2017年12月31日

将棋界に見るAIの役割

昨日も将棋のことをダラダラ書いたのだけれど、今年の将棋界は藤井四段やひふみん、羽生永世七冠誕生など話題に事欠かなかった。
それで、将棋界ではもう一つの話題としてAIの話がある。
AIの将棋ソフトはこの数年でメキメキ力を付けてきて、最近ではプロ棋士が勝つのも容易ではないくらいの実力である。
それでも何局か指すうちにまだ時々人間が勝つこともある。
だがもう後5年もしないうちに最強プロ棋士といえどもAIに完全に敵わなくなることは間違いない。

将棋のテレビ中継なんかでは昔から、「聞き手」と「解説者」が大盤を背に一手ごとに指し手解説をするのが恒例である。
最近は人間による解説に加えて「将棋ソフトによる解析」も定番になっているようだ。
プロ棋士の解説者が先手後手のどちらが有利なのか形勢判断に迷うような場面でも、将棋ソフトは明確に数字で形勢を表す。
ソフトは次に指すべき「最善手」も予想してくれて、時々解説者が「コンピューターは、次は何を指すと予想しているでしょうか」とか言いながらソフトの予想手を確認したりする。
それがたまにプロ棋士の予想を大きくハズすものであったりして、それでまた盛り上がったりする。

将棋のよく分からないわたしがそういう風景を観ていて思うのは、やはりAIは現状でもかなりプロ棋士レベルを超えているということと、AIとプロ棋士では指し手の考え方が根本的に何か違うということである。
プロ棋士の考えには、先を読み切れていない恐怖とか、過去の対局時のトラウマ、あるいは持ち時間の残りによる焦りなど、AIには無縁の要素がたくさん入っている。
また引退した加藤一二三九段などはよくやったようだが、対局が始まる前に威圧的なことをして相手にプレッシャーをかけたり、対局中に相手の集中力を削ぐようなことをしたりの「盤外戦術」を昔の棋士はよくやったらしい。

度を越した盤外戦術は興ざめだが、しかし盤上以外での適度の心理戦は観ていて面白い。
つまり将棋の面白さは「AI的」な盤上の純粋理論的な部分以外の人間的要素が多くを占めている。
だからこの先人間はAIに絶対に敵わなくなることをみんな知っているけれど、興行としての将棋がこれからも面白さを維持できることは間違いない。

以上、AIが強くなって将棋が廃れるということはないのであって、むしろ人間の対局をより面白く観るためにAIの役割は重要であるような気がする。
そしてAIが将棋界にもたらしたもう一つ別の大きな影響は、若手のレベルアップではないかと思う。
最近は将棋ソフトも活用して新手の開発や昔指されていた手の再構築なども進んでいて、対局経験の少ない若手でも経験を補ってあまりあるほどの「研究環境」が現在はある。

そして全体にプロ棋士のレベルが上がり、みんなAI的になり隙がなくなっている。
そうなるとますます将棋の「人間的要素」、AIが絶対に指さない非合理な一手が勝負を左右するのではないか、などと想像するのである。

そのような将棋界を見ていると、これは未来のAIと人間社会の関係を暗示しているようで非常に興味深いのである。
posted by ヤス at 11:32| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年12月30日

深浦九段・藤井四段戦について

一昨日、将棋の藤井聡太四段がオヤジギャクでおなじみの豊川七段を破って今年最後の対局を白星で飾った。
先週、藤井四段はA級棋士の深浦康市九段と叡王戦の本戦で対局して破れていただけに、今年最後が白星でわたしもほっとしたのである。

この、深浦九段との一戦はかなりの激闘であった。
といってもわたしは、将棋は素人なので戦いの内容まではよく分からない。
しかし対局中継を観ていた感じでは、途中までは藤井四段が優勢を保ち、そのまま得意の終盤に持ち込むようにも思われた。

しかしそこは百戦錬磨の深浦九段、不利な大勢から藤井四段を幻惑させるような手を次々に繰り出して激しく揺さぶりをかける。
対する藤井四段は、そういう揺さぶりの影響もあったか、持ち時間を先に使い果たして逆に追い込まれる形になってしまった。(たぶんそういうことだと思う)

藤井四段は1分将棋で焦ったか、次第に手を悪くして最後の方で深浦九段に勝負をひっくり返されて手痛い敗戦を喫してしまう。
その対局の最後の10分くらい、藤井四段は力なく目線を空中に泳がせたり、あれこれと手を振り返りながらがっくり首をうなだれて、そのまま傍らの脇息に突っ伏したり、その悔しがるようすを見ると彼はやっぱり15歳なのであるなあと感じてなんだかほっこりした。

わたしは、将棋はよく分からないけれど、たぶんプロ棋士の実力というのは新人棋士でもタイトルホルダーでも、そんなに大きな差はないのだろうと推測する。
強い棋士というのは、並の棋士よりも0.2%とか0.5%くらいだけ実力が上回っているくらいで、その僅かな差の中身が、例えば今回の深浦九段の脅威の粘りなのではないかと思った。

深浦九段は、詰将棋の天才で終盤に絶対的な強みを持つ藤井四段に対し、押したり引いたり揺さぶったりして持ち時間を消費させ、長い終盤にもつれ込ませて166手数というそこそこの長手数でねじり切るようにして勝った。
そのあたりは人間対人間の勝負の醍醐味であったと思う。

しかし藤井四段にとっては、この敗戦はかなりの収穫になったのではないかということも思うのである。
彼の持ち味は中学生とは思えない老練な差し回しにあり、これまで不利な局面で驚きの一手をテコに勝負をひっくり返したこともあったわけであるが、今回の敗戦で、今まで未体験だった「深浦式の粘り」を身をもって体験したわけで、来年以降の対局で今回の学習成果を見せてくれるのではないかと思うと今から楽しみであるなあと思った。
posted by ヤス at 14:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年12月29日

暦の存在感

さて2017年も残すところあと2日と少々。
ついこの間正月が来たと思っていたらもう次の正月が来る。
しかしいうまでもなく12月31日と1月1日の境目に特別な何かがあるはずもない。
地球は公転周期365.25日で太陽の周りを回っており、そのおよそ一周ごとの区切りをたまたま「一年」のスタートにしているだけの話である。

地球上では一年周期で季節の変化があるので一年1サイクルでタイムスケジュールを管理するのは、農業や狩猟を行う上でも都合が良い。
しかし一年の始まりがなぜ1月1日なのかについては疑問が残る。
どうせなら冬至とか夏至、春分、秋分などのタイミングを区切りにするのが自然なように感じられる。

これについてちょっと調べたけれど、その事情は色々複雑ですぐに理解できそうにない。

現代の暦はおおよそ2千年前のローマのカエサルが始めたユリウス暦が土台になっている。
ユリウス暦は基本太陽暦なのだけれど、そこに月を基準とする太陰暦も絡んだりしているからややこしい。
考えてみると当然で、「一年」というのは太陽周期が基準であるし、「一月」は月の周期が
基準である。
その掛け算で現在の暦が決まっているため、「一月」の頭とお尻は、月の周期分、太陽周期から少しだけずれることになる。

そして世界の多くの地域で一年の始まりが「1月」、つまり北半球では冬真っ盛りの時期になったのは、これはやはり冬至のタイミングに合わせたということらしい。
冬至を境に、それまで短くなっていた「昼」が反転して長くなる、その境目の時期を一年の区切りにしたらしい。


今現代人が普通に使っている暦が普及するもっとずっと昔は、世界各地にいろんな暦があったはずである。
昔の人類は暦を使って一年をスケジュール管理することで、春夏秋冬それぞれの時期における食料確保の計画を立てたのだろうと思う。
農業の種まきの時期をみきわめたり、一年のうちで食料が不足する時期はいつ頃で、そこに備えて食料備蓄をぼちぼち始めようとか、そんなことのためにも暦は不可欠だったはずだ。
暦の管理がいい加減な部族では、食料危機に見舞われて飢え死にする場合もあったと思う。

そういう、命がけで暦を管理していた時代に比べると、現代の「暦の感覚」はもうかなりのんびりとしている。
また現代社会では農林水産業などの従事者比率は極端に低くなっており、特に先進国では国ぐるみ食糧不足で飢餓の危機に瀕することも全くない。
したがって暦の存在感は昔に比べるとはるかに希薄になっているわけだが、しかし年末年始になるといきなり一年の区切りを感じるようになるのはなんなのだろう。

まあ、色々思っているうちに年末は過ぎて年が開け、そしてまたあっという間に次の年末が来る。
少なくともそのことだけは、力強く予言できる。
posted by ヤス at 16:13| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月28日

フェイクニュースは楽しめるか

さっきちらっと見たのだが、Facebookがこれまで実施して来た「フェイクニュース警告マーク」を止めることのニュースが流れていた。
この警告マークは昨年末から始まったものらしい。
このマークがこれまでどのような基準で付けられていたのか、そしてどういう理由で止めることになったのかはよく分からない。

ただし、「フェイクニュースを識別する」という人類の宿題は、最初からかなり無理のあるテーマであったことは容易に想像できる。

最近ではTwitterのアカウント凍結が問題になっていた。
Twitterの方針として差別的であったり攻撃的であったりするようなアカウントは凍結することになっていて、実際にいくつものアカウントが凍結されていたようである。
しかし現実には、どちらかというと「被害者側」がツイートした字句に検閲ロボットのチェックが引っ掛かることがあったり、あるいは悪意を持った「加害者側」が凍結したいアカウントをTwitter社に大量に「告発」報告してその結果凍結に追い込む、みたいなこともあるというもっぱらの噂である。

この場合、SNS管理者側は「問題投稿」の検出をロボットによる自動検出やユーザーからの報告に依存していて、一方でフェイクニュースを流す側は相当程度に意図や意思に基づいてやっているように見える。
もちろん管理者側は毎日何億も流れてくる投稿をいちいち人海戦術で全てチェックするのは不可能だろう。

とにかくも現時点でフェイクニュースを適切に検出し、ストップをかけるような仕組みを構築することはかなり困難、というか不可能であるように思われる。

今後の対策としては、当然ながら新手の人工知能を使ってより高度なチェックをかけていくことが考えられるだろう。
しかしこの場合も一体何が「フェイク」であるのかの定義づけが難しい。

世の中に流れているニュースで完璧な真実を伝えるものはあるのだろうか。
メディアが流すニュースにせよ、SNSにおける個人の投稿であっても、それを記述し投稿する個人の思想的バックボーンとか観察の角度とか性格とかで一つの事実が色々と違って見えるのは自明である。

世の中に完全な真実を伝えるニュースや投稿は存在しない。
どのニュースも少し事実と違っていたり、記述者の意図やら悪意やらが入っていたりする。
それは新聞やNHKのニュースでも個人の投稿でも全部そうである。

もし今後、フェイクニュースを警戒するあまり世の中のニュースを全部人工知能で人間の意図を排除したかたちで伝えると想像した場合どうなるか。
その「報道AI」は間違えようのない事実だけを選んでニュースを配信し、不確実な事実や解釈に議論の余地のある事実は伝えてくれない。
そうすると世の中のニュースは無機的で無味乾燥で全然面白くなくなる気がする。

ニュースというのは、ある程度伝え手の意図や悪意や誤解などが混ざって伝わるからこそ面白いのではないか。
そういう意味では悪意のあるフェイクニュースであっても、その悪意の存在に気がつくことができて、悪意の出発点を色々と想像することができれば、その方が無味乾燥な事実だけの世界より面白そうだ。

だから人類はあまりフェイクニュースにビクつかないで、これをある種の娯楽と捉えて楽しむようなことも必要ではないかと思ったりする。
まあ、そういうのはあまりに呑気な意見かもしれないという自覚もあるのだけれど。
posted by ヤス at 10:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年12月27日

猫、ついに犬を逆転

数日前のニュースで、犬の飼育頭数を猫の飼育頭数が上回った、というのがあった。
この数年の傾向で犬の頭数は漸減傾向にあり、一方の猫は横ばいで逆転は時間の問題、というような報道を2~3年前に目撃した記憶があるのだが、それからするとやっと逆転したのか、と思わないでもない。
この調査をしたのは一般社団法人ペットフード協会というところで、直近のデータで猫が953万匹(前年比2.3%増)に対し、犬は892万匹(同4.7%減)だったらしい。

なんでも人間の方で高齢者世帯が増え、散歩やらなんやら世話がたいへんな犬の飼育が減っているという。
その点猫は散歩もいらない。
また猫の方が犬よりも概して身体が小さいので餌やりの量も少なくて済むのではないか。
人間様の方がだんだんくたびれてきて、ペットとしてより飼育の楽な猫が好まれているようである。

あと、これはどの報道にも出ていない単なるわたしの個人的妄想であるが、猫の自由な姿、飼い主にこびることなく寝たい時に眠り遊びたい時に遊ぶ、社会的規律に縛られあくまで飼い主に従順な犬とは対照的なその姿に人間がひそかにあこがれている、そんなところもあるかもしれない。

ところで動物分類を調べてみると、猫はネコ目ネコ亜目ネコ科に属する。
一方の犬はネコ目イヌ亜目イヌ科。
どちらもネコ目、イヌもネコ目というのはちょっと驚きである。
この「ネコ目」は、少し前までは「食肉目」というくくりであったらしい。
しかし食肉目では一般にわかりにくいという理由でネコ目に変えられたらしい。

まあいずれにせよネコもイヌも肉食である、というのが同じネコ目、というか食肉目に分類されていることの所以である。
しかしネコ科はほとんど純粋な肉食であるのにイヌ科は肉を食べなくても生きていけるのだという。

そういえば大昔、ばあちゃん家に飼われていた犬がご飯に味噌汁をぶっかけたような「ネコマンマ」をがつがつ食っていたのを見たような気がする。

ところで最近はパンダの赤ちゃんが話題になっているらしいけれど、ジャイアントパンダというのはネコ目(食肉目)イヌ亜目クマ科に分類されるらしい。
「大熊猫」だからネコなのだろうと高をくくっていたのだが、どうやら雑食性の強いパンダはネコよりはイヌ寄りということで処理されている。
雑食ということではタヌキも果物なんかを好んで食う。
そうやって見るとタヌキとパンダは少し似ている。

いずれにせよネコ科は肉しか食わないということは、冒頭に書いたエサ代も必ずしも猫が安いとも言いきれないかもしれない。

そうなるとますます、イヌ科のような社会的拘束からも自由な猫ちゃんたちの存在感が現代人の琴線にどこかしら触れたのではないか。
ということで、やはり猫を飼う人間の心理と犬を飼う心理の間には、決定的な違いがあるように思えてしょうがないが実際のところどうなのだろう。
posted by ヤス at 10:00| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月26日

戦国期について

司馬遼太郎の小説に「項羽と劉邦」というのがあって、文庫版で上・中・下の三冊がうちの本棚のどこかに並んでいるはずである。
わたしは「項羽と劉邦」が好きでこれまでにもたびたび読み返してきたのだが、ちょっと前にKindle版を買ってiPhoneに入れてある。
それで好きな時に開いて読むことができるようになった。
今も何気にKindleアプリを開いて思い出したように読んでいて、今上巻が終わったところ。

「項羽と劉邦」は、秦の始皇帝即位後の中国大陸で初の統一帝国があっけなく崩壊する中で二人の英雄が起き上がり、やがて前後合わせて400年余り続いた漢帝国が成立するまでの話である。
秦の始皇帝の直前の時代はいわゆる戦国時代で「戦国の七雄」の各国がしのぎを削っていた。
さらにその前は春秋時代と呼ばれて、諸子百家と呼ばれる思想家群が群がり起き、孔子などが活躍した時代。

日本で戦国時代というと、これも多くが司馬遼太郎作品の舞台になっているけれど16世紀頃の室町時代末期がある。
「項羽と劉邦」には、所々に中国古代の戦国時代の解説的なことが書かれている。
それらを読んでいると、戦国時代は戦乱続きで庶民にとっては受難続きの悪い時代であったかというとどうもそうでもない。
戦国期というのは、それまでの時代より農業生産力が上がり、技術革新が行われて世の中が豊かになる、その時代の変節点として発生する、ということを司馬遼太郎は言いたかったようである。
歴史的な観点から見ると戦乱のない世の中というのは、どちらかというと社会が停滞して支配層と奴隷的存在の庶民の関係が固定化している状態である。
それが、例えば鉄製のクワが普及して農業生産が盛んになるとかのきっかけを得ると、農奴が独立して自作農になる。
自作農が奴隷でなくなるというのは、つまり自分の頭で考えるようになるということである。
あるいは技術普及のアンバランスでそれまでの社会秩序が崩れる。
それで今までずっと農奴だった人間の中の才覚のある人が、自我に目覚めて新興勢力として旧秩序を破壊する。

戦国期の大雑把な構造は、日本の16世紀もほぼこれが当てはまる。
わたしは、西欧史はよく知らないが世界史は各地でこのような停滞期と革命期を繰り返してきたのであろう。

さて、問題は今の時代は一体戦国期なのか停滞期なのかということだ。
少し引きで見ると、18世紀の産業革命から今日に至るまで科学技術の進歩は切れ目なく続いており、この200年ほど社会は全く停滞する暇もなく進んでいるように思われる。
また20世紀は間違いなく戦争の世紀で、その点で文字通りの戦国期だったようにも思える。
しかし21世紀は、大国同士は戦争したくても気軽にできない状況にあり、技術革新で豊かになるはずの庶民はどちらかというと現状再び搾取される側に回ったようにも見える。

しかしまた視点を少し変えると、アジアやあるいはアフリカなどのかつて奴隷的扱いを受けていた地域がぐんと豊かになりつつあるということでは、歴史のセオリーはまだ生きているようにも思える。

そういうことを考えながら「項羽と劉邦」を読んでいるといろいろと面白い。
posted by ヤス at 10:22| Comment(4) | 徒然なるままに

2017年12月25日

やる気タイマー

少し前に、電器屋のジョーシンでキッチンタイマーを買った。
税込702円だったと思う。
このところ買い物の話ばかり書いている気がするが、まあ気にしない。
このキッチンタイマーがうちでは3つ目のキッチンタイマーである。
キッチンタイマーというのは、使いようによっては非常に便利であると思う。

キッチンタイマーの主な機能としては、タイマー機能とストップウォッチ機能がある。
この間買ったのには時計機能もついていたが、これはとりあえず使わないから関係ない。
キッチンタイマー本来の使い方として、料理の際に茹でや揚げの時間を計るということがある。
わたしもカップヌードルを食うときや、古くなってタイマーがバカになっている我が家の電子レンジで「チン」する時にキッチンタイマーを使うが便利だ。

この点現在のキッチンタイマーは良く出来ていて、背面にマグネットが付いているのでこれを冷蔵庫にくっつけて、大きく押しやすいボタンを一回押すだけでストップウォッチが起動する。
本当に使用上のストレスが無く、もはやキッチンタイマーの無い生活は想像出来ない。

それで少し以前から、このタイマーを台所以外でも活用している。
具体的には、パソコンの前に座ってさあこれから仕事をしようか、という時にタイマーを起動する。
わたしは生来のモノグサなので、ほぼ毎回仕事に没入するのが出来なくて苦労する。
机に向かってパソコンのスイッチを入れたはいいけれど、なんだか色々と面倒臭くてそのままYouTubeで藤井聡太四段の将棋対局動画を見入ったりすることも多い。

そういう時はタイマーを起動するに限る。

30分とか40分とか、適当な時間をセットしてキッチンタイマーのスタートボタンをとりあえず押す。
すると不思議なことに、背後から見えない力で押されるように仕事を始めてしまう。

「やる気」というのは、「そのこと」をスタートすることで初めて生じるもの、というのを以前に聞いたことがある。
「そのこと」をいやいやながらも5分、10分と続けている間に、だんだんと「やる気」が盛り上がってくるのである。
仕事のやる気を出すためには、まずスタートすることが最重要であって、やる気があるから仕事が捗るのではなく、仕事が捗るからやる気が出るのだということに、長いこと生きてきてようやく最近気がついたのである。
ということについては以前にも書いたかもしれない。

それで、前までは冷蔵庫に貼り付けてあるキッチンタイマーを、仕事をするたびにパソコン机のところまで移動して使っていたのだが、今回とうとう仕事専用のキッチタイマーを702円で新調したというわけである。

こうなるともうそれは「キッチンタイマー」でなく、言ってみれば「仕事タイマー」である。
また、最近はタイマーを使って入浴にかかる時間とか歯磨きにかかる時間とか、あらゆる「生活作業」にかかる時間を測定し作業時間の短縮に務めている。
そうするとこれは「仕事タイマー」ですらなく、もはやただの「タイマー」。

子供の頃観たウルトラマンは3分間の「カラータイマー」を使って怪獣と戦っていたけれど、今ならその気持ちが分かるような気がする。(ちょっとちがうかもしれない)
posted by ヤス at 11:01| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月24日

冬のシュラフ

さて、冬の野宿対策の話である。
冬の夜は寒い。
気象庁のデータによると岡山市の1月下旬の最低気温の平年値は0.6℃くらいになっている。
データを見るとこの時期が1年でいちばん寒い時期のようである。
しかし今年の12月は、現状で最低気温がマイナスになることもしばしばで非常に寒い。
あらためて確認してみると、今年の冬は「寒冬」のように思われる。

話が少しだけ逸れた。
寒い冬の野宿に欠かせない装備がシュラフ、寝袋である。
ここだけの話、日常わたしは夜寝る時に、普通の布団ではなくシュラフで寝る。
夏ならば時々はシュラフも布団もなしに、ただそこに寝る。
しかし冬は寒いのでシュラフだ。
シュラフのいいところは布団より圧倒的にコンパクトで、しかも袋状になっているので熱を逃がしにくく暖かい。
それで最近は安物の春夏用の薄いシュラフで寝ており、寒くなったらそれを2〜3段重ねで寝る。
室内であれば通常はそれで十分に眠れる。

しかし屋外の極寒の中ではそうもいかない。
気温0℃とかマイナスとかの屋外では、それなりのごついシュラフが必要になるであろう。
そこで今回、久しぶりにシュラフを新調した。
Amazonで9千円ほどの中華製ダウンシュラフ。
羽毛量1500グラム、総重量2100グラムとある。

モンベルやナンガなどの一流メーカー製のシュラフの場合、羽毛量1000グラムで氷点下の-25℃対応とかいうのもある。
また羽毛量1000グラムくらいの中華製シュラフは3000円くらいから売られている。
一流メーカー製のシュラフは、5万円〜10万円以上するようなものもある。
当然そんな高いやつは買えない。
だからまずは中華シュラフ一択。
そして羽毛量こそ正義、の考え方に立脚し、見た限りいちばん量の多いやつでなんとか価格的に手が届くのを選んでみた。

おそらくは中国から直送されたのであろう、2重のビニールで簡易的にパックされただけの「米俵」状の物体がやがて到着した。
早速、我が家の台所に野宿マットを敷き、窓を開け放ち、ひとまず届いたシュラフのみにくるまって寝てみたのである。

当初12℃程度を指し示していた温度計は間もなく6℃ほどに低下。
そのままとりあえず眠りについたのであるが、朝方寒さで眼が覚めた。
さすがにTシャツと短パンでは無理っぽい。
どうやら溜まる熱より逃げる熱の方が勝っていたようで、どんどんシュラフ内温度が下がっていく。

そこで次の日は新しいシュラフにフリースブランケットと20年くらい昔に買ったシュラフカバーを合わせて、かつウィンドブレーカーを着込んで寝てみた。
すると今度は熱の溜まりが順調過ぎて朝起きた時やや暑いくらい。
ちなみに朝の室温は4℃、室外は0℃程度。

これなら少し着込んで寝れば氷点下2〜3℃くらいまではいけそうな気がする。
ということで、冬の野宿に最近ちょっと自信が持てている、今日この頃である。
posted by ヤス at 13:53| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月23日

トランギア・メスティン

冬と夏はどちらがいいか。
この場合の「いい」は、「我慢しやすい」ということの意味になる。
結論から先に言うと、どうも冬の方がいいと思う。
冬の寒さはしのぎやすく、夏の暑さはしのぎ難いからだ。

話は少し飛ぶが、最近、スェーデンはトランギア社の「メスティン」と呼ばれる型のいわゆる「飯ごう」を買った。
好日山荘で1,728円だった。
トランギアとかメスティンとか、イカツイ片仮名が並ぶとものすごく大袈裟な感じがするが、なんのことはない、薄いアルミ板をプレスで打ち抜いて作っただけの四角い野外用調理具兼食器である。
打ち抜かれたアルミ板のエッジが、処理が十分でないのでかなりバリが残っている。
本来は紙ヤスリでひとしきりこすって滑らかにした方がいいのだろうが、わたしの場合面倒臭いので台所に転がっていた金属タワシでエッジを何度かこすったら幾分か良い感じになった。

メスティンには一応「取っ手」も付属していて、これも針金の太いような簡単なのを側面に付けられた留口にパチンとはめるだけ。

なぜこのスェーデン製のアルミ飯ごうを買ったのか。
それは野外でご飯を炊いて食うためである。
大昔のある時期、わたしはテントで野宿するのが趣味だったことがあった。
最近、そのテント野宿のマイブームが自分的にまた復活して来ているのである。
思い出して見ると昔の野宿は、春夏秋のもっぱら季節のいい時期のみに行っていた。
しかし最近は、YouTube動画などを見る限り、世の中的に「冬キャンプ」が密かなブームであるらしい。
なるほど冬の時期はわたしの嫌いな虫がいない。
かつ、夏キャンプのように猛暑で寝苦しいということもない。
ただその寒さを克服さえすれば、寒ささえなんとかなれば案外と快適な野宿が可能であるような気がする。

夏のように暑くないので多少は火を使って簡単な料理をしてみよう、という気にもなるかもしれない。
いやむしろ、寒さを克服するためにどうしても火を使いたい、と思うに違いない。
そうなったらやっぱりお米も炊かないといけない。

ということで、飯ごうである。
飯ごうはそもそも、19世紀末にアルミの普及とともにヨーロッパの軍隊で使われるようになったものらしい。
だから元々炊飯用でないのはもちろんであるが、明治期に日本に導入されると同時にもっぱら炊飯用食器として認識されるようになったというのはなんだか面白い。
アルミは熱伝導率が高く、野外での焚き火などムラっ気のある炎でもまんべんなく火が通って具合が良いらしい。

ということで寒い冬の野宿を乗り切るための強力なアイテムを手に入れて、寒い冬が非常に愛おしく思える。

ただ、炊きたてご飯を食うだけでは冬は乗り切れない。
あと、氷点下でも快適に睡眠するためのノウハウが欠かせない。
しかしその点も(たぶん)抜かりはないのだ。
こうして、前人未到の冬野宿への挑戦は続くのだった。
posted by ヤス at 11:18| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月22日

考えるために必要なこと

「物が見えている」とはいったいどういう状態だろう。
例えば今わたしはパソコンのキーボードを叩きながら視線を前方に向けている。
それで視界に、なんとなく前に置かれた机や椅子が入ってきているが、それは「視界に入っている」のであってちゃんと「見ている」わけではない。
この状態では後で訊かれた時に椅子の色や形を正確に思い出すのは難しい。
それでやっと椅子の背もたれや、黒茶色に塗装されたスチールの骨組などを仔細に観察して、ああこの椅子はこんな色や形をしていたのかということに初めて気がつく。

それでよくよく見てみると、椅子の背もたれに白黒のゼブラ模様が入っているのに今初めて気がついた。

たぶん普通の人間がぼんやりと目を開けている状態というのは、見えているようで見えていない状態。
目を通して入ってきた視覚情報が、脳内でほとんど分析処理がされないで、まるで印象派のモネの絵のようにうすぼんやりと知覚されている状態。
そこに画面の右下隅の辺りから、黄色地に黒い縞模様の大型動物が飛び込んできたら、「あ、トラが襲って来た」と気がついて、トラの位置や速度、目の血走った感じなどを視覚情報が処理し始める。

平常時には視覚情報処理は極めて低いレベルの省エネ状態で走っていて、何か突発事件が起きるとにわかに視覚中枢が活性化して物を見始めるのであろう。
脳みそは極度の面倒くさがりや、怠け者であるので、普通に暮らしている人間の視覚中枢の稼働率は日常かなり低いものと想像される。

しかしある種の特殊技能を持った人間、例えば腕利きの画家やベテランのカメラマンや、あるいは辣腕の刑事とか、そういう人は日頃から視覚中枢の稼働レベルが一般人よりもいくらか高くて、目の前の風景に対する認識度合いが日常的に深くなっているのではなかろうか。
ただその分視覚中枢がせわしなく動いていて、脳みそが余計に疲れることがあるのかもしれない。

このような能力は、おそらくトレーニングによってある程度高めることができるだろう。
「物を見る」訓練も日頃から気をつけてやっているとだんだん高まって来て、前までは500mも続けて走れなかった一般人が練習を重ねてマラソン完走するように、視覚中枢を動かすトレーニングによってあまり疲れることもなく「物を見る」ことが続けられるようになる気がする。

あと、これと類似の理屈は「ものを考える」ことにも当てはまるのかもしれないと思う。
数学のような、理屈をひとつずつ積み重ねるタイプの論理的思考は、けっこう疲れる。
だから大抵の人間は、過去の経験や他人からの見聞を参考に、ほとんど論理を重ねずに「考えた」つもりになって結論を出すことが多い気がする。

だがこれも、日頃から考える訓練を重ねることによって、どんな時でもゼロから理屈を積み上げることが出来るようになるのだと思う。

より物を見るため、ものを考える第一歩として、自分はほとんど物を見ていない、ものを考えていない、その事実に気がつくことが必要であるな、と思った。
posted by ヤス at 09:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月21日

物が見えていることについて

先日あるデザイナーが書いた本を読んでいて思ったこと。

人間は普段まわりの景色を見ているようで見ていない。
これは脳みその視覚情報処理を相当に省略しないと処理回路が容量オーバーになってしてしまうからだ。
逆に目の前の視覚情報に深い注意を向けて、見えているものを細かくなぞるような時には、注意している部分以外は目に入っていない状態になる。

で、最近は大昔に比べると誰でも簡単に写真を撮るようになった。

わたしも写真がこんなにポピュラーになる以前、フィルムの時代から写真(というかカメラ)が好きでちょいちょい撮っていたのだが、最近は「私は写真好きです」というのもはばかられるほど写真趣味から疎遠になっている。
しかしよく考えてみると、そんな写真趣味から疎遠になったわたしも日に何度かはiPhoneのカメラを起動して何かを写している。
それは時に仕事関係の書類をメモ代わりに撮ったり、インスタやTwitterにアップするために「マクドナルド」を撮ったりいろいろである。

ひょっとしたら写真趣味時代よりも撮影頻度は多いんじゃなかろうか、というくらいiPhone時代の今はちょいちょい写真を撮っている。
しかし気分としては「写真を撮っている」感じがあまりしない。
なぜだろうか。

その本を読みながらふと思ったのであるが、それは被写体に向けられる「注意力」の差ではないか、ということである。
まがりなりにもカメラカメラした一眼レフを構えてシャッターを押す時、それなりにファインダーの四隅に至るまで注意を向け、被写体の形や色、背景との位置関係、光の具合などをよく観察している。
たぶん写真の上手な人は、構図の取り方が上手いとか芸術的センスが優れているとかいうことの以前に、目の前の風景がよく見えている人のことを言うのではないかと思う。

プロカメラマンになるような人は、脳細胞の視覚情報処理回路が研ぎ澄まされていて、レンズを向けた一瞬でいろんな観察を済ませることが出来るのではなかろうか。

それで我々一般人がiPhoneを構える時であるが、この場合は手練のプロカメラマンと違って被写体に向けられる注意力はかなりお気軽で散漫なものであろう。
つまり一般人が日常的に携帯で何かを撮る時は、被写体をあまり見ずに撮っているような気がする。
だから写真を撮っている気分が薄いし、それで脳みそが疲れることもない。

考えてみると特にフィルム時代の写真撮影は、1枚を撮って現像・プリントするまでのコストまで考えると、被写体に向けられる注意力がデジタル時代よりかなり大きかったと思う。

写真が上手い人とか絵が上手な人というのは、たぶんものすごく目の前の物体をつぶさに観察している。
そしてそれは一般人が日常いかに物を見ていないかの裏返しでもある。
同時に、芸術センスがごく普通の人間でも、目の前の物体に誠心誠意集中してシャッターを押せば、それなりに味のある写真が撮れるのではないか、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:53| Comment(4) | 徒然なるままに

2017年12月20日

商品レビュー

わたしはAmazonで買い物をする。
御存知の通りAmazonにはページの下の方に「レビュー」の欄があって、購入客によるその商品の評価が書いてある。
ただ時々明らかに購入していないのに書いている人もいるし、またほんとに買って使っているのだが、実際の使用感とかけ離れた適当なことを書いているような人もいるようである。
またレビューの数が中には300とか400とか、とにかくたくさん書かれている商品もあって、そういう場合はそのレビューの多さだけでなんだか良さげに思えてきたりもする。
ただレビューの数と商品の実際の良さとの間にはそれほど決定的な関連があるわけでもないようだ。

Amazonのレビューは購入する上での参考になるけれど、参考にするためにはレビューの「読み取り方」のスキルがある程度必要のようである。

最近よくあるパターンは、いわゆる中華製品において妙にたどたどしい、いかにも中華風文体のレビューで、これは彼の国の販売業者による涙ぐましい営業努力の痕跡であろう。
しかし最近の中華製品の品質・機能の向上には目覚ましいものがある。
中華製品は、その多くは有名ブランド製品のコピー品であったりするが、そのコピー精度は年々向上しており、その価格的優位を考えると元のブランド製品を買うのをためらわせるに十分な出来栄えであったりする。

そういう中華製品を買う場合、もちろんハズレのケースも多々あるわけで、そのリスクを軽減するのに商品レビューコーナーの読み取りスキルは必須だろうと思う。
前述の販売業者による自作自演レビューは容易に見分けがつくとして、それ以外のレビューをどう読み取るか。
よくあるパターンとして、星5つ4つの高評価レビューに混ざって星1つの酷評がちらほらある場合。
レビュー読み取りスキルの主要部分は、この場合の星1つの酷評レビューの分析である、と考える。
基本的なフィルタリングの方法として、1行程度のごく簡単な酷評レビューは、これはあまり重要ではない。

ためしに酷評している評価者が書いている他商品のレビューをずらっと見てみると、だいたい星1つが並んでいる。
こういうレビュアーは星1つのレビューを書くのが趣味になっているのである。
だからこの手の評価は無視してもかまわない。

反対にどんな商品でも自動的に星5つであげてしまう人も少数ながらいる。
これもほぼ参考にならない。

これらの無視すべきレビューの特徴はとにかく文章が短く抽象的評価になっているので容易に見分けはつく。
そうやって考えると、重視すべきレビューは評価内容が具体的でそこそこの分量で書かれているもの、ということになる。
ただしあまりに長文で投稿されているものも「趣味」で書かれている可能性が高いので注意が必要である。

そういうことをあれこれ考えながら商品レビューを読み解いている。
ただ、結局のところ商品レビューを穴が空くほど眺めたところでその商品の実際の価値はよく分からない。
最終的にはエイヤッで購入ボタンを押すしか無い。
その意味で、我々は決してレビューに依存して買い物をしてはいけない。
あくまでも購入決定者は自分なのである。

レビュー以外にも商品説明や掲載写真やら全体の雰囲気を総合的に読み取って買うしか無い。
ということで買い物よりもむしろレビューの読み取りの方が面白かったりする今日この頃である。
posted by ヤス at 09:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月19日

バッテリー劣化問題

今手元にiPhoneがあるが、これもそろそろ機種変から1年少々経ってバッテリーがくたびれてきた感じがする。
さっきまでバッテリー残量が97%だったと思っていて、それで次にポケットから出した時にいつの間にか89%とかになっているようなケースが散見されるようになった。
これまでのiPhoneがそうだったように、このiPhoneも今後さらにバッテリーがヘタって行ってどんどん粘りがなくなっていくに違いない。

最近はいろんな電子機器がバッテリー駆動で動いている。
そして多くの機器でバッテリーは交換式とか乾電池式とかから内臓固定式になっているような気がする。
まずスマホをはじめとする携帯電話がそうだし、カメラとかパソコンとかオーディオ機器もバッテリー内臓固定式で容易にバッテリーが交換できない構造のものが増えている。
こういう「バッテリー駆動機械」は、その宿命として2〜3年もするとかなりバッテリーがヘタるのだが、ただ電子機器は日進月歩の世界なので、バッテリーを交換するくらいなら機器ごと買い替えた方が気分的にもコスト的にも都合が良いのかもしれない。

そういえば海上自衛隊の潜水艦「そうりゅう型」も、次に進水する艦からリチウムイオンバッテリー駆動になるらしい。
兵器である潜水艦の場合バッテリー劣化による性能低下は重大問題である。
ということは数年ごとのタイミングでバッテリー交換になるのだろうか。

ことほど左様にバッテリーの劣化問題は、身近なところから軍事兵器の領域に至るまで、あらゆる分野でみんなのストレスになりつつある。
現在、既存のリチウムイオンバッテリーに代わる次世代型バッテリーの開発が急ピッチで進んでいるという。
しかし考えようによっては世界各地でみんながバッテリー劣化に悩み始めており、そのストレスに背中を押されるかたちで次世代バッテリーの開発が予想外に早まるかもしれないとも思う。

そうこう言っているさなかの昨日、トヨタが2025年までに「純エンジン車種」をゼロにするニュースが流れた。
この1年くらいの間に、どの自動車メーカーも脱内燃機関とEV化を標榜するようになった。
今のバッテリーの数十倍〜100倍くらいのエネルギー密度を持つような革命的な次世代バッテリーがもしこの世に現れたら、おそらく内燃機関の命脈はストンと絶たれると思う。
場合によっては船舶や飛行機なんかもどんどん電動化していくのではなかろうか。

それが10年後なのか20年後なのか知らないが、その日が来たらエンジン車とEVの2本立てで車種を揃えているメーカーは経営効率がガタ落ちになって危機的状況に陥るだろう。
そして現在のテスラとか中国の新興EVメーカーとかのEV専業企業が圧倒的有利になる時代が来る。

その時にトヨタをはじめとする「エンジン車メーカー」がどのようなアクションを取るのか、なかなか興味深い。

そしてその時代にはスマホのバッテリー劣化問題も解決していて、ストレス要因がひとつ消えるのだと思うと今から待ち遠しいのである。
posted by ヤス at 09:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月18日

馬と鹿の関係

ちょっと以前に奈良に行った時、東大寺の近くとか奈良公園の辺りに相変わらず鹿がわんさかと居て我が物顔で道を歩いていた。
これはわたしだけかもしれないが、鹿を見ると頭の中でいちいち確認することがある。
それは「鹿は馬の仲間ではなくどちらかというと牛寄りの動物なのだ」ということである。
鹿はサラブレッドなんかに比べると胴体がややずんぐりしていて脚も短い。
しかしそのスタイルは、ホルスタインなどの牛に比べるとずいぶんスマートである、と言える。

そのスマートさから考えると、おそらくは進化論的に牛よりも馬に近い種類に違いないと思ってしまう。
しかし調べてみると鹿は「鯨偶蹄目」の中に入る。
一方の馬は「奇蹄目(またはウマ目)」である。
奇蹄目の動物には、ウマ科の他にサイ科、バク科などがあるらしい。
ということで馬と鹿の関係よりも、馬とサイ、馬とバクの血縁の方がより濃い。
まったく意外である。

動物は見かけによらないのである。
鹿が馬よりも牛に近いことの証拠としては、鹿の胃袋は四つあって反芻消化をすることなどがある。
そう言えばニホンジカとかの小型の鹿ではなくて、トナカイとかヘラジカなどの大型の鹿は、じっくり観察すると首のあたりのたるみ具合とかなんとなくでっぷりとした体型とか、牛のように見えなくもない。

馬と鹿の動物学分類のことを検索していて気がついたが、「鯨偶蹄目」というのはひと昔前まで使われていた「偶蹄目」に「鯨」の字が頭にくっついている。
これは最近のDNA的な進化研究で、鯨が意外にもある種の陸上動物と近縁であることが判明したからである。
鯨の進化系統樹的な姉妹種はカバである、というのが最近の研究で分かったらしく、ほとんど水の中で生活し、体毛がなく、気管支の独特の構造など、共通点も多い。

そう思うと、大きな口を開けたカバの姿がなんとなくクジラのように見えるような気がしてきた。
それでわたし的には、カバが水中生活に適応して、脚がヒレに変化したりしてクジラになったのだろうと想像したのであるが、ことはそう簡単ではないようだ。

5000万年前くらいまではクジラとカバの分岐前の共通祖先がいて、それがある時二手に別れて一方はだんだんとクジラになり、もう一つがだんだんとカバになったらしい。
5000万年前の共通祖先はなんとなく犬の出来損ないのような形をしていて、これが将来クジラやカバに進化するとはとても想像できない。

ところでクジラと同じ水棲哺乳類であるアザラシやアシカは、彼らもそれぞれ独自の系統を辿って進化したのであるらしい。
アザラシはイタチとの共通祖先からある時期に分岐し、アシカはクマとの共通祖先から分岐したということである。
そう言われるとアザラシやアシカの顔つきの違いが少し理解できるような気がしてきた。
ということで、動物の進化、生物学的な親戚関係というのは本当に見かけによらないのである。
posted by ヤス at 10:23| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月17日

断食明け

時々、人間は空腹の方が集中力が増す、という論調に出くわすことがある。
太古の昔、狩猟採集生活を行なっていた時代の名残りで、腹が減っている時こそ狩りに対するモチベーションが高まり、自らの命ばかりでなく獲物を心待ちに待っている家族のためにも眼前の動物を仕留めなければならない、その一心から嫌が応にも集中せざるを得ない。
空腹で集中力が増すというのは、そんな人類の歴史を踏まえた上での考えであろう。

ところで、わたしはただ今「プチ断食」の途中にある。
おとといの晩飯を食って以降、現在に至るまで食事らしい食事を摂っていない。
ただし昨日は、朝と晩に一回ずつ豆乳にプロテインを溶かしたのを飲んだ。
昨日の摂取カロリーは約300kcalが二回で計600kcalほど。
それでざっと計算すると、現在まで40時間ほど固形の食糧を胃に入れていない。

さて、なぜプチ断食をしているかということであるが、大した理由はない。
ひとつ、マラソンシーズンに備えて体重を減らしたい、という思いはある。
これまでに体重を減らすには飯を抜くのが一番効果的だったという経験則を得ており、しかし、飯を抜くと人類の身体にあらかじめセットされたホメオスタシス的バランス機能が全開で働いて、猛烈なリバウンドが生じることも分かっている。

だからひょっとしたら今度こそ体重が減るかも、というかすかな期待もあるにはあるのだけれど、ここに来てわざわざ断食にチャレンジするのは、「断食そのもの」への渇望、すなわち、あのやるせない空腹感にもう一度苛まれてみたいという妙な欲望のなせる技、であるような気がする。
一言で言えば「マゾ」である。

しかし完全断食はいかにも体に悪そうなので、流動食のプロテインは適当に摂取することにした。
それで今けっこうお腹が空いている。
また肝心の集中力が増す件であるけれど、これは事前に薄々予想していたのだが、集中出来そうな気が全然しない。
とにかく腹が減って全身から力が抜けて、身体だけでなく頭の方もぼうっとしている。
こういう時は散歩でもして、体脂肪燃焼サイクルのスイッチをオンにすればいいのだろうと思うけれど、もう立ち上がるのもかなり億劫である。

それで今回の断食を通じて発見したのは、いつも飲んでいるコーヒーがものすごく美味く感じるということだ。
安物の豆で淹れたブラックコーヒーの味が、いつも以上にまろやかに芳醇に感じられて少しばかり幸せな気分に浸れる。

ということで今回の断食を通じて確認したことは、空腹で集中力が増すほど世の中は甘くない、しかし空腹時にはコーヒーが妙に美味く感じられること、などであった。
断食は、断食明けこそが肝心である。
これから「M」のグラコロを食うか、明治のアイスを食うか、その辺が迷いどころだなあと思ったりしている。
posted by ヤス at 11:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月16日

靴底の減りについて

わたしはたぶん他の人よりも多く歩く。
昔は折りたたみの自転車も持っていたけれど、今は自転車に乗ると歩くチャンスが減るので乗らない。
距離的に言うと、2km、3kmは完全な徒歩圏内。
出来れば5km、6kmでも歩いて移動したいがこの距離になると徒歩移動時間が1時間を超えてくるので難しいことも多い。

なんでそんなに歩きたいかというと、それほど深い意味は無いのだが、あえて言えば、アイスクリームを食べても太らないようにするため、という程度のことだ。
体重60kgの人間が1km歩いたり走ったりすると、理論上60kcalの熱量が消費される。
片道3km往復6kmの徒歩移動では360kcalの消費。
ほぼアイス1個分のカロリーに該当する。

厳密に言うと徒歩と走りではやはりカロリー消費にかなりの差があるみたいだけれど、まあそこは気持ちの問題である。

ところで、このようにたくさん歩いているとちょっと心配になることがある。
それは靴底の減りである。

昔フルマラソンを初めて走った時、新調したアシックスのシューズを履いたのであるが、後半脚が死んでひきずり気味の走法になってなんとかゴールした。
その時にアシックスの新しいシューズの靴底が、特に指の付け根のあたりを中心に無残にすり減っていて衝撃を受けた。
そしてこの時、脚を引きずって走ると靴底が減ることの恐怖が脳裏に焼き付いた。

それ以来走る時はもちろん歩く時も、なるべく足の底を引きずらないフォームを心がけるようになった。
朝、マラソンの練習でちんたらジョギングする時も、ちょっとコンビニに買い物に行くときも、家の中で便所に行くために5mほど移動する時も、常に足先を空中でリカバリーすることに意識を集中した。
コンビニまでの道中の数百歩のうちの一歩たりとも地面を靴底が舐める「ザザッ」という音がしないように、毎日命がけで臨んだ。

足を引きずらないと同時に、靴底の偏摩耗を防止するため身体の重心位置をニュートラルに保ち、膝を柔らかく股関節の柔軟な回転をイメージしながらまっすぐ歩くことにも留意していることは言うまでもない。

そうやって足が地面をこすらないようにものすごく気をつけて歩いていると、世の中の人々の、なんと足を引きずって歩いている人の多いことか、という事実に気がつく。

足腰の弱った高齢者ならいざ知らず、ジーパンを腰パンにしたおにいちゃんとか(最近はずいぶんと減ったような気もするが)が、スニーカーをひこずりまくりながら歩いているのとすれ違う時なんか、動悸・息切れ・めまいで脳みそがクラクラしたりする。

おかげさまで長年の苦労が実を結び、最近靴底の減りがなんだか少ないような気がする。
いやしかし、それもただの気のせいかもしれない。

まあそんなわけで最近買ったアディダスのトレッキングシューズが、靴底のブロックパターンがやべえくらいに削れそうな感じがして、にも関わらず、がんばってそろりそろりと、今日もアイスクリームのために歩いていたりするのだった。
posted by ヤス at 14:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月15日

ヤマトとAmazonの混乱について

今月のはじめ、宅急便の荷物をクロネコヤマトの営業所留めにしてあったのを取りに行った。

クロネコメンバーズの荷物到着予告のLINEが入って来たので、受取場所を営業所にして送り返してあったのである。
その後営業所に荷物が到着したことを告げるメールが入って来て、そのメールに「いつでもご来店ください」と書いてあった。
で、メールから数時間後に取りに行った。

受付で伝票番号をもとに荷物の状態を調べてくれて、そうしたら「荷物はまだ倉庫にあってお引き渡しの準備が出来ておりません」だという。
受付は若い女の子だった。
わたしはにこやかな作り笑顔で「じゃあまた明日取りに来るわ」と行っていったん退散したのだった。

翌日。
残念ながら昨日の女の子はおらず、おばさんが応対。
「荷物は3個口ですね」
と言われて小さめのダンボールを3つ持って帰る。
最近の物流システムのすごさで、受取直後すかさず荷物の送り元の会社から納品完了の「ありがとうございますメール」が入って来たのだが、ただそこには荷物は「4個口」と書いてあった。

手元の3つのダンボールを開いてみると、確かにひとつ足りない。
それで送り元の会社に確認すると確かに4つ送ったという。
それでさらにその送り元がヤマトに確認してくれて、渡しそこねた荷物が営業所の倉庫に残っているという。

再配達を待つのは精神衛生上悪いので再び営業所に取りに行く。
やっぱり受付はおばさんだったけれど、「ご迷惑をおかけしました」と平謝りだった。


で、つい3日ほど前、今度はAmazonで買い物をした。
配送業者はやっぱりヤマト。
Amazonプライム対応の商品だったけれど、注文時点で「時間指定配達不可」となっていた。
まあたいして支障はあるまい。

注文時、配達予定日は3日間ほど幅のある表示になっていた。
しかし注文翌日ヤマトのLINEが入って来てほぼ最短時間で到着しそうだ。
それで今度は19時〜21時の時間指定配達を設定してヤマトに返信。

19時半頃になった。
今か今かと荷物を待っていたら、ヤマトのドライバーから電話が入る。
「今日夜指定の荷物ですけどー、今時点で岡山にありません」
とおっしゃる。
「ヤマトのセンターに確認したらー、明日の配達になるみたいなんすけどー」
と言うのだが、具体的な配達時間は朝になるやら昼になるやら不明だという。

それで得意の営業所留めにしてもらって、遅い時間なら確実だろうということで、夕方以降受け取りで大丈夫でしょうかとドライバーに尋ねた。

「わっかりましたー、だいじょうぶでーす、どーもごめいわくおかけしまーす」
といって元気のいいあんちゃんとの電話は終わった。

どうもヤマトは荷物追跡システムもかなり混乱しているようだ。
それで翌日の夜、荷物を取りに行こうと思ったがちょっと心配になって営業所に荷物が届いているかどうか確認しようと思った。
それでサービスセンターに電話したら、混雑してなかなか繋がらなくて3回目にやっと繋がった。

営業所に荷物が着いてるかどうか教えてちょうだいと言ったら、オペレーターのオジサンが、絶賛混乱中のシステムで確認してくれて、「Amazonさんの方のトラブルで荷物が追跡不能になっている、まだ岡山に着いていない可能性が高い」
とおっしゃる。

で、教えてもらった番号で、今度はAmazonさんのカスタマーサービスに電話。
すると「ただいま昨日までのセールの影響でシステムが混乱しておりごめいわくをおかけしております」
とまず謝られた。

それで今荷物はどこにあるか分かりますかと質問すると、
「ただいまお荷物はすでに発送を完了し、今岡山に向っているか、あるいはすでに到着しているかのいずれかでございます。いましばらくお待ちくださいませ」
と、渋い声のお兄さんが滑舌良く教えてくれた。

そこでわたしは荷物の確認はあきらめて、当初の予定通り営業所に普通に取りに行くことにした。
営業所に行くと、今度こそは例の若い女の子がいて、まるで何ごともなかったように、何の支障もなく、あっさり荷物を受け取ることが出来た。

その時に、世の中、終わりよければすべて良しだな、と思った。
posted by ヤス at 14:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年12月14日

島国根性

ちょっと前に脳科学者の茂木健一郎氏が、日本のお笑いがアメリカやイギリスと比べると社会風刺が足りず「オワコン」だと断じて炎上する事件があった。
もう1年くらい前のことだったかもしれない。
それで、ごく一部の芸人たちは茂木氏の意見に同意し、かなり多数の芸人たちは「そんなことはない」と反論した。
「そんなことはない」の中身は、アメリカやイギリスのコメディに比べて日本のお笑いは決して負けていないということのようだった。
いやむしろ、日本のお笑いは表現の繊細さや技巧の多様性において外国より優れている、というようなことを言う芸人も多かったと思う。

茂木氏の意見の要旨は、日本のお笑いがあまりに内輪ウケに終始していて狭い世界の中で完結してしまっていることだったような気がする。
そしてコメディの重要な機能である、「王様と道化」の関係における道化の役割、大衆に向けた社会風刺の機能をキレイに捨てて来ていることを言いたかったのだろうと思う。

日本社会の特性を言い表す代表的な表現のひとつに「島国根性」というのがある。
最近はあまり聞かなくなったような気もする。
わたしは島国根性という表現は、あまりにもステレオタイプな印象がしてあまり好きではない。
島国根性は、海上に隔離された社会の閉鎖性に由来する諸々の特性を表す表現なのであろうが、しかし日本人の全てが島国根性の人でもなく、日本の全地域が島国根性的なわけでもない。
当然である。

しかし日本が島国であることで、この社会に決定的な性格づけを与えた側面もやはりあるのかもしれないとふと思った。

今から700年以上前の鎌倉時代末期、文永の役・弘安の役の2度にわたるモンゴル軍襲来をはねのけ得たのは、日本が島国であったことが大きく貢献しているのは間違いない。
逆に古墳時代や豊臣秀吉の時代、そして昭和初期に日本国は朝鮮半島からアジア大陸への進出をうかがったがいずれも手ひどい敗退を余儀なくされている。

そういうことで日本は島国であったために、諸外国や他民族からの侵略を受けにくく同時にこちらから侵略を仕掛けることも難しい位置にあった。
その辺りは、同じ島国でもローマ帝国やノルマン人などの侵略を受け、近世では大陸諸国と絶え間ない戦争を繰り返したイギリスともやや趣を異にするように見える。

周辺からの侵略のない日本の社会では、時々「内戦」が発生することはあったがあくまでも「内輪揉め」の範囲内である。
この点日本の社会は、大陸諸国に比べると比較的安定した歴史を歩んで来たようである。
そして侵略の少ない安定した社会では、国力増強のための「社会革命」よりはひたすら安定した社会秩序の実現を目指す政治的風土が育まれるものかもしれない。

安定した社会秩序を目指す風土とは、他人の気持ちを慮ること、阿吽の呼吸、権力者への忖度など、空気を読む能力を磨くことである。
空気を読み、無意識のうちに周辺とのバランスを取り、労せずして社会の安定を保つ技を、日本人はひたすら磨いて来たのではないか。

日本のお笑いのバックボーンは、このような極めて高度な空気を読む技が支えている。
したがって米英のコメディに比べて繊細で技巧的になるのは理の当然だ。
しかし一方で日本のお笑いは社会をひっくり返すような方向に向かいにくく、ただひたすらムラの内輪で、暗黙の共通了解をベースに分かる人だけに分かる方向に行くのも無理はないのかもしれない、などと思った。
posted by ヤス at 10:00| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年12月13日

異邦人

大昔、シンガーソングライターの久保田早紀の「異邦人」という曲が大ヒットしたことがあった。
さっき、たまたま最近の久保田さん(現・久米小百合さん)がその「異邦人」を歌っているYouTubeを観た。
それなりにお歳を召されてはいるが、相変わらずの美声が懐かしかった。

この「異邦人」が出されたのは1979年のことだったらしい。
コンパクトディスク、いわゆるCDの規格が固まったのが1979年で、だから当然「異邦人」はアナログレコードで発売された。
そういう時代の楽曲である。

調べてみるとこの曲は、最初は三洋電機のカラーテレビのCMソングとして使われて世に広まったらしい。
また1980年頃の日本では「シルクロード」がブームだった。
NHK特集の、石坂浩二ナレーションの「シルクロード」が放送されていて、わたしも毎回欠かさず観ていたと記憶している。

それで久保田早紀「異邦人」は、歌詞を見ると全然シルクロードとは関係無いのがよく分かるのだが、発売時にプロデューサーの鶴の一声で「シルクロードのテーマ」というサブタイトルが付けられたそうだ。
そしてイメージを増幅するためにそれっぽい民族楽器の音も入れられたという。
結果「異邦人」はヒットした。

シルクロードにハマっていたわたしは、NHK特集は観るし「異邦人」はレコードこそ買わなかったがTVの音楽番組をテレビのスピーカー越しにテープレコーダーで録音して聞いていた。
わたし的には、NHK特集の喜多郎のシンセサイザーよりも、久保田早紀の「異邦人」こそがシルクロードそのものだった。

また当時は、井上靖の小説「敦煌」や中島敦の「李陵」を読んで胸を熱くしていたものである。
「匈奴」とか「長城」とか、千年前の中央アジアを想起させるワードに敏感に反応していた。(それは今もだが)
そして何かの拍子に、乾燥煉瓦造りの石のドームが並んだ「ベゼクリク千仏洞」の写真を見た。
それは現中国ウイグル自治区の乾燥地帯の、川が削った崖沿いに造られた仏教遺跡で、敦煌千仏洞と並んでわたしの中のシルクロード的風景であった。

で、1980年頃から12年ほど経過したある時、わたしは思い立ってリュックサックを背負って中国に40日間の旅行に出かけた。(当初は20日あまりの予定だったが途中でビザを延長したのだ)
目指すは夢に見たシルクロードである。
当初天津に上陸して北京に向ったが、酸っぱい匂いの乾燥した空気にやや辟易としながらも、北京から乗った蒸気機関車が内モンゴルに入るに連れて一面に砂漠が広がって、かなり興奮したことを思い出す。

旅行は敦煌からトルファン、ウルムチまで行ってその後西安に降りていき、そこから山東半島経由で北京に戻った。

敦煌の千仏洞の三日月湖のほとりで、そして写真通りに並んでいたベゼクリクの石のドームを眼前にして、頭の中では、中身的にはシルクロードと関係のない歌である「異邦人」が流れていたと思う。
そしてそういう昔のことをやたらと懐かしむようになるのはジジイの始まりかもしれないと思った。
posted by ヤス at 11:21| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年12月12日

集中と飛躍

最近年齢のせいだろうか、集中力が落ちているような気がする。
というのは、ただの言い訳だと分かっている。
しかしまあ、人生をそれなりに長く生きていても、集中することは難しいと思う。

だいたい、そもそも動物というのはあまり集中しているとライオンやトラに食べられる恐れがあるので、いつも周囲のことが気にかかるのである。
と考えると「集中」は人間ならではの、一つの得意技なのであろう。
また、野生動物で集中が難しいということは、集中するためにはそのための環境が大切だということを示している。
周りにライオンもトラもワニもいないことが確実な時、初めて人間は集中できる。

それと集中のために重要なのは、目の前のやるべきことが好きであったり楽しいことである。
面白い小説はついつい徹夜してでも完読してしまうし、つまらん映画は10分くらいであくびが出る。

しかし今から考えてみると、学生時代の「試験」というのは、それは決して楽しくも好きでもなかったが、けっこう集中してやっていたと思う。
試験は終わりの時間が厳格に決まっていて、それもせいぜい1時間もないくらい短い。
なおかつ悪い点を取るよりは良い点を取りたい。
だからそれなりに頑張って集中する。

試験以外の状況で、例えば自分で問題集を解いている時などは試験本番の時ほどに集中することは難しい。
途中ですぐに飽きてしまって、気がついたらゼロ戦の本や読みかけの推理小説を読んでいたりする。
そんな感じで学生時代は試験の時だけは集中できて不思議だなあと思っていた。

「集中すること」は、人間に与えられた大きな特殊能力の一つであると思う。
人間の脳機能は、サルを10としたら100くらいあるのかもしれない。
しかし単純な性能比だけでなく、運用方法も効率化することによってその差が千倍になったり1万倍になったりするのだろう。
その運用効率化の一つが集中であると思う。

世の中的には、「真面目でコツコツ」という努力姿勢は貴重なものと考えられている。
しかし個人的には、「真面目でコツコツ」は野生動物的なやや未熟な方法論のように感じられる。
人間ならではの方法論としては、集中することによってそれまでは想像もつかなかった「飛躍」の可能性がある。

それでこれまでいろんな人間が集中して飛躍してきた積み重ねが現代の人間社会を作っている。
学生時代の試験の経験は、勉強のためというよりは「集中による飛躍」のための予行演習としてむしろ役に立っているのかもしれない。

ということでわたしもそろそろ、かつての予行演習の成果を活かして、少しくらいは飛躍したいなと思っている今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 10:15| Comment(0) | 徒然なるままに