2017年06月10日

リクルートスーツの続き

前回はリクルートスーツについて書いたわけだが、しかし考えてみると就活生が揃いのスーツ姿になったからといって何か実害があるわけではない。

だからそんなことにいちいち反応するのは時間の無駄である、ということも言えなくはない。

果たしてこの問題は、何か社会の暗部を反映した改善必要な事象であるのか、あるいは取るに足らない瑣末な問題で、放っておいて全然構わないのか。

就活生がみんなお揃いのスーツ姿になってしまうのは就活時の服装選択におけるリスク回避の傾向があるのでは、ということを昨日考えた。
就活を有利に進めるにはその一つの方法として「差別化」があり、みんなが黒や濃紺のスーツを着るなら自分はちょっと色味の違うグレーのスーツを着て目立ってみる、とかいう方法もあるだろう。

しかし現実は就活生は黒っぽいスーツの一本調子で、これは司馬遼太郎の小説に出てくる秦の始皇帝の百万の軍隊が黒い鎧でしずしずと進軍する様を想起させる。(個人的には)

そういう決まりがあるわけでもないのに、いつの間にか就活生の服装がある一定のフォーマットに収斂して行く現象を我々はどのように評価するべきなのか、よく考えるとこれは解読困難な難解な課題だ。

それでちょっと思いついのだが、これは自分の行動を決める時に、自分の基準を重視するのか、それとも周辺の基準を重視するのか、そのバランスの問題ではないか。

人間は社会的動物であって、一人ぼっちでは生きていけない。
だから周辺の人々とある程度調和を保って生きていかないといけない。
具体的には、時に喧嘩することがあっても概ねみんな仲良く協力しあって生きて行くべし、そういうふうに社会は出来上がっている。
そのような社会においては、行動基準を自分だけで決めていると社会の調和を乱す恐れがある。

だから多分、個人主義が強いと言われるアメリカだってヨーロッパ諸国だって、いわゆる「社会の常識」というやつがあって、その常識と言われる周辺基準にある程度合わせて人々は生きている。
周辺基準とは、つまり「人目を気にする」ということであろう。

しかし想像するに、アメリカの人々なら人目を気にするのと同時に、自分の中にかなり強い自分の基準を持っているように思う。
だから人目は気にしつつ自分基準を表に出したいという性癖が、日本人なんかと比べるとかなり強いのではないか。

自分基準を発揮するという性癖は、一歩間違うと自分勝手とか偏屈な人とか、そんな誤解を招きかねないわけだが、おそらく個人主義の強いところではそういうことにあまり頓着しない。
逆に日本では自分基準のウエイトが極端に小さく、本来必要のない場面でさえ周辺基準を探してそれに合わせようとする性癖が強いのではないか。

それが阿吽の呼吸による黒っぽいリクルーツスーツへの収斂という不思議な現象を起こしているように思われる。

で、結局お揃いのリクルートスーツは「望ましい現象」であるのかどうか。
そこのところの評価については、字数が過ぎたのでまた暇があったら考えることにする。
posted by ヤス at 09:56| Comment(0) | 徒然なるままに