2018年02月28日

働き方法案のことなど

さて、あいかわらず「働き方改革国会」はすったもんだしているようであるが、しかし政府の推進する働き方改革法案はおそらく最終的には可決されるのだと思う。
それは政府側が多数派を握っているから、というのが一番目の理由だが、同時に働き方改革法案の中身、すなわち「労働の対価は時間だけで決まるものではない」という部分が、反論困難なテーマであるからだ。
だから少なくともこの部分で世論の逆風を受けることは考えにくい。

電通過労死事件などでクローズアップされた労働時間の制限問題に関しては、政府の説明はかなり厳しい。
残業時間の上限をどれくらいに設定するかという問題はもちろん、どのような職種・職能を裁量労働として残業規制の外側に置くかというのは、その線引きがきわめて難しい。

線引きが難しいので、法案推進側は曖昧ながらも「とりあえず」線引きする方向で押し通そうとし、反対側は線引きそのものを阻止する方向で押し返す。
この議論には妥協点が存在しない。
結局、世論の強い反対がない限りは議会多数を握る側が押し通すに違いないのである。

法案に対し、世論が強硬に反対を唱えないことのもうひとつの要因としては、世の中の働く人が必ずしも残業が嫌いでない、ということがある。
基本給以外に多額の残業手当を恒常的にもらっている労働者の場合、下手に短い残業上限が決められてしまうと収入減少に直結する。
だから本法案で定められる残業上限は、過労死がどうとか関係なく長い方が都合が良い。
野党が本気で法案可決を押し返そうというのなら、そのあたりの世論の意向をよくよく読み取る必要がある。

働き方改革法案の第一義的な目的は労働者の健康保護にあるのだろうが、第二義的な目的としては生産性の向上による経済成長がある、と政府は主張している。
だが、裁量労働制の拡充などが経済成長につながるという理屈はまことに理解しがたい。

そんなこと言わずに労働者保護の論点に絞れば、少し有意義な議論ができるだろうにと思う。
だが政府側の本音は、実は裁量労働拡大の部分にあるのに違いないのであって、法案の一番の目的が実は経済界の期待に応えることである、と見えてしょうがない。

経済成長のことをほんとうに考えるのであれば、これは労働規制問題とは切り離して考えるべきである。
日本の生産性を上げる、付加価値を増加させるのには、新しい価値を創造する傑物の個人が出現するのを促すことが必要で、ただそれを法制度の整備で直接的にやるのは難しい。
政府にできることは、「出る杭」が出てきてもなるべく邪魔しない、あるいは世間が邪魔しないような社会環境を整備する、それくらいのところではないかと思う。
posted by ヤス at 10:32| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月27日

枕の不思議

さて、特に意味もないのだが、最近家のフローリングの上に野宿で使うスリーピングマットを敷いて、これも野宿用のシュラフにもぐって寝る。
シュラフはいわゆる「マミー型」という、上から眺めた感じが人型になっている、登山者なんかがよく使うやつだ。
スリーピンマットもシュラフと同様の平面形になっていて、足先の方がすぼまっていて肩口にかけて広くなり、頭のところが台形というのか、半円形にすぼまっている。
ちょうどエジプトのツタンカーメンの棺が上から見るとこういう形をしていたのではないか。
とにかくマミー型という形状は人型に合わせた最小の形状なので、シュラフもマットも長細の四角いやつに比べると無駄な部分がなくその分小さくできる。

別に、人並みの家にあるのと近似のベッドもちゃんとあるにはある。
ベッドにはニトリで買った普通の人間が使うマットが敷いてあってまず快適に眠れる。
だからわざわざ床の上にマットとシュラフで寝なくても良さそうなものなんだけれど、Amazonで3千円で買った野宿用マットは、膨らませると厚さが3.5cmくらいになって、適度にふわふわしてニトリのやつに劣らず快適なのである。
それにシュラフには基本隙間風が入ってこないので寒い冬だと布団より超あったかい。

いやそんなことはどうでもいい。

真っ平らな床の上で寝ると特に感じことなのであるが、人間というのは寝る時にはやはり「枕」が欠かせない、ということがある。
それでよくトラベルグッズで売られているような「救命胴衣の首部分」みたいな形の、首に巻くような感じで使う約千円の枕を使っている。
使う前に浮き輪みたいにふーふー空気を入れるやつである。

この枕は、膨らませると直径約10cmくらいの馬蹄形に曲がった円筒形になるわけであるが、これを首にセットしてシュラフにもぐり、頭を乗せると当然ながら形が歪んで10cmよりかなり低くなると思われる。
5cmくらいになるのではないだろうか。
しかしそれでもその5cmあるかないかの高さがあるせいで比較的快適に眠れる。
野宿に出てシュラフで寝る時に忘れがちなのがこの枕であって、昔は上記の携帯枕がなかったので衣類を詰めたズタ袋を枕代わりにしていた。

しかし、上記の空気式携帯枕は、高さは衣類入りズタ袋よりかなり低いのではないかと思うのだが、意外に使える。
首に巻く感じなので外れにくいというのも美点である。

しかし人類は枕がないと快適に眠れないというのは、かなり由々しき事態ではないか。
ネットで調べて見ると、数百万年前のアウストラロピテクスもあるいは枕を使っていたのではないか、という痕跡が発見されているらしい。
他の動物に比べて図抜けて重い頭を持つ人類にとって、枕の存在はかなり重要だったような気がしてきた。
あるいは人類が道具の一つとして「枕」を開発したところから、頭脳の肥大化、知能の発達という進化が始まったのではないか、などと想像もしてみたくなるのである。

たかが枕、されど枕なのである。
posted by ヤス at 10:48| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月26日

自己複製機能の発現

さて、毎回タイピング練習がてら脊髄反射的にどうでもいいことを書き連ねているが、今日もとりわけどうでもいいことを書く。

人殺しというのは犯罪である。
ほぼ毎日どこで誰が殺されたとか殺したとかいうニュースが流れている気がする。
なぜ人殺しが犯罪なのかというと、それは殺してはいけないから殺してはいけないので、ある意味自明だ。
しかし宇宙的な観点からとことん哲学的に、とことん論理を突き詰めて追求して行くと、人殺しがなぜいけないのかよく分からなくなる。

人殺しに限らず犯罪というのは、それが容認されると社会がものすごく生き辛くなる、という観点からは当然禁止行為に定められるべきだ。

宇宙的な観点とか言わずに地べたを這いつくばっている一人の人間としての視点から言うと、ただただいきなり殺されるのは困るから勘弁してくれと思う、と思う。
たいていの人間というのはいったん生まれたからには生き続けたいと思っており、それもできればより快適に、楽しく生きたい。
だからそれを強制的に終了させられるのは困るのである。

しかしここで疑問に思うのは、なぜ人間というのは、いや生命全般は、生きたいと思うのだろうかという点。
無宗教的に考えると、この世に生まれて来たのはまったくのたまたまで、ほんとうに偶然生まれて来て自我に目覚めて一個の人間になったに過ぎない。
すべての生命は、身の危険を感じると窮地を脱するためにたいていジタバタする。
自我のあるなしに関係なく、生き続けたい思いは共通らしい。

なぜ生命は生き続けたいと思うのか。
それは超太古の昔、たんぱく質の断片がいろいろ組み合わさって自己複製の機能をたまたま獲得してDNAになった時、ただひたすらその自己複製機能の発現として「生き続けようとする生命の傾向」が出来上がっている気がする。
我々人間が生き続けたいと思う理由は、我々の体内の至る所でDNAが無自覚的にただひたすら自己複製を継続しているからで、その意味で我々は、我々自身の意思で生き続けたいと思っているというよりも、宇宙的な偶然によってなんだか知らないけれど生きたい、死にたくないと思っていることになる気がする。

話がよく分からなくなって来た。
わたしの疑問は、人間を駆動しているものは何か、という点にある。
羽生結弦が金メダルを獲るほどスケートの練習が出来たのはなぜなのか、イーロン・マスクが巨額の全財産を賭けて火星有人飛行とか無謀な賭けに挑戦するのはどうしてか、その辺の秘密を知りたい。

ただ結論としては、そんなことを考える暇があったらもっと有意義なことに時間を費やせ、と言われそうなので、どうでもいい考えはこの辺でおしまいにする。
posted by ヤス at 10:09| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月25日

ヒトと犬歯

人類を他の動物と分ける大きな特徴には、直立二足歩行、大きくて高性能な脳みそ、器用な前脚(というか手)などがある。
だがそれ以外にちょっと小さいけれど意外に重要な特徴があって、それは犬歯がないことである。

たいていの肉食動物や雑食動物には犬歯がある。
チンパンジーにもあるし、ほぼ植物性の食べ物ばかり食べているゴリラにもある。
しかし人間には、尖った鋭利な犬歯はない。
せいぜいその名残の糸切り歯や八重歯があるくらいだろう。

動物における「犬歯」の役割は、肉を食べるのに便利ということももちろんあるし、肉を食べるためには肉の元の獲物を捕まえないといけないので、そのハンティングの役にも立つ。

そしてそれ以外に、仲間同士の喧嘩にも使われるらしい。
だからほとんど植物食のゴリラにも犬歯がある。
大きくて立派な犬歯は喧嘩の時の武器として有用であり、場合によっては自分の犬歯の大きさをアピールするだけでも喧嘩の勝負がついたりする。

犬歯のない草食動物でも、尖ったツノがある水牛とかインパラとかサイとかがいて、やっぱり仲間内で喧嘩するときにツノをぶつけあったりする。
それで、鋭利な犬歯やツノを持った動物が仲間同士で喧嘩すると、あんまりエキサイトすると時々相手に致命傷を与えて殺してしまう事故も起きるのである。

そこへ行くと人類には犬歯がない。
ツノもない。
また、妙齢の女性が時々爪を長く立派に伸ばしていたりもするけれど、あの程度の爪ではなかなか致命傷は与えられないだろう。(と思う)

つまり人間は、獲物を狩ったり仲間と喧嘩するときに有効に使えるような、武器的な身体パーツを備えていない。
人間は素の状態では、他の動物や同じ人間相手に、簡単に致命傷を与える能力がない。

こういう人類研究の見識が存在することを知ったとき、少し驚かざるを得なかった。
人類は、道具を使う能力を磨いて、その能力で武器を作って身につけるようになるまでの数十万年か数百万年かの期間、あまり本格的な喧嘩、殺し合いに発展するような戦いをしなかった、というか、やりたくてもできなかったのである。

しかし人類は、歴史上のある時点から、他の動物と比べても明らかに過剰なほど同類同士の殺し合いというのを行うようになった。
これは、進化過程で長らく殺し合いができなかったことの積年のうっぷんばらしであるのか、脳みそが発達して頭がよくなり過ぎて、ちょっとメンタルが狂ってしまったのか、その辺がかなり不思議だ。
posted by ヤス at 15:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月24日

裁量労働と生産性

裁量労働制をめぐる労働時間の調査データが「不適切」であった件が先日世間を少しだけ賑わせた。
ことの真相が捏造だったのかどうかは知らないが、政府として、労働時間規制の突破になんとか風穴を開けたいと考えている感じが伝わってきた。

わたしは個人的には裁量労働制を現状以上に範囲拡大することには、ある程度賛成の思いもある。
ただしそのためには、労働者の意思による選択が大きな条件として必要だと思う。
働く人が寝る間も惜しんで働きたいと思えば(かつ残業代をある程度返上しても)、ある程度それが認められる方が、企業の成長とか世の中のイノベーションは促進されると思うし、また必要なだけ働く分以外は自分の時間を十分確保したいと考える人に対しては、その望みが叶うようになっているのが望ましい。

ただそのような二者択一を一律の法律で実現しようというのはやや難しい面がある。

政府が残業規制や解雇規制などの労働規制に風穴を開けて目指す先には、いわゆる「生産性革命」「GDP600兆円達成」など、経済的な成長を推し進めたい考えがあるらしい。
国家財政を将来にわたって持続するには、高齢化・人口減少社会の悪条件の中でも経済規模を拡大し続けないとソロバンが合わなくなる。
是が非でも成長が必要である。
という思いは、分からなくもない。

ただ、これまでの日本の成長議論を眺めていて思うこととして、今に至ってなお20世紀的思考の世界から脱していないというか、非常に「線形」的で単純過ぎるのではないか、という点がある。
工場でテレビを作るのに前より1.5倍速で作る、自動車を作るのに不良率を前より半減する、あるいはテレビの画素を前の4倍に増やす、とかいう風に、従来製品を直線的に進化させる思考パターンがちょっと強過ぎるのではないか。

生産性向上には、かつてのソニーのウォークマンとかアップルのiPhoneとか、使っている技術は普通だが製品としてはまったく新しい、そういう今までにちょっとなかった「新しい価値」を生み出すことがより決定的である。
それで日本で新しい価値が出てきていないかというと、そんなことはない、今でもそこそこ出て来ていると思う。
問題は「従来的な力」が強過ぎることで、新しい価値が潰されがちなことだ。

で、裁量労働であるが、新しい価値というものは裁量労働的な多少クレイジーな働き方から生まれてくることが多いのではないかと思う。
だから裁量労働は、例えば全労働者の1%とか3%とか、限られた創造的労働者、もしくは創造的労働者を目指している人だけに限定する、みたいな、総量規制をしたらどうかなと思ったりする。

イノベーティブで利益率の高い「新しい価値」をコンスタントに生み出すことができれば、作業効率とか時間あたりの作業量とかいう従来的な生産性指標は大して問題ではなくなる。
などとちょっと思った。
posted by ヤス at 14:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月23日

北へ出るのに東を撃つ

今から458年の昔、織田信長は桶狭間で今川義元を討ち取り、それが自身の行く末の大きなターニングポイントになった。
この事件についていろんな歴史小説に、細かい内容は千差万別ながら、しかし大きなストーリーとしてはほぼ同じように書かれている。
とにかくも、尾張の中堅大名の信長が、天下を伺おうかと言う今川氏を討ち取ったのはその通りである。

もしこの時今川が勝っていたら当然歴史は大きく変わっている。
というか、桶狭間は状況的に99%今川が勝っているべき戦いだったのが、信長は細かく斥候を出して情報を集め、悪天候による視界の悪さや大軍を頼みにする今川側の気の緩みなどがあり、いくつかの細かい僥倖も重なって信長は勝利した。

この戦いをきっかけにして、織田領の東側を圧迫していた今川家は急速に弱体化してそのうち滅亡し、また今川方にいた松平元康(後の家康)は今川のくびきを抜けて信長に同盟することになる。
この事件を契機にして、信長の天下取りが一気に3手も4手も進行した感がある。

問題は、この事件がたまたま起きたものだったのか、それとも信長が意図してわざとそちらの方向に義元を追い込んだ末に起きたのか、ということである。
これはすべての「桶狭間小説」が書いているわけではないけれど、わたしは、信長はわざと義元を誘ったのではないかという気がしてならない。
というのはもちろんあまり物的証拠のない想像であるが。

戦力が絶対的に劣る信長としては、今川領に攻め込んで真正面から今川家を討滅するのは不可能である。
地道に周辺に領土を拡大していって、戦力十分になった後に東征に出る、というのがもっともまっとうな方法であろう。
しかしそれでは時間がかかり過ぎるし、周辺に拡大余地がなくなるとたちまち行き詰まってしまう。

だからこの当時の状況でいうと、北方の美濃・斎藤領か東方の遠江・今川領のどっちかを攻略する必要があって、東の方を選んだのだと思う。
信長は東の今川が弱体化した直後、美濃攻めに出てそちらの攻略も成功させている。

信長が当初から行きたかったのは本来は美濃の方で、そこから琵琶湖に出てそこを自領に組み入れて京都に出る構想だったのはまず明らかである。
そのために陽動作戦で今川氏を自領に向けて突出させ、突出してきたところで今川の本陣が手薄になった瞬間を捉えて一気に屠る。

そういう一連の流れを想像しながら桶狭間の戦いについて考えるのは非常に楽しい。
この時の信長は、一か八かの賭けに出て、賭けに負けても滅亡だが賭けに出なくても滅亡の瀬戸際で、失うものがなかった。

歴史上の偉業を成し遂げる人物には、こういう命を削った末の飛躍があるものだなあ、などと突然思った。
posted by ヤス at 10:09| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月22日

話し癖、書き癖

いつも文章をタイピングしていて思うのだが、自分の分には「という」という、文字列がたくさん出てくる気がする。
人には口癖があるけれど、書き物の文章にも「書き癖」<という>のがあるらしい。

最近将棋の対局をYouTubeでよく見るが、将棋の対局前や対局後に棋士インタビューが行われることがある。
で、今をときめく藤井六段が、対局でやたらと勝っているもんだから、やたらと彼のインタビュー場面を観る。
これは少しだけ有名な話だが、藤井六段はインタビューの時に「そーですねー」を多用する。
インタビュアーがひとつ質問すると、まず「そーですねー」といって冒頭に数秒考える。
それでひとしきりしゃべって、さらに「そーですねー」といって途中また続きの内容を考えたりする。

「そーですねー」を言っている時間は頭の中で、答えとしてどういうワードを繰り出すか、あれこれ考えているのだろうが、あの質問に対してあれこれいちいち考えている感じ<という>のは、なんというか、彼らしい。
インタビューに答える時、質問の意図を正確にとらえることとか、観客に受ける面白いことはどんなかなとか、あるいは負かした対局者に失礼にならないように配慮するとか、上手に受け答えするのはそれなりに難しいと思う。
しかも返答に使える時間は数秒単位の限られた間なので、「そーですねー」とか言って、プラス何秒間か考える時間を確保して、それで的確な答えをする。

あの「そーですねー」が、わたし的には一時期ものすごく気になっていたことがあって、「そーですねー」をまた言った、あ、また言った、と言うたびに思ったりしていた。
それが最近あんまり気にならなくなったような気がするのだが、これはもはや聞き慣れたということなのか、本人的に場慣れしてきて「そーですねー」の頻度が適切レベルになっているのか。

口癖でも書き癖でも、同じワードがあまり繰り返し出てくると、気になる。
でも、多少繰り返しても、ある程度の間隔を空けて出てくるくらいだと、気にならない。

で、文章をタイピングしている時は、書いている本人としては、やっぱりその文字列が画面にダイレクトに見えるので、気になり方が話し言葉より強い気がする。

ただ、どういうワードを多用するか<という>のは、その人のしゃべりの個性、文章の個性<という>ことに繋がるもので、そんなに目くじら立てるほどでもないかもしれない。

<という>ことを思いながら文章をタイプしていたが、あんまり気にしているとものすごく不自由な感じがするので、今後はもう気にしない、<という>ことを思った。
posted by ヤス at 14:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月21日

下町の失敗

冬季オリンピックもけっこう盛り上がっているようである。
ところでこの間から下町ボブスレーの問題がニュースになっていて、ジャマイカ女子チームは20日に競技があって、下町ではない外国製のソリで出たらしい。
下町サイドは、もし今回ジャマイカ女子チームが外国製のソリを使ったら法的手段に訴えると言っていたので、これで正式に裁判沙汰になるのだろうか。

今回の問題は、どう贔屓目に見ても下町が分が悪い。
ジャマイカが下町ボブスレーを使わなかったのは要するに性能が低かった(もしくは競技力が低かった)からというのは明らかで、契約も何も、当初の想定を下回るソリしか作れなかったところに最大の問題があると思われる。

下町の主張を見ると、「うちのソリは性能十分」と主張しているようだが、それならなぜジャマイカは下町を使わなかったのか。
よほどうがった見方をすれば、外国のソリメーカー(当初はラトビア製との報道だったが結局どこになったのか)が賄賂をジャマイカのコーチあたりに渡して、公正な性能評価がなされなかった、という推理もできなくはない。
しかしもしそれならそれで大問題で、まあたぶん99%そういう不正はなかった気がする。
そしてもしその手の不正が無かったとしたら、やっぱりジャマイカが下町を使わなかったのはひとえに下町ソリの競技力の問題ということになる。


下町ソリといい、三菱のMRJといい、どうも最近「日本のものづくり」のがふらついているように見える。

いや、たぶん「日本のものづくり」というふわっとしたカテゴリーはきっとマボロシなのである。
問題は個別組織、三菱重工(というか直接的には子会社の三菱航空機)にあり、「下町ボブスレーネットワークプロジェクト推進委員会」(なげえ名前だな)にある。

両方とも国の補助金が入っていたり経産省の肝いりだったり、背後に親方日の丸がちらちら見える。

親方日の丸でなければ必ず盤石、日の丸なら必ずダメ、というわけでもないのだろうが、しかし日の丸を背負った製品開発というのは、失敗が許されないプレッシャーの感じが多少歪んで見える。
たぶん「日の丸」的には、失敗するのは格好良くないので、万が一失敗しても「失敗してない感じ」に見えるように工作がなされるのではないか。

まあその点9割方民間プロジェクトのMRJは、売れ行きが悪いとすぐにバレて失敗を隠しようがないのがかわいそうなところだ。

失敗したら失敗したで、きちんと正面から見据えたほうが明るい未来がやって来るに違いない。
下町ボブスレーを見てそう思った。
posted by ヤス at 13:17| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月20日

負けて成長

さて、もう3日も前の話だがまた将棋のことについて書く。
15歳6ヶ月の藤井五段(当時・現六段)が、羽生竜王とA級所属の広瀬八段を破って朝日杯オープン戦で優勝したことはすでに書いた。

それでYouTubeで対羽生戦、対広瀬戦の対局の模様をあらためて確認してみたのだが、あくまで将棋素人の感想ではあるが、今回の藤井さん(五段とか六段とかややこしいので藤井さんと呼ぶ)の戦いぶりは以前にも増して強くなっていると感じた。
プロの解説の補助付きで見た限りでは、序盤から終始優勢に戦いを進め、中盤以降はどんどんリードを広げる展開になっているように見えた。

おそらく、羽生竜王も広瀬八段も、中盤の途中あたりで自分の不利を自覚していたものと思われる。
しかしまた、この程度の不利なら今後の展開次第でなんとかひっくり返せる、そう思っていたのではないだろうか。
どちらの対局も、非常に難解複雑な戦いに入り込んで、棋譜だけを追いかける限りわたしの目には何がどうなっているのかまったく理解できなかったのだが、プロの解説や対局者の表情などからなんとなく戦いの行方を追いかけて、それはそれで十分に楽しむことができた気がする。

これはあくまで想像だが、羽生竜王も広瀬八段も、途中で「こんなはずじゃなかった」というようなことを表情で訴えているように見えた。
対局後の感想戦などからは、藤井さんも含めてそれぞれいくつかの指し間違いがあったそうだが、しかし藤井さんの表情は終始冷静で、自らの指し間違いもきわめて冷静にカバーしていた。

昨年の年末、当時はまだ四段だった藤井さんはA級の深浦九段に優勢をひっくり返されて手ひどい負けを食らった。
またその前には菅井、豊島といった若手の有力者と戦って負け、それで調子を崩したか、その後負けが続く時期も一瞬あった。
しかしもつれにもつれた対深浦戦後、さらに言えば年明け最初の対大橋四段戦の敗戦の後あたりから、人が変わったように強くなったのではないかと感じた。

データを見てみると、2017年度の各プロ棋士の対戦成績で、一番負けているのは実は羽生竜王(つい先日までで22敗)で、次は渡辺元竜王(21敗)である。
この二人は最近の賞金ランキング上位の常連で先日発表のランキングでも渡辺1位、羽生2位だった。

ここから思うのであるが、将棋というのはひょっとしたら負けて強くなる、敗戦から何かを吸収するゲームのような気がする。
というか敗戦を単なる負けにしない、負けてこそ吸収できるものをちゃんと吸収できるかどうか。
そういうメンタルの強さが、将棋で成長する鍵なのだろうかとちょっと思った。

次回以降の対局が楽しみであるし、藤井さんと当たる棋士は大変だが頑張りがいがある、と思った。
posted by ヤス at 13:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2018年02月19日

チェーン化について

昨年末に閉園した北九州のスペースワールド跡地がイオンモールになるらしいが、それが2021年開業を目指すという報道が出ていた。
それで、近くにでっかいイオンができて便利になっていいという意見と、また全国にあるのと同じイオンが来るのかよ、という批判意見もある。

たまに遠出してよその県に行ったりしても、規模は大小さまざまだがイオンはほぼ必ずある。
(唯一福井県にはないらしい)
そして各地のイオンモールに入ってみると、だいたい中の雰囲気は同じである。

このようないわゆるチェーンストアが全国どこに行っても同じような雰囲気になるのは、これは当然ながら意図的に行われている。
「イオンモール」の看板が掲げてあるところなら、全国どこでも同一レベルの買い物体験ができますよ、だから安心ですよ、というのがこういうチェーンの方向性なのである。
これは吉野家でもマクドナルドでもコンビニ各社でもそうだろう。
同じ看板の店は中に入る前からどんな店か99%予測できる、だからバリアなくすっと入れる、そういう構造がある。

しかし一方で、何県のイオンに入ってもあんまし変わりばえしねえなあ、というのは正直残念な気分もある。
入る前からなんとなく中身の予想がついているので、いったいどんなところかなあ、というワクワクドキドキがない。
いや、たぶん地域ごとに入っている店舗の種類が微妙に違っていたり、空間の作り方とかも個性を持たせているのには違いない。
特に飲食コーナーは地元の店が入っていることも多く、唯一個性を感じられる部分かもしれない。

しかし大看板が同じイオンモールだと、少々の違いだと違っているように感じられない。
飲食コーナーに地元企業がいくつか入っていると言って、それ以外の大部分は全国チェーンのよく見る看板が占めているのでやっぱりどこも同じ感じになる。
たぶんイオンモールみたいなところは、基本的には地元民の買い物場所なので、だから地方にいながらにして全国規模の有名ブランドに触りにいけますよ、という感じになるのだろう。
逆に言うと、ちょっと遠くに旅行に行った時に、さあここのイオンはどんな感じかなあと思って行く、という気がまるで起こらなくなる。

最近はローソンとかセブンなんかでも地元の土の付いた野菜を売ったり、餃子の王将で店舗独自メニューがあったり、大規模チェーンでも地域性や店舗ごとの個性を出すことがなくはない。
でもやはり、チェーンの基本線は全国どこでも同じだから安心、ということであり、そして世の中のお店は確実にチェーン化の波に飲まれており、今も刻々と均一化が進んでいる。

チェーン化の流れは世の人々が便利や効率を追求する結果進行しているのだろうが、今後はチェーン化しつつも、地域ごと、個店ごとの違いが明確にあって多少ドキドキさせてくれる、そういうチェーン化ができればいいのになあと思ったりするのであった。
posted by ヤス at 09:56| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月18日

勝負ということ

昨日は朝日杯オープン戦で、藤井五段が羽生竜王に勝利して決勝に進み、そこで広瀬八段相手にも勝って優勝、史上最年少での全棋士参加棋戦優勝と同六段昇段を決めて心底驚いた。
また、他方では冬季オリンピックもやっていてそっちの方もなんか盛り上がっているようである。

将棋もスポーツも「勝負ごと」である。
勝負ごとでは勝者と敗者が生じる。
というか、どちらが勝者か敗者かを決めるのが勝負というものである。

人はなぜ勝負するのだろう。
やや大げさに考えると、「勝負すること」の根底には、どちらが生き残るかを決める生き物としての戦いがあると思う。
限られた環境リソースの中では限られた個体数しか存続できないので、余った個体は死ぬしかない。
そのような地球上における生命の押し合いへし合いが勝負ごとの土台部分にはあるような気がする。

勝負ごとに勝つというのは生命力の証であって、だから勝者は生命力の象徴になる。
人が勝者を見て心が震えるというのは、そういうことがあると思う。

まあ実際には、人類が楽しんでいるゲームとしての勝負ごとでは、負けた方がいちいち死んだりはしない。
それどころか、日々勝負しているその道のプロのプレーヤーたちは、日常的に勝ったり負けたりしている。
そしてどちらかというと、強い人というのは誰よりもたくさん勝負を挑み、誰よりもたくさん負けていたりする。

だからその道のプロとして最終的な勝者になる人というのは、少々負けてもなかなか死なない人、ということになるのかもしれない。

いや実際に、「負ける」というのはそれが遊びのスポーツであっても気持ちがかなりへこむものである。
それはやっぱり生命の本能として負けが死に直結する気分があるからで、逆に勝った時の快感というのは格別になる。
だが通常の場合、世の中は大多数の敗者と一握りの勝者という分布構造になりがちである。
オリンピックでも金メダルは一人だけ、見方によってはそれ以外の選手はみんな敗者である。

金メダルを獲った選手も、おそらくきわどいギリギリの線で勝ったのであり、状況次第で敗者になる可能性も大いにあったはずだ。
したがって世間の人々が常に肝に命じておくべきは、負けた時にどのように対処するかということになる。

ゲームとしての勝負ごとは、せっかく負けても死なないように出来ているのであるからそれを生かさない手はない。
ということで、勝って驕らず負けて腐らずというのはとても大切だと思うのだが、まあそれがすんなり出来れば人生そんなに苦労することもないのである。

やっぱり世の中のチャンピオンというのは、すごいなあと思うのであった。
posted by ヤス at 10:48| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月17日

一手の重みについて

いよいよ将棋の朝日杯オープン準決勝の、久保王将VS広瀬八段、羽生竜王VS藤井五段が始まった。
羽生藤井戦は、戦型は今流行の「雁木」になっているようであるが、わたしはもちろん将棋素人なので進行を見ても何が何だかよく分からない。

朝日杯は持ち時間40分の早指し棋戦なので、他の長時間の棋戦にくらべて指し手がものすごく早く進んで、ある意味観戦しやすいとも言えるし、観る方も考える時間が少ないので何が何だか分からないということもある。

当たり前であるが、プロの将棋ではいわゆる「待った」というのがない。
だからプロは一手一手渾身の読みを入れて、間違えないように指す。
何気に王さまを横にすっと動かすのでも、棋士の脳内ではものすごいスピードで戦いの未来予想が渦巻いているに違いない。
が、それでもやっぱり間違えることはある。

というか一戦のうちに何度か間違いをしながらも、そこを乗り越えて勝ちに持っていくのが強い将棋なのだろう。
ここで勝負の一手を仕掛けて一気に形勢を有利に持って行こうとして予想外の手を指した時に、相手にそれ以上の返しの手を指されて、結果的に勝負手が間違いであったことが判明した時の精神的ダメージはたいへんなものだと思う。
先日の古森四段VS藤井五段戦をたまたま見ている時にそういう局面があって、そこまで互角のように見えたのがそこの数手で一気に藤井五段に傾いた、ということがあったと思う。

素人のヘボ将棋だとここで「待った」をしたくなるし、最近のパソコン将棋だとボタン一つで「待った」ができるのでまあ便利である。
しかし真剣勝負では「待った」ができない。
ミスはミスとしてそこを受け入れつつ、そのミスを乗り越えないといけない。

このあたりのメンタルの戦いこそが、将棋の戦いの本質部分なのではないかと最近思ったりする。

以下やや飛躍する。
「生命」というのは各個体がかなりランダムでデタラメな行動をして、そのうちの数%(またはそれ以下)の行動が環境に適合して生き残る。
その生き残ったDNAの傾向が後世に引き継がれて、生命として徐々に洗練されていくということがある。

人間はそのような生命のDNA洗練法を論理の力で劇的に効率化し、100万年掛かっていたような形質進化を1年2年で実現できるようになった。
生命一般と比べると相当に論理的な人間ではあるが、「考える」ことで間違いを劇的に減らした人間がやっぱり時々間違えて、その間違いにどう対処するかが人間特有の悩みとなっている。

間違いに対して、それは生命一般では当たり前だから気にしないと思うか、あくまでも「人間的」に脳みそを振り絞ってなんとか修正しようとするのか。

プロ棋戦を観ていると、そういう意味で一手の重みというのを感じるのである。
posted by ヤス at 11:17| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月16日

30年続いた平成時代

もう年が明けて2ヶ月半が過ぎたが、しかしいまだに今年が「何年」だったか迷う。
今年は西暦で言うと2018年、和暦では平成30年である、というのをさっきエクセルに「=now()」の関数を打ち込んで確認した。
そうか今年は2018年の平成30年なのか、というのがなんだかものすごく実感が薄い。

ところで平成31年4月30日には天皇陛下の退位が行われ、5月1日から新天皇が即位する。
当然元号も「平成」が変わって新しいものになる。
あらためて考えてみると平成時代は30年も続いたわけである。

平成元年は西暦1989年だったが、今さっきエクセルに1989/1/7を入力して和暦表示にすると、ちゃんと「昭和64年1月7日」となる。
それで1989/1/8で入力すると「平成1年1月8日」と表示されるのでちょっと感動した。
はるか昔に記憶を遡ると、1週間だけの短い昭和64年というのが思い出される。

思えばこの年は、世界的にもたいへんな波乱の一年だった。
ちょうど米ソ東西冷戦時代の終わりの年であり、東欧諸国で次々と共産体制が崩壊し、11月には冷戦時代の象徴だったベルリンの壁がなくなった。
ニュース映像で人々が壁を打ち壊すようすを見て、時代が変わっているのを感じたものである。
さらにこの年には「ユーノスロードスター」とか「トヨタセルシオ」が発売された。
この2台は日本経済が輝いて見えた時代を象徴するクルマのように思われる。
そして1989年大納会の日経平均は38,915円の史上最高値を記録。

1989年、すなわち平成元年は、そういう年だった。
その後、「9.11」が起きたり世の中がインターネットで激変したりものすごくいろいろあった。
平成時代の後半にはリーマンショックや東日本大震災とかもあって、また中国がGDP世界2位になったりして世界の状況は1989年以前に比べるとおそろしく変わったのである。

ニュースでは、「平成」に変わる新しい元号は今年の年末以降の発表になるそうである。
噂では2月に発表という説も有力らしいが、つまり新元号切り替えまで3、4ヶ月のタイミングで発表されるようである。
巷ではプログラム書き換えのためにSEが臨戦態勢に入っていたり、ハンコ屋さんが手ぐすね引いて待っているということであるが、この改元を起点にそれ以上の世の中の変化が起きるのかどうか、やや楽しみではある。
posted by ヤス at 09:11| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月15日

日本経済の新陳代謝

日本には創業から百年を超えるような古い企業がたくさんあるらしい。
日本最古の企業は西暦578年創業の建設会社である金剛組だというのはわりかし有名な話である。
金剛組は業歴1440年ということになるが、ここ以外にも社歴千年以上の企業体がいくつかあるというから驚く。

そういう古い会社が諸外国に比べてたくさんあるというのが我が国のひとつの自慢であったりするわけだが、確かに個別の古い企業を見ていくならば、時代変化をのり超えて今日まで命脈を繋いできたその努力には敬服せざるを得ない。
(金剛組は2006年頃に破産状態に陥り創業家の手を離れたらしいが)

しかしである。
企業の集合体としての日本経済を考えた時、古い会社がたくさん残っていることは必ずしもいいことばかりではないと思う。
会社などの事業体というのは、適当に新しい企業が生まれ出て古い企業を更新していく新陳代謝が働いていることが重要だと思うからである。
今ちょっとくわしい統計データを参照していないのであまり断定的なことは言えないのであるが、もし日本の企業の社歴の平均値が諸外国より顕著に長いとすれば、それはそれで問題だと思うのである。

そんなことを思うのは、わたしが「社会人として」物心ついたバブルの頃、つまり1980年代終盤のあたりから日本の経済界の主要プレーヤーがあまり代わり映えしないからである。
いや、ほんとうはこの10年くらいで少し代わり映えがし始めているとも言える。

1980年代の日本の躍進の先頭に立っていたのはトヨタをはじめとする自動車メーカーであったことは間違いないだろう。
それにプラス、ソニー、松下や日立、東芝などの電機メーカー、都銀や証券、保険などの金融各社などががんばっていた。
あと、就職ランキングでは航空会社やテレビ局や電通・博報堂とかも人気だった。(今も人気だろう)

あれから20年30年経過してどれくらい新顔の企業が登場したのかというと、確かに情報通信系などでソフトバンクやauなんかが出てきたけれど、日本経済を牽引しているのは依然として自動車メーカー群である。
そして自動車とともに我が国経済を支えてきた電機メーカーや、重工関係は軒並み不振に喘ぎ始めている。

本来なら、主要プレーヤーの入れ替えがもっと進んでしかるべきだったと思うのだが、特に直近の30年くらいの間、日本を代表する企業群のメンツがぜんぜん代わり映えしないというのが、最近の経済的閉塞感の重要因子であるように思われる。

最近円高が少しずつ進んでいて、ちょっと前には円ドル相場と日経平均はもうあまりリンクしていないというニュース解説記事なども出ていたようなのだが、この1〜2ヶ月の値動きを見ているとやっぱり円が高くなると日経平均が下落するという関係性が健在のようだ。

個人的にはもっと円相場が高くなってiPhoneが安く入手できるようになるとうれしい、と思ったりするのだが、まあしかしそれも期待薄なのでやっぱり各個人がせっせと頑張るほかはないのだろうと思った。
posted by ヤス at 10:59| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月14日

マクドいよいよモバイルオーダー導入か

12月が決算月である日本マクドナルドホールディングスの2017年決算が発表されて、売上が対前年9%増、純利益は同2.7倍の145億円になるらしい。
マクドナルドは2014年に発生した「鶏肉問題」などで一時期売上が大きく落ち込んだ。
ちょっと調べてみると2015年1月には既存店売上が対前年で61%になるなど、壊滅的な状況だった。
そもそも、マクドナルドは2014年の大問題が発生する前から、2012年頃からずっと既存店売上の不振が続いていた。

鶏肉問題はガタがきていたマクドにとってトドメの一撃だったということで、この頃のマクドにはいろいろと根元的問題があったのだろう。
それが、2015年12月から既存店売上が対前年を上回るようになり、以降月次売上の対前年が最大3割超、ならしても1割以上のペースで増加しつづけて2年と2〜3ヶ月経過したことになる。

売上不振で席が空いていた頃のマクドは広々と使えて、わたし的にそれはそれで快適だったのであるが、マクド的には店は客で押すな押すなしていた方が良いのは当然である。

注目すべきは、対前年売上が伸び続ける中で客単価も並行して伸び続けている点である。
今回のマクドは増収決算であったというが、マクドはここまで不振店の閉店を続けており、店舗数はずっと純減になっていたらしい。
その状態で全体売上が伸びたというのは、これは1店あたりの売上が相当に拡大したということだ。
だからまあ店が混雑するのは仕方がないのである。

それでなぜ、数年前まで不振に喘いでいて一時はどん底状態だったマクドがこの2年で急回復したかということだ。
メニュー戦略や価格戦略というのも当然あるだろう。
個人的には、「グランマック」のシリーズをレギュラー化して、いちおう美味しいハンバーガーも売ってますよ的にした効果がバカにならないのでは、と思う。

あと、これはまったく想像の域を出ないのだが、最近のマクドは店員が全体に若返っているような気がしなくもない。
あるいは高校生バイトとかを積極的に増員して、古株のバイトと入れ替えたりもしているのではないか、と感じたりもするのだが、まああくまで想像。

それとニュースにちらっと出ていたが、いよいよ「席に座ったままスマホから注文」のシステム導入が始まるのかもしれない。
昨年春にマクド本社が発表した「モバイル&オーダーペイ」というやつらしいが、最近はマクドも液晶番号表示付きの商品受け渡し専用カウンターを設けている店が増えているので、あとアプリさえ完成すればすぐにでも導入出来そうだ。

そうなると、世間の電子決済普及にもますます拍車がかかるだろうし、何より「オーダー順番待ちの行列のカオス」に、いちいちイライラしなくてもよくなりそうなので、非常に楽しみである。
posted by ヤス at 12:20| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月13日

画面の変遷について

iPhoneの画面のデザインというのは、最初頃からあんまり変わっていないように思うのだけれど、しかし当然ながら少しずつ進化して変わってきている。
10年前、iOS 1.0の頃は画面が左右に動かなかったりアイコン配置が固定だったりしたそうだ。
また、初期の頃のアイコンデザインはアップルの「アクア」コンセプトに基づいており、ふんわり立体的な感じに影がついていた。

それがわりかし最近、ちょっとクラシックな感じのフラットデザインに変わって、あの時はかなり「変わった感」を感じたものだ。
しかしそれでも基本的な構成や、操作方法はずっと変わらないまま来ており、このことはiOSが、リリース当初からよく練られて完成されたものだったことを示していると思う。
ちなみにiOSは、当初は「iPhone OS」という名前だった。

一方パソコン版のMac OSの方は、出現当時と今とでは当然ながらかなり大幅に変わっていて、1980-90年代の頃のMacの画面と今の画面では全然別の会社の機械のようである。
これはCPUの処理能力とか画面の解像度や色数などが劇的に進化しているから、当然といえば当然である。
わたしの最初のMacはモノクロ液晶のノート型だったけれど、あの当時の「ウィンドウ」のエッジに液晶ドットのギザギザ感が出ている感じのアイコンデザインは、あれはあれで味わいがあった。
今のやつはドット感がみじんも無くて、細かい文字や柄も潰れずにちゃんと表示されてその技術進化には感心するばかりだが、しかし今のデザインは綺麗にまとまり過ぎていて、初期の頃のオタク感が失われたのは多少寂しくもある。

パソコンの画面で言えば、Windowsの変わりようもかなりのものだ。
Windowsに関しては、Macの何倍も台数が出ていて幅広い客層を相手にしているので、画面デザインの変更にはMac以上の苦労があるのではないかと想像する。
特にWindows MeとかXPとか7や10とか、一連の仕様変更に対する世間の風当たりはかなり強かったように記憶している。
パソコンの操作感の細かな変更は、特にパソコンに不慣れなオジサン世代とかには拒絶反応を出されがちであるし、OS仕様変更によりアプリケーションの互換性に難が出たりして、変えるたびにたくさんのクレームが発生したことだろう。

この場合、操作やアプリ互換以上に画面デザインの雰囲気の違いは大きい。
Windowsの画面上に出るマイコンピューターのアイコンが、いつの間にか妙にスマートに細かくなっていたりするのに気がついた時、なんだか無性に腹が立ったような憶えがなくもないのである。
ということでわたしは今でもWindows10の画面をクラシック仕様にして、マイコンピューターのアイコンもWindows95風のギザギザ感のあるやつをネットで拾って来てそれに変えている。

Windowsの場合、アイコン配置を95風に変えてもほとんど支障がなく使えるのは、Macと違ってその操作コンセプトが画面デザインの変更ほどには変わっていないからかなと思う。

OSのメジャーアップデートの時に突如として変わっていたりするパソコンの画面デザインであるが、よく考えてみると個人が所有しているパソコンの画面を販売元メーカーが勝手にいじるというのは、これまでの工業製品の歴史を考えるとかなり「画期的」な出来事のような気もする。

パソコンの操作やデザインがメーカーの方針により問答無用で変わるのは、ある種の横暴であるようにも思われるが、しかし新しい画面にとまどい、慣れていくまでの過程は、ちょっとした頭の柔軟体操になるから、それはそれでまあいいのかもしれない、と思ったりした。
posted by ヤス at 14:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月12日

「らしさ」について

「大人しい」と書いて「おとなしい」と読む。
「大人しい」は、おそらく「大人らしい」がなまって出来上がった言葉ではないかと思う。
一般的に「大人しい」の意味は、ガキのように騒がない、抑制が効いている、穏やかで従順とかいう意味らしい。

つまり「大人しい」の言葉の中には、「大人とはこうあるべし」というひとつの思想が見え隠れしている。
まあ世の中では、けっこうな大人になっても依然として馬鹿騒ぎをする向きも多いわけであるが、しかしそれも時と場所をわきまえた、きちんとコントロールされた馬鹿騒ぎであれば十分に「大人しい馬鹿騒ぎ」と呼ぶことが出来るのだろう。

しかし「大人しい・大人らしい」などという言葉が成立する背景には、あるカテゴリーに属する人類の性質が一定の期待内に収まることを要求する気分があるのだろう、と思ったりする。
世の中には「女らしく」「男らしく」「中学生らしく」「社会人らしく」などなど、いろんな属性に対し「らしく」振舞うことを要求される気分があるのである。

つい最近も「おかあさんだから」という歌詞が起点となって炎上した事件があったが、「おかあさんらしく」あれ、と言われたおかあさんの気持ちの窮屈さは、まあ分からないでもない。

「らしさ」というのはなかなかの曲者である。
それはある場合は肯定的な前向きの言葉として使われることもある。
しかしそれが一見して前向きな意味に使われているような場合であっても、それは実は世間がある個人に対して「ナントカらしさ」を要求する窮屈さを伴うものであり、ほぼすべての「らしさ」には世間の圧が含まれているということで、わたしは基本的には、個人的に「らしさ」を要求されるのは好きではない。

あるいは「女」「男」「中学生」「社会人」など社会的属性に対し「らしさ」が要求されるのとは別に、ある個人に対して「Aさんらしい」とか、あるいはある社会的集団に対して、「トヨタ自動車らしい」「メルセデスベンツらしい」などと使う場合もある。

たぶん人間というのは、目の前の誰か、何かが期待通りに「ナントカらしく」振舞う時、事前期待が満たされて気分が良い。
だから何かに「らしさ」を求める。
またこっちの方も、他人に対する一種のサービスとして「自分らしく」振舞う、あるいは所属集団の「らしさ」に準拠して振舞う。

そういう感じで、「らしさ」のやりとりはある種のコミュニケーションとして社会を豊かにすることもあるのだろう。
しかしだからといってあまり「らしさ」を強要するのは強欲が過ぎるし、こちらの方から「らしさ」を安売りし過ぎるのも良くないのである。

わたし個人として望ましい「らしさ」のあり方というのは、その人が死んだ後で周辺の人々が「まあ結果、あの人らしかったね」と言ってくれるようなことであり、ボクの前に「らしさ」はなく、ボクの後に「らしさ」は出来る、のがいい、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:35| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月11日

ことわざは、話半分

「井の中の蛙、大海を知らず」という諺(ことわざ)がある。
これは2300年前の中国の「荘子」の中に出てくる一節であるらしい。
「荘子」はグリム童話のように具体的な寓話の体裁を多く使っている。
「胡蝶の夢」なんかが特に有名だろう。
で、「井の中の蛙」も寓話の中から抽出された諺である。

「井戸の中のカエルは海を知らない。狭い「くぼみ」にとらわれているから。夏虫とは氷のことを語り合うことができない。季節といえば夏しかないと思っているから。視野の狭い人とは道を語り合えない。教えに縛られているから」

というような内容らしく、これは初めて海を見て驚いた「黄河の神様」に対して「北海の神様が」語りかけた言葉、というふうになっている。

北海の神様いわく、「君も広い世界を知った。これで君とも世界の真理について大いに語り合える」
ということである。

ところで、世の中の諺とか金言格言というのは、今はたいていオジサンしか使わないのかもしれないが、これはある種の「議論の省略」と言ってよいと思う。
「古くからの格言にこうある」とか言うと、「そうか、カエルみたいに狭い世界に閉じこもっていてはダメだ」と、みんなが最初から思い込むかどうかは知らないが、「狭い世界に閉じこもることの非」については議論する雰囲気がなくなる。

だがあえて「井の中の蛙」に反証を試みると、多くの人類にとっては敢えて荒波うねる大海に漕ぎ出すよりは、狭くても安全で安心できる世界に生きる方が幸せである、という考え方だってできるだろう。
「知らぬが仏」という諺もある。

だいたいの諺は普通に反証可能であることが多いし、「急いては事を仕損じる」と「急がば回れ」みたいに、まったく反対の意味を唱えているものも多数ある。

あるいは会話の中で「上手いこと言う」場合。
上手いこと言うというのは、ものすごく納得できる理屈を言うことだと思うのだが、おそらくそういう時、聞いた人間の脳の中で何かが起きている。
それはたぶん、何かが「理解できた」と感じた時の快感だと思う。

そういう何かが理解できたり、納得できた時にかすかに生じる脳内の快感が、「上手いこと言う」ことや古来の金言格言を裏から支えている。
だがそういうのはだいたいにおいて「分かったつもり」が多い。
「分かった」と思って脳内で何かの快感物質が分泌されたことを検知したら、その時は少しだけ注意した方がいいと思う。

だから「諺は話半分で聞け」みたいな諺がひょっとしてあるのかなと思ったりしたのだが、まあたぶん無いかもしれない。
posted by ヤス at 12:05| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月10日

アルマーニ標準服

東京都中央区立泰明小学校の、アルマーニ標準服がニュースになっている。
ニュース記事をざっと読み、校長の記者会見の一部を見た感想を述べる。

内容を知らないいちばん最初の時点、この校長が何かの業者と結託していて、「袖の下」でも受け取っている疑惑があって大騒ぎしているのかなと思った。
しかし見てみるとそういうことでもないらしい。

結論的に言うとこのニュースは、校長と同小学校に通う子どもの保護者との間で問題解決すべき事案であって、学校や校長が糾弾されるべきとか社会的大問題として大きく報道すべきだとか、そういう問題ではないと感じる。
我が国におけるいつもの騒ぎグセがまた始まったのだな、と思った。
ただ校長にまったく一切の非がないということでもないとは思うが。

これは想像であるが、この校長はそれなりに生真面目に考えて標準服を高級なものにすることを思いつき、思い浮かぶメーカーやお店にこつこつと電話等で問い合わせを始めた。
それでやっとの思いで話に乗ってくれたのがアルマーニ(アルマーニジャパンという日本法人)だったらしい。
以降校長とアルマーニの間に百貨店の松屋が入ってプランニングを進めたようだが、校長としては不慣れな作業を旧知の松屋に依頼することで、仕事がスムーズにはかどると考えたのだろう。

校長に問題があったとすれば高価な「標準服」を企画するにあたり保護者や教育委員会の了解を得つつ進める、というプロセスを飛ばしたことだろうが、これもやっとの思いで了解をとりつけたアルマーニに配慮した結果であったとすれば、ほんの少しは同情の余地があるのではないか。

また泰明小学校は銀座という立地や特認校などの条件もあって、生徒の家庭は金持ちが多い。
また事前に調査した周辺小学校の制服価格では、それなりに高価なものもあってそれほど重大な問題はない、と考えたのかもしれない。

この校長は、たぶん生真面目でそれなりに意欲的に仕事に取り組んでおり、制服(というか標準服)も教育活動の一環として最大限活用したいと考えてそれを苦労して実行に移したように見える。
そういう点で、ことなかれで何もしないタイプの校長よりはるかにましだと思うが。
ただこの校長は学校一筋で生きてきたためにやや「世間ずれ」している部分はあったのかもしれない。

本件に関してはいろいろな評価はあるのだろうが、だが伝わってくるものがかなり否定的な意見が多いのだけれど、少しはこの校長を評価してあげる見方があってもバチは当たらないと思う。
ましてや自分に関係もないのに、ただ叩きやすいからSNS等で叩くというのは、見ていてなんだかなと思うのでした。
posted by ヤス at 14:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年02月09日

恵方巻きのニュースより

今年もいつものように2月3日節分の日がいつの間にかやってきて、コンビニやスーパーに恵方巻きが並んでいた。
そして3日が過ぎたら恵方巻きは跡形もなく消えて(当たり前だが)、今はもっぱらバレンタインチョコが並んでいる。

で、兵庫県のスーパーが、売れ残った恵方巻きの廃棄問題について提起するというニュースがあった。
兵庫県内で8店舗を展開するヤマダストアーが、昨年SNSで恵方巻きの廃棄問題が話題になったのを受けて、今年の恵方巻きは昨年実績でつくるので売り切れの際はご容赦、というのを告知するチラシを撒いてそれがニュースになっていた。

問題の背景には、コンビニでの恵方巻きをはじめとした「季節商品」の販売ノルマが加熱していて、店長やバイトスタッフまで自腹で購入するとかいうこともあったようだ。
最近は、バイト先で発生したちょっとした問題でも、誰かがSNSでつぶやいてそれが何かのきっかけでわっと広まる。
そんなこんなで冒頭述べたヤマダストアーの告知はそこそこ顧客の共感を呼んだようで、後刻顧客からのクレームは1件もなかったというお礼の告知が同社のウェブサイトに出ていた。

昨今の日本小売業界においては、恵方巻きやらバレンタインやら土用の丑、ハロウィン等々、季節的なイベントでの売上拡大がかなり大きなウエイトを占めていると想像される。
日本は、人口は減るし年寄りは増えるしで、小売業の事業環境はますます厳しくなっている。
というかもうだいぶ前からレギュラー営業の売上が厳しくなって、スーパーでもコンビニでもイベントの売上をいかに拡大するかは企業生き残りのためにどんどん重要になっている。

だから恵方巻きでもバレンタインチョコでも、去年より今年、今年より来年と力が入らざるを得ない。
特に恵方巻きの場合モノが日持ちのしない寿司なので、イベント当日に売れ残るとどうしても即廃棄になってしまう。

農水省の発表によると、日本の食料廃棄量は他国に比べて異常に多い、などとも言われる。
そこに大量の恵方巻きが廃棄される「絵」が報道されると、なんだかものすごく心配になる。

食料廃棄問題について心配し、改善を試みるのは非常に良いことだと思う。
しかしまた同時に、あまりヒステリックに心配しすぎるのも良くない。
考えてみると、特に日本のコンビニなどは、多額の費用をかけて商品管理を行なっており、廃棄ロスの削減についても相当厳しく取り組んでいるはずである。

そういう経営上の制約が働いている限り無際限に廃棄が増えることはないだろう。
単純に、売れ残りが心配になったらSNS等で顧客に告知拡散するとか(今もやっているだろうが)、一歩進めて店頭の在庫量を遠隔で顧客がチェックできるようにするとかで、一定の改善はするのではないか。
また最近の流通業界では電子値札とかRFIDとかの導入も進んでおり、近い将来賞味期限の短い食品類については、例えば製造から10分経過するごとにちょっとずつ値段が下がっていって、それが全自動で電子値札に表示されPOSデータにも反映されるとかいう仕組みも可能になるのではないかと思う。

なるべくならあまり我慢するのではなくて、みんながハッピーになる方向でコトが解決すればいいなあ、と思ったりしたのでした。
posted by ヤス at 10:47| Comment(2) | 徒然なるままに