2017年08月08日

生産性の向上について

最近、「生産性の向上」というフレーズを聞くことが多くなった。
生産性という概念自体は、ものすごく昔からポピュラーに使われている。
それが今になってにわかに脚光を浴びている(ように見える)のはなぜだろう。

おそらくこの背景には、下がり続ける日本の国際的ポジション、なかなか上がらない賃金水準がある。

ひとことで言うと、政府的には経済を活性化したい。
経済を活性化することによってGDPが拡大し税収が増え、財政プライマリーバランスが改善して国債新規発行が減少する。
また今後継続的に予測される人口減少に対する対策としても、国民一人当たりの経済的生産性を拡大することは重要である。

一方で政府は国内企業に対し、賃金水準の改善についてしばらく前から口を酸っぱくして言い募っている。
これはニワトリとタマゴ論争的な話だが、賃金を上げることによって消費が拡大し企業収益が改善して結果としてさらなる賃金上昇につながる。(という幻想が一部に存在する)

企業収益の拡大は企業にとっては生産性の向上そのものであるから、上記の論法では賃金を上げない企業が頭が悪いことになる。
しかし企業側としては容易には賃金を上げられない事情がある。
現在、国内企業の内部留保が総計400兆円に迫ろうかという規模に膨れ上がっているらしい。
内部留保がこれだけ膨らんでいるのだから、そこからちょっとくらい賃金に回しても良さそうなものである。

しかしやはり賃金はおいそれと上がらない。
内部留保の拡大は、賃金原資の増加を意味しない。
むしろ内部留保の縮小が始まると、企業各社は利益水準維持のために賃金切り下げに邁進し始める。
内部留保と賃金水準はそういう一方向的関係にある。


しかし個々の日本人を見ると、それほど絶望的に生産性が低いようには思えない。
わたしは外国人のことをよく知らないが、たぶん日本人個々の能力は、少なくとも他の先進国と同レベルくらいにはあるのではないか。

そうなると国際的に低いとされる日本の生産性の問題点は、社会や組織や仕組みにあるとしか考えられない、ということになる。

ひとつ思うのは、意思決定についてである。
日本には集団的意思決定が個人的意思決定に優先する風土があると思う。
日本にも、かつての織田信長とかワンマン的リーダシップが皆無であったわけではない。
むしろ今でも個人の力量で成長を続けるリーディングカンパニーがたくさんある。

しかし一方で、社会の基底では集団的意思決定を重んじる気風が強い。
特に役所や伝統的大企業、町内会や政治の世界などドメスティックな社会では集団意思が個人意思に優先する。

しかし生産性の観点から見ると、千人の凡人による集団的意思は一人のスーパーマンのアイデアにかなわない。

一方でワンマンや独裁は弊害が多い。
だから特に政治の仕組みは過度の独裁を防止する仕組みが組み込まれている。
しかし企業の世界は、スーパーマンによるワンマンでないとライバルに勝てない。

ここでいうスーパーマンは、かなり相対的な概念と言うことができるかもしれない。
1万人に1人の傑物もいれば10人の集団の中で最も優秀くらいのスーパーマンもいるだろう。

そういう相対的スーパーマンが力を発揮できる気風こそが、日本の生産性向上に効果があるのではないかと思う。
posted by ヤス at 10:00| Comment(0) | 徒然なるままに