「三大すきま風」として認定したい。
加えて、胸の部分が風をまともに受けてそこでもかなりの熱が奪われる。
これも地味に寒さを倍加する要素である。
あとは手と足の末端部分の冷たさも耐え難いものがある。

冬のオートバイの寒さは、体験している人はよく分かると思うがハンパがないのである。
だから上記の三大すきま風と胸部の寒さ対策は必須である。
具体的には足首と上の首には、専用の防風防寒グッズがある。
ウェットスーツ素材のネオプレーンでできた足首にくるっと巻くやつを付ける。
上の首はフェイスガードやフリースの首巻きみたいなのを付ける。
お腹の部分は、グンゼの千円の腹巻だ。
これが地味に暖かい。

そして胸の風を受けるところ。
ここはよほど寒い時期でない限りまあまあ我慢はできるのだが、長時間走行などではボディブローのように体温を奪う要因になる。
だからそういう時は、30cm角平面くらいのサイズの厚さ5mmのスポンジゴムをホームセンターで買ってきて、それを内緒で上着の下に当てる。
そうするとほぼ完璧に風の冷たさを防ぐことが判明している。

また最近はオートバイにも四輪車のように電源が付くようになり、グリップヒーターや電熱ジャケットなどの電気グッズが普及しているのは大きな安心材料である。
30年くらい前にはそういうのはほとんど見なかった。
それらの対策を施し、電熱ジャケットを着込んでさらにハンドルに郵便カブみたいなハンドルカバーを装着しグリップヒーターのスイッチをオンする、靴の中に電熱靴底を忍ばせると防寒対策はほぼ完成だ。

今から冬本番が待ち遠しい。(けれどもやっぱり冬のオートバイは寒い)
posted by ヤス at 07:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月15日

外国人労働者について

今日本は少子高齢化がこうしている間にもどんどん進んでいて、それによっていろんな問題が発生しつつある、あるいは現に問題発生しているらしい。
そのひとつが労働力不足である。
特に若い人の世代人口は、数十年前の半分くらいの感じになっていてそもそも絶対数が少ない。
だから今までと同じ感覚で労働者を使っていると、引退する老人に対して新規に職場参加する若者が足りなくなるのは道理である。

そこで最近の日本社会では、海外から出稼ぎ労働者に来てもらって足りない分を補おうという話になっている。
しかし日本は伝統的に外国人の受け入れ(つまり移民だ)に極端に消極的な政策を採ってきた経緯がある。
出稼ぎ労働者はあくまで出稼ぎなので、いつか元の国に帰る。
しかしあんまり長く日本で働いていると、なんだか居心地が良くなっていっそ「移民」しちゃおうかな、とか思わないこともないだろう。
というか、ラフカディオ・ハーンの昔からそういう外人さんは一定数いた。

しかし現代の日本では、基本的には移民は入れない、というのが基本である。
現在国内には250万人くらいの「外国人」が生活しているらしい。
これは最近5年くらいで急増した数字だとかいう。
人数だけでいうと先進国中4番目の数字だそうである。

日本に住む「外国人」でも一定の帰化要件さえ満たせば、たぶん日本人になれる。
たぶんそうなったら晴れて上記の250万人のうちの一人から卒業できるのだろう。(統計的にそういうことなのかな?)
帰化条件には5年以上在住とか安定収入がある事、素行良好な事などがあるらしい。

移民をあまり増やしたくない政府としては、日本に押し寄せる外国人が帰化条件を「満たさないように」一生懸命知恵をしぼることになる。
それで外国からの帰化者が激増しないように上手くコントロールしつつ、しかし産業界の要望に応えて外国人労働力だけは確保したい。
でもやっぱりあんまり日本に移民はして欲しくない。
という矛盾に満ちた気分が、外国人労働者の過酷な扱いを生んでいるように見える。

ただあんまり外国人労働者の受け入れ条件が過酷であると、そのうちだんだん日本に労働者が来なくなるのは間違いない。
少子高齢化は韓国などでも確実に進んでいる。
韓国とかシンガポールとか、アジアの労働力不足の国々で労働力の取り合いになった時、あまり過酷だと日本に人が来なくなる。
もしくは「よその国では雇ってくれないような人」が来るのだろう。

外国人労働力を活用したいならある程度移民の増加も受け入れざるを得ない気がする。
もし移民が嫌なら、外国人労働者に頼らないやり方を考えるしかない。

受け入れるのか受け入れないのか、このあたり今の「日本的なあいまい姿勢」だと、結局良いことにならない気がする。
posted by ヤス at 07:08| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月14日

カショギ氏の事件について

サウジでジャーナリストのカショギ氏という人物が先月はじめに惨殺されたというのがニュースになっている。
このニュースにはいろいろな意味合いがあるのだろう。
親米国であるサウジでの王族関係者(皇太子)による事件という事で、間接的に中東におけるアメリカのポジションに悪影響があるのではないかとか、サウジがメインで資金を出しているソフトバンクの11兆円ファンド事業への影響とかである。
しかしいちばんのニュースバリューは、カショギ氏の殺され方だったのだと思う。
トルコのサウジ総領事館というきわめて公的な建物の中で、生きたまま身体を切断されて殺されたとかいうのが第一報で流れたりしていた。

大昔、たぶん1979年だったと思うが、映画館に「スターウォーズ」を観に行ったら、その時は二本立てでもう一本はホラー映画の「キャリー」だった。
今考えるとものすごい組み合わせである。
「キャリー」はアメリカの超能力を持った少女の物語であるが、映画の最初の方で自動小銃を持って頭にアラブ人のターバンを巻いた集団が遊園地かなんかを襲って血みどろになるシーンがある。

考えてみると、その頃から(というかその以前から)狂信的アラブ主義者とかイスラム過激派とかの危ないイメージが喧伝されていたわけだ。
欧米人は、中世の頃から十字軍などでアラブとは何度も戦っておりたびたび煮え湯を飲まされているので、アラブ人に対する歴史的な怨みのようなものが根深くあるのかもしれない。
またアラブ人自身も砂漠の戦士としての荒々しいところ、ハンムラビ法典以来の「眼には眼を」的な精神が今に引き継がれている部分もあるだろう。

まあどっちにせよカショギ氏の事件は、アラブ人全体としては大きなイメージダウンになるいい迷惑の事件だったということは言えると思う。

その後の報道では、トルコが犯行時の録音を持っていてそれを各国政府に配ったのだという。
録音にはカショギ氏の最後の言葉が「袋を頭から取ってくれ」だった、というのが記録されていたとかいうのもニュースになっていたがどうなのだろう。
また、カショギ氏の遺体は切断され薬品で溶かされて処理されたのだという。
おそらく死因など特定されないように証拠隠滅を図ったのだろう。
そういうことではカショギ氏は殺された後にバラされて薬で溶かされたのではないか、という気もする。

しかしトルコ政府が録音記録を持っているということは、トルコは自国にあるサウジ総領事館に盗聴器を仕掛けていたということになる。
某佐藤優氏によると、どんな国でも自国内にある他国の大使館や領事館に盗聴器を仕掛けるのは「当たり前のこと」らしい。

事実は小説より奇なりで、今後どういう展開になるのかものすごく気になるのである。
posted by ヤス at 09:32| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月13日

消費増税対策の不条理

来年10月にせまる消費税8%から10%への増税に対する「対策」に関するニュースがいろいろと流れている。
今朝も自動車関連の減税を検討中というのが流れていた。
他にも住宅関連の減税なども俎上に上がっているらしい。
さらに、悪評著しい軽減税率などというのもある。

あるいはまた、クレジットカードを使用した時の2%還元なんてのもあった。
これは消費増税のタイミングを利用してキャッシュレス化に後れを取る日本の決済状況をどうにかするため、増税後にクレジットで買い物したら購入金額の2%分をクレジットカードのポイントで還元するものだ。
その2%の還元費用は政府がクレジット会社に補助するらしい。
この構想が10月に公になった時には、クレジットカードを使わない高齢者や低所得層に優しくないとかいう批判の声が巻き起こった。
またクレジット決済を小規模の個人店なんかでも導入しましょう、と言ったって、決済端末やらクレジット会社の決済手数料がかかっておいそれと導入できない。
小規模店がクレジット決済を導入した場合、その決済手数料は一説には4〜7%くらいかかるという。
こういう状況ではお店の方も、ブランド品とかの高額商品を扱っているところ以外は導入がむずかしい。

またそもそも論として、消費税率引き上げに伴う対策は「低所得者の負担感の軽減」が主眼であったはずである。
それがクレジット決済のポイント還元とか住宅・自動車関連の一時的な減税措置とか、早くも方向がずれている。
あるいは還元の方法論もきわめて難解で、実現可能性の薄そうなものばかりである。
こうなると公明党お得意の「商品券配布」が、低所得者対策という意味でも実現可能性という点でもいちばん筋がいいように見える。

ただしいずれの増税対策も、当然であるが実施のためには費用が必要でその原資は税金である。
税金が足らないので増税をするのに、その一方で税金を使って増税対策をする、というのは明らかに無駄である。

税務署やら県や市が徴税コストをかけてせっせと税金を集める。
今考えられている増税対策では、集めた税金の一部を再度膨大な事務コストをかけて納税者にばらまこうというのである。
これは相当に頭の悪い「行って来い」だ。
こういうことを東大出の集まり、エリート集団の財務省がうんうん言いながら考えている。

こういう状況を見ていると何かものすごくシュールな気分になるが、まあこれが政治というものなのかもしれない。
posted by ヤス at 12:16| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年11月12日

「早寝早起き」は早寝が9割

昨日の夜、最後に時計を見た時、そのデジタル時計は「00:40」を表示していた。
それで今朝は5時頃に起きてその後軽くジョギングしてきた。
今のところまだそんなに眠くもない。
だがそのうち昼を過ぎたあたり、ちょうどお仕事をしている最中くらいに猛烈に眠くなるような予感がする。

やはり睡眠不足はよくない。
睡眠時間は、7時間くらいは確保した方がいいとかいう。
あのホリエモンも睡眠時間だけは8時間ほどは確保するそうで、また某売れっ子漫画家が言っていたが、本当に忙しい時は徹夜していると回らなくなって朝型の仕事スタイルになるらしい。

世の中的にも最近はちょっとした睡眠ブームだ。
わたしは知らなかったのだが、昨年の流行語大賞でもベストテンに「睡眠負債」という言葉が入っていたり、睡眠メソッドに関する本が相次いで出版されたりしている。

ことほどさように「睡眠」に注目が集まっているのは、現代人がどうしても寝不足になりがちなことがあり、かつその寝不足が、実はかなり健康上も経済的にも損失の元になっているのではないか、という問題があるということなのだろう。

わたしはここしばらく「夜10時前に寝よう」運動を個人的に展開しており、それは7時間眠って朝5時に起きるサイクルをサスティナブルに回すためである。
また、わたしの「めざまし時計」は、もう随分前からリンリン音が鳴る旧世界の方式ではない。
朝5時にスイッチオンするようにタイマーをセットした100W相当の明るいLED電球が、枕元でぴっかり光って、その光の刺激で目が覚めるという近未来的な方式を採っている。
この光による目覚まし方式は、おそらく「音が鳴る」方式より目覚まし効果は高いと感じる。
多少の寝不足でもぱっと目が覚める。
今朝も4時間少々の睡眠時間ながら、ぱっと目が覚めた。

要するに、朝目を覚ます方は、ほぼメソッドが確立しつつある。
しかし単純に早起きするだけでは片手落ちで、きちんとした睡眠時間の量を確保するためには起床時間に対応した就寝時刻もマネジメントする必要があるのは言うまでもない。
つまりちゃんと早寝することが大事だということだ。
ところがこれが難しい。

わたしが昨日「遅寝」をしたのは、夜中にパソコンを(正確にはパソコンに接続したキーボードとマウスを)グリグリいじっていたからである。
まことに、現代社会には「遅寝」を促進する要素は、ネットとかSNSとかたくさんある。

このように、現代において睡眠マネジメントの必要性が切実であるのは、無数にある「遅寝」要素が人々の睡眠時間をガリガリ削っているところに原因がある。
したがってマネジメントの最重要項目はどのようにして「早寝」を継続し、習慣化するかという点にあるのは間違いない。

現代における「早寝早起き」生活の実現は、「早寝」の部分がその99%なのである。
したがって今日の晩は、効果的な「早寝」メソッドを夜遅くまで考えようかと思っている。(なんつってね)
posted by ヤス at 09:31| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月11日

考え過ぎる人のために

考え過ぎは良くない。
心配性の人というのは、あれこれ考えることによって必要な行動に取りかかれない、あるいは心配がストレスの種になる、という点で問題を抱えているように見える。
それは例えばわたし自身がそうである。

わたしは昔から、
「おまえはいつも何も考えてないようで、のんきでいいよなあ」
という種類の指摘を周辺の人々からたびたび受けてきた。

しかしそれは間違いである。
わたしは人一倍の心配性である。
または何か重要な行動の前にあれこれと考える癖が強い。
学生の時の水泳部時代、まだ夏になりきっていない時期にプールに入る前、この水はさぞかし冷たかろうと、身体がまだ水に触れる前にぶるぶる震えたりしていた。
あるいは仕事で営業先に向かう時、お客さんから手酷く断られるシーンが脳内に自然に浮かんできて、足がすくんだ。

こういう風に行動の前にネガティブイメージが浮かんできて行動にブレーキをかけようとするのは、ある種の生物的防衛本能であるように思われる。
防衛本能である、と考えると「考え過ぎること」はあながちすべてが無駄である、と断言できない気もしてくる。

一方で、ポジティブでイケイケで考える間も無く身体が動くというタイプの人は、原始時代なら真っ先にライオンやオオカミの餌になるタイプの人類だったのではなかろうか。
そういうポジティブな種類の人類は、文明が十分に発達して弓矢や鉄砲ができてライオンやオオカミの脅威が過去のものになってから発生し始めた新しい人類であるように思われるのである。

つまり、ついネガティブなことを考える人は、より原始的人類の特徴を今に伝える種類の人なのではないか。
いや、もう少し論理の風呂敷を広げてみると、ネガティブに考える人は人類の精強さを根っからは信じていない人、または人類が実は脆弱な存在であることを忘れていない人、つまり母なる自然に対してあくまで謙虚である人類なのではないか、とポジティブに思考変換することもできなくはない。

おおよそ、人間というのは放っておくとあれやこれやいろいろと考えてしまう生き物のようで、しかも同じ考えるなら楽しいことを考えた方がいいのであるが、つい思考が心配の方角に向かう人というのはいる。
まだ事が起こっていないのに、心配だけしてストレスを溜め込むのはまったく無駄であるが、しかしそれは心配性の人にとっては抗いがたい性癖なので、これを自在に制御するのはなかなかむずかしい。
しかし一方で、防衛的に考えることそれ自体はまったく無駄でもないし、たまにであれば考え過ぎることもそんなに悪くないのではないか。

そこで提案であるが、心配性の人は少し考えが過ぎるな、と自覚してきたら散歩かジョギングで身体を動かすのが良い。
精神安定物質のセロトニンが分泌されて心の平静が回復し、血流が筋肉に取られることであまり複雑な思考はできなくなって「無の状態」に少し近づける。

ということで今日はどこかでマラソン大会があるらしい。
30km過ぎて心身ともに無の状態になる人々に、遠くからひそかに声援を送ろうかと思う。
posted by ヤス at 09:32| Comment(2) | 徒然なるままに