2018年07月31日

夏の甲子園問題

今年も高校野球の、夏の甲子園大会が開催される。
もう何年も前から高校野球の投手の連投問題などが議論されているが、さらに最近の「温暖化」で夏の大会の酷暑の中でのプレーも是非が問われるようになっている。

わたしは中学生の頃「上甲子園三丁目」に住んでいて、高校野球は外野席が無料だったのでその頃何度も観戦に行ったことがある。
また当時のわたしの中学校野球部の出身選手が甲子園に出場する場合、学校側が「動員」して応援に行った記憶がある。
その時は全校朝礼かなんかで全生徒グラウンドに並んで校長先生が「このたび卒業生の○○君が出場するので○日に応援に行く」旨をアナウンスし、我々生徒はぞろぞろ応援に行ったものである。

当時水泳部だったわたしは、「だったら水泳部の出身者がインターハイに出たら同じように応援しろよ」と友達と言い合ったりしていたけれど、もちろん競泳用プールの観客収容人数の関係でそんなことできないのは明らかだった。

学校教育の場では時として必要以上に「平等」が叫ばれることが多いと思うのだが、高校野球だけは特別扱いなのである。
これはよく言われているように「高野連」のあり方問題であることは間違いない。

高校スポーツでは全国高等学校体育連盟(高体連)というのがあって、ここの主催で水泳とか他のスポーツの全国大会がいずれかの都道府県で開催される。
しかし野球だけは治外法権で日本高等学校野球連盟、いわゆる高野連がしきっている。
それで夏の大会は朝日新聞と高野連の共催で、これの放映権料が動くのはインターハイにはない話である。

高野連は設立年は高体連よりも早く、野球の甲子園大会は戦前からずっと開催された伝統行事だったため戦後もすぐ復活して、興行的にも人気のイベントになったらしい。

それで冒頭の通り、投手の連投問題とか酷暑による熱中症問題(これは観客にとっても重大だ)があるにも関わらず、夏の高校野球は今も粛々と継続されている。
大会を甲子園以外の複数会場に分散して試合間隔を空けるとかそもそも実施時期を酷暑期からずらすとか、改善のアイデアがあったとしても高野連と朝日新聞が利権を握っているのでことは簡単には進まない。

しかも高野連の影響力は甲子園出場選手の出身中学を応援に動員するほど広範に及んでいる。(少なくともうちの中学には及んでいて校長が一生懸命叫んでいた)

改革が必要なのに利権が絡んでいて前に進まない夏の高校野球問題は、つまるところ興行としてのうま味が無くなることだけが解決への道である気がする。
国民が高校野球に興味がなくなってテレビの視聴率が下がれば、結果として選手の健康は維持されるのではないかと思ったりしたが、まあたぶん当分そうはならないのだろう。
posted by ヤス at 08:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月30日

軽減税率問題

順調に行けば来年の10月に消費税率が現在の8%から10%に上がる。
その時に「軽減税率」が導入されることが予定されていて、これが大きな問題になることが予想される。
特に外食と食料品小売をめぐる軽減税率問題は、かなりややこしい。

「軽減税率」導入の目的は低所得者層の負担緩和にあるそうだ。
消費税は所得の高低に関係なく一律の税率でかかるので、エンゲル係数の高い低所得者層の負担を緩和するために食料品小売を8%に据え置くことが考えられている。
ただ酒類と外食は軽減対象から除かれる。
それで問題になっているのが外食におけるテイクアウトと食品小売店におけるイートインである。

軽減税率の対象となるかどうかの判断は購入時、つまりレジの段階の購入者の申告による。
マクドナルドでお金を払う時に「お持ち帰り」で金を払えば8%。
最近多いイートインコーナーのあるコンビニで、「店内で食べます」と言って買えば10%になることになる。(そんなやつはいないだろうが)

それで問題になるのが、マクドで「お持ち帰り」でお金を払って「気が変わって」店内で食べた場合。
この時は「購入時の意向」が尊重されるので突然店員が2%を追加徴収に来たりはしない。
そうなるとレジでは「お持ち帰り」で金を払ってその後店内で食べるのが一種のブームになるかもしれない。

あとコンビニとかで買った食品を店内のイートインで食べる場合にわざわざ10%の申告するやつがいるのかということがある。
たぶんよほどの物好きだけが申告して2%分余計に払う。
しかし、レアケースとはいえイートイン申告をする人の存在が前提上、システムも対応しないといけないのはまあ当たり前である。
たまに出現するイートイン申告客のために、レジシステムをコストを掛けて複雑にするのはいかにも生産性が悪い。(いつでも仕組みを複雑にしたいのは役所の本能である)

あと、同じ商品に対し8%と10%のふた通りの消費税率が存在すると、税込価格を10円単位のキリの良い数字に揃えることができなくなるおそれが出てくる。
数字をキリよくして小銭の発生を回避していたのが、そうもいかなくなる。

外食・食品小売における軽減税率問題は考えるほどにいろいろと出て来そうな気分しかしない。
ただ店側が、複雑化・高コスト化が予想されるレジ作業をこの機会にセルフレジ化やキャッシュレス化で乗り切るというシナリオもあったりしたら、それはそれで面白いかもしれない。

憲法改正論議への対策上、政治的に消費税はそもそも上がらないのではないか、という予想も根強いわけであるが、しかしどうせなら予定通り10%になって軽減税率導入で混乱する社会のありようを見てみたい気もするなあと思う。(というのは不謹慎なのでここだけの話にしておく)
posted by ヤス at 08:30| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月29日

ニコンのフルサイズミラーレス

先日、7月25日に流れたニュースで、カメラメーカーのニコンが「フルサイズ」センサーを使った「ミラーレスカメラ」を開発中、というのがあった。
続報で、新型ミラーレスカメラのスペックや価格などを8月23日に発表するという。

わたしはニコンの「フルサイズ」センサー一眼レフのD700をいちおう持っている。
このD700は2008年発売の、10年選手のカメラである。
購入時に付属していたリチウムイオンバッテリーはとっくにへたっていて、今はもっぱらオプションで別買いしたバッテリーグリップにエネループを入れて使うしかない。
で、たまにエネループに充電してスイッチオンしてみるとちゃんと動く。
さらにレンズをはめてシャッターを切ってみるとちゃんと写る。
シャッターを押してデジタル写真が撮れるまでの感覚は、最近のカメラと比べても遜色はない。
これがさらに10年前の1990年代のデジカメだと、シャッターのラグがあったりして古さを感じたものであるが、10年選手のニコンD700は古いは古いが写真を撮る役目はまだじゅうぶん果たせる。

ただD700は大きく重い。
もっと大きく重い機種も他にあるし、最近は軽くてコンパクトなフルサイズ一眼レフがいくつか出てもいるが、それでもなお昔の普及型フィルム一眼レフに比べるとかなり大きい。

そんな状況に2013年登場したのがフルサイズミラーレスのソニーα7シリーズだった。
α7は大きさ重さが向かいのニコンnewFM2なんかと同じ感じだった。
α7はその後ボディ内手ぶれ補正を装備した「U」シリーズに移行し、やや大きく重くなったがそれでもなお、昔のフィルム一眼レフのサイズ感の範囲にはとどまっている。
初期のソニーαは、電子式ファインダーやシャッターのタイムラグがかなりひどかったけれど最近の機種ではほぼそれもなくなっている。
電子式ファインダーは確かに光学プリズムファインダーほど気持ちよくはないけれど、電子式な分ファインダー画像を明るくしたり暗くしたり表示を出したりが自由にできて、便利なことも多い。
また電子データの処理時間がかかり光学式の一眼レフより動作が遅いのが大きな欠点だったが、これも最近は大幅に克服されて、オートフォーカス速度も連続シャッターも一眼レフを凌ぐほどになっている。
こうなると一眼レフのメリットは「光学ファインダーの気持ち良さ」だけになる。

わたしは2年くらい前に光学式ファインダーの一眼レフはいずれ絶滅すると予言したような気がするのだが、ニコンのミラーレス機販売でいよいよこの件が現実化しそうだ。
ライバルのキャノンもフルサイズ機のラインナップをいずれミラーレス化するに違いない。

ここしばらくスマホカメラの台頭により普及型のデジカメが急速に市場から駆逐されており、この流れにカメラメーカーが対抗するには大型撮像素子を積んだ高機能カメラによるしかないのである。
いずれにせよ、カメラメーカー各社(特にニコン)にはこれからのミラーレス時代を生き残るようがんばってほしい。
posted by ヤス at 15:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月28日

時計だらけの時代

今わたしのうちには時計がいくつもある。
お値段千円前後の電池式の目覚まし時計が4つか5つくらいあって、そのうち3つは電波時計だったと思う。
他にも安物のカシオの電波式腕時計もあるし、ランニング用のGPSウォッチがある。
またよく使うキッチンタイマーにも時計の表示があり、さらに小型の温湿度計もあるのだがそれにも時計がついている。
ついでに言うとiPhoneも電源スイッチを入れると液晶画面に時刻が表示される。
iPad Proも同様。
Windowsパソコンも画面の右下に時計が表示されている。

気が付いてみるとうちの中が時計だらけになっている。
それも時間表示が本職の時計以外に、ついでに時間を表示する機器類がたくさんある。
一方昔使っていた、壁にかけるタイプの大きな時計が今うちにはない。
(ひょっとしたら押入れの中にあるような気もするが)

時計に関してもうひとつ思うことは、電波時計とかGPSとかネット接続とかで、時計の表示がものすごく正確になっているということがある。
安物の電波式目覚まし時計は、微妙に数秒だけ時間がズレているのだがそれでもちろん実用上はなんの問題もない。

というか、500円くらいで買ったキッチンタイマーの時計だって、一回時刻を合わせると大きく狂うことがほとんどない。
それでも時間が1分2分くらいズレることはあるが、そもそもキッチンタイマーの時計はあてにしていないからまあまったく気にならない。
正確な時間を知るということなら、iPhoneかパソコンの時間を見るのが手っ取り早い。
というか、わたしは今ではiPhoneの時刻が絶対的に正しいものと常に頭から信用するようになっている。

大昔、電波時計もGPSもスマホもない時代には、「ぜんまい式」と違ってクォーツの腕時計は1ヶ月に数秒くらいしか狂わなくて大した時代になった、と喜んでいたことがあった。
その時代には「黒電話」で117をダイヤルして「時報」を聞いて時計を合わせていた。
あるいはラジオの時報なんかもよく使っていた。

しかしそうやって時報に合わせて時計のリセットボタンを押すスリルも、もう過去のものである。
今の時代には時計の時刻合わせは基本必要なくなった。

ちょっと昔の映画だと、銀行強盗に入るのに秒刻みの緻密な計画を立てて、「それじゃあ始めるぞ、まず時計を合わせよう」といって犯人たちで輪になって腕時計をリセットしていた。
だがそれも今は昔の話である。

今の時代なら時計合わせとかしなくても、いつでも正確に銀行強盗ができる。
いやほんとうに、すごい時代になったなあと思う。
posted by ヤス at 09:30| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月27日

人の意見を勝手に想像しないこと

昔中国をバックパック旅行していて、汽車に乗っている時にいかつい白人のおじさんと席が隣同士になって、そのおじさんはアメリカ人だったらしいのだが、その人とひとしきり世間話をしたことがあった。
なんでもおじさんはかなり昔に日本に住んでいたことがあったらしく、その当時(たぶんおじさんの子どもの頃だったのではないか)近所の川で泳いで遊んでいたらしい。
おじさんは、「今でも日本の川は泳げるくらいきれいなのか」というようなことを聞いてきた。
それでわたしは、住んでいるところの近所の川で泳いだことはなかったので「わたしは日本の川では泳いだことはない」みたいなことをがんばって伝えようとした。

だがおじさんは、「日本の川は今でも泳げるくらいきれいなのか」どうかを知りたかったらしい。
言外に「おまえが泳いだかどうかは聞いてねえよ」みたいな雰囲気を噴出させつつ執拗に「日本の川は今もきれいなのか」と聞いてくるのである。
それでわたしとしては、「田舎の川はきれいだが、人が多いところの川は汚れている」というようなことをがんばって伝えた。

そうしたらおじさんは「そうか日本の川も汚れてしまったのか」と、わたしの下手な英語を妙な感じに受け止めてほんの少しだけ悲しそうな顔をした。
わたしは、オーバージェスチャーだかなんだか知らないがおじさんの悲しそうな顔を見て、こんなんなら「日本の川は今もクリーンだよ」と適当なことを言っておけば面倒臭くなくてよかったかな、とやや後悔した。

それでその時思ったのだが、アメリカ人というのは、会話の答えが少しでも質問の意図とズレると容赦ない。
まあそれは単にそのおじさんのパーソナリティの問題だったのかもしれないが、でもやっぱり国民性の違いというか、曖昧さを放置しないあの感じは日本にはあまりないような気がする。

その旅の体験以降、わたしは日本では個人が周辺の人の心情・意見を敏感に察知してそこに合わせようという傾向が他の国と比べて強いのだろう、と勝手に思うようになった。
日本では空気を読んだり忖度したり、何かテレパシー的な能力を発揮して他人の意向を解釈する能力が異常発達している感じがあるのではないか。
それで会話の中でも、相手のひとことを深読みして「あなたはこんな考えなのですね」というのを知らないうちに勝手に話に混ぜてきてややこしくなったりする。

相手が直接言っていないことを深読みして拡大解釈するのは、これは日本人に特有の傾向かどうかは知らない。
しかし、自分が聞きたいことを相手が直接言っていない時は勝手に周辺状況で想像せず、あの時のいかついアメリカ人のように執拗に本人に確認してみるというのが必要なのかもしれない、とちょっと思ったりしている。
posted by ヤス at 11:12| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月26日

素直であること

中学校時代の友だちに「素直」という名前のやつがいた。
「素直」と書いて「もとなお」と読む。
それで、ある時そいつの親父の名前が「正直」と書いて「まさなお」だというのを聞いてげーっと驚いたことがあった。
正直と素直の親子って、ちょっとくどいくらいに純真な感じがする。

で、当の素直くんは名前の通りなかなかいいやつで、将来音楽の道に進むというのでそっちの進路を選択していった。
素直くんの親父さんには結局会う機会はなかったけれど、たぶんすごく正直ないい人だったんだろうと推測する。

ところで、人間にとって素直で正直というのはけっこう重要な資質であると思う。
会社の人事担当者なんかの立場だったりすると、今年の新人が素直な気質かどうかはかなり気になるのではないか。
ある意味上司にとっては、素直さに欠ける部下ほど扱いにくいものもないだろうと思う。
何か指示を出したりするたびに「でも、それは・・・」と反論を返すような部下を動かすのは、けっこうしんどい。

この場合おそらく部下の方にも言い分はあって、上司の指示内容にどうしても反論したくなるような要素があるからこそ余計なひとことを言っている。
まあそういう生意気な部下でも、少々のことならぐっと飲み込んで素直に従った方が世の中うまく行く、というのをそのうち憶えてだんだん大人になっていく。たぶん。

しかし人間がかんぺきに素直でいる、というのは考えてみるとなかなか難しいことなのかもしれない。
言葉に出していちいち反論しないにしても、心の中でブツブツ文句を言っていたりすることとか多いのじゃないか。
そういう場合、その思いが態度に出て相手に伝わり、結局口に出して言うのと大差はないことになる。
また世の中には悪い人間もたくさんいて、あんまりいつでも素直に対応するのも考えものというケースもあるだろう。

それで本当に頭にバカがつくくらい素直で正直な人間というのは、おそらく人に騙されることも多いのかもしれない。
ただ真に素直な人間でいるためには、そういうリスクも背負っていかざるを得ない。たぶん。
そしてたまに騙されることがあるようなバカ正直な人間であっても、その美質が助けになって誰かに騙されたダメージをカバーしてお釣りがくる、ということがあるような気がする。

そう考えると、素直な気質の人間というのはすごく貴重な存在であるような気がする。
そんなことを思いながら、素直くんの親父さんがどんな人なのか見たかったなあと思っている。
posted by ヤス at 10:39| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年07月25日

杉田水脈の発言について

杉田水脈という自民党の衆議院議員がいて、その人のLGBT支援に関する発言(「新潮45」8月号寄稿文やTwitter発言など)が波紋を呼んでいる。
いわくLGBTの人たちは子どもを作らないから生産性がない、あるいは日本にはLBGT差別はない、などの主張を元に公的支援の大義名分がない、そういう意味のことを言ったらしい。
この意見に対し当然ながら各方面から批判が殺到し、しかし自民党からは公式の対応は出ず、自民党二階幹事長も「人それぞれいろんな人生観、考えがある」と述べて党としては問題視しないようである。

杉田水脈の意見に対する反論は多くの人々が表明し、出尽くしているように思うのでいったん置いておく。
なぜこういう突拍子も無い意見が出たのか、その背景などについて少し想像してみる。

まずこういう意見が政治家から出る背景には、この意見に激しく同意する一定数の有権者層が存在することがあるのは間違いない。
杉田水脈が各方面からの批判にもひるむことなく、以前から一貫して差別主義的発言を繰り返すのは、その発言を支持する有権者の存在を示唆している。
逆に言うと、杉田水脈は発言を繰り返すことで「支持層」の票固めを行なっている。
また自民党が彼女を比例上位で公認したのも、選挙をにらんだ得票行動なのであろう。

だから彼女をいくら論理的に批判したところで、これは「カエルのツラにしょんべん」である。
あまり効果は期待できない。

話は飛ぶ。
「殺人がなぜいけないか」について論じる。
これはわたしの勝手な世界観であるが、宇宙的な視点においてこの世界に「正義」も「不正義」もない。
それだと宇宙的な視点では、殺人は悪ではないということになる。
しかし現実の人間社会では殺人者には社会から罰がくだされる。
なぜ罰がくだされるかというと「他人の命を奪うのを容認する」ということは、「自分の命が奪われることを容認する」ことにつながるからだ。
この世の中で殺人が悪と認定されるのは、自分自身を殺人のリスクにさらさないためであると言える。
同様に、この世で泥棒が悪と認定されるのは、自分が泥棒に奪われないようにするためと言える。

人間には「価値観」という不思議なものがある。
価値観はひとそれぞれ違い、これを無理に違う価値観に合わせようというのは、時に大きな苦痛を伴う。
価値観とはそういうものである。

LGBTの人を見て違和感を感じるのもある種の価値観であり、ひょっとしたらある程度は尊重されるべきなのかもしれない。
一方でLGBTの生き方ももちろん尊重されるべき価値観であり、異なる価値観は時としてぶつかり摩擦を生じるということのようである。
異なる価値観の衝突や摩擦を緩和し、多様な価値観の人々をぜんぶ包摂していこうというのが近代社会の基本思想であり、これは言ってみれば人類が未来に渡って生き延びるための知恵なのだと思う。

特定の価値観の層にだけ響く主張を繰り返す政治家というのは、ブロガー都議の音喜多駿氏が言っていたけれど「政治家としての自己存在の否定であり、職責の放棄」だと思う。
社会秩序の破壊を厭わずに得票行動に邁進するのは、おそろしく無神経でありきわめて利己的なあり方だと言わざるを得ない。

そしてこの問題がどっちの方へ転んで行くかというのが、今後の日本を占うリトマス試験紙のようなものの気がする。
posted by ヤス at 10:32| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月24日

群れを作って生きる

動物の中には、縄張りを作って生きるのがいる。
たとえば森の中の10km圏内を自分の縄張りと定めて、境界線のあたりの木に印をつけて他の個体が入ってこないようにする。
それでもし他のが入ってきた場合は、烈火のごとく怒り狂って力づくで追い出したりする。
その縄張りの中で得られる食料によって自分一匹がなんとか生きていけるということなので、普通は別の個体の縄張りにむやみに侵入したりせず、縄張りが重複しないようにして無用の争いを避ける。

一方で縄張りを作らない生き物もいて、その代表的なスタイルは群れを作って生きることだ。
サルなんかが典型的だが、数十頭で群れを作ってある程度共同で食料確保したり外敵と戦ったりする。
そのかわり1頭だけの時に比べると必要な食料の量もずっと大量になるので、数日もするとあたりに食えるものが少なくなる。
だから群れで生きる動物は、食料を求めてちょっとずつ移動して暮らすことになる。
縄張りの中で一頭だけで生きているのと違って、群れで生きる動物は助け合って生きる。
いつも「気心の知れた」仲間がそばにいて、労せずして食料の食べ残しにありつけたり、猛獣と出くわした時も共同で対処できるので安心である。

変な話、猛獣に襲われるとだいたい食べられるのは小さくて逃げるのが遅い子どもの個体だったりするので、大人の個体は子どもを生贄にして生き延びていればいいのでさらにラクチンである。

ところがそういう群れで生きる動物もいいことばかりではなくて、サルのような知的に高等な動物の場合は特にそうらしいのだが、集団生活には序列が発生する。
簡単に言うと、強い個体はやたら威張る。
強くて序列の高い個体は、食料を食べるのでも真っ先に一番美味いところを食う。
メスを口説き落とすのも序列順。
それでたまに序列の低い弱い個体をいじめてストレスを発散したりする。

これは人間社会のことではなくて野生動物の群れの中の話である。
それで序列の低い弱い固体は、常に社会の中で生きるストレスにさらされながらも、食料確保や外敵から身を守る便利を優先して、群れの中で我慢して生きることになる。
群れを作る動物のサルの世界では、たまに「離れザル」といって、ボスザルになり損ねた比較的強い固体が群れを離れて、単独で生きていくパターンもあるらしい。

ただ「離れザル」は、やがて元の群れに戻ってボスザルに成り上がったり、別の群れに紛れ込んでそこでの出世を目指したりするらしい。
そういう意味で、サルの場合は根が集団生活の中で生きていくようにできているのかもしれない。

弱いサルの立場に立って考えると、何か身につまされるような話だと思った。
posted by ヤス at 13:38| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月23日

暗視装置無しで身軽に戦う

リドリー・スコット監督の映画「ブラックホークダウン」は、1993年のソマリアの首都モガディシュにおけるアメリカ軍による敵側のアイディード将軍捕獲作戦を描いた作品だが、その中の一場面で出撃前のアメリカ軍特殊部隊の「後輩」が暗視装置を持って行こうとして、「先輩」から「そんなものは置いていけ」と言われる場面がある。
当初作戦は30分程度で終了する計画であり、陽の高いうちしかやらないのに夜間装備は要らないだろうというのが「先輩」の意図だったのだろう。
それで「後輩」ともども暗視装置なしでヘリコプター「ブラックホーク」に乗り込んで、モガディシュの街の中に降下するのだが、結果RPGの直撃を受けて大型輸送ヘリ「ブラックホーク」が2機撃墜され、また兵士たちに死傷者が続出して特殊部隊員たちは街の中に孤立して夜を迎える。
映画は、AKやRPGで武装した数千人のソマリア民兵に囲まれて夜になり、弾薬は乏しくなり暗視装置もない中激闘を続けて翌朝「命からがら」脱出して終わる。

それで、暗視装置なんて個人装備の中ではそんなに大きなものでもないし、暗闇の中ではあれがあるのとないとでは戦闘力が激しく違うのだから、ついでに持って行きゃあいいのになと最初思った。
いろんな映画の中で特殊部隊に暗視装置は黄金コンビであって、暗闇の中でうごめくゲリラやテロリストを暗視装置に映る緑色の画像を見ながら、バッタバッタと倒していくのはお約束のシーンである。
にもかかわらず先輩は、使わないから置いていけという。
それってどうなのか。

だが今思い直してみると、先輩の思いには納得できる点がある。
ひとつは、この作戦は何が何でも陽の高いうちに終わらせるのだという決意、あるいは作戦に対する信頼。
軍人たるもの、作戦計画が昼まで終わるとなっていたら、昼まで終わることを単純に信じて疑わない。
そういうものなのかもしれない。
あと、なるべく不要なものは持たない、邪魔になるものは身につけないというミニマニズムな精神。
絶対的に必要なもの以外は置いていく。
そうでなくて、あれも要るかなこれも持って行こうかなとやっていると、あっという間に装備が山盛りになって戦えなくなる。

映画「プラトーン」でも「ランボー」でも、強いヒーローは予備弾倉もあんまり持たないで、小銃一丁の軽装で活躍する。

また日常生活においても、なるべくものは持たない方が周りの空間が広々として身も軽くなって、代わりに気持ち的に豊かになる。(かもしれない)

いずれにせよ、戦うときは必要最低限の装備で、仮にそれがあるとすごく便利なものでも時に置いていって、身軽に戦う方がいい。
そのことを映画「ブラックホークダウン」のあの場面は教えてくれているのだ、とある時突然思ったのだった。
posted by ヤス at 10:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月22日

学校のエアコン問題

最近、学校のエアコン問題が浮上しているようで、各所で議論がまき起こっている。
ニュースでは炎天下に遠足を決行してその後体調を崩してそのまま亡くなってしまった子どもの話とか、同じくどこかの高校で、ランニングして熱中症で重体になったとか、そういう事例が多く取り上げられている。

我々の時代には当然のように学校にはエアコンが無かった。
しかしその当時には、我が家にも(少なくとも自分の部屋には)エアコンが無かった。
夏の夜に寝るときは、素っ裸に扇風機で風を当てて、それで逆に夏風邪をひくとかいうこともあったような気がする。

それと、我々の子ども時代と気温も違っている。
気象庁のデータによると、わたしが子ども時代の、例えば1976年の岡山市は年間で一番暑いのが8月の34.5度である。
そして8月の日最高気温の平均値は30.8度。
その40年後の岡山の年間最高気温は37.4度、日最高気温平均値34.3度。

わたしの個人的な感覚でいうと、温度が30.0度くらいならまだ下敷きでパタパタやりながらエアコンなしで我慢ができるレベルである。
しかし32、33度を超えるくらいになるとじっとしていても汗が出てきてたぶん勉強どころではなくなる気がする。(もともとが勉強どころではないのだが)

特に市街地はアスファルトが熱を含んで田舎よりさらに暑くなる。
また現在は家でクーラーを使っていない人間の方が少数派だろうと思うので、やっぱり現代の学校にはクーラーは必要な気がする。

それと最近の熱中症に関する事故報道で、何か最近は学校の事故が増えているような感じもするわけであるが、学校の名誉のために付け加えておくが、災害共済のデータによると昭和60年代の学校事故による死亡者数は250人くらいだったのが、平成20年代には70人くらいに減っている。
注意すべきは子どもの総数も減っている点だが、そこを加味しても率的にもかなり数字は下がっているようである。
これは、昔は学校で子どもが死んでも今ほど社会的に大ごとにならなかった、ということなのかもしれない。

いずれにせよ、現在は何十年前に比べるとかなり暑くなっており、夏のエアコンはあった方がいい。
問題は広い教室を冷房することによる膨大な電気代なんだろうが、これは冬もあったかくなっているので、冬の暖房費との相殺でいくらか捻出できる気がする。

今の学校の、夏の教室の暑さの感じってどんなんだろうか、ちょっと知りたい。
それと2020年の炎天下で実施される東京オリンピックもかなり心配だ、と思った。
posted by ヤス at 08:33| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月21日

MacBook速攻修理完了。

この間、MacBookのキーボードの調子が悪い話を書いたけれど、あの後すぐにアップルのサポートに電話をした。
というか、もう少し正確にいうと、iPhoneに入れた「Appleサポート」のアプリの所定のボタンを押すと、アメリカ合衆国の電話番号からコールバックで電話がかかってきた。
番号はアメリカ合衆国だがしゃべっているのは無論日本人(たぶん)で、落ち着いた感じの男性の声でキーボードの不具合に関しいろいろと症状をたずねられた。

それで「P」のキーがおそろしく反応が悪くて、かなり力強く3秒くらい押したら反応する、あと「i」もちょっとやばい、それから「U」もあやしい、などと伝えた。
そうしたら「その症状は現在MacBook ProおよびMacBookの一部の機種で問題になっている症状」だとおっしゃる。
Appleとして問題を公式に認識しこの症状に関しては無償で修理いたします、とのことだった。
この修理に関してはAppleのサイトの「交換/リペアエクステンションプログラム」にも載っているようだった。
修理にかかる時間は、ブツを送ってからお客の手元に戻すまでが3から5営業日かかるといっていた。
月曜の電話の時点で、「最短で今週金曜日にはお戻しできるかと」ということだった。

それで電話の翌日、火曜日の夜にクロネコヤマト便が問題のMacBookを修理のため引き取りに来た。
Appleのサイトの「マイサポート・修理状況」で確認していると、水曜日まで動きはなくて、木曜日の午前に「お客様の製品を受領しました」が出て、その日の午後には「修理が完了しました」と出た。
「受領」から「完了」まではたぶん4〜5時間あるかないか、その辺からなんとなく想像するに、修理にかかった正味時間は1時間くらいだったんじゃないか、という気がする。

ともかく木曜日のうちにブツは「修理場」から発送され、昨日金曜日の早朝には岡山の地に到着していたようである。

早速ブツを受け取って確認してみたところ、トップケース・アセンブリごとキーボード全体を交換したようだ。
各キートップが指の油でテカっていたのが新品に変わってきれいになった。
無論「P」も「i」も「U」も、他のどのキーも正常に作動することを確認した。

今回のAppleの修理費用がどれくらいかかっているのかはよく知らない。
1件処理するのにナンボかかるのか、全部で総額いくらになるのか知らないが、それなりに相当かかっているのは間違いない。
それにしても火曜日の夜に修理に出したパソコンが金曜の午前中に帰ってくるというのは、ものすごく便利な世の中になったもんだと思った。
posted by ヤス at 14:31| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月20日

言葉は現象の主観化

人間は言葉で考えて言葉で伝えて言葉で記録する、というのは昨日書いた。
だから人間の考えていることは言葉によって規定されるということがあって、というか、人間は言葉を通じてこの世界を認識する。
人間がこの世界について認識したことを言葉に置き換えた時に、その認識が現実のものになるということがある。

ただ言葉以外に認識を伝える方法には、画像もあるし音声もあるし、最近だと動画もある。
画像については2万年前のラスコー洞窟壁画の時代からあるわけだけれど、200年くらい前には写真技術が登場して、またこの最近デジタル技術が普及して動画撮影もすっかり日常のものになった。

だから現代では何かを伝える時に、言葉以外にデジタルで撮った写真や動画を使うこともできる。
ただそれらの写真や動画は言語化される以前の「ナマの現象記録」であって、たとえば旅先のきれいな夕日の写真を知り合いに送りつけたりして、そこに「夕日がきれい」とかいうコメントを貼り付けて送るとその写真の認識に関し「きれいな夕日」という言語化がなされる。

人によってはたいしてきれいでもないな、と思ったりすることもあるわけで、そういう意味で言葉による認識は「客観的な現象」の「言葉による主観化」とでもいえそうである。

誰かが主観化した何かの言葉に触れて、それがなんとなく納得がいくという場合、つまり共感する場合もあるわけで、言葉というのはそうやって人と人をゆるく繋いだりもするわけだ。

我々は実質言葉によって規定された世界に生きていて、言葉によって人とつながって、時々言葉が誤解を生んでトラブったりもする。

SF映画とかで出てくるテレパシーとか念力とか、ああいうのにも言葉は出てくるのだろうか。

とりあえず、言葉の使い方はなかなかむずかしい。
posted by ヤス at 12:00| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月19日

言葉について

人間は言葉を使ってコミュニケーションを行う。
言葉を喋って誰か他人に自分の意思を伝える。
紙に言葉を記して、その文字を通じて情報を残したりする。
あるいは自分の脳みその中では、自分の考えは言葉によって輪郭が整えられて、それによって初めて思考が可能になる。

人類における言葉の発明、というのがいつ頃のことなのかわたしはよく知らない。
おそらくすでにたくさんの学者が研究しているに違いないのだが、しかし言葉というのは、特に喋り言葉は、人骨や石器・土器と違って何万年も地中に埋もれていたのがある日突然出てくる、みたいなことがない。
考古学的証拠が残っていることがほとんど絶望的なので、間接的証拠からいろいろ類推するしかない。
つまり、人類における言語の起源に関しては学説がまだ固まっていないので、わたしのような素人が勝手な妄想をふくらませる余地が多く残されている。

それで思うのだが、日本語は英語やフランス語とはずいぶん違う。
中国語やアラビア語も、ずいぶんと異質な言葉のように感じられる。
ここで注目すべきと思うのは、より後になって発明されたと思われる書き言葉より、話し言葉の印象についてである。
ヨーロッパ系の諸言語、アラビア語、中国語などは聞いた印象がずいぶん違うと思う。

それで思うのだが、もし人類が全地球上に拡散する以前、まだアフリカ大陸大地溝帯の狭いところに住んでいる時期に話し言葉がある程度確立されていたら、現在地域ごとに印象の異なる言語というのは生まれていたのだろうかという疑問がある。
最初の頃の人類の「言葉のようなもの」は、チンパンジーに毛が生えた程度(?)の、単純な叫び声とかジェスチャーとかボディランゲージ的なものだったのではないかという気がする。
それでホモ・サピエンスが出アフリカしてユーラシア大陸全域や南北アメリカ大陸にまで進出し終わったのが3〜1.5万年前くらいだと思うが、それより以降に細かい言語が成立したと考えると、地域ごとにぜんぜん違う言葉が使われていることの説明になる気がする。

現代的な意味での「言葉」の発明はほぼ1万年くらい前であり、「言葉」の発明とほぼ同時にそれまでの小規模な群れ単位の生活が大規模な社会集団生活に置き換わり文明が沸き起こったという話を聞いたことがあるが、その話にはいかにも説得力があると思う。

人類は言葉を使うことによって、思考に明確な輪郭が与えられ、また先祖代々にわたって複雑な知恵の蓄積ができるようになった。
それが人類文明の素になったのはたぶん間違いないと思う。

同時に、言葉は現実世界のほんのごく一部を切り取るに過ぎなくて、その言葉を読解するには、デジタルな言葉が省略して通り過ぎていった「行間」を読む能力というのが不可欠でもある。
「言葉」と、言葉が表現しきれていない「行間」の関係は、なかなか興味深いものがあると思う。
posted by ヤス at 13:49| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年07月18日

視聴率の記憶

視聴率というのがある。
この間のサッカーワールドカップは日本がらみの対戦カードは深夜帯ながら視聴率が30%とか40%とかになっていて、いまだにこんな大きな数字をとる番組があるんだなあと思った。
しかし大昔、50年くらい昔のテレビではNHK紅白歌合戦が視聴率80%とか、日テレのプロレスの力道山が出るやつが60%とか、ケタ違いの視聴率を取る番組がたくさんあったらしい。

わたし自身の記憶でも、子どもの頃の土曜日夜8時はドリフターズの「8時だヨ!全員集合」を欠かさず観ていた記憶がある。
「全員集合」を夜の8時から9時まで観て、その後「Gメン75」が始まってそれを観ながらウトウト寝る、みたいな感じのサイクルが毎週律儀に繰り返されていた記憶がある。

ほんとうに習慣というのはおそろしいもので、よほどの天変地異でもない限り「全員集合」から「Gメン75」の流れは鉄板だった。
そしてそれは他の多くの家庭でもそうだったようで、「全員集合」の視聴率は最盛期はだいたい40%台、最高50%、少し低調になった時代も合わせた平均値でも27%だったらしい。

しかし「全員集合」はいつの頃からか全然観なくなって、ただその時も小学生の間でヒゲダンスが流行っていたりしてまあまあ人気はあったようなのであるが、何か遠くの他人ごとのような感じになってしまった。
なぜ観なくなったのかは今ではよく憶えていないが、やはり小学生、中学生、高校生と成長するにつれ生活習慣も変わるしその中でテレビの観方も変わったのだろうと思う。
あるいはテレビ番組に求める好みも変わったのだろう。
学生時代は先輩の家で焼酎を飲みながら「オレたちひょうきん族」を観てゲラゲラ馬鹿笑いしていた。

でも変わったのはわたしの生活習慣だけではなくて、その頃からだんだんとビデオデッキも普及してきて「録画して観る」方法が広まってきたりした。
あるいはニンテンドーのファミコンが出てきたりしてみんないろいろと忙しくなった。(わたしはファミコンはほとんどやってないが)

そのうち知らない間にインターネット時代になって、最初の頃はISDN回線で動かないページをサーフィンしていただけだったが、今では動画サイトがたくさん出てきて好きな時間に適当に時間つぶしをできるようになった。

こういう時代には「視聴率」的なものはたぶんもう古い。
今の時代に視聴率が有効なのは、ワールドカップみたいにリアルタイムで観る必要があって瞬間最大風速的に日本中が盛り上がる番組くらいだと思う。
そのワールドカップの視聴率だって、以前と比べるとだいぶ下がっている。

あと10年たったら、たぶん視聴率の数字のレベルは現在よりさらに下がるのだろう。
そしていつか消えてなくなる。

と考えると、くだらないテレビ番組しか時間つぶしの方法がなかった大昔がちょっとなつかしく思えたりする。
posted by ヤス at 09:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月17日

セミの季節

しかし、本当に暑い日々が続いている。
いつのまにかセミの大合唱も盛大に始まっていて、クソ暑さに拍車をかけている状況である。

ところでそのセミ、夏だけ見かける昆虫のセミは、7年間地中で過ごしその後樹上に出てきて1週間で死ぬ、みたいな話が流布しているが、ネット記事を見るとそんなに長く地中にいるセミは日本にはいない。
ツクツクボウシで1〜2年、アブラゼミで3〜4年、クマゼミで4〜5年と書いている。

わたしにはどの形がクマゼミでどれがツクツクボウシかまったく判別はできないが、セミの種類でだいぶん「地中期間」が違うのだなとはじめて知った。

ところでこの地中期間は「幼虫期間」でもあるわけだが、そう考えるとセミの場合、生涯の99%以上が幼虫期間ということになる。
でもその期間配分を考えると、地中にいる間に実は大人になっていて、羽が生えて地表に出てくるときは死にかけのお爺さんとして出てくる、という見方もできる気がする。

いったいどうなのだろうか。

セミの場合は地中にいる期間が生きている期間のほとんどを占めるわけだが、地中では木の根っこに張り付いて静かに樹液をちゅうちゅう吸っているだけなので、あまり世界に関する見聞を広めることはできない。
最後の1週間に地面から這い出てきて、この世界の広いことを知り、中にはカラスに襲われたりするのもいて世界の危険なことも知り、最後の最後に今までの分を取り戻すように、地中の何倍速もの速さで人生を学び(「蝉生」を学びかな)、そういう意味では地表に出てから初めて大人になるのかもしれない。

それにセミの場合は羽があって空を飛べるのもポイントが高い。

セミのような超極端な大器晩成も、なかなか劇的でいいかもしれないと思った。
(でもやっぱり大人の時間は長い方がいい。暑いといろいろ考えが乱れる)
posted by ヤス at 09:15| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月16日

MacBookの脆弱性

今この文章をMacBookで打っているのだが、どうもキーボードの調子が悪くて調子が狂う。
症状としてはキーボードの「P」がおそろしく反応が悪くて、少し押したくらいではうんともすんともいわない。
それで渾身の力を薬指に込めて数秒間「P」を押し続けるとやっとこさ反応して、液晶画面に「P」の字が現れる。
今こうやって「P」と打つたびに渾身の力を数秒間込めているのであるから、そういうけなげな努力を続ける自分を、自分で褒めてあげたい気分である。

また「P」以外にも「i」(こちらはなぜか小文字で表記することにする)もやや反応が悪い。
少し急いで「タイピング」と打とうとすると「P」と「i」の反応の悪さが邪魔をして「タング」となる。
あるいは、「i」だけ反応して「隊員具」(どういう意味だよ)となる。
このMacBookは2016年モデルで、1kgを切る軽さと小さすぎないサイズ感、打鍵感のよいキーボードなどが気に入って、主に文章を打つ用に購入したものである。

CPUスペック(「CPUスペック」には「P」が2度も登場して打鍵に苦労したぞ)はかなり控えめで、それでも文書を打つくらいのことなら差し支えあるまいと思っていたわけであるが、たしかに文書を打つ限りにおいては、性能の低さは気にならずそこそこ気に入っていた。

ところがここへ来てのこのキーボードトラブル。
ネットを調べてみると、このキーボードは最近のMacBook Proなどにも採用されている新世代キーボードであり、薄いくせに打鍵感が良いのが売りだそうだ。
ところがあまりに無理をして薄くしすぎたのだろう、アメリカでは同様のトラブルが多発してそれに怒ったユーザーが集団訴訟を起こす騒ぎになっているらしい。

いや、わたしもほんとう、その訴訟に加わりたいくらいかなり頭に血が上って来た。
(こうやって打っているうちに「U」も微妙に調子が悪いのに気がついた)

技術的に無理をしてトラブルになるのは、戦争中の大日本帝国の航空機エンジン・中島飛行機「誉」みたいだ。
誉エンジンも当時の日本の乏しい技術力の中、設計に無理を重ねて、軽量小型に高回転型の高性能を目指し、結果トラブル続発で現場の整備兵を泣かせたのである。

それで、アップル(「ップ」を打つのがものすごくむずかしいぞ)のサイトに出ていた対策として、エアダスターでキーボードの中に入り込んだホコリを吹き飛ばす、というのをやったが効果はない。

エアダスターで整備をするなんて、清掃に圧搾空気が必須の、アメリカ軍がベトナム戦争から大量導入したM16ライフルみたいだ。
M16ライフルは近未来的な外観から多くの無知な兵士がメンテナンスフリーと勘違いして実践時に弾詰まりが多発した。

まあどんな兵器も日頃のメンテナンスを怠るといざという時に役に立たないわけで、そういう意味では今までノーメンテでMacBookを使って来たわたしにも責任はあるのかもしれない。(MacBookは兵器ではないが)
が、それにしもてこの薄型キーボードはちょっと脆弱すぎるのではないか。

ということで、これからはなるべく「P」の付く単語は避けて文章を書こうと思っている今日この頃なのでした。
posted by ヤス at 15:09| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月15日

災害対策にドローン輸送の可能性

個人的にドローンの将来に期待している。
人を乗せられるくらい大型の電動ドローンで都市交通の一翼を担おうという構想は世界中で研究が進んでおり、ひところは中東のドバイで実用試験間近というニュースも流れていた。
またアマゾンがドローンによる物流の構想を表明したのは2013年のことだったらしい。
その後アマゾンは2016年にイギリスで実証実験も行っているが、現在に至るまで実用化の目処は立っていないようだ。
また日本でも楽天がドローン輸送の実証実験を行っており、こちらは秩父の山間部で高架電線を利用して飛行ルートを設定し、弁当の配達に成功したという。

ドローンの機体開発に関しては有人タイプの飛行デモも多く行われるようになっており、荷物専用の大型機も旅客機メーカーのボーイングが230kg積載して30km飛行可能なものを開発するなど、ほぼ実用可能なところまでできあがっている。

ただネックとなるのは関連する法律の整備、そのための実験データの蓄積、そして墜落など万が一の事態に備えた安全性の確保であることは間違いない。
最近のドローンが、ヘリコプターみたいに大きな回転翼がひとつふたつのタイプより、小さいプロペラが10個も16個も付いたようなタイプが多いのは、プロペラ、モーターのどれかが壊れても大丈夫なように、という配慮からだろう。

そのうち日本でも、安全性を検証した上での実証実験が各所で行われて大型のドローンが荷物を運ぶ姿がたびたび見られるようになるのではないか、と期待したりもするのであるが、ただし日本の市街地はいまだに電柱が林立し電線が錯綜しているのでドローンが飛ぶには危険過ぎるかもしれない。

そうやって考えると輸送用のドローンがまず活用できそうなのは、人口があまり密集しておらず障害物が少ない過疎地の田舎になるかもしれない。
公共交通も不便で自動車も運転できなくなった高齢者が、ちょっとデイサービスまでの移動手段として有人ドローンを使うとか、スーパーに買い物に行く代わりにドローンでの配達を利用するとかは十分ありだろう。

また現在も先日の大雨被害の復旧作業が続いているが、このような大規模災害時、道路寸断や渋滞で陸の孤島になった地域に緊急手段としてドローンで荷物を届けるとかは現状の技術で可能ではないか。
既存のヘリコプターは機数が限られ運行コストも高額で小回りが効かない。
今後も大雨や地震災害は定期的に発生が予想されるので、この部分に特化したドローン活用の法律を整備し体制を整えたらどうかと思ったりする。

そうやっていろいろ考えていると、輸送ドローンがさっそく活躍できそうなのは軍事利用である。
先述のボーイングが開発した大型ドローンも軍事用を見据えているのだろう。
実際に軍事用のドローン輸送システムは開発が進んでいて、今後は戦争で鍛えられたドローンの技術が民生用に降りてくるという感じになるのかもしれない。
それはそれでやや複雑だが、今後のドローンの活躍に期待したいと思っている。
posted by ヤス at 12:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月14日

シート倒していいですか問題

最近時々新幹線やバスの座席を倒す時に、後ろの人に「倒していいですか」と確認した方がいいとか、別にしなくてもいいじゃないかとかいうのがネット上で話題になることがある。
どこかのバス会社で、出発するタイミングとかで運転手さんが「みんなで一斉にシートを倒しましょう」みたいなことを言って、それで乗客がみんな気兼ねなくシートを倒せて神対応、みたいなのがニュースで流れていたこともあった。

そういうわけで、現在世間的にこのような乗り物におけるシートリクライニング時に、後ろの人に声をかけた方がいいのかどうかがかなり重大な問題となっているわけであるが、実を言うとわたし自身は後ろの人に確認したことはたぶん一度もない。
たまに新幹線とかに乗って前の人がシートを倒すことがあり、中には「倒します」と丁寧に確認いただくこともままあるわけだが、わたしとしては別に確認や了解なしにシートを倒したら許さん、と思ったことは一度もない。

第一、新幹線のシートはよくできていて、背もたれのところにある小さいテーブルとかも前の人がシートを最大に倒そうが全然位置が動かないようになっている。
またシートの前後間隔もシートのリクライニングを考慮して設計されているに違いなく、前の人が最大角度まで倒したところで後ろ側のわたしとしては、狭くて苦しいとかも一切ない。

電車の設計をする人も運用しているJRの人たちも、おそらく誰一人リクライニングの時に後ろの人に確認しろとかは思っていないはずなのである。
にもかかわらず確認する人が絶えないのは、これはもっぱら乗客側の都合によるということになる。

これはあくまで想像だが、ある時お客さんがシートの前後に座っていて前の人が黙ってシートを倒して、その時後ろ側の人が無言で倒れてくる目の前のシートの動きを見て少々イラっときて、「俺様の了解なしにシートを倒しやがって」と思って、「チッ」と舌打ちをしたりしたんじゃなかろうか。
その舌打ちが前の人の耳に入って、それでビビってそれがトラウマになって、以来その人はいちいち後ろに了解を取るようになったのではないか。

つまりこれは後ろ側の人が、箸が転んでもイラっとする、目の前のシートが自分めがけて倒れてきたらさらにイラっとする、という世間的なイライラ問題なのではないか。

この「シートを倒していいですか」といちいち聞いてくる人というのは、東京方面の品のいい紳士とかが多いような気がなんとなくするのだが、逆にそういう人は日頃から世間のイライラに晒されて常に防衛的になっているのかもしれない。

しかしクソ田舎に生きるわたしのような鈍感な人間は、後ろの人のイライラに一切頓着せずに平気でシートを倒すことができるのは、田舎暮らしの最大の効用ではなかろうか。

というのは少し違うかもしれないが、あまり何でもイライラしないのは、重要な人生のノウハウであることは間違いない。
posted by ヤス at 11:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月13日

血液型占いは下火になったのか

最近、A型はまじめだからどうしたとかB型はいいかげんだからどうとかいうような、いわゆる血液型占い的な話を聞くことが少なくなった気がする。
従来から血液型占いの撲滅をひそかに念願していたわたしとしては、少しうれしい。

ただ人間というものは、いつでも何かよりどころを欲する生き物であるようで、だからいつの世にも占いとかのたぐいはなくならない。
O型はおおざっぱとかAB型は分裂症ぎみとか、とりあえず4つの血液型である程度その人物の傾向と対策を確定することができると、そこに至る人物判断のための思考が節約できて楽チンだ。
しかも血液型による性格類型は幅広く世間的に共有されており、A型だからどうだとかいうと、「わかるわかる」と他の人もそれに共感するようにできている。

血液型占いというのは、結局これは人物分析をやりたかったのではなく、その実体は知り合い同士で共感を得るためのコミュニケーションツール以外の何ものでもなかったのだ、と思う。
ところが世の中には人物分析のための血液型占いをいまもってかたくなに信じている人がいて、それも会社の社長とか国会議員とかそれなりの社会的地位にいる人だったりする。
そういう人は、血液型を参考にして社員の処遇や対人関係をやりくりしたりしているのだろう。


ここでもうひとつ思うことは、人間関係とか人物対応とかにおいては根拠のない血液型を使おうが使わなかろうが、結果にそんなに差異はないのではないかという点である。

出典はよく知らないが、フランスとスペインの国境地帯にあるピレネー山脈で遭難した登山隊の話がある。
山中で雪崩にあって装備をあらかた失い、死を覚悟した登山隊の中の一人がポケットから取り出した地図を頼りに、隊長はその地図を懸命に読んで下山ルートを探りそのルートに従って進んでなんとか無事生還するが、帰ってからふとその地図を見たらそれはアルプスの地図だった、というお話。

結局のところ正確な情報をせいいっぱい論理的に解析した上で行動するのと、いいかげんな情報をもとに適当に考えて行動するのとでは、実は得られる結論にほとんど違いはないのではないかということだ。
現実世界の人間の行動では、緻密かつ厳密に論理的な計画はあまり頼りにならなくて、それよりは行動しながらの臨機応変の方が結果に重大な影響を与えうる。

だから血液型で人を判断しようがしまいが、未来の結果にたいした影響はないのだろう。
だとすればなおさら、根拠もなしに人の性格を決めるのはやめた方がいいに違いない。

実際いろいろ人と接していると、ふとした時に当初思っていたのとはずいぶん違うな、と感じることが多々あるものであり、そういう意外性を見つける面白さにとって、根拠なき決めつけほど害悪になるものはないのである、と思う。
posted by ヤス at 09:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月12日

人類の基本生態

最近の学説では、ホモ・サピエンスつまり現生人類は基本生態として「一夫一婦制」だったことが有力になっているらしい。
一夫一婦制による子育てがある種のアドバンテージになって、進化競争上有利に働いたということのようだ。

わたしはそれまでは、現生人類もチンパンジー型の「乱婚制」をベースにして子育てをしてきたのではないか、と勝手に思っていたので最近の学説に対する衝撃はかなり大きかった。

一夫一婦制においては、父親も子育てに参加することになるのだろう。
「ネオテニー」的な人類は出生から「成獣化」まで時間がかかり、そのため父親も参加して手厚い子育てをした方が子どもの生存確率が上がるということなのかもしれない。

チンパンジーのような乱婚制だと、子どもは基本的に「父無し子」として生まれるので子育てはもっぱら母子家庭で行われることになる。
一夫多妻制における社会でも、たまにボスザルも手伝ったりするのかもしれないが母親のみによる子育ては乱婚社会と同様だと想像される。

現生人類の基本生態が「一夫一婦制」だとすると、アラブの方の一夫多妻社会はどうなんだ、という話にもなるのだが、あれは人類特有の文化的多様性ということになるのかもしれない。
あるいは最近は(昔からかな)、父親のいない子どもとか、もっと言えば母親も蒸発して両親のいない子どもとかも少数だがいる。
野生状態なら親とはぐれた子どもはそのまま生きて行くことは難しいだろうが、人間の場合、役所とか慈善団体とか親切な他の人がたいていの場合助けてくれる。
フランスとかの場合、20〜30年前と比べるとシングルマザーの比率が急激に増えていて、全体の半分以上がシングルマザー家庭の子どもになっていたりする。

そんなこんなで人類の場合、文明化による文化的多様性とか社会システムによる「子育て支援」の機能も働いて、人類の基本的生態としての一夫一婦制は、もはや野生状態におけるレガシーシステムであって、現代人には必ずしも必須の「生態」とは言えなくなっているような気がする。

先進国では例外なく少子化が進行して、人類は文明の進行とともに野生状態におけるデフォルトであった一夫一婦制からだんだん離れて行っているようにみえる。

わたしは別に野生状態に戻ろう、ということを言いたいわけではない。
かといって子どもを社会の共有財産として共同して育てよう、とかいうつもりもない。
(これは共産主義のめざしたかたちである)

人類は野生状態における各種の「くびき」からずいぶんと自由になったんだな、ということを思ったまでである。
今後人類の家族のかたちや社会システムはどのように変化していくのか、というのは、わたしが心配してどうにかなるような話でもないが、でもやっぱり野生状態の形態からは離れてどんどん自由になって行くのではないか、などと思った。
posted by ヤス at 14:43| Comment(2) | 徒然なるままに