2017年06月08日

記憶の補助装置

今さらであるが、デジカメというのは本当に便利だ。
デジカメが芸術的に美しい写真を撮ったりできるのはまあ当然として、仕事の場面なんかでも、打ち合わせのホワイトボードを記録したり、ちょっとしたメモ書きも撮影してしまえば紙のメモそのものはポイと捨てることが出来る。
大変便利なのである。

特に最近は携帯電話に高性能のカメラが付いており、いざという時になぜか手元に必ずカメラがある、という状況が自ずと出来上がっている。
だからわたしの場合、記録が必要だったりコピーを取ったりしたい書類はあまり何も考えずにスマホで撮影するようになった。

思えば学生時代にこういう状況があればどんなにか良かったろうと思う。
わたしは近眼なので教室の少し後ろの方に座っていると黒板がものすごく見えずらかった。
だから板書には苦労した記憶がある。
ぼんやりとぼやけて見える黒板の文字を想像で補いながらノートに書き写すのであるが、大抵途中で力尽きていた。

今なら黒板の文字もスマホカメラでコンマ何秒かのうちに記録することが出来るので楽チンだろう。
ただ学生たちから一斉にスマホカメラを向けられる先生にとってはやや不気味かもしれない。
今の学校の授業はどんな感じなのだろうか、少し気になる。

まあその前に先生が板書する内容に有益な情報が含まれているかどうかが問題かもしれないが。

そんなことはともかく。
カメラにしろ手書きのメモにしろ、「記録」というのは「記憶」の補助装置であることは言を俟たない。
考えてみると大昔は、仏教の経典とか偉い人の書いた書物とかを手元に置いておくには、それらを全部手で書き写す、というのがスタンダードな方法であったわけだ。
あるいは19世紀にスキアパレッリが火星の運河を観察した記録も、オランダ人のレーウェンフックが世界初の顕微鏡でのぞいた微細世界の数々も、手書きのスケッチで残されていた。

それが写真に撮るという方法が発明され、やがてフィルムからデジタルに進化してより簡単になり、この数年のうちにスマホに搭載されてどこに行くにも持ち歩くようになった。

記憶の補助装置であるところの高性能記録装置を肌身離さず持ち歩くようになったということは、21世紀の今に生きる我々は、100年、200年前の人類に比べるとかなり頭が良くなっていると言えるのではないか。
と、ちょっと思ったがまあただの思い過ごしかもしれない。
posted by ヤス at 08:54| Comment(0) | 徒然なるままに