2018年03月31日

スペックで物を買う

今のご時世、物を売るのが難しい時代であるのは言うまでもないが、そのなかでなんとか売って行く有効な方法として「スペックで売る」ということがある。
例えば最近は価格コムのページを覗くと、パソコンの比較一覧の中に「CPUスコア」なる数字が出ていて、これはパソコンの頭脳であるCPUのパワーがどの程度かを表すものである。
わたしは、まあ当分はパソコンを買い換える予定はないのだが、それでも最近のパソコンはどんなかなと思って価格コムで調べてみたりすることはある。

その時にCPUパワーの数字はなにげに気になる。
ひと昔前はパソコンのパワーはクロック数を見てなんとなく判断していたものである。
あの、1GHzとか2.5GHzとかいうやつである。
しかしいつの頃からか、CPUはコア数が、シングルコアが当たり前だったのが2コアになり4コアになり、最近は16コアとかいうのも普通に買えたりする。

そうなると単純にCPUクロックのGHzの数字が単純に大きいのが偉い、という話ではなくなってくるのである。
CPUの場合他にもキャッシュメモリやメインメモリの容量とかハードディスクやSSDのアクセススピードとか動作速度に影響を及ぼす要素はたくさんある。
だからCPUスコアの数字さえも、そのままパソコンの処理能力を表しているとは限らないのだが、複雑になったパソコンの速さの要素を一刀両断に表す数字としてはこれに頼るしかない。

そうなるとパソコンを売る側の気分としてCPUスコアはなるべく大きくしながら、メモリやハードディスクなど周辺要素をなるべく安手に仕上げて、高性能なのに安いパソコンとして、少し技術のことが苦手な人に売りつけようか、ということになっても不思議ではない。

現代の技術的な製品は、多かれ少なかれこのようなスペック頼りの売り方がかなり見られる。
スポーツカーなんかでも、その速さは馬力やトルクだけで決まるわけではない。
むしろ馬力が劣っていてもサスペンションやタイヤやボディ剛性などのトータルがほんとうは重要なのだろうが、そういう複雑な技術要素をトータルして評価し表現するのは至難である。
結局単純な馬力とか、ちょっと前に不正問題が話題になった燃費性能値などを前面に出した方が販売戦略上は有効ということになる。

そう言えば最近はデジタルカメラの画素数について昔ほど言わなくなった気がする。
デジカメ画素数は、本来は2〜300万画素もあれば実用上十分なのだろうが、今のデジカメは2千万画素とかが普通になっている。
それでかなり前、コンデジが30万画素から100万画素に向けて進化していたような時期には、画素数がうちは130万画素です、こっちは180万ですみたいにやっていた。
しかし画素数も行き着くところまで行くと、みんなそろそろオーバースペックの虚しさに気がついて販売戦略の重要手段でなくなる。
そのかわり今度は、連写がどうとかISO12800がどうとかになるのだが。

それでパソコンの話に戻ると、パソコンのCPUパワーの数字は買う立場ではものすごく気になるのだが、パソコンの本当の能力は、その「キーボードを叩く人間の能力」も全部トータルして考えるのがほんとうなんじゃないか、と身もふたもないことを思ったりする。
いやほんとはそっちこそが真の処理能力を表しているに違いないのだが、まあそれでもスペックで物を買うのは、止められないのでしょうがないのであった。
posted by ヤス at 15:02| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月30日

電話プレッシャー

そういえば、最近いわゆる固定回線の電話を使っていない。
たぶんもう何年も使っていない。
おそらく何年か前に、仕事先で行ったどこかの会社かなんかで、受話器を借りてしゃべったような記憶があるくらいだ。
わたしの場合固定回線を持っていないということもあるが、そもそも電話で人と喋るのが苦手なのでこれは必然である。

携帯電話と固定回線では、電話ということに変わりはないがその「電話プレッシャー」は固定回線の方がかなり大きいような気がする。
電話のプレッシャーと言えば、もう30年くらい昔、社会人になって勤め先で電話を取らないといけないことになって、まあそれは新入社員だから当然と言えば当然なのだが、誰だか知らない偉い人から電話が掛かってくるかもしれない恐怖に、毎日恐れおののいていた日々のことを思い出す。

会社の電話というのは、受話器を取ったらまず「ナントカ会社でございます」と社名を名乗らないといけないのだが、受話器を10回取ったうちの7〜8回くらいは「ナンヒャラカイシャデゴジュリマ、、、」とろれつが回らなくなる。
それでも電話してきた相手はわたしの舌が回っていないのにまるで頓着せずに、かまわず「ナントカさん今いらっしゃいますかー」とか畳み掛けてくる。

会社の電話を取る場合、自分の社名を名乗る以外に受話器を取った自分の名前を名乗る、みたいなルールもその後浮上してきて、電話を取った際のセリフ回しはますます長くなり、わたしの応答はますます不安定になったものだ。

あと、わたしは経験ないが、受話器を取った時に短いキャッチフレーズ的なセリフをさらに挿入してくるパターンさえある。

「はいもしもし、早い安いうまいでおなじみの吉野家の鈴木がうけたまわっております」

くらいのボリュームの長セリフが着信早々挿入されることになり、その時間は早口でがんばって3秒くらい、はっきり丁寧に発声していると5秒くらいかかる。
電話における3秒や5秒はほとんど永遠とも言える時間である。

これが携帯電話によるやりとりだと、たいてい着信相手の名前が表示されるし、慣れた人だと仕事の相手であっても最初の「名乗り合い」がまるまる省略できるのは朗報だ。
人生が電話のたびに3〜5秒も節約できることになる。
何より携帯の場合、その電話をかけてきた相手は自分に用事のある人と最初からわかっているので気持ちの準備とか、対処が容易である。
固定電話だと自分のまるで知らない用件をまくしたてられ、相手の名前も聞き取れずにパニックになる、そういう心配が携帯だとない。

30年前と違って携帯電話の行き渡った現代では、会社の固定電話宛に電話が掛かってくることもずいぶんと減ったのではないか。
もし今の時代にわたしが新入社員なら、昔よりもずっと電話プレッシャーは少なかったのだろうと想像する。
いや現代の新人さんたちはほんとうに恵まれているよなあ、と引きこもり傾向のあるおじさんは思ったりするのだった。
posted by ヤス at 14:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月29日

計画を立てる意味

人間は計画を立てる生き物だ。
特に現代人は何かにつけて計画を立てる。
どこかに旅行に行くのでも、何時に出発してお昼はどこで食べて何時にどこで何をして、と計画を立てる人がいたりする。

知り合いに、計画を立てるのが好きだ、と公言してはばからない人物がいる。
その人は仕事をやるのでも周到に計画を立ててから、慎重に行動に移す。
曰く、計画を立てると仕事が終わった感じがしてかなり気分が楽になる、らしい。

わたしは言うまでもなく「基本無計画」を生活信条としてこれまでやってきたので、計画を立てるのは苦手だ。
しかし計画を立てた時の少し仕事が進んだ感じ、はよく理解できる。
だがもちろん、冒頭に書いたようなきっちり計画を立てるような旅行については、あまりやらないタイプである。

わたしにとって旅行というのは無計画性にこそ意味がある。
おそらく計画をきっちり立てるタイプの人は、多人数旅行をする人なのだろう。
多人数の場合、みなが予定を共有し、次にどこに行くのかめいめいが理解している必要がある。
旅行計画を立てるのが好きな人は、みんなが納得するプランをどう作るか、そのところに情熱を燃やす人なのに違いない。

わたしの場合、旅行は基本一人で行くもんだと思っている。
一人だからこそあっちへふらふら、こっちへふらふら、風に流される糸の切れた凧のように、自由に飛び回れるのである。
複数人数で連れ立って旅行している場合そうはいくまい。

ところで会社の場合もたいていいろんな計画を作って経営している。
これは、やっぱり会社もその内外に組いくつもの織や個人がたくさん関わっているので、何か重大な行動を実行する前にその意図やご利益について関係者の合意を得ておく必要があるからだ。
だから大きい会社ほどいろいろと計画を立て、計画進行中はその実行度合いがどんな具合か適当なタイミングで報告しないといけない。

その点個人でやっている気楽な商売の場合、そういうわずらわしいことが不要なので、気ままにふらふらとやっていくことができる。

計画というのは、たいてい計画通りにいかないものである。
それは計画実行者の怠慢が原因のこともあるし、過去に予想した「現在」の状況と、実際に現在になってみた時の現実がたいていはかなり違っていることが原因である。
だから計画進行にともなって少しずつ軌道修正が加えられて進められたりする。

そのように考えると、計画の意味の中心は計画が計画通り進むことよりも、むしろその実行前に関係者の合意や納得を得ることだったりするのかもしれない。

その辺が、わたしが計画を作るのが苦手な原因かもしれない、とちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 10:56| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月28日

単調作業の苦痛

単調作業というのは退屈である。
昔、中学だったか高校だったかの頃、おそらく国語の授業においてに違いないのだが、何かの罰で漢字を200字も300字も書いてくる宿題が出たのを思い出す。
漢字テストの罰ゲーム的なアレだったのかもしれない。
「お題」の漢字をひたすら書く。
まあ言ってみればそれだけのことだ。
何かの漢字を1000回書いたってそれに掛かる時間というのはたかが知れている。
たぶん1時間もあれば1000字くらい書けるのではないだろうか。

しかしわたしにはこの罰は非常に効いた。
何かの文章を1000字分書くのより、漢字1字を300字くらいひたすら書かされる方がものすごく単調感があってつらい。

しかし同じ漢字をくり返し紙に書くだけのことが、なぜあんんなに苦行だったのだろうかと、今考えると少し不思議だ。
ひとつには、紙に字を書くのがもともと苦手だったのがあるかもしれない。
今でも紙に字を書くのは、それが20字くらいの短いものでもものすごく面倒くさい。
字を書くといっても、他人に提出するものはちゃんとその他人が読めるように書かないといけない。
よく考えると自分が書いた字は他人が読めることによってコミュニケーションが成立する、それが字の元々の効能である。

しかし字を丁寧に読めるように書くというほど面倒くさいこともない。
おかげさまで現代では電子的な筆記ツールが発達し、手書き文字の苦痛からかなり開放されている。
ただそれでも市役所に出す書類とかクレジットの契約書とか、細かい字を延々と書かされるのがあって辟易する。

話を、漢字を続けて書くことの苦痛に戻す。
くり返し書き並べられた漢字の文字列には、当たり前であるが文章的な意味はない。
漢字をひたすら書き連ねるというのは、意味のない文字列を生成する所業であり、そこには何の想像もクリエイティビティもない。
こういう時は心を無にして、機械のように鉛筆を持った腕を動かすしかないのだろうが、わたしに的にはそれは非常につらい。

何かの本で読んだと思うが、一定のリズムで単調な作業をしている時、人間の脳の中ではセロトニンという精神安定物質が出てくる、ということがあるらしい。
特に良いのが散歩やジョギングで、これを20〜30分も続けていると心が落ち着いてくるというのである。
あるいは人間というのは、他の動物なら嫌がる単調作業に耐えられることによって劇的進化を遂げた面があり、単調に耐え得ることが今日の文明社会を築き上げる基礎にあるのかもしれない。

それにしてもだ。
単調作業はわたしにはつらい。
特に紙に字を書くタイプの単調作業は今後も御免こうむりたいと思っている。
posted by ヤス at 13:00| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月27日

ペーパーレス

書類の束というのは、知らない間に溜まる。
ほんとうに、放置しておくとそのうち家の床が抜けるのではないかというくらいの量が溜まるので、適当に「間引き」しないと家が持たない。
間引きのコツは、毎日少しずつやることである。
まとめてやるとすると新聞をチリ紙交換に出すみたいに紙の束を紐でくくって、みたいなことになるので、そうではなくて少しずつシュレッダーにかけてコツコツと粉砕していくのである。
シュレッダーで粉砕すると、それまで頑強で凶悪だった紙の束がふわふわの感じになるのでゴミ袋に放り込むのにも都合が良い。

「ペーパーレス化」ということが叫ばれ始めて久しい。
なんとなく紙の使用量は減っているような気がしなくもないが、しかし気がするだけで実際には昔とそれほど変わらないのかもしれない。
統計データによると、国内の紙の生産量ピークは2006年頃だったらしい。
それでリーマン・ショックの2008年以降に大きく数量を落としてその後は毎年少しずつ減っているそうだ。
紙の種類で行くと、ペーパータオルなどの衛生用紙とAmazonなどの影響で需要増が続くダンボール紙はかなりの勢いで増加している。
減っているのは新聞用紙と印刷用紙である。
一方で「情報用紙」、いわゆる「コピー用紙」はそれほど減っておらず近年でも年によっては増えたりしている。

何のことはない、書籍と新聞の売上縮小ならびに景気動向の影響が大きいのである。
最近コピー機メーカーの業績が振るわないという話をたまに聞くけれど、これはペーパーレス化によるコピー枚数の減少というよりは、競争激化などの影響のようである。

そういえば、個人的には紙の書籍を買うことがめっきり少なくなった。
どうしても読みたい本でKindle版が出ていない場合だけ紙書籍を買うので、書籍が増加して本棚がパンクするという事態がまったく無くなった。
しかし仕事用のコピー用紙の束はあいかわらずである。

だから個人的には書籍に限ってはペーパーレス化が進み、その恩恵を少々受けている。
まあそういう意味では進んでいないと思っていたペーパーレス化が、ある面では確実に現実化していたわけである。

最近はスマホカメラの性能が上がったのでこれで書類の写真を撮ると十分明瞭に「複写」が出来る。
なんなら撮影時の歪みを補正してPDFに変換してくれるスキャナアプリもある。
しかし多くの人類は液晶画面の心なし向こうの方に佇むデジタル画像よりも、ちゃんと手に持った感触のある紙が好きな人が多いようである。

この間も、仕事先で書類のコピーが要ることになってスマホで撮って帰りますと言ったら、わざわざコピー機で複写してくれた。
わたしはその書類をスキャンして電子化し、間もなくシュレッダーにかけた。
ペーパーレス化が十分な実感として感じられるにはまだもう少し時間がかかりそうだ、と思った。
posted by ヤス at 13:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月26日

人類の 人類の連想機能

昔NHKで「連想ゲーム」という番組があった。
もう大昔の番組なので詳しいルールは忘れたけれど、2組に別れた解答者たちが、お題に沿っていろいろな言葉を連想していくやつ。

しかし連想というのは、考えてみると面白い現象である。
何かの物体を目撃すると、関連するイメージが脳内にスルスルと自然に湧き上がってくることがある。
あるいは梅干しを見ると唾液が分泌されてくる。
ムカデを目撃すると、過去に刺された痛い思いが蘇る。
ある程度人生経験を経た人間は、世の中のいろんな物体や現象に対してさまざまな体験を保持している。
世の中の物体や現象に際して、それらの過去の体験が想起されるのは高騰哺乳類の学習機能の為せる技であろう。

人類の場合、過去の記憶想起が他の動物に比べるといくらか詳細かつ正確になっているようでもある。
もしわたしに備わっているこの自動連想機能が今から突然スイッチオフなったと考えるとどうなるか。

辛いものが苦手なわたしはあらかじめ辛いのが分かっていながら何の気なしに激辛カレーを口に含んであまりの刺激にむせ返ることだろう。
眼の前にムカデやスズメバチがうごめいている時、彼らの危険性を記憶回路から引き出すのに数秒の時間がかかり、とっさに避難できずに刺されて痛い目に合うかもしれない。

またわたしはさっきカップにフィルターをセットしてコーヒーを淹れたわけであるが、その時にドリッパーやフィルターをどこに置いてあったかとか豆は冷蔵庫にあるとかいうことを意識して思い出したわけではない。
ほとんど自動的に手が動いてそれらの物品を取り出してセットしいつの間にかコーヒーが一杯出来上がっていた。
自動車の運転なんかでもそうだけれど、右手をこう動かしたら次に左手をどう動かすとか、日常的に行う動作は一連の手順が次々と自動的に想起されて、いちいち意識して思い出す必要がない。

連想機能というのは「自動的に」想起されるとうのがポイントで、自動であることで意識的に思い出す時に必要なタイムラグを短縮し、危険の回避やスムーズな動作が行えるようになっている。

ただ人類の場合この連想機能が必要以上に動作して邪魔になることがあるようで、重要な仕事をしている最中にふとしたきっかけで連想された別の事象によって脳内が占拠され、重要な仕事がぷっつり進まなくなるということがたびたびある。
いわゆる「気が散る」というやつである。

わたしは自慢ではないが、よく気が散る。
しかし考えてみるとよく気が散るのは、人類の高度に発達した連想機能が人並み外れて優れている結果である、そういうことが確実に言えるのではないか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 14:34| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月25日

違和感に繊細になる

スポーツの世界で「違和感」という言葉をよく聞くようになったのはいつ頃からだろうか。
違和感は、痛いのでもなく動かせないのでもないけれど、いつもと違う感じ。
昔なら無視されていた感覚だと思うが、予防的な観点からは無視せずちゃんと対処した方が、結果として故障離脱の機会ロスを減らすことが出来るということなのだろう。
そういうことでは、違和感にはちゃんとした医学的な実態がある。
素人的には、違和感と聞くと何かサボリの口実なんじゃないかとか、いろいろ勘ぐってしまうわけであるが、プロアスリートは自分の体の感覚には超人的に敏感な人々なので、ひとくちに「違和感を感じる」と言っても、そこは素人とプロではそのレベルが違う。

日頃から身体と対話しながら厳しいトレーニングを続けているプロアスリートというのは、マッサージをしてもらう時も「大腿四頭筋の右から4本目あたりを重点的にお願いします」みたいな感じで、自分の身体の奥の奥まで感じ取りながら日々過ごしている。
プロアスリートが自分の身体に感じる違和感には、素人の想像からするとずっと詳細でちゃんとした根拠がある。

ところで、違和感と言えば我々一般庶民も、のんびりした日常の中で違和感を感じる。
それは体調面に関する違和感もあるし、自分の外側、例えばいつも通る四つ角にあった建物がある日解体されて無くなっていて、数日ぶりにそこを通る時に「あれ」と思うことなどである。
そういうたわいもない違和感は別にどうということもないわけだが、仕事をしている時に感じる違和感、例えば文章をタイピングしている最中に「ところで」をローマ字打ちで「tokorode」」で打ったつもりが、違和感があって見てみると「tororode」「とろろで」と打っている、みたいな場合がある。
このような違和感は、タイピング効率の向上にわずかばかりだが貢献しているわけだ。

あと、今思い出したのだが、40年以上も昔は日本の田舎には「外人さん」がほとんど歩いていなくて、子供の頃じいちゃんと街で白人の女性を見かけた時にじいちゃんが、「ほれ外人さんが歩いとる」と言ったりしていた時代もあった。
日本人の好奇の視線にさらされる「外人さん」には迷惑以外の何物でもなかったろうが、街に外人さんが歩いていると思わず違和感のある時代が、昔はあったのである。

違和感というのは、それに気付くことによって小さい違和感が大事に至らないようにするという意味で、非常に重要なものなのだろうと思う。
そういう点で違和感があると、人間の深層心理には不快感とかわずかばかりの恐怖の感情が芽生えるのかもしれない。
その負の感情が、感じた違和感に注目を向けさせる。

しかし世の中には対処が必要な違和感と、無視すべき無害の違和感とがある。
違和感は、時に人種差別やLGBT差別の原動力にもなったりする。
我々はその部分ではプロアスリートに習って、違和感に対しそれなりの繊細さを備えた方がいいのだと思う。
posted by ヤス at 15:07| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月24日

ペットと擬人化

ネット世界における人気コンテンツのジャンルとして「ペットネタ」がある。
主には犬と猫が主役で、たまにハムスターとかコツメカワウソとか爬虫類系とか変わったやつも出てきたりする。
最近、猫の飼育頭数が犬を抜いたのが話題になったけれど、ネット界隈の猫人気は犬をかなり上回っているようにも見える。

犬と猫は、一般には人間との接し方が対照的とされ、犬はあくまで人間に対して一貫してフレンドリーであり、飼い主に対する無上の愛情表現が特徴である。
対する猫の方は気まぐれでマイペースであり、しかし時に突然膝の上に乗ってスリスリしたり、そうかと思えば床に転がっている小さいダンボール箱に無心で潜り込もうとしたり、行動や表情のバリエーションがやや大きい。
そういうところがネットコンテンツとして幅広い人気を獲得する秘訣なのであろう。

ところでペットと言えば、ソニーのAIBOに代表されるペット型ロボットというのがある。
AIBOは初代からイヌ型ロボットであるが、ネコ型AIBOというのは出たことがない。
ネコ型AIBOが出ていない理由は判然としない。
「動きモノ」にどうしても反応してしまうとか、穴があったらどうしても入ろうとするとか、そういう猫のサガを表現したペットロボットが出ればさぞかし人気になることだろうと思う。
しかし猫の得意技である、高いところにひょいとジャンプするとか、キャットタワーにスルスルと登っていくとかいう猫特有の高い運動性能を現代のロボット技術で再現するのは至難であろう。
そこのところの技術的ハードルでソニーはネコ型AIBOを作らないのに違いない。
というのはあくまで個人的想像である。

わたしが考えるに、多くの人間がペット好きなのにはある理由がある。
それは飼い主はペットを、姿の変わったヒトだと感じていること、ということである。
いわゆる擬人化である。

そもそも人間はなんでも擬人化して考える癖がある。
動物ですらない、変な形のニンジンを見て「おっ、これは人間だ」と思ったりもする。
犬や猫ならなおさらである。
しかし当の犬や猫は我々人間をどう見ているのだろう。
例えば犬は、人間のことを「擬イヌ化」して見ているのではないか。
「この二本足で歩く毛の無いイヌは、電柱があってもマーキングしないけどなんでだろうね」
とか思っているのかも知れない。

猫に至っては人間のことを「擬ネコ化」すらしておらず、ただの便利な「美味しいキャットフード供給装置」ぐらいに思っているのではないか。
ネコが時おり人間に見せる媚態は、その人のことを好きなのであるというよりは、そうした方が「餌の出」が良くなるからがんばっているのに過ぎないのではないか。

なんにせよ、ヒトの方は犬や猫と気持ちが通じたと思って喜び、犬や猫は便利な餌供給装置をどう刺激すれば餌の出がよくなるか日夜工夫を重ね、それによってWin−Winの関係が出来上がっているのなら、まあけっこうなことかもしれない。
posted by ヤス at 15:00| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年03月23日

言語化して教える

人にものを教えるのはなかなかむずかしい。
まず、教える側の人は、教える内容についてよく理解していないといけない。
あたりまえである。
この場合の「よく理解している」というのはどういうことなのだろうかと、ちょっと考えた。

で、ひとつには、教える内容についての「言語化」があるように思った。
何をどうすればそのことが上手くいくか、それをちゃんと言葉で説明できるのは重要である。

最近はスマホでも動画が撮れるし、何かのスポーツの指導でも、例えばマラソンの「良いランニングフォーム」を指導するのに動画でお手本を見せて「こんな感じで走ってみましょう」みたいな方法もある。
それはそれで有効な方法だとは思う。
特に身体の動きを指導する場合、教わる人の頭の中に理想の動作イメージが出来ていた方がいいに決っている。

しかしここで問題なのは、教わる人が理想の動きのイメージを脳内で再現したとして、そのイメージ通りに身体を動かすことが簡単に出来るのか、ということがある。
たいていは出来ないものである。

たいての人の「身体操作能力」は未熟なので、つまり右手をイメージ通りまっすぐ横に上げるとか、斜め45度に上げるとかいうのが、簡単でない。
まっすぐ上のつもりが10度くらい横に傾いていたりするのが普通だ。
優れたスポーツ選手はこの身体操作能力もやはり優れていて、頭で描いたイメージを正確に自分の身体で再現できる。

わたしは昔水泳をやっていて、ハンディサイズのビデオカメラというのが世に普及してきた頃に自分のフォームをビデオで撮ってもらって初めて観た時の衝撃は忘れられない。
まず自分が思い描いていたイメージとまるで違う。
第三者的な観点からは、あああの有名選手の泳ぎをイメージしているんだろうなあというのがほんのり伝わってくるようでもあり、ただ筋力も柔軟性も有名選手とは違っているので当然ながら泳ぎの効率やスピードは全然違う。

例えばバタフライにおける上半身と下半身の動きのタイミングなんていうのは、イメージ通りに再現出来ないことの典型であったりする。
こういう場合は、やはり言葉を使って「脚の打ち下ろすタイミングは水を掻く手が胸の下を通過するちょうどその時」とか、動作ビデオを見せるより言葉で説明した方が再現しやすい場合が多い。

何かを教える時に言葉を使って行うというのは、考えてみると、今のところ人間だけの特技である。
ということは「言葉以前」と「言葉以降」では人間の他人を教える能力はものすごく進化している。
人に教えたいことを言語化出来る能力は、人類にとってかなり中核的な能力のような気がする。
posted by ヤス at 13:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月22日

公文書改ざん疑惑に関して

今回、森友問題にからむ公文書改ざん疑惑問題で、安倍政権にはたいへんな逆風が吹いている。
この逆風で政権に大きなダメージがあり、あるいは退陣までいくのかどうか、そんな感じにもなっている。
野党としては勢いづいてここで一気に政権追い落としまで運ぼうと意気が揚がっているように見える。

ところで公文書改ざん問題は、権力による行政への介入疑惑や権力への忖度による不公正が与党対野党のつばぜり合いのネタになっているわけだが、この問題の本来は、公文書の意義とか権威がものすごく揺らいでいる、信頼を失っているという点にあるのは言うまでもない。

現在、与党側の立場では主要な責任は財務省にあるとしており、野党側は、問題の根本は政権与党にあるとしている。
この場合、与党的には財務省の上の方の何人かを処罰して問題を終わらせたい。
そして野党としては政権の関与を明確にして政権に責任を取らせたいと考えているのだろう。
現在財務大臣は引責辞任を否定しているが、どのみち責任を取らないと理屈が合わないような気はする。

ただいずれの場合でも改ざんを行った「現場の実行者」に何らかの処罰があるかというと、そこのところはよく分からない。
あるいは現場の担当レベルは特にお咎め無し、もしくは省内でひっそりと譴責とかの処罰があって詳細を公表されずに終わる可能性もあるのではないか。

現在世論の風潮としては、忖度を通じて行政に無理強いする政権側に問題あり、財務省はその被害者という図式が出来上がりつつある。

ただ政権の関与を明らかにするのはもちろんだが、本来の問題、公文書の信用問題の回復についても今回を機に徹底的に改善する必要があるのではないか。
どうも日本の風土では、公的情報の取扱がおざなりにされがちである。
陸自の日報問題とか、厚労省の年金記録の問題とか、思い出してみると日本の行政における記録の取扱の無残さがものすごく目立つ。

もし今回、前述のような図式で与党の思い通りに着地するにせよ野党側の勝利に終わるにせよ、財務省は被害者であり改ざんを強要された現場には何の罪もない、ということで終わるとしたらどっちにせよ「財務省の勝利、官僚の勝利」であることは間違いない。
このような図式を財務省は最初から意図して作り上げたのかどうか知らないが、もし意図通りに世間が流れているのだとしたらこの国の官僚機構の恐ろしさを感じる。

例の自殺者にしても、ほんとうは財務省内の圧力で追い込まれたと見ることも出来る気がする。
これを機に日本の公的情報管理が正常化すること、世論がその視点を忘れないでいることを祈るばかりである。
posted by ヤス at 12:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月21日

花と花見

どういうわけか最近の2、3日は雨が続いている。
しかしこの時期の雨は、これから気温が上がってくる時のお知らせというのか、これから桜の季節でもあるわけだが季節が冬から春に変化する兆候のようなものの気がする。
気象庁の過去の記録なんかを見ても、3月下旬の今の時期は一日の平均気温が10度を突破する時期に当たるようだ。
この数日のお天気状態だと、外に出るとまだかなり肌寒く冬の名残が空気の冷たさに残っている。
外を出歩く時もちょっと油断して「冬の上着」を置いていくと、ちょっとびっくりするくらい寒い時があったりする。
日によってポカポカの暖かさだったり、そうかと思えば冬の寒さが戻ってきたり、今の時期はそういいう季節の変わり目なのだろう。

ところで、花見というのは寒い冬が終わって、もう外で酒が飲めるくらい暖かくなったよ、そういう季節変化に対する喜びの気持ちが現れて発生したものということもあるのだろう。
花見における「桜」の役割はこの季節変化の象徴ということで、確かに満開の桜は見ていてきれいだなあとは思うが「花がきれいだから酒を飲もう」ということにはならない気がする。

わたしは個人的には最近花見に縁遠くなってしまったけれど、後楽園のほとりで花見をしているオジサン連中を観察とかすると、実際花を愛でながら酒を飲んでいるようには見えない。
あくまで、オジサンたちの背景を一面ピンク色に染めている桜の花は、しかし酔っ払いたちの眼中に入っているのかどうか疑わしい。

でもそういう桜の姿、花が咲いたのを口実にオジサンたちが酒を飲んでいるが実際にはオジサンの誰も花には関心がないという失礼にもかかわらず、凛として花を咲かせ続ける桜の木々はなんだか格好いいなあ、とふと思ったりした。
posted by ヤス at 13:56| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月20日

漢字の違和感

ちょっと前にロシアのスケート選手がらみで「秋田犬」が話題になったことが合ったけれど、そのことを伝えるニュース映像でアナウンサーが「秋田犬」のことを「アキタイヌ」と呼んでいるのを聞いておやと思った。
わたしは「秋田犬」は「アキタケン」だと思っていだのだが、調べてみると秋田県では「アキタイヌ」と呼ぶのが普通らしい。
秋田県人に訊いたわけではないからほんとうのことは知らないが、NHKのサイトにそう書いてあったのでたぶんそうなのだろう。

しかしいろいろググってみると関東圏でも「アキタケン」派が優勢のようで、「アキタイヌ」派はあるいは日本国内では秋田の地元の少数派だったのが、ここ最近で一気に逆転して主流派に躍り出た、という感じのようにも見える。

しかし、今まで個人的にその発音に慣れていた「秋田犬」が突然違う読み方になると、漢字は同じなのに何かちょっとだけ新種の犬のような感じがしてくる。(あくまでも個人的にですが)
アキタケン時代の秋田犬は、ちょっとシャープなイメージの犬種だったのだが、(あくまでも個人的には)アキタイヌと言われるとモフモフの柔和でのんびりした感じの犬が想起される。

あと漢字の読み方で言うと、個人的に「思惑」のことを長らく「シワク」と読んでいたのだが、これもアナウンサー的には「オモワク」が正解らしい。
この言葉も、音読みで言うよりも訓読みで「オモワク」とやられると、少し意表を突かれた感じがして、その「オモワク」はあるいは俺のことをだまくらかそうとしているのではないか、というような余分なニュアンスが含まれるような違和感をつい感じる。(あくまでも個人的にです)
それで最近は読んでいる文章の中に「思惑」の単語を見つけるたびに、脳内でわざわざ「オ・モ・ワ・ク」と発声して確認するようにしている。

それにしても漢字二文字で「思惑」と書いてあったら、自然と音読みして「シワク」と思ってしまうのが普通なんじゃないかなあと、脳内で「オモワク」と発声するたびに思ってしまうのである。

長年親しんできた漢字の読み方がある日「その読み方は違いますよ、こっちが標準、正解ですよ」と知らされると、それを修正するのにけっこうなハードルがある。
というかアキタイヌにしてもオモワクにしても、わたしの脳内では修正作業はまだ完全には終了していない。
あるいは死ぬまでこれらの読み方に違和感を感じ続けるのかも知れない。

ということで歳をとってから正解を知ると、少量ながら人生において違和感を感じる場面が増えるのは、まあしょうがないのかもしれない。
posted by ヤス at 12:01| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月19日

褒めて伸ばすことなど

指導者が誰かを指導する場合に「褒めて伸ばす」か「叱って伸ばす」のどちらでいくかは、なかなか難しい。
実際には褒めたり叱ったりをいい具合にミックスしていくことになるのだろう。
いつの頃からだろうか、叱るよりは褒めた方がよい、欠点を指摘するより長所を引き上げるべきだ、という「ポジティブ型」の指導法、教育方針が世の中的に優勢になったような気がする。

それはそんな気がするというだけで統計データも何もないのであるが、たぶん1980年代の中盤ぐらいからポジティブ派が優勢になったのではないか。
昔は何をやるにも軍隊式で、学校でも宿題をやってこなかったら教室の床に正座で授業を聞く、さらに失敗をやらかすと廊下に立たせる、みたいなことがわりかし普通にあった。
その時代には「褒めて伸ばす」などもってのほかで、生徒の至らない点、できない部分を容赦なく指摘し矯正するのが主流だった時代があった気がする。

まあそういう時代にも少数ながら褒めて伸ばす教師がいて、それらの教師は「個性派」として物珍しげに見られていたのであろう。

しかし時代が降ってきて、日本経済が最盛期を迎える80年代にかけて、何か空気が変わった感じがあったのではないか。
日本を覆っていた敗戦国の卑屈が大部分払拭されて、ほんとうの意味で戦後が終わった時代とともに、「褒めて伸ばす」時代が始まったのではないか、とふと思ったりする。

しかし実際問題として、褒めることは教育の上で非常に重要不可欠であるとは思う。
何かを学ぶというのは「出来ない」ことへのストレスが生じて、基本的に苦しい時間帯が圧倒的に長い。
だから適当に脳みその中の報酬系を作動させて途中途中で快感物質を出していないと、苦しみに負けて学びが止まる。

本来なら、学びというのは自分の意思と努力で推進されることが理想であり、苦しみに耐えるための報酬系作動も自分自身で適当にやれればこれほどいいことはない。
だが幼い子供とか未熟な大人の場合、あるいはそこそこ成熟した大人の場合であっても、自分自身を正確に見つめ、自分の成長具合を適切に把握して自身にフィードバックする、自分を正しく褒めることの出来る人はそうそういない。

だから客観的な視点から学んでいる人を見つめ、適当に褒めたり叱ったりする指導者の存在は重要である。
時代が新しくなって指導方法といえば軍隊式、の時代が過去のものになったのは、その意味で非常によかったのは確かだ。

ところで、学んでいる人が成長してほとんど達人の域に達してしまって、もうあんまり褒めるところも叱るところもなくなった場合、当然ながら指導者としては単に客観的視点からの観察結果を淡々と「報告」するほかはない。
逆に言うと何かの達人というのは、自分自身を正確に客観視できていて適切に自身を褒めたり叱ったり出来る人のことなのだろう、と今さらながら思ったりしている。
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2018年03月18日

隣の人と違うこと

ネアンデルタール人が絶滅したのは、その生態がなまじホモ・サピエンスと似ていたからに違いない。

同じようなものを食べ、同じような場所に住む2種類の生き物がいる場合、その2種類の生き物がどんどん増えていって住む場所食べるものが足りなくなると、どちらか一方の種類が絶滅する。


ところで人類は、同じホモ・サピエンスながら世界中のいろんな気候の場所に住み、それぞれ多様な食べ物を食べて暮らしている。


少し想像してみると、もし人類がスイカを食べないと生きていけない種類の生き物だった場合、人類の生息数は地球上に産するスイカの総量によって規定される。

スイカの生育に適した気候や土地は地球上のごく限られた地域に過ぎず、したがって「スイカ好き人類」の生息数は現在の70億人よりは相当に少なくなるに違いない。


しかし実際には、人類の大半はスイカが無くても生きていける。

南アジアの方に行けばみんな米を食い、少し緯度の高い地域では麦を食ったりジャガイモを食ったりしている。


エスキモーはアザラシやトナカイの肉を食う代わりに野菜はほとんど摂らない。

そうかと思えば菜食主義でほぼ動物性タンパク質を摂らない人々もいる。


このように、人類はなんでも食べ、暑いところでも寒いところでも文化力でなんとか適応してしまう融通無碍さを持っている。

この融通無碍が、人類繁栄の原動力であることはたぶん間違いない。


しかし他方、なんでも食べどこにでも住む人類のバイタリティは、他のさまざまな生き物から生存適地や好物の食料を奪い、彼らを絶滅に追いやろうとしている。


とつぜんだが、企業戦略では差別化が重要であると言われる。

すべての企業が同じ商品を供給すると同質化競争になって弱いところから順番に潰れる。

だから八百屋が多い場所では魚屋を、靴屋があふれていれば洋服屋を始めるべきである。


おそらくどんどん増殖する途中の人類も、なるべく効率よく増えるためにいろんなものを食べいろんなところに住むようになった。


ところで高等哺乳類の場合、物心つくと親の横で獲物の捕り方とかを学ぶ。

その習性はよほど根深いものなのか、我々人類はどうかすると隣の人と同じような行動を真似て、結果として同質化する方向に行きがちである。

特に日本では「同調圧力」というやつが強いとも言われている。

この同調圧は哺乳類の学習行動の延長なのだろうとぼんやり思う。


むしろ人類に特有の行動特性は、隣の人と違うものを食べること、人と違う場所に住むことなのではないだろうか。


ただそのせいでいろんな生き物に影響を与えているわけだけれども、例えば思い切って月や火星に移住するとかすれば、地球上の生き物に対する影響をいくらか緩和できるかもしれない。


まったく、人類として生きるのは、けっこうたいへんだなあと思った。

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2018年03月17日

人類の他種絶滅能力

ヒト=ホモ・サピエンスというのは不思議な生き物だと思う。

同じホモ属(=ヒト属のことなのだ)にはホモ・ネアンデルタレンシス、つまりネアンデルタール人とかもいて、現生人類とネアンデルタール人は、生物分類上はほんの少しの違いの亜種に分けられるそうだ。


最近ネアンデルタール人と現生人類が交配していたらしいという衝撃的事実がDNA研究で分かってきたわけだけれど、肝心のネアンデルタール人は数万年前に絶滅してしまった。

ライオンとか馬とか象とかの動物の場合、近縁だが亜種違いの親戚が離れた場所でそれぞれ生き残っているのだが、人類に関しては不思議なことにホモ・サピエンス1種類しか存在しない。


ネアンデルタール人などの近縁種は、DNAだけ現世人類の中に数%残して絶滅してしまった。

人類の亜種には他にデニソワ人とかもいて、アフリカから出てきたホモ・サピエンスとネアンデルタール人が中東あたりで交配して出来たのが現在欧米に多くいるコーカソイドであり、さらに中央アジアの辺まで進出してデニソワ人と交配したのがモンゴロイドである、という説が最近有力である。


その説で行くとアフリカにとどまった人類がホモ・サピエンスの原種に近い人々ということになる。


ホモ・サピエンスはネアンデルタール人やデニソワ人の持っていた寒冷地適応などの身体的特徴をDNA的に吸収しつつ、しかし同時にネアンデルタール人やデニソワ人そのものは絶滅に追いやって現在に至っているわけである。



最近読んだ本に面白いことが書いてあって、ホモ・サピエンスは繁殖力、つまり子供を残す能力が他種より少しだけ優れていて、その結果他の亜種を駆逐してしまったのではないかという。

で、その鍵が「一夫一婦」なんだという。

あるいは一夫一婦は人類生存の決め手であり、だから浮気は生物的にもってのほか、だとすれば恐ろしい。


ホモ・サピエンスもネアンデルタール人も、身を守る分厚い毛皮も皮下脂肪もなく、牙とか爪とか角とか武器になる身体部位もなく、ただ直立二足歩行と、それによって自由になった「前脚」と、究極的に高機能化した脳みそを持って数万年前までは共に進化していた。


それがほんの少しの社会性の違い、子育て能力の違いがあって、その結果ほぼほぼ同じ生存戦略で生きていた同じような亜種の中でホモ・サピエンスだけが生き残った。


ある生物種の絶滅というのは、地球創生以来繰り返されて来たことではあるが、しかし最近は人類が原因で生息地を追われ、乱獲されたりして絶滅する生き物が増えている。

こういう人類の他種絶滅能力は、その手始めが同属亜種の対ネアンデルタール人だったのかもしれない。


だが一方で、人類は自分の他種絶滅能力の自覚を持っていて「なんとかしなきゃ」とか思い始めているわけである。


人類とは自分の持つ恐ろしさに気づいている点で賢いということなのか、それともただの身勝手なのか、その判断はなかなか難しい。

posted by ヤス at 11:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月16日

記録を守る

世間は財務省の森友文書の「書き換え(または改ざん)問題」で揺れている。

この問題は、おそらく安倍首相は直接の指示は出していない。

政治家なら、このような場合にいちいち手を下すのはリスクでしかないからだ。

そんなヘマなら安倍さんは首相になってない。


昭恵夫人がどの程度積極的にコトを推して行ったのかはよく分からない。

しかし夫人の直接的指示を証明するのもなかなか難しかろう。


結局、野党として政府権力による事件への介入を証明して行く線は、最終的に頓挫する可能性が高いと思わざるを得ない。


ただ、だから政府権力に一切の問題無しということではない。

役人側は雲の上の方から、有形無形の圧力を確かに感じたればこそ、公文書の改ざんに手を染めたのに違いない。


しかし森友問題はここに来てますます複雑怪奇になって来た。


この世の中に動かざる真実というのは、ほんとうに有るのだろうかと思う。

「現実の真実」は、おそらく「観察者」の視点ごとに、微妙に違っている。

今回の文書改ざんは財務省各担当者が見た事実を記録し、それを後に改変した。

元の決済文書もある種の事実であるし、その後の改ざん内容やその経緯も、ある意味元の文書以上に雄弁に事実を語っているように見える。

だから、今後はそこのところの経緯をできるだけ詳細に明らかにする必要がある。


先日の陸上自衛隊の日報問題といい、どうも日本人は「公的な事実」の取り扱いに不向きなのではないか、つまり民主主義の維持管理が不得手なのではないか、という意見もちらほら聞く。

でもこれは民族的問題ではないと思いたい。

日本の民主主義が、人々にとってどこか他人事のような感じがあって、その維持管理に対する熱量が他国に比べて多少不足しているのではないか、そういう気がするのである。


可能な限りほんとうに近い事実を記録するのは、たぶんすごく難しいことである。

というか、100%の真実を残すのは、人間にとってはヌルヌルのウナギを捕まえるより難しく、たぶん原理として不可能である。


だがせめてなるべく事実に関連する記録を文書で残して、いろんな立場の人が文書を読むことでそれぞれの視点で過去の出来事を想像できるようにするために、公文書の役割は重要だと思う。



2千年前の古代中国、司馬遷の時代のエピソードでも、代々続く記録係の家系の人がいて、その記録係が王様の事績を記録に残すのだが王様から書き換えを命じられる。

記録係が事実に反する書き換えを拒否すると、王様は記録係を処刑する。

記録係の息子が跡を継いで、また親父と同じように王様の都合関係なしに淡々と記録をつける。

そうしたらやがて王様も諦めて文句を言わなくなる。

そういうような故事がある。


ということで、公文書を残すのは、あるいは現代でも命がけのことであるべきなのかもしれない、と思ったりした。

posted by ヤス at 10:55| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月15日

米トイザらス破綻

世界をまたにかけて玩具小売業を展開する「トイザらス」のアメリカ本社が昨年9月に倒産した。
日本の民事再生法に該当する米・連邦破産法11条適用を申請して、その後も営業は継続していたのであるが、ここへきてアメリカとカナダの店舗を閉店するというニュースが流れてきた。
米トイザらスはアメリカだけで881店舗があるので、これらが全部閉店するとなるとかなりの事件であるように思える。

(さっきから「といざらす」とタイピングすると、勝手に「トイザらス」と「ら」の字だけ平仮名変換されるのに少しだけ驚いている)

トイザらスは世界中に店舗展開しているわけだが、アメリカとカナダ以外はフランチャイズ展開の別会社ということのようだ。
日本の160店舗は変わりなく平常運転でいくらしい。

わたしはトイザらスとはほとんど縁のない生活を送ってきたのでさほどの思い入れがあるわけではないが、そういえば20年近く前に当時話題になっていた元祖AIロボット「ファービー」を買ったことがある。
このファービーはひとしきりその機能や使用感を確認した後、知り合いの子供に呉れてやった。
もし今現行型ファービーを買うとしたら、わたしの場合迷わずAmazonのサイトを開く。
初代ファービーの時代Amazonはすでに存在していたが、まだ単なるネット書店だった。
それが家電からおもちゃからファッション、雑貨となんでも売る巨大流通業に成長した。

アメリカのトイザらスが経営破綻した原因としては、Amazonに代表されるネット小売による影響と、既存の巨大小売であるウォルマートなどの安値攻勢の板挟みにあったことが挙げられている。
トイザらス自身が、1980年代くらいに街のおもちゃ屋さんを次々と潰して成長して行った歴史があることを思うと、このような構図は非常に興味深い。

ところでわたしはおもちゃに用事はないのだが、ときどき暇つぶしでトイザらスの店内に入ることがある。
トイザらスの店内に入って誰もが感じるであろうこととして、あの独特の「ゴキブリホイホイ」型一方通行レイアウトがあると思う。
昔小売業経営の教科書で見たおぼえのある、ワンウェイ型のレイアウトがまさにそこにある。
このレイアウトは専用の入り口から入って店内をぐるっと回って専用の出口に行き着くとそこにレジカウンターが待ち構えている。
それで何か買ってかないと気分的にレジの横を素通りしにくい感じになっている。
まああれはあれで、万引き対策とかの意味合いもあるのだろうが、しかしトイザらスの店内にいる間は、なんとなく「ホイホイ」に捕まったゴキブリの気分がしてかすかな心理的圧迫感があるように個人的には思う。

トイザらス破綻の要因の一つには、ああいう機械的な購入促進の構造もあって消費者に敬遠されたということもあるのではないか、と思うのであるが、アメリカの消費者はあのゴキブリホイホイ型店舗のことをどう感じているのだろうか。
posted by ヤス at 10:48| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年03月14日

古代の鏡と自己認識

大昔の、たぶん卑弥呼の時代頃に三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)という「鏡」があって、中学だったか高校だったかの歴史の教科書に載っているのを見たおぼえがある。
この神獣鏡は、写真で紹介される時なんかは「背中」側の模様の入った部分しか見えないけれど、しかし神獣鏡が「鏡」であるとすればその主要な機能は模様とは反対側のツルツルの鏡部分にある。
昔、ガキの頃に神獣鏡の写真を見て思ったのはなんか鏡のくせにイヤにゴテゴテしていてこれじゃなんも映んないなあ、ということだった。
しかしその後、博物館なんかに行って古代の鏡の実物(実は複製だろう)を立体的に見聞する機会を得るにおよび、あのゴテゴテの模様の裏側がちゃんとしたツルツルの鏡になっていることを知ってやや納得した。

しかし次に思ったのは、金属表面、古代の神獣鏡は青銅(銅に錫を加えた合金)であるが、これを磨いて鏡にしてどれくらいはっきり映るのか少し疑問だった。
しかし古代には鏡を磨く職人みたいな人がいて、錆が出たり傷がついたりした鏡をピカピカに磨いてよく写るようにできていたのかもしれない。

ところで昔の庶民にとって、神獣鏡のような「鏡」は雲の上の存在の宝物で、そんなもの死ぬまで見たことがないのが普通だったと思う。
そうすると、古代の庶民が自分の顔を確認しようと思ったら、水を張ったカメをそっと覗き込んで、水面に映っている暗い像を見るしかない。

ゆらゆらと不安定な水面に映る自分の顔を見る時、古代の庶民は何を思ったのだろう。
水面に映るのを見る限りにおいて、そこでは常に「下を向いている」自分しか確認することができない。
まっすぐ前を向いている時と下を向いている時では微妙に肉のタレ具合とかが違うので、古代の庶民の自己認識には「下向きの自分」バイアスが掛かっていたに違いない。

そういう意味で、正面を向いた自分を確認できる金属製の鏡を持っている卑弥呼のような支配階級は、自己認識において庶民より明らかに隔絶していた。
そのことを卑弥呼たち支配階級が認識していたかはどうかはともかく、庶民と支配階級の自己認識格差は厳然と存在したのである。

そう思うと現代はずいぶん平等だ。
貧乏人でも鏡のひとつくらい所有することはそれほど困難ではないし、エレベーターに乗ったりお店のトイレとかに入っても、そこに鏡があって自分の顔をまじまじと確認できる。
さらに言えば、今はビデオカメラも一般化して、スマホを持っていれば誰でも自分の動く姿を見ることができる。

鏡を覗いても動画に映る自分の姿を観ても、思うことはなんか変な顔だなあ、変な動きだなあということだ。
本来見ることのないはずだった自分の姿を見て感じる自己認識ギャップは、自己研鑽の上で大きな力にもなるし、しかし現代人が何かの拍子にたびたび「変な自分」を直視しなければならない現状は、やや苦痛でもある。
しかし、水面に映る下向きの自分しか確認できなかった時代から考えると、間違いなく現代人は恵まれているのである。
だから現代人として生まれたからには自分を確認できることのメリットを最大限活用しない手はないよな、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月13日

おじさんの可能性

昔自分が子どもの頃は、二十歳を過ぎたような若者を見てもものすごく大人に見えた。
それで自分が中学生くらいになって部活の先輩とかと話していると、実際の年齢は1歳2歳しか違わないのに先輩がものすごく大人びて見えた。
わたしが中学生1年生の頃水泳部の3年生のある先輩がいて、その人は体もゴツくて顔もいかつかったので、そしてついでに泳ぐのも速かったので、その先輩は2歳上というよりは10歳も20歳も離れているような錯覚があった。
だからその先輩の前ではいつも緊張していて、結局ほとんどまともに話もしなかったと思う。
だがその先輩も振り返ってみればただの中学3年生の15歳くらいの少年だったわけで、たぶんおっさんになった今の自分からその当時の先輩を見れば、ちょっとごついけれどまぎれもない中学生に見えるに違いない。

人の歳の取り方、その人が子どもに見えるか若者に見えるかおっさんに見えるかというのは、まあ当たり前のことだが自分の歳格好が大きく影響している。
わたしは10代20代の若かりし頃は、50歳過ぎのおじさんはもう死に損ないのたいへんな歳寄りだと思っていたわけであるが、いざ自分がその歳になってみるとそうでもない。

いや、体力とか肌のツヤやハリとか随所に加齢を感じるのは事実であるが、だが自分の中の「年齢メーター」の基準点はあくまで自分の年齢にあるようで、自分が1年歳をとるごとに自分の年齢メーターの基準も1年後ろにずれていって、世の中の人々の年齢具合を判別する感覚が変わる。
そういう意味でわたし的には、日本の高齢化具合が1年ごとに若返る方向に常に動いている、と言えなくもない。

もうひとつ関連して思うのは、おじさんの歳になるとものすごく個人差も出てきて、どうかすると10歳も20歳も年下の人物でもずいぶんと大人に見えたりする。
いや、20歳と言わず10代の若者でも、ものすごくしっかりと自分の意見を言う人がいると、すげえ大人だなあ、尊敬するなあと思ったりする。
その時ばかりは自分の中の年齢メーターの基準点が中学生に戻っているような感じになる。

まあ当たり前のことだけれど、ある人物を見て、いやああなた若いねえ、とかしっかりしてるね、とか大人だね、とか思うのには、外見にどれくらい加齢の影響が出現しているかということと内面的にどれほど理性的で揺るぎのない感じを持っているか、その二面がある。
そして内面の若々しさとかしっかりしている感じとかいうのは、もちろん人生経験もかなり影響はしていると思うのだが、しかし多くの場合において生物的な年齢を超越して、精神的に若々しくいられるとか大人びていられるとかいうことがあると思う。

生物的な年齢が進行しても内面的には若くいられる(かもしれない)という人類の特性は、雲間から何か希望の光が差し込んでいるようで、おじさん的にはとても素敵な可能性であると思えたりする。
posted by ヤス at 11:38| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年03月12日

ルーシー木から落ちる

この間Yahoo!ニュースに載っていたが、アファール猿人、別名アウストラロピテクス・アファレンシスの有名な化石があるのだけれど、ニックネームが「ルーシー」と名付けられたその化石が、化石になる前の死因が分かったらしい。
300万年以上前に死亡したルーシーは、身長1メートル、推定体重25kgくらいで、死亡時年齢は確か15歳くらいと推定されていたと思う。

このアファール猿人というのは、人類の直接の祖先と推測される猿人である。
ヒトとチンパンジーが進化系統樹的な分岐をしたのが1000万年前くらいと言われているらしいので、アファール猿人はチンパンジーよりはずっと人に近い。
一番の特徴は「直立二足歩行」で、アファール猿人の脳みその容量はチンパンジーとほぼほぼ変わらないが、歩く姿勢はチンパンジーよりも人間に近い二足歩行を行なっていたと推定されている。

アファール猿人は、脳の容量や機能的にはチンパンジーに近いが、ただ直立二足歩行をしていたという一点においてやっぱりヒトの一族なのである。

で、アファール猿人・ルーシーの死因であるが、これは高所からの落下による全身骨折が原因らしい。
何せ化石は300万年以上前のものなので、骨が折れているのが怪我によるものか、化石になる過程で破損したものか判断が難しかったらしい。
しかし骨の壊れ方が、人が高所から落ちた時に思わず手を出して骨折したりする症例と同じだったらしく、その他の骨部位の破損状況も落下による骨折を示していたという。

まばらに樹が生えている半乾燥地帯のサバンナで生活していたアファール猿人・ルーシーは、ヒョウとかライオンに追いかけられて樹の上に逃げて、その樹の上から落下して死亡したのではないかという「物語」が記事には載っていた。
これがもしチンパンジーならば、チンパンジーは木登りが得意なので滅多なことで落ちたりはしない。
「足」で枝を掴むことだってできるし、手が長くて木にぶら下がるのに都合の良い肩関節の形とかもある。

チンパンジーが木登りが得意なのは森に住んでいるからである。
そしてアファール猿人や人間が木登りが下手なのは、森から追い出されたからである。
そうらしい。

かつて「ヒト族」の一派は木登りが得意な別の一派との勢力争いに負けて生息地がだんだん森の外に追いやられていき、ライオンとかに襲われて次々と斃れていったわけであるが、そのプロセスにおいてどういうわけか直立二足歩行的な形態を持つ個体が生き残る淘汰が起きて、ヒトは二本足で歩くようになったという。
頭のいい個体が生き残ったのではなく、直立二足歩行のできるのが生き残ったというのが実に興味深い。
頭が良くなるのは、二足歩行が完成したもっと後のことである。

なんにせよ、森から追い出される逆境を経て、得意な木登りの特技を捨て去って、ヒトという種族が出来上がった。
逆境もまあたまにはいいのかもしれない。
posted by ヤス at 10:42| Comment(2) | 徒然なるままに