2017年08月31日

山本彩に学ぶ

昨日30日、NMB48の須藤凜々花の卒業公演が行われた。
しかし今回書きたいのはリリポンの話ではない。

その卒業公演でキャプテンの山本彩が以下のような意味の発言を行なったとされる。
いわく、歳をとるとどんどん保守的になる、大人になるにつれ自分の脳みそがすごいつまんねえなあと思うことがある。
山本彩によると、そういう自分を違う方向、新しい方向に導いてくれたのが須藤凜々花であり、その点を感謝しているという。

ちなみに須藤凜々花は20歳、山本彩は24歳である。

24歳といえばまだ全然年寄りではない。
にもかかわらず山本彩はこのような見方で自分を見ているというのが、少し驚きである。
山本彩は2010年の10月からNMBでのキャリアを始めている。
その前にも中学生時代に1〜2年の芸能活動経験があるらしい。
かれこれ活動歴10年。

これまでのアイドル業界や芸能界における活動において、山本彩は数々の試練を乗り越えて今がある。
初期の頃、かなり無理のある一発芸でスタジオの空気を凍らせたり、東京の番組では「借りてきた猫」状態に陥るなど、これまでに結構ギリギリの戦いを続けてきたように見える。
しかし今ではその芸風はすっかり安定したものになり、はたからも安心して見ていられる。(実は時たましか見ていないが)

彼女は懸命の努力によって、業界において一定の存在感を得るに至ったようである。
しかしまたその過程において業界的な約束事をいくつも身につけ、自分のスタイルやイメージもだんだんと固まっていく。

この世の中というのは、生き残っていくための術についてある程度のバリエーションが身につき、その精度が一定の水準に達すると途端に生き易くなるものなのだろう。
しかし一方で周辺環境が突如として変わったとき、そのことに気がつかずに今まで通りの術を繰り出していたのでは全く通用せず、たちまち死に至るという危険がある。

山本彩はおそらくそのことがよく分かっている。
だから、マーケットの嗜好に寄り添いつつもあまりそこに完全にフィットし過ぎないという意識が自然に湧いてくるのだろう。

このようにマーケットにフィットする努力をしつつもある程度の新しさ、少しの「はずし」を常に用意しておく、というのは芸能界におけるアイドルの生き残り術として非常に重要なのだと思う。
そしてこのことは芸能界のみならず、自然界における生物種においても、マーケットにおける企業経営においても重要であることはいうまでもない。
そして複雑高度な社会に生きる現代人のあり方一般としても欠かせない視点であるように思う。

問題は、保守的になり脳みそがつまんなくなる自分自身のことが、なかなか自分では見えないというメタ認知の件である。
わたしのようなオジサンは、山本彩の3万倍くらいの覚悟を持って自分を見つめないと自分のつまんなさが見えないのではないか。

と、そのようなことを少し思ったのである。
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2017年08月30日

人工知能のつくる未来社会

さて、巷では2045年には人工知能が人類の知力を超えると言われている。
レイ・カーツワイルという人工知能の研究者がそのように予言しているらしい。
いわゆるシンギュラリティ=技術的特異点というやつである。

そしてその頃には人類の仕事の半分は人工知能に取って代われられるという。
さらに言えば、人間の脳みそにコンピューターが直接接続されることにより、脳の拡張が行われるという予想を多くの人が行っている。
2045年といえばあとたったの28年である。
順調に行けばわたしはまだ生きている。

はたして今から20年、30年後の未来はどうなっているのか。

気がかりなのは未来の仕事がどうなっているかだ。
あらかたの仕事は人工知能に奪われるとすると、みんな失業して貧乏になってしまうのか。

トラックの運転とか建設現場の作業員とか、肉体作業系の仕事は高度な電子頭脳を搭載したロボットに代替されるだろう。
またスーパーやコンビニのレジ打ちなども、非接触タグやら電子決済の進化で早晩消滅する。
(そもそも店に買い物に行く、という消費行動自体がなくなるだろう)

また弁護士や医師や会計士など知的に高度な仕事においても人工知能が活躍することはほぼ疑いない。
むしろ知的に高度であればあるほど人工知能に代替される可能性が高いような気もする。
あと、小説を書いたり映画を作ったり芸術絵画を制作したりという、創作的な仕事においてもかなりの程度人工知能が進出するのではないか。
創作的な仕事については人工知能の能力に懐疑的な研究者も多いようであるが、しかしこのような芸術分野の仕事は、言ってみれば人間の脳みそにある種の快感を与えるものである。
人間のどのスイッチを押すと気持ちよくなるか、その辺の分析は人工知能は得意だろう。
少なくとも「軽いノリ」の大衆娯楽の創作物というのは、ある意味人工知能の独壇場になるような気さえする。

つまり、人間の仕事のうち将来人工知能やロボットに代替されないものを探す方がむしろたいへんなのである。

そうなると未来社会は古代ギリシャのように、奴隷である人工知能と働かない自由市民によって構成されるようになるのだろうか。
古代ギリシャでは知的労働も含めてあらゆる仕事を人口の9割を占める奴隷が行い、残り1割の自由市民は飲んだり食ったり遊んだりするのが仕事だったそうである。

未来の社会が古代ギリシャと似たことになって、わたしも自由市民の仲間に入れてもらえればこれはたいへん楽チンで楽しそうである。
実際問題、未来の社会はある程度その方向に行く、つまり人間は遊ぶ時間が現代よりずっと増えるのではないかと思う。

しかし労働力を商品として販売し対価を得ている現在の所得メカニズムは、人類が働かなくなった時どのように変化するのだろうか。

例えば人格的に「いい人」はお金持ちになり、「悪い人」は貧乏になるとか、そういう新しい経済が出現するのだろうか。
また古代ギリシャ文明がやがて没落していったように、働かない人類は「ダメ人間」になってしまわないだろうか。

その辺の未来予想は、わたしの脳みそでは今のところ結論は出そうにない。
posted by ヤス at 12:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月29日

悪手を避ける

今朝早く、北朝鮮からまた弾道ミサイルが発射されたらしい。
ミサイルはかねてから予告のあったグアム方面ではなく、北海道をかすめて米国本土方面に向かい2700km飛翔した後に太平洋に落下したとのこと。

グアム方面を避けたのはアメリカをあまり刺激しないためのようにも思えるが、なぜこのコースを選んだのかは決定的なことはよく分からない。

北朝鮮としてはアメリカが報復をしないギリギリのところで挑発行為を続けるつもりなのかもしれない。
この「問題」が簡単に収束してしまわないように、できるだけギリギリの線で行動を続けるということなのであろう。

この状態は悲観的に捉えれば軍事衝突の発生半歩手前のものすごく危険な状態であるとも言えるし、やや呑気に考えるならこの辺が新しいバランス点であり、米朝両国は軍事衝突をギリギリ回避しつつ挑発や示威行動をずっと続けていく、という風に考えることも出来る気がする。

次にバランスが変化するのは、死亡やクーデターで金王朝が倒れる時か、弾道ミサイルの迎撃技術が成功率100%になった時だろうか。
ただミサイル迎撃が完璧になっても国境越しに韓国を砲撃などで攻撃されたりするとこれを防ぐことは不可能である。

ということでこの問題に関する限り、ものすごい手詰まり感というのを感じるわけであり、今出来ることは決定的な事態が発生しないようにうまくバランスをとりつつようすを見る、しか無いような気がする。


こんな時に例えば今話題の人工知能を使ったら、どういう選択肢が出て来るのだろうか。
ひょっとしたらアメリカでは問題の分析を人工知能にやらせているのかもしれない。
ただし人工知能というのは、答えを出すための「学習」にあたって数百万規模のデータが無いといけないらしい。
数万くらいのデータでケーススタディをするのでは全然足らないらしいのである。
だから人工知能は周辺的な情報の分析とかには使えるけれど、アメリカが攻撃に最終ゴーサインを出すような決定的な判断というのはたぶん出せない。

そもそもこの世には、「絶対的な正解」というのは存在しない。
だから人工知能に出来るのは唯一の正解を探してくることではなく、どちらかというと「最悪の一手ではない手」を提示することである。
そういうことが最近読んだ人工知能の本にも書いてあった。

そういう意味ではこの事態は何か将棋の勝負にも似ている気がする。

将棋のコツは「悪手を指さない」ことである、とプロ棋士の誰かが言っていた。
将棋では、ここは自分の手番だけれど、出来れば何も指さずにパスした方がいい場面、というのが意外に多くあるという。
現実世界も今将棋の勝負と似たようなことになっていて、最悪の手を避ける視点が必要のような気がする。
そのために、どんな行動が手筋が悪いか、その辺を読むことが今必要なんじゃないかと思ったりする。
posted by ヤス at 11:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月28日

映画「アメリカン・スナイパー」

昨日、Amazonプライムで大枚999円を払ってアメリカ映画「アメリカン・スナイパー」をやっと観た。
この映画はアメリカで2015年初頭に公開された戦争映画である。

舞台は2003年頃(たぶん)のイラク戦争、最初の戦場シーンはファルージャの街が出て来る。
そこに30歳で海軍特殊部隊「ネイビーシーズルズ」の地獄の訓練を突破した主人公クリス・カイルが狙撃兵として味方の海兵隊の援護をしている。

それでクリス・カイルの初仕事が、アメリカ戦車に向ってなにげに接近するイラク人の母親と10歳くらいの男の子の親子を射殺するところである。

母親が丈の長い服の裾から「対戦車手榴弾」を取り出して男の子に渡し、男の子はそれを持って戦車に向って駆け出す。
まずそこにクリス・カイルの初弾が命中して男の子は絶命。
次に母親が地面に転がる手榴弾を拾って戦車に向かうが、手榴弾を投げる瞬間に2発目が母親を貫く。
それが最初のクライマックスである。


この映画を観た後に、Amazonのレビューをざっと読んだのだけれど、平均的に評価は高いが低評価の意見もかなりあった。
低評価意見の概要は、イラク兵のデティール描写がほとんど皆無でアメリカ万歳型の国威発揚映画だと知って落胆した、とかいうものである。

確かに、敵方のイラク兵はほぼ99%その他の雑兵として出演するばかりで、ほとんど顔のアップを写すような表情描写すら無い。
わずかに、敵のシリア人で元オリンピック射撃選手のムスタファがアップになるシーンがいくつかある。
申し訳程度に、ムスタファが嫁と一緒に赤ん坊をあやす場面がちらっと映るくらい。
本来なら敵方の主役として、もっと丁寧に扱って観客のムスタファに対する感情移入を喚起して物語を盛り上げるのが映画の定石であろう。

しかしそれをやらないところがクリント・イーストウッド監督の特徴でありいいところだと思う。
この映画はそういう背景描写や心理描写の雑さも含めて、ある意味徹底したB級映画なのである。

イーストウッドの映画は、初期の頃に比べると最近になるほど有名俳優の出演が減っているように思う。
有名どころを排して制作費を安く抑え、スポンサーの意見に左右されない「作りたい映画」を作る。
その結果が「アメリカン・スナイパー」なのであろう。

だからハリウッド式・マニュアル式のストーリー展開になっておらず、娯楽作品としては戦闘場面の分量も少なめで上映時間も長めの、非常に退屈な作品である。

そして個人的な解釈によると、この映画はおそらく戦争映画ではない。
たまたま戦場で160人をスコープではっきり視認しながら次々に射殺した人間が最終的にどうなるのかを描いた「殺人者」についての映画である。

そういういかにも流行りそうにない映画は、若かりし頃のイーストウッド出演の映画のように、低予算のB級映画であるほうが都合が良い。
とはいっても制作費は58百万ドル、ざっくり60億円だから日本映画とは比べるべくもない。

とにかく個人的には非常に良い映画と思ったし、イーストウッド映画のナンバーワンかもしれないとも思った。
posted by ヤス at 12:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月27日

「らしさ」について

ふと「らしさ」とはなんだろうと思った。
男らしいとか女らしいとか、関西人らしさや日本人らしさとか、いろいろな場面で「らしさ」は使われる。
この「らしさ」のニュアンスの受け止め方については、良い意味に感じる場合とマイナスの意味に思える場合があるのである。

会社で新人がミスをして先輩がその新人をやんわりたしなめる時。
「◯◯さんらしくないね、今後は気をつけようよ」
みたいな使い方は、「らしさ」は良い意味で使われていると感じる。
この場合の「◯◯さんらしさ」というのは、本来のポテンシャルをフルに発揮している状態を指すのであろう。
阪神タイガースの藤浪晋太郎が、突然ストライクが入らなくなるのはある意味藤浪らしいと言えるし、しかし荒れ球なりに要所を締めるのが本来の藤浪らしいピッチングであるはずで、今の藤浪はある面藤浪らしいのに別の面では藤浪らしくない。

そういう、持てる能力を発揮しているか否かの「らしさ」がある一方で、その人の属性、階層、所属などに基づいた「らしさ」がある。
前述の男女別の「らしさ」とか、地域ごとのお国柄による「らしさ」とかである。

この場合は話が少々すんなりとはいかなくなる。
あなたが男性であるとか関西人であるとかいうことは、一定の事実であろう。
しかしだからと言って、あなたが男気に溢れていたりお笑いのセンスに秀でているとは限らない。
しかし、周辺の人々はついついあなたに「何からしさ」を期待してしまうことがあるようである。

多くの人間は心の奥底で、世界がある種の予定調和の下に流れていくことを期待しているのだと思う。
周りの人間の行動とか気候の変化や株式市況とかあらゆる事象が自分の予想の範囲内で変遷していくことによって、人間は心の平穏を保てる面があると思う。

人類の脳みそは、おそらく常に自動的に少し先の未来を予想する性癖があるようである。
その予測能力こそが、人類に生物界における現在の地位をもたらしたのであろう。
そして人類は、深層心理で自動的に予測している未来が次々に現実化すると安心し、反面予想が外れると精神不安定になる。(と思う)

そういう特性があるものだから、人類はいつの間にか周辺の人々に対しても未来の行動を知らないうちに予想しており、密かに予想通りに行動することを期待してしまっている。(と思う)
そういう人類の性癖が隣の人間に対する「らしさ」の期待を生んでいる。

隣の人間に様々な属性を当てはめ分類し、分類結果に基づいてその人の未来予測は行われる。
「この人は関西弁を喋る関西人だから次に面白いことを言うだろう」
という具合に。

しかしそういう属性分類に基づく未来予測は、いわゆる誤った一般化であり著しく論理性を欠く。

色々理屈をこねたわけであるが、「らしさ」を使うときは注意しないといけないなと思うのである。
posted by ヤス at 10:32| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月26日

ゼロ戦の強さについて2

昨日、帝国海軍の戦闘機・ゼロ戦の強さについて少し考えた。
ゼロ戦には、確かに機体強度や生産性などの問題があった。
しかし少なくとも対米戦争開戦当初においては十分すぎる強さを発揮して戦果を挙げた。
問題は戦争後半になって急速に陳腐化して行ったことである。

ゼロ戦の開発要求は、正式には1937年10月5日に提示されたらしい。
この時に設計主務者の堀越二郎も泣きを入れるほど、当時の技術では過酷な性能要求が並んでいた。
主には最大速度、上昇性能、航続距離、空戦性能そして当時他国でもほとんど採用例のなかった大口径20mm機銃の装備要求などである。

この過酷な要求に対し、設計チームは徹底した重量軽減策をもって臨み結果として要求の大半を満たすことに成功する。
それが大戦序盤の快進撃にもつながる。

しかしゼロ戦が強かったのが1942年までの開戦後1年間で、1944年に入るとアメリカ軍の反抗がいよいよ本格化して戦況がにわかに激化する。
その最中に行われたマリアナ沖海戦では、ゼロ戦隊を始めとする海軍航空隊はパイロットの技量不足や数的劣勢もあってほとんど壊滅状態に陥る。

この時に至ってゼロ戦の弱さが次々露呈する訳であるが、ではゼロ戦の当初の開発コンセプトは間違っていたのだろうか。

おそらく守勢に回ったゼロ戦の最大の弱点は脆弱な防弾防火対策だったろう。
それまでは「被弾しなければ良い」という考え方で、実際に相手の弾が当たることがあまりなかったのが、戦争後半になって周りは敵だらけで四方八方から敵弾が飛んでくる状況では、防弾対策の欠如はパイロットを激しく損耗し戦力低下に拍車がかかった。

また米軍機の半分のエンジン出力で速度差がかなり広がり、低い急降下速度制限と合わせて「追いつけない、逃げきれない」状況が増えてそもそも戦闘機としての基本能力を失っていたとも思われる。

だから後知恵で考えるとゼロ戦の能力向上策としては、エンジン換装により出力向上し重量増になる防弾対策と機体強化を実現して飛行速度も上げる、というのが結果的には正解だったろう。
だけれども海軍当局では堀越側から提案があったエンジン換装に対し最後まで決断ができなかった。

しかもそんなこんなで1945年初頭に紫電改が戦力化するまでの約1年間、海軍はほとんどまともに戦えなくなっていたゼロ戦で戦うしかなかった。

その紫電改も、元はと言えば開発会社の川西航空機の自主開発プロジェクトに海軍が乗った結果やっと出て来た機体である。

これは個人的推測だが、つまり大戦後半の帝国海軍はほとんど戦意を喪失していたということなのではないかと思う。
だから海軍上層部では戦争に勝つこと、または有利な講和条件を引き出す状況づくりとかを考える向きが皆無で、ゼロ戦の戦力低下はそのような海軍の心理状態をそのまま表していたのではないかと思うのである。

戦争というのはやるからには本気で勝ちにいかないといけないし、勝てそうにないなら始めてはいけない。
それが孫子の兵法以来の戦争の定石なのだろうが、しかし帝国陸海軍(というか政府)にはその辺の判断能力がなく、実はそれが日本古来の伝統なのではないか、と思ったりするのである。
posted by ヤス at 12:05| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月25日

ゼロ戦の強さについて

どうでもいいことだが、帝国海軍の零式艦上戦闘機の強さについて考えている。

零式艦上戦闘機、すなわちゼロ戦は1940年に対中国戦争に投入されてから1942年頃までは間違いなく世界最強の戦闘機であったようだ。
それが1943年頃を境に急速に勝てなくなって行く。
それまでは圧倒的なキルレシオでアメリカ軍機と戦っていたのが、急に逆転されるのである。

ゼロ戦の設計思想についてはこれまでにたくさんの議論がなされており、賞賛と批判と両面がある。
賞賛の声ついては、基礎工業力が未熟な1940年当時の日本においてとりあえず世界最強の戦闘機を開発し、空母に乗せて各地を転戦し、多くの戦果を挙げた事実に対してであろう。

一方の批判意見としては、機体強度が軍事用の「戦う道具」としてはあまりにギリギリの線で設計されている点。
また燃料タンクの防弾防火や操縦席周りの防弾装備が全くの未装備である点などであろう。
機体の強度不足は、何度かの空中分解事故にもつながっている。
さらに急降下速度制限が同時代の米軍機に比べて非常に低く、旋回で敵を追い詰めても急降下で逃げられるという問題点が、ゼロ戦関係の書籍を読むと度々出てくる。
あるいは重量軽減用に構造部材の至る所に肉抜きの「穴あけ」が行われており、これが生産性を著しく阻害していたこともよく問題として取り上げられる。

しかし急降下速度や防弾装備の欠如は、日本海軍が攻勢を保っているときはあまり問題にならなかった。
それが1943年以降に米軍が新型機を繰り出し、またゼロ戦対策として編み出したサッチウィーブ戦法と呼ばれる編隊戦法を徹底するようになるとかなり分が悪くなった。
やがて量的にも日本軍は常に圧倒されるようになり、歴戦のベテランパイロットもどんどん戦死してゼロ戦はただの鈍足の旧式機になってしまう。

そして、本来なら1944年初頭頃に後継の新型機が出てしかるべきだったのが、1942年10月に次期艦上戦闘機「烈風」の開発が始まったばかりで実用化の目処は全く立っていなかった。

一方の陸軍は、開戦当初の主力機「隼」はゼロ戦に対しやや性能不足だったが、二式戦「鍾馗」、三式戦「飛燕」、四式戦「疾風」と異なるコンセプトの新型機をコンスタントに投入している。

この陸海軍の開発ペースの違いがどこから来たかということである。
わたしの憶測では、海軍は対米戦争として1年程度の短期決戦しか想定していなかったというのが大きく影響したのではないかと思う。
山本五十六あたりは、戦争が長引けばそれはすなわち日本側の負けを意味すると思っていたのではないか。

だから当時の技術水準でギリギリ到達可能な極限性能の兵器を用意して、開戦したら一気呵成に勝つ。
そういう思想の元にゼロ戦の開発は行われたのではないか。

また、帝国陸軍は兵器性能が劣るのを兵士の「敢闘精神」でカバーし、その一方で海軍の方はマニアックに高性能化した兵器性能に頼る傾向、というのも影響したのではないかと想像したりしている。
posted by ヤス at 15:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月24日

ホンダジェット、カテゴリー首位に

自動車会社のホンダが(というか関連会社が)開発製造し、現在絶賛販売中のホンダジェットが2017年上半期に小型ジェット機の販売シェアで、約4割を占めてトップに躍り出たらしい。
ライバルは2000年代初期にデリバリーが開始されたセスナの「サイテーション・マスタング」やエンブラエルの「フェノム100」だという。

ホンダジェットも含めてこれらの機体は、パイロット2名プラス乗客5〜6名でジェットエンジン2発、全長・全幅12m余りの機体サイズの超軽量ジェット機という分類になる。

ウィキペディアで調べると、サイテーションやフェノム100以外にも主要な超軽量ジェット機の一覧が出ている。
この表には巡航速度や航続距離、機体価格なども載っているのだが、これを見るとホンダジェットの特徴は最大巡航速度が他より際立って速いこと、そして値段が一番高いことである。
航続距離は大体どれも2000km程度で大差ない。

値段は、ウィキペディアには「$3.65m」と出ている。
365万ドル、今のレートでちょうど4億円。
他は、セスナのサイテーションが$2.65m、エンブラエル・フェノム100が$3.6mである。
値段的にはベストセラー機のセスナが安く、エンブラエルはややエンジン出力が大きくその分速度性能が上で、値段も高い。

ホンダジェットのエンジンはさらに高出力で最大巡航速度は778km/hと、セスナ630km/h、エンブラエル704km/hよりだいぶん速い。
セスナで1000km飛ぶと単純計算で1時間35分かかるところがホンダジェットでは1時間17分で着く。
しかもホンダジェットのエンジンHF120はホンダが自主開発したものをジェットエンジンのトップメーカーGEとの技術提携で実用化した新型エンジンで、燃費は従来機より40%向上しているという。

さらにホンダジェットの最大の特徴はそのエンジンの搭載方法で、通常双発の小型ジェット機では2発のエンジンを胴体後部、尾翼の少し前に横向きの支持ブームに固定する方法をとる。
それがホンダジェットでは主要付け根の後端に縦向きの支持ブームを介して装着している。
こうすると空気抵抗的に有利なのと胴体を貫通する構造物がなくなって内部容積を有効に使えるらしい。

ということであるが、ホンダジェットは数々の新技術を導入された新型機なので性能的に従来機を上回るのはある意味当たり前なのである。
また、サイテーション・マスタングもフェノム100もデビューから3年後くらいがデリバリーのピークで年間約100機に到達している。
その後徐々に機数が落ちていってデビュー10年くらいで年間10機くらいのペースになるようだ。

そういう「デリバリー曲線」がこのマーケットの一般的な特性なのであろう。
するとホンダジェットが2015年12月24日の初デリバリーから2年程度経って、年間製造数が100機ペースになったとして、それは理想的な成功のパターンではあるが想定を大幅に超える事態である、とまでは言えないのだろう。

ホンダジェットの成功は、ピークの製造ペースをどれくらい長く維持できるか、そして派生型の開発でより幅広く市場を押さえて行くことができるかどうかを見るまでは決して油断はできないのである。

まあしかし、ホンダジェットが成功への第一歩を歩み始めたこともまた確かだろう。
三菱のMRJもぜひホンダの後に続いて欲しいが、こっちはちょっと「不成功」への道を確実に歩んでいるようでかなり心配である。
posted by ヤス at 08:37| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年08月23日

紫電改展示館

この間、愛媛県の南宇和郡に行って1979年に海から引き上げられたという、旧帝国海軍の戦闘機「紫電改」を見てきた。
「紫電改展示館」という建物に鎮座された紫電改は、いちおう大規模な修復がなされて塗装も塗り直されている。
しかし34年間海中にいた間に腐食が進んだのだろう、期待外板の至る所に穴が空いている。
また元の場所から外されてバラした上で綺麗に掃除された計器や無線機なども、いちおうゴミなどは取り除かれているが全体に茶色く変色していて、やはり海底に長く眠っていたことを物語っている。

この展示館に展示されている紫電改は、戦争終結間近に愛媛の松山を拠点に活躍した第343海軍航空隊に所属していた武藤金義中尉の機体であるらしい。
武藤中尉機は1945年7月24日の大規模な空中戦で米軍に撃墜され、南宇和の久良湾に不時着水したのを現地の人が憶えていたらしい。

現場の状況から機体引き上げは難しそうだったのだが、1979年当時は武藤中尉の遺族も健在で、また343空の司令だった源田実は当時参議院議員をやっていて、それらの人々が尽力して武藤中尉の紫電改引き上げが実現した。

1979年の当時わたしは中学生だった。
海底で発見された紫電改が引き上げられたというのは、その頃けっこうなニュースになってテレビでも放送されていた。
当時、戦闘機とかのミリタリーものにハマっていたわたしは当時の「紫電改引き上げられる」のニュースをかなり鮮明に憶えているのである。


戦争中、帝国海軍は陸軍航空隊に比べると新型機(つまりゼロ戦の後継機)の開発が滞り気味だった。
ひとつにはゼロ戦があまりに強過ぎ、1943年頃までは戦力として十分に機能していたということがあったのだろう。
しかし戦争に強いアメリカ軍はF4UコルセアやF6Fヘルキャットなどの新鋭海軍機、続いてP47サンダーボルトやP51マスタングなどの陸軍新型機も続々と出てきて、また従来からのF4Fワイルドキャットも空中戦の戦法に工夫を凝らしてゼロ戦はどんどん勝てなくなってきた。

そこに登場したのが水上戦闘機「強風」から陸上機に改造した「紫電」、それをさらに改造した「紫電改」である。
紫電改はエンジンや機関銃の調子が万全なら米軍機と互角以上に戦えた最後の海軍機である。

しかし紫電改を開発製造した川西航空機(現新明和工業)は小型機の製造に不慣れで、だから工場から出てきた紫電改の外板を斜めから見るといかにもシワシワで性能発揮に少なからず障害になったという話である。

展示館の紫電改は、シワシワの上に海水による腐食で穴だらけで、そもそもものすごく悲壮なバックグラウンドの紫電改が、一層の哀愁を帯びて見えたのだった。
posted by ヤス at 10:45| Comment(3) | 徒然なるままに

2017年08月22日

最近の戦争について

今、日本周辺、極東アジア地域では北朝鮮の核ミサイルをめぐる問題があって緊張状態が続いている。
さらに大勢が犠牲になるテロ事件がヨーロッパでも頻発するようになっている。
ということで現在の世界は軍事的にかなりの緊張状態にあるようである。

しかし考えてみると、第二次世界大戦のような世界中の主要国が参戦する大規模な戦争は長いこと起きていない。
またこの20年くらい、起きている紛争は正規軍同士の正面衝突型の戦闘はほとんどない。
おそらくサダム・フセインを滅亡に追い込んだ2003年のイラク戦争以降、大規模の戦車隊がぶつかったり戦闘機の空中戦が発生した「本格的な戦争」は起きていないのではないかと思う。

それ以前には、朝鮮戦争、ベトナム戦争や第一次から四次まであった中東戦争や、イラン・イラク戦争、フォークランド紛争、そして湾岸戦争と、正規軍同士が本格衝突するタイプの戦争がいくつかあった。
それがこの30年くらい、つまり東側の消滅による冷戦終了後はほとんど起きておらず、各地では国内対立の内戦とか、テロ組織や非正規軍に対する非対称戦がほとんどなんじゃないかと思う。
(あまりちゃんと調べていないけれど、概ねそうだと思う)

第二次大戦が終わって国連ができて、国連憲章で紛争解決手段としての戦争が国際法違反になった。
そしてその後に日本国憲法ができて日本も国連憲章並みに戦争を放棄した。
そういう意味では日本国憲法の平和主義は単なる国際法準拠であると思う。
70年前に国際社会はみんなで戦争を放棄して、今後国同士が戦争するのを止めようということにした。
しかしその平和を希求する空気がまだ冷めやらないうちに朝鮮戦争が起きて、その後も色々と大規模戦闘が度々起きていたのだけれど、それがやっとここ最近落ち着いてきた、ということは言えるのではないか。


で、ここにきて北朝鮮問題である。

アメリカという国は戦争に強い。
今アメリカと通常戦力で戦って勝てる国はないだろう。
最近のアメリカ軍の強さは空母や一線級軍用機の数が圧倒的というだけでなく、兵器単体の能力が他より抜き出ていて一方的なキルレシオで戦闘遂行できるのが強みである。
戦車戦でも空中戦でも相手が気がつかないうちに米軍側は敵を発見して撃破できる。

20世紀以降の大規模紛争や戦争には多くの場合アメリカが絡んでおり、この20年くらいでアメリカの兵器と旧ソ連製兵器や中国製兵器は性能差が隔絶して勝負にならなくなっている。
それが最近本格的な戦争が起きなくなった理由のひとつだと思う。

それは北朝鮮もそう思っているに違いない。
北朝鮮としてはアメリカとの正面戦闘を回避するために核兵器やミサイルをチラつかせている側面がある。

圧倒的に強いアメリカ軍であるが、イラクで圧勝した後の戦後統治のまずさは大きな教訓として残った。
万が一、米朝で戦端が開かれることになった場合、あるいは「ギロチン作戦」が遂行された場合、アメリカはとりあえず勝利するだろうが中国との関係もあって戦後統治はかなり難しそうである。

その戦後統治の構想がうまく出来上がらない限り、アメリカが戦争を仕掛けることはないのではないか。
戦争になったら韓国で100万人規模の犠牲が出るという以外には、その辺が戦闘開始のネックになるはずである。
などと思ったりした。
posted by ヤス at 15:35| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月21日

日米の組織の違い

なんとなくネットニュースをだらだら眺めていたら、元Facebookの顧問弁護士がベンチャー企業のCBOに就任したというのがあった。
ニュースの内容にはさして興味は湧かなかったのだが、CBOというのが何の意味なのか分からないのが引っかかった。
と思ったら記事の最初の方に出ていて、「CBO=チーフ・ビジネス・オフィサー」らしい。
思ったよりも普通で肩透かしを食らった気がした。

しかしCBOというのは何の役割を果たすのだろう。
これも記事中に説明がある。
「ビジネスの戦略や会社の将来について考える、法務、人事、採用、PR、社内コミュニケーション、マーケティングなど領域は多岐にわたる」
などと書いてある。

これは日本式に言うと何の役職になるのだろう。
おそらく仕事の内容としては「経営企画」がいちばん近い気がする。
だからCBOは経営企画担当役員くらいのところだろう。

そんなことを考えていてふと思ったことがある。
それは日米における、組織とその組織の長の関係についてである。
なかなか手短に説明できないのであるが、どうもアメリカの組織の長というのは、組織よりも「先にある」のではないかという気がしたのである。

つまり一人の組織長のキャラクターや方針が、その下につく組織の内容を決定するのではないか。
先頃、我が国では内閣改造が行われたが、我が国の省庁組織と大臣の関係は、まずほとんど「その省庁の頭に乗せても差し支えのなさそうな人物は誰か」という視点で行われる。
数万人の構成員からなる省庁組織の仕事内容や「性癖」はほとんど永久不変で揺るぎがなく、上に戴く大臣の誰彼に左右されない。

そこへ行くとアメリカでは、誰が長官に就任するかによってその組織の戦略方向や仕事の内容や省庁の上位スタッフの顔ぶれなんかもガラリと変わるのだろう。

このような日米差は一体どのように生じたのだろう。
ここからは概ねわたしの推測である。

やや唐突だが、これは多分それぞれの国の軍隊組織の性向が強く影響しているのではないか。

アメリカというのは、建国以来ずっと戦争を戦ってきた。
南北戦争のような大規模内戦もあったし、もちろん二度の世界大戦、朝鮮半島やベトナム、アフガン、イラクなどの対外戦争も大小さまざまに手がけている。

一方の日本も近代以降大規模対外戦争を何度か経験している。
しかし少なくとも聖徳太子から以降の長い歴史の中で考えると、対外戦争をしていない時代が圧倒的に長い。
アメリカの方は歴史は短いが、建国以降ほぼ隙間なく戦争をしているのではないか。

戦争では、敵の繰り出す新兵器や新戦術にいかに柔軟に対応するかが勝利のカギを握る。
そして少なくとも最近の100年200年の期間においては、アメリカの方が多くの戦争を経験し、時々負けているが、しかしちゃんと勝ち残っている。

そのあたりの軍事的なしぶとさが、企業組織づくりにも大きく影響しているのではないかという気がした。
まあ例によって気のせいであるようにも思うのであるが。
posted by ヤス at 10:33| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月20日

人に褒められること

人に褒められると悪い気はしない。
大昔、なんかの研修で初対面の人の心を掴むのにとにかく褒めろ、みたいなのがあった。
その時にどういうポイントをどのように褒めたらいいかとか、いくつか要点があったと思うのだが今となってはすっかり忘れてしまった。

とにかくも、人は上手に褒められると脳の中でなんか気持ちよくなる快感物質が出てくることは間違いない。
それによって褒めてくれた相手に自然に好意を持つことになる。
そうすると以降のコミュニケーションがスムーズになる。

しかし少し心のねじれた人間にとっては、そういう予備知識は少し別の効果を生む。
あまり面識もないのにやたらと褒めてくる人がいると、これは何か背後に良からぬ企みがあるのではないかと警戒したりすることになるのである。

しかしおそらく、人に褒められた時の模範的な態度は褒めてくれたことに対しできるだけ素直に謝意を返すことなのだろう。

こういうコミュニケーションのせめぎ合いは、男性と女性では女性の方が圧倒的に上手であるように思う。

「奥さんほんとにいっつも若くて羨ましいわあ」

みたいな明らかな「お世辞」に対し、満面の笑みで「もーほんまやめてよお」と本気の嬉しそうな顔をする。

そのような迫真のやりとりは日常しょっちゅう目にするわけであるが、心のひねくれた中年のおじさんにとっては少なからず理解不能のやりとりであった。
しかし最近になってだんだんと見直すようになってきたのであるが、前述のおばさん連中のやりとりには少なからず「本気」の要素が含まれているということにようやく気がついた。

本気であからさまなお世辞を言う、お世辞を言われた方も本気で嬉しがって見せる。

この点については、おじさん連中がビジネスの現場で時折見せる毒にも薬にもならないお世辞の交換と比較すると、かなり魂のこもったコミュニケーションであると言うことができる。
まあおじさんの場合でも、根限り目の前の相手を持ち上げ、褒めそやし、思いつく限りの長所を並べて賞賛する人が稀にいたりするのであるが。

わたしとしてはこれまではそういう過剰に相手を褒める人を見る時に、それはいくら何でも褒め方が過ぎやしないかとやや不思議な気持ちでいたのであるが、だが少々長く生きてきて、一周回ってやっと根限り人を褒めることの効果がだんだん分かってきたような気がする。

ただし褒められて本気で嬉しがることは重要なポイントだが、しかし頭の片隅ではそのお世辞を真に受けない冷静さを保たねばならないことは言うまでもない。

特におじさんの場合は、年を経るにつれて褒められることが増え叱られることが減るので要注意である。
人生まだまだ学ぶことが多い。
posted by ヤス at 07:14| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年08月19日

スペインのテロ

スペイン・バルセロナでテロ事件があった。
今回のテロは銃器や爆発物を使うのではなく、レンタカーで繁華街を暴走するという手口であった。

武器・兵器の類を使わない、ありふれた自動車を使う手口は、日本の秋葉原で発生して以来世界中で度々起きている。
自動車プラス銃器のパターンもあったけれど、自動車だけを使う場合、事前に察知して取り締まることが非常に難しいと思う。
しかも今回もテロの舞台となったのは観光客が多数集まることで知られるランブラス通りだった。

このような人が集まる通りというのは世界中に無数にあるだろう。
そして自動車を1台用意してその繁華街を暴走するのは、テロ組織でなくても、個人でも簡単にできてしまうことである。
今回のような事件はたった一人の意思で突発的に起こすことができる。
先日法案成立した「テロ等準備罪」でも十分には取り締まれないに違いない。


事前の取り締まりが難しく、かといって世界中の人通りの多いストリートを交通制限するわけにも行くまい。
考えられる対策としては、この手のストリートを歩行者専用にして物理的に自動車の侵入ができないようにしてしまうことだろう。
しかし地形や周辺交通との兼ね合いでそのような対策は困難な場合が多いかもしれない。

ということは、しばらくの間人類はこの種のテロと共存していくしかないのだろう。
一部の報道でも、バルセロナでは事件発生直後、ものすごくスムーズに通りの店舗が一旦店を閉め、また通りにあふれた人々をカフェなどに収容するなど、「テロ慣れ」している様子が流れていた。

実際イラクのバクダットでは日常的に爆弾が爆発しており、商店街で爆発した時でも2〜3時間後にはいつも通り商売が再開するくらいテロの頻発現場では「テロと一緒に生活」している人々がいる。

テロの防止は犯人を検挙し、組織を摘発して発生源を潰していくのはもちろん必要だと思うが、やはり根本的な原因を突き詰めて、そこに手を入れないと本当の平和は訪れないのは言うまでもない。

そしてテロの凶暴性は、扇動者や実行犯など犯人たち固有の問題というだけでなく、人類の中からなかなか無くならない暴力性の取り扱い方の問題として全く普遍的な問題であるので、これはたぶん人ごとではないのである。
posted by ヤス at 13:38| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月18日

タバコの匂いの思い出

ごく稀に、ではあるのだが、マクドナルドのトイレに入るとタバコの匂いがぷーんとすることがある。
マクドはずいぶん以前から全面禁煙である。
愛煙家がケムリにありつくためには店外に出なければならない。

トイレでタバコ吸った奴は、よほど禁断症状が差し迫っていたのだろうか。
あるいは、そういうことではなくて単なるくそガキの高校生かなんかが、いちびって吸っただけなのかもしれない。
そういえば大昔の高校のトイレも、たまにニコチンの香りが漂うことがよくあった。

しかしなぜ彼らはトイレでタバコを吸うのか。
トイレというのは学校でもお店なんかの場合でも、あまりジロジロと監視がしにくい場所である。
だから吸う方も腰を落ち着けてゆっくり吸えるのだろうか。

学校や店のトイレ以上にひどいのは、道の駅とかドライブインの公衆トイレだろう。
こういうトイレは外観が薄汚れて少々見た目に難があると同時に、トイレ的なアンモニア臭になぜかタバコの匂いが混ざって独特の臭気を放っている。

私の鼻はその臭気をすっかり憶えてしまって、久しぶりにそれを嗅ぐと思わず懐かしい感じさえしてしまう。

ちなみにわたしはタバコは非常に苦手である。
学生の頃は周辺はみんなどんどん吸い始めて愛煙家の率は半分以上になっていたのではないかと思う。
わたしは当時水泳をしていたからあまり吸おうとも思わなかったが、試しに吸ってみたことはある。
おそらくわたしの長い人生で一箱分以上は吸ったことがあるのではないかと思う。
幸いなことにその後もわたしは「常習者」への道を辿ることもなく、むしろ嫌煙家の方へどんどん傾いていった。

ただこれだけタバコをめぐる環境が厳しさを増す中にあっても、周辺にはどうしてもやめられないヘビースモーカーがけっこういる。

愛煙家が禁煙することの困難は、わたしには今ひとつ理解が難しいが、しかしタバコを吸った時の気持ちよさについては分からないこともない。

というのも学生時代のある時に、住んでいたアパートの下の住人が「中毒者」であったらしく、時々煙の仄かな香りが上まで上がってきていた。
それが非常にかすかな香りであり、そういう薄い香りの場合はなんだかこっちも気持ち良くなることがあった。
特に夜中に、寝る前に一本吸っているのだろう、その夜中のかすかなニコチンの香りにはちょっと毎回楽しみになるくらい危うい気持ち良さが含まれていた。

だから吸った時の気持ち良さはなんとなく想像つくのだが、でもとなりでプカプカやっているのとか、大量の吸い殻が発する強烈な悪臭は、やはり堪え難いものがある。

だからせめてトイレの匂いとタバコのそれを混ぜるのだけは、今後謹んでもらいたいものだなあ、と思っている。
posted by ヤス at 12:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月17日

東京オリンピックのマスコット

この8月の前半、2020年東京オリンピックのマスコットのデザイン募集があったらしい。
募集は14日に締め切られて2042件の応募があったそうだ。

先に行われた大会のシンボルマークの募集では1万点を超える応募があったらしいのでそれに比べるとずいぶん少ない。
何でもマスコットの募集にあたっては提出物として基本デザイン案と基本デザイン案を上下左右など6方向から見た図面、さらに表情2種類、競技別デザイン案2種、及びマスコットのプロフィール(制作意図、特徴、オリンピックマスコットとパラリンピックマスコットの関係性)を出さないといけなかったらしい。

そのようにやや複雑な提出物が求められたためにシンボルマークに比べると応募が少なかったようだ、と報道は伝えている。

本当だろうか。
まあシンボルマークと比べると確かに面倒臭かったのかもしれないが、ひょっとして東京オリンピックは開催2年前にしてすでに日本国民に飽きられているのではないか、と考えるのは少し意地が悪いかもしれない。


しかし最近のオリンピックにはこのようなマスコットキャラクターの存在がお約束になっているらしい。
ちなみに2016年リオオリンピックのキャラクターはどんなだったかと思うが全然思い出せない。
日本のオリンピック組織委員会が作成したマスコット応募要項の下の方に例として出ている。

黄色い頭の大きくて手足がひょろ長いサルみたいなのに加え、頭に葉っぱがいっぱいの青っぽい謎のキャラがパラリンピックのマスコットらしい。
ちなみに名前はオリンピックマスコットの黄色いサルみたいのが「ヴィニシウス」で、パラリンピックが「トム」だそうだ。(恐ろしく変な名前だ)
ビニシウスもトムもブラジルの有名な音楽家かなんかの名前らしいが、当然ながらわたしはまったく知らない。
(ビニシウスは有名な「イパネマの娘」の作詞者だそうだ)

リオのマスコットは30万票以上の投票の末に決まったそうだが、人口2億の国で30万票の投票は国民的に盛り上がったということなのだろうか、少し心配になる。

ところで日本のオリンピックマスコットは日本全国の小学校で投票が行われるという。
日本の小学生は、以前よりかなり減ったとはいえ全部で600万人以上いるのでブラジルのマスコット投票より総数は増えることが予想される。
この辺、盛り上がりの演出としてはうまくやっているのだなあと思った。
ちなみに小学生の投票は「強制ではない」そうだ。
非常に現代的である。

小学校での投票に先立ち、審査委員会であらかじめ3〜4案に絞り込むらしい。
どうせなら100案くらいで小学生に投票してもらった方が突拍子もないのが選ばれて面白いのではないかと思ったりするのだけれど。

しかしよくよく考えてみると、先に行われたシンボルマークの一連の騒動は一種の炎上マーケティングとしてかなり盛り上がった。
今回のマスコット選考は、気のせいかかなり盛り上がりに欠けるような感じなので、再び炎上するのに奈良のゆるキャラの「せんとくん」みたいな不気味キャラクターが選ばれたりすると面白いと思うが、多分煮ても焼いても食えない無難なモノに落ち着くような気がする。

ただ審査委員にしょこたんがいるので、彼女のセンスが選考に活かされて妙なデザインが選ばれることを少しだけ期待しておこうかと思った。
posted by ヤス at 13:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月16日

中国の対北制裁

北朝鮮が今月下旬にも実施する、としていたグアム周辺へのミサイル発射を延期したらしい。
ここまでアメリカがどう動くか見極めていたのだろう。
わざわざ延期を明言したのは、実際にミサイルを発射した場合にあるいはアメリカからの攻撃がありうると思ったのかもしれない。
たとえミサイルの着弾がグアムから数十km以上離れていたとしてもである。
そういうことではアメリカ側が発していた、「反撃を辞さず」の過激な反応が功を奏したということになる。

またここへ来て中国が北朝鮮に対する経済制裁に踏み切る姿勢を示した。
北朝鮮からの石炭などの輸入を昨日15日から全面的に止めるらしい。
しかし中国からの石油その他の戦略物資の輸出については報道に入っていない。

石炭輸入を止めて北朝鮮経済にどの程度の影響があるのかよく分からないが、一応貿易統計上は北朝鮮の対中貿易の半分くらいが石炭らしい。
それを止めると当然北朝鮮としては大打撃になる。

しかし過去数年、同様のケースはこれまでにもあったようで、検索すると昨年もミサイル(この時は北朝鮮はまだ「ロケット」と呼んでいたと思う)発射に対する制裁で、石炭貿易を停止するニュースが流れている。
しかし結果、過去の中国の対北制裁は何の効果も発揮していないようである。
もし額面通りに貿易が止まったのなら北朝鮮経済に深刻な影響があり、ミサイルや核開発どころでは無くなっただろう。

しかし現実には北朝鮮の技術力は衰える気配がない。

あるいは「政府の監視をかいくぐった」密貿易が中朝国境で行われているのかもしれない。
個人的には多分そうなのだろうと想像する。
つまり中国は本気で北朝鮮を止めるつもりがないのだろう。

多くの人が指摘している通り、北朝鮮の暴走を止める鍵は中国が握っているのだと思う。
中国が「本気」で経済的に締め上げれば、さすがの北朝鮮とて根を上げるに違いない。
でも中国は決して本気にならない。

少し歴史を俯瞰すると、日本や朝鮮半島は19世紀以降アメリカが太平洋側に勢力を伸ばして来て進出した(アメリカから見て)西の端である。
南の方では一旦はフィリンピンまで勢力圏に入れ、一時はベトナムなどインドシナ半島も窺ったが撃退された。

フィリピンの駐留米軍は撤退(その後南沙問題があって再駐留したらしい)したので、現在アメリカの対アジア最前線は朝鮮半島であり、日本はその後方陣地である。

冷戦時代、幸いなことに極東アジアで米ソ直接戦争は発生せず、現在のロシアは海軍力を大幅に縮小しているので海洋覇権をアメリカと争う可能性がほとんどなくなった。

問題は経済的にも軍事的にも伸長著しい中国だが、一方で米中は間に日本や韓国も挟んで莫大な貿易関係がすでに出来上がっている。
だから合理的に判断するなら米中戦争というのは起きようがない。

ということは北朝鮮とアメリカの軍事衝突も起きないことになる。
少なくとも北朝鮮が暴走しようものなら、その時こそ中国が本気を出すだろう。

問題は北朝鮮が、あるいはアメリカの大統領が合理的思考を失った時である。
でも多分彼らは呑気な日本人なんかよりよほど必死で将来についての計算をしている気がする。

昨日は72回目の終戦記念日だったが、「戦後」の歴史はまだまだくすぶって煙を出しているようである。
posted by ヤス at 09:52| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月15日

勝つための苦労

昔、マラソンで有名な宗兄弟が繰り返し言っていたことがあって、それはマラソンでは優勝する選手がいちばん楽をしている、ということだった。

それはそうだと思う。

最後に、ライバルよりどれだけ余分に力が残っているかがマラソンで勝つための必要条件であることは間違いない。

これは宗兄弟と同時代に戦った瀬古利彦をたぶんに意識しての発言なのかもしれない。
瀬古のレースは、終盤までポーカーフェイスで集団の中で先頭を窺っていて、勝負所で苦もなくスパートをかけて一気に引き離す。
あるいは大きなリードが奪えずゴール直前まで付いてこられても、最後の200m、100mを短距離走のスピードで走ってライバルを振り切る。

ああいうレース展開はよほど終盤に向けて余力を貯めていないとできるものではない。

一方の宗兄弟は、勝つ奴がいちばん楽をすると言う割にはラストスパートで勝つ印象がない。
特に兄の茂は、いつも30km過ぎて後れを取って、しかしそこから粘りに粘って上位に食い込むという展開がものすごく記憶に残っている。


勝つためには楽をしなければいけない。
この命題は、いろいろ考え詰めていけばいくほど真理であるように思えてくる。

この逆さまの言い回しは、勝つためには苦労をしないといけない、ということになる。
世間的な常識としてはこちらの方が通りが良いに違いない。

しかし、同じ勝つなら苦しみ骨を折る修行はしたくない。
人間、誰しも本当は苦労なんかはしたくないのである。
だが勝つためには一定の苦しみの蓄積が必要とされる。

少し天邪鬼に考えると、勝つために苦労が必要という考え方は勝てなかった奴の負け惜しみなのではないかと思える。
「自分は一番にはなれなかったけれどこれまで誰よりも苦労を重ねた。だからそこに一定以上の尊さがあるのだ」
そういう風に言っているように思える。

オリンピックなどでは、金メダルは大抵一つの競技で一つしかない。(団体競技を除くと)
だからどうしても銀メダル銅メダルの選手が発生することは避けがたい。
しかもスポーツ競技ではトレーニングの蓄積以外にも身体の遺伝的特性とか、頑張っても変更不能の要素もあって必ずしも最高のトレーニングが金メダルに直結するわけではない。

だから必ずしも銀や銅の結果が金に劣るとも言い切れないのだけれど、しかし少なくともわたしの目には、孤高の金メダリストには、しばしば優雅に戦っている感じというか、孤高の勝者だけが持つ心の余裕みたいなものが見えるような気がする。

勝ち負けの世界における本当の価値は、決して苦労の多寡では無く有効なトレーニングをどれだけ積み上げることができたかということだろうと思う。

そういう意味のことをいつも苦しそうに走っていた宗兄弟が言っていた、というのがまた説得力があるよなあ、と思ったのだった。
posted by ヤス at 09:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年08月14日

北朝鮮問題

お盆休みであるが、今朝も日経平均株価はかなり落ちている。
北朝鮮情勢の影響だろうか。
韓国のサムスンなんかもかなり株価をさげているそうである。
そして先に報道されていた、「8月中旬までに弾道ミサイルをグアムに向けて発射する計画を策定」の8月中旬にそろそろなる。

事態はどういう方向に進むのか、かなり気になる。
それで、いくらか個人的妄想も交えながら今後について想像してみる。

まず、アメリカと北朝鮮の間で直接的な武力衝突の可能性があるのか。
パターンはいくつかあって、北朝鮮がアメリカの領土にミサイルを打ち込む、あるいは韓国または日本の米軍基地にミサイルを打ち込むというのがひとつ。
逆にアメリカが北朝鮮を攻撃するパターンがあって、これは巡航ミサイルや爆撃機でミサイル発射拠点などを空爆するのと、地上軍を北朝鮮領内に侵攻させるのとがあるだろう。

しかしどのパターンも当面起きないと思う。
直接戦闘の発生は、米朝ともにメリットはまったくないからだ。

北朝鮮の後ろには中国がいる。
もし北朝鮮が無くなると中国はアメリカ勢力圏と直接境を接することになって都合が悪い。
だから中国は北朝鮮の存続を強く望んでいる。
できれば韓国を北朝鮮に併合してアメリカ勢力を大陸から一掃したいと本心では思っているに違いない。

アメリカはその逆で、北朝鮮を消滅させて半島を強固な橋頭堡にしたい。
数十年間その思惑が絶妙にバランスして今日まで来ている。

まったく国際関係というのは危ういバランスの上に成り立っているのだと感じる。
そのバランスが、北朝鮮の核開発成功と弾道ミサイル技術の進展でガタガタ揺れ始めている。


金王朝の基本方針は南北統一である。
そして初代の金日成の時から、南北統一のために核を持たねばならないと腹を決めてこの営々と核開発を続けてきたのである。
およそ60年間核開発を続けてきてやっと実用になるモノが出来た。
この核は、少なくとも建前上は南北統一のための手段であって対アメリカ戦争の道具ではない。

そういう意味でも北朝鮮はアメリカを攻撃する意欲はない。

しかし現実として北による南北統一が成立するとはとても思えない。
金王朝の下の統治を韓国民衆が認めるわけはないのである。
また金王朝はギリギリの緊張状態においてやっと存続可能な体制であるとも考えられる。
万が一南北統一が出来上がると、その瞬間から王朝は自壊するのではないかと思う。

したがって今後、北に核が有る状態での新しいバランス状態がまた始まるのかもしれない。
ということは、とりあえず最悪の事態は起きないと考えていいのではないかと思う。

いずれにしてもカギを握るのは北朝鮮そのものよりは背後にいる中国である。
北朝鮮問題がここまで危うくなったのは、ひとつには米中の力関係が最近かなり中国の方に傾いているということなのだと感じる。


posted by ヤス at 12:28| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年08月13日

ヤマト運輸の将来について

この間、糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」からメールが来ていた。
わたしは過去に数回「ほぼ日」の通販サイトで買い物をしたことがあり、その時に情報を登録したので今回メールが届いたのだと思う。
それでメールの内容は、配達業者がこれまでのクロネコヤマトから日通のペリカン便に変わりますよ、というものだった。

ここからは推測だがクロネコヤマトは今、取引先の大幅な見直しを進めているのであろう。
おそらく、企業の大口先を整理して個人客などの小口先に絞り込む方向にシフトしているのではないか。

それでちょっと前にクロネコヤマトを作り上げた故・小倉昌男氏の「経営学」を読んだのを思い出した。

同著によると石油ショック後の1970年代に父親が創業した大和運輸の社長に就任した小倉昌男氏は、従来の企業顧客からの受託で荷物を運送していたのを個人客の小口荷物中心の営業に全面スイッチするという、当時の感覚としては恐ろしくクレージーな新規事業に打って出て現在のクロネコヤマトの礎を築いた。

その時に有名な話で大口顧客である百貨店の三越、当時はあの社長解任されて「なぜだ!」と叫んだ岡田茂氏がまだ社長だったが、その岡田氏に取引停止を通告したりしている。
また直接の競合先であった郵便局と喧嘩をしたりしたのも当時話題になった。
古い話なのでオジさんでないと知らないかもしれないが。

とにかく、クロネコヤマトのヤマト運輸は大口荷物から小口荷物にシフトして今日がある、という歴史的経緯を考えると、アマゾンやその他の通販サイトの大口需要がどんどん増えるのは事業のベクトルが真反対である。
だからヤマトとしては脱アマゾン、脱大口企業顧客は不可避の流れだったのであると思う。


しかし通信販売業態は今後も急速な拡大が見込まれている。
統計の取り方によって少し差があるが、概ね現在の通販業界の規模はざっと10兆円くらいである。
全小売業の合計が120兆円くらいであり、通販比率は今1割弱くらいだがこれが2〜3割になるくらいまでは年率7〜8%くらいで伸び続けるらしい。
そうなると現状の宅配便業界の輸送キャパシティは、数年後にはパンクするのではないかと想像される。

たぶん従来型の方式でドライバーを増やして対応することは不可能なので、宅配ロッカーや今のコンビニみたいな荷物の預かり受託をする提携先を増やすとか、今後の拡大分は新しい方法で対応するしかない。

10年くらいしたら、自動運転やドローン関係の技術と法制度が整備されて宅配ロボットが街を飛び回るようになっているのかもしれない。
そうなった未来に、果たしてヤマト運輸はどういう業態に変化しているのだろうか、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:40| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年08月12日

東芝有価証券報告書提出

経営危機に揺らぐ東芝が、やっと2017年3月期決算を提出した。
東芝をめぐる状況はなかなか複雑のようで、今回の決算で債務超過額は5529億円になったらしいが、これを2018年3月末までに解消しないと否応なしに上場廃止になる。
東芝の基本方針としては、虎の子の半導体メモリ事業を売却してこの債務超過を解消すべく売却先を模索している。
しかし東芝と半導体で事業提携しているアメリカのウエスタンデジタルが売却に反対しており、また売却先が見つかった場合でも売却先企業各国の独禁法審査に半年、一年くらいはかかるらしい。
2018年3月末までもうあと7ヶ月あまり。
ほとんど時間がない。

半導体メモリ事業の売却予定額は2兆円程度と見積もられており、全部売却が難しい場合は債務超過解消分だけ部分的に売ることになる公算が高そうである。

しかしそもそも東芝は、最初は「一部売却」を模索していたのだった。
そうしたら手を上げた買い取り先企業が「全部でないと買わない」と言ったので全部売却に変えた経緯がある。

どうも話が堂々巡りで、要するに結論的には売却話はご破算に終わる可能性が高い。

しかも最近東芝の半導体事業は業績が過去最高にいいらしい。
現在東芝の利益の9割近くを半導体が稼いでいる。
したがって同事業を売却すると東芝はスカスカになってもぬけの殻になる。

しかし現経営陣は東芝をもぬけの殻にすべく鋭意努力中である。
その辺、東芝経営陣のやりたいことはどうも支離滅裂だ。
おそらく現経営陣は、自分たちの代で上場廃止になることが我慢できないほどの汚点であると考えているのだろう。

おそらく東芝には、半導体事業にもそれ以外の事業にも優秀な人材はたくさんいるに違いない。
今必要なのは、優秀な人材を多数擁する東芝から、このどうしようもない経営陣を引き剥がすことだと思う。

最悪なのは以前に取り沙汰された公的資金の投入が実現することだろう。
3月くらいに産業再生機構などが中心になって資本注入する案がニュースで流れたことがあった。
これは日の丸半導体を守るというのが大きな動機であるように思うが、例えこれで経営陣が総入れ替えになったとしても、これはこれでかなり問題だと思う。

過去に公的資金を投入された日の丸半導体の無残な姿を見ればそれは明らかだろう。
そもそも東芝の半導体が今もって利益を稼いでいるのは、国策連合に入らず独自路線でリスクを取ってきたからであるに違いない。

そんなこんなで東芝が上場廃止になるショック療法で、日本の「伝統的産業界」が少しは良い方に変わるのではないか、と思ったりする今日この頃である。
posted by ヤス at 13:51| Comment(0) | 徒然なるままに