2018年01月31日

宝くじと努力の作用

宝くじというのは、だいたいの場合1ユニットが1000万枚あって、それが10ユニットとか15ユニット販売される、そういう構造になっている。
くじ1枚の値段が300円とすると1ユニット全部売れると30億円の売上。
約半分が「テラ銭」として徴収され、残りが当選賞金として還元される。
たとえば1等1億円の当たりくじが、1000万枚の中に5枚くらい入っている、というようなスケール感になっているようだ。

だからこの場合1等の当選確率はくじ1枚につき200万分の1になる。
100枚買うとこの確率が2万分の1になる。
なんだかぐんと当たりそうな気がしてくる。
さらに30万円を投じて1000枚買うと確率は2千分の1。
これはもうひょっとしたら当たりそうな感じだ。
ちなみに2千分の1をパーセントに直すと0.05%である。

宝くじにはいろいろな種類があって賞金額も当選本数もまちまちであるが、基本的な構造はどれもほぼ相似形で、毎月のようにいろんな宝くじが売り出される。
単純化のために前述した宝くじを年に10回、30万円ずつ買い続けたとすると、1回あたりの1等当選確率は2千分の1なので200年で確率数値の累計がいちおう100%に到達する。
この間年に300万円、200年で6億円を費やして1億円の1等当せんが1本得られる、というのが確率数字の示唆するところである。

やや運が良ければ30数年目、1億円くらい購入したところで1億円あたるかもしれないし、400年買い続けても運悪く当たらないかもしれない。

実際の宝くじには組違い賞や前後賞、2等3等やそれ以下の当選など、額の少ない当たりがあるので上記の試算はざっくりし過ぎているのであるが、しかし宝くじの基本構造としてテラ銭率が約50%あるというのは絶対的な原理であり、その意味でこれは必ず50%損をするゲームである、と言ってまったく過言ではない。

わたしは個人的には、宝くじというのはステルス税金的な存在だと思っているので買わないのであるが、しかしひょっとしたら当たるかも、とつい期待してしまうところの面白さを言下に否定するつもりもない。
だからその「ワクワク」を買うと割り切って数百円、数千円を費消することになんの異論もない。

だが時々、理財のため、純粋に財産を増加させることを目的として宝くじを買う人に出くわすことがある。
宝くじはあくまで「ワクワク」を買う消費活動であって投資や投機の反対側にある。

もちろん過去に1等が出た売場で買ったところでそれは確率数値に1ミクロンの影響も与えない。
宝くじの当選に、購入者の努力や創意工夫は効力を発揮することが絶対にない、というのも気持ちがいいくらいにクールな「くじ」というものの原理である。

少し厭世的に考えると、世の中というのはかなり宝くじ的なところが多い、と思えなくもない。
しかしながら、現実世界では1%か2%か知らないが個人の意図が作用できる余地が残っているのもまた確実であり、それがたとえわずかであってもそこに大きな救いがある感じがする、と思ったりする今日この頃なのである。
posted by ヤス at 10:06| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月30日

コインチェックNEM流出事件

コインチェック社の仮想通貨NEMの流出事件で、報道で少し前のマウントゴックス事件が比較対象として時々取り上げられている。
まず「流出」金額が円換算で580億円と、マウントゴックス事件の470億円を超えた。
またマウントゴックスは仮想通貨の代名詞であるところのビットコインが消失したのに対し、今回のコインチェックではNEMと呼ばれる仮想通貨に関する事件であった。

今回の件に関しては、いろんな専門家がいろんな角度から論評していて、それらを見ているとなるほどそうなのかというものもたくさんある。
しかし、この手のテクノロジーと金融を掛け算した「高度」な事件に関しては、理解しにくいことがまことに多い。

ただ分からないなりに今回の事件を眺めてみると、マウントゴックスの時と違っていることがいくらかあると思った。
まず、マウントゴックス事件の際には仮想通貨の存在そのものが批判にさらされていた。
「だから仮想通貨は信用できない」という論調が非常に多く見られた。
しかし今回に関してはそういう批判はほとんど見られない。
むしろ多いのは、コインチェック社のセキュリティの甘さへの批判である。

この点に関しては、やはり国内の世情がだいぶ変わったのかなと感じる。
仮想通貨はもはや立派に市民権を得て、日本国民の間にすっかり受け入れられてしまったらしい。
それともうひとつマウントゴックス事件と大きく違う点が、メジャーなビットコインではない「NEM」に関する流出事件であるということだ。

世の中には、ビットコイン以外の仮想通貨が数千あるそうである。
それらのものは、基本構造はおおむねビットコインのコピーであるという。
そういう新しく出てきたビットコイン類似の仮想通貨を「アルトコイン」と呼ぶらしい。
アルトコイン=alternative coinということで、直訳的な意味はビットコインの代替コインというくらいのニュアンスなのだろうか。

今回のコインチェック社の事件の鍵は、アルトコインであるNEMをめぐる事件というのが大きいようである。
そもそもコインチェック社のビジネスモデルというのが、新しいアルトコインを安いうちに探してきて顧客に売り、それが短期間で10倍100倍と急騰するのを利用して利益を得るというものであったらしい。
というのはあくあまで私見であり、捉え方として少し乱暴過ぎるかもしれない。

しかし昨今のアルトコインの乱立は、新型仮想通貨を発行して莫大な「創業者利益」を得る、という構造がどうもあるようで、これは仮想通貨黎明期のどさくさまぎれ商法のような印象がある。

おそらくこのような混乱状況を見越してであろう、世界各国では仮想通貨に対する適切な規制の導入が検討されている。
日本はどうも「成長戦略」を焦るあまり、当局も仮想通貨に対しイケイケ気味になり「健全な規制」がやや後手に回っていたのかもしれない。

仮想通貨がらみの事件はその正確な理解が非常に難しいのだが、がんばって付いていかねばと思ったりしている。
posted by ヤス at 10:12| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月29日

MRJの今後の火種

日本初の本格国産ジェット旅客機のMRJであるが、これが今たいへんな苦境に立たされている。

開発の最初の頃、MRJの採算ライン販売機数は750機、という報道があったと記憶している。
これが最初期の開発見積額1500億円に対しての数字なのか、その後いくらか数字が膨らんだ段階での機数なのかはよく分からない。
仮に開発費2000億円で750機だと、1機あたりの開発費負担が2.7億円くらいになる。
MRJの機体単価は確か50億円くらいだったと思う。
50億円のうちの3億円くらいが1機あたりの利益に相当するものとぼんやり推測できる。

ただ現在のMRJの開発費見積額は5000億円になっていて、単純に考えて採算ライン販売機数は1700機くらいに跳ね上がることになる。
今、MRJはエンブラエル社新型機に対する販売投入時期のアドバンテージとか、燃費や運航コスト上のアドバンテージがほとんどなくなったり、場合によっては追い抜かれているものもある。
MRJの属する「リージョナルジェット」市場は10年後には世界で5000機くらいになると言われているそうだが、その中で一定のシェアを取れるかどうかが問題で、現状だんだん難しくなりつつある。

それで昨日も考えたMRJの今後の3パターンであるが、(1)販売せず直ちに撤退、(2)現契約分だけ販売して撤退、(3)あくまで事業継続のうち、今三菱は(3)の方針に揺るぎがない。
(1)(2)ともに巨額の赤字が出るからで、そこは理解できる。
しかしもし(2)のパターンの場合、販売後のアフターサービス網の維持などでコストが掛かり続ける。
逆に(1)だと現状の赤字で損切り出来る。

ライバルに対する性能的アドバンテージもほとんど無く、割高で業界に不慣れでアフターサービスに不安のあるMRJが業界首位を狙うような機数を売りさばけるかというとかなり難しいだろう。
ウルトラC的に過去の教訓を活かして後継の新型機を作って出直す(MRJの大幅改造版でもよい)とかしないと、どっちに転んでもMRJは巨額の赤字の元になる。

たぶんMRJがめでたく就航したくらいの時期に、新規受注が取れていないとその問題がだんだん浮上してくる。
だからといって今、税金500億円も混ざっている開発費5000億円をドブに捨てるのもものすごい勇気が要る。(撤退したら各方面からものすごい批判が出るだろう)

もうひとつウルトラCは、MRJのプロジェクトを設計図から製造設備から全部まるごとボーイングかエアバスか、エンブラエル、カナダのボンバルディアなどライバルに買い取ってもらうことだ。
なんならリージョナルジェット機市場に新規参入したいと考えている他業種でもいい。
が、現実にはそういう事業売却もいろいろな障害があって実際には無理そうだ。

ということでMRJは、進むも引くもイバラの道が待ち構えているようなのである。
posted by ヤス at 12:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月28日

MRJ絶体絶命

MRJ=ミツビシ・リージョナルジェットで初のキャンセルが出たらしい。
購入予定だったアメリカのイースタン航空が、経営危機から後継会社のスウィフト航空に事業譲渡したためだそうだ。
事業を譲渡されたスウィフト航空の判断で、契約していた40機分が全部キヤンセルになった。
まあ事業立て直しのためには妥当な判断だと思う。

MRJ開発元の三菱重工社長はコメントで「キャンセルは開発遅延が原因でない」と言った。
ものは言いようでそのように解釈することは必ずしも間違いではないが、しかしMRJがもう数年早く就航できていれば今回のキャンセルはなかった、と想像することもできる。

MRJは2008年の開発スタート時には2011年初飛行、2013年初号機就航の予定だった。
それが5回にわたる延期で初就航が2020年にまでずれ込むことになった。
もちろん2020年就航というのも現状で「予定」に過ぎない。
また遅れる可能性は十分にある。

最初は全部で3500機量産すると息巻いていた関係者も、ここはさすがにトーンダウンする場面だろう。
普通に考えると、MRJはおそらく失敗に終わる。
最大のライバル・エンブラエルはかねてから、MRJの対抗機を2018年(つまり今年)就航させると発表していた。
またエンブラエルはボーイングと業務提携し、今後拡大するリージョナル機市場への営業に万全の体制を整えたように見える。

本来なら、ボーイングとの提携は三菱重工サイドこそが実現すべきことだった。
と今さら言っても後の祭りであるが。

まあ三菱がMRJにチャレンジしたことは評価に値することだと思う。
実際にやってみないことには分からないことが世の中には多い。
それで実際にチャレンジしてみた結果、民間旅客機開発はおそろしく難しく、今の三菱重工には無理だった、ということが分かった。

さて問題は今後である。
残っている407機の受注残は、確定分が223機で残りの184機はいつでも解約可能なオプション契約であるらしい。
考えられるパターンは、(1)どこかの時点で開発を中止し航空各社に違約金を払って計画を全キャンセル、(2)407機または223機製造・納入した時点で事業を撤収、(3)あくまで計画を続行し営業活動や派生機・後継機の開発を継続、の3パターン。

こうして考えると(1)はない。
当初1500億円の見積開発費がすでに5000億円を超え、実機を販売しないまま終わる判断は難しそうだ。(特に日本的組織には無理だろう)

(2)も難しい。
売った後の保守サービスの提供に手間とコストがかかる。
保守体制の維持のためにも継続的な受注が不可欠だろう。

結局消去法で(3)で行くしかない。
MRJは当初予定から就航が8年以上遅れ、ライバルに数年先行する予定だったのが既に追い抜かれ、事業戦略上も圧倒的不利な立場に追い込まれた。
ここはスティーブ・ジョブズ的なカリスマ経営者が登場する宝くじ的な打開策しか想像できないが、そういう人物が世界でいちばん出現しそうにないのが三菱重工という組織ではないか。

この絶体絶命の危機をどう着地させるか、そして今回の失敗を未来にどう活かすか、これからがたいへんだと思う。
posted by ヤス at 15:00| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月27日

職業が変わるはなし

現代は職業の概念の転換期なのであると思うのである。
既述の通り、多くの人々が営んでいる「現代的職業生活」にはたかだか200年ほどの歴史しかない。
貨幣経済や国民国家などに代表される近代社会の中にその現代的職業生活もあった。
だが最近、それらのものがいちいちガタがきていて、端から順番にほころびが出ているように見える。
このことについて理路整然と語るほどの知識を持ち合わせていないのだが、若干の想像で補って考えると、国家と貨幣のほころびというのがまずあった。

近代国家の歴史というのは、ほとんど戦争の歴史と言って過言ではないだろう。
そもそも、中世の国家も古代国家も年がら年中戦争はやっていたけれど、数々の大量殺戮兵器を発明し、万人単位で一般市民の犠牲を出す「総力戦」というのは、近代国家の専売特許だと思う。

しかも近現代の戦争は英雄のいない戦争で、近代国家の戦闘能力というのは、その国の経済規模と技術力の掛け算で単純に決まる。
国家が経済と技術を磨いて戦闘能力を向上するには、生産性に優れた国民の職業生活が不可欠だろう。
明治大正や昭和の前半の時代とか、日本国民は主に国家の戦争遂行能力を維持拡大するために働いていた時代がまぎれもなくあった。

だがとりあえず、この70年くらい、世界覇権を争うような大規模戦争は起きていない。
国家間の本格的な衝突もだんだん減っているように見える。
今世界の軍隊が相手にしているのは非国家的な戦闘集団であり、非対称戦が現代の普通の戦争になりつつある。

もうひとつ、貨幣。
最初の貨幣は、実物経済をひっそりと支える便利な道具くらいの位置付けであったのが、いつの間にか貨幣そのものの価値が実物を超えるような幻想が世界を覆っているようである。
そもそも貨幣というのは、ただの「概念」に過ぎないのであるが、まとまった貨幣があるとほとんどの願いが叶うということがあって、その部分が人類の欲得を刺激して、しばらく前から何か巨大な暴走が始まっているように見える。

国家も貨幣も仕組みが出来上がってから日が浅い。
それらのほころびは、直立二足歩行が身体的に未完成で腰痛の絶えないホモ・サピエンスのようでもある。
国家と貨幣については、今後何年かかけてほころびを繕うことになるのだろう。
そうするとそれにともなって「職業」のあり方もだいぶ変わるということだ。
まあどっちみち悪い話ではないのでは、と想像している今日この頃である。
posted by ヤス at 15:08| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月26日

あらためて職業について考える

昨日は人物の属性の話を書いたけれど、書く前本当は「職業」について考えていた。
それがいつの間にか内容が変わったので今日は仕切り直してあらためて書く。

前から思うが職業というのは不思議な概念だ。
現代人は、特に日本のようなちゃんとした国家に住んでいる人間はだいたい職業に就いている。
子供や病人や高齢者で止むを得ず働けない人以外、働いていないと非難されたりする傾向もある。

ひとつには、国家や地方自治体は税金が無いとやっていけないから、ということがある。
住民から税金を徴収して、その金で「役人という職業」の人間を雇っていたりする。
あるいは最近は役人を減らして民間でできることは民間へ税金で委託するというパターンもあるが。

その税金で国家が何をしているかというと、その二大任務は福祉と防衛であると思う。
国の中で困っている人がいたら助ける。
そしてよそから知らない人間たちが攻撃してきたら、それから守る。
ざっくりそんな感じだ。

もし国家が、100人くらいの小さい村くらいの規模で、みな見知ったもの同士だった場合なら、別に税金を取らずとも、そして役人を雇わずとも、お互いに話し合ったり思いやったりして福祉と防衛の作業を完遂できるに違いない。
でも1億人以上もいる国家組織ではほとんどの人が知らない人だ。
遠くの見たこともない人に対しては、多量の思いやりを持ちようがない。
だから貨幣経済を介在して、税金で役人を雇って知らない人同士の助け合い作業をやることになる。

さて、職業についてである。
これは想像であるが、江戸時代くらいまでは現代のような給与所得者=サラリーマンはいなかったんじゃないか。
つまり労働して、労働の対価を貨幣に変換して受け取るという人種のことだ。
昔は、殿様に仕えるサムライも、越後のちりめん問屋の丁稚奉公人も、現代的な意味での労働対価を受け取っていない。(と思う)
サムライの扶持が何百石とかいうのは、労働でなく身分に対する報酬である。
丁稚奉公は寝床と三度の食事が保証され、貨幣の支給としては盆と正月に小遣いをもらうくらい。
時間給がいくらとか成果報酬がどうとかいうのはなかった。

たぶん19世紀の産業革命期に、貨幣経済のシステムを最大に活用する方途として労働力が商品化され、労働に値が付くようになったのだ。(と思う)
現代的な意味での「職業」はそのあたりから始まったのだと想像する。

そのように考えると、現代人が職業を求めて就活に走り回るのは、極めてモダンな行動風景と捉えることができる。
だが今、ロボットや人工知能で人間の職業の一部または大部分が消滅するのではないかと噂されており、約200年間継続した労働の貨幣変換の歴史が、風前の灯のようにも語られている。
そのことについて論ずることが今回の本題だったのだが、紙数が尽きたのでとりあえず今日は仕舞う。
posted by ヤス at 10:57| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年01月25日

報道と人物属性

例えば何かで誰かが犯罪を犯し逮捕されてニュースになると、「職業何々、年齢何々、住所何々」と報道されることが多いと思う。
その容疑者の人物属性を表すのに、年齢、住所と職業が用いられる。
たまに、「住所不定無職」というやつもあったりする。
年齢はバイオロジカルな人物属性なので、その当該人物が今まで寝て暮らしていようが何していようがただひとつの解が必ず存在する。

しかし住所と職業については、これは後天的な属性要素で、生きている間に変わることもしょっちゅうある。
そして当然住所不定の人もいるし無職の人もいる。
住所不定や無職の事情も人それぞれで、住所不定無職だから極貧のホームレスであるとは、必ずしも言えない。
豪華ホテルを転々とする資産家の住所不定無職もいるかもしれない。

昔、ローカルの新聞記者さんがある人物に取材している場所にたまたま同席したことがあった。
取材対象の人物は女性であり、しかもなんというか、アラサー、アラフォーあたりのわりかし微妙な年齢の方だったと思う。
新聞記者はきわめて当たり前の感じでその女性に年齢を尋ねて、その女性は「どうしても年齢言わないとダメですか」みたいな感じで渋っていたのだが、新聞記者はもう平然と「お願いします」と聞き出していた。

新聞などのメディアが人物報道をする時、対象者の「人となり」を読者に伝えたい、と考えるのはまあ理解できる。
でもそれがだいたいの場合、判で押したように年齢と職業と住所、というのはどうなのかな、とふと思った。

職業に関して言えば、無職ならまあ波風立たないのでかえって問題が少ない。
最近(というか以前からかもしれない)、目立つように思うのが教諭、先生たちの逮捕のニュースで、痴漢とか盗撮とかのニュースが流れると、そこには明らかにプラスアルファの要素が加わる。
教育者である先生が、子供たちを教える聖なる職業の人が破廉恥なことをした、という感じがどうしても乗っかる。
そういう文言が記事に書かれていなくても、行間の余白に書いてあるように見える。

これは別に先生だけでなく、弁護士とか警察官とか有名スポーツ選手とかでも、それらの人の犯罪ニュースではニュースバリューが若干割り増しになる感じがある。
「職業別犯罪発生率」みたいなデータでも公表されていて、特別に犯罪の多い職業が明確になっているのならともかく、印象論で特定の職業と犯罪発生の因果関係を論評するのはあまり意味がない。

ただ、報道機関としては人物属性をぜひ伝える必要があってそれは年齢と住所と職業だ、ということならば、少なくとも受け止める側の方がなるべく透明な気持ちでそのニュースを読む必要があるのではないか、などと思ったりした。
posted by ヤス at 10:24| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月24日

パソコンの世界出荷台数減少

ニュースによるとパソコンの出荷台数が減っている。
世界の2017年第2四半期までのパソコン出荷台数が、11四半期連続で減っているらしい。
この2017年4−6月期の出荷台数が世界全体で6100万台あまりで、2007年以来のデータで四半期最低を記録したという。
なんでも前年同期は6390万台くらいと5%くらい減っている。
3ヶ月で6千万台というのは多いのか少ないのかよく分からない。
通年だと2億4千万台とかになるので、世界人口70億人と比べてもそんなに少ないようにも見えない。
それで参考のためにスマホの台数を探してみた。

IDC(インターネットデータセンターの略らしい)というところの記事が見つかった。
それによると2017年のスマホの出荷台数は推計15億3480万台らしい。
OS別内訳もあって、アンドロイド13億500万台、iOS 2億2600万台、Windows 180万台。
世界のパソコン出荷台数は、今やiOSのiPhoneの出荷台数と同レベルということらしい。
ただ、パソコンとスマホでは値段が違う。
最近はパソコンも3万円くらいで買えるようになったが、スマホも格安だと1万円くらいのもある。
単価はどうなっているのだろう。

たまたま国内のパソコン販売のデータがあって、一般社団法人電子情報技術産業協会という長い名前の団体が集計している。
それによると2016年(4-3月の行政年度)の国内パソコン出荷台数は770万台くらいだ。
で、出荷金額というのもあって6773億円。
割り算すると単価は8万8千円くらいだ。
ちなみに2007年の国内出荷台数と金額を見てみると、台数が1025万台、金額1兆2468億円。
割り算すると単価は12万円強となる。
こうして見るとこの約10年間の間に、金額ベースで市場規模が半減したことがよく分かる。

NECも富士通も苦労するわけだ。

ところでパソコン単価の8万円台というのは、高級スマホであるiPhoneとほぼ同等である。
現在世界のパソコンメーカーは、ヒューレットパッカードとレノボが2強でシノギを削っているらしいが、どちらも年間出荷台数は1200-1300万台くらいだ。
つまりiPhoneの2億台あまりと比べると一桁少なく、17分の1の規模である。

スマホ市場は年率5%くらいのペースで成長しているらしいのでだいたい1年で1億台市場が膨らむことになる。
パソコンが減っているというけれど、スマホもコンピューターの一形態と考えてパソコン・スマホ合算で見ると、全体としては確実に増加傾向にある。

そして拡大分の多くは中国・インドなどのアジア諸国、そしてそこにアフリカなどが続く。
ついでに言うと日本のコンピューター市場はどんどん縮小していく。
グローバル化の現状と日本の立ち位置を象徴する数字であるな、と思った。
posted by ヤス at 15:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月23日

ムーミンと北欧諸国について

昨日は東京の方が大雪だったらしい。
SNSにも交通マヒとか、関連のつぶやきが多く流れていた。
今の時期は一年でいちばん寒くなる期間でもある。
そしてこの時期には日本中で大学受験が行われる。

この間はセンター試験があって、我々の時代には共通一次と言っていたけれど、試験名称はいくらか変化したが実施時期はほぼ一定である。
だから毎年のように雪でテスト開始が遅れたとか、会場までパトカーで送られた受験生がいたとかのニュースが流れる。

センター試験といえば「ムーミン問題」が話題になっていた。
なんでも、ムーミンがフィンランドを舞台にする物語であるかどうかが問われる問題だったらしい。
その問題にムーミンと並んで「ニルスのふしぎな旅」「小さなバイキングビッケ」も登場したという。
いずれも我々世代には馴染みの物語であるが、しかし現在の受験生世代には「?」の問題だったのかもしれない。

しかし考えてみると我々の時に同じ問題が出たとして、答えられたかどうかはやや自信がない。
わたしの中でムーミンは「北欧」出身のお話としてインプットされていたけれど、それがフィンランドだったというのは、今回初めて知ったような気がする。

北欧の三国、ノルウェー、スェーデン、フィンフランドは、日本人的にもまあまあ馴染みのある国々であるように思う。
ボルボとか家具のイケアとか、ちょっと前なら携帯電話のエリクソン、ノキアなどがわたし的には北欧のイメージである。

しかしイケアは北欧であってスェーデンかどうか、というのは個人的にいまいちイメージが薄い。
そしてエリクソンとノキアは、どっちがスェーデンでどっちがフィンランドかは、これはケータイでググってみないことには即答ができかねる。

ノルウェーは漁業国家で歴史的にはバイキングの国であり、そのイメージから外洋に面している感じがあってその位置関係を記憶しやすい。
しかしスェーデンとフィンランドは、ともするとどっちがどっちだったか分からなくなるという点で、西日本人にとっての群馬県と栃木県のイメージに近い。

ところで、フィンランドは第二次大戦中心ならずもドイツと同盟して枢軸側に加わり国境を接するソ連と激しく戦った。
この「冬戦争」でフィンランド軍は、本来敵国であるはずのアメリカからブルースター・バファロー戦闘機の供与を受け、バファロー戦闘機はフィンランド空軍の主力機として活躍した、というのは我々軍事オタク的には必須の知識である。

今回のムーミンのテスト問題のニュースにより、ムーミンがフィンランド人の作であったこと、そしてフィンランドは北欧の中のいちばん右側(ロシア寄り)の位置だった、というのをあらためて確認できたのは一つの収穫だった。

それにしても北欧諸国はヨーロッパの中でもその歴史的経緯や福祉政策なども独特で、同時にサーブ・グリペン(これはスェーデン)など独自開発の戦闘機を持つ重武装中立国であったり、なにげに興味深いところであるなあ、というのを受験シーズンのニュースの中でちょっと思ったりした。
posted by ヤス at 09:33| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月22日

古墳と盗掘

何年か前に仕事で大阪に宿泊したことがあって、堺市の安ホテルに宿をとった。
それで夜中になんとなく散歩に出かけて、近くにあった「大仙陵古墳」まで行った。
「大仙陵古墳」はわたしが学生の時分には「仁徳天皇陵」という風に習ったが、墳丘の長さが486mもある世界最大級のお墓である。

この大古墳の近くまで行ったはいいが、「正面入り口」の門扉はもちろん固く施錠されていて勝手に入れない。
仕方がないので古墳の周りに沿ってぐるりと道を一周した。
たぶんその一周が2kmくらいあって、それなりにくたびれた記憶がある。

この古墳がひと昔前まで「仁徳天皇陵」と呼ばれていたのには実は確たる根拠はなく、だから最近は被葬者の名を伏せて「大仙陵古墳(または大山古墳)」と呼ぶらしい。
そもそも第16代の仁徳天皇自体が半分神話的な存在で、在位期間や生没年も不詳である。

このような大墳墓の被葬者記録が不明というのも少し驚く。
この古墳は西暦400年代、5世紀頃のものらしいが、その後の時代に管理が緩み相当程度放置された期間があったのだろう。
古墳内には盗掘の痕跡があり、また江戸時代以前の歴史記録にもどこかの古墳に入った盗掘犯を捕まえて磔(はりつけ)にしたとかいうのがあるらしい。

ところで、「墓荒らし」というのは古くからある職業で、その歴史は人類史に権力者を頂点とする社会構造が出来上がり、大権力の象徴としての墳墓が造営されるようになるのと並行して登場したものと想像される。
日本の大古墳に限らず、エジプトのピラミッドや中国の歴代皇帝・王侯貴族の墓などもほぼ例外なく盗掘にあっている。

何しろこれらのお墓には副葬品として金銀財宝が権力と比例する分量納められており、しかも墓の中には死人ばかりでやりたい放題である。
墓の主人の子孫の系譜が衰えて墓の管理が緩むと、どこからともなく盗掘集団がやってきて金目の物を根こそぎにして行く。
というのが世界共通のお約束であるらしい。

エジプトのツタンカーメンの墓がほとんど無傷だったのは、その墓が王墓としてはあまりに地味で歴代の盗掘者たちも素通りしてしまったからだという。

歴史上の権力者が立派な墓を造り金銀財宝と共に中に入る前に(つまり生前に)、盗掘の心配をしなかったわけはないだろう。
それでもなお大きな墓に財宝多数を埋めたのは、自分の子孫だけは永続し代々自分の墓を守り続けてくれると期待したからだろうか。
その辺は権力者の心理にまつわる謎であると思う。
いずれにせよ、墓はなるべく地味で、あるかないか分からないくらいのものが庶民にとっては心落ち着くよなあ、と思った。
posted by ヤス at 10:30| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年01月21日

小室哲哉の引退

小室哲哉氏が不倫疑惑の釈明会見で業界からの「引退」を表明したらしい。
わたしは文春も会見も見ていないので詳しいことを知らない。
しかしいくつかの報道をチラ見する限りでは小室氏にかなり同情的な思いを持った。
世の中的な評価としては、不倫疑惑に相変わらず厳しい意見を述べる向きもあるようだが、全体として小室氏を応援する意見が今回に限っては多いような気がする。

ところで、この「引退」という身の振り方についてもいろいろと意見があるようだ。
小室氏の報道上の肩書きは「音楽プロデューサー」であるらしいが、音楽プロデューサーにおける引退とは一体なんなのだろう。

世の中のプロの職業には、組織化されプロ基準とでもいうべき明確なルールが決まっている業界もある。
プロ野球やプロサッカーはプロチームに所属していることがその条件だろうし、将棋や相撲の世界でも、業界団体が設定したプロ基準をクリアすることが必要である。
そういうプロ職業はプロ人数におおよその枠が決まっていて、その枠から外れるとプロでなくなる。

一方でプロレーシングドライバーとかプロゴルファーとかは、ライセンスやテストに合格することでプロになれるが、プロになったからといってそれで食っていけるかどうかは別問題である。
プロボクサーなんかもそうなんだろう。

そして、特にライセンスもなく業界団体の縛りもないプロ職業ももちろんあって、どちらかというとこの手の「プロ」が世の中には最も多い。
プロのデザイナー、プロの作家、プロの八百屋などなど、プロを名乗っていている人を見てなるほどこの人はプロだ、と思うこともあるし、本当にこの人はプロなの、と思う場合もある。

小室哲哉氏がやっていた「音楽プロデューサー」は、分類するならこの「縛りのないプロ」に該当すると思われる。
そして小室氏は詐欺事件とかいろいろありはしたけれど、現在に至るまでかなり明白にプロの音楽プロデューサーだった。
だから彼の引退宣言には、それなりの重みがあると思う。

それで彼は引退宣言をして、やりかけの仕事とかを順番に片付けて表舞台から消える算段のようである。

しかし、彼が引退して何年か経って、突然インスピレーションを得て新しい音楽を作って、それで金儲けをするかどうかはともかく、それを何かの形で世に出すようなことがあれば、彼は引退宣言はしたけれど、本当には引退していなかったことになる。
たぶんこういうアーティスト職業の人々は、本人がいくら引退したつもりでも完全にアーティストでなくなることはない。

世の中には、引退したくないけど引退しなきゃいけない人もいるし、引退しようにも引退するほどのプロでない人もおり、また引退したいけれど本当に引退はできない人もいるのだ、と思ったりした。
posted by ヤス at 14:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月20日

SVTOL機の夢

日本の海上自衛隊には「いずも型」と呼ばれる護衛艦があって、これは真っ平らな全通甲板を持つどこから見ても「空母」のような艦影をしているがもちろん空母ではない。
あえて言えばヘリ空母であり、正式には「ヘリコプター搭載護衛艦」ということになるらしい。
このいずも型護衛艦に、最近実用化が始まったばかりのアメリカ製ステルス機F35Bを載せて本来の空母として運用することを検討、みたいなニュースが流れていた。

F35BはF35シリーズの中のSVTOL(=短距離離陸垂直着陸)タイプで、米海兵隊やイギリス海軍などが採用決定している。
真下方向の推力を得るためにエンジンノズルを下向きに偏向できる特殊構造を持ち、また胴体のど真ん中にジェットエンジンの回転力で駆動するリフトファンを積んでいる。
このリフトファンが大きな体積と重量があるために、F35の空軍型A、海軍型Cと比べると燃料や兵装搭載量が劣り、行動半径も攻撃力も若干弱くなっている。

しかし小型の軽空母や長い滑走路のない島嶼部などでも運用可能なSVTOL機は現在それなりのニーズがあるらしい。
必ずしも高性能とはいえなかったイギリス製のSVTOL機・ハリアーが1982年のフォークランド紛争で意外な活躍をしたこともその背景にあるようだ。

しかし日本がいずも型を改造してF35Bを運用したとして、これを尖閣諸島周辺や南シナ海方面で使うのであればこれはほとんど意味がない。
日本はF35の空軍型であるA型を導入中だが、尖閣方面で使うなら沖縄や九州の基地からA型を飛ばして、場合によって空中給油で足を伸ばせば十分だ。
F35は超音速巡航可能なので、要するに時速千キロくらいで飛び続けることができるので、沖縄から500km飛んで尖閣に行くくらいの距離なら十分に実用範囲である。

日本が空母を持つということの意味は、中東のタンカー航路の警備に行くとか、かなりの遠隔地に航空戦力を派遣する、という話になる。
これは現在の憲法や法律の枠組みではかなり難しい話である。

F35Bで思い出したが、子供の頃にテレビでやっていた「ウルトラマン」に出てくる科学特捜隊の飛行機はどれも垂直離着陸型だった。
またサンダーバード2号や、スターウォーズのエックスウィング、帝国軍のタイファイターなども例外なく垂直離着陸している。
これらSF的空想作品に出てくる軍用機というのはほぼ例外なく垂直離着陸型なのはどうしてだろう。

これはたぶん滑走路がないと飛べない飛行機ではシナリオ作成上いろいろと不都合があるのだろうが、やはり人類の一つの夢として、軍用機は垂直離着陸した方が単純にカッコイイということなのだと思う。

開発初期の頃のハリアーとか、現在のティルトローター機のオスプレイとか、かなりの頻度で墜落事故を起こしているが、これは人類の夢に航空技術がまだ十分追いついていない、ということのようでもある。

だから飛行機は素直に滑走路を走って飛ぶのが、コスト的にも安全面からも無理がなくて良い、と、どうでもいいが思ったりした。
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2018年01月19日

次に出てくるカメラの予想

「レンズスタイルカメラ」というデジタルカメラがかつてソニーから出ていた。
かつて、とはいってもほんの3〜4年前のことである。
QX10、QX100という2種類が2013年にわりかしひっそりと発売されている。
この「レンズスタイルカメラ」は丸い円筒形をして、まんまレンズの形であるが、普通のデジカメにある液晶画面が無い以外は、シャッターボタンもあるしいちおうカメラとしての機能を一通り揃えていた。
ただ、ファインダーも液晶もないので撮影時にどうやって狙いを定めるかというと、スマホとWi-Fiで繋げて使う。
専用アプリを入れたスマホにレンズから送られてきた画像が映しだされて、スマホ画面をタッチしてピント合わせができたりする。

わたしはかつてこの製品群に対する感想を書いたのだが、かなり酷評した記憶がある。
まず、ほぼ同一性能の普通のデジカメと比べても値段が高い。
本来は液晶画面が無い分安くなってしかるべきだろうが、おそらく生産数量の見込みが少なく安くできなかったのだろう。
またWi-Fiでスマホと繋ぐのが、うまく繋がらなかったり途中で切れたり送られる画像が汚かったりさんざんだった。
だからわたしはこのカメラは、残念ながら遠からずフェードアウトして終了になるだろうと予言した。

しかしである。

発売から2年くらい経った頃にホリエモンがこのカメラを激推しし、またより大型の撮像素子を搭載したレンズ交換式の新製品も出たりして、ひょっとしてわたしの予言はハズれるのではないか、という展開になってきた。
またこの頃にオリンパスからも、マイクロフォーサーズレンズ規格の同一コンセプト製品が出てにわかに市場が活気付いたように見えた。

現在、アマゾンでこれららの製品群を検索してみると、わずかに残った流通在庫に法外な値段が付いた新品が売られていたり、中古品が出ていたりする。
しかし大半の型番はおおかた終了しているようで、わたしの予言はなんとかハズれずに済んだ。

今のデジカメは、Bluetoothの常時接続技術とかが確立しており今これらのレンズスタイルカメラを「リプロダクト」すればそこそこ良い製品が開発できそうだが、しかし出てきそうな気配は微塵もない。
わざわざ液晶を外した専用製品を作らなくても、普通のデジカメをスマホで繋げれば同じことができるからだろう。

そこで第2の予言をここでしたいと思う。
レンズスタイルカメラの無念を晴らすことのできるニューコンセプト製品についての予言である。
それは、たぶん「ドローンカメラ」になる。

今もカメラ付きの小型ドローンはたくさんあるけれど、画質が良く、スマホとの連携が便利で、なおかつ精密な飛行制御で風にも強くお値段もリーズナブルなドローンカメラの決定版がそのうち出てくる。

従来、三脚や自撮り棒や通りがかりの人にシャッターをお願いするとかで行なっていた「遠隔撮影」のニーズをドローン型カメラは痛痒なく叶えてくれる。
技術的には風に飛ばされず障害物にぶつからない飛行制御が難しそうだけれど、「持ち主」の周りをブンブン飛び回って勝手にアングルを決めてシャッターを切るドローンカメラが出たらぜひ欲しい、と思ったりした。
posted by ヤス at 12:25| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月18日

信念のはたらき

リンゴの落下を見て万有引力の着想を得たことで有名なアイザック・ニュートンは敬虔なクリスチャンだったそうだ。
彼は特に後半生は物理学よりも神学研究に情熱を注ぎ、この分野でたくさんの著作も残している。
またニュートンはたいへんな変人で、まだ動物愛護思想のかけらもない300年以上の昔に街の野良猫に餌を与えたりしてご近所さんから気味悪がられていたらしい。

このニュートンは「絶対的時間」「絶対的空間」の信奉者であり、これはどういうことかというと、宇宙にある全ての分子の運動を把握することができたら完全な未来予測が可能になる、ということである。
というのを昔講談社のブルーバックスか何かで読んだ記憶があるのだがあるいは多少間違っているかもしれない。

以下、間違っていないことを前提に書く。
ニュートンの時間や空間に対する絶対性の考え方は非常に強い信念であり、ある種の宗教的な信心がその背後にあったと想像される。
それはニュートンが熱心なキリスト教信者だったことからも類推できる。
そしてニュートンの数学・物理学における業績は、狂信的とも思われるこのような信念が支えていたのだろう。

逆にニュートンが自分の信念を信じることが人並みで、性格も穏やかな普通の人だったら、たとえ彼の知能指数がどんなに高かったとしてもあんなに偉大な業績は残せなかっただろうと思う。

人間はしばしば強い信念や宗教思想や理念を信じることがある。
強い信念を持つことは、世間的にはどちらかというと良いことである、という風に受け止められることが多い。

ところで、このような信念とか宗教心とかはたいてい理屈を超越したものである。
論理的に組み上げられた数学的構造を持つ信念というのは、たぶん信念とは呼ばないのだと思う。
どうしても理屈で解明できない部分を飛躍させるものがこの場合の信念である。
信念の強みは、理屈のバックボーンを持たないので理屈によって論破されることがない、ということであろう。

17世紀に生きたニュートンは科学の世界で偉大な業績を残したが、しかし彼が長生きして20世紀まで生きたとしたらさぞかし驚き、憤慨しただろうと思う。
量子力学が出てきて、あるいは不確定性原理とかいうものが発見されて宇宙の絶対性が明確に否定されることになったからである。
宇宙では未来は絶対的に予測できない。
タイムマシンに乗って何度も過去に戻ったとしたら、その度に「偶然」が作用して違う歴史が出現する。

信念というのは捉われ過ぎると道を誤るし、しかし強い信念があることによって人は駆り立てられ、希に偉大な業績を産んだりする。
信念はなかなか扱いの難しいものであるなあ、と、どうでもいいが思ったりした。
posted by ヤス at 10:48| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月17日

電子マネー化について

最近の買い物は電子マネーを使うことが多くなった。
わたしが電子マネーを日常的に使うようになったのは、2016年の10月くらいからである。
このタイミングになったのは、iPhoneをApplePay付きの「7」に機種変したからだ。

数年前も、ガラケー時代にFeliCa搭載のシャープの携帯電話でEdyを使っていたことがあったのだが、岡山の片田舎では当時Edyで買い物ができる店が極端に少なく、いつの間にかだんだん使わなくなった。

それが、2016年10月から日常生活の7〜8割方が電子マネーになったのは、やはりiPhoneのApplePay搭載の影響が大きい。
たぶんApplePay登場の影響だと思うが、マクドナルドはそれまではクレジットカードも使えなかったのがこの頃にいっきに電子決済化に舵を切った。
コンビニはしばらく前から電子化が進んでいたけれど、それまで電子化が遅れていた地元のスーパーマーケットやドラッグストアなんかもこの時期に一斉に電子マネーの導入が進んだように思う。

あと、たまに行く吉野家が今のところイオン系のWAONしか使えなくて、わたしはWAONは持っていないのでそれだけで吉野家から足が遠のく。
いずれにせよiPhone搭載型の電子マネーは、いちいち財布をポケットから取り出す手間がなくて便利だ。
ポケットから取り出す手間だけでなく、もちろん小銭を数えたり釣り銭を受け取ったりする手間もない。
以前は、自動釣銭機でないコンビニの支払いで、年に数回くらいの頻度で釣り銭間違いがあったけれど電子化でそれも皆無になった。
またマクドナルドの電子決済も、昔に比べると店員が慣れたこともあるのだろうし、ひょっとしたらレジ機器の反応速度が改善されたりというのもあるかもしれないが、以前より相当スムーズになった感じがする。

しかし一方で、地元個人店とか小規模チェーンなどではほとんど電子決済化は進んでいない。
現在の電子マネーの導入コストは、端末が1台数万円、決済手数料が2〜3%くらいで、その気になれば個人店でも十分に手を出せる金額だと思う。
特に手数料はクレジット決済より安い。

レジ決済が電子化されると、釣り銭間違いもなくなるしいちいち銀行に行って小銭の両替をする手間も減る。
ただしそれも決済の大部分が電子化されたらの話で、「現金主義」が根強い日本国内、特に田舎の市場ではなかなか電子化に舵を切る消費者が増えない。
だから小規模店舗でも導入が進まない。

しかし、最近は外国人観光客の来日が増えており、特に電子決済に慣れた中国人とかが今後も増えれば観光地から順番に電子化が進むような気がする。
また2020年には東京五輪もある。
わたし的には昨年2017年は田舎における電子決済元年であった、と勝手に思っているが、おそらく2年後2020年は一気に大半の消費者が電子マネーを使うようになる年になるのではないか、と勝手に予想している。
posted by ヤス at 10:03| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月16日

食用犬と動物愛護の問題

最近のニュースに韓国の食肉用の「養犬場」が閉鎖に追い込まれているというのがあった。
アメリカの動物愛護団体からの働きかけによるものだという。
なんでも補償金と引き換えに食肉になる運命だった犬を欧米の里親に譲る取引に応じたらしい。

わたしは個人的には犬を食べることにはかなり抵抗がある。
だが一方で犬食文化を野蛮であると言下に否定する考えもない。
そして犬は食べたらダメで牛や豚は食用にしても構わないとする考え方は、理屈がなかなか成り立っていないように思える。

多くの人間が、犬を食べるのに抵抗がある一方で牛や豚はそうでもないのは、大雑把に言うと「可哀想」に感じるかどうかが大きいと言わざるを得ない。
犬は一般に表情が豊かで、犬が喜んでいたり悲しんでいる感じを人間としても受け止めやすい。
対して、牛や豚は「無表情」で感情の起伏を感じ取るのはなかなか難しそうに思える。
わたしも、牛の表情をじっくり観察した経験がこれまでにあるわけではないのでそれほど強力に主張する感じでもないのだけれど、しかし田舎の方に行くと思いがけず目の前に牛舎があって牛がのんびり餌を食っている風景に出くわすことは、ないこともない。
その時に見た牛の印象を元に語るなら、確かに牛には表情が乏しいような気がするのである。

あるいは犬の表情の豊かさというのは、家畜として生きてきたこの数千年間に犬たちが身につけた護身用の技術であるのかもしれない、と思ったりもする。
犬の表情が豊かであると、そこにある種の自我の存在を感じさせる。
それを見た人間としては犬の自我があることを予感し、いざ犬を食する時になって「こいつら食べられるのはさぞかし無念だろう」などと想像が広がる。

数千年間の犬と人の関係史において、表情の豊かな犬は可哀想な感じがして食べられることから免れ、無表情な愛想のない犬はあっけなく食されるというような淘汰圧が作用して表情の豊かな犬が残った。
そのようにも想像できる。

しかし人間というのはつくづくややこしい生き物である。
同時に、人間は感情の作用を無視して生きることができない生き物であると思う。
理屈で考えると犬も牛も豚も、生命の尊厳として分け隔ての理由はなく、その考えを拡張するとブリやハマチだって犬同様に一個の生命として尊重されるべきである。
それで行くと人間は、究極的にはメシを食うたびに重大な倫理問題にぶち当たって相当不自由することになる。

この問題は、あまり理屈で考え過ぎると袋小路に迷い込んでしまう。
だから「とりあえず」犬を食べるのは可哀想だよね、でもお腹が減ったら何か食べたいよね、というような感情に、それぞれの立場の人間たちが理屈抜きで素直に従うしか今の所答がないように見える。
これはクジラ肉の問題も同様だけれど、犬食べる派も愛護派もあまり理屈を振りかざすべきではなく、適当なところでなんとなく折り合いをつけるしかないのだ、と思ったりした。
posted by ヤス at 08:04| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年01月15日

黒塗り問題

件のガキ使の黒塗り問題。
昨日のワイドなショーで松本人志がこの件についてコメントしているのをYouTubeで観た。
が、松本人志は具体的な反論をするでもなく、「浜田が悪い」の一点張りで問題を無理やり笑いに転換しようとしているように見えた。

この問題、たぶんちょっと前なら何の話題にもならなかったと思う。
それが現在は世界的に差別への意識が高まっていて、対して国内の意識が全然追いついていなかったということなのかもしれない。
日本のお笑い界的には「寝込みを急に襲われた」不意打ち感があって、個人的にはちょっとびっくりもした。

ただ世界の潮流は、民族や思想やジェンダーなどなど、さまざまな部分が異なる人間たちがこの地球上でどうやったら平和に平穏に共存できるか、ということにちょっとやり過ぎなくらい配慮するようになっているということなのだろう。
対するダウンタウン側、というか日本のお笑い界としては、これで笑いの幅がまた狭くなった、テレビの世界がさらに窮屈になった、という思いを抱いたようである。

以前明石家さんまが何かの番組で発言していたのだが、「テレビの世界が今、自粛やコンプライアンスで窮屈になっていませんか」みたいな質問に対し、「制限のある中でどうやって笑いをとるか」が自分の中のテーマであるみたいな返答をしているのを観た記憶がある。

やっぱりさんまはすごいなあと思うのだが、しかしこの返答は見ようによっては優等生的に過ぎる、と思えなくもない。

日本の社会は、少なくとも国内では人種や民族や宗教上の「異分子」対立が大きな問題になったという歴史がほとんどなかった。
いや本当はアイヌや在日朝鮮人への差別問題とかいろいろあったのだろうが、平均的な日本人の感覚では「日本は均質社会」という認識が世間的な大勢を占めていたものと思われる。

しかしアメリカでもヨーロッパでもアジアの各地でも、人種や民族の違いをめぐって時に血なまぐさい事件が発生したりして、世界の人々の意識には日本国内と次元の違う深刻さ、というのがある。

人間が「差別」をする意識というのは、脳内の「無意識」部分での思考が大きく影響していると思う。
我々は、知らない間に「自分たち」と少し違って見える人々に違和感を感じ、その違和感が成長して「違う人々」への排撃行動に繋がったりする。
だから無意識下で発生する差別の元になる意識をなるべく事前に取り除こう、というのが、今日における世界の差別問題への対策のひとつになっている。

そこのところが均質社会に暮らしている(と思っている)日本人には理解しがたい。
日本のお笑い界も、思いもせぬところから横やりを入れられて水を差されて少々気分が悪いのかもしれないが、やはりここは制限のある中でどう新しいお笑いを作って行くか、そこを突き詰めて行くしかないんじゃないかと思う。
posted by ヤス at 08:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月14日

狩猟民族と遊牧民族は違う

数日前のニュースだが相撲協会評議員の池坊議長が、白鵬の張り手は元が狩猟民族だから、みたいなことを言ってこれが民族差別だということで、一部地域で少し炎上している。
民族差別の話は置いておくとして、わたしが違和感を抱いたのは白鵬のご先祖さまは「狩猟民族ではなく遊牧民族だろう」という点である。

この点については、実を言うと断定的に主張するほどの知識を持ち合わせているわけではない。
ただ現状のわたしの脳内における「世界史」では、狩猟民族と遊牧民族ははっきり違う。

学校で習う世界史を思い出してみると、人類の文明史は代表的な四大文明から始まる。
エジプト、メソポタミア、インダス、黄河と、主に大河川流域で文明は起こったと昔習った。
四大文明以外にも、小さいが十分に古い文明跡が各地で発見されていて、おそらく1万年前から5千年前くらいの期間に人類は農耕技術を習得し、それまでの狩猟採集生活時代より食糧事情が革新的に改善し、余剰労働力が発生して文明の礎となった。
というのはわたしの想像だがそんなにはハズレていないと思う。

そういう定住スタイルの農耕文明が河川の流域で起こったのと同時期に、おそらく「遊牧文明」というのも起こったのである。
というのも個人的想像だ。

わたしの想像内の黎明期遊牧民族は、定住しないので「遺跡」というのを遺さず、その多くは文字も持たなかったので記録も残していない。
ただ農耕民族側の歴史台帳に「いついつ頃遊牧民が大挙来襲した」とか記録されているだけである。

わたしの脳内世界史においては、農耕文明と遊牧文明はほぼ同時に沸き起こり、遊牧民族は炭水化物が食べたくなると、農耕民の集落を襲って略奪する。
略奪は現代でこそ犯罪行為であるが、当時の遊牧民族にとっては単にひとつの産業だったに違いない。
ただ遊牧民族は略奪するだけでなく、鉄を発明して農耕民族がそれを取り入れたり、遠隔地の文物を橋渡ししたりする機能も果たしていたと思うのである。

それで、13世紀のモンゴル帝国の頃までは、こと軍事技術では遊牧側が農耕側を圧倒していたわけであるが、鉄砲の発明の頃から遊牧のアドバンテージが怪しくなり、今ではすっかり農耕文明の天下になってしまった。
あくまでわたしの想像である。

炭水化物の計画的生産と備蓄の技術を引っさげて世界を我が物にした農耕文明であるが、しかし現代人を観察すると、今日に至ってかなり遊牧民族的色彩が濃くなっているようにも思われる。

まず、現代人の多くは農耕をしない。
日本における第一次産業人口は2%程度で、その他の民衆は略奪こそしないが、かつての遊牧民のように農耕民から食糧を得ている。
また、長らく定住生活は人類のライフスタイルの定番形式だったが、今スターバックスに行くと、みんなコーヒーを飲みながらMacBookを広げて「ノマド」している。

話がだいぶ逸れた。
つまり狩猟民と遊牧民を混同することにわたしは違和感を持つ。
それは狩猟採集生活の後に、人類は文明の二大形式として遊牧と農耕に分岐した(少なくともわたしはそう思っている)わけで、この点については追って自分なりに勉強してみようかと思った。
わたしの学習意欲を後押ししてくれた池坊議長に感謝である。
posted by ヤス at 11:22| Comment(0) | 徒然なるままに

2018年01月13日

さんまのアドリブ

大昔、もう30年も前の話である。
当時広島に住んでいて、正確な名称は憶えてないが「広島国際音楽祭」だったか、そういうイベントの警備員兼雑用係のアルバイトをやったことがある。

なんだか最近、昔のことを書くことが多くなっている気がする。
もう少し未来に目を向けないといけないのかな、と思わなくもない。
昔語りの多くなる歳頃になってしまったのかもしれない、と思うと少し焦る。
まあとりあえず歳の話は置いておこう。

その広島の音楽イベントに、スタッフの腕章をはめて他のバイトと一緒にステージ下に並んでいた。
事前の注意伝達で、必ず客席の方を向いているように、と言われたような記憶もある。
そのイベントは、当時テレビの歌番組に出てくる有名な歌手がたくさん出演していたと思うが、一体誰が出演していたか、今となっては記憶のカケラも残っていない。
ただ憶えていることがひとつあって、イベントの司会者が明石家さんまだった、ということだ。

明石家さんまがどこかの女子アナと二人で進行をやっていて、「ひょうきん族」でいつも観ているさんまが生で観られるというので、それが非常に楽しみだった。
それで、事前の注意事項もそっちのけで、わたしは終始首を斜めにひねってステージの方を眺めながら、明石家さんまの司会ぶりをつぶさに観察した。

録画番組と違ってカットも編集もない生の喋りっぷりが観察できるのは非常に興味深かった。

結論から言うと、明石家さんまの生の「しゃべくり」は、当時はさんまも若かったけれど、十分以上にすごかった。(と、当時の自分は感心したに違いない)
女子アナとの絡みで時折繰り出すアドリブとかも面白くて、「やっぱりさんまはおもろいなあ」と当時のわたしは思った。

それでイベントが終わって、出演歌手もさんまも司会者もみんな帰っていって、我々バイトは雑用係として会場の撤収作業に入った。
それでスピーカーコードをくるくる巻いたり会場の掃除をしたりして、ふと床をみるとA4の書類が落ちていて、拾ってみると音楽祭の台本だった。
それで掃除もほったらかして台本をめくってみると、さんまと女子アナの「セリフ」が事細かに全部書いてある。
例のアドリブもしっかり台本に書いてあったので、あれは実は「アドリブっぽいセリフ」だったことが判明した。

それで思ったのであるが、明石家さんまは音楽祭のけっこう直前にワンボックスのハイエースかなんかで会場に乗り付けて「おはうぃーす」とか言いながら眠そうにやって来たのであるが、会場に来てから開演までの短時間で台本を読んで女子アナと打ち合わせして、それで淀みなくあのナチュラルな感じの面白いMCをやったのだろうか。

なんかいろんな意味ですげえなあと思ったのをちょっと思い出したのだが、あまり昔話ばかりするのは年寄りくさくていかんなあ、とやや反省したりしている。
posted by ヤス at 11:17| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年01月12日

日本人の所得について

最近の日本の経済はなかなかの好景気であると言われる。
各種の経済指標、景気動向指数とか好調な企業利益が好景気を示している。
しかし一方で実質賃金は伸び悩み、個人消費はあいかわらず低迷したままだ。

今、巷は空前の人手不足で、あっちでもこっちでも人が足らないという話を聞く。
それで最低賃金が最近少し上がったことと合わせて、アルバイトの時給相場もけっこう上がっているようだ。

巷ではそういうこともあるけれど、やっぱり給料は上がらない。
これについてはいろんな専門家がいろんな解説をしているが、わたし的にいちばん腑に落ちるのは新興国の影響である。
特に製造業において、日本で作るような製品は、同等のものが中国とか東南アジアとかで製造可能になっている。
また、こられの新興工業国は人口も所得水準も急激に延びていて、製造拠点だけでなく消費市場としても有望なので、日本の製造業がこれらの地域に工場を移していくというのは少々の円安くらいでは止められないだろう。

今の時代はアジアとか、またこれからはアフリカ諸国なんかも経済成長を始めて、これらの国の企業はとりあえず欧米や日本にモノを売りたいと考えるだろう。
そうすると、これら外国で作っているのと同じものを日本国内で作るのでは、人件費を比べると明らかに日本の企業が不利である。
日本の企業の給料は、これら諸外国の労働者の給料と競争していて、たぶん今後10年20年かけて先進国と新興国の労働者の給料は格差が縮まって来る。

日本人の給料にだけ注目して述べるなら、今後当分日本人の給料は上がらないことになる。
それどころか下手をすると徐々に減っていくこともありうるだろう。

もうひとつ懸念材料としてあるのは、「サラリーマンシステム」の今後である。
サラリーマン、つまり会社と雇用契約を結び給料をもらって労働力を提供するやり方というのは、きわめて20世紀的なシステムだと思う。
それは「規模の経済」を生かして製品やサービスを大量生産するのに最適のシステムだったと思うのだが、今後の日本ではサラリーマンシステムがだんだん縮小していくような気がする。

まず低賃金のアルバイトで出来るような単純労働はロボットやAIで機械化される。
もう少し高度な正社員の仕事も省力化が進むだろう。
将来の日本でサラリーマンがいきなり消滅することはないと思うが、だんだんと雇用されて労働する人が減ってきて労働者がフリーランス化していく、というのはあると思う。
それはそうしないと企業の方が生き残っていけないからでもある。

それやこれやで日本人の所得、特に低所得者層の所得はさらにいっそう減少圧力がかかるのではないか。
そうなると「ベーシックインカム」の導入が、リアルな政治テーマとして浮上してくるかもしれない。
posted by ヤス at 11:15| Comment(2) | 徒然なるままに