2018年05月31日

イタリアの政治混迷を調べてみた

昨日、日経平均が300円くらい下がったが、その原因のひとつがイタリアの政情不安だとニュースで流れていた。
それで、わたしはイタリアの政治状況というのをほとんどまったく知らないなあ、というのに気がついて、試しにこの件を検索してみた。
ところがイタリアの政治状況を解説するような日本語のネット情報はなかなか見つからない。

おおよそは、
「選挙で勝った大衆迎合政党の「五つ星運動」が右派政党の「同盟」と連立政権樹立を目指して内閣案を提案したら経済財務相候補のパオロ・サボナ氏がマッタレッラ大統領に否認された」
というような内容のニュース情報がせいぜいであった。
今後のイタリア政情が不安視されて株価下落につながったというのだが、これだけの情報だと、なんでNYダウが下がって日経平均も下がるのが今ひとつ判然としないのである。

しかしここまでの情報でも、まずイタリアには大統領がいたのだ、ということをあらためて知ってちょっと勉強になった。
イタリアの大統領は国会議員と州代表合わせて約千人の代理人によって選出されるらしいが、その役割・権能としては首相指名や議会の解散権などがあるようだ。
ついでに軍隊指揮権も持っているらしく、平常の政治運営にはあまり入れない代わりに、「最後の砦」的な役割を担っているらしい。
そういうことがイタリアの大統領についてググると出てくる。

イタリアは今年の3月に総選挙があった。
ドイツも同時期に選挙があって、ドイツでは極右政党が躍進したというのがちょっと話題になったりした。
イタリアも同じような流れがあって、その流れの中で「五つ星運動」や「同盟」などのポピュリズム政党が票を多く取ったらしい。
ちなみにマッタレッラ大統領は中道左派連合の支持を受けていて、五つ星や同盟とは政治的には対立する立場にいるものと想像される。

で、今もう5月も終わろうとしているが、選挙から3ヶ月くらい経とうかというのに、いまだに内閣が組み上がっていないくらい混乱している、ということなのだろう。

五つ星などが掲げている政策は、EUが求めている緊縮財政拒絶、難民対策、減税、月780ユーロ(約10万円)の最低所得補償導入などらしい。
ギリシャ危機の時にギリシャ政府がとったのと同じような方向を向いているように見えるわけであるが、新しいのは780ユーロの最低所得補償、つまりベーシックインカムの導入だ。
緊縮財政を止めて減税してベーシックインカムを導入すると、当然今でも十分に悪い政府財政がますます悪化することが予想されてたいへん、というのが目下の懸念なのだと思う。

イタリアは今やドイツ、フランスに次ぐEU3番目の大国なので、これが財政破綻するとギリシャの比ではない。
その辺が大きな懸念材料になって各国の株価にも影響しているということになるのだろうか。

イタリアはEU発足当初はドイツ、フランスと一緒に積極的にEU立ち上げに協力した国らしいが、この10年くらいの間に移民・難民はどんどん押し寄せるわ、緊縮財政で一向に景気は上向かないわで、国民が疲弊してどんどん反EU、ユーロ離脱の方向に傾いているのだという。

とりあえず、昨日の株価下落で報道されたイタリアの状況を調べて分かったことは以上のような感じである。
が、一日経ってNYダウはすでに300ドルほど回復したらしい。
いや、いったい何がどうなっているのか、国際政治とか経済は分からないことだらけだなあ、と思ったりしたのだった。
posted by ヤス at 10:38| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月30日

現代人と意識的習慣

習慣というのはなかなか「しぶとい」ものである。
毎日晩酌でビールを飲むとか、昼ご飯の後にタバコを一服しないと午後の仕事が始まらないとか、人それぞれ、いろんな習慣があるだろう。
わたしの場合、酒もタバコもやらないので上記のような習慣とは無縁であるが、しかし晩飯を食った後にほぼ必ずアイスを食べる、みたいなことはわりかしあった。
ただそれも絶対的なものではなくて、そろそろアイス止めとこうかなと思ったらそのままひと月くらい止めることは可能なのである。

しかし、気がついたらまたやっぱりアイスを食べている。
それでその時、ああそうか、俺は「アイスを食べるのを止めた」のを止めたんだな、とかその時は思うわけである。

習慣を変えると人生が変わる、みたいな偉い人の言葉があるようだが、一説によると人間行動の45%は習慣的なものである、ということもあって、だから日常習慣というものが我々の人生にとって極めて甚大な影響を及ぼしていることには疑いがない。
だから身体や脳みそに悪い習慣よりは、健康に貢献する、ついでに頭が良くなることにつながるような習慣を定着させた方がよい、というのもまた確かなのである。

そうやって考えてみると、習慣には知らない間に無意識のうちに身についてしまったものと、それとは逆に己の意思で、多少の努力を伴いながら意識的に習慣化した習慣の二種類があると思われる。
無意識の習慣というのは、やっぱビールは美味いなあとか、そろそろニコチンが切れてきたなあとか、無意識的な欲望に喚起されて継続するもの。
一方意識的な習慣は、毎朝のジョギングとか毎日部屋の掃除をするとか、けっこう面倒臭いことを、しかし健康や精神衛生に良いから、などという前頭葉的思考に基づいて継続するものである。

進化論的に考えると習慣化行動は人類の生存戦略の一環であったはずであり、要するに気持ちのいいことを毎日続けると生存確率が上がる、というのが野生状態の時にはあったのだろう。
ところが文明が発達して人類の欲望を満たす能力が飛躍的に向上して、もはや欲望のままに行動していると却って肝硬変になったり肺がんになって危ない、そういう状況になった。

だから高度に欲望を満たすことのできる現代人は、個人レベルでは、欲望を我慢するような意識的習慣を強いられる結果になっているのはなんか皮肉だと思う。

何はともあれ、現代人は欲望のままの習慣だけに身を投じるのではなく、自らの意思で少し面倒臭いことを習慣化するようなことがどうしても必要なのである。
それはもはや全人類にとって、「おはよう」と元気よく挨拶ができるのと同じくらいにベーシックなことである。

というわけで、面倒臭いことを習慣化する技術は現代人として生きるのに重要不可欠だが、ちなみに、ものの本によるとそういうのは「小さく始める」のが良いそうだ。
いや、現代人として生きるのはなかなか面倒臭い。
posted by ヤス at 11:33| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月29日

現金決済のコスト問題

さて、またキャッシュレス決済の話である。
最近の銀行関係のニュースで、ATMが今後はどんどん減っていくということが最近よく流れている。
ATMがなぜ減るのかというと、現金を使った支払いというのにはさまざまなコストがかかるからだ。
少し前であれば、買い物の支払い、何かの代金の決済には現金を使うしかなかったわけであるが、そうこうするうちにクレジットカードというものが発明されて、少し額の大きい買い物はクレジット払いを利用することが始まった。

ちなみに世界最初のクレジットカードは1800年代末には登場していたらしい。
そして20世紀に入って1910年代にはアメリカで数種類のクレジットカードが発行されていたという。
昔はプラスティックカードの「浮き彫り」の番号を複写伝票にビャッと複写して、その伝票をいくらかまとめて銀行かどこかに持っていくと、お店がその分の代金を受け取ることができるという仕組みでやっていたのだろう。
詳しいことは知らないが。

とにかく、ひと昔前のカード払いは、やり方はかなり原始的であったけれどいちおう立派なキャッシュレス決済であったのはまちがいない。
こういうやり方が20世紀早々に始まったというのは、これは現金決済にともなう種々のコストあるいは不正に対する問題意識の結果であったという。
高額の100ドル紙幣の偽造問題というようなこともあったらしい。

現金決済のためには当然ながら物理的なカタチのある「現金」がいる。
一万円札とか五百円硬貨とかである。
一万円紙幣の印刷コストは、22円くらいらしいし千円札でも15円かかるらしい。
一万円札の原価率は0.2%、千円札1.5%である。
硬貨だとさらに高くなるのは自明である。

一方で現金を電子化すると、物理的なカタチを製造するためのコストはゼロになる。
決済のための情報処理にかかるコンピュータ装置や電気代があるが、これは費用逓減の法則で事実上ゼロ近くまで削減可能である。

現金は物理的なカタチがあるので保管のためのごつい金庫が必要だったり現金輸送車が要る。
それも1000億円運ぶのには100億円運ぶのより確実に輸送コストが余計に掛かる。
それが電子化すると、原理的には1円運ぶのも1兆円運ぶのも変動コスト的には変わらない。

現在、諸銀行がコストダウンのためにATMをだんだん減らしているのは、以上述べたようなカタチある現金に宿命的に必要である保管輸送コストも大きな一因であることは想像にかたくない。

あと紙幣や硬貨を発行している政府機関的にも、その発行コストが削減できるという意味で現金の電子化は有用である。
北欧のスゥェーデンが電子決済率98%になったのも、政府の現金発行コストに対する問題意識があったそうだ。

しかし我が国では、やっと銀行が重い腰を持ち上げてATMを減らそうかという段階である。
決済用の電子マネーや仮想通貨がいろいろ開発はされているが遅々として普及が進んでいない。

ということで電子決済の進み具合を見るだけでも、日本という国の「世の中の仕組みを改善」することに対する腰の引けたようすが強く感じられて、なんだかなあと思うのでした。
posted by ヤス at 10:13| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年05月28日

トランプの仮想敵について

さて、韓国・北朝鮮が26日に緊急に首脳会談を実施し、文在寅大統領が「北の非核化の意思が固い」ことを発表、そのような動きを受けてかトランプも6月12日の米朝会談を当初予定通り実施することに前向きの姿勢を示しているようだ。
このように半島をめぐる国際交渉が前に行ったり後ろに下がったりしている間に、アメリカに輸入される自動車への関税引き上げのニュースが流れて来た。

半島問題と自動車関税の問題はあまり関係がないようにも思われるが、報道によるとこれらは「今年11月のアメリカ中間選挙」対策ということで共通しているという。
アメリカの政治アナリストによると、今度の中間選挙では政権与党で現在下院多数の共和党がやや劣勢という分析も出ているらしい。

また発足以来一貫して支持率が低いトランプ大統領としては、中間選挙の有無に関係なく常に点数稼ぎをしていないといけない自転車操業状態、ということがあって政治的成果はいつでも欲しい。

それでこういう場合の常套手段として、国外に仮想敵を作って叩くということになる。
トランプ大統領のアメリカが目下の最大仮想敵とみなしているのは、北朝鮮だろう。

ただ今月初旬の、イラン核合意からのアメリカの電撃離脱を見る限り、いったんは落ち着きかけていたアメリカとイランの関係も再び悪化すると想像される。(というかもう悪化しているだろう)
イラン核合意は、核開発に邁進していたイランに対し完全非核化ではない「核開発制限」を条件に経済制裁を解除するというマイルドなもので、それなりに機能していたとされる。
この枠組みからアメリカが「勝手に」離脱したことが金正恩の対米不信(というか対トランプ不信)につながったとしても不思議ではない。

アメリカの仮想敵(というかトランプの仮想敵)といえば、もうひとつ重要な国としてメキシコもあった。
近年のメキシコは北米自由貿易協定の一員として、アメリカに隣接する地理的条件もあいまって、自動車工場などを積極的に誘致して発展して来た。
それが、トランプが大統領になって国境沿いに不法入国阻止のための「壁」を造るとか、その財源としてメキシコからの輸入品に20%関税をかけるとか、目のカタキにされて来た。(20%関税はまだ実施されていないようだが)

そして今年3月には鉄とアルミ製品の輸入関税引き上げを表明し、さらに今月になって輸入自動車の関税を25%に引き上げるという観測が流れて、中国や日本、ドイツなども経済的な意味での「仮想敵」にしようとしているように見える。

輸入品への高率関税は米国消費者の立場では必ずしも得にならず、相互貿易の観点からアメリカ経済に重大な悪影響も予想されるので与党共和党からも大反対の意見が出ているようだが、トランプはたぶんどこ吹く風なのだろう。
とにかくあっちこっちに仮想敵を作って無理難題をふっかけるのがトランプのやり方のようである。
もし北朝鮮問題が片付いて、イランとの再交渉も落ち着いたりすると、今度はメキシコを始め日本も含んだ米貿易の赤字要因である「経済的仮想敵」に攻撃が集中する可能性がある。
そういう意味ではどっちに転んでも波乱ぶくみであるなあ、などと思った。
posted by ヤス at 10:09| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月27日

朝鮮半島の今後がわからない件

米朝会談が突然中止になったことについて書いたが、この国際交渉にはもちろん米朝以外の国が大きく関わっている。
もっとも「当事者」的な立場にいるのが韓国であることはいうまでもない。
さらに今回の交渉で大きな影響を及ぼしている中国、そして今回は影響力を行使できる位置からやや外れたようにも見えるが、ロシアと日本も主要な関係国である。

それぞれの立場を見てみると、北朝鮮と韓国は半島の統一が建国以来の願望であり、しかし、両国を統一することは両国の思惑だけでは進まない。
「旧東側」の北朝鮮は中国にとって西側に接する部分の緩衝地帯になっており、南北統一後の半島が韓国主導で「西側」的な国家になるのは困るのだろう。
報道などでも統一後の北朝鮮領内に米軍基地ができると中国は嫌だと言っているが、それはその通りだろうと思う。

ロシアは、首都モスクワから遠く離れた極東の僻地のことなので中国ほどの切実さはないような気がするが、しかしロシアは北朝鮮に対し陰日なたに影響力を行使しているようである。
急速に実用化が進んでいる北朝鮮の大陸間弾道ミサイルのロケット技術にしても、密かにロシアから流れているのではないかという噂が流れているが、もしそうだとしたら、これはロシアによる間接的なアメリカへの軍事プレッシャーということになる。

何はともあれここまでに挙げた北朝鮮、アメリカ、韓国、中国、ロシアは先の朝鮮戦争の当事国でもある。
ちなみに朝鮮戦争の休戦協定の調印国はアメリカ対北朝鮮・中国であり、韓国と当時のソ連は入っていない。
朝鮮戦争当時のソ連も今のロシアも、半島をめぐる交渉に対して前面に出ず間接的に関与している感じが、個人的には何か非常に興味深く思える。

それはともかく、今回の半島をめぐる国際交渉で南北両国とアメリカ、中国が主要な役割を果たしているのは、上記のような朝鮮戦争当時の枠組みが継続しているからであると思われる。

それで今後この交渉がどこに落ち着くのか、それが問題である。
政治体制も経済システムも隔絶している南北両国が円滑に統一するような方法があるか、というとそんな方法は全く想像もつかない。
何よりも金正恩は金王朝体制の維持を最大目標にしており、そこを維持したまま統一なんてできるのだろうか。

あるいは中国の立場からは統一後の半島が西側的になってしまうことに危惧があるだろうし、中国としては最低限西でも東でもないニュートラルな半島の統一が希望ではないか。
この場合当然在韓米軍は全面撤退になり「半島の非核化」も実現するかもしれない。
しかしそういうニュートラルな半島というのは現在の国際状況からは恐ろしく想像しにくい。

ということで、半島をめぐる国際交渉の着地点は、個人的には皆目見当がつかない。
posted by ヤス at 10:38| Comment(0) | 徒然なるままに

2018年05月26日

米朝会談、突然の中止

6月12日に予定されていた米朝のトップ会談がアメリカ側の意向で中止になった。
北朝鮮をめぐる情勢はこのところめまぐるしく変転していて、ほんとうにいったい何がどうなっているのかよく分からない。
ほんのすぐ直前、24日午前に北朝鮮の地下核実験施設の爆破廃棄が公開されるなどしている中での突然の会談中止である。
ことの真相にはどんなことがあるのだろうかと思う。

報道などを見る限りにおいては、北朝鮮はほんとうは核兵器を廃棄する意思はなくて、実験施設の廃棄もある種のポーズに過ぎないという。
ここに来てリビアのカダフィ大佐の例がよく引き合いに出されているが、カダフィ大佐にしても、あるいはイラクのフセインにしても、アメリカとの交渉の中で核兵器を廃棄したところ、かたや反政府勢力の反乱により血祭りにあげられ、かたや大量破壊兵器の濡れ衣によりアメリカから突如攻められて滅亡したわけであるが、両国の末路が金正恩の貴重な教訓になっているという。

だから北朝鮮はアメリカとの交渉上表面的には核兵器は廃棄しますと断言する。
しかしその実、本音としては絶対に核兵器は保持し続ける。
そうしないと、金王朝はたちまちのうちに転覆させられてしまうと心配しているからだ。

ただ、会談中止に向けてアメリカが北に送った大統領名の書簡が公表されていて、わたしはこの書簡画像をグーグルドキュメントにかけて翻訳して読んだのであるが、その書簡の内容は、会談前の北朝鮮の真摯な姿勢は高く評価しますみたいなことが書いてある。
具体的には、北に拘束されていた米国人の解放に関する感謝の一文が入っていたりする。
そして最後の方には、交渉の扉は常に開いているのでいつでも連絡ください、みたいなことも書いてあった。
ただ書簡の真ん中辺には、「我々(つまりアメリカ)の核兵器は超強力ですが、これが使われないように私は神に祈っています」みたいな、バカ丁寧な恫喝もしっかり挿入されているのであるが。

この書簡に込められたアメリカの気持ちは、「ぎりぎりいい線まで行ったのに本当に残念だわあ」なのか、「てめえ此の期に及んで往生際の悪いことを言ってんじゃねえぞ」なのか、どっちかは分からない。

ただ、アメリカも北朝鮮も交渉に本気で臨んでいるからこそ、簡単に妥協は出来ないぞと思っており、だからしばらくギリギリのせめぎ合いをしながら交渉実現に向けて水面下の攻防が続くものと想像される。

ただ交渉におけるアメリカの最終目標は「半島の非核化」であり、北のそれは「金王朝存続」であると思うが、その二つが現実空間で妥協点を見出せるのかというのはものすごく難しいと思う。
あるいは、想像もつかないようなウルトラC的な政治決着があるのかもしれず、またあるいはこの調子で結論が出ないままにダラダラと交渉がまた何年も長引くのかもしれない。

いずれにしても、現在北に配備されているという中距離ミサイルのターゲットは、現実にはアメリカではなくて韓国や日本なのでこの交渉経過はものすごく「私たちの問題」なのだが、しかしその割に交渉がはるか遠くで行われているような感じがして、なんだか妙な感じがする今日この頃であったりするのだった。
posted by ヤス at 11:05| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月25日

インフラ的であること

「インフラ」という言葉がある。
わたしは若い頃に広島で広告の仕事をしていたことがあったのだが、その時にまだ計画進行中だった「広島新交通システム」の関係の仕事があって、その時に「インフラ」という言葉につきあたった。
公共交通機関ではよくある「上下分離方式」という運営方式、新交通システムに関しその解説記事をパンフレットか何かに書く仕事で、市役所に取材しにいったのだと思う。
そこで市の担当職員が上下分離方式の説明をしてくれて、「下のインフラ部分は広島市の負担で整備し、上の車両や運行管理は会社で行う」みたいなことを教えてもらったような気がする。

ところが若き日のわたしは「インフラ」の意味を知らなくて、ボウフラの親戚かな、そんなわけないよなあとか思いながら、ソワソワした感じで説明を聞いた。
それでその当時はネットもグーグルも無い時代なので、本屋に行って現代用語の基礎知識だか広辞苑だかで「インフラ」の意味を調べたに違いない。

言うまでもなく「インフラ」というのはインフラストラクチャーのことで、おおもとの意味は「下部構造」ということらしい。
それが転じて社会基盤とか基盤施設のことを「インフラ」と呼ぶようになった。
代表的なものは鉄道とか道路とか、上下水道や電力網、もう少し拡大解釈して学校とか病院とか、現代の社会生活を下支えするあらゆる基盤的なものはインフラと呼んで差し支えない、そんな感じだろうか。

で、最近ちょっと思ったのだが、世の中の会社などが提供している商品やサービスも、ある意味「インフラ的」な性格がある。
もうちょっと言えば、より「インフラ性」が強いほど、つまり人々の社会生活を下支える感じが強いほど、その商売は盤石になるのではないか。

グーグルとかフェイスブックとかの企業は、我々の「情報生活」におけるかなり不可欠なインフラになっている感じがする。
アップルが提供するiPhoneは、情報生活を営むための最重要インフラツールと言えるかもしれない。
またアマゾンは、「モノの買い方」に革命を起こして新しい買い物のためのインフラを提供している。
今挙げた4企業は「GAFA」とかいう略称でくくられることもあるそうだが、現代生活に欠かせないインフラを提供しているということで、売上規模も大きいが、なにより利益率が異常に高い。

生活に「欠かせない」商品サービスを提供している商売、すなわち「インフラ性」が強い商売ほどよく儲かるというのはまあ当然の道理である。
特にネットなどの情報インフラそのものが急速に進化し拡大しているので、そこに乗って商売している「GAFA」企業も今後しばらくは成長が期待できるのである。

GAFAに限らず自分の商売がちゃんとインフラ的になっているかどうか、お客さんにとってのインフラ性はどうなっているのか、そういう「インフラ」視点から商売のあり方を見直すのはありなんじゃないか、などと思った。
posted by ヤス at 09:18| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月24日

日大アメフト監督コーチの会見

もう例のアメフト問題は個人的には卒業しようかと思っていたのだが、昨日の夜遅くにYouTubeを開いたら日大アメフト部の監督(というか前監督)とコーチの二人の会見がライブで流れていたので、最後の方の30分を観た。
いやなんというか、こういう会見もあるのかと衝撃を受ける内容だった。

わたしはこの問題について、理不尽な組織や上司が個人に対し不法行為を強制する構図という点から、このところ続いている国家官僚組織の疑惑と似ていると考えていた。
だが日大アメフト問題と官僚の疑惑問題は、構図的にまったく同じというわけでもないらしい。

その構図の中では、世間的な評価では有罪が確定している(それはそれで別の問題だが)疑惑の当事者が、ひとまず疑惑を全面否定する。
そして次々に出てくる、疑惑を裏付ける状況証拠に対してある時ははぐらかし、ある時は独自の理屈を強弁して疑惑を乗り切ろうとする。

日大と官僚で決定的に違っている点は、やはり両者の知能指数の差である。
昨晩の会見では、監督コーチとも質問の内容にほとんどまともに答えることができなくて、終始しどろもどろの印象だった。(少なくとも個人的にそう感じた)
これが財務官僚なら、質問の内容を聞いた瞬間にその質問の裏の意図とか直前の発言との整合性とかさまざまな要素を瞬時に頭の中で解析して、その結果わけのわからないことを答えるのだろう。
頭のいい人の場合、コンディションが良好だと追い詰められた状況でも時に多弁になることが多いような気がするのだが、ただ、多弁が過ぎて発言の矛盾が噴出し、かえってややこしい事態になることも多い。

それに比べると日大の監督コーチは、官僚と違って質問の意図をまったく消化しきれないまま訳の分からないことを答えている、そのように見えた。
意図的な訳の分からない答弁か、意図的でなく結果としてとぼけたのかということを考えると、意図的でない分日大の監督コーチの方が、官僚よりよほど罪が軽いような気がするほどである。

ただ気をつけないといけないのは、これらの疑惑はあくまで疑惑であって事実として公式認定されていない点である。
これが「世間認定」的に、なし崩し的に有罪とするのは近代社会としてはあまりよろしくない。
ぜひ司法が力を発揮してどういう結果にせよ事実を明らかにして欲しいのだが、官僚事件の方は日大事件の反響の大きさもあって、そろそろうやむやになりそうな感じなのは危惧すべきである。

あと、会見の中でひとつ印象に残った監督の答えがあって、それは被害選手になぜすみやかに謝罪にいかなかったかという質問に対しての答えだった。
確か監督は、待っていれば向こうサイドから電話なりなんなり連絡が来るだろうから、それまで待っているべきだと思っていた、と答えたと思う。
あの答えは会見中の数少ない「ホンネ」だろうと感じた。

あれがホンネだとすれば、今回の事件で監督が見ていた風景と、世間の多くの人々や他の事件当事者たちが見ていた風景は、そもそも相当の隔たりがあったのであろうという気がする。

そういう見ている風景の隔たりは、件の財務官僚とかもそうだが、社会を騒がすズレたオジさんたちのひとつの特徴であると思う。
そういうことをオジさんの一人として深く自戒すべきだということも昨晩の会見で思ったのである。

しかしそれにしても、昨晩の会見の司会者は超弩級に最悪だったなあ、と思いました。
posted by ヤス at 09:15| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月23日

宮川選手の会見

昨日、例のアメフト事件の「加害者」側である宮川選手が記者会見を開いた。
わたしは最後の方の10分くらいを観ただけだが、多くの人も感じただろう通り、宮川選手は非常に立派だなと思った。
会見内容のテキストデータなども確認した感じでは、宮川選手はかなり具体的な事実にまで踏み込んで事の経緯を詳細に語ったようだ。
そして具体的に語りながらも、指示を出したとされる監督やコーチに対する自分からの批判は一切口に出さず、自身の謝罪の意を表明するという会見の目的を貫いた。

監督やコーチから精神的に追い詰められながら指示を受けたのは事実ながら、最後に実際に手を下したのは自分であり、その点について重大な責任があるということを言っていた。
人間というのは弱いものなので、口先でそうは言っても、頭の片隅に監督、コーチに責任をなすりつけようという意識があると、その意識が態度や発言の中につい出てくるものだと思う。
宮川選手の場合はそういうこともなく、終始淡々と自分の責任についてのみ言及していた。

これが「若いのに立派」と思うのか「若さゆえの真っ直ぐさ」であると思えば良いのか、そこのところはよく分からない。
ただ最近の偉いオジさん連中の煮え切らない言説にフラストレーションが溜まっていたわたしとしては、会見でテレビ局の連中がくだらない質問を連発するのに多少イライラはしたが、しかし20歳の彼の泰然とした態度に少し救われるような感じがしたのである。

だが、である。
宮川選手は自分でも言っていた通り、「実行犯」としての責任は当然ある。
これは先の財務相の文書改ざんや防衛省の日報隠蔽問題とも通ずる話であるが、いかに組織内の絶対権力者である偉い人から指示をされたのだとしても、パソコンをパチパチ打って文書を改ざんした実行犯職員の責任は無くなるものではない。
その職員にも個人の自由意思というものがあり、判断能力がありながら違法行為に手を染めることの責任は当然追求されるべきである。

そういう意味で、今回の宮川選手も今回の事件で場合によっては刑事罰に服することもやむを得ないのではないか、そんなことを思う。
いやもしそうなったら、たとえ監督やコーチがシラを切り続けたとしても、宮川選手だけでも潔く刑事罰を受け入れる、前科一般になるべきだと思うし、彼ならたぶんそうするだろう。
それでは宮川選手だけが損をするということになるような感じもするが、後に続くすべてのスポーツ選手に向けた大きなメッセージとして、それは結果的にはきわめて意義あることになるはずだ。

これは一般企業でもそうだと思うが、サラリーマン個人の立場では、会社の指示だと多少の違法行為でも罪の意識をあまり持たない。
以前に、上司から電話に出ろと言われているので運転中に携帯を手にとって通話しているという可哀想なサラリーマンを目撃したことがあったが、そういうことは今日の企業等の組織では別にめずらしいことでもない。

ただ、そういう風土風習は変えていかないといけない。
あるいは、変えるのはものすごく困難かもしれないが、少しずつでも前に進んでいかないといけない。
宮川選手の記者会見で、ひょっとしたら3mmくらいかもしれないが前に進んだ気がする。
(その前に文書改ざん事件で300mくらい後ろに下がったが)

今後日本の組織の中で、個人の自由意思で事の正邪を判断できるような、そういう風潮が少しでも広まることを願うものである。
posted by ヤス at 08:56| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月22日

嘘について

嘘というのは、まあ生きていると多かれ少なかれつくもんである。
認識間違いや記憶違いでほんとうのことを言っているつもりで結果的に事実と違うことを言う場合も「嘘」と呼んだりするけれど、やはりほんとうの「嘘」は、嘘をつこうとおもってつく嘘である。
わたしも過去に、嘘をつこうと思って嘘をついたことがあるのは間違いない。

小学校くらいの時に、宿題をやってきてなくて、そんなのはすぐにバレるのは明らかなんだけれど、先生に「宿題はちゃんとやっている」と強弁したこともあったような気がする。
先生が「じゃあその宿題のノートをここに出せ」と言うと、「いや宿題はやったがそのノートを家に忘れたのだ」と我ながら見事な返しができた、と脂汗を流しながら思ったもんである。
しかしそこで「お昼休みの時間にそのノートを取ってきなさい」と言われた時にはガーンと後頭部を殴られたような衝撃が走って眼の前が真っ暗になった。

わたしが小学校6年生の時、わたしの家の集合住宅は学校前の道路を挟んですぐ向かい側にあった。
だからノートを取ってこいと言われた場合、それに対するうまい抗弁がとっさに出てこなくて万事休すである。
今から考えると、今家には誰も居なくて鍵も持っていないとかその日の授業が終わるまで家の敷居をまたぐことを家訓で禁止されているとか、もう少し抵抗を長引かせることもできたような気がするが、まあこの程度の子ども嘘はすぐに破綻するものである。

嘘をバレずにつくのは、実は非常に難しいと感じる。
まず嘘をついていると意識して嘘をつく場合、メンタル的な動揺が意外なほど大きい。
バレないかなあ、理屈が破綻してないか心配だなあとか思いながら喋っている時のドキドキ感といったらハンパない。
こういう時の対策としては、「今ついている嘘は正しい嘘である。誰かを守るため、正義のためである」などと思うことがあるかもしれない。
しかし嘘というのはだいたいにおいて自分を守るためのことが多く、他人のために嘘をつくケースというのはまあほぼない。
それに多くの嘘は咄嗟についてしまう、よく考えないでなんとなく口からポロリとこぼれるやつなので、その後の論理構成を破綻なく構想するのは至難である。

しかし嘘というのは精神衛生上きわめて悪いものなので、ポロリとついてしまった嘘はなんとか「無害化」していかないことには人間生きていけない。
「無害化」のパターンとしては、嘘の後とりあえずばーっとたくさん喋って論点をずらしてうやむやにしたり、適当に青筋立ててキレてそれ以上の追求を防ぐとか、いろいろある。
まあもっとも良い嘘の無害化の方法は、まだ嘘が小さいうちに嘘を認めてあやまってしまうことだと思う。

ただそれも嘘の内容と相手によっては難しいこともあるのが嘘のやっかいなとこだ。
だからいちばん良いのは、自分を守るためだけのつまらない嘘は、最初からそれを言わないように日頃から精神を鍛錬することしかないと思う。
まあそれがなかなか難しいから、苦労が絶えないわけであるが。
posted by ヤス at 14:56| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月21日

遠藤誉著「毛沢東」

先週ある本を読んだのだが、「毛沢東」というタイトルで著者は遠藤誉という1941年満州生まれの女性物理学者である。
この遠藤誉という人は物理学者であると同時に社会学も研究していて、自身の大陸での体験も元に中国問題についていくつも本を書いている。
またこの人は、名前は日本風になっているが本の中で自分は中国人だと書いてある。

で、この書籍「毛沢東」であるが、これは現在の共産党中国の創業者であった毛沢東が、創業当初に当時の「大日本帝国」と共謀して蒋介石の国民党軍を駆逐していった経緯を明らかにする話である。
人によっては「なんだそんなこと」と思うのかもしれないが、個人的にはこの内容が非常に衝撃的であったのであらためてここで触れてみようと思った。

わたしが中学生や高校生の頃、1927年頃から始まったいわゆる中国の「国共内戦」で、蒋介石率いる国民党は腐敗し切っていて、やがて自壊するように台湾に追い落とされた、という風に習った憶えがある。
ところがこの本「毛沢東」では、当時の国民党軍は非常に統制が取れていて、当初は軍事力も民衆からの支持でも共産党軍を圧倒しており、日中戦争前には勝利目前だったらしい。
当時の中国共産党は、共産革命を成し遂げて10年あまりの当時のソビエト連邦の援助などでかろうじて命脈を保っており、その後大陸に進出し傀儡の満州国を建国した大日本帝国と密かに結びついて国民党に対抗するようになったのだという。

で、その日本との密謀の中心にいたのが若き日の毛沢東で、最終的に日本との結びつきをテコにして新生中国の初代皇帝の座に収まったというのである。

毛沢東というのはまことに稀有な人間だと思うのだが、主に大躍進政策や文化大革命の時期に直接間接に殺戮した中国人民の数は7000万人以上と見積もられている。
ヒトラーやスターリンよりも断然多く殺しているのだが、天安門には彼の肖像画がいまだに掛かっている。

書籍「毛沢東」によると、上記のような経緯があるので毛沢東は最後まで「日本軍がいなかったら現在の中国はなかった」と旧日本軍に公式非公式に感謝していたそうで、そういえば中国の反日運動が過熱するのは彼が死亡した1976年から以降のことである。
反日運動を本格化させた首謀者とされている第5代国家主席の江沢民の父親は、旧日本軍スパイ機関の協力者であり、位置的に「日本寄り」の人物とされる。
そのことがかえって江沢民を反日に走らせた側面がある。
そして現在の中国で毛沢東の威光が健在のうちは、毛沢東と旧日本軍との密謀を覆い隠すためにも反日の勢いを鎮火させるわけにはいかない、という切実な事情が中国共産党にはある。

果たして天安門から毛沢東の肖像画が外される日が来るのだろうか。
書いてある内容がすべて真実かどうかはともかく、なかなか面白い本だった。
posted by ヤス at 10:49| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年05月20日

好き嫌いを超越する

人間の好き嫌いというのはやはりどうしてもあるものだ。
しかし「あの人が嫌い」だからといってその人が正しくない人物であるかというと、そういうことでもない。

あたりまえである。

世の中にSNSなどが普及してさまざまな人の意見が否が応でも目に入ってくる今日、さまざまな人物に対する論評意見が飛び交っている。
あの人の言ったことは間違っているとか、誰それのやったことは問題であるとか、有名人に対する論評がやはり多いわけであるが、その有名人の言説や行動をたくさんの人が批判したり賛意を表していたりする。

だがそれらの論評は論理的思考から出てきたものというよりも、単にその有名人のことは好きだとか嫌いだとかいう「感情」から沸き起こったものであることが多い気がする。
だからそれらの論評はもはや論理の世界を飛び出していて、あいつは目つきが悪いからやはり悪いことをやっているにちがいないとか、具体的な証拠に基づかない超越的な意見が飛び交うことになる。

SNSに限らずとも人に対する態度では、好きな人には甘く嫌いな人には厳しくなりがちである。
それはまあ人間だから仕方がない。

ただネット空間と違って、日常空間でしょっちゅう顔をあわせる相手に対しあまり無際限に批判を浴びせるということは心情的になかなか難しい。
そこが日常空間の救いであろうし、逆にネット空間の救いのないところでもある。

そういえば昔、人にあったらとりあえず何かその人を褒めろと教えられた憶えがある。
人は褒められると悪い気分はしない。
だからとりあえず褒めておけば対人関係において損はない。
またよくよく考えてみると、その人を好きになるのは、その人が自分をやたらと褒めてくれる場合であることが多いのかもしれない。

ただ人の褒め方というのは意外に奥が深くて、いかにも軽薄に「とりあえず褒めておけばいい」という感じで褒めてくる場合、こっちとしてはじろりと相手を見て真意を確かめたくなる。
まあこういう風に褒められて疑念を抱くのは、残念なオジさんの損な体質であるだけかもしれないが。

それで思ったのであるが、好きな相手に褒められたり好きな相手を褒めたりするのは問題が少ない。
しかし嫌いな相手に褒められた時、嫌いな相手を褒める場合、その場合の正しい作法というのはどうなのだろう。
あくまでも好き嫌いを超越して、ニュートラルに、建設的思考に基づいて反応するのが作法であろうと思うのだが、そんなことが自分にさらりと実行できるだろうか。
ただオジさん(またはオバさん)になるにつれて、そういう対人関係が無意識的に無難に処理できるようになるのは確かだろう。
ともすると人への好き嫌いの感情そのものが薄れてくるのかもしれない。

ただネット空間には誰のことが嫌いだ(または好き)とかいう感情が多量に渦巻いているから、人々の気持ちの中に好き嫌いの感情は根強くある。

好き嫌いの感情は、それはそれで人間的で、ある意味非常に良いものだと思う。
だから好き嫌いの感情は残しつつも、しかし一方で理性の力で好き嫌いを乗り越えて思考できるようになるのがりっぱな大人になることなんだろうと、ちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 12:27| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年05月19日

藤井聡太、七段昇段

昨日の晩に将棋の竜王戦予選の5組準決勝というのがあって、藤井六段が勝って藤井七段になった。
藤井新七段は、2016年10月に四段に昇段してプロデビューしたのち、14ヶ月後の2018年2月1日に五段、その半月後の2月17日に六段に昇段している。
そこからさらに3ヶ月後の七段昇段である。

いろんな棋士の昇段歴を眺めていると、藤井聡太に限らず早い人は一段上がるのに数ヶ月でぽんぽん行く場合もあるようだ。
ざっと計算すると、四段から六段までは一段あたりの昇段期間はだいたい平均4年になっている。
しかし六段から七段は平均で5年、七段から八段は6年、八段から九段は8年弱くらいである。
平均値的に計算すると本来12年かかるところ、藤井聡太は1年7ヶ月で駆け抜けたわけで、あらためて彼のここまでの昇段ペースが化け物じみていることが分かる。

彼のここまでの昇段のポイントは、やはり2月17日の朝日杯優勝が大きかったと思う。
あそこで負けていたら今頃はまだ藤井六段だったわけで、ここで勝ったらものすごいことになるというその舞台で、期待通りに勝ちきってしまうのが彼の強さだろう。

それで次は八段昇段が期待されるわけであるが、報道によると藤井七段が八段になるのは(1)竜王位1期獲得(2)順位戦A級昇級(3)七段昇段後公式戦190勝の3通りのどれかを達成しないといけない。
(2)と(3)は3年以上かかるのが確実なので期待は(1)の竜王タイトル奪取になる。
これだと最短で今年12月の竜王タイトル戦で羽生竜王を倒すと八段昇段である。

もちろん竜王奪取は非常に困難な道のりであることは間違いない。
次回の竜王戦5組決勝で勝って本戦トーナメントに進み、そこで各組を勝ち残った強豪相手に5連勝してやっと羽生竜王との番勝負に進める。
その番勝負で4つ先勝すると晴れて竜王になって八段昇段、ついでに史上最年少タイトルホルダー(従来は屋敷九段の18歳6ヶ月)の誕生になる。

さしもの藤井七段でも竜王奪取はかなりむずかしいだろうけれど、しかしひょっとしたらと期待させてくれる感じが彼にはある。
いやほんとうに、強い人というのは単に強いのではなくて「ここ一番」で神がかり的に強くなるものである。

わたしも死ぬまでに一度でいいからそういう境地に達してみたかったなあ、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:31| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年05月18日

暴力より知力の方が強い件

なんか今、アメフトの「危険なタックル」問題がニュースでたくさん流れている。
わたしは、あまりまともにニュースの内容を見ていないので詳細についてはまったくよく分からない。
日大の選手が試合中にルールで禁止された危険なタックルをして相手選手が怪我をしたとか、そのタックルは実は監督の指示だったとかいう話らしいが、しかしアメフトにほとんど興味がないのであまりそれ以上掘り下げてニュースを読もうという気力も起きない。

しかしこの問題はけっこうな社会問題になっているらしくこの数時間頻繁にニュースで見る。
だから以下、問題を一般論的に敷衍して、想像を交えながらやや適当に考えてみる。

スポーツにしても経済活動にしても、近代以降における人類の活動はかなりの程度ルールに定められた範囲内で行うことが決まりになっている。
それ以前の大昔の人類は、暴力によって勝ちをもぎ取るようなやり方が主流だったと思われる。
しかし人類は文明的になるにつれてルールによる社会秩序の維持ということをするようになる。

古代ギリシャの哲人ソクラテスは「悪法といえども法なり」と言ったとか言わないとかいう話があるが、その頃にはすでに「ルールに従ったほうがよい」という秩序維持の考えが出来上がっていたことが想像される。

それで思うのだが、なぜ人類は秩序のある社会を重んじるようになったのかということだ。
別に野生時代のように、全部暴力で決着をつければいいんじゃないのか。
ルールを守るとか面倒くさいことを言ってないで、脅したり暴れたりしてものごとを思い通りにすればいいんじゃないか。
それで最終的に力の強い奴が勝ち残ればいいのではないか。

人類が暴力よりも秩序を重んじたというのは、結局のところ暴力より知力の方がよりパワーが大きいということに他ならないということだと思う。
人類が地球上で今日の繁栄を築いた理由は、人類がライオンより喧嘩が強かったからではなくて知力が優れていたからであるのは間違いない。

また同じ知力を用いるのでも、嘘をついて相手を騙すのではなく、正直を貫いた方が周囲からの信頼が得られて最終的にゲームに勝ち残る確率が大きくなる。
そういうことがゲーム理論で数学的にきわめて厳密に証明されているらしい。

いろんなスポーツでいちいち細かいルールが決められているのは、一定の制約条件の中で工夫して勝利することは非常に「人間的な勝利」であって、そのよい練習になるという側面もあるのではないか。

あと、ボクシングなどの格闘技でもそうだが、スポーツ中に意図的に相手に怪我を負わせるのはほんとうは「傷害罪」だと思うが、しかし意図的かどうかの判断が難しく罪に問いにくい。
さらに今回の問題のように「誰が指示したのか」ということもある。
しかしそれだと怪我をする方はたまったものではないので、専門家がよく吟味してもう少し厳重に刑事罰に問うようにするとか、それこそ人工知能で判定する仕組みを導入するとか、その辺もうちょっと厳しくてもいいような気はする。
posted by ヤス at 09:37| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月17日

見た目の地味な人

人の見た目はどれほどの意味があるのか、その人の中身との関係はどうなのかというのはよく分からないものである。

ちょっと前に初対面の人で、垢抜けない感じの好人物そうなおじさんとあいさつをしたのだが、少し話をしているうちにそのおじさんは文学や思想方面に博識な人であるというのが分かって、なんだかすごいなあと思ったことがあった。
わたしはイケメンと物知りでは断然物知りの人の方を尊敬する。
イケメンは、いけすかないだけであるが、物知りの人は話していると勉強になる。
それでは「イケメンかつ物知り」はどう思うかというと、その人の「イケメン部分」はあえて無視して「物知り部分」にのみ着目する。
いや、やはりイケメン部分を完全に意識の外に追いやるのは難しいかもしれない。
話をしている最中に、「ああやっぱこいつイケメンだわ、なんかいけすかねえなあ」とか思ったりするのかもしれない。

人間の容姿というものはある程度自分でコントロール可能である。
伸ばしていた髪をざっくり切るとか着ている服をファッショナブルにするとか化粧をするとかいうのが、容姿コントロールの基本になるかもしれない。
そして後は食事制限をして痩せる、筋トレしてムキムキになるとかいう風に、肉体そのものを食事や運動で変化させることもある程度は可能である。
さらに整形手術をして骨を削ったり肉を盛ったりして、外科的に肉体を変えることもできる。
整形手術では、例えば足の骨を継いで多少長さを伸ばすとかも可能なようだが、しかし背骨の長さを伸ばしたりして基本的な身長を大きくするとかいうのは難しかろう。

そう考えると人の見た目というのは、変容困難な部分もあるにはあるが、しかしかなりの程度自分で変えることができる気がする。

そして世の中には自分の見た目に気を使っている人とそうでない人がいる。
ひとまず「見た目」を見ることでそのあたりは一目瞭然に分かる。

だがこの地球上には某国のスパイみたいな人が暗躍していて、そういう人は目立つと困るのでかなり意識して目立たない見た目を心がけていることだろう。
そうすると、見た目を見ただけでその人が自分の見た目に気を使っていない人だと断言もできない。
実際、黒一色のリクルートスーツの一群のように、悪目だちしないためにわざと周囲に溶け込む服装に身を固めたりすることもあるのだ。

だから目の前に地味な感じの人がいても、いったいそれが意図した地味なのか無意識の「自然な地味」なのか判断をしないことには、その人が容姿に気を使っていない人であると断定することはできないのである。
ということで、見た目が地味な人の中身を見通すのはなかなか難しいなあとか思ったりしている。
posted by ヤス at 09:48| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年05月16日

ATMとキャッシュレス化

銀行が業績不振らしい。
そういうニュースがちらちら流れている。
まあ業不振とはいうものの、大手銀行もまだまだ巨額の利益を出していて赤字に転落したとかいうわけではない。
ただ、この数年の動きを見ていると銀行業界に吹く逆風は少しずつ確実に強くなっているように思われる。

その逆風を象徴する話のひとつにATMの問題があって、この数年ATMの稼働率がどんどん下がって掛かる費用に見合わなくなってきている。
ATMは一台設置するのにもけっこうな費用が要るし、電気代や修繕メンテナンス、中身の現金の集配などにも確実にコストが掛かっている。
特に最近は電子マネーなどの電子決済の利用が増えている。
日本は諸外国に比べてキャッシュレス化でかなり遅れを取ったというけれど、それでもキャッシュレス化は確実に進んでいるのである。
特にこのところの外国人観光客の増加で、キャッシュレスに慣れた彼らを相手に商売をするのには電子決済を導入していないと話にならない。
そういうことで都会や観光地を中心に、小規模店などでも今後電子決済が広がっていくものと思われる。
そうするとさしもの日本人の方でもだんだんと電子決済を使う人が増えていく。
そして現金を利用する人が減る。
現金が減るとATMの稼働率が確実に下がる。

おそらく近い将来、銀行は独自のATMを放棄して、コンビニとか郵便局とか、ある特定の会社が「ATM
サービス提供者」として各銀行に現金預け払いのサービスを提供することになるのだろう。

銀行の経費削減の動きから世の中のATMが減っていくと一般庶民の現金の扱いが今より不自由になって、これまで渋っていたような人々でも電子決済に移行する人が増える。
そうやって「キャッシュレス化」スパイラルが進行して近い将来日本でも、電子決済化、キャッシュレス化が進むような気がする。

ただそれだけでは済まなくて、今までお金が余っているところから預金で集めて足らないところに貸し付けで供給するという銀行の役目そのものが、今後大きく変わる可能性がある。
それが、現金決済から電子化することで急加速するような気がするのである。

仮想通貨とかクラウドファンディングとか「銀行を介さない」貨幣価値の移動手段が新しく出てきて、単なる現金輸送業務としての銀行業はちょっとずつしぼんでいくのだろう。

ただそれでも就活生の人気企業ランキングでは大手銀行は軒並み上位に並んでいる。
人々の脳裏に刻まれた「企業ブランド」の根強さを感じる。

ということで、やっぱり商売にとってブランディングはとても重要だな、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月15日

有印私文書を投函する

今朝、下駄箱の上に切手を貼った封筒を置きっぱなしなのが、ふと目に入った。

この封筒は本当なら昨日の朝に出すはずだったのに、なんやかんやしているうちに存在を忘れて約24時間放置してしまっていたらしい。
さあ今からシャワーでも浴びようかなと思っていたところではあったが、それでまた忘れると困ったことになるので、それでかなり面倒臭くはあったのだが、そのまま下駄箱から「つっかけ」を取り出して履き、徒歩3分の距離にある郵便局に向かった。

いや、本来なら徒歩1分のところに赤い郵便ポストがある。
そっちに投函する方がずっと合理的な選択といえる。
おそらく、徒歩1分のポストも3分の郵便局のポストも、朝の郵便物は集荷で一緒くたにされて中央郵便局かどこかに集められるのに違いない。
しかしこれは人間のサガというものだろうか、ぽつんと道端に心細げにたたずむ郵便ポストに投函するよりは、寄らば大樹とばかり白亜の郵便局の真ん前に誇らしげに立っているポストに投函した方が、何かより確実に届きそうな感じがする。

こういうところで合理的行動を貫けないのがわたしの弱さであろうか、と少し反省したりもしていたのだが、しかしよく考えてみるとそれ以前に、今の時代に紙の郵便物を物理的に送付しなければならないことの非合理について思いが至った。

世の中でEメールがポピュラーになってもう20年以上も経っているだろう。
そんな電子化時代に数百文字の情報が記入されたA4の紙切れを莫大なコストを費やして送付するのは恐ろしく理屈に反していないか。

ただわたしには、業務上紙の書類を郵送することがいまだになくならない理由はちゃんと分かっている。
それは「ハンコ」の存在である。
有印私文書は、その性格上なかなか電子的送付で済ますということにはいかないらしい。

ただ最近は携帯ショップでもハンコなしで契約ができる時代である。
近頃は「ハンコの不思議」についての議論も少しずつ聞こえてくるようになった。
そもそもハンコというのは、志賀島で発見された「漢の倭の奴の国王」の金印のように、皇帝からその地位を認められた各地の支配者が使ったりするものだった。
下々がハンコを勝手に作ったりすると首がはねられたりという時代がかつてはあった。
それが、時代が下って日本の戦国時代とかには、中央の権威が弱った影響もあったのか戦国武将が勝手にデザインした自分のハンコを使うようになった。
江戸時代以降にはそれまで母印とかで済ませていた庶民層も私印を使うようになり、明治時代になって法律によって印章制度が定められたそうである。

そういう経緯からすれば、偉い人から下賜された二つと無いハンコを押す場合か、あるいは戦国武将のように自分の文書に格好をつけてお洒落なハンコを押すというのが本来のハンコの押し方で、現在のように三文判でもなんでも押さないと文書の効力が発揮しないというハンコの押し方は邪道であるとしか思えない。

そんなことを思いながら、3分ほどかけてより遠いポストに封筒を投函したのだった。
posted by ヤス at 09:35| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年05月14日

今朝の出来事

今朝ジョギングをしていて帰って来る途中、路地裏の四角のところにいつものおばちゃんが立っていた。
「いつものおばちゃんが立っていた」件に関しては少し説明しないといけない。
世の中のおばちゃんは話をするのが好きな人が多い。
そのおばちゃんは、もう十分に「おばあちゃん」と呼んで差し支えない容貌と年齢だと思うのだが、ここでは若干の遠慮を込めておばちゃんと呼ぶことにするが、とにかくそのおばちゃんも話をするのが好きらしい。

どれくらい話好きなのか。
わたしが出かける途中にその四角を通り過ぎるときに、10回通り過ぎるうちの2〜3回はそこに立っていて、さらにそこに立っているときに会釈だけで済ますのは50%くらいの割合である。
で、残りの50%はどうかというと、おばちゃんは頭上の少し上くらいに片手をあげてひらひらと手招きをする格好をする。
ちょうど招き猫が手を挙げているくらいの高さであると思ってよい。
ちなみにそのおばちゃんは昔の人らしく背格好が小さい。
間違いなく身長145cmは下回っている。
しかし、おばちゃんとしてのフォルムが自然な感じで、ある意味体の小ささを感じさせないのは何か凄いなと思うことがある。

少し話が逸れた。
とにかくおばちゃんがそこに立っていると半分くらいの確率で手をひらひら手招きして、それにつられてこっちがいつも通りの会釈をして通り過ぎようとしていると、もうすでにおばちゃんは戦闘モードに入っているのだ。
とにかく目があった瞬間にはすでに話を始めている。
話の内容は、この間知らないおっさんがいきなり玄関に上がり込んできて怖かった、掛かり付けの医院の院長がもう引退しているのだが莫大に貯金して悠々自適な件、それから自宅前の植木鉢の花の種類と生育状況や最近近所に猫が増えたとか、とにかくいくつかのパターンをランダムに繰り返す感じである。

わたしは本来、人と話をするのがおっくうでかつ非常に冷たいタイプの人間であると自己認識している。
だからいつもならこの手のおばちゃんには、せいぜい「ちわーす」とか言って相手が話を始めたのを無視して通り過ぎるのが関の山である。

しかしこのおばちゃんはひょっとしたら「ジェダイ」で、フォースでも操っているのかもしれない。
あるいはこのおばちゃんは、地球上でわたしが唯一無視できなかった話好きの人類かもしれないと思う。

で、今朝もおばちゃんは立っていて、やはり招き猫の高さで手をひらひらさせている。
ここは「ちわーす」とだけ言ってジョギング中を口実に走り抜けようかと思っていたその矢先、おばちゃんはわたしのすぐ後ろに出現した作業服姿の若いお兄ちゃんに向かって話し始めた。

手をひらひらさせていたのはわたしに向かってではなく、作業服の若いお兄ちゃんに向けてだったのだ。
その時わたしは、10代の頃に少しだけ味わった甘酸っぱい感情を思い出していたような気がする。
やはりあのちっちゃいおばちゃんは、「ジェダイ」に違いない。
posted by ヤス at 09:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月13日

MRJの残した教訓

最近国産ジェット旅客機MRJ関連のニュースがまた少し増えたように思う。
5月になったからだろうか。
3月決算関連の発表などがあって、あらためて三菱重工グループの財務内容がクローズアップされているのかもしれない。
MRJの開発にあたっている三菱航空機は三菱重工が64%出資する子会社であるらしい。
その子会社の三菱航空機はMRJの開発費がかさんで1000億円くらいの債務超過に陥っている。
それを親会社の三菱重工が債務超過解消にむけて2018年度内になんとかしようという話である。

で具体的な債務超過解消の手法はどうするのかというと、三菱航空機が三菱重工から借りている借金を株式に転換するそうだ。
報道によると2017年3月末時点で重工からの借入は3600億円を超えており現在さらに増えている。
だから債務超過のためのタネは十分にあるわけだ。
これにより貸借対照表の「債務」が減って「自己資本」が増えてめでたしとなるのかというと、これがそうでもないから難しい。

現在三菱航空機への出資は重工が64%の他に三菱商事とトヨタが10%ずつ、他に商社その他が10数%出している。
この状況で重工が借入1000億円分を株式に転換すると出資比率がたちまち増えてバランスが崩れる。
だからトヨタとか三菱商事など他の出資者にあらかじめ相談して応分の出資を仰ぐ、というのが普通の流れになるのだろう。

そういうやや複雑な交渉を残しているので「2018年度中」と実施時期に幅をもたせた表現になったということだと思う。

前にも書いたと思うが、MRJをめぐる環境は非常に厳しい。
大型旅客機の二大巨頭であるボーイングとエアバスが、中型旅客機専業メーカーであるブラジル・エンブラエルとカナダ・ボンバルディアとそれぞれ提携することがすでに明らかになっている。
ボーイング、エアバスとも今後急成長が見込まれる50〜100席クラスのリージョナルジェット機市場を押さえておこうと、当然のように手を打ったということだと思う。

ということで少し気が早いがMRJはほぼ失敗が約束されているように思われる。
今のところMRJの受注予約のキャンセルは先日のイースタン航空の40機しか出ていないが、他のところだってどなるか分からない。
これは「こっちの方からキャンセルを申し入れる」と交渉上不利だから三菱の方が「参りました」というのを単に待っているだけのように見える。

MRJがここまでひどい状況になったのは、もっと早い段階でやるべきこと、できることを片っ端からやらなかったせいであると思う。
三菱航空機では最近になって人材のリストラを進め、開発経験のある外人スタッフを大幅に増やしたりしているらしい。
それを最近になってやっと着手したのは「日本人による開発」にこだわりがあったのかもしれない。
エンブラエルがボーイングと提携したのだって、MRJが開発初期の段階でボーイングと提携交渉していればなあとかつい思ってしまう。

MRJプロジェクトを見ていると、何か難しいことに挑戦するときは、やるべきこと、できることは少々無理を押しても全部やっとかないと後で泣きを見る、そして大いに後悔が残る結果になるんだなあということである。
少なくともMRJはそういう教訓は残したと思う。
posted by ヤス at 15:36| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年05月12日

人生は運まかせか

最近の日本人の平均寿命は、女性の方がいくらか男性を上回ってはいるものの、男女共おおよそ80歳くらいである。
それでそういう多くの日本人の人生、それはだいたい一個あたり70年とか80年とかそれ以上になると思われるが、それを一個ずつ検証した時、それがどれだけ合理的になっているか、最適化されていて無駄がないか、当初構想された戦略の通りをたどっているかどうかを考えた場合。

多くの人の人生は、その足跡がほとんど脈絡がないように見えるのではないか。
いや自分は幼少の頃から将来を夢見て、自分の頭で考えて研鑽を積み、例えばプロ野球選手になったという人もいるのかもしれない。
だがそのような「目指して頑張らないとなれない職業」の人々でさえ、その途中に運や偶然に左右され、本当はサッカー選手になるかもしれない場面もあったりしながら野球選手になったのかもしれない。

野球をやめた後の人生というのも待っていて、おそらく引退後の目標通りに監督になるとかいう人は、プロ野球選手になるのからさら狭き門になる。
つまり思い通りにいかない人がそこでまたいくらか発生することになる。

というか、プロ野球選手になり、監督になり、人生の晩年はテレビ解説とか球団経営者とかそれなりのキャリアに収まっているような「成功者」でさえ、それが当初の人生設計通りなのかというと、たぶんそんなことはない。
多くは「あの時のたまたま」に左右され、気がついたら今のポジションにいたというのが真相ではないか。

別に長期の目標を立てて頑張る人生を否定するような論陣を張ろうというのではない。
人生における合理的な選択、効率的な行動を目指すのが意味ないわけでもない。
人は一生懸命脳みそを絞って論理的に行動し、もっとも無駄のないキャリアを目指したいと常に思っている。
どんな時もそのように行動しているかどうかはともかく、「そのように合理的でありたい」と願っているのはたぶん間違いない。

ところが一部の「成功者」を除いて多くの人類は合理性からは程遠いように見える。
そしてよほど合理的で努力家である一握りの人々でさえ、自分自身の人生を完璧にコントロールするのは不可能である。
というか、ほぼほぼ運命に翻弄されっぱなしの中を懸命に前に進んでいるのにすぎない。

人類は賢くてお得な選択を常に望んでいるが、その選択は多くの場合賢くもなくお得でもないという矛盾は現実としてある。
いや、その選択が結果的に賢かったのかお得だったかは、人生が結末を迎えるまでは分からない。
そう考えると賢くお得な選択を目指すというのは、実はあまり賢くないことのではないか。
そういうどうでもいいことを少しだけ考えたりした。
posted by ヤス at 09:06| Comment(2) | 徒然なるままに