2017年10月31日

人生はリセットはできない

わたしは暇つぶしで将棋ゲームを時々やるが、しかししょっちゅう「待った」をするタイプである。
最近は、他のゲームはほとんどしないけれど、シミュレーションゲームなんかをしているときは、ちょっと状況が不利になったりすると即座にリセットして最初からやり直しをしたくなるタイプなのである。
しかし現実世界の厳しさのことを思うとこのようなゲームに対する姿勢は良くなかったなと反省する。

現実世界は不測の事態の連続であり、絶体絶命のピンチがしょっちゅうやってくる。
そしてそういう不測の事態、絶体絶命のピンチの原因は、だいたいにおいて過去の自分の行いにある。
まあそれでもなんとかこうして生きているから、なかなか本気で反省できないのだろう。

よく「人生は一回きり」、みたいなことが言われるが、しかしそういうことをわざわざ言わないといけないほど、人間は、少なくとも自分の場合はそのことに気がつきにくい。

よく冒険映画に出てくる典型的なシーンで、岩だらけの広い洞窟に細いボロボロの石の橋が架かっていて、それが地震で端から順に崩落していくのがある。
主人公は落ちたら大変と思ってその崩れていく橋の上を一生懸命走る。
その映画のシーンみたいな感じで、今こうしている間にも「現在の瞬間」が次から次へものすごい勢いで崩落して、ゴーッと音を立てて過去という名の奈落の底に吸い込まれていく感じを、最近になってようやくちょっとだけ認識するようになった気がする。

本当に、現在の瞬間は一瞬も止まることなく次々に過去に向けて流れ去っていく。
当然ながら失敗したのでちょっと過去の、ある時点に戻ってそこからやり直しとかはできない。
人生には過去に遡ってやり直しというのはなくて、今この瞬間からもう一回新しく始めるというのしかない。

そういうことを将棋ゲームをやりながら思ったのだが、ゲームの場合はいくらでもリセットできるし、前回セーブした場面からやり直して強引に勝利をおさめることも難しくはない。
色々反省もしてみるのだけれど、バーチャルなゲームのそんなところはやっぱりちょっと素敵だなと思ったりもするのだった。
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2017年10月30日

プロ棋士の喜ばない感じ

だいたいのスポーツにおいて、技を決めたり勝利の瞬間とかにガッツポーズはつきものである。
しかし一方でガッツポーズがタブーの競技もある。
大相撲とか柔道とか日本の国技とされている競技では、ガッツポーズとかで感情をあらわにすることはあまりない。
ただ柔道に関しては国際スポーツとして世界各国で広く行われており、オリンピックなどを見ると海外の選手はガッツポーズをする人もいる。
ただし、礼の精神がそれなりに理解されているためだろうか、他の格闘技やサッカーなどに比べると喜びの表現もかなり控えめのような気がする。

国技ということでいうと、体を動かさない頭脳スポーツである将棋でもほとんど感情を出さない。
トップ棋士の羽生善治氏の本を読んでいたら、奨励会時代からあまり感情を表に出さないように師匠から指導を受けているそうなのだが、ほとんどのプロ棋士は若い頃から勝っても喜ばないようにしてきているからだろう、将棋の世界では勝利の瞬間、勝者に笑顔が微塵もない。

将棋にはもちろん勝ち負けがあり、プロスポーツであるから勝利は棋士の収入にも直結する。
だから勝って嬉しくないわけはないと思うのだけれど、しかし、勝っても喜ばない習慣をずっと続けていると、勝っても喜びの感情がわかなくなってくるのかもしれない。
それと将棋は心理戦の側面もあり、勝ちを急ぐと思わぬポカをしたり相手に作戦を見透かされたりするので、棋戦中にポーカーフェースを突き通すのはけっこう重要なのかもしれない。

将棋に限らず相撲や柔道で勝って喜びを顔に出さないというのは、負けた相手への思いやりという意味合いも強いのだろう。
だからといって、海外のスポーツが礼を失しているということではなくて、海外は海外で、負けた相手が笑顔で勝者を祝福する姿をよく見るけれど、あれはあれでいつ見ても気持ちがいい。

トップアスリートやプロスポーツの世界は、人並みはずれた負けず嫌いの人間が切磋琢磨しているところである。
だから負けた人間は死ぬほど悔しいはずだし、勝った方は脳でドーパミンがドバッと出て興奮状態になっているはずだ。

羽生さんも若い時分は、負けると終局直後はポーカーフェースなのだけれど、その日の晩は悔しかったりあの時こうすればよかったとか、なかなか寝付けないことも多かったらしい。
それが経験を重ねるごとに気持ちの切り替えが上手くなって、悔しいのは死ぬほど悔しいのだけれどいつまでもマイナスの感情を引きずらなくなる。
そういうプロ棋士の、大きな気持ちの振幅をうまく統御している感じが、なんだかすごくかっこいいなあとちょっと思ったりした。
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2017年10月29日

選挙の棄権について

さて、衆院総選挙から1週間経ってそっち方面の話題もだいぶ落ち着いてきた。
落ち着いては来たのだがひとつ気になることがあって、それは投票棄権の件についてである。
今回は大義なき選挙とか投票したい先のない選挙とかいう意見がこれまでよりもやや多目に聞こえて来たような気がする。
そこで果たして選挙における棄権は是か非か、少しだけ考えてみる。

ちょっと前まではわたしも、選挙に行かない知人に対し「選挙には行った方がいいよ」と言っていた。
しかし今回に至って選挙は別に行く気がしなければ行かなくてもいいんじゃないかと思うようになっている。

「選挙に行こう」の考え方はいく通りかのパターンに整理可能であろう。

ひとつは「選挙は行かないといけない」のパターン。
選挙が有権者の権利であり義務でないことは憲法や公職選挙法によって明確に規定されている。
したがって行かないと「いけない」と必ずしも言えないのは自明。
ただし、有権者が誰一人選挙に行かなくなると現在の政治の仕組みが維持できなくなるので、それが5%か10%かわからないが最低限維持されるべき投票率というのはたぶん存在する。
その限りにおいて、それなりに「選挙には行くべき」だと言えなくはない。

次のパターンは「選挙には行った方がいい(あるいは投票はした方がいい)」。
選挙は別に行くのは義務ではないけれど、行った方があとあといいことがあるんじゃないか。
あるいはより多くの人が投票した方が民意の反映された政治になるという考え方もあるだろう。
しかしどう考えても、情報をいろいろ調べても投票したい先のない人はどうすべきか。
その場合でも消去法なり批判票なりの考え方で何らかの選択をして有効票を投じるべき。
というのがこのパターンだがどうなのだろう。

最後のパターンは「投票したい人だけ行けばいい」。
行った方がいいけれど義務ではなく、投票したい先がなければ棄権するか白票無効票を入れればいい。
ちなみにわたしは投票に行かないのも白票を投じるのも本質的な違いはないと思っている。
ともかくも、「投票したい人だけ行けばいい」の考え方の下では、低投票率は常に許容される。
つまり「投票率は低かったけれど、まあしょうがないよね」となる。

最初に言った通り現在のわたしは最後のパターンに傾いている。
ふたつ目のパターンの場合、ある種の政治的「動員」が働いて、例えば「イメージ選挙」で何となくの投票行動が地滑り的な政変を引き起こす危険がありうる、そんな気がする。
それならば政治に関心があり、それなりに投票理由を持っている人だけが行く方がまだマシなのではないか。

いずれにせよ、わたしとしてはただ盲目的に投票に行こうと言うのはあまり意味が無い(というか少々危険)と思えてしょうがない。
正しくは「政治に関心を持とう(あるいは政策内容に関心を持とう)」というべきなのであろうけれど、しかしそれがなかなか難しいから議論は尽きない。
今日のところはこれでおしまい。
posted by ヤス at 13:55| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月28日

保育士は誰でもできる問題

2週間くらい前だと思うが、「保育士は誰でもできる」問題でホリエモンが炎上した。
「『なんで保育士の給料は低いと思う?』低賃金で負の循環」(10月12日)という朝日新聞デジタルの記事にホリエモンが「(保育士は)誰でもできる仕事」と短くツイートしたのが事の発端だった。
このツイートに対し現役保育士はじめ関係者から反発のツイートが多数寄せられる結果になった。

ちなみに、わたしもホリエモンに同意である。
ホリエモンへの反論にはさまざまなものがあったが、一つの方向性として、保育士が国家資格であり厚労省の定めた「保育所保育指針」を理解しこれに沿って業務を行う「専門性」を挙げるものがあった。

ここで落ち着いて考えないといけないと思うのは、ホリエモンが「誰でもできる」と言ったそのニュアンスについて明確にしておくことである。
「誰でもできる」とは具体的にはどういうことになるのか。
例えば、オリンピック選手やプロ野球選手は「誰でもなれない」。
それは人並みはずれた才能や努力が求められるからだ。
昨日はプロ野球のドラフト会議だったが、最近は毎年70人くらいが指名を受けてプロ入りしているらしい。
対してドラフト対象の選手の総数はおおよそ6万人くらいらしい。
つまりプロ野球の一員になれるのは確率0.11%の超狭き門である。
だから「誰でもなれない」。

保育士は「子供好き」の性格やコミュニケーション能力、付随業務のための事務処理能力とか一定のスキルは必要だろう。
だがそれは大体誰でも一定の訓練によって身につけることができるレベルのものと思われる。
そういう意味で保育士はおおよそ「誰でもできる」と言える。

ホリエモンに反発する保育士さんたちの言いたいことは、どちらかというと「誰でもやりたがらない」、だから結果として「誰もができるわけではない」ということではないか。
そしてそれは仕事内容が大変な割に給料が安い、という点にほぼ集約されるように思う。

この問題に関しいろいろとネット情報を見ていたのだが、一応の結論としては保育業界の社会主義的あり方に諸悪の原因があるということだと思った。
まず、子供を預ける親の負担額の設定が安すぎる。
だから需要過剰になる。
それに対して行政規制により供給が増えないので「待機児童」という名の行列ができる。
この状況はかつてのソビエト連邦と同じ匂いがする。

保育料が安いのは多額の補助金が投入されているからである。
最大の問題は、補助金の受け取り手が保育士でも保護者でもなく「保育園」という事業者であることだろう。
事業者は保育士の給料をなるべく安く抑えることで補助金のもらい得になる。
だから保育士給料を上げる動機がなかなか働かない。

あるサイトでは、この補助金をすべての子育て世帯に均等に配分し、補助金をもらって自分で育てるかそれでもあえて高額の保育料を払って保育園に預けるかの二者択一にすべきというのがあった。
つまり補助金の行き先を変えて保育料を市場メカニズム的な正規料金(月額10万円とか20万円とかそれ以上)にする。

そうすると何が起きるかというと、需要が減って(多くの家庭が自分で育てる)保育園の多くが潰れる。
保育士の絶対数も減るが待遇は大幅に改善されるだろう。
プロの保育士として誇りが持てる状況が生まれると思う。
このような変更は、それはそれで諸々の問題があってたぶん実質不可能だと思うが、しかし方向性としてはそっちの方しかないような気がする。

話が「保育士は誰でもできる」からやや逸れたが今日のところはこの辺を結論としておく。
posted by ヤス at 10:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月27日

とりあえずぶっ込む

確かあれは明石家さんまだったと思うけれど、お笑い芸人に大事なことは、なんか思いついたらとりあえず勇気出して言ってみること、って言っていたのが何となく記憶に残っている。
ひょっとしたらさんまちゃんじゃなくて別の芸人だったかもしれない。
それはともかく、お笑い芸人の「とりあえずぶっ込む」感じが大事というのはなんか面白いなあと突然思った。

お笑い芸人は大勢のお客さんの前に立って面白い芸を披露するわけだが、当然毎回ウケるわけではなく、ややウケの時もダダすべりの時もある。
世に出ているお笑い芸人というのは、すべった時の腹の据わりようというか、ウケなくても微塵も動揺しない感じ、がひとつの資質条件としてあるような気がする。
素人芸の場合、客のウケを探り探りやる感じやすべった時の「しまった」が顔に出る感じが場の空気をますます冷やしてどんどんドツボにはまる。

「良い芸人」はちょっとやらかしたとしても、その失敗から瞬時に切り替えて何事もなかったかのように次のネタを繰り出す。
その辺の感じがある種の安定感になり、安心してみていられる心地の良さにつながるような気がする。
まあ芸人にそのようなハートの強さが必要なのは今さらいうまでもないことだ。
しかしすべるのを恐れずにとりあえずぶっ込むというのは、お笑いの世界に限らず、ある意味人生の本質でもあるように思われる。

お笑いの場合、がんがんぶっ込んでいかないと芸として成立しないということがあるわけだが、普通の人々の人生の場合は、遠慮したり空気を読んだりしてそっとその場をスルーすることがどうしても多くなりがちである。
やっぱりがんがん行っているとどうしてもそのうちかなりの確率でダダすべりが発生し、気持ちが落ち込んだりすることが多くなる。
その精神的ストレスを考えると多くの人の人生はどうしても遠慮がちなものにならざるを得ないわけであるが、逆にストレスに耐えられる人はそこを乗り越えられるだけの強い動機づけがあるということなのだろう。

よく野球は失敗のスポーツであると言われ、またサッカーもシュートを10本くらい放ってやっと1点か2点取れる、たいへん失敗の多いスポーツである。
あるいは将棋の世界にも「悪手の海を渡る」みたいな言葉があって、将棋というのはいかに相手の悪手につけ込むか、自分の悪手をリカバリーするかが大事というゲームらしい。

人の人生においては、成功体験よりも失敗体験の方が圧倒的に多いと思うわけで、失敗に対する対処、そこからの切り替え、そしてその精神的ダメージを積極的に乗り越えていく動機づけが大切だと思ったのだが、じゃあどうすれば失敗に強くなれるかということについては、またちょっとゆっくり考えてみようと思った。
posted by ヤス at 13:58| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月26日

フェイクニュース対策

フェイクニュースがいろいろと問題になっている。
フェイスブックやツイッターなどのSNSやニュースサイト運営会社なども人工知能を使った対策に乗り出したりしている。

自分なりに考えると、フェイクニュースにはいくつかの種類がある。
典型的なやつは最初から「フェイク」の自覚を持って作られ流布された明らかな偽ニュース。
これらの大半は、知られているいくつかの事実を土台にして、その上にまったくの想像ででっち上げたフィクションをあたかも事実のようにニュースに仕立てる。
ニュース内容のほとんどが「記者」の頭の中だけで作られているという点ではわりかし分かりやすい。

しかしフェイクニュースには別のパターンもあって、それは基本的に取材に基づいて書かれているのであるが、記事作成の段階で内容の方向づけが意図的に捻じ曲げられているもの。
どこかの人物にインタビューして、そのインタビューに基づいて記事を書くのだが、その時に聞き取った内容を適当に切り取ったり言っていないことを付け加えたり言い回しを勝手に変えたりして記事の内容を都合の良いように変えてしまう。

大まかに、フェイクニュースはこのふた通りがあるように思う。

前者のフェイクニュースは、あるいは人工知能をフル活用することであぶり出しが可能かもしれない。
そのニュースに記載の事実が現実のものかどうかを他の情報源に当たって検証するようなアルゴリズムを組むことができれば、おそらく近い将来に事実無根のフェイクニュースに関しては相当程度撲滅が進むような気がする。

しかし問題は後者のパターンだと思う。
それなりの手続きを経て作成されていながらも、必要以上に記事作成者の意図が入り込んでいるものについては、なかなか一律的な対策は難しいと思う。

そもそも世の中のニュースというのは、程度の差こそあれ記事作成者の意図が何らか入り込んでいるものだ。
逆にいうと、何らかの問題意識があるからこそニュース記事は作成され流布されるわけであり、そういう意味では「意図のないニュース」というのはあり得ないものである。
歪んでいたり過激であったりする「危険思想」に基づいて事実が書き換えられているようなわかりやすいパターンなら、あるいは何かの規制も可能かもしれない。(ドイツのナチズム規制みたいに)

しかしあまりやり過ぎると思想信条の自由に触れるから難しい。
対策として唯一有効なのは、ある事実に対して一方向の記事だけでなく反対側の見方も含めた多角的なニュースを参照して読み手が判断することに尽きると思う。

結局のところフェイクニュースは、「自分の読みたい記事」を読みたいという読者側の「心の弱さ」につけ込むものなので、最終的には読者側のリテラシーが最後の砦だと思うのだが、昨今のフェイクの流行りようを見るとこれはなかなか難しい問題だなと思う。
posted by ヤス at 09:45| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月25日

ジジイの自覚

そろそろコンビニなんかではクリスマスケーキの予約が始まっている。
ということで、いつの間にか今年もそろそろ終盤戦である。
まったく、月日の経つのは早いもので、ということを何十回か言っているうちに人間は寿命が尽きる生き物のようである。

確か中学生の頃、西暦でいうと1980年頃に考えていたことをふと思い出した。
その頃は「ノストラダムスの大予言」が流行っていて、1999年に地球が滅亡するらしいというのを半分冗談ながら友だちと語り合っていたものである。
それでよくよく計算してみると、1999年のわたしはとうに30歳を超えていることが判明して、その時に予想した30歳代の自分というのがひどくジジイになっているように感じたのを思い出した。

その後実際に1999年を無事迎えたけれど、現実の30歳代は中学時代に思っていたほどジジイではなかった。
そして40歳代も過ぎて、時々周囲に対して「ジジイになった」と弱音を吐いて見せているが、しかし実のところそれほどジジイになった自覚はないのである。

これはひとつには、30年くらい昔の40代50代のオジサンと現代のオジサンでは、現代の方がかなり「若づくり」になっているということがある。
医学的にもライフスタイル的にも現代人はかなり若返っているようであり、今の自分を見た時に昔想像したのより案外若いな、と思ってしまうのかもしれない。

しかしそれなりに歳を食った自分がそれほどジジイに思えないことの根本的な原因は、ジジイの程度が常に自分を基準に判別されるところにあるのは、まあ当然のことである。
ジジイの基準そのものが年々歳を食っていくのだから、その基準を元に判定される自分のジジイの程度があまり進行しないのは道理なのだ。

しかしこの感覚は、この先もずっと続くものなのだろうか。
さすがに70歳80歳になったら、身体的にもそれなりにやれて、脳みその方も適当にボケて、ジジイになった自覚がはっきりしてくるのだろうか。
そこのところが少し気になる。

しかし歳を取ると確実に感じるのは、どちらかというと1年が過ぎるのがどんどん早くなることの方かもしれない。
1年歳を取るごとに、1年の比重は確実に数%ずつ小さくなっていくのを感じる気がする。
ということで、正月からクリスマスまでの年中行事の回転が年々早くなっていく感じがして、そう感じているとやっぱり自分はジジイになったなあと思う、今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 11:29| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月24日

「狂」の字の由来

もう故人であるが、白川静博士といえばその道では有名な「漢字博士」である。
その白川博士が編纂した「常用字解」という、「漢字」の一文字一文字についてその成り立ちを解説した辞書が、なぜか我が家に転がっている。
それで、その常用字解でたまたま「狂」の字のページを開いてみたのである。


この数日、わたしは「狂」について少々考えることがあった。
なぜかはよく分からないのだが、ひとつには先日の衆院総選挙の喧騒がきっかけだったような気もする。
ほんとうに、選挙に出る先生方というのは一般ピープルから見るとかなり狂の側に寄っているように思われる。
一部の候補者では自身のスキャンダル騒ぎで当選が危ぶまれるところ、ドブ板選挙のお詫び行脚を展開して受かった人もいるし落ちた人もいる。
一般的感覚だと引きこもりになってもしょうがないような状況でも、群衆の前に立ち、またテレビのインタビューでキャスターの意地悪な質問に応えるというのは並の心臓で出来ることではない。

しかし選挙に限らず、普通の感覚を大きく飛び越える、常識的判断をジャンプする蛮勇というのは、あらゆる人々の人生において、時に必要なことかもしれないと思ったりもする。

今年のAKB総選挙で20位に入り、そのスピーチで結婚宣言をしてファンのみならず世間を騒がせた元NMB48の須藤凛々花は、哲学者ニーチェの言葉を引用して「人生を危険にさらせ」というのをよく言っている。
人生は安全パイだけでは乗り越えられない局面があり、より安全になるためにはこの身を絶体絶命の危険にさらさねばならないという、究極的にパラドキシカルな状況というのがありうる。
そういう状況を乗り越えるにはいったん狂ってみる、世間的常識や自身の安全を一回全部放棄してみるということが必要ではないか、そういうことを最近時々思うのである。



それで「狂」の字を白川博士の常用字解で引いてみると、この字は、昔の王様が遠方に使者を出す時に使者に力を与えるために「まさかり」の上に足を置くという儀式をやっているカタチが元であるらしい。
この儀式を通じて使者は常ならぬ力を授かり、文字通り命がけの困難な使命を果たす。
つまり使者はこの時に「狂う」のである。

少なくとも漢字の成り立ちとして「狂」の字にそういう意味が込められているというのは、かなり新鮮であった。
この辞書はたまにしかページを開かないので10年以上前に買ったのにいまだに新品のように綺麗であるが、たまに開くと面白いことがあるなあと思ったりしたのでした。
posted by ヤス at 15:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月23日

選挙における認知と人気

さて、台風が心配された総選挙もなんとか終わった。
選挙の結果については人によっていろいろな考え方があると思うし今回はあえて触れない。
今考えているのは選挙とは何か、ということである。

選挙といって思い出すのは「AKB総選挙」である。
本家本元の衆議院総選挙とAKB総選挙は当然まったく異質のものであるわけだが、しかしある部分については当然ながらかなり共通している。
それはファンや支持者からの票を集めた人が勝つ、という点である。
少し言い方を変えるとファンや支持者の人数が多い人が勝つのだ、とも言える。

わたしはこの間から、絵本作家でもある炎上芸人・西野亮廣の書いた本を読んだりしている。
西野亮廣によると、これからのタレントは「人気タレント」にならねばならず、従来のテレビタレントのタイプである「認知タレント」のままであってはならないと説く。
彼によると認知タレントというのは、テレビにたくさん出ていて有名で好感度の高いタレントのことであるらしい。
そのような認知タレントは、有名で好感度が高いのでテレビ番組からの需要が高い。
同様の理由でCMに起用されることも多く、テレビやCMにバンバン出ることによって認知タレントとしての地位をどんどん固めていくことができる。

しかし、である。
そういう認知タレントが一旦不倫騒動やらのスキャンダルに見舞われると、一気に好感度が下がりその地位を失う。

認知タレントの弱みは、彼・彼女がもっぱらスポンサーからのお金に頼っていることである。
テレビ番組の制作費やタレントのギャラはスポンサーフィーに頼っていて、視聴者は番組やタレントに対して直接お金を払っている訳ではない。

AKBが画期的だったのは、認知タレントが大部分を占めていた芸能界に「人気タレントによるダイレクト課金」の仕組みを組み込んだことなのである。たぶん。

そしてインターネット的な仕組みがそこそこ発展した現代においては、必ずしもテレビに出なくても、ユーチューブやショールーム、ニコ動などネット配信番組とかでタレント一人養うくらいの収入を得ることは決して不可能ではない。

そういう「人気タレント」型のビジネスモデルは、ネット以前にも、ミュージシャンや芸人ならライブをやったりするやり方がすでにあった。
あるいは街の個人飲食店なんかも、どちらかというと固定のファンによる「人気タレント」型のモデルが当てはまるところが長続きするのだと思う。

そして衆議院の総選挙は、そもそもずっと「人気タレント」モデルでやっていたわけである。
「認知度」が物を言う比例区というのもあるが、しかし選挙区選挙には認知度はそれほど役に立たず、候補者が、彼・彼女の属するコミュニティにおいてどれだけ名前も顔もある「支持者」を固定できているかが勝負だったのだ、と今さらながら思う。

今回、スキャンダルで落選した人もいれば逆風をはねのけて当選した人もいた。
それはその辺のところに原因があったのであろう、とあらためて思ったのだった。
posted by ヤス at 15:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月22日

見た目の影響

人の見た目は人生にどれくらい影響するのだろうか。
野生動物の場合、例えば体の大きさ、そういう見た目の違いは彼の人生にそれなりの影響を及ぼすのだろう。
体が大きいと天敵に襲われる可能性も多少減るだろうし、ケンカをしても強いのかもしれない。
だから餌を余計に食べられたりするかもしれないし、異性の興味を小さい個体よりも余計に惹くのかもしれない。

人間の場合は見た目の違いは野生動物よりやや複雑で、単に大きいとか小さいとかの話にとどまらず、美しいか美しくないかというような質的な見た目の違いがより重要である。
しかも孔雀のオスの羽根が綺麗とかいう分かり易い美しさというより、顔面の目鼻立ちの配置とか全体的な雰囲気であるとか、より微妙な項目が問題になったりする。

それは要するに、見た目の微妙な差異を受容する人間の認知能力もまた微妙である、ということなんだろうと思う。
また人間の場合、生まれつきの顔つき体つきというよりは、成長するにしたがって「身についていく」ファッションセンスとか女性であればお化粧の方向性によって見た目がかなり変わる。
そして人間の見た目は生まれつきの見た目よりむしろ後天的に、本人の趣味によって決定される要素がかなり大きくならざるをえない。

また40歳過ぎたら男は自分の顔に責任を持て、みたいな決まり文句があるけれど、人の表情というのはその人の人生の軌跡がちょっとずつ刻み込まれている、というのはたぶん確実だと思う。
だからその人の生き様が顔の表情にどうしても表れる。

ということで見た目がその人の人生に影響を与えるということも当然あるし、人生の軌跡が人の見た目にフィードバックされるという逆の要素もあることが分かる。

ここまで考えてくると結論としては、人間というのはおそらく、他人の見た目にまったくの無関心でいることは出来ないのだと思われる。
そして実際、人間は、目の前にいる人の「見た目」を見て、いろいろなことを感じているに違いない。

そして人間は、ファッションやお化粧で自分の見た目をコントロールするところにはかなり意識的であるが、「人の見た目を感じている自分」については、案外無意識的なのではないかと思うのである。

人の見た目を見ていろいろ思う自分、というのにもう少し意識を向けると、その後の自分の行動が少し違ってくることがあるのではないか、ちょっとややこしいがそんなことを少し思ったりした。
posted by ヤス at 14:22| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月21日

低投票率について

明日は総選挙の投票日である。
タイミング悪く大型台風が近づいてきていて低投票率に拍車がかかるのではと心配されている。
前回総選挙の投票率は52.6%、前々回は59.3%だったらしいが果たして今回はいくらになるのか。
選挙そのもの行方よりそっちの方が気になっていたりする。
ただ日本の国政選挙の投票率が低いのはまあ当たり前だと思う。
それは投票によって政治に影響力を行使した「実感」がかなり乏しいからだ。

まあ、与党の自民党に入れた人に関しては、自分の一票を通じてさまざまな施策が実現した感触を多少感じることはできるのかもしれない。
しかし有力な対立野党が不在で政権交代が起こりようのない状況では、非自民党的な政策を要望する有権者は投票する先がない。
与党不支持の表は小さい野党にバラバラに投票され、相互に食い合って結果与党を利する。
この数年の野党の「もがき」は、この問題に最適解を出すためのものであったわけであるが、しかしそれが今回、とうとう具体的な形で実現した。
実現はしたけれど、その形はかなり不完全で政局を動かすところまで至らず(一応まだ分からないけれど)与党の安泰は続きそうである。

しかし最近思うのは、結局選挙で与党が勝とうが負けようが日本の将来動向にあまり影響はないのではないか、ということである。
かなり適当な見方かもしれないが、わたしの予想する日本の未来は、かなり暗い。
総人口が減って高齢化が進むので経済のパイ縮小が避けられないということもあるし、日本固有の「社会の硬直性」が健全な発展を阻む弊害がますます顕著になる、ということもある。

将来のGDPもインドはもちろんインドネシアやブラジルやメキシコなどに次々に抜かれて、何より一人当たりのGDPがさらに低下して多くの国民が貧乏を実感する時代が来るのだと思う。
そういう「どん底」を味合わないと、大衆の中に社会を変える動機というのがなかなか生まれてこないのではないかというのがわたしの基本的な考え方である。

そして日本の社会がかなり悪くなった状況でこそ、選挙の重要性、一票の重みというのが再びクローズアップされるのではないか。
それまでは低投票率で与党が勝ち続け、首相の解散権も乱用のし放題、政治状況の固定化が進んで政治的な重要情報の公開も一向に進まず、日本は「緩慢な死」に向かってよろよろと進み続けるのではないかと予想する。

しかしものは考えようで、経済的に貧乏でも精神的に豊かでいることは可能だろうし、現在(または近未来)における貧乏の水準は、江戸時代や中世・古代の貧乏と比べると比べ物にならないくらい豊かであるとも言える。
そういう来るべき混乱の時代にどれだけ心に余裕を持ち、人生を楽しめる状況を作ることができているか、その辺が個人的なテーマであると勝手に妄想していたりする。
posted by ヤス at 11:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月20日

電動ヘリは実用化されるのか

最近時々、道路や橋などの社会資本が老朽化して大変だという話を聞く。
日本のコンクリート構造物の耐久年数はだいたい50年くらいが上限と言われる。
そうすると基本的に鉄とコンクリートで建造された橋梁の場合、50年経ったら架け替える必要が出てくる。
今から50年前の時代を思い返すと、1960年台後半のちょうど高度経済成長期の真っ只中。
そして1972年に田中角栄の日本列島改造論が出てきて70年代は列島改造ブーム。
この頃に作られた橋や道路やトンネルが今後次々に完成後50年を迎える。
今問題になっているのは、これらの老朽化する社会資本のメンテナンスが、費用的にもマンパワー的にも今後は難しくなってくるということである。

そのことを考えているところにあるニュースが目に入って、それは中東のドバイで空飛ぶ電動バイクを警察が導入することを決めたというものである。
ドバイについては、確か昨年「空飛ぶタクシー」を2017年夏までに飛ばす、みたいなニュースの憶えがある。
ドバイの人はよほど空を飛びたいらしい。
あるいは地上の道路の渋滞がひどいのかもしれないが。

ドバイのニュースを見て思ったのは、将来世の中の自動車がみんな空を飛ぶようになったら、もはや道路や橋梁のメンテナンスは必要なくなるんじゃないかということである。
そしてこの2〜3年の間に、電気動力の乗用ヘリコプターが開発中というニュースがバンバン流れるようになっている。
で、今の所バッテリーなんかは決定的な技術的ブレークスルーにはまだ達していないようだけれど、エネルギー密度も充電時間も確実に進化はしている。
しかし果たして人々が日常の乗り物として電動ヘリに乗る時代はやってくるのか。
どうなのか気になる。

それでちょっと計算を試みた。
電動ヘリの理論的エネルギー効率。
空を飛ぶのは機体と搭載物を浮かせないといけない分、地上を走るよりエネルギーが余計に要る。
それはどれくらいの量になるのか、今後の開発次第で地上を走る自動車より高効率化できるものなのだろうか。

地表面の重力加速度は9.8m毎秒毎秒。
1kgの物質を1m毎秒で動かす力が1N(ニュートン)。
ということは1kgのものを浮かばせるのに必要な力は9.8N。
100kgだと980N(毎秒)。
これを仕事量Whに変換すると980N×3600秒=350万Wh。
1馬力=735Whなので350万Wh=約5馬力。

100kgの電動ヘリが空中に浮かぶためには5馬力の電気モーターが要る。(ただし効率100%)

間違っているような気がするし合っているような感じもする。
ざっくり効率50%として10馬力くらいあれば浮かんでいられるんじゃないだろうか。
これは今の125ccスクーターの出力くらいだ。

ちなみに現在の電気自動車のエネルギー総合効率(発電所の発電効率からEVの走行効率までを総計した効率)は約30%でガソリン車の総合効率14%の倍以上らしい。
電動ヘリは道路との摩擦も少ないのでその面は有利だけれど、空中に浮かぶ分の「ロス」は結構大きい感じがする。
一方で電動化による効率上の有利さを加味すると、電動ヘリにも十分勝算はあるような感じもするし、結局今日のところは結論が出ないので、そのうち関連の情報を探しておこう、と思った。
posted by ヤス at 11:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月19日

人類規模の精神安定

たまに世界人口の推移グラフ、みたいなのを目にすることがある。
そのグラフを見ると、特に20世紀に入ってからの曲線の右肩上がりの具合がものすごく急になっている。
人類の人口が10億人になったのは1800年くらいらしい。
つまり人口10億人はホモ・サピエンスの誕生以来10万年くらいかけて達成したことになる。
それが百年後の1900年に20億人になり、60年後1960年に30億人、14年後1974年40億人、7年後1987年50億人。
その後人口増加の勢いはやや沈静化してはいるが依然として増えている。

そしてこの人口が急増した200年くらいの間の世の中の変化というのも凄まじい。
おそらく15世紀以降くらい、ルネサンスと大航海時代の後に色々と画期的な技術開発が実現して、特に軍事技術では火縄銃や大砲が出てきてそれが日本にも伝わり、日本史を大きく揺り動かしたりした。
火縄銃の時代はしばらく続き、日本では300年くらい続いて明治維新の頃に新式の後装銃とアームストロング砲の時代がやってきた。
そして軍事技術刷新と幕藩体制の終わりという世の中の大変化がちょうどシンクロしている。
その後は日露戦争、第一次大戦があってこの頃の軍事的トピックは戦車や潜水艦やマシンガンの実用化である。
やがて戦略兵器としての飛行機の時代とともに第二次大戦があって、その延長線上に朝鮮戦争やベトナム戦争があったのだと思う。
しかし第二次大戦後は核兵器の時代でもある。

核兵器の登場のおかげということなかどうか知らないが、この時代以降大国同士のがっぷり四つの正面戦争というのはなくなって、超大国アメリカとならず者国家の戦いとか対テロ戦争とかの非対称戦が主流になっている。

ちょうど昨日のニュースでも、シリアのIS拠点が陥落したというのがあったけれど、ISが消滅したとしてその次はアフリカとか中央アジアとか世界各地で似たような紛争が続くのではないかという嫌な予感もする。

これは個人的な想像なのだけれど、世の中の戦争の発生というのは人口増加と無関係ではないと思う。
昔読んだ本に、人口密度の増加が人類の精神状態に悪影響を与える、みたいな話が書いてあって、そういうのが紛争・戦争の発生の裏の要因として大きいんじゃないかと思ったりする。
実際、20世紀中の戦争犠牲者の数というのはなんだかんだ合わせて1億人くらいになるはずである。
これはそれ以前の時代に比べると、ゼロの数が2つ3つ違うレベルだ。

また、今の時代には世界規模の大戦というのは発生しなくなっているが、アフリカや中東では死者百人規模のテロとか虐殺事件が頻発していて、それがほとんどニュースにもならない。

そういうことを考えると、人口増加によるイライラが原因で戦争や虐殺事件が起きているのかどうか定かではないけれど、しかし人類規模の「精神の安定」みたいなことを現代のテクノロジーで何か実現できないものか、と時々思う今日この頃だったりする。
posted by ヤス at 10:59| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月18日

割り切れない世の中

さて、総選挙投票日までもうあと4日ほど。
だいぶん選挙結果も見えてきたようであり、また当初から今回の選挙の意義については多くの疑問の声が上がっていたわけで、わたし的にもなかなか難しい選挙だった。
結局この選挙の争点が何かということなのだけれど、消費税とかアベノミクスの成果とか、あと北朝鮮を巡る危機的情勢への対応とかいくつか論点はあったのだと思う。
だけれども、いまひとつスパッと気持ちよく投票行動を促してくれる明確な争点というのがなかなかなくて、その辺が非常に難しかったなあと思うのである。

しかし考えてみると、争点が難しいのはある程度当然なのである。
現在の世の中は一昔前のように、スパッと一刀両断にできない世の中になっている。
資本主義対共産主義の対立はとっくに終わり、かと言って資本主義が絶対的に正しいかというとそうでもなくて、そのあり方に重大な疑問が生じている。
それは民主主義のあり方、議会の仕組みやそれこそ選挙制度そのものについても、今のやり方が必ずしもベストでないという感じが日増しに増している。
少なくともわたしの中でそれらに対する疑問は増している。

今回某政党の公約にも、情報公開とか一院制とかベーシックインカムとか、民主主義や資本主義の「プラットフォームの見直し」に関わる項目が出てきたのは、まあ成果といえばそういえなくもなかったかもしれない。
それらの公約はどうもポピュリズムのための道具として出てきたようにも見えたわけであるが、まあそれでも全然出てこないのよりは良かったような気もする。

あと、個人的な気がかりは北朝鮮問題である。
この問題は、わたしの素人予想では今後しばらくこう着状態が続くのだと思っている。
経済制裁はもちろん必要だとは思うけれど、朝鮮半島の政治的現状維持を北朝鮮(というか金王朝)自身はもちろん中国やロシアも望んでいる現状では、経済制裁だけで問題が解決に向かうことはないだろう。

「斬首作戦」などの実力行使も時々報道で流れているけれど、朝鮮半島や日本の一般市民の被害をゼロに抑えつつ軍事力を行使するというのは至難であり、政治的現実として実施不可能だと思う。
ただ「やるぞやるぞ」という姿勢は崩すわけには行かず、それは北朝鮮も同様。
今後も米朝が「やるぞやるぞ」と恫喝し合いながらしばらくの間現状が続く。
というのが、たいへん最悪の感じがするけれど現下のベストシナリオではないか。

その間拉致問題に関しては、使える外交カードで現実的な交渉をして現実的な成果を少しずつ引き出すしかない。
そのように思うので、あまり北朝鮮に関して勇ましいことは言うべきでないと感じる。

何はともあれ、現代はスパッと気持ちよく物事が割り切れる世の中ではない。
だから国民の側もスパッと気持ちの良い政治的主張を求めるべきではないと思うがたぶんこれはなかなか難しいことなのだろう。
などと選挙終盤戦に当たって思った。
posted by ヤス at 11:41| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月17日

褒め上手になりたい

わたしは褒められるのはどうも苦手である。
決して褒められるのが「嫌い」なわけではないと思う。
おじさんだって褒められると一応嬉しい。
ただ褒められた後のリアクションのレパートリーが、自分の中でほとんど用意できていない。

褒められるのが苦手ということは、きっと褒めるのも苦手なのである。
今思い返すと、人のことを積極的に褒めてやろう、という気分になることはあまりないような気がする。

こういうのは人間関係のあり方としては、かなり最悪なんだろうと思う。
円滑な対人コミュニケーションのためには褒め上手・褒められ上手であることは非常に重要なのだと分かってはいるのだけれど、もうこの歳になると色々と面倒くさくて、細かい気苦労をするくらいなら仏頂面で黙っといた方が気分的に楽だったりする。

一般論として、男性よりは女性の方が「褒める・褒められる」のが上手だと思う。
これは一種の偏見か、あるいは単なるステレオタイプ的見方かもしれないが、ある年代の「おばちゃん」同士の褒め合いはおしなべて見事である。
あまり相手のおばちゃんの「深いところ」をえぐり過ぎることなく、絶妙に表層的な部分を切り取って的確に褒める。
そして典型的な「褒めパターン」として、まず挨拶がわりに「旦那」「子供」「今日の服装」のいずれかを褒める、という風に序盤の手筋もあらかた決まっている。
そしてお互いに「褒め」のジャブを数発ずつ繰り出しながら、時に痛烈な皮肉を込めた「褒め殺し」を決めたり、あるいは軽く褒めているうちに気持ちがだんだん入ってきて涙ながらの本気の「褒め」に移行したり、横で聞き耳を立てているわたしとしては時々戦慄の思いを抱く。

しかもすごいのは、そういう褒め合いの基礎的技術は妙齢のおばちゃんなら例外なく全ての人が持ち合わせていること。
さらに恐ろしいのは、その辺の女子高生とかでもそういうおばちゃん的な高度な褒め技量の片鱗を見せることがあったりする。

ちなみに申し添えておきますが、以上は決しておばちゃんをけなしているのではない。
ちゃんと褒めているつもりである。

ここまで書いてやっと思い至ったのだが、褒めるというのは一方通行ではダメで、ちゃんとしたキャッチボールになってないといけない。
人から褒められたら、それに対して的確な返しをする。
そこで一つの褒めのコミュニケーションが完結する。
だから褒めの名人は、相手の褒められ方の反応を見定めて、無意識に次の褒め方を微調整したりしているのではないかと想像する。

いや、わたしもいつの日か仏頂面を卒業して、褒め上手になってみたい、とちょっとだけ思ったりした。
posted by ヤス at 10:54| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月16日

荒れる画面を眺めて思う

毎日Twitterを眺めていると、やっぱり今日もそこかしこでツイート上の激論が展開されている。
もちろん全部が全部というわけでもない。
少なくともわたしのTwitter画面では、むしろ大半がまあまあおだやかな「お知らせ」とか「思いつき」とかのつぶやきである。
しかし時々、いつ果てるともしれぬ主張の激突、言い合い、罵り合いなどが流れてくる。

こういうツイート上の「喧嘩」には、大体の場合フォロワーを多く抱える有名人が絡んでいることが多いようだ。
ごく一部、ある種類の無名の大衆の中には、有名人と炎上的な絡みで絡んで自分の存在を拡散したい、という欲求があるのかなとも思う。
またそういう確信犯的なもの以外にも、有名人のツイートで自己の存在を否定されたと感じ、それに対する反論を返すタイプの喧嘩もあるようだ。

そういうことで今日もわたしのTwitter画面はいつものように荒れている。
こういう荒れ模様は、いつの日か少し静かになる日が来るのだろうか、と少し想像してみる。

Twitterに限らずSNS上では、特に面識の無い人同士の激論は喧嘩になりやすい要素をたくさん含んでいるのだと思う。
まず顔が見えないし、それに基本、社会的な関係の無い者同士、親子関係とか友人関係とか上司と部下の関係とかが全くない、個人と個人のぶつかり合いになる。
そこには多くの場合年齢の上下関係も無いし性別も関係ない場合が多い。

あらゆる社会的な関係、というか社会的な「しがらみ」が無い場では、純粋な人対人の主張がまともにぶつかる。
どっちかが一歩退いて主張を譲ろうということになりにくいので喧嘩になりやすい。

それともうひとつはダイレクトなメールのやりとりと違って公開の場でやっていることの影響もあると思う。
「みんな」が見ている公の場で激論して自分の主張が否定されたら、自分の存在が公の場で否定された気分になるのかもしれない。
だから自分の主張に合理性があるかどうかの振り返りはそっちのけにして、ひたすら一本調子に自分の主張を押し出すしかなくなってしまうのではないだろうか。

まあそういう気持ちは分からないでもない気がするから言下に批判もしにくい。
ただ本来の議論というのは、違う主張がぶつかりあってお互いの良いところを発見し、それでステージがひとつ上昇するというようなのが建設的な議論のあり方だ。
それでいくとただの主張のぶつけ合いは、個人の精神力の鍛錬にはなるかもしれないが人類文化への貢献は少ない。

ただこのようなSNS上での主張のぶつけ合いというのはこの数年で盛んになったものなので、将来テキストに代わって動画投稿が増えてきたり、AIを使った酷い投稿の取り締まりが効果をあげたりする近い将来には随分とようすが変わっているのではないか、ということも思ったりする。
そんなことを思いながら、今日も果てしのない罵り合いを眺めるのであった。
posted by ヤス at 10:52| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月15日

コンビニについて

どうでもいいが最近少しだけ驚いたことがあって、近所のコンビニのサンクスでたまに買い物するのだが、この前久しぶりに行ってふともらったレシートを見たら店名が「ファミリーマート」になっていた。
不覚にも店に入るときには全然気がつかなくて、とぼとぼ歩いて店が見えなくなったところでレシートを見て気がついた。
わたしはコンビニは断然「セブン派」なので、普段は連チャンで「サンクス」に行くことはないのだが、ものすごい気になって、その翌日に2日連チャンで「サンクス」に行って見た。

そうしたらあの赤っぽい看板のサンクスがちゃんと緑のファミリーマートになっているのが確認できた。

サークルKサンクスがファミリーマートの傘下に入ったのが昨年2016年9月。
報道によると来年2018年夏には、ブランドとしてのサークルKサンクスは完全に消滅するらしい。
コンビニ店舗は、今日本全国に5万8千店あってまだ増え続けているそうだ。
一昔前には、3万店が限界とか5万店が上限という説が唱えられていたが、今の勢いではまだまだ増えて6万を超えるのは確実である。

今、日本の小売業界はスーパーマーケットも百貨店も専門量販店も、みんな頭打ちの感じだがコンビニだけはまだ元気がいい。
これからの日本のコンビニ業界は、サークルKサンクスがファミマに吸収されて、そのファミマとセブンとローソンの3強(というか1強2弱)時代でいくようである。

実際セブンの平均日販が66万円くらいあるのにファミマとローソンは50万円くらいしかなく、その差は歴然である。
一消費者として店の棚を眺めていても、セブンと比べるとファミマとローソンの棚のどことなくスカスカとした感じは否めないところである。

わたしは、アマゾンや楽天がのして来ていた10年くらい前には、通販業界が小売のパイを奪っていけばやがてコンビニも縮小に向かうのだろうと勝手に想像していたのだが、コンビニで売っているような弁当惣菜や100円200円の少額日用品は通販で売るには嵩が小さすぎたようである。

通販には「配送コストの限界」というのが常についてまわり、従って「数千円以上のたまに買うもの」を買う以外の市場に進出するのにはまだいくつもハードルがある。

毎日買う少額品は、小型店舗で街中に密度濃く販売拠点をこしらえて売るのが今の所売る方としても効率がいいし、買う方としても便利がいい、ということなのであろう。

そういう理屈がコンビニを成長させている。

今の所のコンビニ最大のアキレス腱は、24時間営業のためのスタッフの確保である。
ここだけはそれほど「技術革新」が出来ていないと思うのだが、逆にここの弱点が改善された時、コンビニはさらに成長に拍車がかかるのではないか、と想像したりしている。
posted by ヤス at 15:51| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月14日

神戸製鋼問題

神戸製鋼が不正問題で揺れている。
この8月からニュースになっていて、その後よりたくさんの製品について不正があったことが発覚してかなりやばそうな感じである。

で、どんな不正があったのか調べてみた。
ネットで5〜6分しか検索していないけれど、不正の具体的内容がいまいち分からない。
当初はアルミ・銅製品など限られた事業で限られた期間内に造った製品の一部、4%くらいが出荷検査に引っ掛かっていたのをデータ改ざんして出荷していた、ということだったようだが、どうもこの10年くらい、いろんな製品分野にわたって常習的に行われていた疑惑が浮上しているらしい。

神戸製鋼は年間売上高1.6兆円の巨大企業である。
しかし営業利益は100億円弱くらいしかない。
これは飲食業で薄利商売をやっている、売上2千億円余の日本マクドナルドHDより少ない。
そして2016、2017年3月期の当期純益は連続赤字で経営的にはかなり切羽詰まっていたようである。

そんな中で今回の不正発覚。
わたしは製造業の人間ではないからあんまりいい加減なことは言えないのだが、今回の不正は、おそらく製品検査で本来ハネるべきだった不良品をどさくさに紛れて売っていたということだ。
不正が行われたアルミ材や鋼材は、トヨタ、ホンダ、日産の自動車各社はもとより、電車メーカーや飛行機、ロケットにまで使われているらしい。
ホリエモンのロケットにも使用されていたそうだ。

まあ自動車や飛行機の設計にあたっては、「安全率」という概念があって、それこそ製品強度のバラツキや想定外のストレスも考慮して、少し余裕を持った設計をやっている。
今回の不正のようすを見ると、おそらく「まあこれくらいならギリギリ大丈夫なんじゃない」という軽い感覚で不良品を出荷していたようである。
だから現実的にはただちに問題は発生しないだろう。(と思いたい)

神戸製鋼としては不正することによって4%の不良ロスが帳消しになって、少ない利益がそれ以上減るのを防いでいたわけだ。

今回の不正事件は、命を運ぶ自動車や飛行機の安全に影響することであり許容されることではない。
単に経営者辞任とかで済む話ではないような気がする。

神戸製鋼の直近の経営状態を見ると、利益状態は良好とは言えないがただちに倒産というレベルでもない。
また鉄鋼・アルミ・銅以外にチタン素材なども扱っており、また機械や電力事業なども手がける複合的な経営をおこなっているそうだ。

そして現首相の安倍氏が昔サラリーマン時代を過ごした会社でもある。

わたし的にはこの事件は、鉄鋼など日本の重厚長大型製造業の「構造的な無理」を象徴する出来事であり、「製造業立国日本」の「終わりの終わり」が始まった感じがしてならない。
posted by ヤス at 13:54| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年10月13日

トヨタ車種半減報道について

昨日のニュースに、トヨタ自動車が2020年台半ばをめどに国内販売車種を半減する、というのがあった。
これはこれで衝撃的なニュースだと思うのだが、それでちょっと気になったのでトヨタの国内販売台数の推移を調べてみた。

するとさらに衝撃的な数字が出てきた。
「トヨタ自動車75年史」のサイトに1950年から2011年までの推移データが出ている。
1950年の販売台数は乗用車が548台、トラック・バス8680台、合計9228台で市場占拠率は34.4%。
その辺からトヨタ自動車の歴史は始まったわけであるが、そこから1980年代まで途中1974年のオイルショックによる小休止はあったけれど、ものすごい勢いで販売台数は増加を続け、1990年にピークを迎えて乗用車+RVが215万台超、トラック・バスと合わせて250万台超を記録する。
いわゆるバブル全盛の時期である。

そこからは逆につるべ落としの減少に転じ、ピークから10年後の2000年には乗用車+RVが159万台、トラック・バスと合わせて177万台。
そして2011年は乗用車+RV108万台、トラック・バスと合わせて120万台。
つまり今はピークから半分以下の水準になっている。

ニュースによるとトヨタ自動車は全世界で1千万台を売り、GMやフォルクスワーゲンと販売台数首位を争うイケイケのイメージがしていたのだが、こと国内販売に限ってはものすごいことになっているのである。
しかも国内の市場占拠率、いわゆるシェアはこの数年拡大傾向で45%を超える感じ。

市場シェアが増えているのに台数が減っているというのは、トヨタの販売台数以上に日本市場がシュリンクしているということだろう。
1990年の215万台が21年後の2011年に107万台減って108万台になったということは、単純計算で年5万台の減少ペース。
つまり2020年台半ばにはもう後40万台くらい減る感じになる。
つまりピークに乗用車+RV215万台だったのが70万台くらいになる。

ただし後10年くらいしたら、自動運転化もある程度進展していて、また乗用の自動操縦電動ヘリもブンブン飛んでいるかもしれないと思う。
そして人間が運転する「マニュアル運転車」は超少数派になっていて、自動車の定義づけもかなり変わっているのかもしれない。
あるいは世界最大の自動車メーカーのクルマは、ボンネットにリンゴのマークが光っているかもしれず、トヨタ自動車車種半減どころの話ではないかもしれない、と思ったりした。
posted by ヤス at 10:52| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年10月12日

三式戦闘機・飛燕

最近どういうわけか第二次大戦中の帝国陸軍戦闘機「三式戦・飛燕」について、報道等で目にすることが多い気がする。
わたしは中学生の時以来のプロペラ戦闘機オタクを自認しているのだが、世間様がこんなに「飛燕」について触れるのはこれまでになかったことだ。(と思う)

三式戦闘機・飛燕は、1943年5月のニューギニア戦線が初陣であったらしい。

しかし飛燕は、思えば不思議な戦闘機であった。
第二次大戦が始まった頃、ジェットエンジンは一応研究は進んでいたが実用化には程遠く、飛行機のエンジンはみなガソリンエンジンである。
当時の航空エンジンは大きく2種類、水冷(というか液冷)と空冷に分類できる。
現代の自動車エンジンは、空冷エンジンがトレードマークだったポルシェですら90年代末に水冷化されてしまったけれど、飛行機の場合温度の低い高高度を高速で飛行するので空冷エンジンはそれなりに合理的なものになりうる。

空冷エンジンはラジエターがないからその分軽くなるし、液漏れや冷却系のトラブルもなくなるから工業技術に不安のあった大戦中当時の日本が空冷エンジンを好んで採用したのは当然である。
しかしそんな中で「飛燕」は液冷エンジンを搭載して完成した。

液冷と空冷で何が違うかというと、まず見た目の違いが大きい。
液冷エンジンはシリンダー配列がV12とかで細長く、それを積んだ飛行機はスマートで格好良くなる。
空冷エンジンはシリンダーが星形配置でズングリとなるので飛行機もズングリになる。
これは個人的推測だが、ヨーロッパの戦闘機がほとんど液冷エンジンだったのは、それらの国民性として「我が国の戦闘機はスマートで格好良くあるべき」だ、という思いが強かったんだと勝手に思っている。
一方で合理主義のアメリカと技術のない日本は空冷星形エンジンをたくさん採用した。

飛燕のエンジンはドイツのメッサーシュミットBf109も搭載していたダイムラーベンツDB601のライセンス生産品であったが、技術オタクの国ドイツが作ったこのエンジンは農業国だった日本国内で製造するには難し過ぎたのは当然である。
当初の予想どおり飛燕のエンジンは工作不良に起因するトラブルが相次ぎ、なかなかまともに動かない。

また飛燕は空冷エンジン搭載機に比べてかなり重かったため、水平速度はまあまあ速く、急降下速度に限っては鬼速かったが、戦闘機の命とも言える上昇力がヘタレだった。
だから戦闘ではゼロ戦なんかと違って米軍機にナメられぱなしだったらしい。
それでも飛燕がニューギニアに渡ったのは、広い太平洋で戦えるほどの航続性能を持つ陸軍機が他になかったからである、多分。

見た目はスマートでいかにも強そうなんだが、実はその「強そうな感じ」は大部分ハッタリという、ちょっと悲しい戦闘機というのが「三式戦・飛燕」の実像だと思う。
そうやって考えると、海軍のゼロ戦は登場のタイミングといい、薄氷を踏むようなギリギリのキワモノ的設計で大活躍した実績からいっても、飛燕と好対照である。
まあ飛燕は見た目が格好いいので、博物館とかに復元して飾っておく分には見栄えがする。
そういう意味では平和な時代に似つかわしい飛行機であるとあえて言えなくもない、ということにしておく。
posted by ヤス at 15:25| Comment(0) | 徒然なるままに