2018年10月31日

テスラ四半期決算黒字化

イーロン・マスク率いる電気自動車メーカー、テスラの四半期決算黒字化が話題になっているらしい。
テスラの2018年第三四半期決算(7〜9月決算)が先日発表されて、売上高68億2000万ドル(7700億円)、利益3億1150ドル(350億円)、キャッシュフロー8億8100万ドル(995億円)と、たいへんな好業績を記録したらしい。
ちなみに昨年の同期(2017年第三四半期)は売上高29億8千万ドル(7700億円)、利益マイナス6億ドル(▲670億円)だった。
売上で倍以上の大躍進であり、大半のアナリスト予想で赤字の見込みだったのが黒字転換し、かつキャッシュフローも大幅なプラスになって、最近マーケットに漂っていた「テスラ経営危機」の暗雲をかなり払拭したように見える。

この躍進の原動力は、生産遅延ではかどらなかった「モデル3」が目標の週産5000台を(一時的にではあるが)クリアしたことが大きいらしい。
さらにもうちょっとカラクリがあって、モデル3が早く欲しい人は標準の3万5千ドルモデルではなく、高級バージョンの5万5千ドルモデルだったら早く届けるよ、とやって、かなり多くの人がこの提案に乗ったということだ。
それで販売台数も増えて1台あたりの利益も当初見込みを上回り、そこに生産効率改善によるコスト削減効果もあって、利益状況が大幅に良くなったということのようである。

テスラは創業が15年前の2003年らしいけれど、創業14年目の昨年の売上高はおよそ1.3兆円、今年もこのままいくと2兆円を大きく上回るペースである。
四半期決算は黒字化したが通年ではまだだいぶ赤字が残りそう(2018年は前半期で損失が合計14億ドル出ている)だが、2019年度はたぶん、通年でかなりの黒字になる計算だ。

創業から15年の会社が売上2兆円というのはいかにもすごい。
日本のソフトバンクも孫社長の一代で急成長したが会社であるが、ソフトバンクの創業15年目は売上4千億円くらいだったようだ。

15年で4千億円も十分すごいと思うが、テスラの2兆円はさらにすごい。
ただ両社には共通点があって、創業から10年ちょっと経った頃というのは、大型買収とか巨額投資とか次のステップに向けて「無理をしている」時期で、膨大な負債を抱えて経営危機が強く噂されていた。
まあ結果としてソフトバンクは今も健在で、創業から32年経った今では年商9兆円規模の巨大企業に成長している。

ということは、さらに10年くらい経ったテスラは、年商40兆50兆円規模(または400億500億ドル)になっているのだろうか。
まあなんともスケールの大きい話であるなあと思った。
posted by ヤス at 09:00| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年10月30日

ハロウィンは近くて遠い

明日は10月31日、ハロウィンの日である。
最近は、渋谷のスクランブル交差点で乱痴気騒ぎが繰り広げられてニュースになるのも恒例行事である。

ネットをググると、ハロウィンは元々古代ケルト民族のドゥルイド教で行われていたサウィン祭が起源と書いていある。
それでは何のことだか分からない。
この日はケルト人にとっての大晦日で、先祖の霊が戻ってくる日らしい。
それで先祖の霊といっしょに、どさくさ紛れに悪霊とか悪魔のたぐいもやってくるので、そういう悪い霊を追い払うのに、コワい仮面などかぶってそういう霊たちを追い払う、そういう日であったらしい。
この説明がどこまで正確かはよく分からない。
ただ何となく、そういうこともあるのかなあとは思う。

ハロウィンといえば、目と鼻と口をくり抜いた「ジャック・オー・ランタン」。
あのカボチャがジャック何とかっていうのもあんまりよく知らなかったのだが、あれは元々ケルト(つまりイギリス)では野菜の「かぶ」を使っていたらしい。
それが、ハロウィンがアメリカに伝播した時に、アメリカでは「かぶ」が手に入れにくくて身近にあるカボチャを使った、という話題もメディアなんかではちょいちょい取り上げられている。

ハロウィンの「テーマカラー」のオレンジも、カボチャの実の色から来ているのだろう。
さらにアメリカでは子供が仮装して「いたずらしちゃうぞ」とか言ってお菓子をねだる、というよく分からない要素も付け加えられている。
これはつまりアメリカの子供が、先祖の霊と一緒にやってきた「悪霊」役をやっているということになる。

つまりケルトの年中行事だったのがアメリカに渡った時点で、元々が柳田國男の「遠野物語」風のややおどろおどろしい行事だったのが、よりポップで楽しいお祭りに変化したのが分かる。
それがさらに日本にやって来てもう一段の変身を遂げて、元が何のお祭りだったか原型を留めないほどに変わったのが、今日の渋谷スクランブル交差点における風景ということになる。

ただこうやってあらためてハロウィンの内容を確認してみると、先祖の霊が年に一回帰ってくるとか、悪霊が怖いからコワモテのお面で追い払うとか、そういうのは古代日本の宗教観と重なっていると思う。
さらに、若い人たちはとりあえず人の集まる場所で馬鹿騒ぎをすると気持ちが良い、という心理もおそらく世界普遍のものであるように思う。

もうひとつハロウィンが必要以上に盛り上がる原因は間違いなく「仮装」だろう。
仮装によって自分の顔を物理的に隠すことだけでなく、心理的にも別人格にはじけるような作用が働いてスクランブル交差点は大騒動になる。
その騒動をおじさんは田舎の地からネットを通じてぼーっと眺めているだけである。
ハロウィンは洋の東西を問わぬ意外な普遍性を持つと同時に、おじさんにはその普遍性が作用しない、そういう近くて遠いお祭り騒ぎであるなあ、と思ったりしている。
posted by ヤス at 12:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月29日

本質的に快適でない二輪車の将来

オートバイというのは、乗っていて楽しいのである。
四輪車の運転では、時々睡魔に襲われたりすることがあるが、オートバイではそういうこともない。
眠たくなる暇もないほど、ある意味スリリングな状態の中で運転している。
オートバイは、夏は暑く冬は寒く雨に降られるとずぶ濡れになる。
四輪車では、一部の屋根なしエアコンなしの車種ではともかく、最近の普通のクルマなら当たり前に外界と隔絶された快適な運転空間が提供される。
それは安くて小さい軽自動車などもそうであるのはすごいことだ。

ほんの50年くらい前までは、暑さ寒さから守られる快適な乗り物というのは誰でも乗ることのできるものではなかった。
また今から100年も遡ると、そもそもそんな快適な乗り物は存在しなかった。
そういう意味ではオートバイというのは、100年前の人類の乗り物の快適(不快)レベルを今に引きずっている。

世の中では、たまにオートバイのことを多少格好つけて「鉄馬」と呼んだりする。
鉄馬の呼び方が格好いいかどうかはともかく、なるほどオートバイというのは金属製の馬である、と思えなくもない。
ただオートバイは馬と違って疲れ知らずである。
ガソリン満タンで300kmくらいはノンストップで走り続けることができる。
途中エンジンが疲れたと言って、よちよち走りになったりすることもない。
また馬と違って上下左右に揺れたりとかいうこともなく、整備された舗装道路の上ならば滑るように快適に走る。

ただ馬の場合、彼自身の脳みそを搭載しているので、馬上で居眠りしてもそのまま馬が勝手に歩いて行くれたりもする。
また自在に動く四つ足は多少のオフロードなら軽快に走破することもできる。

後、意外に重要な項目として、馬は立ちゴケしないというのがある。
オートバイというのは少し傾斜した地面に駐車とかしていて、ちょっと油断していると、あらあらという間に立ちゴケることがある。
その点馬は、よほど疲れてないとコケないのは素晴らしい。

最近はジャイロ装置を使った「止まっていても自立する装置」とか、AIを搭載して無人で走り回るオートバイとかがモーターショーで発表されて、そういうのもコスト次第ですぐ実用化できるのではないか、というところまで来ている。

あと10年くらいして、四輪車は自動運転が普通の世の中になった時、オートバイはどうなっているのだろうかと思う。
案外二輪車の方は自動運転化せず、人間が操縦する最後の乗り物になるのではないか、という期待があったりする。
その時は、立ちゴケもせず、暑さ寒さ対策も今よりさらに進化しているだろう。
ただ鉄馬としての本質は変わらず、屋根もない風さらしで、フラフラと不安定な乗り味はずっとそのままに違いない、とやや期待を込めて予想したりしている。
posted by ヤス at 12:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月28日

人間心理の慣性の法則

今神戸にいる。
神戸のどこかの海ぎわで、海を見ながらぼーっとしている。
ぼーっとしながら、人間心理の慣性の法則のようなことを考えている。

今日はこの地で開催される小規模なマラソン大会にエントリーしていたので、多少面倒臭くはあったけれど、早起きして飛んで来たのである。
正確には、バイクを走らせて来た。

途中にある峠越えの高速道路とか、気温が10度くらいでまあまあ寒かったのであるが、新兵器の電熱ジャケットと前から装備しているグリップヒーターのおかげで、大して震えることなく走破できたのは良かった。

それでマラソン大会の受付が確か9時半からだったな、と思いつつ、神戸到着後適当に時間を潰して、大会会場の受付のあるテントに行った。
テントにはゼッケン番号ごとに何番から何番はこちら、みたいな看板が掛かっていたのだが、わたしの番号に該当する看板がない。

「この番号はどこに行けばいいですか」と座っていた可愛い女の子に尋ねたら、少し困惑した顔をした。
その困り顔がまた可愛い。
しかしすぐに、隣の方にいたややむさ苦しいお兄さんを呼んで来た。
可愛い女の子がむさ苦しい野郎に変わって残念がっていたら、むさ苦しい男はやたらテキパキ歯切れがいい割に要領を得ない。
「今日は走りに来たんすか」
と何度も聞かれた。
「一覧に番号が無いですが、走りに来たんすよね」
とやはり聞かれる。
しまいに別の偉いおっさんもやって来て、
「今日走るんですか」
と聞きやがる。

それで結論的には、この大会は前年が台風で中止になって、去年走れなかった人は、返金を要望するか今回あらためて走るか選べるようになっていたらしい。
わたしは今年が初参加なのでそれには関係ないのだが、最初の可愛い女の子か、テキパキしたむさ苦しい野郎かが初動で勘違いして、勘違いの軌道修正がなかなか出来なかったらしい。

それよりも、わたしがエントリーした部門は、スタートは昼12時15分で、受付は10時半からですと言われて、そっちの方がショックだった。
マラソンは必ず朝スタートと思い込んでいたわたしは、わざわざ早起きして寒い中バイクを飛ばして来たのに、である。

げに、人間心理の慣性の法則を軌道修正するのは意外に難しいのである。
posted by ヤス at 10:32| Comment(0) | 徒然なるままに

2018年10月27日

助けるべきか、駆除すべきか

北九州の砂防ダムに2頭のイノシシが落ちた話。
全国から北九州市役所にイノシシ救出を要望する電話がかかり、当初放置する予定であったのが、市役所が救出する羽目におちいったらしい。
それで餌で檻におびき寄せて、なんとか1頭は捕まえて野に放ったら、今度は農作物の食害に苦しむ農民などから苦情が出たという。

現在もう1頭がつかまったのかどうかは知らないが、この問題はどのように理解すればいいのだろうか。

市役所に救助要請の電話をかけてきた人というのは、ほぼ北九州市の外部からだったという。
ニュースでイノシシが砂防ダムの中をさまよっている映像を観たら「可哀想」だと思う気持ちは分からなくもない。
しかし一方で、イノシシなど野生動物による農作物への被害は頻発しており、北九州市でも1500頭を捕獲する計画があったらしい。

かたや「可哀想だから助けてあげて」という市外からの要望があり、もう片方では農作物被害を防ぐために「邪魔だから駆除してくれ」という声が出ている。
「助けて」の声は、生きものに対する純粋な憐憫の気持ちであり、「駆除しろ」は経済的問題が絡む話である。
経済的に駆除を要望する人たちも、いざイノシシたちが「駆除」されて絶命する瞬間を見れば、おそらく憐憫の気持ちを少しくらいは感じるのだろう。

今回の北九州市の行動はどう評価されるべきか。
北九州市は、いくばくかの行政コストを投入して餌やら檻やらを用意し、職員が出動してイノシシ捕獲に乗り出した。
このことは適切だったのだろうか。

後付けの考えではあるが、やはり可哀想の声が多数届いたとしてもここはぐっと我慢して、事態を静観すべきだったのではないか。

役所というのはクレームとか、強い要望とかの、外部の声に弱いという側面がある。
そういう声が届いて騒々しくなると、やや条件反射的に動いてしまうところがあるのではないか。
少なくとも捕獲に乗り出すなら、捕獲後の放獣をどうするか、そのあたりのところもしっかりとシミュレーションしてやるべきだった。

じゃあどういう風に放獣すべきだったのか
それもなかなか難しい。

いっそジビエ料理にしてスタッフが美味しくいただきました、とかすると、一層の炎上が想像される。
かと言って、単に山に放ったのでは、また畑に降りてきて悪さをする可能性が高い。

この矛盾に満ちた難題を見ていると、中東あたりで繰り広げられている対テロ作戦を思わないではいられない。
というのは少し飛躍が過ぎるのか。

いずれにせよ、助けるべきとか駆除しろとか同じイノシシに対する見方が人によって実にそれぞれである、ということが分かった点で、このニュースはなかなか良かったのではないか、と思った。
posted by ヤス at 13:46| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月26日

レーサーレプリカの時代

昔々、わたしがまだ若かった頃、その頃はバイクブームでまわりの連中もほとんどみんな中免取ってバイクに乗っていた。
当時は運輸省の規制緩和でバイクの「カウル」と「セパハン」が解禁されて、それまでのバイクは原則みんなネイキッドだったのが、風よけのカウル付きのバイクがぼちぼち売られるようになっていた。

最近スズキのスポーツバイクの伝説の名車「カタナ」が、コンセプトも新たに復刻されて新発売になるのが話題になっているが、オリジナルのカタナはちょうど運輸省の規制解禁の端境期のバイクだったので、モーターショーの時には付いていた風よけのスクリーンが発売時には無くなっていたり、低く構えたセパハン(セパレートハンドルの略だ、レースマシンはみんなセパハン)のデザインだったのが、教習車みたいなアップハンドルに変わっていて「耕運機ハンドル」とか呼ばれたりした。

それで当時カタナを買った人たちは、耕運機ハンドルをセパハンに改造して乗るのが流行っていたが、これを運輸省が違法改造として取り締まる「カタナ狩り」なる現象が起きたりした。
そういう歴史的な迷走時期があったりしたが、カウルとセパハンはその後市民権を得て、それからブームになったのが「レーサーレプリカ」である。

レーサーレプリカは、当時大人気だった世界GP(現在はMOTOGPと呼ばれている)のレースマシンを模したメカニズムとカラーリングをまとった、レーサーさながらのマシンであった。
中でもスズキのガンマとかヤマハTZRとかホンダNSRとかの過激な250ccの2ストマシンが人気だった。

当時の連中は、250ccの馬力自主規制値45馬力を大幅に超える魔改造を施された2ストマシンに乗って、峠道をブンブン言わせながら走っていたものである。
(当時のわたしは20馬力の弱小マシンに乗っていた)

それで思うのだが、レーサーレプリカに乗る心理というのは、世界GPで走っていた人気のレースライダーが、シートから落っこちそうな感じになるまでコーナー内側に体を落として曲がったりするのが格好良くて、みんな頭の中でその格好良いレースシーンをイメージしながら2ストマシンに乗っているのである。
ブルースリー映画の後、みんなが「アチョー」と叫びがちなのと同じだ。

しかしプロのレーサーと、レプリカに乗っている素人とでは技量の差は明らかである。
それでもイメージだけはみんなプロレーサーで、バイトして貯めた金で革ツナギを買ったりして喜んでいたのを思い出した。(わたしは20馬力だから買ってない)

もちろんバイクレースは今でもあるし、なんなら今のレースは「肘擦り」の時代になって、昔よりも乗り方が過激になっていたりする。
しかし今では、レプリカに乗って危なっかしくコーナリングする無法者はめっきり減ったようである。

最近はアジア諸国のバイクブームが激しくて、インドネシアあたりではちょうど30年前の日本みたいにレーシーなバイクが大人気であるらしい。
そういう世の流れを見て、日本の国も、日本人そのものも、歳をとったのかなあと感じた。
インドネシアももうちょっとしたら、今の日本みたいにバイクブームが落ち着いて歳をとる時が来るのだろうか。

昔若かったおじさんは、今そういうことを思ったりしている。
posted by ヤス at 06:49| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月25日

ドラフト会議

毎年恒例、プロ野球のドラフト会議が今日あるらしい。
わたしは、めぼしい選手にどんな人がいるのかよく知らない。
しかしこの間、本屋で立ち読みした週刊誌(だったと思う)に、広島カープがなぜ強くなったか、ということの解説記事があったのを読んで、ドラフト会議に関連して少し思うことがあった。

その立ち読みした記事では、広島がBクラス続きで低迷した時代というのは、いわゆる「逆指名制度」があった時代と重なると書いてあった。
この時代に強かったのは逆指名をよく受けていたジャイアンツで、広島は不人気のために有力選手の逆指名がほとんどなくて、ドラフト本来の趣旨である「公平な新戦力獲得による戦力均衡」の恩恵に預かれないでいた。

この期間の広島はドミニカにアカデミーを作ったり、伝統の猛練習で名もなき選手を育てたり、有力選手が取れない代わりに戦力強化策をあれこれ創意工夫する。
しかし逆指名制度による「戦力不均衡」の影響は大きく、やっぱりこの間カープはなかなか勝てなかったらしい。
それが逆指名が2007年に撤廃されて以降、戦力獲得が均衡し、かつかねてより工夫を重ねてきた育成策も後押しして有力な選手が育ち、今日の常勝カープが誕生する。
そんなような記事だったと思う。

1997年入団の黒田博樹とか、98年の新井貴浩、田中、菊池、丸とか、いかにもカープ的な選手をこれまでに育てて今日の強いカープがあるらしい。
(もっとも黒田は逆指名2位、新井は出戻りではある)

いまでもカープの一軍総年俸は、ジャイアンツの半分くらいの水準である。
これはカープのコスパがいいのかジャイアンツが悪いのかはよく知らない。
しかし、金をかけるだけでプロ球団が強くなるかというとそうでもない、ということの動かない証拠だろう。

最近は、かつてのハリウッド映画「マネーボール」(ブラピ主演)みたいに、選手の「名前」とか表面的な打率・本塁打数などよりは、出塁率とか体の強さとか、選手のコスパに直結する評価項目が重視されているというような記事もちらほら見かけたりする。

テレビ的には、ジャイアンツの凋落は少し困った話かもしれないが、しかしゲームとしてのプロ野球にはそういう下剋上的な出来事がたくさんあった方が楽しめる。
だから、金がないことは必ずしも悪いことではない。
(もっともあるに越したことはないが)

カネがないなりに工夫することを余儀なくされることにより、知恵を出してゲームが面白くなる。
そういう点で今のプロ野球はたいへん面白いのではないか。

ただ個人的には、藤浪晋太郎のノーコンだけはなんとかしてほしいと思っている。
(井川の二の舞にはならないでほしい)
posted by ヤス at 08:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月24日

テレビの時代の終わり

もうずいぶんと以前からテレビの凋落ぶりが報じられている。
それでふと、テレビの凋落ぶりを示す数字があるのかないのか気になって調べてみたら、NHKの調査データがパッと出てきた。
男女別や年齢層別のテレビ視聴の実態に関する調査データである。
まず「テレビ行為者率」の数字があって、テレビ行為者とは、日常的にテレビを観ている人、具体的には1日15分以上テレビを観る人のことと定義されているらしい。
このテレビ行為者率が、調査の始まった1995年は92%だったのが2015年には85%に下がっている。

それから年齢層別のテレビ視聴時間のデータもあって、これを見るとほぼ事前の予想通りながら、高齢者になるほどテレビをたくさん観ている。
70歳以上5時間16分、60歳代3時間59分、50歳代2時間30分、40歳代2時間07分、30歳代1時間49分、20歳代1時間37分。
年齢層別にきれいに数字の大きさが並んでいる。

気になるのは録画視聴がこの時間の中に入るかどうかである。
そこはよく分からないがたぶん入っていない気がする。
しかしオンタイムで観る人の割合としても、高齢者ほど若い人より圧倒的にたくさん観ているのが分かる。

男女別の傾向差は、平日と土日の視聴時間の差に現れているらしい。
男性は土日になると視聴時間が長くなり、女性は平日と土日であまり差がない。
視聴時間そのものは男性が若干短いようだが、それほど差があるわけではない。

データを数分眺めただけなのでパッと見の感想ではあるが、テレビは今や高齢者のためのメディアになりつつある。
高齢者メディアといえば新聞もそうなっていると言われて久しい。
アメリカの方では、紙の新聞はどんどん潰れていって、ネットメディアに衣替えが進んでいる。
日本ではまだ紙の新聞が命脈を保っていて、軽減税率の対象にもなったりしている。
ただ高齢者のボリュームはこの先20年くらいは、減少はしない。
しかし今テレビを2時間以下しか観ない40歳代以下の世代がこの先だんだん歳をとり、今70歳代の人たちは、しばらく生き延びるにしても一人二人とだんだん欠けていく。
そうなるとテレビの長時間の視聴習慣を持った層がどんどん減っていき、日本におけるテレビの総視聴時間は年とともに減少することが容易に想像される。

テレビは他のネット動画と比べた時、撮影や編集にかける潤沢な制作費が大きな強みだった。
しかし視聴時間が減ってスポンサー収入も比例して減ると、その未来はかなり暗い。
逆にNetflixとかAmazonプライムとか、ネット動画サービスはコンテンツ制作に巨額のお金をつぎ込んでテレビの強みを奪っていく。

テレビが終わる時は、予想以上に近いのではないか。
と、今さらながら思いました。
 
posted by ヤス at 11:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月23日

約束やぶりの事態に備える

約束は守った方がよい。
というか守るためにあるのが約束である。
小学校の道徳の授業ならそのように教えるのだろう。
しかし大人になってしばらくすると、約束は破るためにある、という意味内容の言説にたびたび直面する。
政治家の選挙公約とかは言うに及ばず。
あるいは法律は社会との約束である、と捉えてみれば、例えば道路交通法を律儀に守っている大人は何人いるのか。

こうやって少し考えるだけで、実は約束というのは、守られるべきものというよりは守ることが難しいものなのである、ということが分かるのである。
ただ守ることが容易な約束もなくはなかろう。

例えば、身長伸び盛りの小学生が来年は5cm以上伸ばしてみせるよ、とババアやジジイにけなげに約束したとする。
しかしその小学生はアホなので約束はすぐに忘れる。
翌年、ジジイとババアの方は約束を憶えていてアホな孫をほめる。
この場合、アホな小学生は約束の存在すら忘れていたのであって、身長が自動的に伸びたことによって約束は自動的に履行された。
そういう約束もある。
というか、こういうのは厳密には約束とは言わない。

ここで考えるべきは、約束というのは、ひょっとしたら守れないかもしれない緊張感を伴う必要があるということだ。
前述の自動的に達成される約束はその意味で約束でない。

どこかの会社の営業会議でも、来月は500万円売ります、とかある種の業務的約束が交わされる。
しかしこういう約束は往々にして履行されないことが多い。
履行されないと、約束の破り手は多大のストレスをこうむる。
だからこういう場合の賢い対処法は、なるべくイージーな約束の目標を設定するということだ。
しかしそれだと人間進歩がない。
目標設定の教科書には、努力しても10%くらい届かない感じの野心的な目標水準を推奨したりしている。
こういう「やや無理のある目標」の場合、やはりどんなにがんばり屋さんでも、たまには約束不履行が生じる。
しかし人類の進歩のためには、これくらいは無理をしないといけないようなのである。

話をまとめる。
約束は、イージーな約束は約束とは言わない。
やや無理のある、守れるかどうか緊張感のある水準に設定されて、その緊張感も込みで約束は成立する。
したがって、時々約束は守られないことがある。
だがそれはしょうがないのである。
だってそれが約束の本質なのだから。

というような約束を守れなかった時の言い訳を考えてみた。
ほんとうに、約束って何よ、って思う今日この頃なのである。
posted by ヤス at 11:09| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月22日

沢田研二のニュースに思う

ジュリーこと沢田研二の件である。
最大3万7千人入る埼玉スーパーアリーナのライブで、事前に9千人の説明のところ7千人しか入ってなくて(しかもサクラが多かったらしい)、開演1時間前にブチ切れて帰ってドタキャンになったニュース。
後日ジュリーは自宅近くで記者に囲まれて、ことの一部始終を語ってファンに謝罪したのも流れていた。
わたしはこのニュースを見てなんとなくジュリーが好きになった。

説明が難しいが、ロックな感じがしたのかもしれない。
この事件は一種の炎上商法と見ることもできなくはない。
日頃テレビに出ないジュリー的には、久々に公衆の面前に出てきた感がある。

世の中的には、高いチケットを買い仕事を休んだりしてがんばって会場に駆けつけた正味数千人のファンに失礼だろうという意見が多い。
それはその通りだ。
だから後の囲み取材で、ほとんど余計な言い訳もせずに(たぶん)、そのことを素直に謝っている。
この一連の態度は、ある意味子供っぽい。
しかし表現を変えると、相当に正直な態度だと思う。

スタッフが客の人数をあやふやにして開演しようとしたのにブチ切れたのも正直のゆえと思えるし、すぐ後に、そのことを脚色なく告白するのも正直のなせる技ではないか。
たぶんそのあたりの感じが、ロックな感じがして好ましく思えたのかもしれない。

というのはかなりわたしの勝手な想像が混入して、事実と違う捉え方かもしれないが。

今の世の中は良くも悪くもマーケティング的である。
YouTubeなんかは典型的だと思うが、みんな自分の好きな動画をアップして、それで収益を得て幸せだなあという建前があるけれど、その実はアクセスを上げるために、登録者数を増やすために陰に日向につらい地味な作業が続けられている。
ともすると、世の中は「マーケティングのため」のつらい地味な作業の方が「主たる作業」になっていることが多い。

アーティストの世界もたぶんそうなっている。
そうはいっても「アート」の世界にも、マーケティングはないと困るというのも事実だろう。
しかしマーケティングが勝ち過ぎた「アート」は、もはや「アート」ではない気がする。
ゴッホも死んでから絵の値段が何十億円とかになった。
それは、死んでから評価が上がったその生き様、創作態度も含めての価値である気がする。

過度にマーケティング的なアーティストは、ちょっとしらけるのである。
少なくとも創作活動の最中には、真っ正直にアートしていてほしいと思うのである。

しかし現代の世の中で、常に真正直を貫くのは容易でない。
建前、遠慮、忖度、気遣いなどなど、大人の世界には正直にとっての障害が無数にある。

その中で正直を貫くことは非常にロックである感じがする。
「ロックな感じ」の本当の意味合いはよく知らないけれど。

まあだからとりあえず、わたしとしてはジュリーの態度を強く支持したい。
ジュリーは、わたしの想像だが、気難しくてキレやすい70歳の大御所アーティストにほかならないのかもしれない。
間違っても友達になりたいタイプではないかもしれない。

ただこのくらいの炎上事件に耐えられないようでは、ジュリーのファンはやってられないのではないか。
(ちなみにわたしは最近のジュリーのことをよく知らないが)

まあ一連の事件が実は仕組まれた炎上事件だったりすると、上記書いたことはすべてご破算になって、現代風マーケティングそのもので、しかしそれはそれで面白く、別の意味でロックな感じがするなあ。
などと思ったのである。
 
posted by ヤス at 10:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月21日

自由意思はあると思いたい

以前に「受動意識仮説」のことを書いた。
「受動意識仮説」とは、たとえば喉が渇いて水を飲みに行く場合、蛇口のあるところまで歩いて行って水を飲むとして、歩き始めるコンマ何秒か後に「水を飲みに行こう」という意識が生じる、ということである。
つまり無意識下で水を飲みに行く行動が生じてから、意識が無意識を追認しているということである。
人間の行動は「意識」が決定しているわけではなくて、「無意識」が次々と下す決定を意識はひたすら後追いしているだけ。
「意識」の方では人間の行動はすべて「意識的」に決定していると思い込んでいるけれど、それらの行動は意識が決定した(と思っている)ちょっと前にすべて無意識が決定したことである。
そういう仮説が受動意識仮説だった。

この仮説が正しい場合、つまり人間には本当の意味での「意識」はないということになる。
受動意識仮説は実験による裏付けもあり、なかなか即座には否定し難い仮説だ。

そういうことで、人間には果たして「本当の意識」はあるのか、自由意思は存在するのかというのが哲学的テーマとして発生することになる。

結論から先に言うと、自由意思はあると思う。
というか自由意思はあると思いたい。

しかし受動意識仮説は基本的にはやはり正しくて、自由意思はあるとしてもかなりぼんやりとしてある。
そういう気がする。
自由意思があると思うその根拠は、そんなにはっきりあるわけではない。

なぜ自由意思があると思うかというと、それはそう思った方が生きている甲斐があるからだ。
人間の行動がすべて無意識的欲求や、外界刺激に対する反射行動などから生じていると考えるのはいかにも味気ない。
しかし同時に我々の行動は、大部分が、その99.9%くらいは無意識的欲求や外界刺激に対する反射行動から成り立っているような気がするのも確かだ。

しかしそんな中にあって、自由意思はごく小さい存在ではあるが確かにあって、無意識的欲求の奔流の中で孤軍奮闘している。
そういうイメージが思い浮かぶ。

これは科学的な主張ではなくて、もっぱら個人的願望による考えである。
「自由意思はあると思いたい」という願望も、ある種、無意識的感情の産物のような気もするわけだが。

まあそれはそれで面白い。
だから自由意思は「あると思いたい」というのが、今日の結論。
そういうことにしておく。
 
posted by ヤス at 13:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月20日

タトゥー問題のどうどうめぐり

今日はタトゥー問題について考えてみることにする。
ちなみにタトゥー問題に対するわたしのスタンスは、まったく定まっていない。
だから結論的なことは書けない。
書きながらいろいろ考えてみるだけのことである。

タトゥーや刺青と呼ばれる物が、今ではひとつのファッションとしてだんだん拡大しているようだ。
サッカーのメッシやネイマールも身体中タトゥーだらけでプレーしている。
わたしは水泳が好きで、世界選手権とか以外にもYouTubeでアメリカ国内の水泳大会動画とかもたまに観る。
ちょっと前までは海外の水泳界では、目立つような大きなタトゥーをした選手はほとんどいなかったと思う。
あったとしても胸元にワンポイントで国旗を彫るとか、腰のあたりに小さく誰かさんの名前を彫るとかだった。
それが最近の海外の水泳動画でも、上半身の半分くらいタトゥーで埋めている、そういう人がぼちぼち現れ始めた。

日本でも、ちょっと街の中を歩いていても、腕のあたりとかよく見える位置に大きめのタトゥーを施している人をよく見かけるようになった気がする。
要するに、最近ではタトゥーをする人の数は、だんだん増えていることが想像される。

日本では、少なくとも今まではタトゥーは「反社会的勢力」の目印みたいな扱いになっていて、しかもそれがかなりオフィシャルに認定されており、銭湯温泉とかプールとか、衆目に肌を晒す場所ではタトゥーの人はご遠慮ください、みたいな文化があった。(というか今も根強くある)

それで今議論になっているのは、タトゥーは単なるファッションであり自己表現であるので、現在の日本のような差別的な扱いは止めるべきだ、というのがある。
しかし一方で、タトゥーの人を見ると本能的に身構える、ちょっと怖いと思う人も依然多くいる。
わたし自身も目の前に突然知らないタトゥーの人が出現したら「あっ」と思う。
温泉とかでタトゥー禁止なのは、そういう本能的拒絶反応を示す人がまだ多数派だからで、お客様の中のかなり多くの人々が「あっ」と思うのはやっぱり避けた方がいい、という判断だろう。
この場合の「あっ」は、心底怖いと思った、というのからちょっとだけびっくりした、という感じまで程度もさまざまだろうが、そこには多少のストレス反応があるのもまた事実なのである。

温泉とかのタトゥー禁止は馬鹿げている、という意見にはそれなりになるほどと思うのだが、多くのお客さんのストレス発生を事前に防止したいと思う事業者側の意向も、それなりに合理的であるように思うのだ。

あと、タトゥーがLGBT差別問題なんかと違う点は、それが自分の意思で彫る彫らないを決定できる点だ。
LGBTの場合嗜好ではなくて指向であって、自分の意思では制御が難しい。
タトゥーはファッションとして自分の意思で入れるもので、それを入れる人は事前にそれなりの覚悟を持ってやっているという前提がある。

さらに言うと、多くの「普通の人」にとって、タトゥーが多少とも反社会的な意味合いで捉えられているからこそ、そういう反逆の意味合いも込めてタトゥーを彫るファッション、というのも成立しうる。
その場合、タトゥーが普通になって誰も何も思わなくなるとファッションとしての意味も消滅する、みたいなこともあったりするのではないか。

基本的には、タトゥーを入れる文化は人間のひとつの自由意思として尊重されるべきものだと思う。
しかし他方でタトゥーが怖いと思う多数派の心情も無視されるべきではない。
そして双方のぶつかり合いの「もやもや」が、案外とタトゥー文化の土台として不可欠のものになっていたりするところもあると思った。

何か異質な少数派文化が既存の多数派感情をかきむしって摩擦を生じる、ということは世の中によくあることだ。
異質な文化は「異質である」という理由だけで排除されるべきではない、というのがわたしの意見である。
タトゥー問題に関してはその広がりとともに多数派もだんだん慣れてくることもあるだろうが、しかしみんなが慣れすぎるとタトゥーの尖ったところが丸くなって文化としての面白みを失う、そういうあやうい構造の中にあるような感じがするので、タトゥー問題に関するもやもやは今後もずっと続く、というのが今日のところのわたしの大予想としておく。
 
posted by ヤス at 10:25| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月19日

勉強しなきゃあ

勝間和代の著作によると「世の中は平均して毎年2%ずつ進歩している」らしい。
ちなみにわたしはカツマーではない。
この場合の2%は物の例えであって、何か揺るぎない根拠の元に計算された数字でないのだろう。
しかし確かに、その通りだなあと思うのである。
ちなみに年率2%の増加が10年続くと、100だったものが122になる。
20年で149、30年で181、35年で200になる。

この増加を小さいと見るか大きいと見るかは考え方次第である。
しかし他方で人間は歳をとる。
小学生くらいの子供なら、身長も知的能力も将来10年以上にわたって、年率2%を超える速度で成長が期待されるかもしれない。
しかしいったん大人になってしまってナチュラルな人間的成長が止まってしまうとたいへんである。
若い時分は世の中の進歩と同じかそれより少し速いくらいの感じで人間が成長していたのが、人間の方の成長が止まって世の中にだんだん置いていかれるようになる。

このような現象は、物質文明の進歩が比較的ゆっくり進んでいた江戸時代くらいまでならたいしたことはなかった。
近代以降、科学的知識が急激に増大している時代に顕著な現象のひとつだろう。

江戸時代までなら、世の中の進化速度はせいぜい年率コンマいくらとかなので、大人になって人間の方の成長が止まってもこれまでの経験値で乗り切ることができたろう。
しかし今はそうはいかない。
少し知識の仕入れを怠けているとあっという間に世の中に周回遅れにされる。

こういう時代に世の中に遅れないためには、やはり勉強するしかない。
しかし都合のよいことに、今の時代は勉強の技術そのものもやはり確実に進化している。
また勉強というのは、土台となる知識見識がしっかりできているほどその上に新しい知見を高く積み上げることが可能になる。
そういうものだと思う。

つまり日々コツコツ勉強して、勉強したのが新しい土台になって、その土台の上にまた次の新しい勉強成果が乗っかる、そういう仕組みになっている。
そういうわけで勉強というのは、毎日ちょっとずつ積み上げているうちに「勉強速度」自体がだんだん加速していく、そういうイメージのものであるような気がする。
だから長いこと勉強を続けている人の勉強速度は年率2%より速く、3%とか5%とかになって、世の中の進化を出し抜けるにちがいない。

昔読んだ「七つの習慣」にも戦略的要素となる自己投資にリソースの3分の1を割け、みたいなことがあったけれど、まさに今はそういう時代だと思う。

歳とってだんだんボケてきた感じもするけれど、老体に鞭打ってたまには勉強しようと思ってはいる。
(実際に勉強したかどうかは知らないよ)
posted by ヤス at 08:55| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月18日

SNSに文章を書くこと

今日もこの文章を書こうと思っていて、ちょっと思いついたことはあったのだが、書く前に便所の中で数秒間ぼーっとしている時に、やっぱりそのテーマは難しそうだがから「食パンにケチャップをつけて食う話」でも書いて、いつものようにお茶を濁しておこうか、などと考えた。

そしていざMacBookのスイッチを入れてその前に着席してやっぱりぼーっと考えていたら、いやいや待てよ、やっぱり困難に立ち向かってこその人生なんじゃないか、リスクを避けてばかりいたらろくな大人になれない(もうおじさんですが)ぞ、と思い直し、当初の難しいテーマで書くことにした。

それでMacBookの電源が入って、ちょいとブラウザを立ち上げて某サーバーに接続しようとしたら、ちょっと相手方に障害発生中のようでまたそこで数秒ぼーっと考える時間ができて、最初の小難しいテーマでもケチャップでもなくて、いっそのこと先ほど思い浮かんだ「人生におけるリスクテイク」について書くことにしようと決心した。

こういうブログなどの投稿文というのは、中には時間をかけて入魂の一作をアップする人もいるだろう。
それはそれで価値があることにまちがいはない。
だがおそらくほとんどの人は、かなりライトな感覚で、思いついたことを、ある意味適当に書き散らしているのにちがいないとも思う。
そういう即興ジャズライブみたいなどこへ飛んでいくか分からない危うさ、というのがSNS投稿のひとつの醍醐味のような気がする。
文章のクオリティとしては、何時間もかけて何回も推敲した入魂の一作とは比べるべくもない。
しかしあっちへふらふら、こっちへふらふらしながら毎回書いているうちに、たまーに、深い意味があるように見える一文がぽんと出たりするものかもしれない。
まあ出ないかもしれない。
しかし、よっぽどたくさんふらふらしていれば、それなりに1回や2回は出るんじゃないか。

そういうことをたまに思う。

上記のような「ふらふら感」、ふらふらしているうちに小さい一発を当てるという感じは、人生そのものにもあてはまるような気がする。(ここで当初設定のテーマにだいぶ接近できた)
ただSNS上で適当にふらふら文章を書きなぐるのと、実人生で実際にふらふらしてしまうのとでは、その重みがかなりちがう。

考えようによってはSNSでふらふらしていることは、人生で思い切ってふらふら出来ないのでその代替、シミュレーションとしてふらふらするというのもあるのではないか。

ということで、本来なら人生にリスクテイクは必要なのである、みたいな結論に持って行きたかったのだが、人生でふらふらリスクテイクするのはそれこそリスクが大きいので、SNS上で代わりにふらふらしてみるような感じがあるんじゃないか、という意外な結論に到着した。(ほんとに到着したのかな)

とりあえず、人生手堅いのがいちばんです。
posted by ヤス at 09:59| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月17日

応援は下の名前で。

学生の頃水泳をやっていて、学生スポーツというのはなぜか応援合戦というのが盛んなので、わたしも応援したりされたりしていたわけである。
それで応援されている時にいつも感じていることがあった。
それは、名前の字数。
水泳の競技会場(つまりプールだ)で、観覧席からスタート台にいるチームメイトの名前を絶叫したりするわけであるが、やはり苗字で叫ぶよりは下の名前で叫んだ方が格好いい。
なぜ下の名前の方が格好良くなるのかは、よく考えると分かりにくい。
アメリカンな感じがするからなのか、より親しみがこもった感じになるからなのか、そこのところはよく分からないが、下の名前で叫んだ方が応援の熱が2〜3度上昇する感じになると思う。

観覧席から選手の名前を叫ぶ場合、やはり「ユウジ」とか「コウジ」という3文字名前は呼びやすい。
だから3文字名前の選手というのは、おそらく100%下の名前で応援が叫ばれるのではないかと思う。
しかしわたしの場合、名前が4文字である。
かつ、微妙に叫びにくい音の並びなのである。
だからたぶんほとんど(というか一度として)下の名前で叫ばれたことはない。
わたしはこのことを選手時代に密かに自覚していた。
今でもはっきり憶えているくらい忸怩(じくじ)たる思いで応援を聞いていたのである。
今考えると少しこわい。

観覧席のチームメイトは、わたしのことを応援しようと、わたしの「苗字」(またはアダ名)を叫んでくれている。
しかしわたしはというと、一人だけ漆黒の空間にいるかのごとく、闇の中で目だけ光らせて「なぜ下の名前を叫ばぬのか」と逆ギレ気味にその応援を聞いていたのである。
おそろしいことだ。
(下の名前を叫ばれたら、それはそれで恥ずかしい)

話は変わる。
秋も深まりやっとマラソンシーズンが到来しようとしている。
以前にも何度か書いたが、マラソンというのは「応援のスポーツ」であると思う。
日頃は車が行き交っている道路の上を我々マラソンランナーがとぼとぼ走っていると、沿道から見ず知らずの人ががんばれと声をかけてくれる。
「金払ろうてしんどい思いしてアホとちゃうか」というような人は一人もいない。(たぶん)

沿道から声をかけてくれる人は、学生時代の水泳の応援より幾分温度は低めだと思うが、それでも人間不思議なもので、走っていて応援されると微妙に気持ちがよい。
あれは応援している方もたぶんそうで、路上をとぼとぼ走っているランナーに声援を送ることで、いくばくかの爽快感が得られているのではないか。

スポーツにとって、応援というのはかなり本質的に重要なのではないかと思う。
だから子供を偉大なスポーツ選手にしたいという親御さんは、3文字名前の叫びやすいのにするのが絶対的にオススメなのである。

やれやれ、話がまとまった。
おしまい。
posted by ヤス at 09:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月16日

ほんとうに消費増税するらしい

昨日のニュースで、来年10月の消費税の10%化が臨時閣議で決定されたニュースが流れた。
世間では「二度あることは三度ある」と、今回も消費税は上がらないんじゃないかという見方が根強く、軽減税率対応などの準備の遅れが目立ち始めたので、その対応としてかなり早目の表明になったとニュースには書いてある。

わたしも消費税は、憲法改正スケジュールとの天秤次第で上がらないのではないか、と予想していたのだが、今回のニュースを見ていると憲法改正とかに関係なく「何があっても上げる」ことの意思表明であるように見える。

ラジオで経済評論家の森永卓郎が言っていたが、来年は7月頃に参院選があって、10月の消費増税の前にある。(というか増税が参院選の後に設定されている)
7月頃参院選の時期は、おそらく若干の駆け込み需要で瞬間的に景気が押し上げられている時期であることが想像される。
「都合の良い時期」に参院選ができるような増税スケジュールは非常に頭がいいのではないかとモリタクは言っていたが、なるほどと思った。

ただやっぱり憲法改正の国民投票時期には、程度はともかく景気に悪影響が出始めているのは間違いない。
それでも増税をやるというのは、可能性としては憲法改正をあきらめたか、やっぱり憲法改正に関係なく上げることを強行するかの二択である。
たぶん憲法改正もあきらめず、なおかつ増税もやる、ということなのだろう。

そうなると、わたしの予想(憲法改正国民投票のために増税再々々延期)はハズレである。

それにしても、増税の準備についてである。
前にも何度か書いたが、軽減税率で食料品小売をやっている店はめんどくさいことになる。
今回の増税の閣議決定はめんどくさいことがいよいよ実現することを意味する。
めんどくさいことというのはもちろん、小売食品に適用される軽減税率と、イートインの場合の10%適用。

スーパーでアルコール類と一般食品を買うと8%と10%が混ざってレジ打ちされることになる。
そのためのレジの設定が必要になる。
POSでやっているところは自動でできるからまあよい。
小さい弁当惣菜店などで酒類と弁当類を売る時に、8%と10%の打ち分けが必要になると思うが、これは2万円くらいの簡単なレジスターだと打ち分け不可だろうから機械を買い換えることになる。
または税率ごとに2回に分けてレジを打つか。

とにかくめんどくさい。
イートイン問題に関しては、レジのたびに「ここで食べますか」と聞かなきゃならんとか、こっちはさらに根源的にめんどくさい。(というか答えがない)
役人はほんとうにめんどくさいことが好きだ。
この一事をもってしても日本の未来は相当にくらいと思う。
posted by ヤス at 08:52| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月15日

Amazonでトレーニング

やはりAmazonでちょいちょい買い物をしてしまう。
わたし的なAmazonのメリットは、家電製品などがリアル店舗より安いというのももちろんある。
それと同時に、ロングテール的な扱いの商品がすぐに買えるというのもあって、どっちかというとそっちの方が大きい気がする。
よほど大きな専門店であっても、年間に何個も売れないようなものを一瞬の欠品もなく売り場の棚に常備しておくことは至難の技だろう。
しかしAmazonの場合、ある意味日本中の大小さまざまな店舗の売り場の棚を集約して商売をしているようなところがある。
Amazonの倉庫になくても、Amazonに売り場を開いているどこかの店が在庫していると、とりあえず買える。

それでもうだいぶ前の話だが、キャンプ用品のひとつである「アルコールストーブ」を買ったことがあった。
これは野外で炊事をする時の道具である。
直径7cm高さ4cmくらいの円筒形、鈍い金色の真鍮製で中に燃料用アルコールを入れて火をつける。
それだけの簡単な道具だ。
詳しい人は知っているのかもしれないが、これはおそらくスゥエーデンのブランドの「トランギア」というところの製品が、そもそもの本家なのだろうと思う。
トランギア製のアルコールストーブは、Amazonで4千円ほどで売られている。
おそろしく簡単な構造の割に高い。

わたしが買ったのは609円だった。
それで送料が690円かかって計1299円。
注文した時は気がつかなかったが、はるばる中国から船便で来たらしい。
到着まで2週間ほど待ったかもしれない。

最近はこういうパターンがよくある。
いやむしろAmazonの売り場は、この手の中華製品であふれていると言ってよい。
それで、それらの中華製品がむちゃくちゃ安い。

オーディオ用のデジタルアンプなんかでも、メイドインジャパンだと1万円で収まらないカテゴリーのものが、中華製で千円とかで並んでいる。
これらの中華製は確かに品質管理がずさんなものも多く、使っているうちにすぐ壊れる、というより箱を開けたら壊れていた、ということも多いようである。
しかしそういう場合でも、最近の中華企業は素早く新品交換してくれるから侮れない。
ある意味、品質管理のコストを「素早く交換」で代替しているとも言える。

世の中には「日本製がいちばん」という人はまだまだ多いようだ。
しかしiPhoneだって部品はともかく組み立ては中国という時代だ。
中華工場は、場合によっては日本の工場の何十倍という敷地の中で最新鋭の製造機械を使っている場合も多いだろう。

今、目の前にデジタルの電波式目覚まし時計があるが、これも7〜8百円とかで買った時計である。
昔の目覚まし時計は、「電波式」なしでも2〜3千円したと思う。
今やあらゆる工業製品が、たとえそれが日本製であってもおしなべて安価になっている。
安価な製品には、厳密な品質管理を施すコスト的な余裕がない。

だからハズレをつかまされたら、さっさと返品交換か別の同様品を買うべきだ。
そういう世の中になっている。
日本製だから安心だ、とか言って思考停止しているとすぐにボケる。
そういうことでは、Amazonでの買い物は掘り出し物探索能力とか、メンタルタフネスのトレーニングとかには良い効果があると思う。

最初に何を書こうとしていたか、書いている途中で忘れたので、とりあえずここでおしまいにする。
posted by ヤス at 09:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年10月14日

最古の思い出

歳をとると、よく昔のことを思い出す。
「昔のこと」の分量が増えているからまあ当然だ。
だが一定年齢以下の幼少期のことはあまり思い出さない。
それは現在からの距離がより遠いということもあるし、幼少期は今以上に脳みそがアホだったのでそもそも憶えていないということもあるだろう。

しかし断片的ながら憶えていることもある。
そういう記憶は、たぶん数年おきにたまに思い出して、何十年も前の幼少期の記憶ではあるが「何年か前に思い出したこと」を思い出す、そういうふうに記憶をリレーする感じになる。
だから憶えているのではないかと思う。

わたしの記憶の中で最古のものは、まだ幼稚園にも行ってない頃、炊飯器に入っていたおひやご飯に直に手を突っ込んで、手をごはん粒だらけにしながらそれを食らっている情景である。
炊飯器に手を突っ込みつつ、こちらに向けてにっこり笑っているキュートな写真もあった。
その写真が今もあるかは知らない。
ひょっとしたら「炊飯器に手を突っ込む情景の記憶」は、成長後にその写真を見て事後生成されたのかもしれない。
そういう風に思わなくもない。

もうひとつ憶えているのは、幼稚園くらいの時だったかもしれない。
その頃ウサギ小屋のような小さい団地に住んでいて、すぐ隣だったか1軒はさんで隣だったかに、同い年のサトシ君がいた。
わたしはほぼ毎日、サトシ君の家の前に行って「さーとーしーくん、あーそーぼー」と叫んだ。
そしてサトシ君の家に上がって遊んだ。
反対にうちの家にサトシ君が上がることはあまりなかったのではないか。
それは今思えば、サトシ君の方から遊びに来ることがほとんどなかった証拠のような気がする。

サトシ君と遊んでいて、ひとつ憶えている具体的事件がある。
夏の暑い時とかにサトシ君ちに行くと、ガラスの器に氷が山盛りになって出て来たのだと思う。
それをガリガリかじっていた。
ある時その氷を一粒、洗面台に持って行って蛇口から出る水に晒した。
氷は水に打たれて、あっという間に溶けて無くなった。
さっきまであった氷が消えて、アホガキのわたしは驚いた。
それだけの話だ。

サトシ君ちには何百回も遊びに行ったと思うが、ある頃からサトシ君はなかなか出て来なくなったのだと思う。
サトシ君のお母さんが出てきて「サトシは今、おひるねしてるの」とかなんとか言ってなかなか出て来なくなったような気がする。
わたしにはそれが、子供だましの下手な言い訳だと分かっていた。
わたしが性格がひねくれて人を信用しなくなったことには、このことが深層心理において少し影響しているかもしれない。
そのようなことを思い出した。
posted by ヤス at 11:19| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年10月13日

寝不足自慢の構造

人間は何かにつけてがんばる生き物なのである、というのがわたしの最近いちおしの人間観の一項目である。
いや、その辺の犬や猫でも、ましてや野生の大地に生きる多くの動物たちもまあまあがんばっている。
朝、シッポをフリフリ散歩しているアホ犬でも、ごほうび欲しさにがんばってお手とかする。
アフリカの大地とかで厳しい環境に生きるライオンは、腹が減ってしょうがない場合は危険を顧みず、自分の何倍もあるバッファローにかぶりつくだろう。

動物たちもみながんばっている。
しかし動物ががんばるのはたぶん命に別状のある場合だけだ。
腹が減って死にそうな場合、餓死するよりはがんばって獲物を捕らえた方がよっぽどまし、そう考えてがんばる。

そこへ行くと人間は、のべつまくなしにがんばっている。
そんな、そこまでがんばらなくても、というような場合もがんばる。
別に腹が減ってもないのにがんばる。
たとえば、彼女にモテたいあまり、ライザップでがんばる。
これなんかはむしろ餓死する方向でがんばっている。
ライオンが見たら驚くだろう。

人間の場合腹が減る以外にがんばるきっかけがいくつかあるようで、親分に褒められたくて鉄砲玉でがんばるとか、フェラーリに乗りたい一心で徹夜仕事をするとか、がんばり方も人それぞれ。
資本主義はこういう人間のがんばりグセの上に成立している。
うまいことがんばったやつは資本主義的恩恵を被って小金がたまったりする。

大昔、広告会社にいた頃、世間に一定割合で生息するという「寝てない自慢」が何匹かいた。
オレは昨日は睡眠2時間だよとか、ふた晩連チャンでカンテツ(完全徹夜の略)とか、いろいろいた。
そういう奴らは夜中の23時過ぎとかに、ごく普通の口調で打ち合わせの予約を入れて来たりする。

それでそれらの寝てない自慢たちのことを思い出して、人間特有のがんばりグセと合わせて考えた時、いったいあれは何だったのだろうと思った。
思ったのだが、資本主義の世では寝不足になるほどがんばると、たまに小金が稼げたりする。

しかし寝不足と小金稼ぎの関係性は、必ずしも等価ではない。
ただ人間心理の妙で、寝不足イコール小金稼ぎの神経回路が、知らない間に脳のこめかみの辺りとかに出来上がっているのかもしれない。
それで寝不足の自分は、確かに今小金稼ぎの方に着実に接近している、そういう「バーチャルな実感」が生じるのではないか。

実際に小金は稼いでないんだけど、寝不足になることによって、小金稼ぎの満足をバーチャルに得ることが出来るのではないか。
人間のがんばりグセとか苦労話好きというのは、そういう構造の上にあるのではないかとふと思ったのだが、しかしまあぜんぜん違っているかもしれない。
posted by ヤス at 12:35| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年10月12日

就活が自由になること

経団連の就活ルール廃止が、各方面に波紋を呼んでいるようで、昨日のニュースにも企業の6割、学生7割が「ルールは必要」と回答したというのがあった。
このニュースには載っていなかったけれど、大学側も「ルールは必要」と思っているらしい。
ということは、就活に関係する過半数の人々や組織は「ルールは必要」と思っていることになる。

就活をしたことのないわたしには、就活ルールがそんなにありがたいものなのかどうか、実感としてよく分からない。

大学が必要だと言う分には、その気持ちはなんとなく分かる。
大学は、4年生大学ならその4年間の教育スケジュールがきっちり決まっていて、ルールがある間は、大学は就職指導とか就活生の活動期間の設定とかをルールに合わせて決めていたのに違いない。
それがルールがなくなると、そういうきっちりとしたスケジューリングはかなり難しくなる。
学生ごとにバラバラに、サミダレ式に面接に行ったり就職試験を受けに行ったりして、授業の出席状況にも影響したりするのだろう。

これは大学がある種の就職予備校化していることから発生する問題であるのは、以前にも書いた。
大学の就職率が、受験生の取り合いにおける重要なポイントになっていて、そのため大学も組織的に学生の就職を後押しする必要がある。
一方学生はみんな「安定して倒産しない高収入の会社(役所含む)」を目指す。
そういうところは競争率が高いので学生も売り手市場とばかり言っていられない。
他方で、不安定で今にも倒産しそうなブラックっぽい会社は、学生確保に苦労すること必至。

それでちょっと思ったのだが、そういうブラックな会社(別にブラックでなくても)は、いつまでもルールルールとか言ってないで、いっそ考え方の大転換をしてはどうか。

例えば高校生とか中学生を対象にした超青田買いをするとか。
そのためには専門のスカウト職が必要かもしれないけれど、目をつけた高校生とかに将来ぜひうちの会社に来てくださいとモーションをかける。
そんで中間テストで好成績を収めたらおこづかい3千円あげますとかやって勉強に励むよう仕向ける。
大学ではこんな勉強をしたらどうでしょう、とかアドバイスもして、そうやってサッカーのユースチームの仕組みみたいにして将来戦力の育成を試みるのだ。

まあそういう学生もいざ就職になったら気が変わって、やっぱり安定した高収入のところに行きます、とかなるかもしれませんが。

いずれにせよ、ルールの呪縛がなくなったのなら企業の方も学生の方も思い切って自由に考えるのがよいと思うし、考えているところはもうすでに考えていると思う。
何においても自由になるっていうのは「イージーになる」というのとは違うということなのだろう。
とりあえず、企業も大学も学生さんも、自由な時代に向けてがんばってほしいところである。
posted by ヤス at 11:18| Comment(2) | 徒然なるままに